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2024年07月01日
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カテゴリ: 安土桃山時代





一方、江戸時代に記された『 江源武鑑 』( 沢田源内 が書いた 偽書 とされる)では、定頼の系統は六角氏庶家の 箕作氏 で陣代にすぎず、 氏綱 (定頼の兄)の子・ 義実 の系統が嫡流であるとしている。


豊臣秀吉が氏綱の子・ 義秀 に仕えて 偏諱 を受けたことや、氏綱の子・ 義郷 が豊臣姓と 侍従 の官を授かった12万石の大名となったなどと書かれており、『 寛政重修諸家譜 』の 山岡氏 系図などに引用されている。


これに対し、江戸時代中期に加賀藩士佐々木家や佐々木庶流の 建部氏 により、沢田源内が佐々木氏末裔を僭称しているものと批判された。


佐々木哲などの在野の歴史家はこの六角氏綱(六角定頼の兄)の子孫が実在したとする立場をとっている。


これに対して、六角氏綱の七回忌や十三回忌の施主がいずれも定頼であることから氏綱の子孫はいなかったとする村井祐樹の説もある。


また、村井は六角義賢の墓所と位牌がある 酬恩庵 が加賀藩士の佐々木(六角)家と連絡を取って法要を行ってきた事実を指摘して、加賀藩士の佐々木家が六角氏の宗家で旗本佐々木家もその分家であったとしている。


*「六角 義治」 (ろっかく よしはる)は、 戦国時代 から 江戸時代 初期にかけての 武将 。南 近江 戦国大名 六角氏 16代当主。 六角 義弼 (ろっかく よしすけ)と呼ばれることもある。


天文 14年(1545)、 六角義賢 の嫡男として誕生。母は 能登国 の戦国大名・ 畠山義総 の娘であるが、父・義賢は当初は正室に義総の娘を迎えていたが早世したため、継室にその妹を迎えていた。


義治はその妹を生母とする。ちなみに母親は天文16年(1547)に早世している。「義」の字は 室町幕府 13 将軍 足利義輝 より受けたものといわれる。


永禄 2年(1559)、父・義賢が隠居したため、家督を継承して当主となった。だが実権は父が握っていたらしく、永禄3年(1560)に離反した浅井氏に対抗するため、 美濃斎藤氏 との縁組を進めようとするが、父の怒りを買って重臣は譴責され、義治本人は飯高山へ一時逼塞している。


永禄4年(1561)に 河内国 畠山高政 と共闘して三好氏を攻めた際は、父の下で弟・ 義定 と共に京へ出兵している。


永禄6年(1563)、六角家中でも特に信望のあった重臣・ 後藤賢豊 親子を 観音寺城 内で誅殺してしまう( 観音寺騒動 )。


これを契機として六角氏の家中は動揺し、敵対している 浅井長政 に主替えする者まで現れ始めた。この騒動で義治は一時、父と共に反発した家臣団に 観音寺城 を追われたが、重臣の 蒲生定秀 賢秀 父子らの尽力により観音寺城に戻った。


この一連の騒動は、後藤氏の影響力の強さと、大名としての六角氏の権力基盤が揺らいでいたことを象徴するもので、六角氏の絶対権力的戦国大名への移行は頓挫したといえる。


なお、近年の新説として義賢と義治の対立に関連して、義治とその側近が父親の影響力を排除するために義賢の信任が厚かった後藤親子の粛清を図ったのが裏目に出たとする見方もある。


永禄8年(1565)、京で 三好三人衆 が将軍・足利義輝を殺害する( 永禄の変 )。義治は義輝の弟・一乗院覚慶(のちの 足利義昭 )が亡命してくるとそれを匿ったが、三好三人衆が管領職などを条件にして義治を誘ってくると、義治はこれに応じて覚慶(義昭)を追放した。


永禄10年(1567)4月28日、主君の権限を抑える 分国法 である 六角氏式目 に署名することを余儀なくされた。家督も強制的に弟・義定に譲らされたとされるのが従来の通説であるがこれには異説もある。


衰退


永禄11年(1568)、 織田信長 が侵攻して来ると、仇敵であった 三好氏 の勢力と対信長で共闘することになる。三好三人衆の 岩成友通 らの援助を受けて徹底抗戦を図り、一旦は追い返すものの、信長は翌年、六角方の抗戦体制が緩んだ機に再侵攻して来た。激戦の末に六角親子の立て篭もる 箕作城 は落城した( 観音寺城の戦い )。


六角勢は甲賀郡の 石部城 に拠点を移す。その後も浅井氏・朝倉氏と連携するなどして信長方を苦しめ続ける( 野田城・福島城の戦い )。


信長の要請による朝廷の介入により、信長と六角・浅井・朝倉は和議を結ぶが、体勢を立て直した信長は和議を一方的に破棄し、朝倉、次いで浅井を滅ぼすに至り、義治は信長と再度和睦する。


その後も石部城を拠点に、 足利将軍家 (足利義昭)・ 上杉氏 甲斐武田氏 らを動員した 信長包囲網 の構築を御膳立てするなどの、義賢・義治父子の反信長の戦いは続いたが、天下が統一される過程で次第に史料からは姿を消していく。


晩年


信長の死後、豊臣氏の時代が訪れると、 関白 豊臣秀次 主催の 犬追物 に弓馬指南役として出席しているのが確認される。


豊臣秀吉 御伽衆 として 足利義昭 斯波義銀 らと共に仕えたとされ、秀吉の死後は 豊臣秀頼 の弓矢の師範を務めた。出家していたらしい。


慶長 17年(1612)10月22日に死去した。享年68歳。位牌は父・承禎(義賢)と共に、 京都府 京田辺市 一休寺 にある。






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最終更新日  2024年07月01日 08時22分47秒
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