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宇治橋の東詰から、宇治川右岸を上流へと歩いて行くと、朝霧橋のたもと辺りに宇治神社があります。ちょうど宇治川をはさんで平等院の対岸になります。宇治神社の鳥居「兎楽の樹」鳥居の右脇に、「兎楽の樹」と呼ばれるクスノキが立っています。その根元を見てください。兎が楽しそうに群れていませんか?同上説明書きによると、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ、応神天皇の皇子・聖徳太子の異母弟)が河内の国から来るときに先導し、振り返りながらお連れしたのが兎だったということです。三室戸の「狛兎」のときにも少しご紹介しました。(→ こちら)そのお連れした場所がここ、宇治神社だというのです。宇治神社の絵馬には「見返り兎」が描かれているそうです。拝殿本殿本殿は、国の重要文化財に指定されています。祭神は莵道稚郎子(稚郎子命)です。奥にある「宇治上神社」とともに、この辺りは莵道稚郎子の邸宅跡と考えられています。皇子の死後、霊を祀ったのが宇治神社および宇治上神社の起こりと言われています。ちなみに莵道稚郎子は、宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルとも言われているそうです。
2011年07月31日
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今年の宇治の鵜飼は、6月18日~9月25日だそうです。鵜飼観覧船乗り場付近鵜匠の乗る船観覧船 鵜飼は夜に行われるので、昼間は船が係留されているのを見るだけです。鵜飼が行われているのは日本に12箇所ほどあるそうです。鵜を操る鵜匠さんは60人ほどで、そのうち女性が4人だそうです。そしてここ、宇治川には2人の女性の鵜匠さんがいらっしゃるそうです。全国的には、長良川の鵜飼が有名ですね。織田信長も見物したといいます。さらに遡れば、日本書紀にも鵜飼の記録があるそうです。
2011年07月29日
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京阪宇治駅の東、宇治橋東詰近くに「橋寺放生院(はしでら・ほうしょういん、または、ほうじょういん)」という名の寺院があります。橋寺放生院真言律宗のお寺で、山号は「雨宝山」、寺号は「放生院常光寺」ですが、「橋寺放生院」あるいはたんに「橋寺」と呼ばれることが多いようです。「橋寺」は、このお寺が宇治橋を守ってきたことから付けられた名前だそうです。寺の由来では、推古天皇の12年(604年)、聖徳太子の発願により秦河勝(はたのかわかつ)が建立したとされているそうです。秦河勝といえば、治水や織物などの技術を持った渡来人で、聖徳太子の側近としてよく知られております。宇治周辺の治水にも関わっていたのかもしれません。(秦河勝については→こちらをどうぞ)江戸時代、このお寺の境内から「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」と呼ばれる石碑が見つかりました。見つかったのが一部だけなので「断碑」と呼ばれます。欠けた部分を他の史料で補って読めるようにし保存されているとのことです。石碑は奈良時代のものと推定され、国の重要文化財に指定されています。この石碑には、宇治橋が宇治川に最初に架けられたのが大化2年(646年)と記されているそうです。秦河勝が建立したとする時期より40年も後のことになります。このずれは何なのでしょう? すなおに考えれば、橋寺が最初に建立されたときには、橋を守るのが目的ではなかった、ということになりそうです。だけど、秦河勝が宇治橋を架けようとしていた可能性はないのでしょうか? ひょっとして、架けたけどすぐに流されたとか、、、。おっと、勝手に想像が広がっていきそうになります。実際、宇治橋は過去に何度も流失し、そのたびに掛け直されました。弘安9年(1286年)に宇治橋が架け替えられたときに、奈良・西大寺の叡尊(えいそん)上人によって橋寺が建立されます。橋寺が実際に創建されたのはこの時期であるとも言われています。叡尊はこのとき、塔の島に十三重石塔を建立するとともに、大放生会(ほうじょうえ)を営みました。このことから、橋寺が「放生院」と呼ばれるようになったということです。橋寺のすぐ近く、宇治橋東詰にあるお茶屋「通圓(つうゑん)」も、橋寺放生院も、それぞれの立場で宇治橋を守ってきたということです。それほどに、宇治橋は交通の要所として必要な橋だったということでしょう。 (通圓については→こちらを参考に)
2011年07月27日
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宇治川のもう一つの島、塔の島には、その名の通り、大きな石塔があります。喜撰橋と十三重石塔十三重石塔この「十三重石塔」は、高さ約15メートル、現存する日本最古で最大の石造りの仏塔だそうです。弘安9年(1286年)といいますから、鎌倉時代半ばごろのものです。この塔は、宇治橋再建の際に建てられたもので、川で亡くなった人馬などの霊を慰めるためのものだと言われています。その後、洪水のために何度も倒壊しては修復されてきましたが、宝暦6年(1756年)の大洪水により流失して以降、約150年間、川の中に沈んだままになっていました。明治40年(1907年)になって、発掘作業が始まり、翌明治41年(1908年)、復元されました。なお、塔の島は「浮島」とも呼ばれるそうです。「浮島」とは、この中州が洪水でも水中に埋もれないことに因んでいるということです。また、「都名所図絵」(江戸時代のガイドブックのようなもの)には「浮舟の島」と紹介されているそうです。こちらは、宇治十帖の姫「浮舟」にちなんでの名前なのかもしれませんね。
2011年07月26日
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宇治川の橘島に、「宇治川先陣之碑」と刻まれた大きな石碑があります。「宇治川先陣之碑」これは、平安時代の末期、寿永(じゅえい)3年(1184年)の「宇治川の戦い」にちなんだ碑です。平家物語では「宇治川先陣」として語られています。前の年の寿永2年(1183年)7月、源義仲(木曽義仲)らに攻められた平家は、幼い安徳天皇を連れ、三種の神器を持って西国に逃れていきます。義仲軍は上洛を果たしますが、大軍を維持するための食糧が不足し、略奪や狼藉が起こり、都の治安回復は思うにまかせません。また、皇位継承にまで口を差し挟んだりしたため、後白河法皇は義仲を疎んじ、源頼朝を頼るようになります。寿永2年11月、焦った義仲は、後白河法皇の居所である「法住寺殿」を襲い、後白河法皇や後鳥羽天皇を幽閉してしまいます。寿永3年(1184年)1月、源頼朝が派遣した源義経の軍は、宇治を攻めます。このとき、先陣争いをしたのが、義経軍の二人の武将、佐々木高綱(ささきたかつな)と梶原景季(かじわらかげすえ)です。平家物語でも水量の多さに言及していますし、今の暦でいう2月から3月にかけてですから、すごく冷たい川の中に入っていったのでしょうね。義経軍は宇治川を突破、そのまま京に突入し、後白河法皇の身を確保することに成功します。義仲は瀬田方面へ逃走、瀬田を攻めていた源範頼(みなもとののりより)の軍によって討ち取られます。
2011年07月24日
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宇治にはまだまだ、見所があります。もう少しうろうろとしてみたいと思います。宇治川の中に、橘島(たちばなじま)と塔の島(とうのしま)という2つの島があります。両方を合わせて中の島ということもあるようです。宇治川と中の島上の写真は宇治橋の上から撮ったもので、中央に見えているのが中の島です。手前が橘島で、奥は塔の島です。とはいっても、この写真では1つの島に見えますが。右手の橋が橘橋、左側は朝霧橋です。橘橋の奥にもう1本、喜撰橋(きせんばし)が架かっています。「橘」も「朝霧」も、源氏物語に由来する名前ですね。「喜撰」はというと、 わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなりと詠んだ喜撰法師にちなんでいます。喜撰法師は六歌仙のひとりですし、小倉百人一首でも有名な歌ですね。橘島と朝霧橋朝霧橋喜撰橋喜撰橋の写真は、宇治川左岸から撮ったもので、写真右側が塔の島です。間の川の流れは、本流の荒々しい流れとは違い、ずいぶん穏やかです。
2011年07月22日
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「夢浮橋(ゆめのうきはし)」は、源氏物語五十四帖の最後にあたります。もちろん、宇治十帖の最後でもあります。薫が28歳の夏のお話です。薫君は高僧に会って話を聞き、出家したというその女性が浮舟であることを確信します。そして浮舟の異父弟を遣わしますが、浮舟は会おうとすらしませんでした。その報告を聞いた薫君は、だれかが浮舟を隠しているのではないかと思うのでした。さて、物語はここで終わっています。このあと、どのような展開になるのか期待していた人にとっては、なんともあっけない終わり方ではあります。「夢浮橋之古蹟」の碑夢浮橋の古蹟は、宇治橋の西詰にあります。紫式部の像夢浮橋の古蹟の後ろには、紫式部の像があります。実は彼女はまだ、源氏物語の「五十五帖」を推敲中なのかもしれません。橋姫の橋で始まり、夢浮橋の橋で終わる宇治十帖。逢瀬の川に架かる橋でしょうか、それとも違う世界に行ってしまうための橋なのでしょうか。流れに翻弄される舟、はかない蜻蛉、そして夢。これまでほとんど興味のなかった源氏物語ですが、今回、宇治を訪れてみて、ずいぶん身近に感じることができました。平安のお姫様が十二単に身を包み、なんてことを、宇治川のほとりにたたずんで想像してみるのも悪くはないですね。
2011年07月20日
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源氏物語の第五十三帖「手習(てならい)」は、宇治十帖の9番目、薫が27歳から28歳にかけての話です。「手習之古蹟」の碑同上「手習の杜」の石碑自殺を図った浮舟は、通りかかった高僧の一行に発見され、洛北の庵に移され、手厚く看病されます。浮舟は意識は回復するものの、かたくなに心を閉ざし、身の上を明かしませんでした。出家を願いつつ、手習いをして日々を過ごしていました。ある日、高僧に頼み込んで尼になることができた浮舟は、ようやく心の安らぎを得られるようになります。しかしやがて、浮舟が生きているという知らせが薫君に伝わることになります。手習いをしていたのは洛北の地です。宇治ではないのですけどねえ。。。
2011年07月18日
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源氏物語の第五十二帖「蜻蛉」は、宇治十帖の8番目、薫が27歳のときの話です。浮舟の姿が消え、宇治では大騒ぎになります。そして見つからないまま、葬儀が行われます。匂宮は病と称して籠ってしまい、薫君は後悔し悲しみます。時は、夏からさらに秋へと移ろいでいきます。薫君は、都の華やかな暮らしの中にいながら、ときに大君(おおいきみ)や浮舟を思い浮かべては、追想にふけるのでした。そんな秋の夕暮れ、蜻蛉がはかなげに飛び交う様を見て薫君が詠んだ歌、 「ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えしかげろふ」から「蜻蛉」とよばれるようになりました。「蜻蛉」の古跡は、京都翔英高等学校の南側に隣接する一画にあります。「蜻蛉之古蹟」の碑この古蹟のすぐ右隣には、「線刻阿弥陀三尊仏」と呼ばれている石があります。「線刻阿弥陀三尊仏」同上高さ2メートルほどの自然石に、線で描かれた仏像が3面に刻まれています。平安時代の作品と言われており、宇治市指定文化財になっています。この石は「かげろう石」と呼ばれているそうですが、宇治十帖との関係はないみたいです。どちらかというと、古蹟にあるのでかげろう石と言われるようになったのではないかと推測できます。ところで、この一帯は「蜻蛉野」と呼ばれていたという情報がありました。いつごろ呼ばれていたのかが分からないので、地名が古蹟の場所の決め手になったかどうかは不明です。しかしおそらく、夏から秋にかけて、この辺りをトンボやカゲロウが飛び回っていたのでしょうね。蜻蛉の古蹟に相応しい場所だったのだと想像できます。
2011年07月17日
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さて、宇治十帖の話に戻りたいと思います。宇治十帖の7番目、源氏物語の五十一帖「浮舟」の古跡は、三室戸寺の境内、鐘楼の脇にありました。「浮舟之古蹟」の碑「浮舟」は、薫が27歳の春のときの話です。浮舟のことを忘れられない匂宮(においのみや)はやがて、薫君によって浮舟が宇治にかくまわれていることを知ります。ある夜、薫君を装って浮舟の居所に忍び込んだ匂宮。それに気付いたときは時遅し。しだいに匂宮に惹かれていく浮舟。浮舟は、穏やかな薫君と情熱的な匂宮の間で板挟みになって苦しみます。そしてついに、ことが露見するに至り、死を決意します。ところで「浮舟」の由来ですが、浮舟が匂宮に連れだされ、小舟に乗って宇治川の対岸に渡るときに詠んだ歌、 「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」にちなんでいます。悲劇のヒロインであり、宇治十帖で重要な役割を担う浮舟ですが、しかし、源氏物語の中では名前を与えられていないんだそうです。訳本では浮舟として登場しますが、その名は後世になって定着した名前なんだそうです。このように扱われることは、浮舟の身分が低いからなのでしょうかねえ。
2011年07月16日
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三室戸寺の境内には、山を背景にして建つ本堂の周囲に、いくつか建造物があります。三重塔美しい姿の三重塔は、江戸時代に建てられたものだそうで、京都府の文化財に指定されているそうです。Wikipediaの記述によると、もとは兵庫県佐用郡にあったものを、明治43年(1910年)に移設したものだそうです。阿弥陀堂阿弥陀堂も江戸時代の建物で、京都府の文化財に指定されています。鐘楼やはりこちらも江戸時代のもので、京都府文化財です。本堂に向かって左奥に、十八神社(じゅうはちじんじゃ)本殿があります。こちらは室町時代の建物で、重要文化財です。由来は不明です。仏像に関しては、阿弥陀三尊(勢至菩薩、阿弥陀如来、観世音菩薩)や釈迦如来が平安時代の作品で、重要文化財に指定されています。その一方で、本尊の千手観音立像は、とくに指定は受けていないそうです。秘仏中の秘仏で、めったにお目にかかることがありません。写真すら公開されておらず、重要文化財や国宝級の価値があったとしても鑑定できないのでしょうかねえ。
2011年07月13日
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三室戸寺の本堂の前、狛兎と対を成す位置に、牛の石像が置かれています。宝勝牛と呼ばれており、狛犬の代わりを務めているようです。宝勝牛大きく開いた口中には石の玉があり、これを撫でると勝運がつくといわれているそうです。お百姓が飼っていた弱々しい牛が、観音様のご利益で立派な牛になり、闘牛で勝って得た報奨金をもとに、牛の仲買人として成功したという話があるそうです。この宝勝牛がくわえている玉に触れると、勝運がつくそうです。手形牛像のすぐ近くには、若乃花(左)と貴乃花の手形が添えられています。平成10年の春場所、直前に絵馬を奉納した若乃花関は見事に優勝したそうです。
2011年07月11日
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三室戸寺の住所は、宇治市莵道滋賀谷です。京阪の三室戸駅の住所は、宇治市莵道田中です。この「莵道」という地名は、三室戸寺の周囲に広がっているようです。「莵道」と書いて「とどう」と読みますが、これを「うじ」と読むこともあるようです。つまり「莵道」=「兎路(うじ)」なのでしょう。文字通り、兎が通る道から「うじ」という地名がついた、という説もあるそうです。応神天皇と宇治の豪族・和邇氏の娘との間に生まれた、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)という皇子がいました。仁徳天皇の異母弟にあたります。この皇子が宇治に来た際、ウサギが道案内したとの伝承があります。宇治とウサギには深いつながりがあるようです。狛兎三室戸寺の本堂の前には、狛犬ならぬ狛兎がいます。しかも左右一対ではなく、本堂に向かって左側だけです。このウサギが抱いている玉の中には、さらに卵の形をした石があり、それが立てば願いが通じると云われています。参拝者が手を突っ込んでましたが、うまく立てることはできたのでしょうかねえ。
2011年07月09日
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三室戸寺の境内を見渡すと、いろいろと不思議な物が置かれているのに気付きます。その中からいくつかご紹介しましょう。宇賀神の像参道から階段を上がったところ、右側に「宇賀神(うがじん)」の像があります。頭は老翁、体は蛇で、蓮に乗っています。ごく最近、置かれたもののようです。宇賀神は財運・金運の蛇神で、撫でると財運や良運がつくといわれているそうです。尾には金運、翁のひげには健康長寿の御利益があるとか。少し前、三室戸寺に伝わる民話(信心深い娘と蛇の話)をご紹介しました。寺には宇賀神の木像があるそうで、この娘が蛇を供養するために奉納したと伝えられています。
2011年07月08日
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いま、三室戸寺で見頃なのは、ハスの花です。本堂前にある「ハス園」には、250鉢のハスがあります。見ていると、いろんな種類があるようです。お堂前のハス園ハスの花同上同上6月下旬か8月上旬にかけて、ハスの花が楽しめるそうです。ただし、ハスの花は、朝に開いて午後には閉じてしまうそうです。上の写真は、お昼近くに撮ったものですが、もうそろそろ閉じかけていたのかもしれません。
2011年07月06日
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三室戸寺といえば、紫陽花。別名、「あじさい寺」とも言われています。庭園の入口付近今年の紫陽花庭園は、7月10日(日)までです。今度の土日が最後ですね。紫陽花庭園50種、1万株の紫陽花が咲いているそうです。同上同上境内の紫陽花紫陽花庭園以外にも、境内のあちらこちらに紫陽花が咲いていました。同上白い紫陽花もあるんですね。写真に撮ると、色がとんでしまいますが、清楚で綺麗でしたよ。
2011年07月05日
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京阪の三室戸駅から東へ1キロほど歩くと、三室戸寺の入口があります。三室戸寺への参道三室戸寺入口付近「左みむろど道」と記されています。三室戸寺入口三室戸寺は、西国三十三ヶ所の10番札所です。山号は「明星山」、本山修験宗の別格本山で、宝亀元年(770年)、光仁天皇の勅願により創建されたと伝わっています。御本尊は千手観世音菩薩ですが、めったに開帳されることがない秘仏で、その写真すら公表されていないそうです。「蛇体橋」入口の前に架かる小さな橋の名は「蛇体橋(じゃたいはし)」です。信心深い村の娘と蛇との話が民話として伝わっており、それにちなんで名付けられたようです。山門階段本堂同上三室戸寺のパンフレットによると、現在の本堂は、文化2年(1805年)に建立されたものだそうです。<<追記>>蛇にまつわる民話はこちらから。→ (蛇体橋にまつわる民話)
2011年07月04日
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宇治十帖の古跡巡り、次は「浮舟」なのですが、浮舟の古跡は三室戸寺の境内にあります。三室戸寺の最寄駅は京阪・三室戸駅なので、ここは順番に、まずは駅のご紹介から始めましょう。京阪の宇治線(中書島~宇治)が開通したのは大正2年(1913年)ですが、三室戸(みむろど)駅は、少し遅れて大正6年(1917年)に営業を始めました。翌年に休業、数年後に再開したようなのですが、昭和18年(1943年)、戦時下にいったん廃止されます。しかし戦後まもない昭和22年(1947年)に再開されました。駅名標駅名は「みむろど」ですが、駅名の由来となっている「三室戸寺」は「みむろとじ」、すなわち「戸」を濁らずに読みます。終着の宇治駅との距離は、かつては600メートルでしたが、平成7年(1995年)に宇治駅舎の新築移転に伴い駅間はさらに縮まり、わずか400メートルとなりました。黄檗駅方面島式ホームホームは島式1面2線で、5両まで対応しています。改札(ホーム側)改札(ラチ外)上の写真、手前右側には七夕の飾りつけがありました。駅舎同上改札を出るとスロープがあって、左右に歩行者専用の踏切があります。
2011年07月03日
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京阪・宇治駅のすぐ北側、「椎本(しいのもと)」の古蹟の手前に、「東屋観音」の像があります。ここが、源氏物語・宇治十帖の第五十帖、「東屋(あずまや)」の古蹟です。東屋観音添えられた説明によると、宇治市指定有形文化財に指定されているこの石仏は、鎌倉時代に造られたものだということです。もともと20メートルほど離れた場所にあったのですが、宇治橋の架け替えとともに府道が拡張され、この場所に移されたということです。「東屋之古蹟」の碑源氏物語の「東屋」は、薫が26歳のときの話です。亡き大君(おおいきみ)に似た浮舟(うきふね)に惹かれながらも、浮舟の身分が低いことにためらいを感じていた薫。その一方、中君(なかのきみ)のいる二条院で浮舟と出会った匂宮(においのみや)は、浮舟に強引に言い寄ります。匂宮から逃れ、三条の隠れ家にいた浮舟はしかし、薫によって宇治に連れて行かれます。「東屋」は、浮舟が隠れていた場所を訪れた薫が詠んだ、 さしとむる むぐらやしげき 東屋の あまりほどふる 雨そそぎかなに由来するものです。浮舟がいた隠れ家(東屋)は京都の三条ですから、なぜここが古蹟? という疑問が残りますが、もともとフィクションなのですから、突き詰めてもしかたないですね。
2011年07月02日
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宇治橋の西詰から宇治川に沿って、上流に1キロほど行ったところに、「宿木之古蹟」があります。府道3号線が宇治の市街地を抜け、天ヶ瀬ダムに向かって山の中に入って行こうとする地点です。「宿木之古蹟」背後に宇治川が流れています。同上同上「宿木」は源氏物語の第四十九帖、薫が25歳から26歳のころの話です。帖の名は、薫が詠んだ「やどりきと 思ひ出でずは 木のもとの 旅寝もいかに さびしからまし」に由来するようです。匂宮(におうのみや)によって二条院に迎え入れられた中君(なかのきみ)は、懐妊します。ときどき薫が訪れて中君を慰めますが、匂宮は薫に疑いを持つようになります。薫に縁談があり、大君が忘れられないままに、承諾してしまいます。あるとき、中君から異母妹の浮舟のことを聞いた薫は、偶然に浮舟を見かけます。その容姿は亡き大君にそっくりで、薫は強く心を惹かれていくのでした。
2011年07月01日
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