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仁治2年(1241年)6月27日に泰時は体調を崩しており騒ぎになった(『吾妻鏡』)。この時は7月20日に回復している(『吾妻鏡』)。
仁治3年(1242年)5月9日、出家して 上聖房観阿 (じょうしょうぼうかんあ)と号した(『鎌倉年代記』裏書)。この時、泰時の異母弟の朝時をはじめ、泰時の家来50人ほども後を追って出家した。
1ヶ月半後の6月15日に死去した。享年60。奇しくも、義時、政子、大江広元と、北条氏政権で枢要な地位にあった人物も泰時と同じ6月から7月にかけて没しており、承久の乱で三上皇が配流されたのも同じ季節だったため、巷では上皇らの怨霊による祟りではないかという風聞が流布した。
実際の死因は京都の公家の日記である『経光卿記抄』6月20日条よると、日頃の過労に加えて赤痢を併発させ、 6 月 26 日条では高熱に苦しみ、さながら平清盛の最期のようだったと伝えている。皇位継承問題が大きな心労になったともされている。また、別の京都の公家の日記である『平戸記』5月26・28日条によれば、幕府側は京都と鎌倉の交通を遮断して、将軍・頼経の父である九条道家の使者さえも途中で追い返されたと伝えられている [25] 。
死の翌日に第4代執権には早世した時氏の長男である孫の 北条経時 が就任した(『尊卑分脈』)。
◯北条 経時 (ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権(在職:仁治3年6月15日〈1242年7月14日〉 - 寛元4年3月23日〈1246年4月10日〉)。
第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)で、第5代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄にあたる。
執権職相続
父の時氏は寛喜2年(1230年)6月に早世し、その他の北条泰時の子である北条時実も暗殺されていたため、嫡孫の経時が泰時の後継者と目されていた。父・時氏が存命中の嘉禄2年(1226年)には祖父・泰時の意向で宇都宮泰綱の娘と婚約している。寛喜2年(1230年)6月18日に父が早世すると、経時は父が就任していた若狭守護職を務めた(『若狭国守護職次第』)。ただしその期間は明確ではなく、熊谷隆之は時氏の死去から翌年までの期間で、7歳の少年が実務などできるわけが無く実際は泰時が後見しており、時氏の後継者としての立場を明確にするために名目上の守護にしたとされている。
天福2年(1234年)3月5日に11歳で元服する。元服式は第4代将軍の藤原頼経の御所で行なわれて頼経が加冠し、理髪は北条時房が行ない、頼経の偏諱を賜って弥四郎 経時 と名乗った(『吾妻鏡』)。弥四郎の仮名は北条時政や北条義時の仮名である「四郎」を意識してのもので、得宗嫡流の正当性を示そうとする泰時の意思があったとされている。同年8月1日に幕府の小侍所別当に任命され、嘉禎2年(1236年)12月26日まで務めた(『吾妻鏡』)。嘉禎3年(1237年)2月28日に左近衛将監に任じられ、翌日に従五位下となる(『武家年代記』)。
仁治2年(1241年)6月28日、祖父・泰時より評定衆の一人に列せられた(『吾妻鏡』)。8月12日には従五位上となる(『武家年代記』)。この年、59歳の泰時は体調を崩して健康不安を抱えており、経時を後継者として確立するために急いでいたとされている。この年の11月25日に泰時は経時を呼んで政務について訓戒しており、泰時は経時に対して泰平を尊重するために文治に励み、「特に実時とは何事も相談して協力せよ」と諭している。経時は実時と同年齢であり、かつて泰時を叔父の時房が助けたように経時にも実時を配す事で次代の安全を図ったようである。またこの時に行われた酒宴には経時や実時だけでなく、三浦泰村・後藤基綱・二階堂行盛・太田康連ら有力御家人や実務官僚が顔を揃えており、正式な後継者指名の場であったとする指摘もある。
仁治3年(1242年)6月15日、泰時の死去に伴って、6月16日に経時は19歳で執権となる(『尊卑分脈』『系図纂要』)。しかし泰時の死と若年の経時の継承により侮りがたい敵対勢力という不安定要因を抱えた政権となった。さらに連署は置かれなかった。石井清文は、北条氏一門ならば朝時・重時・時盛・政村・有時・実時らが、非北条氏一門ならば足利義氏や三浦泰村なども候補になり得たであろうが、経時を単独で支えられるような卓越した有力者がおらずに互いに牽制しあう関係にあるという政治的不安定要因が連署の設置を断念させ、また北条時房の没後に泰時が執権・連署を置かなかったことも経時に単独執権制を選択させたとしている。
経時の執権政治
経時の政権は一族の北条重時ら重鎮が支える体制が取られ、その初期は穏やかに過ぎた。寛元元年(1243年)6月12日に正五位下に叙され(『鎌倉年代記』)、7月8日に泰時と同じ武蔵守に任官した(『関東評定衆伝』)。
執権就任後、経時は訴訟制度の改革を行ない(『吾妻鏡』)、寛元元年(1243年)2月15日に問注所での判決草案作成について重要案件は2か月、中程度は1か月、それ以外は20日と期限を定めた。2月26日には評定衆を3つのグループに分けて、それぞれ月に 5 日ずつ会議日を定めて訴訟を担当させたが、これは従来の全員参加の評定では欠席も多く、裁判の迅速と正確を期するために行なわれたもので、後の時頼時代に定められた引付衆制度の先駆けとなった。7月10日には問注所での訴訟において、原告と被告双方の書類が整っている場合は対決を省略して判決を定める事、9月25日には判決原案を将軍に見せてから裁決の下知状を作成するという手続きを簡素化して、将軍に見せる事無く原案に従って奉行人が下知状を作成するようにしている。
将軍職の解任
将軍の九条頼経は寛元2年(1244年)の時点で27歳に成長していた。そのため、将軍の側近には北条光時、三浦泰村など反執権勢力による集団が形成されつつあり、得宗家と対抗するようになっていた。経時はこの側近集団を解体するため、頼経の将軍職を寛元2年(1244年)4月に解任させた。新将軍には頼経の子の九条頼嗣を擁立し、頼嗣を急いで元服させて烏帽子親は経時自らが務めた。これらは頼経の解任、頼嗣の擁立に経時が主導的立場を果たしている事をうかがわせている。
しかし前将軍となった頼経はなおも鎌倉に留まって頼嗣を補佐した。頼嗣の将軍宣旨の書状を御所に持参した際、それを受け取ったのは頼経であった。頼経は「大殿」「前大納言家」と尊称され(『吾妻鏡』)、また三浦光村や千葉秀胤らが新たに評定衆に加えられるなど(『関東評定衆伝』)、反執権派の巻き返しも行なわれた。このため、経時は頼経の京都への送還を計画したが、12月に幕府政所や経時、時頼の屋敷が失火に見舞われるなどしたため失敗する。なお、この計画については、頼経が自己を含めた側近たちの官位昇進を図って北条氏に対して有利な政治的状況を作り出すために考え出された反執権派によって計画された頼経の上洛計画であり、むしろその危険性に気付いた経時兄弟が上洛中止の口実作りのために意図的に自らの屋敷に火を放った可能性もあるとする異論も出されている。また、経時自身も頼経の烏帽子子であり、さらに小侍所別当を務めたりなど頼経、三浦家等と親密な関係にあり、頼経やその一派にとれる態度には自ずと限界があったのも確かである。
このため寛元3年(1245年)7月26日、頼嗣に妹の檜皮姫を嫁がせた。この結婚には暦の上で縁起が良くないなど反対意見も多かったが、経時はあえて強行した(『吾妻鏡』)。この結婚で経時の得宗家は頼嗣の外戚としての立場を獲得し、将軍の後見役となり反執権派を一時的に押さえ込む事に成功した [22] 。
最期
経時は寛元3年(1245年)前後から体調を崩していた。5月29日には黄疸を患い、6月19日には一時症状は治まる。しかし7月24日に体調不良により祈祷が行なわれ、7日後に回復している(『吾妻鏡』)。『平戸記』によると8月6日に経時の病状がかなり悪化しているという噂が京都にも伝わっていたという。
9月4日には正室の宇都宮泰綱の娘が15歳で死去。9月27日、経時は病が再発して一時意識を失うに至り、鎌倉中が大騒ぎになった(『吾妻鏡』)。10月11日には頼経のために酒宴を取り仕切っているため(『吾妻鏡』)、それ以前には回復していたようである。このように経時は体調不良が続いたため、弟の時頼を名代にしている。
寛元4年(1246年)正月には椀飯の沙汰を努めるが、2月頃には妹の御台所である檜皮姫も病に伏せるようになる。また頼嗣も病弱だった。
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