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(ろっかく もちつな)は、
室町時代
中期の
武将
・
守護大名
。
近江国
守護
。
六角氏
10代当主。
六角満綱 の嫡男として誕生。
永享 6年(1434)、父が 京極持高 と共に 室町幕府 6代 将軍 ・ 足利義教 の 延暦寺 攻撃命令を受けると父と共に近江国内の延暦寺領を没収、永享12年(1440)に義教の 椀飯 も務めた。
翌 嘉吉 元年(1441)に 嘉吉の乱 で義教が暗殺、続いて発生した 嘉吉の徳政一揆 で責任を取らされた父が近江守護を解任、代わって守護に任命された。
しかし、 文安 元年(1444)に家臣団から無道を訴えられ、弟・ 時綱 が 一揆 を結成した家臣団に擁立され、反乱を起こされる事態になった。結果、翌文安2年(1445)に一揆に攻められ父と共に自刃した。
文安3年(1446)に僧侶となっていた弟・ 久頼 が還俗、幕府の命令を受けた 京極持清 と共に時綱一派を討ち取り久頼が当主となった。
しかし、一連の騒乱で六角氏の権力は大幅に後退、反対に 守護代 ・ 伊庭氏 の権勢が強まり 京極氏 の干渉も受けるようになり、以後の六角氏は領国支配に苦しむことになる。
近江源氏 佐々木氏 の支流であり、 佐々木経方 の子、 行実 の四男 実高 (出羽権守重遠)が、はじめて 近江国 神崎郡 伊庭邑に居住し、伊庭氏を称した。
伊庭城 は 建久 年間(1190~1199)に実高によって築かれたといわれる。本家からは 近江 守護 六角氏 の重臣で 守護代 を務めた 伊庭満隆 や 伊庭貞隆 などがいる。
歴代・ 別の流れとして実高の後、 貞資 、 貞平 、 貞光 、 公貞 、 時高 、 氏貞 、 基貞 、 高貞 、 貞安 、 実貞 、 貞職 、 貞信 、 貞勝 の14代を経て貞勝は 蒲生郡 桐原郷に身をよせ、後中小森で 慶長 12年(1607)に没した。
貞勝の子の 貞家 は 渡辺吉綱 に仕え、伊庭氏は 代官 として近江における 和泉 伯太藩 の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を代々支配するようになった。
以降、 貞經 、 貞式 、 貞基 、 式應 、 貞明 、 貞英 、 貞剛 (正人)、 貞剛 と続き、実高が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる 貞剛 は、 明治 12年(1879)、 裁判官 から住友本社に入社、明治33年(1900)に第2代総理事となり 住友財閥 の基礎を築いた。
伊庭氏歴代の墓は 近江八幡市 にある。
*「六角 時綱」 (ろっかく ときつな)は、 室町時代 中期の 武将 。
六角満綱 の次男として誕生。
文安 元年(1444)、兄・ 持綱 に不満を抱いた家臣団から擁立され、翌文安2年(1445)に父と兄を自殺に追い込んだ。
室町幕府 は弟・ 久頼 を還俗させ、文安3年(1446) 8 月に 京極持清 と共に時綱一派を討ち取る命令を下した。
時綱らは 近江国 愛知郡 飯高山で蜂起したが、9月5日に久頼と京極持清の軍勢に攻め込まれ、飯高山で家臣団と共に自殺した。
子・ 政堯 は生き残り、後に近江守護に任命されている。
*「六角 久頼」 (ろっかく ひさより)は、 室町時代 の 武将 ・ 守護大名 。 近江国 守護 。 六角氏 11代当主。
六角満綱 の三男として誕生。
相国寺 の僧籍にあったが、 文安 2年(1445)に次兄・ 時綱 が 国人 衆の盟主となり父と長兄・ 持綱 と対立、敗れた父と長兄は自害して果てた。
そのため、幕命により還俗して久頼と名乗り、翌文安3年(1446)に次兄を追討して六角氏を相続した。
しかし、衰退した六角氏の勢力を立て直すことはできず、 京極持清 の干渉に苦しめられた末に 康正 2年(1456)10月2日に憤死した。
家督は子・ 高頼 が継いだが、幼少のため、甥で時綱の遺児・ 政堯 が後見人となった。
*「六角 高頼」 (ろっかく たかより)は、 室町時代 後期から 戦国時代 にかけての 武将 ・ 守護大名 。 近江国 守護 、南近江の 戦国大名 。 六角氏 12代当主。
応仁の乱
六角久頼 の子として誕生。初名は 行高 。
応仁 元年(1467)からの 応仁の乱 では西軍に属し、東軍の 京極持清 らと 京都 で戦っていたが、持清の嫡男・ 勝秀 及び家臣の 多賀高忠 と従兄・ 六角政堯 が高頼の本拠地 観音寺城 を攻めると近江に戻り政堯や 京極氏 と交戦した。
やがて政堯を討ち取り、京極氏も持清・勝秀父子の相次ぐ急死で お家騒動 を起こして弱体化( 京極騒乱 )、行高(高頼)は南近江の確保に努め、 文明 4年(1472)、文明7年(1475)の 京極政経 ・多賀高忠との合戦で 京極高清 ・ 多賀清直 ・ 宗直 父子や 土岐成頼 ・ 斎藤妙椿 ・ 斯波義廉 らの援軍で勝利、応仁の乱終結後の文明10年(1478)に幕府から近江守護に補任された。
鈎 の陣と将軍庇護
応仁の乱後、六角氏の戦国大名化と権力強化を目指して 公家 ・寺社勢力の統御を行なおうとしたが、 公家領 ・ 寺社領 や 奉公衆 の領地を横領して配下の 国人 衆に分け与えたため、9代将軍・ 足利義尚 らの反発を受け 長享 元年(1487)に義尚の親征を受けて 甲賀 山中に逃亡した。
延徳 元年(1489)に義尚が没したため親征は中止、10代将軍・ 足利義材 (のちの義尹、義稙)に赦免され近江守護に復帰したが、国人衆が横領した所領を返還しなかったため延徳3年(1491)に義材による再度の追討( 長享・延徳の乱 )を受ける羽目になってしまった。
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