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現在では機能しなくなった三栖閘門ですが、この地域の歴史文化の継承と、歴史的な遺産の保全を目的として維持管理されています。上の写真は、宇治川をバックに門の一部を撮ったものです。大きなチェーンでつり下げられているんですね。想像しにくいですが、かつてはここを三十石船が通っていたんでしょうね。当時は宇治川の水位はもっと高かったということなのでしょう。
2012年06月29日
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三栖閘門京都市伏見区葭島金井戸町京阪電気鉄道中書島駅より徒歩9分伏見出会い橋から川の流れに沿って南に進むと、大きな赤い鉄の扉が見えてきます。これが三栖閘門(みす・こうもん、みすのこうもん)です。三栖閘門は、昭和4年(1929年)に完成しています。現在は使われていませんが、当時、30万円以上をかけて建設されたということです(当時、大卒初任給は約70円)。「閘門」とは、水位の違う2地点間を船で行き来するために、水位の調整をする目的で設けられた水門のことです。対となる門が、上の写真です。宇治川との間を仕切っています。この場所に船を入れて、水位を調節していました。宇治川側から見たのが上の写真です。上流側の門は開いていています。十石船はここをくぐって、手前の船着き場までやってきます。この船着き場は、観光の目的で十石船が運行されるようになって設けられたものです。三栖閘門は、伏見港の歴史や、宇治川の治水と密接に関わっています。太閤秀吉が伏見城を築き、そのお濠として宇治川派流ができ、伏見港が置かれます。角倉了以による高瀬川(二条~伏見)の開削もあり、京都と大坂は水運で結ばれ、伏見は中継地として栄えます。一方で、かつて存在した「巨椋池(おぐらいけ)」と宇治川を築堤により分離するなど、秀吉の時代から大掛かりな土木工事が行われてきました。しかしそれでも、宇治川流域は常に水害に悩まされてきた地域でもありました。明治時代になり、外国人技師を招くなどして、淀川水系で大規模な治水工事が行われます。大正時代におこった水害で、観月橋から三栖にかけて堤防工事が築かれ、ここに三栖閘門が設けられました。現在では、上流の天ヶ瀬ダムによって宇治川の水位が下がり、船運もなくなったため、その役割を終えています。
2012年06月27日
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角倉了以水利紀功碑伏見区三栖半町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩9分伏見出会い橋の西のたもとに、角倉了以(すみのくら りょうい)を顕彰する碑があります。角倉了以は、朱印船貿易を行った戦国時代の豪商です。私財を投じ、慶長16年(1611年)、二条から鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開通させました。この碑はその功績を顕彰するために、明治32年(1899年)に建立されたものです。現在は鴨川改修のため、高瀬川は分断されています。下流は東高瀬川(後年になって改修した部分は新高瀬川)と呼ばれています。 顕彰碑のある場所は、小さな親水公園になっています。公園の南端、左側が公園です。中央の小さな水路が、かつての高瀬川の名残り(旧高瀬川)です。現在の新高瀬川とはつながっていません。旧高瀬川に架かる橋の名前は「角倉橋」です。近くの道路脇に、かつての橋の親柱が残っていました。「角倉橋」「高瀬川」となっていますね。京都の二条までつながっていた名残りですね。
2012年06月25日
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伏見出会い橋京都市伏見区三栖半町・村上町・北浜町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩9分ちょっと期待してしまいそうな、そんな名前の橋ですね。この橋の特徴は、橋の中央部が三叉路になっていることです。川の分岐点に架けられた橋は、3地点を結ぶ形になっています。道路の交差点ならもっと複雑な形状の歩道橋もありますが、川の交差点上に架けられた橋はちょっと珍しいですよね。上の写真、左手から流れ込んでいるのが濠川(ごうかわ、ほりかわ)です。伏見城のお濠(ほり)として掘られたそうです。濠川はここで二手に分かれます。(出会い橋といいながら分かれるとはこれいかに?) 正面奥へいくと寺田屋や月桂冠の酒蔵があります。一方、右手にいくと、伏見港公園や三栖閘門(みすのこうもん)があります。(閘門についてはあとでご紹介します)かつては、宇治川派流が奥から手前へ、そして右手方向へと流れていたそうですが、濠川に琵琶湖疏水の水が流れるようになってから、現在の向きに変わったそうです。ちょうど、十石船がやってきました。三栖閘門を巡って、辨天橋の乗り場へと戻っていくところです。<<追記>>グーグルマップで上から見た写真は⇒こちらです。
2012年06月23日
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黄桜カッパカントリー京都市伏見区塩屋町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩6分寺田屋からもう一筋北側の道には、「黄桜カッパカントリー」があります。道の両側に、ちょっとレトロな雰囲気の建物が並んでいて、とてもよい雰囲気です。黄桜カッパカントリーは、黄桜(株)が運営している施設で、黄桜記念館での展示見学のほか、直営レストランや土産物店などもあります。黄桜(株)という名前になったのは平成18年(2006年)からで、それまでの「黄桜酒造」という名前の方が、私には馴染みがあります。カッパを使ったCMですごく有名ですよね。レストランでは、ここでしか飲めない限定のお酒とか、京都の地ビールもあります。車に乗る予定があったので、この日はパスしましたが、一度訪ねてみたいです。レストランの向かい側に、「Pappa Gallery 黄桜記念館」があります。お酒についてのいろんな話や、黄桜のお酒の歴史、さらにはカッパに関する展示などもありました。懐かしいカッパのCMも見ることができます。お酒といえば、水。ここの中庭にも、その名残がありました。
2012年06月21日
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西岸寺(さいがんじ)京都市伏見区下油掛町京阪電気鉄道 中書島より徒歩8分寺田屋の北側、伏見駿河屋本店から東に入ったところに、「油懸地蔵尊 西岸寺」があります。正しくは「油懸山地蔵院西岸寺」と号する浄土宗のお寺です。平安時代に建てられたとも言われていますが、正確なところは分かっていません。しかし少なくとも天正18年(1590年)には建立されたようです。大きな規模のお寺だったようですが、鳥羽伏見の戦いで兵火により焼け落ちたとのことです。その後、地蔵堂のみが再建されました。寺にはこんな逸話が残されています。あるとき、山崎の油商人が門前で転び、桶の油をほとんど流してしまったそうです。傷心した商人は、残った油を地蔵に懸けて帰りました。そうすると、なぜか商売繁盛して大金持ちになったといいます。この噂が広まり、広く信仰されるようになったということです。町名は「下油掛町」で「掛」の漢字が異なっていますね。地蔵堂に安置された地蔵は鎌倉時代の石仏だそうです。しかし長く油を懸けられたので、油が表面を覆って黒光りしているそうです。
2012年06月19日
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電気鉄道事業発祥の地(石碑)京都市伏見区下油掛町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩7分「伏見駿河屋」の店舗の脇に、「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」と書かれた石碑が建っています。鉄道友の会京都支部の名前が刻まれています。明治28年(1895年)、京都電気鉄道伏見線が、東洞院通東塩小路(現在のJR京都駅付近)からここまで、約6キロで開業しました。これが日本で最初の電気鉄道です。その後、中書島駅前まで延伸します。京都電気鉄道は、のちに京都市に買収され、京都市電の一部となります。ところで、写真は5月の連休に撮ったもので、ちょっと季節外れな「ちまき」と書かれています。この「伏見駿河屋」さんのHPを拝見すると、「約230年前 江戸時代天明年間」に、「総本家駿河屋より、分家開業」したと書かれていました。本家のほうは和歌山市に本社があり、創業は室町時代中期、寛正2年(1461年)だそうです。まさに老舗ですね。
2012年06月17日
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伏見長州藩邸跡京都市伏見区表町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩4分府道115号沿い、京都市の土木事務所前に「伏見長州藩邸跡」と書かれた石碑があります。文久3年8月(1863年9月)、会津藩や薩摩藩など公武合体派が、尊皇攘夷派を京都から追放するクーデター事件が起こります。これにより尊王攘夷派の公家が一掃され、長州藩は京都を追われることとなりました。10月には薩摩藩の島津久光(公武合体派)が大軍を率いて京に入り、尊王攘夷運動は下火になります。失地回復を狙う長州藩は、翌年(1864年)6月の池田屋事件(京都三条木屋町の旅館・池田屋で、長州藩や土佐藩の尊王攘夷派が新撰組に襲撃された事件)をきっかけに京都へ出兵します。7月には、武装した約500人が長州藩邸から京に向けて進軍し、会津藩や薩摩藩と戦火を交えました。いわゆる「禁門の変」です。激しい戦闘の結果、長州軍は敗走、長州藩邸は焼け落ちました。この戦いで京都市中で3万戸が焼けたといいます。この後、長州藩・毛利敬親の追討令が発せられ、長州藩は朝敵となります。敵対関係にあった長州藩と薩摩藩を1866年の薩長同盟へと導いたのが坂本龍馬です。明治維新前の激動の時期です。
2012年06月15日
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伏見土佐藩邸跡京都市伏見区南浜町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩6分月桂冠大倉記念館から北に向けて歩くと、少し入り組んだ道に入ったところに「伏見土佐藩邸跡」と書かれた石碑があります。鳥羽伏見の戦いの際には、土佐藩主・山内容堂は「薩摩・長州と会津・桑名の私闘であるから加担せぬよう」という指示を出していたようです。しかし藩の大目付の板垣退助は「京都で事が起こったら、黙って薩摩と行動を共にせよ」という密命を出していたといいます。もし、藩主の命令に従う武士ばかりだったら、明治維新はもっと違ったものになっていたかもしれませんね。組織としては困ったことなのですが、、、、
2012年06月13日
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伏見口の戦い激戦地の碑京都市伏見区南浜町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩5分この碑が建てられた場所は、府道115号が宇治川派流を渡る「京橋」の北詰です。写真の奥が、坂本龍馬が襲われた船宿「寺田屋」です。平成21年(2009年)12月の建立となっていますので、坂本龍馬が襲われたときの寺田屋は現存しない、という結論が出た後に建てられたもののようです。慶応4年(1868年)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日のことです。大坂から船でやってきた会津藩の先鋒隊(約200名)がこの地に上陸し、ここに陣を置きました。幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら敗走したということで、そのため、多くの民家が焼かれたということです。直接的な記述はありませんが、おそらく寺田屋もこのときの戦火で焼かれてしまったのではないでしょうか。
2012年06月11日
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昨年の11月、それまで乗っていた車の車検の時期が来たときに、少し迷ったのですが、思い切って新車に乗り換えました。運転席側のパワーウインドウが動かなくなったり、エンジンオイルの減りが早くなったりしたので、そろそろ限界と判断しました。先日、某所からの帰り道。ナビの計算によれば、自宅に着く前にメータが7777になりそうでしたので、立ち寄り地を設定して停車。計算通り、7777になったところを撮りました。
2012年06月09日
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京橋(伏見区)京都市伏見区京橋町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩5分寺田屋から西に歩くとすぐに、府道115号線に出ます。そこに架かっているのが「京橋」です。橋の上から寺田屋の方向を見たのが上の写真です。向こうに見えている橋との中間付近、左手に寺田屋があります。坂本龍馬は、この川に逃れて舟で脱出したのでしょうね。手前右側の船着き場からは、三十石船(もちろん今は観光船ですが)に乗ることができます。これが三十石船です。屋根に傾斜があり、いかにも屋形船という趣きがありますね。
2012年06月07日
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寺田屋京都市伏見区南浜町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩5分慶応2年1月(1866年3月)、薩長同盟が結ばれたあと、坂本龍馬らは船宿・寺田屋に泊っていました。当時、寺田屋は薩摩藩の定宿でした。深夜2時ごろ、幕府方・伏見奉行の捕り方が寺田屋を取り囲みます。龍馬らは防戦しますが負傷し、逃げ出して、薩摩藩が回した川舟によって助けられます。いわゆる「寺田屋事件(寺田屋遭難)」です。風呂に入っていたお龍さんが獲り方に気付き、2階に駆け上がって危機を告げた、という逸話は有名ですね。その後、大坂から船で鹿児島まで逃れ、薩摩藩内で治療しながら潜伏します。お龍さんを伴っての船旅で、これが日本で最初の「新婚旅行」だという説もあるようです。入館料を払って内部に入ると、「龍馬が襲われたときに付いた刀傷」とか、「お龍が入っていた風呂」を見ることができます。しかし、2008年ごろの京都市などの調査によって、当時の寺田屋は慶応4年(1868年)の「鳥羽伏見の戦い」の戦火で焼失したことが明らかにされました。現在の建物は明治時代に建てられたものだということです。見学者が本物と誤解するような展示方法には問題があると思います。しかし、空き地に立て札が立っているだけではなく、目の前にイメージできるものがあるほうが、歴史を実感できるのも事実です。当時の寺田屋は、右隣の空き地(現在は京都市の市有地)にあったといわれています。その入口には、「史蹟 寺田屋」「薩藩九烈士殉難の趾」と書かれた石碑が立っています。「寺田屋事件」と言われる事件はもうひとつあります。文久2年(1862年)に起こった事件で、「寺田屋騒動」とも言われています。そのとき、薩摩藩主の父・島津久光は京都にいました。薩摩藩尊皇派の一部の者は、公武合体を進める関白・九条尚忠や京都所司代・酒井忠義を襲おうとして寺田屋に集結していました。それを知った島津久光は薩摩藩士を差し向け慰留しようとしましたが、ついに同志討ちの切り合いになってしまいます。慰留にあたった1人が死亡、過激派側も6人が死亡、2人が負傷します。結局、負傷した2人は切腹させられました。今の世でも、武力で相手をねじ伏せたり、武器を使って脅したりすることがまかり通ることがあります。ましてや、幕末といえば、刀を差し、懐にはピストルを持った荒くれ男たちが歩き回っていたわけです。しかし、坂本龍馬が慕われるのは、武力や数の力に頼ることなく、筋を通し、真心を尽くし、死をも顧みずに、日本の将来のために尽力したがゆえだと思います。「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」まだ小さいころ、14歳ごろでしょうか、龍馬が詠んだという歌です。周囲に理解されず、勉学の成績も振るわなかったころだそうです。志を持った人が言えば、崇高な響きを感じます。でも、凡人が言えば、単なる強がりにしかなりませんね。自省しつつ、「我が成す事」とは何か、考えたいと思います。
2012年06月05日
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月桂冠大倉記念館の周囲一帯は、京都市の「重要界隈景観整備地域」に指定されており、道路のカラー舗装、電柱の地中化など、景観に配慮した整備が行われています。大倉家の本宅です。この建物は文政11年(1828年)に建造されたそうです。旧本社です。大正8年(1919年)の建造です。現在は、「伏見夢百衆」というお店になっていて、おみやげや喫茶になっています。酒蔵と濠川(ほりかわ)。伏見の原風景とも言われている場所です。ゆったりとした時間が流れていました。
2012年06月03日
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月桂冠大倉記念館京都市伏見区本材木町京阪電気鉄道 中書島駅より徒歩5分上質の水、自然風土に恵まれただけでなく、京文化とも深くかかわって育ってきたのが伏見の清酒です。その歴史は古く、稲作が伝わった弥生時代にまで遡るといいます。豊臣秀吉が伏見城を築城し、伏見は栄えます。そして酒造りが盛んになったのもこの時期です。月桂冠大倉記念館を訪ねてみました。貴重な酒造用具類や、酒造りのこと、日本酒の歴史などを紹介しています。初代の大倉治右衛門が、京都府南部の笠置町から伏見に出て創業したのが寛永14年(1637年)。屋号は「笠置屋」で、「玉の泉」というお酒を作りました。月桂冠という銘柄は明治になってからです。戦後は「大倉酒造」として知られていましたが、昭和62年(1987年)、「月桂冠」が社名になりました。この年より、月桂冠大倉記念館が一般公開されました。周囲からもよく見える煙突です。これだけでも歴史を感じます。仕込み用の樽でしょうか。今もこんこんと湧き出る水は「さかみづ」と呼ばれています。この井戸は昭和36年(1961年)に新しく掘り直したものだそうです。酒造りには水が命ですからね。大切に守って来られたのでしょう。
2012年06月01日
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