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久しぶりの”UFO観測会”。まるで待ちかねたようにそれらしき宇宙機が出てきてくれました。コンパクト・デジカメであるため、それほど精度の高い画像ではありませんが、オレンジ色のUFOが2機、ほぼ同時に現れて、左右にシンクロしながら動いているように見えました。通常見る飛行機のライトよりも明るいです。私が来る前に、20機ほどが乱舞しているのを見た人もいたそうです。秋山氏によると、出現したのは金星系ヒューマノイドの「クラシカルな宇宙機」だそうです。2機がペアで動くのは、対極にある二つの性質をお互いに振動させることによってバランスを取ることを教えているとのことです。そのバランスの中に「愛」があるということらしいです。やはり来年は「坤」(大地、土)の年で、人類の愛情が試される年でもあるようです。乾いた土がボロボロこぼれるように、既存の制度もぼろぼろ壊れていくような現象が起こる可能性が高いそうです。坤の性質は受容性。包容力や受容力を理解する年ですね。ご参考にしてください。良いお年を!
2021.12.31
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ここで、ジュネーブから始まったヒッチハイクの旅を今一度振り返ってみましょう。 まず地図をご覧ください。例によって、推定移動ルートを赤線で示しています。 ジュネーブからフランスのアルプス地方に入り、モルジヌ、ラ・クルザ、アヌシー、グルノーブル、ディーニュを経て、コート・ダジュール(紺碧海岸)地方のニースまで南下しました。この間の移動距離は11日間で720キロほどです。 ここから西に進路を取り、カンヌ、ル・トラヤを経て、プロヴァンス地方に入り、エク・サン・プロヴァンス、フォルカルキエ、フォンテーヌ・ドゥ・ヴォクルーズ、ニームまで進みます。ジュネーブからニームまでの移動距離は1200キロほど。 さらに南西部のミディ・ピレネー地方に入り、ナルボンヌ、トゥールーズ、ブリ―ヴまで北上し、最後は西に向かって、大西洋岸地方のボルドーに到着したわけです。 この20日間にわたるヒッチハイクによる総移動距離は、実に推定で1900キロに及びます。でもこれはあくまでも、町から町へと最短距離で進んだと仮定した距離ですから、ドライバーの都合で大きく膨らんだり蛇行したりをせざるを得なかったことを勘案すると、2000キロは移動したかもしれません。この距離は青森から鹿児島まで車で走行した距離に匹敵します。 こうして、フランス・アルプスから大西洋岸のボルドーまでを大胆に横断するという「私のグレート・トラヴァース」は無事終了しました。トールキンの「ホビットの冒険」に比べたら大したことはありませんが、私の人生の中では非常に貴重な体験をした冒険旅行となりました。 到着した「ワインの郷(さと)」と称されるボルドーに話を進めましょう。 ボルドーは非常に大きな、歴史のある都市です。古代ローマの植民都市になる前は、ケルト人の港町があったことがわかっています。ピレネー山脈を水源とするガロンヌ川が三日月形に湾曲した南に沿って発展した貿易の町であったことから、「月の港(Le port de la Lune)」という異称もあります。ユースホステルは町の中心部から少し南に離れた南のほうにあり、近くにはガロンヌ川やボルドー第二大学があるアキテーヌ門があります。 町の中心で車を降りた私は、ユースホステルの住所に向かって、ボルドーの元日の風景を楽しみながら歩きました。 フランスの元日も、日本と同様に、街中は静かです。並木道もすっかり落葉して、それほど寒くはなくても、木枯らしが吹くような冬の景色でした。面白かったのは、公園で年配の男性たちが「ペタンク(pétanque)」に興じていることでした。1907年に考案されたフランス発祥の球技で、日本でいえば、ゲートボールのようなものでしょうか。プロヴァンス地方の方言「ペ・タンカ(pè tancat:足を動かさないで、あるいは足を地面に付けて)」に由来するそうです。地面に描いたサークルを基点として木製の目標球に金属製のボールを投げ合って、相手より近づけることで得点を競うスポーツです。私が子供ころにやったチェーンリングを使った遊びによく似ています。 日本の正月の凧あげや駒回し、羽子板などのことを少しだけ思い出しながら、フランスの正月の風景を目に焼き付けるようにして歩きました。 (続く)
2021.12.30
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元日の朝、簡単な朝食を取った後、アニェスはブリ―ヴの駅から電車でパリへ、私はヒッチハイクの旅の最終目的地であるボルドーへとそれぞれ向かいました。アメリカ人のグループはどこへ行ったのかわかりません。気づいたらいなくなっていました。真冬のヒッチハイカーの私よりも過酷な旅を続けていますね。 ボルドーはブリ―ヴの西にありますから、ユースホステルのある町の東外れから、西外れまで歩いて行かねばなりません。町の中心部を通り越して、西へとひたすら歩きます。郊外に程よいロータリー(環状交差路)を見つけたので、ボルドー行きの道を見つけ、その分岐点で車を待つことにしました。 20分ほど経ったでしょうか。ロータリーの反対側から2台の白バイに乗ったフランスの警察官がこちらに向かってやって来るのが見えました。どうしたのかなと思って彼らを見ていると、何と私のところまでやってきます。 客観的に考えたら当然ですよね。元旦早々、変な東洋人のバックパッカーが一人ヒッチハイクをしているのは実に怪しいことです。私もそう思います。どう見ても職務質問の対象になってしまいます。 白バイの二人は私のそばに止まって、身分証明書を見せてくれとフランス語で言います。私がリュックの奥の方に仕舞っておいたパスポートを取り出して見せると、「フランスで何をしているのか」と聞いてきます。そこで私はもう一枚の学生証を渡して、「私は日本人だが、イギリスのケント大学の学生で、冬休み中にヒッチハイクをしてフランスを旅しているのだ。専攻はフランス文学だ」と伝えます。学生証を見た警察官は「イギリスの学生か」と言ってうなずくと、学生証とパスポートを返してくれました。ちなみにイギリスはフランス語で「l’Angleterre(ラングルテール)」と言います。国名には女性系の定冠詞が付くので「La」(この場合は「L’」)が付いています。直訳すると、「アングル族(5世紀以降北ドイツから英国の移住したゲルマン族)の土地」となります。 彼らは私の説明に納得すると、元日の風のように颯爽と去って行きました。ちょっと緊張しましたが、フランス語で職務質問に答えるという経験ができて良かったです。 できれば、私の専攻がフランス文学と言ったときに、どの作品が好きなのかくらいは聞いてほしかったと思いますが、そういう突っ込みはありませんでした。この日は、その後まもなくヒッチハイクに成功、何回か車を乗り換えて、それほど苦労せずにボルドーに到着することができました。このあとはカンタベリーまでの電車のチケットがありますから、足の心配をする必要がなくなります。なんとか、生きてボルドーまでたどり着きました。ブリ―ヴからボルドーまでの推定移動距離は、200キロ強でした。 (続く)
2021.12.29
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大晦日の夜をアニェスと過ごし、1981年になってしまったからには、このブログも終わりにしなくてはなりません・・・・・・というのは冗談で、もともと「ザ・イヤー・オブ・1980」(1980年という年)というこのシリーズのタイトルは、「The Academic Year 1980-81(1980学年度)」といったような意味で、1980年の夏から1981年の夏までの一年間を振り返るという趣旨のブログでした。ですから1981年になっても、まだまだ続きます。通しのタイトルは今度考えるとして、一応次回からは「ザ・イヤー・オブ・1981」とタイトルを変えようと思います。 さて、1981年の幕開けをパリジェンヌのアニェスと一緒にブリ―ヴのカフェで迎えたところからでしたね。その後私たちは、再びユースホステルに歩いて戻って、それぞれの部屋で休みました。私はアメリカ人のグループを起こしてはいけないので、忍び足で寝床のセッティングをしなければならなかったので、大変でした。もっとも彼らは疲弊して深い眠りの中にいましたから、少しぐらいの物音を立てても私が帰ってきたことに気づかなかったと思います。 かくして1981年1月1日の朝を迎えるわけですが、その前に、1981年はどのような年だったのか簡単に紹介しておきましょう。 一月にアメリカでは、ハリウッドの二流役者と揶揄されたドナルド・レーガンが大統領に就任。「強いアメリカ」のイメージを前面に打ち出し、2月に経済再建計画「レーガノミクス」を発表します。その矢先の3月、20年ごとにやって来るとされる「テカムセの呪い」のせいか、暗殺未遂事件に巻き込まれ胸に重傷を負います。しかし、ここからレーガンが“名優”ぶりを発揮します。この危機を数々のウィットに富んだジョークで乗り切り、国際政治の舞台では「タカ派大統領」を熱演。イギリスの「鉄の女」マーガレット・サッチャーと共闘し、後にレーガン自身が名づける“悪の帝国”であるソ連に対抗する姿勢を鮮明にします。 フランスでは5月、グルノーブルのたかり屋さんが私に予想したように、社会党のフランソワ・ミッテランが現職のジスカール・デスタンを破り、社会主義者の大統領に就任。その直後にローマ教皇暗殺未遂事件があったことから、あたかもノストラダムスの予言が的中したかのようにフランスに「赤い薔薇」が咲きました。 暗殺を免れた人がいる一方で、10月にはエジプトのサダト大統領がパレードを観閲中に、未遂ではなく実際に暗殺されています。これも衝撃的な事件でしたね。空軍のフランス製ミラージュ6機が見事なアクロバット飛行を披露している最中に起きた暗殺事件というのも、意味深なシンクロニシティでした。 ほかに見ると、スペースシャトルが初めて打ち上げられたのも、エイズ患者が初めて見つかったのもこの年です。7月29日には、ダイアナ妃とチャールズ皇太子が結婚していますね。 それでは1981年元日朝に話を戻しましょう。 初めてのフランスの大晦日、初めてのビズなどフランスで初めて何々をするというのが続きましたね。もちろんフランスで迎える初めての元日とか、初めて訪れるボルドーなどは当たり前にあるわけですが、この日はちょっと違いました。この元日に、私は初めて警察官から職質、つまり職務質問を受けるからです。いきさつは次の通りです。 (続く)
2021.12.28
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さて、ここで不思議な話をしましょう。 私は1980年の大晦日の話をブログに書く前は、アニェスの名前を憶えていませんでした。ですから名前を忘れた「パリから来たフランス人女性」として紹介しようと思っていたんですね。名前をどうしても書こうとも思っていませんでした。 しかし本当に不思議なことが起こります。3、4日前(12月23~24日ごろ)に別のことをやっているときに、いきなり名前が浮かんできたんですね。それが「Agnès P×××××.(アニェス・パ××××)」だったのです。私はその時すぐに「ああ、そういえば、ブリ―ヴで出会ったフランス人女性の名前だな」と、どういうわけかほぼ40年ぶりに思い出します。ところが、他の仕事をしていたので、すぐにその名前を忘れてしまいました。思い出そうとしても思い出せません。 そして一昨日(12月25日)、「まあ、名前がなくてもいいか」と思って、パソコンに向かおうとしたとき、突然「アニェス・パ××××」という名前が再び浮かんだんですね。今度は忘れないうちにメモに書きましたから、今回「アニェス」という名前付きでご紹介できたわけです。 私はこの約40年間、この名前をおそらく一度も思い出したことがなかったのにもかかわらず、意識を41年前に飛ばしたことによって、その時の記憶につながり、名前を思い出すという奇跡のような不思議な体験をしたことになります。 どういうことかと言うと、たとえばスコットランドのハイランドで出会ったドイツのクリスティーヌや、この先リヒテンシュタインで会うことになる別人のドイツのクリスティーヌの名前は憶えていても不思議ではありません。その後、何回か手紙やはがきのやり取りをしているからです。ケント大学で出会ったフランス人のブリジッドや、マリ・ノエル、エレン、ノアらの名前を憶えていても当然です。学期期間中はほとんど毎日、顔を合わせていましたからね。忘れようにもなかなか忘れられません。しかしながら、アニェスは違います。この一度しか会っていないし、手紙やはがきのやり取りもしていません。 ではどうして当時、ファーストネームだけでなく姓も覚えているかというと、その2、3日後の1月2日か3日にパリでアニェスのところに電話を掛けたからです。ユースホステルで別れるときに、アニェスが「パリはいろいろな面白い場所があるから暇にはならないと思うけど、よほど暇だったら電話してね。でもあくまでも、本当に暇だったらよ」と言って、名前と電話番号を書いてくれたんですね。で、実際暇だったので、初めてフランス語で電話をするという経験をします。結局、私が暇でも向こうが暇ではなかったので、再会することはありませんでしたが、そのときに姓名が記憶庫に刻み込まれた可能性はあります。でも本当にそれっきりで、それ以外に連絡を取ろうとしたことは全くありません。特に名前に関しては、メモなどとっくに失くしているし、ほとんど記憶の埒外でした。彼女の名前を憶えていること自体が奇跡です。 それでも思い出したということは、何かそこに意味があるのでしょう。その意味はいずれ明らかになるとして、一度目に思い出したのがクリスマス・イヴごろで、二度目に思い出したのがクリスマスの日だったわけですから、とりあえずは「クリスマスの奇跡」ということにしておきましょう(笑)。 (続く)
2021.12.27
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アニェスが「フランス人の大晦日の過ごし方を教えてあげる」というので、二人で歩いて15分ほどのブリ―ヴの街中まで繰り出しました。 それほど大きな町ではないのですが、大晦日の夜のブリ―ヴの町中は多くの人たちが集まっていました。カフェのようなお店があり、そこにスペースがあったので、そこに陣取ります。たぶんカフェオレか何かを注文したと思います。店内は結構ごった返していました。彼女はフランスでの大晦日の過ごし方を説明、私は日本では除夜の鐘がなることや初詣など大晦日の過ごし方を説明したりしながら、賑やかな雰囲気の中で時が過ぎて行きました。 そうこうしているうちに、店の中でカウントダウンが始まります。そう、あと10秒で新しい年「1981年」が明けるわけです。フランス語の勉強を兼ねて、フランス語でカウントダウンしてゆきましょう。 10 Dix(ディス) 9 Neuf(ヌフ) 8 Huit(ユィット) 7 Sept(セット) 6 Six(シス) 5 Cinq(サンク) 4 Quatre(キャトル) 3 Trois(トロワ) 2 Deux(ドゥ―) 1 Un(アン) 0 Zéro(ゼロ)――。 「Bonne année ! (ボンナネ: 明けましておめでとう!)」 そう言うと、アニェスも立ち上がって、「フランスではこうするのよ」と私の両頬にチュッと「ビズ(bise)」というキスのような挨拶をしてくれました。よくフランス映画で見かける挨拶です。ただしキスとはいっても、実際には、唇は頬には触れず、頬と頬をくっつけて「チュ」という音を鳴らすだけです。街のあちらこちらで皆やっておりました。 新年のあいさつは、「Bonne année」のほかに、「Meilleurs Vœux (メイユール・ヴー : 良いお年を )」 「Bonne santé et plein de bonne chose (ボンヌ・ソンテ・エ・プラン・ドゥ・ボンヌ・ショーズ:健康でいいことがたくさんありますように)」などの言葉あります。 私がフランス式に新年を祝ったのはこれが最初で、その後はやったことがありません。ですから、人生で忘れられない大晦日の夜でもあるわけです。 (続く)
2021.12.26
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食卓に食料を並べていると、そこへ20代後半くらいの女性が入ってきたんですね。先ほどユースホステルに着いたのだけど、私以外ほかに誰もいないことがわかり、一人で食事をするのも寂しいから一緒に夕食を食べましょう、と彼女は言います。記憶が定かではありませんが、名前は確かアニェス(Agnès)。英語読みだとアグネスですね。パリで生まれ育ったパリジェンヌで、とても動きやすそうで小奇麗な服を着ておりました。もちろん一人で侘しく食事をするより二人で食事をした方がずっと楽しいので大歓迎です。 やはり彼女も私と同じで、大晦日なら若者がたくさんユースホステルに宿泊しており楽しいだろうと思って、この地方の友人宅を訪ねた後ここに泊まることにしたのだと言います。まったくこんなに閑散としているなんて、私たちにとっては全く予想外の事態でした。 夕食では、お互いが購入した食材を分け合いました。美食家が多いというフランス人だけあって、彼女が選んだチーズやハムはとても美味しかったと記憶しています。会話はほとんどがフランス語で、私がわからなくなると、英語で話してくれました。彼女からはパリの生活のことを中心にフランスのあらゆることを聞いたはずですが、今ではほとんど記憶に残っていません。とにかく、お互い身振り手振りを駆使していろいろな身の上話をしながら、三時間以上は二人きりで食事の時間を過ごしたように思います。実にまったりとした時間でした。 しかしながら、この日はこれだけで終わることはありませんでした。パリジェンヌとの二人きりの夕食会のひと時の静けさは午後10時半ごろ、今度は大勢の来訪客の騒音によって打ち破られます。その時私たちは食後のコーヒーか何かを飲むために、ガランとした食堂ではなく、男性用大部屋寝室のそばにラウンジのような場所で話しをしていたのですが、そこへ大きな荷物を背負った男ばかりの8人ほどのグループが突如ドカドカとやってきました。ユースホステルではよく遭遇しますが、長いことお風呂にも入っていないようで、かなり汗臭い人たちです。 話しを聞くと、彼らはアメリカ人のグループで朝から12時間以上歩き続けて、今(午後10時半)ようやく目的地であるユースホステルに到着したのだとか。いったいどこから来たのかは聞きそびれましたが、時速4キロで歩いたとして約50キロの距離を重い荷物を背負って歩いてきたのでしょうか。私のヒッチハイクよりもはるかに過酷です。 この日は実際に過酷な移動だったらしく、彼らは挨拶もソコソコにして、私たちの存在をほとんど無視して寝袋にくるまって次々といびきや寝息を立てて眠り込んでしまいました。本当に疲れていたんですね。行軍訓練を目の当たりにしているようでした。大晦日の夜であるにもかかわらず、私語などほとんどなく寝袋に入っていましたから、本当に米兵の訓練の一環だったのかもしれません。 疲れている彼らの休息を邪魔してはいけないので、アニェスの提案により私たちは外に出かけることにしました。時計は午後11時を回っていたと思います。もうすぐ1980年も終わり。1981年がすぐそこまでやってきていました。 (続く)
2021.12.25
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今日の出来事は、私的な開花宣言です。何の花かと言うとそれはこちら。梅の花です。いつも冬至のころに咲き始めます。こちらにも一輪。そして、こちらにも。白難波という品種です。このほかにも文字通り「冬至」という梅も咲きそうだったのですが、つぼみが膨らんでいるだけでした。明日も暖かければ、もっと咲きそうな感じでした。大晦日の出来事ならぬ、イヴの出来事をご紹介しました。
2021.12.24
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若者たちで賑わっているはずなのに、誰もおらずガランとしているユースホステル――。何か拍子抜けというか、がっかりというか。日本人が家族の団欒を最も大事にする大晦日に、大きな建物の中で一人だけポツンといると、寂寥感が自然に溢れ出してきます。 しかし、この寂寥感というのは、実は私の子供のころからの“友達”でもありました。私は小学生のころから勉強もスポーツも何でもできて、かつ「気は優しくて力持ち」タイプでしたから、クラスの人気者の一人でした。ところが、他の人たちと全く異なる感性を持っていたため、いくら友達や先生に説明しても理解してくれないという寂しい体験を何度もしているんですね。自分では確信を持っている体験も完全否定されてしまうので、いつしかその体験を説明することすら諦めるようになりました。自分ではわかっているのに誰も理解してくれないというのは、寂しく辛いものです。それが子供時代から常に私のそばにいた“友達”の「寂寥感君」の正体です。 だから大晦日にポツンと一人でいても、自分自身に対して「当たり前のように楽しく過ごせる」と強がりを言うことができるわけです(笑)。 そんなわけで、午後6時半ごろでしょうか、仕方なく、一人侘しく食堂で夕食の準備をしていた時です。突然、その寂寥感を吹き飛ばすようなことが起きました。まさに大晦日の夜の出来事です。 (続く)P.S. 今日は短いですが、ここで「続く」です。後で「今日の出来事」をアップするかもしれません。
2021.12.24
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この年の大晦日は、私の人生でも忘れられない日となりました。この日は水曜日で、ケント大学を離れてちょうど20日目となります。その一週間前の水曜日はクリスマス・イヴで紺碧海岸のトラヤ。その前の水曜日はアルプスの近くのアヌシーにいて、南を目指しておりました。この20日間、ずいぶんとフランス中を飛び回ってきたものです。ゴールであるボルドーはすぐそこです。 トラヤのユースホステルのクリスマス・イヴはそれなりに楽しかったですから、きっと大晦日も皆でガヤガヤ騒ぎながら楽しいのだろうと思って、この日もユースホステルに泊まるつもりでした。 例によって風任せ、運任せのヒッチハイクの旅ですから、どこまで行けるかは運転手次第です。移動距離と時間の関係から、この日は、ペリゴール地方のブリ―ヴのユースホステルに泊まることになりました。 ナルボンヌからブリーヴまでの推定ルートは次の通りです。 ナルボンヌからの距離は約350キロ。この日はモントーバンから出発したのだとすると、約150キロ移動したことになります。 インターネットで地図を見ると、私が泊まったブリ―ヴのユースホステルは今でもユースホステルとして使われているようです。町の中心部から500メートルほど東に離れた同じ住所に建物が建っておりました。外も中も改装したような感じです。 町に着いてほどなく、ユースホステルに辿り着いたのですが、すぐに問題が発生しました。大晦日なので若者たちでにぎわっているのかと思ったら、誰もいないんですね。つまり宿泊客は私一人だけという有様です。 チェックインしたのは、多分午後4時ごろだったと思います。その日の食料の買い出しに行って戻ってきても、やはり誰もいません。何と寂しい大晦日! でもほかに行くところはありませんから、このガランとした大きな建物の中で一人寂しく大晦日を過ごさなければなりません。 (続く)
2021.12.23
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ところで、ヒッチハイクをしていた私を拾ってくれた地元の人からジャガイモなどの根菜類や果物を分けてもらったと先日書きましたが、これには後日談があります。 その時の経験を私は日本に帰った後、ある大手広告代理店の入社試験の作文(お題は「うまい」)に書いたことがありました。ヒッチハイクが上手くいかず「まずい」とつぶやくところから始まって、最後は乗せてくれたドライバーから根菜類までいただき「うまい」とつぶやくという他愛のない作文なのですが、面接官からは絶賛されました。あまりにもいい出来だったらしく、面接で「お前が本当に書いたのか」と問いただされる始末。私にとっては当たり前の作文だったので、「提出期限の前日に夕食を食べた後、1時間ほどでササっと書き上げました」と正直に答えたら、面接官は下を向いたまま黙ってしまいました。 つまり私が言いたことは、作文が上手くなりたければ、面白い、豊かな経験をすればいいということなのです。自分の感性を研ぎ澄ませながら、心躍るような経験や胸が熱くなるような体験をすれば、良い作文が書けるのです。経験・体験はその人の財産になります。ネス湖のネッシーを取り上げて作文にした「光」もそうですが、経験・体験の引き出しが増えれば、どのようなお題が出されても、体験に即した説得力のある作文が書けるようになるんですね。 それは新聞記者にも当てはまります。先輩がよく私たちに言ったのは、「お前たちはいい記事を書くにはどうしたらいいかとすぐに聞いてくる。答えは簡単だ。足を使って現場に行き、多くの人の話を聞くなど取材をたくさんすればいいのだ。豊富な取材をすれば、おのずと良い原稿が書けるのだ」ということです。 豊かな感性、豊富な取材、奥深い体験――。これらがあなたの作品を深め、豊かにするコツだということですね。芸は身を助けると言いますが、私の場合は、作文力によって自分の人生を切り開いていくことができたのだと思っています。 (続く)
2021.12.23
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大雪が降ったのは27日だけで、その後28日からは天候は再び回復。寒い日は続きましたが、おおむね曇りか晴れのまずまずの天気でした。 28日に宿泊したナルボンヌは、古くからピレネー地方への玄関口となる交通の要所でした。その歴史は、紀元前118年に古代ローマが建設した植民市「コロニア・ナルボ・マルティウス」から始まりました。野生ブドウの自生地であったことから、古くからワインを生産していたようです。そうです。ボルドーで有名なフランス南西部はブドウ畑が延々と続く地方でもあるんですね。 翌29日の月曜日。地中海に面したナルボンヌに別れを告げて、ピレネー山脈沿いに北西へと進みます。いよいよワインの産地で有名なボルドーが近づいてきました。西海岸、つまり大西洋側まであともうちょっとです。 南西フランスの中心都市トゥールーズ(Toulouse)まで来た後、北に進路を取ります。いつものように、私が希望したというより、運転している人の都合で北進するルートをたどりました。 ただ、29、30の両日はナルボンヌから205キロ離れたモントーバンの周辺で宿泊した可能性が高いということしかわかりません。モントーバンのユースホステルには多分一泊したと思いますが、もう一泊がどこだかわからないんですね。 記憶の中では、とてつもなく長い一直線の道をヒッチハイクした映像が出てきます。本当に真直ぐな直線道路なのですが、上下に波打っているアップダウンの激しい変わった田舎道でした。はるか遠くの直線上の丘の上に車が現れると、延々と丘と谷の上下動を繰り返して、五分くらいしないと近くまで来ないんですね。通り過ぎると、そのまま真直ぐの道をはるか彼方まで走って行くのを見送ります。車の本数も少なくて、本当にこんなところで拾ってくれるドライバーがいるのだろうか、と心配になった記憶があります。 その時のドライバーかどうかわかりませんが、地元の風景を説明してくれる地元の年配の男性もおりました。遠くの山の風景を示しながら、城塞のように見えるけれど、あれは自然にできた山の輪郭なのだなどと話してくれたのを覚えています。そして車から降りる際に、トランクに積んであったジャガイモなどの根菜類や果物を分けてもらった記憶もあります。ユースホステルで調理出来ますから、非常にありがたかったです。 私が覚えているのは、そこまで。そして、12月31日の大晦日。ラスコーの壁画など先史時代の洞窟や遺跡が数多く見つかっているペリゴール地方に入りました。 (続く)
2021.12.21
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ここでちょっと訂正があります。実は12月28日前後に南仏では非常に珍しく大雪に見舞われた記憶がありました。それがナルボンヌに着いた28日ごろではなかったかと思っていたのですが、南仏の過去の積雪の記録を調べたら、積雪があったのはニームに到着した27日だったことがわかったんですね。さらに当時のニームの天候を調べたら、ほぼ一日中雪が降り続け、午前9時から午後3時までの温度が華氏32度、すなわち摂氏ゼロ度だったこともわかります。 私の記憶とも一致します。 つまり、ニームに宿泊した27日が大雪だったわけです。そうだとしたら、ニームではユースホステルではなく、民宿みたいな安ホテルに泊まりました。どうしてかと言うと、ホワイトアウトするような吹雪に遭遇して、ユースホステルを探す余裕もなかったんですね。とにかく目の前の宿に飛び込まなければならないほど、寒かったということです。 まさに遭難しそうな悪天候の中、最後にニームまで乗せてくれた人(家族)は、今でもよく覚えています。雪まみれになってヒッチハイクしている私を哀れに思って乗せてくれたのですが、それが家族連れの、大きなキャンピングカーのようなバンだったんですね。その中で奥様から手作りのクッキーとコーヒーをご馳走になった記憶があります。私がクッキーをいただいて「ça goute tres bon.(とても美味しいです)」と感想を述べたら、その奥様は「サ・ヌ・マルシュ・パ(ça ne marche pas.)」(「お世辞なんて言っても効果ないわよ」という意味)と答えていました。そのような思い出があります。その日泊まった安宿のこともよく覚えています。あまりにも寒かったので、たぶん午後3時ごろチェックインしたのですが、暖房が効いておらず、部屋の中も冷凍庫状態でした。暖房をつけてほしいと頼んだのですが、結局部屋が暖かくなったのは午後5時からでした。その間、私はスキーウェアを着たまま、ベッドの中で暖を取っておりました。 28日は雪も止み、天候が回復したので、ナルボンヌまで順調に移動できたというわけです。 (続く)
2021.12.21
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ニームのユースホステルでゆっくりと休んだおかげか、疲れもある程度取れて、翌12月28日の日曜日は順調にヒッチハイクの旅をすることが出来ました。ちなみにヒッチハイクすることをフランス語では、「faire du stop」と言います。文字通り、車などをストップさせることですね。 この日はプロヴァンス地方の西端に位置するニームを出発、フランス南西部のラングドック・ルション(Languedoc-Roussillon)地方を経て、ピレネー山脈を背後に控えたミディ・ピレネー(Midi-Pyrénées)地方の玄関口であるナルボンヌ(Narbonne)まで進むことができました。ヒッチハイクの推定移動距離は、約150キロでした。累計推定移動距離はジュネーブから数えると、優に1300キロは超える計算です。 ヒッチハイクで1300キロと言っても、ピンと来ないかもしれませんが、簡単に言うと、東京から車で関門自動車道を経由して鹿児島まで走った距離に相当します。まだ今回のフランスの旅が終わったわけではありませんが、既に本当に随分長い距離をヒッチハイクで旅したなと思います。10~20キロの距離のヒッチハイクが成功して喜んでいたスコットランド旅行のころと比べると、格段の進歩です。ただし、「進歩」なのか「退歩」なのかは解釈が分かれるところですね。 当時の私にとってヒッチハイクは、とても重要な手段でした。フォルカルキエであったように地元の人と直接触れ合うことができますし、なによりフランス語の勉強になります。ただの移動手段ではないんですね。だから車に乗せてもらったときは、なるべくフランス語を話すようにしました。 疲れていても決して眠ることはありません。常に運転手のことを気に駆けるようにしていました。エク・サン・プロヴァンスかニームのような大都市の手前だったと思いますが、単調な道が続く幹線道路で、私ではなく運転手がウトウトし始めそうになったことがありました。その時は、「La route ici est très monotone.(ここの道路はとても単調ですね)」と意図的に声を掛けました。すると、運転をしていたその年配の紳士風の男性がハッとして目を見開き、「Oui, oui. C’est très monotone. (ああ、本当だ。とても単調だね)」と返事をしてくれました。そのときも、何事もなく目的地に到着することができました。 危険を回避できないこともありました。プロヴァンス地方の田舎道だったと思いますが、悪路の続く山道で、カーブを曲がったところで、道路上に30~40センチほどのごつごつした大きな石が目の前に落ちていてよけきれず、タイヤがパンクしてしまったこともあります。運転手と二人でタイヤをその場で交換して、先へと進みました。車の外は結構寒かったような記憶があります。でも、その時の経験が役に立ち、後に雪国富山に赴任したときも、タイヤの交換はお手の物でした。 そうした一つ一つのエピソードが挙げると、切りがありません。ただ、そうしたエピソードの一つ一つも、歳月が経つとセピア色にかすれて行き、場所も時間も人の顔さえもわからなくなり、最後はシェイクスピアが言うように「忘却の彼方(mere oblivion)」へと消えてゆきます。 フランス人はよく口癖のように「セ・ラ・ヴィ(C'est la vie.)」(それが人生さ)と言いますが、まさにそれが「人の一生」というモノなのでしょうね。 この日の推定移動ルートです。 例によって青線が推定ルート。一番長いルートだと170キロ、最も短いルートでは143キロとなっています。いつも最短距離で到達することはありませんから、だいたい150キロと見積もりました。(続く)
2021.12.19
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フォルカルキエからは進路を西に取りました。そうすれば、よりボルドーに近づくことになりますね。この辺りの地方は、アルプ・ドゥ・オ・プロヴァンス(Alpes-de-Haute-Provence)、直訳すると「奥プロヴァンスのアルプス」と呼ばれ、山、谷、丘、川、泉など本当に美しい自然豊かな田舎の風景が広がっています。多くのフランス人観光客が夏になると押し寄せるのもよくわかります。 そのような田舎の道を西へ進むこと約80キロ(直線距離だと60キロほど)。この日の目的地でもあったフォンテーヌ・ドゥ・ヴォクリューズ(Fontaine-de-Vaucluse)のユースホステルに到着しました。何となく夕暮れ時に着いた記憶がありますから、午後5時にはなっていたでしょうか。当日朝出発したエク・サン・プロヴァンスから約150キロ移動した計算です。 町の名前から来る印象はとても良いのですが、私の記憶庫にしまい込んであるはずの映像が出てきません。写真に撮っていれば、もっと鮮明に思い出せるんですけどね。カメラを持っていなかったことが悔やまれます。現在ならコンパクトなデジタルカメラが普及していますが、当時はそのような便利なカメラがない時代でしたから、致し方ありませんね。 翌27日の土曜日。観光もソコソコにして、さらに西を目指しました。この日は中世の城壁に守られた古都アヴィニョンを通過して、フランス最古のローマ都市であったことで知られるニームまで進みました。 この日の推定移動距離は約85キロ。進もうと思えば、もっと先に行けたかもしれませんが、旅の疲れもピークに達していることもあり、休息時間を多くとることにしました。そのためか、ニームで何を見たのか全く覚えていません。疲れていて観光どころではなかった可能性もあります。とにかくなるべく早く西のボルドーに行くことばかり考えていたように思います。大晦日がすぐそこまで迫っていましたからね。この二日間のうちフォルカルキエからニームまでの移動ルートを地図で記しておきます。青い線が推定される移動ルートです。推定移動距離は約165キロです。 (続く)
2021.12.18
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私が取ったルートは一見すると、当面の目的地ボルドーから遠ざかるような方角(北北東)ですが、結果的にヒッチハイクがしやすくなり、比較的にスムーズに移動することができるようになりました。やはりヒッチハイクをするのは田舎の道が適しています。 このルートのおかげで、私が生涯忘れることのない場所にも行くことができました。それがエク・サン・プロヴァンスから北北東に70キロほど離れた山間の町フォルカルキエ(Forcarquier)です。位置としては、プロヴァンス地方、コート・ダジュール地方、アルプ地方が重なった場所にあります。 どうして生涯忘れられない場所になったかというと、私を車に乗せてくれた女性がとても親切で、フォルカルキエで暮らしており、その町を心から愛していたからです。友人の家に行く途中だったので急いでいたにも関わらず、フォルカルキエの美しさや魅力を、車を時折止めながら熱心に説明してくれました。 確かにフォルカルキエはとても美しい町でした。リュア山地とリュベロン山地の麓にある町で、中心には八角形の礼拝堂「ノートルダム・ドゥ・プロヴァンス」が頂上に建っている円錐形の小山があります。かつては礼拝堂ではなく、城がそびえていました。その小山の周囲に街が築かれたんですね。 その女性によると、この周辺はプロヴァンス地方でも最も美しい風景が続くエリアで、後期印象派のフランス画家セザンヌや、オランダ生まれの画家ゴッホがこの地方の絵を好んで描いたそうです。彼女自身も趣味で絵を描くと話していました。 本当に親切な人で、フォルカルキエで私を降ろしたときに、友人宅から帰るときに、まだヒッチハイクができないようだったらまた乗せてあげると言ってくれました。この町の人たちは本当に優しい人たちなのだなと思いました。 実際、彼女の車から降りてからほどなく、別の人がすぐに私を車に乗せてくれました。 ニースから、ル・トラヤ、エク・サン・プロヴァンス、フォルカルキエに至る大まかなルートを地図に記しました。青い線がカンヌのそばのル・トラヤからエク・サン・プロヴァンスを経て、フォルカルキエに至るルートです。運転手次第なので実際はもっと蛇行していると思いますが、ルートの概要がわかっていただけるのではないかと思います。 (続く)
2021.12.17
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私が取ったルートは一見すると、当面の目的地ボルドーから遠ざかるような方角(北北東)ですが、結果的にヒッチハイクがしやすくなり、比較的にスムーズに移動することができるようになりました。やはりヒッチハイクをするのは田舎の道が適しています。 このルートのおかげで、私が生涯忘れることのない場所にも行くことができました。それがエク・サン・プロヴァンスから北北東に70キロほど離れた山間の町フォルカルキエ(Forcarquier)です。位置としては、プロヴァンス地方、コート・ダジュール地方、アルプ地方が重なった場所にあります。 どうして生涯忘れられない場所になったかというと、私を車に乗せてくれた女性がとても親切で、フォルカルキエで暮らしており、その町を心から愛していたからです。友人の家に行く途中だったので急いでいたにも関わらず、フォルカルキエの美しさや魅力を、車を時折止めながら熱心に説明してくれました。 確かにフォルカルキエはとても美しい町でした。リュア山地とリュベロン山地の麓にある町で、中心には八角形の礼拝堂「ノートルダム・ドゥ・プロヴァンス」が頂上に建っている円錐形の小山があります。かつては礼拝堂ではなく、城がそびえていました。その小山の周囲に街が築かれたんですね。 その女性によると、この周辺はプロヴァンス地方でも最も美しい風景が続くエリアで、後期印象派のフランス画家セザンヌや、オランダ生まれの画家ゴッホがこの地方の絵を好んで描いたそうです。彼女自身も趣味で絵を描くと話していました。 本当に親切な人で、フォルカルキエで私を降ろしたときに、友人宅から帰るときに、まだヒッチハイクができないようだったらまた乗せてあげると言ってくれました。この町の人たちは本当に優しい人たちなのだなと思いました。 実際、彼女の車から降りてからほどなく、別の人がすぐに私を車に乗せてくれました。 ニースから、ル・トラヤ、エク・サン・プロヴァンス、フォルカルキエに至る大まかなルートを地図に記しました。青い線がカンヌのそばのル・トラヤからエク・サン・プロヴァンスを経て、フォルカルキエに至るルートです。運転手次第なので実際はもっと蛇行していると思いますが、ルートの概要がわかっていただけるのではないかと思います。 (続く)
2021.12.17
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翌12月25日、木曜日。クリスマスの日ですね。 ユースホステルのホストは、祭日だからもう一日ゆっくりしていかないかと勧めてくれましたが、私は先を急がなければならないと断って、午前9時半ごろにはチェックアウトしました。何しろ、ボルドーには一月初旬には辿り着いていないといけません。1月7日からケント大学の新学期の授業が始まりますから、遅くとも1月5日か6日にはボルドーから電車に乗って帰路に就く必要があります。風光明媚な観光地だったのでのんびりしたい気持ちは十分にありましたが、そう言ってもいられません。 しかしこの日も、ヒッチハイクは苦戦しました。幹線道路での可能性は皆無に等しく、なるべく交通量の少ない道路を利用して、西へと進みました。何度も車を乗り継いで、フランス人があこがれる夏のヴァカンスの避暑地である「プロヴァンス(Provence)」地方に入ります。最後は幹線道路を使って、ようやく一日がかりで同地方の首都エクス・アン・プロヴァンス(Aix-en-Provence)のユースホステルまでたどり着きました。この日の移動距離は150キロを超えました。 翌26日の金曜日は作戦をちょっと変更して、車の少ない田舎の村伝いにヒッチハイクすることに決めました。そのほうがはるかにヒッチハイクしやすいからです。そのためにはまず、エクス・アン・プロヴァンスのような大都市から脱出して郊外に行かなければなりません。 長い距離を歩いた末に、ようやく北に脱出するルートを発見。とりあえず北上することにしました。 (続く)
2021.12.16
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外国の地で迎える初めてのクリスマス・イヴ。ワクワクする一方で、キリスト教徒でもないのに、なぜキリストの誕生を祝うのかという疑問もあります。もっともな疑問ですが、そこはあまり気にしないのが日本人の宗教的なおおらかさですね。 それに関連して、次のような話があります。代々、神道家の血を継ぐ女性がドイツの教会専属パイプオルガン奏者になるためにキリスト教徒にならなければならなくなりました。そこで神道家の祖父にキリスト教徒になってもいいか尋ねにいったところ、「いいよ。(神道もキリスト教も)同じだから」という答えが返ってきたそうです。第73世武内宿禰を名乗った竹内神道神主の故竹内睦泰氏も「すべてを抱きしめるのが神道」とよく言っておりました。 確かに何色の神であっても、神は神です。キリストだろうと仏陀だろうと、すべてを内包してしまえばいいわけですね。それが神の定義でもあるからです。 私はキリスト教徒でも何信徒でもありませんが、幼稚園がキリスト教(プロテスタント)系だったこともあり、「冬のお祭り」としてクリスマスには慣れ親しんでおりました。その幼稚園には日曜学校があり、日曜日ではなく月曜日が休日でした。日曜学校に出席して聖書の物語を聞くと、いろいろな絵が描かれたカードがもらえるので、カード欲しさに日曜日でも幼稚園にせっせと出かけていました。 また、私が当時学籍を置いていた国際基督教大学も「キリスト教精神」が教育の支柱になっていましたから、キリスト教文化は身近に感じておりました。特に大学構内にある礼拝堂で聞くパイプオルガンが好きで、チャペルの時間には礼拝堂を時々訪れ、頭を休める意味もあり、讃美歌やパイプオルガンの音色を、目をつぶって半ば瞑想しながら(時には本当に眠りながら)傾聴しておりました。 まあ、それだけキリスト教文化や精神に慣れ親しんでいたわけですから、クリスマス・イヴの晩餐会に出るのは、少なくとも苦痛ではありませんでした。 ちなみに、フランス語でメリー・クリスマスは、「ジョワイユ・ノエル(Joyeux Noël)!」と言います。 その日の晩餐会は、実際とても楽しかったです。ホスト自らも参加。室内は本当に綺麗に装飾されておりました。「ブッシュ・ド・ノエル(bûche de Noël)」という木を模したクリマス・ケーキも出たと思います。皆でクリスマスの歌を歌ったりしたのを覚えています。途中で、私に何か独唱しないかとホストに要請されましたが、そのときは何を歌えばいいか浮かばず、パスさせてもらいました。でも、よく考えると、私は当時、ラテン語でクリスマスの讃美歌である「Adeste Fideles(邦名:神の御子は今宵しも)」を歌えたんですね。必修科目のラテン語の授業で暗記させられました。アジアの東の外れから来た日本人がラテン語でクリスマスの歌を歌えば、かなり受けたはずです。それを歌えばよかったと後から思いました。後悔先に立たず、ですね。 こうして、異国で初めて経験したクリスマス・イヴは、あっという間に過ぎて行きました。 (続く)
2021.12.15
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12月24日の水曜日。クリスマスの前日ですね。ニースのユースホステルをチェックアウトします。しかし間もなく、暖かい気候とは裏腹に、南仏では私は結構厳しい試練に直面します。まだ全行程の3分の1ほどしか進んでいないことがわかり、私は先を急ぐことにしたのですが、不測の事態が起こったんですね。高級リゾートが続く紺碧海岸ではヒッチハイクがかなり難しいことが判明したんです。それはそうです。自分の富を危うくする可能性がある、得体のしれない人物を、裕福な人たちが車に乗せたいはずがありませんものね。 特にバックパッカーは高級リゾートではあまり快く思われません。南仏では私は、ヴェトナムからの難民か移民とよく間違えられました。確かに私も冬休み中は寮を追い出されたわけですから、「冬休み難民」であることには違いありません。私がヴェトナム人ではなく日本人だと言うと、ほとんどの人が驚いていました。経済大国で金持ちの日本人がバックパッカーをしているのは、多分南仏では珍しかったのでしょう。 紺碧海岸でのヒッチハイクは本当に困難を極めました。ここなら止まるだろうと思った場所で待っても、一向に止まってくれません。たいていは一時間くらい待てば、一台くらいは必ず止まってくれるのですが、ここでは二時間待っても一台も止まらないこともありました。 それでも少数ですが、気にかけて止まってくれる人がいました。乗せてくれた人は、「ここではヒッチハイクは難しいよ」と教えてくれます。金持ちを狙った犯罪も多いので、皆警戒しているのだとか。「ピストルを持って脅されたら、おしまいだからね」と言います。そこで私がふざけて内ポケットからピストルを取り出す真似をすると、「おいおい、冗談はやめてくれ」と真顔で言われてしまいました。それだけ犯罪が現実味を帯びているということなのだと理解しました。 そういえば、米仏間の麻薬密売事件を題材にした米映画『フレンチ・コネクション』の舞台となったマルセイユも南仏で、ニースなどの紺碧海岸のすぐそばです。犯罪組織があちらこちらで暗躍しているのかもしれません。 この日は、ニースから映画祭で有名なカンヌの先の「ル・トラヤ(Le Trayas)」までの約53キロをヒッチハイクで移動したのですが、朝早く出たにもかかわらず、ル・トラヤのユースホステルに辿り着いたのは、午後5時近くでした。地中海を望む崖の上にある、とても素敵なユースホステルです。 チェックインすると、年配の白髪の男性がホストとして迎えてくれました。空室があるそうです。ちょうどクリスマス・イヴの晩餐会を開催するというので、私も参加させてもらいました。 (続く)
2021.12.14
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スイスのジュネーブから始まったフランスの旅は、アルプス山脈に沿う形でローヌ・アルプ(Rhone-Alpes)地方をメルカントゥール国立公園まで南下。そこから冬でも暖かい気候で知られる南仏のプロヴァンス(Provence)地方や「紺碧海岸」と形容されるコート・ダジュール(Cote d‘Azur)地方に入ります。そこに泊まったかどうかは覚えていませんが、その両地方への入り口となる分岐点がディーニュ(Digne)でした。正式にはディーニュ・レ・バン(Digne-les-Bains)と書きます。 ディーニュに泊まったかどうかは覚えていませんが、そこから南西の方角に降りて行けばプロヴァンスで、南東の方角に降りて行けばコート・ダジュールです。どちらに行くかは私を拾ってくれる運転手次第ということになります。まさに「サイコロの旅」。その人は、後者を選んでくれました。 クリスマスが目前に迫った12月23日、火曜日のことです。紺碧の海岸に初めて降り立ちました。冬だというのに、何と燦燦と太陽が輝いていることか! 19世紀の仏詩人シャルル・ボードレールもここに住めば、短い夏を嘆く必要はなかったですね。 驚いたのは、海岸のビーチ(砂浜)では水着でビーチバレーをやっていることでした。半袖で歩いている人も多く見かけます。これまで旅した厳冬のアルプスからは想像もできない別天地。片や私は、真冬に遭難しないように、オーバーズボンなどのスキーウェアで身をまとった重装備のバックパッカーです。場違いな人物であることは誰の目にも明々白々でした。 すぐにユースホステルにチェックインして、軽装備に着替えて、街中をショッピングします。まずは食料の調達をしなければなりません。 ニースではショッピングのほかに、陽光を楽しみました。地中海を吹き抜ける風の中で太陽を浴びると、まるで天国です。イギリスの冬は午後4時には真っ暗になりますが、ここでは、午後5時まで明るいです。 しかし、イギリスを離れて12日目。ジュネーブからニースまで山岳地帯を越えながらヒッチハイクした距離は、概算で優に700キロを超え、旅の疲れもピークに達しています。体を少しでも安ませるため、ユースホステルではほとんど眠っておりました。 ここまでの大まかなルートを地図(グーグルマップを使用)で示します。 赤字の線が通ったおおよそのルート。訪れた主要都市の名前が丸で囲ってあります。 そしてこちらが旅の全体がわかる地図。 目的地のボルドーは遥か西の外れにあります。ボルドーは緯度的にはグルノーブルとほぼ等しいですね。まだこれまでの倍の1400キロ以上はヒッチハイクしなければならないようです。本当に行き着けるのでしょうか。 (続く)
2021.12.13
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グルノーブルからニースまでの“ミッシングリンク(失われた環)”は、今となっては思い出の中を推理してたどるしか方法がありません。わかっている事実は、その間を3~5日にかけてヒッチハイクをしながら移動したということだけです。カレンダー上は12月19日から23日までのことです。 幸いなことに、思い出の中にはいくつかの断片的な映像が仕舞ってあります。その一つは、高原地帯、あるいは山岳地帯の田舎道をヒッチハイクしていたという映像です。ある高原の、ロッジが密集しているリゾート地付近で車から降りることになった私は、そこで大勢のバックパッカーたちが私と同じようにヒッチハイクしている光景に出合いました。ヒッチハイカーたちは20人近くいて、それこそ鈴なりになって道路で止まってくれる車を待っているんですね。 こんなに混雑したところで彼らと一緒にヒッチハイクをしたら、日が暮れてしまいます。そこで私は、人が疎(まば)らになるもっと先のほうへ歩いて行くことにしました。その場所から二キロは歩いたと思います。後ろから車が来る気配がしたので、振り返って親指を上に立ててヒッチハイカーであることを示すと、その車はすぐに止まってくれました。 人間の心理とはそういうものです。大勢がヒッチハイクしている場所で、車を止めようとする人は稀です。むしろ交通量の少ない静かな場所のほうが車を止めやすいのです。交通量の多いところではヒッチハイクは成立しません。田舎道であればあるほど成功する確率は高まります。 その高原ロッジが密集するリゾートがどこであったのかはわかりません。地図で調べると、私が多分通ったであろうとみられるルートは、アルプス山脈の南に位置するメルカントゥール国立公園を抜けるルートです。その国立公園のどこかであったのだと思います。 さらに昔の地図を見ていたところ、グルノーブルからニースまでの間で、もっとも宿泊した可能性が高いユースホステルも浮かび上がってきます。 それがこちらです。 当時使っていたフランスのユースホステルを紹介した地図の11ページの下のほうに名前に印が書いてあるのを見つけました。そこだけ拡大してみましょう。 「ラ・フ・ダロ(La Foux d’ Allos)」のユースホステルですね。地名の下に下線が引かれているのは、ユースホステルの同宿者の誰かが推薦してくれた印でもあります。我々はユースホステルに泊まるたびに、必ず情報交換します。どこのホステルが良いとか、ここは行くなとか。高いとか、安いとか、食事が良いとかの情報は、口コミで広がります。おそらくここに泊まった可能性が高いです。 ネットで写真を見ても、何となく昔見た記憶の面影が残っています。ここもメルカントゥール国立公園内にあるスキー・リゾートですが、私はスキーをしませんでした。町は雪もほとんど積もっていなかったと思います。 覚えているのは、森の中の道を通って、町中のレストランまで皆で夕食を食べに行ったことです。グーグルの地図でも森を通る道が確認できましたから、おそらく間違いないでしょう。こちらがその地図です。 赤い印がユースホステルのある場所です。森を通って町に出る道が確認できますね。20~30分は歩いたと思います。 大体皆で夕食を食べに行くのは日曜日が多いですから、宿泊したのは12月21日の日曜日だったのかもしれません。前にも話したように、日曜日は食料品のお店が閉まってしまいますから、買い出しができないのです。 このときは、多分アロという小さな町の小さなレストランで夕食を取ったと記憶しています。フランスワインを飲んで、ワイワイガヤガヤ楽しく食事をしました。評判にたがわず、非常に好印象のユースホステルでした。 (続く)
2021.12.12
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翌17日水曜日。この日は朝から小雪が舞う天気です。スキー・リゾートは今後ますます混雑することが予想されるため、早々にここを離れて、もっと観光客の少ない場所へと退避するにしました。 宿泊したロッジを後にして、雪が降る中を初めてヒッチハイクします。寒い中待っているハイカーに同情してくれるからか、ほどなく車が止まって私を乗せてくれました。この日からは、大まかに行く方角は決めていましたが、すべて乗せてくれた運転手次第の運任せの旅となりました。この時決めたおおよその方角は南仏です。とにかくより太陽が遅く沈む、温かい場所へと移動しようと考えたわけです。 漠然とした目的地しかなかったこともあり、一体どこをどう通ったのか、どこに泊まったのか、記憶もあやふやです。確実なのは、6日後の23日には南仏のニースに到着していたことでした。そして24日のクリスマスイヴはカンヌのそばのル・トラヤ(Le Trayas)のユースホステルに泊まっています。 空白の6日間をおぼろげな記憶を頼りに思い出すと、間違いなく泊まったのは、1968年に冬季オリンピックが開催されたことで有名なグルノーブル(Grenoble)のユースホステルです。19日か20日ごろ泊まったはずです。その前はアヌシー(Annecy)、エクセ・レ・バン(Aix-les-Bains)などに泊まった可能性があります。少なくともそこを通りました。 グルノーブルのユースホステルのことをよく覚えているのは、そこで自称「グルノーブル大学生」のアフリカ系フランス人のたかりにあったからです。朝ご飯を一緒に食べようと言うので、近くのカフェに、フランス人がよく食べる朝食、つまりカフェオレとクロワッサンを食べに行きました。当然、割り勘のはずが、食べ終わってから、財布を忘れたから金を貸してくれと言い出します。白々しく「後で返すから」とも言います。私はもう旅立とうとしているのに、後で返せるはずがありません。 さらに私がヒッチハイクをしていることを知るや、知り合いが車を持っているので、ここで待っていれば、一緒に旅行ができるとまで言い出す始末。確信犯的な「たかり」だとすぐにわかります。ケント大学で知り合ったアフリカ系フランス人のノアとは大違いです。まあ、そのような人間がいるのだということを知る授業料だと思って、多分日本円で500円くらいだったと思いますが、「たかり屋君」の朝ご飯の分も支払いました。 でもこのたかり屋君のお陰で、グルノーブルに泊まったことをよく覚えているわけです。ほかにも彼のお陰で、翌年の1981年にフランソワ・ミッテランが大統領選で勝利してフランス大統領に就任したこともよく覚えています。というのも、彼は朝食の間中、来年は「ミッテランが勝つ、ミッテランが勝つ」と繰り返し話していたからです。 そう考えると、私が払った彼の朝食代には「授業料」の価値はあったのかなと現在では思っています。 (続く)
2021.12.11
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ここのスキー場が面白いので、連泊しようとユースホステルの受付の女性にその旨を告げたときです。「もう満室で泊まれない」と告げられます。昨日の感じではかなり空いていましたから、楽に連泊できると考えたのがそもそもの間違いでした。昨日の時点で今日満室になるかもしれないことを教えてほしかったと言うと、その女性は「昨日ちゃんと説明した」と言います。 そう言えば昨日チェックインしたときに、何かフランス語で言っていたことを思い出しました。その時はヒッチハイクでようやくユースホステルに着いて安堵していたことと、前日のモルジヌでのスキー疲れあったことなどでちょっとボーっとしていたんですね。加えて、その日の宿泊を確保したことで安心しきっていたため、その後のフランス語の説明がほとんど頭に入ってきていませんでした。生返事をして、チェックインを済ませた記憶が蘇ってきます。 スキー・リゾートは、私の予想よりもはるかに早く、ハイシーズンに突入していたんですね。スキー場のコースが気に入ったので、ここのユースホステルに三泊くらいしようと思ったのですが、事情がそれを許さないようです。 しかしながら、何という失敗でしょう。考えが甘かったです。この日の泊まる場所を今(多分午後5時半ごろ)から確保しなければなりません。困って途方に暮れていると、前日から宿泊しているフランス人の男性が声を掛けてきます。「実は僕もここを追い出されるんだけど、道路を隔てた下のスキーロッジなら空いているらしい。一緒に空室があるかどうか見に行かないか」と誘ってくれます。一応、身なりもちゃんとした信頼置けそうな若者だったので、その誘いに乗って、荷物を持ってロッジに歩いて行きました。 ロッジでは彼が部屋の空きがあるかどうか聞いてくれます。幸いなことに空室があるとのこと。本当に安堵しました。凍える寒空の下でこれ以上、宿探しで体力を使うのはしんどいからです。聞くと、それほど高い料金ではなかったと思います。 ロッジの部屋は暖かく、快適でした。夕食は何を食べたか覚えていませんが、あたたかいスープとパンやチーズをどこかで食べたように記憶しています。あるいは、そのロッジで夕食を食べたのかもしれません。疲れ切っていたので、その時の記憶もあいまいです。 覚えているのは、バスルームとトイレが共用で、体が冷えていたので浴槽を使わせてもらったことです。食後、バスタブにお湯を入れて、体を温めてから眠ったことを覚えています。 夢のように素晴らしいスキー体験でした。同時に心身ともに休息を必要としておりました。ユースホステルの寝台の寝袋とはまったく違う、温かい掛け布団のベッドで、その夜はぐっすりと眠りました。 (続く)
2021.12.10
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私が犯したミスとは、実はこのスキー場はコースの途中で二股に分かれていることを忘れていたことです。朝、リフトで登っているときにはちゃんと頭に入っていたはずなのに、やはり疲労から頭が回らず、左のリストに沿って降りるはずが、ぼやっとしていて右のリフト沿いに降りてしまったんですね。 地図で説明しましょう。 中央左上に二股がありますね。二股の上の道を「レゼタージ(Les Etages)」方面に進めばいいところを、下の「レクリュ(Les clus)」(右下の建物が密集しているところ)へと続く道を下ってしまいました。 途中で気づいたのですが、後の祭り。なるべく歩く距離を減らすために、可能な限り左側(地図では上方)に降りましたが、宿からはかなり離れた場所に降り立ってしまいました。リフトの営業時間はもう過ぎていましたから、余計な距離を歩いて帰らなければならなくなりました。しかも上りです。 その余計な距離は二キロ近くあったでしょうか。30分は余計に歩いたと思います。本来なら滑り降りてくるはずだったリフト乗り場を過ぎて、カーブを曲がると、ようやくユースホステルが見えてきました。宿の前には、フランス人カップルが私のことを心配して待っていてくれました。「心配していたのよ。随分、待ったけど来なかったので、先に引き上げることにしたの」と女性がすまなそうに言います。私も二人を探したけど見つからず、その後、道を間違って遠い方のスキー乗り場へ降りてしまったことを恐縮しながら伝えます。 何はともあれ、無事に宿屋に帰ってきました。ただ、余計に歩いたことと、難しいコースに挑戦したことによって、既に疲労困憊の状態でした。すぐに部屋に戻って、休みたいところです。 しかし、困難はこれだけでは終わらなかったんですね。私はほかにも失敗をしていたことに気づかされます。 (続く)
2021.12.09
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最初にフランス人の男性が手つかずの深雪を滑り下ります。彼は本当に上手いです。おそらく1メートルは積もっていると思われる新雪の上を見事なウェーデルンで滑降してゆきます。 ちなみにウェーデルンとは、スキーの上級回転技術の一つで、小さい回転を小刻みに繰り返す連続ターンのことです。斜滑降をせずに次から次へとターンを繰り返します。まさにモーグルと同じ滑りです。上半身を常に谷側に向けることによって生じるひねりを利用しながら、スピードをコントロールして急斜面を滑降することができます。その様が尻尾を振るようにみえることから、ドイツ語で「尾を振る」という意味の「ウェーデルン」と名付けられました。 さて、次は私の番です。何十メートルか下のほうで彼が、私が滑るのを待っています。私もウェーデルンはできますが、あくまでも圧雪されたゲレンデでのこと。深い新雪で滑るのは、初めてです。一応、ターンの速いリズムと後方への重心のかけ具合を頭の中でシミュレーションします。彼が取ったリズムが参考になります。 ストックを突いて、斜面に飛び出します。スキーの先が新雪に潜り込まないように先端を上げながら、一回、二回、三回と小刻みにターンを繰り返します。すると、何とうまく滑れたんですね。初めての深雪ウェーデルン。自分でも驚きでした。10数回ターンを繰り返したでしょうか。彼の隣に来てキュッと止まります。 「Ton ski est très joli.」という言葉が彼の口から出ます。何とか見られた滑りだったようで、ホッとしました。私もフランス語で、「Toi aussi. Mais ton ski est plus joli que le mien.(君もね。でも君の方が上手だと思うよ)」と返します。文法的に合っているかどうか自信ありませんが、通じていたことは確かです。 実際、彼のほうが上手いのは明白でした。私は深い新雪でもこうしてウェーデルンができたわけですが、時々スキーを雪に取られて転びます。でも彼は決して転ばないんですね。難しそうな斜面でも、バランスを崩さずに滑り降りてゆきます。一度私が雪面に突っ込んでひどく転んだときは、助けに来てくれました。雪があまりにも深いので、外れたスキーは深さ1メートルくらい下のほうに沈んでいます。雪の重みで引っ張り上げるのが大変でした。 とにかく、この新雪・深雪スキーは最高でした。この日は二人だけの完全な貸し切り状態。リフトは我々のためだけに動いていました。二時間ほどここで滑っていたと思いますが、ほかに誰も滑りに来ませんでした。下の地図でいうと、一番上の赤い色のコースが我々が滑った「レギィユ(L’Aiguille)」の上級コースです。青が中級で、緑が初級コースです。スキーコースから丸い山に見えた山「レギィユ(L’Aiguille)2400」も描かれていますね。そうこうしているうちに、リフト営業の終了時間が近づいてきました。下のゲレンデで待っている、連れ合いの女性を探しに行かなければなりません。 長い時間放っておいたわけですから、なるべく早く見つけなければなりませんね。彼は難しいコースを難なく滑り降りると、そのまま止まらずに下のゲレンデに猛スピードで下ってゆきました。私も彼について行ければよかったのでしょうが、彼のほうがはるかに上手く、加えて私がかなり疲労していたこともあり、スピードについて行けず、見る見るうちに引き離されてしまいます。 落ち合う予定の下のゲレンデで、二人の姿を長い間探しましたが、どこにいるかわからず、結局一人でユースホステルに帰ることにしました。そして、ここで私はミスをしてしまうんですね。 (続く)
2021.12.08
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午後はそのスキーの上手い男性と私で、エギィユ山麓スキー場で最も難しい、その名も「レギィユ(L’Aiguille)」というコースに挑戦することになりました。彼の連れ合いの女性は一つ下の中級者向けのゲレンデで滑りながら私たちを待つとのこと。 そのコースは、エギィユ山に最も近い、つまり最も高い標高2200メートルの場所までリフトで登ったところにあります。 「Cote 2000」のリフトを乗り継いで、「レギィユ」のリフト乗り場へと移動します。ところが驚いたことに、リフトは動いているのですが、快晴で見晴らしが素晴らしく良いにも関わらず、誰もリフトに乗っていないし、誰も滑ってもいないんですね。しかも、前日か前々日に降った雪が積もったままのまったくの手つかず状態。一番難しいコースなので、深雪スキーの技術がないと滑れないわけです。 実は私も典型的なリゾート・スキーヤーとして圧雪されたゲレンデばかりで滑っているので、ほとんど深雪でスキーをしたことはありません。ただ一度だけ、高校のスキー学校で新雪スキーを教えてもらったことがあるだけです。しかし、新雪スキーと深雪スキーは厳密に言うとちょっと違いますね。新雪スキーはせいぜい30~50センチ程度の粉雪をやや後傾にして蹴散らして滑るのに対して、深雪は何日もかけて1メートルは積もった新雪が相手です。かなり後傾にしてスキーの先を浮かせる必要があります。初めての体験です。果たして私にもできるのでしょうか。 リフトも、日本では乗ったことのないようなリフトでした。座席の部分が極端に小さくて(お尻の面積くらいの大きさしかありません)、リフトのバーをまたぐように座ります。何から何まで初めてだらけ。期待と不安が交じり合いながらも、リフトの終点に到着。スキー場の最も高い場所に降り立ちました。 そこは、本当に輝くばかりに美しい青空と一面真っ白な新雪の世界でした。エギィユ山塊の最高峰がすぐそこにそびえて見えました。後から写真を見ると、本当は尖ったナイフのような山頂なのですが、リフト降り場から見上げると、真っ白な、天然無垢の雪に覆われた丸い山のように見えました。その美しさは、今でも記憶に深く刻まれています。 さて、いよいよ初めての深雪スキーに挑みます。 (続く)
2021.12.07
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思い出せないのは、スキーや靴をどこで借りたか、です。何となくユースホステルからスキーを履いて下り、帰りはスキーを担いで上ってきた記憶があるので、おそらくユースホステルでスキー板と靴を借りることができたのだと思います。当時は、ホステルのある「レゼタージ」からエギィユ山麓のスキー乗り場まで坂道を800メートルほど下らなければなりませんでした。いずれにしても、宿屋からは下って行って、エギィユ山麓スキー場のリフト乗り場に到着しました。 購入したのは、リフト乗り放題の一日券。何と私の古い資料の山からその時のリフト券が出てきました。それがこちらです。 三つコブの山の上に、巻き角のある銀の羊が描かれていますね。しかし、どこを見ても、有効期限が書いてあるように見えません。右下に19と書いてありますから、19日まで使えるということでしょうか。これも、もしかしたら特別一日券で、ユースホステルで購入したのかもしれません。 この日は、本当に雲一つない快晴。素晴らしいスキー日和でした。 早速、フランス人のカップルとリフトに乗り込みます。二人乗り用の高速リフトで、「Combe des Juments(牝馬たちの谷)」と名付けられています。直線距離で1・6キロの山の斜面を一気に登ります。 最初は中級コースで足慣らし。中級コースだけあって、面白いです。すぐにリフトを乗り換えて、現在「Cote2000」と呼ばれているリフトに乗り込みます。直線距離で1・7キロはありそうです。「Cote」とは家畜用の避難小屋のことのようです。2000は多分、標高のことですね。 このコースも非常に面白かったです。さらに今度は「Juments 2000」という距離800メートルほどのリフトのコースにも挑戦。どれも中・上級コースで距離も長く、非常に滑りやすくて楽しいコースでした。 その間、三人で滑っていたのですが、男性のほうはすごくスキーが上手かったです。女性はまだスキーは始めたばかりのようで、ボーゲンで滑っていました。おそらく三人でお昼を食べているときでしょうか、女性のほうから提案があります。「二人でもっと上の上級コースを滑ってきて」というんですね。私は気軽に滑るのでよかったのですが、男性のほうがもっと上の上級コースに行きたかったようです。それを斟酌して、女性から我々二人でもっと難しいコースに挑むよう提案があったわけです。(続く)
2021.12.06
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翌12月16日火曜日。この日は終日スキーをする日と決めていました。宿泊客の中でも何人かスキー客がいて、その中の若い20代前半のフランス人カップルから一緒に滑らないかと誘われます。どうして誘われたのかその時はわからなかったのですが、前日の夕食の席でモルジヌは初心者用のゲレンデで簡単だったと私が言ったことを聞いていたのかもしれません。ある程度滑れる仲間を探していたのだと後でわかりました。 それではまず、ラ・クルザのゲレンデを紹介しましょう。こちらです。 そしてこちらは現在のゲレンデ。 右側のボルガール山(1690メートル)のスキー場の奥のほうに、マニゴ山(1650メートル)のスキー場が増えていますね。ほかにもいくつか新しいコースが出来たようです。 時間を再び遡って1980年冬のラ・クルザのスキー場をご覧下さい。 当時のラ・クルザには、四つの主要スキー場があったことがわかります。一番標高の高いスキー場は地図の一番左にあるバルム山(2600メートル、リフトの終点の標高は2477メートル)のコース。次に地図中央のエギィユ山(2400メートル、リフトの終点の標高は2257メートル)のコースが続き、その右のレタール山(2400メートル、リフトの終点の標高は1980メートル)、そして一番右のボルガール山のコース(同1690メートル)があります。 それぞれが連結しており、隣のスキー場に滑って行けるようになっています。私を誘ってくれたフランス人カップルの男性のほうは、ラ・クルザのスキー場に詳しいらしく、一番近くて面白いコースはエギィユ山のコースなので、そこへ行こうと言います。 私は全く土地勘もないので、彼らについて行くことにしました。 (続く)
2021.12.05
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今となっては、モルジヌからラ・クルザまでをどのようにヒッチハイクしたのか覚えていません。63キロの道のりですから、そう大変な距離ではありませんね。おそらく二回か三回くらいで、ラ・クルザに着いたのだと思います。 そこはモルジヌとは違って、一面雪景色の雪国でした。町の標高は984メートルで、そこから2600メートルの山に向かってスキー場が広がっています。当時入手したラ・クルザの小冊子です。「銀の羊」がここの町の紋章です。その羊の紋章の上に書いてある数字は、スキー場の標高が1100~2600メートルであることを示しています。標高差1500メートルはかなりの大きさです。日本のスキー・スノボ研究所によると、日本で一番標高差が大きいのは、新潟のかぐらスキー場の1225メートルだそうですから、どれだけ豪快なコースかがよくわかりますね。ユースホステルはラ・クルザの中心街から少し坂を上った町の外れにありました。おぼろになった記憶では、午後2時か3時ごろにはユースホステルにチェックインできたのだと思われます。 当時泊まったユースホステルの現在の写真がホームページに紹介されていましたので、掲載しておきましょう。青地の三角のマークがユースホステルを示しています。山小屋風でいいですね。 当時もこんなに綺麗だったかどうかは覚えておりませんが、坂道の途中のかなり上った見晴らしの良い場所に建っていました。当時のユースホステルの中も非常に綺麗だったという印象を持っています。 幸いにも空きがあり、宿泊できることになりました。この日スキーをするにはもう時間が遅くなってしまいましたから、明日スキーをすることにします。 ここのユースホステルは食事付の宿泊施設です。自分で料理しなくても、それほど高くない料金で夕食が食べられます。フランスでホステルの夕食を食べるのは初めてでしたが、何とも豪勢な、フルコースの食事でした。しかもワイン付きで、この日はフランス料理を存分に楽しみました。 (続く)
2021.12.04
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モルジヌとラ・クルザ、そしてジュネーブの位置関係は次のようになっています。上にある湖がスイスのレマン湖。そのレマン湖の最南西端にジュネーブがあって、そのほぼ真東にモルジヌ。モルジヌの南西にあるのがラ・クルザです。グーグルマップを使っているので、モルジヌーラ・クルザ間は青い線で結ばれています。車で行くと、63キロ、1時間19分かかると記されています。直線距離だと45キロほどでしょうか。ジュネーブ、モルジヌ、ラ・クルザの三点は一辺が約45キロの正三角形になっています。モルジヌーラ・クルザ間も、当然ヒッチハイクで移動いたしました。(続く)
2021.12.03
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ユースホステルから町のレストランへは坂道を下って行きます。 街に下りてゆく道は、雪は積もっていなくても、水分が凍って滑りやすくなっていました。早速私はフランス語を使います。「C'est très glissant.(とても滑りやすくなっているよ)」 とにかく、そのときのフランスの旅では、極力思ったことをフランス語で話して、フランス語に慣れることを心掛けました。ちょっとしたことでも何でもフランス語で会話したわけです。そのお陰で、フランス人が日常で使うちょっとしたフランス語、たとえばハッと驚いたり嘆いたりしたときに使う「オーララー(Oh là là !)」という言葉が自然に出るようになりました。 「オーララー」は、「おやおや」、「ありゃりゃ」、「やれやれ」といった意味です。フランス人はしょっちゅう使いますから、嫌でも覚えてしまいます。 実はフランス滞在一週間で、フランス語で夢を見ました。それだけ一生懸命フランス語で話そうとしていたからでしょうね。ただし後にも先にもフランス語で夢を見たのは、その時だけです。 町のレストランでは、皆でワイワイガヤガヤ話しながら、スパゲッティやらピザを食べたように記憶しています。割り勘したら大して高くなかったように思います。その後、再び、滑りやすい坂道を皆で歩いて宿に戻りました。 翌15日の月曜日。前日仕入れたスキー場情報を基にして、ユースホステルがある次のスキー場へと移動することにしました。モルジヌより大きなスキー場で、上級コースもあるという「ラ・クルザ(La Clusaz)」です。 (続く)
2021.12.02
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昔のスキー談義はこのくらいにして、モルジヌのスキー場の話に戻りましょう。 初中級用、もしくは家族用のスキー・ゲレンデですから、上級者の私にはちょっと物足りなかったのは事実です。一方、私をスキーに誘ってくれたフランス人の男性は初心者から中級者へと腕を上げつつあるスキーヤーで、私のスキーをよく観察して覚えようとしていました。彼は私のスキーを見て、「Ton ski est très joli.(君はスキーがとてもうまいね)」と言ってくれます。直訳すると、君のスキーはとてもきれいだ、です。私にとっては、褒められることもうれしいのですが、同時に「そうかスキーが上手だねというときは、こういう表現を使うのか」という勉強にもなるわけです。 フランス語の話題になったついでに、フランス語の二人称の「あなた」にはtu(テュ)とvous(ヴ)という二つの形があることにも触れておきましょう。tuを使って話すことを「テュトワイエ(tutoyer)」、vousを使って話すことを「ヴヴォワイエ(vouvoyer)」と言います。前者は家族や友人、恋人など親しい人に対して使い、後者はそうではない場合や、よりフォーマルな場合に使ったりします。ユースホステルでは、すぐに仲良くなれるように「テュトワイエ」、すなわちTu(君は)やTon(君の)、 Toi(あなた)を使います。だから「ton ski」となるわけですね。ちなみにフランス語でユースホステルは、「une auberge de jeunesse」と言います。直訳すると「若者の宿」です。私がこの旅行中によく使ったフランス語は、「Est-ce qu'il y a une auberge de jeunesse près d'ici ?」。「この近くにユースホステルはありますか?」でした。 この日は一日中、そのフランス人男性と一緒にスキーをして、彼は私からスキーを学び、私は彼からフランス語を学びました。簡単なスキーコースでしたが、足慣らしにはちょうど良かったかもしれません。しかし本当にスキーを楽しむためには、もっと上級者用のコースのあるスキー場を探したほうがよさそうでした。 夕方になったので、スキーを切り上げて、ユースホステルに戻ることにしました。戻る途中、一つ問題があることに気づかされます。この日は日曜日だったので、商店がすべて閉まっていたんですね。食料を補充していなかったので、再びスープとパンの夕食しか食べられないことになります。 しかし、それは杞憂にすぎませんでした。ユースホステルの皆も同じで、食料や食材を調達していなかった人は、外のレストランに一緒に食べに行くことになります。私も彼らに同行して街中で食事をすることにしました。 (続く)
2021.12.01
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