歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月24日
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カテゴリ: 戦国




江上家種 後藤家信 らが、中央は隆信本隊が布陣して沖田畷を突破し、森岳城を攻撃することとした。


決戦


島津・有馬連合軍は森岳城の北と前面に障害 ( 大城戸等 ) を築いてわずかな騎兵を配置するとともに、籠城する有馬軍主力以外はすべてこの防御ラインの手前の山陰に隠れて待機した。


一方、隆信は森岳城を俯瞰する小山に上り、敵方の陣営を一望してその数の少ないことを知り容易に勝利を得ることが出来ると驕慢の態度を示した。


辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まり、島津方は龍造寺軍をおびき寄せる計略を用いたため応戦をせず、敗北を装い退却した。


追撃してきた龍造寺軍に弓や鉄砲を乱射したため、先陣は崩れ、これを助けようとした二陣も左右が深沼で細道のため思うように進めずに難儀していた。


島津・有馬連合軍は泥田・沼地によって畷の一本道以外には展開できない龍造寺軍を誘い込んだうえで猛烈な銃撃により進軍阻止・混乱させたのである。


隆信は前線の様子を確認するため 吉田清内 を使者として派遣したが、清内は前線の諸将に対して命を惜しまず攻めるようにと、隆信から命ぜられていないことまで触れて回った。


そのため諸将はいきり立ち、無謀な猛攻を仕掛けたところ、それまで潜んでいた島津方の伏兵が弓、鉄砲を射掛けた。不意をつかれた龍造寺軍は深田に入り込んだため射殺されていった。


後退する部隊とそれを知らずに前進する後続部隊とで畷は大混乱に陥っていた。


また、浜手 ( 有明海側 ) を密集して進む龍造寺軍の江上勢・後藤勢2千に対し、島津・有馬連合軍は大砲2門を積んだ天草伊豆守の船から砲撃を加えて大損害を与えて、これを敗走させた。


この機を捉えた島津・有馬連合軍はすかさず陣前出撃に移り、伊集院忠棟勢と有馬軍主力を持って浜手方向から龍造寺軍本陣を攻撃した。


未の初刻(午後2時)、隆信は床机に腰掛けていたが、島津方の 川上忠堅 に見つかってしまい、忠堅に切りかかられて隆信は首を落とされた。


こうして、敵主力を不利な地形へと誘い込み、伏兵で挟撃する釣野伏せ戦法で沖田畷の合戦は寡兵の 島津・有馬連合軍 の勝利に終わった。


大将の最後


また一説によると、首を打ちとったとされる人物は 万膳仲兵衛尉弘賀 であり、弘賀によると乱戦となった戦場は混乱を極めており、隆信は籠に乗り6人のかつぎ手と共に、アシの茂みで隠れていたところ、索敵中の弘賀隊が発見、「伝令」と言いながら近づくも6人を素早くなで切り、「南無阿弥陀仏」と唱え這いずり逃げる隆信を、一刀のもと首を落としたともされる。打ちとられた報はすぐさま戦場を駆けまわり、首実検のおり 島津家久 に向かって隆信の家臣、江里口藤兵衛というものがとびかかったとされる。


龍造寺家


龍造寺家はこの合戦で総大将の隆信や信勝の他、鍋島信生の実弟・ 龍造寺康房 小河信俊 をはじめ、重臣の 成松信勝 百武賢兼 ら多数が討ち死した。『九州治乱記』によると二百三十余人が戦死したとある。


総大将を失って総崩れとなった龍造寺勢は本拠地の 佐賀城 に向けて撤退した。


浜側を攻めていた江上家種は配下の 執行種兼 らを退却中に失ったがなんとか戦場を脱出した。鍋島信生は本隊が総崩れとなって柳河を目指して落ちて行った。


隆信の嫡子・政家は祖母とともに国政を行ったが、島津家が来襲するとの流言があり、天正16年、政家は鍋島信生を養子として呼び戻すことになった。


島津家


龍造寺家に大勝して政家が屈服した事により、龍造寺家の傘下にあった国人らは一気に島津家に寝返り、島津家の勢力は一気に筑前・筑後まで拡大する。


以後、九州は島津が最強の勢力として君臨し、九州制覇を推し進めていく事になる。



両軍の兵力に関して


連合軍の兵力に関してであるが、有馬鎮貴は5千人の手勢、島津軍と合わせても総勢1万人に満たなかった。


また連合軍に関しての逸話として、ルイス・フロイスは『 日本史 』において有馬方には2門の大砲が船積みされていたが砲手がおらず、一人の アフリカ カフル 人が弾丸を込め、一人の マラバル 人が点火し、厄介な操作にもかかわらず見事に発射したと記述している。


また同じくフロイス『日本史』(西九州篇第五十三章)における記述によると「敵は再び我らの柵塁を攻撃してきた。薩摩勢はこれに応戦したものの、すでに幾分疲弊しており、彼我の戦備は極度にちぐはぐであった。


すなわち龍造寺勢は多数の鉄砲を有していたが、弓の数が少なく、長槍と短い太刀を持っていたのに反し、薩摩勢は鉄砲の数が少なかったが多くの弓を持ち、短い槍と非常に長い太刀を備えていた。


(中略)両軍とも槍を構える暇がなく手当たり次第に敵の槍を太刀で斬り払い、鉄砲も弾を篭める暇がないので撃つのをやめてしまった」とあり、島津軍の誘導作戦もあるが双方とも鉄砲を撃ち合う暇を要しない程の激戦であり、龍造寺軍は島津軍を上回る兵力や鉄砲の数を有効に活かせなかった事が窺い知れる。


龍造寺軍の兵力は5万7千人。薩摩方の記録には6万人とある [5] 。ルイス・フロイスの書簡には2万5千人とある。


5万7千という数字は『北肥戦誌』に記述があり、その後に本来 柳川城 にて 筑後国 を抑えるよう命じられていた 鍋島直茂 が、柳川城へ父の 鍋島清房 を入れて参陣したとある。






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最終更新日  2024年05月24日 06時43分11秒
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