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おはようございます。早朝の青空が気持ちいいですね。 新しい月になり、今年もあと二ヶ月ですね。二日前に、二ヶ月に一度行く場所での帰り際に、「また来年お会いしましょう。良いお年を!」と言われて、一瞬「えっ!?」と考えてしまいましたが、一年が過ぎるのは早いなーと感じました。 今日は「11月1日」。色々な記念日です。 「灯台記念日」 「犬の日(犬の鳴き声「ワンワンワン」の語呂合せ)」 「寿司の日」 「紅茶の日」 「家具の日」 「古典の日」 「点字の日」 「計量記念日」 「自衛隊記念日」 「生命保険の月(11/1~11/30)」 「格焼酎の日」 「泡盛の日」 「教育・文化週間(11/1~11/7)」 「教育の日」などです。 キリスト教関係では今日が、 「全聖徒の日(プロテスタント)」 「諸聖人の日・万聖節(カトリック)」 で、たくさんの記念の日ということを知って驚きました。 今日、なぜ色々な記念日を取り上げたかと言いますと、お互いに、今日1日の重みを感じたいからです。 人生には、たくさんの喜びや感動、美しい出来事があります。その一つ一つをどれくらいの重みで受け止めているでしょうか。 朝日が登り、あたたかい光に町が包まれて行く様子。早朝の澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んでいるでしょうか。もしかしたら、仕事に出かける準備で追われていて、それどころではないかも知れません。 人生の最期が近づいた時、「もっと人生を楽しみ、日常のひと時を楽しんでいたら良かった!」と考えるのではなく、いつも、今この時、この瞬間を楽しみ、大切に過ごして行きたいものです。 仕事に対して、情熱を込め、感動や興奮を感じているでしょうか。何気なくその場を切り抜けてしまっていないでしょうか。 作家・思想家・詩人のソロー(Henry David Thoreau、1817~1862)は、『人間は皆、静かな絶望の中に生きている。』と語りました。 大切な一日を『静かな絶望』で生きてしまってはもったいないことです。今日という一日を、昨日と同じ一日として退屈に生きるのではなく、二度と戻って来ないかけがえのない一日としてすごしてみませんか。 今日は、まぎれもなくあなたの人生です。リハーサルではなく本番です。神に祈り、大切に、情熱を込め、期待を込めて一日をスタートし、今日一日を最高に充実した時間にして行きたいですね。 「きょうこそ、主がお造りになった日です。 さあ、この日をぞんぶんに楽しみましょう。」(詩篇118:24) 「This is the day which the Lord hath made; we will rejoice and be glad in it.」(Psalm 118:24) 今日一日の祝福をお祈りいたします。
2012年10月31日
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おはようございます。今日も素敵な一日でありますようにお祈りいたします。 フランスの小説家であるベルナノス[Georges Bernanos (1888-1948)]は、『他人の喜びに喜びを見出すこと。これが幸福の秘訣である。』と言いました。私もそうだと思います。 私たちは、自分の喜びに喜びを見出すことこそ、幸福の秘訣であると考え、お金持ちになり、豪邸に住み、高級車に乗り、豊かな生活をしている人が幸せだと考えます。また、権力があり、有名人として生きることが幸せだと考えますが、実際は、成功者ほど孤独であったり、物質的には豊かなのに心がすさんでいる人は多いものです。 豊かであることがいけないという話しではなく、その人がどんな状況の中にあっても、他人の喜びに喜びを見出しているか、自分の喜びに喜びを見出そうとしてるかにかかってくるだろうと思います。 私は牧師として、他人が幸せになることをひたすら願っています。そして、神の言葉を語りますが、その人が喜んでいる姿を見て、無上の喜びに浸ることができます。これはどんな人にも言えると思います。他人の喜びに喜びを見出そうとしたら、間違いなく幸せになることができます。 他人の喜びに喜びを見出さないと、そこに入って来る感情はねたみです。自分の幸せだけを願っても、世の中自分より幸せそうな人はいくらでもあります。その途端に不幸を経験し、惨めな思いになります。その時、自分の心の貧しさに原因があると気付く人は望みがありますが、その不幸と惨めさの原因は、そのねたみの対象者だと考えるのです。 世の中で、相手を否定したり、非難したり、いじわるをしたり、何らかの悪意を持ってやって来る人は、ほとんど間違いなくねたみの思いがどこかに潜んでいます。その人の持っている自由とか、豊かさとか、賞賛とか、富や栄誉を自分がほしいと思っているからです。これでは、ますます不幸で惨めな状態になってしまいます。 その相手の喜びに喜びを見出せたとしたらどうでしょう? つまり、「よかったね。」と心から言ってあげることです。一緒に喜ぶことです。そうしたら、絶対に幸福になるし、喜びに溢れることが出来ます。 さらにもう一歩進んで、他人の喜びに仕える事です。、最上の人生を生きることが出来るはずです。イエス様は、まさに他人の喜びに仕えた人です。他人の喜びのために、他人が持っている不幸を身代わりに背負って十字架について死なれました。罪を赦し、悪魔を追い出し、心と体の健康を与え、祝福を与えられ、天国に入れて下さいます。イエス様は他人の喜び仕えるために生きられました。私たちは、誰かの身代わりに死んだり十字架にかかることは出来ませんが、そのような思いで生きることはできます。 天国と地獄とは、ただ単に死んでから行く場所ではなく、この世にすでに存在しす。他人の喜びに喜びを見出し、他人の喜びに仕える人の心はすでに天国ですし、自分の喜びに喜びを見出そうとしている人には、ねたみが付きものですので、心は地獄のようになります。天国と地獄を分けるのは、他人の喜びに生きるか、自分の喜びに生きるかで、大分水嶺のように分かれてしまうものです。 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(第一ヨハネ3:16) あなたは愛されています。あなたの喜びを喜んで下さり、あなたの喜びのために仕えて下さっている方がいます。その愛に感動し、その愛を受け止め、今度はあなたも、他の誰かの喜びを喜びとし、喜びに仕えて参りましょう。そんな幸せと喜びの天国のような一日一日をすごして行きましょう。祝福を祈ります。
2012年10月30日
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2012年10月29日
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おはようございます。昨日までも雨も上がり、少し肌寒いくらいの朝ですが、すがすがしいですね。一週間がスタートしました。今週も素晴らしい時となりますように心からお祈りいたします。 振り返って見ると、私の人生は試練の連続でした。神を知らない時に会う試練は、逃避したり、何かで気を紛らわすしか方法がありませんでした。「何で俺ばっかりこんな苦しい目に会わなければならないのか。」とつぶやいたものです。 神を信じた後の試練は、神をズボンと譬えるとするならば、神と私を結ぶベルトのようなものです。ベルトがなければ、ズボンが簡単に脱げてしまうように、人生に試練がなかったら簡単に神を忘れ、神を必要としなくなってしまいます。 私を含めて、人生で試練がない人は誰もいません。 身から出た錆びのゆえに苦しむことがあります。お金や異性や名誉の誘惑に負けて、不正を行なったことの罰や報いを受けることがあります。 人に迷惑をかけないように、正しく誠実に生きていても試練はやって来ます。交通規則を守って安全運転をしていたのに、後ろから追突されて体に障害を負わされた人、貧血で輸血したらエイズに感染してしまった人、田舎で静かに暮らしていたのに、強盗に入られて家族が殺されてしまった人もいます。 些細な試練であるならば、日常茶飯事だろうと思います。家庭や職場、学校や地域での人間関係や、経済的な問題もあるでしょう。 どんな種類の試練であっても、試練は、神と私たちを結ぶベルトのようなものです。自分の不甲斐なさのゆえの苦しみであったとしても、神は赦しの神ですから、決して外れないベルトであなたをしっかりと結ばれます。 予期せぬ大きな試練も、「神がいるのになぜ?」と疑問が湧いて来るかも知れませんが、祈るならば、すぐに神とあなたがベルトで結ばれていることに気づくはずです。どんな試練も、ズボンを落ちないようにしめるベルトのように、神とあなたを結びます。 試練を神抜きに考えたならば、マイナスです。しかし、神を信じる人の会う試練はマイナスがプラスに変ります。感謝に結びついて行きます。 作家の三浦綾子さんは、病を背負いながら夫婦で二人三脚で歩んで来ました。「病いは私に取って宝です。」と語りました。 詩人・画家の星野富弘さんは、「神様がもう一度生まれ変わらせて下さって、健康な体を下さるとしても、今のままで十分に幸せなのでお断りしたいです。」と語りました。 試練は、人を不幸にし、神と人間を引き裂くものではなく、自分の弱さと神が必要なことを知らせ、神を求めるようにさせ、結果、ベルトで固く結ばれたズボンのように、いつも一緒にいて助けて下さいます。 試練は神の怒りや刑罰ではなく、神がご自分のもとにあなたへの招きです。神はあなたを愛しています。 『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』。と聖書に書かれています。 神は、いつもあなたと共におられます。素晴らしい一週間でありますようにお祈りいたします。
2012年10月28日
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おはようございます。日曜日の爽快な朝を迎えられ気持ちがいいですね。今日も素晴らしい一日でありますようにお祈りいたします。 イエス・キリストは、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と語りました。すごい言葉ですね。 元プロレスラーのアントニオ猪木は、「限界なんて言葉はこの世の中にはない、限界と言うから限界ができるんだ。」と語りました。 米国の著作家ナポレオン・ヒル博士(Napoleon Hill 1883-1970)は、「心に抱いて信じたことはどんなことでもかなえることができる。」と語りました。 これらの言葉は、「心で願い、信じるならどんなこともできる」と語っていますが、前提があります。 100歳の人が強く願い、確信したらオリンピックで金メダルが取れるか?と言ったら、無理な話です。 「自分」という言葉は、「自身に与えられた分」と書きますが、人にはそれぞれ分が与えられています。分を超えて何かをしようとすると思い上がりです。 多くの人は、「自身に与えられた分」を知らずに生きています。その分よる遥かに低く生きている人もいますし、「自身に与えられた分」と違う自分になろうとがんばっている人もいます。残念なことです。 どうしたら、「自身に与えられた分」を知ることが出来るでしょうか? 答えは、神と出会うことです。 「あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。」(伝道者の書12:1) 自分を造られた神と出会ってこそ本当の自分を知ることができます。あなたは神と出会っていますか? 最近、多くの人が聖書に知的興味を持っています。しかし、聖書に書かれているイエス・キリストと出会うことがなければ本当の意味では聖書を読んだことにはなりません。 世の中の自己啓発は、「どんなことでも信じるなら現実になる」と教えますが、これは前提である「自身に与えられた分」を知った上でのことです。自分に与えられた分を知り、それが必ず実現することを信じなければなりません。そのためには、自分を造られた神を知り、神と出会う必要があります。 自己啓発書や自己啓発プログラムはなぜ神を語らないのでしょうか? 人々が神に興味がないからです。 自己実現や成功を植物の花や実に例えたら、神は種や根っこの部分です。種や根っこは地味で、あまり美しくないかも知れませんが、花や実は種や根っこがなければ決して存在することはできません。同じように、神を知り、神と出会い、神と直結した人生を生きないならば、人生で成功という花を咲かせ、実を結ぶことはできません。 「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイの福音書28:20)。 教会では、日曜日に神と出会い、神に礼拝を捧げます。はじめての方は一度教会に行ってみませんか? クリスチャンの方は教会に行き、神と出会い、神を礼拝し、神と共に一週間をスタートしませんか? 本当の自分を知り、本当の自分を目指して今週も歩んで行きたいですね。 教会に行けない人にはインターネットで礼拝に参加できます。よかったらどうぞ。 〈1〉朝10時半~昼12時 〈2〉夕4時半~6時「教会の集会を生放送」します。 (後ほど、録画放送のURLもお知らせいたします) ニコニコ動画 http://nico.ms/l/co114841 ステッカム(stickam)TV http://www.stickam.jp/profile/pastor 教会(Church)HP http://www.geocities.jp/sgr_ch/ 説教要約(Sermon summary)blog http://pastor.ti-da.net/
2012年10月27日
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おはようございます。さわやかな朝ですね。お元気でお過ごしですか? こちらが嫌で、都合が悪いと思っているのに、自分の仕事や要求を押し付けてくる人がいます。 その人の要求に負けてそれを受け入れると、後で、こちらが不愉快になったり、犠牲者になったように感じるものです。 こういう状況にならないために、断る理由を色々考えても、うまく行かないことの方が多いし、相手は、さらに言葉巧みに説得してくるものです。 電話や訪問のセールスを見てもよくわかります。あんまりしつこいので、「今日は都合が悪いです。」と言うものならば、「いつならば都合がいいですか?」と切り替えしてきて、嫌々次の約束をさせられて、最後は、買うはめになってしまったという話を聞くことがあります。 こんな時は、はっきり断ればいいのです。一番いい方法は、「私はそれをしたくありません!」ときっぱりと言い切ることです。そこに理由づけの必要はありません。 相手が自分の仕事や要求を押し付けてくるのを疑問を感じてないのと同じように、あなたも、相手の要求を断ることに疑問を感じる必要はないのです。 神は、人間をボタン一つで言うことを聞くロボットとして造られたのではなく、自分で考え、自分で決定できる自由意志が与えられました。人の言いなりにならなくていいのです。 自由意思は、神が人間に与えられた最高のプレゼントです。いかなる権力によっても脅かされてはいけないものです。 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」(ガラテヤ人への手紙5章1節)。と聖書は語ります。 自分の責任でもないことを引き受ける義務はないことを知り、不当な要求をはっきりと断ってもいいことを忘れないで下さい。 世の中では振り込め詐欺が横行しています。現在行われている裁判の実に7割くらいが詐欺事件です。確かに、ナイフを首に押し付けて脅迫されたら、命を守ることを優先にするべきでしょう。しかし、電話で、いくら「オレだよ、オレ。交通事故が起こして今すぐお金が必要になっちゃたんだけど、振り込んでくれないかな!」というような手口に乗ってしまうのは、断ったら相手が怒るんじゃないかとおびえたり、人の言いなりになってしまう体質も原因の一つ二つではないかと思います。 しつこいセールス、悪質なポン引き、悪友の無理な誘い、図々しい友達の不当な要求など、断る口実を見つけなくても断っていいのです。そして、断った後に罪悪感を感じなくていいのです。 相手の都合で振り回されるいい人になる必要はありませんし、相手を傷つけるのではないかと恐れる必要はありません。嫌なことを断るのは勇気が必要なことがありますが、それを我慢して受け入れた場合に払わされる代償は計り知れないものです。あなたには、嫌なことを断る自由があるのですから。 週末も、素敵な時間をお過ごし下さい。God bless you!
2012年10月26日
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おはようございます。青空がまぶしく気持ちがいいです。今日も一日よろしくお願いします。 アメリカのフォード自動車の創立者であるヘンリー・フォードはこのように言いました。『できると考えても、できないと考えても、どちらも正しい。』と。 私たちの人生の質、行動、成果等は、すべて自分の心構えで決まると言っても過言ではありません。バイブル(聖書)には、イエス・キリストが、『あなたの信じた通り、あなたになれ。』と言われた言葉があります。しかし、これは、本当に心強い言葉であると同時に、厳しい言葉でもあります。だけど、人生を長く生きれば生きるほど、これが本当のことであると理解できるはずです。 サーカスの舞台裏に行ってみますと、素晴らしい光景が見られます。ライオンやトラ、キリンなどのサーカスの動物が間近で見ることができます。しかし、象の前を通ると何かがおかしいと感じます。それは、あんなに大きな動物が、前足にロープが結んであるだけなのです。鎖でつないでるわけでもなければ、檻にも入れられていません。その気になればすぐにでも逃げれるはずなのに、ただずっと突っ立っています。理由は、この象が子供の時には、ロープで前足を結んでおけばそれで十分でした、しかし、大きくなった今でも、その同じロープで結ばれていれば逃げられないと思い込んでいるのです。これは、小さい頃からの習慣なのです。 私たち人間も、この像と同じではないでしょうか? 昔失敗しただけで、絶対に出来ないと思い込み、その場でじっとしていないでしょうか? 今ならできるかもしれないのに、尻込みしていないでしょうか? できないという思い込みで、新しいことに挑戦することを避けていないでしょうか? また、他の人の思い込みの言葉によって、できないという気になっていないでしょうか? できると考えれば、できないと考えるよりはるかに大きなことができるはずです。どうぞ、あなたは神によって造られた作品です。できると考えて、まず一歩踏み出してやってみませんか? あなたにはできます。もし、あなたがそう考えることができるなら。
2012年10月25日
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おはようございます。秋が深まり、とても過ごしやすい季節になりました。みなさんいかがお過ごしですか? 素敵な一日となりますように心からお祈りいたします。 今日は、お昼12時頃から、お茶の水クリスチャンセンター(東京都千代田区神田駿河台2-1 JR「お茶の水駅」より徒歩2~3分)404号のTPCにて講演をします。 また、夜7時から、同じくお茶の水クリスチャンセンター402号のナビゲーターで「オアシス賛美と創造科学聖会」を行います。お時間が合いましたらどうぞいらして下さい。 今日は、言葉の大切さについてお話します。 フランスのことわざに、『思いやりは友をつくるが、真実を言うことは敵をつくる』という言葉があります。 もしそれが真実なことであったとしても・・・、 (1)人に言ってはいけないことがあります。 (2)人に言わないほうがいいことがあります。 (3)人に言わなくてもいいことがあります。 (4)人に言ってあげたほうがいいことがあります。 人に話す前に、ちょっと立ち止まって、深呼吸をし、お祈りをしてから言葉を話すことがいいことがあります。特に、怒りや憎しみの感情の時には、その感情に任せて言葉を発することが争いになったり、マイナスになることが多くあるものです。そして、冷静になった時に、「あー、あんなこと言わなければ良かったなー」と、覆水盆に返らずで、後悔するという経験をすることがあるのではないでしょうか。 一つの言葉、人を生かしも殺しもするものです。 「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船をみなさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きな森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」(新約聖書 ヤコブの手紙3章2節~6節) ヤコブは、口や舌を 「馬を御するくつわ」 「船のかじ」 「森を燃やす小さな火」にたとえました。言葉はとても大きな働きをするのです。ですから、よく吟味し、慎重に語った方がいいですね。 神に心を向けて、上記の(1)~(4)を見極めることができる知恵が与えられ、思いやりの心が与えられるようにお祈りをして、素敵な人間関係を作り、人間関係を深めて行って下さい。木曜日になりました。素敵な一日でありますように。気をつけて、行ってらっしゃい!
2012年10月24日
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おはようございます。秋晴れの気持ちのいい朝ですね。最高の幸せを感じます。 私たちの人生はたった一度だけです。しかも、時間には限りがあり、あっという間に過ぎ去ってしまいます。 だからこそ、人生は面白いのかも知れません。 もし、明日もあると思えば、今日できることを明日に先延ばしすることもできます。そうやって、やりたいことを先にして、やるべきことを先延ばしにする傾向が私たちにはあるのではないでしょうか。 そして、この世が永遠に続き、この世で永遠に生きれるとしたら、だらだらして、「数百年後にでもやればいいんじゃないの? そんなに急いでも疲れるだけだよ。ゆっくり行こうよ」ということになるのでしょう。 これは、もし・・・の世界です。現実は、70~80年で多くの人の一生が終ります。そうしたら、今日一日という日がどれだけ重要でしょうか? こちらももし・・・ですが、もし、今日が最後の日だとしたら、あなたはどんなことをして過ごしますか? 誰と会いますか? 何をしますか? どのように過ごすでしょうか? 必ず、単にやりたいことではなく、最重要なことからやるだろうと思います。中には、「そのうちやろう」と思っていたことかも知れません。 あるいは、先延ばしにしていたこと。しかし、それが重要なことであるとしたら、「今日」、あるいは、「近々」やってもいいのではないでしょうか? おそらく、今日が最後の日ではないでしょう。しかし、今日が最後の日だと思って生きてみたら、充実感のある日になるはずです。 何気ない出会いも、この人と会うのは今日が最後だと思ったら、大切にするのではないかと思います。険悪の仲だとしたら、修復するのではないかと思います。 今日は、昨日の延長ではありません。明日になったら過去になります。この有限で常に動いている「今日」そして「今」を最高に生きるためにも、今日を最後の日として生きて行けたら素晴らしいと思います。 週の半ばになりました。素敵な今日を最後の日と考えて、素敵な時間を過ごして下さい。God bless you!
2012年10月23日
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おはようございます。昨日から、先週に引き続いて日光に来ています。いきなり一ヶ月くらい時間が進んだように感じるくらいに秋の深まりを感じます。今日も素敵な一日でありますようにお祈りをいたします。 ノーベル平和賞を受賞し、クリスチャンであるマザー・テレサ(Mother Teresa , 1910―1997) は、ある時「私たちはこの世では大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもってするだけです」と言いました。 私たちは、「大きなことをしようと!」雄大な計画を立てたり、夢を描くことがあると思いますが、そればかりに気を取られていますと、たった今、小さなことをするチャンスが失われてしまうことがあります。 ある一人の知り合いは、「私はもっと色々なことをして、人の役に立ちたい。しかし、残念だけど今は何もできない。いつか自分が成功して、お金があり、与えるものがたくさんあるようになったら是非したい!?」そして繰り返し、「今の自分には何もできない」と話していました。 しかしその間に、多くの助けを必要としている人がいます。ひと言の優しい言葉をかけられたい寂しい人たちに、優しく声をかけ、目が不自由で、恐る恐る歩いている人の手を握ってあげたり、道にごみが無造作に捨ててあるのを、拾ってごみ箱に捨てたり、また、家族の中に、あなたの助けを必要としている人がいるのではないでしょうか? マザー・テレサは、世界を変えることが出来なくても、自分の身の回りの人に手をさし伸ばし、少し暮らしやすくしたり、その町を少し明るくすることを実践していました。それは小さな親切の積み重ねでしたが、結果としては、世界に影響を与えました。しかし、これは結果に過ぎません。 ある偉大な伝道者が、若き日に「世界を変える!」という夢を描いていました。しかし、年が経つにつれて、「それは難しい。せめて自分の国だけでも。」と思うようになり、今度は、「せめて、自分の住んでる地域だけでも。」と思うようになり、もう少し年を重ねて、「せめて、自分の家族だけでも。」と思いましたが、晩年には、それも難しく、「せめて、自分だけ変えることができたら。」と思うようになりました。しかし、自分が変わったら、家族が変わり、家族が変わったら、地域が変わり、それがやがて国を変え、国々に影響を与えるのだと気づきました。そして、「このことにもっと早く気づいていればなー。」と深く溜息をついたそうです。もちろん、人生の晩年であっても遅すぎることはありま せん。 大切なのは、自分を変えることではないでしょうか? 今できる小さな親切を無価値なものと思ったり、損得勘定で計算したり、めんどくさがったり、正当な言い訳を考え出して何もしていなかった自分を変えて、小さなことをする。しかし、それに、大きな愛を込めて。しかし、そのことを喜ぶ人がいるし、一生忘れない人もいるかも知れません。少しだけかも知れませんが、その場所を明るくできるかも知れません。あるいは、世界に影響を及ぼすことができるかも知れません。どうぞ、小さな親切をはじめてみて下さい。 昨日も話しましたが、妻が少し前に倒れました。そのことがきっかけで、出かけていない時には、主夫をするようになり、これが案外面白いと感じますし、もちろん、苦労がありますので、妻への感謝の思いが溢れています。神様は、何一つ無駄のないお方です。 今日も素敵な一日でありますように。素敵なみなさんと出会えて心から感謝しています。ありがとうございます。
2012年10月22日
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「家族とは 私の身近な 応援団」これは、家族に関する川柳ですが、家族が応援団になってくれている人は幸いですね。 ドイツ語作家のフランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)は、「結婚はしてもしなくても後悔する。」という言葉を残しました。おそらく、結婚した人は、一度は後悔するかも知れません。結婚は、愛の無い、本当の自分の姿を見せてくれる人間関係だからです。 ラインハルト・ニーバーの祈りに、『変えられるものは変える勇気を 変えられぬものは受け入れる謙虚さを そして、それを見分ける知恵を授けたまえ』というものがあります。過去と人は変えられないものです。しかし、自分の心は変えることができます。もちろん簡単なことではありませんが、もし自分を変えることができるなら、過去や人も変わる事もあり得ます。過去の傷は宝に変えられ、人もこちらが変わることで、変わることがあります。 私は、15年前に韓国人女性と国際結婚をしました。韓流ブームの影響で、韓国を身近に感じる日本人が増えていますが、ある一定の距離があれば楽しいものです。しかし、結婚をしてわかったのは、日本と韓国は、「似て非なる国」ということです。日本人の価値観を持ったまま、韓国人を受け入れることは不可能だと感じました。その時、神様からの導きがあり、「日本人としての価値観や、自分の価値観を外して、相手をそのまま受け入れる」ということを決断しました。そうしたら、私の世界が変わり、その時から、夫婦が親密な関係を築くことができるようになり、家族が応援団になり、幸福な家庭が築き上げられました。 イエス・キリストの生き方は、神であられるのに、神のあり方を捨てて、人間の姿となってこの地上に来られ、人類の救いの道を開いて下さいました。キリストと自分を比べることはおこがましいことですが、ここに夫婦が愛し合う秘訣がありました。実際、国際結婚には大きな傷みがありましたし、自分に死ぬ経験をしましたが、それが家庭を生かし、相手を生かし、しいては、自分をも生かすことになりました。 今日、妻や子供たちという家族という応援団に感謝しています。今日からまた日光に出張で出かけます。送り出してくれる家族がいることに心から感謝しています。 最近、時々お話していますが、妻が過労とストレスで倒れてしまっています。しかし、まだ体調は回復していませんが、私や子供たちの応援が妻を元気づけているように感じます。私が家に居る時は、主夫のようなことをしていますが、これも私の応援の一つです。その姿を妻も喜んでくれますし、何と、子供たちが大喜びなのです。意外ですが、その反応を見てさらに私もうれしくなります。家族とは、互いに応援団なんですね。 さらに、世界中のインターネットでつながっているみなさんが応援団となって下さっていることに感謝をしています。 私が勤める教会に集う教会員の方々、世界中の20億人以上のクリスチャンは神の家族ですから、互いに応援団です。 また、全人類は、同じアダムとエバの子孫ですから、世界中が私の家族です。私には、70億の応援団がいますし、70億の人を応援しています。 私が中学生の時、運動会で応援団長をやりました。とてもやりがいがありました。その時から、誰かを応援することが好きになりました。私はみなさんの応援団の団長という気持ちで応援しています。私たちが、互いに応援し合って、今週も素晴らしい一日一日を過ごして行けますように、心からお祈りいたします。
2012年10月21日
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朝礼拝 http://youtu.be/BXGu81HEaqg 夕礼拝 http://youtu.be/4w46dZDcx_g
2012年10月21日
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おはようございます。お元気にお過ごしですね。昨晩、日光より戻りました。国際弁護士の先生と一緒でしたので、警察に捕まった容疑者との接見などがあり、帰宅は夜遅くなり、いやー疲れました。そんな時は、ぐっすり眠ることに限ります。ストレスが溜まってしまうと、なかなか眠れなくなることがありますが、そんな時は、「お祈り」→「お居寝り(おいねり?)」が最高です。眠れないとき、「神さまー!」と何度も祈り、呼び、叫び続けていると、気が付いたら次の日の朝を迎えています。そして、爽快です。眠れない時、ぜひお祈りして下さい。 今日は日曜日ですが、私に取っての日曜日は、体はフルに動かしますが、コマが全速力で回るように肉体は疲れますが、心と魂は安らいでいます。日曜日に神を礼拝することは、私に取って最高に素晴らしい時です。 今日も一つのジョークから始めます。 イエス・キリストがガリラヤ湖の水の上を歩いて渡ったという奇跡を聞いたことがあるでしょうか? 一人の旅行客が、湖の向こう岸へ渡る船があるというので行ってみると、「一人50ドル」と看板に書かれてありました。「なんてこった。たったこれだけの距離で50ドルも取るのか!イエス様も歩いて渡るはずだ」とつぶやいたそうです。 ジョークは人に笑いを与え、心を開かせてくれます。東京では、ジョークを言う牧師がどう評価れるかわかりませんが、大阪に行きますと、ジョーク一つは言えないと、牧師も務まらないような感じがします。 心を開くというのは、相手を受け入れ、相手の話すことを聴こうとする態度だと思います。聖書は、『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書かれています。ここで、人が生きるためには、パンを代表する飲食が必要です。しかし、その飲食だけで生きるのではなく、神の言葉が必要であると言うのです。 聖書の言葉を、心を開いて聴いてみませんか? きっと、あなたを励まし、生かし、強くし、優しくし、うれしくしてくれるはずです。 今日は日曜日です。教会では礼拝という集会があります。生中継、録画放送をもいたします。もし良かったらどうぞ。 〈1〉朝10時半~昼12時 〈2〉夕方4時半~6時 (Japan Standard Time) ニコニコ動画 http://nico.ms/l/co114841 ステッカム(stickam)TV http://www.stickam.jp/profile/pastor 教会(Church)HP http://www.geocities.jp/sgr_ch/ 説教要約(Sermon summary)blog http://pastor.ti-da.net/
2012年10月20日
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おはようございます。お元気にお過ごしですね。昨日から私は、栃木県の日光に来ています。東京にはない自然の豊かさを感じます。夜は星がきれいに輝いていますし、朝の澄み切った空気が気持ちいいです。また、きれいな紅葉を見ていると「また来うよう!(紅葉)」という気持ちになります。 今週も週末になり、一週間の疲れが溜まっている人もいらっしゃるかも知れません。そんな時は、ふっと立ち止まり、目を閉じて、見える世界から見えない世界に目を転じて、祈るゆとりのある時間を持たれたらいかがでしょうか。 今、目の前にある問題に対して、すぐに決断を下さなければならない時もありますが、無理に決断するよりは、とりあえず棚上げして、ニュートラルに受け止めた方がいい時もあります。 また、目の前に起きていることに対して、すぐに「良いか? 悪いか?」と考えることに対しても、ちょっと立ち止まってみませんか? 中国にはこんなお話があります。 中国の片田舎に一人の男性が住んでいました。ある日、彼は名馬を手にします。それを見た隣りの人がやって来て、「おめでとう、素晴らしくいい馬だね。君はラッキーな男だね。」とお祝いしてくれました。すると彼は、「このことが良いことだって、あなたにどうしてわかるんですか?」と聞き返しました。彼は、目の前の出来事に「良い・悪い」の判断をすぐにしない人だったからです。お祝いに来た人は、彼のことを「変なヤツだ!」と思いました。 しばらくして、その国の王様が近くを通り、その馬に目を留めます。あまりにすばらしい馬なので「この馬を手に入れたい。お金はいくらでも払おう!」と男に申し入れました。それを聞いた隣りの人は「良かったね、これで君も大金持ちだ」と言いました。ところが彼は、「私にとってこの馬は家族同然です。お金に変えられません。手放すわけにはいきません!」と、いとも簡単に断ってしまったのです。「バカだなぁ、こんなにいい話を断ってしまって・・・、大金が入るはずだったのに台無しだ。バカなヤツだ!」と隣りの人はまた「良い・悪い」の判定をしました。すると彼は、「どうしてこれがバカなことだってわかるのかい、ねぇ君?」って答えました。 翌日、その馬が逃げてしまって、いなくなりました。そこで、隣の人が「ほら見ろ。だから言ったじゃないか、売っていれば大金持ちになれたのに、馬もいなくなった。お金も手に入れ損なった。かわいそうなヤツだ!」って言いました。彼は、「どうしてこれが、かわいそうなことだって、君にわかるんだい?」って聞き返しました。 確かに、昨日までいた馬が今日はいない。これが「あるがままの事実」です。それを隣りの人は、「良い・悪い」と判定しているだけです。 半年後、その馬が子馬を連れて戻ってきました。隣りの人は「ツイてるね、君は!」とまた判断しました。彼は、「一頭だった馬が二頭になった。これは事実だけど、どうしてあなたはこのことがツイていると判断できるんですか?」と聞き返しました。 しばらくして、彼の息子がその子馬に乗って遊んでいたら、落っこちて足が不自由になってしま いました。それを見て隣りの人が「気の毒に、息子さん、かわいそうなことをしたな!」って同情しました。彼は、「骨折して足が不自由になったことがかわいそうだってどうしてわかるんですか?」と聞きました しばらくして、この国に戦争が起こりました。隣りの人の息子さんは徴兵されて、戦死して帰らぬ人になりました。隣りの人が「ラッキーだ、君の息子さんは落馬して足を折ったおかげで徴兵を免れて、今も生きているけど、私の息子はいなくなってしまった。なんて不幸なんだろう・・・」 彼が聞きました。「どうして、それが不幸なことだってわかるんですか?」 ある出来事に対して、それが良いことなのか、悪いことなのかを簡単に言い切れるものではありません。しかし、私たちのまわりには、いつも「良い・悪い」の基準で判断したがる人がいるかも知れません。「どうして、それが不幸なことだってわかるんですか?」と聞き返してみたくなるくらいです。 しかし大切なことは、その言葉に一喜一憂しないで、目を閉じて、見える世界から見えない世界に目を向けて、あなたを造り、あなたを導いておられる全知全能の神に聴いてみて下さい。物事の「良い・悪い」は、短期的で、一部分しかわからない自分自身や人の判断で決めつけないで、祈って、永遠から今を見れる神に「良い・悪い」の判断を下して頂いたらどうでしょうか? 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)と聖書に書かれています。 神はマイナスをプラスに変えて下さる方だと言うのです。その神に信頼し、神に聴くならば、全てのことは感謝せざるを得なくなります。なぜならば、プラスのことはプラスなので感謝ですが、マイナスのこともプラスに変わるので、プラスもマイナスも、良いも悪いも感謝できます。「晴れの日はハレルヤ。雨の日はアーメン」と、「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝」する人にさせてもらいたいですね。 今ピンチ(危機)にある人がいらっしゃるでしょうか。「ピンチ(危機)はチャンス(好機)」に変わるのです。 これはあまりにも高尚なことなので、頭の理屈では理解できても、心ではなかなか実感できないかも知れませんが、事実は、神にあっては、全てがプラス、全てがチャンスなのです。 こんなゴスペルソングがあります。「明日はどんな日か私は知らない。晴れか 嵐か 曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから。明日は私にはわからないけど、明日を守られるイエスがおられる。」 どうぞ楽しい週末を過ごして下さい。祝福をお祈りいたします。
2012年10月19日
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おはようございます。今週もお疲れ様でした。素敵な一週間であったと思います。週末は、許されることならば、ゆっくり過ごすことが出来たらすばらしいですね。 できたら毎日、自分のための時間を確保したいものです。その時間は、自分のためだけに使うのです。といっても、手の込んだことをしたりお金をかけたりする必要はありません。 好きな食べ物を食べたり、詩を書いたり、読みかけの本の数ページを読んだり、ただ何もしないで心を落ち着かせて過ごしたり、どんなことに使ってもしても、それが自分に取って楽しみや満足を与えるものであるならばOKです。 仕事に追われたり、家族や友人の要求に無理に応えているうちに、自分の人生はいとも簡単に犠牲になってしまうものです。 これからは、毎日、自分の必要を満たし、自分を回復するために、一日少なくても30分以上は確保して下さい。 私は、自分のためだけの時間に、バイブル(聖書)を読んだり、祈ったり、本を読んだり、何もしないでぼーっとしたり、散歩をしたり、このような文章を書いたりしています。 この自分だけの時間が、短くても、質の高い時間を確保できるなら、あなたの人生は、二倍にも三倍にも充実し、豊かになって行くと思います。そんな時間をお奨めします。 素晴らしい週末でありますように。God bless you!
2012年10月18日
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おはようございます。昨日から雨が降り始め、雨の朝を迎えられて感謝です。雨の日は、心が潤され、しっとりと静かな気分になれますね。お出かけの方は、足元が滑りますのでお気を付けください。素敵な一日でありますように。 人が成長し、より良い生き方をするために二つの方法があります。一つ目は、短所を削る方法。二つ目は、長所を伸ばす方法です。この二つは、どちらも重要な方法だと思います。特に、具体的に法律に触れたり、人に迷惑をかけるような短所は、できるだけ早く削った方がいいことは言うまでもありませんが、荒削りであったとしても、それが個性であったり、かけがえのないない部分であるとしたら、それを短所と決め付けて削ろうとするよりも、長所として受け入れ、それを伸ばして行くことがベストです。 私自身の長所は何かとちょっと考えてみました。 集中力があること。 継続力があること。 安定感のある体型であること。 楽器を演奏したり、歌を歌うことが得意なこと。 思ったことを文章にまとめることが得意なこと。 人の前でお話をしたり、司会をすることが得意なこと。 楽観的で明るい性格なこと。 まだまだたくさんあげることができますが、それを認識し、神によって与えられた能力や個性として感謝し、それを磨き、伸ばして行くことに力を注ぎたいと思っています。 もちろん、考え方によっては、これを短所と見ることもできます。例えば、 一つのことに集中するとまわりが見えなくなる。 あきらめが悪く執念深い。 太っているのでもっとやせた方がいい。 ~は、特に短所にはなりませんが、 もっと最悪を想定して、慎重で深刻に考えた方がいいのでは。 みなさんはいかがですか? ご自分の長所をしっかりと認識し、感謝し、それを伸ばしながら毎日生きておられますか? 案外、長所を長所と考えるよりも、短所として捉えて、「もっとこうだったらいいのに!?」「あの人のようにこうなれればいいのに!?」と自分に対して不満をいい、馬鹿にして、否定しているということはないでしょうか? それはもったいないことです。 最近私は、主夫業に目覚め、家事の一部をやるようになりました。それは、妻が過労のために倒れてしまったからです。しかし、私の長所は、避けられない十字架に関して、それを回避しようとするのではなく受け止めて、集中力と継続力を持って主夫をやり続けています。また、安定感のある体型はスタミナ抜群で、長時間でもへこたれません。そして、楽観的で明るい性格は、それを楽しんでいます。 その他の時間は、牧師の仕事をしていますが、自分に与えられた長所や才能を生かして働いています。もちろん、私よりいくらでも上には上の人がいますが、音楽を通して伝道をしたり、神様を礼拝し。文章を通して、誰かに慰めや励ましを送りたいと、毎日文章を作成しています。教会に集まる人や呼んでくれる場所で、講演をしたり、説教をしたりして、聖書の教えを広めています。 もしよろしかったら、今日、ご自分の長所を紙に書き出してみて、それを認識し、神に感謝をし、それを伸ばして行くことを決断されたらどうでしょうか? きっと、短所を削る人生よりも、人生が何倍にも豊かになると思います。 先日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授は、受賞の連絡を受けた時には、自宅で洗濯機の修理をしているところだったそうです。山中氏の家庭的な一面を垣間見るようなエピソードですが、彼は、長所を認識し、それを感謝し、伸して行った結果としてノーベル賞の受賞があり、人生の成功者となれました。これがもし、長所を生かした仕事ではなく、違う職業についていたとしたら、それもまたいい人生だったとは思いますが、iPS細胞を発見するという輝かしい業績を残すことはできなかったはずです。 私たち一人ひとりは、この地球に70億以上の人が住んでいますが、同じ顔を持ち、同じ性格の人は一人もいないのです。70億人に優劣はありますん。あるのは違いだけです。もちろん、与えられた長所、個性を伸ばして行った人はより豊かな人生を生きていますが、それ気づかずに、地に宝を埋めてしまっている人が多くいるというのは残念でなりません。 ライバルと競って「ナンバー1」を目指す必要はありません。ライバルはむしろ自分自身です。自分の「オンリー1」に気付き、それを感謝し、磨いて行ったらいいのです。その人の人生は「オンリー1」であり、その「オンリー1」こそ「ナンバー1」なのです。そんな人生を共々に目指して行けたら素晴らしいですね。 最後に、イエス様が教えられた「タラントのたとえ話」を記して終わりたいと思います。「1タラント」頂いた人のようには生きないで、「2タラント」や「5タラント」頂いた人のような生き方ができたらいいですね。神様の祝福を祈ります。 「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五 タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、 あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのかだったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイの福音書25:14~29)
2012年10月17日
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2012年10月16日
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メタボ解消には「ゴールデンタイム睡眠、空腹、寒さ」と医師 NEWSポストセブン - 10月15日 16:40 この記事の話題数1024 チェックする(526) つぶやく(455) 日記を書く 日記を読む(24) 50才を超えても30代に見える医師として大人気の南雲吉則(なぐも・よしのり)先生(57才)が、読者から寄せられた体に関する相談に答える。今回はメタボの改善について。 【質問】 最近、夫がメタボ体形まっしぐらです。昔のスリムな夫に戻ってほしいのですが、どうしたらいいですか?(きのこソテー・38才・主婦) 【南雲先生の回答】 “睡眠中”、“空腹時”、“寒いとき”、実はこのとき共通して、脂肪を燃焼させる成長ホルモンが出ているんだ。だから、ご主人にスマートな体形に戻ってもらいたいんだったら、次の3つのことをしなくちゃいけない。 まず1つ目は、夜は早く寝させること。夜の10時から夜中の2時までが、まるで冬眠のような深い眠りが得られる“睡眠のゴールデンタイム”。成長ホルモンが分泌されて、脂肪を燃焼させるんだ。 2つ目は、お腹がぐーっと鳴るまでは食べないという習慣。お腹がぐーっと鳴るくらいになると、自分の中に蓄えられている脂肪を燃焼し始めるからね。さらにこのとき、若返りホルモンである成長ホルモンと、若返り遺伝子のサーチュイン遺伝子が体を活性化する。成長ホルモンは肌と粘膜を、サーチュイン遺伝子は、細胞と遺伝子を若返らせてくれるという利点もあるんだ。 そして3つ目は、厚着しないこと。メタボの人って汗っかきで、冬でも頭から汗をだらだら流していたりするんだけど、これは、そもそも発熱物質である肉じゅばん(内臓脂肪)を着込んでいるから。冬も、なるべく汗をかかないくらいの薄着をすることによって、成長ホルモンが分泌され、内臓脂肪が燃焼されるんだよ。 “ゴールデンタイムの睡眠”と“空腹”、“寒さ”が、メタボ解消のキーワード。それに加えて、前回紹介した家事をするだけでできる“ノンエクササイズダイエット”をやってもらうのも効果的かもね。ご主人はやせるし家事をやらなくていい奥さんはご機嫌! 最高の解消法はこれかもね(笑い)。
2012年10月16日
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おはようございます。とても気持ちのいい朝ですね。お元気でお過ごしですか? 今日もかけがえのない素晴らしい一日でありますようにお祈りをいたします。 人のために何かをさせていただくことがあると思います。しかし、その行為を認めてほしくて、つい誰かに話してしまいがちです。人に親切にさせていただいて、気前良くさせてもらうと、自分が思いやりのある善人になったように感じるものです。 親切な行為は実に素晴らしいことですが、人に何かをさせていただく、それだけですでに気分がいいものですが、さらに、それを黙っているならばもっともっと感動があります。 バイブル(聖書)には、『右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。』と書かれていますが、自分がさせていただいた優しい思いやりを自分一人の秘密にしておけば、もっと大きな幸せを感じます。 お返しを求めて何かをさせていただくのではなく、ただ与えることに徹することと、何か親切なことをさせていただいて黙っていることは、全く同じようなことです。そして、自分自身が本当に嬉しい気持ちになります。これが自分に対するごほうびです。今度誰かのためによいことをさせていただくときには、自分だけの秘密にして、最高の幸福感に心ゆくまで浸りましょう。
2012年10月15日
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2012年10月14日
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10/14朝礼拝(最初~賛美) http://youtu.be/ZuIikIGicwc 10/14朝礼拝(説教~最後) http://youtu.be/NyT1eJVIm-s 10/14夕礼拝(最初~賛美) http://youtu.be/YUjTkHUmrdE 10/14夕礼拝(説教~最後) http://youtu.be/yv5vtl4AzPo
2012年10月14日
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2012年10月13日
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16歳でバイクの免許を取り、忙しい毎日なのに、時間を見つけては走り回っていた頃を思い出すと懐かしいです。 人は、自分が好きなことをするためには、何としてでも時間を見つけるものだなーと思います。恋人がいる人は、寝る間を惜しんだり、少しの時間を見つけてはデートをします。人生の優先順位は、やりたいことは後回しでもいいんだなーと思いますよね。 話は戻りますが、バイクは、車に比べて簡単な構造ですので、自分でいじる楽しみもありました。そして、新しく改造したら、走りに行きたくなるものです。 バイクに乗ると、とにかくスピード命でした。このままではいくつ命があっても足りないと思いながらも、夢中になってかっ飛ばしていました。そんな私に取っての抑止力が、正確には覚えていませんが、「落とせスピード。君の帰りを母が待つ!」という交通安全のスローガンでした。 ある人は、人生に思い悩んで自殺をしようとしました。その時、自分が死んだことで、とても悲しんでいる親の姿が心の中に思い浮かんだそうです。それで死ぬのをやめたそうです。 太平洋戦争末期に、戦死を前提とした体当たり・自爆攻撃をする神風特攻隊というものがありました。建前では、「天皇陛下万歳!」と言って、国のために命をかけた行為であったと言われていますが、実際は、「お母さーん!」とほとんど全ての人が叫んで亡くなったと言われています。 親に対する思い。また、親が悲しむという思いは、命の大切さを思い起こさせるものだと思います。なぜこんなことが行われてしまったのだろうか?なぜ?と思いますが、その場にいなかった私には、それを知る由もありませんし、簡単に賛否を言うことは出来ません。 人間にとっての抑止力は、親のほかに、神様をあげることができると思います。聖書には、「神は愛なり」と書かれています。こんな賛美歌があります。 「主我を愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す」(賛美歌461番) 神様は、私たちをどんな時にも愛して下さっています。しかし、私たちが罪を犯し、自分を傷つけ、神をないがしろにし、神が愛する他の人たちを傷つける時に、神は心を痛め、悲しんでおられます。 神様は目には見えませんが、存在しておられます。その神様を意識することが、より良い生き方へとつながり、命を大切にし、隣人を愛し、幸せな国と世界を作っていく原動力になると思います。 神様を信じない人は、人の目が神様のようになっています。そうなると、人が見ていなければ、見つからなければ、不正や悪いことをしてもいいと考えます。しかし、神は、信じても信じなくてもいつも共におられ、私たちを愛の眼差しで見ておられます。そして神は、裁き主です。 神は罪を裁きます。しかし、その裁きは、私たちを直接裁くのではなく、御子イエス・キリストを十字架に貼り付けにして、身代わりに裁きました。信じる人は、神の裁きは終わりました。 神は愛です。愛の神に感謝し、その神様の心を痛ませないようにし、神様の心を喜ばせるような生き方を心がけて行きたいですね。 聖書には、「神の国と神の義を第一に求めなさい。」と書かれています。神様を第一にし、他のことは後回しにしても、いつも神様に祈り、神様と共に歩む人生を歩むことをお勧めします。 そうしたら、寂しくないし、満足できるし、幸せになります。人が罪を犯す原因は、寂しさや不満、不幸などが原因です。その根本的な解決は、神様と共に歩むことです。 あなたには抑止力がありますか?真の抑止力は、愛の神様が悲しまれることはしたくない。愛の神様が喜ぶことをしたい。というものだと確信します。
2012年10月12日
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おはようございます。今週も金曜日になりました。一週間が早いなーと最近感じます。一日一日、一瞬一瞬を大切に過ごして行きたいと思います。今日も素晴らしい一日でありますようにお祈りいたします。 私たちは、自分が何かのミスをした時に、容易に自分を責めてしまいやすいのではないかと思います。 しかし、自分のミスを責めたり、自分を「バカだ」とののしったり、自分を非難するのはやめましょう。 そのようにすると、自分のすることは何もかも間違っていると感じて、さらにミスを繰り返すことになります。 もし反対に、「大丈夫、大したことはないよ。」と心の中に優しく声をかけてみたらどうでしょう。そうしたら、プレッシャーは軽くなり、ミスも繰りかえさなくなります。 また、自分に優しくすると、自分の間違った決断やミスに対して、客観的に受け止める心のゆとりが出来て、今後同じミスを繰り返さない策を練ることも出来ます。 誰だってミスは犯します。しかし、それはわざとそうした訳ではありません。 私たちを造り、私たちを愛している神は私たちを赦される神です。神が赦された私たち自身です。自分自身にももっと寛大になって行けたら、他人に対しても寛大になることが出来、愛せるようになるはずです。 100%のあなたを許し、受け入れ、寛容に受け止めて、次はどうやったらミスを繰り返さないかを考えることに、責めるエネルギーを使って行きたいですね。 GOD bless you!
2012年10月11日
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おはようございます。いつも温かい交流をありがとうございます。今日で洗礼についての最終回と致します。 「洗礼を受けると何が変わるのか?」について考えたいと思います。1回目の時に、洗礼を学校の入学に例えましたが、今日は洗礼を他の2つのことに例えます。 1つ目は、「お葬式」です。古い今までの人生と自分に死ぬ儀式です。日本では、毎年3万人以上の人が自殺します。何と悲しく、取り返しのつかない行為でしょうか。でも、自分で死を選んでしまう人は、もしかしたら、ある意味で正常な感覚を持っているかも知れません。自分の中にある絶対絶望的な罪の性質を知っている人であると思います。しかし、その古い罪の性質に死ぬ方法は、自殺以外にもあるのです。それが洗礼です。 聖書には、「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第二コリント5:17)と書かれています。 2つ目は、第二の「お誕生日」です。洗礼はお葬式であると同時に、第二のお誕生日です。世界中の教会で洗礼式が行われていますが、大きく分けて2種類の洗礼方法があります。 一つ目は、浸礼式で、全身を水の中につける方式です。 二つ目は、滴礼式で、頭の上に水をつける方式です。 意味は一緒です。頭の上まで身体中が水に浸かったことを象徴します。水の中に入ったままでいると人は死んでしまいます。同じように洗礼は、「あなたはイエス・キリストと一緒に水の中に入って古い自分に死に、水から出て来る時に、あなたはイエス・キリストと共に復活して新しく生まれ変わる」ことを象徴します。 洗礼式とは、古いあなたが死んだためのお葬式であるとともに、新しいあなたの誕生を祝う儀式です。「人生をやり直したい」「新しく生まれ変わりたい」と思う人がいたら、ぜひご相談下さい。 新しく生まれ変わった人には、次の3つのものが与えられます。これを結論として話を終わりにします。 1、 罪が赦される 2、神の子とされる 3、永遠の命が与えられる 「あなたが一度も罪を犯したことがない人」として、神様から見て頂けます。神様の子供という地位が与えられます。そして、永遠の命を頂いて天国に入ることができます。これ以上詳しく説明すると、文章が膨大になってしまいますので、この辺りで終わりにしたいと思います。 人生は、いつでもやり直すことができます。あなたにどんな過去があっても、今、どんな状況の中にあっても、大丈夫です。人生のセカンド・チャンスがあります。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けるならば、新しいあなたの人生が、そこからスタートします。お祈りしています。 週の後半になりました。生きていると色々なことが起こると思います。しかし、神を信じる人生は、いつも「ピンチがチャンス」であり、「全てのマイナスはプラスに」変わります。良い一日でありますようにお祈りしています。
2012年10月11日
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おはようございます。今日も元気で過ごしていらっしゃいますね。窓から晴れた空を見ていると、すがすがしい気持ちになります。今日も一日よろしくお願いします。 昨日、洗礼式は信仰生活という学校の入学式ということと、その学校に入学するための入学試験とその模範解答についてお話ししました。 聖書は、マタイの福音書7章13節で、「狭い門から入りなさい」と語ります。洗礼を受けて、信仰生活という学校に入学し、その校門をくぐるのは簡単なことではありません。それは狭い門だからです。 入学試験は、「イエス・キリストが私の罪の身代りに十字架にかかり、死んだ後に墓に葬られ、三日目に復活された」と信じるだけですが、それはとても狭い門なのです。 この世の中の価値観は、何かを得るためには何かの報酬や代価を払わなければいけません。お金であったり、善行であったり、何らかの犠牲の伴う代償が必要です。「この世の中にうまい話は存在しない」と断言してもいいかも知れません。 聖書が教えるこの門は、信じるだけでくぐれるのです。でも、それがかえって難しいのです。信じるだけで救われ、信じるだけで天国に行けるのです。私たちには、その代価があまりにも大きすぎて支払うことができないので、代わりに、神が一人子であるイエス・キリストの命という代価を支払ってくれたのです。これを真実のこととして、『ありがとうございます』と信じて受け入れることだからです。神の前に謙虚な気持ちでなければ、これを素直に信じて受け入れることができないのです。 しかし、これを信じて受け入れる心の準備がすでにできている人もいらっしゃると思います。ぜひその方はメッセージを下さい。
2012年10月09日
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おはようございます。連休明けで、「さー仕事に取りかかるぞ!」と元気な方もいらっしゃると思いますし、「あーあ、仕事かぁ。もう一日休みたいなー」と元気を失っている人もいるかも知れません。しかし、今日も必ず素晴らしい一日になると信じます。良い一週間でありますようにお祈りいたします。 ところで、今日から3回、「洗礼」とはどういうものなのか? について分かち合いたいと思います。 まず、聖書が教える洗礼を受けるとは、どういうことでしょうか? 信仰生活を学校に例えるならば、洗礼は入学式です。洗礼を信仰生活の卒業と考えて、洗礼式の日が卒業式で、次の日曜日から教会に来なくなってしまう人がいます。しかし、正しくは、洗礼は入学式です。 学校に入学するためには、入学試験を受けて、試験に合格しなければいけません。無試験の裏口入学はできません。 それでは、どんな入試問題が出されるのでしょうか? 1、あなたは罪びとですか? (註、罪びととは、犯罪者という意味ではなく、万物の創造主、全知全能の神という的からはずれて、神と無関係に生きてきた人ということです) 2、どうしたらあなたの罪は赦されますか? (註、どうしたらあなたは神との関係を持つことができるかということです) この入試問題の模範解答をお知らせします。 1、私は罪びとです。 2、次のことを信じ告白することによって、私の罪は赦されます。 イエス・キリストが私の罪の身代りに十字架にかかって死なれた。 イエス・キリストは、死んだ後墓に葬られた。 イエス・キリストは、足掛け3日後に死者の中から復活された。 世界の約20億の人たちは、このテストに合格して、洗礼という入学式を経て、クリスチャンになりました。このテストをまだ受けていない人も、チャンスがあります。いつか受けてみませんか? もしご希望なら、近々でも洗礼を受けることもできますよ。 テストに合格したい人は、次のお祈りを、神に向けて捧げて下さい。 『愛する神様、私は罪びとです。しかし、私の罪を赦すために、イエス・キリストが十字架にかかり、死んで墓に葬られ、黄泉に下り、三日目に甦られたのだと信じます。イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として心の中心にお迎えいたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン』
2012年10月08日
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おはようございます。今朝は少し肌寒く感じますが、今日は「体育の日」、3連休最後の日になりました。この時期、暑くもなく、寒くもなく、スポーツをするには適した季節ですね。皆さんはどんな一日を過ごされますか? 素晴らしい一日でありますように。 ドイツの宗教改革者であるマルチン・ルター(Martin Luther 1483~1546)は、「罪人は、美しいから愛されるのではない。愛されているから、美しいのだ。」という言葉を残しました。 人は罪を持って生まれて来るので、小さな子どもでさえ罪深い自己中心な性質を持っています。それは、人類の祖先であるアダムとエバが、神に反逆するという罪を犯したからです。 例えば、畑にりんごの種をまけばりんごの木が生えて来ます。決して、みかんやいちじくの木が生えてくることはありません。同じように、罪の種を持ったアダムとエバの子孫は、その子々孫々罪人としてこの世に誕生して来ます。 しかし、神は、その罪人であっても、いや、罪人であるにも関わらず、この私たち人類をあるがままで愛して下さっています。だから、2012年前のクリスマスにひとり子イエス・キリストをこの地上に与え、私たちの救いのために十字架にかけて下さいました。 神は、ひとり子のいのちを犠牲にしてまでもあなたを救おうとされています。ここに神の愛が現されました。 この愛を受けた人は普通の人ではありません。赦された罪人です。人は愛によってのみ変わることが出来ます。そして、美しく変化して行くのです。 神の愛とは、私たちがこの愛を受け入れるならば、100点満点(信仰義認)を与えて下さいます。実力は0点であってもです。 ここで、「お前は0点だから少しは反省しろ!がんばりなさい!」と言われても、おそらく、らっきょの皮むきのようであり、がんばってもがんばっても決して100点を取ることはできない堂々巡りの世界のようであり、鉄棒のけんすいで上に登ろうとするようなものであったり、自分の髪の毛を引っ張って身長を伸ばすようなもののように感じます。 神は、「イエス・キリストのゆえにあなたは100点満点です。」と言って下さっています。100点を付けられた人は、その評価を喜び、感謝して、それに応えたいと思うようになって成長するのです。 今日、ちょっと胸に手を当てて考えて見て下さい。「お前はダメな奴だ!」と言われるのと、「あなたを愛している!」と言われるのはどちらがうれしいでしょうか? 私たちは、「認められたい」、「受け入れられたい」という基本的な欲求があると思います。その答えこそ、神の愛です。 私たち罪人は、お世辞にも美しいから愛されているのではありません。しかし、神に愛されているから美しいし、もっと美しくなって行けるのです。 ある人は、「なぜ神がいるのなら、世界にこんな多くの不幸があるのでしょうか?」と疑問を持ちます。しかし、神が不幸をもたらせるのではありません。人間の罪がこの世の不幸を作り出しています。 ですから、この罪が赦され、罪が解決されなければ真の幸福はやって来ません。クリスチャンでも罪深い生き方をする人もいます。しかし、その人が神の愛を知らなかったら、もっと罪深く、絶望的な人生を生きていたことでしょう。 だから、どんな状況の中にあっても、どんな過去があったとしても、あなたも神の愛を受けることが出来ます。すでにその愛はあなたに向けられています。神の愛とは、それを求めるのではなく、その愛に気づき、信じ、受け入れることです。 イエス・キリストはあなたを愛しています。あなたは神に愛されています。だから美しい人なのです。 ♪君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている 君は愛されるため生まれた 君の生涯は愛で満ちている♪(作詞・作曲/イ・ミンソプ) 連休最後の日、有意義な一日でありますように。また、新しい一週間、かけがえのない素晴らしい週となりますようにお祈りします。
2012年10月07日
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おはようございます。昨晩は、一時どしゃ降りの雨が降り、今朝も雨ですが、静かな気持ちのいい朝を迎えられて感謝です。三連休の中日でもありますが、みなさんはどのようにお過ごしですか? 良い一日でありますようにお祈りいたします。 昨日は、子供の運動会があり、晴天の中、成長した子供の姿を楽しませて頂きました。きっと神様も、神の子である私たちの成長した姿を見つめていて下さるに違いないなーと思いました。 また同じ日に、「10/14」の「鉄道の日」にちなんだ「鉄道映画祭2012」の「劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン」の映画の券を友人から頂いたので、子供と観に行って来ました。 映画を観たのは久しぶりで、とても楽しい時間を過ごしました。この映画を面白くしているのは、引き立て役がいるからだと思います。引き立て役は、何といっても悪役です。昔私は、プロレスが大好きで、プロレスラーになりたいと思っていたことがあります。プロレスを面白くしているのは、やっぱり悪役だと思います。悪役がいるからこそ、アントニオ猪木などの正義の味方レスラーが光ります。もし悪役がいなければ、たぶん面白くないかも知れませんね。 話を戻して、その映画は、400年前に死んだとされる死者の悪役たちが幽霊列車に乗ってやって来るところから始まります。そして、その悪役が、死んだ人と生きている人の世界をひっくり返して、死者を生き返られせようという企てを計画しています。さらに、主役の孫が時空を超えて未来からやって来たり、主役が悪役に拉致され、場面は、400年前の過去の世界に変わります。そこで、最後の壮絶な戦いが繰り広げられます。悪役はとても強く、勝てそうもないように見えますが、味方が一致することでついに勝利をすることができました。映画を観終わって、とても爽快な気持ちで電車で帰って来ました。 さて、今日は日曜日。教会で日曜日の礼拝(ミサ)の集会が行われます。聖書は古くて新し書物です。とても面白いです。聖書のストーリーを面白くしているのは悪役がいるからだと思います。悪役は、聖書の随所に登場します。元々、神に仕える天使だった「ルシエル」が、神に反逆して堕落して悪魔である「ルシファー」になり、これが悪の世界の親玉となりました。悪魔は、人類の祖先であるアダムとエバを罪に誘惑し、罪を犯したアダムとエバの子孫は、私たちを含めて悪魔と罪と死の奴隷とされました。その後も、悪魔は何度も登場し、最後の最後まで神に反逆し、人類に戦いを挑んで来ます。 2012年前のクリスマスに、神の一人子イエス・キリストは、人間の姿をとってこの地上に生まれました。キリストは、悪魔と罪と死の奴隷になった私たち人類を救うために、十字架にかかり、三日後に復活しました。これは悪魔に対する完全な勝利です。しかし、本当の勝利は、全ての人がキリストの救いを受け取る日まで続きます。 今、この世界に苦しみがある理由は何でしょうか? ある人は、「なぜ神がいるならばこの世界に戦争やきがや苦難があるのか?」と問います。その答えは、人類の罪であり、その罪を通して悪魔がこの世を支配しているからです。私を含めて、誰もがこの世界を生きていて苦しみを感じているだろうと思います。それは、罪があり、悪魔がいるからです。しかし、キリストは救いを完成されました。後は、この救いを受け取るだけです。救いの条件は、無条件で、タダです。その理由は、人間の努力や修行、お布施などをしたくらいで救われるほど罪は生易しくはありません。キリストが十字架に付いて死に、死を打ち破って復活する以外に救いの道はなかったのです。その救いが今、私たちの目の前に置かれています。ぜひ、それを受け止めて下さい。 クリスチャンが、日曜日教会に集まって礼拝をするのは、宗教儀式をするのではなりません。私たちの救い主であるイエス・キリストの勝利の復活を讃え、このお方から一週間をスタートするために礼拝を捧げます。この礼拝の中で、悪役である悪魔は追い出され、勝利と祝福を体験します。映画が悪役によって面白くなるとしたら、教会は、本物の悪である悪魔に打ち勝たれたイエス・キリストが悪魔を追い出して下さるのです。これ以上に面白く、爽快で、感動と喜びに満ちた時はありません。一度教会にいらっしゃいませんか?(http://www.geocities.jp/sgr_ch/)また、生放送や録画放送もしています。 〈1〉朝10時半~昼12時 〈2〉夕4時半~6時「教会の集会を生放送」します。 (後ほど、録画放送のYouTubeのURLをお知らせいたします) ニコニコ動画 http://nico.ms/l/co114841 ステッカム(stickam)TV http://www.stickam.jp/profile/pastor 教会(Church)HP http://www.geocities.jp/sgr_ch/ 説教要約(Sermon summary)blog http://pastor.ti-da.net/ クリスチャンの皆さん、教会の中にある宗派、教団、教派は大切な違いです。しかし、違った者同士が、イエス・キリストにあって一つになり、互いに支え合い、助け合い、学び合って行くならば、仮面ライダーたちが一つになって敵に当たった時に勝利ができたように、敵である悪魔に、もっと早く勝利をすることができます。悪魔に支配された世界、人々は、瀕死の重傷に陥り、苦しみ、もがき、「死にたい!」と叫んでいる人が多くいます。今こそクリスチャンが立ち上がって、愛し、助け、伝道しなくてはいけません。 最後に、人生には、思い通りに行かないことがあります。人間は悪魔ではありませんが、「この人さえいなければいいのに!」と思える人が何人かいるのではないでしょうか? しかし、そういう人がいるので人生は楽しいのです。苦手で嫌いなタイプの人は、自分と似ているか自分と正反対かのどちらかです。そういう人と付き合うことで、学ぶことがありますし、反面教師になることもあります。嫌いな人であっても、避けるのではなく、付き合ってみると、おそらく、人生は面白くなるものです。 良い日曜日でありますように。喜びに満ちた一週間でありますようにお祈りします。
2012年10月06日
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2012年10月05日
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おはようございます。気持ちのいい朝を迎えられ、みなさんと今朝もネット上で、文章を通してお会いすることができてうれしいです。どうぞ、今日もよろしくお願いします。 私の20代や30代の頃は、今よりも遥かに力に満ちていましたので、毎日、やるべきこと、やりたいこと、そして、頼まれたこと、誘われたことなどのすべてをこなそうとガンバっていました。忙しいことに生きがいを感じ、その時はとても疲れるのですが、一晩ぐっすり寝ると、翌朝に疲れが残るということはまずなく、ある意味、充実した毎日を送っていました。 しかし、二年半くらい前、無理が重なって、約二週間入院しました。原因は、持病の喘息発作の悪化により、喘息と肺炎でした。しかし、喘息は子供の頃からありましたが、忘れた頃に軽い発作が出る程度で、それ以外は健康そのもので、元気・やる気・活気・勇気に満ち溢れていました。 しかしそんな私でしたが、40歳に近づいた頃から、健康と気力だけでは乗り越えられないと感じるようになりました。疲れが溜まった時、以前のように、一晩寝ても疲れが取れないのです。そして、無理を重ねた結果、入院し、入院した時には、重篤な症状になっていました。これは、私の体が出ししてくれた「赤信号」だと思っています。さらに、一年半前と最近の二回、ぎっくり腰になりましたが、それも私の体が出した「赤信号」だと思い、ありがたく受け止めることにしました。 今までは、もちろん、優先順位を付けて行動をしていましたが、すべてをやろうと一生懸命でした。時には、手抜きをしてでもこなしていました。集会や会議やイベントのハシゴをすることもよくありました。それでも、何とか、すべてのことをやろうと努力しました。しかし、今思うと、そこまで無理をしても、疲れるだけで、実りが少ないし、「あれ? かんのさん、今来たと思ったらもう帰っちゃったの!?」と関係者をがっかりさせてしまったり、不快な思いをさせてしまったこともあったと思います。とにかく、集会や人の集まるところには顔を出して、色々な人と知り合ったり、交流することを大切にしていました。しかし、最近は、人の集まるところにもほとんど顔を出さなくなりました。そして、どうしてもそこに行かなければならい時だけ、最低限出かけて行くようにしています。そうしたらどうでしょう。とても体が楽になり、心にもゆとりが出てきました。 また、色々な人から相談を受けたり、出張の依頼を受けますが、そのすべてを引き受けようとしていましたが、これをやっていたら、私が何人いても足りないということに気がつきました。最近は、依頼を受けた時に、まず祈り、本当に行く必要のあるところにだけ行くことにしました。つまり、私がいなくてもイイ場所は断って、その分、本当に大切な場所に力を集中して、心を込め、時間をかけて仕事を行うようになりました。私が行けないところには、代わりに、知り合いや友人に行ってもらうことにしています。これでさらにゆとりが出ました。体からは「青信号」がよく出ています。 私は、人生の優先順位に従って、その上位にあるものから行って行き、これ以上やったら倒れてしまうかも知れないと感じる前に、サッと手を引くことにしています。それでも気が付いたら忙しくなり、心身から「黄色信号」が出ることがあります。 私の優先順位は、 神さま 家族 教会の(第一の)仕事 教会の外部の仕事 ボランティア活動やインターネットを通しての交流 余暇・趣味などの順番です。 世の中の多くの人は、私が「の優先順位」にしている「仕事」を第一に行っているだろうと思います。しかし、最近は、家族との時間をより重視したり、余暇や趣味を大切にする人も増えて来ているような気がします。みなさんはどんな優先順位で毎日の生活をしていますか? 私は、先ほど挙げた優先順位の中で、~の順番は特に大切だと思います。私と同じ優先順位で生きておられる人は、引き続き、そのように生きて下さい。しかし、そうではない人は、一度、この優先順位を試してみられたらどうでしょう。「ああそうですね、いい話だと思います」と、素通りしたり、食わず嫌いにならないで、ぜひ試しに挑戦してみて下さい。 優先順位の第一は神さまです。しかし、すべての人が神を信じているわけではありませんので、そういう人は、自分だけの時間を持つことを優先にしてみて下さい。朝一番などに、自分自身の心身の体調を整えたり、自分らしさを回復させたり、静かに一日の計画を立てたりする時間を持って下さい。忙しい人でも、トイレに入った数分だけでもOKです。さらに、自分を超える存在である神を意識し、神に心を向け、祈る時間を持てたらベストです。神に祈ると何がイイかと言いますと、「何をしなければならないか」と「何をしなくてもいいか」が明確に見えてきます。それまでは、「これこそ大切だ!」と思っていたことが、神に聴いているうちに、「あんまり重要じゃない」ことに気づいたり、反対に、後回し にしていたことが、「最優先でやらなければならない」ことだとわかることはよくあります。私は、まず、朝の祈りの時間を何にも勝って大切にしています。そこで一日に必要な力や知恵を充電しています。 次に、家族を優先順位の二番に挙げましたが、実は、案外難しいものです。世の中では、「仕事がある!」と言うと、その一言で周囲を黙らせてしまうほどの重みと威力があります。もちろん、サラリーマンであれば、決められた時間までに出社する必要があります。また、私ならば、集会の時間や、人と約束した時間や、講演の時間、冠婚葬祭がはじまる時間などに遅れないようにしなければいけません。しかし、仕事よりも、あえて家族・家庭と言ったのは、仕事よりもはるかに大切なことだからです。結婚をしている人は、妻や夫とのことを後回しにして、大切にしてないと、気が付いたら忙しくなり、家庭を全く顧みない仕事人間になってしまいます。そうなると、せっかく結婚をして、家庭を築いたのに、 家庭にヒビが入り、すれ違い、相手に不満が溜まり、家庭が不和になったり、ある人は浮気に走ったり、離婚に繋がってしまうこともあります。あなたが、いくら仕事を大切にしても、定年が来たらそれ以上仕事をさせてもらえません。ある場合には、クビになったり、リストラされてしまう可能性もあります。しかし、家族は、一生続く人間関係です。どうぞ、家族・家庭を仕事よりも大切にして下さい。 そして、もう何も言う必要はありませんが、次に大切なことは、自分に与えられた仕事です。手抜きせず、省エネをせずに、全力投球で働いて下さい。聖書は、「6日間働いて、1日休みなさい」と教えます。この「1日休む」ということにばかり目が行ってしまう人もいるかも知れませんが、同時に、「6日間働く」ことが大切です。6日間一生懸命に働いたら、1日しっかりと休んで下さい。時には、連休を取って家族旅行をするのもいいと思います。しかし、通常の一週間のリズムは、6日間働いて、1日休むことです。5日間働いて、2日休むのも悪くないように見えますが、仕事のリズムが狂ってしまって、仕事を始める日に、なかなか体がいうことをききません。日本は今、週休2日制になりました。私は、土曜日を完 全に休んで、日曜日は教会に行って礼拝をし、しっかりと奉仕をされたらいいと思います。また、地域のボランティアをすることも素晴らしいと思います。 私は、~の優先順位についてオススメをしましたが、四番目以降は、みなさんなりの優先順位を付けられたらイイと思います。しかし、~はとても大切です。これを大切にしていたら、きっと無理のない、有意義な毎日を過ごせると思います。 聖書は、「主(イエス・キリスト)は答えて言われた。マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカの福音書10:41~42)という言葉があります。 「なくてならないものは一つ」という言葉は非常に明快であり、真理です。そして、その一つとは、神さまです。 もし神さまを大切にしていたら、すべてを持つことになります。この世界は神が造られました。そして、私たちは神に造られました。神は、すべてを与えられました。そして、神は行くべき道を示し、導いて下さいます。この一つがしっかりブレなかったら、家族を大切にし、仕事を大切にし、その後に時間が余ったら、やりたいことをやったらイイのです。こんな生き方ができたら、みなさんの人生は計り知れないくらいに祝福され、すばらしい毎日になると思います。今日も素晴らしい一日でありますようにお祈りします。
2012年10月03日
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おはようございます。曇り空の朝を迎えられて感謝です。今日も良い一日でありますようにお祈りいたします。 私たちの人生には、穏やかな秋晴れのような日もあれば、今朝のように曇り空のような日もありますし、雨や雪や霙が降るような日もありますし、台風が吹き荒れるような日もあります。私は、どんな日も素晴らしいと思います。 人生には、例外なく苦しみや試練がやって来ます。その理由は大きく分けて3つの理由があります。 悪魔、サタンが私たちを潰したり、神から引き離そうと苦しみや試練で私たちをアタックします。 神が私たちをご自分に近づけたり、私たちを強くし、正しい生き方に軌道修正させようと苦しみや試練を与えられます。 自分の「身から出た錆」や「自業自得」のゆえに苦しみや試練を経験します。 まず、悪魔、サタンが私たちを苦しめようとするための苦しみや試練は恐ろしいように感じるかも知れませんが、神の許しがなければ、悪魔も自由にそれを行うことはできませんので心配はいりません。神は、悪魔、サタンが持ってくる苦しみや試練というマイナスを、思いがけないプラスに変えて下さいます。 次に、神は、私たちをご自分に近づけるために苦しみや試練に遭わせることがあります。人は平穏な時に自分を変えることはほとんどありません。しかし、試練に遭った時に神を求めたり、神との関係を深く強くしたり、悔い改めて正しい道を歩むようになることがあります。 私の父は、福島にある神社の神主の家系に生まれ育ちました。そんな父が大学受験のために「蓄膿症」の手術を受けに行ったら、医者が手術に失敗し、父は手術中に「くも膜下出血」をし、「左半身不随」になってしまいました。このこと自体はとても大きなマイナスです。しかし父は、一時的に挫折をしましたが、一浪して大学に進学し、その大学の聖書研究会を通して、イエス・キリストを知り、クリスチャンになりました。父は後日、「私はこの試練があったからこそ、本当の神を知ることができたので良かった!」と言っています。これはそう簡単に言える言葉ではないと思います。この父の経験は、の悪魔、サタンのアタックとの神がより良い目的にために与える試練とミックスしているだろうと思い ます。 の「身から出た錆」や「自業自得」ゆえの苦しみや試練は、他人のせいではなく、自分のせいです。だから、罪を自覚し、反省し、自省する必要がありますが、しかし、そういう理由であっても、神はより良いことの目的にために、そのマイナスをプラスに変えて下さることがあります。 私の友人のI氏は、自称極悪人で、刑務所の中に20年も入っていました。長い獄中生活の中で一冊の聖書と出会い、教誨師を通してクリスチャンとの長年の文通をするようになり、獄中でイエス・キリストを信じました。今年1月に刑期を満了して出所して、今現在、刑務所から出所して来る人たちの心と新しい生活のケアをしています。 苦しみや試練には、~のそれぞれの理由があります。また、複合である場合もあります。しかし、原因や理由は色々ですが、神は、その苦しみや試練を通して、より良いことをして下さることだけは確かです。 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28) 聖書は、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と語ります。このすべてのことの中には、良いことも含まれます。しかし、苦しみや試練も当然含まれています。 神のいない人生は、プラスこそプラスであり、マイナスはマイナス以外の何ものでもありません。しかし神は、プラスのことも、マイナスのことも、普通のことも、どんなこともすべてを共に働かせて、益に、すなわち、プラスに変えて下さるというのが聖書の約束です。 今日、想像を絶するような苦しみや試練に遭っている人もいると思います。そして、その苦しみや試練に押し潰されそうになってるかも知れません。燃え尽き、絶望し、「死にたい」と思っている人もいるかも知れません。しかし、その苦しみと試練のど真ん中で、感謝をし、神を讃えて喜んでみませんか。なぜならば、プラスのことはプラスなので当然感謝できますが、マイナスのことは、今現在はマイナス以外の何物でもないかも知れませんが、後にプラスに変わるのです。だから、未来には感謝をしているのです。その未来の感謝を未来になってからではなく、先取りして、今、感謝をするのです。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への手紙5:16~18) さらに、今は苦しみや試練があっても、神と共に歩む人生は「ハッピーエンド」です。みなさんは、「ハッピーエンド」の映画を見たことがありますか? 「ハッピーエンド」の映画は、最初も良く、途中も良く、最後もイイというストーリーではありません。だいたい、最初は平凡で始まり、途中から、とてつもない苦しみや試練に場面が変わって行きます。しかし、終わりに近づくにつれて最悪のような場面が続きますが、最後に、ハッピーになって終わります。このハッピーエンドの映画を思い出し、考えて下さい。 私たちの人生は、今は苦しみや試練があっても、最後は、「ハッピーエンド」で終わります。そう決まっているとするならば、もはや心配はいりません。感謝し、喜び、今を楽しみながら毎日を生きて行ったらいいのです。 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29:11) 私たちの人生脚本が「ハッピーエンド」であるならば、途中も良いことばっかりでは面白くありません。どうぞ、しばしの苦しみや試練を甘んじて受け入れて下さい。神は、より良いハッピーエンドとなるように、あなたに苦しみや試練を許され、与えられました。身から出た錆や自業自得ゆえに苦しむこともあるかも知れません。しかし、あなたの最後を知ったとしたら、悲観したり、絶望したり、死にたいと思う必要はありません。 最後に、今日、もし神を信じていない人がいたら、神を信じて、あなたもハッピーエンドの人生脚本の中を生きて行きませんか? 「天のお父様、私はあなたから離れていた罪人です。イエス・キリストの十字架と復活を通して私を救って下さい。」と祈ってみて下さい。また、すでにクリスチャンの人は、神に立ち返り、近づき、悔い改める時を持って下さい。 人生には、大変なことが起こります。そのことを許された神は、苦しみや試練と共に、押しつぶされそうな大きな問題、重荷、孤独などすべてを背負って下さいます。神に荷を背負って頂きながら、神と共に、すばらしい、無限の可能性に満ちた今日を歩んで参りましょう。祝福を祈ります。
2012年10月02日
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おはようございます。今日も素晴らしい朝を迎えられてとても幸せです。時々、生きていることが当たり前のように思ってしまうこともありますが、実は、当たり前ではなく、キセキであり、生かされているんだなーとわかると心が感謝で一杯になります。 私が朝起きてまずすることは、お祈りです。それは、一緒に住んでいる家族と目が合ったら、自然に「おはよう!」と言うように、「神様、おはようございます!」と、自然にお祈りが始まります。みなさんはお祈りをすることがあるでしょうか? 祈りとは、神もしくは、神格化された存在との命の交流と対話です。祈りは、クリスチャンでなくても、どんな信仰を持っている人でも、形は異なっても、行うものだと思います。ある心理学者は、無神論者でも、危機的な状況に直面した時には、「神様、助けて下さい!」と無意識に叫んで祈るものだと語ります。きっとそうだろうと思います。 通勤・通学の時などに、見ず知らずの人と電車の中で目が合って視線がぶつかった時、ニコりと笑うこともできないし、じっと見つめるのも変だし、自然体でなくなってしまうので、結局、仕方なしにケータイやスマホに目を向けたり、目を閉じたりした経験がないでしょうか。そんな時私は、肩が凝ってしまいます。しかし、自分の住んでいる町を歩いていると、知り合いがたくさんいますので、目が合うか合わないかの頃から笑顔になり、あいさつを交わしたりします。人と会った時に、何らかのコミュニケーションを持つことはごく自然なことです。そして、お互いにうれしくなりますよね。 私は登山が好きです。山の途中で誰かと合ったら、見ず知らずの人同士でも「こんにちは!」と互いにあいさつを交わす習慣がありますが、これはとてもいいなーと思います。あいさつで心を通わすことで、登山の疲れも吹っ飛んでしまいますし、貴重な情報交換をして、危うく遭難事故を免れることもありますし、何よりお互いに仲間だという意識が持てて、うれしくなります。 しかし、祈りに関してはどうでしょうか? 祈りは、神社仏閣のご本尊や目に見える偶像に向かって捧げる場合もありますが、聖書が教える祈りは、目に見えない神に向かって捧げる行為です。無神論者の中には、「目に見えるものが全てである」と考える人もいます。また、西行法師が言ったように、「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」というような霊的な感性を大切にする人もいます。 しかし聖書は、「目に見えない神が存在する」ことを教えます。聖書の1ページ目を開くと、いきなり、「初めに、神が天と地を創造した。」という言葉ではじまります。神が存在するかどうか?という議論もせずに、神が存在するのは至極当たり前であるという書き方です。そして、「なにごとの おわしますかは・・・」というような得体の知れない存在ではなく、神は、唯一の方であり、天地万物の創造者であり、霊であり、愛であり、天の父であると教えます。 祈りとは、漠然とした存在に向かって捧げる宗教行為ではなく、明確で人格を持った愛そのものの神であり、天の父との心と命の交流です。それは、呼吸に例えてもいいと思います。呼吸は、無意識に続けられています。そして、空気は目に見えません。しかし、呼吸を止めてしまったら人は死んでしまいます。二酸化炭素を吐き出して、酸素を吸い込みます。つまり、悪いものを吐き出して、良いものを吸い込んでいます。祈りは、霊や魂の呼吸です。悪いマイナスのものを神に向かって吐き出し、神から命と良いものを吸い込むことです。祈りは、霊と魂の命を保つために必要なことです。ということは、祈らない人は、霊や魂の呼吸をしていないので、眠っているか死んでいる状態で、肉体の命だけで生きてい ることになります。 霊や魂の命がないと、問題がやって来たり、試練がやって来る時に、それに押しつぶされてしまったり、ストレスに負けて、精神病になってしまうこともあります。祈りは、この世の中を生きて行くために必要な力を与えてくれます。しかし、祈りはそれだけではありません。 自民党の新しい幹事長の石破氏は、四代続くクリスチャンです。石破氏は、「政治家は、自分が絶対に正しいと考えないとできない仕事です。しかし、いつも神に祈って、『私の決断が間違えることがないように助けて下さい。』と祈りながら仕事をしています。」と語られました。石破氏の力強い国会での演説は、祈りによって力と確信と知恵を頂いているからなのだなーと痛感しました。祈りというのは、神と交わることであり、神問神問して、神の導きを受けることです。祈りを通して、神からの知恵や導きを直接頂くことができるのです。 しかし、多くの人は、祈る代わりに、自問自答で終わってしまいます。もう一人の自分に向かって問いかけ、もう一人の自分が私に向かって答えを出します。これを、顕在意識と潜在意識と表現する人もいますが、人はそのように自分に問いかけ、自分で答えを出して決断します。 私が勤める教会には、色々な人が相談に来られます。その人の悩みを聞いて、問題の核心部分がわかったら、祈りながらアドバイスをします。しかしほとんどの人は、最初から答えを持って来られるのです。すでに、相談に来る前から、自問自答して、答えが出ているのに、その上で「話を聞いてもらいたい」ということなのか、あるいは、自分の出した答えを後押しするアドバイスが聞きたいのでしょうね。結局、こちらがアドバイスをしてもしなくても、その人が出す答えは同じである場合がほとんどですから、最初からじーっと話を聞いてあげて、最後に一言加える程度で十分なのかも知れないです。 でも、祈りは、自問自答を超越した世界です。自問自答は、自分が「一番いい!」と思う答えを出しますが、神問神問は、全知全能で、永遠に生きておられ、かつ、永遠という視点から一番いいことが何かを知っている方からの答えを聞くことです。私たちの視点は短いスパンでしか見れませんが、神のスパンは永遠です。そして、何が一番いいのかを知っておられます。そのお方に問い、そのお方に答えを頂くことが祈りなのです。その答えは最善です。 ですから、祈りは最善を知る鍵です。しかし、祈らないで自問自答をしたり、人に相談して出す答えは最善を一番とすると、二番目以下の善です。ある人は、「善でもいいのではないか」と考えるかも知れませんが、善は、時に最善の最大の敵になります。人類は、自分が考える善を求めた結果、絶えず争いを起こし、その争いを解決できないでいます。それは、領土問題であったり、戦争、内戦、訴訟、離婚、喧嘩などです。 また、今話題になっている原発は善かも知れません。しかし、原発から出る廃棄物を人類はどう処理していいかさえわかっていないのです。福島の原発事故を完全に解決させていないのに、次々に原発を再稼働するのはどうなのでしょうか。 私は、原発が悪とまでは言いませんが、最善ではないと思います。 私たちは、自分の頭で考えたり、有識者に相談したり、話合うだけではなく、神に問い、神から答えを頂いて決断して行かなくてはならないと思います。 全人類が、神に祈り、神の答えを正確にキャッチして生きて行ったら、互いに愛し合い、世界は平和になり、幸せになるはずです。祈りは、世界を救います。どうぞ、短い時間でも、天地万物と私たちを創造された神に祈り、神に聞いて一日をスタートしませんか? その神から離れた状態を罪と言いますが、その罪を赦し、神と和解し、祈ることができるようにさせて下さったイエス・キリストを通して共にいのれたら幸いです。祈りは、霊と魂の呼吸であり、最善の答えを知る鍵です。素晴らしい一日でありますようにお祈りします。
2012年10月01日
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