2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全30件 (30件中 1-30件目)
1
夏至も過ぎたし、これからどんどん日は短くなる。年の後半に向かってカウントダウンだ。という気分になれないのは、夏が暑いからだ。ほんとうに暑い。すでにエアコンがんがんかけとる。9月末ごろまでというと、まるまる3ヶ月かけつづけることになる。外出して、デパートとか図書館とか、よそへエアコンにあたりにいこう。今年は10年間掃除しなくていいエアコンというのが出たらしい。うらやましい。今度買うときは、ああいう機能のあるやつにしよう。掃除していないほうのエアコンは、リモコンの電池がない。うっかりつけられないように、あえて電池が抜いてあるのだ。掃除してから電池を買いに行くつもり。かび臭い空気をまきちらしてもいやだもの。寝ているところに直撃するのもカラダに悪いしね。「10年前のエアコンの電気代3分の1」みたいなCMがあるように、古いエアコンは電気代が3倍以上かかるわけだ。しかし6畳用エアコンで、3部屋分冷やそうとするので、かなり無理がある。でも2基同時につけて、それぞれで冷やそうとしたら、もっと電気代がかかるだろう。宝くじでもあたって一瞬金持ちになったら、あのエアコンを買いたい。必要な部屋全部につけたい。それと洗濯機を買い換えたい。大型で夜中でもじゃんじゃん洗える静音タイプのやつが欲しい。15年近く使って壊れない洗濯機は小さくてやかましくて。ズボンプレッサーというのもいいですね。2ちゃんとかによると、Corby社製のしか、まともに機能するのがないらしいです。これがあれば、関係ないのにひとのせいにされたりしなくなるからいい。ヘルシオみたいな蒸気を使う電子レンジってやつもおもしろそうだよな。でも掃除がたいへんかもしれん。トースターもブレンダーもほしいけど、やはりお手入れがめんどくさいのだわ。ほしいものは家電ばかりだ。
2006年06月30日
どこの神社でも、どんな儀式でも、「大祓詞(おおばらえ)」を神職が奏上します。「たかまのはらにかむづまります・・・」という長いほうのことです。おおばらえは、センテンスでは13文です。以下意訳。(1)高天原のカムロギ・カムロミの神により、八百万の神々が集められ、協議によって、我がスメミマ命(=天皇)は、葦原のおい茂るみずほの国(=日本)を平和な国になるよう統治するよう託された。(2)国の荒らぶる神を、神々は問い詰めたり追い払ったりして、岩や草木の葉までもが騒いでいたのが静かになり、国も平和になったので、天上の席を立ち、雲をかき分け、降臨させなさった。(3)このように託された四方の国中と大和日高見国を安国と定め、太い柱を立て、千木を高く立て、スメミマ命は、立派な宮を建ててそこに住み、神の御加護のもと平和な国として統治していた国の中に、次第に増えた民たちが過ち犯した様々な罪は、天つ罪田の畔を壊す、田に水を引くために設けた溝を埋める、田に水を引くために設けた樋を壊す、他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げる、他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てること、生きている馬の皮を剥ぐ、馬の皮を尻の方から剥ぐ、糞などの汚物で汚す国つ罪生きている人の肌に傷をつける、死んだ人の肌に傷をつける、肌の色が白くなる病気、瘤、近親相姦、親子丼、獣姦、虫害、天災、鳥害、家畜を殺し、その血で他人を呪う呪いをするなど多くの罪が現れるだろう。(4)このようにいくつも罪が出てきたら、天上界での宮中行事に則って、木枝の元と端を切り台の上に置き、菅麻を元末を刈り切り細かく割き、祝詞を唱えろ。(5)このように唱えれば、天の神は天上の宮殿の門を開け、雲をかきわけ、お聞きくださるだろう。(6)国の神は高い山や低い山の頂上に登り、霞をかきわけお聞きくださるだろう。(7)このようにお聞きくだされば、罪という罪はすべてなくなるだろう。(8)風が雲を吹き散らすように、朝夕の霧や靄を朝夕の風が吹き掃うように、港に泊まっている大船を繋ぐ綱を解き放って大海原に押しやるように、繁る木の元を、焼いて研いだ鎌で切り掃うように、残る罪はないのだと祓い清められるだろう。(9)罪は高山低山から流れ落ちる瀬にいらっしゃるセオリツ姫という神が、大海原に持ち出してくださるだろう。(10)このように持ち出してくださると、大海原の潮流にいらっしゃるハヤアキツ姫という神が、これを全部ががっとのみ込んで、海底に沈めてくださるだろう。(11)このようにががっとのんで沈められたものを、根の底の国の氣吹戸という所にいらっしゃるイブキド主という神が、根の国底の国に吹いてくださるだろう。(12)このように吹いてくださると、根の国底の国にいらっしゃるハヤサスラ姫という神が、雲散霧消にして失ってくださるだろう。(13)このように失ってくだされば、罪穢は無いだろう、と祓い給い清め給うことを、天の神国の神八百万の神々がお聞きくださいませと、慎んで申しあげます。ということで、(4)までと(5)以降が、ずいぶん調子の違う内容になっています。「天と罪」と「国つ罪」の内容は奏上しません。(2)と(3)がセンテンスが長く、ややこしいです。
2006年06月29日
一部の学生が帰国。みなさん精神安定剤を服用しながら、なんとかカラダはもってくれました。よかった。で、おもたい二人だけのクラスになりました。しかし、いつまでたっても「日本語」が通じないので、ほんとうに疲れます。3ヶ月もいて単語すら通じないというのはどういうものかね。「家族」とか「どこ」とか「元気」とか「趣味」がわからないなんて。どちらも100点どころか、60点でも夢のまた夢です。まるっきり同じ問題を、5回もやって、しかもこれと同じ問題でまたやりますよということを予告して、それでも半分もとれないのです。タイ語やアラビア語の試験であっても、とりあえず答えをまるあんきするのが学生ってもんじゃないかと思うのだけど、そういうことに労力をかけようとも思わないようです。男子は24歳です。母国が多言語環境なので、マルチリンガル。短大卒ということですが、彼の話す英語は不完全です。もしかすると、全部の言語がぐずぐずなのかもしれません。漢字も日本語も大好きだといいますが、ほんっとーに短期記憶もいかれていて、100教わって2覚える程度の進度です。で、その2のうち1は、次の2を覚えると、ところてん方式に忘れてしまいます。実際の例です。読む問題、読んで口頭で答える問題、読んで書く問題という流れです。「趣味は英語でなんですか」という質問、5回して5回とも「ふーん」という顔をします。6回目から、「ホビー」という答えをきいて、「あ、しまった。さっき聞いたわ」という顔をします。9回目にさすがにメモをするのですが、10回目では、まだそのメモをしたことを思い出せません。11回目に、気まずそうに「趣味は…」と言います。何度も質問してきたということは覚えていたようです。またメモをします。12回目になって、メモをしたことを思い出し、メモを探すのですが、自分でどこにメモをしたのか思い出せません。13回目に、「趣…」と言いかけ、さっきのメモを探し当てます。14回目に出てきたときに、「趣味はわかる?」と聞いたら、now I knowと答えたのですが、15回目に出てきたときに、またメモを見ていました。ここから書く問題です。趣味は何かときくと、えいがだといいます。「映画を?」というと、「みます」と答えますが、「私のしょみはえいかみますことです」と書くのです。「しゅみ」という文字を3回書かせます。えいかでなくえいがであると指摘します。助詞「を」をアカで書いてやります。見るという単語を確認してもう一度、17回目「私のしゅみはえいかをみる」18回目「私のしゅみはえいがをみるです」19回目「私のしゅみはえいかみることです」20回目「私のしゅみはえいがをみることです」と、「趣味」という単語が出てくる文を学ぶのに、こんなにひっかかります。しかも、今日できても明日には部分的に忘れてしまうのです。なのに「全部理解しているのに点数が取れない」というセルフイメージでいます。見栄をはっているような感じではなく、本当にそう思っているようです。「単に単語の意味が覚えられないだけだ」とまで言います。それがどれだけ問題なのかはわかっていません。篤い信仰心を持ったモスリムで、携帯の待ちうけ画面はメッカのモスクの写真。お祈りのために部屋にもどったりします。夏至期間だと、未明にもあるそうです。信仰そのものを尊重していて、特に同じ神を祀るキリスト教徒や、信仰を日常生活の一部としている敬虔な仏教徒が多いタイ人を尊敬しています。中国人は宗教を持たないときくが、なぜだ。だいたい、それだったらどうやって善悪の判断をつけるのか、と不思議そうにききます。かつてのロシアと同じで中国政府が禁じているということ、善悪は学校や両親から何がいいか悪いかということを習い、あとは法律を守ることにしているのだろう、と答えましたが、じゃあ法律を支えるのは何なのかと疑問に思っているようです。法律は人間の作ったもの。人間は間違いを犯す。政府が正しい判断をしていないことを宗教ではわかる。ということなのでしょう。またシントーはどういうものか、仏教と同じかというので、神道はジャストhonor神様。教義はない。読み上げているのは、神様の歴史、そして罪をきれいにしてくださいというお願い、神様どうかきいてくださいと言っているだけ、非常に原始的な宗教だ、と答えておきました。女子は32歳なのですが、形容詞が並ぶ英単語をみて、goodしかわからないと言います。いえ、身振りをします。身振りと筆談でしか意思疎通できません。ものすごく地味で、ぱっと見では幼くみえるのですが、しぐさはたいへんおばちゃんくさい人です。日本に友達もいないのだそうですが、それをあまり気にしていません。昨日は、男子が休んだので、女子と2人きりでした。1日が長いのなんの。わかったことがいくつか。大小さまざまな病院で看護婦を10年やってきた。採血・採尿の検査技師の資格もある。日本ではその資格が有効でなく働けないということが不満だ。他の人が彼女は看護学科にいきたいのでは、と言っていたが、いまさら看護学科に入りなおして、また実習なんてやるのはばからしいと考えているようだ。高校(看護科)では、英語の授業は1学期(3ヶ月)やっただけ。2人の姉が2人とも日本人と結婚して日本で暮らしている。姉が、そんな忙しいだけの低賃金の仕事なんかしないで勉強したほうがいい、と日本に呼ぶことにしたらしい。上の姉の夫は、IT企業を経営しているので、彼女がコンピュータを学んだらそこで働ける、と姉は言っている。しかし、本人は数学が大きらい。コンピュータは数学だし、抽象的で論理的な思惟があるので自分はぜったいにできないことがわかっている。だから、「帰ります」(日本語)という。日本語の勉強はおもしろい(!)けれども覚えるのが難しい。毎日の楽しみは、母国にいる彼とスカイプで話すこと。ただし共用のパソコンなので、なかなか思うように話せない。コンピュータを学ばせるつもりなら、今すぐパソコンを買ってくれと姉たちにお願いするのだが、今はどうせおまえは勉強しなくなるだけだからダメだと却下されて不満だ。彼は2歳年下。首都で店をやっている。看護婦の仕事は低賃金だがいい仕事だ。採血するときは泣かれていやだけど子どもが好きだ。子どもがほしい。結婚したい。だから「帰ります」という。いつ帰るのかときくと、夏休みに姉のところへ行って相談ということらしい。毎日かかってくる電話では、学費160万を払っていることを言われる、と。 せっかく学費を出したなら、生活費負担はあるけれど、もう半年遊学気分を楽しんでいってもいいと思います。しかし、これは帰ったほうが早く幸せになれる人です。てっきり、現職にうんざりして、将来を悲観して、背水の陣で留学に臨んだものの、まったく才能がないという哀れな人なのかと思っていたのだが、そういうことではありませんでした。持っている財布はルイビトンの派手なものでした。姉か彼からのプレゼントでしょう。2ヶ月で帰国した学生もそうでしたが、親兄弟などが「留学したらもっといい人生になる」と期待して送り出したところで、本人がまったくその気がなければ、どうにもならんということなのだと思いました。馬を水呑場に連れて行くことはできても、水を飲ませることまではできない、ということです。まことに世の中、豊かになったもんです。問題は、怠け者というよりおそらくLDの男子だけです。「日本語、話します、とても簡単。but、書きます難しい。覚えますもっと難しい」と言うような「とても簡単な」日本語で話しますが、彼の言おうとしていることは、日本語は話すことは簡単だが、書くことが難しい」ということで、覚えることがもっと難しいのだとしたら、これは日本語なんぞ学んでいないで、せめて英語圏に留学したほうがいいんじゃないかと思うのですが、かつてイギリスに留学しようとしたら、認可されなかったという過去をおもちのようで、誰かオーストラリアとかニュージーランドをすすめてやる人はいないのかなぁと思ったりします。あと1ヶ月の辛抱。
2006年06月28日
再放送が何度もあるのに、みるのが難しい時間帯にある。録るしかないか。シリーズ:ナチュラルワールド雄ザルと人間男性 人間の男性は、遺伝学的に暴力性を備えているのだろうか? チンパンジーとの関係はいかに?野生チンパンジー研究者ジェーン・グドール。彼女はチンパンジーの様々な行動様式を発見した功績で知られるが、2002年、悲劇が起きた。チンパンジーのオスが人間の赤ん坊を殺したのだ。これがきっかけになり、人間の男性が持つ攻撃性や暴力性と、人間の祖先であるチンパンジーのそれとの関連性にスポットが当てられるようになった。 07/02(日) 13:00~14:00 シリーズ:アンソニー世界を喰らうアンソニー:ペルーを喰らう 今回アンソニー・ボーデインがやってきたのは、ペルーだ。ペルーに残る先住民の遺産は、南米諸国のなかでも際だっており、文化面ではインカ文明の影響がかなり残っている。料理の種類は豊富だし、人々は皆、朗らか。そんなペルーを、まずは首都のリマから体験してみる。ペルーの奥地では、原住民を訪問。もちろん、お約束のマチュピチュにも足をのばしてみる。 06/29(木) 23:00~00:00 06/30(金) 03:00~04:00 06/30(金) 07:00~08:00 06/30(金) 14:00~15:00 07/03(月) 20:00~21:00 アンソニー:マイアミを喰らう 今回アンソニー・ボーデインがやってきたのは、マイアミだ。目的は、サウスビーチにあるお気に入りのホテル「ザ・ラリー」で、1週間のバケーションを過ごすこと。地元のレストランでスパイシーなシーフード・ミールを堪能し、この地域特有の生態系が保全されているエバーグレイド国立公園を訪れ、広大な湿地帯をプロペラつきボートでワイルドネイチャーを味わう。 07/02(日) 21:00~22:00 07/06(木) 23:00~00:00 07/07(金) 03:00~04:00 07/07(金) 07:00~08:00 07/07(金) 14:00~15:00 07/10(月) 20:00~21:00 アンソニー:ウズベキスタンを喰らう 旅から得られるものとは、思い出と、何よりも友だ。古くからの友人がアンソニーを、ウズベキスタンで行われる知人の結婚式に招待してくれた。ウズベキスタンは中央アジア中南部にある共和国で、かつてはソビエト連邦に属しており、今まで観光客が訪れることは少なかった。これまで、アレクサンドロス大王やチンギス・ハーンに征服されたり、ティムールの支配下にも入った歴史を持つ。アンソニーは首都のタシケントから旅を始める。 07/09(日) 21:00~22:00 07/13(木) 23:00~00:00 07/14(金) 03:00~04:00 07/14(金) 07:00~08:00 07/14(金) 14:00~15:00 07/17(月) 20:00~21:00 アンソニー:パリを喰らう 愛と光の町パリ。ここにはかっての植民地政策や世界各地からの移民がもたらした、いわゆるフランス料理とは違う食文化がある。厳しい労働をこなし、パリを支える労働者を満腹にする料理。アンソニー・ボーデインは彼らの食事やエスニック料理に興味津々。あるレストランで食事後、彼はカビ臭く埃っぽいワインセラーへと案内された。シャンパン棚の側で山積にされた骸骨を横目に見ながらさらに奥へ進み、迷子になってしまった。 07/21(金) 14:00~15:00 アンソニー:ニュージャージーを喰らう ニュージャージーには2種類の人間がいるそうだ。「ひとつはニュージャージー出身であることを認めている人。もうひとつはそのことを忘れたがっている人」。かくいうアンソニーは、ニューヨーク生まれのニュージャージー育ち。今回の旅は現地の食を探すと共に、ひとつの答えを求める個人的な旅でもある。なぜニューヨークのすぐ隣なのに、ニュージャージーの料理と文化は不毛なのか。ニュージャージーの個性とは一体何だろうか? 07/28(金) 14:00~15:00 江戸前寿司とちゃんこ鍋 日本を訪れたシェフのトニー・ボーデインが感銘を受けたのは、料理素材をそのまま活かして調理する日本人のこだわりだった。銀座の「鮨からく」の江戸前寿司職人と、東京最大の魚市場の築地市場に足を運び、その後、店で美しく盛られた寿司を堪能する。最後は、友綱相撲部屋の力士達と一緒にちゃんこ鍋にも挑戦。ここでも、栄養バランスがしっかりとれていることに感心する。 07/16(日) 21:30~22:00 07/20(木) 23:30~00:00 07/21(金) 03:30~04:00 07/21(金) 07:30~08:00 07/24(月) 20:30~21:00 シリーズ:世界の珍味を訪ねて温泉会席とフグ料理 ニューヨークのシェフ、アンソニー・ボーデインが日本を訪れ、熱海の旅館で温泉会席に挑戦。また、フグ料理に舌鼓をうつ。駅弁を買って新幹線に乗り、熱海に向かったアンソニーは、旅館で温泉会席を堪能。日本食に慣れない彼を芸者が優しく手ほどきする。朝食では納豆にも挑戦。東京に向かうアンソニーは、高速道路のサービスエリアにある自動販売機に感動。旅の最後は、フグ料理でしめくくる。 07/23(日) 21:30~22:00 07/27(木) 23:30~00:00 07/28(金) 03:30~04:00 07/28(金) 07:30~08:00 07/31(月) 20:30~21:00 精力増強の食材 今回アンソニー・ボーデインが訪れたのはベトナム。珍しい店を訪れ、精力増強の効果を持つと言われる食材に果敢に挑戦する。ベトナム式の人力車、シクロに乗り込むと、街を探索しながら人気のレストラン「コム・ニュー・サイゴン」へ。熱々のおこげを放り投げるという名物パフォーマンスを楽しんだ後は、女性初の法律家だったマダム・ダイのカフェを訪れる。ここで出されたものこそ精力増強の珍味、ヘビ酒とコブラの心臓だった。 07/30(日) 21:30~22:00
2006年06月27日
久々に例のライブが大失敗。やってしまった・・・という感じだ。お客様方にかなり失望の色がありありとみえて、こちらも相当にまいる。くやしい。ところが、なぜか今年は舞台のほうでもライブハウスのほうでもお客さんの差し入れが時々あり、写真撮りましょうとか、メールおしえてとかもいわれる。特にキビシーキャラになったわけでもなく、べったりしようとしているわけでもなく、積極的に親しくしようと近寄っているわけでもないのだが、会場の規模・客数が少なめであるので、相対的に距離が近くなってしまうことと、もともとそういうお客さんが世の中に増えてきているということがあるのかもしれん。次回は雪辱戦である。準備しなくちゃ。
2006年06月26日
テレホンカードとかもそうなんだろうか。職場で磁気カードのコピーカードが配られている。これがスチールの棚にはりついてしまって、とれなくて。キー!!といいながら、ひっかいていたら「セロテープでとったら?」といわれた。一発解決。なんだか、ガラスにがつんがつん頭をぶつけるにわとりみたいではないか。バナナをとろうと頑張っている猿より劣る。「雄ザルと人間男性」CATVアニマルプラネットでやっていた。表題、いちいち厳密に訳しているが、もとの英語は「man」だろう。うっかり途中で眠ってしまったので、再放送(7月2日昼)をみたい。途中までの記憶。チンパンジーは実は肉食もする。狩りもする。なわばりでじゃまなオスは、オス同士で結託してリンチして殺す。殴って殴って、あばら骨をおって、皮をはいで、たまをつぶし、内蔵をひきずりだす。それをやっているチンパンジーは、みんな大興奮、なのだそうだ。「生き肌断ち、死に肌断ち・・・」ということが罪であるということは、少なくとも日本じゃ2000年くらい前(推定)から禁じられておるが、あえて言葉にして禁じなければならないくらい、稀にやる可能性があるということではあるが、これをチンパンジーもやるということだ。哺乳類で同じ種族を殺すのは、2種類しかいないという。それが人間とチンパンジー(のオス)。いずれも非常に残忍である、とその番組はいう。自分が何をやっているのかわからない動物は、その行為を残忍であるとはいえない。しかしそんなサメとかと違って、相手の気持ちがわかる動物であるにもかかわらず、やるから残忍なのだと説明していた。ちょっと数字はうろおぼえだが、イギリス人の場合、男性は女性の24倍の数の暴力事件をおこし、男性は女性の246倍の数の性的暴力事件をおこし、終身刑の95%が男性で、男性は女性より凶暴だということだ。イギリス人は246件に1つは女性がする性的暴行というのがあるのだろうか?そんなの日本はどのくらいあるというんだろう?日本でも女性死刑囚というのは少ない。http://homepage3.nifty.com/tetuh/110.htmlここにあるように、約50年で累計583人の死刑囚のうち女性は7人だけだったということは、98%が男性だということだが、wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%9B%9Aの「日本の死刑」によると、2005年11月時点で、77人の死刑囚のうち4人が女性ということなので、94.8%が男性ということになり、イギリスの数字と同じになる。勝てる見込みがあると思えることが、男女の差なんじゃないかとかちょっと思った。「もてる力をセーブしてあえて暴力をふるわない自分」という認識がもてたら、世の中に対してもっと寛大な気持ちになれるんじゃないかとかも思った。カネを持っていて買わないのと、カネがなくて買えないのとの違いみたいな感じというか。持っていたら使ってしまうかもしれないけど、持っていなければ散在はできない。
2006年06月25日
掃除の達人「すみずみ消しゴム」http://www.smiledes.com/shop.php?category_id=23&item01_id=70えらい威力。まず洗面所をきれいにした。拭き掃除をして、なお残るヨゴレ。すごい。ふいてもこすっても塩素かけてもとれなかった水垢がとれ、新品のようになった。洗面所がすんだので、トイレ用に格下げ。わかりやすいヨゴレは一応ためないようにいつもブラシはかけているのだが、水の線が目立つ。ひたすらこする。ごりごり削っているようなもんだ。おお、真っ白。で、便器がきれいになると、床の埃とかマットについた小さいゴミとかがみえるようになった。トイレットペーパーで拭き掃除。マットは洗って交換。おかげで今日はおトイレがとてもきれいだ。おトイレがきれいになると、玄関の床が気になった。バケツですすいだりして、また洗面台が汚くなるのがいやだったので、捨てる予定の雑巾でがしがしと拭いた。裸足で歩けそうなくらいきれいだ。労働時間が長いと、掃除全体に不行き届きが多いことを知る。汚れているから掃除をするのじゃなくて、掃除をしないとヨゴレは発見できないという状態になっていたのだから。暇は捻出できるはずなのだが、そこまで配慮する余裕がない。本当に好きなことなら、配慮しようとしなくてもやるだろう。暇でほかにやることがないときや、やらねばならない仕事があって逃避的にする、というのはあるけれど、何をおいてもまず掃除しないとくつろげない、ということは全然ない。くつろぐための時間が、掃除しているとなくなるからなのだが、そもそもこれからくつろぐことを考えているときに掃除することなど全く思いもつかない。ありていにいうと掃除が苦手だということなのだが、一気にヨゴレがとれるのはおもしろい。で、たまに一生懸命やるという、結果的にもっとも労力のいる方法を選択していることになっている。正しいのは「汚れる前に掃除する」だ。したがって掃除が好きか嫌いかというと、毎日やるのは嫌い、やるならわかりやすく達成感が得られそうな掃除なら好き、ということだ。なんか、勉強とか仕事とかと同じじゃないか?地道なことを一生懸命やるのが正しい。最も時間的に効率よく、しかも大きく成果をあげられるからだ。正しいことができる人には、正しいことをしていない人が単なる怠け者にしかみえないだろう。「やればできることなのになんでしないの?」ということになる。だが、掃除も勉強も仕事も、自分で「やらなきゃいけないことだ」という自覚が本当になければ、やらないのだ。
2006年06月24日
八王子インターの近くに、村内家具というのがある。ラジオをきいている人は、「家具は村内八王子」というフレーズが頭にこびりついているところだ。偶然近くをとおったのでよってみた。ここがすごい。家具ばかりでなく、BMWやローバーの販売所も村内である。レストランがある。喫茶店がある。美術館がある。(しかもほんもの。)http://www.murauchi.net/store/hachioji/index.htmlそこの土地の左入町についての碑があった。村内家十七代目当主、日付は平成十七年とあった。裏手は創価大学の寮がいっぱいあった。
2006年06月23日
10年だ。毎年この時期は同じイベントの準備があるので、同じ愚痴をきくことになるのだが、「仕事しないやつがいる。おかげで一人に負担がかかる」という内容であることは変わらないのだが、「阻止しようとするやつがいる」といっていたのが、「押し付けてくるやつがいる」に変わってきているので、足を引っ張られて迷惑だということは同じでも、イベント自体の存在は認められてきたということなので、イベントの存在を良いことだと信じてやっている側にとっては、少しよくなっているともいえる。以下削除
2006年06月22日
やはり翻訳ものは読みにくい。原語をなるべく尊重してそうな分、よけいに。3ページ進んで2ページもどるような読み方になる。レストランの厨房の裏事情は結構おもしろい。「コックはアーティストじゃなくて職人だ」ということは、ぜったいに事実なのだが、そういう立場を明確にした料理人のエッセイは、めったにないんじゃないだろうか。アンソニーの作ったごはんが食べてみたい。*****滝浦真人氏の敬語論の本は、面白いのになかなか進まず。デザートも同時に出されたら先に食べちゃうもんなぁ。*****「痩せた?」ときかれることが増えた。「うん。努力した」と答えている。体重かける30kcal食べていると、その体重をそのまま維持する人が多いらしい。40kgの人は1200kcalだし、80kgの人は2400kcal。痩せたければ、この数値を越えて食べ続けないことだ。
2006年06月21日
尊敬する人物は誰ですか?という質問。一応「りょうしん」と答えるのが、身内を話題にだす場合、過剰なまでに謙虚であることを美徳であるとするはずの日本人が、もっとも無難に答えた場合の模範解答。きんさん・ぎんさんは、「天皇陛下です」と答えていたな。やっぱりこの国は、偉大なる将軍様と口をそろえて答えられる国のベースを作った国なのだな。で、じっさいどうよ?というので、こんなのがあった。http://q.hatena.ne.jp/1095647173歴史上の人物かぁ。「阿倍仲麻呂の従者の子である翼と翔」じゃ、もともとの情報が少なすぎるし。というか、興味のある人物じゃなくて、尊敬という視点で見てないから難しいな。こんな質問をされそうな場面を考えると「大黒屋光太夫」とか「ジョン万次郎」とかかな。生きる力を強くもって、チャンスを確実に実現させていったところが尊敬に値する。でも、それじゃあまりに「結局は本人次第」という姿勢がバレバレになってしまうので、まずいな。「支倉常長」あたりにしようか。上司伊達政宗によく仕えていたことだし、ウケはいいかしら。それとも「アン・サリバン」かなぁ。露骨か。とかいう戦略を考えて選ぼうとするから、なかなか定まらないなぁ。こういう質問って、無難なようにみえて、思想チェックになるんだよな。正直に答えて落ちてもまずいが、答えさせてそれで落としても、訴えられたら後味悪いし。まあでも、賢い人しか尊敬できんわ。ナニをもって賢いとするかは、いろいろなのだろうけど、(なまなましいところでは師匠なのだが、身近に実在する人物だと、「おれじゃねーのかよ」と気分を悪くする人もいると思うので、それを言うのはむずかしい)とりあえず「リスペクトしている」という言葉では、ぜったいにおきかえたくないくらいの迫力があるということか。マスコミにでている年の若い人に対し、賢いなあと思うことは、今のところめったにない。ほりえもんは、はじめからバカにしかみえなかったし。しかし、山口県光市母子殺人事件の遺族である本村洋さん。この人はすごい。体験を共有していない相手を前に、これほどまでに固唾をのんで聞き入らせてしまうような、一言一句無駄のない客観的な話し方ができるという人って、あまりいないなと思う。壮絶な体験と向き合って生き続けられるのは、強靭な精神力があるからで、その精神を支えているのが明晰な頭脳であるということだ。いつのまにか、「犯罪被害者遺族」という語が認知され、裁判に対する視点が、被告人(加害者)側ではなく、被害者の遺族側におかれて語られるものが増えたなあと思っていたが、考えてみると、この人の活動の影響は大きい。死刑の是非ではないところで、司法制度に不備が多いことによっても、犯罪被害者の不幸が拡大されていることは、被害にあった人しか、気付かなかったことだった。でも、「切り取って」しかきいていない人は、「報復としての死刑という野蛮な習慣を認める気か」という批判で簡単に分類してしまうのだろう。弁護士は、元少年であった加害者が、反省の色がだんだんみえてきたというのがものすごくうさんくさくきこえてしまうせいで、そいつは世間の心象を決定的に悪くした自分の手紙を流出させた人物に対し、うらみを持っているんじゃないだろうかとさえ思ってしまう。加害者は、相手をどういう人だと思ってそんな手紙を書いて出してしまったのだろうか。それだけでも、卑劣という評価以前に、ものすごく頭の悪い人のように思える。頭の悪い人に、ばかなことをさせない教育プログラムというのは、そのうち必要になるはず。
2006年06月20日
ユニクロで5点買った。全部で4000円だった。これで今年の夏が越せる。さびしい~。
2006年06月19日
過去60回くらいの日曜日を、あーでもねー、こーでもねーと練っているのだから、600時間。これと同じだけ外国語を勉強していたら、ゼロからで3級楽勝合格のレベル。と思うと、すごいことではあるが、たいしたことはないわな。アマチュアにしてはなかなか、プロと名乗ったりしたらはなでわらわれるということで。10年選手には、ぜったいかなわないどしろうと。もっとふつーはよゆーをもってじゅんびするものなんだろう。笑点見終わってからが勝負、というのが遅いのはわかっとる。同じ時間かけるなら、朝からやっとけばいいのに、きがつくと朝まで。で、みのもんたを見て思う。おまえのかお、何時だかわからんぞ。この業界、ふつーはえいぎょう活動はしないわな。パーマネントの人たちが、どこかにえいぎょうにいかされることはあっても、パートタイマーが自分を売り込むなんて、ありえへんし、きいたことが…なかった。ところが、「これこれいう優秀な人なんですが、得意分野・ジャンルはこんなことだから、貴校の方針ともぴったりだと思って、興味を持ちました。今は有名などこそこでパートタイマーだが、募集があるようなら連絡ちょうだい」というのを(もっと文体は丁重だが)、てきとうな部署にメールで送っている人があるのを知っておどろいた。ふつうの企業へのエントリーって、こんな調子なんだろうか。こんな不躾なのって、かえって逆効果なんじゃないかと思うのだが、言い方とかやりかたがまずいけど、実はじわじわとそんなふうに常識がかわっていっているのに気がつかないだけなのかとも思った。
2006年06月18日
といえば、キャンディキャンディだったのだが、違う。アンソニー・ボーデインという人がおもしろい!いま、ディスカバリーチャンネルで、「アンソニー世界を食らう」というのをやっているんだけど、すっごいイイ(・∀・)胃が丈夫でハンサムって、なかなかいないってのもあるけど、好奇心が強い皮肉屋で、慎重なようで大胆で、冷めていて熱いっていうのかしら。キャラクター最高。異文化受容が、ひじょうにナチュラルで洗練されていて、カッコイイのである。カレの著書の『キッチン・コンフィデンシャル』新潮文庫 まで買った。電車の友である。翻訳ものの文庫なんて、何年ぶりに買っただろう。というか人生何冊目だろう。専門書くらいしか翻訳ものは読んでない。って、専門書くらい原著で読むべきなのだが、それができていたらこんな状態じゃないと思う。
2006年06月17日
知らないことを知っているふりをするということは、実はある。相手が前提として言うことを、知らなくても「私ってコーヒー好きじゃないですか」「え、そうなんですか」と、いちいち「知らない」ということをサインとして出さないということがある。「ほら、○○学科の先生みたいにセクハラでつかまったりしてもまずいし」「ああ確かに、それはまずいですよね」と、実は「そうか○○学科の先生はセクハラでつかまったのか。誰だろう」と思いながら、スルーしたりする。それから、知らないことだったんだけど、付け焼刃で覚えて、さも昔から知っているかのようなふりをして教える、ということがよくある。人に何かを説明する仕事についている人は、たいていやっていることだ。信用に関わるから「知らない」といえないのだ。だが、全知全能の人というのはいない。どこまで知っているべきことで、どこからが知らなくてもいいことなのか、線引きをして、知らないということを自覚して、できるかぎり調べた上で、ここまでわかっているということを言っても問題はないことも多い。うろおぼえの知識であれば、注意して説明する前に調べなおすものだ。たとえば、教室で「その単語の漢字はなんですか」ときかれて書ければいいのだが、「暫くなんていう字は書けなくてもいい」と思ったら、「昔の人は漢字を使うこともあったけれど、今は普通は漢字で書かない」とか「忘れた。ちょっと辞書貸して」といって笑いをとったりしながら、信頼をそこねないようにもっていけばいいだけだ。「日本人はなぜ捕鯨をしたがるのか」ときかれたら、現在の日本人でどのくらいの割合で捕鯨をしたがっている人がいるのかとか、法律とか条約でどうなっているかわからなかったら、「食べたことがあるけれど、鯨はおいしい。それに鯨を少しとったほうが、小さい魚が生きていられるという利点もあると私は思う」と自分の意見で答えてもいい。「竹島は日本と韓国とどちらのものだと思いますか」と聞かれたら、「どちらかというと、渡り鳥のためのものだと思う」と逃げたりもするが、感情的な相手でなければ、領土を設定するという考え方を先に導入したのが日本なので、日本のものであると答えるつもりだ。(そういう人に会ったことはないが)ある国では、道をきかれたら、知らなくても捏造してでも答えてあげるという習慣があるらしい。日本人の感覚からしたら、正確な情報だけを教えてあげるのが親切なのだが、その国では、状況を重視し、要求を断るのは親切ではないという丁寧さの価値観があるのだろう。それでは迷ってしまうじゃないかというと、「また誰かに聞けばいい」と日本人からしたら考えられない効率の悪いことになっているが、それは習慣だから仕方がない。ところが、日本人でも、どうしても「知らない」と言いたくないプライドの高い人もいる。サービス精神だけは旺盛な同僚で、うろおぼえのことを事実として言って、それをまた「こんなことがあったから、こう答えたんです」得意気に披露する人がいる。事実とあまりに違うことが多く、いちいちキニナル。相手にとって、「知っているべきこと」と「知っていたらいいこと」と「知る必要のないこと」があり、時と場合によっては「教えたいこと」もセーブするのが、説明する仕事の人のやるべきことだ。「知っていること」と「うろおぼえのこと」と「知らないこと」があって当然なのだが、「うろおぼえのこと」であれば、「知らないこと」に近く、調べて「知っていること」にしてから説明するべきだ。「知っている」という思い込みは怖い。
2006年06月16日
2対1で、ストレスありまくりの仕事。「せんせー、それは蛾ですか」「蛾ではありません。蚊です」「私、べーぷ、あります、へや。せんせい、ほしい?」「私も持っています。いりません。ありがとう」本当は蚊ではなくてアレルギーなんだけど、説明もめんどくさいし、する必要もないと思う。じんましんではなくしっしん。かさかさ。パニック障害の子もそうなのだが、全面的にいやだと思って取り組んでいるわけではなく、本人は困難な中でも楽しもうと思っていて、それなりに楽しいと思っているのに、体は正直だという状況なのだ。右手側に対し、ブロークンイングリッシュを加え、左手側に対し、漢字で筆談しながら、平易な日本語で話す。一応、誇り高き人々が相手なので、「おまえら、全然できないから、教科書進めるのやめて、もう一度もどるぞ」とは言わない。「7月に期末があります。期末は作文のテストがあります。」「おー、どのくらい書きますか」「この紙、いっぱい」「ああー」「作文はたくさんあります。だから今日から練習です。」「ありがとうございます」と気分よく復習に戻す。「椅子の上に猫がいます」が、「椅子の上にれこがあります」となる。「ある」と「いる」の違いを説明。「椅子の上ないにつくがあります」と書いているのは、「椅子の下に靴があります」と書くべきところだ。活用もでたらめ。形容詞(イ形容詞とよぶ)と形容動詞(ナ形容詞とよぶ)を説明。「きれい」がどうしても「きれくて」になるのは、よくあること。これはもう「きれいな」で覚えるために、「おかあさんはどんな人ですか」「きれいな人です」「どんな人と結婚したいですか」「きれいな人です」「先生はどんな人ですか」「きれいな人です」とオールマイティな回答として、パターンをたたきこむ。難関の動詞。「テ以外全部わかります」というが、テ以外は活用のパターンを理解したものが多いというだけで、パターンを全部覚えているわけではなく、まして言えるわけでもない。五段活用動詞は、1グループ動詞とよぶ。動詞が、「ない・ます・○とき・ば・命令」書きます か き く け こ待ちます た ち つ て と飲みます ま み む め も「なんとシステマティック!美しいです」と喜んでくれたけど、こんなのとうの昔にやっとる。「なければならない形、ありますか」というが、それは「ない+ばならない」。「普通形はどれですか」という。普通フォームという名づけ方が悪いんだよな。普通スタイルである。「動詞ます→辞書形(終止・連体形)」「動詞ません→ない」「動詞ました→タ形」「動詞ませんでした→なかった」「○○です→だ」「○○でした→だった」「イ形容詞かったです→かった」この右側が、普通スタイルだ、と説明。「おお!「た」の意味は過去ですか」といわれ、「大体そう」と適当に答える。「「て」の意味はなんですか」といわれ、「ている」とか「てください」を作るための形。意味はない、と答える。「て形はどれですか」という。基本は「いきしちにひみいりい」の段。それで昔は、書きます→書きてだったが、今はkakiteがkaiteになった、昔は飲みます→飲みてだったのが、今はnomiteがnomdeなった、とおおざっぱに説明。「昔の日本語にたいへん興味があります」と殊勝なことをいう。今は「た」と「て」がつくときは、次のルールどおりにかわる。音便化するということだが、それは訳す能力がないので省略。き(いて いた)※ただし「行きます」のみ例外で「行って」ぎ(いで いだ)し(して した)にみび(んで んだ)いちり(って った)混乱部分はだいぶほぐれたらしい。ただしそれがすべて記憶し、正確に書けるかというのは別の問題。
2006年06月15日
ネットで買えばいいのだけど、すぐに読みたいので、何軒も書店のはしごをした。店員さんに、呼びかけ語もなにもなく、目をみて、「きゅうちゅうかしこどころ…ナニナニ、という本はありますか」と、発音すると「はい、少々おまちくださいませ」と言われ、その次に画面をみせながら、「お客様。こちら「きゅうちゅうけんしょものがたり」でしょうか。もうしわけございませんが、ただいま在庫を切らしておりまして」と言われる。ところが、「すみません、あの本をさがしていただきたいのですが、きゅうちゅうかしこどころナニナニというタイトルなんですが」と前置きをすると、「すみません。もう一度おねがいします」と問い返されたりする。「九州なんでしたっけ」とか。つい、「き・ゆ・う・ち・ゆ・うで、ゆは小さいゆ」という教室的な答え方をしてしまったが、普通の日本人に対してなら「宮の中の宮中です」だよな。これを数度繰り返し、いいかげんネットで買おうかなぁと諦めかけたところ、ようやく手に入れたら、やはりケンショ物語というのが、その本の正式名だった。(賢所はカシコドコロと読むのが正しい)この本、一読の価値ありです。まず、こどものころの遊びを思い出しました。その遊びというのは、例えば、「うんこふんだタケちゃんにさわった人、えんがちょ」というようなやつです。これって日本だけなんでしょうか。いや全国的じゃないのかな、今でもあるのかなぁ。だいたい5歳から10歳くらいのときに、はやっていました。世代限定か、時代限定かわかりません。うんこに限らず、不浄なものにふれた人に触れることを忌避するというものです。不浄なものにふれた人は、その瞬間、「バイキン」とよばれます。「タケちゃん菌」に触れたら、その人も感染するのです。いや感染ではないですね。菌の受け渡しで、タケちゃんがウメちゃんにタッチしたら、タケちゃんは即座に「バリアー」といえば清浄になるのです。「バリアー」と言った人には保菌者は触ることができない、というルールがあります。で、「ウメちゃん菌」になり、ウメちゃんが他の人に触れるというやつ。他人にうつせば完治です。「ケガレ」の認定が、子ども社会の日常にあったわけですが、ケガレた人に対して、後年のことばでいう「いじめ」をすることに相当するので、先生の前でやることははばかられました。えんがちょは漫画で覚えたことばですが、「バリアっ」とか「かぎしめたっ」とか「とんちー」とか「セーフ」とかいっていました。「とんち」の語源は不明です。アクセントは「高低高」で、「バリア」と同じです。ジェスチャーアクションもあります。「バリアー」は、ラジオ体操第一の1番目の動きに似ていて、自分のまわりにガラス製のバリアーを張り(ガッチャマン?とかに出ていたやつ)、異物が入らないよう結界を作ります。テレビでは、欽どん良い子悪い子普通の子の、おっくんというぼんやりした高校生が、人差し指と中指をからめて言っていましたが、少々タイムラグがあり、「東京は案外おくれているんだなあ」と思ってみていました。「かぎしめた」は両手それぞれの親指で輪をつくり、知恵の輪みたいにかませます。たぶん、これは幼稚園のころからありました。小1のときは「バリア」になり、バリアだけだと「そんなの関係ない」というルールを一部無視する乱暴者の保菌者に破壊されるので、「かぎしめたー、ばーりーあ」と2ついい、強くするようになりました。こうした呪文は、すぐに効力を失うのです。「かぎしめたバリアー」のあとに、「とんち」がはやりました。親指を立てます。しかし、ジェスチャーが野球審判の「アウト!」と同じだから、結界にならないということで、すぐに「セーフ」というのにかわりました。野球審判の「セーフ」と同じです。あまりに呪文がかわるので、これは自分で作ってもいいんだろうか、と思い、「毒消し飲ーんだ」というのを言ってみて、ちょっと騙されやすそうな子に、ドリンク剤を飲むジェスチャーをして、「いまはそういうんだって」と言ってみたことがあるのですが、他の人に広がりませんでした。セーフは、結構寿命が長かったけど、そのうちそうした遊び自体をやらなくなりました。高学年になると、菌が悪いものとしてではなくなったのです。例えば好きな男の子がいる人は、「○○くん菌」と言いながら、その男の子の机を手のひらでこすり、自分のカラダにべたべたとくっつけて喜んでいました。なんか、菌というものの認識が、神道のケガレの発想だったのが、けむりをあびて御利益をもらう仏教的なものに変容していったようです。で、こんな思い出したことで長くなってしまったので、本の内容については、また今度。
2006年06月14日
スーパーに寄った帰り道、頭の中にこびりついて仕方がないメロディー。♪あなたも私も CGC♪あれこれいろいろ ショッピング♪やさしく おいしい 品揃え♪おしえーてあげたい、おしえたい」なんか押し付けがましいし、変だよなぁ。と思って、確認したら間違えて覚えていたのがわかった。♪あなたも私も CGC♪作る人 売る人 食べる人♪互いに役立てありがとう♪助けられたり 助けたり♪上手な買い物 CGC♪手籠片手の 顔なじみ♪安くておいしい品選び♪知らせられたり 知らせたり♪便利に使おう CGC♪あれこれ悩みの ショッピング♪安くて豊富な品揃え♪教えられたり 教えたり♪http://www.cgcjapan.co.jp/song/song.html
2006年06月13日
精気がすいとられるような感じで、砂漠に水をまくこと2ヶ月半。発芽の気配、おぼろげに、ある・・・のか。あまりに通じないので、身振り手振りが多くなる。日本語は長いセンテンスはどうにもわからないようだし、へたくそ英語ばかりでストレス与えてもいかんし、単語まじりのパントマイムに近い。それなりにうけてくれている。その中の1人で、これまでぜんぜんしゃべらなかった非英語圏のが、 「せんせぃ、かわいい」2語文が出たよ。(4歳年下の女性にいわれてもなあ)そういうつもりでやっているんじゃないんだけどなあと思うが、まあ病気になる人がこれ以上増えなければそれでいい。日本人のほうでは、いろいろお褒めのことば、(今日はよく準備してあってよかったと思います等、ものすごい高い位置から)をいただくことがあるが、 「先生の授業を受けると元気になります」と、書かれた。全力でやっとる。あとで酸素や水の補充が必要になるほど、ぜーはーいいながらやっとる。ああおかしかっただけじゃなくて終わるように、ちゃんと知ることも考えることもあるように組んでおるつもりだ。傍目にはほとんど大道芸人だが。芸人は芸を磨いておくしかない。ピンではどーせ一人前扱いされないしなぁ。芸人の評価は芸のうちでしかされないけれど、そもそも芸というもの自体が低い評価でしかない。こんな芸ごとき。なんでそこまでやるのかといえば、そんな程度のことなのやっているということだ。
2006年06月12日
わざわざ300円払って6月号のテキストを買った。問題にしていた文を確認した。You have a percel for you on the table.というやつだった。カリフォルニア出身(20)の女子にみてもらったら、ちょっと変といった。やはり「you」の重なりが変だというのだ。You have a package on the table.かThere is a package for you on the table.であろうと。「パーセルでも、パッケージでも一応いいけど、自分は普通はパッケージかな」ということだった。わー。けっこう直感があたってるんじゃん。プロブレムは普通に問題ということで、問題なかった。(へんなにほんご)おふろの準備は、家によるが、こどものころは割とふろだったりするということだった。テキストを読んだら、父日本人・母アメリカ人の東京に住む夢のさんちという設定だった。なので、なおさらふろの準備をするのは妥当だ。当然ネイティブチェックもしてるんだろうけど、そのネイティブさんというのが、(1)いいかげんである場合あるいは(2)長年現地に暮らし、学習者のへたくそなことばを日々浴びせられているせいで、内省判断がスポイルされていて、かつ、チェックを頼んできた人とは、軍隊並みに上下がはっきりした関係で、とても正面きってあれやこれや難点を指摘したり、大きく手を加えるわけにどうやってもいかないような圧迫感が与えられているような場合には、その教科書で作られた会話はネイティブそのものというより、むしろ現地語直訳っぽい不自然な感じになったりする…だろう。いや、そうなるものだ。NHKのテキストがそうかどうかはわからないけど、生きモノであることばをテキストに構成して、ネイティブのような会話として表現させようとするのは、難しいんだなぁと思った。
2006年06月11日
すまん。水をさすようで。ただでさえスポーツに興味が薄いうえに、国際試合というと、ほんとうに「いらん」と思う。見るのは、本当にその競技が好きで、ルールもわかっている人たちだけでいいがね。一般市民の話題にすることを強制しないでくれぇと思う。中田以外顔も知らないのに、さんとすとか、おおぐろとか、まきとか、かわぐちとか、なかむらしゅんすけとか、どういう役割なのかもわからないまま、固有名詞が脳みそにわりこんでくる。やめてぇ~。無なら問題ないのに、おかげで混沌に陥る。音楽とか、スポーツ(特に球技)。これに関心が乏しいと、人としてもまずいような感じになる。自分で能動的に実際やれる人は、それで人とつながるきっかけにできる。受身的に、観賞・観戦するだけでも、人と共通の話題がもてる。(美術は製作でも鑑賞でも、人を介することはめったにない。)しかし、どうも「社交のために」と取り組む気になれん分野だ。といって、社交のために取り組めんでいるような分野が、ほかに何かあるのかというと、思い浮かばないのだが。
2006年06月10日
『日本語不思議図鑑』を読んだ。写真入りでたのしい作りになっている。『のだめ』新刊が出ていた。人形つきのは予約限定ということだったので、仕方なく予約したのに、普通に並べてあった。うーん。発注の概数に利用されたのか。『宮中賢所…』という本を探しているが、書店で出会わない。ネットで買うしかないかな。お金がないのにも本だけは買えてしまうのが不思議。お金がないときは、買いたい本をセーブしている(気分な)のだが。着付け教室の先生たちは、大根1本の値段に悩んでも、なんじゅうまんの着物やなんまんの紐は平気で買えるらしい。着付け教室は、師範科の上にプロ科が設定された。なかなか卒業できない仕組みにし、授業料がたくさんとれるようになった。これまでの師範、今後はプロを卒業すると、そこの教室の講師が再生産できる。講師として残れる人は、給与から(あるいはそれ以外の収入から)かなりの額を、そこで限定品として売られる着物につっこむような人たちばかりだ。無償労働させて商品販売しているようなものだ。すごいシステム。
2006年06月09日
「んです」を学習。語を選択して変形させて書けという問題。[好きです ありました ありません 生まれました](1)遅かったですね。何か[ ]ですか(2)いつも車で買い物に行きますね。近くにスーパーは[ ]ですか(3)時々大阪弁で話しますね。大阪で[ ]ですか(4)いつも帽子をかぶっていますね。帽子が[ ]ですかこのレベルでやるのはちょっと難しいとは思う。よくある誤答(1)遅かったですね。何か[あたん]ですか(2)いつも車で買い物に行きますね。近くにスーパーは[あらないん]ですか(3)時々大阪弁で話しますね。大阪で[生まれましたん]ですか(4)いつも帽子をかぶっていますね。帽子が[好きん]ですか普通は、こんな感じの表記や文法の間違いが、どれか1つ2つという程度だ。ところが、(1)遅かったですね。何か[生まれた]ですかいったい何を生んで遅くなったというのですか!文の意味をアクションと絵で説明。(ようやく爆笑)意味を考えろ。状況を考えろ。とついつい思ってしまう。お互いつらいのだが、負担は向こうのほうが大きいらしく、精神的に病んで通院するようになってしまっている。(彼らはあと2週間なので、どうにかもちこたえてほしいのだが。)母語の英語で説明してくれるのだが、ブレイクダウンが「心神耗弱」という意味があるのか、とか、これは「過呼吸」という意味の語をいっているのだな、ということが文脈でわかる。こちらは「マイカズンもセイム。だからアイノウ。シーキャントライドオンザトレイン(電車はget on)。いつもシーハズ ア ジスバッグ トゥー。(such a paper bagだ)バット、○○さん、だいじょうぶ。テイクイットイージー」というような、オールモストブロークンな英語で答える。こんな言語感覚の人に習っていたら、そりゃあ不安で病気にもなるかもしれん。例の代車での帰途、偶然NHKラジオ基礎英語を聞いた。さすがにそのレベルだと、意味だけはわかるのだが、しかし「そんな言い回しをするとは知らなんだ」と思うものばかりで焦る。「机の上に小包届いているよ」が、「あなたはもっている、あなたの小包、机の上」というような言い方は咄嗟にはできんなぁ。haveが「持っている」としか解析できない時点で英語的感覚がないのがばればれだが、この場合、せいぜい、「いいニュース。小包がきた、あなた宛の。机の上にある」としかいえないわな。数学の問題は「math problem」というらしい。problemという単語が問題を意味していることは知っていたが、これまで出合った使い方では、「解決が困難な問題」というようなものばかりだったので、たかが子どもの宿題ごときならquestionとかexerciseでいいんじゃないのか、そんなおおがかりな語を使うとは、と思ってしまった。意味を考えすぎても、よくないということか。しかも、登場人物はみな英語名前なのだが、母「bathの準備ができたよ」娘「ちょうどいいタイミング。数学の最後の問題ができたところなの」というスキットだった。きっとこれは、bath=お手洗いで、便器の修理の話にでも発展するのかと思ってしまったが、解説は普通に母「おふろできたわよ」ということだった。普通、シャワーだから、風呂は焚かないだろうに。bathroomがお手洗いでも、bathはやはり風呂なのか。英語ワカラン。状況から判断してばかりいても、よくないということか。寝る前にアニマルチャンネルで「アリの生活」を見る。英語字幕で、文を読んでいると英語が耳に入らず、英語をきいていると意味がわからず文も読めない。「花粉」は「ポレン」らしい。「(甘い)樹液」のことを「ネクター」といっているのはきこえたが、これはどうも比喩らしく、辞書でひくとsapとかmilkということだった。(木の乳としてしまうのもすごい。)興味のあることからはいるのが語学習得の王道。マニアックなことにしか興味がないと、入り口の教材選びも難しい。
2006年06月08日
YouTubeっていうのを最近知った。どういうものかという概要はこんな具合。(wikiなので偽情報も混じっているかも)http://ja.wikipedia.org/wiki/YouTube著作権無視なので、今後どうなっていくのかわからんが、とりあえず今は見たいものが無料で見られる。「およげ!たいやきくん」を、絵を見ながら聴けたりする。著作権といえば、青空文庫は、死後50年で切れる著作権を利用して拡充していったが、日本の著作権法が「国際間(といってもEUと米国)の調和」のためその著作権保護期間が70年に延長しようとしてきて、非常に問題になっている。で、それについて書かれた本がDVDつきで出ている。(野口英司『インターネット図書館青空文庫』はる書房)利用者としても、やはり阻止したいという気持ちがあり、興味深く読んだ。70年という単位はどういうものかと考えると、立派な著者・作詞作曲家が活躍していたことを記憶している子または孫が死ぬまで、ということになる。例えば、偉業をなした父(享年35歳)とか祖父(享年75歳)で亡くなった場合に、その葬儀に参列した当時5歳だった子どもが75歳になるまでは、保護されるということだ。権利を守ることで、遺族の気持ちを踏みにじらないようにできるという面もあるだろうが、やはり遺産で食えるようにするためという面がキニナル。男性版『ブリジットジョーンズの日記』といわれる『アバウト・ア・ボーイ』という映画をCATVで偶然見た。映画自体は、非常におもしろかったのだが、もうひとつ気付いたことがある。ロンドンに住む軽薄な主人公ウィルは、一発屋の父の作ったクリスマスソングの著作権使用料で食っている優雅な無職の38歳独身という設定だ。著作権保護期間が50年あり、また著作権料もイギリスほどにはそんなにでかくない日本では主人公はなんと無謀な人生観を持っているのだろうと思ってしまうが、これが70年保護されているのだから、いくら周囲が「いつまでも、そんな暮らしをしているのはよくない」といっても、本当に一生それで暮らせてしまうという見込みがあるということになるので、設定は妥当だ。著作権保護は、死後の権利になるので、実際にその仕事をした人がそれによって利益を享受することはない。家族ではなく自分のことだけを考えたら、むしろ無料で使用できることによって、仕事の成果が広く長く世の中に浸透していったほうがうれしいことなのではないか。著作権保護期間は50年でも長すぎるんじゃないかと思うが、日本仏教的感覚が浸透してる日本では多くは50回忌(正確には49年目だが)で法要はおしまいにする慣習があるので、その単位が馴染んでいるんじゃないかと思う。ただしそれは、「人生50年」時代からのものなので、寿命が延びた今となっては、70年に延ばすことが同じ意味を持つことになるのだろうか。遺産で食えるという点では、地主に近い。地価が高い某市では、表向き農業で実際は不動産業で食べている一族がいるという。まちBBSの情報では、大家はマンション住人は小作人扱いで、住人を苗字で呼び捨てで呼ぶとか、遊んで暮らせていいですねというと「そうでもありません。相続税が大変で。私たちはこのまま一生働かないで暮らせますが、孫の代にはどうなるかと思うと心配で夜も寝られません」と答えたとか、まことしやかに語られている。働かないで暮らしていける親をみて育った子どもの将来を憂うのは、教育上正しい。対策としては、ちゃんと働いているところをみせるべきなのだろうけど。(頭を使わないと3代目には何も残らなくなるような税制があるのが原因だが、憂うならばつまり頭は使うべきだということだ。)持たざるものとしては、既得権益の引継ぎはあまりしないでほしいなぁと思ってしまう。だが、海賊版の横行とかをみていると、今後まだまだ良質な作品を生み出せそうな製作者の利益が奪われてしまうことはまずいなぁと思う。有名な話だが、爆発的ヒットした「およげたいやきくん」の場合、歌手にはまったく利益がはいってきていなく、会社がまるもうけになっている。こういうものは、権利をもつもののために保護してやる必要はないんじゃないかと思ってしまう。YOUTUBEの場合、広告とのタイアップとかで、クリック1つで子門真人さんに利益がはいるようになればいいのだが、こういうことが簡単にできる方法は、ただの紹介者に利益がはいるということになってしまうんだろうなぁ。
2006年06月07日
英会話教室とか、アメリカ仕込み系の日本語会話の教材とかって、やたらと「相手に対して文句を言ってください」というテーマのロープレとかが多い。コンプレインというやつだ。カフェラテを注文したのに、カプチーノが来たなんて、「そんなこまかいことなんて、どっち飲んでもいいよなぁ」とか思ってしまったり、外せない用事があるのに残業してくれと言われるとかいう設定でも、「上司の頼みを断れだなんて、母語でもできないようなことを外国語でできるもんか」とかなってしまったりする。でも、アメリカ人ってのは、ずいぶん自己主張が強いんだなぁ。なんでもずばずば言うんだなぁ、と感心したりするが、誰に対しても、どんな場合でもストレートに言う、というわけではない。「どうアドバイスしますか」ということで、アメリカでの調査。(うろおぼえ。)<A>夜、遅くまで残業している先生に会ったとき(or友達に会ったとき)(1)直球で(そんなに働くのはやめたほうがいいです。等)(2)間接的に(もう遅い時間ですよ。等)(3)コメントのみ(自分には、とても真似できないなー。等)<B>レストランで。相手が注文しようとしているのは、超まずいもの。(1)直球で(やめとけよ、超まずいんだから。)(2)間接的に(それっておいしくないよ。)(3)コメントのみ(それ、前にたべたけど、今日は別の食べる)日本人は、目上の人に対してでも、直接アドバイスできちゃう。相手が友達ならどんどん言っちゃう。「相手のためを思えばこそ」という態度が、それが親切で丁寧なことだと受け止められる文化だからである。損をしないように、残念な気持ちになるような体験をしないように、よそで恥をかかないように、道を誤らないように、導いてあげることが親切なのだ。一方、アメリカ人は直球でいうことは、目上であろうと友達であろうと普通はアドバイスをしない。調査では(1)を選択した人は、どちらもゼロという回答だった。友達に対しては、間接的にアドバイスする人が若干ふえるが、それでもほとんどが(8割以上)コメントのみ。つまり、アメリカ人は、自分が自己主張したいと思う気持ちのまま、相手にも、自己主張できるようその意志を尊重するということだ。「決定権は自分にある」というところを踏み越えてしまうような、「はっきりとしたアドバイス」は、命令に近いようなニュアンスになってしまうためか、実はアメリカ人はあまりしない。「自己主張の強い相手に対し、自分も同じように自己主張しよう」と意見をいうのは、成功率が高いたい所の仕方で、「自己主張が強い相手に対し、逆に相手の問題点も主張してやろう」と意見するのは、対処の仕方としては失敗することがおおいかもしれん。ユーマストまで言わなくても、ユーメイでもずいぶん立ち入った感じで、失礼だったりするんだろうな。まあそんでも、そういう構文が直訳でなく存在しているということは、つまいアメリカ人にとって「アドバイス」というのは、日本人が思う「アドバイス」とは違って、「その人がもともと望んでいることをそのとおりに言う」ということなのかもしれない。「キャシー、そのドレス似合うなあ」「ありがとう、サム。」「きみはそういうドレスを着るべきだ」とかのお世辞と、「おまえのケツのように汚い部屋を掃除すべきだ」とかの命令しか、そういう助動詞はあまり使わなかったりして。どうでもいいが、どうしてNHKの9時のニュースは「デスマス調」にしないようにしているんだろう。何か、特別な意味があるのか。あるいは、プロジェクトXの語りを引きずっているのだろうか。こんど電話をかけてきいてみようっと。
2006年06月06日
しまいそうなくらい、わりとうまくいった日だった。だんだん「芸人」な感じに落ちている。机の上に正座して、紙でも切ってしまいそうな勢いである。(やれと言われれば、それもできるけれど)外国語はできないが、外国語のものまねなら6つくらいできる。(意味も需要もない。コサ語の真似をしてわかる人はどれだけいるか)たとえでなく、ほんとうにそんなところまで来てしまっているんじゃないだろうか。芸術ではなく、ただの芸。大道芸が近いか。とおりすがりに、その瞬間を楽しんで、すぐにわすれてしまうだけのもの。この業界、(1)さんどのめしよりけんきゅうがすき。(2)でもそれだけじゃあ、せいかつできない。(3)しかたなくあたえられたしごとをこなす。という流れが、クールでかっこいーのだ。まともな評価のある研究ができる人は、みんなそんなかんじ。自分のやりたいことがしっかりあるんだから、他人の世話なんてよけいなことなんである。でも、三度の飯より好きなこと(もの・ひと)は、たぶん一生みつからないだろう。今日なんか飯が2度だけだったのが、ひどく残念であったが、研究なんか何日抜いても平気だ。クールからはとおい。ださー。ためいきつきながら、「おれ、やっぱり授業は嫌いだ」って、一度いってみたいわなぁ。そんな自分の力が及ばないことを嘆くほど、高度な理想を追求してやってるのがすごい。それだけ相手に対し、期待も尊重もしているというのがえらい。でも、そのまえに、これは正規雇用されてなきゃいえないことだ。低賃金なのに無理してると、「じゃあ、やめれば?」といわれるのがおちだもの。(低賃金だって、無理したっていいじゃないか。なにが悪い。)なぜそんなところで働くのときかれれば、あえて答えよう。「デモシカです」と。カネがどんどん消えていく今、なぜ働き続けているのかときかれれば、「習慣」であると答えたい。どうしてそんなことをしてしまうのですかときかれたら、「他にエネルギーのむけようがないからです」ということだ。
2006年06月05日
交差点で追突された。車がへこんだ。仕事が増えた。うわーめんどくせー。もう何もやるきしなーい。相手も、警官も、保険屋さんも、みんな感じがいい人ばかりで、怒りはまったくなくて、100%相手に非があるのだけど、しなくてもいいわずらわしいことが発生したことで、ちょっといらいらしている程度なのだが、そこへよけいななぐさめをしようとする人がいると最も腹がたつ。こういうことが起きた場合、何というのが適切なんだろうか。「体が無事なんだからよかったじゃない」という不幸中の不幸をひきあいにださなければならんというのもなぁ。もういい、何もいってくれるな。というか、言い方なのかなぁ。「マイナスの位置が本来の定位置であるオマエの場合、ゼロの状態になれることが幸福なのだから、マイナスが少なかったことに感謝しろ」という感じにきこえてしまうのだよな。「よかった」のは誰にとってか。心にもないことであっても、「体が無事でよかった」とだけいうべきだよな。マナーとして。「なんだ、たいしたことないな」でもまだマシだわな。「不幸になったときこそ感謝しろ」という逆説的なことは、人として立派で偉いことかもしれないけれど、きついなぁ。おまえは感謝が足りないというのは、言われるとそうかもしれんと思ってしまうだろうけど、何がまずいかって、こういうことを繰り返し条件づけられると、よそでも同じようにうっかり言ってしまいやすくなることだ。これで、不満全開な言い方で報告したら、「あちらさんも悪気があってしたことじゃないんだから」とかなるのかなぁ。
2006年06月04日
「月・月・火・水・木・金・金」です。この歌を作った人は、ものすごく皮肉屋さんなのか、あるいは仕事が趣味なだけか、どちらでしょう。
2006年06月03日
自家用車の自動車税を払った。3万いくらか。つい自分の持ち物のような気がしていたが、つまり日本国家所有のレンタカーを使っていることなのだよな。「車を購入して、自動車税を払う」ということは、将来どのくらい返還されるかわからない保証金を100万円ほど出した上で、日額100円のレンタカー代を払っているようなものだ。所有している限り税金という名目でお金を払い続けなければならない、ということはレンタルだ。固定資産税を払う場合もそうだ。家を買った、マンションを買った、土地を買った、と思っていても、実は日本国家所有の不動産で賃貸生活をしているということなのだ。ローンを返しながら所有する場合、大家は日本国家と銀行の2人いるということになる。
2006年06月02日
将来の占いというものは、占った内容と実際を分類すれば、(1)悪いことがありますよと言われ、実際に悪いことがあった人。(2)良いことがありますよと言われ、実際に良いことがあった人。(3)悪いことがありますよと言われても、別に悪いことがなかった人。(4)良いことがありますよと言われても、別に良いことがなかった人。という4つのグループになり、「当たった」と思う(1)と(2)と、「当たらなくてよかった」と思う(3)と「当たらなくて残念だ」という(4)になるので、「当たらなかった」ということから不幸になる人はいません。それに、占われたということが思い出せるのは、せいぜい当たった人たちだけで、何も起きなかった場合にはいちいち思い出せる人は少ないです。仮に、過去や現在をいいあてるのがうまかったとしても、それで未来もわかるという根拠にはなりません。自分から過去や現在の話を言うか言わないかの違いがあったところで、過去や現在について知っている相手が、未来まで知っているということはありません。ただ、傍から客観的にみたらどう見えるのか、しかも同じ社会に所属せず利害関係のない相手からみてどうなのかということで、占い師を頼る人もいます。カウンセラーでもいいし、日頃あまり会うことのない人でもいいのですが、予約のいらない気軽さで占い師を選ぶ人がいる、ということでしょう。「よくあたる占い師」というのが人気があるのは、それでもあたらないこともあるからです。もし「100%あたる占い師」というのが存在していたら、怖くて聞けなくなる人が多くなるはずです。「未来は可変的なものである」という前提にたっていられるから、占い師は存在できるのです。***「適性テスト」というのは、占いに似ています。まだ取り組んでもいないことに対し、適性があるかどうか判断するわけですから。でも、占いと違って、「その未来予測が当たるものだ」という前提になっています。学校の場合、入学試験があります。一応、適性テストみたいなものですが、そうではありません。スポーツ推薦とか、同盟校推薦とか、一芸入試とかがあるわけですから、学校生活の適性はいろいろあるということです。つまり、「入試は学校生活で必要不可欠な能力をはかるものではない」という前提に立っているのです。「入試程度のことができれば、まあ適性もあるだろう」ということでしかありません。しかし、学校生活の適性はいろいろあっても、そこで使われていることばを全く使わずに生活し、卒業するのは難しいです。だから、留学する場合は、そこで使われる語学の習得が前提になります。で、ぐぐっただけの段階なのですが、http://www.modern.tsukuba.ac.jp/~ushiro/Publishing/SLAglossary.htmlに、語学学習の適性について、コンパクトな説明がありました。第二言語習得の分野では「aptitude (適性)」というタームがあり、これは「生まれつき人が持つ言語学習能力で、言語学習に影響力を持つ」ことを指すそうです。 有名な適性テストとしては、Modern Language Aptitude Test (MLAT)Pimsleur Language Aptitude Battery (PLAB) というのがあるそうです。コストパフォーマンスが重視できるなら、成功率をあげるためには、「失敗がわかっていることなら最初からしなければいい」わけです。語学研修を組み込んでいる企業では(公務員とか軍隊なども)、人材に対する投資はまるがかえ。100回やってできない人より、10回やればできる人がいてほしいものでしょう。できれば事前に適性をみたほうがコストパフォーマンスはよくなります。利潤を重視しているところなら、MLATやPLABというものを導入してみる価値はあるかもしれません。(どの語学でも使えるものなんだろうか?)しかし、経済効果という大義名分がなければ、いわば人体実験みたいなもんだから、「夢を潰す」ということも発生します。「あなたには能力がないからやめなさい」と言われることで、「無駄金を費やして夢を断念しなければならない不幸な人」を作り出さなくなるので、じゅうぶん意義があるんじゃないかと思うのですが、それは結果論です。「もしかしたら成功するかもしれない」という期待が本人にあれば、修業年限内はチャンスは与えて続けてやらなければなりません。つまり、本人が希望していることだったら、やってから失望するのと、やる前から希望を閉ざすのとでは、後者のほうが残酷だという判断が主流です。その選択の段階で、他者が介入することは、すべきではないということです。加えて、学校は、ゴール(夢を実現する場)ではなく、通過点でしかないので、「夢を持つことはいいことだ」ということを価値として重んじることができるのです。***学校でも、医学部は、経営に設備のお金がかかり、かつできるものなら入学したいという志願者が多い人気の学部ですから、コストパフォーマンスを重視します。もともと入試で高得点がとれるような器用な人を選抜したり、受験生の中での国家試験の合格率が問題になるので「ダメそうな人は受験させない」ということをして、高い合格率を保たせています。また、予め入学時に保証金を1000万円くらい預かっておいて、期限内に合格すれば無利息返還、不合格なら没収ということをしたりするところもあります。大金を失うまいとして必死に勉強する(出資者がさせる)ので、それなりに効果があります。つまり、経営側の立場でみれば、(1)もともと成功しやすい人を集める(2)成功しない人がいても損をしないような方策をとるということをした上で、間を埋める作業として(3)適切な学習環境を与えるということになります。学校というものは、社会で役立つ人材を作ろうとしていますが、その金銭的負担を本人にも負わせます。国公立と私大では、割合は大きく異なりますが、国家予算と本人の支出から、設備にかかるお金や人件費などを捻出します。したがって、損をしないための方策はわりと簡単です。あたまかずさえそろっていれば金銭的に損はしないので、成功しやすい人を集められなくても、デメリットは担当した教師が疲れたり労働意欲が減退するということくらいなものです。経営側にしてみれば、たいした問題ではありません。
2006年06月01日
全30件 (30件中 1-30件目)
1
![]()

