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武蔵野銀行のCMです。「やっぱりいいね、地元って」と言うのが落ちですが、この主人公の心情は誰もが共感するところでしょう。 しばらく更新できませんでした。配偶者の付き合いで、清里のイベントに参加し、その準備やらなんやらで、時間的にも精神的にも余裕がなかったのです。仕事でもないコラム(ブログ)を書くって、余裕のなせる業だったんですね。イベントの様子はこちら。http://plaza.rakuten.co.jp/teddybearterrace/diary/201410280000/ ”清里”というのは、僕らの若い頃のあこがれの地で、清里でペンション経営が夢の時期もありました。今回は『私のカントリー』という雑誌の主催イベントの関連でしたが、もともと僕が木工をやるようになったのは、この「アメリカンカントリー」という分野の流行が始まりでした。このブログでは、そっちの顔について書いていませんでしたが、こんなふうなこともしています。http://plaza.rakuten.co.jp/woodluck/ 木工を始めたころは、雑誌に出ているカントリー家具の作り方をまねて、そのとうりのものを作っていましたが、いつしか今のテイストに変わっていきました。当時、「TVチャンピオン」で常連だった鈴木明美先生と知り合って、この世界でやっていこうと思ったこともありました。http://plaza.rakuten.co.jp/woodluck/diary/200601310000/ 他にも幾多の出会いがあり、様々な経験をして、ほとんどが振り回されてきた人生でしたが、それでも今ここにいるのです。人生の分かれ道は多々ありました。すべてが本意の選択とは言えません。成り行きで角を曲がったら、思いもかけぬ展開が待っていたというのがほとんどです。 配偶者の方も、様々な出会いと経験を重ね、どんどんと活動範囲がひろがっていったのですが、思い付きで動いていた”点”が、いつの間にか”線”でつながり、すべてが必要なピースたった気がします。人生で起こる出来事には、無駄がないもんだなあと感じました。嫌なこと、つらいこともたくさんあり、失敗の連続のような転落人生でしたが、すべてが予定調和だったのだと思えてきます。配偶者と人生を振り返って、そんな話題になり、そんな確認をしました。 人生の分かれ道で、別の選択をしてたらと思うことはあります。でも、自分は自分。自分の心のふるさとは、自分のままです。今を大切に生きることが、過去の選択のすべてを正解に導けるのです。何をやったかではなく、どういう考え方でやったかが重要です。その考え方が、幸せに直結するからです。 10年前の僕はある意味どん底で、肉体的にも精神的にもかなりつらい日々をおくっていました。木工で独立しようと考えたのも、現実逃避が本音です。それが、ゆらゆら生き続けるうちに、自分を苦しめていたのが、自分自身だったのだと気付き、新しい考え方に生まれ変われたのでした。これから計画することが、うまくいってもいかなくても、自分を失わずに、すべてを受け入れていこうと思います。
2014年10月31日
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「日本国憲法第9条」が受賞するかどうかで注目された、2014年「ノーベル平和賞」は、マララ・ユスフザイさんとカイラシュ・サティヤルティさんに決まりました。マララさんについては、当ブログ昨年の「2013年を振り返って・海外編」で紹介しました。読み飛ばした人のために再録します。 〔 45)ノーベル平和賞に化学兵器禁止機関2013年のノーベル平和賞は、パキスタンの人権運動家マララ・ユサフザイさんだともっぱらの評判でした。マララさんは2009年11歳の時に、武装勢力パキスタン・ターリバーン(TTP)の支配下にあったパキスタンのスワート渓谷で恐怖に怯えながら生きる人々の惨状を、BBC放送のブログに匿名で訴え、ターリバーンによる女子高の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を行っていました。パキスタン軍がスワート渓谷からターリバーンを一掃したことで、彼女の本名が明かされたのですが、それで命を狙われることになりました。2012年通っていた中学からの帰りのスクールバスが、複数のTTPの男に襲撃され、頭部と首に銃弾を受けました。危険な状態でしたが奇跡的に一命は取り留め、イギリス・バーミンガムの病院で治療し、1月に退院していました。7月12日に国連本部で演説をしました。国連はマララの誕生日である7月12日を「マララの日」と制定しました。これが演説の一部ですー 《親愛なる少年少女のみなさんへ、つぎのことを決して忘れないでください。マララ・デーは私一人のためにある日ではありません。今日は、自分の権利のために声を上げる、すべての女性たち、すべての少年少女たちのためにある日なのです。何百人もの人権活動家、そしてソーシャルワーカーたちがいます。彼らは人権について訴えるだけではなく、教育、平和、そして平等という目標を達成するために闘っています。何千もの人々がテロリストに命を奪われ、何百万もの人たちが傷つけられています。私もその1人です。そして、私はここに立っています。傷ついた数多くの人たちのなかの、一人の少女です。私は訴えます。自分自身のためではありません。すべての少年少女のためにです。私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声が聞こえてこない「声なき人々」のためにです。それは、自分たちの権利のために闘っている人たちのことです。平和に生活する権利、尊厳を持って扱われる権利、均等な機会の権利、そして教育を受ける権利です。親愛なるみなさん、2012年10月9日、タリバンは私の額の左側を銃で撃ちました。私の友人も撃たれました。彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。でも失敗しました。私たちが沈黙したそのとき、数えきれないほどの声が上がったのです。テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。私はこれまでと変わらず「マララ」のままです。そして、私の志もまったく変わりません。私の希望も、夢もまったく変わっていないのです。親愛なる少年少女のみなさん、私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロリストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありません。ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっきりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たちのために教育が必要だと思うのです。私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。これは、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継がれた変革という財産なのです。これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。そして、これは私の父と母から学んだ「許しの心」です。まさに、私の魂が私に訴えてきます。「穏やかでいなさい、すべての人を愛しなさい」と。親愛なる少年少女のみなさん、私たちは暗闇のなかにいると、光の大切さに気づきます。私たちは沈黙させられると、声を上げることの大切さに気づきます。同じように、私たちがパキスタン北部のスワートにいて、銃を目にしたとき、ペンと本の大切さに気づきました。「ペンは剣よりも強し」ということわざがあります。これは真実です。過激派は本とペンを恐れます。教育の力が彼らを恐れさせます。彼らは女性を恐れています。女性の声の力が彼らを恐れさせるのです。私たちは世界中の女性たちに、勇敢になることを求めます。自分の中に込められた力をしっかりと手に入れ、そして自分たちの最大限の可能性を発揮してほしいのです。親愛なる少年少女のみなさん、私たちはすべての子どもたちの明るい未来のために、学校と教育を求めます。私たちは、「平和」と「すべての人に教育を」という目的地に到達するための旅を続けます。誰にも私たちを止めることはできません。私たちは、自分たちの権利のために声を上げ、私たちの声を通じて変化をもたらします。自分たちの言葉の力を、強さを信じましょう。私たちの言葉は世界を変えられるのです。なぜなら私たちは、教育という目標のために一つになり、連帯できるからです。そしてこの目標を達成するために、知識という武器を持って力を持ちましょう。そして連帯し、一つになって自分たちを守りましょう。親愛なる少年少女のみなさん、私たちは今もなお何百万人もの人たちが貧困、不当な扱い、そして無学に苦しめられていることを忘れてはいけません。何百万人もの子どもたちが学校に行っていないことを忘れてはいけません。少女たち、少年たちが明るい、平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。ありがとうございました。》 当然ノーベル平和賞受賞の流れになるかと思いきや、「彼女にとってあまりに大きな負担になる。彼女に栄誉を授ける理由は判りやすいが、彼女は若すぎる(16歳)」と言うことで今回は見送られることになりました。ノーベル平和賞を与えたら必ず殺害すると言うターリバーンの強迫もあり、狂信的な過激派から狙われる危険も考慮しなければなりません。それにしても代わりが「化学兵器禁止機関」って? 〕 昨年のこの記事は、マララさんが受賞しなかったことの解説ですが、受賞を逃した理由の「彼女は若すぎる、受賞が大きな負担となる」と言うところは1年で解消されたのでしょうか。ターリバーンは相変わらずマララの命を狙うと言っているし、故郷のスワート渓谷は報復の攻撃に怯えています。現在の日本においては、個人の自由や男女平等は当然のことで、これに反することは撲滅に向かっています。しかし、世界の正義は一つではありません。パキスタン・ターリバーンに支配されたマララの故国では、マララは「不信信者」と呼ばれ、彼女の行為は「異教徒の文化侵略」とされています。冷戦後の世界は平和に向かうのかと思われていましたが、今の世界はイスラム過激派との世界戦争へと進んでいます。全く違う考え方の存在がある一方、考え方云々よりとにかく現在の力関係を破壊したいという存在もあり、人間の世界秩序というものは永遠に手に入らないものかのようです。お互いの違うところを認め合い、それぞれの事情を考慮し、それでいてみんなが幸せになれる方法を模索するのが進むべき道だと思います。自分の陣営の思想にしがみつき、押しつけ、反感を買うのは賢い選択ではないでしょう。どの宗教も、人を殺すのはよくないと断じているはずです。そこを出発点に、距離を保てないものでしょうか。「第9条」は、日本だけの特殊なものですが、もしこれを世界中の国(集団)が持てたとしたら、共通の信念が一つ誕生することになります。性悪説の世の中には、あり得ない思想であることは否めません。「平和賞」と命名している以上、平和を目指して行動する人が対象になるものです。それが、「第9条を支える日本国民」と言うところに疑問があったのかもしれません。空想論に聞こえるものかもしれませんが、平和がいいなあ。
2014年10月13日
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流通ジャーナリストの金子哲雄さんが亡くなって、もう2年が経ちました(2012年10月2日。享年41)。僕の”ツンドク”棚から、金子さんの著書を発見、あのキャラクターからは意外な側面に感動しました。1971年生まれですので、”バブル景気”時代に青春を送った世代です。しかし、彼は努力の人でした。そしてその努力の矛先に迷いがなく、明晰な目標を、冷静な判断と分析で、着実に達成していきました。さすが慶應義塾高校、僕とは自頭が違います。その高校時代に数学ができるクラスメートに、圧倒的な差を見せつけられ、数学の勉強をやめてしまいます。「やっぱり好きなことで勝負しないと勝てない」私は、何が好きなんだろう?3歳の時に、初めてひとりで買い物に行かされた時から、「安く買う」ことが大好きだったことに気が付きました。 我が家の教育方法はちょっと変わっていて、なんでも実地で経験させるというものだった。戦前生まれだったせいかもしれない。母は何かあると、「教科書ですら信じるな!」と言った。母の世代の子どもたちは、「正しい」と教わってきた教科書を、戦後になって墨で塗りつぶされた。戦前の新聞報道も、戦後になって正しくなかったことがわかったと言う。だからこそ、「テレビも新聞も教科書も、間違うことがある」と。「まず疑って、そして調べなさい」これが母の口癖だった。 「お小遣い=買い物のおつり」制度があり、必然的に、安いものを探す行脚が始まります。チラシのチェックを日課とし、価格変動をグラフ化、商品の平均価格や底値がわかるようになります。「今日はAスーパーで洗剤が安いよ」と母に教えると、「えらい!」と褒められるのです。褒められて、うれしくて頑張った。子供の良いところをほめることで、才能はどんどん伸びていきました。 商売の基本は、「相手を喜ばせる」ことだ。かつて、カセットテープを転売していた中学生の頃、地元の電気店の販売価格より安く売って利益を得ていたが、そこにも「友人が得をする」という視点があった。それと同じだ。いつでも相手に喜んでいてほしい。私は喜ばれるにはどうしたらいいか、といつも考えている。それは今でも変わらない。 慶応大学卒業後、石油会社に就職しますが、これはサラリーマンを経験するためだけの目的であり、1年で退職し、コンサルタントとして独立します。中小企業の経営者向けの講演を引き受け、好評を得ます。 彼ら中小企業の経営者には、実はひとつ共通していることがある。「1円でも安く!」ここが大企業の経営者と違うところだ。彼らは、お金のありがたさを、身をもって知っている。だからそこをテーマにして話すことが、彼らの「喜ぶこと」につながるのだ。例えば「お金をかけずに集客力を上げる」とか、「社員の給料を上げずにモチベーションを上げる」とか。「お金をかけずに××する」という、その後の私がさんざん話してきた内容だ。 流通ジャーナリストとして専門誌やビジネス系の雑誌に執筆するようになり、そこそこ稼ぐようになりましたが、30歳の時に転機が訪れます。それは、後に奥様となる稚子(わかこ)さんとの出会いでした。 その日に取材で訪れた、水耕栽培のキノコ工場の話。稚子の反応は新鮮で、私の話を盛り上げてくれる。自分の「面白さ」が引き出されていく感じだ。気づくと私は、矢継ぎ早に質問をしていた。どれもが「○○は好き?」という質問。私が期待していたのは、「嫌い」という反応だった。「好きなもの」というのは、人それぞれだから、それが一致するのは難しい。でも「嫌いなもの」が一緒でないと、長く共にいるのは難しい。「嫌い」が共通しているかどうかが、いちばん大切な「判断のものさし」ではないだろうか。 ある著名な自己啓発系作家の名前を挙げると、稚子さんは即座に「嫌い」と返しました。その作家にはどこかで、「奢り」を感じていて、「俺の言っていることを聞きなさい」と上から目線で威張っているように映る。その作家の本を並べている人間を信用しないと言うと、稚子さんは「私もそう思う」と言いました。金子さんはその瞬間、結婚を意識しました。3か月後に、「300万円の年収で600万円の暮らしを保証するから」とプロポーズし、翌年から一緒に暮らし始めました。 稚子と暮らし始めて、私のアイデアはどんどんブラッシュアップされていった。かつて、母から「えらい!」と褒められて、お買い得情報に目覚めたように、私は、他人を喜ばせることが好きだ。一番近くにいる大事な人が、自分の話に笑ってくれる。そのことがうれしかった。私の中では、オイシイ話をひとりにとどめておくことに罪悪感があった。「ひとりでも多くの人に言わなくちゃいけない」という使命感があった。だから「稚ちゃん」という話を聞いてくれる相手と一緒に暮らすことが、私にはたまらなく幸せだった。 35歳で友人の紹介から事務所(オフィス・トィ・ワン)に所属し、女性週刊誌の記事が話題となり、テレビ出演の依頼が訪れます。 当時も今も、経済に関して話のできるコメンテーターはたくさんいる。いったい、こうした先駆者たちと私の違いは何だろう?私の取ったスタンスは、「女性の視点」だった。女性週刊誌の愛読で鍛えられた、いわゆるフツウの主婦の目だ。国際経済やユーロ安など大上段―はるか彼方の話から経済を語るのではなく、きゅうり一本の値段から国際経済を読み解こうとした。「奥さん!今はエルメスが買いですよ!今、ヴィトン買わなきゃ!ケリーバッグ、これまで150万だったのが今、98万になってますよ」 金子さんの作戦は成功し、あっという間に売れっ子コメンテーターに躍進します。『ホンマでっか!?TV』に出演するようになるのが2009年。仕事の依頼はひっきりなしで、1日16時間労働が続きます。 我ながら、超人的なスケジュールだ。大好きな自転車に乗って風を切って走る。街行く人をどんどん追い越していく。歩いている視線からすれば、自転車の視線は早送りだ。私は人生を、自分で早送りしていたのかもしれない。速く走りすぎていたから、神様にブレーキを踏まれたのだろうか。 20010年秋から、金子さんは謎の咳に悩まされることになります。顔もむくみ、明石家さんまから「むくみマン」と呼ばれていました。忙しさの合間をぬって病院で咳止めをもらっていましたが、いよいよ尋常でない様子から胸部CTスキャンを撮ったところ「末期の肺ガン」という診断がでました。正式の病名は「肺カルチノイド」。数千万人に一人しか発病しない珍しいもので、専門的な論文も数本しかありません。悪性の腫瘍が身体をむしばむ病気ということで、ガンと同じなのですが、治療法はありません。専門医は「何もできない」としか言えず、余命についても「素直に申しあげますと、今すぐなくなったとしても、驚きません」という答えが返ってきました。 あとがきから 金子稚子肺カルチノイド ー 「今すぐ死んでも驚かない」と医師から言われたほどに、金子が深刻な病状であると宣告されたのが500日前、2011年6月末のこと。夫・金子哲雄と併走した500日間のできごとが、今はまだ私の中に消化されないまま、静かに積み重ねられています。「今、死んでもおかしくない」。つまり余命0日とすら医師から宣告されたあとも、心のどこかで、夫は死ぬはずがないと思っていました。今思うと、当時はそう思い込んでいたかったのかもしれません。金子と私の関係は、「凧」と「凧を揚げる人」のようなものでした。金子は凧です。放っておくと、どこまでも飛んで行ってしまう。私の役目は、ただ糸を持っていること。無理に揚げる必要はありません。どこまでも高く昇っていく。私はただ、金子が安心して高く高く昇っていけるよう、糸を離さないように持っているだけです。金子はよく言いました。「僕がへんなところに行っちゃいそうだったら、その時だけ、クッと糸をひっぱってくれる?」愛情はあって当たり前。その上に、お互いに対して、深く信頼し合える関係でした。「病気なのに、なぜこれほどまでにがんばれるのか」仕事をセーブして少しでも休んでほしいとお願いしながらも、仕事が金子の生きる支えになっていることもよくわかっていました。病気の前と変わらず、テレビにもラジオにも積極的に出演させていただきました。「激ヤセしている」とネットなどで話題になったようですが、「ダイエット中です」と本人がテレビで取り繕うと噂も下火になりました。それぐらい、やせてきてはいたけれど、テレビで見る限りは元気だったということなんだと思います。今、金子と私は、あの世とこの世、別々の世界に生きています。でも不思議なことに、金子が私の側にいてくれることが、私にはよくわかっているのです。私の手の中には、まだ、金子の凧の糸があります。いえ、今度は、私が凧になっているのかもしれません。金子に導かれるように、さまざまなことが動いていくのを、毎日体験しています。私は、金子にクッと糸をひっぱられているのかもしれません。 病気のことは一切公表せず、乞われるままに仕事を引き受け、死の前日までインタビューに答えていました。そして、自身の葬儀の段取りから、残される稚子さんの生活設計まできちんと立てて、金子さんは天に召されます。今死んでもおかしくない、余命0日の宣告。改めて思えば、人は皆、いつ死ぬかわからないものです。紅葉を見に山に登って噴火に遭う人もいるし、大雨でがけ崩れに見舞われ命を落とす人もいます。悲しいけど、それが現実です。金子哲雄さんは、いつも人を喜ばせたいと、それに邁進し、成功と幸せを手に入れました。早すぎる死ではありましたが、充実した一生でした。ご冥福を祈ります。
2014年10月05日
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