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「だっこー」と書いたら、こどものおねだりみたいだ。だっこう。ケツも痛いが、脱稿したぜ。つーか、ただ書きなぐってしまった。「読む人のことを考えるようにして」というテーマのくせに、こりゃー紺屋の白袴か医者の不養生とかいうようなことか。いや違うな。目くそ鼻くそを嗤う、か。ああごめんなさい。ごめんなさい。査読の皆様。すぐ全面的に書き直しますぅという気分なのだが、しばらく見たくない。げろげろ。2コマの勤め先、1コマに減ることがケッテイ。でも来年までは通えることがわかって、ちょと嬉しい。あいだをおいてまた使ってくれないかな。どんなもんでも対応できるよーに、ばりばり力をためておこう。ということで、来年は相当に暇ができることがわかった。この機会ににんしんでもすりゃーいいのだが、こればっかりはわからん。
2006年09月30日

誕生日と没月。2月生まれが多いです。真夏と真冬になくなる方が多いかなーと思ったら、10月と11月が多いですね。全国民の誕生月は2月生まれは少ないです。2月は短いし。1月生まれが最多。6月生まれが最少。とはいえ、やはり春は繁殖期なのでしょうか。全国死亡数の月別がみあたらなかった。昨年のデータ。誕生も死亡も月別の偏りはあまりないですねぇ。やはり四季の感覚が薄れてきたのでしょうか。出生数は最近あんまり変わってないのだな。安倍さんは、子供がいないんですねぇ。話題にしないだけかと思っていたら。跡取りの心配がなくていいや。日本の将来を考えるのに、老人でいいのか?というのと同じように、子供がないヒトでいいの?とか言い出すのはおるだろー。44歳の妻が生むことを考えろとかいう代議士でるかな。「すでに2人生んでいるヒトに3人4人を期待したほうが手っ取り早い」という発想が中心になるかなぁ。
2006年09月29日
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091159373184.htmlデイリーポータルにリンクされていたネタが、そのまんまそうなので笑った。「黙ってやれ」ということが、えっれー言われる。ヒトの話に相槌をうつことさえ、「うってかえし」という名詞があるくらい。「マナー違反」を伝えるために使われる。明治の頃の日本はかくや、と思われる。信州ってところは、御一新の前後だと佐久間象山とか偉人が出ていたり、ヨーロッパ人が故郷の風景を懐かしんで軽井沢を開発しちゃったりしている。戦中時には有事のときに天皇陛下をお守りするための場所を作ったりしている。岩盤の固いところなんてほかにもあるだろうが、そういう提案ができる人が政治の中枢のいたわけだ。エヴァンゲリオンになぜ「松代」という地名が出るかというと、当時のそれを指すから。山間で田圃の面積はとれないし、寒くて二毛作とかできる地域じゃないし「新しいものをとりいれて貧乏から脱出しよう」ということで当時おおいに盛り上がったんだろうね。「教育は万能」「観光は資源」今もその遺産で食って…食いつぶしかけているところだ。いまだに教育県のイメージがあるが、今はそうではない。まだまだお勉強が大事だった戦後、新思想として、共産主義思想が広まった。しかし、それを今でも引きずっていて、結局大学進学率は全国下から2番目というような具合。それでも「優秀な人材をよそに取られない」ということで納得している部分もあるようだ。偉業が全国紙に載っても、信濃毎日新聞に載っても同じ価値だしな。県民全員が歌える信濃の歌の歌詞にも、県全域各地の古い偉人・名所がもりこまれている。信州という名で統一されているし、はたから見ればどこも似たような地域にしかみえないのだが、谷とか川とか山とか湖で寸断されて細分化されているため、お互いは余所者としてそれぞれに反目しあっているため(特に松本市と長野市の関係は、韓国の全羅道の慶尚道が対立と似ている)、すべての県民が納得するように、配慮されまくっている歌詞だ。卒業式とか入学式の進行で「君が代斉唱」にあたるところにこの歌が歌われる。(身分差別に繋がる「仰げば尊し」も歌わないらしい。)国旗の掲揚も、最近急に中央から押し付けられたことで、非常にもめているようだ。長野県でお茶を飲むときは、せわしない。心理学とか文法の説明で、コップに半分の水をたとえにして、「もう半分しかない」「まだ半分もある」というのがあるけど、長野県じゃありえない。半分以下になるのは失礼なことである。湧き出る泉のごとく、常に満タンにしてさしあげることが礼儀である。でがらしのお湯みたいなのを足されるので、どんどんまずくなる。日本のビールマナーに注ぎ足しがあるが、長野県の場合1口飲んだのを見たら即座に足す。飲むほうも横で見ているほうも忙しい。・・・しかしこの「礼儀」、相手のことを思いやる気持ちだけでできているわけではない。足されるほうは、あまり気を使わせては失礼なので、ちびちび飲むことになる。つまり「がぶ飲み」はこれまた「マナー違反」になり、「遠慮の無いヒトだ」と陰口を叩かれるのだ。ポライトネスストラテジーは、つまり自分の欲求を通すための戦略である。自分の欲求どおりに、相手を動かすことが容易である方法を考えて、「窓を開けろ」ではなく「申し訳ないけど、ちょっと窓を開けてくれる?」という。相手のことを考えているというより、無礼なヤツだと思われて自分が困らないように考えてのことだ。言語形式上のポライトネスというものは、商業の世界で、品質や価格を据え置いて、全く同じ中身のものを「買ったヒトが良い気持ちになること」をつけて高く売るようなものと非常に近い。売るときの対応とか、買うまでわくわくする気分で探したくなる店内の清潔感や配置とか、容器のデザインなどのイメージとか、良い気分になることが「価値」。長野県のお茶の注ぎ足し習慣は、<ポジティヴフェイス>・相手に満足してもらいたい<ネガティブフェイス>・お茶も十分に出さないケチと思われたくない。という両面の欲求から出てきたもので、そうすることがあたりまえのポライトネス(=無標ポライトネス)であるから、そうしないことが「おかしい」ことになる。ということは、つまり無標ポライトネスというのは、同じ文化の中にいるヒトたちは、慣習として無自覚なもので「固定した形式」というものがある、ということである。これが異文化人にわかりにくい。外国人が「私の出身大学は優秀な人材をたくさん出しています」ということが、日本人には戸惑いが芽生えてしまうようなもので、自分たちが普段どうしているかということが無自覚なため、勝手にマイナス評価を生み出してしまう。(戸惑いは中国人だとエラソー、アメリカ人だと堂々としているなぁとか、ちょっと違うけどそれはステレオタイプな考え方の問題)お茶の場合の<無標ポライトネス>の固定した形式は、・「出したお茶は十分なものである」という相手のメッセージに対し、・」出されたお茶を十分なものとして扱う。」という行為である。たとえ「もっと飲みたい」という個人的欲求があったとしても、慣習が最優先される。それを打ち破るためのさらなるストラテジーとしては、自分が相手のお茶を注ぎ足してやるということがあるのだが、客と主人など急須の所有権が確定しているところでは難しい。で、居心地の悪さを感じ、「ながっちり」な滞在を「じゃ、そろそろ…」と退散するようになる。ポライトに接すれば接するほど、自分の思い通りになるということだ。うまくできているなぁ。より気分をよくするための<有標ポライトネス>は、「やらなくてもいいけど、やれば褒められる」ようなもの。いわば権利の獲得。言語形式というわかりやすいものが使える。足し算的なものである。無標ポライトネスは「やるべきことで、やらなければ問題視される」。義務の遂行。言語形式を丁寧にしたからといって、失礼さは軽減できない。ということは、言語の内容、行動様式の問題が大きいのではないか。
2006年09月28日
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html意外なことに、昭和1桁は海部さんだけ。それでも当時は「昭和生まれ?」といわれていた。明治時代の政治家、天保年間に生まれていたりするわけだね。あらためてびっくり。寿命が短いし、当時は安倍さんより若いヒトばっかりだね。写真や肖像画ではえっらい老けてみえるけど。自分の小学校時代の世の中は、明治生まれのヒトが政治を動かしていたわけだから、そりゃあ古臭いわけだわ。明治生まれといったら、終戦時に成人していたわけでしょう。バブル期の狂乱時代は、幼少時代「いかに死ぬか」を教育されてきた世代が首相だったから、後先考えてなかったのかなーとも思う。昭和も2桁になると、「戦争」そのものの記憶はないわな。終戦時はまだ子供だもの。小学校に入ったときにオトナたちからうっすらと戦争を感じながら、自分の生きている時代を「戦後」として教育されてきた世代。世の中が大々的に変わったのに現実を直視しないで「先例に倣う」ということでぐずぐずしていた時代が続いていたけれども、それを打ち破ったのは、戦前の記憶がない小泉さんだ。問題が多いと言われていた小泉さんだが、「悪いものは悪い」と言えたことが最大に評価できる。ドリームがなくなって息苦しくなったという弊害はあるけどね。
2006年09月27日
東久邇宮稔彦 陸軍士官大学校幣原喜重郎 東京帝国大学法学部 吉田茂 東京帝国大学法学部 片山哲 東京帝国大学法学部 芦田均 東京帝国大学法学部 鳩山一郎 東京帝国大学法学部 石橋湛山 早稲田大学第一文学部 岸信介 東京帝国大学法学部 池田勇人 京都帝国大学法学部 佐藤榮作 東京帝国大学法学部 田中角栄 二田高等小学校→中央工学校土木課 三木武夫 明治大学法学部 福田赳夫 東京帝国大学法学部 大平正芳 東京商科大学 (現:一橋大学)鈴木善幸 農林省水産講習所 (東京水産大学→現:東京海洋大学)中曽根康弘 東京帝国大学法学部 竹下登 早稲田大学商学部 宇野宗佑 神戸商科大学中退(現:兵庫県立大学) 海部俊樹 早稲田大学法学部 宮澤喜一 東京帝国大学法学部 細川護煕 上智大学法学部 羽田孜 成城大学法学部 村山富市 明治大学二部政治経済学部 橋本龍太郎 慶應義塾大学法学部政治学科 小渕恵三 早稲田大学第一文学部英文科 森喜朗 早稲田大学第二商学部 小泉純一郎 慶應義塾大学経済学部安倍晋三 成蹊大学法学部2名をのぞいて、東京の学校出身者ばかりです。最近は私立大学卒ばっかり。新制の東京大学出身者は1人もいません。
2006年09月27日
安倍内閣。どのくらいもつか。安倍さんは極力老けてみせるようにしているのだろう。政治家は、年齢が足りないときは、貫禄が出るようにして、年齢が余っているときは、白髪染めなんかしたりして、「いつまでも変わらないですねぇ」と言われるようなアンチエイジングって、スタートが大事だな。若ぶっている石田純一や林真理子とも同年。そんなことより、早生まれの我が師匠と同学年というのが驚き。はじめて会ったとき35歳だった人が、もうこんな年齢なのかと。でも総理大臣なんて役職、今後もこんな年齢の人がやればいいだろう。20年後を「自分がいる世界」と想定できる人のほうが場当たり的になりにくそう。安倍さんは「言語明瞭意味不明」的な評価があるが、拉致問題とかちゃんと自分で考えていることは、はっきりと喋れる人なので、つまりあまり考えていない問題だと、抽象的に話すしかなくなっているというだけだと思う。下から成蹊で、東大生(平沢勝栄)の家庭教師をつけても他大学(といっても早慶東大くらいしかないが)に進学しない(できない)ような学力だったのだろう。妻は下から聖心。4大の方ではなく専門学校の方に進学したところからすると、それほど学力があったわけじゃあなさそうだ。(それにしても聖心はどうして短大じゃなくて専門学校にしてるんだろう。)森永製菓社長である父親は、娘に2年ほど電通OLをさせて、自民党幹事長の次男と結婚させたわけだが、「学歴のつりあいもとれているし」というのは当事者周囲の誰かが必ず言ってそうだ。山口県は生まれたり育ったりした場所ではない。それを地元と呼べるのは、親の教育のたまものであろう。夫が不在でも、選挙活動しちゃうってすげーなぁ。ものすごく狡猾巧妙な人か、あまり考えていない人じゃないと見知らぬ田舎はきついはず。それをやれちゃうのは、お育ちのよさからか。山口から韓国までは、東京までより距離が近い。万一を考えると、国防では福岡に近い意識だろう。マスコミは、総理の妻が韓流スター好きというのを全面に出して外交のポイントを稼がせようということらしい。「日本の文化は好きです。でも国家は大嫌い」というのが大多数の韓国人の精神だが、同じことを逆に言われても、韓国人はやはり納得するとは思えないのだが。
2006年09月26日
大勢を前に90分+90分。夏休みボケで総復習から。新ネタは、最後の15分だけ。しかし思いのほか好評であった。新学期早々、飛ばすと不評なのでこれも戦略。というか夏休みボケ筆頭は教える側であったりもするので、それしかできん。
2006年09月25日
出荷もやった。祭式もやった。台所はやった。(少しだけ)掃除もやった。(頼まれていないけど)しかし、どれも「不十分」と思われているようで、そこが悔しい。殿は「よきにはからえ」的で動かねぇし。自分もやると、お仕事やってりゃそりゃ無理よなぁという同情は一切沸かん。
2006年09月24日
受話器をとると、「ぶりぶりぶりぶりぶり」という音がする。格安電話が使えねぇ。直すための連絡するのがめんどくせー。放置。
2006年09月23日
だからって別に何もない。「4ヶ月働いて2ヶ月休み」というのは、まとまって遊びたいことがある人にはいいだろう。無計画な人には向かない。としみじみ思う夏休みの終わり。長ぇよ、夏休み。ほとんど暑かったから、何もできなかった。
2006年09月22日
キンもくせぇの香りが住まいの周囲に漂っています。おトイレの芳香剤で有名になってしまったのが惜しい。メーカーは沈丁花の香りを作らないで欲しい。コイズミさんは最後まで特に致命的な傷を負わずに退任ですねぇ。問題があって交替するわけじゃないというのが普通じゃないです。アベさんも、女性スキャンダルではなまなましいものはでてきそうにありません。世襲政治家も三代目にもなるとノーブルな感じになるんでしょうか。(田中まきこは2代目。)でも麻生太郎はなんであんなに悪人顔なのでしょう。しかし、アベさん。常に何かいろんなことを気にしているようで、ちっとも笑いませんね。笑顔は稀。あっても暗い。ものすごく暗い。疲れて笑っているか、ほっとして微笑むかのどちらか。だからイマイチ盛り上がりません。コイズミさんの人気の理由は、やはりあの豊かな表情にもあったのでしょう。政治家とか教師とか、無能であってもみためがいいと評価が嵩上げされます。みためは骨格とかパーツの配置とかによる美醜だけが原因ではなさそうです。よく見せようとする努力とそんなことにかまけていられる余裕が鍵なんでしょうかね。最近のニュースでは、植草先生が不思議です。「警察の陰謀だ」と主張するなら、はじめに「覚えていない」ではなく「身に覚えがない」と言わねば説得力がないでしょう。名古屋商科大学が気の毒です。どうして誰よりも律しなければならない、いわばヤバイ立場なのに、やってしまえるのか。職業柄、いわゆる頭が弱い人じゃなかろうに、なんでそんな簡単な損得計算ができないのか。たぶん心の底では悪いことだとは思っていないからですね。交通事故だと、したくてやっている加害者はいません。でも痴漢は、したくてやった加害者しかいません。殺人や傷害だと、行為そのものは、平和や愛や金品を得るとかの手段としてやっていて、目的そのものではないことが多いです。でも痴漢は、行為そのものが目的です。痴漢した人の立場になって考えてみます。俺が楽しんでいることが悪だというなら、世の中の趣味と分類するものは全て悪になる。子孫繁栄ということも悪になる。ちょっと悪いこと、禁忌を犯すことだから非日常的なひそやかな楽しみになる。しかし、本来「犯罪」として分類されるものではない。ケガをおわさえたわけでもなく、財産を奪ったわけでもない。ストーカーでもハラスメントでもない。繰り返し人格を貶め傷つける行為とは違う。きれいで美しいと思うものに触れてみたいと思い、触れることは、ごく自然な人間の本能だ。それも重要文化財のように壊れたりするもんじゃなく、無防備にさらされているものだ。男なら誰だって痴漢をしたい願望があるはずだ。そして「したことがない」と言うのは、嘘つきか、電車に乗ったことがないか、実は男ではないか、そのうちのどれかだ。嫌なら黙って避ければいい。嫌がる相手を脅して無理強いしてまでしたいわけではない。ダメなら他をあたる。黙っていたからそれはOKと受け止めた。そのどこが悪い。いちいち事を荒立てても、お互い恥をかくだけなのに、言葉に出さなくてもいいじゃないか。一部の連中に唆され、些細なことに目くじらたてる世の中になったから悪だといわれるだけ。建前上そういう連中にわかるように説明しなければならなくなって面倒くさい。というのが本音でしょう。人生観としては、社会にいる人は、俺様の世界の中で重要かどうでもいいかの二種類。建前と本音、両方を表に出しながら生きるのが正しい生き方。本音をひた隠しにしているような人間は信用できない。建前と建前とで論争するなら、知性のある相手になら勝てる自信がある。警察も検察も自分ほどには知的でないので、控訴するのはやめた。才能があるものは叩かれやすい。叩かれても立ち上がれるのが本当に才能がある者。罠にひっかかった自分は迂闊だったが、罠をしかけたやつが一番悪い。という感じでしょーか。たぶん痴漢癖とか浮気性の男性は、「男なら誰だって」という感覚を持っています。というか、痴漢とか浮気とかに強く興味を示さない人は、そういう発言をしません。原因は自分の性別ゆえであり、自分の品性ゆえとは思っていない。性別をかえることはできないのだから行動をかえることは難しい、という開き直った主張です。直したいのは自分の性癖ではなく、世間の風潮なんでしょう。しかしたとえ願望が本能に基づくとしても、実行に移すのとはえらい違いがあると思います。最近痴漢される危険性も減ってきて、危機感もなくなっているんですが、痴漢がどのくらいおかしな行為かというのはわかります。電車の中で見知らぬ人が、何の断りもなく唐突に他人の鞄をあけて中のものを1つ1つ取り出して吟味し元通りにしまったとしたら、おかしいでしょう。そこで「盗んでいないから犯罪ではない!」と主張しても、そりゃそうだよ好奇心があれば仕方ないよね、ということは言ってもらえません。性犯罪者は、禁固や拘留や罰金ではなかなか懲りてくれません。伝染病だと法定のものがあって隔離できますが、こういうビョーキは法律で指定してホルモン療法とかできないもんですかね。それさえなければ社会復帰しても問題ないというなら、そうしたほうがいいでしょう。立法も司法も男社会だから、そういう方向にはならんでしょうか。ロボトミーが、人権がどうのこうのといいながら、「楽しみ奪って生きる甲斐もあったもんじゃないだろう」ということで、この提案は無視されそうです。最近、「未成年の犯罪は罪を贖うことでなく加害者の更生を目的とするのがおかしい」「心神耗弱時に犯した犯罪に罰を与えられないのはおかしい」ということが問題になりますが、それと同じようなことで、もっと身近な問題では、「酔っていた時にしたことは責任を持たなくてもいい、というのはおかしい」というように、日本の常識をかえていかねばなりません。酔ったら何をしでかすかわからないヒトは、人前で酔ってはいけません。お金持ちなら、電車でなくせめてタクシーで帰るべきです。
2006年09月21日
鮭といくらをレタスに包んで食べた。うまい。いくらはロシア語でもいくらだっけ。そーいえば、ここのURLの最後は「鮭の卵」という意味である。しゃけのたまご。社家のたまご。鶏肉と卵の親子より好きだ。チキン&エッグ。スーパーで。「ねえねえ。これチキンタマゴサンドだって」「買わないよ」「そうじゃなくて、ちきんたまごなんだよ」「だーめ」「ちーがーう。ちキンタマごだって」もしかしたら本当に気付かなかったのかもしれませんが、お母さんは最後まで知らんふりしていました。
2006年09月20日
あるニュースをきっかけに検索ネットサーフィンしてみつけたことをまとめる。ソースのチェックを忘れたが、ジョークではない実話だ。日本で「生まれ変わってもまた日本人になりたいですか」というアンケートをしたら、70%以上が「はい」と答えたそうだ。韓国で「生まれ変わってもまた韓国人になりたいですか」というアンケートをしたら、70%以上が「いいえ」と答えたそうだ。中国で「生まれ変わってもまた中国人になりたいですか」というアンケートをしたら、アンケートした人が逮捕されたそうだ。ニュースによると2人逮捕されちゃったんだけど、「逮捕の理由はどうもそのアンケートのせいらしい」という曖昧な書き方になっていた。東アジアが干渉によってもめる理由はこの点につきるよ。外国の情報を見聞きしたり、直接行ったりできるのに、それでも自国民であることを肯定しているヒトが多いというのは、なんと幸せな国なんだろう。日本がベストといえるのは、「現状に大満足」からではなく、「理想郷は実在しない」という意味かもしれないけどね。これにオチを続けるなら、「じゃあジョージ、ノースコリアで「生まれ変わってもまた朝鮮民主主義人民共和国国民になりたいですか」というアンケートをしたら、どうなるんだろう」「決まってるじゃないか。100%「はい」と答えるさ」…ブラックジョーク。外国人の喋り方を日本語にすると、ありえない終助詞がつく。役割語だわね。
2006年09月19日
「兵馬俑にふんしたドイツ人だって」というと、「つかまった?」といわれたのですが、「扮する」を「糞する」と勘違いされていたのは少しあとわかりました。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060919-00000956-reu-entヒトはエサを食べたりフンをしたりしないのに。
2006年09月18日
駅売りの新聞「仰天!小渕優子 入」というところで折れていました。さて、なんでしょう。入籍(でも既婚者だしな)入院(仰天ではないわな)入閣(・・・確かに仰天だ)ものすごく関心の無いどうでもいいことなのに確認していないので答えが気になります。
2006年09月17日
「○○のかたきっ」って、殺人の動機にあってもよさそうなもんだが、ミステリーにはよくあるのに、そういうニュースって現実のモノとしてきいたことがない。それを報じたら社会が混乱するからかな。
2006年09月16日
校風は図書館によくあらわれています。ちょびっと古びて、雰囲気のある某大図書館。蔵書数はまあまああるくせに、すぐに手にとって見られる本が少なすぎます。著作権法はきっちり守っています。パソコンで検索画面上で出庫指示プリントアウトした指示控えを持参しカウンターで待つ図書が来たのをみはからって控えを提出コピー箇所を所定用紙にこと細かく記入セルフか委託かの判定まち委託の場合、しあがったコピーを確認してから券売機で実費分の証紙購入証紙の裏面のシールをはがし所定用紙の所定箇所に貼って提出封筒にいれられたコピーをもって退出・・・ぶちきれそーなくらいめんどくさかったです。この図書館、ブランド物の鞄が盗まれるから注意とかいてありました。つまりフツーの鞄だったら盗まれないという安心なところです。徒歩圏のなじみのある図書館。「図書は書架に戻さず返却台においてください」とあります。利用者というのは整理整頓できないもの、とまるで信用ゼロの前提なおかげで楽できます。「図書に書き込んだり切り取ったりしないでください」とありました。する人がいるんですね。
2006年09月15日
毎日の欄を無理矢理埋めた。『100年前の東京(1)』服部誠一原著(マール社)おもしろい。明治7年のベストセラー。原文は漢文だったそうだ。その現代語訳。その時代に、ある程度リアリティを感じられるフィクションだったのだろう。事物に関しては誇張はあまりないだろうが、全体に皮肉に満ちたいじわるな視点で描かれている。「学校」洋学・漢学・国学を学ぶ書生が相部屋の部屋と牛肉屋で、浅薄な知識をひけらかし、いつか自分も、何であいつが、オマエなんかと繰り返して、自慢と不満を垂れ流し、牛肉屋の主人である爺に「勤めたり家族を持ったりしてから言え、もっと立派な人になれ」という意味になることを丁重にたしなめられ、そそくさと逃げるという話。1人の年齢は25歳と3ヶ月。数えだろうから24歳だな。あとも似たようなもんだろう。ポスドクというかオーバードクターみたいなもの。今になって超高学歴のニートの問題が「格差社会」にとりあげられるが、そんなの明治初期からいることはいたんだわなぁ。どのくらいの数か知らないけど、高級官吏になれなくても、田舎教師という受け皿くらいはあったんだろう。現代はそれがどこへ行くかが問題なのだ。「妾宅」昔は妾は貧しいものがなるもので、妾を買う者は独身ではなかったのに、今は生活に困っているわけでもないのに妾になったり、独身なのに妾を買うものがいる、とある。戦前の女性で、権利のない立場においやられたりするのは貧しさゆえ、とか思っていたけど、明治だって、豊かな東京はそんなこともあったのだな。一夫一婦制の原則とか家族制度なんて理想が必ず実現されていると思っていたのは戦後の幻想だ。「写真」写真が都下に登場したのは今から10年足らず前、とある。いろんな人があれこれ言いながら撮影にくるのを、心の中のツッコミが書かれている。遠国にいる子弟が故郷の父兄に送るにしても、遠く離れた恋人に贈るにしても、写真を送れば文字であれこれ書くより便利である。便利便利で大繁盛なのが開化の写真屋なのである、と結んである。写真の便利さを文字と比較しているのは、こんな初期からあったのだな。当たり前かもしれんが。「書店」当時老舗の書店が500あったそうな。支店や古書・貸本屋は含まれていない。これは本を読む人が多いために、大繁盛しているのだ。学問はもともと知識を広めるものである。知識が開明すれば、発明するものも多い。発明すれば本は日に新たになり、今から十年も経てば、現在の書はすべて紙くずになってしまうかもしれない。もう知っていたのですねぇ。「麦湯」要するに喫茶店はおさわりパブみたいなところもあるということだ。東京は昔から職業や物品やイベントのバリエーションも豊かで特殊だったのだな。江戸からそうか。男性が多すぎた江戸はすなわちオタクが多かったということだ。いまに始まったこっちゃない。しかし、なんというか。現代の病理といわれるものというか問題にあがっていることは、過去にできたことができなくなったからであって、それは「規則の徹底」のせいで「抜け道」がなくなったせいではないかと思えてくる。昔は放蕩三昧だったということではなくて、原則は知ってはいたが、それを違反していることも「わきまえ」ていることで、なんとかうまくまわっていたんじゃないか。平等であるべきだということも、理想として平等に近づこうとするのと、平等であることが出発点であると考えるのとでは全然違う。騙し騙しやってきたから、表面的にうまくいって見えていたのであって、騙せなくなってくれば、結果はうまくいかんのだ。
2006年09月14日
さかのぼり日記になっております。埋めろ埋めろ
2006年09月13日
放置していました。「放置しっぱなし」というのを「放置プレイ」とかよくいわれてますが、たしか10年くらい前に読んだSM漫画の中で、Mというのは苦痛が大きければ大きいほど快感なので、かまってほしいMにとって最も苦痛な究極のおしおきは、Sに無視されることだから、放置プレイというのはすごい快感はあるんじゃないかとかいう出だしの話がありました。最後まで読んでいないのでよくわかりません。それでどう話が膨らむのか不思議です。たぶん週刊モーニングかビックコミックスピリッツあたり。
2006年09月12日
日本の消防と救急の電話番号は119。アメリカの警察と消防は911。セプテンバー11日が「911」と呼ばれやすいのはそのせいかな。当時は、世界情勢もめちゃくちゃだったが、半径5メートル以内の世界もめちゃくちゃだったなと思い出す。単身赴任中だったが、赴任先はむちゃくちゃなところだった。そもそもあまり信用できない人がいることがわかっているところに志願した形で行ったのがまずかったのだが、それがここまで荒唐無稽だとはちょっと予想できなかった。むちゃくちゃなところだと言っても、上司とか同僚とか血族とか姻族とかに関係なく、「おまえは日頃からおこないが悪い」と思っている人たちは、決して信じてくれず、「おまえのおこないが悪いせいだ。そんなことになるはずがない。気のせいだ」と言われ、それもストレスを増幅させることだった。(耳タコで失礼。)家は建替え中で、両親は敷地内の仮設住宅に住んでいた。そこでおばあちゃんを介護していたのだが、前月102歳で亡くなったすぐあと。しかも例年の祭にあわせ、弟が結婚式をするという前。親戚がついでで集まりやすいだろうからという弟の配慮だったのだが、集中して忙しくなるよりはできれば別の時期がよかったのだが、しかしこれだけはとにかく息子の決めたことを第一にして、絶対に決行しなければならないことだと両親は強く思っていたので、反対する意見はあまり言わないようにしていたそうである。ところがこの911の翌日だったか、結婚式が翌翌週というときに、お嫁さん側から「結婚式を延期したい」といわれた。理由は、お嫁さんの兄が結婚式に参列したくないと言っているから、というものだった。前年に別の人から同じ時期に結婚式をドタキャンされている弟と両親はそれだけは避けたかった。特に「だめになってもいいから一度結婚してほしい」と繰り返し言っていた母は切実である。親族の誰かが強く反対していても、結婚する人はいくらでもいるし(それはそれで大変だろうけど)、同居するわけでもないのに何故?というと結婚自体に反対しているわけではないという。参列したくない理由は、「兄の部下がテロの犠牲になったから」というものだった。緊急に仕事がはいったり病欠だったりで欠席者がいたって、別に結婚式自体に差し支えは無いんじゃないか、ときいても、それはできないという。仕事じゃなくて、精神的にとてもお祝い事をする気持ちになれないからだ、というのだ。煎じ詰めれば、兄が参列しない結婚式はあり得ない、ということだった。結局、どうやって説得したか諦めるにいたっててくれたかわからないが、どうにか結婚式はできることになった。職場では、俺様がはんこを押さなかったらおまえは職務放棄になるんだぞと、はんこを押してやるかわりの契約をおしつけられそうになったりもしたが、じゃあ別の人にはんこをもらってもいいし、お互いに冠婚葬祭の儀礼を重んじる民族なのに、その理由を認めてくれないということをあの人に言うぞとかいって強引に帰って参列した。会場に列席しているのは、親族と双方の職場関係者と同級生で、それほど大規模なものではない。一部の親族をのぞいて、みんな地元から一歩も離れて暮らしたことのない人たちである。弟もお嫁さんも、アメリカの言語を使った仕事はしても、そこで出会ったり暮らしたりしたことは一度もない。結婚式の司会はプロを雇っていたのだが、「式に先立ちまして、同時多発テロによって犠牲になられた方々に哀悼の意を捧げます」という出だしだった。本当に驚いた。しかも祝辞もほぼ全員、結婚式には普通でてこない哀悼の意から始めていた。驚愕。ちなみに102歳で亡くなった祖母の話は出ていない。日本はいつのまにこんな片田舎までアメリカ合衆国になってしまったのか。職場のほうでは、ビルが崩れる映像をみて、「うわー、たいへん。でも外国のことでよかった」とか言っている人たちの中にいたので、普通の日本人としての自分の感覚が狂ったのかとさえ思ったくらいだ。外国だから「よかった」とは思えないが、所詮外国のことだ。1995年の1月や2月の結婚式なら、「阪神淡路大震災の…」ということはあっただろうけど、この場合、各人慶事を慎むほどの責任ある立場でもなかろうに、とかついつい思ってしまった。結婚のイメージを、結婚式に焦点をもって、結婚式にはこんなドレスが着たいとか具体的な夢を長く持ち続けている女子は多い。その結婚式に対する夢が、「家族全員に参列してもらいたい」ということだったんだな、ということに気付いたのは、のちにお嫁さんの家庭の事情がわかってからだが、お嫁さんの意向(というかお嫁さんがその兄に対し日頃からどれだけ気を使っているかということ)に配慮し、祝辞の中身にまで根回しまでしたのは、やっぱり弟だったんだろうなぁということは、今年気付いたことである。この弟も、弟の実兄も、配慮の人として世間では有名なのだが、「配慮されすぎて疲れる」と思っている人も少なくないと思う。だいたい本当に配慮の行き届いた人なら、それと感じさせず気付かれにくいもんだ。きつい言い方をすれば「配慮の量と質、方向が間違っている」ということだ。ネガティヴポライトネスを基本にしている人は、ポジティブポライトネスを使おうとすると、失敗しやすいのかなー。自分がお嫁さんの兄の立場だと仮定して考えると、自分の中で仕事と家庭の問題をどうにか切り離して考えられるように決着をつけたというのに、こんな祝辞が続いては「結婚式前に参列したくない」と言ってしまって迷惑をかけたことにいちいち触れられているようで、かえっていらいらしただろう。「何もしないのは、何も配慮していないからだ」とは限らない。「Dont do FTA=気が着かないふり」というポライトネスは、実はかなり頻繁に使われ重要なものであるということを、彼らはあまりわかっていない。
2006年09月11日
ディスカバリーチャンネル笑いを研究している人のコメント。人間は本能として笑う能力がある。盲人も聾唖者も、健常児と同じころに笑うことができるようになる。笑う回数は5歳がピーク。(回数をどう区切るかは知らん)5歳児は1日に250回笑う。(数字うろ覚え)思春期のころは1日15回程度。(少なくないか?箸が転んでもという年頃だろう)1200回笑ったうち、ジョークに笑ったものは20%に過ぎない。つまり笑いは社会的なもの。テレビを見て笑うのは、社会的代償行為。笑いは必ずセンテンスのきりのいいところで出る。「どこで、見たの、ハハハ」ということはあっても、「どこで、ハハハ、見た ハハハ」のようなことにはならない。(まるで文法の話のよーだ)笑いは伝染する。大笑いしている人をみていると笑ってしまう。笑ってばかりの双子の女性(60代くらいか)脳波を分析したら、2人とも世間の平均より「楽天的」と出た。(脳波はそんなことまではかれるのか)二人とも「普通の状態は楽しい状態」ということらしく、遺伝的に楽天的であるからよく笑うということがわかった。昔は責任ある仕事についている人は笑わなかった。いまは笑おう。とかいって、老人ホームのようなところで笑いの指導をしている人がいる。笑うとアドレナリンが出て健康にもなる。笑うことは、他人と共有できるものになる。楽しくなくても、笑う顔を作っているだけでも健康になる。
2006年09月10日
嫁姑漫画というのが世の中にある。浄土ヶ浜さおりという人の「全国嫁の道」というギャグ漫画におもしろい例があった。姑:(紹介されたときから気にはなっていたけど)嫁:「あ、ちょっとちょっと、お義母さんさー」姑:(なんとかならないかしら ウチの嫁の言葉遣い)嫁:「クリーニング屋にいくならこれもついでに出しておいてくんない?おつりの20円あげるからさ」<中略>姑:「あ、あのね夏美さん?「親しき仲にも礼儀あり」って言うわよね?もう少していねいな言い方できないかしら」嫁:「え?んーっとじゃあ・・・・和江さんこれもついでにクリーニング出しといてくださらない?おつりはさしあげるわご苦労様・・・こんな感じ?」姑:(・・・なんだろうこの屈辱・・・)もともと内容が無礼なので、敬語の形式をもちいたところで、失礼さは軽減されん。敬語といっても、上から下へのもののいいになっているし。りーちの「おそれいりますが、サンドイッチもう1つ召し上がっていただけないでしょうか」というのとはちょっと違う。滝浦氏の説明P146[例4](部屋のクーラーをつけて欲しい人が「いやあ、今日は暑いねえ」という場合「クーラーをつけてほしい」という意図が明確にされておらず、周囲の人の察しによってしか意図は実現されない。当然発話は曖昧であり不明瞭となる。自分の願望に相手を奉仕させることは、相手のフェイスを潰してしまうため、それを避け、相手が「自発的に」気付いて施しをしてくれるのを任せようとする意図に基づいている」P284話し手が自分と相手のどちらのフェイスをより直接的に保持しようとするかによって、微妙な問題が生じてくる。例えば[例4]のような「ほのめかし」の発話は依頼すなわち「他人にお願いをする」ことが自分のフェイスの侵害になると感じた人が自分のフェイスを保持するための手段としておこなうことも十分にあり得るだろう。聞き手がそのニュアンスを感じ取った場合には、その発話はポライトであるよりもある種の傲慢さを帯びたものとして受け取られるかもしれない。ぶらうんとれびんそんのFTAの5つの序列。間接的にいえば失礼さが軽減できるっつーのは、賛成しない人が多いということがわかった。ちぇーっ。みんな気付いていやがる。
2006年09月09日
泌尿器科の医師や薬屋など複数のHPに、世の中の成人の排尿回数の平均って、「4~5回」とか「5~7回」とか書いてあるんだけど、ほんとうなんでしょうか。飲む回数より少ないということ?というか食事以外ではめったに飲まないということ?だいたいのHPで「10回以上は頻尿」って。もしちゃんと数えたら、うちには頻尿の人しかいなくなるかも。それでトイレが1つだと不便なのか。別に困っていないから病院にいく気はないけど。
2006年09月08日
[祓詞]掛けまくも畏き 伊邪那岐ノ大神つくしのひむかの 橘ノをどの あはぎはらに禊ぎ祓へ給ひしときに生りませる 祓戸の大神たち諸々の禍事 罪 穢 あらむをば祓へ給ひ清め給へと まをすことを聞こし召せと畏み畏みも まをす「曰す」を「まおす」と読むのがなんか気になりますがそう教わりました。流派じゃないけど「これがオリジナルだ」と教え込まれたところによって違います。筑紫は「つくし」であって、ちくしではありません。日向は「ひゅうが」と読むこともあるそうですが、そう読むべきではないといわれました。本当のオリジナルな読み方を追求していくと、「あぱぎぱらにみそぎぱらへたまひし…」とかになります。甲乙とか難しそうです。延喜式あたりを基準にするならば、「あふぁぎふぁらにみそきふぁらへたまひし…」とかになるのでしょうか。どうせそこにいる一番偉い人が「正しい」といったもの、あるいは生きている人の多くが「正しい」と思っているものが正しいのです。神道に「かんながら」ということばがあります。「神様のご意志でどうとでも。」アラビア語ならば挨拶語。いずれも「時に応じて」ということでしょう。筑紫>日向>橘>小戸>阿波岐原「の」による埋め込み文。禊というのは「水で体を清め、罪や穢れを洗い流すこと」であり、まだ罪があがなわれたわけではありません。政治家は「禊は済んだ」と言いますが、その段階で復帰しようというのはおかしいです。もし出てくるなら「祓えが済んだ」(償った)あとじゃなければ出てきてはいけません。まがごとと罪とケガレは別のもの。おそれおおくも申し上げます。
2006年09月07日
高山の末・低山の末より さくなだりに落ちたぎつ 速川の瀬にます 瀬織津比売といふ神大海原に 持ち出でなむ。かく持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会にます速開都比賣といふ神持ちかか呑みてむ。かくかか呑みてば 氣吹戸にます 氣吹戸主といふ神根の国・底の国に 息吹き放ちてむ。かく息吹き放ちてば 根の国・底の国にます速佐須良比賣(はやさすらひめ)といふ神持ちさすらひ失ひてむ。かくさすらひ失ひてば 罪といふ罪はあらじと祓へ給ひ清め給ふことを 天つ神・国つ神 八百万の神たち 共に聞こし召せとまをす。ここで、罪は場所を移動して、セオリツ姫→ハヤアキツ姫→いぶきどぬし→はやさすら姫という4人の神様にバトンタッチされていきます。山からどーどーと流れた川の流れの速いところにいらっしゃるセオリツ姫が海に持ち出すだろう。↓このように持ち出し去ったら、荒海のがんがん波が寄せて渦になっているところにいらっしゃるハヤアキツ姫ががぶがぶ飲んでしまうだろう。「あらしおのしおのやおじのやしおじのしおのやおあい」ここはまるでカツゼツの練習のようです。↓このようにがぶがぶ飲んでしまったら、息を噴出すところにいらっしゃるイブキドヌシが地下に吹き去ってしまうでしょう。↓このように吹き去ってしまえば、地下にいらっしゃるハヤサスラ姫がなくしてしまうでしょう。このようになくしてしまえば、「罪という罪はない」ということなので、天つ神、国つ神、八百万の神、神様皆々聞いてくだされと申し上げます。なんだか最後は1つのセンテンスだと文法がねじれてしまいます。「召せ」は内容的にポライトなので、命令形でもokとか現代語の頭では思います。遠くへ行ってだんだん存在がわからなくなるという罪。罪自体が多く、しかも有機物だけではない時代だと、なかなか罪がなくならない気がします。
2006年09月06日
かく宣らば 天つ神は あめの磐門を押しひらきて天の八重雲を いつの千別きに千別きて 聞こし召さむ。国つ神は 高山の末・低山の末に上りまして高山の伊褒理・低山の伊褒理を かき分けて 聞こし召さむ。かく聞こし召してば 罪といふ罪はあらじと科戸(しなど)の風の 天の八重雲を吹き放つことのごとくあしたの御霧・ゆふべの御霧を 朝風・タ風の吹き払ふことのごとく大津辺に居る大船を 舳(へ)解き放ち艫(とも)解き放ちて 大海原に押し放つことのごとくをちかたの繁木が本を 焼鎌の利鎌もちて 打ち掃ふことのごとく 遺る罪はあらじと 祓へ給ひ清め給ふことを*****祝詞をとなえたらどうなるか、という話です。ここからは対句法満載です。天つ神様は、磐でできた戸を開いて雲をかきわけ聞いてくださるだろう。国つ神様は、高い山や低い山に登って霞や靄をかきわけて聞いてくださるだろう。このように聞いてくだされば、「罪という罪はないよっ」ということになります。単語は現代とあまり変わらなく、たいして難しく感じません。直感的には、後代に先の前半部を加筆したものではないかという感じがします。「へさき」って音だけで知っていました。「舳先」と書くんですねぇ。舳綱は舳先を結ぶ綱。ということは、艫(とも)というのは舳先の反対方向ですね。艫綱は船尾を結ぶ綱です。風が雲を吹き放つように、朝夕の霧を朝夕の風が吹き払うように港にいる大きな船を舳綱や艫綱を解いて大海に押し放つように樹木が生い茂っている根本を、焼いてよく切れるようにした鎌で払うように見通しがよくなるので、「残る罪もないよっ」と祓って清めると・・・次は、その罪がどうなるかということに続いていきます。
2006年09月05日
かく依さし奉りし 四方の国中(くになか)と大倭日高見の国を 安国と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天が原に千木高しりて皇(すめ)御孫(みまの)命(みこと)の瑞の御殿(みあらか)仕へ奉りて 天の御蔭日の御蔭と隠りまして 安国と平らけく知ろし召さむ國中(くぬち)に成りいでむ天の益人らが過ち犯しけむ 種種(くさぐさ)の罪ごとは天つ罪・国つ罪ここだくの罪出でむ。かく出でば 天つ宮事もちて 天つ金木を 本うち切り 末うち断ちて 千座の置き座に置き足らはして天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り裂きて天つ祝詞の太祝詞言を宣れ。*******「国中」という漢字のところは、「くぬち」と「くになか」と2通りあります。「高天原」は、大祓詞の出だしは、「たかまのはら」なんですが、ここでは「たかまがはら」です。どっちでも意味は同じようなものではありますが、なんでわけるのかよくわかりません。ここでは、開発についての具体的な話になります。所在地:四方の国中とおおやまとひだかみの国。構造:磐の上に太い柱を建て、天にも届く千木を立てる施主:皇御孫命建築物の名称:瑞の御殿といったところ。で、「天のおかげ、日のおかげ」と感謝のことばを言いながら、平和に統治して繁栄してきたというのに、そこで生まれてきた人民たちがいろんな罪を犯してしまいます。どんな罪かというと、延喜式にははっきりと書いてありますが、天つ罪:稲作の妨害、(無益な)動物殺しと殺人、御殿にうんこする国つ罪:人を刺す、遺体損壊、アルビノが生まれる、瘤ができる、親子相姦、獣姦、虫害、のろいをかけるです。虫害は防御しなかったり放置しているのがまずいということかな。色素欠乏症アルビノは血族結婚で確率が高まるそうですが、因果関係は絶対ではありませんし、たとえ近親結婚がいけないといわれても子供に罪はありません。瘤ができたことまで罪というのはひどいことです。他の障害については罪としていないようですが、非科学的な時代の偏見というのは、現代で通用できないので、具体的な罪の内容はカットされています。天つ罪は新しい統治者との取り決めを破ること、国つ罪は統治者に関係なく人として道を外したことをすること、という分類でしょう。そんな罪がでてきたならば、天界でやっている宮中祭祀と同じように、堅い木の両端を切って、台の上にごっそり乗せて、菅とか麻の両端を切って、細かく裂いて、天界の祝詞をとなえなさい。ということです。罪を祓うための方法があるわけですが、現代のやり方とは少し違うのでよくわかりません。
2006年09月04日
万葉仮名の漢字だけだと音が覚えられません。平仮名だけだと意味に気付きにくくなり覚えられません。[大祓詞]高天の原に 神留まります すめらがむつ 神漏岐・神漏美の命(みこと)もちて八百万の神たちを 神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて我(あ)が 皇御孫命(すめみまのみこと)は「豊葦原瑞穂の国を 安国と 平らけく しろしめせ」と こと依さし奉りき。かく依さし奉りし 國中(くぬち)に 荒ぶる神たちをば 神(かむ)問はしに問はし給ひ 神掃ひに掃ひ給ひて言問ひし磐根・樹根立ち 草の片葉(かきは)をも言止めて天の磐座(いはくら)放ち 天の八重雲を いづの千(ち)別(わ)きに千別きて 天くだし依さし奉りき。*******「天」という字は、接続によって「天の(あめの)」「天(あま)」と読み方が違います。「命」は「みこと」と言いますが、神様の名前(敬称の一部)のときと、御命令という意味があります。というか、「命」が主語なら神様。「命以ちて」のときは御命令によってという意味なので、「様」と置き換えてみますと「○○様によって」で御命令を暗示しているといえます。かむろぎ(この神の性別は男)・かむろみ(性別は女)というのは、具体的に誰というのはないそうです。天上界「高天の原」にいらっしゃる方が、地上界に集会を命じたということです。かむとわしにとわしたまって、かむはかりにはかりたまいます。神は「かみ」と「かむ」の読みがあり、「神様が問うこと」の名詞形が「かむとわし」になるのか。仏教の影響の強い聖徳太子が「和」というのを持ち出していることが有名ですが、この大祓詞はそれよりも古いわけで、仏教伝来以前からある日本式の考えとして、集って協議して決めていたということで、「なんと民主主義なんでしょー」とかいわれますが、そもそも集って協議できるメンバーは選挙したわけでもない上層部だけだということは、そうした引用には含まれません。また、形になった仏教の伝来は、538年(と習った)ですが、それ以前にもお釈迦様の思想は伝播していることも考えられます。格の高い神様がテーマを出す、それをその下の他の神様たちが協議するという形。メンバーの1人、我が皇御孫命というのは、読んで字のごとしの方。全くの独裁ではない、というスタイルです。全知全能、万能の神はいない、という前提を明示させ、命令も上意下達式で分業によってなされているということです。「豊葦原瑞穂の国を安国と平らけく領ろし召せ」という命令に、具体的にあがっている場所は、葦が豊かに生い茂る原といえば、広い沼地みたいなところ。稲もよく育つので、開発に適しているということです。単に開発してうちのものにしとけよというのじゃなく、「平和に」ということをいちいち言っているところがポイント。神様の中で、國中には荒ぶる神もいます。それを「問はす」わけですから、問答無用というわけではなかった、というところがちょっと民主主義です。それから「掃う」のであって殺したわけじゃあなさそうです。「はらう」という単語が何回も出てきて、いまは「掃う」「払う」「祓う」で漢字で書き分けていますが、もともとの日本語にわけて考えているわけじゃないでしょうから、よごれたものはおっぱらって清めるということです。個人的には、「ことといし いわねきねたち くさのかきはをも ことやめて」というフレーズが気に入っています。「ざわざわと(文句を言う)おしゃべりをしていた岩石や樹木や雑草もおしゃべりをやめ」というような意味です。しかし擬人化されているのではなく、実は人民そのものを例えているとしたら、・あらぶる神がいなくなって文句を言わなくなった・そこにいた神が追い払われたように自分もそうされたら怖いので押し黙った。と、どうも後者のような感じもします。開発に際して邪魔な人間を排除したわけですが、荒ぶりようが誰に対してでもということだったのか、ディベロッパーに対してのみだったのかが問題です。まあでも、あらぶる神は、侵略者との論争に負ける程度の頭脳の方だったのかもしれません。皆殺しにするために焼き払って、荒野を手に入れても意味がありません。やり方はどうあれ、あらぶる神以外のものの生命は保たれたということです。
2006年09月03日
知らなかったんだが、『蘭学事始』は杉田玄白翁が、師や同僚みな死に絶えた80歳過ぎに著した回顧録だった。小学校の教科書、NHK教育の社会科の番組、学研の学習漫画や『学習』の付録漫画で学んだ結果、記憶として、杉田玄白は前野良沢とともに、外国の学問が禁じられていた時代に、オランダ語の『ターヘルアナトミア』を翻訳して、日本初の完全な解剖書である『解体新書』を出したという功績のある人乏しい辞書しかなく、ターヘルアナトミアの翻訳中「鼻がフルヘッヘンドする」という記述の単語の意味解釈で、木を切ったあとや落ち葉を集めたらフルヘッヘンドするという辞書の記述から、フルヘッヘンドは「うずたかく」という意味であることに杉田玄白が気付いた。ということが「腑分」という単語とともに、刷り込まれていたのだが、そもそもターヘルアナトミアに「フルヘッヘンド」に相当する単語などなく、該当部分は別の単語が記されており、、青字の部分は史実と違うらしい。爺さんなんだから、記憶錯誤や生き残った者勝ちな自慢たらたら記述があるのもまあ仕方がない。何故そんな「勘違い書」なのに、史料的価値が高いものとして扱われてきているのか、という疑問に対し、驚くべき事情があった。 前野良沢―杉田玄白―大槻玄沢この師弟関係ラインが、明治以降の日本の歴史教育史上で、史実をねじまげてまで重視されているということについての長崎県立図書館副館長の論文。http://www.pref.nagasaki.jp/nichiran/ronbun/pdf/ronbun_06.pdf大槻玄沢は、かの『言海』の編纂者、大槻文彦の御祖父様である。文彦と兄の修二は、歴史教科書の編集にも関わっている。自分たちの「おじいさまの偉業」を称えるため、実際は解体新書の100年前に解剖の翻訳書があったこと、はるかに有能なオランダ通詞がいたことなどが、かき消されているという内容だった。つまり上記の赤字の部分も、教科書上にも明記してはいないけれど、そうと解釈してしまいそうなのだが、これは史実ではないというのだ。で、現代の教科書も、それを引き継いでいるということだ。歴史は強者が綴ったものというが、あからさまに意図的ではないか。この論文によると、事実は大槻玄沢のオランダ語の出来はイマイチだったらしいし。ものすごく有能だった「志筑忠雄」っていう人がいたことなんて知らんかったよ。日本史学科近代史専攻の人と長崎県民のマニアくらいしか知らないんじゃないかなぁ。『動詞』『代名詞』という訳語を作った人だったなんて。ほんとかよ。そりゃ教科書に大きくとりあげ、国民に認知させるべきじゃないか?しかし、冥王星のようなもので、一旦世間で認知されてしまった有名なものの地位を下げて、格上の別のものを登場させるのは、世間の抵抗が強いから、実現は難しいかもなぁ。
2006年09月02日
安倍さんが出馬表明。この人は、「失敗してもやりなおせる環境を作る」ということを言っていた。具体的には、どういう方策だろう。失敗して以降、何もしていなくてもとりあえず生きていけるような甘い環境をなくして、公的扶助を減らそうということもあるけどな。1つの具体的な夢のある人にとっては、その夢が適うこと以外は、どれも満足しないということで全く同じと思ってしまうものだ。例えるなら、ビールが飲みたいと思っている人に、それがないから麦茶を飲めといっても、飲みたいとは思わないだろう。同じ麦じゃないかといわれても、そうは思えない。麦茶なんかうまいとは思えないし、麦茶を飲んだとしてもビールに及ばないことばかり考えてしまう。ならば脱水症状寸前でも水をなめて、ビールが飲めるチャンスが来るのをまで待つ、「可能性」を持っていることが一番夢に近くいられる、と思ってしまうのだろう。何も飲んだことがない人、それしか飲んだことがない人というのが抱いている、「ビールはうまい、発泡酒はそれに及ばない、麦茶なんて問題外」という常識的な序列的価値観をぶちこわさなければ、別のものを選択させるのは難しい。麻生さんは「豊かさを実感できる国」。「でかい家を建ててもそこで家族と過ごす時間がないというようなことがないように」ということも含め、ということだそうだ。麻生さんらしい例を出すもんだなあ。いや・・・でかくないんですけど、家。と思ったけれど、いま住んでいる団地だって、立替前は当時アメリカ人がウサギ小屋と形容したとかいう、もっと狭くて夫婦+子2人とかで住んでいたんだし、相対的には豊かにはなってはいるんだよな。バブルの時代も含め、今はより便利なものでも安価に使えているというのに、「自分にはまだまだ足りない」と不足感がつきまとう人が多い。比較するときって、過去とではなく、現在の中で考えてしまうからだ。
2006年09月01日
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