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京阪・淀駅の近く、與杼神社の入口近くに、「淀小橋旧趾」と書かれた石碑があります。こちらも「唐人雁木」と同じく、本来とは異なる場所に置かれています。「淀小橋旧趾」の石碑淀城の京都側、かつての宇治川に架かっていたのが「淀小橋」です。ちなみに大坂側には「淀大橋」が架かっていました。淀小橋のあった場所は、納所交差点から東に50メートルほどのところにあります。こちらにも新しい石碑が建てられていました。「淀小橋」のあった場所道路上に立つ石碑が橋の場所を示すのみで、今はただ、当時の様子を想像するしかできません。
2011年04月30日
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京阪・淀駅の近く、與杼神社の入口に、「唐人雁木旧趾」と書かれた石碑とその説明板があります。「唐人雁木旧趾」の石碑「唐人」とは、朝鮮通信使のことを指すようです。朝鮮通信使とは、将軍の代替わりや慶事などのときに、朝鮮半島の王朝「李氏朝鮮(1392年~1910年)」から祝賀のために派遣された使節です。豊臣秀吉の朝鮮出兵後は途絶えていましたが、江戸時代に復活しています。また、「雁木(がんぎ)」とは船着場の階段の意味です。対馬、瀬戸内海を経てやってきた朝鮮通信使は、大坂で川船に乗りかえて淀川に入り、淀で上陸しました。ここから陸路で京都へ、さらに東海道を江戸へ向かったということです。「朝鮮通信使」の総勢は500人ほどで、船団関係者を除く400人ほどが江戸へと向かったようです。ただし説明文によると、実際の場所はここから200メートル北だったようです。たしかにそうでしょうね、ここは淀城内のほぼ真ん中ですからね。どうやら河川付け替えなどで行き場の無くなった石碑が、この周辺に集まってきているようです。実際の場所は、納所交差点から始まる「千本通」に入ってすぐのところです。ここに「唐人雁木旧趾」と書かれた新しそうな石碑が建っていました。「唐人雁木旧趾」ここは、かつての宇治川の右岸だった場所で、淀城の対岸にあたります。淀は鳥羽街道の始まりであり、京都へ向かう玄関口だったわけですね。
2011年04月29日
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京阪・淀駅の北側にある納所交差点から北へ、桂川の左岸に沿って続く道があります。地図で見ると、「千本通(せんぼんどおり)」と書かれています。千本通千本通といえば、京都市内を南北に走る通りの名前のはず。そう思って、地図上を北へ北へとたどっていくと、途中、蒸気機関車館のある梅小路で途切れているものの、たしかにずっとつながっていて、二条城の西側を通っています。二条通以南は平安京の朱雀大路なんだそうですね。九条通以南は、京と大坂を結んだかつての鳥羽街道なんだそうです(京街道とか大坂街道とも呼ばれていた)。余談ですが、京阪の鳥羽街道駅は、鳥羽街道からかなり離れています。上の写真、道路の右脇に石標が立っているのに気付かれましたか?道路元標「納所村道路元標」道路元標(どうろげんぴょう)というのは、道路の起終点を示すものです。〇〇市まで3km、といったとき、その起点となる場所のことです。昔の法律では、各市町村ごとに1つ、元標を設けることになっていたそうで、市役所や町村役場などに設置されることが多かったそうです。この辺りに村役場があったのでしょうかねえ。
2011年04月27日
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京阪・淀駅の北側に、「納所(のうそ)」という名の交差点があります。納所交差点上の写真、左右に走っているのが府道13号京都守口線(旧国道1号線)です。正面奥は府道204号で、桂川に架かる宮前橋を渡るため道路が登り坂になっています。宮前橋の名は、與杼神社に由来するものだと思われます。河川付け替え以前は桂川の対岸にあったそうです。現在、神輿渡御はこの橋を渡って行きます。「旧京阪国道」の標識京都と大阪を結ぶ国道を「京阪国道」と呼ぶことがあります。かつてはここを通っていた国道1号線はいまでは府道に格下げされましたが、地元ではいまでも「旧国道」とか、略して「旧国(きゅうこく)」などと呼んでいます。それにしても、かつては京阪国道だったから旧「京阪国道」と呼ぶんだと思っていたのですが、上の写真を見ると、「旧京阪国道」というのが正式(?)な名称になっています。ちょっとした驚きです。旧京阪国道この周辺一帯が納所という地名で呼ばれています。納所(なっしょ)とは一般的に「年貢などを納める所」とあります。淀城の北にあるこの地は、年貢を納める集積地だったのかもしれません。また、淀川を上って都へ送られる物資の積み替えなどのために一時保管する所という説明をしている資料もありました。いずれにしても、物が集まってくる場所であったわけですし、きっと人や物が行き交って栄えていたのだろうと想像されます。
2011年04月24日
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京阪・淀駅の上り線ホームの改札を出てすぐのところに、淀本町商店街があります。淀本町商店街淀は、桂川、宇治川、木津川の3つの川が合流する場所で、交通の要衝でもあります。京都の「外港」として、また淀城の城下町として栄えてきました。大正14年(1925年)に京都競馬場が開設されて以降、京阪淀駅を中心に商業地としての発展が見られます。淀本町商店街振興組合は 昭和52年(1977年)に法人化され、商店街としての整備を行ってきました。「カラー舗装、標示灯、街路灯、放送設備などのハード整備を着々と完成させる」と記されています。同上現在行われている京阪線の高架化工事により、今年2011年5月28日より駅舎が完全に移転します。駅前に位置していた商店街が、駅から少し離れてしまうことになり、その影響が心配されています。商店街の案内板京阪の工事フェンスには、淀本町商店街の案内図が掲げられていました。電車が描かれている左手がこれまでの駅舎、右側が新駅舎です。淀の町がどのように変わっていくのか、楽しみでもあり、また不安でもあります。
2011年04月23日
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與杼(よど)神社の南側に隣接して、稲葉神社があります。稲葉神社の鳥居稲葉神社本殿稲葉神社御祭神は稲葉政成(正成)公です。稲葉正成(まさなり)は戦国から江戸時代にかけての武将で、淀藩稲葉家の祖として祀られています。林家に生まれた正成は、美濃の稲葉重通の女婿となって以降、稲葉姓を名乗るようになります。ところが妻が死去し、稲葉重通が養女として迎えた女性と再婚します。この女性が、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘、「福」です。後に徳川家光の乳母となる春日局、その人です。稲葉正成は豊臣秀吉に仕え、命によって小早川秀秋の家老となります。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で小早川利秋を東軍に寝返らせた功が徳川家康に認められます。これによりとんとん拍子の出世、というほど世の中は甘くないようで、関ヶ原の合戦後、小早川利秋と対立し蟄居を命じられます。慶長7年(1602年)に利秋が死去、小早川家は断絶し、正成は浪人の身となってしまいます。慶長9年(1604年)、正成の妻・福が、家康の孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母になります。このとき、正成は福と離縁しています。その理由はいろいろな説があるようです。詳細は省きますが、福(春日局)の影響力もあって、正成は徳川家の家臣として取り立てられます。家康の孫・松平忠昌に仕え、その後、下野国(栃木県)真岡の城主となります。稲葉家が淀藩主になったのは、享保8年(1723年)、正成から数えて五代目、稲葉正知のときです。その後明治に至り廃藩になるまで12代にわたり続きました。淀の殿様といえば稲葉家なんですね。
2011年04月22日
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京阪・淀駅(京都方面ホーム)のすぐ北側、淀城址の中に、與杼(よど)神社があります。改札を出たらすぐ目の前に鳥居があります。與杼神社入口に立っていた説明板によると、応和年間(961年~964年)に肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したのに始まると伝えられているそうです。しかし、延喜式の中にも「與杼神社」の名があり、それ以前に鎮座していたと考えられるとのことです。もともとこの神社は、桂川の対岸の「淀水垂町」にあったのですが、桂川河川敷の拡幅工事のため、明治35年に現在の場所(淀城址)に移されました。 昭和46年、本殿と拝殿が国の重要文化財に指定されましたが、昭和50年に本殿は火事で焼失してしまいました。現在の本殿は昭和55年(1980年)に再建されたものです。同上(正面が拝殿)同上(本殿)同上(神輿庫)神輿庫は平成19年に新しく建てられました。中には3基の神輿が入っているそうです。昭和初期ごろまでは、かつて神社があった対岸に向けて、3基の神輿が担がれ舟に乗って渡っていたといいます。戦争で中断のあと、戦後には宮前橋を担いで渡る形で復活しました。昭和33年に事故があり再度中断されましたが、平成14年、実に45年ぶりに復活しました。氏子の方々の努力によるものだそうです。訪れたこの日も、何人もの方が境内を清掃されていました。大切にされている様子がよくわかりました。
2011年04月19日
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京阪・淀駅の北側を、府道13号(旧国道1号)が通っています。この府道の歩道に、こんな石碑が設置されていました。「淀川瀬水車旧跡」 場所は、淀城跡公園の北西角付近です。同上この地には昔から水車が設けられていました。12世紀末の史料にも「淀の川瀬の水車」という記述があるそうです。江戸時代には、淀城の周囲には2つの水車があり、川の水を吸い上げて淀城内に引いていたそうです。
2011年04月16日
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京阪・淀駅の北、妙教寺の境内には、学徒兵の句碑がありました。句碑「音もなく我より去りしものなれど 書きて偲びぬ 明日といふ字を」 木村久夫この碑の横には、木村久夫さんの生い立ちが記されていました。それによると、京都大学在学中に学徒兵として徴収され、逃げ去った上官の責任を負わされて絞首刑になったということです。この句も含め、木村久夫さんの遺した文は、「きけ わだつみのこえ」に収録されています。その中では「上官」のことには触れられていませんでしたが、このようは背景を知って読むとなおいっそう、無念さが行間から伝わってくるような気がしました。
2011年04月15日
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京阪・淀駅の北、納所小学校の北隣に、妙教寺というお寺があります。かつてこの辺りに、淀殿が住んだ淀城(淀古城)があったと思われます。妙教寺このお寺の境内に、碑が建っています。史跡を示す碑この碑には2つの時代のことが書かれています。ひとつは「淀古城址」です。「此所は戦国時代の始 細川管領家が築城し薬師寺与一 岩成左通 淀君らの居城となった淀古城の址である」と記されています。それ以前にも淀城は存在したようですが、戦国時代の初めごろに細川氏が支配するに及んで、城として確立したということなのかな?「薬師寺与一」は「薬師寺元一(もとかず)」のことで、細川氏の重臣だった戦国時代の武将です。永正元年(1504年)、主君・細川政元に謀反をしかけて淀城に籠りましたが、敗れて捕えられ自害したということです。「岩成左通」という名前がありますが、これは三好三人衆の一人、「岩成友通(ともみち)」のことのようです。天正元年(1573年)、織田信長と対立していた室町幕府15代将軍・足利義昭が挙兵し、これに呼応した岩成友通は、淀城に籠ります。しかし木下秀吉(豊臣秀吉)の軍に攻められ、最後には討たれます。もうひとつは江戸時代末期で、「戊辰役砲弾貫通跡」についてです。「慶應四年正月四日戊辰役の際 東軍砲弾が飛来し本堂を貫通したその弾痕がある」と記されています。この周囲は、戊辰役(戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い)の主戦場の一つとなったところです。境内には東軍戦死者を弔う碑がありました。「戊辰之役東軍戦死者之碑」妙教寺境内境内はただただ、静寂に包まれています。しかし、いろんな歴史がこの地に積み重なっていることを思うと、不思議な感じがしました。
2011年04月10日
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京阪・淀駅から見えているのは、江戸時代に築かれた淀城の跡です(以前の記事を参考)。それより以前、安土桃山時代には、ここから500メートルほど北側に「淀城」がありました。江戸時代の淀城と区別するために「淀古城」と呼ばれることもあります。明治時代の資料には堀跡などの記録があるようですが、現在では農地や宅地ができて、詳細なことはよくわかっていません。地名にその名を残すのみです。地名に残る「城」の跡豊臣秀吉の側室となった茶々は、天正17年(1589年)、棄丸(鶴松)を産みます。このとき、懐妊を喜んだ秀吉が産所として贈ったのが淀城(淀古城)です。それ以来、茶々は「淀の方」などと呼ばれるようになりました。ちなみに、「淀君」「淀殿」などと呼ばれるようになったのは後世になってからなんだそうです。天正19年(1591年)に鶴松が死去したあと、甥の秀次が秀吉の養子となります。しかし文禄2年(1593年)、淀君が拾丸(秀頼)を産むと、後継者問題が絡んできます。文禄4年(1595年)、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ、切腹を命じます(秀次事件)。このとき、淀城の城主だった木村重茲(しげこれ)は秀次を弁護したため、嫌疑がかけられて自害に追い込まれます。そして淀城は廃城となりました。
2011年04月08日
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引き続き、京阪の浜大津にて、石山坂本線を走る車両を見ていました。いろんなラッピング電車がやってきて、けっこう楽しませてもらいました。Mother Lake号上の写真は、707+708の2両編成です。Mother Lakeとは、母なる湖、琵琶湖のことです。2000年4月に大津市で開催された主要8カ国環境大臣会合(G8環境サミット)を記念してのラッピングだそうです。かれこれ11年も走っていることになるんでしょうね。「湖の駅」上の写真は、600形617+618です。「湖の駅 浜大津」と書かれた広告を貼り付けています。「黒澤明 生誕100年」同上上の写真は、600形611-612の編成です。黒澤明生誕100年を記念し、比叡山鉄道と共同で「戦国名将大甲胄展&黒澤明展」(平成23年4月23日~5月8日)が開催されます。それにちなんで、ラッピング電車が運行されています。車内には黒澤明監督の写真などが展示されているそうです。このカラーリングは、比叡山鉄道のケーブルカーの色です。トーマス号同上上の写真は、700形の709-710編成で、「きかんしゃトーマスとなかまたち」のキャラクターをデザインしたラッピング電車です。今年で5回目、来年の3月末まで運行される予定です。
2011年04月04日
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せっかく浜大津までやってきたので、少し駅前をぶらぶらと。浜大津港暖かい穏やかな一日でした。琵琶湖もずいぶん春めいて見えます。駅前交差点国道161号は、琵琶湖西岸を通って大津市と福井県敦賀市を結んでいます。京阪800系国道161号との供用区間を走る800系です。800系は1両当たり16.5メートル。全長約66メートルの編成が、道路をゆっくりと走っています。本来、道路との併用区間は列車長は30メートル以下と定められているのですが、特例として認可されているとか。列車の進行に合わせて信号が制御されているのでしょうか、一度も信号待ちで停止することなく、しずしずと進んでいきます。そのゆっくりと進む様は、まるで大名行列のような、あるいはおいらん道中といえばいいのか、威厳すら感じられました。同上駅前交差点を右に曲がり、浜大津駅へと進んでいきます。浜大津駅浜大津駅では、京津(けいしん)線と石山坂本(いしやまさかもと)線が同じホームを使っています。浜大津~三井寺間同上浜大津駅を出て坂本方面へ向かう700形です。次の三井寺駅までは道路との併用区間になっています。
2011年04月03日
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京阪の石山坂本線の電車を見るために、浜大津まで行ってきました。「応援メッセージ号」例年ならこの時期に、「おもいでお花見号」が走るのですが、今年は東日本大震災の被災者へのメッセージを載せて「応援メッセージ号」が走り出しました。同上同上正面には墨字で力強く「負けない」と書かれています。同上同上
2011年04月02日
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