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京阪・淀駅の北側を通る府道13号(旧京阪国道)は、京都方向へまっすぐに延びています。納所(のうそ)交差点から2キロほど進んだところで右折すると、すぐ正面に南部クリーンセンターが見えてきます。南部クリーンセンター同上(入口)施設配置図入口付近に、施設配置図が掲示されていました。第一と第二の2つの工場がありますが、このうち第二工場は耐用年数を超え、平成18年度末に運転を休止しています。建て替えが計画されているようです。第一工場昭和61年(1986年)竣工の第一工場は、2基の焼却炉で1日600トンのゴミを処理する能力があります。余熱は発電や所内の給湯に使っています。エントツの高さは100メートルだそうです。通天閣とほぼ同じ高さがあるということですね。ゴミ持ち込み受付入口をまっすぐ進むと、市民が持ち込んだゴミの受付があります。5台ほど車列ができていました。精算所上の写真、ゲートがあって進入禁止になっていますので、おそらくここで帰りに車の重さを量り処理費用を支払うのだと思います。あけやん2515さんのブログでも、持ち込みゴミの話がありましたので、すごく参考になりました。
2011年05月14日
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京都競馬場の北側、京阪本線の北側に沿った道路脇に、「史蹟 戊辰役 東軍西軍 激戦之址」と書かれた碑がありました。戊辰役激戦之址同上同上慶応4年(1868年)正月3日、鳥羽・伏見において東軍(旧幕府軍)と西軍(新政府軍)が衝突して端を発した「鳥羽・伏見の戦い」。しだいに戦いの場が東へと移り、江戸城の無血開城、上野戦争、翌年には函館戦争へと続く一連の戦いが、戊辰役(ぼしんのえき)と呼ばれる内戦です。すでに何度かご紹介しているように、淀の地でも激しい戦闘が繰り広げられました。この写真の場所は、京都競馬場の北側、JRAの駐車場の敷地に隣接する一画です。向かって左側には、「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない」で始まる碑文(昭和45年建立)が寄り添っていました。わずかの差で勝ち負けがついたけれど、どちらの軍もおのれが正しいと信ずる道を行き、そして士道に殉じたと記しています。この碑文の主は、中村勝五郎さん(1913~1993年)。親子で著名な馬主であり、第二次大戦後の競馬復興に尽力された方です。また、戦後のBC級戦犯処刑者の支援もされていたそうで、戦いに敗れた側への思い入れが碑文にも表れているように感じました。
2011年05月10日
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浜納屋の向かいは、木田醤油株式会社の建物です。木田醤油入口には「200年の伝統 手作り」と手書きの文字。京都新聞のHPに、木田醤油の紹介記事がありました。それによると、創業は安政2年(1855年)だそうです。あれ? 創業からだとまだ200年にならないけど、それ以前からの「伝統」が200年ということですかね。いまの当主は5代目で、麹(こうじ)作りから一貫して生産している数少ない工場だということです。紹介記事によると、かつては自家醸造していた京都府の醤油のほとんどは、昭和48年に「センター化」され、丹波町にある協業組合工場から「生揚(きあげ)」を仕入れるようになったということです。「生揚」とは、お酒でいえば原酒のようなもの。その「生揚」を買ってきて自社の味にして出荷するって感じですね。センターに参加しているのが30軒ほど、一方、麹から自分で造っているのは2軒だけだとか。貴重な工場なんですね。
2011年05月09日
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京阪・淀駅の南西、美豆(みず)小学校の東側に、「浜納屋(はまなや)」と呼ばれている建物があります。浜納屋同上周囲より少し小高くなっている場所は、かつての木津川の堤防だったようです。同上建物の裏手中央には石段があり、木津川に面していました。いまは河川の付け替えで陸地になっていますが、かつてはこの石段を使って直接船に荷物を積み降ろしていたそうです。淀川が船運で賑わっていた時代を現代に伝えています。
2011年05月08日
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京阪・淀駅の南西、3月にご紹介した早咲きの「河津桜」がある疏水沿いに、3つの寺院が門を並べています。3寺院が並ぶ上の写真、手前から「東運寺」「長圓寺」「高福寺」の3寺院です。長圓寺同上長圓寺の門前には、上の写真のような大きな石碑が建っています。「戊辰之役東軍戦死者之碑」と書かれています。慶応4年(1868年)正月3日、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが勃発しました。次第に主戦場は淀に移り、淀城に入れなかった幕府軍(東軍)は大坂方面へと敗走していきます。これは多くの死者を出した東軍を埋葬したことを示す碑です。伏見や淀には、このような碑がいくつも残っています。それほど激しい戦いだったと想像されます。長圓寺の境内にも、隣の東運寺の境内にも、同じような碑が建っているそうです。東運寺同上「不許葷酒入山門」は禅宗によく見られる碑文ですね。調べてみると、東運寺は曹洞宗だということです。上の写真は3月初めに撮ったもので、咲いているのは山茶花だと思います。先日、もう一度訪ねてみましたが、すでに緑の葉が茂って、そろそろ初夏を思わせる気候になりつつあります。世の移ろいは早いものです。
2011年05月07日
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納所村の道路元標に続き、旧淀町の道路元標も健在でした。場所は京阪・淀駅から南西に800mほどのところにあります。淀新町バス停淀新町のバス停の西側にある交差点近くの道路脇に、下半分が埋もれた状態になっていました。淀町道路元標同上同上コンクリートで固めてあるので、うっかり壊されることは少ないですが、せっかく書いてある文字が読めないのは残念です。久世(くぜ)郡・淀町は、昭和10年(1935年)に綴喜(つづき)郡・美豆(みず)村を編入、昭和11年(1936年)には乙訓(おとくに)郡・淀村を編入します。そして昭和32年(1957年)、淀町は京都市伏見区に編入されました。
2011年05月05日
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京阪淀駅の南東にある大淀中学校の校庭に、「淀川渡船場道」と記された石標があります。「淀川渡船場道」の石標明治時代の河川付け替えにより、それまで陸続きだった淀と一口(いもあらい)の両地区が宇治川の両岸に分かれてしまいました。そのため、この間を渡し船が運行することになりました。 この石標は、大淀中学校が1975年に開校したときに移設されたと言われています。その後、淀大橋を経由したバス路線が開設され、昭和30年(1955年)に渡し船は廃止されました。それにしても「一口」と書いて「いもあらい」と読むんだそうです。難読地名ですね。
2011年05月04日
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京阪・淀駅(新駅)の南東、京都競馬場に隣接する場所に、「京都競馬場 乗馬センター」という施設があります。乗馬センター乗馬センターといっても、一般の人が乗馬を習うところではなく、JRA(日本中央競馬会)の施設です。地元への広報活動なのでしょう、JRAの乗馬センターでは、初心者の方向けの「乗馬教室」をときどき無料で開催しているようです。(2011.05.06 訂正)競馬開催日で入口に警備員さんがいらっしゃったので声をかけると、この先までなら入ってかまわないとのことでしたので、門の中に入らせてもらいました。宿舎中は宿舎になっていて、JRAで働いている方々が住んでおられるようです。内側のゲート少し奥に行くと、ゲートがあって、関係者以外は立ち入り禁止となっていました。厩舎門扉の奥には厩舎が見えます。あいにく馬は見えませんでしたが、この辺りが競馬場の舞台裏になるのかな?遠くからファンファーレが聞こえてきますが、表舞台とは違った静かなところでした。
2011年05月03日
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京阪・淀駅の大阪寄り、旧京阪国道(府道13号線)沿いに西に歩くこと10分。「淀木津」という交差点があります。淀木津交差点場所は桂川の左岸ですが、河川付け替え前は、この付近を木津川が流れていました。いまも地名にその名をとどめています。この付近までくると、府道の南側に京阪の淀車庫があります。淀車庫の銘板淀車庫同上淀車庫は、寝屋川車庫と並び、京阪の重要な車庫です。かつて深草に車庫があったのですが、敷地が狭く、5両編成までしか留置できなかったため、1980年(昭和55年)に淀車庫が竣工すると、深草車庫は廃止されました。淀車庫は現在、4期に分かれた工事のうち第3期が終了した状態です。工事が完成すると寝屋川車庫より広くなるそうですが、いまのところ、第4期工事の時期は未定のようです。周囲を歩いてみましたが、車庫の全容は京阪の車窓から見た方がよく分かります。後ろに写っているマンションからだと、きっとよく見えるんでしょうねえ。
2011年05月02日
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京阪・淀駅(新駅)の南側に、伏見区役所の淀出張所があります。淀出張所伏見区には、丹波橋近くにある伏見区役所庁舎のほか、深草と醍醐の2ヶ所に支所があります。また、神川と淀に出張所があります。広い伏見区全体で30万人近くの人口を抱えておりますので、1ヶ所だけでは不便すぎるということでしょうね。この建物の1階部分が淀出張所で、2階は老人福祉センター、3階が児童館になっているそうです。銘標モニュメント建物の前に、時計を備えたモニュメントがありました(上の写真)。淀城を模したものでしょう、なかなかしゃれた感じです。ただ、表面がミラー状なので、写真撮影には不向きです。太陽の位置を考えながら、露出も工夫して何度も取りなおしてみました。デジカメだからできる技ですね。
2011年05月01日
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