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注意深くきくと「つくえ」の発音は、日本人でも結構個人差があるなぁと思う。実りのない練習を繰り返しているおかげで、かつてマスターした「韓国人なまりの日本語」に続いて、「アメリカ人なまりの日本語」「中国人なまりの日本語」を発音できるようになった。が、披露するところがあまりない。うっかりすると、笑点のたい平さんの「バカたれスケベ社長」として受け取られてしまうからだ。絶対的に優位に立っている人間が、下層のものを嗤うという図になってしまう。特に、「私は○○人です」「わからない」「これは机です」「あした、授業、行きません」「コンピュータの会社で働きたいです」この5つのセンテンスは、母語によって3カ国で顕著に違いが出る。アクセントや子音の違いはわりと気付きやすいけれども、「(つ)くえ」「(わから)ない」「(はたらき)たい」など、連母音になっているところが、特徴を際立たせるためには意外と重要なポイント。母音「あいうえお」は、日本人の場合鼻音でもないのに鼻をつまむと違う発音になる。ほら、やってみて。ね、そうでしょう。人によって、全部鼻づまり音になったり、一部だけなったり、いろいろだと思うけど。つまり、いくぶん鼻に息がもれているということです。でも中国人なまりの「あいうえお」をやると、鼻をつまんでも変化がない。全然鼻に抜けていかないのです。アメリカ人っぽくするときは、I way oh のように、単母音の発音にはしない。もともと、似顔絵、紙切り、超ローカルな物まねは得意なほうだと思う。ごく内輪のお座敷芸として、けっこううける。練習は別にしているつもりはないけど、知らずにやっているかもしれない。普通に直接話法で会話を再現しても、なぜか物まねになっている、という具合。自分が絵がとびきりうまいわけではないことは、ゆっくり描いてみても、代わり映えしないどころか、むしろ勢いがなくて下手になることからわかる。美術部に通算10年所属したが、絵画で何がまずいかというと、塗り絵が下手なこと。どうも丁寧にできない。たぶん練習が足りていないからだと思うが、そんな練習をするのは苦痛でしかない。そして色使いのセンスがイマイチ。まれにまぐれあたりすることはあっても、どうもやぼったくなる。(だから服を買うのも嫌いなのだ)で、気付いた。単に、そのものの特徴をとらえ、印象から再現するのが得意なだけであるということだ。特技があるのはいいことかもしれないが、笑いをとる以外に何も役に立たないし、やりすぎると相手を怒らせることもある。パロディとかデフォルメとかって、嫌いな人は嫌いなジャンルだ。「下品だ」という評価でののしられる。偽物に対するおかしさっていうのは、「これはホンモノではない」という前提に立っているから生まれるんだと思う。もともとホンモノを知らない人だと、ホンモノと偽物の区別がつかないので、何がおかしいのかわからないし、ホンモノだという前提に立ってしまう人は、騙されているような感じがしていやなのだろう。パロディやデフォルメの題材となっているものは、ステレオタイプな像である。そんなごく一部分を誇張したものを、まるで事実であるかのように扱うのは、許せないんだろうなぁ。パロディやデフォルメをおもしろがる人間からみれば、堅物だなぁと思うのだが。自分が思っているイメージと異なった形が、他の人たちからステレオタイプとみなされていることもいらだたせるのだろう。ほめられようが、けなされようが売れてなんぼの公人は、腹のうちで苦々しく思っていたとしても物まねされることを受け入れているようだが、内輪ウケの物まねは絶対に本人の前でできない。たいがい本人だけは気付いていないことなので、おもいっきりfaceを脅かす行為になる。(似顔絵のほうがまだ嫌がられにくい。でも本人が嫌がりそうなくらいデフォルメすると、本人以外の人には受ける。)もう少し、なんかいい形で役立てないものかな。日本語の発音とどこが違うかわからせるとかできるとか。でも、下から上にあげるのはムリだなぁ。
2006年05月31日
いまワイドショーで、「何故日本語うまい外国人力士」というのをやっとる。著者の早稲田の先生もでてきた。番組では、「外国語マスターへの三か条・強い動機・24時間外国語づけの環境・自分にあった学習法の工夫」とまとめているのだが、もしこれが必須だとすると、強くなれるような力士なら日本語くらいマスターできるということで、日本語すら習得できないような動機が薄弱で、24時間そこにいることができなくて、自分にあった工夫もできないような人は、力士としてやってけないんじゃないかと思った。本人以外の人が、動機を強化させることはできないし、学習法はいろいろと提示してみせたところで、本人がちゃんと選択できなければ意味がない。24時間関わる気がない人が教えているのだから、結局は自分だよな、と思う。
2006年05月30日
語用論のことをゆっくり考えられる時間が一番たのしいです。ああ、そんなこと一度もなかったのに。よほど追い詰められているんですかね。いや、曲解してあてはめるのがおもしろいっていうとこですかね。いまからいやになっていますが、火曜日・水曜日は肉体労働日です。ほんとうに消耗します。声がかれて、頭がしびれて、目が痛くなります。めしくうひまもありません。めしをくえば、帰宅が1時間遅くなりますから。××××××この状況、一番近いたとえはなんだろう?と考えたのですが、「さあ、山に向かって神様の言葉が聞こえるまで叫ぼう!!」と言われて、必死になっているようなもんです。で、「神様の声が聞こえないのは、信心が足りないから」となってしまうのです。霊力を持った人なら可能なのでしょうか。いや、相手が神様だったら、そこまで一生懸命やれば聞こえてくるかもしれません。必死になってやれば、きっとあたたかい言葉をかけてもらえます。「もうよい」と、制止してくれるでしょう。しかし実際に相手をするのは神様ではないのです。6コマすべて同じというのがきついです。それしかないのがつらいです。日に1コマでいいので、べつのクラスにかえてほしいです。けっして嫌いじゃない人たちなのですが、つかれるんです。という愚痴をいうのが、ひじょーにみっともないのですが、とまらないのです。みっともないのがわかっているのにとまらない。「今までが恵まれていたのよ」なんて、いかにも正しそうな言い方、恵まれているおまえが言うな!!と思ってしまいます。だって、足の小指を箪笥にぶつけたときや、風邪をひいて鼻がつまったときに、「ああ健康であることは恵まれていることだなぁ」と自分で実感することはあったとしても、痛がっている人や呼吸の苦しい人にむかって、「おまえの場合、普段が特別に恵まれているのであって、この状態が普通だと思え」と健康な人が言うのは変だろう。「おっしゃるとおりです」なんて心から思っていえるだろうか。食いしん坊が、減塩のために強制入院させられて、これを見舞いにいって、「あんたの場合、今までが食べすぎであって、それが普通なのよ」と横でうまそうに味噌汁を飲んでいるやつに言われて、「反省します」だなんていえるだろうか。まだ「あー、よかった。そっちの仕事の担当じゃなくって」と正直にいうほうが、それほど腹もたたん。確率として、あたるほうが少ないのだが、この仕事があたらなかったほうこそ、「運が良かった」のである。かけるべきことばは、「たいへんですね」でいいのです。あるいは、「こうしたらいいんじゃない?」という具体的なアドバイス。文句をいうのも気分が悪けりゃ、文句を聞かされるほうはもっと気分が悪く、親切にたしなめてやってもっと不満を持たれてしまうのは、誰も幸せにならない、ということですから、黙ってにこにこと笑っておけば、周囲にとってよいことなのです。ひんこんにくるしんでもふこうへいをかんじていても、あかるくわらっていられているのはいいことだというのは、貧困も不公平も感じることが全然なくて、普通に明るく笑っていられる人たちが「ひとはだれしもそうすべきだ」と洗脳しようとしているだけなんじゃないだろうか。自分たちの不安因子となる人たちにも、笑っていてもらわなければ、幸せであることに負い目を感じてしまうから、「現世利益を諦めて、笑っていればいつかいいことがあるさ」というのは、持たざるものを利用しようとする持つものが考え出したことです。まちがいない。だまされてはいけない。最近、やさぐれています。かせいでも かせいでも らくにならざりねこそぎくわれるどうりょうが われよりらくしてみえるひにはなをかうきに なんかなれるかまあ1週間のうち、たったの2日だ。前日からいやで、そのあとの日がくたびれて寝ているので、結局4日も影響するのが損した気分だ。
2006年05月29日
題目締め切り、5月末かと思ったら6月末だった。買えばあたるものは買っておくのだ。とかいって、去年間に合わなくて見送ってしまった。ことしは間に合わせよう。「こうみょうがつじ」って、くわしいストーリーしらないけど、糟糠の妻とか内助の功って、どういう価値があるという話なのか、本当にわかりません。生活費供出して、仕事に役立ててもらって、名誉が得られることがいいことだとしたら、「名誉なんかお金で買えるものなのだから、生活費をきりつめて買っておけ」「名誉を与えてくれる機関に対し、妻が間接的に寄付をしなさい」「夫の仕事というものは遊びと同じ楽しいものだから、妻は夫に潤沢な資金を回してやれ」とかいうことなんでしょうか。そうしてやれる妻が偉いという話だとしたら、それは名誉を与える機関がつくった、そちらがわにとって都合のよい嘘話です。労力だけでなく与えた資金も回収できたら、まるもうけでしょう。「やがてそんなエビでタイがつれる」という話でないのなら、意味がありません。だまされてはいけません。めいよでめしはくえません。
2006年05月28日
どうにもならない人の1人が帰国することになりました。家族が病気になり気になるということ、どうにも自分ができなくて苦痛なことなどが理由。残念ではあるけれど、その決断は正しいんじゃないかと思いました。しかし。残るメンバーで、まだ重症な人が2人います。3人だったのが2人になるから、負担は3分の2になってよかったじゃないか。とは思えないんです。むしろ、3分の1ですんだ負担が、2分の1に増える。量の追求は有限だけど、質の追求は無限だからです。だから、共産党のいうような「40人学級ではなく20人学級の実現を」ということをしても、教員の負担が減ったような気がしても、どうせすぐに不満が増えるだろうと思います。大事な我が子への教師の関心が、40分の1から20分の1になったところで、そんなに増えた感じしないでしょう。小遣いが1万円が2万円になれば、変わったなと思えるんでしょうけど、10円が20円になっても、ふんって感じなのと同じ。重症な人たちは、もしかすると学習障害みたいなもんじゃないかと思います。児童教育では学級崩壊という言葉とともに、たぶん10年くらい前から社会的トピックにあがるようになってきたんじゃないかと思いますが、語学教育ではここ3年くらいでしょうか。一定の割合で学習障害児が発生するというなら、分母が大きくなれば分子も増えるっつーことですね。親もことばができないまま働いていて、家庭教育が頼みにならないとかいうことが、育児放棄をしちゃうような日本人のダメ親よりも介入が難しく、また児童を学校の現場(親にしてみれば託児所みたいなもんですが)で馴染ませていくのが難しいようです。たぶん日本人のADHD児でうまくいっているケース(「勉強ができなくても友達がいるから」とかいう溶け込み方)も成立しにくいってのもあるんだろうと思います。もちろん未来のある子どもこそ問題ですが、もうできあがってしまったオトナのADHDに対処する方法、研究というのは進んでいないんですかね。オトナだと、ADHDなのかどうか、その判定も難しいようです。バイリンガルやトリリンガル、マルチリンガルの人が別の言語を学ぶのは、モノリンガルの人より早くて簡単だと認識されていますが、もしかすると、努力の問題ではなく、機能的に、複数の言語を頭にいれる數が人によって違うんじゃないかとか思ってしまいます。もともと母語の言語能力がどの程度の人たちなのかわかりませんが、国では、標準語と地方のことば、英語と母語など、複数を(たぶん)自由に話せる(はずの)人が、3つ目になる言語がどうやっても体系的にはいっていきません。まだ諦めるのは早いともいえますが、こんなスピードでは在学権のタイムリミットの方が早く来る可能性が大きいです。これまでは、そういう人がいなかったというのが変ですが、おそらくバイト漬けで不登校になって素行不良で退学とかいうのに混じっていたんだろうと思います。学校側も自己責任ということで、切捨ての大義名分がありましたし、学生にしてみてもただただ苦痛でしかない勉強をしないで、なんらかの楽しみ(報酬)が得られるような逃げ道があったわけです。ところが、入管が貯金残高証明の提示を義務付けたりして、厳しく合法滞在の不法労働者をチェックするようになり、仮面学生というのが激減しました。企業はリストラの名のもと人員削減するようになったし、夫婦は心的負担が少し減ってどんどん離婚できるようになったけれど、子ども・児童・生徒・学生は見捨てることができなくなってきているように思います。「未来のある弱者の権利を守っていくことで、明るい未来の社会が作れるのだ」という共有信念が社会にあるからだと思います。子ども・児童・生徒・学生が大切にされるようになった(ようやく当然の権利が得られただけともいう)だけで、ダメ教師やダメ親が増えたとは、ちょっと考えにくいのです。昔からいたけれど、昔は問題を問題として捉えたり対処する方法を考えることができなかった、というのが正しく、むしろ「教師には問題な人もいる」という認識から、技術面ではかつてよりも全体の平均はぐっとあがっているはずです。でも、やはりダメ教師というものが、ゼロになれない以上、「勉強しているのにできない」という人が発生するのは、「させているほうには問題がない」とはいいきれないのです。で、善良で純真な教師は、自分に問題があるのではないかと必死になるのです。いくら契約として、一定のレベルでの一定の得点を求めることを条件にしても、2年間の学費と生活費で日本円で400万円くらいつぎ込んで、真面目に出席してきた人に、「残念でした。さようなら」となれば、希望を持って信じた方が騙されたと思ってしまうでしょうね。プログラムの立て方とか、教授法の問題だけかというと、どうしてもそれだけではないと思うのです。手を尽くした上で言えといわれればそうなのですが、どんなに手を尽くしたところで「その方法が間違ったからだろう」と言われるのがオチです。ある程度できる人なら、国内の専門学校等を勧めることもできますが、これも難しいとなると、「早めに返す」のが親切じゃないでしょうか。本人が「居たい」といえばできませんけど。前は、親のしつけのせいにされていたけれど、実はアスペルガー症候群というものだったというように、「語学学習障害」という言葉で、この現実をとらえてくれる研究者はいないもんですかね。かつて言われた「言語臨界期」(12~13歳)というのは存在しない、という見方が強くなっていますが、もう一度、検討しなおす必要があるように思います。「健常者の場合、特定の発音などごく一部分に母語の影響が残ることはあっても、言語臨界期を過ぎて新たに言語を習得して運用する能力があるが、語学障害者はこの言語臨界期を過ぎると新たに別の言語を習得することができなくなる。」というような仮説を、どう証明していけばいいんでしょう。・両者の区分をどの段階でどうやってチェックできるというのか。・怠慢なだけの健常者までができないことの言い訳をするようになる。・そんな人を救う方法が提示されなければ、希望がないので意味がない。と、誰にも歓迎されないと思いますが。今だって、複数の言語を操る必要がないまま一生を終える人がほとんどです。無理に外国語を覚えなくても、幸せな生活をしようと思えばできる、というのがあるならば、無理にすることはないのです。そりゃあできないよりできればいいけど、音痴とか運痴とかと同じだと思います。
2006年05月27日
長く患っていたじんましん、終了しました。ついでに足の裏にできたほくろをみてもらいました。大きさをはかって、「とったほうがいいでしょうね。刺激のあるところだし」と言われました。しかし、手術をしたら1週間から10日、水につかれず安静にしていなければならないので、「夏はしないほうがいいです。普通はしません」と言われました。緊急のもんではないようです。再診予約は1年間有効だそうです。1年過ぎると、また初診料がかかる。冬休みにでもするかな。ということは、そのちょっと前に行って、手術予約をするということですね。
2006年05月26日
ひかり号、えらい混んでいました。しかし、2人席を向き合って4人分使っていた2人のガイジン女性さんの横の席は空いていました。そこへ着席。掛川あたりで1人が「ふじさーん」というので、「まだです」と答える。新富士に近づいたので、「ひあ、ふじさん」と教えてあげた。(よく考えたら、「ひあ」ではなく「おーばーぜあ」か。)しかしこの日は曇天。かろうじて裾野だけみえたが、ぜーんぶ曇っていた。カメラを構えたものの、シャッターをきるのを諦め、残念そうな顔をした人に大笑いしていた。
2006年05月25日
秋田で亡くなった女の子の2軒隣の男の子が殺されて発見された事件。テレビでは「近隣のものの犯行との疑い」「不審な車を目撃」としか報道していなく、たいして情報も増えないのに連日報道されている。かたや週刊誌では、ずばり書いてはいないものの、どう読んでも、「その女の子の母親の犯行」としか読めない書き方になっている。逆恨みされないような適切な言葉をかけるというのは、ひじょーに難しい。
2006年05月24日
「首相」という単語を教える。「大統領」という単語を教える。母語対訳によって、意味を理解する。「日本の首相は誰ですか」の問いに、「こいずみ」と答えが来る。今日はわりといいじゃないか。しばらくして、形をかえてもう一度質問してみる。「こいずみさんは、首相ですか大統領ですか」「・・・」無反応。もう一度きいてみる。「こいずみさんは、首相ですか、大統領ですか、どちらですか」「はい。どちらです!」もう一度。しゅしょう、だいとうりょう、しゃちょうと、書いて質問。「ブッシュは大統領。こいずみは?」「・・・」「こいずみはどれですか」「…どれです。」ここは、保育園でもなければ、デイケア施設でもない。一応、高校も卒業して、ここ1ヶ月半、勉強のためだけに来ている20代30代の人たちばかりなのに。
2006年05月23日
伯父が亡くなりました。お葬式に行ってきました。生きているうちにもう一度会っておけばよかったなと思いました。勤務日を交代してくれた同僚に感謝。
2006年05月22日
仕事の準備もそこそこに、同窓会に行った。十数年ぶりに会ったひとたちに、女子は男子を「ふとったなー」と思い、男子は女子を「ふけたなー」と思っているはずなのだが、「ぜんぜん変わらない!」と言い合う。例のごとく、当時の他人のこと(しかもたいていかっこ悪いことばかり)等、ことこまかに覚えているのを披露。本人も忘れていたことを思い出させる、というパターンに。あんまりやると嫌がられるんで、実はこれでもセーブしている。おまえは、あの子に手紙を出しただろうとか、彼女にホテル代を割り勘させていただろうとか、情報のソースが特定されるものは言わないようにしている。これだけ記憶力がいいのに、不思議なのは、「おれはあんたにこういわれた」「おまえがこんなことをしたので驚いた」という話が、何一つ思い出せないということだ。聞くと、いかにも言いそうなこと、やってそうなことばかりだなと思うのだが、まるきり覚えていない。
2006年05月21日
どんなことでも、モノを習うときは、「どうやって」という具体的な技術と「なんのために」という支える精神の話と両方を聞くことになります。語学を習う場所では、文型や表現という技術ともに、異文化理解とか目標達成による自己実現とかをちりばめられます。神職養成講習とか着物着付け教室とか和風文化どっぷりなものを習えば、祭式の手順や着物の着方の仕方のような技術と、日本文化とは何かとか現代において伝統とどうやって折り合いをつけるかというお話があちこちに出てきます。救命講習は、「自信と少しの勇気を持ってひるまないで対応すること」と、「自分の身の安全の確保」が大切だということを何度も言われ、テキストもそれに終始していました。この2点であることが、実は非常に意外に思いました。よく考えたら、応急処置が必要な人というのは、だいたい予期せず唐突にあらわれるものです。心の準備もないのだから、気も動転するでしょう。一度習っておくと、少しは自信が持てますが、できるかどうかわかりません。たぶん法律があるんだと思いますが、「救急現場での処置が間違っていたからといって、訴えられることはない(訴えることはできない)」ということも言われました。だから勇気を持て、ということなんですね。それと、人工呼吸では、人工呼吸用のマスクhttp://www.totalone.co.jp/guard/cart/sosei.htmというのを使いました。(レサコレギュラー、受講するともらえます。)息が逆流しないので便利というのもありますが、感染症を予防するということです。ないときは、ハンカチなどで代用します。同じ理由で止血するときも、手袋あるいはスーパーの袋などを使って、直接血に触れないようにすることが強調され、けが人の手当ても工事現場とか道路とか、周囲の安全状況を見ることが、まず第一となっていました。よく考えれば、ごくごく当たり前のことなのですが、そういうことを公の場で言われたことが今までありませんでした。時代のせいか、環境のせいか、真善美を形成する時期に、「他人のために命をなげうつことが人間の生き方として最も尊い」ということが、いつのまにかインプットされていたというのもあり、(良寛さまの「月の兎」とか、今でも読まれているんだろうか)救命の場での「勇気」というのは、そういった「我が身をなげうってでも」ということとして言われるんじゃないかと思っていました。人間も動物であると考えると、他人を助けるというのは、おそらく本能とは異なるものによって動かされる行動だと思います。「自分の身の安全を守る」というのは本来本能としたあるはずなのですが、明言して繰り返していかないと、その本能をふっとばして責務を全うしようとしてしまうのかもしれません。動脈の止血法で、なにげなく「離断された足の場合、断面から血がしたたる程度に」ということばが出て、ぎょっとしました。動脈が切れるということは、肉や骨も分断されていることもよくあるのだということが、想像力が働いていませんでした。同じ病人やけが人でも、日常と切り離されて、清潔な専門的施設でおこなわれる医療現場とは違って、家とかビルとか道路とか、一瞬前までは平和だった景色の中に、血だらけの人や、やけどでただれた人、身体の一部がとれてしまっている人などがいるわけです。そんな人を目の前にしながら、助けられない瞬間に居合わせることもよくあるんだろうなぁと思うと、この精悍な顔は、いろいろと複雑な感情を消化させながら形成されていったんだなと思いました。
2006年05月20日
かねてから受講してみたいと思っていた普通救命講習に行ってきました。カーラーの救命曲線http://www.bur.osaka-kyoiku.ac.jp/somu/kyumei/cara.htmというのがあります。救急車が来るまで、バイスタンダー(その場にいあわせた人)が応急手当てをしていれば、助けられる命もあるということです。その応急手当の内容に関しては、うすぼんやりと知識で知っていたのですが、やはり実技をしたことがないと、本当にできるのか不安です。健康体に呼気をふきこめばキモチワルイし、心臓マッサージなんかしたら、肋骨が折れることもあるのでよくありません。(救急の場合はぼきぼきいっても仕方がないそうです。肋骨はあとで直りますが、心停止したら死んでしまいます)人形(女性でした)に心臓マッサージしたり、人工呼吸したり、実践的にやってコツを教えてもらい、もしかしたらいざというとき(そんなことはないほうがいいのですが)、落ち着いて対応できるようになるかなあという気分になりました。AEDの使い方も教わります。すべて機械が喋る指示に従ってやればいいだけなのですが、一度見ておいてよかったです。機械が言う「CPRをしてください」という指示が、CardioPulmonary Resuscitation(心配蘇生法)であるということが、わからないと(状況から推測できそうですが)、それだけで動転してしまいそうです。(どうでもいいが救急業界(?)というのも、チェーンオプサバイバル(救命の連鎖)とか、ここがポイントというところに和語や漢語でない語がふんだんに使われておる。)健康体と死体には電気が流れません。よくできている機械ですね。どこの地域でもやっています。たった3時間なので、素人の一般市民(中学2年以上)は一度は受けておいたほうがいいと思いました。
2006年05月19日
NHKのニュース。海外で暮らす日本人は前回調査より5%増えて、101万人になった。うち35万人がアメリカ、11万人が中国に住んでいるそうだ。日本人の1%近くが海外で暮らしているということは、本人や身内なり知り合いなりに、海外で暮らすあるいは暮らしたことのある人だらけだということだ。「うちの近所に海外で暮らしていた人がいるんだが」というようなことが、全くないほうがむしろ珍しい。同様に、日本にも外国人が増えている。ということはいちいち言うまでもないが、どこの国の人でもオタクとか不思議ちゃんがいるもんだなあと思う。練習で「誰に会いたいですか」という質問。ふつーは、おかあさんとか友達だわな。なのに「神に会いたいです」と言い出すクリスチャン。「私も神に会いたい。でも私の神と彼女神は違う」というモスリムが出てくる。ふりがなをつけてください、と頼まれたのが、「おあややおやにおあやまりなさい、おあやややおやにおあやまりなさい」どこの日本人にもらったのか、カツゼツの練習表だった。添削してください、というような趣旨で頼まれたのが、自作ポエム。「鉛筆の国の王女様の話」で、メイクセンスだけど、あいきゃんといまじんだったりする。「これは王女様が話していますか?」「いいえ、鉛筆たちです」「じゃあ、「王女様が」じゃなくて「王女様に」だ」そして鉛筆の森は黒くなりました、と結ぶ。いろいろあって飽きないし、おもしろいことはおもしろいのだけど、正直疲れる。
2006年05月18日
「ひらがなは表音文字である」という分類になるが、発音と一体になっているわけではない。表記は表記のルールに従って書いているだけだ。長音は長音に、促音は促音に「きこえている」わけではなく、長音・促音の単語であるとか、そうであるはずの類だと知っているから書ける。よく言われる「が」の鼻濁音は「がっこう」と「ありがとう」など、語頭であるかどうかの環境で変わる、ということが認識されているし、音韻の授業なんかでは、「しんぶん」「しんごう」「しんけい」とかの「ん」の違いとかやるんだけど、他の音だってそんなもんだ。例えば、日本語人が、ハングルを書ける人から、「か」の音を発音しながら、「よく聞いてください「フト」「ヲト」「フフト」」とテストされるようなもので、仮に単音を聞いて書き分けられたとしても、単語で書けといわれたら、その単語を意味とともに知っているか、「か」の音を含む韓国語の単語をたくさん知っていないと難しい。まして単音でも聞き分けられない人に、覚えていない単語なのに正確に表記しろというのは無理だ。「異音」の認識は、訓練してどうにかなる時期とならん時期(あるいは人)がある。と思うのだが、「○○さんは、ひらがなが完全に書けません」「××さんは、何度やってもまだ清濁や促音・撥音・長音がききとれません」という申し送りが来る。ひらがなでは似ている形(「れ・わ・ね」「め・ぬ」等)もあり、日本人の子どもでも、一度はそこでつまづいたりするけれども、冷蔵庫「ねいどうご」の場合、日本語ではLとRがどうでもいいように、NとR、KとGを区別をつける必要がない言語にどっぷりつかっている人には、聞き分けて書くのは困難だということだ。また「単音」の認識が違えば、一音ずつ区切って言って書かせても林檎「りごん」蜜柑「みんか」となってしまったりもする。現時点で何度やってもできない人を相手に、「耳が開く瞬間」を期待するのは効率が悪い。ききとれるかどうかではなく、「表記を覚えていません」ということを問題にするべきだ。単語ばかり覚えるのではなく、文法などもやるので、混乱はひどい。でも文法はぼんやりと頭にはいってきたようだ。しかし、テストでは例文からの推測でA「ミラーさんはどの人ですか」B「あの目が青くて背が高いかばんです」と平気で書く。「おまいの書いた文だと、こういう意味だぞ」と目のついた鞄人間の絵をかいてやると、理解したのか大笑いするのだが、透明な緑色の概念が猛烈に眠りながら言語を練習しても、ひじょーに効率が悪いなあと思う。勉強ではなく必要なことを伝えなくてはならない場面で普通の会話をするときでも、こちらが全く理解できない母語でまくしたてる某国田舎出身の人がいる。「彼女、よっぽどストレスがたまっているんだと思う」といわれているが、そういう事情もあるのかもしれないが、やや違うように感じる。ちょっと前まで日本でもいたが、唐突に、「すごしばかわがんねんだげどよ、くんのぐってえどぎゃへばっておりゃあすか?」というように方言(これは架空のものだが)まるだしで平気でものをきく田舎人のようなもんではないか。ゆっくりと敬語で丁寧に言ってみるような配慮をしても、伝わらないこともある、ということを知らないんじゃないかと思ってしまう。「私#$%&’郵便局カード$%&’”#$%&’」日本語が10%以下で、どうにもわからんので、彼女と母語が同じ人に通訳を頼んだら、「外国人が郵便局でカードを作るにはどうしたらいいか」という質問だったため、その人にその方法をきくことになり、通訳は必要がなかった。ところがそのやりとりをみていると、母語どうしなのに、筆談を交えだした。申請書という単語を知らなかったのか、よほどなまっているのか。これじゃあ外国語の理解は大変だろうなと思った。
2006年05月17日
廊下ですれちがって、なんか見覚えのある人だったので、「あれ?」と呼び止めてしまいました。「こちらの卒業生ですよね」「・・・はい」「卒業年度は9X年・・・」「・・・ええ」「(学科名略称)の」「ええ」「サークルが、XXX研究会で」「・・・ええ」「○○ちゃんって呼ばれていた」「ええ」「出身高校が、XX短期大学附属高校とか」「・・・はい」「やっぱりそうでしたか。あのー、選択体育がいっしょだったんですが」「えええっ?」と、接点は十数年前に「数時間だけ」話したことのある人でした。学部もサークルも、何一ついっしょじゃありません。というか、その後、卒業まで会ったこともありません。名乗ったりしたのだけれど、相手はまったく思い出してくれませんでした。(それは良いことだったかもしれん)「どうしてそんなに覚えているんですかぁ」と言われましたが、指定校推薦だかで入学したとか、外国人講師の○○先生の授業は難しいけれど頑張っているとか、こちらにはまったく関係ない知らないことばかりなのに、親しくもならないうちから、ずいぶんと個人的な話題全開の人だなあという印象が強く残っていたのでした。んなことを話しながら、この周辺をうろうろしている人たちは、この人と会った当時、まだ胎児だったりするんだよなと思いました。それにしても、ここ数年、新しく会ったひとの名前すら覚えられません。4~7人いると必ず1人の名前が思い出せません。円楽さんと同じ病気なのでしょうか。あるいは人間関係が飽和状態なのか、はたまた人間全般に対する興味が減ってきているのか。
2006年05月16日
思ったとおり「間宮兄弟」、大量に売っていました。あわてて裁断したのか、ぶわぶわっと製本が粗いです。おもしろかったです。通勤時間内で読めました。あちこちで書かれているように「あり得ない話」なんでしょうか。じゅうぶんあり得る話じゃないかと思いました。フィクションだと、血縁どうしという設定でないと、同性でも恋愛モノとしてストーリーが展開することがどうしても期待されてしまう、という制約があるのではないかなあ。
2006年05月15日
モリのアサガオという漫画を読んだ。いまんところ1-4巻。ナニワ金融道のような、へたうまの不気味な絵。テーマはよい。しかし展開が、やや不満。主人公、都合よく成長しすぎ。年の若い人がかいているのだから仕方ないね。
2006年05月14日
というと、リンゾーしか思いつかないのだが、(茨城の間宮林蔵最中はわりとうまい)、『間宮兄弟』という映画がはじまるらしい。江國某の本は、20年近く前に何かを読んで、当時はやった吉本ばななとかと同じく、「繊細な少女系」(少女漫画もそんなのばっかりだった。が、漫画ならよい)で敬遠していたのだが、これはちょっとおもしろそうだ。もしかすると原作より映画のほうがいいんじゃないかと思うのだが、一応オリジナルからみようとおもって書店にいったのに、ぜんぜん本がおいていない。きーっ!きっと来週からは、主要な書店に平積みなんだろう。
2006年05月13日
午前中、交通博物館へ行ってきた。あさって閉館ということで、最近ニュースになっている。土日はものすごく混むだろう。平日は今日がラストチャンス。HPをみると、人が多ければ開館を早めてくれるというようなことが書いてあったので、早めに出かけた。したらば開館1時間前にすでに行列。人々は手に手にカメラやビデオ。鉄ちゃんの聖地だもんなー。この最後のイベントは310円の入場券と引き換えに特別チケットが配られる。「貴重だ」「よかった。手に入らなかったらどうしようと思った」「明日も来よっと」と鉄ちゃんたちが言っていた。(独り言の人を含む)鉄ちゃんの年齢層は厚い。こんなことを言ってはいかんが、なんか本当に妙な体臭がする人が多かった。衣服をちゃんと洗ってるのか、干し方が悪いのか。NHKと東京新聞が取材に来ていた。館内は、鉄道オタクにはたまらないだろうものがいっぱいならんでいた。ミニチュア模型が走り回る様子を、抱いている赤ん坊が泣こうがわめこうが、無言でビデオを回している親父とか、なんかものすごかったが、テレビでは楽しそうにまとめられていた。交通博物館は鉄道博物館にリニューアルするというけど、飛行機の模型とかはどこへ行くのだろう。午後は控室でせっせと仕事。すると「冷たいお茶と熱いお茶とどちらがいいですか」と聞かれた。すげー。ホテル以上の待遇だ。毎度思うけど。この仕事だけはやめたくない。3年任期なのが惜しい。駅で夕刊を買ったら、カラーで記事になって写っていた。同じ構図でネット版にも出た。http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20060512/eve_____sya_____003.shtml(インタビューで職種をぼかしたら、出勤前の「サラリーマン」となってしまった)NHKも一瞬出てしまった。気づく人はいないと思うけど、わかるひとにはわかる。
2006年05月12日
時代劇チャンネルで始まった。水戸黄門のように完成した時代劇と違って、展開がまるで読めない。ワンパターンというのは、無駄を省いて洗練されたものだともいえる。昔の時代劇は、小道具が豊富だ。大八車とか、大量の桶とか、格子戸とか、当時実際に田舎でうち捨てられているものなんかを使っていたんじゃないかなあ。それと屋外の景色が広い。ここ20年くらいの時代劇だと砂浜と狭い林道ばかり歩いているが、川べりの道を走り回ったり、峠の道から見おろしたりする。まだ昭和40年代までは、日本中土の匂いがしていたのだな。
2006年05月11日
指差し会話の本が売れ、各国語版が売れ、ゲーム機にも入り、そのCMが、「いくらですか」というフレーズを機械に喋らせているやつなんだが、それが相手に通じたところで、答えてくれた数字がわからなくて会話にならないので、あまり意味がないんじゃないかなあ。というか、商売をやっているものだったら、お互いに何語で話していようと、モノやサービスと金を交換することが最終的なゴールなので、数字を書くなり紙幣を数えるなりで、その程度の伝達はできるはずだから、実はあまり重要なフレーズではない。数字を覚える前に、「いくらですか」を覚えても使い道はないのだ。同じ状況でなら、「もうちょっと安くしてよ、おねえさん美人!ね、お願い。うわーありがとう」に相当する効果のある言葉のほうが、現地語で言うということに意味がある。サバイバルなことばを習っても、実際は身振り手振りでなんとかなることは多いのだが、最重要は「お手洗いはどこですか」だ。大人の場合、ジェスチャーで示すには抵抗があるし、見知らぬ土地でまず必要になることで、その場ですぐに使えなければ意味がない切迫した問題だからだ。ただ通じさえすればよいというのなら、「便所どこ」「うんこしたい」でもいいのだが、やはりもともと品がないシモの問題は、できるだけ品よくいいたい。そして「ありがとう」だ。どこへ行っても困っているエイリアンを助けてくれる親切な人は必ずいる。これで現地の言葉であらわし、状況にひとつ終結をつくることは非常に意味がある。次に「はじめまして、○○です。どうぞよろしく」というような状況で話すことばだ。「よろしく」と全面的に委ねるのか、「お会いできて光栄です」とヨロコビを表現するのか、どういったことがウケがいいのかは文化による。中長期的な人間関係を作り始めるために必要なことばで、実際使うときは、両者を知る紹介者がいることが多いので、言えなくても構わないのだが、これを始めに使えると「紹介者の知り合い」という間接的な関係ではなく、直接の関係に早くできると思う。語学の早期教育でグローバルに活躍できる人間を作ろう、というのなら、英語をはじめ、近隣諸国や先進国に限らず、いろいろな国の言葉で「ありがとう」を教えるほうが意味がある。ついでに「お手洗い」は子どもが大好きな言葉なので、あっというまに覚えるはずだ。英語の発音だけが問題なら、音楽の時間に歌でも歌わせればいいではないか。ついでにイタリア語でも歌え。歌詞の難解さは「はこねのやまはてんかのけん」とたいして変わらないだろう。あれ、このネタ前に書いたっけ?
2006年05月10日
柴犬の帯も困ってしまいましたが、こんどは同じ作家モノで、「背中に999、腹にメーテル」というものでした。いまの時代に、和服を着てみようというだけでもかなりマニア度が高いと思うのですが、アニメオタクとかコスプレーヤーとか、業界的にも繋がりやすいのかもしれません。なんといっていいかわからないので「珍しいですね」としかいえませんでしたが、「そうよねぇ。この世にこれ1つしかないんですもの」と柴犬の先生。同じ嗜好ではなくても、好きなものを大切に思う気持ちを尊重し、共感の態度で接することができるというのは、円滑な人間関係を形成するのに、ひじょうにだいじなことなのだなと思いました。・・・実は、どうせならこうしたもので価値があると思わせるものを生み出す作家になりたいものだなぁとついつい考えてしまっていたのですが。
2006年05月09日
「働いたら負けっていう気がする」というNEET代表の名言のような居直りができたらなあ。残業ばかりしていて空しいので図書館に寄った。ここの書庫はものすごーい圧迫感がある。天井高わずか2m強。階段ではなく梯子段。それが地下3階まである。「節電のためご協力ください」というスイッチがあって、各階とも総記とか文学のような端っこは真っ暗。人の気配なんて全くしない。うっかり会ったらたぶん悲鳴をあげてしまうが、誰も気がつかないような感じ。ものすごくカビくさい空間で、図書の保存の仕方について書かれている貸し出し記録ゼロの本を読んだ。あまりのカビくささに目が痛くなってしまった。誰かこの本読めよ、と思った。
2006年05月08日
「1ヶ月に3kg以上落とすと、ぜったいにリバウンドするよ。ぜったいにね」という呪いの言葉をかけられていたので、1ヶ月が過ぎて、呪詛がリセットされてから1kg落とした。残り23日で2kgまで落とせる。といっても、必ずそうできるわけではないし、3kg以内だからといってぜったいにリバウンドしないという意味でもない。これでもまだ元の重量をオーバーしている。よくここまで徐々に太ったもんだ。体脂肪は19~20。マイクロダイエットという宣伝広告費にお金をかけている会社の商品がある。カロリーが少なくて栄養バランスはいいとかいう、ものすごおーくまずそうなどろどろの粉末ジュースが確か1杯1200円くらいの値段になるような設定になっているやつだ。この会社は自社製品によって成果があがった人たちを載せる「やせ組」とかいう無料雑誌をあちこちに置いている。今回の雑誌は、女性だけでなく男性も載っていて、全体の印象として、美容より健康が重視されているようだった。大賞の人は、去年のJR脱線事故の車輌に乗っていたという人で、PTSDを乗り越えようとこの商品でダイエットした人で、痩せっぷりがどうとかいうより、スピーチコンテストのようでもある。なんつーか、広告誌だというのに、健全すぎて商売っぽくない。よくある「何も努力しないでこんなに楽しく痩せていいのかしら」とか「たったの2ヶ月であっというまにこの変化」とか「苦しかったときは太っていることでいじめにあったことを思い出して悔しさをばねに乗り越えた」とか「かつてひとのことを豚呼ばわりしてくれた主人にシャネルのスーツを買わせました」とか「スリムになったおかげで恋人までできました」とかいうようなことは書いていなかった。食事以外にも運動も気をつけてやっていると書いてあったし、期間も半年とか1年とか長期だった。また商品にも、ジュースだけでなく、ゼリーとかスープとか、味とか温度とか食感に変化があるようなものもあった。商業としてのダイエットには、どこか新興宗教系のおどろおどろしい怪しさをもった仕掛けが必要だ。「うわーっ、そんなまずそうなものしか食べられない生活に、よく耐えられたね」といった修行僧のような精神力の高さが評価されることも必要なのに、食べ飽きないための工夫なんて邪道にみえる。体重が減ったこと以外何も変わっていないのに、自信がついて、仕事も恋もカネもバランスのよいスタイルも何でも手に入るようになり、周囲からは賞賛や嫉妬で注目を浴びるという、NHKの朝ドラのような、平凡な女の子のストーリーがあるから、原価50円くらいのもので、お布施の1200円を出して御利益を期待できるっていうもんだ。ということで、そんな1000円以上もするようなやつじゃなくても、普通に市販の寒天ゼリー食べて、カップスープ飲んで、それにサプリメント飲んでおけば、同じことでもっと安くあがるんじゃないの?と思った。
2006年05月07日
もっともやりたくないことをやらずにすんだ。売り物にならず、買う人もいらっしゃらなかったせい。あまった時間でべんきょうしよう。(とりあえず決意だけ)日課なのだが某求人欄をみる。TOEICで730点とかとらねばならんようだ。それがどの程度のレベルなのか知らないが、つまり雇用の条件として、有効期限内にTOEICを受験しているような、そんな努力を積んでいる人であることがあげられているということだ。最近のはそんなのばっかり。でも、やっぱりそんな努力は一生やらないような気もする。半年という期間が与えられ、なんらかの語学をものにするのと、5kg痩せるのと、どっちか選べといわれたら後者を選ぶ。でも、先に、今後定職についたらもらえる総額の札束を「一括払いしますよ」とどーんと目の前に詰まれたら、730点といわず800点とれるまで必死でやる。ドリフと笑点に匹敵するお笑いが、外国語の人のグループでいれば、熱心にやる。とかいってるので、やっぱりやらないと思う。
2006年05月06日
和装をしている人に、「まあ、奥様ステキなお召し物」と言ったあとに、「それ、大島?」などといった適切な質問ができるようになれば、着物界で一人前とみなされる。たぶん。ところが、きつけきょうしつの先生が「みてみて。これが今回つくった帯なのよぉ~」とおっしゃって広げて見せてくれたのが、「表:タンポポの中の柴犬」「裏:コスモスの中の柴犬の寝顔」愛犬の姿を絵にしたらしい。足跡もついている。これにどーよ、どーいえばいいのよ。しかし、師範コースの生徒さんたちはさすがである。「まあ、写真よりかわいらしいんじゃない?」「あら、いつもママと一緒にいられていいわネー」でてこない。ぜってー、でてこない褒め言葉がするすると出る。すごいよ。これができて師範なんだなあと思った。
2006年05月05日
わらのようなところに生えているからわらびである。たぶん。ぜんまいじゃないよ。こごみでもない。大量にとった。目をとじると今もまだ浮かぶ。いなごをとったときと同じ。正直いえば、山菜というものは決してうまいもんではない。別に、どーってことはない、こんなものでも食えるのかという程度のものである。貧しかった子ども時代に思いをはせるとか、待ちわびた春の到来のヨロコビとかがあって、「うまいもの」あるいは「たべたいもの」になるんだと思う。山菜は「まあ、おめずらしいものを」といって食うのが都会人のマナー。一口、二口でじゅうぶんであるが、張り切ってとってきた大量の山菜。期間限定なのだし、という言葉にくうべしくうべしくうべし。大食いは芸である。ゆえに無芸大食ということばは成立しない。
2006年05月04日
掃除機ですいこんだら、とんでもなくくさい部屋になった。
2006年05月03日
南アルプス市が、えええっていうインパクトだが、他の市も負けていない。県庁所在地の甲府市は、漢字の意味からして甲州(=甲斐の国)の中央ということだ。ところが近隣で市町村合併したら、甲州市そして甲斐市になった。ついでに中央市がある。こういう無意味に「わしらが一番だがね」みたいな地名をつけるくらいなら、もう平野まるごと政令指定都市の1市になって、以下は区にしたほうがいいんではないか?勝沼区とか、塩山区とか。「いや、でかい市になったら、俺が立候補しても当選しないでかんわ」という市長や市会議員がいるせいで実現しないのか。あれ?なぜか名古屋弁だがね。
2006年05月02日
明日は涼しいらしいけど。なんなんだ、これは。親方日の丸は従来どおりお休みの方も多かったが、意外と人が多くてびっくり。
2006年05月01日
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