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*「六角 氏綱」 (ろっかく うじつな)は、 戦国時代 の 武将 ・ 守護大名 。 近江国 守護 。南近江の 戦国大名 。 六角氏 13代当主。
明応 元年(1492)、 六角高頼 の嫡男として誕生。幼名は亀王丸。
永正 2年(1505)、 室町幕府 11代 将軍 ・ 足利義澄 の参内に随従し御所唐門の警備を担当する。北近江の 京極氏 の内紛に際しては 京極材宗 を支援し、その勢力を削いだ。
永正3年(1506)、父の隠居により家督を継ぐ。同年、 管領 ・ 細川政元 の養子・ 澄之 と 澄元 が争い始めると軍を率いて上洛、永正4年(1507)まで在京したが、同年に政元が暗殺される( 永正の錯乱 )と帰国、 大内義興 に擁立された 足利義稙 が帰洛して将軍に再任されると永正8年(1511)義稙に 助行 の太刀と栗毛の馬・銭三千疋を献上して忠誠を誓っている。
以後六角氏は一貫して義稙系の足利将軍に忠誠を誓うことになる。一方で近江に所領を持つ 奉公衆 (佐々木一族が多かった)を家臣化するなど、自家の勢力の拡大も図っている。
内政においては 応仁の乱 以降の戦乱で主戦場となった近江の復興に努め、先祖 六角氏頼 の開基である近江 永源寺 を修理料の寄進、段銭賦課の禁止など保護して再興させている(『永源寺文書』)。
永正13年(1516)頃から京における戦いで受けた戦傷のため病床にあり、 相国寺 僧であった弟の吉侍者(後の 六角定頼 )が僧籍のまま陣代として政務の一部を代行した。
氏綱の健康状態については、「生まれつき片足が短くて病弱」であったとする『 足利季世記 』の記述は根拠はなく信頼に足らないが、永正11年(1514)以降、弟の承亀(定頼)が六角家中に文書を発給していることや、永正14年(1517)8月の母親の七回忌を最後に記録から氏綱の姿が消えることから、長く患っていた可能性があるとの指摘がされている。
永正15年(1518年)7月9日、父に先立って27歳の若さで死去。六角氏の家督は吉侍者が還俗して定頼と改名して継いだが、子・ 義実 が継ぎ、定頼は陣代となったとする説も一部にある。
定頼は義実の出家後、近江守護・ 管領代 に任ぜられており(『御内書案』『近江蒲生郡志』)、これを宗家当主就任と同一視した可能性があると 佐々木哲 ほかは主張しているが、氏綱から定頼への 手継 ・ 譲状 ・ 置文 などを託された池田三郎左衛門尉を労わる承亀(定頼)の 書下 (『池田文書』)の存在から氏綱が定頼を後継者として家督を譲ったのは明からであるとの反論が出され、学術的には他に支持するものはいない。
子孫
氏綱の息子の一人は 伊賀国 守護であった 仁木政長 ・ 高長 の 仁木氏 の家督を継承し、 義政 を名乗った。
この頃近江隣国の伊賀は六角氏の同盟国または影響下にあり、六角氏一族が支配していたと推測される。仁木氏は伊賀の守護を代々勤める家柄であり、最盛時には 伊勢国 ほか数ヶ国の守護を兼任した足利一族の名門であった。
義政は仁木氏を継ぐことで13代将軍・ 足利義輝 の御相伴衆となり、義輝の没後はその弟・ 義昭 (のち15代将軍)に近侍した。義輝から「輝」の字を与えられた義政の子・ 輝綱 は、義輝と共に 三好氏 と戦い、父に先立ち討ち死にしたが、子孫は河端氏を名乗り、鳥取藩士となった。
義政及び輝綱は仁木の名字と同時に佐々木の名字を併用して使っているため、実質的には六角佐々木一門として行動していたようである。
これに対し、定頼の伝記を執筆した村井祐樹は大永4年の氏綱の七回忌も享禄 3 年の十三回忌も施主が定頼になっていることから、氏綱に息子がいなかった(そのために定頼が施主となった)のは明瞭であるとしている。
*「六角 定頼」 (ろっかく さだより)は、 戦国時代 の 武将 ・ 守護大名 。 室町幕府 管領代 、 近江国 守護 。南近江の 戦国大名 。 六角氏 14代当主。
明応8年(1499)、京都にある 相国寺 鹿苑院 において 景徐周鱗 の門人として剃髪、一旦近江に帰国するものの、 文亀 3年(1503)までには再び周鱗の下に戻り、文亀4年(1504)4月に同寺慈照院にて正式に得度、名を光室承亀、号を江月斎と称した。
永正13年(1516)、兄・ 氏綱 が 細川氏 との戦いで受けた戦傷が原因で病床に伏し、永正15年(1518)に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなった。
室町幕府10代 将軍 ・ 足利義稙 の近侍として仕え、 細川政賢 を破るという武功を挙げている。後に義稙が追放されると12代将軍・ 足利義晴 の擁立に 細川高国 と共に貢献し、 天文 15年(1546)に義晴からその功績により管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。
また、一方で足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し、 三好長慶 とも戦っている( 江口の戦い )。
さらに北近江の領主・ 浅井久政 が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、浅井家に侵攻して事実上従属下に置くなど、六角家の全盛期を築き上げた。
天文21年(1552)1月2日に死去。享年58歳。後を嫡男・ 義賢 が継いだ。
人物
先進的な手法で、内政にも手腕を発揮した。 大永 3年(1523)には日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である 観音寺城 に集めるための 城割 を命じた。これは後世の 一国一城令 の基になったと言われている。
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