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伏見御堂跡京都市伏見区大阪町京阪電気鉄道 伏見桃山駅より徒歩5分かつてこの地に「伏見御堂(ふしみみどう)」がありました。桃山時代の慶長年間(1596~1615年)、東本願寺の第12代法主・教如(きょうにょ)により創建されたものです。本堂は、向島城(徳川家康の居城)の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、寺域も徳川家康の寄進によるものだと言われています。幕末の慶応4年(1868年)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日の夕刻、会津藩が伏見京橋に上陸し、伏見御堂に陣を置きました。翌3日の夕方から戦闘が始まり、建物は大きな損害を受けたそうです。その後、明治18年(1885年)に建て替えられましたが、平成2年(1990年)、老朽化したため取り壊されたということです。現在は鐘楼や山門だけが残されています。現在は、伏見幼稚園があります。門の中に見えているのは子ども用のビニールプール。子どもたちの歓声が聞こえていました。
2012年07月31日
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からくり時計 「おやかまっさん」京阪電気鉄道 伏見桃山駅より徒歩1分伏見大手筋商店街内、近畿労金伏見支店前訪れたのは午前10時前。からくり時計の扉は閉まっています。表面には水面に映る酒蔵。伏見の原風景です。午後1時から7時までの間、毎正時に扉が開き、かわいいキャラクターが登場します。残念ながら、この日は見られず。ところで、「おやかまっさん」とは、京ことばで「お邪魔しました」「お騒がせしました」という意味だそうです。
2012年07月29日
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オドメータが10000キロになりました。ここのところのハイペースは、実は実家の母の体調がすぐれないがゆえですので、そういう意味ではあまり喜べないのですが、記録として残したいと思います。
2012年07月27日
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「常盤就捕処」の碑京都市伏見区西奉行町近鉄京都線 桃山御陵前駅より徒歩4分「伏見奉行所跡」の近くに、このような碑が建っていました。「常盤」は「常盤御前」のこと。牛若丸こと源義経の母親です。平治元年12月(1160年1月)に起こった平治の乱で、源義朝は敗走中に命を落とします。義朝の愛妾(側室)であった常盤は、今若・乙若・牛若の3人の子どもを連れ、雪中を大和国まで逃げましたが、都で母親が捕えられたと聞き、六波羅の平清盛のもとに出頭します。「出頭」したのなら、伏見で捕縛というのは不自然です。実際のところ、常盤御前については、「平治物語」や「義経記」など、物語の中の登場人物として知られてはいるものの、史実としてはあまりよく分かっておりません。かつてこの近くに常盤井という名水があったので、常盤御前と結びつけられて伝えられたものだろうと言われています。
2012年07月25日
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伏見工兵第十六大隊跡京都市伏見区西奉行町近鉄京都線 桃山御陵前駅より徒歩4分「伏見奉行所」の碑の近くにあるこの石標は、伏見工兵第十六大隊の跡を示すものです。明治政府で陸軍創設にあたった大村益次郎は、ここを陸軍用地として想定したそうです。つまり、日本最古の陸軍用地だと言われています。軍事演習が行われていた観月橋の北にあたります。
2012年07月23日
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伏見奉行所跡京都市伏見区西奉行町近鉄京都線 桃山御陵前駅より徒歩4分近鉄京都線の東側、京都市営桃陵団地内の一画、江戸時代の屋敷の塀のような雰囲気の中に、「伏見奉行所跡」と書かれた石碑が建っています。伏見奉行所は、慶長5年(1600年)に創設されました。寛文6年(1666年)、水野石見守忠貞が伏見支配に専念したことにより、機能が強化されたようです。慶応3年(1867年)に廃止されました。翌年の慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは、会津藩を主とした幕府軍1500人がこの付近に陣を敷き、薩摩藩の官軍と対峙。激戦の末、伏見奉行所は炎上してしまいました。桃陵団地そのものが、昔の奉行所の屋敷のイメージですね。
2012年07月21日
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伏見・両替商旧跡京都市伏見区両替町3丁目京阪電気鉄道 伏見桃山駅より徒歩4分伏見大手筋商店街の一画にある「伏見銀座跡」の石碑のそばを南北に走るのが「両替町通(りょうがえまちどおり)」です。南へ歩くと、「此付近 両替商旧跡」と書かれた石碑が民家の前に建っています。伏見銀座は、徳川家康により慶長6年(1601年)に設けられます。慶長丁銀などの貨幣が作られます。この通りの名は両替商通ですから、きっと当時は両替商(今でいえば銀行)がこの通りに軒を連ねていたのでしょうね。慶長13年(1608年)には銀座の機能は京都に移されましたので、わずか7年ほどではありますが、伏見が金融の中心地だったわけですね。
2012年07月19日
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伏見・京町通京阪電気鉄道 伏見桃山駅より徒歩2分 京都市伏見区京町3丁目京町通は、伏見城築城のときに開通したと言われています。城下町の本通りのひとつだったようです。上の写真、右側は老舗料亭「魚三楼」、左側には老舗和菓子屋「総本家駿河屋」があります。京都の風情を感じる一画です。「魚三楼」さんの入口脇の格子には、写真のような傷跡があります。説明板によると、これは慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いのときの「弾痕」だそうです。
2012年07月17日
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「伏見銀座跡」の石碑京都市伏見区銀座町1丁目京阪電気鉄道 伏見桃山駅より徒歩1分東側の踏切から伏見大手筋商店街に入ってすぐ、近畿労働金庫伏見支店の前に、「此付近 伏見銀座跡」と書かれた石碑が建っています。伏見銀座は、関ケ原の戦いの後、慶長6年(1601年)に徳川家康によって設けられたそうです。その後、慶長13年(1608年)に京都市中京の両替町に移されます。駿府や大坂、江戸、長崎などにも銀座ができますが、徳川家康によって設けられた最初の銀座が伏見だということです。「銀座」とは、貨幣の鋳造や銀地金の売買を行った場所のことであり、そのような特権を持った人々がいたことから「座」と呼ばれました。物流を盛んにするため、銀の品質を統一する必要があったことから設けられたとのことです。経済政策の一つだったわけですね。
2012年07月15日
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伏見大手筋商店街京阪電気鉄道 伏見桃山駅すぐ(西側)伏見桃山駅の地下改札から地上に出たところ、踏切から西側が「伏見大手筋商店街」です。「大手筋」というのは、伏見城の大手門に由来しているそうです。この通りは府道35号で、西は国道1号の「大手筋」交差点から、東は山科から滋賀県大津市へとつながっています(滋賀県内は県道35号)。京都市内を迂回して大津宿と伏見宿を結ぶ街道で、大津街道とも伏見街道とも呼ばれています。こちらは西側の入口です。最初にアーケードが完成したのは昭和46年(1971年)。平成9年(1997年)には、ソーラーアーケードが設置されました。アーケードに太陽光発電パネルが設置されたのは日本初なんだそうです。使われている太陽光発電パネルの広さは263平米、畳160枚分に相当します。最大30キロワット時の発電能力があり、照明のほか、夏場のアーケード内の冷房などにも使われています。商店街の区間は日中(12時~20時)は歩行者専用道路になっています。それ以外は東行き一方通行です。上の写真は正午になる直前に撮ったものです。左上の可動式標識は東行き一方通行の表示になっていますが、まもなく歩行者道路の表示に変わります。日中は大勢の人で賑わっています。
2012年07月13日
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「京阪バス発祥之地」の碑京都市伏見区京町4丁目京阪電気鉄道 伏見桃山駅より徒歩1分京阪の伏見桃山駅の東、ツタヤ桃山店の前に「京阪バス発祥之地」と書かれた碑が置かれています。添えられた説明文によると、大正11年(1922年)7月20日、京阪バスの前身「桃山自動車株式会社」がこの地に創立され、自動車11台でハイヤー営業を開始したということです。大正13年(1924年)には社名を京阪自動車株式会社とし、大正15年(1926年)、京阪の伏見桃山駅から桃山御陵下の間、0.8キロで乗合バスの営業を始めました。
2012年07月11日
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近畿日本鉄道 桃山御陵前駅京都市伏見区観音寺町京阪電気鉄道 伏見桃山駅より徒歩1分伏見桃山駅から東へ100メートルのところに、近鉄の桃山御陵前駅があります。さらに東へ500メートルほど歩くとJRの桃山駅、その先1キロほどで伏見桃山陵(明治天皇陵)に着きます。かつては京阪本線と近鉄京都線の乗り換え駅は、伏見桃山駅-桃山御陵前駅でした。現在ではその地位を丹波橋駅に譲りましたが、距離的には伏見桃山駅-桃山御陵前駅の間のほうが短いくらいです。
2012年07月09日
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京阪電気鉄道 伏見桃山駅京都市伏見区両替町4丁目(京阪のHPでは「京橋3丁目173番地」)伏見桃山駅は、明治43年(1910年)4月15日、京阪本線の開業と同時に設置されました。かつては急行が停車していたこともあるようですが、現在は普通と準急のみが停車します(準急は、京橋~萱島以外は各駅停車です)。駅は2面2線の地上駅です。ホームの長さは7両編成までで、京阪の優等列車(8両)には対応できません。 ホームの両側に踏切があり、これ以上、ホームを伸ばせないようです。上り京都方面ホームの大阪寄りは、かなり苦労してホームを延伸したようで、かなり細い部分があります。優等列車はこの駅を通過していくのですから、かなり危険ですね。ホームの端には、いつもの駅名標が立っていました。改札口は地下にあります。地下の改札口の内側と外側です。
2012年07月07日
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先日、オドメータが「7777」になったとご報告いたしましたが、1ヶ月も経たないうちに、もう「8888」になりました。最近、所用で実家に頻繁に帰っているためなのですが。
2012年07月05日
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三栖閘門に並んで、三栖洗堰(あらいぜき)が設置されています。三栖閘門と同じ時期に建設されたようです。内側は穏やかな流れです。しかし、宇治川への注ぎ口は、かなり段差があり、勢いよく水が流れ込んでいました。ゲートの上には、ゲートを操作するための設備が置かれています。ゲートは3門あり、それぞれ10.5トンだそうです。
2012年07月03日
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「建設省三栖閘門」と書かれています。すでにその役目を終えてしまった三栖閘門ですが、歴史遺産としての価値が認められ、周囲を含めて維持管理されています。水路と並行して設けられている歩道には、木材が敷き詰められていますね。これは「防舷材(ぼうげんざい)」を再利用したものです。防舷材とは、船が壁に当たる衝撃を和らげるために設置されるものです。最近はタイヤ状のものが多いかもしれませんが、用途は同じです。閘門のゲートを上下に動かすために使われていた「巻揚機」です。実際に宇治川側のゲートで使われていたものだそうです。「三栖閘門資料館」です。もとは、閘門の開閉を操作するための建物だったそうです。
2012年07月01日
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