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「宇都宮 興綱」 (うつのみや おきつな)は日本の 戦国時代 の武将で、 下野 の 宇都宮氏 第19代当主。
出自
宇都宮興綱の出自については、大きく三つの説に分かれる。
従来の説では、第16代当主 宇都宮正綱 の子で俊綱(尚綱)の父、享年61歳とされている(宇都宮正綱次男説)。下野国誌を始めとして、数多くの文献や古典は、これを通説として書かれている。
しかし、一方で宇都宮氏の系譜には忠綱・俊綱(尚綱)・興綱を兄弟とするものも存在している [3] 。この宇都宮成綱三男説を裏付けるものとして 1524 年 に 古河公方 足利高基 から 上総武田氏 一族の長南三河守に充てた書状に「宇都宮事、名代若輩故、しかゞゝ共無之様候之間」と記され、当時の当主であった忠綱に代わって“若輩の名代(当主代行)”が擁立されたことが判明する。
忠綱が当主を追放されて以降、興綱以外の人物が擁立された事実を示す史料もないことから、当時の興綱が少年であったことを示している。
また、最初は 芳賀氏 の養子となって同氏を継いでいたと言われているが、これについても否定的な説もある。
但し、興綱については忠綱の子であるとする説(宇都宮忠綱子息説)もあり、それを裏付ける文献もいくつか存在している。宇都宮成綱次男説あるいは宇都宮忠綱子息説の場合の興綱の享年は23歳である。
日光輪王寺の常行堂大過去帳には、興綱の享年が61歳 1 と記されており、これに基づいて法要が行われていた事、さらに那須記等においても興綱を成綱の弟と明記している事、秋田塩谷系譜では孝綱を四男と明記している事など、通説通り興綱を正綱の子とする証拠が多々あり、これら事情から宇都宮正綱次男説が未だ有力とされているが、興綱については、正綱、成綱、忠綱の誰の子とするかは、いずれも決定的な確証がなく未だに議論が絶えないのが実状である。
事績
1523 年 、 結城政朝 が 猿山合戦 で宇都宮忠綱を破って 宇都宮城 から放逐した際に、忠綱の圧政に不満を抱いた 芳賀高経 ら反忠綱派の家臣と図って擁立された( 大永の内訌 )。
だが、興綱が成人して独自の行動を取るようになると芳賀高経、 壬生綱房 と対立するようになり、やがてその争いに敗れた興綱は隠居を余儀なくされ、その後に自害した。
「大永の内訌」 ( だいえいのないこう ) は、 戦国時代 初期の 大永 年間に起こった 下野宇都宮氏 18代当主の 宇都宮忠綱 と 芳賀高経 ら 芳賀氏 を中心とした家臣団との対立で起こった 下野宇都宮氏 の内訌である。
背景
文明 9年 ( 1477 ) に下野宇都宮氏 17 代当主となった 宇都宮成綱 は家臣団の再編を行い 宇都宮錯乱 、永正の内訌といった大きな内紛の克服を成し、 古河府 の内紛に介入し娘婿の 足利高基 を次期古河公方へ擁立、積極的な軍事行動と周辺勢力との婚姻外交などを駆使して急激な勢力拡大に成功。
没落しつつあった下野宇都宮氏の中興の祖となり、 佐竹義舜 ら周辺勢力の連合軍を 竹林の戦い ・ 縄釣りの戦い で破るなど北関東の覇権を制したも同然だった。
その勢威は 下野国 、 常陸国 、 下総国 に及び 足利高基 、 結城政朝 、 那須資親 、 小田成治 ・ 政治 父子などを従え大きな洞を形成しさらなる躍進を狙うが、成綱は 永正 13年(1516)に病に倒れこの世を去った。
宇都宮成綱死没前後を境に周辺勢力の関係は大きく変化した。上那須氏の 那須資親 は 永正の乱 ( 足利政氏 ・高基父子の対立)では成綱とともに高基派であったが、永正11年(1514)には資親が没し後継者争いが勃発し結果滅亡した。成綱は宇都宮一族の者を継がせ再興を図ったが那須資房による上下那須氏の統一により叶わなかった。
結城氏の 結城政朝 は成綱死没後に宇都宮領となっている旧領中村十二郷の奪還を目論むようになり宇都宮氏と敵対関係になるといったような宇都宮成綱が没したことで不穏な空気が迫りつつあった。
一方、敵対関係だった 佐竹氏 は佐竹義舜が 永正 14年(1517)に没し、子の 佐竹義篤 が当主になっており、後に関東南部で急激に勢力拡大している 北条氏綱 を危惧していた小田政治と同盟を結んでいる。
宇都宮忠綱と家臣団の対立
永正 9年(1512)に父成綱の策で下野宇都宮氏18代当主となった 宇都宮忠綱 は 永正 13年(1516)に実権を握っていた父が病没したことで名実ともに当主となった。
忠綱は父の遺志を継ぎ、勢力の拡大や宇都宮家中の支配強化を行っていくが、偉大だった父のようにはうまくいかず、強硬な支配強化に家臣の多くが不満を抱き、忠綱と対立している。
この対立は単純に支配強化を巡った対立だけでなく、 宇都宮錯乱 などで活躍した新興勢力の 壬生綱重 ・ 綱房 父子ら 壬生氏 の躍進に対しての不満や、 宇都宮錯乱 以後 宇都宮城 で 逼塞 されたままである 芳賀高孝 、 芳賀高経 ら 芳賀氏 の処遇を巡った対立といった側面もあった。
芳賀領の統治は忠綱の叔父にあたる宿老の 塩谷孝綱 が代行していたが、こうした芳賀氏の扱いに 塩谷氏 の 塩谷孝綱 、 笠間氏 の 笠間資綱 ・ 綱広 父子などの宇都宮一門が反発し芳賀氏側に与して忠綱と対立している。
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