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京阪・黄檗駅の北西、京阪・宇治線沿いに無量山・西方寺というお寺があります。西方寺参道入口同上このお寺は、別名「弥陀次郎(みだじろう)」と呼ばれています。「弥陀次郎西方寺」の碑新しそうな「みだじろう」の碑京阪の踏切参道の途中に、京阪の踏切があります。その名も「西方寺踏切」です。西方寺現在の京都市伏見区、宇治市、久御山町にまたがる場所に、かつて巨椋池(おぐらいけ)がありました。東西4キロ、南北3キロ、周囲約16キロ、面積約800ヘクタールという大きな淡水湖でしたが、昭和に入り干拓事業によって農地化されました。平安時代の終わりごろ、巨椋池の西岸、淀の一口(いもあらい)に、悪次郎とあだ名で呼ばれる荒くれ者の漁師が住んでいました。ある日、施しを求めてやってきた托鉢の僧の胸に、焼き火箸を押し当て追い帰したそうです。僧は、何事もなかったかのように立ち去っていったのを不思議に思った悪次郎は、僧の後をつけていったところ、光明寺(現在の長岡京市)にたどり着きました。堂内の釈迦如来像の胸に火箸を当てられた痕があったのを見た悪次郎はびっくり。その夜、夢のお告げがあり、巨椋池の水面の光に向けて網を放つと、中から仏像が現れたということです。その後、悪行を改め大念仏の行者となった悪太郎を、人々は尊び、「弥陀次郎」と呼ぶようになったそうです。この話を聞いた西方寺の住職は、霊仏を拝みたいと弥陀次郎の元に通い続けました。弥陀次郎はその熱心さに心を動かされ、阿弥陀仏と共に西方寺に移ったということです。なお、久御山町東一口(ひがしいもあらい)にある安養寺(あんようじ)にも弥陀次郎伝説が残っています。安養寺の本尊・十一面観音像がそのときの仏像だということです。西方寺の北側には「弥陀次郎川」という小さな川が流れています。弥陀次郎川川としてはなんとも不思議な名前ですが、伝説とともに「弥陀次郎」の名が地元に生きているように思えました。
2011年10月30日
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京阪・黄檗駅から西へ徒歩15分ほどのところ、宇治川には、隠元橋(いんげんばし)という名の橋が架かっています。隠元橋同上同上2008年に架け替えられたそうで、きれいな橋です。言うまでもなく、この橋の名は、日本黄檗宗の祖・隠元禅師の名前に由来しています。この橋の東詰、交差点の北東角に、「岡屋の津」と書かれた石碑が置かれています。説明板には平成20年(2008年)3月の日付がありますので、橋の架け替えと同じ時期に設置されたようです。「岡屋の津」の碑同上「黄檗開山隠元禅師登岸之地」の碑万治2年(1659年)、将軍・徳川家綱から新しい寺領を贈られることになった隠元禅師が、宇治川を遡ってきてこの地で上陸した場所だそうです。この付近は「岡屋の津」という港でした。かつては西に巨椋(おぐら)池が広がっており、古くから交通の要衝として栄えていたということです。萬福寺の建設では、ここから多くの資材が運び込まれたということです。昭和24年(1949年)、ここに木造の橋が架けられました。初代の隠元橋です。昭和28年(1953年)の水害で流出してしまいますが、昭和31年(1956年)に架けなおされます。そして現在が3代目になります。
2011年10月28日
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作家の北杜夫さんが、10月24日に亡くなりました。たいへん驚きました。学生時代の愛読書に「どくとるマンボウ」シリーズがありました。そのシリーズの中に「どくとるマンボウ途中下車」があります。このブログのタイトル、「ぐうたらたぬき途中下車」はその本のタイトルに由来しています。当時、「狐狸庵VSマンボウ」という本が流行りました。「狐狸庵先生」とは、遠藤周作さんのことです。北杜夫さんとのユーモア交えた対談が好きでした。本を読む習慣ができたのはこのころだと思います。そして、「狐狸庵」が「ぐうたらたぬき」の名前のヒントになっています。狐狸庵といいながら狐ではなく狸なのは、私自身、たぬきに似ていることを自覚しているからであります。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。
2011年10月26日
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「許波多(こはた)神社」という名前の神社が、宇治市五ケ庄(ごかしょう)と宇治市木幡(こはた)という隣接する2つの地区にあります。まずは五ケ庄のほうを訪ねてみました。京阪宇治線・黄檗駅の北西、徒歩10分ほどのところに、その「許波多神社」はありました。許波多神社同上同上神社に伝わる由緒では、大化元年(645年)、孝徳天皇が中臣鎌足に命じ、皇祖を祀る神殿を造営させたということです。もともとは現在の黄檗公園の辺りにあったようですが、その場所が「柳山」と言われていたことから「柳大明神」とも呼ばれ、江戸時代までは「柳神社」が正式な名前だったようです。明治時代に入り、陸軍の火薬製造所建設のため移転することになり、御旅所であった現在地に遷座し、かつての「許波多神社」に改称しました。大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)や坂上田村麻呂が戦勝を祈願したと伝えられており、勝運を授かる神社として信仰されています。拝殿かつては競馬(くらべうま)の神事が行われていたことから、「競馬発祥の神社」とされています。平安時代の鐙(あぶみ)が残っており、重要文化財に指定されているそうです。また「馬頭天王」の像があるということで、「馬の神社」として、競馬ファンや競馬関係者の信仰を集めているんだそうです。
2011年10月25日
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JR黄檗駅の東、500メートルのところに、「黄檗公園」があります。市民プール、野球場、4面のテニスコート、体育館や、子ども向けの広場などがあります。プール入口公園入口同上野球場火薬庫のトンネルこの公園は、かつては「大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠」の一部でした。火薬庫は爆発事故の被害が広がらないように土塁で囲まれており、出入口としてトンネルが設けられていました。上の写真は現存する土塁とトンネルです。周辺の火薬庫は姿を消しましたが、その当時の状況を示す遺物として保存されています。
2011年10月23日
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陸上自衛隊の宇治駐屯地の南側に、京都大学の宇治キャンパスがあります。京都大学・宇治キャンパス同上旧陸軍の跡地を利用して昭和22年(1947年)に開設されました。同上種類は確認できませんでしたが、りっぱな樹木が道路際に立っていました。気持ち良さげな空間です。
2011年10月22日
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京阪の黄檗駅からすぐのところに、陸上自衛隊の宇治駐屯地があります。宇治駐屯地同上ゲートの左側の柱には「関西補給処」と書かれています。この付近はかつて、「東京第2陸軍造兵廠」の宇治製造所がありました。火薬の製造工場でした。かつてご紹介した香里団地にも火薬工場の遺構が残っていますが、ここには、当時のレンガ造りの建物が、現役として数多く残っているそうです。毎年秋、駐屯地内が公開されます。今年(2011年)は10月23日(日)の予定です。(今度の日曜日です!) 「宇治駐屯地創立60周年記念」だそうです。今年は天気が怪しそうですが、、、関西補給処の役割は、各部隊で使用する医薬品、食料、被服、通信機器などの調達や管理です(武器や車両は含まれません)。自衛隊がPKO活動や災害救助などで派遣されるときにはここから物資が補給されます。阪神大震災のときには、各地から関西に派遣されてくる部隊の補給拠点となったそうです。後方部隊がしっかりしていてこそ、現場も頑張れるんですよね。
2011年10月21日
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黄檗山萬福寺の総門前、一対の龍目井(りゅうもくせい)の間に、「駒蹄影園碑(こまのあしかげえんひ)」という石碑があります。駒蹄影園碑お茶は中国から伝わったとされていますが、中でも鎌倉時代の二人の僧の役割が大きかったようです。一人は曹洞宗(そうとうしゅう)を開いた栄西(えいさい)禅師で、お茶の種とともに、お茶を抹茶にして飲む習慣も日本に伝えました。もう一人が明恵(みょうえ)上人で、彼は廃れかけていた華厳(けごん)宗を立て直し、京都の栂尾(とがのお)に高山寺(こうざんじ)を建てました。栄西から分け与えられたお茶の種を各地に広めたといいます。伝えられている話によると、こうです。あるとき明恵上人が馬に乗って宇治にやってきました。畑仕事をしていた農民に声をかけ、大事に持ってきた袋の中から茶の種を取り出し、この畑にまいて欲しいと頼みました。農民は、見たこともないからまき方も分からないと言いました。そこで明恵上人は、畑の中に馬を乗り入れ、たくさんの馬の蹄の跡を作りました。そしてこの蹄の跡に種を植えればいいと教えました。そしてお茶の効用もいっしょに教えたのです。写真の「駒蹄影園碑」は、明恵上人への感謝とその功績を讃えるために、大正15年(1926年)に宇治郡茶業組合によって建てられたものです。
2011年10月19日
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黄檗山萬福寺の総門の前、道をはさんだ向かい側に、「龍目井(りゅうもくせい)」という井戸があります。龍目井同上寛文元年(1661年)、隠元禅師が掘らせた井戸だそうです。黄檗山全体を龍の体にたとえ、龍の眼がこの井戸になります。周辺の小川は口を、松はひげをあらわしているそうです。萬福寺側から見て右側のほうに、もう一つの龍目井があります。一対で龍の目になるわけです。訪問したときには気が付かず、カメラに収めることができませんでした。う~ん、残念。
2011年10月17日
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あけやん2515さんから、「いわゆる『お経』というと、本文で言うところの『経』=教義ということになるんでしょうか?」というご質問をいただきました。結論から先に言うと、私の理解では、そのように解釈していいように思いました。ただ、もう少し言葉を添えるならば、狭い意味での「教義」(真理)ではなく、悟りを開くための「お釈迦さまの教え」なのだと思います。初めにお断りをしておきますが、私は仏教を論ずるだけの知識はございません。間違った解釈をしているかもしれません。ただ、「調べる」ことは私の仕事の一部であり、いろんな情報源から情報の正確さを推し量りながら、筋を通して一つにまとめるように努めております。(仕事以上に真剣という話も?)前日のブログに書いたように、経典(釈迦の教えを記録した仏教の聖典)には、教義が書かれた「経」、修業や戒律に関する「律」、経の解釈を記した「論」があります。つまり「経」とは教義が書かれたものです。いきなり話がそれますが、世界各地の「民謡」の多くは、口づてに残ってきた歌です。それを譜にすることで後世まで残るようになりました。仏教の場合、お釈迦さま(ブッダ)の言葉は周囲の弟子が聞き取り、それが口づてで継承されました。つまり暗唱に頼っていたのです。一説にはお釈迦さまが文書化を許さなかったとも言われています。お釈迦さまの死後、そうやって継承されてきた言葉を編集し、記録として残そうとする動きが出てきます。ある僧が暗唱し、みんなでチェックするわけです。暗唱する人は「私は、このように聞いております」という言葉から初めたようです。これを漢訳すると「如是我聞」となります。このように、「如是我聞(にょぜがもん)」で始まっている経は多いそうです。お釈迦さまの言葉を聞き取ったものですから、話は一つではありません。しかも、聞き取った弟子の解釈が入り、時間が流れ、別の国に伝わり、別の言語に翻訳されるごとに、いろんなバージョンが生まれます。中には矛盾した内容のものもあるそうです。最初に、経典は「釈迦の教えを記録した仏教の聖典」と申しましたが、これは絶対的な定義ではありません。たとえば「般若心経(はんにゃしんぎょう)」は、お釈迦さまではなく「観自在菩薩」(=観音菩薩)だけが登場します。(菩薩とは仏になることを目指す「修行者」です)結局、どこまでを「お経」というか、私にはよく判りませんでした。ただ、「お経」は、仏さまと向かい合うときの言葉だと思いました。そこには、信心に対する心構え、決意表明なども含まれています。調べていて、なかなかに奥深い言葉であるように思いました。
2011年10月15日
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黄檗山萬福寺の総門を出て、北に向けて150mほど歩いたところで、「鉄眼一切経版拝観 黄檗山宝蔵院」と書かれた立て看板が目に飛び込んできました。黄檗山宝蔵院「重要文化財 宝蔵院 鉄眼一切経版木」の立て札が添えられています。同上仏教には経典(きょうてん)があります。経典は釈迦の教えを記録した仏教の聖典で、教義が書かれた「経」、修業や戒律に関する「律」、経の解釈を記した「論」があり、これら3つをまとめて「三蔵」と呼びます。西遊記で三蔵法師が天竺に取りに行ったのも「経典」です。経典といってもいろいろあるようで、それらをまとめたものを「大蔵経」とか「一切経」と呼びます。また、インドの言葉(パーリ語、サンスクリット語など)や、漢語、チベット語、モンゴル語などに訳されたものも多くあります。日本では、仏教は政治と強く結びついていたため、その時代の権力者が一切経を入手することはあっても、一般に出回ることはほとんどありませんでした。萬福寺で隠元禅師の教えを受けた者の中に「鉄眼道光(てつげん どうこう)」という禅僧がいました。彼は、自分が苦労して読み説いた経典を版木にして残そうとしました。版木があれば、必要に応じて多くの人が手に入れられるだろうと考えたからです。鉄眼がプロデュースした版木は、13年の歳月をかけて完成しました。制作は喜捨だけでまかない、そのために全国行脚もしたといいます。途中、せっかく集めた資金を飢饉に苦しむ人々のために使ったりしたため、2度も断念しかけたといいます。延宝6年(1678年)に完成。その数は1,618部、7,334巻。版木の数にして56,229枚。それらが現存し、この宝蔵院に保存されているのです。そのうち48,275枚が重要文化財に指定されています。いまでも注文に応じ、摺られているということです。江戸時代初期の版木が現在でも現役だということだけでも驚きです。鉄眼禅師のすばらしい企画力と実行力には頭が下がる思いです。
2011年10月14日
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布袋様がいる天王殿(てんのうでん)の奥に本堂があります。「大雄寶殿(だいおうほうでん)」と呼ばれ、本尊の釈迦如来がおられます。大雄寶殿釈迦如来の脇には阿難尊者、迦葉尊者(いずれも釈迦の弟子)、本堂内の両端には十八羅漢像が並んでいます。「十六羅漢」とか「十八羅漢」とか、私には説明できるだけの知識はありませんが、要は「聖者」のことだそうです。そのさらに奥には、「法堂(はっとう)」があります。法堂法堂は説法をする場所ですが、現在では一般の人が坐禅をする場所としても使用されています。禅堂禅堂は、座禅を行うところです。すべてをご紹介しきれませんが、あと少し、写真を並べます。静かな、しかしどこか張り詰めた雰囲気を感じながら、ゆっくり拝観させてもらいました。
2011年10月12日
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黄檗山萬福寺は、江戸初期の創建当時のまま、大火もなく現在も当時のまま残っているそうです。多くが重要文化財に指定されており、たいへん貴重です。三門で拝観料を払って中に入りました。三門の正面には天王殿(てんのうでん)があります。天王殿ここには、弥勒菩薩の化身とされる布袋の像が安置されています。布袋像萬福寺では、毎月8日に「ほていまつり」が催されるそうです。布袋様の縁日です。(ただし総門の傍らには、2月と8月は休みますと書いてありました)天王殿の左側には、隠元豆(インゲンマメ)が育っていました。隠元豆隠元豆の実隠元豆は隠元禅師が中国から日本に持ち込んだとされていることから名付けられたものです。このほか隠元禅師が持ち込んだと言われているものとして、西瓜(すいか)や蓮根(れんこん)、孟宗竹(たけのこ)、木魚などがあります。
2011年10月10日
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黄檗駅の名のとおり、近くには「黄檗山萬福寺(おうばくざんまんぷくじ)」があります。黄檗宗大本山の寺院で、開山は隠元(いんげん)禅師です。黄檗山萬福寺隠元禅師は中国・明朝時代の臨済宗(りんざいしゅう)を代表する僧で、中国・福建省で「黄檗山萬福寺」の住職をされていましたが、日本からの招請に応じ、弟子20名を伴って承応3年(1654年)に日本にやってきました。63歳だったそうです。総門万治2年(1659年)、将軍・徳川家綱から宇治に土地を賜ります。寛文元年(1661年)に開山し、中国と同じ「黄檗山萬福寺」の名前を付けました。上の写真は入口に立つ総門です。寛文元年に建立ということですから、開山のまま現代に至っているのですね。重要文化財に指定されています。徳川の三つ葉葵の紋を掲げていますね。よくわかりませんが、それほどに将軍家との関係が強かったということなのでしょうか。現在、日本の禅宗には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3つの宗派があります。黄檗宗は、江戸時代には「臨済正宗黄檗派」などと称していましたが、明治9年(1876年)にやっと独立宗派として政府に認められ、黄檗宗と改めました。萬福寺のHPによると、「中国では臨済宗に含まれますが、日本の臨済宗とは中国式という点で異なったため、独立して一宗派を成すに至ったのがその経緯です」と述べられています。黄檗宗においては、建物や仏像の様式、儀式作法、さらには精進料理まですべて中国風だそうです。日本のお経は漢字を「音読み」するのが一般的ですが、黄檗宗では「唐音」という読み方をするそうです。放生池三門三門は延宝6年(1678年)に建立されました。重要文化財です。ここから先は有料です。拝観料500円を払って入ってみました。
2011年10月09日
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京阪の黄檗駅のホームの端に立つと、JR奈良線の黄檗駅のホームが見えています。双方の距離は、100メートルほどです。JR黄檗駅JR黄檗駅前ロータリーしかし、JR黄檗駅は京阪とは反対側の府道7号に面しております。バスやタクシーの乗り場があるロータリーが設けられており、京阪宇治バスが乗り入れています。JR黄檗駅ホームは2面2線の地上駅で、両方向とも単線です。昭和36年(1961年)に駅が開業したときには1線しかなかったのですが、その後、輸送力増強のため現在のように行き違いができるようになりました。103系奈良線の普通電車に使われている103系です。4両編成で運行しています。
2011年10月07日
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さて、一つ進んで、今度は京阪の黄檗(おうばく)駅にやってきました。駅名標屋根から下がっているのは、標準となった駅名標です。一方で、ホームの端には古いタイプの駅名標も健在です。同上2線2面の対面式ホームを持つ地上駅で、上下のホームは独立しています。つまり、それぞれに改札口があり、改札内ではつながっていません。改札は中書島寄り中書島方面ホーム改札宇治方面ホーム同改札改札口(外側)中書島寄りの踏切の両側に、それぞれのホームの改札口が並んでいます。宇治方面の改札(上の写真、手前)には駅員はいません。駅名は、近くにある「黄檗山萬福寺」に由来します。大正2年(1913年)に宇治線が開業したと同時に設置されました。当初は黄檗山駅でしたが、大正15年(1926年)に現在の名前に変更されました。
2011年10月05日
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長くにわたり、宇治市内をあちらこちら巡ってきましたので、そろそろ次の駅へ向かおうと思います。隣りの三室戸駅は、宇治駅からわずか0.4キロ。駅の東側にある三室戸寺や宇治十帖の古蹟などはすでにご紹介しました。今回は駅の西側にある「菟道稚郎子墓」を訪ねてみようと思います。菟道稚郎子墓三室戸駅のすぐ南西に、「菟道稚郎子墓」があります。衛星写真を見れば、こんもりとした緑の一画をすぐに見つけることができると思います。「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」は、すでに三室戸寺の狛兎のところでご紹介したように、仁徳天皇の異母弟にあたります。兄の仁徳天皇と皇位を譲り合って自ら命を絶った悲劇の皇子です。同上菟道稚郎子の墓の所在には諸説があるようで、江戸時代にはもっと山側の別の場所ではないかといった説もありましたが、明治23年(1890年)に現在の場所が指定されたそうです。同上入口は南側にあるようですが、現在は閉め切られ、立ち入りはできません。森の中にはたくさんの野鳥がいるようで、かなり騒々しい鳴き声が聞こえてきました。
2011年10月03日
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山城総合運動公園のほぼ中央、「太陽が丘」のバス停近くに、SLが静態保存されています。C11 180屋根があり、状態としては悪くないようです。同上近くに設置されている説明板によると、「C11 180」は、昭和15年(1940年)8月に製造され、北海道の瀬棚線(国縫~瀬棚間、運転区間としては長万部~瀬棚間。1987年に廃止)を中心に33年間働き、昭和44年(1969年)11月、長万部機関区で役目を終えました。同上このC11 180号機、もともとは北海道大沼町での保存が予定され、しばらくは長万部でそのまま保管されていたようです。しかし大沼町での保存は中止されます。何故かよく判りませんが、その後、180号機は京都の梅小路機関区に送られます。しばらくは解体待ちのような姿を晒していたそうです。ところが、最終的にはこの太陽が丘で保存されることとなりました。同上屋根の下で、大切にされているようです。なんだかホッとします。
2011年10月01日
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