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着付教室が終わる。うれしい!留袖は、特殊な道具がなくても着られるようになった。次のコースに勧誘されたがきっぱり断った。分納も可能ですよ、とかいう額になっていた。次回は振袖。着付るんじゃなくて、自分で着るんだそうだ。今後一生着る機会はないのに。
2006年08月31日
朝9時半から、夜10時まで。昼食、お茶、夕食、お茶の時間を除いて、ずーっと立っているか歩いているかだったので、脚はむくんで筋肉痛。おしゃれなところの外食ごはんはちょーっぽりしかない。まるで糖尿病食のようだ。
2006年08月30日
今日から4日間、ほんとうの夏休みである。ビバ!一人暮らし!これを読んでいる方、電話するかもしれません。毎度、躁病のように長い長い電話ですみません。都合が悪かったら、はっきりおっしゃってくだされ。でも論文を書かねばならんと思っているのでほどほどにします。まだとりかかっていない。ネタあり書くだけ1本、ネタ練りから1本。あああ。
2006年08月29日
「もうやめたい」と思いつつ「あと4回」とカウントダウンして無理やり行った。留袖を着た。ウールや紬と違って重いので、少々やりにくいのだが、着方はどうせ同じ。やっと実用的なことをやったんで、久しぶりに機嫌よくできたのだが、しかしその日はまたもや「実演販売」の日だった。墨絵を帯に描くという京都弁の職人さんが今回の先生。生地ではなく、和紙にかいてみせてくれた。「下書きもなく描くことを、手品のように思われることもありますが、なんも仕掛けもありません」と言うのだが、これも芸術なんだろうけどやっぱり職人の絵だわなぁ、と思った。自分も絵を描いているとわかるのだが、同じ絵を何度も描くことが求められるものの場合、それらしくみせるためのパターンができあがるものだ。年の功だけあって、お上手なんですけど、はっきり言えば、ぴんとこねーのです。同じことなら、練習して自分で描きたい。京都弁の販売員さんに「あててみるだけならただですから」と言われ、具合が悪くなってしまった。こうした催しに今まで逃げまくっていたので、講師たちから「いちど着せてみたい」と、無理やり反物をあてられることになってしまった。「こちらのおいろのほうが、おかおうつりがいいですね」とかなんとか、着物の形に折っていって洗濯ばさみでとめるとそれらしくみえるし、そんなに悪くないものだと思うのだが。反物だけで19万円。これがどー考えても「お得」とは思えないんである。着物は確かにいいかもしれん。お金さえあれば買うかもしれん。しかし絵師さんの前で「帯は要らん」とは言えない場面。仮に気に入った帯があったとしても、ぜーんぶセットで、しかもお仕立てまでしたら一体いくらになるんだろうか。本当によれよれになって、疲れてしまった。教室を出たら、元気になったので、買おうかどうか迷っていた1万円のスカートを買って気分が落ち着いた。金銭感覚が麻痺する。1回2時間なのだが、割れば2000円以下。ばかみたいに安い授業料で元をとるのは、イベントだ。こうした販売以外に、検定と認定料(級があがればあがるほど高い)、そして各教室の生徒と講師が都内のホテルに一堂に集まって、隔月ぐらいで「十二単着付セミナー」「歌舞伎セミナー」とかを、軽食つきでやる参加費が17000円。参加したことがないが、これもあとで販売がセット。これに参加するためには着物を着ていないと恥ずかしいような雰囲気にしてあるので、次のイベント用の着物が欲しくなる季節に販売業者がやってくるということなのだが、演題の決まっていない歌舞伎をホテルで観るというのがいただけない。留学生だって国立劇場に連れて行っているというのに。十二単はちょっと興味があるのだが、それならちゃんと衣文道(えもんどう)の人に習いたい。「師範の上のコースにすすむと、十二単の着付け資格もとれるんですよぉ~」と師範のみ終了の講師に言われるが、例えるなら修士しか持っていない人が「博士コースは」というようなもので、博士のほうが偉いと思っているんだろうけど「そこまでする必要はないけどね」という言い方。失礼だが偽物がインプリンティングされて、最初に見たものがオリジナルになってしまう危険は避けたい。伊勢神宮の4分で袍(ほう)を着付けちゃえるような人のほうがいい。「じゅうにひとえ」という俗称ではなく「女房装束」と言うのがホンモノだろう。つまり二流・三流のところで習っているのが、気分を損なう最大の原因なのだ。だが、一流の人に習うためには、せめて自分で着物を着られるようにしておかんとチャンスもないだろう、というのが最初の目的のひとつにあったのだが、次のステップ、進むとしてもこの教室ではダメだわ。手結びで二重太鼓も満足に結べないやつが偉そうなのだが、それだけはあと3回でマスターしよう。
2006年08月28日
この夏二度目、同じ温泉に行った。洗い場に、シャンプー・リンス・ボディーシャンプーがある。「柚子」のセットと「炭」のセットがあった。前回、柚子を使ったので、今回は炭を使ってみた。どれもまっくろな液体だった。そのまま半日経って、身長差がちょうど頭上にある人に言われた。「さつまいものにおいがする」頭が焼き芋のニオイになっていたそうだ。うぇ~。
2006年08月27日
夏のテレビニュースは動物ネタが増える。2つの方向があって、「いい動物」と「悪い動物」がそれぞれ別々に報道される。飼育バージョンでは、「ステキな動物園」と「迷惑な飼い主」。「お子さんとのお出かけに是非」という宣伝と、「日本国民全体のモラルの低下として憤れ」という方向で結ばれる。野生バージョンでは、「意外なところに紛れ込んだ愛らしい動物」と「経済被害を生むケモノ」1匹だけならかわいいと思われたりするのに、大量にいると敵になる。まあそれはそうなのだが、「その地域の人は大変ですねえ。共存していく方法はないのでしょうか」という都会的な視点でしめられて、やっぱり他人事なんだなぁという気分になる。もちろん共存は望ましいことなのだが、人間が平和に暮らしていくためには住み分けが必要だ。田舎でのできごとだが、イヌでもない、でかい鳥ともちょっと違う、人間の子どもでもない声がして山をみたら、木がゆっさゆっさと揺れていた。「さるさるさる!」と家人が走って、市役所にいわれたとおりロケット花火を打ち上げた。姿を目撃した人によると、かなりでかい猿が20頭くらい、木に鈴なりになっていたということだ。敵もよくわかっていて、作物が熟れたらすぐに持って行く。しかも、昼食後の午睡という時間帯を狙ってやってくる。人間のオトナと違って、1つのものを食い尽くすということはなく、ひとくちかじっては次の桃をひとくち齧って・・・というように、くいちらかす。片手にかぼちゃを抱えて、腹に子どもぶらさげて、器用に山に帰っていく姿を見た人もいる。あと1日2日実らせておけばもっとうまくなるものも、予定より早めに収穫をしなければならない。害獣は昔からいたと思うのだが、こんなに大量に頻繁に来るのは過去70年ないそうだ。2~3年前、いのししが出て困ったこともあったが、猟友会の人がなんとかしてくれたのだが、どうしてこうも動物が里に増えているのだろうか。いのししはある地域では、趣味の狩のために放って、しとめそこなったのが増えていったということもあるらしい。しかしそんな単発的なことが、すべての爆発的な被害の原因になっているわけではない。理由として、里の人々が、山へ入らなくなったことがあげられているそうだ。燃料の柴刈りに行ったり、食料確保のために山菜採りに行く必要がなくなったからだ。といっても、長く見積もってもそんな昭和時代ももう18年前に終わっているのだが、山に人が入らない、つまり手入れがされないため、次第に山が荒れていって、近年は自然の任せるままに土砂が流れ、山崩れがけ崩れなどの水害が頻発している。そんな荒れた山で、暮らしにくくなったケモノたちが、人が来ないのも好都合、と里に下りてくる。農業を営む人にとって、猿は敵でしかないのだが、農業をやっていない人たちだと「そんな、かわいいもんだじ」と餌をやってしまったりするらしい。なんと迷惑な。猿にしてみれば、里ではうまいものが楽に手に入り、御しやすい年寄りばかりなので、のうのうとやってきて、豊富な食料から繁殖力もついてか、勢いを増しているということだ。この地域だけでなく、全国各地で害獣のネタがテレビのニュースになっている。「害獣には、人間以外の害獣より強いケモノの助けが必要」ということで、あちこちで対策をたてているのだが、それに非常に地域性があるのが興味深かった。草食動物は会ったこともなくてもライオンのにおいを嫌う傾向があるらしい。ということで、秋田県では、線路に入ってはねられるカモシカに困った鉄道会社が、ライオンの排泄物を撒くという作戦に出たのだが、効果はあるのに結局それをやめた。そのニオイが、害獣だけでなく人間にも強烈過ぎて、近隣の住民からの苦情だけでなく、担当の職員も、なんでライオンのうんこばかり扱わねばならんのだ、非常に困難があったそうだ。電車の仕事がしたくて就職したでしょうに、カワイソー。沖縄のハブとマングースの話のようなことは、他の地域にも似たような例がよくあって、結果、他の動物も殺されてしまうという失敗までよく知られている。過去の失敗から、本来は「雄だけ・雌だけ投入する」というのが、基本なのだそうで、そのつもりでやっていたりするのだが、わずかに混じっていた数頭の異性のせいで繁殖していった、ということもわかっているらしい。滋賀県でもやはり猿害に悩む地域があり、そこで「ダチョウ」を投入するという作戦に出たそうだ。滋賀はこれまで、様々な動物で試してきたそうだ。豚やヒツジはダメだった。猿が怖くて群で固まってしまったという。ヤギは引き分け。ヤギがにらみつけると猿は逃げていくのだが、関心を持たないときもあるので、どっちともいえないという。なんでいろんな動物で試しているかというと、「害獣を追い払う上に、利益も生む動物は何か」ということを探っているからだそうだ。ダチョウは1羽3万円で買えるらしい。卵はイベントのパーティー料理などで使える。肉は、サファリパークのレストランで食べたことがあるが、ヒツジと鶏肉の中間のような味だったのだが、ゲテ食ということでなく、親の食べてきた動物性たんぱく質を一切受け入れないアレルギーの子どもたちにも需要があるらしい。転んでもただじゃ起きない、という発想が、さすが近江商人ではないか。そこへいくと、「爆竹や花火」「イヌ」と、ただ追い払うことだけのことを行政が指示し、市民に支持されるこの地域は、県民性なんだろうなぁ。
2006年08月26日
杏マナー杏マナー杏マナー 杏マナー杏マナー杏マナー ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏 杏マナー杏マナー杏マナー 杏マナー杏マナー杏マナー ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏 杏マナー杏マナー杏マナー 杏マナー杏マナー杏マナー ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏 杏マナー杏マナー杏マナー 杏マナー杏マナー杏マナー ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏ーナマ杏 あらふしぎ。
2006年08月25日
3週間、だらーっと過ごしていると、つくづく無趣味だなぁと思う。・文字を読む・テレビを視聴するそれ以外、なーにもやってないんじゃ無趣味だ。(読書といえるような立派な本は読んでいない)子育てとか恋愛問題のような、個人的な問題でありながらも他人と共有できるような悩みがないのに、大きな声でひとにいえるような明るく具体的な趣味がひとつもないのは、おおいに問題だ。って、何度も言っていることだが。物欲とか好奇心に満ちていて、なにか買いたいものや行きたいところが具体的にあって、それを我慢している状態に常になっているとか、フツーにほどほどの悩みと欲と好奇心がないと、初対面の人に対し、良い展開になる話題提供が難しい。例えば、「イギリス行きたいんです。かわいいティーコーゼ、欲しくて」とかいう出だしで話題を膨らませるとかね。欲しくもないので無理。本当に欲しければ、その程度の金額のものならすぐに買っているし、なさそうなら作っているだろう。作るのは嫌いではないが、欲しくもないのに作ることはまずない。ネットサーフィンすら、悪趣味なものばかり見ている。ブログランキングhttp://blog.with2.net/rank1363-0.html3位、6位、8位のはくまなく読んだ。女が離婚する理由は、「男が馬鹿過ぎる」という理由しかないのか。書き手が男のブログは、文体が読みにくいのであまり読んでいない。当時あまり見せてもらえなかった番組だが、びっくり人間大集合、みたいなやつ?http://x51.org/こういう記事を集めたサイトもあるのだな。『ことばはどこで育つか』藤永保(大修館書店)を読んで、ガスパーハウザーを調べてヒットしたんだけど。関連して、この読書記録の人、目次をみると結構かぶっているんでおもしろい。http://www.ywad.com/books/1044.html最近見つけた、やや知的なサイトhttp://en.wiktionary.org/wiki/Wiktionary:Main_Page具体的にはこう使う。http://en.wiktionary.org/wiki/%E8%AA%9Eただしwikiだから、信頼度は高いとはいえない。
2006年08月24日
すいきんちかもくどってんかいめいじゃなくなることが、ひじょーに大きな問題として騒がれている。天文学としてどうかという議論より、馴染んできた常識とどう付き合うかということで、大げさにしている感じがする。「ああそうですか」と納得すればいいのに、占い師が文句を言っているとか、ごろが悪いとか、ニュース番組は「市井の声」を拾い集め、“たかが”天文学者の会議“なんか”で決まることに、非常に大きな抵抗を示す方向で報道している。例えるなら、「龍は実在する動物である」という常識がある世の中だったとして、「生きている姿を誰も見たことないから実在しない」という意見に対し、「骨はあるから実在する」というようなレベルで反論しているようなものだ。そこへマスコミが、「十二支に入っているんだし実在するだろう、という意見が街中で最も支持されています」というようなことを、もっともらしい根拠としているようなもの。たとえが下手だが、誰がどこが一番アホなのか、よく考えろということだ。すいきんちかもくどてんかい七五調に近いリズムだし、すぐに馴染むだろう。 どうせ、あと20年もすれば、「俺が子どものころは、どってんかいめーだったんだよ」「えーっ、なんかそれって親から聞いたことありますぅ」とか若者に得意そうに言う平成ヒトケタ生まれの中年が出てくるのだ。ネットで拾い読み。冥王星を発見したのがアメリカ人だったから、アメリカが大反対してきて会議をややこしくしていたとか。1930年に発見したものだが、大きさが小さすぎるということくらい、20年以上前からわかっていたことだろうに、2006年になってやっと論議したというのは、どういう裏事情があるのだろう。年代的に考えると、「お父様が発見した惑星プルート」を、遺族の前で否定するわけにはいかなかったのが、ようやく言えるような状態になったんじゃないかとか思ってしまう。東京天文台が「冥王星」という名称を使い出したのが、1943年。ということは、日本の子どもたちが教育されるようになったのは、戦後だな。戦前は、理科教育で、「惑星」なんて習う機会があったのだろうか。天文學概説とかいう本を開いて、「水金地火木土天海。日月(じつげつ)の昇る天海は果てしない。」とか言って、退学寸前の蓮っ葉な高等女学校生をうっとりさせる、高等学校で崩れた勘違いダメ男とか、温度や湿度やニオイとともに妄想できてしまうんだけど、そういうことはあり得たのだろうか。1970年代ですら、冥王星は「新しく発見された惑星」として教わったりする機会があった。図鑑からだったかなぁ。当時だったら、監修者は運よく徴兵を免れた大正生まれだもの。「俺が生まれてから発見されたもの」として「新発見」と断言する研究者とか教師とかがいたって不思議はない。今なら、平成以降のことだと「最近」とか言っちゃう人がいるようなもの。中高年の時間感覚ってそんなもんだが、こと宇宙の問題になると、光年単位以下は「最近」という気もする。名前の付け方がカッコイイと思った。「黄泉の国」全般のイメージは、遠くて寒くて暗くて寂しくて、そして平たいところになってしまったのだが、その図鑑の冥王星の絵図によるところが大きい。一旦常識として植えつけられた知識を、新しいものと交換するときは、いくら新しいほうが正しくても、抵抗感が強い、というのは日本に限ったことではない。 テレビのニュース番組で言っていたが、水金地火木・・・のように、Mercury Venus Earth Mars Jupiter Saturn Uranus Neptune Pluto この順番の頭文字をアメリカの子は、 My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas. と覚えるという。で、 「ピザがなかったら文にならない!」 とアメリカ人たちは怒っているのだそうだ。しかし、そもそも高学歴のお母さんが、高カロリーのピザを9枚も与えるなんて、文法的に正しい文でも、親としてその行為はどうよ? nineの代わりに、ナッツでも食わせとけば、落着するだろう。My Very Educated Mother Just Served Us Nuts. ちなみに、nutsは俗語で罵倒語だそうだ。(調べたらたまたまそうだった)例)Nuts to you!=このばか野郎!こりゃあっというまに子どもに馴染みそうではないか。
2006年08月23日
耐えられず、味噌汁の上澄み液を飲む。深夜だというのに。あと2kgが痩せない。たぶん運動していないからなんだけど。時々「きーっ」と叫びたくなり、実際に叫んでいるが、そのたびに「どうしたの?」ときかれるのもうざく、テキトーに理由を作るのが面倒くさく、その上、こういうのは感染するらしく、まったく同じ音調で「きーっ」と言われ、まことにストレスフルである。トイレが2個ないからいかんのだ。窓かエアコンつきのお便所が2個あれば、同居ストレスはないはずだ。ああべんじょべんじょべんじょ。
2006年08月22日
みくしーの同級生が「誰かやってみて」と書いていたやつをわざわざやった結果。http://hanihoh.com/love2/result/index.cgi?k=060823-34-76964ここの・ころさんの結婚生活はすでに惰性に入っています。刺激がなくて緩んでいます・どんな人生だったかはわかりませんが、かなりすれている印象があります。純粋さに欠けます・かなり冷たい印象があります・36歳のわりには、かなり老成した考え方をしていますそんな結果が出そうな選択肢ばかり選んでいました。同級生もきこん者で、しかもまるで双方にときめきの要素がないという人なので、結果をさらすのはやめた。
2006年08月21日
静岡県のほうで、数年かけてずりずりとプレートがずれていたが、三重県のほうでもこの「ゆっくり地震」というのがあるらしい。うまくすると、東海大地震が避けられるということだ。そうだといいんだが。なにしろ東海大地震になれば、地盤のゆるいところにたった浜岡原発がとんでもないことになって、風向き次第で、「東京も巻き込む大惨事」になるらしく、そうなれば「被害総額は天文学的数字」で、「他人事じゃありません」ということだから、東海大地震がないことは、「日本」にとっていいことなんだけど。東京にマスコミがある限り、西風じゃなければ、被害総額も被害者数も「たいしたことはない」「他人事」なんでしょうから、東海大地震が起こらないことを祈るより、その時の風向きが心配なのだな。
2006年08月20日
掃除というか片付け。いらないものを捨てるべきなのに、いらないものをとっておくための、いらない棚とかポールとか買って、ますます部屋が狭くなる。ばーかばーか
2006年08月19日
ちょっと真面目に、今週前半もちきりだった靖国公式参拝問題について。以前も書いたかもしれませんが、その是非はおいておいて、議論で妙に思うことがあります。「分祀」という言葉は、例えば新興住宅地とかで、新たに神社を作るとき、そこには神様がいないわけですから、よその神社から神様を分けていただく、という時に使われるものです。神道的な考え方では、神様の霊魂は無限に増えるもので、仏教も同様ですが「勧請」という用語を使います。(神仏習合の名残から、勧請という言葉を使う神社もあるけれど)つまり、分けてくれる元のところにも、神様は残っているわけで、「A級戦犯を分祀せよ」という言葉では、新たにA級戦犯を祀るところが増えるだけで、その主張をする人たちにとって解決にならないはずです。誰がこの言葉を誤解して使いだしたのでしょう?意図したものなのでしょうか。なお、ヤスクニ問題は、東アジア諸国との死生観の違いに起因するので、非常に説明が難しいところだと思います。どんな悪人も、死んだら魂でしかなく、魂は生きている人を見守る程度のことしかできない、という考え方、あるいはやや仏教の影響があると思うけれど、失意のまま霊魂となってしまったものがあらぶる神となって祟らないよう鎮魂のために祀る、という考え方が、日本的死生観じゃないかと思います。日本の素朴な信仰というか死生観からは、「死んだ人は、生きている人のいうことをきかない」ということであり、「生きている人が、死んだ人の力をコントロールして利用することができる」ということは、かなりオカルト的なものとなってしまい、一般に連想できることではないと思います。ところが、伝統的中国(およびその影響の強い半島)では、悪人に対しては墓を作ること自体が間違っている。墓を建てたら暴いて壊すべきだ、ということをしてきた歴史があります。したがって、伝統的中国の発想では、「戦争に勝つぞ」と思って死んでいった魂は、魂になってもその気でいるので、それを祀るという行為は神を味方につけ続け「また戦争をして今度は勝つぞ」という強い意志としてうつるのでしょう。ただし、現代の中国では、共産主義なので、神だの霊魂だのを信じること自体がナンセンスなはずなので、そもそも実体のないはずのものについて怒るというのもダブルスタンダードです。その点からすると、「隣人の嫌がることをしないことが平和への道だ」という手段は確かに有効そうですが、「目下のくせにリッチになった隣人自体が嫌いだから、隣人の行為は何をしても嫌だ」ということがベースだとすると、どう対応したって解決しないと思います。コイズミ氏がどのような信念で参拝しているのか、偏向報道と遺族感情への配慮のせいでわかりにくくなっていますが、一国の代表ということでA級戦犯となった人と同じ立場だからこそ、同じ過ちを繰り返さないよう襟を正すという意味で、不戦の誓いをたてているのであれば、スジは通っていると思います。ただ、「A級というランク付けが、戦勝国から一方的に与えられたもので、戦争の犠牲者という意味では同じである」という意見には賛同できません。仮に戦勝国によるものではなく、自国で現代並みの公平な裁判ができたなら、安全な場所から命令してきた最高責任者を、前線に立たせた人たちと同等の犠牲者として扱うことはできなかったはずです。歴史にたらればは無意味ですが、「敵に捕らえられて辱めを受けるくらいなら自害すべき」と教えたものは、自分もそうすべきだったと思います。昭和天皇は隠居して、幼かった今上天皇に位を譲るべきでした。しかし、そういった「選択」自体ができない状況に追い込まれたのが、敗戦という結果だったからだろうと思います。右翼組織や経済の流れもあって、ヤスクニ問題はさらにややこしくなっています。やや関連するようなネタ、ついでにもうひとつ。紀子妃殿下の出産報道、あれはどういうもんでしょうか。国民の過半数が男子が生まれるものと信じているからか、「子宮が」「出血が」と、カラダの具体的な部分についての話題が、全国・全世界にさらされて、セクハラなんじゃないんでしょうか。歴代、帝王切開で生まれた天皇はいませんし、民間の病院で生まれた天皇もいませんが、どこから生まれたか経路を明らかにすることが、天皇制の存続のための根拠として必要なことだ、ということなんでしょうか。ひとりっこ政策の中国では、男児が多すぎて、20年後はケッコンできない男が増えるから、同性愛に寛容になる環境を作らねばならんとかいうニュースがありました。まずそういう心配があるんですねぇ。たぶん人口の多いインドあたりから女児を輸入(中国語はそういうのだろうか。韓国語は国際養子は輸出だ)、なんてことも20年後の人民日報にはよく出るネタになるかもしれません。韓国の小学校も、男児ばっかりです。男女どっちかしか選べないなら、将来働き手となって、自分の面倒をみてくれて、自分の家が永遠に栄える可能性があるほうにすべきだ、ということで、男児が選択されているわけです。男児を生まないと、その後の人生、世間というか身近な親類とかに対して後ろめたさを感じて生きなければならないと思うと、それに耐えられないと思う親も多いのでしょう。実際を考えると、男子であれば必ず成功するという保障があるわけではなく、犯罪者やひきこもりなど社会にとって有用でない人の割合は圧倒的に男子が多いわけだし、ちゃんと女子が確保できるような、女子から気に入られる人物にならなければ、お家の子孫繁栄もできません。もっとも、我が子が悪い方向になると予め考える親は少ないので、一攫千金ではありませんが、成功の可能性がある点で、女子よりマシである、ということなんでしょうか。日本は最近多様化しているとはいっても、結局、男児でなければ意味がない、という考えは根強いです。男子に相続させることで永遠が得られる、という発想は、妊娠出産のしくみの詳細がわかっていない時代だったからできたことです。女性の不妊は多く例があっても、男性にはごく少なかったというのは、不義密通がしばしばあったからだとしか考えられません。50年後、2056年には、人口比のアンバランスさから、東アジアはどこも女系が中心になるかもしれません。今上天皇の孫にあたる、いずれ天皇になる子どもが、2006年の9月(ひょっとすると今月)生まれれば、50歳です。2040年くらいでケッコンして、2060年くらいで子孫の決着がついているわけで、その時に女児しかいなければ、女性天皇という議論にまたなるわけですが、天皇制を存続させないとか、いろいろな意見が出ると思います。しかし、医学も進歩するんで、うまい具合に男児ばかり生まれ、2100年になってもケッコン問題で悩んでいる、ということになるのかもしれませんが、いま生きている連中の大半は死んでいるので、それを見届けることはできません。
2006年08月18日
どばっと降った。小泉さんのお詣りの瞬間もそうだったな。中継をみて、義父が「お、夕立か」といったのですが、「おとうさん、夕立は夕方降るんでしょう。いまは朝だから…」うっかりアサダチでしょうと言いそうになりました。だいたいの国語辞典では、「早朝出立すること」とあります。
2006年08月17日
昭和ヒトケタ生まれ、人口3万人の町に住んでいる義父母が、親類の「金婚式」にお招きをうけた。フランス料理だというので、えらく緊張していた。「フランス料理なんて、フランスでしか食べたことがないのに」という。昨年はじめてフランス旅行をし、はじめて食べたということなのだが、そんな言い方はいやみだわね、と笑ってしまった。帰宅後「いや、案外うまかった」とご機嫌だった。「盛り塩みたいなのが出てな、なんだろうと思って食べてみたんだが、さっぱりしてうまかったよよ」というので何のことだろうと思っていたら、同席していた人により「シャーベット」であることが判明した。お飲み物メニューで、焼酎があったのでそれを注文しようとしたが、義母がテーブルの下でつついてとめるので水割りにした、というようなアットホームなフレンチレストランだったらしい。「やっぱりフランスで食べた料理に似ていたよ」これも聞きようによっちゃあ、いやみだわなぁ。フランス料理、ずいぶん長いこと食べていないな。胃がもたんというのもあるけど、金銭的にきびしいからだな。
2006年08月16日
「避暑地」に行って思った。朝夕は涼しくても、日中は暑い。エアコンのある生活は気持ちがいいなぁ。湧き水を沸かして飲んで思った。ウォータークーラーのある生活は便利だなぁ。都会の暑さや水道水のまずさを、金で解決し、カラダが文明仕様になってきて、自然の恵みの素晴らしさを素直に享受できないようになってきている。田舎の人の夢を壊してはいかん、と思ってしまった。
2006年08月15日
テレビは毎日みているがつけっぱなしということはなく、ネットが電話回線なのでネットニュース等が見られない、という生活を一週間やってみると、急に世の中がニュースにあふれ、知らないCMだらけになっている。CMはともかく、ニュース。首相の靖国参拝についてのアンケート、どう考えても実際は「どうでもいい」が圧倒的に多いはずなのだが、「よい」というか「悪い」というか、いずれかが模範解答だろうと信じているために、いずれかを答えている人が多すぎるように思う。「次のニュースです。国後島付近で密漁船が拿捕されました。銃弾で1人が死亡、残る3人は無事だということです」という第一報、ずいぶん軽んじられているもんだね。韓国や中国との国境だったら、トップニュースでしょうし「密漁船だ」とは言わんでしょうし、政府がどうこうじゃなくて街頭で感情に関するアンケートもとるでしょう。この2つのニュース、偏向が多くてむかつくので見ない。
2006年08月14日
のぼり。変換すれば幟。文脈なくて読めないし、さあ書けといって書けない漢字だ。お祭り用に、たて10.5メートル、よこ1.5メートルのを2枚、同業の親戚に書けと言われて、うちの禰宜が書くために朝から準備。結構たいへんだった。いよいよ書くときは、ほうっておいたのだが、ばたばた走ってきて「どうしよう」と言って見に行くと、文字の形はいいのだが墨が薄い。まるで香典袋に書く名前のようだ。縁起が悪い。けど仕方ない。「書き直したい」と騒ぐのだが、これだけの布代にいくらかかると思う。「自腹きっても書き直したい」そんなあほな話があるかいや。だいたい金がどこにある。「ぼくが出す」ぼくが出して、生活費が誰が出すんだ。“また"借りて踏み倒すのだから、「諦めろ」と説得。
2006年08月13日
おもしろかった。学年の4分の1が来た。当時、まるで知らない人も多かった。そんな知らない人に、れんほうに似ていますね、と言われた。比較的マシなたとえだ。でも必ず色黒系ばかり。有名人も地味人も、人気者も嫌われ者も、出席率とは関係ないが、偏差値70以上の大学に行った人たちは誰も来なかった。世の中から能力の使用を求められ、忙しくてお盆どころじゃないのだろう。偏差値50以下の大学に行った人では、地元で両親の家の近所に一戸建て建てて、家族4人で住んでいたりするような人だけが来た。参加条件、ほどほどな幸せな鈍感な人。それが同窓会。例によって他人については細かいことを覚えていたりする。あたまいいね、と言われたが、そんな言葉は中学以降きいたことがない。15歳以降は、ほとんど頭悪いキャラで扱われてきているので大笑い。記憶力がいいということと頭がいいということは別である。「あんた、国語のテストで答えがわからないところに、問題とは無関係に作者の生没年と略歴を細かく書いて、部分点もらってたよね」と言われたが、確かにいかにもやりそうなことだが、自分のことはまるで記憶がないのもいつものこと。
2006年08月12日
低予算で良質な番組。関西ローカルなので、関東ではあまり放映されない(テレビ神奈川とテレビ千葉という関東の中でも局所ローカル的なところだけ)のを、久しぶりに見た。8月4日放送版。1)95歳の父が唄った謎の歌 石田靖 2)携帯電話からエーアイアイ!? 竹山隆範 3)ナメクジはビールがお好き 桂小枝 1本目95歳の父(京大名誉教授)が歌っている歌、幼い頃姉が歌ってくれたというあの歌は何という題名なのか、という依頼。父の歌うテープと歌詞を見せ、まず京都女子大へ。この学校は、教授の顔を模した人形をつけた販促用(?)ストラップがある。そのストラップそっくり音楽教育教授もわからない。岡崎女子短期大学の上田信道助教授によって「赤い鳥」が出典だとわかる。西條八十の詩「夕顔」作曲:金田一春彦長男の真澄さんに楽譜をFAXしてもらい、当時の姉と同じ年頃の14歳の少女が歌う。わかれる僕は船の上 送るその子は山の上去年遊んだ砂山で 去年遊んだ子を思う船の姿が消えるまで 白い帽子を振ってたが今日砂山に 来てみれば さみしい波の音ばかりあれほど固い約束を 忘れたものか 死んだのかふと見わたせば 磯かげに 白い帽子が呼ぶようなかけて下れば夕顔の 花がしょんぼり咲いていた西田敏行涙。アレンジがはいっているのか、アクセントを保とうとしたせいか、ちょっと難しい歌だった。作曲は他の人もやっていたらしいので95歳の先生のものと同じかどうかわからないが、金田一先生がそんな多芸だったとは知らなんだ。2本目携帯電話カメラを撮ったあと、「撮ったのかよ」と言う機種があるらしい。これが「えーあいあい」「えーあるあい」と自分の子どもたちは聞こえるというのだが何でだろう、という家族。調査をしていると、子どもや外国人を中心に「えーあいあい」類派が多いことがわかる。そのうち探偵のカンニング竹山もそう聞こえてくる。ナニワのモーツァルトもそう。音響研究の鈴木松美氏(マスコミにはよく出てくるが学会的には、インチキとか思われていたりするような人)のところで調べてもらう。子音を消して取り出すと、微妙に近い発音。先入観とケータイの雑な音が原因と。低速にするとはっきり「えーあいあい」となる。会場のタレントでも、「撮ったのかよ」には全然聞こえないという人もいた。ふしぎーっ!どうやってきいても「撮ったのかよ」にしか聞こえず、それも悔しい。http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/keitai/1121915747/305n-2005年10月にはすでにそんな指摘が。いま何かと話題のシャープ製のオプション機能らしい。http://okwave.jp/kotaeru.php3?q_id=2322364昔、方言調査の練習テープで、どうやってきいても「モット」(低・高)のはずが、「ムォット」(超高・低)に聞こえてしまう1問があって苦しんだのを思い出す。あれは裏返った声に聞こえてならんかったのだが、どうしてだったんだろう。3本目なめくじはビールがすき。実験してみるとウヨウヨ集まって、ビールで溺死。ドイツではなめくじ駆除にビールを用いるらしい。充実の3本だった。いいなぁ。こういう番組は、全国でゴールデンタイムに放送すべきだ。
2006年08月11日
1日おきに力が出ない。寝たり起きたり。まあ夏休みなんだからそれでもいいはずなのだけど。1日の時間、寝ているか食べているか働いているか、そのどれかという立派な人が目の前にいると、だらだらしているのも居心地が悪いし、かといって遊びにも行きづらい。
2006年08月10日
もうどうでもいいって感じ。二重太鼓、結べないし楽しくないし。通っている教室でよく使われる「決め台詞」ってのが、2つある。「母から娘へと伝えられる伝統」といっても、母である生徒が我が娘へというもの。娘である生徒がその母のをもらっても、それでは着物が売れないからね。小物は少し売れるから、真っ向から否定することはないけど。娘がいる人は楽しいようだ。高いの買っても自分だけ贅沢している罪悪感もないだろうしね。もう1つの言葉が「世界にただひとつの自分らしさ」まず伝統の世界にオリジナリティを求めることは、あまり好きじゃない。伝統の真髄に到達してもないくせに、一方で伝統という言葉を使ったりもするくせに、曖昧すぎる。それに、愛犬とかメーテルとか天照大神とかタイガーウッズの帯締めて楽しい人は、もともと着物界以外に図的にわかりやすい「かけがえのない好きなもの」ってのがある人だ。そういうの、ないんだよな。刺青を彫りたいと思わないのも、そのせいか。概念として好きなもの、味わったり嗅いだりするのが好きなものは少しはありそうだけど、他人の描いた絵なんて、かなりどうでもいい。習うなら、ホンモノがいいね。十二単の着付けとか、習えるものならやってみたいよ。
2006年08月09日
おたく趣味の専門家で、東大の非常勤したり、MITで講演したりしていた伊集院光と同じくでぶな人の話をきいた。さすが不特定多数の人を相手に話すことに慣れている人の話だ。唯一あきなかったよ。メモ日本の漫画→国内では40年かけて発展、ここ5~10年で一気に世界に。アジアは漫画、欧米はゲーム。日本で漫画が発展した理由。→子ども礼賛文化と小遣制度の習慣。アジアで日本漫画が普及した(欧米で普及しない)理由→印刷コストの違い。アメリカでインテリ層しか日本漫画を知らない理由→アジア留学生が持ち込んだため。漫画の読み方がわからない外国人→日本独自の文化というよりコマ運びのルールがわからない。文化庁で毎年やっているやつで、漫画文化と語学教育とかいうテーマで、この秋葉時代にタイムリー。
2006年08月08日
木枯らし紋次郎が終わってしまった。残念だ。古い時代劇は、描かれた時代を見ているということよりも、放送当時の時代が感じられるのが面白くて見ている。葛藤の仕方とか、セリフまわしとか、色使いとか小物使いとか。かすかに微妙な郷愁があったりする。その時代しか描けない現代劇では、こういう楽しみ方はできない。なんででしょ。
2006年08月07日
リンクをたどってネットサーフィン。もともとぐぐったのが「ピアノ・防音」だったかなぁ。ピアノ騒音殺人事件がヒット。現場は平塚市の公営住宅だったと知る。犯罪史のサイト→自殺のサイト→遺言データ→(あいうえお順だったので)芥川龍之介「秀しげ子」という女の存在、はじめて知ったよ。「芥川龍之介・しげ子」でぐぐる。http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/index.htmを読む。(なんかえらい充実したサイト。作者は何者だ。)気付くと、芥川の年齢を超えているんだよなぁ。大杉栄のところも読む。自伝だけ読んでいたので猫殺しの話は知っていたが、アナーキストというのはこういう人のことを言ったのか。伊藤野枝との間のこどもに、魔子と名づけた話は有名だ。魔子さんは、たぶん麻布笄町の小学校にいたはず。親が殺されているので、誰かにひきとられていたみたいだけど、「垢じみてかわいそうな子」という感じだったと、同級生だった祖母が言っていた。
2006年08月06日
がんばって机で作業できるように掃除をした。何度もお腹が痛くなった。心底掃除や片づけが嫌いなんだろうか。ゴミ袋が5袋にもなった。ほとんど紙ゴミ。リサイクルに出したくない個人情報ものもある。公民館とかに無料でシュレッダーが置かれたらいいのに。(あんなうるさいものは家庭用に置きたくない。)そんでシュレッダーゴミもリサイクルできるようになればいいのに。片付けのたびに罪悪感がわくからいけないの。もったいない、もったいない、と。
2006年08月05日
車を運転。高速はげろげろに混雑していた。きしめんの国の王子様のお話をききたいのだが、1限目は諦めるしかない。と思って、2限から行ったら、あらかじめ前日にそのように変更になっていたらしい。まるいちにちの集中講義、お互いたいへんだものね。しかも壁うちテニス状態、反応の鈍い人たち相手というのは、えらく大変だろう。ということで遅刻しなかった。従来はこういわれているが、私はこう定義したい、というようなお話だった。とりたては、2つのできごとを同時にあらわすものだとか、なんか懐かしかった。生成文法を忌み嫌う姿は激しい。あんなにダメだと強く言ったら、異教徒でも危ないぞ、と思うが、自信がおありなのだろう。生成文法は信仰のようなものだと思う。良いことも言っているし、大きく間違ったことはあまり言っていないような気もする。信じてついていけば、どんなことでも正しいところに到達できるようになるのだ、ということが世の中にあるなら、たいへんすっきりした気分で暮らせるんだろうが、そういう思い込みがキモチワルイところだ。しかも教祖が生きていて、教義が変わった瞬間に右へ倣え。「どうしてそれが原因であると説明できるのですか」「それがチョムスキーの理論にあるからです」そんなものを科学と思うところがおかしいだろう。あやしいから近づかないようにしていただけだったが、あかんとはっきり言ってくれる人がいるのは少し落ち着く。最後にご挨拶に伺ったら、非常に腰の低い方であった。これが素顔かな。講義はパフォーマンス。ギャップがでかい。ことばの法則は、もっといい加減であるはずだ。たぶん、うちの片付けの法則のようなものだ。ある程度ルールがあるが、それが絶対なわけではない。左右対称、上下対応とも限らない。しかしゴミ処理場のような全く混沌とした空間ではなく、ゆるやかに全体のルールがある。このルールは他の家でも対応しているかというと、似たようなことがあっても、同じではないだろうと思う。母語話者みんなが、ほぼ同じような文法で話せるのは習慣だからだろう。なぜ茶碗を手に持ってご飯を食べるのかということに、そうすべき特別な理由をいっぱいあげたところで、実際は親とかがそうやってきて、そういうものだとされていたから、ということだ。習慣には法則があるが、すべての習慣を支えるような1つの理論はないと思う。矛盾なく理論化しようと思えば、なんとでもいえるオールマイティな意味のない説明にしかならなくなるんじゃないかなぁ。
2006年08月04日
胃炎の原因1.前期の仕事がたいへんだったから。2.経済的にたいへんだったから。3.24時間同じ人といて、しばしばトイレを占拠されていたから。4.エアコンの温度調整が自分でできなかったから。5.得体の知れない刺身とか苦手な瓜を食べたから。6.日に3度もごはんを作っていたから。7.片付けなんてしんどいことをしようと思ったから。いろいろあるだろう。しかし体重があまりへらないなぁ。
2006年08月03日
てんてきうってねてました。だっすいしょうじょう
2006年08月02日
Ill say goodbye to loveNo one ever cared if I should live or dieTime and time again the chance for love has passed me byAnd all I know of love is how to live without itI just cant seem to find itSo Ive made my mind upI must live my life aloneAnd though its not the easy wayI guess Ive always knowId say goodbye to loveThere are no tomorrows for this heart of mineSurely time will lose these bitter memoriesAnd Ill find that there is someone to believe inAnd to live for something I could live forAll the years of useless searchHave finally reached an endLoneliness and empty days will be my only friendFrom this day love is forgottenIll go on as best I canWhat lies in the future is a mystery to us allNo one can predict the wheel of fortune as it fallsThere may come a time when I will see that Ive been wrongBut for now this is my songAnd its goodbye to loveIll say goodbye to loveこんな歌詞だったとは知らなんだ。えらくさびしい歌だ。機械翻訳してみよう。Altavista翻訳愛への病気の発言はさようなら誰もまたはダイスが幾度も愛のためのチャンス私を住むか、私が愛の知っているすべてを従って私の心に私をされるIve が傾けるしかしで信じ、何かのために住む誰かがあることIve は常に知っていることを私が推測するない容易な方法だけ住まなければならなければ私の生命私がちょうどそれを見つけるようであるそれなしに住む方法を渡したら私があれば気遣い、、そこに愛するべきId は発言さようなら私の物のこの中心のための明日確かに時間を計る失うことをこれらの苦い記憶をでない病気の発見は無用の調査のすべての年の間私は住むことができる最終的に達した最もよく私がミステリーは私達へどんなうそ将来すべての誰も私がことを間違っているIve 来る見るが、かもしれなかったり時今のところこれ私の歌及びさようならさようならである時であるか缶病気の発言を愛する転変は愛するためにそこに落ちると同時に予測できるように病気が継続することを終わりの孤独及び空日は私のこの日愛からの唯一に友人忘れられていたであるinfoseek翻訳悪く、愛にさよならを言ってください誰も、私が生きなければならないか、死ななければならないかどうか、決して気にしませんでした再三再四、愛のためのチャンスは、私を素通りしましたそして、私が愛の知っている全ては、どのようにそれなしで生きるべきかということですi正当な決まり文句が、それを見つけるようですIveが決心したように、私は、一人で私の人生を送らなければなりませんそして、その簡単な方法私は、Iveが常に知っていると思いますID(まあ好きなさよなら)将来が、私のこの心臓のためにありませんきっと、時間はこれらの苦々しい記憶を失いますそして、Illは信じる誰かがいるとわかりますそして、私が生きることができた何かのために生きます役に立たない検索の全ての年終わりに最終的に達してください孤独と空の日は、私のただ一人の友人ですこの日から、愛は忘れられます悪く、最も私がそうすることができるので、続けてください将来あることは、我々みんなに対する神秘性ですそれが落ちて、誰も運命の車を予測することができません私がそのIveを見る時が、来るかもしれません間違ってあるしかし、今のところ、これは私の歌ですそして、好きなそのさよなら悪く、愛にさよならを言ってくださいExicite翻訳愛すためにさようならをほとんど言わないでください。だれも、今までに、私が生きるべきであるか、または死ぬべきであるかを気にかけませんでした。繰り返し、愛のための機会は私を通らせました。そして、私が愛を知っているすべてはそれなしでどう生きるかということです。I正当な合言葉はそれを見つけるように思えます。アイブが私の心を決めて私は単独で生活を送らなければなりません。それは簡単な道ではありません。私は、アイブがいつも知っていると推測します。イドは、愛すためにさようならを言います。私のこの心臓にはいいえが明日、あります。確実に、時間はこれらの苦い思い出を失うでしょう。そして、Illは、信じるだれかがいるのがわかります。そして、何かを生きがいとするために、私は生きがいとすることができました。すべての年の役に立たない検索最終的に、終わりは達しました。寂しさと空しい日は私の唯一の友人になるでしょう。この日から、愛は忘れられています。ほとんどできるだけよく先へ進まないでください。将来、あることは私たちのすべてへのなぞです。それが低下するとき、だれも運命の女神の紡ぎ車を予測することができません。私がそのアイブがいるのを見る時は悪く来るかもしれません。しかし、当分、これは私の歌です。そして、さようなら愛している愛すためにさようならをほとんど言わないでください。そしてinfoseek関西弁翻訳わいは、愛にさよならを言いまんねん。どなたはんも、わいが生きなければならへんか、死ななければならへんかどないか、決して気にしまへんやったちうわけや。再三再四、愛のためのチャンスは、わいを素通りしたんやちうわけや。ほんで、わいが愛の知っとるみなは、どのようにそれなしで生きるべきかちうことや。わいは、ちょうどそれを見つけるようであることができまへん。それで、わいは決心したんやちうわけや。わいは、一人でわいの人生を送らなければなりまへん。ほんで、その簡単な方法。わいには常にあるi推測は、わいが好きな意見さよならをしたちうことを知っていまんねん。将来が、わいのこの心臓のためにおまへん。きっと、時間はこれらの苦々しい記憶を失いまんねん。ほんで、わいは信じるどなたはんかがいるとわかるんや、ほんで、わいが生きることができた何ぞのために生きるために、役に立たない検索のみなの年は終わりに最終的に達したんやちうわけや。孤独と空の日は、わいのただ一人の友人や。この日愛から、わいは忘れられまんねん最もわいがそうするねんことができて、続く。将来あることは、うちらみんなに対するねん神秘性や。それが落ちて、どなたはんも運命の車を予測するねんことができまへん。わいがわいが間違っておったのを見る時が、来るかもしれまへん。せやけど、今のところ、これはわいの歌や。ほんで、好きなそのさよなら。わいは、愛にさよならを言いまんねん。http://translation.infoseek.co.jp/関西弁のだけ、略語をなおしてあります。AltaVistaは略語をかえてもめためたですね。私は愛するとさようなら言う。私が住むか、または死ねば誰も気遣わなかった。幾度も愛のためのチャンスは私を渡した。そして私が愛の知っているすべてはそれなしに住む方法をである。私はちょうどそれを見つけるようである傾く。そう私は決心した。私は単独で私の生命住まなければならない。そしてしかしない容易な方法。私は私が知ることを常に持っていることを推測する。私は愛するべき発言をさようなら有した。私の物のこの中心のための明日がない。確かに時間はこれらの苦い記憶を失う。そして私は信じるべき誰かがあることが分る。そして何かのために住むために私はのために住むことができる。無用の調査のすべての年。最終的に端に達した。孤独及び空日は私の唯一に友人である。この日から愛は忘れられていた。私は最もよく私ができるように継続する。将来ある何がミステリーすべてである私達へ。下ると同時に誰も転変を予測できない。そこにずっと私は間違っていることを私が見る来るかもしれない時。しかし今のところこれは私の歌である。そしてさようなら愛に。私は愛するとさようなら言う。まったく関係ないが、いまテレビがついているんだけど、野際陽子が姑で神職で、江角なんとかが嫁でその娘をインターナショナルスクールにお受験させるというやつなんだけど、ストーリーの展開上、受験の場で突然姑が意外にも英語が話せる人だったということにしたいんだろうけど、江角のたどたどしい丸暗記とくらべて、野際陽子、めっちゃ英語の発音がうまい!くいーんずいんぐりっしゅ。すげー。さすがだ。元NHKアナウンサー、立教大卒。
2006年08月01日
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