全16件 (16件中 1-16件目)
1

伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)京都市伏見区桃山町古城山京阪電気鉄道宇治線 桃山南口駅より徒歩15分明治天皇の伏見桃山陵の東側に、伏見桃山東陵があります。明治天皇の皇后、明憲皇太后の墓所です。こちらの階段のほうが楽そうですね。正面に鳥居があり、その奥が、伏見桃山陵と同様に、上円下方墳の様式で墓所が造られています。急な登り坂を歩くと、伏見桃山東陵から伏見桃山陵へ行くことができます。上の写真は、坂の途中で振り返って伏見桃山東陵を見たところです。急な坂を登り、再び、伏見桃山陵(明治天皇陵)に戻ってきました。ここからの眺望はなかなかのものです。宇治川流域を中心に市街地が眼下に広がっています。かつては広大な巨椋池が広がっていたのかもしれませんね。伏見桃山陵や伏見桃山東陵がある場所は、かつて豊臣秀吉が築いた伏見城の本丸跡地だそうです。「伏見城石垣に使用されていたと思われる石材」という説明とともに、道脇に大きな石がいくつも置かれていました。
2012年03月31日
コメント(2)

伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)京都市伏見区桃山町古城山京阪電気鉄道宇治線・桃山南口駅より徒歩15分京阪電気鉄道の宇治線、桃山南口駅から北西へ、JR奈良線の高架下をくぐっている道路が「桃山御陵参道」という名の道路です。付近に民家などは無く、車が通り過ぎて行くほかは、ときどき自転車やジョギングの人を見かける程度です。道路沿いに5分ほど歩いて右手に入りました。大きく茂った樹木の間を、広い舗装道路が通っています。ぽつぽつと人影が見えます。高校生のクラブでしょう、20人くらいが自転車でやってきて、ここでランニングをしていました。伏見桃山陵は、明治天皇の御陵です。明治天皇は京都から江戸城に移られましたが、京都に墓所が造られたのは、明治天皇の遺言によるのだそうです。伏見桃山陵の東側に並んで、昭憲皇太后の伏見桃山東陵があります。昭憲皇太后は、明治天皇の皇后です。正面に長い階段が待ち受けています。この階段を一気に登ると、明治天皇の御陵の正面です。奥に見えているのが御陵で、上円下方墳の様式で造られています。明治天皇は、明治45年(1912年)7月30日に崩御され、9月に東京で「大喪の礼」が行なわれたあと、この地に埋葬されました。
2012年03月29日
コメント(6)

仁科歯科医院 (ARK)京都府京都市伏見区桃山町丹後京阪電気鉄道宇治線 桃山南口駅徒歩0分京阪の桃山南口駅に隣接する場所に、奇妙な建物が建っています。道路沿いの入居案内を見ると、「仁科ビル」と書かれています。3階建てですが、2階部分に「仁科歯科医院」と書かれているだけで、1Fも3Fも空白になっています。高松伸という建築家(現在、京都大学教授)の1983年(当時35歳)の作品で、3階部分はギャラリー仕様なんだそうです。建物の壁には「ARK」の文字があります。ARKとは「方舟」のことですが、現代の方舟ということなのでしょうか。私は、デジカメのレンズ部分を連想したのですが、いかがでしょう?
2012年03月27日
コメント(4)

京阪電気鉄道 宇治線の桃山南口駅は、踏切の両側に改札口があります。中書島方面ホームの改札口と駅舎です。駅の南側に「桃山団地」があり、踏切を通行する車両はかなり多いようです。踏切を渡った先が外環状線(府道7号)との交差点(桃山南口交差点)で、信号待ちの車が踏切の手前からつながっているのをよくみかけます。宇治方面の改札口と駅舎です。こちら側の駅舎のほうが大きいようです。係員もこちらのほうに常駐しているようです。駅の掲示には「当駅では、平成23年5月2日(月)から、早朝ならびに深夜は、駅係員が不在となります。」と書かれていました。
2012年03月25日
コメント(2)

京阪電気鉄道 宇治線 桃山南口駅京都市伏見区桃山町丹後大正2年(1913年)6月1日に宇治線が開業するのと同時に、御陵前(ごりょうまえ)駅として開業、その後、昭和24年(1949年)に桃山南口駅に名称変更されました。明治43年(1910年)11月、宇治川電気軌道が持っていた特許(鉄道の営業許可)を譲り受けていたのですが、すぐに開業する予定はありませんでした。しかし、1912年に明治天皇が崩御され、御陵が「伏見桃山」になると、「大喪の儀」のあとの一般参拝で御陵の周辺は大混雑となりました。翌年7月の「御1年祭」にはまた混乱が予想されたため、急きょ、宇治線の建設が前倒しされ、まさに突貫工事で宇治線を完成させたということです。桃山南口駅は、相対式2面2線の地上駅です。ホームごとに改札口があり、双方のホームは改札内ではつながっていません。中書島寄りには渡り線があります。
2012年03月23日
コメント(0)

勧修寺京都市山科区勧修寺仁王堂町京都市営地下鉄東西線 小野駅より徒歩6分勧修寺と書いて「かじゅうじ」と読むそうです。ただし、周辺の地名もバス停の名前も「かんしゅうじ」と読みます。勧修寺は真言宗山階派大本山で、山号は亀甲山です。醍醐天皇が生母である藤原胤子(ふじわらのいんし、たねこ)の追善のために創建した門跡寺院です。、昌泰3年(900年)の創建と伝わっています。門跡寺院とは、皇族や貴族が住職を務める特定の寺院のことです。文明2年(1470年)に兵火で焼失しましたが、江戸時代に徳川家と皇室の援助で再興されました。境内の南寄りには氷室池が広がり、その北側に書院、宸殿、本堂が並んでいます。背後の山々を借景にして、平安時代の面影を残す庭園だそうです。
2012年03月21日
コメント(0)

随心院の境内には、「小野小町化粧井戸」があります。この井戸の辺りに小野小町が住んでいたとか。小野小町はこの井戸の水で化粧をしたのでしょうか。井戸の中には少し水がありました。随心院には、「小野梅園」があります。私が訪れたときにはまだ開園していませんでしたが、ちょうど今が見ごろでしょう。
2012年03月19日
コメント(0)

随心院の裏手、文塚の北側に、「仁海僧正供養塔」と書かれた碑とともに供養塔が建っています。仁海(にんがい)僧正は、随心院の前身、曼荼羅寺の開祖です。2005年の4月から5月にかけて、随心院で生誕1050年の記念行事が行われ、開山供養塔が建立されました。仁海僧正は、「請雨法」を9回成功させたことから「雨僧正」とも呼ばれたそうです。当時、中国(宋)にまでその名声が届いていたそうです。才能や行動力から、第二の空海とも称されることもあるようです。
2012年03月17日
コメント(0)

随心院の境内の周りを、反時計回りにまわってみました。途中には鳥居が立っていたりして、なんとも奇妙な光景です。 随心院の周囲を回った裏手(東側)には、文塚と呼ばれる碑があります。傍らの案内には「深草少将を始め多くの貴公子より寄せられたる文章を埋めた塚と伝承さる」と書かれていました。ここに出てきた「深草少将」は、後の室町時代ごろに創作された「百夜通い(ももよがよい)」の話に出てくる人物です。謡曲「通小町」の前段として出てくるそうです。小町の「百日通ったらあなたの許に参ります」という言葉を信じ、深草少将は99日通い続けます。しかし99日目のその日は雪が降っていました。門前までたどり着いた深草少将は、その場に倒れ、再起できなかったということです。99日までは通って100日目は別の人に通いを頼んだという話もありますが、とにかく成就することはなかった点は共通しています。恋愛中の方は訪れないほうがいいのかもしれませんね。ところで、日にちを数えるのに、カヤの木の種を使ったと言われています(少将が持参したとも、小町が自分で数えたとも、両説があるようですが)。後日、カヤの種を小野の土地に蒔いたそうで、小野の界隈には立派なカヤの木がいまでもあるそうです。
2012年03月15日
コメント(2)

随心院の拝観入口から中に入ると、最初に見えてくるのが庫裡です。時間があれば、ここから入って本堂などを拝観するのがいいでしょう。庫裡の前を過ぎたところに、小野小町の歌碑があります。花のいろはうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに小倉百人一首の小野小町の歌ですね。小野小町はこの随心院に身を寄せて晩年を過ごしたのでしょうか。日本各地に小野小町の墓と言われている場所があります。その実態はよくわかっていません。歌碑のある場所から先には、表玄関が見えています。その奥に書院や本堂があります。
2012年03月13日
コメント(2)

随心院京都市山科区小野御霊町京都市営地下鉄東西線 小野駅から徒歩5分駅名にもなっている小野は、小野氏の一族が栄えた土地です。平安時代の歌人、六歌仙の一人であり、絶世の美人としても知られる小野小町は、宮中にて仕えたのち、この土地で過ごしたといわれています。隨心院には小野小町ゆかりの品や碑などがあります。「小町」といえば「美人」の代名詞。しかし、小野小町を描いた絵や像はほとんどが後世のもので、しかも多くは後ろ姿。ほんとうの素顔を描いたものは無いと言われています。どんな絵師でも描けないほどの美人だったのでしょうか?実は、小野小町は実在しないという説もあるくらい、謎に包まれた人物のようです。生誕地も、京都のほか、秋田県、福井県、福島県など諸説があるようです。随心院は、真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の8代目の弟子に当たる仁海(じんかい)僧正が正暦(しょうりゃく)2年(991年)に「曼荼羅寺(まんだらじ)」を創建したことに始まります。その後、曼荼羅寺の塔頭として建立されたのが随心院です。その後、天皇や公家とのつながりも深く、多くの伽藍が建てられましたが、平安時代、応仁の乱(1467年~1477年)でほとんどが焼失してしまいました。その後、慶長4年(1599年)に本堂が再建されたということです。境内の西側、北寄りに総門があります。奥に進んでいくと、拝観入口があります。拝観入口の右には、「薬医門(やくいもん)」と呼ばれる門があります。山を背景に、落ち着いた雰囲気ですね。(つづく)
2012年03月11日
コメント(0)

醍醐天皇後山科陵京都府京都市伏見区醍醐古道町京都市営地下鉄東西線 小野駅から徒歩12分京阪バスに「醍醐天皇陵」というバス停があり、そこが醍醐天皇後山科陵(だいごてんのう のちのやましなのみささぎ)の入口です。入口からまっすぐに参道が続いています。砂利を踏みしめながら奥へ入っていきました。醍醐天皇は、先にご紹介した朱雀天皇の父で、36人の子宝に恵まれたそうです。寛平9年(897年)に第60代の天皇として即位。藤原時平と菅原道真を左右の大臣としたことは有名です。昌泰4年(901年)、藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真は大宰府に左遷され、延喜3年(903年)に病死します。藤原時平は、延喜9年(909年)に39歳の若さで亡くなり、菅原道真の祟りとも噂されたということです。
2012年03月09日
コメント(2)

独鈷水京都市伏見区醍醐上ノ山町京都市営地下鉄東西線・小野駅から徒歩10分醍醐寺の周辺には、醍醐三水と呼ばれる湧き水があります。上醍醐の「醍醐水」、赤間の「威独水(赤間水)」、そしてこの「独鈷水(どっこすい)」です。実際の「独鈷水(どっこすい)」はこの石碑の右手の階段を上ったところ、竹薮の中に社があり、杉の木の根元に石で囲まれた場所があるそうです。「独鈷」とは、煩悩を打ち砕く真言密教の法具だそうです。もともとは、インドで武器として使われていたものだそうです。弘法大師が持っていた独鈷で掘ったら水が湧き出したということで名付けられたのだそうです。この場所は旧・奈良街道(醍醐道)沿いにあります。かつては茶店があって賑わっていたそうです。
2012年03月07日
コメント(2)

朱雀天皇醍醐陵京都市伏見区醍醐御陵東裏町京都市営地下鉄東西線・醍醐駅から徒歩15分朱雀(すざく)天皇醍醐陵(だいごのみささぎ)の入口は、住宅街の一画にありました。陵の場所は地図にも出ていますが、入口がどこかを確認せずに訪れたので、見つけるまで少し時間がかかりました。朱雀天皇の在位は延長8年(930年)から天慶9年(946年)にかけてです。父の醍醐天皇の崩御により、8歳で即位しました。東では平将門が、西の瀬戸内海では藤原純友が乱を起こした時代でした。先代の醍醐天皇から朱雀天皇の時代は、醍醐寺が整備されていった時期と重なります。陵が醍醐寺に近いことも、信仰の厚さを示しているといえそうです。醍醐天皇の陵もこの近くですので、あとで行ってみようと思います。
2012年03月05日
コメント(0)

赤間薬師堂京都市伏見区醍醐御陵東裏町京都市営地下鉄東西線・醍醐駅から徒歩15分赤間薬師堂には、京都市指定有形文化財「木造薬師如来坐像」が安置されています。平安時代の作と言われています。「赤間」の名前は、赤間関(あかまがせき)に由来します。この仏像は、源平合戦での騒乱を避け、赤間関(あかまがせき)から移されたと言われています。赤間関は現在の下関で、源平合戦の終焉の地、壇ノ浦があるところです。話が逸れますが、壇ノ浦の近くにある赤間神宮には、幼くして亡くなった安徳天皇が主祭神として祀られているそうです。ちなみに、下関市が市制を施行した明治22年(1889年)当時は、「赤間関市」だったそうです。明治34年(1901年)には山陽鉄道によって「馬関駅」が開業します。赤間関は「赤馬関」とも書かれ、その略称が「馬関」なんだそうです。明治35年(1902年)、下関市と改称、それに合わせて馬関駅は下関駅となりました。赤間薬師堂に向かって歩いているとき、道路脇に「東半町」と書かれてた石碑を見つけました。半町=約55メートルですから、あとわずか。しかし、見当をつけながら歩いているうちに、いつのまにか通り過ぎてしまいました。住宅街の中で目立つこともなく、ひっそりした佇まいでした。
2012年03月03日
コメント(2)

太田垣蓮月仮寓跡京都市伏見区醍醐落保町京都市営地下鉄東西線・醍醐駅から徒歩12分醍醐寺の東門の正面に、白い塀をめぐらした建屋がありました。その前に建てられた石碑には「太田垣蓮月仮寓跡」と書かれていました。ちなみに「仮寓」とは仮の住まいのことだそうです。「太田垣蓮月」のことをよく知らないので調べてみると、Wikipediaには、以下のような記述がありました。(ちなみに、Wikipediaでは「大田垣」と記されています。)大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。生まれてすぐに大田垣家に養女に入りました。養父の5人の実子はみな亡くなり、迎えられた養子と16歳のころ結婚しました。しかし生まれた3人の子どもは幼くして亡くなり、25歳のときには夫とも死別してしまいます。4年後に養子を迎えて再婚するも、33歳にして夫と死別。養父とともに剃髪し仏門に入りました。ここまで調べたところで、このページは没にしようとしていました。なんとなくジメジメとして暗いイメージだったからです。ところが、あるブログの記事を読んで、大田垣蓮月の強烈なイメージが湧きあがってきました。 (そのブログは → こちら) 『京男・京おんな-京都人の気質と意識』という本で、大田垣蓮月は「幕末の烈婦で歌人」と紹介されているというのです。この本は昭和43年(1968年)に京都新聞に掲載された記事をまとめたものだそうです。三十三歳で黒髪を切り、亡夫と来世の契りをむすぶ。だが、絶世の美ぼうをしたい、いい寄る男が絶えない。このため「烈婦すなわち千斤の秤を引き、自らの歯を抜く。一歯を抜くごとに粛々声あり。滴滴血ほとばしる......」自らの歯を1本抜くごとに悲鳴を上げ、血がほとばしった。自らを醜くするために。亡夫との契りを守るために。Wikipediaには、京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。住居としていた西賀茂村神光院の茶所で、明治8年12月10日、85歳で没したが、別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で弔いをしたという。とあります。多くの人に慕われていた様子を思い浮かべました。
2012年03月01日
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1