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飲酒運転撲滅のための公共広告。強烈だった。地上波ではやってない。小学生くらいの男児が、刑務所の面会室を想像させる暗い部屋のあの穴の開いたアクリル板のむこうで、わんわん泣きじゃくりながら「おとうさんのせいだ。ぜんぶおとうさんのせいだ」と訴え続けるもの。「みんなおとうさんのせいだ。おとうさんのせいだ。」http://www.eiseihoso.org/pr/stop_drink06.html演技にしてはうますぎるような感じ。怖ぇえよー。
2006年11月30日
ノートパソコンがこわれました。バックアップがまだとっていないところがいっぱいあるので、ひじょーにこまっています。とりあえず、メールアドレスを保存しなければ。あああ。ばーかばーか。
2006年11月29日
イギリスって国は、けっこう親北なところでもあるらしい。「拉致被害者の遺骨は偽物とした日本の鑑定はあやしい、とイギリスのどこどこが発表」という記事も出てくるくらいだしね。そうはいっても、全面的に支持しているわけじゃあない。北朝鮮のダンスを踊る中学生の話。なまりがきつい韓国語のようにきこえる朝鮮語に、英字幕と日本語字幕がついている。字幕なので、とびとびにぼんやりとわかる朝鮮語が、日本語のほうが訳が近いところと、英語のほうが近いところとあった。成分がいい家族なんだろう。出場できることが決まった女子中学生が、毎日特訓を受け、帰宅した夕飯時には、電力制限で蝋燭で食事だというのに、「慣れているから」とみんな明るい。明日が初演という日、中学生が「みていただけるかしら。みていただけなかったら、とても残念だわ」というのに対して、「お忙しい方だからね。そうであっても仕方がないよ」という祖母。一糸乱れぬマスゲームを編集し、別の音楽をかぶせていた。最期の字幕は、黒い背景にそして1日2回公演、20日間続けられた。しかし、1度もあらわれることはなかった。というものだった。たぶん関心がないんでしょうね。じゃあ誰がそんな企画をしているんだろう。日本のワイドショーだったら、新興宗教の信者と同列に、体制側の国民まで頭おかしい人たちとして報道するところがあるんだけど、そこを切り離しているところが新鮮だった。国境付近ではデモもおきたとか。商売の制限をかけようとしたのが原因だけど、結局目をつぶることで沈静化。つーことは、案外崩壊は早いかも。あの人はまだ60代だけど、天寿をまっとうできるかどうかわからんなぁ。仮に他国の力によって変えられるとしても、象徴的存在としておかれることはないだろう。天皇制ほどの根拠がないから。ミサイル問題は、隣接する国民は「同じ民族に攻撃することは絶対にない」と楽観的に信じている人が多いらしいけど、軍事評論家の江畑さんはそんなこたあない、日本だって明治維新では同じ民族どうしが戦ったのだし、やつらは平気でそっちにも撃ってくるだろう、と言っている。地面から作物が効率よくとれない寒い地は貧しいからなんだけど、そういうところばかりが共産主義でいくのが失敗の原因の1つ。国際的問題としては、一般市民には知らされていない策が、関係各国にいろいろあって、もう取り決めくらいできているんだろうけど、ちゃんとその2000万人近い国民当事者の身の振り方を考えられているんだろうか。
2006年11月28日
職場の1つは、元社会党議員が設立したところである。何かと社会主義くさいものを感じる。「1人1人、みんなの努力で、よりよい環境を作ろう。」という精神は、義務の平等と権利の平等がいっしょでない時にうそくさくなる。無駄が多いということで、管理体制を締めている。予算がないからなんだけど、予算配分が間違っているともいえる。まあたぶんどこでもそうなんだろうけど。コピー数枚の無駄をねちねち注意されたりするので、面倒なので私費コピーすることが多い。「あらお金持ちね」なんていわれたりするが、準備が入念にできない性格なので、と言うしかない。数え間違いは自分のせいだと思うのだが、「プリント、忘れました」という学生に、「忘れるほうが悪い」といって放置して進めても、効果はまったくないので、「わざわざ10円払ってコピーしてきましたよ、ありがとうと言ってください」といって、罪悪感を煽るほうが、まだ効果的だと思ってやっている。準備万端な人ってのは、必要以上に準備万端にして、使い切れなかったコピーを大量発生させて、それを捨てるのがもったいないと思うからか、「よろしかったらお使い下さい」というコピーが渡してくるので、捨てる役割を押し付けられてメーワクである。どういう意図で何に使うかを書いてくれないと、わけがわからんものも多い。というようなケチな話ばかりの中、仕事を終えて外に出ると派手に電飾が設置されているところだった。でっかいクリスマスツリーを作って、並木道両側に昨年より更に派手になった発光ダイオードの電飾がぶらさがっている。新聞の地方版では話題になっているらしい。それをみて「わー、素敵ぃ」と年間160万円払ってくれる客が増えれば、そんなに高くない出費なのだろうけど。しかし、設立者の銅像の前に、つくりものの枝を刺した大きなツリーを作ることにどういう意味があるのだ。キリスト教に根ざした欧米の文化の上っ面を借りてきているだけ、主義に一貫性のないところが妙に腹立たしい。数十円の無駄コピーのことでケチをつけられた直後だったので、なんだかツリーに「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言われたような気分になった。
2006年11月27日
「必着」の締切の前々日に締切日に気が着いた。すぐにとりかかって、速達で送れば間に合うのだが、どういうわけか取り組めなかった。パソコンに向かって、ファイルをあければいいことなのだが、それができん。眠いし、だるいし、それをおしてまでやることができん。で、「いくらなんでもさすがに前日になれば、やる気になるだろう」と思い、翌日どうすべきかというプランを練って実行した。で、提出するところにわざわざ出向き、そこでパソコンを借りて印刷して、庶務課に行って、部署別に郵便物を配るところにいれてもらった。間に合った。(たぶん)いろいろ考えたり、不必要な移動をしている分、無駄が多いわな。
2006年11月26日
大量にもらった。毎日食べよう。しかし、多くても1日2個が限界。2個食べると翌日いらなくなってしまうので、1個消費というスピード。去年はしなびてしまったりんごが1個残って、ラップに包んで1年間保存していた。冷凍ではなく、冷蔵で。たしか谷川俊太郎だったかの短編にもそんな話があったな。林檎が朽ちていく様子をつづり、それに拘る夫に対し妻が抵抗する話。最期はどうたったかな。一時はわかれることまで考えたけれど、と妻がほっとするというオチだったような。ぶよぶよになっても、形は保っていたよ。昨日、軸を持ってもちあげてみたら、軸がちぎれて落っこちてつぶれ、床に茶色い液状にひろがったので、保存をやめることができた。シニフィアンとシニフィエの説明を思い出した。(いまだに調べないとどっちがどっちだったか混乱する)記号としての「りんご」は、食えるかどうかじゃなくて、色と形であるなぁ、と実感。
2006年11月25日
久しぶりに「師匠」の夢をみた。かなり弱っとるなー。師匠の家の近所のショッピングセンターで、師匠が長女であるお嬢さんをだっこしているというところに偶然出くわしたという設定。実際、お嬢さんはもうそんな年齢をとっくに越しているのだが。夢の中でも、あいかわらず直球は何もなげてくれなかったのだが、なんでもない会話を二言三言してくださるということだけで、えらく配慮していただけている御恩を感じた、というものだった。で、やっぱりすぐに姿を見失ってしまった。出会ったときは35歳だった師匠も、まもなく52歳。光陰矢のごとし。少年老いやすく学なりがたし・・・。あああ。不思議なことに、まる10年、生活をともにしている人の夢をみたことがないというか、そんな夢の記憶が、起きたときに残っていたことが一度もない。自分に子供がいる夢、孫がいる夢、男になっていて妻帯者になっている夢とかはみたことがあるのだが、現状に即したケッコンをしているという認識をしている夢は記憶にないのだ。夢でみなければ、頭が整理されないというような、わけわからないことがない、ということが1つ。日常はすべて、「そういうと思った」「やっぱりそうだったか」ということだらけ。もう1つは、とりたてて期待も不安もないということだ。こうだったらいいのになぁということとか、こんなことがあったら困るなあとかいうことがない。まさに夢がない、ということかしらん。夢がないことで不幸を感じているわけではないので、こういうのを平穏な生活であるというのか。でも、すべてがわかっているから問題が発生していないということではなく、問題の原因はよくわかっているけれど、どれも解決手段がないので、改善が図れていないというだけである。
2006年11月24日
秋口は毎年たいてい調子が悪い。今年はいいかと思ったら、寒くなるのが遅いからズレてやってきた。毎日微熱。からだだるーい。背中、いたーい。座って仕事。もう通勤もへろへろだもの。
2006年11月23日
某所で紹介されていました。有名みたい。言葉にできないhttp://www.youtube.com/watch?v=6M1yGndpz9sおだかずまさのメロディと画像をおたのしみください。(いくつかみたことがある写真もあった)
2006年11月22日
苗字が珍名だと、いざというときに判子がないと非常に困る。凡名だったら三文判が105円でも買えるし、人に借りたりすることもできるんだけど、それができない。小学生でもないのに、消しゴムで彫って使って怒られたりすることもある。凡名だと、こういう不便はないのだけどなぁ、と思ったことがあったのだが、別の不便もある。凡名の人が飛行機の予約をしたら、電話がかかってきた。「もしかして、複数の席を予約されました?」んなことはないのだけど、と答えると、まったく同姓同名の人が、同じ飛行機を予約しているということだった。そういう人は、パスポートナンバーと生年月日も知らせて登録しないと乗れないんだって。姓名ともにバリエーションの少ない韓国じゃあほとんどの人がその可能性があるけど、住民登録番号があるから、なんとかなっているんだろうね。初めて行った病院で凡名の診察券をもらい、「ドウメイアリ」という黄色いシールを貼られたことがある。ああ、こうやって注意してくれてるんだなぁと思ったが、よく考えたら自分より前の同姓同名の人はそのシールが貼ってあるわけがないので、初診以外も毎回チェックしてくれるんじゃなければ、先に来た人にとっては意味がないことだ。シールの習慣があるところで、シールがないと、かえってうっかりしやすいんじゃないか?それだけが理由じゃないけど、全体に動きがとろい病院だったので、1回こっきり。行くのをやめた。やっぱりさー、成人したら自分で自分に名前がつけられるようにするとか、結婚したら新しい苗字を2人で作成していいとかして、3つくらい名前があるように制度をかえてもいいよな。生年月日とかパスポートナンバーって、教えた人との関係はよくても、どこで盗まれて悪用されるかわからないから、なるべく知らせたくないよ。結婚の改姓が片側だけに負担があるってことがなくなる。成人して新しい名前を届けるときに、「国民年金の手続きをとれば、1ヶ月分無料」とかいうサービスでもやってみたらいいのだ。
2006年11月21日
最近、自分の「記憶力」が一般的なレベルより高いんじゃないかと思うようになった。といっても、得意なジャンルは「生活記憶」に限られていて、語学とかができるわけでもなし、ケンキューの問題はいまだにいちいち調べなければ思い出せないといった具合。また、自分が何をしたか・いったかは、ほとんど覚えていない。おそらく都合の悪いことは積極的に記憶から抹消しているからである。かつて時間・空間をともにした人々と会って、共有しているはずの記憶が強化されていくことを期待したのだが、ほとんど提供側に回る一方である。他の人々は記憶に残ることは、自分の趣味とか部活とか、「熱心にやったこと」なんだろう。どんな音楽をきいたかとか、誰かが好きだったとか、何か特別に深く詳しく知るジャンルを確立していて、それだけは今でも覚えているという感じみたいだ。ふりかえると、固有名詞が出てくるような趣味の持ち方はしてこなかった。どうもすべて「不可解」なことほどひっかかって記憶に残っているのは、どうしてそうなっているのか何度も考えたせいで記憶が強化されていたのであって、例えば授業のことでも、すいすいベンキョウができた中学時代のことは、内容まではあまり思い出せない。教師の提示の仕方がうまい下手、雑談の傾向などは覚えている。忘れかけた記憶を思い出して、「使っている」からである。使わないものは本当に忘れる。固有名詞は特に。この間、「ほらなんだっけ。民主党の代表だった…」「あー、小沢さん?」「じゃなくて、その前」「岡田さん?」「そのあと。もっと若くて。ほら、メール問題で消えちゃった人だけど」「あー。わかった」「なんだっけね。あの千葉の恥ずかしい人のとばっちりを受けたんだよね」「わかるわかる。誰だっけ」「郷ひろみに似てるとか言っちゃってさー」「そうそう。名前が出てこないや」「ま、いっか。一致したから。いつか思い出すわな、その人がね…」という超テキトーな話をしたあとで、数日後、交差点で信号待ちしていて急に思い出した。信号機の名前は「前原町」「まえはらじゃーん。下の名前、まったく思い出せないけど」と思わずクラクションを鳴らしそうになった。で、さっき調べてみたら、「前原誠司」っていうのがわかったが、「せいじ」だなんて最初から覚えていなかったので思い出せるわけがない。なお、千葉の恥ずかしい人というのは、永田元議員のこと。「永田寿康(ながた ひさやす)」こいつも下の名前、まるで覚えていなかった。政治家ってのはさー、世襲かどうかって、簡単な名前かどうかでわかるよね。継がせるつもりの親は、画数の少ない漢字、読みやすい漢字を選ぶよ。というか、継がせるつもりがなくても、変わった名前が選挙で得しないことはわかっているから、つけないんだろう。「一郎」とか「太郎」とか多すぎ。
2006年11月20日
Wikipedia:秀逸ピックアップhttp://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%A7%80%E9%80%B8%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97なんてのがあるのね。記事ピックアップhttp://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%A7%80%E9%80%B8%E3%81%AA%E8%A8%98%E4%BA%8B「鉛筆」なんて、もうつけたしようがないくらい詳しい。・・・小学生の硬筆の授業では4B~6Bを主に使用する。ええっ、いまそうなの?メディアコモンズにリンクhttp://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Pencils?uselang=jaなんか楽しい写真だ。wikiのおすすめ画像http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E7%94%BB%E5%83%8F
2006年11月19日
ミネラルウォーターを買う人は多いです。水は重いのが問題。買って持って帰るのも重いし、1.5リットルのペットボトルだと満タンに入っているときは注ぎにくいし。カラのペットボトルを大量に捨てるのも面倒くさいし、なんとなく全く汚れていないペットボトルってのは簡単に廃棄しにくくて、ついリサイクルに回そうと努力するから(それは良い事なんだろうけど)、家の中がいつもごろごろしていしまう。ウォーターサーバーは便利です。配達してもらえますし、ゴミも出ません。うちのは1本12リットル。1リットルあたり約100円で、サーバーレンタル料は1日あたり34円くらい。電気代は…どうなんだろう。湯沸しポットよりかかっているんだろうな。安売りのミネラルウォーターよりはちょっと高いけど、サーバーには熱いお湯と冷たい水の蛇口が2つあって、必要な温度がすぐに作れるし、買いに行く・捨てに行く時間と労力と気分のメンドーがありません。コーヒーだろうと玉露だろうと、カップラーメンだろうと、お湯が沸く間を待つ必要もない。うちのは天然ミネラルじゃなくて、成分調整して作った水だけど、水道水よりはるかにうまい。水を買って生活している人にはおすすめです。
2006年11月18日
小5の国語教科書にある『大造じいさんとガン』本文http://cert.shinshu-u.ac.jp/facul/gengo/horii/kokugo/daizou.html作品発表時:昭和16年(1941)(大造)じいさんは、七十二歳だというのに、こしひとつ曲がっていない、元気な老かりゅうどでした。いま72歳で腰が曲がっている人は少ないです。満年齢だとしたら、大造さんは、明治元年(1869)生まれだということです。その話の中に、今から三十五、六年も前、まだ栗野岳のふもとのぬま地に、ガンがさかんに来たころの、ガンがりの話もありました。わたしは、その折の話を土台として、この物語を書いてみました。ということは、一応フィクションなんですね。しかし、物語は大造じいさんが主人公。半分ノンフィクションということでしょう。「今」から35~36年前、というと、1906-7年頃、日露戦争のあと、明治39~40年です。明治39年は、本田宗一郎と朝永振一郎と坂口安吾のお母さんなどがまだ妊婦で「女の子だったら将来夫を食ってしまうかもしれない」と心配させた丙午です。愛新覚羅溥儀も生まれています。日本社会党ができたり、南満州鉄道ができたりして、夏目漱石が「坊ちゃん」とか「草枕」とかを発表して、翌年は、戦後恐慌で不景気になり、足尾銅山でもめて、義務教育が6年になって、湯川英樹と亀井勝一郎と高見順と山岡荘八と火野葦平と中原中也と井上靖と淡谷のり子と東野英治郎と三木元首相が生まれた年です。(こいつら同い年だったのか。活躍時期がばらばらでわからねー)1980年の教室では、「今から74~75年前の舞台を読め」というようなものです。10歳児の理解の限界ぎりぎり・・・いや超えています。2006年現在光村図書の教科書を読む日本の7割の10歳児にとっては、まさに100年前の世界。大造じいさんは、このぬま地をかり場にしていたが、いつごろからか、この残雪が来るようになってから、一羽のガンも手に入れることができなくなったので、いまいましく思っていました。いや、「大造さん」でしょう。だって35~36年前なんだから。つまり36~37歳だったということです。かりゅうどだけど、数年来ガンはとってなかったということなんですね。いのししとかとっていたんでしょうか。どうやって生計をたてていたのか。ガンはうまいんでしょうか。「がんもどき」と名づけられる食品があるくらいだからうまいんでしょうね。冬にわたってくるトリだから、脂がのっているんでしょうか。この物語を「読む」方法はいっぱいありますねー。
2006年11月17日
志村けん オフィシャル ホームページhttp://www.ken-shimura.com/index.phpブログの文体は意外な感じです。ウケをねらったりオチをつけたり、ってのはほとんどない。いわゆるトークはうまくないんですよね、ドリフの人々。練ったコントをアドリブ風にやるのはうまかった。でもアドリブっぽくみえていたのも計算のうち。芸人なんて、それでいいと思うんですがねぇ。素顔のことばが上手に聞こえるかどうかなんて、観衆には関係ないでしょ。志村けんはケイタイで入力、スタッフがブログにアップしているということらしい。ケイタイでブログを書く人って、画面が小さいからかメモ用紙みたいな感じになる。飾らないというかまとめないというか、起承転結の文章にしようとか気にしなくて、本当の日記みたいになる人が多いと思う。(中高校生の「わたしゎぁりまス(ワラ…」みたいなのも、他人が読んだら意味不明。)媒体によって、オーディエンスデザインが変わる。アコモデーション(相手によって変わる話し方)って、書いたものでも起こることなんだな。
2006年11月16日
学生の健康診断で、係の人の丁寧な日本語を、学生のわかる既習の日本語に「通訳」するためについていった。以前、健康診断を合否の身体検査と勘違いしたのがいて、「今日は調子が悪いでした。また受けたいです」と言うのがいたので、そういうもんじゃあないことを説明。そして何をやるのかだいたい説明していって、「血圧」のところで何を勘違いしたのか、「痛い嫌いです。こわいです」というのがいて、採血じゃあないと身振り手振りで説明。「検尿があります」ということは、漢字で書いて説明したのだが、うっかりしていた。漢字のわからない人が2人トイレにいってしまい、「先生、ありません」と焦っていた。「少しでいいです。だめですか」「少しもありません。だめです。水のみます。水をください」というので水を買ってやって、15分後、どうにか辻褄をあわせた。中国人男子は、韓国人男子をゆびさし、「このひと、とてもたくさんいれました。少しじゃない」と大笑い。うんこしっこの話はどこの国でも盛り上がる。今までどの学生も「問題なし」だったのだが、今回2人の学生がひっかかった。2人とも「高血圧」。まだ20歳前後だというのに。男子は以前、ポテトフライの山盛りに塩をぱかぱか振って食べているのを見たことがある。酒も飲むし、二日酔いでくるし、そら高血圧になるわな。「塩分過多・酒たくさん→高血圧」と黒板に書いて、「この(高血圧)人は早く死にます」と説明してやった。日本語が不足しているので、いいかたが直球になる。女子のほうは「別室で指導を」となった。これも高血圧の原因が明らか。同時に高脂肪の疑い。体重がとても多い。体脂肪を測ることになったのだけど、「44.8%」という数字の意味がわからず。当然のことながら、BMIも「これは何ですか」身長と体重の比率みたいなものだと教えてみたが、まったく関心がなさそう。係の人が、図解つきのパンフレットをみせながら「健康に気遣って再検査の日まで過ごすようにしてみては…」と遠まわしにいう。そんな言い方ではわからんので、これを「ダイエットしたほうがいいです」と直球で言い換えてやる。係の人はあわてて、「まあ。そ、そうなんですけど」と言う横で、本人ものすごーく納得しない表情。「私は赤ちゃんときから重い。私のおじいさんもとても重い。だから今も重い。しかたがありませんっ」と堂々と開き直っていう。「スポーツをする時間がありません。毎日勉強しますから」とかまで。毎日家で中華料理作ったりおやつ買いに行ったりする時間があるくせに。どうやったら痩せられるか。少しでも効果がありそうな方法を考えた。1年前来日して、かなり日本語が上手になっている、彼女と同居している親戚の子をみかけたんで、「あれ?最近太ったね」と言ってやった。この子は微妙に太ってきているけれど、まったく標準体重の範囲。短いスカートをはいたり、かなりおしゃれさんである。「えー。わかりますか。実はそうなんです」「おねえさんに毎日おいしいもの作ってもらってるんでしょ」「はいー。とても料理が上手なんです」「やっぱりね。太っている人といっしょにいると、ついたくさん食べちゃうよね」「う・・・」「実はね、今日おねえさんが健康診断で血圧が高すぎるって言われたの。いまの生活をかえないと病気になってしまうかもしれないの」「え、生活って」「食べることと、運動すること」「そんな、私、いえません」「そりゃそうだよね。太っているおねえさんに「太っているねぇ」とはいえないよね。でもね、あなたも確実に太ってきている。半年前より顔がまるいよ。このままにしているとあなたも同じくらい太るよ。親戚だから遺伝しているかもしれないし」「やばー」「そう。やばいの。1日1時間歩いて。それからいま食べている量を減らして。特に脂。じゃないとどんどん太るよ」「うー。どうしよう」「おねえさんはおねえさんでいいとしても、あなた自分も太ってもいいの?」「いやです」「じゃあ考えないとね。いい方法を」と言っておいたら、「夜は野菜スープにする、二人で毎日30分散歩する」ということを決めたらしい。毎日みられる人がみていれば、たぶん少しはなんとかなるはずだ。男子学生のほうは、昨日の飲み会では珍しくジュースを飲んでいたらしい。命にかかわるとなれば、必死。来週の再検査でやるきなる程度に改善されているといいな。
2006年11月15日
忘れ物ってめったにしません。というか、忘れていることを思い出さないからです。忘れたことにしないというのもあります。はじめからいらないと思って置いてきたのだ、と思い込もうとし、それが成功します。・携帯電話は重いから持ってこなかった。・財布のお金は帰りにおろすつもりだったからぎりぎりしかいれていなかった。・かさは雨が降ったときに買うつもりだった・ハンカチを洗ってアイロンをかけるのは明日は面倒になるから、今日はすべてティッシュで代用するつもりだった。などなど。忘れ物をしやすい人がいます。毎朝「ケイタイ・鍵・財布」と3つ言ってやらないと、何か忘れます。最近、自分でいう癖がついてきたのですが、それでもまだ安心できません。今朝は、「電話・財布・ケイタイ」と言ってでかけ、しばらくして「鍵、忘れた」と戻ってきました。これが鍵だから車に乗る前に気がついたのですが、財布だったらそのまんまでしたね。ケイタイと電話は同じものです。
2006年11月14日
オーラ・ソーマ・リーディングhttp://white-love.jp/13.htmというのがあります。結果を部分抜粋~。 ■あなたの本質を示します深い叡智を持つあなたは、たとえ教師の職にないとしても、人々に対して、教師的な役割を担っていくでしょう。強く、ポジティブなパワーを放ち、周囲を明るい方向へと導くことができます。 ■あなたの過去と乗り越えるべき課題を示しますコミュニケーションに難が生じがち。自分が知的であり、物知りで、物事をよくわかっている、ということを人に押し付けがましく説明しすぎる傾向があり、他人に不快感や不信感を与えてしまうことが。 ■現在の状態と気づきを示します自分への信頼と、神なる存在への信仰心が一体化していきます。自分の生きる道、ライフワークについて真剣に考えていくときです。 ■現在の状態からどう変わっていくか、未来の可能性を示します記憶力、識別能力が優れているため、何か問題が起きても、過去の引き出しからベストな方法論を探し出し、対処することができます。宇宙のルールを知っているあなたは、迷わず真実を追究していくことができるのです。 感想:占い師になって一儲けしてぇなぁ~。 (さあ!これをやってみたあなた、結果をコメント欄に書きましょう。)
2006年11月13日
野球選手は日本語がうまくならない。一方、相撲取りは日本語がうまい。相撲取りはイマージョン教育のように日本語に浸って暮らすから。日本語だけでなく日本文化を吸収しようとするから。というのが早稲田の先生の本にあった。あれから数年。そっからの進歩があまりないと聞いて、そうかもなと思った。思いつきはすばらしい。つっこんでいくと、原因はそれだけじゃあないことがわかってくる。「中田はイタリア語ばかりか英語もうまくなった。なのに新庄は英語が話せない。どうしてだ」という事実から、サッカーと野球の違いは論じられない。進学校の韮崎高校でトップクラスだった中田は語学が堪能。いっぽうぼごであるにほんごすらぜんぶひらがなでしゃべってそうなしんじょうくんは、英語は話せない。ということに気づいてしまう。賢い人は話せるようになる。というのは、なぜそこで言葉を習得したほうが最終的に得になることが、頭で考えてわかるので、モチベーションが高い。そういうことだ。通訳が無条件に信用できるものでないことも頭がよければ気がつく。いくら信頼できる他人がいたとしても、脳みそまで預けてしまうことの危険性を知っていて、本当に不自由になってしまう状態を回避しようと考えられるのだと思う。聞く・話すだけなら、知性はあまり関係ない。(読み書きはかなり関係があると思う)おそらく新庄くんでも、江戸時代に漂流してあほうどりを捕まえて生きながらえているところに米国船に拾われていたなら、あっというまに船乗り英語を喋れるようになっただろう。(でもたぶん文章は書けない)そんな漂流民シンジョウをみて、すべての英語人が「こいつは言葉がうまいなぁ」と思うかどうかはまた別。ボビーオロゴンとケントギルバート、どっちが日本語がうまいかというようなもの。関連して、ディスカバリーチャンネルで、外国人力士のことをやっているのをみた。こういうのが見られるのはCSのよいところ。日本人の視点で日本文化をみる番組は、どうも「一般的に好まれるスタイル」を志向しているので、微妙に右傾左傾があっても、結局どれも似たようなしめくくりになるのでつまらん。アメリカ人が取材しているのだろう。たぶん通訳も発音に特徴のある日本語なのだと思う。日本人の親方までがすっかりフォリナーズトーク。身振り手振りがはげしく、不自然にシンプルな単文が続き、繰り返しが多かったりする。小錦・曙・武蔵丸・東関親方、みんな英語がうまい、と思ってしまった。あたりまえなのに。主人公は病気で廃業してしまったハワイ人のおすもうさん。将来かなり有望だったらしいのだが、膵臓を悪くして幕下10枚目でやめた。「彼がいてくれたら」と曙たちはいう。日本語だけではなく、日本文化も吸収したすばらしい人物だと。小錦の登場は、早すぎた。と番組のナレーションはいう。体格だけでなくスピーディーなワザがあるというのに、観客はそう気づこうとしなかった。すもうとりになることは、日本人になること。現在は日本語ができない力士は合格しないようにした、ということを番組は批判的な口調で言っていた。(ほんとうに小錦以来そんなルールに変わったんだろうか?)しかし力士の彼らは、閉鎖的な業界を非難するんではなく、相撲には優雅な美があるのだ、といっている。掌に武器をもたないことを証明するために拍手をうつ。そのときの腕の動きは優美だ。勝っても相手のことを考え、派手に喜ばない。負けても精一杯のことをしたのだから悔しがらない。そこが相撲の美だと。相撲があったからすばらしい人生になった。そうでなければハワイでろくでなしになっていただろうとまでいう。愛する相撲が広まることは嬉しいこと。柔道のように世界で競技ができたらいいと思うのだが、いっぽうで美と一体化した相撲とは別のものになることを感じている。日本の相撲と世界でできる相撲とは別物だ、という考えをもっている。それでいいのだ、と。廃業した力士は、現在アマチュア相撲の指導員をしている。
2006年11月12日
ポッキーの日。だからプリッツを買った。気まぐれで。こういうものを買うのは何年ぶりだろう。・・・しかしあんまりうまいものではなかった。それで職場に持っていって、みなさんのおやつにした。
2006年11月11日
またためちゃった。白い日を埋める作業にはいります。今日は起きたら8時でした。「しまった、また知らないうちに出勤されてしまった」と思い、ケーブルテレビをみて、妙に腹が減っているから朝飯でも食おうと思ってワイドショーにしようとしたらなくて、なんと夜の8時だということにやっと気づきました。よくみたら、外が暗い。こんなに寝られてしまったのは風邪気味なせいか。
2006年11月10日
価格は売り手からしたら上げられるだけ上がっていたほうがいい。ということは、買い手からしたら下がれば下がるほどいいのかというと、・・・そういうわけじゃあない。と思う。安ければ安物として粗末に扱いがちになる。高ければ価値も高いものだと信じやすい。価値が価格をきめるのではなく、価格が価値をきめたりすることもよくある。価値なんて、ほんとうはわからないのだから。おまけのサービスっていうのは、すればするほど、受け手の方にしてみれば、「してくれるのが当たり前」になってしまって、サービスの価値はなくなっていく。「おまけ」というのは、希少価値がないと効果がない。主婦の家事労働もそうなんだろうけど、補習とか交換留学とか、基本料金で義務でないボランティアのサービスが前提としてとらえられてしまうと、価格がゼロであるものにも関わらず、文句をいう人がでる。「あてにしていたのに」となる。お金が関わることであれば、それが代金とみあったものであるかということが争点になる。みあっていないということが了解できたら代金を返還すればいいのだ。しかし、お金があまりかからないものは、“「俺様」の価値を下落させようとする「おまえ」”に対して不満が出て、そこで争うことになる。責任はおまえにあると思ったから信頼したのに、おまえの無責任のせいで不利益を蒙った。期待を裏切られて傷ついた気持ちと不利益、この両方について責任をとれ、となる。どうやって?代金の返還があれば謝ればすむ。お金が関係ないとなれば謝ったってなかなか許してくれるもんではない。「責任をとれないのなら「実は騙しました」と正直に認めろ」と悪意をぶつけてきたりする。“「おまえ」の価値が下がれば相対的に「俺様」の価値が上がるのだ”と信じているのだろう。特にありがたいと思っていないことでは、誰も感謝はしない。「人の痛みがわからない人」というのは、自分が痛くないからわからないのである。同じ立場になったらどう思うかという想像力が欠如しているという人もいるし、同じ立場になってもそこまで痛みを感じない人と両方あると思うが、「痛みのわからない人は感謝を知らない」というのは、そういう傾向もあるといえるかもしれん。自分が負担を全く感じないことだと、ありがたみって感じにくい。逆にいうと、負担を負えば、ありがたみも感じやすいのだ。だから多額のお金を手放すという痛みがある人は、ちょっとしたことでも感謝が発生しやすい。
2006年11月09日
アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall、1842年7月26日 - 1924年7月13日)は、イギリスの大経済学者。新古典派の経済学を代表する研究者。ケンブリッジ大学教授をつとめ、ケンブリッジ学派と呼ばれる学派を形成した。同大学の経済学科の独立にも尽力した。主著は、『経済学原理』("Principles of Economics",1890年)。ジョン・メイナード・ケインズやアーサー・セシル・ピグーを育てたことでも知られる。(wikiより)文法は名のとおり、法学に近いジャンル。法則を考え、法則の組み合わせを考え、法則の組み合わせでの優先順位を考える。で、経済ってのは、案外語用論に近いんじゃないかと思い始めた。経済は「貨幣での交換」、語用論は「言語での交換」。つまり人が社会的活動としてやっている「交換」について扱うわけでしょう。交換しているうちに、「価値」は変動するし、「利益」が問題になるわけだし。要求の仕方、要求の解釈、要求に対する答え方…という戦略は、経済学のほうになんかヒントがありそう。とはいえ、経済学は高校の現代社会レベルの手前で止まっていて、さっぱりわからん。唯一知っていることは、「需要供給曲線」だ。供給<需要ならば価格は上がり、需要<供給ならば価格が下がる。縦軸が価格、横軸が供給量で、曲線のぶつかったところが均衡価格になる。「敬語使用による不満」の問題でいえば、縦軸が「聞き手が話し手に期待する敬語使用度」で横軸が「話し手が使用する敬語」で、ぞんざいでなく慇懃無礼でないほどよい敬語というのは、曲線の交わるところという感じ?(しかしお読みいただけますでしょうかお読み下さい読んでください読んで読め読みやがれこれは1列に並んでいるものと考えていいんだろうか?(いやよくないだろう)まだこのあたりの整理ができていない。)市場全体では曲線になるんだろうけど、ひとつひとつの取引に関しては、価格は直線。横まっすぐ。単品では、コントロール可能なのは、供給だけだったりする。聞き手の要求ってのは、人によっては違うけれど、一個人としてはあまり変化しないものだ。話し手のほうが、コントロール可能なのだから、話し手が相手にあわせてやる必要がある。これを怠ると、プライドが傷つけられて怒ったり悲しんだりする人が出てくるのだ。世間で問題になる言語の問題って、経済学ってより経営学とか商学っぽいのか。(このジャンルの違いすらよくわかっていないんだけど。)
2006年11月08日
今週は「国語力の低下」と題しまして…「マニュアル敬語」について。ゲストは知らない人だった。女性。民間でことばの指導をしている人なのか、コールセンターのマニュアル敬語とかに詳しいということだった。(どの程度どう詳しいのか不明)案の定「マニュアル敬語はいかん、美しい敬語を使うべき」「ことばだけでなく、笑顔も必要」「尊敬していれば、自然に出てくるのが敬語だ」「マニュアルに頼らず、自分のことばで喋るべき」というおたよりばーっかり。「自然に敬語が出る」なんて環境とか場面とか相手とか、非常に限定されているだろう。日常生活で「自然に」敬語が出る相手を想像すれば、一方的に支配的な態度をとってくる人は除外されるはずだ。ここは敬語を使っておかねば、という義務感で使う敬語に尊敬の念はない。敬語はどうして美しいのですか。美しいと感じる理由はなんですか。・・・ということからつっこんでほしいのだが、そこはスルー。「敬語によって効率化・経済性が高まる」というあたりは、おもしろかったのだが、具体例としてあげられるのが、WH疑問でなくYES・NO疑問であるほうが客は答えやすいとか、敬語と関係ない話に繋がってしまっていったのが残念だ。ゲストいわく、マニュアル敬語の指導でも航空会社とかホテルは違う。航空会社は一期一会としてお客様に接するように指導している。(JALがそう指導しているということはお勤めの人から聞いているが。)しかし業界のマニュアル敬語の指導力が優れているかどうかの問題ではないだろう。いらつくマニュアル敬語を使っている層というのには、「どんな言葉遣いをしても腹が立つ」という層である、ということだ。「尊敬してもらってる感じが全くしない」のに、「使っている本人がそこに疑問を感じていない」ということに腹を立てているわけだが、仮にこれがマニュアル敬語すらなかったら、「あからさまに失礼な態度」になって、客はわかりやすく腹を立てるだけになる。「敬語は敬意のあらわれである」という信念はかなり浸透しているのだが、これにのっかれば相手に敬意を示せる余裕のある層と、そうでない層があるということである。つまり、自分にも敬意を示してもらえる人たちは、相手にも敬意を示すことができるが、自分に敬意が払われることがない人たちは、相手に敬意を示すということの意味が実感として理解できないのだ。飛行機とかホテルとかは、客側のほうがわざわざ高い金を払って、非日常な空間での長い時間を買うものである。非日常であることを楽しもうとする意欲のある人と、非日常の不便さを少しでも快適にしたいという心配性の人がほとんどなわけだから、待遇してくれる相手に対して、敬意を示す人も多いということになる。経済活動の上下関係で「金を払うほうが上」と思っていても、下であるはずの相手の空間的なわばりに拘束され、しかもそこのルールに長時間従わなければならない。客からの苦情が目立つ業界であるが、苦情の言い方だって工夫する客が多いだろうし、何事もトラブルがないというだけで「感謝」を示す客もいる業界だ。短時間の対応しかないマクドナルドで、感謝を示す客なんてごく少数だろう。受け取って自分で運んでいるシェークを落として、床にぶちまげちゃって申し訳ないと思っているところに、にこにこと掃除をしてくれて、しかも無料で新しいものを持ってきてくれた…というくらいの異常事態が発生した人しか、感謝を示すことはないだろう。それだって100円程度の感謝である。日常の習慣を、経済活動の上下関係にあてはめようとする場合、回っているお金が安ければ安いほど、「金を払う自分が上」と思わせてしまうことになるんじゃないだろうか。ということを、ちょっと思ったのだが、考えをまとめてから今度書く。
2006年11月07日
今週は「国語力の低下」と題したテーマでお送りしています。NHK第一放送の夕方の番組。ゲストは、「今日はわざわざ大阪からお越しいただきましてありがとうございます。長年若者言葉の研究をなさっている…」という某外大の先生。それ専門なわけじゃーないんだけどな。「ではおたより、お読みします」と、司会。内容は、最近のヤバいという言葉の使い方は、本来の使い方から外れ、なんでもかんでも使用している。我々の時代とのジェネレーションギャップを感じる。国語力が貧弱になっているせいではないか。・・・という22歳男性さん。予想どおり、先生は否定的なその意見に同調するわけじゃあないのだが、聞いていて、あまりにも物たりんぬるい回答で、運転中なのに眠くなりそうになった。つっこみどころとして、・意見をいっている人自身、若者であるということ。・では本来の使い方というのは、いつごろのどういう使い方があるか。・つまり「ヤバイ」という語の、発生の時期、使用者はどういうものだったか。など、いろいろありそうだが、せっかく専門家ならいえそうな具体的な理由を、もっと世間が追いつける形で説明できんのかい。NHK的にムリなんかな。
2006年11月06日
ナニーというのはベビーシッターみたいなもの。どえれぇ番組があるもんだ。CSのLALAチャンネルで放映中「SUPER NUNNY」イギリスで大人気番組だったらしい。その理由もわかった。要するにだ、「劇的ビフォーアフター」や「ビューティーコロシアム」や「愛の貧乏脱出大作戦」のような番組。家や店じゃなくて、子供の躾がテーマ。ぐいぐい引き込まれるのは、これらの番組の「達人」や「先生」的役割にあるナニーのジョー(単独)の貫禄ある態度と、たちまち良い子に変化する子供と笑顔の家庭…というより、「以前のめちゃくちゃっぷり」が、おいおいほんとにこんなヤツがいるのか。これでノンフィクションなのかよ、という感じで、のぞき根性を満足させるところにある。どの番組も、結果的にみれば、普通の家だし普通の店だし普通の家庭なのだが、落差がすごい。なんつーか固唾を呑んでみてしまう番組である。「やらせ」的な面もあるだろうが、子供と動物ってのはそこまで演技はできないから、かなりリアリティがある。「変らなくてはいけないのはあなた自身なの」というのが親への殺し文句なあたり、ビフォアフよりBCや愛貧のほうがかなり近い。・ぜったいに体罰を与えない・子供と目線の高さをあわせ、毅然とした態度でルールを説明する・ルールを破ったら、所定の反省スペースに年齢×分間座らせる。・謝ったら許す・ナニーといっしょに指導されながらうまくいく。・ナニーがいなくなって、言われたことを守っていないもんだから、たちまち元の木阿弥に・再指導・うまくいく(ああやっぱり愛貧の「抜き打ちチェック」的だ)どの家庭にいってもこのパターンなのだが、それでもまあどこでも万能なナニーの指導法、すげーよ。番組に出てくるイギリスのお宅はどこも広くてきれいだ。たまたまなんだろうか。アメリカは真似番組作ったらしいけど、日本ではできない番組だねぇ。もともとここまで荒れ狂った子供って、あまりみかけないし。なんでこんなに違うんだろう。
2006年11月05日
「行きたいところベスト20」というと、一般にヒトが行きたいと思うところ。「読みたい本」というと、ヒトが読みたい本。「~したい+名詞」とだけあると、ふつうは人気順という意味になる。「浮気したい男ナンバーワン。それは俺」という同級生。「だれがそんなことを言っている、どこの調査だ?」といっせいにツッコミをいれる同級生たち。しかし、本人堂々と「俺」というのは、「他の誰よりも、俺は浮気がしたいんだ」ということなのだそうだ。そうか。そういう使い方があったか。「はばたく蝶」は蝶がはばたく。「飲む薬」は薬の中で塗ったり貼ったりするんじゃなくて、その薬を飲むものということ。 動詞+名詞。「が」か「を」だわなぁ。でも「痩せる本」って、本が痩せるわけじゃない。本には痩せるものと太るものがあるとかでもない。本で痩せる?「本(のとおり実行すれば)痩せる」というやつだ。これは誰かのねただったはずだが、だれがどういう類例をみつけてどこで論じていたか、まーったく思い出せない。
2006年11月04日
先週だったか、駅前でコスプレ小学生の集団にあった。親もつきそっていたけど。ぴらぴらの光沢のある布でできていて、オレンジとか黒とか、魔女っぽいかっこうとかいろいろ。ハロウィンなんだね。かばんをもっていたよ。なんかおかしとか入ってるの。たぶんやつらは英語でいうんだろうね。「トリックオアトリート」って。つーか英語だという意識じゃなく、「こういうと、お菓子がもらえるんだよ」という呪文として教えてそうだ。(アメリカ人の子供であっても初めてきいたときは呪文だろう。篭目篭目とかと同じようなもんだ)「お菓子をくれなきゃいたずらしちゃうぞ」と訳されることが多かったけど、たぶんそんな日本語にはしない。だってそんなの「出すもの出さねーと何するかわかんねーぞ」「やられてぇか、それとも丁重に遇してくれるか、二つに一つだ。選べよ」といっているのと同じく恐喝だもの。こんな時代にそんなことをわかりやすく言ったら、教育上よくないってことになって、イベント自体に非難がきそうでしょう。せっかくきれいなべべ着て、“みんなで楽しもう”というときに、そ~んな非難されてへこんだりしたらブルーだしぃ、やはり本場らしく英語で言うのがかっこいいし、ってことになってそう。で、お祭りなのか、これは。イースターよりもっとわからん。「ハロウィンってなに?」ときかれたら、ふつうの親はなんてこたえているんだろう。「ハロウィンはね、かぼちゃとか並べて、魔女とかのかっこうをする子供のおまつりだよ。外国ではどこでもやってるんだけど、おかあさんの子供のころはこういう楽しいおまつりはなかったなぁ」とか「ハロウィンはオレンジと黒、クリスマスは赤と緑と白。」とかいうのかな。ハロウィン反対!!! といってもぐずぐずに広まるに違いないのだが。反対の理由:年末年始までのイベントの連続がさらに長くなるから。年の瀬を感じる時間(焦って仕事をしあげなければならなくなる)が長くなりすぎる。
2006年11月03日
かいものしているとなんどもきく曲「三陸産のウニに涙したい」http://blog.goo.ne.jp/maruman-man/e/2dd983ca3029bff7bac7e738245c72ceディズニーランドで涙したい六本木ヒルズでも涙したい東京タワーで涙したい渋谷の交差点で涙したい秋田の地鶏に涙したい箱根の温泉でも涙したい札幌の雪に涙したい三陸産のウニに涙したい歌詞・タイトルを知るまで、「ナニカしたい!ナニカしたい!」と言っているのかと思っていた。地鶏にナニカしたいって、なにするんだ。と細かいことまでは気づかなかった。コミックソングじゃなかった。残念だ。
2006年11月02日
ひさしぶりに大ヒットな短編漫画を読んだ。と思ったら、2002年の再録だった。http://www5b.biglobe.ne.jp/~kaikyoko/index13_copy3.htmlの一番下いま売っているのは『ご近所の怖い噂』だ。すげー恥ずかしいタイトル。というかこの手の漫画って裏表紙がおもいっきりえろい広告なんで、レジにもっていくのは少し勇気がいるかもしれないのだが、知っている人がみていなければどうでもいい。この作者は、漫画家は「コンスタントに単行本も出している人」をいい、単行本もあまり出ないでただ漫画をかいている自分は「漫画描き」という謙虚な位置づけをしているが、大手出版社に所属する漫画家よりすごいよ。これは。肩書きのない人の面白い論文を読んだような気分だ。ということは、3割増の上げ底な偏見贔屓目があるかもしれんけど。自殺を考えた主婦がサラリーマンと偶然出会う。喫茶店、道々、ファミリーレストランで、なぜ死にたいと思ったかを告白する。・・・うまく説明できんな。40ページ。どんでん返しがあるなかでも、リアリティのある話だった。男女が出会えば簡単に不倫して有頂天になったらしっぺがえしが来るというのがこの手のまくらぼん漫画(A5の厚手サイズなので枕にちょうどいい)によくあるパターンなのだが、えろ一切なし。絵がなぁ…。というところなんだろうな。漫画家になれるか、漫画描きでいるかは。丁寧だし、デッサンも狂っていないし、かなり達者なほうなんだけど、不気味なストーリーに合った表情は、単行本買ってまで読みたいという読者自体、あまりいないのだろう。残念だなぁ。再録漫画だと気づきやすいポイントは「携帯電話の有無」特に中年が主役の漫画の場合、3年前なら持っていないというのもアリ、今なら特別な設定でもしないかぎりムリ。2002年の漫画なので、本当はそこで気づきそうなのだけど、携帯電話の有無が関わる設定ではないので、気づきにくかった。いまは連絡がつかないのは相手の方が拒絶しているからであって、偶然は作用しない。不便な時代よのぉ。まくら本漫画で、不倫がばれる原因となる小道具は、長い毛髪や香水ではなく今は着信履歴。というかまずそこから疑うところで始まる。昔は、マッチ箱のお店の名前だったのに、いまマッチ自体、あまりみかけないよねぇ。しかしフィクションとはいえ、不倫をする人ってうかつですね。うかつな人だからしちゃえるんでしょうけど。
2006年11月01日
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