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「霊魂論」エチカ詳解183(生と死12) プラトンの霊魂在りの有現説と大乗の無現説を紐解けば逆思惟の論法に思うのですが、プラトンは『「一方の生成が、ちょうど円環をなして巡るように、他方の生成を常に補うのではなく、かえって、生成が一方からその正反対のものへのみ向かう何かが直線的なものであって、再び元に戻ることもなければ向きを変えることもないとすれば、万物は最後には同じ形をもち、同じ状態になって、生成することをやめてしまうだろう。--当に大乗云うところの空です--。生在るものがすべて死んでゆき、ひとたび死んだならば、死者はその状態にとどまって再び返らないとするならば、最後には万物は死んで、生きているものはなにもないということになる筈だ。」--此の結論は大乗説くところの縁起論の最終章を想わせます。実在有から始まったプラトンの二元論から始まる円環論と大乗哲学の祖「龍樹」の空論の帰結が同じうすることには驚かされ、世界の真相を究明する方法は哲学・科学・真の宗教を問わず向かうところは同じだと言わざるを得ません。哲学・思想ランキング
2019年04月30日
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「霊魂論」エチカ詳解182(生と死11) プラトンは著書「バイドン」にて「生成の哲学」なるものを俎上に載せせます。生者が死者の持つ霊魂或いは魂から再び生じるのであれば、我々人間の精神の奥底に眠る霊魂は彼の世に存在する他はない。此の意味を尋常に思慮すれば、人間存在の「鶏が先か卵が先か」の遡及因の無限地獄に陥ることになるのですが、プラトンは生成の哲学」なるものの説明に「 美が醜に反対であり、正が不正に反対であり、その他無数のものがそのような関係にあるのだが、--此れは当に大乗哲学の縁起を想起させます。--そういうものにおいては、その一方は反対である他方からしか生じ得ないのだ。」但し、此処から大乗の空論の正反対の結論に導きます。大乗が一方の恒常性を否定し対する他方の在り方を否定するのに対し、プラトンは「 反対のものの対(つい)の相互間には、其れ等が二つである以上は二つの生成がある。」続けて「 例えば、眠っていることから目覚めていることが生じ、目覚めていることから眠っていることが生ずる。そして、両者の生成過程は、一方が眠りに落ちることであり、他方が目覚めることである。--大乗哲学の縁起では此のプラトンの論述の逆論、一報を否定したときには対する方が在るべくもなくとして両方を否定し無常論を説く--のに対して、プラトンの「生成の哲学」は実在否定論の正反対の実在肯定論を本道として「生きているものから生じるものは何か、況んや死んでいるもの。死んでいるものからは何が生じるか。 生きているものである。」此のことから死者たちの魂が必ず何れか何処か存在していて、そこから再び生まれてくる筈だ。」と結んでいます。哲学・思想ランキング
2019年04月29日
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「霊魂論」エチカ詳解181(生と死10) プラトンは霊魂の解放について、霊魂自体の陥凹・陥穽(かんせい)についても一言加えます。「人間、悪から解放されて肉体を避けて自らの深奥を究めんがために修練された霊魂に対してもう一つの場合として、魂が汚れたまま浄められずに肉体から解放される場合を想定しています。其の因を、そのような魂はいつも肉体と共にあり、肉体に仕え、これを愛し、肉体とその欲望や快楽によって魔法にかけられて、その結果、肉体的な姿をしたもの、即ち、人が触ったり、見たり、飲んだり、食べたり、性の快楽のために用いたりするもの、人間の五感や欲望の充足以外の何ものをも真実と思わなくなるからであるとし、肉眼には目に見得ないもの、だが、知性によって思惟され哲学によって把握されるもの等を、この一方の魂は憎み、恐れ、避けるように習慣づけられてきたからだと答えます此の肉体的なものは重荷であると考えなければならない。それは、重く、土の性質を帯び、目に見える。このような魂は、この重荷をもつために、酷い荷物を背負わせれて、目に見える場所へと再び引きずりおろされる。それは、目に見えないものとハデス(あの世、字義通りには、目に見えないもの)を恐れるからである。そのような魂は、よく言われるように、墓碑や墳墓の周りをうろつくのであり、墓碑や墳墓の周囲には魂のなにか影のような幻が見られるのである。」と結論付け、神秘主義の霊の劫火や仏教哲学に云う魂の劫火と共にする滅びを予見させています。哲学・思想ランキング
2019年04月28日
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「霊魂論」エチカ詳解180(生と死9) プラトンの霊魂の解放はデカルトのコギト・エルゴ・ズムでは見えない世界、肉体に囚われた「我」を離れた世界に自らを置き、勧んで肉体と交わることがなく、寧ろ、生命系に組み込まれることにより、彷徨や、狂愚の振る舞いや、恐怖や、凶暴な情欲や、他の様々な人間悪から解放されて肉体を避けて自らの深奥を究めんがために練習する。此の練習こそが正しく哲学することに他ならず、真実に平然安寧に死すことの修養だとします。此のことは、シッダルタのヨーガ若しくは座禅修養による無我と哲学の修養による無我との方法論の東西世界の思考実践のとしては共通する面もあり興味津々たるものがあります。前者シッダルタの方法は肉体の束縛を離れ精神を解放し世界と共鳴する霊魂の囁きである永遠に耳澄ますものです。後者のプラトンの霊魂論では肉体を避け、哲学思考を以って自分自身へと沈思深潜し黙考集中することが、プラトンの言によれば自分自身に似た、此の文言(もんごん)には注目せざるを得ませんが、此れが後のキリスト教に与えた影響は我々の憶測の範囲を超えるでしょう。あの目に見えないもの、神的なもの、不死なるもの、賢いものの方へと立ち去(の)き、一度(ひとたび)そこに到達すれば、彷徨や、狂愚の振る舞いや、恐怖や、凶暴な情欲や、そのたの様々な人間悪から解放されて、幸福になるのではないか。そして、秘儀を受けた人々について言われているように、残りの時間を真実に神々と共に過ごすのではないか。」と問います。此れはまさに、仏教云う「寂滅(じやくめつ)」、釈迦の死を意味したところから,後になって「迷いの燃えさかる火を完全に消し,悟りに入った境地」ニルヴァーナ(Nirvana)を想起させます。哲学・思想ランキング
2019年04月27日
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「霊魂論」エチカ詳解179(生と死8) プラトンの云う「魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引き摺っていない。何故なら、魂は其の受容体の生涯において勧んで肉体と交わることがなく、寧ろ肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、此の練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは亦、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。」は、此の地球たる母星に生きる以上は「生命の育みが他者を殺伐せねば生きられない理」になっており、其れから離れんと欲すれば生命を逃れ自死を待つ境涯しか残されてはいません。ナザレのイエスがパンとワインを食するにしろ、シッダルタが牛の乳を飲むにしろ、全てが他者の生命の簒奪行為から成り立つのが生命系の宿命なのです。プラトンの云う「魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。」の文言は、人間の精神の内底に潜むデカルトのコギト・エルゴ・ズム( Cogito ergo sum)を超えた深奥の日常では気付くことさえない霊魂がプラトンの云う「魂」に当たるのでしょう。哲学・思想ランキング
2019年04月26日
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「霊魂論」エチカ詳解178(生と死7) プラトンは魂の不死については肯定論であるように想えます。霊・魂のことはプラトンの最大の哲学的課題の一つであり「パイドン/副題:魂の不死について」で「魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引き摺って引きいない。何故なら、魂は其の受容体の生涯において勧んで肉体と交わることがなく、寧ろ肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、此の練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは亦、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。」と述べ、更に「 魂が以上のような状態にあれば、それは自分自身に似たあの目に見えないもの、神的なもの、不死なるもの、賢いものの方へと立ち去っていき、一度(ひとたび)其処に到達すれば、彷徨や、狂愚の振る舞いや、恐怖や、凶暴な情欲や、そのたの様々な人間悪から解放されて、幸福になるのではないか。そして、秘儀を受けた人々について言われているように、残りの時間を真実に神々と共に過ごすのではないか。」と問いかけます。此れを、スピノザの云う「エチカ」の倫理学思考に当て嵌めれば、日常に人間最大の喜びが絶対存在の意思及び意識並びに精神に感応することの目的故に絶えずの倫理の実践への勧めが、プラトンの云う神の国(Kingdom of God)に近づく努力をしなければならないの実践哲学だと云えましょう。哲学・思想ランキング
2019年04月25日
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「霊魂論」エチカ詳解177(生と死6) プラトンは其の著中期対話篇、ソクラテスの死刑当日を舞台とした「ファイドン亦はパイドン/副題:魂の不死について」は、プラトンの初期末の対話篇である「メノン、副題:徳について」に続いて想起説(アナムネーシス)。知の探究から魂の不死へとつながる壮大な世界観へと通じる思想だとして、一般的には学びや学習といった言葉で呼び慣わされている知の探究とは、誰かから一方的に知識を教えられるといった受動的な働きによってもたらされるものではなく、人間が自分自身の魂の奥底に眠っている真理を、知性の自発的な働きによって自分自身の手で見い出していくことによって進められていくべきものであり、「魂」の内なる真理を自分自身の知性の力によって思い出し、再把握するという人間の魂における自発的な知性の働きこそが、想起(アナムネーシス)と呼ばれる知性の働きの本質的な作用であると考えられるとしたものを取り上げています。哲学・思想ランキング
2019年04月24日
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「霊魂論」エチカ詳解176(生と死5) 西欧のペスト流行からから派生した鬱屈はキリスト教会で、簡単に理由を説諭することは難しき問題です。出来得るにしても其の人物は「聖者」に列せられる人物でしょう。信仰の有る無しに拘わらず無差別とも云える天変地異や罹病は普段に説かれる教会の恩賜の声ではありません。真っ黒な衣装に骸骨を白く描いた「死者」が墓から顕われ、苦しみ・嘆き・悔いよと歌い、車の前後の従者はシャレコーベを描いた黒い旗と架(はり)をかざし、主よ,憐れみたまえと唱和しながら練り歩いたのは自ら血に染み付き染まった苛立ちが狂気として顕れたのでしょう。日本の三大奇祭の一つ夜須礼(やすらい)祭りも起因は同じくしようとも、農耕民族の気性から無常を受け入れながらも、契ごとを逸脱しようとはしていません。万系一世の日本国の象徴は、一中一夜で理解できないものですが、「神の落とし子」と捉えて、日本人の血脈に根底として流れる伏流水と捉えれば西欧キリスト教と日本神道の異相も多少は減少するでしょう。哲学・思想ランキング
2019年04月23日
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「霊魂論」エチカ詳解175(生と死4) 絶対として世界に完全体にして不死で有る存在とは、あまりにもかけ離れた芥子粒ほどの短時間の経緯に顕れた世界内存在の人間が、此の世の死すべき運命から逃れ得ないのは当然の理です。然し乍ら、其処には真実救いがないのかは人間が理性を獲得し記・印す・著すことができ得る者として史上に現れて以来、数多(あまた)多くの知者・賢者・真相の探求者・神秘体験者によって多くのことが語られています。真相の探求者は内生に答えを求め、あくまでも現実・現象を重視するものは当の本人の時代に見合った科学を取り入れ思想を形成します。ナザレのイエスを神秘体験者にに含めることは本意ではありませんが、イスラムの主張を受け入れれば偉大な預言者ということになります。さすれば、人間は死すべき運命を回避することは出来得ないにしても、自己の生涯の忘却から逃れ得ないものか。此処に極めて強烈な運命論者が蝋燭の炎の如く「霊魂」を見極め解説します。肉体の不死とまでは行かないまでも霊魂の有り様は肉体と伴に滅するか、さもなくば、必ずや滅するとされる肉体から不死なる霊魂が離れるように、即ち、人間が倫理的にも正しい死に方をすれば完全な忘却を免れる。スピノザの云う「神への帰還」、神秘主義者ルドルフ・シュタイナーの自論です。プラトンの霊魂論は後世次第にキリスト教の教義にも取り込まれていることからも一概に否定すべきものが見つかりません。哲学・思想ランキング
2019年04月22日
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「霊魂論」エチカ詳解174(生と死3) 人間の「死」に関しての数多(あまた)の書簡に興味深いものがあります。14世紀末ヨーロッパのペスト(黒死病)の罹病被災地域では、人々は群れをなして、屡々、波打つように全村あげて半狂乱になって踊り狂ったという死である舞踏 「dance of death」を骸骨の姿で表象しています。人々の間では死の恐怖から逃れるために狂気の集団舞踏の現象を其の有様から其れを「死の舞踏」と呼称しています。15世紀になると,ペストを退散させるお祓の行事がかたちに変化します。一例では1433年のフィレンツェでは車の上に大鎌を持った「死(存在)」が立ち,真っ黒な衣装に骸骨を白く描いた「死者」が墓から顕われ、苦しみ・嘆き・悔いよと歌い、車の前後の従者はシャレコーベを描いた黒い旗と架(はり)をかざし、主よ,憐れみたまえと唱和しながら練り歩いたという逸話が、死を観察し、其の死の意味・其の死の存在の有り無し、必然性が問題になっています。日本においても平安時代後期、洛中に疫病や災害が蔓延し、京都の人々を大いに悩ませた折り、天変地異はすべて御霊(怨霊)の所業と考えられていた当時、これらを鎮めるために夜須礼(やすらい)を代表として各所で御霊会(ごりょうえ)が営まれますが「死」の存在そのものは顕れません。西洋神教と日本神道の死生観の相違は「祭り」の表現に顕れています。哲学・思想ランキング
2019年04月21日
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「霊魂論」エチカ詳解173(生と死2) 誕生は「ひとの子」として生誕したナザレのイエスのみならず誰しもが運命に抗(あがら)うこを成し得ないものですが、所謂、植物の天災による死や伐採による死、人間の環境破壊からくる枯死(こし)若しくは動物一般の仕留めとしての終末と人間の「死」には、釈尊の前世の虎物語はあるにしても、人間だけに許された「自死」の特権が与えられています。スピノザの云う「目的的自由論」自由意思の否定も人間だけに許された「自死」には当て嵌められないという「死」の特異性が際立ちます。人間の誕生と其れからの生涯はスピノザが説く如く「絶対目的」を受け入れる見地に立つと自由意思の否定は一応に承諾できますが、人間の意思による「自死」は「絶対意思」の?制によるとは言えない筈です。倫理学を掲げるスピノザが絶対意思・絶対意識・絶対精神の完全体が冒すことは矛盾します。逆転して捉えればスピノザの云う「目的的自由論」自由意思の否定は人間の自由意思による「死」には妥当しないことになります。ならば「死」は自由を愛する人間のこよなき味方と云えます。しかし言わずもがな、「死」は誰しもが毛嫌いする存在です。存在といいますが「死」は存在するのでしょうか或いは無存在な名目上の存在なのでしょうか、人間が史上に理性を獲得した時よりの課題です。哲学・思想ランキング
2019年04月20日
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「霊魂論」エチカ詳解172(生と死1) 霊魂論を語る以上、生命の起源、取り分け人間の本能的な生の認識と理性的な生の認識が明確でなければ人間と動物その他諸々との区別性がなくなり、霊魂の拠り処を失います。其の生命が語る側面、アメーバなどの単細胞生物の分裂増殖の生起と終わりと一般の生殖動植物の生起と終末と人間の見かけ上ともされる生の誕生と生命の終末は厳格に区別されなければ、ゴキブリの前世から始まり終末の死の後の魂の在り処を説く羽目に陥ります。自然世界には或る意味では母星の崩壊なしには不死とされる生命も強ち存在しないとは言い切れません。「生と死」の解釈は生命学を取り巻く科学上の思考はもとより哲学及び宗教に亘って様々に解説・定義・説かれており、「霊魂論」に其れ等を全て持ち込むことは霊魂論が狂気を歓迎することになり本意ではありません。「生」なかでも「鶏が先か卵が先か」の生命の始まりの屁理屈よりも。人間の「生/人生/生涯」のうち誕生に重きを置くのが、喜びとしての人生ですが悲しみとして認識される「死」、生命とも呼べない数多(あまた)ある生命体のなかでも人間だけに許された死後の予感は「霊魂論」の要(かなめ)となります。「生」を知るにも「死」を知るにも他者からの影響を度外視はできませんが、自己が理性を獲得した後には、理性が芽生えてない誕生時の赤児よりも、人生生涯の結末を迎えた「死」を理解し定義することは金剛石の輝きに価いします。哲学・思想ランキング
2019年04月19日
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「霊魂論」エチカ詳解171 ピタゴラスは魂の輪廻(metempsicosi)あるいは転生(trasmigrazione)という教義を説いていたように推測できますが、はたして、此の教義が忠実に伝承されたものであるのないのか、彼の系統を引くヴィルギリウスやオヴィディウスがなしたような註釈から引き出されたものであるのかを知ることに確証はありません。此れはシッダルタの覚りと教えを教義として宗教にまで高めた上座仏教、其の語る真相を究めんとした大乗哲学に相似します。何れを取るにしても再生(palingenesi)と転生(trasmigrazione)は別ものだということになります。何故なら、再生(palingenesi)という語句は「新約聖書」でも使われているように、復活を意味する「アナスターシ(anastasiと)」いうことばを多言語其々に訳したものであって、たとえアナスターシということばが「福音書」の中でいろいろな意味に用いられているにしても、これは再生(palingenesi)の意味合いは持ちません。事実「聖書」に著されるの幾つかの節では「死者たちの復活」が語られており、別の節では「死者たちのもとからの復帰・帰還」が、また他の節では「肉の蘇り」が語られています。この三つ目の観念は曖昧最たるなもので、これには公然と聖パオロが反駁を加えているにせよ、この卓れてヘブル的な観念は教会博士たちの教えにおいては、他の二つの観念を凌駕するとともにそれらを包摂したものとなっています。この「肉の蘇り(復活)」は、オルヴィエートの大聖堂の中にルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli)が描いてみせたように、唯一、真の再受肉です。これによってのみ、個人は自ら望むと望まないとにかかわらず、先にそうあったようなからだと魂であるところのものに戻るのであるから。こうして「第二の誕生」はまさに「先の状態(statu quo ante)」への帰還となるのがピタゴラス派の主張に想われます。ナザレがの大工ヨハネの息子が教養・知識もなく闇雲に神を語ったとは信じ難く、恐らくは、至高の神性を自己の身に体現すると主張したグノーシス主義との関わりを疑うのは飛躍しすぎるかも知れないが突っ込みを入れたい問題です。哲学・思想ランキング
2019年04月18日
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「霊魂論」エチカ詳解170 ピタゴラスの定理・ピタゴラス音階などで有名なピタゴラス(Pythagoras)は多才の哲学者として知られますが、此れは何もピタゴラスに限らず古代哲学はフィロソフィア、フィロが愛でソフィアが知という意味で、学問はすべて知を愛するフィロソフィアというわけですから全ての学問の頂点にあった分野別思考を総合し統合する学問でしたから、驚天するには値しません。然し乍ら、東西南北紀元前此の時期の文明に於いて孔子はもとより釈迦やタロスが同じ頃に出現したことには何かしらの奇特さを感ぜざるを得ません。何がしらかの世界の内面の意思が働いたのかとの疑問も生じます。ピタゴラスが前世はトロイの英雄エウポルボス(Euphorbus/エウポルボス)であったにせよ、ピタゴラスが魂の輪廻(metempsicosi)あるいは転生(trasmigrazione)という教義を教えていたものなら、「一にすべてが由来する(ab uno disce omnes)」ものでないことは間違いない。ピタゴラスがピタゴラスに始まりピタゴラスで終わるわけではないからです。諸々他のからだ(コルプス)への輪廻(魂の再生/metempsicosi)あるいは転生(移動/trasmigrazione)を語らぬばかりか、その断片では、死が魂をからだから分ける時、魂は非コルプス的な途を通じて宇宙(コスモス)へと導かれる、と言っている。つまり魂の実在、それがからだ(コルプス)の死後にも生きつづけること、非コルプス的な途の可能性を認めていたことになります。哲学・思想ランキング
2019年04月17日
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「霊魂論」エチカ詳解169 転生というからには個人の諸の獲得した他の要因は取捨選択されるもの受肉の際の「霊・魂」は普遍のままに残るのものでなければならない。そうでなければ、亡くなった祖父や祖母に性格がそっくりだとして、尋常では遺伝子論に入り込み転生ではなくなります。受肉の際の「霊・魂の一体感」の連環・連鎖は其処で断ち切られてしまいます。先にその魂が結び付ていた「からだ(コルプス)」の個人の内心面の基礎要因は普遍のままに残るのでなければならないのが転生を語る上での条件でしょう。此処にきて先の受肉体の体験の記憶がないのに其れを実感するとすれば其の方策は神秘体験以外には思いつきません。物理科学は否応なしに転生拒否の対応を示すのですから。至高なる唯一の霊の再受肉として「生まれ変わり」を主張するなら唯一神エホバの子「ナザレのイエス」も神秘主義者からすれば偉大なる霊の生まれ変わりと映るかも知れません。興味深いのはピタゴラスは前世はトロイの英雄エウポルボス(Euphorbus/エウポルボス)であったことを思い出し、その武具を識別することができたとも語られている文言(もんごん)です。哲学・思想ランキング
2019年04月16日
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「霊魂論」エチカ詳解168 ピタゴラス派のパリンゲネシアの理説について、「人間夫々の個体である個人というものは、その物体としての「からだ(ラテン語:コルプス/受容体)と魂と、そして我々自己夫々が知る其のまた其の其々の様々なはたらき(諸機能)の総体から成っている」と定義していることに要(かなめ)があります。換言すれば、人間の肉体死およびからだ(コルプス)の破壊の経過に伴いて、魂は「別の」からだ(コルプス)を纏い、先にその魂が結び付いていたからだ(コルプス)であるところとは違う、別の個人を成すことになるのかもしれないということです。そうした「からだ(コルプス)」の取替えも、ピタゴラス主義にしてみれば衣装を替えるのと同様であり、取り立てて此の立場からみれば異想で破天荒な観念ではありません。しかし別のからだ(コルプス)の中へと移り転生した個人であっても、この変化としての取替えはからだ(コルプス)の置き換えに縮減されなければならず、個人の体験事実の記憶は失われ、ある種燐廻転生する霊魂の元玉の系統は普遍のままに残るのでなければならない。あるいはすくなくともそれらの部分的な残留(常在)が認められるものでなければならない。だが、もはや存しない先の個人との自己同一という意味では、先の生における体験の記憶がもはやないなら、それはトランプ占いや降霊卓が暴いてみせるところの「もの」ではなくして、遥か高みにある至高なる唯一の霊の再受肉(生まれ変わり/Incarnation)ということになり、ピタゴラスを始め神秘主義者の正教会への弱点となります。哲学・思想ランキング
2019年04月15日
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「霊魂論」エチカ詳解167 ルドルフ・シュタイナーについてはスピノザの汎神論に於ける神の様態の延長としての死生概念とある種対照的な人間生死の捉え方をしています。、「からだ(霊魂の受容体」の死と精神の内奥に隠れた「霊体」を扱うことを夫々の思考を比較考察することは「霊魂論」を語る上には重要かつ意味合いを持つものであり、後段では述べるつもりです。さて置き、今取り上げられたピタゴラス主義の中心教義「パリンゲネシア」の第二の解釈は、Palinは「新」とgenesiaは「生成」あるいは「誕生」を明確に区別、其の概念は相互に明確に区別されるべきだとします。勿論、此れはピタゴラス主義に問うているのであって、ピタゴラス自身が最受肉(生まれ変わり)の理説を説いたとの証はありません。片や一方、パリンゲネシアの理説については、すくなくともそれを現時の受容体としての「からだ(コルプス/corpus)」の死以前、人の生涯の間に完遂されるべき物事の心得として教えたことは間違いはないと推論します。ピタゴラス主義の中心教義として語られているからです。此処で疑問が湧く方は、おそらくは、現時の受容体を遡及することでしょう。何事にも初めがあるならば、受容体なき霊は何処から来たのかに尽きると想われますが、少なくとも、「神秘学概論」を著したルドルフ・シュタイナーは答えてはくれません。哲学・思想ランキング
2019年04月14日
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「霊魂論」エチカ詳解166 現在に伝わるピタゴラス派文書群の僅少さにより、其の思考の本質的目標としてパリンゲネシア(輪廻転生/palingenesi)が掲げられますが、語源学的にはPalinは「新」とgenesiaは「生成」あるいは「誕生」に由来します。パリンゲネシアという語句は「新たな誕生・再生・第二の誕生」を意味しますが、此の言葉を誰もが同じ意味合いとしては捉えていません。第一の解釈ではパリンゲネシアを前提として時系列に捉えれば、さすれば其の前には必然的に遡っての身体である肉体(コルブス)の死がなければならないことが必然となります。此のことから導き出されるのは霊性を持った人間が誕生するのは個人の前霊のコルプスのうちに宿った霊が別のコルプスのうちに再受肉する、即ち生まれ変わる(reincarnazione)とする説です。これがおおむね心霊派(spiritisti)や神智学者たち(teosofisti)の解釈です。「神秘学概論」を著したルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner/1861-1925年)も此の思想の代表者の一人であるでしょう。哲学・思想ランキング
2019年04月13日
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「霊魂論」エチカ詳解165 事程左様に「霊魂」の語句は哲学・宗教並びに科学に於いてでさえ多用されており定義を過(あやま)てるとマジックミラーで取り囲んだ何れが真実真相か判別すら難しい混沌の世界に宇宙若しくは外宇宙は変容し、思考主体者たるあなたの認識を混乱に陥れる素因を抱(かか)えています。ライプニッツの「モナド(monad/単子)論」は、生物学に長(た)けた「シャルル・ボネ症候群」で知られる哲学者シャルル・ボネ(1720年-1793年)、18世紀のスイスの博物学者・哲学者。博物た学の分野では生物の発生についての先駆的な実験並びに考察を行った後に哲学に転じた人物です 。サン・バルテルミの大虐殺(Large St. Bartholomew's Day Massacre)後、ユグノーであるゆえ宗教的迫害を受けフランスからスイスに逃れた家系の出身であるという特異な系統を持ちますが、ジュネーヴに生まれた後、功績によりフランスアカデミー会員にも選出される光栄にも恵まれた彼が、自らの生物学に基づいてライプニッツの思想を発展させ、生物は目に見えず不滅な「原状回復の芽」を内蔵しており、その芽は順次成長し顕現するが、これは肉体の死ののちも同様であるとし。人間は肉体の死後、宇宙の新しい事態に適応した新しい生存に再生できるとしています。ピタゴラス主義の中にもその本質的目標として掲げられた輪廻転生(パリンゲネシア/palingenesi)を導入しています。不死という観点ではスピノザの絶対精神を取り込み取り込んだとしても不思議はありません。哲学・思想ランキング
2019年04月12日
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「霊魂論」エチカ詳解164 「人は何処からきてどこへ行くのか」、「人は何のために産まれてくるのか」の疑問に回答を与えんとする心霊主義は、人間の「死後存続」を信じ・実相する思想であることであり体験を前面に押し出します。心霊主義は人間の「死後存続」を信じる思想でり、神秘体験が最も重要性を帯びます。心霊主義の理論のベースには、17世紀末の哲学者ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz/1646年-1716年)ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者の死後存続についてひとつの完璧な教理を基底にた「モナド(monad/単子)論」を唱えます。ライプニッツは、宇宙は「不滅の心霊的原子である霊魂」、彼によれば「モナド」即ち無数の単子から成り立っており、それぞれのモナドの完全さの程度は異なり、より完全な状態に向かって発展しようとする傾向を持っていると思考します。生物のような複合体はモナドの集合体であり、モナドのなかでも霊魂である主要モナドの支配を受けている。そして、ある状態から他の状態への「飛躍」は自然的ではなく、ある種の力を帯びた生と死を連続したものだと考えます。また、霊魂は神の似姿であり、人間の霊魂は他の星でより完全な意識を持って存続すると信じられるとします。然し此処には完全体はない。ただし、宇宙および神は無限であるから、人間の認識(意識)としての霊魂が完成することはない。そして此のことから導かれる幸福とは、完全体でないが故に、其処に新しい喜びと新しい完全に向かう「絶えざる進歩」を見付けることの中にあると考えたのです。哲学・思想ランキング
2019年04月11日
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「霊魂論」エチカ詳解163 「人は何処からきてどこへ行くのか」、「人は何のために産まれてくるのか」の疑問は人間が理性を獲得し始めた時期には通常は其の思考の俎上に必ず上る疑問でしょう。此れが誰に強制されるまでもなく本相で浮かび上がるのがスピノザの演繹の骨頂です。一方、スピリチュアリズム(心霊主義/spiritualism)がスピノザの神存在に引き合いに出されることも儘あります。スピノザの神秘的汎神論の為せることからくる傾向です。スピリチュアリズムは心霊主義と訳されているように、誰しもとまでは言わないものの、何かしらの「霊」、此の霊はアリストテレスが問うところの「霊魂」とは其の意味するところとは全く同様ではなく異相であり、ましてや、霊媒現象の其の捉え方にはアリストテレス哲学やスピノザ哲学双方ともに共通項はあり得ないとしますがはたして如何なものでしょう。フォックス家の姉妹事件以降の霊魂の有り様は変わってしまったのかどうか。難問は「神」をめぐっての解答が時宜に応じて真相とされる思想が変遷変転して定まりないことにあります。哲学・思想ランキング
2019年04月10日
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「霊魂論」エチカ詳解162 今は過去としては許されない、JR福知山線事故の被害者の多くが「複雑性悲嘆」症候群、身近な人の死で強い孤独感にさいなまれたり、死を受け入れられなかったりする症状が長期間続き、日常生活に影響が出る症状に病んでおられることが朝日新聞で紹介されていましたが、こうした話を見聞きするにつけ、一日も早く、一人でも多くの人間に内精神の奥底に隠され続けてきた霊的世界や若しくは神秘、将亦、宇宙の実相と其の真相を知って頂きたいのが著者の気持ちです。。今日今時、此れから先にも、予期せぬ突然死が増せば増すほど、こうした症候群の患者は急増してくるのが必定だからです。唯物論にしろ形而上哲学や物理科学も「人は何処からきてどこへ行くのか」、「人は何のために産まれてくるのか」は第一義の関心事であり19世紀に発生した第1次スピリチュアリズムや20世紀後半に世界的な広がりを見せた第2次スピリチュアリズムを生み、霊魂の存在を通しての真相究明が次第に浸透します。スピノザの著作物には表立っては記されないものの、読み込めばスピノザの体験から盛り込まれたであろう「直感知」が其れに相当するでしょう。哲学・思想ランキング
2019年04月09日
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「霊魂論」エチカ詳解161 現代物理科学は光・電磁波・光子は,実際には事実上には質的には同じものだとします。簡素化して一言で云えば、粒子性を強調すれば「光子」であり、動的性を強調すると「電磁波・光」となります、同じものを局面を違う立ち位置から観相したものと捉えられます。更には電磁波を量子化したものが光子(Photon)ということになるわけです。光を光を波として捉えるか、或いは、粒子として捉えるかは永らく論争の的とされましたが現在では両方の質を持つと結論されています。光を波ととらえた時には電磁波と呼び、粒子性を強調する時には光子と呼ぶとしても案外間違いないといえます。光子というのは、この光の粒子性を強調して光を表現したい場合に使う言葉であり、光子とは「光つまり電磁波」です。電磁波は、場の量子論では光子の集合として扱われています。光子も質量がないため、電磁力は無限の距離にまで到達すると考えられるとされますが、質量及び大きさを持たないもが何故に粒子性を持つのか、波動性とは質量を持たないエネルギーなのでしょう。文系の著者は運動だけありて質量なしの活性体を想像することは困難ですが、立ち位置を変えて形而上学的に眺めれば見えざる力の発露、宗教哲学に立ち位置を持てば次元を持たない仏教哲学の「空」理論が想起されます。何れにしろ「光」は世界を維持する何者か或いは其のものなのかも知れません。世界外神格を思考するときには矛盾性を帯びます。スピノザや仏教哲学では神格を否定することは可能ですが、「光あれ」では喩えとしては可能でも、世界創造の前段階の説明が要請されます。結論として大いさ、重さも体積も無いものが人間生活に関わる空間や時間に何故の因果関係を持つのか検討は神を問題にする限りは推敲は必須項目でしょう。哲学・思想ランキング
2019年04月08日
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「霊魂論」エチカ詳解160 万物に神を認める汎神論的で審美的な世界を描くスピノザの哲学は彼がはじめて見い出したものでないことは事実ですが、汎神論を唱え人格神を否定、万物が「神の本質的な性質」を顕にしたものであると思考、自然界を支配している法則の美しさと合理的な統一性の中に神があらわされているのを唱えたのは彼が最初です。このように、万物に神を認める汎神論的でしかも審美的なスピノザの哲学を自らの科学思考に取り込み受け入れていたアインシュタインは、自然を支配している物理法則の中に統一的な調和を見い出すことを目指し相対性理論を構築するのです。すべての物理的現象を19世紀末までは物体の運動を扱う「ニュートン力学」と電磁波を扱う「電磁理論」によって完全に説明できる筈と考えられていたことに科学技術の発展が次々に矛盾を際立たせ、ニュートンの運動力学と光の特性を扱う電磁理論が互いに矛盾を抱えることをスピノザの審美眼をもってアインシュタインは世界の調和を相対性理論をもって示します。哲学・思想ランキング
2019年04月07日
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「霊魂論」エチカ詳解159 19世紀も末にになると、すべての物理的現象は、物体の運動を扱う「ニュートン力学」と光其の性状の電磁波を扱う「電磁理論」によって完全に説明できるはずと考えられています。ところがぎっちょんちょん、力学と電磁理論は互いに矛盾し、両者が調和していないことが持ち上がり問題視され、以降は謎とされます。アインシュタインは此の矛盾視されていた課題を解決して、世界内自然に統一的な調和を齎すための相対性理論を頭脳が解析する物理科学の分析をもって世界像を創り上げます。アインシュタインは、自然を支配している物理法則の中に統一的な調和を見出すことに成功したのです。此れは論理哲学に演繹法を持ち込み、人格神の「神」更には神格性さえも全能性故に否定した自然界を支配している法則の美しさと合理的な統一性の中に神が有ることを唱え、其の合理的統一性と世界内に顕われる一定法則を統一的な調和を「神」「世界自然」「人間精神」に関連させて幾何学的数学の諸法を借りて明かしてみせます。世界法則に「美」を見い出そうとしたのがスピノザとアインシュタインの共通項となります。哲学・思想ランキング
2019年04月06日
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「霊魂論」エチカ詳解158 マルクスよりさらに理論肌のフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels/1820-1895年)の唯物主観が捉えた「神」は世界に於ける「絶対」です。彼は「神」の語彙を信教的・神格的な「神」ではなく「絶対的概念としての世界精神/Weltgeist)」と捉えます。エンゲルスは語ります「ヘーゲルにおいては弁証法とは概念の自己発展である。 絶対的概念が永遠の昔から云々、どこにかわからないが存在し、 それはまた現存する全世界の本来の生きた魂である云々。 それは絶対的概念のうちにすべて含まれている、 すべての前段階を通って、自分自身にまで発展する。それからこの絶対的概念は、 自然に転化することによって自己を「外化」し、 この自然のうちでは、それは自己を意識することなしに、 自然必然性の姿をとって、新しい発展をし、 最後に人間のうちで再び自己意識に達する。 この自己意識は再び歴史のなかで粗野な形態から脱却し、ついにヘーゲル哲学のうちで再び完全に自分自身に帰る。」と述べ「神概念」を人間社会に還元します。他方スピノザに肩入れしたのは同族ユダヤのアインシュタインです。彼は航海中にユダヤ教の宗教指導者の「ラビ」から何に故か電報で「あなたは神を信じるか」と質問され返答します。この時の彼はます。「私はスピノザの神を信じている。それは、この世界の秩序ある調和の中に自身をあらわされる神であって、人間の運命や行動にかかわる神ではない」と返信します。つまりは、ヘーゲルが思考する神は自然必然であって世界に発展・展開を齎すと同時に其の結果を最後に人間のうちで再び自己意識に達するとし、「神は死んだ」どころか人間精神に還元させます。片やアインシュタインが世界に審美眼をもって臨んだように、世界は全てが統一・統合された「神の完全体」の顕現であり「美」を顕す肖像だとみます。哲学・思想ランキング
2019年04月05日
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「霊魂論」エチカ詳解157 推論するに、スピノザ哲学はラビとしての修業をするうちに、全能で有るべき筈の「神」が神格であるにせよ一定の枠に囚われることに疑問を憶え、スピノザ哲学を自らの思考法とした「直感知」から探求すればする程、世界の自然からの乖離・矛盾に苛まれたと推敲します。即ち、「神」は人間が思考や推論、思想をもっては憶測出来得ない見えざる力だということです。此処までは、スピノザ哲学とヘーゲル哲学とに異同はありません。異相の形態を帯びるのが「神」概念の形而上の具体的な人間との関わり方です。ヘーゲルによれば、神は世界精神として人間の意識に宿っており、人類の歴史というのは、 この世界精神が文化の発展を通して自己意識を獲得していく過程。 つまりは、 歴史は神そして人間が蓮華の種子が蕾と成り花開くように自己を展開する壮大な物語だと匂わせます。片や、スピノザは万物に神を認め其の全体を「神」と定義します。此の二人の神の実体の世界観を後世に二人の偉大な思想・科学者が具体的評価を下しています。ヘーゲルの神概念を解読する一人は弁証法から唯物史観を組み立てたかのエンゲルスです。片やスピノザの神概念を解読する一人は大宇宙の理を「審美主義(less common)」から捉え相対性理論を生み出したアインシュタインです。哲学・思想ランキング
2019年04月04日
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「霊魂論」エチカ詳解156 皮肉にも両親が商業国家ネーデルランドのオランダ自由都市に迫害を恐れてポルトガルからユダヤ同朋の街に移民して、同朋からの迫害の危機に陥ったのがスピノザです。ユダヤの結束は律法を主体とするユダヤ教徒にとっては安心立命ではあっても、律法違反者に対しては殊の外苛烈なのは、ナザレのイエスを挙げるまでもなく自明の理であり、スピノザはナザレのイエスと同様の立場に立たされたと云えましょう。辛うじて彼が存命でき得たのは、他に神格性を持つ神を主張しなかったことと、預言をしなかったことが暗殺を免れた要因です。旧約唯一神、嫉妬する神エホバはナザレのイエスの「アガペー」が現出するまではユダヤの救いの神であるとともに滅びの制裁をする神でもあります。ユダヤ教は律法違反に対しては、教義に忠実な原理主義をとり他は全てが敵となります。神が愛するのは神威を恐れる者です。何故なら、我が子とも言ってもいい「アダム」ですら楽園である「エデンの園」を追い出され「失楽園(Paradise Lost」へと追放されます。以降のユダヤびとの運命は救世主キリスト誕生と其の磔による刑死までは一切の原罪の救いが提示されないことには、たとえ神の愛する「ダビデ」でさえも「原罪」を逃れるすべはありませんでした。哲学・思想ランキング
2019年04月03日
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「霊魂論」エチカ詳解155 国土を持たず離散して移住したユダヤ民族の精神の一体感は宗教を通じて確信されるものであり、根拠地がないことゆえの志向性であり基盤だと云えましょう。其れは何もユダヤ民族に限られたものでなく、ジプシーの名で知られる民族の自称はロマ(roma)は北部インドを原郷とする少数民族ですが、ヨーロッパを中心に世界各地に散在していきます。現在では定住するものが多いのが現況です。其の言語もロマニー語と呼ばれます。世界全体で約700万-800万人と推定され、中背・褐色の皮膚あり黒髪であり、文字をもたない等に特?があり、馬の飼育や売買・鍛冶(かじ)・祈祷として女子の占いは現代でも信じる人間は数多くいます。ロマの独自の祭礼を通じての音楽や舞踊や祭礼が民族の精神の一体感確信されるものであり、一体感なしには生活できない状況はユダヤ民族同様に差別視され迫害がありました。ユダヤ民族のような強烈無比の信教を持たない民族の一体感は音楽と舞踊其のものにありました。彼らが影響を与えたのはフラメンコが其の最たる事象でしょう。更には国土を離れて離籍化したしたのは商業国家のオランダ人や華僑でしょう。彼らは何を根拠に一体化していたと云えば商業の円滑化一辺倒です。即ち、居留地では押し付けがありませんでした。流浪の民ユダヤ民族の一体感、現代の民族の血脈を超えたイスラム民族以外の信教集団はたとえ世界に拡散しても其の基盤は宗教ゆえの力を持ち且つ危険性を示すことは現代でも解決策が見い出されていません。此れを解決するのは何なのかを政治学では解決不可能と見られており、スピノザの如く一定宗教に囚われない哲学が或る種の機会を持ち得ていることに期待せざるをえない現在です。哲学・思想ランキング
2019年04月02日
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「霊魂論」エチカ詳解154 16世紀にスペインの圧政から解放と自治を目ざして独立戦争を起こしたオランダは、その建国の理念をローマ・カトリックの強権に対する宗教の自由においていました。このことは、宗教的・倫理的には信教・思想の自由を、世俗的には市民参加による自治行政を熱心に擁護する国民性に現在に至るも繋がっています。商業資本に基盤を置き海洋国家として発展するにはの自由性が必要でだったのです。同時にローマ・カトリックに対抗して独立運動の思想基盤をつくったプロテスタントのカルバン派の運動は、16世紀後半以降ヨーロッパ各地で迫害されていたプロテスタントの思想家や研究者を受け入れて彼らの研究や思想に場を提供してます。それ等はやがてプロテスタント信仰を超えて啓蒙主義の発展を促し、オランダは近代思想の揺りかごの役割を果たすこととなります。如何にスピノザが「真の神」を絶対存在・絶対意識・絶対意思の存在だと主張しても自由都市王国ネーデルランドでは許容され、教会権威と云えども表立っては迫害が許される環境ではなかった。だのに、スピノザはエチカ公刊を自重します。実際のところ「正教会」からの圧力は感じていたでしょうが、自己の身の危険は然程には深刻では無かった筈です。スピノザの家族がオランダ移民に際して選んだ地はアムステルダムのユダヤ人共同体でした。彼はユダヤ教に縛られず一度はラビとしての聖職を志すも断念、自己の信念に従い立法とかけ離れた思想を示したから共同体からは締め出し破門(ヘーレム)され、狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになったこと屡々だったのでしょう。ユダヤ教徒から見れば最悪の人間に見えたのでしょう。日本では此の様な者を「ころり」と言い、キリシタン弾圧の踏み絵を制作した元神父を蔑すんだ例があります。其れ故にもはや怨念となりスピノザは住地を定まることさえ不可能事となり、「エチカ」は地下水脈へと移動します。以降、スピノザのゆく先々ではユダヤの怨嗟の声が満ち溢れます。
2019年04月01日
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