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2021年に大阪の進学校の私立清風高校の試験でカンニングした2年の生徒が自殺して、遺書には「このまま周りからひきょう者と思われながら生きていく方が怖くなってきました」とつづられていたそうで、教師の不適切な指導が原因だとして両親が約1億円の損害賠償を求めて学校を訴えたことがニュースになっていた。若者が亡くなったのは残念だけれど、カンニングはいけないと思うので、これについて考えることにした。●カンニングとは何かカンニングは試験の時にメモを見たり他人の答案を見たりしてずるをすることである。英語のcunning(ずるい)が語源の和製英語で、英語ではcheating(不正行為)という。明治時代に先にカンニングという言葉が紹介されてチーティングでなくカンニングという言葉が定着したようである。大学受験や資格試験とかの大事な試験ではたいてい試験監督がいて不正行為がないように監視していて、試験中にトイレに行ったりしていったん退室した人の試験会場への再入室を禁止したり、試験に遅刻した人の入室を禁止したりしている。試験に持ち込んで机の上にのせて使ってよいものにも制限があって、スマホやスマートウォッチやワイヤレスイヤホンとかの外部と通信できる機器はたいてい認められない。法科大学院の入試だと書き込みや付箋がない六法全書を持ち込んで参照してもよかったり、FP試験で電卓を使ってもいいように、試験中に本を参照したり電卓を使ったりすること自体が絶対だめとわけではなくて試験で禁止されていることをやるのが不正行為にあたる。・カンニングの手法カンニングペーパーと呼ばれる紙に試験に出そうな箇所の情報を書いて、試験中にこっそり見るのが代表的なカンニングの手法である。試験監督の人数が少ない場合は共犯者が気をそらした隙に回答を盗み見たりする。試験の身分確認が厳格でない場合だと替え玉受験が行われることもあるし、オンラインで回答する試験も替え玉を使われたりする。昔は紙くらいしか記憶媒体がなかったのでカンニングペーパーをちらちら見るような不審な行動をしている人を警戒する程度の対策でよかったけれど、テクノロジーの発展とともにカンニングの手法も多様化していて対策が大変になっている。不正の仕方に国民性も出るようで、インドだと親が学校の壁をよじ登って子供にカンニングペーパーを届けたり、ロープで壁にぶら下がって集団カンニングしたりしてたびたび問題になっている。中国だとカンニング専用の腕時計型デバイスや金属探知機にひっかからない超小型イヤホンや消しゴム型ディスプレイとかのハイテク技術を使ったカンニングをしているようで、電子機器の持ち込みを禁止して4G電波を遮断しても5Gで通信したりして抜け穴を探ってカンニングをしていて、日本の大学を受験する中国人留学生のカンニングが見つかったりしているので日本でも外国の最新のカンニング手法に対応しないといけない。ホワイトハッカーが脆弱性を発見するみたいに、学校でも試験の欠陥を見つける目的でカンニング大会を開いて対策を強化したらよいと思う。・カンニングの罰則試験では公平な条件で同じ問題に対する回答能力を競っているからこそやる意味があるので、その条件に違反して不正をする人は試験の成績を取り消されて罰則を受ける。カンニングに対してどういう罰則があるかは学校によって違うだろうけれど、私が知っている大学だと試験でカンニングをしたらその期に受講した全科目の単位が取り消されたり、停学処分になったり、コピペレポートを提出した場合は校内の掲示板で学科と名前を公表されてその科目だけ単位なしになったりしていた。学内の成績を評価する試験でのカンニングに対して刑事罰はなくて校則で処理されるけれど、入試でカンニングした場合はその学校の生徒でないので校則が適用されなくて偽計業務妨害で送検されて三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金になる。中国だと高考(ガオカオ)と呼ばれる普通高等学校招生全国統一考試でカンニングすると最長7年の懲役刑になるそうで、日本より厳しめである。私立清風高校の場合は教師に叱責された上に全科目0点、自宅謹慎8日間、写経80枚、反省文の作成という罰があったようで、写経は何のためにやるのかよくわからないけれど、それ以外は特に厳しい罰則というわけでもないだろう。●カンニングをやる理由・認知能力の低下人間が車を使うようになって運動能力が落ちたり、パソコンを使うようになって漢字を書けなくなったりするように、科学が発展して生活が便利になるほど必然的に人間はそれまで使っていた能力を使わなくなって能力が衰えていく。これは必ずしも悪いことばかりではないけれど、スマホ依存になって記憶力が思考力が落ちることは明確に悪いことだと言える。最近はスマホばかり使ってデジタル健忘症になって記憶力が落ちている30代未満の人が多いようで、これは脳がエネルギーを節約したがって、調べればすぐにわかる情報は重要でない情報だと脳が判断して長期記憶に残らないのが原因のようである。例えば単語を調べる時にインターネットですぐ検索するよりも労力を使って紙の辞書でじっくり調べる方が脳の活性が高まるそうな。さらに脳は何もせずにぼんやりしているときにデフォルトモードネットワークで活動していて情報や思考を整理しているけれど、スマホ依存の人は移動中もトイレや風呂や就寝前の布団の中でもずっとスマホを使っていてぼんやりする時間が無くなって、脳内の情報が整理されないまま散らかった状態になっていることが思考力や集中力が低下する原因になっている。スマホを使っていなくても手元にスマホがあるだけでも気が散るという研究結果もある。パソコンが登場した時は問題にならなかったのにスマホがいろいろ問題になっているのは、パソコンはワープロの上位互換機として職場に据え置いて主に資料作成やデータ管理とかの情報のアウトプットに使っているのに対して、スマホは持ち運びしてSNSや検索などで主に情報のインプットに使うという違いが大きいのだろう。必要な時にだけインターネットを使って情報を参照したりデバイスに情報を記録しておいて参照するのは作業としては効率がよくても、ずっとスマホを手元に置いていじりっぱなしなのは学習としては効率が悪いわけで、参照と学習は別の行為としてそれぞれの是非を考えるべきである。最近は暗記して速さや正確さを競う認知能力は外部デバイスで代替できるので創造力とかの非認知能力を高める事に注目が集まっているけれど、それでもある程度の情報は長期記憶として学習しておかないと既知の情報を基にした複雑な思考ができなくなって創造力もなくなってしまうので、認知能力が大事でなくなるわけではない。職場のデジタル化による作業の効率化はやるほうがよいと私は思うけれど、学校のデジタル教育が子供の認知能力の低下を招くのであれば高校生まではノートとペンを使ったアナログな学習を優先するほうが実際の学習効率はよいかもしれない。インターネットの検索やAIにも思考力を低下させかねない問題があって、Googleは検索結果に直接情報を表示するようになったけれど、この機能が便利な一方でタイパ志向の若者は抜粋部分だけで満足してサイトにアクセスしてソースの全文を確認したり他のソースと比較したりしなくなった。さらにはChatGPTが登場して、物事を論理的に考えて根拠や整合性を検証する過程をすっ飛ばして簡潔な結論だけアウトプットできるようになった。読売新聞の「中学1年生250人の半数超、理科の課題で同じ間違い…教諭の違和感の正体は生成AIの「誤答」」という記事だと、都内の私立中学校で唾液アミラーゼの働きを調べる課題を出したら生成AIの回答を生徒がそのまま書き写していて同じ間違いをしていたそうだけれど、時間をかけて複数のソースを調べていたら間違いに気づけただろう。すでに学習を終えて自分で物事を考えて判断できる大人が便利な道具としてスマホや生成AI使う分にはあまり問題ないだろうけれど、これをそのまま子供に使わせて適応させるのは危険で、スマホが登場して20年程度しか経っていない現代でもすでにデジタルネイティブ世代の認知能力の低下の問題が出ているのだから、あと20年くらいしてAIネイティブ世代が大人になったら脳の記憶を司る海馬、読み書きの統辞処理を司るブローカー野、思考を司る前頭葉の能力が落ちると思う。最近はSNSで根拠なしに直感で感情的に具体性のないクソリプする人が多くて、根拠に基づいて具体的に論理的に意見を言える人があまりいなくて他人と建設的なコミュニケーションをとることさえ難しくなりつつなる。そんでカンニングの問題に戻ると、大学受験までは記憶力とかの認知能力が重要なのに日常的に外部デバイスに頼ることで記憶力や思考力が低下して、デバイスに頼らない勉強の仕方がわからないことがカンニングする動機になるのだと思う。そのうえ思考力がないと失敗した時に多面的に物事を考えて立ち直るレジリエンスがなくなるので、失敗を極端に恐れて、不正をしてでも失敗したくない、失敗したらもうだめだ死のうという極端な思考をして打たれ弱い豆腐メンタルになりやすくなるのじゃなかろうか。・チートとハックの蔓延チートは前述のように不正行為のことで、特にオンラインゲームでチートが多い。例えばFPSとかのオンライン対戦ゲームで負けるストレスが嫌で金を払ってチートツールを買ってでもウォールハックやオートエイムや無敵や移動速度上昇や無限弾薬とかのチートを使って無双したがる人が大勢いて、ゲーム開発者とチートツール開発者のいたちごっこになっている。チーターはゲームを壊す行為を悪いとも思っていないし、プロゲーマーやストリーマーでもチートを使っているのがばれて信用を無くした人が少なからずいる。ハックは技術的な方法で問題を解決することで、例えば生活を便利にするコツをライフハックと呼ぶ。しかしシステムやアルゴリズムの欠陥をついて利益を得る場合もハックに含まれて、例えばフリマで古着を売るときに説明欄に関係ないブランド名を羅列して検索に引っかかりやすくしたりする検索スパム行為や、YouTubeで動画の内容と違うサムネイルやタイトルをつけて動画の再生数を増やそうとするクリックベイトとかの違法ではないけれどモラルや利用規約に反する行為も行われている。違法でなければ何をやってもいいと考えて家を壊したり食べ物を破壊したりして建設的でないことをやって再生数を増やそうとするYouTuberもいるけれど、それはYouTubeがそういう動画をおすすめに表示して広告を表示するアルゴリズムになっているから儲かるハックとしてやっているだけで、アルゴリズムが変わって儲からなくなったらやらないだろう。フリマで読書感想文や自由研究とかの宿題の代行サービスを売買するのも問題になった。これも違法ではないけれど、代行させたら当然自分の学習にはならない。受験の入試科目以外の勉強は無駄だと考える人がこういうサービスを使う。日常生活でチートやハックが蔓延して、ルールを守ってまじめに頑張れと教師に言われても素直に従わなくなって、ばれなければ問題ないと考えてカンニングへの心理的抵抗も少なくなっているのじゃなかろうか。Z世代のアホがしばしば闇バイトに応募して強盗の実行役をして捕まっているように若者のモラルが乏しくなっているだけでなくて、短絡的に行動して不正がばれた後のことまで考えていないようである。自殺した私立清風高校の生徒もカンニングがばれた後になって卑怯者と思われるのが嫌だと悩むのならそもそもカンニングをやらなきゃいい。・教育虐待子供の成績が悪くても親が受け入れる家庭なら子供はカンニングをしようとは思わないだろう。しかし教育虐待をされている子供は成績が悪くて親に叱られることを恐れて、良い点を取ろうとしてカンニングするのじゃなかろうか。教育虐待というのは、例えば高学歴の親が子供に自分と同じ進路を強制してそこからはずれると落ちこぼれ扱いして叱責したり、低学歴の親が子供に過度に期待をかけて塾代に何万円も出してやってるのに何で成績が上がらないんだと叱責したりして、親が子供の意思や幸福を無視して自分の理想の教育を押し付ける虐待である。学習塾でさえカンニングする子供がいるそうで、そういう子供は勉強して学力を向上させることよりも親に叱られないようにするほうが重要なのだろう。教育虐待されている子供のカンニングはSOSの側面もあるので、カンニングを取り締まるよりも家庭での教育虐待をなくさないと根本的な解決にならない。●不正行為はよくないカンニングは自分の能力をごまかして不正に評価を高めようとする行動である。不正をして一時的に高い点をとったところで実際に能力が向上したわけではないし、不正に得た高評価を維持しようと思ったらずっと後ろめたさを感じながら不正し続けなければならなくなる。そのうえ不正がばれたときの罰則も大きいので、リスクとリターンを合理的に考えたらわざわざカンニングをやる価値はない。受験とかの試験だけでなくて大人でも不正行為をする人が少なからずいて、論文を剽窃して博士号を取り消された博士、STAP細胞の論文で不正をした研究者、イラストを剽窃したイラストレーター、学歴詐称したタレント、ドーピングしたスポーツ選手、不正会計や検査データの偽装をした企業とかは一時的に周囲をごまかして高い評価を受けても結局は不正がばれて信用や仕事やキャリアを失っている。未熟な子供の不正行為なら魔が差したということで許してもらえるかもしれないけれど、大人の不正行為は意図的に狡猾にやっているのでいったん信用をなくしたらなかなか信用を回復できなくなるし、民事訴訟にもなりうる。そういうダメな大人にならないために若いうちから自律するためのモラルを持つべきで、たとえ誰にもばれない状況だとしても不正をやらないような人でないと偉大な事業はなしえないものである。特に学問では真理に対して真摯でないといけない。高校や大学の受験でカンニングをしないと合格できないような人は学問に向いていないし結局は実力で合格した人に負けるのだから、別の進路を目指す方がよい。
2024.03.25
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最近は鳥山明が亡くなって世界中のファンがショックを受けているようである。鳥山明といえば『ドラゴンボール』が代表作で世界で人気があるけれど、私は子供の頃に読んだので大人になってからあまり考えたことがなかった。というわけで徒然なるままに『ドラゴンボール』について考えることにした。●『ドラゴンボール』とは何か『ドラゴンボール』は週刊少年ジャンプに1984年11月20日-1995年6月5日に連載されて、全42巻、519話で完結した。単行本は全世界累計で2億6000万部発行されて、アニメは1986年から1996年まで放送されて平均視聴率20%以上を記録して全世界80か国以上で放送されて、日本の漫画・アニメの代表的な作品となった。・あらすじ田舎で孫悟飯に拾われて育った孫悟空が天才発明家のブルマと7つ集めれば何でも願いが叶うというドラゴンボールを探しに行って、ウーロンやヤムチャと知り合ってピラフの世界征服の野望を阻止して、亀仙人と知り合ってクリリンと一緒に亀仙人のもとで修行して天下一武道会に出場して天津飯と戦い、ピッコロ大魔王が復活したので戦う。そこから時間が飛んで孫悟空が青年になってピッコロ大魔王の生まれ変わりのマジュニアと戦い、牛魔王の娘のチチと結婚して孫悟飯が生まれて、サイヤ人のラディッツが地球を侵略しに来たので倒すものの悟空が死んでしまって界王で修業して、ベジータやナッパが地球を侵略しに来たのでピッコロや悟飯とかのZ戦士が戦って悟空がドラゴンボールで復活して倒すものの、悟空が重傷を負ってピッコロが死んでドラゴンボールが使えなくなったので悟飯とクリリンとブルマがナメック星にドラゴンボールを探しに行って傷が治った悟空がピッコロを復活させて超サイヤ人になってフリーザを倒して、未来からベジータとブルマの息子のトランクスが来て人造人間セルが誕生してしまってセルの自爆を防ぐために悟空が死んで悟飯がセルを倒して、魔導士バビディが宇宙征服のために魔人ブウを復活させて悟天やトランクスがフュージョンして戦うものの敵わなくてミスターサタンが地球人に呼びかけて作った巨大な元気玉で倒す。●『ドラゴンボール』の特徴・画力が高い鳥山明の画力の高さゆえにバトルシーンに迫力があって、攻撃が当たった時の顔の表情や満身創痍で悶絶する様子や強敵に絶望する様子がよく描けていて人物に精彩があった。ごつごつした岩の質感や爆発の影のつけ方や擬音とかの背景や演出の部分も格好よい。『Dr.スランプ』とは違う作者の絵のうまさが引き出されていた。コマ割りや構図がわかりやすいのもよい。『ONE PIECE』とかのごちゃごちゃした絵を描いている漫画家に見習ってほしいものである。・空中の高速格闘中国拳法を基にしてシュバババと高速でパンチやキックを繰り出して空中に蹴り上げて背後に瞬間移動し吹っ飛ばしたりして、現実ではありえないほど高速で戦うのがリアル寄りのバトル系漫画ではなかった戦い方で、漫画でも迫力があったけれどアニメ化したときにも画面映えした。格闘が中心でありながら「気」の遠隔攻撃も使うし、独特のファンタジーっぽい戦い方である。いったん敵にやられて限界まで追い込まれてから逆転するのはプロレスに似たパターンの展開だけれど、プロレス系の『キン肉マン』と違って『ドラゴンボール』には投げ技や締め技がほとんどない。殴って蹴って吹っ飛んで岩や地面にめり込んだりするようなシンプルで派手な暴力の面白さがあって、主人公が修行して敵より強くなって勝つという子供にもわかりやすい展開になっている。・変身悟空が大猿やスーパーサイヤ人に変身したり、フリーザが最終形態に変身したり、セルがエネルギーを吸収して見た目が変わったり、魔人ブウが悪い人格に変わったり、敵より弱いキャラがフュージョンや界王神のポタラで合体したりして、能力だけでなく見た目も変わる変身をしている。キャラが変身して強くなるアイデアは『BLEACH』の卍解や『ONE PIECE』のギアとか他のバトル系漫画にも引き継がれていった。『進撃の巨人』の巨人化もサイヤ人の大猿化と似ている。・敵が味方になる一般的なバトル系フィクションでは勧善懲悪で善い主人公が悪い敵を成敗して終わるので敵が味方になる展開はなかったけれど、『ドラゴンボール』ではピッコロやベジータや人造人間18号とかの一度倒した強敵が次のエピソードでは味方になって一緒に戦うのがユニークな展開で、それがキャラクターの新しい側面を掘り下げて魅力を増していた。プライドが高いベジータが徐々にデレていってブルマと結婚したり、人造人間18号がクリリンと結婚したりして、内面の成長がない悟空よりも脇役のほうが変化が多くてキャラクターとしては見どころがある。・戦闘力インフレ物語後半に戦闘力がインフレしてからはウーロンやプーアルやチャオズやランチとかの戦闘力がない脇役は出番がなくなって、ヤムチャや亀仙人やヤジロベーとかのそれまでの戦いの功労者も脱落して、ピッコロは悟飯の師匠役としてメインキャラ枠に残ったけれどセル編以降にベジータが悟空のライバル役になってからは活躍しなくなった。少年時代の孫悟空は筋斗雲や如意棒といった西遊記的な小道具を使っていたけれど舞空術や瞬間移動を使うようになって出番がなくなったし、ブルマのホイポイカプセルからかっこいい乗り物や家が出てくるあたりが鳥山明のデザインセンスが良く出ていたのに、その小道具を活かした初期の世界設定の面白さも後半にはなくなってしまった。『ドラゴンボール』はバトル系フィクションの金字塔には違いないけれど、際限のない戦闘力インフレとそれに伴う初期キャラの雑魚化は反省するべき点といえる。・血統主義孫悟空は実は地球人でなくて戦闘民族のサイヤ人の下級戦士カカロットだったという展開が物語前半の大きな見どころになっている。こういう血統の設定は漫画らしくて面白い一方で、地球人はどうやっても戦闘力ではサイヤ人には敵わないようになるというデメリットもある。すごい血統に生まれたから強いという設定は主人公を目立たせるには便利なやり方なのでバトル系漫画で採用されやすいようで、『NARUTO』や『鬼滅の刃』とかのジャンプ漫画は似たようなエリート血統設定だらけになってマンネリになる原因にもなっている。・死んだキャラを生き返らせる基本的にフィクションでは登場人物が死んでも生き返らせてはだめで、それをやったらご都合主義になってリアリティーがなくなってしまうし、人が死ぬシーンが悲劇でなくなってしまう。例えば当時流行していたドラクエやファイナルファンタジーとかのRPGでは蘇生魔法があったけれど、漫画の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』や『ダイの大冒険』やアニメの『ドラゴンクエスト』では蘇生魔法は使わなくて、アニメ版はザオリクとザオラルがない世界という設定になっている。それくらいキャラの蘇生は物語のバランスを崩すのでタブー扱いされている。『ドラゴンボール』では仙豆を食べれば一瞬で怪我が全回復してサイヤ人は瀕死状態から回復するたびに戦闘力が上がるというだけでもバトル系フィクションとしては十分ご都合主義だけれど、さらにドラゴンボールを集めたら生き返らせることができるので、敵に地球人が大勢殺されても後でまとめて生き返らせればいいやという大雑把な展開になった。最初は死んで生き返るのは1回までという縛りがあったし願いを叶えた後にドラゴンボールが各地に散らばったけれど、孫悟空は死んだ後も占ババの力で1日だけ地球に戻ったり、魔人ブウと戦うために界王神の命をもらうことで復活したりしていて結局はご都合主義的に誰でも生き変えさせられるようになっている。ドラゴンボールを集めると神龍が何でも願いをかなえるのが初期の主なファンタジー要素だったのに、後半はドラゴンボールはただの復活用万能アイテムになってしまって神秘性も有難みもなくなった。・女性が戦闘では活躍しない少年漫画では劇画タッチの硬派な男だらけであまりかわいい女性キャラが出てこなかった中で、『ドラゴンボール』では少女漫画に出てきてもおかしくないくらいかわいいブルマが悟空の相棒のメインキャラとして登場したところがユニークだった。しかしブルマはドラゴンレーダーや重力トレーニング室やナメック星に行く宇宙船を作ったりしてプロットを進行させるサポート役にすぎなくて、戦闘では活躍しない。チチは牛魔王の娘なので強いのかと思ったら気が強いだけで戦闘には参加しなかった。主人公側で強い女性は人造人間18号くらいしかいないけれど、それでもサイヤ人系キャラより弱いので魔人ブウ編ではたいして出番がない賑やかし要員になっているし、ビーデルもスポポビッチにボコボコにされたくらいしか見せ場がなかった。戦闘力がインフレしすぎて人類最強のクリリンでさえ戦闘では足手まといになっているのだから、クリリン以下の女性たちが活躍する余地がなくなっている。フェミニズム批評的にみれば女性が男性に守ってもらう存在として描かれている男性中心主義的な作品で、『NARUTO』や『鬼滅の刃』で女性が命がけで戦って活躍しているのに比べたら女性が活躍していなくて、魅力的な女性キャラがいるのにあまり活かせていない。・ストーリーはいまいち私は『ドラゴンボール』の連載中に子供時代を過ごして、放課後に駄菓子屋でカードダスを買ったり同級生の家に行ってファミコンの『ドラゴンボール 神龍の謎』や『ドラゴンボール 大魔王復活』で遊んだりしていたけれど、魔人ブウ編ではすでに飽きていて連載が終わっても何の感慨もなかった。作者が連載を辞めたがっていたのに編集者がなだめすかして連載を続けさせていたという事情があるうえに週刊連載の締め切りに追われてじっくりストーリー展開を考える暇がないにせよ、批評眼がない子供でも展開がダレているのはわかる。敵よりも強くなって倒すことの繰り返しでマンネリだし、人造人間セルと魔人ブウが相手を吸収して強くなる設定は似ていて敵にも目新しさがなくなったし、超サイヤ人の次のパワーアップが超サイヤ人2→超サイヤ人3と安直だし、カリン様→神様→界王→界王神とどんどん上の偉い人が出てきて敵を倒すのを手伝ってくれるのもご都合主義だし、修行さえせずに合体して強くなるのではもはや亀仙流とかの拳法と関係なくなっているし、魔人ブウが敵をお菓子に変えて食べてしまうチート能力を持っているのはもはや格闘という次元でなくなったし兎人参化が触った相手を人参に変えるネタを安易に使いまわしているように見える。『ドラゴンボール』の初期の悟空の少年時代の物語が好きであるほど初期の世界設定がないがしろにされていく後半の展開がつまらなくなっていって、アニメ版の続編の『ドラゴンボールGT』や『ドラゴンボール超』は蛇足だと思って興味を持たなかったので見ていない。良くも悪くも少年漫画で、小学生の読者にとっては面白くても思春期を過ぎた読者にはあまり面白いものではない。たぶん鳥山明はデザイナーとして画力を上げる方向に才能を伸ばしてストーリーテリングの方面はあまり勉強していないのかもしれない。●『ドラゴンボール』の商品化戦隊ヒーロー系やロボット系が変身ベルトやフィギュアとかのおもちゃを子供に売るために物語を作っているのと違って、『ドラゴンボール』はおもちゃを売る目的でなかったのに漫画が人気になってキャラクターグッズの売上が大きくて、鳥山明が連載を辞めてしまうとおもちゃ業界とかにも大きな影響が出るのでなかなか辞められなかったようである。特にカードダスは男児のコレクション心を刺激してヒットして、その後もシリーズ化して今もアーケードのトレーディングカードゲームの『スーパードラゴンヒーローズ』が稼働している。漫画の人気作品はたくさんあるけれど、連載が終わったら徐々に人気がなくなって忘れられていく作品が多い中で『ドラゴンボール』のように連載終了後もずっと人気が続いてゲームやトレーディングカードゲームが売れているのは珍しい。『ドラゴンボール』の連載終了後に鳥山明が掲載した漫画はあまり人気が出なかったので、鳥山明の作品が好きというよりは『ドラゴンボール』が好きという人が多いのだろう。あと10年くらいしてAR技術が発展したらApple Vision ProみたいなARスカウターが作れるかもしれないし、もし実用的なスカウターが商品化されたら高くても買う人がいると思う。ベジータのかつらにLEDを仕込んで超サイヤ人みたいに光るようにしたコスプレグッズとか、ブロリーのギュムギュムいう足音がする靴とかも作ったら宴会芸用に売れると思う。●なぜ『ドラゴンボール』は世界的に人気になったのか『ドラゴンボール』は悟空が大人になったあたりから外国で人気が出て、『Dr.スランプ』的なテイストがあるギャグ寄りの少年時代はあまり人気がない。鳥山明がキャラクターデザインを担当した『ドラゴンクエスト』シリーズも外国では人気がない。その違いに外国で人気になる理由があると思う。ヒットの主な理由としては、まず外国人はマッチョイズムへの共感度合いが高いのだろうと思う。例えば『ドラゴンボール』とは画風が全く違う『北斗の拳』もマッチョが悪人を倒す展開で世界では人気がある。それにアメリカではマーベルのスーパーヒーロー系が人気があるし、『パワーレンジャー』とかの日本の特撮ヒーローもアメリカや南米で人気が出たそうなので、スーパーヒーローへの変身がもう一つの重要な要素と言えるだろう。悟空が単なるマッチョなヒーローでなくて、超サイヤ人に変身するマッチョなスーパーヒーローである点が外国でヒットした決定的な要因だと思う。アメリカのタイツ系のスーパーヒーローはたぶんプロレス由来なのだろうけれど、武道の道着を着たマーシャルアーツ系スーパーヒーローは外国ではいなかったので、亀仙流の道着はビジュアル面でも差別化できている。道着の色が白でなくてオレンジであるところも派手好きな外国人にウケる要素だろう。ではアメリカ人のマッチョなスーパーヒーローへの憧れはどこからくるのか。子供は単に強いキャラが好きと言えるだろうけれど、大人でもスーパーヒーロー好きが多いのは単なる懐古趣味でなくて文化的な理由があると思う。宗教から考えてみると、ベジータ、フリーザ、セル、魔人ブウとかの悪い敵が現れて地球が滅亡するピンチになって地球人の代表のZ戦士たちが戦って勝利して善い死者がドラゴンボールで蘇るという展開はキリスト教やユダヤ教の終末論と似ている。神による救済の代わりにスーパーヒーローが地球を滅亡から救って再生する展開が欧米人が考えるフィクションの理想の勝利像なのかもしれない。『ドラゴンボール』では天界に閻魔大王がいる仏教的な要素と界王神や破壊神とかの多神教の要素が混じっている世界なのでたぶん鳥山明は一神教を意識して終末論的な物語にしたわけではないだろうけれど、結果的に終末論を教えられている欧米人の理想と合致したがゆえに人気になったのかもしれない。あるいはカルヴァンの予定説のように神が救済する人を予め決めているという考え方だとどう努力しても運命は変えられないことになるけれど、一神教でないフィクションの世界で、自分は潜在的にすごい能力を秘めていて修行したらスーパーヒーローに変身できるのだ、巨悪を倒せる超越的な存在になれるのだ、という考え方は一神教の国で神に運命を決められていると思い込んでいる人たちにとっては魅力的に映るのかもしれない。時代背景としては、ブルース・リーやジャッキー・チェンといったアジア系のアクション俳優が1970-80年代に世界的に有名になったり、1984年に映画『ベスト・キッド』がヒットしたことも『ドラゴンボール』が外国でヒットする下地になったと思う。亀仙人がジャッキー・チュンという偽名で天下一武道に出場したように、鳥山明もジャッキー・チェンを意識していたのだろう。さらに黒髪で黒目のアジア系の風貌の悟空が金髪で青い目の超サイヤ人になることで、単なるアジア系の主人公よりも白人の視聴者にとっては親しみやすくなったと思われる。1980-90年代にレーガンやブッシュが保護貿易主義をとって対日赤字を解消するために日本製のパソコンやテレビや自動車に対して関税を高くしたり輸入を規制したりする中で、日本のコンテンツが規制されなかったのもよかった。時代に合った作品だったところは狙ってやってうまくいくものではないので、運が良くて連載時期やアニメ化の時期が外国でウケるタイミングと重なったのだと思う。というわけで、外国でヒットするコンテンツを作りたい人はマッチョ要素、スーパーヒーロー要素、終末論要素を入れてみるとよいと思う。
2024.03.14
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こないだ祖母の葬儀のために5年ぶりに実家に帰ったら、父が時代劇中毒になっていた。夕方に『水戸黄門』の再放送を録画して見て、それでも飽きずにスマホで東映時代劇YouTubeチャンネルで『暴れん坊将軍』を見ていて、昔は火曜サスペンスとかのミステリを見ていて時代劇が好きというわけでもなかったのに時代劇ばかり見るようになっていた。そんなに面白いのだろうかと気になったので、時代劇について考えることにした。●時代劇とは何か時代劇とは過去の時代を舞台にしたテレビドラマや映画である。たいてい江戸時代の元禄以後の幕府政治が安定して町人文化が栄えた頃を舞台にしていて、剣豪がチャンバラをする殺陣が見どころになっている。撮影するときには電線や飛行機とかの現代のものが映ってはいけないので、日光江戸村とかの時代劇用のセットを使って撮影している。物語の展開は勧善懲悪物や股旅物とかのある程度のパターンがある。・勧善懲悪物『暴れん坊将軍』や『遠山の金さん』や『大岡越前』や『桃太郎侍』や『旗本退屈男』は偉い人や強い人が城下町を見回って悪党を成敗するパターンになっている。主人公が悪党を見つけて力づくで問題を解決するというワンパターンな展開だけれど、被害者と加害者を変えることでエピソードを増やしていて、1話でエピソードが完結しているのでシリーズの途中の何話から見ても話が分かりやすいメリットがある。・股旅物股旅物の代表的な作品である『水戸黄門』では主人公一味は水戸光圀、助さん、角さんとその他のお供で固定しつつ旅した先で出会った町人たちがエピソードの中心になって、主人公たちが旅先の問題を解決したら別の場所に旅立ってエピソードが終わるというパターンになっている。勧善懲悪物に旅の要素が加わって、エピソードごとに脇役の町人を変えやすくなってエピソードを増やしやすくて長期シリーズにしやすい製作上のメリットがある。時代劇以外にも『男はつらいよ』や『ONE PIECE』とかの股旅物があって、股旅物は人気作品を長期シリーズ化できる王道パターンのひとつといえる。各エピソードは主人公一味による殺陣のアクションをメインにしつつも、殺人の下手人を捕まえるミステリとか、おっかさんに結婚を反対される頼りない若旦那の恋愛とか、病気のおとっつぁんを看病する娘の人情とか、由美かおるの入浴シーンの色気とか、いろいろな見どころを加えて展開に緩急がある総合エンタテイメントに仕上がっている。・怪談怪談は幽霊や妖怪の怖い話を見どころにしている。上田秋成の江戸時代の読本『雨月物語』は映画になったし、『怪談百物語』として2002年にフジテレビの時代劇にもなったようである。小泉八雲の1904年の短編集『怪談』は「耳無芳一の話」で知られていて、何度かドラマ化されている。ノイタミナ枠のオリジナルアニメの『モノノ怪』は江戸時代を舞台にして薬売りが妖怪を退治する展開の怪談で、アニメらしい絵柄や派手な演出が面白かった。怪談は夏の風物詩として定番化していて万人受けして人気になりやすい反面で、ネタを使いまわしできないので話が広がらなくてシリーズ化しにくい制作上の欠点がある。・伝記伝記は日本史に残る人物の生涯を描くパターンで、しばしば大河ドラマの主題になる。ネタを探しやすい一方で、史実に沿う展開にするほど脚本の自由度は減るので、誰を主人公にするかによって面白さや人気が変わってくる。信長や家康とかの有名人はすでに何度もドラマ化済で、ネタ被りしやすいデメリットもある。時代劇はたまに1話だけ見る分には話が分かりやすくてテレビドラマとしては良くできていると思う反面、何話も見たらワンパターンなご都合主義的展開で飽きてくる。最近は時代劇があまり視聴率が取れないうえに、撮影に金がかかるし、殺陣をこなせるベテランの役者や時代劇が似合う顔立ちの役者がいなくなって新しい時代劇はあまり作られなくなっているようで、時代劇の定番だった『忠臣蔵』さえ作られなくなった。しかしそれで視聴者が困るかというと時代劇の新作が求められているわけでもなくて、ワイヤーアクションやCGを取り入れた新しい撮影手法や今までやってなかった展開をやるのでなければ新しく時代劇を作る必然性がないので、再放送で十分だと思う。●時代劇の特色・主人公が無双する小林秀雄の1930年代の批評で日本人は髷物が好きだと言っていて、大正から昭和初期頃には時代小説や時代劇が作られて人気になっているようで、昭和にテレビドラマ化されたものでも原作は古いものが多い。これは日本人は髷物が好きというより主人公が無双してスカッとするわかりやすい展開が好きなのだろうし、いわば異世界転生チート無双の先駆けとして剣豪無双が流行ったのだと思う。特撮ヒーローとも共通する要素があって、主人公がいかにも主人公っぽく男前で堂々としてキャラ立ちしていて、お忍びの偉い人が敵の一味に会った時に素性を明かすのがヒーローの変身に相当して物語を変調させることができて、「この紋所が目に入らぬか」ドヤァ「この金さんの桜吹雪、見事散らせるもんなら散らしてみろぃ」ドヤァというヒーロー的なドヤ顔決め台詞があって、暴れん坊将軍が白馬に乗るのは仮面ライダーのバイクのようなものでヒーロー度を増す効果があって、ショッカーみたいなやられ役がぞろぞろでてきて主人公が一気にズバズバなぎ倒すところにヒーローっぽさがある。ウルトラマンと宇宙怪獣との戦いやバトル系少年漫画の戦いは一対一で攻撃したり反撃されたりして最後に主人公が逆転するプロレス型だけれど、時代劇は主役と悪役の戦いは刀で1-2回切られたら死ぬので主人公が攻撃をくらうわけにもいかなくて怪我をせずに一方的に無双して勝ちが確定している特撮ヒーロー型と言える。・空間の使い方がうまい私は映画の撮影手法の詳しいことは知らないけれど、昭和の時代劇は空間に奥行きがある撮り方をしているのは素人でもわかる。部屋にいる三人の人物を映すときは手前、中間、奥に座っていたり、二人の人物の会話を映すときは横並びにせずに手前で背中を見せる人と奥でカメラ側を向く人の構図にしたり、歩きながら会話するときはちょっと上から俯瞰する視点にして周囲の街並みを映したり、格子状の塀や戸を画面の手前にして格子の隙間から奥の人物を映したり、エキストラが多くて入り組んだ城下町の奥の方でも町人たちがわちゃわちゃ通行したり会話している主人公の手前を桶を担いだ町人が横切ったりして、そんで時々顔のアップが入って演技を強調したりする。殺陣の場面だとカメラの手前、横、奥から敵がわあわあやってきて斜め方向に移動したりする。『サザエさん』で茶の間に並んで座っている様子を真横から映して人物が歩くときに左右にまっすぐ移動するような奥行きのない場面があまりない。人間の目は本能的に動くものを追いかけるので、ストーリー自体が単調でも映像の構図に動きがあれば飽きなくていつの間にか見入ってしまう。昭和の時代劇は俳優の背中を映したままセリフをしゃべらせているけれど、最近のドラマは俳優の顔を映したくてあまり背中を映さないようで、子供の運動会を撮影する親みたいにカメラがずっと主人公を追いかけて顔を映している構図の単調さが学芸会っぽさを醸し出して潜在的なつまらなさにつながっている気がする。映像づくりとしては最近のドラマよりも昭和の時代劇のほうが空間の使い方に工夫があって舞台セットを効果的に使っていて、伊達に人気シリーズになったわけではないなと感心した。・スタッフロールの文字が大きい私は時代劇以外の昔のドラマは知らないので時代劇に特有なのか昔のドラマに特有なのかは知らないけれど、時代劇は冒頭でテーマソングとともにメインキャストを白い大文字でどーんと表示していて、これから物語が始まる期待感を高めるような堂々とした感じがある。・予算がかかる時代劇は現代を舞台にするのと違って町や城の舞台セットや衣装や小道具を全部作らないといけないし、合戦とかでは大勢のエキストラを動員する必要があるので、多額の予算がかかる。しかし予算をかければそのぶん迫力がある映像が撮れる。ディズニー傘下のFXプロダクションズが過去最高の予算を使って真田広之主演・プロデュースの『SHOGUN 将軍』というドラマを作って世界でヒットしているそうだけれど、これは外国の作品によくある中華風が混じった似非日本が舞台でなくて真田広之がエキストラの帯の巻き方とかの細部にもこだわってリアリティーがあるようで、絵作りに予算を使えば面白くなる例と言える。東映は実写版の『聖闘士星矢』に80億円を使うくらいならノウハウの蓄積がある時代劇に予算を回したほうが儲かったかもしれない。●時代劇の可能性時代劇はいくつも人気シリーズ化してチャンバラがやりつくされたけれど、それでもまだあまり開拓していないパターンがあってもっと面白くなる可能性もあると思うので、頭の体操として考えてみる。・最新技術満載の殺陣最近はカメラとかの技術の進化とともに様々なエンターテイメントが面白くなっている。例えばF1でドライバー視点のカメラがあるだけでなくて、高速飛行するドローンで俯瞰視点からも映像を撮れるようになっている。サッカーやテニスだとボールがラインを出たかどうかを審判だけでなくカメラも使って判定をしてリプレイも出るので、判定がフェアになって視聴者にも判定がわかりやすい。時代劇でも殺陣でアクションカメラを使って俳優の一人称視点で目の前に敵の刀が迫ってきてつばぜり合いをする様子を映したり、殺陣で人が入り乱れていてカメラでは遠くからしか移せないところをドローンが縦横無尽にすり抜けて近くから撮影したり、ハイスピードカメラを使って刀を間一髪で避けるところをスローモーションで映したり、CGで刀の残像を映したりすれば、昭和の時代劇とは違う迫力がある映像が撮れると思う。予算がないと無理だろうけれど、わかりやすい形でアクションの面白さの水準を引き上げることができそうである。・女性主人公時代劇は男性作家が原作で男性の侍が主人公になりやすいので、女性主人公の話なら差別化しやすいと思う。退屈した姫がお忍びで城下町の殺人事件を推理する「名探偵こな姫」系ならシリーズ化しやすいんじゃなかろうか。そんでピンチの時には謎のふんどし天狗仮面が助けに来て「月に代わって成敗致す」という展開にしたら恋愛要素も付け足せる。最近人気の『薬屋のひとりごと』は女性主人公が謎を解くという点が日本の時代劇でやってこなかった部分にはまって、目新しくてうけたのだと思う。・衆道昭和の時代劇は万人受けするエンタメとして侍のチャンバラを中心にしていて、侍の私生活は掘り下げなくて衆道はテーマにしてこなかった。しかし今は性の価値観がだいぶ変わったので、衆道の心理を掘り下げて細マッチョたちが下半身でチャンバラすればゲイやBL好きな貴腐人たちにはうけるかもしれない。・ピカレスク白浪五人男や石川五右衛門といった盗賊は江戸時代は歌舞伎のテーマになったものの、昭和以降は大衆が勧善懲悪物を好むせいか時代劇には悪党が主人公の物語があまりない。『ルパン三世』が宮崎駿が監督してからは狡猾な悪党でなくて悪の組織から財宝を盗む義賊のイメージに変わってしまったのが大衆が勧善懲悪物を好む典型だと思う。しかしそのぶんピカレスクの開拓の余地があるし、悪代官が暴れん坊将軍を返り討ちにする話や、野武士が七人の侍を倒して村を略奪する話や、博徒が命がけの博打をしてざわざわする話や、坊主が欲に負けて破戒僧になる話があっても良いと思う。・サスペンス辻斬りや押し込み強盗に狙われる町民や農民の物語にして、ご都合主義的な剣豪が助けてくれなくて町民たちが命からがら生き延びる展開なら人権が軽視されていて理不尽がまかり通った昔ならではの犯罪の怖さを描けると思う。『ワナオトコ』を時代劇版にリメイクして忍者が設計したからくり屋敷に泥棒に入ってしまった人がひどい目に合う話とかも面白いかもしれない。・災害パニック1783年の浅間山の噴火やその後の天明の大飢饉は詳細な記録が残っているけれど、あまりフィクションのテーマにはなっていない。調べてみたら本宮ひろ志が『大飢饉』として天明の大飢饉をテーマにして漫画を描いているようである。昭和は技術的な理由で映像化できなかったものでも今ならCGで映像化できるだろうし、噴火のシーンを映像化できたら見どころがあると思う。あるいは江戸時代の西回り航路を通っていた北前船は荒ぶる日本海でしばしば沈没していて命がけで航海していたので、沈没や漂流をテーマにした時代劇も面白そうである。武田泰淳の『ひかりごけ』は1944年に起きた食人事件を基にしているけれど、船がよく難破していた江戸時代もたぶんそういう事件が起きていたのではないかと思う。・経済もの株価の表示に使われているローソク足は本間宗久が考案したと言われていて、宗久は酒田五法として売買パターンを分析して米の先物で大儲けした。江戸時代に米の先物取引があったことは画期的で、ビジネス書では取り上げられることはあるけれど時代劇のテーマとして経済に焦点が当たることはあまりないので、やったら面白いと思う。・宗教もの日本ではカルト宗教がいろいろ問題を起こしていて庶民が宗教色があるものを娯楽としては嫌うせいか、宗教がテーマのフィクションがあまりない。キリスト教徒は布教のために物語を使いたがるので絵画が発展したし、遠藤周作とかのキリスト教徒がキリスト教をテーマにした小説を書くけれど、仏教は小説をくだらない妄想と見なしているせいか布教のために物語を使おうとしない。『一休さん』は主人公こそ坊主だけれどとんちが見どころで仏教がテーマというわけでもない。神道も天皇をフィクションにすることがタブー視されているのであまりフィクションのテーマにならないし、やるにしても神主が神力で悪霊払いをするとかのファンタジー的でリアリティーのないものになりがちである。密教の即身仏や比叡山の千日回峰行とかの日本ならではの独特の宗教行為があるのだから、掘り下げたら面白いと思う。旅の坊主が困っている人の相談に乗ったり悪人を改心させたりして問題を解決していく股旅物なら物語を作りやすそうである。・SF現代人が過去にタイムスリップして現代の知識で無双するファンタジー的な展開は多いけれど、江戸時代に殺戮用からくり人形を開発して将軍を暗殺しようとするとかの当時の科学水準を基にしたハードSFはないような気がする。蒸気を使って史実とは違う方向に技術を発展させて蒸気忍術を使って戦うスチームパンク時代劇とかも面白そうである。・ガンアクション江戸時代を舞台にした時代劇では刀が主な武器になって、ふだんは銃を持ち歩くわけではないので戦でもないかぎり銃を使わない。そこで火縄銃でガン=カタで戦ったりするような演出をすれば今までにない映像が作れるかもしれない。例えば本来は連射出来ない火縄銃を何丁も所持して一発撃つごとに素早く取り換えて連射したり、近接戦闘用に改造したソードオフ火縄銃を懐に忍ばせたり焙烙玉をポイポイ投げたりして、『コマンドー』みたいに単身で悪代官の屋敷に乗り込んでドッカンドッカン無双するアクションならハリウッド映画並みの爽快感がありそうである。漫画の『イサック』で銃を焦点にして主人公が凄腕スナイパーとして活躍しているのは着眼点がよいと思う。・釣り魚拓をとる習慣は江戸時代に庄内藩で始まって、武士が鍛錬のために荒波の中で釣りをして大きな魚は敵将の首に見立てて魚拓を取って藩主に献上していたようで、現存最古のものは天保10年(1839年)に9代藩主酒井忠発が釣り上げた鮒を魚拓にしたのだそうな。『釣りバカ日誌』を時代劇版にリメイクして、うだつが上がらない浪人が藩主とは知らずに釣り仲間になって愚痴を聞いて釣り対決をして問題を解決するみたいな展開ならシリーズ化できそうである。・コメディ落語をそのまま劇にしたらコメディ時代劇になると思う。そんでナレーターや俳優に落語家を起用したら落語っぽい雰囲気も増しそうである。・日常系萌え少女が寺子屋で勉強したり兄弟の面倒を見たり野良仕事を手伝ったりする日常系時代劇を作れば大きいお友達に人気が出るかもしれない。・昔話絵本やまんが日本昔ばなしとかの定番の桃太郎や浦島太郎とかの昔話を時代劇で実際に人が演じたら絵本やアニメとは違う面白さが出せそうである。長野には甲賀三郎が地底の国に迷い込んで地上に出たときに蛇または龍になって神になるという伝説があって、浄瑠璃や歌舞伎にはなっているけれど時代劇にはなっていないようで、こういうあまり知られていない各地方の伝承を掘り下げるのも面白いと思う。
2024.03.04
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