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1. アイラブユーは「人間愛」に集約される。日本で英語の「アイラブユー」というのは、恋愛感情を表現するものという風に主に捉えられていると思いますが、私は、恋愛関係で言えば、切った腫れた惚れたの状況ではなく、そこから一歩進んだ人間関係になった時に頻繁に使われるようになる表現だと思います。 アメリカ人は家族や親しい友達同士で、アイラブユーを頻繁に使います。でも、いつでもどこでも使う訳ではなく、だいたい別れる時(毎朝会社へ行くといった日常的なものも含め)とか、手紙の末文や電話を切る時などに使います。あなた、日本語で夫や妻が配偶者に対し「行ってきます。愛してるよ」なんて言ったらいったいどうしたのかとビックリしますよね。じゃあ、日本人の方がアメリカ人より愛情が薄いのかというと、そういう訳ではなく、日本人の場合は、「それじゃまたね」「行ってきます」という中に愛してるよ、がすでに含まれているんだと思います。 子供も親に対してしょっちゅう、アイラブユーアイラブユーと言います。これは「ママ(パパ)大好き!」というところでしょう。親も子供に対してアイラブユーアイラブユーを連発です。要するに、「ママだーいすき!」「ママも〇〇ちゃんのことだーいすき!」ってことでしょう。子供のアイラブユーは誰に対しても「だいすき!」という意味と考えて良いでしょう。 このようにアイラブユーはいろいろな関係において使われますが、突き詰めればその感情は「人間愛」に集約されると思います。そして、アイラブユーの域になるまでには、時間の経過と関係の深さがある程度に達することが必要になります。まあ、子に対する親の愛は、子が生れた瞬間にその域に達するのかもしれませんが。 この前、(私が最近気になっている 笑)ジャスティンビーバーのコンサートの動画を観ていた時にも、アイラブユーに出くわしました。ジャスティンは現在、2年前に出したアルバム「パーパス」を引っ提げて全世界をツアー中ですが、そのコンサートで、表題曲でもある「パーパス」を歌うシーンがあります。これは、しばらくの間、荒れに荒れ狂って愚行を繰り返し表舞台からも遠ざかっていたジャスティンが「人は皆目的をもって生まれてきているんだ」ということに気づき、それについて説いている歌です。彼は(実は?笑)敬虔なクリスチャンらしく、この歌を歌うと感極まって毎回のように泣くんです。そうすると、近くにいるファンが、アイラブユー(もしくはウィーラブユー)ジャスティン!って叫んだりするんです。この時はどんな感情なんでしょう。もちろん、ジャスティンのファンで大好きなのには違いないけど、ただただきゃーきゃー叫ぶんじゃなくて、ジャスティンのことを大事に思っているとか、気にかけているっていう意味を持つアイラブユーなのではないかなと思うのです。(こういう時、日本のファンだったら、がんばってーって言うんじゃないかと思う) このように、アイラブユーの中には、大事に思う、気にかける、という意味も大いに含まれていると思います。ジャスティンがらみで、彼のマネージャーであるScooter Braunという人が(和訳された)インタビュー記事の中で「自分が愛している人間(ジャスティンのことです)が苦しんでいるのを見るのはつらい」というような発言がありました。これは、マネージャーと歌手の関係においてですから、日本語で言う「愛している」というよりも、「大事に思って気にかけている」という意味なんだと思います。 あ、さらにジャスティンがらみですが(笑)、ジャスティンは最近のインタビューの中でセレーナゴメスのことをI love her. って言ってました。もう2人の間には恋愛関係はないわけですから、この場合は、彼女を人としては今でも好きだということなんでしょう。これを「愛している」と訳しちゃうと未練があるように取られるかもしれません(あ、実際にジャスティンは未練があるって言われてますよねw)。もう恋愛感情はないけど、今でも相手のことを人としては好きで尊敬していて大事に思っている、って、そういう切ない関係ってありますよね(遠い目)。 どきどきわくわくの恋愛関係から一歩進んで初めてアイラブユーという関係になるんだろうという私の推察を裏付ける例をもう一つ。 ちょっと前にウィルス感染パニック系の連続ドラマを観ていたことがありました。そこで、万が一ウィルスに感染しているかもしれないからという理由で病院内で隔離されてしまった見知らぬ男女が恋に落ちるのです。で、そのうちの女性の方が感染してしまい、感染すると2日以内に死ぬことが分かっているので、感染まもなくして、彼女が彼に「アイラブユー」というのです。そうすると、彼が「ダメだよ、まだダメだよそんなこと言っちゃ。これから先、(治療法が見つかり)僕たちの間はずっと続いて行くんだからその時まで待たなくちゃ」みたいなことを言うんです。でまあ、やはり死期が迫ってもうダメだ、っていう時になって、彼が感染防止の防護服を着て彼女を抱きかかえながら、アイラブユー!今なら君も言ってもいいよ!って言うのです。 どうでしょう?(ちなみに私はアイラブユーはいまだにうまく言えません)(ちなみに私の夫は家族にはアイラブユーって言いますが、私には積極的には言いません。私とは日本人脳になるのか???>夫) (追記)家族の間でのアイラブユーは、「ここぞ」という場面で使うという意味でもあると思います。いま、思い出したんですけど、普段、私にはアイラブユーとあまり言わない夫が、アイラブユーと言った時のことを思い出しました。それは、私が2人目の子供を出産するときに予定帝王切開でこれからいざ手術という時のことでした。病院服を着て手術室に入ってきた夫が、開口一番、アイラブユーって言ったんです。これにはかなりやられました。もう、うるうるでした(笑)。
2017.06.01
アメリカにはキング牧師デーという祝日がある。1月15日の同牧師の誕生日にちなみ、その前後の月曜日が祝日となり3連休になる。今年は1月18日。普段は特に何もしないのだが、今年は関連行事に参加してみることにした。ボストンの観光地の一つともなっているFaneuil Hallの講堂(があることも知らなかったのだが)で、市長をはじめ、主にアフリカ系アメリカ人の有力者らがゲストスピーカーとして招かれ、キング牧師の業績を時系列に一人ずつ紹介し、その合間に地元の青少年交響楽団の演奏が行われると言う形式のイベントで、無料で誰でも参加可能。キング牧師が黒人公民権運動の指導者であることから、ゲストスピーカーのほとんどがアフリカ系アメリカ人であり、また、一般の参加者にも黒い肌の人達が目立ったが、もちろん、白人もアジア系もいたし、肌の色が違う親子もいたり、色々。私が今年、なぜこの行事に参加してみようかと思ったかというと、それは、ここで演奏をした青少年弦楽合奏団の育成プログラムに息子がこの度合格し、昨日から練習を始めたからである。息子はコントラバスを担当することになった。この育成プログラムについて簡単に説明すると、これは、「子供は誰でも適切なトレーニングを受ければ楽器が演奏できるようになる」という理念の下、実際は経済的事情などで満足な訓練を受けられない地域の5歳から7歳の子供達を隔年のオーディションで集め、週2回の定期的な練習を経て2,3年後に直属の青少年交響楽団のオーディションが受けられるようになるまで育成するという内容である。楽器は貸し出し、授業料も申請が通れば補助が受けられる。小学1年生から高校3年生から成る楽団員たちは、いわば息子の先輩達である。ボストンでは「貧困の多くは黒人」といった事実はまだまだあり、そのためか、このプログラムで育成される子供たちの多くは黒人だ。でも、開始されてから約20年になるこのプログラムの結果、それまでは青少年交響楽団の1パーセントにしか満たなかった非白人率が現在では14%に増えたとのことである。私はクラシック音楽は全く分からないので、生の弦楽器の演奏が歴史ある建物の中で聴けるだけで感激してしまった。また、今まではコントラバスなど全く注目したことなどなかったのだが、今日はそちらばかりに目が行ってしまった(笑)。各ゲストスピーカーの話は、私の語彙力が足りなかったのか音が聞き取りにくかったのか(多分両方)、あまり良く分からなかったのだが、最後に30分ほどの長きに渡りスピーチをした人権活動家が結論として言ったのは、多様性を受け入れながら一つにまとまろう、というようなことだった(と思う)。そして、それがただの絵空事に聞こえないのは、ここに集った人達をはじめ、アメリカ(特にボストン)で、このことについて生活のさまざまな場面で常に考えさせられるからだと思う。そのスピーチを受け、恐らく牧師だと思われる男性に代わり、楽団の演奏により、アメージング・グレースなど、教会をはじめこうした機会には良く歌われる歌を参加者全員で歌った。最後はWE SHALL OVERCOMEという歌で、そのタイトル通り、まだまだ人種差別の残るアメリカだけれど、いつかこれを乗り越えようと、さまざまな背景をもった参加者達が声を合わせ、何人かは一緒に手をつなぎながら歌う姿からは、ポジティブで温かいエネルギーを感じ、受け取ることができた。死を以ってその人の時間は終わってしまうけれど、その心は後世に受け継がれていくという趣旨の投稿を最近目にしたのだが、まさにその通りだと思った。息子が受かったプログラムも、まさにキング牧師の「夢」を実現させた一つの形である。アメリカでの生活は本当に色々なことが起こって、決してばら色とは言えないけれど、時々、こうして希望に満ち溢れた場がもたらす幸せを噛み締めることが出来る。
2016.01.19
海外に暮らしていると、ちょっとしたことを知らずにいるがためにエライ不便をこうむっている時がある。夫も日本に住んでいた時、ちょっとしたことを知らなかったために困っていたことがあった。たとえば湿気対策。押入れの中にまず、すのことかを敷いてから布団をしまうとか、除湿機を回すとか、そういうことに気がつかなかったがために、カビをあちこちに生やしていた。逆のことはアメリカにいる私にも言えるわけで。たとえば(ってこの例を出すのはどうかと思うけど)、アメリカで日本風の食パンで作るサンドイッチを作ろうとすると、どうもおいしくない。アメリカの食パンは薄くて正方形でふにゃっとしていてあまりおいしくない(笑)。だから、ツナマヨだの卵だの入れても何だかおいしくない。具をはさんだらはさんだで、お昼までにはさらにふにゃっとしておいしくない。。。それで、日系のパン屋さんで食パンを買うとえらく高くつく。自分の家でパン焼き機を買って焼いている人も多い。ところが最近夫がランチ代節約のために毎日自分でサンドイッチを作って持って行くようになったのだが(私が愛妻弁当を作ってないっていうツッコミはナシね)そのへにゃっとした薄い食パンをトーストしてからサンドイッチを作るのである。いや、そうするとね、カリッとして美味しいんですよ。チーズもいい具合にとけて。夏だけどオフィスの中は冷房がんがんに効いてるから食中毒の心配とかほとんどないし。いやーボストン15年目にして初めて気づいたこの事実。。。
2015.08.18
ボストン美術館(以下MFA)がモネの絵画作品『ラ・ジャポネーズ』の前で同様の着物を着てみるというイベントが抗議を受けて中止になり、その後、内容を変更をして再開したものの、今度は、抗議に抗議をする側も加わって議論が終わってないという件について、自分なりに考えてみた。(関連記事 英語)https://www.bostonglobe.com/arts/2015/07/18/counter-protesters-join-kimono-fray-mfa/ZgVWiT3yIZSlQgxCghAOFM/story.htmlこのモネの絵画は、モネの妻が、着物(打ち掛け?)を身にまとってポーズを取っている姿を描いたもので、その当時のフランスでの日本趣味(ジャポニズム)を反映した作品とされているようである。MFAでは、これと同様の着物を用意し、それを訪問者に身にまとってポーズを取り写真を撮ってもらうことで、『あなたの中にあるモネを感じる』ことを促すというのが趣旨だったらしい。それを、アジア系人権向上団体が、このイベントはアジア系に対する『人種差別』や、アメリカ社会におけるアジア系に対する誤った認識を助長するものとして、このイベントの前にプラカードを立って抗議をした。これに対し、MFA側はイベントを中止し、そして、後日、この着物を展示し、試着は止めて、代わりに、着物自体やその当時のジャポニズムに対して質疑応答を受け付ける、という内容に変更してイベントを再開した。私は最初にこのイベントについて聞いた時、正直、着物を身にまとうだけで、MFAのこのイベントの趣旨である、当時のジャポニズムの理解につながるとは思わなかった。ただ、このイベントは、おそらく、その当時もさほど変わらなかったであろう、日本文化に対する表層的な理解を繰り返すことはあっても、私は特にその中にアジア系に対する「軽視」や「蔑視」を感じなかったので、傍観するにとどまっていた。でも、抗議したアジア系の人権向上団体は、それを感じたのだと思う。このイベントのプレゼンテーションの仕方に、アメリカ社会で見られる、白人のアジア系に対する蔑視や差別を感じて、それを助長するようなイベントのやりかたついて抗議したのではないか。アメリカに長く住んでいれば、程度の差はあれ、「これは私がアジア人だから差別されているのかな?」と感じる対応に出くわすことはある。正式に抗議したこともあるし、笑って受け流したこともあるし、今回みたいに知らぬ存ぜぬを決め込んだこともある。関連記事をいくつか読んでみたが、そこに出てくる "orientalism" や "(cultural) appropriation"という言葉が、この団体の抗議している理由のキーワードになると思う。まず、"orientalism"というのは、訳してみれば「東洋風」という意味だが、これはやはりアジア系に対する蔑視用語になる。花にもOriental Lillyと呼ばれるユリがあるのだが、これは最近はAsian Lillyと呼ばれるようになったぐらいだ。また、appropriationというのは私も最近知った言葉で、強いて訳せば「模倣」という意味であるが、特に、「ある特定の文化の服装や格好などをその文化に対してさして深い理解もせずに模倣する」というニュアンスで用いられることが多い。結局、このモネの絵画の前で、「オリエンタリズム」の代表みたいなキモノを着てポーズを取って写真を撮るというイベントに対し、アジア系に対する蔑視とappropriationを感じるから中止してくれ、ということなのだったと思う。この抗議を受けて、MFA側は「ある一部の人達の気分を害した」としてイベントを中止し、上に書いたように、もっと、当時のジャポニズムや着物そのものについて説明をするといった内容にしてイベントを再開した。私は、この変更された内容の方がこの絵画と関連付けるならふさわしいと思うし、これなら実際に足を運んで説明を聞いてみたいなと思う。着物を羽織ってポーズを取ることによって、確かにそのずっしりとした重みとか、刺繍の精巧さや美しさや絹の光沢などを身近に感じることはできても、それはあくまで着物に興味を持ってもらうきっかけを与えるだけで深い理解につながるとは思わないし、よく観光名所でその風景がベニヤ板に描かれていて顔の部分がくりぬいてあって、そこに顔を突っ込んで写真を撮れる場所があるが、この当初のイベントの趣旨は、それと同じようなレベルに過ぎなかったのではないかと思うのである。しかも、そもそも着物自体や日本文化を理解してもらうこと自体がイベントの趣旨でなかったわけで、その、「自分の中のモネを感じてみましょう」という何ともあいまいな趣旨を提示することにより、そこに「白人のアジア系に対する蔑視が見られる」と取られる可能性もあったことをMFA側が想定しなかったとすれば、MFA側の認識は甘かったということだ。白人が着物を着ること自体が問題なのでもない。白人(あるいは要するにアジア系人種以外の人)が着物を着ることによって、そこにアジア系および文化に対する侮辱や蔑視(あるいは無邪気な無理解)の意味合いを持つことが問題なのであって、結局はコンテクスト(文脈)の問題である。たとえば、うちの黒人の夫が黒人の家族の間で"You, colored people(おい、そこの色のついた奴)!"みたいなことを言ったりするが、これは「身内」の間のジョークになる。でも、これが、別の人種から蔑視の意味で言われたらやっぱりそれは蔑視である。日本でもこのモネの作品が展示された際に同様のイベントがありおおむね好評だったらしいが、それは、着物が日本人にとって自国の文化であり、日本人が自分の文化の一部である着物を着ることに何も問題はないからである。しかも、印象派大好き、モネ大好きな日本人である。その絵画自体やイベントのやり方の中に、日本(というか東洋)に対する蔑視を感じた人は少ないのではないか。また、このイベントに対して、日本の着物について知ってもらうのは良いことだからいいじゃないの、と言って、抗議団体に反論するのも筋違いだと思う。このイベントのそもそもの趣旨は、繰り返すように、着物や日本文化について知ってもらうことではなかったからである。私だったら、ただ着物を羽織ってもらうのではなく、実際に着付けたり、着物のさまざまな種類についてレクチャーするとか、そういう場と機会で貢献したいと思う。そういう意味では、イベント再開後には、着物について説明を加えたりという内容に変更をしたMFA側の措置に感謝したい。そして、最初のイベントの趣旨に対して抗議した団体が、趣旨変更後も抗議し続けている理由に関しても知りたい。結局は、イベント中止前には、日本文化に対する理解やモネの描いた当時のジャポニズムに対する理解を深める機会にもならず、逆にアジア系に対する蔑視とも受け止められかねないMFAのプレゼンテーションの仕方がもたらしてしまっている騒動なのだと思う。
2015.07.19
我が家の近くには、ほぼ開店休業状態の競馬場がある。戦前に創業した歴史ある競馬場らしいのだが、現在は馬が訓練のために走っていたり、競技のような事をしていたり、といった程度。そこに2年ほど前、一大カジノ施設を建設するという話が持ち上がった。正確には、ここに将来的にはカジノを建設するという目論見の下、赤字覚悟で、この競馬場をずっと経営していたとのこと。カジノ会場はもちろんのこと、ホテルにショッピングセンターに遊歩道にと、現在は閑散としているこのエリアに、一転して巨大エンターテイメントエリアが登場するという計画である。私はカジノというと、何となく場末のゲームセンターというか、暗くてネガティブなイメージを持っていたのだが、まだ子供が出来る前にコネチカット州にあるMohegan Sun(モヒーガン・サン)というカジノ施設に行って、イメージがすっかり変わった。ここはまるで大人向けのディズニーランドみたいで、純粋なギャンブルの施設以外はショッピングセンターもあり、子供も入場可能。コンサート会場もある。そんな施設を、我が家の庭先に造ろうというのである。当然のことながら、周辺住民は賛成派と反対派に分かれた。かなり大雑把な括りではあるものの、賛成派は昔からの地元住民。反対派は最近流入して来た若いファミリー達。賛成派は何と言っても雇用の増加に期待。ブルーカラーのこの町は、仕事にあぶれている者も少なくない。また、もともと彼らの多くはギャンブル体質のため、カジノ自体に抵抗が少ないと言える。市や政治家達も、周辺地区の再開発への投資を掲げて実現を推進する。近くのダンキンでは、ちょくちょく見かける地元の市議員が、常連の客に「きれいな遊歩道も出来るんだよ」と話しかけているのを目撃(笑)。一方、反対派は犯罪の増加、近くを走るハイウェイの交通混雑、不動産価値の低下などを懸念。私はどちらかというと反対派に属する人達のコミュニティに属していたが、無責任ながら傍観派に回った。当時、諸事情により、家の事を回して行くので精一杯な状況でもあったし、正直、どう行動して良いのかも分からなかったからである。この競馬場の敷地は、R市と我々が住むボストン市のE地区にまたがっている。そのため、このR市とE地区の住民投票により、カジノを受け入れるかどうかを決めることになっていた。この住民投票当日まで、賛成派と反対派の攻防戦が連日のように繰り広げられた。毎週末のように、反対派と賛成派がそれぞれプラカードを掲げて街頭に立ち、庭先に支持する側の看板を立て、それぞれの主張を繰り広げ、その様子は地元紙に取材された。反対派は団体を立ち上げ、活動費の寄付金を募ったり、事務所スペースを借りてホットラインを設置し、各住民世帯に電話をして説得を講じるといった作戦にも出た。アナログな電話線を引けるぐらいだから、寄付金の集め方も情報の流し方もこちらはデジタルで、ウェブサイトやフェイスブック、地元のメーリングリストなどを駆使し、連日のように関連情報が流れて来る。一市民に過ぎない彼らが、いったいどんなノウハウを持ってこのようなことが出来たのかはよく分からないが、その行動力にはいつものことながら驚かされる。でも、自分達で一から地元に幼稚園を設立してしまったような人達でもあるから、別に驚くほどのことでもないのだろうか(幼稚園設立の一部始終はこちら)。ただし、この反対派の中でも、かなり積極的な人達とそうでない人達の温度差はあったようである。たとえば、知り合いのお母さんの一人は電話作戦を手伝ったらしいが、「こういうことやるのってホントは性に合わないんだけど、やらないといけないと思ってやったのよ」と、告白してくれた。このママ友・パパ友グループ、全員が一丸となってやっているように見えて、一人一人に本音を言わせると実はそうでもなかったりするんだな。そして、ついに迎えた住民投票当日。私は正直言って、賛成派が勝つと思っていた。政治家のほとんどが賛成側に回っていたし、代々ここに住み着いている住民の意見の方が優勢だと思っていたからである。ところが、一夜明けての結果を見ると、我々E地区の方は、NO(反対)が過半数を占め、カジノ施設の建設は否決された。パーセントにすると10パーセントほどの差であったが、数にすると確か1000票以上の差だった。これは大きな差である。ちなみにR市の方は60パーセントほどが賛成だった。カジノ建設にはR市、E地区両方の賛成を得ないとダメなので、この案は否決。反対派が大喜びをしたのは言うまでもない。傍観者に徹してしまった私も、この地区全体のイメージダウンや、平和なこの住宅街へのカジノ客の流入が回避されたことに内心ホッとした。その後、R市が別のカジノ事業会社を使い、自身の敷地内だけに施設を建設するプランを作るなどの動きがあったのだが、今年に入ってそれも州の関連委員会の承認を得ることが出来ず、競馬場もその長い歴史を閉じることとなった。この競馬場の近くには普通の住宅地が広がっていて、その反対側には大型スーパーとTarget以外はあまり流行っていないような店が連なる若干寂しげなショッピングモールがある。いずれにしても、再開発して活性化した方が良いとは思うが、何もカジノじゃなくても、子連れの家族も安心して楽しめるような健全なレジャー施設の方がいいんじゃないか、というのが私の意見である。空港も近いけど町の中心にも近いし、観光客の需要も十分見込めると思う。カジノはノー!という周辺住民の意向は十分表明されたはずだから、それを汲んで、建設的な計画が進むのを期待したい。
2014.10.23
爆発が起きた当時、私は別の地域へ、夫と子供たちは現場近くのお店に向かってそれぞれ電車に乗ったり外を歩いているところでした。先に事件のことを知った夫が私のケータイの留守電に、事件があった、我々は無事、これから帰るという連絡があり、大丈夫だということは分かりましたが、詳しい状況までは分からなかったし、家に戻って再会できるまで心配でした。でも、おかげさまで、無事でした。私が住んでいる地域のママ友は、このボストンマラソンに出場していました。彼女は完走も出来たし、爆発によるケガはなかったようです。 でも、彼女は、ボストンの都会の家庭的に恵まれない子供たちを大学に行かせようという団体の募金を集めるチームの一員として、走っていました。その仲間が2人、ケガをしたようです。 アメリカ人は、こうやって、レースをしたり、歩いたりというイベントに参加する時に、自分の記録のためだけでなく、こうやって、チャリティ団体のチームに属して、自分が設定した目標額の募金を集め、その団体に貢献するということをよくやります。 彼女も、ずいぶん前からFBなどで寄付を呼びかけ、オンライン、オフラインで、5000ドルの目標額を達成しました。企業や大きな病院の呼びかけだったら、一人1000ドル以上といった大口の寄付額を集めることも出来ますが、彼女の場合は個人ですから、彼女はフルタイムで仕事もしながら、数百人の友達や知り合いにコツコツと声をかけ、募金を集めたのです。 レースの前日は彼女がゼッケンを手に入れて満面の微笑みで立っている写真がタイムラインに流れてきました。 そうやって、彼女のように、たくさんの人が、マラソン自体の練習だけでなく、誰かのために何らかの目的をもって前々から準備をして、このレースに臨んだのです。 そういう、尊い志を、こういった形で踏みにじるのは、本当に卑怯で許せないことです。
2013.04.17
早いもので、渡米してから今年の11月で12年になる。そうすると、こちらにいらしたばかりの日本人の方からは「日本とアメリカとどっちが良いか」という質問を良く受けることがある。これは結構難しい。日本の方が良いこともあるし、アメリカの方が良いこともある。だから、どっちが良いとは一概に言えない、というところが優等生的な答えではあるが、私は自分のアイデンティティーとの絡みがあって、さらに複雑化している、というのが正直なところである。今、思い返してみると、小学校4年生で3年間のおふらんす生活を終えて日本から帰国して、2000年にこの地ボストンに来るまでの約22年間は、私にとっては、少々大げさに言えば、日本社会に受け入れられてもらおうと最善の努力はして、かなりイイ線までは言ったものの、結局は完全には受け入れられなかった22年間だったのだなあ、ということである。じゃあ、「アメリカの方が居心地がいいんですか」と聞かれると、そういうわけでもない。このボストンでの生活で気に入っている側面はいろいろあるし、逆に、もう、どうしても我慢がならなくて「ああ、日本に帰りたいな」と思わされることもある。ただ、ひとつ言えるのは、ここでは、受け入れられようと努力するストレスから解放されている、ということである。どうせガイジンなんだから受け入れられようなんて思わなくていいや、と自分が開き直れるから気楽なのである。でも、私が本当に自分らしくいられて、受け入れられていると感じるのは、実はあまり場所とは関係がない。それは、たとえば、同じ境遇と言うことで年を経るごとに絆が深まっている日本語学校の親達であったり、フェイスブックを通じて昔と変わらずバカ話をしてもマジメな話をしても盛り上がれる高校や大学時代の友達であったり、合宿みたいな環境で苦楽を共にした元職場の仲間であったり、少しずつコミュニケーションを怠らずに努力して来たことが実って心を開いてくれた地元のママ友・パパ友であったり。それぞれ、暮らしている場所も、知り合ったきっかけも、今置かれている環境もいろいろなのだが、何かしら心のつながりを感じることができて、学び合い、支え合い、助け合えることが出来る人達との「場」が、私にはある。そして、それが、私にとっては、一番身近な自分の夫や子供達も含めて、どこに暮らすかということより、大切で必要なことなのである。
2012.09.30
息子が先月まで1年間通っていたプリスクールのイベントに行って来た。またまたファンドレイジング(資金集め)が目的で、今回は”Touch-A-Truck”というもの。これは「トラックをタッチする」という文字通り、消防車など大型自動車を始め、警察のオートバイやパトカー、あるいはトラクターなどが駐車場のような大きなスペースに一同勢ぞろいして、自由に触ったり乗ったりできる。まあ、消防署に学校見学などで行ったりすると、消防士さんが説明してくれて消防車に試乗させてもらったり出来るわけだが、このイベントでは、こちらが出向くのではなく、あちらから出向いてもらうわけだ。しかもいろんな機関から一度に集まるので、参加者は興味のあるものを少しずつお試しできる。私も息子がまだこのプリスクールに通っている時に、この「出向いてもらう」ための交渉プロセスに関わったのだが、ほんと、私、こういう営業関係は苦手。。。だってさー、消防署とか警察に電話して、消防車とかパトカーとか持って来てくださいって頼むのなんてそんなもう恐れ多くて誰がそんなこと出来ますかいな。。。我が家は夫側の親戚を頼ってストリート・スウィーパー(要するに、道路の清掃車ね)をゲットする当番になったのだが、なかなか担当者までたどり着かず、義母が自分ちのピックアップトラックを持って来てくれると言ってくれて、それでお茶を濁すことに。。。後は、消防署員の親戚を頼って、とりあえずどこに電話すればいいかを聞くとか。。。何か、いかにも、自分はいちおう貢献してますと言わんばかりに。。。後から分かったことではあるが、このTouch-A-Truckイベントと言うのは、ファンドレイジングの中でも一般的なものらしく(日本で言うと「幼稚園のバザー」と同じようなレベル?)、警察や消防署などお堅い機関とはいえ依頼される側も馴れているみたいだ。でもやだよ、私は。しかし、このイベントを仕切ったお母さんの有能さと、関わった他の親達の交渉力と人脈と営業力が功を奏し、当日は工場跡みたいな建物(今はアートスペースになっている)の駐車場スペースに乗り物が勢ぞろい!私のイチオシは航空会社勤務のお母さんがコネで調達して来たケータリング用の大型トラック。荷台が飛行機の高さまで到達するようにエキスパンダーで上下するようになっていて、それも実演してくれたらエライ高さですごい迫力。それから、ボストン市の消防車も来てくれたが、その他にもMassPort(マサチューセッツ州港湾局?)の消防署の小型トラックも来てくれて、その消防士さんは非常に知識が豊富でとても勉強になった。試着コーナーのヘルメットと防護服はとてつもなく重く、これにさらにタンクを持つなんて考えられない。尊敬。。。この人は空港勤務らしいが、病気やけが人など、結構出動回数は多いらしい。ヘルメットは皮製で、アメリカ独立宣言に関わったフランクリンがそのデザインに一部関わっていたとか、制服についているホルンを象ったロゴは、階級によってどんどん数が増えていく、つまり、ホルンが多ければ多いほどエライ人だと言う意味らしく、しかも、このホルンは、その昔、火事が起こると付近の住民にそれを知らせるために消防士が使ったとか。なかなか本からの知識では得られないことを教えてもらい、非常に勉強になった。いやーほんとタメになるわぁー。息子はほぼ1ヶ月ぶりにお友達と会えてとても嬉しかったらしく、一緒に乗り物に乗り込んだり、会場を駆け回って遊んでいた。娘はいつの間にかフェイスペインティングの仕事を買って出て、真剣な面持ちで小さな子供達にフェイスペインティングを施していた。餌食となったお子さんならびにその保護者の方々、心よりお詫びを申し上げます。。。(でもそんな娘の姿を遠目に見て「やっぱり!」とげらげら笑っていた私と夫。。。)毎度のことながら、こういうイベントに対するアメリカ人の組織力、統率力は尊敬に値する。特に、全員が協力・参加しやすいように仕事を分担する方法など、本当に上手い。ただ、それでも全員が全員同じレベルとエネルギーで以って貢献するわけではなく、必ず当然、ほとんどやらない人もいるのだが、そういう人達はこう、自然淘汰されて行くというか、もう、リーダーシップを取る人のパワーに蹴落とされていくというか(笑)私はもうこのプリスクールには関わっていないこともあって、最後の片付けとか、地味に手伝わせてもらいましたが、いやー、今回もアメリカの底力を見せてもらいましたわ。
2012.09.30
アメリカではファンドレイジング、いわゆる「資金集め」が盛んである。その最たるものは、大統領選の資金集めなのだろうが、そこまでの規模に至らなくても、ご近所界隈のレベルで、あちこちで行われている。ただ単に募金箱にお金を集めるのではなく、何かしらのイベントと抱き合わせになっている場合が多いのが特徴で、よくあるのは、「○○ウォーク (WALK)」と呼ばれる、皆で集まってある場所から場所まで歩くというイベントである。たとえば、ダウン症の男の子を持つ親戚は毎年、こちらに参加している。http://www.buddywalk.org/このウェブサイト上に参加者が各自ページを持つことができ、自分の募金の目標額を提示する。そして、ページのリンクを貼ったEメールのメッセージを、めぼしい人に対し、メッセージとともに一斉に送信する。そうすると、このメッセージを読んで募金をしたいと思った人は、このリンクからページにアクセスしてオンラインで募金が出来るという仕組みになっている。この規模のイベントでは、だいたい同じような仕組みが出来ている。そこまで行かない個人単位の場合は、もう少しアナログな仕組みで実施される。たとえば、先日、アレックスが通うプリスクールで行われた、「プリスクールにエアコンを設置しようキャンペーン」。このプリスクールは、去年の9月半ば過ぎに地元の親達で場所を借りて一から作ってオープンしたので、エアコンがまだなくて、これから本格的な夏を迎える前にぜひ設置しようとのことで始まったキャンペーンである。寄付最終日までに、園児の各家庭が目標額以上を達成し、最終日にパーティーをやって最終金額を発表するというイベント付き。目標額は1家庭150ドル。これを25ドルずつ6名募れば目標額達成!という目安も示されている。このことから、募金の相場は25ドルなのかな、と思う。まあ、もっとお金持ちの地域なら違うのかもしれないが。オンラインで募金できる仕組みはなかったので、私は、こういう時は人数が多くて助かる、という夫側の親戚を頼り、Facebookでつながっている親戚(約30名!)に趣旨を書いて一斉送信。こういう時も、Facebookはまことに都合が良い。しばらく反応がなかったのだが、そのうちの一人が、私だけにだけでなく誤まって全員宛に返信したのがきっかけになって、私も、僕も、となって、瞬く間に150ドルを達成。オンラインで募金できなければ、だいたいが小切手で送ってくるのだが、催促しないと忘れてしまったり、小切手の宛先が間違っていたりと、いろいろ面倒なことが生じるのは困るが、それでも何とか間に合った。募金期限の最終日、園児の一人の自宅の庭を開放して行われたパーティーには、多くの家庭が各自飲み物を持ち寄り、1時間、子供たちが音楽に合わせて踊りまくり、盛り上がったところで募金額を高らかにアナウンス。何と、3500ドルほどが集まった。これで、エアコン本体と工事費が賄える予定である。これが終わった、やれやれと思ったら、今度はルナの小学校の5キロマラソンである。とある日曜日の午前中に、地元の公園が会場となって行われた。目的は、学校の課外活動資金集めである。マラソンランナーは25ドルの参加費を払い、それがそのまま募金額となる(実際はTシャツ代、水やスナックなどの経費が引かれるのだろうが)。これにも専用のウェブサイトが用意され、申し込み、参加費納入ともにオンラインでの手続きが可能。もちろん、参加せずに寄付だけすることもできる。本マラソンの前に、子供たちだけのミニマラソンがあった。担当の先生に引導され、子供たちもTシャツにゼッケンをつけて公園の周りを元気に一周。アレックスは参加費を払っていなかったのでTシャツもゼッケンももらえずに非常に機嫌が悪くなっていたのだが、とりあえずTシャツだけはもらうことが出来て、私が紙切れで即席ゼッケンも作り(4歳の「4」をつけて、本人、大満足)、一緒に参加。最初は他の子供たちに圧倒されて泣き出してしまったが、パパに抱っこしてもらって走り、最後は自力で走ってフィニッシュした。いよいよ大人向けの本マラソンになると、いったいどこからやって来たのだろう?と思われるような、いかにもマラソン選手です!という体つきの人たちが集まって来て、恐らく学校と地元関係者だけだろうと思っていた私達はビックリ。75名あまりが参加したこのマラソン、1位は17分台でゴール。参加した夫は27分台で31位。年齢グループでは1位(そもそも、男性で夫の年齢層で参加したのは1名のみなので、何分でゴールしても1位なのだが 笑)。週に2回、職場までの道のりを地道に走っているとは言え、決して若くはないので、大健闘と言えよう。これをきっかけに目に入って来るようになったのだが、5キロマラソンというのはファンドレイジングのイベントとしては良く使われているものらしい。公式記録も測ってくれるし、日ごろランニングをしている人にとっては励みにもなるし、他のランナーとの交流というプラス面もあるのだろう。結構、「地元の5K荒らし」なんて呼ばれている人がいるのかもしれない(笑)。ルナはゴールした人たちのゼッケン番号を担当係の人に大声で知らせるという役を勝手に仰せつかり(いかにもやりそうなこった 笑)、表彰式では1位となったパパに嬉しそうにメダルを渡し、マラソンの後に行われたヨガのクラスに参加して先生に褒められ、楽しそうに過ごしていた。(受付会場となった公園は、ボストンのビル群が見渡せる美しい場所。子供たちはマラソン参加と引き換えにもらったTシャツを着ている。背中には地元スポンサー各社のロゴが)私もズンバのクラスに参加し、アレックスも付設の公園で遊び、広い芝生の周りを駆け巡り、いつものとおり、限界まで遊んでいた(笑)アレックスの幼稚園のような私立の学校ならともかく、公立の小学校が、こうしていちいちイベントをやって、遠足などの課外活動や施設の修繕のための資金を集めなければならない現状は憂うべきことだろう。アメリカはもっと学校の公教育のために資金を使うべきだとは思う。でも、そうした現状の改善を指をくわえて待っているだけでは何も始まらない。そして、どうせ行動するのなら、楽しいことをやる。そして、無理のない範囲で時間とお金を提供する。興味がなければ、スルーすれば良い。そういった、各自のスタンスは気持ちよいほど明確だ。確かに、スタンスを明確にしておかないと、要するに、自分の境界線みたいなものはきっちり守らないと、他人のためにはなっても、極端な話、自分の生活を脅かされることになりかねない。今日は、地元の別の公立の小学校で、入口で5ドル払えば、各家庭が持ち寄ったお国自慢の料理を食べることができるというイベントが行われる。募金額は、やはり、遠足や図画工作の授業のプログラムの支援に使われるとのこと。ちょうど用事がある時間帯なので参加することは出来ないが、このイベントの告知をFacebookにアップしてくれたお父さんは、この前のルナの小学校のマラソンイベントにも参加してくれたし、とりあえず入口で寄付だけでもして来ようかな、と思う。あくまで、無理のない範囲で。
2012.06.08
驚くことに、ルナが裁判所をテーマとした小学生対象のポスターコンテストに入選した。「驚くことに」と書いたのは、たとえ親の贔屓目を抜きにするどころか倍にして足したとしても、入選するような代物とは思えなかったからである(笑)。まあ、あえて言えば、構図的にはユニークだったからなのかもしれない。他の生徒の作品は裁判所の全体図を描いているものが多かったが、ルナのは、画用紙のおよそ4分の3を占めるスペースに、でかでかと「Justice (and) Law」と書いてあり、その下に、この前、学校にお話をしに来てくれたという地区裁判所の裁判長が「あなたは無罪です」と笑顔で言っている、というものである。まあ、この大胆な構図は大胆なルナの性格がそのまま反映されたみたいなもので、そこが審査員に訴えるものがあったのだろうか?普段は褒めるアメリカ人の典型みたいな夫も、なぜこの絵が入選したのかと問うと、「うーん」と返事に詰まっていたので、やっぱり良く分からないんだろう。でも、まあ良い。その表彰式が行われると言うので、家族全員で出席することにした。場所は2駅先にある地元の裁判所。建物はオンボロで、こう、どの国の役所にも共通の「どんより感」が漂う。しかも、この道ひとすじ勤続ン十年みたいなオバちゃん事務官がビシリとその場を仕切っているのもこれまたお役所なり。通されたのは、実際に裁判が行われる法廷である。まるで映画やドラマのセットみたい、と私は一人興奮する。いやあ、映画やドラマはこの本物を元にセットを作っているのよね、と当たり前のことを今さらながら思う。天井はステンドグラスの吹き抜けになっていて、これはなかなか素敵。本棚の中には、手にしたらハラリと崩れ落ちてしまいそうに古くて分厚い本がずらりと並んでいる。そのうち、裁判長が入場し、全員起立!の号令がかかる。続いて「忠誠の誓い」を全員が述べることになった。アメリカ合衆国旗の前で右手を胸に当て、誓いを述べる、あれである。全員が誓いを唱える中、私は部外者なので、再び、きゃーかっこいー映画みたーい、と心の中で叫び、これじゃ単なるミーハー。式次第に従い、裁判長とその隣に座っている下院議員のスピーチが始まる。いつも思うのだけど、こういう時の、こういうアメリカの人達のスピーチって本当に上手い。その理由を考えてみたのだが、きっと、小難しいことは言わず、聞き手と同じ目線に立って話をするからだと思う。日本でも、たとえば、話が上手な校長先生っているけど、それはきっと、子供たちと同じ目線で、子供たちも分かるような話を子供たちに分かるような話し方で話すからだと思うのだが、それと同じだ。この前ルナの学校にお話しに来たという裁判長のスピーチは、子供たちの悪い行ないと言うのは何かと注目されがちだけれど、こうして、良い行ないに対しても注目すべきだ、みたいなことだった。整った白髪の下院議員は、地元出身とのことで、しかも、我が家の近くに実家があったらしい。この辺では良く見かける、トリプルデッカーと呼ばれる3階建ての縦に細長いアパートに、これまたこの辺では良く見かける、一番下に自分の家族、その上におばさん家族、またその上も親戚家族が住む、といった環境で育ったのだとか。おばあちゃんはイタリアからの移民で英語はまともに話せなかったけれど、教育は大事だといつも話していたそうで、一族の中で大学に進学したのも自分が初めてだったとのこと。子供の教育のためにアメリカに移住し、自分はいわゆる3K労働で身を粉にして働き、子供はその親の期待を一心に受けて育つ。。。といった筋書きは、現代のアメリカでも健在だ。この下院議員だって、そういう意味では生きた歴史の証人みたいなもので、そういう人が目の前にいる子供たちに向かって、「いいかい、君たちは世の中を変えることができるんだ」なんて言うと、やっぱり説得力があるわけだ。この表彰式には裁判所の関係者や議員などが出席すると書いてあったので、やはりそれなりの格好をして行った方がいいのか迷ったのだが、少なくともルナぐらいはきちんとした格好をさせようと、数ヶ月前に義母の誕生日パーティーのために私の母が作ってくれた黒地に白い水玉のワンピースを着せた。案の定、夫は何も考えていなかったようで、「制服のままでいいんじゃないの」なんて言ってたが、真に受けずにホントに良かったぜ。いや、普通の服を着ている子供も、もちろんいた。中高生の中にはスーツ姿でバッチリ決めている子もいたが、よっぽど公式の行事でない限り、服装がバラつくのがアメリカの面白いところ。例えば、この地区はヒスパニック系移民が多いのだが、彼らは、晴れの日の服装となると、社交ダンスラテン部門という感じの、明るい色の、ちょっとピラピラ系の服を着たりする。で、また、これが褐色の肌とメリハリのあるボディーに映えてすごく似合うんだな。ルナと同じ小学校から表彰された女の子も、色は黒だったけれど、やっぱりヒラヒラ系のレースっぽい服を着ていて、頭には大きな黒い造花のついたカチューシャをつけて、それはそれは可愛らしかった。表彰では、ひとりひとり順番に名前を呼ばれ、前に進み、表彰状を渡され、写真を撮られ、また席に戻って来る。名前を呼ぶのはほぼ同じ人だったが、表彰状を渡す人は、それぞれ違って、裁判所関係者だったり、警察官だったり、地元の名士だったり。プレゼンターがいるなんて、何だか簡易版アカデミー賞授賞式みたいだ。ルナの学校からは3名が入賞したので、夜遅くにも関わらず、校長先生と渉外部門担当の先生もわざわざ参加してくださった。ありがたいことだ。表彰はポスターだけでなく、中高生対象としてはスピーチや模擬裁判などの部門もあり、スピーチに関しては受賞者2名がそれぞれスピーチを披露してくれた。見知らぬ人ばかり大勢の前でスピーチをしたにも関わらず、堂々としていて立派だった。先ほどの下院議員の後に続くような家族構成の参加者が目立った。この地域では大多数を占めるヒスパニック系だけでなく、イスラム教の女性がかぶるスカーフを巻いた女性もいたし、スピーチを終えたアフリカ系アメリカ人と思われる高校生が席に戻る姿を目で追っていたら、隣にいたのはどうも白人の養母らしかった(学校の先生だったのかも知れないが)。見た目はいろいろだけれど、子供の晴れ姿を笑顔でカメラに納めたりする様子はどの親も一緒で、そして、表彰する側も、誰一人、分け隔てなく、その努力を讃える。都会とは言え、ここはボストンの中でも存在感の薄い、小さな町である。そんな町でさえ、これが当たり前だということ自体、実は当たり前ではないんじゃないだろか。式の後は、下の部屋に移動して、簡単な会食タイム。トマトソースとチーズ以外何の具も入っていない、冷え冷えに冷え切ったピザに飲み物だけという、これもいかにもアメリカ。ここで、式が終わる時間を見計らって配達された熱々のピザを。。。なんて期待してはいけない(笑)アレックスは一日幼稚園で遊んで疲れ切った後のお出かけで、でろんでろんになっていたが、何とか最後までもってくれた。写真撮影も含めて2時間ほどかかった式で家族全員疲れたが、ルナの個性あふれる?ポスターのおかげで、またアメリカの片鱗を垣間見るような経験をさせてもらった。ルナも、アレックスも、これからどのようにこのアメリカ社会に組み込まれて行くのか、興味は尽きない。
2012.05.03
4月22日、日本航空の成田-ボストン直行便が就航した。ボーイング最新型787機による運行である。当日、ボストンの天気はあいにくの小雨で、そうでなければ、友達を大勢誘って近くのビーチから対岸の滑走路に着陸するJAL機を皆で見届けようと思っていたのだが、家族4人での見学となった。定刻より早めに着いてビーチでスタンバっていると、霧の中から約5分おきに次々と飛行機が現れ、着陸する。夫がウェブサイトで確認したところでは、定刻より30分遅れとのことだったので気長に待っていたのだが、その遅れた時間きっかりに姿を現したのがアメリカン航空機だった。あれ、そういえば、アメリカン航空とのコードシェアだよね。コードシェアってことは、アメリカン航空機で来るってことだったの?いや、あれだけJAL便、JAL便って宣伝しておいて、そんなハズないよ。あともう少し待ってみようよ。といった夫とのやりとりの後、また、霧の中からライトが見えてきた。あれかな?あれかな?とうとう、白くて、思っていたよりも、ずんぐりとした大きな機体が現れた。おなじみの赤い鶴丸マーク。もちろん、ジャンボほどではないが、それまで着陸した数々の飛行機よりもかなり大きい。あ、あれだよ!来たよ!来た!来た!JALが来た!言うがままに連れて来られて、あまり趣旨の分かっていなかったであろう子供たちも、親2人の喜びようにつられて大はしゃぎ。着いた、着いた。無事に着いた。その時の気持ちを大げさに表現すれば、無人島で遭難してしまって、自分の国の救援機がやって来たような気分だった。多分それは、30年以上前に暮らしたパリでの記憶と重なっているのだと思う。その頃の世界は、ファックスも電子メールもインターネットもなく、通信手段はせいぜい国際電話ぐらいで、それも料金は高いわ接続は悪いわで、自分の話した声が相手側に反響するのが聞こえるほどだった。だから、日本の親戚と電話で話すのはお正月ぐらいだった。外国は遠かった。日本は遠かった。そんなわけで、日本の飛行機というのは、その外国と祖国をつないでくれる、数少ない、大事な象徴だった。それが、私の中では、あの赤い鶴丸マークとつながっているのである。あの飛行機に乗れば、日本に連れて行ってもらえるという安心感、とでも言うのだろうか。着陸の時は良い写真が撮れなかったこともあり、よし、離陸の時は何とかカメラに納めるぞ、と意気込んで、今度はボストンから成田に帰る姿も見届けようと思い、またビーチに行くと、何やら大きなブルーのテントを発見。試しに中を除いてみると、アメリカ人が何人か座っていた。三脚付きのビデオカメラも持ち込んで、なんだかすごい本格的。飛行機を見に来たのか、と聞いてみたら、その通りで、日本航空機を見に来たのだと。着陸の時はボストンの反対側の港から見届けたのだとか。まだ20代そこそこと思われる、なかなかハンサムですらりとした短髪の若い男性で、日本に縁があるのか、それとも、飛行機が好きなのかと聞いたら、飛行機、しかもボーイング機が大好きなのだと言う。その両親と、お姉さんとそのご主人と、家族総出で(家族をもろとも巻き込んで?)この日のためにやって来たらしい。このボーイングおたく君のマニアックぶりと言ったらすごい。霧の中からボーイング機が姿を現しただけで、あ、あれは777だ、737だとか型を全て言い当てる。うちのアレックスがろくに文字も読めないのに、トーマスシリーズの列車を全部見分けられるのよりすごい。しかも、このおたく君、おそらく管制塔の交信状況が聞ける無線機まで持っている。JAL機は出発が1時間ほど遅れることが分かって、その間にピザを買いに行った家族に「今、離陸許可が出たから、早く戻って来ないと間に合わないよ」なんて、ほんとに心配そうだ。ちなみに、飛行機のことは”He”と言っていた。飛行機は、SheじゃなくてHeなのか。まあ、船は大きくてゆったりしていて、いかにもSheって感じだけど、すいすいふらふら飛んでっちゃうのは、やっぱりHeなのかな?JAL機は滑走路の一番端の方までゆっくりと移動し、すーっと速度を上げ、いつの間にかふわりと飛んで、瞬く間に霧の中へと消えて行った。ピザ屋から戻ってきて何とか間に合った家族達も、その優雅で美しい姿に物も言わず、しばし見とれていた。直行便の料金は確かに高くて、すんなりと買えるわけでもないし(笑)、これから先、日本にちょくちょく里帰りできるというわけでもないのだが、利用するしないにかかわらず、その選択肢があるという事実は、それがなかったことに比べたらもう格段の違いである。あの、ビーチの対岸に停まっている鶴丸マークの飛行機に乗れば日本に帰れるのだという安心感。これで、少なくとも気分的に日本は近くなった。
2012.04.22
ボストン市とその周辺の公立校は、今週の月曜日の祝日にくっつけて、1週間、春休みである。その火曜日の朝、いきなりルナの担任の先生から電話がかかって来たので、いったい何事かと思ったら、隣のケンブリッジ市で金曜日からサイエンス・フェスティバルが始まるので、ルナを連れて行ったらどうか、とのありがたいアドバイスだった。ルナは2年生になってから、突如サイエンス系への興味を示し、先月は学校で初の試みとして行われたサイエンス・クラブでもいろいろな実験を嬉々としてやり、この春休み中も自分で選んだ課題で大興奮で実験中。私は典型的な文系人間で(と分類してしまうのは、ホント、いけないコトですが)、これまでの人生、理科も算数も極力避けて通ってきたので、この子に理系の才能があるのかどうかは全くもって分からないのだが、アメリカ式の、得意なところはどんどん伸ばせ伸ばせ教育のレールにどうも乗っけてもらったようだ。このサイエンス・フェスティバルは、主に小学生から中学生向けのイベントで、科学系の企業や大学のラボなどがブースを設営し、いろいろな実験をさせてくれると言うもの。ルナは、電池式のモーターをくっつけたプラスチックのコップ型ロボットを作ったり、私には何やらさっぱり分からない薬品を混ぜてスライムみたいなのを作ったり、次から次へとあれこれ試すことほぼ5時間。。。それに付き合ってげっそり疲れたのは、トシのせいではありませんよね。。。(笑)会場となったケンブリッジ市は、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)があるアカデミックな町なのだが、いやまあ、その多様性と言ったら口あんぐり。若者も多いし、かと思うと、ヒッピーみたいなジイさんが自転車乗ってたり、肌の色も髪の質も服装も体型も、ひとよんで「人間万博」みたいな多種多様さである。イベントに来てる方もそんな感じなら、ブースを出している方もそんな感じ。明らかに英語に訛りがあって、きっとどこかの国から留学や研究に来ているんだろうな、というような人もいたし、学生のノリでそのまま仕事をしているみたいな、ちょっとビル・ゲイツ風の集団もいたし。もう、ここまで多種多様になってしまうと、とりあえず、コミュニケーションの手段として英語は機能しているけど、あとは、その人がナニジンとか、ナニ系とか、何歳だとか、男だとか女だとか、そうやって分類すること自体、もう意味はなくなっていて、結局、一番大事なのは、その人の興味の対象であり、コミュニケーションの内容も、興味の対象に関するやりとりに集中すればそれで良いのだ、ということに気づかされる。まあ、そうやってルナを客観的に見てみれば、アジアとアフリカとネイティブ・アメリカンの遺伝子がミックスされた結果、ちょっとハワイアンみたいな風貌でこの世に存在しているわけで、そのルナが、あれこれ実験をしたりお話を聞いたりしながら、疑問に思ったことは質問をし、それに対してブースの担当者の人も、ルナに対して「何歳?」とか「どこから来たの?」なんてこたあ特に聞かずに、あくまで質問に対する回答にのみ集中してちゃんと受け答えをしてくれて、こりゃ考えてみれば、ものすごい効率的である。こういう効率的なやりとりが、ひとつひとつ重なって発展して、人類は新しい発明をし、進歩して行くのではないかとさえ思った、まあ、そんな科学オンチの母の一日であった。
2012.04.21
ボストンには週に一度、3時間だけの日本語補習校がある。日本の文科省の補助も受けていて、日本から校長先生と教頭先生が派遣される。幼稚園から高校まで生徒数700名の、大きな規模の学校である。周りはガイジンばっかの環境で暮らしていて、初めてこの学校に足を踏み入れると、そのあまりの日本らしさに面食らう。頭がクラクラするほどだ(笑)。でも、やっぱり、アメリカだなあと思うこともあって、それは、誰もが、玄関の扉を必ず次の人のために開けたまま待っていることだ。こちらで暮らしている日本人が里帰りした時に感じることとして口をそろえて言うのは、日本の食べ物のおいしさ、サービスのきめ細かさといったポジティブな面とともに、ネガティブな面として、公共の場所で、自分の前にいる人が扉を開けて待っていてくれないこと。自分の前で扉がバターンと閉まると「ああ、日本に帰ってきたな」と思うわけだ(笑)去年の夏に里帰りした時に、デパートの玄関のところで友人と待ち合わせをしていたのだが、友人が到着するのを待っている間、玄関の行き来を観察していた。そしたら、一緒に行動している友達同士は扉を開けて待つのに、赤の他人には待っていない、という様子がハッキリ見られて興味深かった。中には、一人で行動していて大きなかばんを持っているので扉を開けるのに四苦八苦している人もいたので、暇に任せて扉を開けてあげたら、ものすごく「意外だ」という表情で感謝された。こういう時、アメリカ人は感謝はするが、これほど意外だという顔はしない。日本語学校に来ている人達は、クラクラするような日本的なものを保持しつつ、この、アメリカでは至極当たり前のマナーも自然に実践している。私はこのようにして、自分の国の良い部分も持ちつつ、外国の良い点も取り入れるという姿勢が、日本のグローバル化への大きな鍵だと思っている。そして、日本人は、そのような両立ができると思うのである。
2012.03.21
バイリンガル環境で子育てをしていて、英語から日本語に訳すのに困った言葉が2つある。share とpleaseである。Please という言葉は誠に便利で、日本語だと「~してください」に当たるが、日本語の場合、この「~」の部分を「開けてください」とか「とってください」などと状況に応じていちいち当てはめないといけないところを、Please の場合は、極端な話、これを一言言うだけで丁寧な言葉として通用する。もちろん、Open it please など動詞を加えた方が文としては完成度が高いのだが、まだそこまで言語能力が達していない年齢の子供でも比較的早い段階で通用度の高い表現を身につけることができる。日本語でも「お願い(します)」とか「やって(ください)」と言わせることもできるだろうが、Pleaseほどの汎用性はないように思う。Shareは、主におもちゃの貸し借りの場面でアメリカ人(英語話者)の親が良く使う。日本語話者の親が「おもちゃを貸してあげなさい」の代わりに英語話者の親は「おもちゃをシェアしなさい」と言うわけである。私はこのシェアという表現は非常にアメリカ人な発想だと常々思って来た。Shareに「共有」と「分配」という意味があるのは辞書で調べて(笑)知っていたが、私の頭の中での英語の「シェア」は複数の人間が輪になって、その間にシェアされるものが存在しているというイメージである。要するに、「円」である。 日本人は、他人の世話になることを「迷惑をかける」と考えがちで、だから、他人の世話になった時は非常にありがたいと思い、後日、菓子折りの一つでも持ってお礼の挨拶に出向くわけである(笑)。一方、アメリカ人は、もちろん他人の世話になったことに関して感謝はするが、迷惑をかけたとは思っていないと思う。むしろ、ギブアンドテイクというか、長い人生、その時々で世話になったり世話をしたりお互い様、という感覚が、相手との親しさの度合いとはあまり関係なく存在しているように思う。だから、非常に気軽に他人にものを頼むし、頼まれた方も対応できれば対応するし、対応できなければ非常に気軽に断る。それはキリスト教的な考えから来るものなのか、それとも、血縁や地縁のつながりが希薄な移民国家という成り立ちから来る互助的精神なのか、それは良く分からないのだが。いずれにしても、そういう精神がシェアという言葉によく表れていると思う。もう少し具体的な話をすると、私が最初に「うひゃー、こんな時にシェアを使うのか」とビックリしたのは、恐らくテレビのドキュメンタリー番組かドラマのワンシーンだったと思うのだが、アルコール中毒者の支援団体主催のミーティングで、アルコール中毒者が輪になって座り(まさに輪である)、一人一人が自分の体験を語るという場面で、その体験を語り終わるとリーダーが”Thanks for sharing your story.”というものだった。そうか。これはシェア(共有)なのか。 私にとって、この場合は、「(本当は言いにくいことをわざわざ)話してくれてありがとう」という感覚なのだがな。(だから、以前、こちらでの暮らしの長い日本人のお友達に、自分の病気をきっかけに考えたことを意を決して話した時に、日本語で「シェアしてくれてありがとう」と言われた時は非常に肩すかしを食らった気持ちになった。たとえ「してくれて」と言われても、「シェア」には違和感を持ったのである 笑)この「~してもらう」「~してくれる」という表現はとても日本的で、これは日本人が築く人間関係を非常によく表していると思う。すなわち、「 上から下へ」か「下から上へ」「左から右へ」「右から左へ」という矢印方向である。もちろん、日本にも輪になって鍋を囲んで一緒につっつくという習慣があり、これは英語に非常に近いシェアであろう。しかし、 日本語には、鍋を囲んで皆で分け合って食べるのと(分配)、おもちゃや情報を共有するのとを、それぞれ個別に表現するわけで、それを総括的に表現する「シェア」といった言葉がない訳である。そして、それらを区別しているということは、きっとそれなりの、社会的、言語的理由があるはずだと私はにらんでいて、そして、それは先に触れたように、「~してもらう」「~してあげる」という表現の底にある日本人が築く人間関係に起因しているのではないかと思うのである。 ところがこの「シェア」という言葉、日本語のネット上でたびたび見かけるようになり、もしかしたら日本語として定着しつつあるのかな?と思うようになった。そこで、フェイスブックでこれを問いかけてみたところ、主に日本在住の知人達から良く聞く言葉だという回答が複数寄せられた。たとえば皆で食べるものを「シェア」したり、カーシェア、ハウスシェアという言葉も聞かれるようになったとのこと。そんな折、ちょうど良いタイミングで「シェア」ネタが届いたので、ここで皆さんと「シェア」(笑)してみたい。アレックスの幼稚園では現在、アルファベットをお勉強中で、手洗いの待ち時間などにセサミストリートのアルファベットの動画をiPadで流して子供達に見せているので、私が先生に「クイーンラティーファ(アメリカのラップ歌手)の『オー』の動画があるからリンクを送りますよ」と言って、パティラベル(歌手)のABCソングと共に後でリンクをメールで送ったところ、Thanks so much for sharing! I look forward to sharing them with the kids!という返事が先生から来た。さて、皆さんは、これをどう日本語に訳すだろうか?「シェアをありがとうございます!子供達とシェアするのが楽しみです!」この訳を読んで違和感がなければ、シェアは日本語の中に浸透しつつある新しい考えであると言えるだろう。しかし、ニホンジン感覚的には次の訳の方がしっくり来るのではないかと思うのである。「ご紹介いただきありがとうございます!子供達に見せるのが楽しみです!」要するに、先生は、私が(あえて言うなら、知っている者という少し上の立場から知らざる者という下の立場の)先生に対して情報を流したことに対する感謝の意を「紹介」「いただき」という表現に反映し、そして、その情報を今度は(教えるという上の立場から教わるという下の立場である)子供達に流すわけである。日本人の人間関係はこのように、その状況によって微妙に上下関係が成り立ち、それが言葉の表現として出て来る。日本で「シェア」という言葉が浸透しつつあるという傾向が、「ひとさまに迷惑をかけない」と思うあまり、誰にも助けを請うことができずに孤立してしまう傾向から、「お互いさまだから助け合おうよ」という考え方に移行しつつあることの表れであれば、それは好ましいことである。また、本当に気心知れた仲間同士だとか集いだとか、あるいはフェイスブックの拡散希望的性格を持った記事や写真の共有など、いわゆる閉じた円の集団の中で便宜的にシェアという表現を使うのは良いと思う。また、今後のグローバル化に伴い、既成の日本の概念では表現しきれないものに対してシェアを使うのも良いだろう。ただ、先ほど例に挙げた、アルコール中毒の体験を思い切ってした相手や、あくまで好意による情報提供といった相手の「労」をねぎらう形で「話してくれてありがとう」「教えてくれてありがとう」という、「具体的な動詞」と「してくれる」「してもらう」の表現で表すこと、そこに微妙な上下関係が発生するとしても、それは必ずしも上がエラくて下がへーこらするわけではなく、あくまで「してもらった」側がへりくだって感謝するという気持ち、これは複数の言語環境の中で暮らしている私にとっては、日本語独特の美しい表現に映るのであって、これも全て「シェア」に置き換えてしまうとしたら、それは非常にもったいないなと思うし、極端な話、日本人であることを放棄してしまうような気さえするのである。考えすぎ?
2012.03.10
小学校2年生のルナが宿題を持ち帰ってきた。チャールズ・ドリューという、輸血技術の向上に貢献したアフリカ系アメリカ人の医者の話だ。1902年生まれで、45歳で自動車事故で亡くなっている。その事故に遭った際、白人向けの病院では手当てを断られ、黒人向けの病院に到着した時には亡くなっていたとのこと。これを読んで、ルナがかなり憤慨した様子で、「何でセグレゲーションなんてものがあったのかしら」と言ったのだが、弱冠8歳の口から突然その言葉が出てきたのには心底ビックリした。私が初めて英語の”segregation”という言葉を知ったのは大学の講義でのことである。これは、ある個人や集団が社会的目的のために隔離させられるといった意味で、ここではアメリカの人種隔離政策を意味していた。普段は私に対してああしなさい、こうしなさいとはほとんど言わなかった母が、当時「教職だけは取っておきなさい」と言ったので、よっぽど取っておいた方が良いのかなと思い、言われるがままに教職課程も取ったのであるが、その一環の教育学概論のような授業だったと思う。アメリカ人の教育学専門の教授による日米教育比較といったアプローチで、なかなか興味深かったのを覚えている。さて、ルナの宿題に戻るが、私がこの記事を書くにあたってネットで調べたところ、このドリュー医師が本当に肌の色を理由に治療を断られたかどうかは定かではないようだ。ただ、それが真実だったとしても不思議ではない時代だったというのは確かなのだろう。だから、この部分の真偽そのものより、この時代のアメリカには、黒人に対する差別がまだ公然と行なわれていたことに注目すべきなのかと思う。「もし私が昔に生まれていたら、私とイザベラはお友達になれないってことよね」と、ルナは続けて言った。イザベラとは、ルナの白人のクラスメートである。私が感心したのは、ルナがルナの年齢なりに、この問題について理解していることだった。そして、自分がマイノリティーであるという事実を認識しているということにも。ルナが自分の肌の色を自覚し始めたのは、恐らく6歳を過ぎてからだったと思う。当時の担任の先生が、毎月子供に自画像を書かせるというプロジェクトをしてくれていたのだが、新学期当初は、幼い子特有の、丸い大きな顔のあごの部分から直接足が2本生えている絵だったのが、ようやく胴体がつき、次はお花や木など女の子らしい背景が加わり、名前も書くようになり、そして、肌の色を茶色に塗るようになったのである。それとほぼ同時に、「何でクラスの子達は皆、色が白いのに私は黒いのか。不公平だ」などと言い始めた。ただ、そこには「白が良いイメージで黒は悪いイメージ」というニュアンスは感じられず、ただ単に、皆と一緒ではないのが不満、といった程度のように感じられたので、私は「だってパパとママの肌の色が半分ずつじゃないの」と言って軽く受け流すことにした。その後もとりたてて自分は日本人だとかアメリカ人だとか、特に自分のアイデンティティーについて考えている風でもなかったのだが、いきなり2段階ぐらいスキップしてマイノリティーと来たか。ああ、ついにルナもアメリカ社会の現実の扉の前に立ってしまったのだなあ。ドリュー医師の死から半世紀強で黒人の大統領は誕生したし、この面で世の中はずい分変わり、良い方向に向かっているとは思う。しかし、これからルナは、「イザベラとお友達になれる時代に生まれてよかったね。めでたしめでたし」と手放しでは喜べない思いをたくさん味わされることだろう。でも、イザベラとお友達になれなかったら、それは、絶対におかしいことなんだ。そのことだけは忘れちゃいけないよ、ルナ。
2012.02.08
義母が今月めでたく70歳の誕生日を迎えた。日本で言えば古希である。その古希祝いを、なんと、義母が自らセルフプロデュースによる誕生日パーティーという、神田うのもビックリの大作戦に出た。半年も前から招待客全員に対する告知も含め、我が夫を始めとするブレーンを集めて数回のミーティングを開くなど、並ならぬ力の入れようである。アメリカ人というのは、 テーマを決めて、そのテーマに沿った仮装をして集まるというパーティーが何かと好きなのだが、今回の義母のお題は、自身の青春時代だったと思われる「1950年代(フィフィティーズ)」のファッション。。。。などと言われても、日本人の私には、さっぱりイメージがわかず。気の進まないまま(笑)インターネットでググってみると、こんな参考写真に行き当たりました。。。。。。わ、わたし、プードルは嫌なんですけど。。。案の定、義母は早々とどこからか大量のプードルのアップリケ(そんなものを大量に売っているという事実も衝撃)を調達して来ており、「もしよかったら、あなたも使って」と言われたが、丁重にお断りしました。いや、いくら嫁でも、プードルは嫌です。別に新たに購入しなくても、家にあるもので良いと言われたので、私は黒いフレアーのワンピースに白と黒の水玉のスカーフを首に巻いて、ということで対抗作戦。プードルは嫌ですから。その他のモチーフとしては、ジーンズの裾の部分をくるくると巻き上げるというもの、水玉模様など。娘にもプードルは断じて嫌だったので、日本の洋裁好きの母に頼んで、白黒水玉の全円くるくるスカートのワンピースを作ってもらった。これで、かーちゃん、鼻高々。(夫と息子は、ジーパン巻き上げタイプで即決定)まあ、義母は家族親戚一族郎党をもろごと巻き込むということにかけては右に出る者がいないのだが、今回もその例に漏れず、単なる趣味の範囲ではあるが、グラフィックデザインが好きな我が夫に招待カード作りの白羽の矢が立った。招待状のデザインも、昔のビニール盤の黒いレコードをメインにするという、こだわりぶり。そして、いそいそとデザイン制作にかかる夫。。。そして、そのしわ寄せが降りかかる私。。。なぜって、うちの夫は、一つのことに取りかかるとほかのことを全て放棄してしまうタイプ(これは全世界の男性に共通かもしれませんが)。その招待状作りにかけるパソコンでの数時間の間に、いろいろやるべきことはありませんか。。。その他にも、最初に考えていた会場が急に閉鎖になってしまって、あわてて他の場所を探して決めたり(その経過報告が逐次、夫のケータイの方に入っていたようですよっ)、まあ、いろいろな細かいことがあって、そして、そろそろ一週間前という時に。夫が重大発言。「お母さんが『時間どおりに来れたらいいのに』と言った」だと。その日は午前中、日本語学校がある日で、最後まで出席させるとなるとパーティー会場には1時間ほど遅れる計算になる。でも、日本語学校に午前中子供たちを行かせていることは前々から分かっていることではないか。それなら、開始時間を遅らせれば良かったじゃないか。というのは、日本人嫁の私の言い分である。しかも、夫が学校を休ませようかとまで言うので、私は怒り心頭に達してしまった。ぷんぷん。だいたい、誕生日パーティーというのは後半が盛り上がるのであって、最初の1時間ほどを逃すぐらい、大したことではないだろーが。だいたい、このファミリーが開始時間に間に合うように来た試しなどないではないか。でも、他の皆が来ないから遅れて行ってもいいというのは理由にならないと、あまりにもっともなことを夫は、ぼそりと言って、ますます私の神経をさかなでる(笑)。まあ、結局、結婚生活も13年が過ぎて少しは学んだ結果の歩み寄り策で、子供たちは最後の3時間目だけを早退させて会場に赴くことにした。ぷんぷん。ところが。当日、暖冬のこの冬初めてと言ってもいいくらいの、かなりの雪が降った。。。。。。これじゃ、早めに出たって早めに出たことが分からないほど遅れてしまうじゃないの。。。それではあまりに悔しすぎる。。。(笑)でも、雪に馴れているボストンは、高速道路もすぐに除雪車が雪をどけてくれるので、意外にスムーズに走って、会場には10分程度の遅れで到着。義母が「雪のわりには早かったじゃないの」と言ったので、私はそこですかさず「学校早退させたんです」と言った。しかし、返ってきた答えは、ただの一言:「あら、そうなの」私はここで、うなだれながら、 戦いの矢をおさめた。この人に私がどれだけ日本語学校に子供たちを行かせることが大事なのか、1週間を逃してしまうとどれだけブランクが開いて大変なのかを力説したところで、決して分かってもらえないわけで。もうええわ。義母は先ほどのリンクにあったようなプードルのフレアースカートスタイルで、その二人の姉も同じような格好をしていた。古希を過ぎた三姉妹がこの格好というのは、一種独特の雰囲気があった(それ以外に表現のしようが。。。)。招待客達も、フィフティーズ度はそれぞれで、ちょっとしたアクセント程度の人もいれば、もうこれ以上は無い!というぐらいバッチリ決めている人もいた。黒人のお洒落な人って、もう、半端なくお洒落なのよね。もともと、頭も小さくて縦長で形も良くて、足もすらりと長いから、お洒落な人は何でも着こなしてしまう。うらやましい。。。会場は踊るスペースと結婚披露宴のような円卓が並んだ食事用のスペースとに分かれており、当たり前のように、DJがいました。。。しかも、DJもお達者世代。。。こういうのを見ると、DJ文化って歴史があるんだなあ、日本は、まだまだだなあ(笑)と思うわけですわ。大雪にも関わらず、何事もなかったかのように(=年寄りは足下が悪いから来るのは遠慮するとかいうのは基本的には無く、「神様が雪道の道中を守ってくださったおかげで」とかナントカ言って)招待客は続々と集まり、会場はにぎやかさを増して来た。ファミリー中心に、お友達も含めて100人はいたんじゃないか。ファミリーだけでも、それだけ集まるってところがすごいですが。いつものとおり、全員での神様に感謝の祈りに始まり、ビュッフェスタイルのブランチを食べ(アメリカにしては結構美味しかった)、少し皆のお腹も落ち着いて来たところに、ダンスタイムが始まった。最初の曲は、けっこう有名な”Cha Cha Slide”. これを老若男女入り乱れて踊ります。アメリカには「ラインダンス」と呼ばれる、 横一列を前後に複数列作って踊るというダンスがある。ウィキペディアにも若干説明が載っている。 ここでは「日本の“パラパラ”を腕ではなく足のステップを中心に行なうダンス」と説明しているが、要は日本の盆踊りのようなものと考えればいいと思う。盆踊りは円になって一方向に進んで行くが、ラインダンスは、振りを繰り返しながら90度ずつ方向を変えて行く。短い振りを曲が終わるまでずっとひたすら繰り返すという点も盆踊りに似ている。 (参考動画)この動画、もしかしたらうちのファミリーなんじゃないか?と思うぐらい、人種、男女、年齢、体型(笑)ともに構成が似通っている。ここで誤解されないように言っておくが、黒人だからといって必ずしも全員が踊り好きで踊るわけではない。我がファミリーの場合も、必ず3つのカテゴリに分かれる。1.必ず踊りに参加2.気が向けば参加3.決して参加しない私がどれに該当するかは言うまでもないと思うが、この動画にもあるように、踊りが上手で必ず誰か先頭を切る人がいる。盆踊りでも、同じ浴衣を来た数人のおばさんが率先して踊って、それを見ながら手足の動きを覚えたりするものだが、まさにあれである。我がファミリーでは、ヴィヴィアンおばちゃんという人がその役に当たる。それにしても、この動画の人たち、素人レベルで、このリズム感、すごいっすよねー。しかも、若い人はともかく、年配層が上手いところが、すごいっす。(しかし、この動画を観ながら思ったのだが、こういう集団にただ一人、アジア人として入っている私の図って、客観的に観たら相当違和感ありますよね。。。日本人らしくないと言われても文句言えないっすよね。。。)で、私はその後、パーティーが終わるまで、ほぼ上記の1.の集団に当たる常連組とずっと踊って過ごしたので、案外楽しかった。よかった。私に踊りがあって。私に踊りがなかったら、私は、時間感覚のズレを始め、このファミリーと何の接点もなく、今頃は荷物をまとめて国へ帰っていたかもしれない。うそ。パーティーは、12時から6時までの長丁場である。お達者世代、体力あるなあ。。。誕生日ケーキもフィフティーズがテーマで、このレトロなレコードがポイントです。アメリカ人、こういう、テーマ感あふれる工作ケーキが好きです。いちごのショートケーキとか、そういうのはあまり見かけません。。。相変わらず、口がひんまがるほど甘かったですが。。。招待客が三々五々と帰って行き、がらんとし始めた会場で、夫のいとことおしゃべり。プードル嫌だよね、やっぱり。と同調してくれた彼女は、恐らくこれ一度きりで身につけないと思われる赤いカーディガンや赤白の水玉のヘアスカーフ、赤いイヤリングなどをどうしようかと、ぼやいていた。Craig’s List (オンラインの売ります買いますコーナー)に出したら、結構需要あるんじゃないかと思いますけど。私の家族の古希祝いだったら、本当にこじんまりと何人かの身内だけで、どこかのレストランの個室を借りて、せいぜい2時間ぐらいで食事を終えて、という感じだろうなあ、と漠然と頭の中で考えたりした。でも、プードルスカートにポニーテールの古希を過ぎた3姉妹がこの先こうやって楽しく揃って何かをするということだってずっと続くわけじゃないし、とにかく義母の思い通りにファミリーや友人達が集まって、楽しいひとときを過ごせたということは、やはり幸せなことなのだろう。義父はそんな義母にいつもの優しく温かい眼差しを向け、少し離れたところに佇んで、穏やかな微笑みを浮かべながらパーティーの始終を見守っていた。義父は、本当に、世の夫の鑑だ。
2012.01.24
アメリカで仏教式のお葬式に参列する機会があった。故人となられた方が日本人で、ご遺族の意向によるものだったが、あちこち当たってようやくアメリカ人の僧侶を一人、探し当てたのこと。会場は、こちらでは一般的な葬儀会館(Funeral home)で、その洋風で重厚な内装の部屋には、僧侶の袈裟姿や和風の装花も正直、少々違和感を感じるものだった。しかし、僧侶がお経を唱えだした途端、私の頭の中にお寺の畳の上で喪服姿の人々が正座して頭を垂れる情景がぱーっと浮かび上がり、お経独特の調子が自分の中にすーっと入って来て思わず涙がこぼれ出た。後でよくよく考えてみれば、私の実家は神道で祖父母の葬儀も法事も神道式に行なって来たため、きちんとした仏教の葬儀に参列したのは母方の祖父の時だけである。それなのに、これだけ何の違和感もなく自分の肌に馴染むといった感覚はいったい何なのだろう。これまでアメリカのキリスト教の葬儀には何度か参列したことがあって、私はいつもアメリカの文化を日本の同等の文化と比較して理解して消化するように努めていて、たとえば遺族が悲しむ様子などはどの国でも同じなのだなあと思ってきたりしたのだが、やはりキリスト教のお葬式は(日本人でキリスト教徒である場合は違うだろうが)いつまで経っても「異質な」ものなのだと、改めて衝撃を受けた。葬儀の後、僧侶に一言お礼を述べに行った。”It sounded so much like home.”
2011.09.04
子ども達を連れて行かなければ行かないで、それはうちの親にとっては負担も少ないわけで。ははは、うちの母も数週間、うちの子達と一緒に過ごしたからきっと同じようなこと思ってると思うなもっと近くに住んでて、週末なんかにちょくちょく会うっていうのが一番いいんだろうけどね。うん、それは僕も同じさ。孫と本当に楽しそうに過ごしている母を見てたらね、なかなか会える機会がないってことに罪悪感を感じちゃってねダンナの家族は(必要以上に 笑)何度も会えるのに私の家族はほとんど会えないっていうのは不公平だとさえ考えるようになってしまってね。でも、ダンナの家族に全く非はないわけだからこういう考え方はよくないのは分かっているんだけどねいや、でもそういう気持ちは分かるよ。。。。。。これはFacebookでの会話。相手は夫の元同僚で、スコットランド出身。私とは逆のパターンで、日本人の奥さんと子ども2人とともに日本で暮らしている。少し前に、スコットランドへの里帰りを終えて戻ってきたところ。こういう心の葛藤は時には配偶者にさえ理解されなかったりする。これはただ単に私の中でのバランスの問題で今年になって突然そのバランスが崩れたのはなぜかは分からないような気もするし分かるような気もするいずれにしてもさまざまな要因が重なりあってこうなってしまったのには間違いなくやはり今このタイミングで日本に少しの間だけ帰るのは正しい決断だったのだろう追記:「時には配偶者にさえ理解されなかったりする」と書いたが、一時的なものであって、この件については夫に話してコンセンサスは得られたと思う。こういうちょっとした行き違いが大きな溝になる前に微調整をするという努力は怠けてはいけない。
2011.08.14
アメリカの夏。それは庭でビーチでバーベキューの季節。それはFamily Reunionの季節。ファミリー・リユニオンとはその名の通り、家族が集まることなのであるが、これは日本のお盆に全国に散らばる一族郎党が結集するのに等しい。ただし、アメリカにはお盆のように決まった期間はなく、たいてい、夏の、皆が休暇を取りやすい時期に行なわれる。何をやるかはその家族による。昔働いていた花屋の元同僚のところは、皆でピザ屋に行ったりビーチで遊んだりするとのことだったが、我が家族はひたすら誰かの家でバーベキュー。義母はWest Virginia州の出身で、ワシントンDCから少し山間に入った小さな町で生まれ育った。炭鉱で栄えた町で、義母の父親も炭鉱夫だったが、閉山となって職を失い、もっと仕事の口のある北へ北へと流れ、その結果、今の家族はほとんどボストンにいる。ただし、何人かの末裔はまだその地に残っている。義母はファミリーの結束と言うことに関してほとんど宗教に近い信条を持っていて、ファミリーリユニオンともなるとそれにより拍車がかかり、誰にも止められない(笑)。たいていは年に一度、ウェスト・バージニアの方でやるのだが、今年はボストンでやることになった。もう何ヶ月も前からその告知が一斉メールで送られて来たのだが、義母はウェスト・バージニア組の参加が少ないことにたいへん「憤慨」(息子である夫は「がっかり」という言葉を使っていた。さすが息子だ優しい 笑)していた。それはある日、私がどこかに車で連れて行ってもらった時のことだったのだが、私が「だって遠いところから大変じゃない」というようなことを言うと、「仕事の休みを取って皆で車に乗り合いをして来れば済むことじゃない」と、珍しく声を荒げて言ったので私はびっくりしてしまって、それ以上は何も言えなかったのだが、内心、「リタイアして悠々自適のあなたが車で連れ立って17時間もかけてあちらへ行けるからと言って、向こうが来られると期待するのは間違ってるんじゃぁないの?」と思っていた。今年のファミリー・レユニオンの予定は、金曜日:Dおじさん夫妻宅にてフィッシュ&フライぱーちー土曜日:義母宅にてバーベキュー(肉、肉、肉。。。)日曜日:午前中は教会、午後は(再度)義母宅にてゲームなどレク関連というてんこ盛りのスケジュールで、「なるべく参加するよう」とのお達しがあった。でも、それが「なるべく」ではないのはその気合の入った文面からにじみ出ている。しかしこういうものは古今東西を問わず、来る人は来るし、来ない人は何度言われても来ないわけで、近い立場にある私などはメールだのFacebookだのありとあらゆる手段を使って何度も同じような内容が送りつけられて来るのには少々うんざり。その他にも、日曜日のレクの一環として行なわれる子ども達のファッションショーに、子ども達が着る予定の服の説明を送れだの、1着だけじゃなく2着用意しろだの、係りは誰々だの、事細かな指示の内容のメールがぽろぽろと流れてくる。さらに、「本番」間近となった今週に入ってからは、突然私のケータイに電話がかかってきて、「デザートのチーズケーキを8等分にスライスするのを、夫のいとこのSと手伝って欲しい」とのこと。その時、私は子ども達2人を連れて髪を振り乱していたところだった上に、とにかく義母は説明のポイントが不明瞭なので、私としては何日の何時にどこでということを簡潔に言ってくれればよいものを、「Sおばちゃんがチーズケーキを8つ作るんだけどほら、一人が4分の1も食べちゃったら皆の分がなくなっちゃうでしょ。8つっていうのはずいぶん多いように思えるけどたくさん人が集まったらあっという間だから前もって8人分に切っておけばいいと思って」というような長々とした挿入句が入るので、非常に大事なことを言うのかと思って(走り回る子ども達を横目で見ながら)一生懸命聞いていた私としては激しく脱力である。だいたい、私は何年経っても英語を電話で話したり聞いたりするのは馴れず、非常に苦痛なのでできるだけ避けたいと思っているので、よっぽど「今後、緊急でない用件はメールにしてほしい」と言いそうになったほどである(笑)。そもそも、デザートを切り分けることぐらい、当日その場で手伝ってと言われればやるような程度のものだろうに、と思いつつも了解したのだが、昨日、子ども達のベビーシッターがてら我が家に遊びに来た大学生の姪っ子によると、義母は想像以上(かつ必要以上)に、このリユニオンの準備に向けてストレス爆発エネルギー全開らしい。その1:家のそこらじゅうのほこりを「皆が来るからきれいにしておかないと」と言いながら、はたいて掃除している。(姪のコメント:誰も気にしないってば)その2:家の中がスーパーマーケットを1店分買い取ったかのように食べ物であふれている。そして、そのうちの一つがどこかに行ってしまって見当たらないのを必死の形相で探している。(姪のコメント:また買いに行けばいいじゃない)その3:真夜中に「リユニオンには皆が来るから」とぶつぶつ言いながら、白髪を染めている。(姪のコメント:誰も見てないってば)その4:バーベキューの日に、亡くなった家族たちの思い出の写真を飾るテーブルというのがあるのだが、そのテーブルにかけるテーブルクロスにアイロンをかけろと言われた姪っ子。姪っ子は仕事の面接の日に着て行く洋服でさえろくにアイロンをかけないほどで、人生においてアイロンをかけたのは数えるほどらしいのだが、「これはジョニー(3月に亡くなった義母の弟)の写真を載せるから」と一言、有無を言わせぬ形相で言われて言うことを聞かざるを得なかったとのこと。その5:皆が当日かぶるためのハット(どんな形なんかは知らんが)の飾りつけを頼まれたアート大学出身の親戚の子。締め切り間近の仕事を抱えているというのに、そんな用事を言いつけられてしまい、姪っ子との電話で「俺は仕事をクビになっちまうよ」と嘆いていたらしい(笑)その6:非常に巨大なTシャツに皆がサインをするという案を思いついた義母。で、その後そのTシャツをどうするの?という姪っ子(ばかりでなく誰もが抱くであろう)の疑問に、「あら、いいアイディアかと思って」と平行線。さらに皆が書きやすいように大きなダンボールにそれを貼り付けて、「紙を貼った方がいいわね。何色がいいかしら?」。。。そして前出のアート大学の出身の子が駆り出される。。。その7:今回参加しないと言った親戚に電話をかけて「何で来ないの?え、お金がないって、あなた、ちゃんと貯金しなくちゃ」と説教。姪っ子の話からは周りが「なんだかなあ」と思っているのが垣間見えて来て、私は姪っ子とお腹を抱えて笑い転げた。まあ、私も含めて誰もが義母にはずいぶんと世話になっているので何も言えないというのが正直なところなのだが、このリユニオンが終わったら、義母はがっくり疲れてしばらく立ち直れないんじゃないだろうか。追伸:で、義父はどうしてるの?と姪っ子に聞いたら「義母に言われたとおりの用事を黙ってやっている」とのこと。正しい。正しい。正しすぎる夫としての姿。
2011.07.28
少し前のことになるが、ルナが日本で起こった震災についてこんな絵本を作った。内容については私に質問したものの、文は全て自分で考えた。In Japan on March 11, 2011 there was an earthquake with a tsunami.Over two hundred fifty thousand people were resucued and now they are in the shelter.On March 12, 2011 a girl was born the girl's name was Lucky.(注記:震災の翌日に無事誕生した被災地の赤ちゃんに親御さんが「らっきい」という名前をつけたというニュースが非常に印象に残ったもよう)最後は自筆をそのまま。
2011.07.09
ルナは日本では小学校2年生、こちらでは1st gradeの7歳になったが、母親の私から見れば、ほんとにもう、ダメダメな娘である。朝はいつまでも着替えをモタモタとし、ふと気づくとカバンの用意をしていなくて、あああ、スクールバスの時間に遅れる!と、私の怒鳴り声が近所中に鳴り響く。私がやりなさいと言ったこととはまるで正反対のことをするし、片付けは全然できないし、疲れてくるとキィキィし始めてとりつくしまがない。夜は夜で、寝る準備担当のパパに何度も何度も「ベッドに入りなさい」と言われても、いつまでもその時にやっていることを止めようとしない。そんなこんなで非常にストレスのたまる毎日なので、先日、学校のミーティングから帰って来た夫が校長先生から聞いたという話は意外だった。校長先生によると、娘は同じクラスでサポートを必要としている男の子を何かと助けてやっているのだと言う。勉強で分からないところを手伝ってあげたり、ワークシートの整理整頓(家では整理整頓の「せ」の字も出来ない娘が!)をしてあげたりしているのだそうだ。ほぉ、いいとこあるじゃん。家でめちゃくちゃになるのは学校でいい子ちゃんしている反動なのかな、ともちょっと思ったりする。さて、それからほどなくして、その子J君の誕生日会の招待状を娘が家に持ち帰って来た。学校で見かけた感じでは、やっせぽちの小さい子だったが、招待状を見ると8歳の誕生日だとある。どんな問題を抱えているのかは分からないが、1年遅れている計算だ。J君の好みなど何も分からなかったので、無難に絵本とTシャツのセット、それに日本から持ってきたポケモンのえんぴつセットをプレゼントにした。当日、バスに乗って会場の自宅に着く。中に入ると、すでに何人かの大人と子どもたちが部屋の中にいたが、ダミ声で雰囲気も体型も迫力あるおばあちゃんが出迎えてくれて、その次に、おばあちゃんにそっくりな娘さんと思われる人が出てきた。確か、この前サーカスへ遠足に行った時の引率の保護者で、J君のおばさんと紹介された人だ。招待状には3時から7時とあった。普通、誕生日パーティーというのは長くて2時間なので、これはきっと家族親戚中心のパーティーなのだろうと想像していたが、その通りだった。それも女の子は親戚と思われる子が1人いただけで、あとは坊主頭の男の子がうじゃうじゃと。女の子、しかも、同じクラスの子はルナだけだ。ルナはクラスメートの誕生日会に呼ばれるのは初めてだとはしゃいでいたが、J君も今週は毎日毎日、ルナは来てくれるかな、来てくれるかな、とそればかり言っていたらしい。ルナは最初は多少とまどっていたようだが、すぐに男の子たちに混じってDSのゲームを始めた。パックマンなんて、昔、ゲーセンや旅館の娯楽室にあったような、平面の迷路のようなものしか知らなかったのだが、最近の任天堂版はものすごい進化を遂げていて、3Dでスケートしたり、飛んだり走ったりするのにビックリ。ルナはこの手のゲームはやったことがないので下手っぴなのだが、「私は学校ではJ君を手伝ってるでしょ。だから、今日はJ君が私のことを手伝って」などと言うと、J君がちょいと得意気に手ほどきをしてくれた。テトリスとパックマンを融合したようなゲームなら私も出来るかもしれないと思い、ルナのコントローラーを奪って参戦。J君は下手っぴなルナや私がミスをしても、決して馬鹿にしたりからかったりすることなく、「いいんだよ。大丈夫だよ」と声をかけてくれる優しい子。ルナの誕生会をする時にいつも思うのだが、ルナが招待したいという子ども達の中に「違う系統」の子がいるとちょっと困ったりする。たとえば、日本語学校の子だけでまとめてくれるのならまだいいのだが、現地校の子、それも、親も全く会ったことがない子がちょっと混じっていたりすると、その親が来てずっと家にいたらどんな話をすればいいのだろう、などと、誕生会の前から非常に憂鬱な気分になってしまうのである(笑)。だから、J君のおばさんも、J君がルナをどうしても招待したいというから招待したものの、きっとルナと私に対してはそのように思っていたのではないだろうか。私に対して何かと気を遣ってくれるのを感じたので、余計な気を遣わせまいとテトリスパックマンをやってみたりしたのだが、これはやはり相手を安心させる効果があったらしい。キッチンにはパスタやポテトサラダ、ベークドチキンなど、コテコテイタリアンと思われる料理が並んでいたが、アメリカって外食はがっかりするほど不味かったりするけど、家庭で出される料理というのは本当に美味しい。でも、おばあちゃんが作ったというベークドチキンが美味しかったのでおかわりしようとしたら、おばあちゃんに「どんどんお食べ」とお皿に山盛りにされてちょっと困った(笑)。最初、この家の家族構成がよく分からなかったのだが、いろいろと話を総合するとこういうことだった。この家には最初に出迎えてくれたおばあちゃんと、その娘であるJ君のおばさんと、J君とその弟が住んでいる。おばさんはティーンエージャーの娘が2人いると言っていたが、その2人の姿は見えなかったので一緒に住んでいるのかは分からない。それではJ君と弟のお母さんはどこにいるのか?隣同士すわってパックマンをやりながら「ママは、けいむしょにいるんだ」とJ君がルナに言うのが聞こえた。「どうしてけいむしょにいるの」「ママはひとをきずつけたんだ。でももうすぐでてくるんだ」ああ、この子はまだ幼いのに何といろんなことを背負っているのだろう。そして、おばさんも、おばあちゃんも。服役中の娘(姉妹)の留守を預かり、学力や発達の面で問題を抱えている孫(甥)をしっかりと責任と愛情を持って育てている。タバコをすぱすぱと吸い、うっかり下品な言葉を吐いて、娘に「子供の前」だから、とたしなめられるようなおばあちゃんだけど、こういう「このワタシの目の黒いうちにゃ!」という頑張ってるおばあちゃんがいるおかげで、孫の世代が社会のレールから外れずに済んでいるのだ。その点は、夫のファミリーも似たようなところがある。おばあちゃんとおばさん以外の人達は、わりとぼーっと座っており、話の輪というのもそもそも存在していなかったので、私もその輪に入って行けずに取り残されるといった面倒な事態にもならず(笑)、パックマンが間を取り持ってくれたこともあり、あとは、お約束のケーキとバースデーソングとプレゼントを開けるという儀式も滞りなく進んだ。その後、かなり唐突な感じで、部屋の中にあったたくさんの風船をJ君やおばあちゃんが手に取って外に出たので、いったい何をするのかと思ったら、おばさんがこう説明してくれた。「Jのひいおばあちゃんはもう亡くなったんだけど、いつもこういう時には風船を空に飛ばしてひいおばあちゃんのところに届けるの」ルナもその輪の中に交じり、事情も知らずに無邪気に風船を飛ばし、歓声を上げる。次々と風に吹かれて空高く消えていく風船を見ながら、今は天国にいる自分の母親のことを思い出したのだろうか、気丈なおばあちゃんがふと下を向きながら目の淵をぬぐった。その後、家に戻ったルナは、パックマンを相変わらず何度も水の中や木の下へ落下させながらゲームをし続け、最後の方まで残っていた。仲良く並んで座りながらゲームをしているJ君とルナを見て、「仲良く遊んでくれて嬉しいわ。学校ではね、Jは他の子とはちょっと違うから、いじめる子も何人かいるの」とおばさんが言う。痩せっぽちで食べたがらないのは薬のせいで、今度薬を変えてみるとか、学校での勉強が遅れているのは、実は耳の鼓膜に問題があって良く聞こえなかったせいもあるということが分かって最近手術を受けたとか、おばさんは血がつながっているとはいえ、本当に自分の子のことのように心を砕いているのが良く伝わってきた。きっと、この誕生会に呼ばれなければ接点もなかっただろうし、どちらかといえば敬遠するタイプの人達だったと思う。特に「お母さんが刑務所暮らし」と人づてに聞くだけだったら尚更だっただろう。ボストンパブリック、本当にいろんな子が通っている。今後も、地元で付き合いのあるママ友ほどの親しい仲にはなることもないだろう。でも、J君の心優しい性格や、気性は荒くてもハートの温かいおばあちゃんや、まるで実の母親のように甥っ子たちに接している気立ての良いおばさんの生きる姿勢に、非常に心を動かされた。ルナはゲームを止めたがる様子がなかったので、また遊びに来させてもらいましょうよ、と言い聞かせ、また以前の調子に戻ったおばあちゃんも、いつでもウェルカムだよ、とダミ声で言ってルナをぎゅっと抱きしめてくれた。J君が、どうか自分の境遇に負けずその優しい心を持ち続け、家族の愛情に支えられながら、今後、人生を誤ることなくまっすぐ生きて行ってくれますように。そしてルナとJ君が、たとえ短い期間であっても、お互いにとって、気の合う、助け合える友達を持つことの楽しさをもたらしてくれる存在でありますように。
2011.06.12
アメリカ人の友人が「911がアメリカ人の心にどんな影響を与えたのかを説明するのは難しい。個人的な体験の方がより理解しやすい。この文章は胸にじんと来るものがあり、見事に書かれている」といったコメント付きでFacebookでリンクを貼っていたこの記事。CNNのEatocracyというセクションの編集長Kat Kinsmanが書いた。更新日付は2011年5月2日午後4時(米国東部時間)とある。私は911の時はボストンにすでに住んでいた。直接の被害はなかったが、ビルに突っ込んだ飛行機がボストン発だったことからその後ボストンでテロの噂も流れ、かなり心細く怖い思いをした。正直、日本にいる知人や家族親戚との温度差も感じて醒めた気持ちにもなった。そして今回の震災でも直接の被害はなかったが、ツイッターや個人的なメールのやりとりを通じて得た日本の今の状況とこの911の時のこととを重ねあわせることが多い。この筆者がオサマ・ビン・ラディンの死を知って取った行為の意図はよく分からない。私はこの行為をあくまで「けじめ」とか「区切り」の表れであってそれ以上のものではないと受け取ったが、これを読んだ皆さんはどう思われるだろう。でも、あの日にニューヨークで起こったこと、そしてその後にニューヨークの人々がどのような行動を取ったかということを読んでいると、私が今回の震災とそれを重ね合わせる意味が少しは分かっていただけるのではないかと思う。なんちゃって即席翻訳は以下のとおり(大きな誤訳があればご指摘ください)。傷口にウィスキーを注ぐ:9・11後の飲むこと、食べることの意味昨晩、私は自分のためにバーボンウイスキーを注いだ。15年物の Pappy Van Winkleのファミリー・リザーブ。ここ数年、ちびちびとやり続けていたものだ。テレビやツイッターそして通りの叫び声から流れてくるオサマ・ビン・ラディンのニュースの洪水を重い気持ちで何とかくぐり抜けた後に、ここで一度立ち止まりこの瞬間を記念するのはふさわしいことのように思えた。重要な節目を確認するには多くの方法がある。その中には儀式的意味合いをもたらすものもある。 結婚式ではシャンパンによる乾杯、誕生日にはケーキ。葬儀では親切なご近所さんによるオーブン料理。彼らは言葉少なであっても、そのターキー(七面鳥)肉のテトラツィーニは安らぎを与えてくれる。今からおよそ10年前の晴れた火曜日のその日、驚くほど多くのニューヨーカーたちが錨を外された船のようにたださすらい、行き場を失っていた。いつものごとくコーヒーを買うという作業に取り組もうとしたり、地下鉄の車両に無理矢理自分を押し込み仕事に向かおうとしていたところに、気の狂った男が自分の町に飛行機を送り込み墜落させた。そんな日にどう振る舞えばいいかについての手引きなど全くない。その後の数時間、家族の無事を確かめるという驚くほど残酷なタスクに加え、家(それがまだ安全に住める状態だと仮定して)に帰るということさえも非常に困難になり始めていた。私はその日、ニューヨーク市のすぐ北の郊外にあるオフィスパークでの新しい仕事の研修3日目で、トイレやコーヒーポットの場所を周りの助けなしに見つけられるかどうかという状態だった。私は友人らの居場所を確かめたり、当時付き合っていた男性とのメールのやりとりをしていたが、彼はその時、通りの向かいにあるワールドトレードセンターの窓から飛び降りる人たちを見た。 電車が止まってしまったため、どうやってブルックリンに戻ろうかと考えを巡らせることはまるで傷口に塩を塗りこむようなことだったが、何とかしようとする他なかった。友達がもたらしてくれる安らぎと正常を絶対的に必要としていたが、その時、ご近所のジョンとアンナ・ライザが手を差し伸べてくれた。「帰ってらっしゃいよ。何か食べさせてあげるから」それは些細なことに思えるかもしれないが、これが家に戻るまでの私を支えてくれたすべてだった。私はとりあえず最初にやって来たメトロノースの南方面行き電車に飛び乗った。人影もなく音の反響する地下鉄の各駅を通り過ぎ、マンハッタン橋の上にさしかかると、そこで初めてがれきの山と化し、もくもくと煙を吐く地平線が視界に飛び込んできた。私のように家に戻るのに苦労していた通勤者たちが身を乗り出すようにして、見慣れたはずの光景がいまやどう見ても前歯をへし折られたかのように変貌してしまった様子に衝撃を受けていた。家の近くに着くと、私は電車を飛び降り、坂を上って階段を上がり彼らのアパートへと向かった。私たちはハグをし合い、アンナ・ライザはソースと分厚くてスパイシーなイタリアン・ソーセージ入りのリガトニパスタを作る作業に戻った。外は暗く、灰と煙と恐怖の不快な臭いがした。そして、時折、あのタワーの片方の誰かの机からはるばる飛んで来た1枚の紙がひらりと路上に舞い降りた。ジョン、共通の友人チャック、そして私は、おそらくこの辺りで唯一開いていたであろう防弾完備の酒屋に赴き、我々が「悲劇的サイズ」と残酷にも名づけたジャックダニエルスのウイスキーボトルを買い求めた。私たちはアンナ・ライザの心のこもった料理を頬張りながら全てを吐露し、アンテナ被害のなかった放送局からの最新ニュースに熱心に耳を傾けた。短い時間を過ごした後、ただただ衝突と墜落とモクモクと立ち上がる煙の延々の繰り返し以外最新ニュースもなく、チャックと私はアパートを後にし、路上で酔っ払ってハグし合い、別れた。家に着くと、私は6段の階段を上がって黒いタールの屋根によじ登り、川の向こうで起こった大量殺戮を見据え、その日初めて堰を切ったかのようにすすり泣きを始めた。そして、それはいつまでも、いつまでも続いた。他の多くのニューヨーク市民と同様、私は翌日目を覚ますと頭がくらくらし、背後ではテレビがつけっぱなしになっていた。死者数は増え始め、もう一度屋根の上から昼間のロワー・マンハッタンを眺めても何の助けにもならなかった。チャックからの電話が鳴った。 「さあ、食べるぞ」ボランティアの機会に関する情報もなかったため何もすることがなく、そこで私たちは開店していたわずかなレストランのうち、ローストチキンを出すメキシコ料理屋に向かった。そして、私はその後数カ月にわたって食べることになったナチョスの第一皿目を注文した。ナチョスは、シンプルで楽しい気分にさせてくれる。また、塩が利いてパリパリしていて、チーズがたっぷりかかっていて、スパイスがぴりりと利いている。当時の私にとってナチョスは唯一理解可能なものであり、しかも家で料理を作ってくれる人もいなかったので、私と同じように打撃を受けていた友人たちとのナチョスデートは私の日常的な社交生活の一部となった。ボランティアをして、ナチョス。 映画を観て、ナチョス。飲み会でも、ナチョス。友人の多くが我先にとそのナチョスブームに飛び乗ったが、別の食べ物への執着を独自に開発した友人もいた。その1人はグリルチーズサンドイッチ以外は受け付けなくなり、別のカップルは朝食用メニューだけで生活していた。それよりも厄介だったのは、飲むという行為以外の体へのショックだった。誰もがこれと眠ることを多く繰り返すことにより、私たちは自分の心を大切にくるみ、心臓を撃ち抜かれ穴の開いてしまったニューヨークに適応しようとした。その中途半端な状態はかなり長い間続いた。 遠くに移り住んだ友人。そうでなければ、死者を悼み、電車の中では見知らぬ人と会話を交わし、衝撃音や雷鳴に慌てふためかない術を学んだ。 それはもう昔のニューヨークではなかったが、私たちは自分たちにとって機能するものを築き上げ、そして、かつてタワーがそびえていた場所を振り返ることは決して止めなかった。昨晩、この大虐殺を演出した男の死が囁きからうなり声や遠吠えとなってネットやテレビを駆け巡り、そしてようやく大統領の口から伝えられた時、私は唯一自分ができると思ったことをした。私は酒の並ぶキャビネットに向かい、ウィスキーを自分のためにグラスに注ぎ、主人を起こし、グラスを掲げた。最初は、ジョンとアンナ・ライザ、その幼い娘シモーヌ、そしてチャックが現在暮らすロサンゼルスに向かって。次に、静寂のマンハッタンの地平線に向かって。
2011.05.04
「日本のために何か学校としてやりたいんだけども、何か良いアイディアはないかしら」校長が電話口で唐突にこう切り出した。たまたま別件でルナの小学校に電話を入れた時のことである。ちょうど校長が電話を取り、用件を済ませた後にこういわれたときは正直言って非常にびっくりした。震災があってからボストンの日本人社会も大きなショックを受け、異国にいて何もできないもどかしさを感じつつも、何か役に立つことをしようとさまざまな人たちがさまざまな形で活動している。アメリカでは普段からチャリティー活動が盛んで、学校でも年に数回、恵まれない人に缶詰などの食料品を集めて送ったり、さまざまな募金活動が行なわれている。また、募金というと、募金箱を持って呼びかけるという姿がイメージされるかもしれないが、こちらではコンサートやさまざまなイベントにより集客を行ない、その目的の周知と募金を行なうことが珍しくない。よく大きな事件が起こると、有名ミュージシャンたちが終結してCDを作りその売り上げを寄付したりするが、それが一般人レベルの規模と内容ではあっても、普通に行なわれているのである。今回も日本人の子供が多く通う学校ではベークセールと呼ばれる、保護者がクッキーやマフィンなどのお菓子を作って販売しその売り上げを募金するという取り組みが行なわれているのをすでに何度か耳にしている。私はそういった報告を見聞きするたびに、まあ、うちの小学校じゃ無理だろうなと思っていた。日本人は私一人、そして、学校自体もベークセールやPTA活動はほとんどない。そういったことをやる土壌のあるこの辺りの地元アメリカ人は、たいてい自分も通っていたという私立の学校に子供を通わせてしまうため、ルナが通うような公立校はほとんどが移民の子供たちや経済的にも苦しい家庭の子供たちが多く通っているという、典型的な都市部の公立の学校である。その後週末が明け、私は義理おじの葬儀、校長は校長で学校のMCASとよばれる統一試験の準備や実施で忙しく、実際に電話で具体的な話ができたのは水曜日の夕方であった。校長は「寄付金1ドルを持ってきた子供は制服を着て来なくてもいいよデー。できたら日の丸カラーの赤白を着て来てね」という募金イベントを週明けの月曜日にやることを提案し、私は募金箱を持って子供たちに鶴を渡すということを提案した。そこで私は箱と鶴の作成、応募先の候補の提案、学校からこのイベントについて家庭に配布する手紙の文を考えることを依頼された。ちなみに同様のイベントはハイチ地震の時にも他の学校で行なわれ、2校で5000ドル以上を集めたという実績がある。さて、そこで気がついた。月曜日までに生徒と教師の分、合計350羽の鶴を折らなければならないではないか!まあ、だいたい私はいつもこうやって自分で自分の首を絞めてしまうのである。それをツイッターでつぶやいたところ、なんと、何人ものお友達が助け舟を出してくれた。中にはネット上ではやりとりはしていても一度もお会いしたことのない方までもが。水曜日の夜に泣きついたら、翌日の昼までに折り紙で鶴を折って郵便局から郵送の行動力。それは、特に子育てをしている人には本当に大変なことだったと思う。ただただ感謝の気持ちでいっぱいだ。その他にも、お花のレッスンのあとのお茶の時間や、たまたまブランチをしようと集まったお友達でブランチを注文してそれを待っている間の時間などに誰もが当たり前のように手伝ってくれたり、私の家まで他の人の分も合わせて持ってきてくれたりと、多くの手に助けられ、土曜日の昼までにはすでに350羽の鶴が集まった。私は募金箱を持って立つつもりであったが、当日は授業もあるため、募金は各担任が教室で集め、募金箱は保護者や学校の来訪者向けに目のつくところに置いてもらうことになった。なるべくシンプルで分かりやすいデザインを心がけたつもり。家庭に配布する文面についても、子供たちに分かりやすく、また、個人的な体験を織り込むことにより、いっそう身近なものに感じてもらえるようなものを考えた。校長じきじきの手直しが入ってイイ感じに仕上がり(笑)、これも水曜日の夜に原稿を提出して金曜日には各家庭に配布されるという超特急仕上げ。しかも、いつものとおり裏面にはスペイン語の翻訳付き(この学校の7割はヒスパニックの移民の家庭のため)。数字等は私の見間違いもあって少々異なっているが、大事なことは伝わったと思う。最後に私の名前まで入れてもらい、感激。金曜日の夜は学校で行事があったため家族で出かけたのだが、その際にも高学年と思われる男の子が2人、せっせと鶴折り内職をしている私のところにやって来て恥ずかしそうにドル札をそっと渡してくれた。自分のお小遣いからなのだろうか。なんと優しい子供たちなのだろう。しかし、連絡の手段が学校からの手紙だけなので各家庭に知らせが届くかな(子供が親に手紙を渡すのを忘れたりすることもあるし)とちょっと心配していたら、日曜日の夜に校長の録音メッセージが電話で自動的に送られてくるという徹底ぶり(雪の休校などの緊急連絡はいつもこのシステム)。校長のスピード決定と効率的かつ効果的な準備方法にただただ脱帽。当日、ほとんどの子が赤か白の私服で登校してくれていた。ありがとう!鶴を預けると、(校長が「(募金の)小切手はあなたに渡せばいい?」そこまでは責任持てませんがなっ学校から送って学校からっ!娘がスクールバスで学校からピンク(やっぱり)の鶴を片手に帰ってきて簡単に学校での様子を報告してくれた。私は子供たちに「鶴をこんなに折る羽目になってかわいそう」と同情されていたらしい(笑)。娘は校長先生と一緒に各教室を回って鶴を渡したとか。募金活動はその後も1週間行なわれ、集まった金額は350ドル。300人規模の小学校、イベントの趣旨のとおり、ちょうど1人が1ドル出した形だ。一つのイベントで数千ドル単位のお金が集まることも珍しくないこの辺りでの募金活動に比べたら少ないかもしれないが、こういうことは金額の大きさではないと思う。ボストンの片隅にある小さな小学校で行なわれたこの活動が大きく日本でニュースとして取り上げられることは決してないだろう。でも、アメリカ、いや、世界各地に、こうして小さいけれども日本のために心のこもった行動を起こしてくれている学校はたくさんあると思う。小さい子は小さい子なりに、大きい子は大きい子なりに、このイベントを通じて感じたことを忘れないでいてくれたらこんなに嬉しいことはない。私も、異国で受けたこの優しさを決して忘れないでいようと思う。
2011.04.06
義理のおじが急逝した。日本に未曾有の震災が起こり、その週末は気もそぞろでネットのニュースが気になり仕事もなかなかはかどらずといった状態で、自分の気持ちを何とか落ち着けるのに必死だったのを何とか今日から立て直そうと迎えた月曜日のことだった。心臓発作だった。去年の秋ごろから体調を崩していたらしいが、その日は直前まで伴侶である義理おばとごく普通に話をした後トイレに行って倒れてしまい、そのまま息を引き取ったとのこと。まだ66歳だった。義母は上から女3人、男2人の5人きょうだいで、3番目の義母にとってはすぐ下の弟だった。いつもこういう親戚関係のことでは先頭に立って張り切る義母が、もうどう接してよいのか分からないほど気落ちしてしまい、何かの用事で電話をしても用件が終わるとすぐに電話を切ってしまうような状態だった。葬儀は1週間後に執り行われることに決まった。私はこれまでにも親戚の葬儀に列席したことはあるが、ここまで近い親族の経験は初めてなので、キリスト教ベースの国であるアメリカの葬儀がどのように進行するのかまだよく分かっていなかった。ちなみに私の実家は神道、母の実家は仏教、どちらも葬式法事以外はほとんど関わっていないという典型的な日本の家族である。そして私も特定の宗教を信じているわけではない。会場は義父母の教会で、最初にwakeという、日本の通夜みたいなものが1時間ほどあり、その後は教会の進行によるserviceが行なわれる。その後、埋葬、教会に戻っての会食という流れである。Wakeでは、弔問者が祭壇の前に設置されたお棺に向かって列を作って順々に対面をし、親族にお悔やみの意を述べる時間である。それに続くServiceについて、彼らはバプティストであるが、私の理解(なので間違っているかもしれないが)によると、彼らの考えでは、この世にいる人間は神が貸し出した(loan)ものであり、神によってその神の家である王国(kingdom)に呼び戻される。したがって人間は一生を終えると「家に帰る」といい、このserviceもhomegoing serviceと呼ばれる。その内容は牧師の説法、賛美歌斉唱、歌、遺族の話などであるが、今回は牧師の説話ひとつにしても、義父母のこの教会への貢献度や義理おじがこれまで関わってきた教会活動の関係から、この教会の現在の専属牧師だけではなく、すでにその地位を離れた牧師や知り合いの牧師などが次々と話をしてくださった。牧師というのは歌を歌えないといけないのだろうか?(日本の保育士さんがピアノを弾けないといけないように?)、誰もが説法の前後や途中にゴスペルを歌いだす。よく、アメリカでは教会で子供のころから歌っていたという歌手がデビューしたりするが、それがとてもよく分かる。義理おじがこの世を離れてしまったのは悲しいけれど、彼は良い人生を送った、それを祝福(celebrate)しよう、と長年の知人である牧師の一人が歌を歌い始めた時は、それまでなんとなくしんみりとしたムードだった会場から歌に合わせた拍手が入り、和やかで明るい雰囲気にさせてくれた。サービスが終わると次は墓地へ埋葬に行く。親族や列席者はマイクロバスには乗らず、それぞれ自家用車で墓地へ向かうので、かなり長い列になる。フロントミラーのところにFuneralというサインをぶら下げ(外側に同様の小さな旗を立てることもある)目印をつけると、その長い列が切れないように赤信号を無視してもよい。その時に混乱や事故が起きぬよう、数台のパトカーが交差点をブロックしてくれる。このパトカーはその交差点で車の列が終わると、次の交差点へとサイレンを鳴らしながらものすごい勢いでぶっとばす。そして、次の交差点で、何事もなかったように同じおまわりさんが車から出て交通誘導をしている。すばらしきプロの技。そのようにして墓地に到着すると、これはよくアメリカの映画のシーンでよく見られるような光景。お棺の周りを皆が囲み、牧師が最後の別れを告げ、列席者が一人ずつ花を添える。皆が車に戻るとき、おじの友人と思われる男性がまるで「じゃあな」とでも言うかのように、お棺の淵のところをとんとんと叩いた姿が目に入った。おじが亡くなってしまったことも悲しいけれど、悲しむファミリーの姿を見るのはもっとつらかった。でも、こういうときに親戚が多いのは心強い。1番上の姉と義母は意外にしっかりとしていたが、一番気落ちしていたのは2番目の姉にあたるおば。でもその傍らにはその娘(使えるいとこ#1)がしっかりと寄り添いずっと肩を抱いていた。お棺を運ぶ計8名の男どもも、甥にあたるうちの夫をはじめ、全部自前(しかも皆図体がでかい 笑)。それぞれが悲しみを分かち合い、支え合う。それはこうした出来事を乗り越えるには大切なプロセスなのだと思った。墓地からまた教会に戻り、会食の時間があった。食事は教会の会員たちが用意してくれたもので、きっとこれはお互いがいつも当番を決めてこうやって手伝うようになっているのだろう。参列客の誘導なども含めて、すべて教会の人たちがやってくれて、遺族が手を煩わされるようなことは基本的にない。そして、さらにその後(これはたぶん、うちのファミリーだけ 笑)、義父母の家で集まりがあった。ここでも持ち寄り形式で食べ物とケーキの山。。。(それでも皆が持ち帰ってほとんどなくなってたけど)。この頃にはほとんどの人たちが元気も出て来て、集まった理由も忘れてしまうぐらいにぎやかな時間だった。子供たちは走り回って遊び、私には何人かが日本の様子を心配して聞いてくれた。親戚の数が多いということは、正直、煩わしいと思うこともある。特に、嫁として入ったものには負担だ。そんなわけで、私は最近なるべく親戚の集まり(ゲームやろうとか誕生日会とか)は何かと理由をつけて断っていた。それに加え、今週は義理おじの件を機に何かと集まっているファミリーを見て、自分は日本が大変なことになっているのに自分の家族や親戚と一緒に過ごすことができないもどかしさやさびしさを感じることもあった。子供言葉でいえば「あんたたちばっかり、ずるい」だ。自分が祖国の震災でダメージを受けているのか、おじのことでダメージを受けているのか、何だかよく分からなくなってしまっていた。教会でのサービスは、そんな私の意固地になっていた心を優しく和らげてくれた。そして、おそらく私の震災による心のダメージも一緒に癒してくれたのだと思う。このファミリーの結束の固さと温かさを改めて受け入れることもできた。最後に、説教の中で心の中に残ったものをここに記しておこうと思う。「(おじが)あまりに早く私たちの元を去ってしまったので、もしかしたらあなたたちの中には『ちゃんとさよならが言えただろうか』『十分に愛せただろうか』と思っている人がいるかもしれない。でも、今、この会場を包み込んでいる愛の深さを見れば、その答えはイエスだと言えるだろう」この家族の誰もが持っている、大きなくりくりとした愛らしい目でいつも笑顔だったおじ、私を娘のようにかわいがってくれ、会うといつもその大きな体で息ができなくなるぐらいにぎゅっと抱きしめてくれたおじ。”Hope he is happy and safe wherever he is up in Heaven.”、親戚の子が子供たちだけでの祈りに言った可愛らしい言葉、それを私もおじに捧げたいと思う。
2011.03.22
なぜ日本ではFacebookがあまり広まらないのかという議論がいろいろされているようだが、私はひとつの大きな原因は、日本人の人間関係の築き方とアメリカ人のそれとの違いにあるように思う。日本人は、基本的に既に知っている人達で固まる傾向にある。パーティーや飲み会も、知っている人達がさらに絆を深め合うのが基本で、知らない人同士が知り合うためにはコンパだのお見合いパーティーだのわざわざ目的を設定する。一言で言うと、クローズな人間関係を築き上げる傾向にある。mixiの、マイミクの中にさらに特定の友達にだけ表示できるよう設定するなんて、その典型だ。一方、アメリカ人のパーティーというのは、主催者の友達の友達の友達。。。みたいな感じで、なんだかいろいろなバックグラウンドの人が集まる。もちろん、今日はこういう人達だけ、という設定の時もあるが、基本的には誰を連れて来てもOK。そこからビジネスのチャンスが生まれたり、面白い会話が展開したり。こちらは一言で言うと、オープンな人間関係を築き上げる傾向にある。その中でもちょっとびっくりするのは、たとえば、わたしが今関わっているCO-OPのプリスクール設立にあたり、月に一度、中心になって話を進めているメンバーの自宅で進捗報告や意見交換のためのミーティングを開いているのだが、そこにはこれまで関わっているメンバーだけでなく、基本的に興味のある人は誰でも参加OKなのである。要するに、自分にその年頃の子供がいて通わせたい親、というのではなく、ただ単にこういう活動に興味があってサポートしたいという人もOKなのである。そういう、見も知らない人を家に招きいれるというそのオープン性はやはり私にはびっくりである。そのほかにも、誰々の誰々の知り合いだから、ということで、知人をお互いに気軽に紹介しあう。特に家の修理屋とかのビジネス関係、アメリカでは本当にピンきりなので、知り合いからの紹介はリスクが少なく非常に心強い。その背景には、別に興味がなかったり嫌だったらハッキリ断っても失礼にあたらない、紹介した人は責任を感じる必要はなく、紹介した後は当事者同士の責任で、という前提もあるのだろうが、やっぱりこのつながることの気軽さが、Facebookの気軽につながるプラットフォームと合っているのではないかと思う。その前提を無視してFacebookの議論をしても私はあまり意味がないのではないかと思っている。
2011.02.22
11月11日はVeterans Day(退役軍人の日)の祝日。多くのアメリカ人にとっては会社が休み、学校が休みでラッキー!の一日にすぎなかったりする。私もそれまで特に気にも留めていなかったのだが、今年はちょっと違った。主人のイトコのシーラは、とある事情(といっても私も詳しくは知らない)から中学生の甥っ子(妹の子供)を引き取って昨年あたりから一緒に暮らしていた。独身で子供のいない彼女のことを Welcome to the mom's world!などといって、子供のいる他のイトコ達と一緒にからかったりしていたのだが、今もてっきり一緒に暮らしているのかと思ったら違うのだと言う。今まで住んでいたアパートを出ざるを得なくなり、それより前にレイオフされて仕事のなかった彼女は住む場所を失い、この甥っ子は別の親戚の家で暮らすことになり、彼女はシェルターに住んでいるのだという。場所を聞いたら、よく私が前を通る建物で、退役軍人のためのシェルターだ。彼女は兵役に就いていたことがあり、ドイツの基地にしばらくいたのは知っていたが、湾岸戦争の直前に退役したらしく、結局戦場に赴くことはなかった。それをラッキーだと本人は言っているが、シェルターには手足のない人や精神的な後遺症に苦しむ人もいると言う。シェルターは食事の時間以外は昼間は外にいったん出ないといけないらしいのだが、夜は夕飯はもちろん、毎晩食後にダンキンドーナツからドーナツの配達があるそうで(毎日となるとあまり有難くなさそうだけど 笑)、その他には大学へ行くための学費補助などのサービスを受けるということも可能だそうで、退役軍人の補償について良いことを全く聞いたことのなかった私には意外だった。それでも、たとえ屋根の下で寝る場所があるとはいえ、退役した後にシェルターで暮らさざるを得ない人達がいるということ自体が非常にやりきれない事実ではあるのだが。しかし、ヴェテランズ・デー当日はいろんなレストランで無料で食事ができるんだそうで、シーラはシェルター仲間とあちこちハシゴをしてお腹一杯になるまで十分楽しんだらしい(笑)。当日、Facebookでは「国に貢献してくれてありがとう」といった趣旨のメッセージも散見された。娘の学校ではどういう風に習って来るのかと思っていたら、軍服姿の男女の塗り絵の下に"The veterans protected our country."と娘の字で書き写した一文があった。この機会以外にも、軍服姿の人が地下鉄に乗っていると、周りの乗客が「ありがとう」と声をかけている光景も目にすることがある。戦争とか国に身を捧げるとか、そういったことについてほとんど考える機会を与えられることなく育った敗戦国の戦後世代の私には、正直、このアメリカの日本にはない側面に対してどのように対応して良いのか今の時点では分からない。どんな理由があろうと戦争はやってはいけないことだと思うのは確かだ。でも、理由や動機はどうであれ、自分の人生の一部をある期間、国のために捧げた人達に対しては敬意を払いたいと思う。
2010.11.11
里帰りから戻って来て、その間に郵送されてきた大量の手紙を整理していたら、ルナの通う学校の校長先生が異動になったとのお知らせが入っていた。がーん。2年前、この学校に決めたのは気さくで、穏やかで、誰に対してもフェアなその性格のこの校長先生に惚れたからといっても過言でなかっただけにショック。でも、ママ友でもあり、この学校で先生としても働いている人にさっそく事情を尋ねたところ、この校長先生は別の地区で、ハイチの地震の後に(恐らくアメリカの知人や親戚のつてを頼って来たであろう)ハイチの子供たちが増えた小学校の校長になると言う。教育委員長からの打診で、もともとハイチ出身でクレオール語を話せる数少ない校長として、ここでこの話を断るには行かないとの決断だったらしい。そうだよな。私も、もし、同じような立場だったらきっと行くと思うしな。残念だけれど、ハイチの子供たちがこの国で幸せに生きて行けるように校長先生の今後のご活躍を心から祈りたい。このママ友情報筋によれば、次の校長もいい人のようだし、期待するとしよう。
2010.09.05
今日はアメリカの独立記念日で、家族で集まってバーベキューをするのが習わしと言ってもいいほど、この季節は何かと口実をつけて庭でバーベキューをするアメリカ人。うちみたいに立派な庭がない(いちおうアパートで共用の庭はあるけど、地下に住むイタリア人ばーさんと顔を合わせるかと思うと、とてもバーベキューなんかしてられまへんわ)家の場合は、誰かの家にもっぱらよばれるのみですが、最近、近所に美味しい肉屋ができたこともあり、今日の従姉妹の家でのバーベキューパーティーにはソーセージと手ごねハンバーグを持って行く予定。。。。と言っても、私は締め切りの迫っている仕事があって行かない予定ですが。この手ごねハンバーグ、この前の「Cousins Cookout」に持って行った時に初めて食べたけど、美味しかった。だいたい、バーベキューパーティーではどう考えても機械でプレス成形したと思われる冷凍ハンバーグを使うのが一般的だけれど、これは、文字通り肉屋のお兄ちゃんが手ごねで、しかも、中に塩を混ぜ、周りに胡椒をまぶして、焼くとその胡椒が中の塩と混ざる、という工夫が凝らされたこだわりの一品。ところでこの「Cousins Cookout」というのは、ダンナのカズン(いとこ)とそのパートナーのみ、要するに子供抜き、親抜きでバーベキューパーティーをしようぜ、という企画で、今年が初の試み。ちなみにクックアウトというのは、「アウト(外)」で「クック(料理)」する、ということで、アメリカ人はバーベキューパーティーとはあまり言わない。この家族、離婚と再婚を繰り返して生まれたモザイクみたいな家族なので、とにかく人数が多い。このクックアウトだって、「来られる人」だけで45人。多すぎ。それぞれが持ち寄るものを分担して、さあ、集合時刻は12時。でも、その時間に集まったのは、たったの5人ほど。やっぱり。。。アフリカ系アメリカ人というのは時間に遅れて来るという評判なのだが、もうまさにそれを地で行ってくれました。だって、だいたい全員が集合したのが午後3時ぐらいですから。でも、それでも結構妥当な時間だよな、と思ってしまう私も黒人との結婚生活が長くなりました。集まった場所は市営の公園で、発起人の一人が、朝もはよから場所取りをしてくれますた。何だか日本の春の花見みたいだな、と思ったのは私だけでしょうか。世話のかかる子供もいないし、親の目を気にすることもないし(実はこっちが重要?)、いやあ、これはクセになっちゃうねー、毎年やろーぜ、ってな雰囲気で大いに盛り上がったいとこ達。いつもは良きパパをやっているイトコの一人は、ハイネケンをケースごと持ってきて(園内飲酒禁止ですけど)、警備の目を盗んでは、ちびちびこそこそ飲みながら葉巻をくわえてトランプに興じていました。あのテーブルのメンツ、もし自分の親戚じゃなかったら、すんげえ怖かったと思う。。。よくこの公園は、日本人向けの情報交換のオンライン掲示板などで、「治安はいかがでしょうか」といった問い合わせがあるところで、私としては危険地域と言われながら親戚が多く住んでいるところなので質問している人にその意図はなくても、何となく身内の悪口を言われているようで沈んだ気分になってしまうのだが、あの人たちを見たら「いや、あそこは近づかない方がいい」って自ら率先してレスしちゃうかも。で、今回、肉屋のスペシャルマリネ(カレー味)に一晩漬け込んでもらったスペアリブを初めて焼いてみたんですが、言われた通りにしたら、確かに美味しかったけど、こう、骨からハラリと肉が離れるって感じではなかったので、後日、家で再挑戦してみることに。グリルの極意はマリネにあり。とのポリシー?のもと、和風のタレにつけてから、2時間ぐらいじっくりとホイル焼きにしてみました。それで、肉ははらりと落ちたけど、脂っこくなってしまったので、次回は脂が落ちる構造にしてみよう。よし、今年の夏はスペアリブを極めて、ELLIEのスペシャルジャパニーズマリネのスペアリブは絶品だと毎年言われるようにがんばるのら。
2010.07.04
うちの近くに美味しいコロンビア料理屋の店がある。地元のニーズに合わせて、コロンビア料理だけではなく、ピザもパスタも出すのだが、何を食べても美味しい。夕飯に困った時に、エビ入りのシーザーサラダとピザをテイクアウトするのが我が家の定番となっている。その店が、向かいのスペースに肉屋を開いた。肉だけかと思ったら、野菜も果物もその他乾物も置いた、ちょっとした食料品店。肉は、(超)厚切りベーコン(!)と、鶏のカツレツ(下ごしらえ済み)とポークを買ってみた。発泡スチロールのトレイではなく、紙に包んでくれるところが昔の肉屋さんみたい。で、豚肉を使って今夜はカレー。豚はもう少し脂肪があった方がいいって感じだけど、野菜は砂糖を入れたかのような甘さ!アメリカは週末に一週間分の食料を買うのが習慣なのだけれど、これだったら、毎日とか週に2~3日に分けて少しずつ買うっていうのも可能だ。考えてみたらそうだよね、昔は(あるいは日本のお母さんは)、店に行ってからその日に安いものとか店にあるものを見て献立考えてみたりしたもんだよね。今のところ、英語があまり出来ない店員さんとかが多いので、そもそもガイジンのアタシは別にいいけど、地元のアメリカ人の顧客が付くかどうかがネック。コロンビア料理の店の方だって、あんなに美味しいのに、地元のママ友パパ友なんて利用したことないみたいだからね。その向かいにあった、今はこの食品店になったイタリア料理屋なんてちっとも美味しくなかったのに(だからつぶれたんだろうけど)、そっちの方は行ったことがあるとか言っていて。この地元のママ友パパ友達だって、アメリカ人にしちゃあ、わりと色んな面でアメリカ以外のことにもオープンな人達なんだけど、やっぱりそれでも食に関しては冒険しないのかなあ・・・。お客さんがいっぱい来て、回転の良い、いつでも新鮮な品を置く店でいて欲しいものだ。(・・・それがアメリカでは結構難しいんだよねえ。)
2010.05.31
先週末はルナと私の習い事の先生の結婚披露宴に招待され、約3年ぶりに着物を着てみた。20代の後半に作った着物なので、アラフォー世代からも脱却しつつある私には少々柄が合わなくなって来ており、しかも、腰周りの凹凸を平らにするための補正下着はもはや不要(笑)。でも、花嫁さんが振袖で、お母様が訪問着だったので、私は控えめに小紋でちょうどバランスは良かったかと。20代の可愛い花嫁さんの隣に並んで写真に納まった私は、すっかり中年の風格漂うオバサンでした。ははは。そもそも気候の激しいボストンで、着物を着るということは大変難しい。また、お茶を続けるかと思って日本から色無地を2枚持ってきたけど、それも桜色とライムグリーンなので汚れることを考えるとなかなか着る勇気がない。それなら、派手めの小紋が何枚かあった方が使えそうだ。小紋の方が色無地より格が低いなんて知っている人そもそもこっちにはほとんどいないし、柄があった方が映えるし。でも、子育てが一段落したら、観劇にでも行く時に着物でも着られたら結構楽しいかも。
2010.05.03
この前、誕生日会に来たルナと同じクラスの仲良しさんは、もう絵に描いたような金髪碧眼のお人形さんのような白人の女の子なのだが、そのお母さんが「昨年まで通わせていたプリスクールは白人のアメリカ人がほとんどだったけれど、今の学校はそのDiversity(主に文化、民族、人種的多様性という意味で使われる)が気に入ったから入れたの」と言っていて、そういうことを、「白人のアメリカ人」から聞くと、マイノリティーの私としては嬉しい気持ちになる。
2010.02.11
ルナが自分の肌の色が他のほとんどのクラスメート達より濃いということを意識し始めた。それに付随する諸々のことにも気付く頃までには、それに立ち向かって行けるたおやかさがどうか身についていますように。
2010.01.29
アンケート形式の調査で、任意に自分の人種やethnicityについて答える欄があるのだが、私の場合は、人種=Asianethnicity=Japaneseということになる。ダンナのethnicityはAfrican-Americanなのだが、本当はどこなのだろう。ガーナなのかな、ナイジェリアなのかな、それとも全然別の国なのかな。
2009.11.24
我がビンボ・コンドの他のオーナー達と慎重に話を進めつつ、数々の屋根修理業者から一つを選定して契約を取り交わし、ようやく屋根の修理作業が始まった。8社ほどの見積から対応の良かった3社に絞り、詳細検討して、追加質問をして、1社、感じも良くて折り返しの電話もすぐ来て、私もダンナも非常に気に入った業者があったのだが、他の業者より1000ドルほど高く、泣く泣く断念。結局、他のオーナーからも評判が良いと聞いていて、見積費用も3社の中では一番リーズナブルだった業者に決定。屋根を覆っている資材のほとんどを取っ払って新しい資材を敷いて、計2日間で作業は終わるという。ホンマかいな。第一日目は、自社持ちの小型クレーン車でドドドドドとやって来て、朝の7時半ぐらいから作業開始。取り払った資材をクレーンで下ろすという危険な作業なので、警察動員の要請までするという大がかりな作業。しかしまあ、作業のおっちゃん達、手馴れた様子でドンドンカチカチ、てきぱきと仕事を進めて行きます。「いやあ、さすがプロだね」という時に、アメリカ人は、"They know what they are doing."と、ほぼ日本の中学英語で事足りる表現を使うのですが、まさにその通り。その日は朝早くから出かける用事があったのだけれど、午後2時ぐらいに家に戻って来たら、その日の予定の作業はすっかり終わっていて、屋根全体に雨よけのビニールシートが張ってあった。今日は大雨が降っているので、作業はお休み。月曜日にはスッキリ新品のピカピカの屋根に生まれ変わるのかな???
2009.11.13
ボストン近郊のバーリントンに韓国系の大型スーパーが開店し、日本人コミュニティの間では、「Hマートにもう行った?」というのが挨拶代わりといっても過言ではないほど(笑)話題になっている。アレがあった、コレがあった、アレが美味しいなどと言う話を私は楽しく聞いているのだけれど、我が家は行っていない。車がないと行けないところで、車を借りた時には家族4人で出かける時だから、そんな時にわざわざ(しかも子連れで)スーパーに買い物は行きたくないし、まあ、日本食といえば、米と調味料ぐらいしか調達しない我が家としては、ボストンの中心にある小さなコンビニで十分間に合っているというのが本当のところ。だいたい、家族が糖尿病かアレルギー持ちという我が家では、食べられる和食の種類も限られている。だから、ボストンでも和食を中心としている日本人の友達と話をすると、どうしてもズレを感じてしまう。アレックスに大豆とトマトアレルギー疑惑が発覚してからは、醤油と味噌と豆腐を買わないようにしているので、本当に和食から遠ざかってしまった。これまで良しとしていた食べ物を諦めるということは非常に大きなショックとともに大きな努力を必要とすることで、自分自身が糖尿病になった時、ルナにアレルギーが発覚した時、そしてアレックスにもアレルギー疑惑が持ち上がった時と、それぞれ自分にとっては大きな大きな変革を迫られてきた。もう私に至っては、日本食は別に日本に帰った時に食べればいいやというレベルに近い。私の中では、おふらんすに旅行した時にクロワッサンとバゲットを食べるという感覚とほぼ同等である。でも、ただでさえ小さな子を抱えて料理をする時間も手間も限られているところに、さまざまな制約があると(子供の嗜好もあるし)、作れる食事も限られて、かといってレシピを開拓する時間もなかなか取れず、あーあ、日本では食育が盛んらしいけど、アタシはその点では母親失格だな、と、少々落ち込み気味。制約の中で最大限の努力をするというのが私の闘病のモットーでもあるのだけれど、なかなか今の悪循環から抜け出せない・・・ということを思い知らされた今回のHマートフィーバーなのであった。
2009.10.03
日本は何に関しても粒揃いで甲乙付け難いのに対し、アメリカは何に関してもピンからキリまであって、とんでもないものをつかんでしまうと、とんでもない目に遭う。水道屋、電気屋などの業者もしかり。ただいま、我々が住む3階建てコンド(アパート)の屋根の修繕を頼むべく、業者に連絡して様子を見に来てもらい、見積もりをもらうという作業をしている。基本的にはダンナが業者に連絡して見積の日時を決め、私が応対する。一番まともな業者の対応とは、「屋根にのぼって様子を見て、私にその様子を説明し(私が屋根用語を理解できるかどうかはともかくとして(笑)、後に文書で見積を持参あるいは送付する」。だと思うのだが、これが千差万別なんだな。だいたい、屋根にのぼらずに見積を出す業者もいる。見積もメモみたいなのにちょろっと書いて終わりの業者もいる。最初に来た業者が、ほんともう、どっかの隠居じいさんみたいな人で、この組み合わせ(屋根に上らず見積はメモに書いて終わり)だったので、本当にこれが普通なのだろうかとビックリした。で、次に来た業者はもっとまともで「じゃ、ちょっと屋根の様子を見せてください」と言って持ってきたハシゴで上って行き、私に「とりあえず今問題になっている箇所の修繕だけも出来るけど、出来れば屋根を全部取り替えた方が良い」と説明して、最後に"It was a pleasure to meet you."とまで言って帰って行き、後日「修繕のみ」と「屋根全とっかえ」の場合の見積を送ってきた。そーだよ、そーだよ。これだよ、これ。今のところ10業者以上に見積を頼んでいるけど、時間どおりに来る業者もいれば、連絡もせず遅れて来たり来なかったりする業者もいる。私もそういうアメリカの「常識」には馴れているので、時間どおりに連絡もせず来なければ待たずに自分の用事を済ませるようにしているが、「タイミングがすべて」の、もうすぐ2歳児を抱えている身としては、ちょっとした時間のズレによりその後の予定がすべて狂ってしまうので結構困る。今朝も、昨日来るはずだった業者がいきなり電話をしてきて、すぐ近くまで来ているんだけどと言われて外出するタイミングを失った。でもなー、「こうあるべきだ」という自分の信念(笑)に従ってコツコツ探していると、ちゃんと対応してくれるマトモな業者に出会えるんだよなー。それまでのエネルギーとか根性とかそういうのは必要なんだけど。
2009.09.25
何とこんなガラッパチでエコとかオーガニックなんてなんじゃそれといようなお土地柄のわが町に、ファーマーズマーケットが週に一度、開かれるようになった。先日初めて試しに買ってみた。にんじん、ブルーベリー、とうもろこし、セロリ、なす、いんげん、ズッキーニ。ブルーベリーととうもろこしを食べてみたけれど、どっちも甘くて味がしっかりしていて美味しかった。やっぱりスーパーで買うものとは違うんだなー。日本で食べる物食べる物が美味しかったということと、アレックスにどうも大豆アレルギーがあるらしく、大豆製品はありとあらゆる製品に入っていることがきっかけになって、身体に良くて美味しい材料を買って、なるべく手作りしようという気になったので、この週一のファーマーズマーケットもうまく利用しようと思う。
2009.07.31
今週は、‐電話でママ友から「育児相談」を受け、‐他州へ引っ越した友人からボストン近郊へ贈る花のアレンジメントの配達のアレンジを頼まれ、‐遊びに行ったお友達からお子さんの幼稚園の緊急連絡先になってくれと頼まれ、‐翻訳の仕事をしている友人から、どうしても分からない箇所の意味を教えてくれと頼まれ(うちのネイティブが解決)、「ボストンの母」への道を着々と。
2009.07.30
早いものでルナの学校もそろそろ学年末を迎えようとしている。ルナが学校に行くようになったことで、また、アレックスと地域のプレイグループに参加するようになったことで、近所に顔見知りが増えたのがこの一番の変化。都会のど真ん中のこの地域では、家族ぐるみのお付き合いだとか、クラスメートとのプレイデートだとか、そういう典型的なお付き合いはないのだけれど、今までは本当に誰も知らなかったのだからそれに比べれば確実な進歩。近くのビーチに行けば、毎朝スクールバスのバス停で一緒になる子供たちが遊んでいたり、そして、そこにルナが交じって遊んだり。付き添いで来ている親たちも何となく顔を知っていたり。これでスペイン語が話せるようになれば、さらに地域に溶け込めるかしら(笑)。
2009.06.18
我が家は4軒入っているコンド(日本で言うマンション)に住んでいるが、共有スペースの改修についてはコンドのオーナー全員が了解の上、業者を雇って行なうことになっている。と、規約にも書いてあるし、最近わざわざそのためのミーティングを開いて全員で確認したにも関わらず、地下階に住んでる諸悪の根源であるばーさんが待ちきれなかったのか、勝手に業者に連絡して仕事を始めさせてしまった。私たち他のコンドのオーナーは、業者が作業をしているのを見かけて初めて知ってビックリ仰天というありさま。この週末は法的対策も含めその対応に追われ、2人の幼い子供の世話でただでさえしっちゃかめっちゃかな上に私の翻訳の仕事の追い込みも重なって、夫婦ともども極限のストレスに晒されることになった。昨日には翻訳も提出できたし、コンド改修の件については今日にもいちおう解決しそうでホッとしているところなのだが、このばーさん、本当に「常識」が通じなくてホトホト困っている。このばーさんだけじゃラチがあかないので、コンド・ミーティングの時はばーさんの息子にも参加してもらっているのだが、これがまた曲者で、しかもばーさんの庇護をするのでこれまた厄介。何かを始める時には全員で話し合って、全員の了解を得た上で進める、という「常識」は、いったいいつ、どこで培われるのだろうか。学校なのだろうか。
2009.06.11
うちの近くには韓国人夫婦が経営しているジャパニーズ・コリアンの料理店がある。そこのご主人が、顔は全然似ていないのだけれど、身長だとか体つきだとか全体の雰囲気が何となく私の父に似ていて、見かけるたびに懐かしい雰囲気にとらわれる。そして、そういう思いにかられる度に、子供たちは将来、どんなことを懐かしく思うようになるのだろうか、と考えるのである。
2009.06.10
日本のお店から商品をネットで買って、実家に届けてもらうようにしたのだが、クロネ○ヤマトのウェブサイトで配達状況が追跡できるようになっている。愛知県から千葉県までの距離、6月3日発送で、届く予定の日が翌日の4日。それじゃ、別に追跡する必要もないような気がするけど・・・と、配達までに注文してから1週間かかるなんてザラなアメリカの感覚にすっかり馴れてしまっている自分に気がついた。
2009.06.03
ボストン在住日本人向けのオンライン掲示板で航空券や空港での乗り継ぎに関して質問をする人がいると、必ずといっていいぐらい搭乗する「マイルの神様」というハンドルネームの人(神様?)がいる。神様なので、口調はすごくエラそう(失礼)なのだが、この手の情報に関しては右に出る者がいないぐらいの詳しい内容を惜しげもなく丁寧に書き込んでいて、実はすごく親切な人(神様?)である。見かけも口調も悪魔だけど、実はイイ人らしいデーモン小暮を髣髴とさせる。この掲示板は、心ない人の書き込みによって定期的に荒れて、こちらまで荒んだ気持ちになってしまうのだが、そんな中で、マイルの神様は一服の清涼剤のような、ありがたい存在である。これからも頼りにしております>神様。
2009.05.22
ボストン、先週はコートが必要だったのに、今日は30℃を超す暑い日。ビーチ日和。ルナを学校に送った後、アレックスをビーチ近くの公園に連れて行く。すでに日光浴している人がちらほら。そのうち、若者の集団も。ガッコはどーした。インフルエンザで休校かい?まあ、ビーチでバレーやって日光浴やってるなら健全だけど。アレックスは海へ突進。水に入ると濡れて気持ちが悪いという仕組みがまだ理解できていないもよう。1時間ほど遊んで帰宅。計画通り、おひさまに当たって疲れたのか、よーく寝てます。そろそろお姉ちゃんのお迎え。あー起こすのヤダナー。
2009.05.21
日本の母から電話がかかって来て、「ルナはちゃんと学校に行ってるの」と聞かれる。どういう意味かと思ったら、例の豚インフルの影響で学級閉鎖になってないのかという意味だったらしい。ははは。この日本との温度差は何なのかね、と母と話していたのだが、母の意見では、日本というのは島国で陸路による外国からの「侵入」はないので、水際で止めようと思えれば止められる、そして、頑張ろう!と思えば頑張れちゃう国民なので、もう一人も感染者を入れまいと今は頑張っちゃってるんだと。なるほど。アメリカはメキシコやカナダと陸つながりですからね、陸路からどんどん「ガイジン」は入って来ちゃうわけで、空港でせき止めようと頑張る意味はないわけだな。だから入って来ちゃったら、それ以上広がらない対策を講じることに考えが行くわけで。そういえば、20年以上前に暮らしていたドイツもそうだった。ドイツなんて、もっと多くの国と隣接していて、極端な話、国境付近に住んでいれば、ランチタイムは国境を越えた別の国のレストランで、なんて言う感覚だから、空港のセキュリティだけやたら厳しくしても無理だと(別に野放しってわけじゃないですけどね)。
2009.05.05
自分をあえてどこかのグループに分類しようとすれば、それは「永住予定の国際結婚組の日本人」ということになるのだけれど、当たり前のことながら、付き合っている人はそのカテゴリに属する人ばかりではない。この前、花屋で働いていた元同僚たちとのオンナばかりの集まりがあって、このグループは私を除いてはアメリカ人ばかり、20代から40代の私まで5人のグループ。年代も違うし、結婚している人もいるしそうじゃない人もいるし、境遇はいろいろだけど、自分が話をしていて楽というか、「こんなことを話したらどんな風に思われるだろう」とか心配せずに話せる人たち。あるいは、短期滞在の日本人のお友達だっているし。結局は、境遇うんぬんより、自分と考え方が似ていたり相性が良かったりする人との付き合いが長くなって行くんだろうな。それも、当たり前のことだけれど、でも、私は特にレッテルを貼られてしまいがちなので、境遇の違いを超えても仲良くしてくれるお友達をとてもありがたく思うのだ。
2009.05.01
マサチューセッツ州でも豚インフルの感染者が出たようで。飛行機で世界中を移動できる世の中だから、あちこちで感染が拡大するのも仕方がないけれど、小さな子供がいる身としては心配。でも、生徒の約8割がヒスパニックのルナの小学校、メキシコにこの春休みに帰った生徒ぐらいいるだろうに、特に今のところ感染報告もないことを考えると、必要以上に心配することはないのかなと思ったり、その一方で、人ごみの中に行くのは避けて家にいた方がいいのかな、なんてだんだん引きこもりがちで憂鬱な気分になって来たり。でも、これと同じ気分、昔も味わったことがある。いつのことだっただろう、と記憶をたどっていったら。そう。2001年の9.11のテロ。テロの後、どこに行くのも怖かった、あの気分。あの時、ここで誰もが怖がって外に出なくなったら、それこそテロリストの思うツボなんだ、テロを恐れず、いつものフツーの生活を送ることが、テロに屈しないということなんだ、と考えたんだよな。そうやって考えると、テロに比べれば、インフルエンザはまだ対策が取れる。だからアメリカは比較的冷静なんだろうか。それとも単に危機感がないだけ?
2009.05.01
義母からよく"Prayers Requested"という趣旨のメールが回って来る。一番代表的なのは、誰かが病気で早く良くなりますように、とか、誰かが家族の問題で苦しんでいて、早く解決しますようにといったもので、うちの義母は敬虔なクリスチャンなので義母だけがやっているのかと思ったら、どうもアメリカでは(いずれにしてもキリスト教の考え方がベースなのだろうけど)わりと一般に行なわれているみたいだ。まあ、病気とか家族の問題ならいいと思うけど、この前なんて、姪っ子が(とどのつまりは自分がちゃんと勉強しなかったせいで)大学1年目を留年するかもしれないから、ちゃんと頑張れるように皆に「祈りをリクエスト」したとか、他の親戚の子が、これもまたやはり大学の制作課題が期日に間に合うように・・・とか、もうそうなると、他力本願っつーか、そんなことまで人に祈ってもらうなとちょっと批判的になってしまった。しかし。今週の私の翻訳の仕事、すごい量の上に、私にとってはほとんど未知の分野なので、火曜日からついさっきまで、ほぼ不眠不休で働いて(しかも、昼間は子供がいるから実質的に仕事するのは夜中から朝まで)、ある時点では、一人で終わりの見えないトンネルをとぼとぼと一人で歩いているようで、もう心細くて心細くて(長い翻訳をする時はいつもこういう気持ちになる)・・・思わず、義母に「祈りをリクエスト」メールを送ろうかと思っちゃったよ。
2009.04.20
NYでバッグとベビーグッズの制作販売"oktak"をビジネス展開している学生時代の友人は、自身のウェブサイトのほかにEtsyという、クラフト販売専用のポータルサイトでも作品を販売しているのだが、そこで見つけたという記事。Coraちゃんというカンザスの赤ちゃんが最近、小児がんのため10ヶ月の短い生涯を閉じた。診断されてからわずか3週間後の死だったという。ご両親のお気持ちを思うと、どんな言葉を並べても陳腐な表現にしかならない。そのCoraちゃんの思い出として、ご両親は子供向けのプレイグラウンドを建設することを思い立ち、現在寄付金を募っている。その一環として、Etsyでも自作の売上の一部を寄付しようというプロジェクトが立ち上がった。NYの友人も自身のEtsyサイトより数点を出品している。参加ショップとその作品はこちら。私はEtsyに関してはほとんど彼女のサイトしか見たことがなかったのだが、今回のプロジェクトで実にさまざまなクラフト用品が販売されていることを知って、良い機会になった。玉石混淆ではあるが、ほう、こんな売り方もあるのか、と感心させられるアイデアも多い。とても悲しい出来事ではあるけれど、こんなにも見ず知らずの多くの人たちが非常に短期間で見ず知らずの誰かのために、これだけのことを成し遂げることができる今の時代を、素晴らしいと思う。3月5日まで。
2009.02.24
答え:ROACH MOTEL(直訳?:ゴキのモーテル)すげえ。アメリカと日本ってこんなにいろいろ違うのに、これに関する発想は一緒というところが、すげえ。
2009.01.27
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