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今日は自宅で、採点に仕事関係の雑用にといろいろ忙しかった。試験前にとりあえず今までに提出されていたレポートを整理し、採点を終えることができた。ここまでやっておけば、あとは試験の評価を加算すればいいことなので、気分的にはかなり楽だ。少し気晴らしにと、休憩時間にヴァイオリンを練習した。最近忙しく、かといって夜中に練習するわけにも行かず、きっちりと練習できていなかったのだが、演奏会がまた近いので、曲をとにかくさらっていくことに。仕事に関連のないことをやりたい帰りの通勤電車でこつこつとスコアを読みながら考えてきたことを実際に音を出しながらチェックしていく。しかし、思ったよりも体は正直で、最初は特に反応が悪い。ちゃんと弾いているつもりでも、意図したような音にはなっていないのが、弾きながらにしてわかる。これはいかん...というわけで、とにかく部分的に引っかかる場所を取り出しながら頭と体が一致することを目指して弾き方を調整していく。スポーツ選手などは少しでも休みなどで緩んでしまうと元に戻すのが大変だという。もちろん、音楽家についても同じようなエピソードはたくさん語られている。瞬間のパフォーマンスを追求される場所ではとにかく練習量がものをいうことは間違いない。とはいえ、根性論だけでやってもうまくはならないのだとも言われる。あるプロ野球解説者が、「自分のスイングをイメージできないで振っているバッターはどんなに練習をしてもうまくはなれない」と言っていた。それも確かにそうだなと思う。どのように弾こうかということを前もってイメージして、現場では常に先を見越して弾いていかなければ確かにうまくいかない。時間は前から後ろに流れているのだが、自分の中では時間を先取りしてそこから迎えに行くという感じがないとダメであるように思う。イメージはかなりできてきたと思うので、あとはそれを瞬時に間違いなく表現できる反射神経をとぎすますことと、体の動きをつなげていくことだ。時間をできるだけつくってちゃんと練習しないといけないな。仕事のこと、家庭のこと、ちゃんとタイムマネジメントをして時間を捻出していこう。
Jan 31, 2007
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この曲は、ヴァイオリンとヴィオラが1本ずつソロを受け持つ珍しい組み合わせの協奏曲で、有名なものとしては唯一のものである。モーツァルトにはヴァイオリンとヴィオラのために書かれた素晴らしい二重奏曲があるが、その流れに連なる作品であろう。モーツァルトよりも後の時代の作曲家は、室内楽ですらこの組み合わせをあまり用いていないように思われる(ベートーヴェンになるとチェロが加わって弦楽三重奏になる)。この曲は1779年に作曲されたと考えられているのだが、いつ、どうやって、何のために作曲されたのかについてはわからないようだ(全曲の自筆楽譜が現存しないとか)。ただ、この頃にモーツァルトはパリやマンハイムに旅行をしてきたことから、そこでの音楽に影響を受けたということは推測できそうだ。それは、「協奏交響曲」というジャンルに対してパリで関わりを持ったことからだと言われている。スコアを見て気づくのは、ヴィオラが半音高い調で書かれていることである。これに対しては弦を半音高くチューニングして対応することになる。そうしている理由はいろいろありそうだ。演奏しやすくするためかもしれないし、弦の張力を上げることで演奏効果を上げようとするためかもしれないが、本来の意図はどうだったのか、謎である。-------------------------第1楽章:堂々とした雰囲気で前奏がスタート。途中きらびやかに、また優しく聴かせながらヴァイオリンとヴィオラのソロがさりげなく登場する。ヴァイオリンとヴィオラが交互に歌ってみたり、同時に寄り添うように歌ってみたり、そしてさりげなく調を変えていく中で、ヴァイオリンとヴィオラが自由に遊んでいるかのような展開はとてもスムーズである。この楽章で少し印象的だと思うのは、短調の場面でソロが解決しない音をフェルマータして、その後の展開のきっかけを作ってオケが付いてくる場所だ。あと、カデンツァも見事である。第2楽章:アンダンテのゆっくりとした楽章。表面的にはベートーヴェン「英雄」の第2楽章につながるような雰囲気があるが(ハ短調という意味では同じ)、あくまでアダージョではなくアンダンテというのがモーツァルトらしいように思う。また、暗く悲しいようにきこえてもそれが重さを伴わないところや、あくまで自分の心のそばにあるようにきこえるところがまたモーツァルトらしい。少しだけ長調になる部分は、聴いていると「顔で笑って心で泣く」感じがする。やはり切ないなと思う。第3楽章:前の楽章からは打って変わって明るく快活な音楽。ソロに3連符が多いのが軽さをさらに増しており、印象的だ。この楽章の中では、主題をヴィオラが変イ長調で弾き出す場所が好きだ。最初はヴァイオリンが変ホ長調で出てくるのだが、この調性と使用楽器との対比がすごいと思う。「なぜこういう楽譜が書けるのか」といつもながらにして思う。それと、最後にソロが一気に高音まで駆け上がる場所も好き。ヴァイオリンもヴィオラもほとんど指板の端を押さえる音で、まともな音が出る限界の場所まで行く。ヴァイオリンもヴィオラもきわめて上手だったというモーツァルトらしい書き方なのかなと思う。-------------------------この組み合わせにはこの曲しかないというような素晴らしい作品だなといつ聴いても思う。チェロのような低音が出ないためにあまり表現の幅は広くならないだろうから大変なのだろうが、ヴィオラとの組み合わせだからこそのくっつき具合や離れ具合がしっくり行くのだとも言える。そういった特性も十分に活かしたという点でも素晴らしいが、管楽器の役割も見逃せないところだ。管楽器はオーボエとホルンしかないが、その浮き立たせ方や使う場所はすごいとしか言いようがないように思う。この曲は大学生の時に、地元のアマチュア合奏団で演奏したことがある。ソロもオケもアマチュアだったが、ソロなんて今考えたらすごかったんだなと思う。仕事をしながら休みに練習するしかないのだから、きっとご苦労されただろうと思う。私はまだオケ歴の浅い頃だったので、オケパートの中で自分のことをやるのに必死だったことを覚えている。今だったら、もっと曲のことをわかって味わいながら弾けるのになと思う。また演奏するチャンスがあるといいなと思う。
Jan 30, 2007
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最近大きなニュースになっている「あるある」のボロがどんどん出てきている。最初に放映された頃から実は問題があったというのは、いろいろなところで指摘されるようになってきた。最後の方は相当ひどいもので、問題となった回では「1日に納豆2パックでダイエットに効く」と言う一方で、次の回で「ガンを防ぐのに効果的な豆の摂取量」をそれよりも少ない数値で言っていたとのこと。何も考えずに読むとこの2つは同時にできないということなのか?!ということになってしまう。さらに、データをいかに捏造していったのかについても、データを提供した人の話から次々と明らかになりつつある。いずれの人も言っていたのは「確かに○○には▲▲の効能はあるとは言ったが、××(番組でうたわれていた効能)に効くとは一言も言っていない」ということだった。ひどいのになると、「テレビのオンエアを見たら話と違っていた」ということも。もちろん、これが大問題であることは確かだ。人をだますことはよくないことというのは基本である。それがなぜ悪いのかということではなく、やっぱり悪いものは悪いと言うべきだろう。しかし、大人の世界が「バレなければ何でもあり」「手段はどうあれ、最終的に成果を上げた人の勝ち」ということを認めているようではどうにもならないなと思う。メディアでの取り上げられ方は、どうしても個別の主体を攻撃するような形になっていると映るし(意図はともかく)、最後には「自浄能力が問われる」と結ばれているのだが、どうも当事者的な問題の捉え方をしていないと思う。「他人事」的な捉え方から脱却しない限り、元に戻るのは難しいのではないだろうか。さらに、この件から思うのは、「リスクを考えないで鵜呑みにして行動しまう」ということの怖さだ。視聴者は被害者であると言えるのだろうが、ダイエットがそんなに簡単にできないことは、みんな知っているはずだ。今までにいろいろな方法が試されてことごとく失敗してきたというケースは多いだろう。同じテレビ番組でも、「病気にならないために」という視点で作られた番組では、ダイエットといっても肥満のタイプや体質によって適した方法が違うと言われている。また、ダイエットのためにおすすめという体操も紹介されることもある。別の視点から捉えたものを見比べるということは、いつもどこの世界でも大事なことだと思う。医療の世界で「セカンド・オピニオン」ということがよく言われるが、実はこの件についても、そういう視点を多くの人が持っていれば、ここまで問題は大きくならなかったのかもしれない(もちろん、今回の件はテレビ局が悪いという点は逃れようのない事実だが)。賢い消費者でいるためには必要なことだろう。あとは、一度は疑ってかかってみることも大事だ。他に、納豆に関わるものをつくっている業者も被害者だと言われている。確かに、スーパーの店頭から納豆が消えたとき、小売店はメーカーに対して多くの発注をしたのだろう。これに対して、「絶対に売れる」と見込んで増産したメーカーはいきなり当てが外れた格好になってしまった。しかし、これはやはりリスクを計算していなかったメーカー側にも問題があったのかもしれない。まさかリスクの理由が「ウソ」になってしまうとは思ってもいなかったのだろうが、絶対に売れるという確証はどこにもない。どこまでのリスクを織り込んで増産計画をしたのかということが問題になってくるだろう。とはいえ、顧客に直結している小売の言い分が大きな力を持つ経済社会になっていることは確かなのだが...。「今行動しないと稼げるという時流に乗り遅れる」といってどんどん投資してバブル崩壊で大きな痛手を被った日本企業なのに...、もう少しリスクに対しての意識を高めなければいけないのかなと思ったりする。だますのもだまされるのも、振り回すのも振り回されるのも人間...。こういう心理がどうやって生じて拡大していくのか、それを促進してしまう社会的メカニズムは何なのか、それを止めるためにはどんな力が必要なのか、それこそウソのないように明らかにしていかなければならないのではないかと思う。
Jan 30, 2007
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非常勤先での試験監督が終わった。同じ試験監督と言っても、入試と大学の定期試験とは大きく違う。 いつも監督をしていて気になるのは、退出可能時刻の後、教室の外がうるさくなることだ。本人たちの言い分としては、友達を待っているということなのだろうが、それが試験を終えていない友達の邪魔をしていることはわかっていないようだ。 注意したら逆ギレして叫んで帰っていくどうしようもない学生もいたりする。ダメなものはダメと教える習慣のなくなった社会なんてこんなものかと思う。 逆に入試の時はわずかな音に対しても苦情がくる。監督者の私語や携帯は論外だとしても、靴音がうるさいという苦情まである。この苦情に対処するなら、全員に地下足袋を支給すべきだろう。 あとは、コロンのニオイがイヤだという苦情もあるらしい。それにも対処するなら、全員に消臭スプレーを支給するか、天井から撒くかするしかないのではと思ってしまう。 どこからともなく聞こえてきた「コロンのニオイといわゆるオヤジ臭のどっちがイヤなんやろ?」という某先生のツッコミには何と言って良いのやら…。 それはともかく、そこまで神経質な受験生も入学してしまえばここまで変わるかと思うと、複雑な気持ちになる。
Jan 29, 2007
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昨日は早めに就寝、というか倒れ込むように寝ると朝までノンストップ。8時間半も寝たのは久しぶりである。通常なら6時間~7時間半のサイクルでほぼぴったり収まるのだが、今回に限っては「起きられなかった」のが正直なところだ。とはいえ、今度はサイクルに合わない長い睡眠時間に頭がまだボーッとしている。しっかり目覚めなければ...。午後からは非常勤先で自分の科目試験、そして帰ってからは採点地獄のスタートである。これまでになく多い人数が受講しているので、採点作業もかなりかかるんだろうなと思う。しばらくするとさらに本務校での自分の科目試験。採点期限に追われながらの仕事になるだろう。今日も一日、しっかりやろう。
Jan 29, 2007
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今日もまた朝から試験監督。ハードなことはわかりきっていたので、昨夜は酒が残らないように調整しながら宴会に出席し、疲れを取るべく風呂も温度調節をして入り、睡眠不足をのないように必死で早く寝て、朝はぱっちりと目覚めた。しかし、疲れの蓄積はどうしようもなく、朝からやはり体が重い。とはいえ、シャワーを浴びてスッキリするように努力する。とにかく大学に行って、すぐにコンビニへ。コーヒーとドリンク剤を買ってまずはシャキッとするように試みる。何とか「らしい」感じにはなってきたものの、どちらもトイレが近くなって試験前にはけっこう困った。そしていよいよ集合時間。同僚とどうということない話をする。それから試験監督開始。最初はいいのだが、時間が経つにつれて、やはり足がしんどくなってくるし、ふと眠気が襲っても来る。ボディブローのように効いてくる。学生時代に野球をやっていたとか、今でもランニングをしっかり続けているという同僚たちですら「効くよなあ...」と言っていたので、それよりも生涯運動量がはるかに少ない私にとってきついのは当たり前といえば当たり前かも。そしてようやく終了。みんな疲れた感じでとぼとぼと歩く。しかし、話が始まって盛り上がるとそんなことも忘れて立ち話。やはり立っているだけとそうでないのとは全然違うということだな。その後、少しだけレポートの採点をして帰ることに。暖房が切られていて寒すぎた...。帰宅後はもう体力を使い果たした感じで、まったく使い物にならず、夕食後すぐにひっくり返ってしまった(10分ほどだけ爆睡)。子供を風呂に入れる気力もなく妻に任せる。「今日も戦力外ですなあ」と言われ(これはよくお互いに冗談で使っているのでシャレで済んでいる)、現在に至る。明日は非常勤先で自分の科目のテスト。これもやっぱり試験監督というわけで、疲れを取るべく今日は寝るぞ...。
Jan 28, 2007
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今日も朝から試験監督。必要不可欠な仕事であることはわかっているので、言われれば「わかりました」ということになる。何をするわけでもなくずっと立ちっぱなしである。何もなくて当たり前、しかし何かあったときのためにいるということなのだろう。しかし、椅子のある教室とない教室があるのは困りものだ。ある教室ならまだ何とかなるが、ない教室に当たってしまうと、本当につらい。何をするために立っているのならば気も紛れていいのだが、本当に立っていて当たりを見回すこと以外何もできないというのはけっこうつらいものだ。やはり「試験監督マシン」の開発が待たれる(無理だな...)。これでただ帰るだけだと気分的に晴れないのだが、今日はゼミ卒業生が何人か集まって久しぶりに食事会をすると、一昨日教えてもらった。「先生もどうですか?」と言われて、大学からの帰り道だったこともあり「行く!」と即答。会場へと向かう。これまでの中で最も仲良しの学年、楽しく話し、食べ、飲んだ。気晴らしもあって、明日一日、また試験監督だが気分的には乗り切れそうだ。あとは体力...。
Jan 27, 2007
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定期試験がスタートした。いきなり初日朝一番から当たった。いつものことながら、何も生み出さない作業、いつか試験監督マシンを誰かに開発してもらいたいという願いを持っているが、今年もそれはかなわなかった(って当たり前か)。カンニングしたらピンポイントで接着剤が飛んできて手が固まってかけなくなるとかしたら便利だと思うのだが、ミスったらシャレにならないので無理だろうなとか、存在がわかったらそのための対応策が考えられそうでいたちごっこになるんだろうなとか思ってしまう。入試はもっとハードだ。大学の中だけの試験よりも数倍気を遣うし、何よりも受験者の緊張感が比べものにならない。「人生かかっている」と思っている人が相手だとこれは大変だ。午後になるといつも消耗戦の様相を呈してくる。一番大変なのはセンター試験、今年は当たらなかったが、1日目のリスニングはとにかく大変なのだそうだ。拘束時間が長いことに加えて、トラブルが起きると再試験にまでかり出される人もいる。現場は不公平がないように必死で対応しているのだが、本当にリスニングの試験って必要なんだろうかと素朴に思ったり...。この点についてはまたそのうち書こうかと思う。さて、今日も試験監督に出かけなければ。
Jan 27, 2007
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あるんじゃないかという話。今日、夕方の関西ローカルのニュースを見ていると、大阪市が消防音楽隊を廃止する予定であるというのが問題になっているという特集があった。理由は、財政的に苦しい大阪市が本来の業務である消防にお金をかけるべきだと判断したことにあるようだ。これに対しては反対の署名運動もあったという。確かに、もし消防において十分なお金がかけられていない状況があるというのならば、それを説明した方がいいのではないかと思う。消防音楽隊は実はいろいろなところで活動していて、年間200日以上演奏しているそうだ。選挙の時のセレモニーなどにも登場しているし、学校をまわりもしている。市民が目にする機会はそれなりにあるということだ。これに対していきなり「廃止!」というのはどうなのだろうか。「いらんから」とか「本来の仕事じゃないし」といわれたところで、いきなりの決定によって職を失う人が出てくるわけだし、反対する人が多いことを考えると、何の通告もなしにいきなりそう言われても、納得できない人が多いのではないだろうか。「ヤミ○○」とか「裏○○」と政治が行われる場所は今どこでもこの問題に直面している。それらを解決する姿勢をちゃんと見せないで、自分たちが困らない場所から順番に切り捨てていくのはどうなんだろうかと思う。だからこそ、VTRに出てきた市民の声は「他に削るもんがあるんとちゃうの!?」というものが多くなるのだろう。「説明責任」という言葉があちこちで使われる昨今だが、ちゃんとその意味を理解して使っている人がどれだけいるのだろうか...。どうも最近身の回りでも、「スピードが大事だから、みんなの意見なんて聞いていたら間に合わないし、説明するのも面倒だ。決めてしまえ!」みたいなことが多いように思う。関係する人をみんな置いていってしまうほどのスピードにどれだけの価値があるというのだろうか...。そんなことを思ったニュースだった。
Jan 26, 2007
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今日は、訳あって娘の幼稚園友達を預かる約束を妻がしていたので、その間私が自宅から外へ出るという約束になっていた。どうもその幼稚園友達というのが大人の男性に対する人見知りがあるとかないとか...。というわけで、午前中にできるだけたくさん仕事をしておく。卒論の再チェック(改訂を命じたもの)をする。その後、午前中買い物に出かけた妻と繁華街でランチ、その後妻は幼稚園に子供たちを迎えに行った。私はせっかく作った空き時間なので、ゆっくりと見たい店を回っていく。とある店で目をひいたのが、「タイムドメイン」というスピーカーだ。先日、テレビのニュースで取り上げられていて注目していたのだが、基本的に店では売っていないものだというので、一度実物を見たいとは思っていた。それが何と置いてあったのだ。このスピーカーは一つの方向から音が鳴っているという感じがしないという特徴を持っているので、最上級モデルで聴いたりすると本当にライブで聴いているように感じるのだそうだ。最上級モデルは30万円するので手が届かないのだが、何と同じ原理を使ったミニスピーカーもあって、これは2万円前後とかなりお手頃だ。アンプも付いているので、ポータブルオーディオからも十分にいい音が出せるという。展示ではiPodにつないであったが、とてもいい音がしていた。これはちょっと買いたいなあと思ったりもする。小遣いを貯めてぜひ買おう...。それから某楽器店で指揮棒を購入(今まで使っていたのがくたびれてきたので)し、さらにまた歩く。おやつの時間だったので、地下街にある「ぼっかけ焼きそば」の店でネギ入りぼっかけ焼きそばを食す。ぼっかけは大好きだし、いつも前を通るといい匂いがしていていつかいってやろうと思っていたので、行くことにした。まあまあ、おいしかった(連続して行くほどはまるものではなかったが)。それから書店に行って注目した本を購入し、自宅へ戻った。そう長い時間ではなかったが、すぐに過ぎた充実の時間。忙しい中でのいい気晴らしになった。
Jan 25, 2007
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最近の不二家の事件に端を発し、食品メーカーが相次いで賞味期限切れ商品の出荷があったことを公表し始めた。最初に見つかった事例があまりにも大々的に報道されたがために、その陰をついて「今のうちに」「どさくさに紛れて」と思われても仕方のないような動きである。もちろん、それまで黙っていたことを公表するだけでも一歩前進したといえばそうなのかもしれないが...。近年多くあるウソをめぐる不祥事に対して「最近は企業のモラルがなっとらん!」ということはよく言われるが、実は「最近は」ではないのではないかと思ったりもする。「なっとらん」のは以前もそうであったが、ただバレなかっただけの話であり、また世間がそのことに対して注目していなかったからということがある。さらには、法律のタテマエがそういった行動を守ってきたこともあるかもしれない。つまり、「法律に書いていないことは処罰のしようがない」というパターンだ。しかし、一番大きいのは、「お天道様に見られている」とか「世間に恥じないように」といった意識が欠如した状態で開き直ってきたことに対して世間が「NO!]と言い始めたことだろう。人生で一度も後ろめたいことをしたことがないと人はほとんどいないのではないだろうが、それがシャレにならないところまで行かなかったのは「お天道様に見られている」とか「世間に恥じないように」といったことが言われて、それがある程度の抑止力として働いていたからではないかと思う。そういった考え方がどんどんなくなっていって、「バレなければそれでいい」「ウチだけは大丈夫だ」などという前提で行動するようになってしまったのがこういった問題が起こる一つの大きな原因であるように思う。やっぱり「自分のやっていることはどこかで誰かが見ている」という意識をちゃんと持つことが重要なのではないだろうか。もっといろいろな場所で言われてもいいことだと思うのだが...。顧客が望むものをいかにうまくつかむかが企業にとって重要であるというのは当然のことだが、顧客が望まないもの、見せられると不快感を感じるものを顧客に見せないことも一方で大事なことだ。どうしてもこういう活動は地味だし成果としても測定しにくいが、なくてはならないことであることも確かだ。何もなければ着目しづらいものだが、一度やってしまったら取り返しがつかないことである。環境破壊と問題の図式は似ている。しかし、本当に人間は懲りない存在だなと思う。もちろん自分も含めて、なのだが...。
Jan 25, 2007
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今日は大学で仕事。案内パンフレットの写真撮影。ゼミ生がメインなのだがちょっとだけ私も登場するらしく、撮影に付き添う。研究室集合だと言われていたので、慌てて部屋を片づける。この時期、とにかくたくさん書類がたまって仕方がないので、とりあえず行く途中におホームセンターで段ボールなどを買い込み、詰め込む。そして、できるだけ目に付かない場所へ整理の悪い状態のものを寄せておいて撮影隊を待つ。ところが、いざ撮影となると、光の加減で「そこがフレームに入ってしまうので、荷物をどけていただきたいんですよね」と言われたのが整理の悪い場所。ちゃんときれいにしておいた場所は撮影ポイントにならなかった...。結局さらに奥の見えない場所へと追いやっていくことに。その後、どうにかこうにかで撮影終了。ゼミ生はインタビューと撮影の間中ずっと緊張しっぱなしだった。笑顔もひきつっていて、日頃と違った一面を見たように思う。そのままの勢いで片づけをやってしまう。これから定期試験でさらに紙の山ができるので、とにかく整理に励む。それから卒論の最終チェック。きっちり改訂してきてくれているし、採点期限に間に合わなくなるので、これ以上注文はつけずにおこうかと思う。今日は荷物が多かったので自家用車で行ったこともあり、帰宅時にはAMラジオがお供。今日聴いたラジオでは、奈良時代や平安時代の専門家の先生がゲストで登場、その時代の恋についての話で盛り上がっていた。なんでも、万葉人の時代は、結婚までは女性が婚約相手を複数選ぶことができ、結婚後は男性が複数の相手の家に通うというスタイルだったそうだ(後者は「源氏物語」などで有名な話だが)。結婚までは男性が必死に口説きながら、結婚後は女性が必死で男性に歌を詠んで通ってもらえるように頑張っていたそうだ。ちょっとこれって、現代にも通じるところありか??女性が頑張らなくなる(年金分割などで)ことは今後考えられるのだが...。いい歌は逆境の中で、あるいは満たされない中で生まれるという話があったが、それは確かにそうだなと思う。しかも洋の東西を問わず言えるだろう。クラシックでも同じことであるような気がする。「幸せいっぱい」を高らかに歌い上げる曲よりは、満たされない話にまつわる曲の方が多いように思う。そんな話を聴きながら帰っていたら、時間の長さをあまり感じずに自宅へ到着。AMラジオの話は、どうということない話題でありながら、退屈しない。今日も疲れたが、後味はスッキリという感じだった。
Jan 24, 2007
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このテーマについて、先ほどNHKの「クローズアップ現代」で取り上げられていた。大学関係者としてはやはり見ておかなければならない話であったが、いずれの取り組みも情報としては知っているものだった(というか、逆に疎いとまずい)。エピソードとして取り上げられていたのは、以下の内容だった。1.学生獲得のために施設を充実させる2.学力試験を経ないで入ってきた学生に対して学力面での問題解決のために補習を行う3.進路に役立つためのめんどうを見る(就職サポートに、資格試験サポート)4.大学の吸収・合併、譲渡など4については経営に関わることなので私が自分で携わるわけではない話だが、1~3についてはいずれもよくわかる話だ。結局のところ、これらは学生をお客さんとしてとらえ、いわば「顧客志向でのサービス」を考えなければならない時代になったということだろう。1.については、私立大学ではかなり力を入れているところだと思う。ところが、難しい問題もある。これには多大な費用がかかるために、どこにどう費用を配分していくのかということである。どこにどれだけの必要性があるのかをいかにして見極めていくか、ここに改めてトップは経営者としての手腕を問われることになる。お金が限りなくあるのならばいくらでも充実できるのだが、限りある原資をいかに配分していくか、その決定においてどれだけの説明責任を取れるのか(例えば単なる力関係で決まるわけではないようにするとか)がポイントになるだろう。現場にいる者としては、学生にとって不満のない程度の設備は必要だろうと思う。すごくいい機材が1つあって他に必要な機材がないというよりも、そこそこのレベルであっても必要な機材が揃っている方がありがたいこともあるのだ。これは顧客ニーズを満たす上でも大事なことだし、現場のニーズを満たしてこそ質の高いサービスが提供できるのではないかと思うのだが...。現場の窓口である従業員のニーズが届きにくいのはよくある話だ。2.については、推薦入試の制度がそれに相当する。最近ではAO(アドミッションズ・オフィサー)入試もある。これは、随時、面接にこちらから出向いていくというスタイルだ。質の高い(かどうかは何とも言えないが)学生を早期に確保しておきたいという大学の思いが表れていると言える。しかし、推薦入試は早く結果が出てしまうために、そこで合格した生徒は入学時までに勉強しなくなる習慣が身についてしまうという問題があるようだ。結局、入学前にあるいは入学後に補習しなければならないということになってしまう。フォローが大変だということは確かだろう。これには手間も費用もかかるので大変だ。3.についてもいろいろな試みが行われている。資格は確かにないよりはあった方がいいのだが、「持っているだけで就職にプラスになる」と単純に考えていてはいけないのではないかと思う(もちろん、専門性が高くそのまま仕事に直結するものは別だが)。企業はもちろん、資格は採用のための要素として見るだろうが、最後は面接が決め手になっている。単純に考えてみれば、資格をたくさんとることに必死な(それ以外にほとんど何もしていない)人を企業は採用するのかということだ。大卒が企業で任される仕事はむしろマニュアルにないことについて答えを出すことを求められる。そう考えると、資格だけではだめで、いわゆる「人間力」(ここまでいうと胡散臭いイメージになりそうだが)が求められることになるのだろう。大学としてはとにかくチャンスを用意することが責任だと考えているということだろう。もちろん、教員もそれを理解しておく必要はあると思う。とあの手この手で学生を獲得していこうとする試みは盛んである。大学の入口と出口についてはいろいろと考えられてきている。しかし、問題は実のところ、学生が少なくとも4年間を過ごす大学の中身である。施設の充実もなければいけないことだが、やはりソフトの充実も必要である。そのために大事なことは、学生と教員がちゃんとお互いに向き合うようになることだと思う。学生は大学の中ではきっちり学ぼうとする気持ちで参加することが必要だし、教員はそれに応えようとする気持ちを持って授業や関わり方を工夫していくことが必要だ。そこがうまくいかないようでは、問題は解決しないのではないかと思う。パイプの入口と出口に完璧なバルブをつけて「ばっちりコントロールできているよ」などと言って途中に穴が開いているようではいけない。「それは重要な問題だ」などと言っているだけではなく、「私としては頑張っている」ではなく、ちゃんと協力して問題に向かっていかなければならないだろう。まあ、これが大学ではけっこう難しかったりするのだが...。
Jan 23, 2007
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あくまで「今年の」ではなく、今年度である。今週あたりからテストが始まる大学が多く、非常勤先もそうだ。すでに本務校の授業は終了しているので、今日がおしまいである。これで一つの区切りを迎えたわけだが、どうもすっきりしない。というのも、今年はゆとり教育世代の走りである学年が登場、授業の仕方についてずいぶんと考えさせられた。とにかく昨年までの方法が通用しない部分がけっこうあった。やはり影響はあるのだろうか...。最終回の今日は1つめの授業が一見さんだらけで騒がしくなって苦労した。テストのことを聞きたいのだろうが、それなら最後に来ればいいのにと思う。結局最後まで苦労したままおしまいとなった。2つめの授業はテスト、こちらは人数も少なく授業と同様、滞りなく終わった。帰りにちょうどその授業の受講生と一緒になったので、しばらく話をしながら帰った。それぞれの大学の事情を話してくれるので、なるほどと思うこともけっこうあった。これからしばらくは試験期間、入試もあったりで、いよいよ体力勝負の時期がやってきた。体調を整えておかなければ大変なことになってしまう。しっかりセルフ・コントロールしないといけない。
Jan 22, 2007
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出勤途中、乗り換えのために電車を待っていると、右側から怪しい影が近づいてくるのを感じた。しかし、どうも動きがおかしい。大股で踏み出した次に擦り足、しかも一定の四角形を描きながらやってくる。 これって…社交ダンスのステップでは?しかし、格好はどう考えてもサラリーマン、私の横も軽やかにすり抜けてさらに遠くへ行った。 周りの人たちも唖然としていた。あれだけ堂々とやったら、何も言いようがないな。確かに迷惑をかけてもいないし…。とはいえ、ちょっと怪しかった。
Jan 22, 2007
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最近、子供が気に入っているのがこの中にある「剣の舞」と「レズギンカ」。どちらも急速な舞曲で、打楽器がたくさん登場する。うちの子供たちにとっては「おかたづけミュージック」で、妻に「2人とも、かたづけなさい!」という声がかかると、「パパー、おかたづけのミュージックかけてぇ~!」と私のところへやってくる。一度私がいないときに妻がかけたら子供たちは片づけ始めなかったらしく、私じゃないとダメなのだそうだ。片づけの間は「剣の舞」で片づけが終わったら「レズギンカ」をいつもかけている。それが終わったら「さて、寝るかあ」などと言っている。なお、これはバレエ音楽なのだが、演奏したことのある曲だけをここでは取り上げることにする。-------------------------ハチャトゥリアン(1903-1975)は、アルメニア人として現在のグルジア共和国のトビリシ)で生まれ、20世紀のソビエトにおいて活動した代表的な作曲家である。ハチャトゥリアンが少年時代を過ごしたグルジアや、彼のルーツであるアルメニアは、ロシアやイラン、トルコなどさまざまな文化圏の交差する場所であり、雑多な民族から構成されていて、彼はさまざまな民族音楽に触れられる環境の中で作曲家としての才能を開花させていった。ハチャトゥリアンは、音楽の創作は民族的香り、民族的色彩を持たなければならないという考えを強く持ち、民族音楽をベースに自分の作曲手法を発展させていった。このような姿勢はバルトークと共通しているところである。ハチャトゥリアンは自身の論説の中で「バルトークの作品がとても好きである」と書き、また「バルトークの音楽には民族の魂が息づいている。彼の作品は・・・(中略)ハンガリーのみならず、他の中央ヨーロッパ諸民族も含めた民族的音楽芸術の味わいにあふれている」と評している。ハチャトゥリアンの曲の特徴に、オーケストレーション(楽器の組み合わせ方)があげられる。その譜面から引き出される音は、「鮮やか」「派手」「濃厚」なものにあふれているように思われる。バレエ「ガイーヌ」(これはフランス語の読み方でバレエの伝統に従ったものなのだが、ロシア語では「ガヤネー」という)は、もともとアルメニアの村の生活を題材とした「幸福」というバレエとして初演されたものの中にあった多くの題材を使って創作し直されたもので、1942年に初演された。バレエ「ガイーヌ」が全曲上演される機会が日本ではほとんどないため、そのあらすじ(ソビエトの集団農場で働く主人公ガイーヌが人々に対して非道な夫の姿を告発し、その後の苦悩を乗り越え、最後に新しい恋人を見出し幸福になる)を知る人は相当少ないと思われるが、収録されている曲は独立して演奏会のプログラムに取り上げられることも多い。-------------------------「剣の舞」「ガイーヌ」というバレエは知らなくても、この曲を聴いたことのある人は多いだろう。また、これほど有名なのに、バレエの中の1曲だということがまたこれほど知られていない曲も珍しい。この曲には、初演の前日に「剣を持って舞うのにふさわしい曲のリズム」のアイデアに煮詰まってしまったハチャトゥリアンが、あれこれ机を叩きながら一晩で完成させたというエピソードが残されている(とにかく激しいリズムが欲しかったようで、この曲に一貫しているキレのよい、はつらつとしたリズムからは、ハチャトゥリアンが苦労した後の充実した姿が想像される)。また、ハチャトゥリアンは民族楽器の雰囲気をオーケストラの楽器で出そうといろいろ工夫したそうだが、中間部でサキソフォーンとチェロが一緒に奏でる旋律は、その一つであるように思われる。-------------------------「バラの乙女たちの踊り」この曲は、バレエの最終幕、祝典の場面で演奏されるもので、バラの飾りをかざして舞う踊りにつけられたものである。全体的に華やかで優雅な雰囲気を持っており、特に短い序奏の後で木管楽器が奏でる旋律の上で、跳ねるようなコルネットの動きが新鮮な輝きを放っているように聴こえる。-------------------------「子守歌」 この曲は、バレエでは主人公ガイーヌが自分の幼子に子守歌を聴かせるという場面で演奏される。切なくまた優しさを感じさせる何ともいえない味を出す冒頭のオーボエの旋律に誘い出されるように子守歌の旋律が始まる(これはアルメニア民謡の典型だと言われている)。子供を寝かしつけながら物思いにふけっていてガイーヌの気持ちが高ぶってくる様子を表す中間部では、少し激しさを持った調子に変わり、東洋的(あるいはアラビア的)な要素が加えられる。この旋律は、人種の交差するところに生まれ育ったハチャトゥリアンだからこそ書けたのかもしれない、独特の魅力を持っている。-------------------------「レズギンカ」 この曲は、コーカサス地方に住むレズギン人の雄々しく情熱的な民族舞踊を表しており、曲の最初から最後まで勢いが止まらない、誰にも止められないようなエネルギーを感じるような曲である。最初は木管楽器の軽やかで明るいテーマで始まり、その後でホルンとトランペットが線の太い音で高らかに旋律をうたう。次に中間部では少し東洋的な雰囲気が顔を出し、そして再度冒頭のテーマが繰り返されエネルギーをさらに増して曲を閉じる。この曲の打楽器のリズムは本当に面白い。太鼓の細かいリズムや意図的にずらされたアクセントといったものが、なかなかいい味を出している。-------------------------これらは演奏していてやはり気分的にかなり盛り上がったという記憶がある。ぜひ子供たちにこの曲をライブで聴かせてみたいと思う。どうやら、我が家ではこれが「お片付けミュージック」としての不動の地位を築いたようである。
Jan 21, 2007
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今日はオケの練習、ブラームスの交響曲第1番だった。それなりに楽譜に書いてあるわかりやすい部分、音の高さと音の強さについてはぼちぼち形になってきたかな。ところが、今日の練習で気づいていて、後でコンマスと一致したのは、「流れの悪さ」だった。フレーズが脈絡のない場所で間違って切れてしまったり、さらには切り刻みすぎて旋律をどういう形で見せるべきかといったところがわからなくなっていた。理由はいろいろあると思っている。例えば、練習不足で楽譜を目で追いながら弾くのに精一杯で見えやすい指示を必死で守ろうとするところにとどまっていることがそれだろう。あと、フレーズを間違って切ってしまっている場合には、運弓の都合で勝手にそうなっているというのもあるし、さらには解決音を無神経に弾いてしまうということもある。解決音は曲における句読点を示す重要な役割を持っているために無神経にやると旋律の形が崩れてしまう。これでは文法をまったく考えないで英語を話しかけているようで、聴いていてしんどいのではないかなと思う。とまで言ってしまうと、「アマチュアなんだし、楽しければいいじゃない」と言われそうだが、いつもパート練習で言っているのは、「新しいやり方を理解して成長していく楽しみもたまにはいいじゃないですか」ということだ。もっと神経を使っていいものを作っていく楽しみが実感できると、さらに演奏するという行為が楽しいものになっていくのではないかと私は思っている。今まで知らなかったことがわかったり、できなかったことができるようになってくると楽しい、そして、みんなが同じ方向性を持って(もちろん個性はあっていいと思う)合奏していければいいなと思う。そう考えてみると、まだまだ課題が多くあるなと思う。ただ弾くことの楽しさから、さらに成長していく楽しさへ、一人で何とか弾けていることの楽しさから、みんなで一緒に歩いていく楽しさへ、やり方には工夫が必要だが、できるようになりたいものだ。
Jan 20, 2007
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セレンディピティとは、「思いがけない掘り出し物」という意味なのだが、今日はそんな感じに思えた。1つめの授業を終えて部屋に戻ると、所属オケのメンバーからメールが。いつも仲良くしていただいている指揮者が大阪に来ているとのことで、「一緒に飲みませんか」という連絡があったらしい。予定が空いていたのでOKして集合場所へ。楽しく音楽の話。業界四方山話などを聞いて、楽しく飲んだ。こういう異業種交流はやはり楽しい。指揮者の先生もやはり新鮮なようで、よかったよかった。プロとお話しさせていただくことは本当に勉強になる。といっても、単なる「お勉強」ではなくて、より楽しく音楽をすることにも、より楽しく生きることにもつながることだ。
Jan 19, 2007
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NHKで昨日放送された「クローズアップ現代」で、経済的に苦しいプロのオーケストラの実情と取り組みというテーマが扱われていた。文化事業を採算ベースにきっちりと乗せることができているオケはごく限られているそうで、多くは自治体や企業からの援助がなければ財政的に難しいということだった。昨年からの「のだめ」ブームで、私の知り合いの関係者はみんな「ここがチャンスだ」と揃って言っている。まさにその通りなのかなとも思う。しかし、最近ではどこもいろいろと工夫されるようになったなと思う。大阪には4つのプロオケがあるが、いずれも独自の工夫を打ち出している。それはプログラムであったり、出張演奏であったり、コンサートでのトークショーであったり、多様である。大事なことはやはり何らかの特徴があることと、届けている音楽の質を向上させるということ、そしてサポーターを増やすことだろう。番組では堺屋太一氏がJリーグと比較対照しながら話をしていたが、確かに同じショービジネスとしては参考になる点も多いのかなという印象を持った。もちろん、熱狂的な大人のサポーターも重要であることは確かなのだが、実は将来の演奏家になるかもしれない世代の子供たちをサポーターにすることも大事なのかなと思った。子供はクラシック音楽にちゃんと触れることのできる環境があれば、最初から嫌がることはないと思う。実際に合奏することは楽しいことだと言うし、曲もちゃんと選べば喜ぶだろう。ビジュアル的に面白い派手な曲を並べてみることもけっこう喜ぶかもしれない。まだまだアイデアを出す余地はあるんじゃないかなと思ったりもする。もちろん、いろいろな試みがあり、必死でアイデアを出していることは知っているし、見られる限り感じ取ることができる。あとはどれだけ通じてくれるのか、通じるためにどれだけお客さんに近づくことができるのかがきっと大事なのかなと思う。プロオケに知り合いが何人かいたりする私の場合は特に応援したいなという気持ちがあって演奏会に足を運んだりもするのだが、1人の力ではなかなか...。それでも応援していきたいなと思う。オケを減らせばいいという意見なんて吹っ飛ばしてしまうくらい、頑張れオーケストラ!!
Jan 18, 2007
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今日でこのページで日記を始めてからちょうど2年になる。最初の動機は震災10年となる日を原点にして日記を書こうと思ったことだ(一番最初の日の日記を参照)。毎年この日だけは特別、何があっても忘れることはない。昨年の今日はこんなことを書いていた。(以下昨年1月17日の日記より)(本文中括弧内は加筆)今日はさすがに全国ニュースでも震災の話題が言及されていたが、ホリエモン、宮崎勤被告の判決、ヒューザー社長の証人喚問といろいろなトピックが多すぎてかすんでいたような感じだ。どこの局でも「今日、地元では祈りに包まれています」という一言で結ばれていたのが、何とも言えない複雑な気分だった。確かにそうだと言えなくもないが、「その一言でまとめて終わりかい!」とも言いたくなってしまう。<1年経つと見事にこれらのニュースはかすんだ。世の中そんなものかと悲しくなる>毎年、不思議なことに1月17日は朝早く目覚めてしまうのだが、今回は仕事で疲れたのと、就寝時刻が遅かったせいで、起きなかった。それはそれでちょっと安心したような気もする。もっと不思議なのは、朝うなされて起きるときには決まって5時45分前後なのである。そこまで心の奥深くにこの時刻が刻まれているのだろうか...。<これは今も変わらない。朝うなされて時計を見たら必ずこの時刻だ>震災の真っ只中にいた一人の人間の体験と思いをつづった文章(震災回顧)をフリーページ(画面左側)に書いてあるので、少し雰囲気はお伝えできるかと思う。被害の程度は人それぞれ、それこそ道一本を隔てて生死が分かれたという場所が無数に存在し、本当に生死は紙一重の世界だった。私は運良く生き残ることができたに過ぎないと今でもそう思っている。それに実家も倒壊せずに済んだ(ただし、内壁は崩れてボロボロになったので修理費用はかなりかかった)。客観的には被災者の中ではかなり運がよかった部類に入るし、そう言われそうだ。しかし、そのひどさを冷静かつ客観的に見てそう論じるのは、保険会社と自治体だけにしてもらいたいと私は思う(もちろん、これは私の見解であってそれぞれ個人によって違うはずだ)。自分ではケリをつけているつもりでも、体験者はそれぞれ震災の影響が心理的に刻み込まれていることは確かだ。心の中の震災は一生終わることはない。私の場合は、風で建物がちょっと揺れただけとか、ダンプが家の前の道を通ったときの低い音とと振動があっただけでも冷や汗が出て、心拍数も上がってしまうし、また震災の瞬間が夢に出てきてうなされて起きてしまうことも最近でさえまれにある。<低い音と振動に対してナーバスなのはきっと一生なおらないと思う。残念ながら…>1月17日は毎年、自分が生きていることへの感謝をし、また頑張らなければと自分をもう一度奮い立たせるための日になっている。震災で亡くなった方の冥福を静かに祈りつつ、その中で生き残った自分と妻、そして震災を知らない自分の子供たちとでどう生きていくかを考えていた。その答えは毎日を生きながら探し見つけていくのだと思うのだが、考えずにはいられなかった。明日からまた前を向いて生きていくこと、まず自分にできることはそれだろう。以上が昨年書いたことだが、基本的な思いは今も変わらないし、これからもきっと変わらないだろう。まだ震災体験を子供に話したことはない。ただ、最近「死ぬってどういうことなの?」と娘に聞かれることがある。これについてはまだうまく説明できていないと思う。死を身近に感じることは、人生において遅かれ早かれあることだが、とにかく望みたいのは人災を起こさないこと、人間が自ら死に加担しないことだ。「命あっての物種」本当にそう思う。
Jan 17, 2007
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今日は4年ゼミ最後の授業を行った。今回は年末に出したコメントを訂正したものを提出してもらい、一人一人に2年間の思い出とみんなに対するメッセージを語ってもらった。昨年、一昨年と、この時期にも日記でこの話を書いたのだが、毎年、ゼミの最終回は複雑な気持ちになる。頑張って社会に出て行くメンバーを応援するために何を言えばいいのだろうかと考える一方で、自分の話で終わりを宣言してしまうことの寂しさとがないまぜになる。それは毎年同じ思いだ。毎年ゼミを指導しているうちに、メンバーに対して情が移っていくものだが、この学年は「ある意味わかりやすい学年」だった。卒論を書く時期になって「単位が揃ったのでやめます」とか「卒論書くのがめんどうだし楽しくないのでやめます」などという学生がさらに増えたのがこの学年だ。今まであまり思わなかったことだが、卒論が「サバイバル」になりつつある。卒論を書かなくても単位がある程度揃えやすくなっている実態に問題があるように思うのは、私だけではないだろう。そんな中で私の厳しいコメントにしっかり応えてくれたみんなはやはり見るべきものがあると思う。私はゼミという場を単に勉強する場だけではなく、人との関わりを持って自分を磨く場、そしてその中で心地よく過ごせる場にしたいといつも思っているのだが、結局のところ全員に伝わったわけではなかったことになる。ただ、これはやはり毎年のことで、きっちりとコミットしてくれた万場ーとはとても濃い付き合いができたと思う。いろいろな思い出ができることは私にとって宝物だと思う。これからも大事に付き合っていくことができたらと思う。今年の最後の言葉は、「すぐに好き嫌いの見切りをつけないこと。できる限り周りにあるものを受け入れようと思って行動してほしい」ということと、「公式の場で行動するときには自分の気持ちがどうあれ、周囲からは必ず見られている」というものだった。2年間、この学年で痛感したことだ。せめてこれだけは伝わってくれていればと願う。あとはゼミの卒業旅行が楽しみなのと、よき社会人になれることを期待して卒業式で送り出すことが楽しみでもあり、きっと寂しくもあるのかなと思う。ゼミ終了後は誰からともなく「飲みに行こうや」との声が上がり、近所の飲み屋で楽しく飲み会。同じ方向に帰るゼミ生と楽しく話しながら帰った。
Jan 16, 2007
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今日、仕事の帰りに「悲愴」の第1楽章を聴きながら帰った。来月の演奏会で演奏するので、いろいろと考えるために、そして先日の合奏の復習のためにそうした。自宅の最寄り駅まで帰れる電車に乗り換えたところで聴き始めた。いろいろと指揮者に言われたことを思い出し、またフレーズの作り方などをチェックし、どうやって弾くかというイメージをあれこれしながら電車に揺られる。第2主題(静かなニ長調の部分)の最初の音が出た瞬間に「うるうるっ」ときた。真っ青な空のどこからともなく霧が沸いて降って、そして通り過ぎていくかのような音(ファ#ミレシラファ#ラという部分)。学生時代、紅葉の季節に上高地近くの山道をドライブしたときに見た風景そのものだった。目の前に現れては消えていくはかなさに感じ入った記憶がよみがえってきた。2度目の第2主題(ヴァイオリンがオクターブ上がって演奏する場所)はさらにテンションが高い。「ラソファ#ファ#ミ/ソファ#ミミレ」と来た後で低音が「ブーン」と鳴らす場所がたまらない。強いけれど優しく受け止めてくれるような音(これは半分本番指揮者の受け売りだが)で、次の音を弾きたいなと頭の中をいろいろな考えがめぐっていく。その後テンポが少し上がっておさまっていく場所は、小さい頃自分をかわいがってくれた人(もう会えない)が最後に「じゃあな」といって立ち去る姿を見送っているかのような絵がちょっとうかんだ。あくまで自分にとってはとても優しい記憶だが、それが遠ざかっていくかのような...。そしてオケが一発不協和音をぶちかました瞬間に嵐のような世界に変わっていく展開部がやってくる。とにかく激しいのだが、すべてが激しいだけでは芸がないというのは、演奏しながらどんどん理解できるようになったことだ。強い音だけで押し切るのではなく、その中できっちりとメリハリをつけることがやはり音楽の形を見せるためには必要だ。フレーズの切り方、カウントの仕方をあれこれ頭の中で試してみる。プロの演奏を聴いてみると、このあたりは実に巧妙だ。このあたり、電車もスピードに乗っていて、現実の気分ともかなりシンクロしていた。脱水機に放り込まれてグルグルしている状態の場所もあれば、一瞬だけ嵐の止み間になっている場所もある。そして、最後の審判を受けているかのような場所が展開部の最後には待っている。そういったところをもっと表情豊かに演奏できないか、いろいろと考えた。もちろん、これらは時間のあるときにでも実際に音を出して確認していかなければならない。展開部が終わりかけるところで電車を降りた。今日はいい天気で、電車を降りた後の帰り道は、日没後の明るさが少し残る中を歩いて帰った。ここで第2主題の再現(ロ長調)となる終結部へ。もうずいぶん前になるがコーヒーのコマーシャルで指揮者が登場して(確か石丸寛さんだったかな)演奏されていた部分だ。本当はもう少し前の日没前の太陽の輝きを見ることができたら気分的にもシンクロしたかな...。しかし、だんだん静まっていく部分は、今日の帰り道に見た空にぴったりきた。ちょうど帰宅する直前に第1楽章終了。この間たったの20分だったが、心と頭が同時にフル回転。疲れた仕事帰りの充実した気分転換となった。
Jan 15, 2007
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を弾いた。聴いていた人はみんな楽器をする人ばかり、なかなか緊張する演奏だった。ベートーヴェンの12番だったのだが、後期のカルテットはとにかく構造が入り組んでいて、しかも深い音楽になっている。選曲が渋いと言われたが、確かにその通り。ヴィオラ奏者の選曲だったが、いい曲だったし、とても勉強になった。いつもはオケの練習が終わってから飲みに行く親しい仲間4人なのだが、アルコール抜きのガチンコ勝負で作る音楽もとてもいいものだ。このメンバーだからこそできる音楽がある。せっかくやるのだから好きな曲にどんどんチャレンジしていきたい。でもその前に、もっとヴァイオリンうまくならないとね...。充実感と反省とが入り交じって、それでも楽しい、素晴らしいことだと思う。
Jan 14, 2007
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一日遅れの更新。昨日は本番指揮者を迎えてのOBオケの練習。だんだんと曲にも慣れてきて、この演奏における約束事もかなり覚えられるようになってきたというのは、ここ1,2回の練習の収穫だった。しかし、演奏をつくるためにはここから先の努力がさらにたくさん必要になる。確かに、楽譜に書いてある音符として記述された音の高さや長さを守ることは大事なことなのだが、これは演奏をつくるための第一歩なのであって、本当にいい演奏なのかどうかを決めるのはその先の作業がどれだけ緻密に行われてきていて、どれだけ体で表現できる状態に持って行くことができているのかということにかかっていると思う。チャイコフスキーの「悲愴」第1楽章の合奏では、それが課題であることを痛切に感じた。単純な音型一つ取り出しても指揮者はいい演奏をさせようとして、そこからたくさんの言葉を引き出してくる。なるほどなと思うことがたくさんあった。例えば、第1楽章の第2主題では「方向性さえ合っていれば、全体が一糸乱れぬアンサンブルでなくてもいいし、メトロノーム的に正確でなくてもいい」と言われたが、それはまさにその通りで、メトロノームに従ったような正確感は逆にない方がいい。むしろ、テンポが狂ったと聴き手に思わせない程度の微妙な時間的ズレがあった方が、揺れ動く心情が表現されているようで逆にいい演奏になったりする。そして、これが前提となって「最初の音を少し長めに」といった指示があるのだ。この指示を逆にすると物理的に音を長くすることに注意が行ってしまって、逆に音楽的な意味が抜け落ちた状態で体に入れてしまうことになる。演奏を作っていく過程ではこれだけいろいろなことを考えなければいけないのだ。指揮者はそれを他人にやってもらうのだから本当に大変だ。次に練習したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番は、ソリストを迎えての合奏となったが、オケの伴奏は奥が深いなとさらに感じることになった。一般的に協奏曲の伴奏パートは、交響曲のパートよりも簡単である。つまり、どうしても技術的に弾けないという場所が出てくる確率はかなり低い。しかし、伴奏はソリストの音楽にちゃんとついていかなければならないし、逆に伴奏パートだけで音楽が展開されていく場所もあるので、その切替をちゃんとしていかなければならない。これがかなり難しい作業になってくる。練習が終わった後でソリストと話したが、そのときに言われたのは「音程やリズムはもちろんだが、今弾いている音が頂点に向かっているのか、おさまっているのかをもっと意識して演奏した方がいい」ということだった。確かに、伴奏パートはかなりでこぼこした感じになっていたなと思う。昨日、特に考えさせられたのは、やはり「楽譜を読む」ということは、ちゃんと音楽の文法を意識して、その背後に隠されたメッセージを読むということでなければならないということだ。どうしても、演奏するとなると音程だのリズムだのというところに意識が行きがちになって、それ以上のことはなかなかできないものだが、実は「それ以上」のことができたら、もっと演奏の楽しみが広がっていくのだ。演奏する側は楽譜を見ながらやっているわけだが、聴く側が楽譜を持っていることはまずない(ところが、たまにスコアを見ながら聴いているというコワーイお客さんもいたりする...)。楽譜を持たない人に聴いてもらって「ええなあ」と思ってもらうためには、音の「かたち」をしっかりと見せていかなければならない。もちろん、さらに音の質にも気を配っていく必要がある。もちろん、アマチュアオケなので、聴衆のほとんどはプレイヤーの知り合いとか常連さんが多いので、それだけでも十分プラスに見てもらえるし、気合いや根性も認めてもらいやすい。でもそこからさらに一歩でも先に進むことができたら素晴らしいことだ。ただし...そういう意識を持つことがさらに高度な演奏の「楽しみにつながる」ように持って行かなければならないのが大変なところだ。新しい意識を持つというのはなかなか難しいし、無理に押し込もうとすると拒否反応が起こってしまう可能性もあるからだ。ちょっとずつ、長い時間をかけていかなければならない問題なのだろうと思う。でも、みんなでそれができたらきっとすごい演奏ができるんじゃないかなと思っている。
Jan 14, 2007
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昨日放映されていた「天才たけしの誰でもピカソ」という番組の中で、タイトルにあるようなテーマでいろいろなクラシックの名曲が紹介されていた。シューマン、ワーグナー、ベルリオーズなどなど、自分の恋愛体験が曲に反映されているものが主として紹介されていた。中でも面白かったのは、作曲家の青島広志氏によるウェーバー「舞踏への勧誘」の解説(というか弾き語り?)が面白かった。クラシック音楽の曲では低音が男を表し、高音が女を表すという例で出てきたのだが、ピアノの左手と右手の掛け合いがダンスに誘う男「一緒に踊ってくれませんか?」から女が最初は逃げるような旋律で答えるが、次第にOKしていくようになる様子などを普通の話し言葉で歌詞をつけながら弾いていた。スゴイのはかなり速いスピードで普通にしゃべりながら曲を弾いてほとんど間違えていないところだった。歌いながらというのならともかく、関係ないリズムでしゃべりながら弾くというのはとても難しいことだと思う。プロの音楽家はスゴイと一緒に見ていた妻と感心することしきりだった。こういう視点でいろいろな曲を見ていくというのも面白いなと思う。オペラは男と女の間のドロドロを扱うものが多いし、弦楽器の形は女性を表すと言うし、まあ音楽に恋愛が関係あるというのは当然といえば当然なのだが。
Jan 13, 2007
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今日は午後から授業3連発。年が明けてから最初の日である。久しぶりの大教室での講義ということで、きっちりとそのモードに切り替えておかなければならない。まずはいつもよりも念入りに資料と台本をチェック。そろそろ最後の落としどころを決めなければならないので、慎重に作業した。まだ風邪気味状態が続いているので咳が出た(痰を切りたかったのもあって)。研究室の前を通った同僚が「大丈夫なのかな」と思っていたそうだ。雑用を含めていろいろとやるべきことがあって、まだできていないのではないかと不安もありつつ、授業へ。大学院の授業はいつも通り、少しは落ち着けるのだが、やはり話をし出すとちょっとしんどいかなと思う瞬間が。しかしそこは何とかして乗り切った。問題は、そのあとの大講義室2連発だった。学期末に近づくにつれて一見さんが増えてくるのはいつものことだが、困るのは私語も増えてしまうことだ。とりあえず何度か注意をして抑えていくが、それでも最後の方に入ってくるという困った学生もいる。それでどうにかなるとでも思っているのだろうか。世の中そんなに甘くはない。ということを覚悟しているのならばまだいいのだが、こういう人に限って後からいろいろと言ってくるので困る。授業終了後、質問に来た女子学生がいたが、例の「巻き舌ため口」の学生だった。ガムを噛みながら相変わらずため口でやってきた。今回はさすがにちゃんと答えてもらわないと困る質問だったらしく巻き舌状態ではなかったが、相変わらずガラが悪い。そういえば、大学の中で禁煙スペースで堂々とたばこを吸ったり、注意したら逆ギレする確率は自分の見た限り女子学生の方が多いなあ。いずれにしても、困ったものである。試験まで終われば一区切りだが、今年はどうも後味が悪いと感じる。こんなので来年度から大丈夫なのかなと思ったりもするが、じっくり対策を立てなければならないかな...。それにしても、やはり初回というのはきついものだ。今のところのどにはあまり負担が来ていないのでいいのだが、ちょっとさすがに今日は疲れた。
Jan 12, 2007
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私には「食わず嫌い」ならぬ「弾かず嫌い」の曲が多い。ずっとその曲が嫌いだとか一度聴いたら嫌になったというわけではないのだが、その気になって弾いてみて初めて好きになる曲がとても多い。これも初めて演奏してから好きになった曲だ。初めて弾いたのはもう7,8年前だったが、当時は事情によりほとんどゲネ本(当日のリハーサルと本番だけ合奏に参加すること)状態だった。その事情というのは就職した先が遠方で、母校での仕事に合わせてオケの練習に参加しているだけということだ。今では地元(母校も地元)にいるので、おかげで所属オケを辞めずに続けることができている。とはいえ、当時はこの曲を味わう余裕もないまま終わったことだけ覚えている。しかし、一昨年大学オケにエキストラ出演した際にじっくりと弾く機会を得たので、その過程で好きになっていった。ベートーヴェンは意外なことに、舞台音楽に強い関心を持っていて、「エグモント」や「コリオラン」といった序曲をはじめ、ベートーヴェン序曲集と銘打ったCDに収録されている序曲はほとんどすべてそのような目的で書かれたものだ。しかし、この「フィデリオ」だけがベートーヴェンの残した唯一のオペラの序曲なのである。とはいえ、実は「レオノーレ」序曲(3曲ある)はすべてこのオペラの序曲として書かれたもので(実は題名もレオノーレからフィデリオに途中で変更されている)、「フィデリオ」序曲はこのオペラのために書かれた第4の序曲となった。この曲は、ベートーヴェンの序曲の中では短い部類に入り、構造も比較的単純である。しかし、単純な素材からこれだけの曲を書くというのはさすがベートーヴェンと感心してしまう。また、ベートーヴェンの序曲の中でもこの曲は異質な雰囲気を持っている。他の曲には重厚な部分が必ずあるのに、この曲は最初から最後まで軽快な雰囲気のままだ。そう思える一つの理由は調性で、ベートーヴェンのオーケストラ作品にはあまり出てこないホ長調になっている。他の序曲について言えば、「エグモント」がヘ短調、「コリオラン」がハ短調、「レオノーレ」がハ長調とベートーヴェンの作品にわりとよく出てくる調になっていて、いずれも重厚な雰囲気や厳しい雰囲気を出すのに効果的な調であるように思う。そういう点で「フィデリオ」は少し変わっている感じがするのだ。ちなみに、そうなっている理由には諸説あるのだが、オペラの中で次に出てくる曲の調に合わせたということのようだ。この曲の中でお気に入りの部分は、最後の方で執拗にクレッシェンドして盛り上がっていくところで、特に、トランペットが加わって、ティンパニのリズムが細かくなってくる場所だ(トランペットの音がまっすぐに伸びてくると本当に聴いていてぞくっとする)。この盛り上げ方は交響曲第7番の終楽章を先取りした感じがして、いい演奏だとついつい体が動きそうになってしまう。電車の中や道ばたで体が動くと怪しいので、止まっているのが大変だ。
Jan 11, 2007
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今日は午前中に3年ゼミ。今回で3年ゼミは最終回。中途半端に1回余ってしまうことは前からわかっていたことなので、以前から今回は就職活動を控えた3年生に対して4年ゼミ生が自分の体験を話してもらい、質問に答えてもらうことを企画していた。今回協力してくれたのは4人、朝からありがたいことだ。3年生はそんなに人数が多くないのだが、それでも人前で話すことに慣れていなかった4年生はかなり緊張した面持ちだった。一方の3年生もいくらか緊張していた。しかし、それは何を言うのだろうかという期待感と自分にできるのかどうかという不安感の両方の気持ちが見える表情だった。4年生はエントリー段階から、グループディスカッションでの位置取りや、面接での注意点についてかなり詳しく話してくれていたし、3年生の素朴な疑問にも誠意を持って答えていたと思う。私があまりよく知らなかった新しい就活事情や学内での就職フォロー体制の実態といったものも聞かせてもらい、私自身も勉強になった。この企画は毎年1月のこの時期にやっているのだが、今の4年生も昨年の今頃は立場が逆だった。就職活動をくぐり抜けてきた彼らを見ているとやはり成長したなと感じることがある。口ではいろいろと言ってはいるが、やることをきっちりとやっているのだなということを実感する。人それぞれ、自分なりの体験を持っていて、それがきっと4月からの社会人生活においても活かされていくのだと思う。やはり自分なりの経験談を話すということはとても重要だと思う。自分から少し離れたことについて説明するのは大変だが、自分の経験は自分にくっついているものなので、リアリティそのものだ。ただし、それを伝えるためには、それなりの方法を考えていかないとなかなか伝わらない。今日参加してくれた4年ゼミ生は自分なりに言いたいことをちゃんとまとめてきて臨んでいるということがよくわかった。このようにちゃんと自分なりの考え方をまとめられる人は、これから伸びていくのではないかと思う。終了後には、参考資料を3年生にあげるなど、気の利いたこともしていた。日頃はなかなか学年をまたいでの付き合いというのは少なくなりがちだが、これからもどんどんやっていってもらえたらと思う。せっかく接するチャンスがあるのだからぜひものにしてほしいものだ。そういう機会をまた作ってあげないといけないかなと思う。最後は協力してくれた4年ゼミ生と昼食。いろいろと話して楽しかった。今日のような3年生と4年生の姿を見ていると、これからもちゃんとこういった活動は続けていくべきだなと思う。
Jan 10, 2007
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ドヴォルザーク後期の作品をさらに取り上げておくことにしたい。この加筆と再録の作業は、フリーページにリンクを張るための作業の一環としてやっているのだが、さらに考えたことを足していきたいと思ったときにもやっている。-------------------------チェロ協奏曲の代名詞とも言えるこの曲は、チェロを弾く人が一度はソロで弾いてみたい曲のようだ。この協奏曲は、ヴァイオリンのいろいろな協奏曲のようにアマチュアでは手も足も出ないようなカデンツァがないこともあって、そこそこ長くやっている人なら弾くマネはできるようだ(もちろん、そこから深めたような音を出すことは難しいにしても)。所属オケでこの曲を練習していたとき、初日の合奏中にチェロパートの人がこぞってソロを弾き始めて笑ってしまった。誰も伴奏のチェロパートを弾かないので練習にならない...。この曲はドヴォルザークの作品の中ではかなり終わりの方に位置する曲だ。「新世界」や「アメリカ」など、ドヴォルザークを代表する作品よりも後になる。上に挙げた2曲はアメリカ生活の中で書かれたもので、そこで知った音階などを使っているのだが、この作品はその色はあまり濃くない。むしろ、それまでに獲得してきた手法がうまくブレンドされている感じがする。-------------------------第1楽章:ソロが出てくる前からすでにいい雰囲気を作り出している。特に第2主題(ニ長調の歌うような主題)の扱いは絶品だ。ソロが出てくる前ではホルンが演奏し、乾いた雰囲気の中で遠くから鳴ってくるような感じであるのに対して、チェロのソロが同じ旋律を演奏するときには、もっと近くでみずみずしさのある音になっている。楽器の組み合わせ次第でそこまで雰囲気を変えることができるのだ。途中、最初に提示された主題がいろいろと展開されていく部分では、転調も面白い。特に嬰ト短調で静かに演奏されるチェロの「泣き」の節が印象深い。最後の部分では、最初にロ短調で提示された旋律がロ長調で帰ってくるのだが、このあたりの構成も感心してしまう。ロ長調という調は、あか抜けた感じのしない独特の明るさを持っている。古い建物の中にある金色の壁のような明るさを感じるのだが、この調に合った旋律の展開になっているように思う。重厚なオーケストレーションで結ばれる最後はスキッとした気分になる。-------------------------第2楽章:自然の中にいるような感じがするト長調の音楽。ドヴォルザークの使うゆっくりとしたト長調の音楽(例えば交響曲第8番の第4楽章など)は独特の雰囲気を持っていると思う。常に遠くの風景を見ているような感覚だ。この曲の場合だと、オケが遠くの風景で、ソロはその中にたたずむ人を表すような感じなのだろうか。ここでも途中でいろいろな調への転調を繰り返す(ト短調、変ニ長調、ヘ長調、ロ短調などと自由自在)のだが、多くはト長調の世界が占めている。あくまでも基本は穏やか路線という感じである。特に冒頭主題がホルンで戻ってきた後、この楽章を終えるのがもったいないとでも言いたげなソロの動きがたまらない。ドヴォルザークの作品に懐かしさを感じてしまうのは、きっとこういう作りなのだからだろう。-------------------------第3楽章:踊りの要素を感じる音楽。最初のチェロとベースの「ズン・ズン・ズン・ズン」という開始からして何かありそうな感じ。チェロのソロが始まるとそこから後はリズムがいきいきしている。その後に出てくるニ長調の穏やかな部分がまたいい感じ。そこからまた勢いを取り戻していく部分もうまくつながっている。その後冒頭の主題に戻るが、すぐに別の旋律が登場。最初はト長調でチェロの穏やかな感じのソロ(これも第2楽章と同じ雰囲気)があり、フルートがさらに軽やかさを演出、そこを抜けるとロ長調でヴァイオリン・ソロとチェロのソロとの掛け合いとなる。ちなみに、ここは二重奏だと思いがちだが、どちらにも実は2ndヴァイオリンのサポートが入っているのだ。よーくCDを聴いてみると、完全なソロではないことが聴き取れるはずだ。このソロはいうまでもなく、個人的に大好きである。この部分が終わり、金管楽器が登場するといよいよ最後のお話となる。ここでもやはりこの曲が終わりたくないかのようにゆっくり時間をかけて音楽が穏やかになっていく。ロ長調が使われているだけに、よりいっそう回想シーンの色が濃くなる。ちょうどセピア色の写真を見ているかのような感じだ。そして、第1楽章の主題の断片が登場、まさに回想だ。ほとんど音が無くなりかけたところで、最後に向かってクレッシェンド、突っ走って終わりとなる。このあたりの構成は「新世界」と共通のものを感じる。-------------------------まさにドヴォルザーク作品の集大成となる作品(もちろん、その後に書かれた一連の交響詩も魅力的だが)であると言っていいと思う。この曲に伴奏として参加できた経験をとても幸せに思う。
Jan 9, 2007
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前回、「新世界より」を取り上げたが、ドヴォルザークにとって傑作揃いの時期の作品について過去に書いたものをもう一度見てみようということで、今回はこれを取り上げることにした。-------------------------この曲は、大学時代、卒業した高校の文化祭で後輩たちが演奏していたのを聴いて一度で好きになった曲だ。この曲の作品番号は「新世界」「アメリカ」に続くもので、まさに傑作の宝庫と言える時代に属する。この弦楽五重奏曲は通常の弦楽四重奏にヴィオラをもう一本足したもので、編成としてはポピュラーな方だ。前の2作品と同様、インディアンの音楽、当時のアメリカの音楽、そして彼の故郷ボヘミアの音楽の要素を見事なまでにミックスして仕上げられている。第1楽章は明るい民謡風(これはおそらくアメリカのものだろう)の開始だがおとなしめ。だんだん盛り上がって、民謡舞曲の雰囲気になる。ここでもあっけらかんとした部分と少し陰を含んだ部分をうまく織り交ぜながらドヴォルザーク節が自由自在に展開されていく。五重奏らしい少し厚めの響きがある場所も聴きどころ。最後はおとなしくしめていくところが心憎い。第2楽章はインディアンの民謡っぽい感じ。最初の2小節で示されるリズムが主要な部分で常に鳴っているのだが、このリズムが特徴的である。この曲は変ホ長調(b3つ)が基本だが、この楽章はなんとロ長調(#5つ)。かなり関係としては離れている。変ホ長調は雄大さを表す場面でよく使われるが(ベートーヴェンの「英雄」「皇帝」、R.シュトラウスの「英雄の生涯」など)、逆の関係すなわちコンパクトというか素朴な感じ、そして軽い感じが出ている。途中短調になったところでのヴィオラの泣くようなメロディがたまらない。第3楽章は変イ短調(b7つ!)という珍しい調で書かれている変奏曲。旋律の最後の変イ長調の流れによって救われる気分になる。しっとりとした調子から激しい調子まで変幻自在に作られていて、さすがである。しかし、楽譜を見るたびに音とるの大変だなこりゃと思ってしまう。全部の元を半音下げてイ短調で書いてくれという人もいたりする(それは無茶だが)。第4楽章は跳ねるようなメロディーとしっとりとしたメロディが交互に出てくる楽しい曲。これを初めて聴いたときからこの曲が大好きになった。一度はやってみたいと思い、楽器5種類分の楽譜を買うのがしんどかった中、スコアを買ってすべて写譜して大学オケの仲間に一緒に演奏を頼んでやってもらったのがいい思い出だ。-------------------------この曲は体がしんどいときにでもすんなり聴くことができる。さっぱりしているが味もちゃんとある中華粥のような味わいがすると感じる。今日聴いた演奏は、アンナー・ビルスマなどがいるラルキブデッリという弦楽アンサンブルによるもの。何でも、この団体はガット弦を使って演奏しているのが特徴であるらしく、なるほど音は他の演奏よりもまろやかにきこえる。また、奏法もヴィブラートを極力抑えた感じ(これっていわゆる「ピリオド奏法」に近いものかな?)。しかし、それが味気ないものにならないのがすごい。弓のコントロールがきっと絶妙なのだろう。それに自信がなければあんなにヴィブラートがないのに味のある演奏はできないだろう。もちろん、現代的な響きが魅力的に感じることもあるので、いつもそれがいいという評価にはならないところが、音楽の面白いところでもある。この曲、「新世界より」「アメリカ」と続けて聴いてみると、いい感じかもしれない。この後に、ヴァイオリンとピアノのためのソナチネや、チェロ協奏曲といった曲が続いていく。
Jan 8, 2007
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この曲は新年の演奏会企画として取り上げられることが多い。第2楽章は「家路」として親しまれているし、第4楽章冒頭はCMなどでよく使われており、部分的には触れている人は比較的多いだろう。しかし、全曲となるとどうだろうと思う。かくいう私も、ヴァイオリンを持って演奏するようになるまではそうだったが、今ではスコアをおそらく一番深く長く読んだ曲のひとつだ。ここまで曲に対する触れ方が変わってしまうものかと今となっては思ってしまう。この曲は1893年、ドヴォルザークがニューヨークの音楽院の校長として招かれてアメリカに滞在した時期に作曲された。この時期には弦楽四重奏曲「アメリカ」や弦楽五重奏曲第3番、チェロ協奏曲と代表作がたくさん生まれている。この曲の副題は「新世界より」であり、実はこの「より」が重要な意味を持っているように思える(チェコ語で「より」は"z"一文字。スコアの表紙にはちゃんとそのまま「新世界より」と書かれている)。というのも、この曲は「新世界」すばわちアメリカそのものを描いたというものではなく、むしろ故郷の人に宛てた近況報告というか印象記というか、そんなところ(「ボヘミア人が見たアメリカ」とか)ではないかなと思われる(むしろ、この曲より後の作品の方にアメリカ先住民の音楽の影響があるように思う)。音楽そのものはチェコ的な要素が多いように思う。-------------------------第1楽章:静かに沈み込むような開始、そこを切り裂くような弦楽器とティンパニによるフレーズを経て、ホルンによる第1主題へ。シンコペーションと山型の音型が印象的で、これは全曲の至る所で使われている。チェコとは少し違う新しい世界はドヴォルザークにとってこういう色に見えたのかなと思う(抜けるような明るさはない)。第2主題は短調の民謡風旋律だが、チェコのものとは少し違うノリがある。また、その後にフルートのソロ(その後続いてヴァイオリン)で演奏される結尾部分は対照的に長調の民謡風旋律も同様に感じる。その後さまざまな調や楽器を駆使しながら展開がなされていくが、再現部での工夫が私は個人的に好きである。それは第2主題で1回目より半音上げた音階によって旋律が演奏されることである。これは昼と夜のような違いがあってとても魅力的だ。その後に最後まで突っ走る推進力も素晴らしいなと思う。-------------------------第2楽章:主題は今さら何も付け加える必要もない超メジャーな旋律。イングリッシュホルン、しかも変ニ長調を使っているところがますます「家路」の感じを強めていると私は思う。これを聴くと家に帰りたくなってしまうから困りものだ(小学校の時に下校時刻まで毎日野球をやっていたのを思い出す)。その前の導入部分で金管楽器だけのコラールがあるのだが、これが素晴らしいと思う。実は第1楽章から関連性を持たせるような和音で始まっているので、違和感なく入り込んでいけるのだ。中間部は木管楽器で始まり、後に弦楽器で受け継がれていく嬰ハ短調の部分。ここは夜の湖面が月に照らされているかのような雰囲気を感じる(スメタナの「モルダウ」にある夜の場面に少しタッチが似ているような気がする)。これは弦楽器のトリルやピチカートといったものによってそうきこえるのだろう。夜が深まっていくかのように音が静まるとヴィオラが半音上がるのを合図にオーボエが登場、夜明けのようになる。そして、輝きを増して金管が登場(ここも第1楽章の主題の断片が使われている)し、それがだんだん遠のいて再び「家路」の登場。その旋律もだんだん断片化してヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの三重奏になった後で合奏になる。次に1stVnだけで演奏される息の長い旋律は終わりたくないかのような雰囲気。最後は金管のコラールそして、4パートに分かれたコントラバスで閉じられる。細部にわたるこだわりがいろいろと生きている味わい深い音楽である。-------------------------第3楽章:この楽章ではトライアングルが使われているのが印象的。急速な3拍子の中にヘミオラを入れ込んでいくのは「スラブ舞曲」でも多く使われるリズムでドヴォルザークお得意の手法である。この曲を指揮したときにとても苦労した。中間部にあるホ長調の部分はちょっとそれまでのドヴォルザークにはなかった感じで、少し新世界に影響された部分だろうか。しかし、その後に来るハ長調のワルツ的な部分はチェコの雰囲気がやはりする。冒頭部分が戻ってくる場所は急速な場面転換だが、これもなかなか合奏では合いにくい場所で苦労した。コーダの終わりの部分ではrit.(「遅くする」)と書くのではなく、1小節の中にある音符の数を6→5→4→3→2→1と減らして遅くなるように書いてあるのが初めてスコアを見たときに驚いたことだ。-------------------------第4楽章:最初の音型を「ジョーズ」みたいだと言えば世代がばれてしまうが、序奏部分をこれから展開していく工夫は作曲家のすごさを実感する。そして主題(ホルン→ヴァイオリン)はこの曲の代名詞とも呼べる部分。これが一段落する場所でシンバルが一発だけあるのだが、これがとてつもなく難しいらしい(ただ「ジャーン!」ではダメなので)。その後のクラリネットの旋律はやはりチェコの雰囲気、それが盛り上がった後に出てくる弦楽器の旋律はチェコ風だが楽器の組み合わせ方は第8番と違う。やはりいろいろと考えられているのだろうか。その後第2楽章の主題の断片が展開されたり、第1楽章の第1主題が顔を出したりといった新しい手法を使っている。展開部が終わった後の再現部(といっていいのかな)はホ長調、爽やかな風が吹くような曲の運びが私は大好きである。その後も各楽章の主題を変形させながら、頂点を築く(この部分も第2楽章のコラールの変形)。それが終わった後で第2楽章の主題と第3楽章の主題を組み合わせてどんどん静まっていく。ホルンが弱音ででこの楽章の第1主題を演奏すると、それをきっかけに最後の盛り上がり。普通はフォルテで終わるのが、ドヴォルザークは何と最後の音をだんだん弱く、そして「長く(lunga)」と書いている。手紙を書き終えたペンをそっと置くかのような感じだ。そういう意図がどこまであるのかはわからないのだが、そういうことを感じてしまう。-------------------------この曲も私にとって大事な場面に登場する曲である。初めて学生指揮をしたのがこの曲、大学時代に最後にコンマスをやったのもこの曲、そして遠隔地に勤務するために所属オケのコンマスを辞める時の最後にやったのもこの曲。いろいろな思い出が詰まっている。学生指揮とはいえ、本格的にオケの一曲を任されることになった初めての曲というのがやはり強烈に残っている。とにかく指揮のことをわかっていなかったのをやるわけだから、かなり大変である。曲の勉強はとにかくやった。今でもそのときのスコアを大切に持っているが書き込みだらけだ。今の自分の演奏のやりかたの原点でもある。当時本番を指揮していただいた先生にこの曲を習ったときの経験もよく覚えている。第2楽章冒頭のコラールをやってみろと言われてやってみたらうまくいかない。そのときに「そんなに無理してコントロールしようとしたら管楽器は吹けないよ。もっとやわらかく合図を出してみなさい。とにかく力を抜いて。」言われたとおりにやってみたら、ちゃんと出た。力を抜くことは演奏でも指揮でも基本中の基本、今でも思い出さなければならない経験だ。また、本番を指揮したことのある唯一の曲でもある。OBになってから大学オケの出張演奏でそれこそ百人単位の人の前で指揮をした。やるだけのことはやっていたので、お辞儀をするまでは緊張していたが振り返ってメンバーの顔を見た瞬間に落ち着いて自分のペースへ。唯一のチャンスは成功したが、実はそれ以来、練習専門で本番の指揮はしたことがない。まあ、そんな度胸のあること、学生とかでなければ無理かななどと思ったりする。
Jan 7, 2007
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先日、オケのメンバーと練習場にあったチラシを見ていたら「指揮者コンクール入賞者のコンサート」なるものがあった。それを見て、「指揮者コンクールの順位って、どうやって決めているのかなあ?」という話が出てきた。これは素朴な疑問なのだが答えるのはとても難しい質問である。指揮者にもいろいろな人がいる。プロオケをひたすら振って海外まで行ってしまう人、国内中心でアマチュアオケを振ったりもする人、オケを指揮する機会もなくていろいろな仕事をしないと生活できない人、本当にさまざまだ。コンクールで上位に入賞しないとなかなかオーケストラからの仕事はもらえないとかいろいろと聞いたりもする。プレイヤーのコンクールもさすがに上位となると意見が分かれてくることもあったりするようで、順位づけをすることというのはとても難しいことだ。まして、指揮は自分で歌うのでもなければ、楽器を弾くわけでもない。他人を動かす力というとてつもな難しいものを要求されるわけで、そんなのわからないぞという感じだ。大事なことはやりたい音楽の形を示す力と、状況を瞬時に察知できる耳の良さといったことなどがきっと大事なのだろうと思う。それに、リハーサルを見るということなので、そこでの指示の的確さということも重要であるようだ。しかし、能力があるというだけでは仕事は取れないのも事実で、いわゆる「嫌なやつ」にはやはり仕事は来ない。これは特にオーケストラが人間の集まりであることにも大きく関わるのだろうと思う。何事でもそうだが、他人に何かをしてもらうと同時に、パフォーマンスに対して自分で責任をかぶるということほど難しいものはない。丸投げするだけなら楽なのだろうが、後半部分こそが実は重要だ。だからといって、自分だけでかぶって片づけてしまおうとするのも指揮者の場合は不可能である。日常の仕事でもこういう問題ってたくさんあるように思う。本当に問われている力は、丸投げをすることでもなければ、自分でかぶって「これだけやったんだから勘弁して」ということでもなく、確実に意思を伝えて仕事をしてもらうことであるように思う。そのためにはやっぱり他人から信頼されるだけの勉強量と、他人を信頼しつつ重要なところをきっちり押さえておく力との両方が必要だということだろう。それがうまくできる人って、やっぱり魅力的なんだろう。自分がそうなれるかどうかはわからないが、いろいろな素晴らしい指揮者に触れる機会がある自分にとってはとても勉強になる。
Jan 7, 2007
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この曲は、大晦日にあった東急ジルベスターコンサートでカウントダウンにも使われた超メジャーな曲。エルガーの故郷イギリスでは、「希望と栄光の国」という第2の国歌として愛唱されているが(当時の国王がこの旋律を気に入って歌詞をつけるように言ったそうだ)、日本では、トリオ(中間部)の旋律が、ある時は製薬会社のCM、またある時はアニメのエンディング曲、さらには中華食材のCMにまで使われている。もちろん、いろいろな式典においてもよく使われる。使われ方云々については意見の分かれるところかもしれないが、それだけ親しみやすい名旋律であることは間違いない。最初は威張った感じのマーチで始まるが、ここでエルガーはいきなり変化球を使っている。それは、主旋律がニ長調なのに、隣の変ホ長調の主音からスタートして、どこへ行くのかわからないようなフリをしてだんだん落としどころへと近づけていくという手法をとっている。新鮮にきこえるインパクトのある開始だ。主旋律の伴奏に注目してみると推進力を保つための工夫がばっちりしてあるところがまたいい。16分音符6つをクレッシェンドしながら弾くところはセコバイ魂全開の場所である(これは気をつけて聴かないとわかりづらいのだが...)。もう一度最初のフレーズが戻ってきて静まった後にトリオの有名な旋律が登場。最初はト長調である。伴奏も少しおとなしく、高貴な英国紳士が庭を歩く姿がぴったりきそうな雰囲気である。盛り上がっても高貴さを失わない、まだ気取った感じのするつくりであるように思う。もう一度主部の短縮バージョンを経て、2度目のトリオ。こちらはニ長調で壮大に、そして華やかに歌われる。こちらは高貴な紳士というよりは「栄光の輝き」という雰囲気がぴったりくるだろう。こちらはオルガンも付け加えるようにスコアには書かれている(といっても、会場に常備されていない限りやることはほとんどないと思われる)。伴奏も派手。セコバイは全弓を使って音を飛ばすように弾くのがいいなと思う。最後は速度を増して(実はあまり気づかない人が多いのだが、指定がちゃんとある)、盛り上がって曲を閉じる。私がこの曲を初めてちゃんと聴いたのは高校生の時。プロムスの最終日のコンサートをFMでやっていたのを聴いた。この演奏ではトリオに歌詞がつけられていて聴衆みんなが合唱していた。そして最後の部分では最後の音が鳴るか鳴らないかのタイミングで総立ち(おそらく)のブラボー状態だった。後に衛星放送で映像としてプロムスのコンサートを見たが、これはいいなあと思った。みんなが誇りに思える「わが国」の作曲家の曲ではじけられる、素晴らしいことだ。「国を愛する心」を言葉で強調しなくても自然とできているような気がする。エルガーは当時作曲家不毛の地と言われてきたイギリスにとって初めて出てきた大スターである。今年は生誕150年のメモリアルイヤー、いろいろな曲が紹介されるといいかなと思う。私は以前から個人的に大好きな作曲家なので、そうなればいいなと思う。エルガーの曲のCDもあまり出ていないころからいろいろ集めていた。このページでもまた取り上げていくつもりである。
Jan 5, 2007
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今日も痰が絡んで起きてしまった。何と朝4時!睡眠のサイクルは1時間半だと言われるが、まさに4時間半睡眠で大当たり!眠りが浅くなったところで息苦しさから起きた感じだ。結局洗面所で咳をしまくって落ち着くまで寝られず。これまでに録り貯めをして見ていなかった番組を見て過ごす。そして、朝の番組がいよいよ本格的に始まる7時前に疲れて就寝。その後起きたら11時。結局8時間半寝てはいるが、変則的なのであまり調子がでない。なぜか毎年この時期にはこういう症状になる。今年こそはそうならないようにとうがい&手洗いをしっかりやったのにやられてしまった。暴飲暴食&疲れで抵抗力が落ちていたと言うことなのかな?といっても、例年よりも飲み食いは少ないはずなのに...。というわけで仕事をしっかりやろうと思った出鼻を見事にくじかれた。今日はまた軽微な作業に逆戻りをして早く治そう。授業が始まってしまう前に何とかしなければならない。が、まだひどくはなっていないようなのでこのまま立ち直ろう。今日は家族にちょっとガマンしてもらって、ゆっくりさせてもらおう。といっているすぐ近くで娘と息子が喧嘩している。エネルギーが有り余っているんだろうな...。
Jan 5, 2007
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今日は朝から仕事を始動。まずは原稿の校正という軽めの作業からスタート。ところが、昨日から何となく風邪気味だなあという感じ。痰が絡んで息苦しくなったために起きてしまったのだ。うがいに手洗いにはずいぶん気をつけたのに...。これはおそらく20分ぐらいのうたた寝を正月に2,3度したどれかでなってしまったのではないかと思っている。その後、ようやく本も読み始めて、ちゃんと仕事モードに入れるための準備を整えていく。昼食後、子供たちがどこかに連れて行けというので、近所の商業施設へ。そこへ行くとなんと子供たちの大好きな「アンパンマンショー」があるではないか!結局寒空の中外でお付き合い。さらに具合が悪くなっていく。しかも悪いときに妻が「お店を見たい」というので、子供たちを外で遊ばせる。これでさらに体感温度が低下。いよいよまずいぞというところで合流。中にある家電量販店へ。生き返ったと思ったら、今度は暑すぎる。体温調節がかなりつらい感じになってきた。子供たちがお腹が空いたというので、結局中にあるファミレスで夕食を食べて帰った。食べた後は少し回復基調だが、今日は何とかして早めの就寝と行きたいものだ。ひどくならないように明日までに押し返してやろうという気合いは十分だが、さて、どうなるかな。
Jan 4, 2007
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今年はシベリウス没後50年のメモリアルイヤー、年が改まりまっさらな気分になったところで選んでみた。また、一人でゆっくりしているときに聴きたくなるのがこの曲。体調を崩して寝ころんでいるとき、この曲の透き通るようでいて優しさを失わない雰囲気はとても体に(というより心に?)優しい。正月の暴飲暴食をスッキリさせたいためにもいいかも。シベリウスは番号付きの交響曲を7曲残しているが、後になればなるほど、どんどん曲がコンパクトに凝縮されていく。第7番は楽章の概念すら取っ払って凝縮されている(ところが、実は4つの部分に分けられなくもないのだが)。マーラーのように、後に行くほど巨大になっていくのとは対照的である。この曲との出会いは高校生の頃。当時CDプレーヤーは出始めた頃でとても手が出る価格ではなく、ほとんどレコードだったが、うちには誰にもクラシックを聴く習慣がなかったので、もっぱらFM放送をエアチェック(懐かしい表現)していたものである。当時は、部活も楽しくなり、クラシック音楽の世界にはまり始めた頃で、手当たり次第、いろいろな曲を録音していた。その中の一曲だったのである。初めて聴いた時、今では考えられないことだが、印象に残ったのは最初(ソラシドレミ...という上行音型)と最後(シ~ド~という終わり方)だけだった。当時はとにかく色彩の濃い音楽が大好きだったから、やたらと薄く物足りない感じをもったのだろう。それからしばらくテープもラックに寝かされる日々が続いたのだが、ついにそれが取り出されたのは大学生の時だった。当時、大学オケに所属する人がオーディションを受けて合格すればめったに弾けない曲を、めったに弾けない場所で弾かせてもらえるという機会が年に1度あった。そのオーディションに合格したという連絡があったときに「シベリウスの7番の2ndVnトップをお願いできますか?」と言われたのだ。もちろん、一応知っている曲ではあるし、そんな機会は二度とないと思いすぐにOKしたまではよかったが、曲をちゃんとは知らない。そこで、高いスコア(シベリウスは著作権の関係で日本語版のスコアがない)を購入、日本語版があれば予想される3倍以上の価格で、けっこう痛かった。しかし、スコアを見ながらちゃんと聴いていくと、いい曲じゃないか...。最初の部分は混沌とした感じだが、それが晴れた後、ヴィオラ、次に1stVnに出てくる優しく流れる時を感じるようなメロディが素晴らしい。余計なものを一切取り払ったかのような純粋なつくり、まさに祈りの境地なのかもしれない。2ndVnはロングトーンばかりだが、このメロディにつけるのはとても幸せだった。さらに盛り上がった頂点で出てくるトロンボーンは神の啓示のよう(この旋律はとても重要で何度も出てくる)。途中のスケルツォ的な部分は、弾く方にとって実はけっこうやっかいなリズム。スコアに書いてある速度指定(速くなっていく具合)を捉えるのにはけっこう苦労した。その後に出てくるうねるような部分は、いったい何小節やったかがわからなくなる曲者。管楽器が複雑にロングトーンで絡み合ってきてますますわけがわからなくなる。だが、一度慣れてみればこれも素晴らしい表現に思えてきてしまう。そこの部分を抜けると、木管楽器のみずみずしいメロディ(湖を渡る風とさざ波のような感じ)。ここで2ndVnはやっぱりカサカサと弾いているだけなのだが、このメロディにつけることも幸せ。こういうことを思う場面では、よくぞこんな素晴らしい音楽を書いてくれたものだと思う。最後は冒頭の上行音型がトロンボーンのメロディを導き出し(この部分では低音もプラスされるパイプオルガンのような響きが素晴らしい)、これまでに使われたメロディを少しずつ登場させながら、ドの音で力強く閉じる。ここではシンコペーションに苦労した(芸が細かい...)。最初はこの曲に対して物足りなさを感じていたのだが、聴けば聴くほどいい曲であることに気づかされる。第2番でイメージされる森と湖とはまた違った季節のそれを感じさせてくれる。この曲を聴いていても、シベリウスが日本でうける理由がわかるような気がする。
Jan 3, 2007
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を年末年始に聴いている(買ったものは他にもあるが)。私はピアノがほとんど弾けない(ていうか、習ったことがない)のと、先にオーケストラ音楽の世界で楽しみを知ってしまったために、ピアノ曲のCDはほとんど持っていない。あるのはベートーヴェンのいわゆる3大ソナタとドビュッシーのベルガマスク組曲が収録されているものだけだ。今回我が家のCDのラインアップに加わったのは、ショパンの練習曲集(作品10&作品25)とバラード1,2番(ソロはアンドレイ・ガヴリーロフ)と、シューベルトの即興曲集とソナタである(ソロはリリー・クラウス)。「のだめ」で出てきたのは、前者では練習曲作品10-4、後者ではイ短調ソナタの第1楽章である。きっかけはそれだったが、いろいろと聴いてみるといいものである。特に練習曲だ。10-1の豪華な雰囲気、10-3(「別れの曲」で有名)は言うまでもなくいいなと思い、10-4は超絶技巧でありながら音楽の流れがちゃんと無いといけない曲であり、10-12は小泉今日子の顔が浮かんでしまう(いわゆる「革命」)。あの頃はドラマ(「少女に何が起こったか」)の大げさな展開に笑ってしまったが、実はちゃんと聴いてみるといい曲だなあと今さらながら思ってしまう。CDではこの激しい曲の後作品25-1へ。変イ長調の響きがとても優しいので、この2曲連続にちょっとはまっている。他にも何枚か買ったCDがあるが、それらはいずれもオケの曲。またこのページで紹介していく予定の曲である。音楽を聴ける喜びを感じつつ、この3日ほどで胃が疲れてきたなあ...。暴飲暴食気味か?
Jan 2, 2007
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これを落ち着いてみることができたのは何年ぶりだろうか。おそらく子供が生まれてからライブで聴けたことは一度もなかった。今回は子供たちが大きくなってきて無茶苦茶なことを言わなくなったのと、早く寝てくれたこともあって、ゆっくりと見ることができた。いつも思うが、ウィーンフィルは本当に楽しそうに弾いているし、きっちり決めるところをしっかり決めてくる。もちろん、「おらが街」の曲だけに微妙なニュアンスには何も言うことはない。演奏会場自体がかなり弾かないと響かないからかなりがっちり弾くのだという話を聴いたことがあるが、そういう感じに見えた。また、何とも言えず感心してしまったのは、音の処理の仕方。キレよく弾ききったあとに出てくる音は本当に素晴らしいなと思った。カジュアルな場面も必ずあるのだが、今年面白かったのは「エルンストの思い出」という曲だった。エルンストとは当時の名ヴァイオリニストを表すそうだが、いろいろなパートにソロが出てきて面白かった。特にピッコロのソロは超絶技巧、すごいねえ...。1stヴァイオリンの前二人が掛け合って遊んでいる場所も楽しかった。ああいうのが楽しくきこえるのはちゃんとした技術のもちろん裏づけがあってこそである。アンコールの「美しく青きドナウ」も素晴らしかった。セコバイ奏者としては後うちのリズムがあそこまで自然に出てくる人たちを見ているともう脱帽するしかない。ウィーンフィルだからこそできることなのだろうな。ニューイヤーコンサートの楽しみは、あまりCDなどに収録されていない曲がたくさん出てくるところで、指揮者が選曲においてこだわる曲が出てくるそうだ。そんなこだわりも楽しませてもらった。映像を見ながら、演奏についていろいろと思うところができた。またそれを反映できるように頑張っていかなければと思う。ともあれ、本当に楽しめてよかった。いい正月だ。
Jan 1, 2007
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あけましておめでとうございます。このページに来てくださる皆さま、本年もよろしくお願い申し上げます。昨日からさっきまであったことを。まず、実家に行き年越しそばをいただき、紅白歌合戦を見た。父は格闘技も好きなのだが、母がいやがることもあって、格闘技は録画し、ライブは紅白というのが毎年のことである。途中ニュースの時間を区切りに自宅へ帰る。子供たちを風呂に入れてから、東急ジルベスターコンサートを見た。いつものことながら、0時ちょうどに曲を終わらせるという企画は、ほぉーと思う。と同時に、「そこまでやるか」とも思うのだが、世界にひとつぐらいこういうことに挑戦するのも企画としては面白い。指揮者の尾高忠明氏は「疲れた」「緊張した」「来年の大晦日はゆっくりしたい」と連発。確かに、失敗できない怖さはあるだろう。ただ、昨年の第九とは違って、エルガーの「威風堂々」はまだ計算がしやすい曲かなと思う。スピードの変化は第九の方が難しく、最後までドキドキしたが、今回は最後に早くなる前で「これは行けるな」と言ったら、妻が「そういう風に曲を聴いている人にはたまらんでしょなあ(笑)」と言われてしまった。ほっとけ...(苦笑)。とはいえ、やはりこういう作業を成功させるという指揮者はスゴイのだといつも感心させられる。それが終わって就寝、朝はみんなでゆっくり起きて、また実家へ行き、今度はおせち料理をいただく。今日は父の誕生日でもあるので、弟と二人でDVDプレーヤーをプレゼントした(一昨日ぐらいから何気なく父にリサーチをして決めた)。あとは設置・接続をしなければならないが、録画ラッシュの三が日が終わってからやろうかなと思う。そして30分ほど前に帰宅、現在に至る。後ほど両親と弟ファミリーが今度は我が家に来てすき焼きパーティーである。食べ過ぎ...。さて、仕事についてはひとまず4日から始動する予定。今年も仕事に、育児に、オケに頑張っていこうと思う。
Jan 1, 2007
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