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2024年07月01日
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カテゴリ: 中世




(ろっかく もちつな)は、 室町時代 中期の 武将 守護大名 近江国 守護 六角氏 10代当主。


六角満綱 の嫡男として誕生。


永享 6年(1434)、父が 京極持高 と共に 室町幕府 6代 将軍 足利義教 延暦寺 攻撃命令を受けると父と共に近江国内の延暦寺領を没収、永享12年(1440)に義教の 椀飯 も務めた。


嘉吉 元年(1441)に 嘉吉の乱 で義教が暗殺、続いて発生した 嘉吉の徳政一揆 で責任を取らされた父が近江守護を解任、代わって守護に任命された。


しかし、 文安 元年(1444)に家臣団から無道を訴えられ、弟・ 時綱 一揆 を結成した家臣団に擁立され、反乱を起こされる事態になった。結果、翌文安2年(1445)に一揆に攻められ父と共に自刃した。


文安3年(1446)に僧侶となっていた弟・ 久頼 が還俗、幕府の命令を受けた 京極持清 と共に時綱一派を討ち取り久頼が当主となった。


しかし、一連の騒乱で六角氏の権力は大幅に後退、反対に 守護代 伊庭氏 の権勢が強まり 京極氏 の干渉も受けるようになり、以後の六角氏は領国支配に苦しむことになる。


「伊庭氏」 (いばし)は、 日本 武家 氏族


近江源氏 佐々木氏 の支流であり、 佐々木経方 の子、 行実 の四男 実高 (出羽権守重遠)が、はじめて 近江国 神崎郡 伊庭邑に居住し、伊庭氏を称した。


伊庭城 建久 年間(1190~1199)に実高によって築かれたといわれる。本家からは 近江 守護 六角氏 の重臣で 守護代 を務めた 伊庭満隆 伊庭貞隆 などがいる。


歴代・ 別の流れとして実高の後、 貞資 貞平 貞光 公貞 時高 氏貞 基貞 高貞 貞安 実貞 貞職 貞信 貞勝 の14代を経て貞勝は 蒲生郡 桐原郷に身をよせ、後中小森で 慶長 12年(1607)に没した。


貞勝の子の 貞家 渡辺吉綱 に仕え、伊庭氏は 代官 として近江における 和泉 伯太藩 の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を代々支配するようになった。


以降、 貞經 貞式 貞基 式應 貞明 貞英 貞剛 (正人)、 貞剛 と続き、実高が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる 貞剛 は、 明治 12年(1879)、 裁判官 から住友本社に入社、明治33年(1900)に第2代総理事となり 住友財閥 の基礎を築いた。


伊庭氏歴代の墓は 近江八幡市 にある。


*「六角 時綱」 (ろっかく ときつな)は、 室町時代 中期の 武将


六角満綱 の次男として誕生。


文安 元年(1444)、兄・ 持綱 に不満を抱いた家臣団から擁立され、翌文安2年(1445)に父と兄を自殺に追い込んだ。


室町幕府 は弟・ 久頼 を還俗させ、文安3年(1446) 8 月に 京極持清 と共に時綱一派を討ち取る命令を下した。


時綱らは 近江国 愛知郡 飯高山で蜂起したが、9月5日に久頼と京極持清の軍勢に攻め込まれ、飯高山で家臣団と共に自殺した。


子・ 政堯 は生き残り、後に近江守護に任命されている。


*「六角 久頼」 (ろっかく ひさより)は、 室町時代 武将 守護大名 近江国 守護 六角氏 11代当主。


六角満綱 の三男として誕生。


相国寺 の僧籍にあったが、 文安 2年(1445)に次兄・ 時綱 国人 衆の盟主となり父と長兄・ 持綱 と対立、敗れた父と長兄は自害して果てた。


そのため、幕命により還俗して久頼と名乗り、翌文安3年(1446)に次兄を追討して六角氏を相続した。


しかし、衰退した六角氏の勢力を立て直すことはできず、 京極持清 の干渉に苦しめられた末に 康正 2年(1456)10月2日に憤死した。


家督は子・ 高頼 が継いだが、幼少のため、甥で時綱の遺児・ 政堯 が後見人となった。


*「六角 高頼」 (ろっかく たかより)は、 室町時代 後期から 戦国時代 にかけての 武将 守護大名 近江国 守護 、南近江の 戦国大名 六角氏 12代当主。


応仁の乱


六角久頼 の子として誕生。初名は 行高


応仁 元年(1467)からの 応仁の乱 では西軍に属し、東軍の 京極持清 らと 京都 で戦っていたが、持清の嫡男・ 勝秀 及び家臣の 多賀高忠 と従兄・ 六角政堯 が高頼の本拠地 観音寺城 を攻めると近江に戻り政堯や 京極氏 と交戦した。


やがて政堯を討ち取り、京極氏も持清・勝秀父子の相次ぐ急死で お家騒動 を起こして弱体化( 京極騒乱 )、行高(高頼)は南近江の確保に努め、 文明 4年(1472)、文明7年(1475)の 京極政経 ・多賀高忠との合戦で 京極高清 多賀清直 宗直 父子や 土岐成頼 斎藤妙椿 斯波義廉 らの援軍で勝利、応仁の乱終結後の文明10年(1478)に幕府から近江守護に補任された。


( かぎ ) の陣と将軍庇護


応仁の乱後、六角氏の戦国大名化と権力強化を目指して 公家 ・寺社勢力の統御を行なおうとしたが、 公家領 寺社領 奉公衆 の領地を横領して配下の 国人 衆に分け与えたため、9代将軍・ 足利義尚 らの反発を受け 長享 元年(1487)に義尚の親征を受けて 甲賀 山中に逃亡した。


延徳 元年(1489)に義尚が没したため親征は中止、10代将軍・ 足利義材 (のちの義尹、義稙)に赦免され近江守護に復帰したが、国人衆が横領した所領を返還しなかったため延徳3年(1491)に義材による再度の追討( 長享・延徳の乱 )を受ける羽目になってしまった。






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最終更新日  2024年07月01日 07時48分58秒
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