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「あれはいつでしたか。もうずっと前、あなた様が疲れて深く寝入ってしまわれた時、あの鬼は徒然(つれづれ)に思ったのか、側に控えていたわたくしを相手に昔語りをしたことがございました。遠い昔、僧侶として修行をしていた日々のこと。南の海で漂流した時の苦しさ。宗門から追放され、葛城山で怪しげな祈祷師となったこと。葛城上人として再び戻ってきたこの京の有様。そして、あなた様に出会ったこと……。鬼はわたくしに、それまで誰一人として心惹かれたことのなかった自分が、どれほどあなた様に恋い焦がれ、もう命すら顧みぬほど愛しくてならなくなってしまったことを打ち明けました。そして、その想いに身も心も焼き尽くされて、とうとう鬼にまで成り果ててしまったことも」 明子は暗闇の中で目を見開いたまま、継子の話に聞き入っていた。継子は微かに溜め息をつきながら続けた。「あの時、鬼は自分の辿って来た道を振り返り、わたくしにこう言いました。人の力など小さいものだ。どれほど学識を得ようと、どれほど激しい修行を積んで己を厳しく律しようと、人を虜にする陥穽(かんせい)を逃れることは出来ない。一度それに落ち込めば、人の力など苦もなくもぎ取られ、もはやそこから這い上がることなど不可能だ。それに、こうも言いました。恋とは恐ろしいものだ。呪いのようにこの身に取り憑き、いくら払っても逃れられず、どれだけ貪っても満たされることがない。そして、私にはその苦しみに終わりはないのだ。一度魔に落ちた者は、もはや仏に縋ることは出来ず、彼岸で安らかに眠ることはないのだから。自分はこれからもずっと、この苦しみを抱えたまま、永遠にこの世を彷徨い続けることだろう、と」*注「陥穽」…落とし穴のこと。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月30日
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「それは、わたくしにもわからぬ。でも、ふとこう思ったのじゃ。あれほど強くわたくしを想ってくれたものが、他におるだろうか」「文徳帝がおられるではありませぬか。先帝との最期の対面の時、わたくしは夜御殿の側で、お二人のお話をずっと聞いていたのですよ。確かに、先帝は長い間あなた様を遠ざけられ寂しい思いをおさせしたことでしょう。でもあの時、先帝は今までの仕打ちをお詫びになり、長い間の胸の想いを打ち明けられました。あの方の仰せられたことを、忘れてしまわれたのですか」「そう、あの方はわたくしを想っていてくださったらしい。それは確かに身に染みて嬉しく思った。でも、その愛情をこの身体と心で実感する前に、あの方は亡くなってしまわれた。長い間の寂しさは報われたけれど、あの方とのことは実体のない影のようなものじゃ。今のわたくしにとっては、遠い昔の微かな思い出に過ぎなくなってしまった気がする。だが、あの鬼は違う。最後に見たあの鬼の眼を、わたくしはなぜか忘れようとしても忘れきれぬ。真実、わたくし一人を心から愛してくれたのは、あの鬼だけ。そうではないか?」 継子は明子にそう問われても、長い間口を開かなかった。だが、やがて哀れみのこもった眼差しで顔を上げると、独り言のような小さな声で呟いた。「あの鬼が心底あなた様を想っておったのは本当でしょう」 そして、記憶の底をたどるように、継子は途切れ途切れに話し始めた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月27日
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継子はしばらく黙っていたが、やがて微かな声で呟いた。「そのようなことをお聞きして、どうなさるおつもりです?」「わたくしはもう一度あの鬼に会ってみたい」「とんでもない!」 継子は明子の肩を掴み、激しくゆすぶって言った。「鬼に会うなど、滅相もないことでございます。そんなことを、どうしてわたくしがおさせ出来ましょうか。何ということ。まだあの鬼に魅入られておられまするのか」「そうではない」 明子は継子の手を押さえ、優しく取り払いながら言った。「わたくしは正気じゃ。もう、誰に操られているわけではない。わたくしが鬼に会いたいと思うのは、わたくしの本心から出たこと」「なぜでございます。ようやくあの恐ろしい鬼から逃れられたというのに」「そう。あの鬼はいなくなった。だが、それからずっとわたくしの心は晴れなかった。胸が痛んでならなんだ。それがなぜだか、私にもずっとわからなかったのだけれど」「お止めくださりませ!」 継子は耳を押さえて悲鳴のような声を上げた。「襁褓(むつき)のうちからお育てしたあなた様をわたくしがどれほど愛しく思い、そのお方をあのおぞましい鬼に弄ばれて、わたくしがどれほど悲しみ苦しんだか、あなた様にはおわかりにはなりますまい。それなのに、ようやく取り戻したあなた様が、まさかあの鬼に御心を奪われてしまったとおっしゃるのではありますまいな」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月26日
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だが、明子は鬼の愛撫に我を忘れ、快楽に打ちのめされるばかりで、鬼に言葉を返すことはなかった。ただ、一度たりとも。 それがどれほど鬼を悲嘆に暮れさせたか、今の明子にはわかる気がした。鬼がこの染殿を去る間際に見せたあの眼だ。鬼は胸の想いを迸らせる金色の眼で、明子をじっと見つめながら涙を流していた。 鬼が泣くことなどありえるのだろうか。 あの時も、明子はその不思議さに目を離すことが出来なかっただけで、何一つ鬼に言葉をかけることはなかった。そして、ただ鬼をそのまま一人で去らせてしまった。 しかし、今やっと、あの時鬼のあの眼が確かに自分の胸を貫いていたことに、明子はようやく気がついたのだった。 急に、明子は立ち上がり、背後の御簾を掻き揚げて母屋の内に入った。そこには、乳母の継子が音も立てずに座って控えている。明子は継子を手招きすると、共に奥の塗籠の中に入り、扉を閉めて掛け金を掛けた。そして、暗がりの中で継子の耳に顔を寄せ、低い声で囁いた。「そなた、あの鬼の行方を知っておるか?」 継子は俄かに返事も出来ないらしい。無理もない。良房の態度を思えば当然だ。だが、明子の味方になってくれそうな者は、この継子以外には考えられない。明子はさらに声を押し殺して尋ねた。「心配することはない。ここでの話は、わたくしとそなただけの秘密。何かあっても責めはわたくしが負うから、何か知っていることがあったらわたくしに教えておくれ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月25日
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それは、あの鬼のことだ。 明子は決して鬼を憎み恐れていたのではなかったのである。 明子は思い出す。あの夢とも現実ともつかぬ混沌の中で、自分を抱きしめ愛撫を繰り返した鬼の姿。それは鬼というよりも、愛欲に狂いその重荷に耐えきれずに悲嘆に暮れた、ただの男の姿をしていた。その姿は、明子に切なさと哀憐の情を込み上げさせるものだった。 時折、雷光にひらめくように鬼の真実のおぞましい姿が見え、明子を怖じ恐れさせることもあったものの、その恐れは鬼の荒々しくも優しい愛撫に高められた官能にいつしか忘れ去られていった。 その感触は、今もまざまざと明子の中に残っている。いや、その肉体の快楽よりももっと明子を虜にしていたのは、ただ繰り返し繰り返し明子の耳に囁かれた鬼の言葉だった。 どれほど明子に魅せられ、どれほど深く愛しているか。そして、その胸の苦しみを訴え、明子の愛を乞う鬼は、いつも明子を息も詰まるほど抱きしめ、かすれた低い声を詰まらせながら囁いた。 あなたは、私のものだ。どうか、そうだと、私に言ってくだされ。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月23日
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でも、それでいいのだろうか……。 明子はふとそう考えて、思わず身を震わせた。それに気づいた良房は、明子を慰めるように言った。「嫌なことを思い出させてしまったようだな。すまなかった。御所へ戻るのは、そう急ぐ必要はない。まだ、気持ちが沈むようなら、しばらくどこかで養生してもいいのだ。ここに居れば、嫌でもいろいろと思い出すことがあろう。そうだ、嵯峨の別荘にでも行って静かに過ごせば、また気分も変わるやも知れぬ。その気になったら、継子にそう言えば良い。人目につかずに行啓できるよう計らってやる」 そう言うと、良房はそそくさと東の対から出て行った。良房も鬼のことを思い出し、それを一刻も早く忘れようとしたのかもしれない。明子はそんな良房の後姿が妻戸の向こうに消えると、また側の脇息に寄りかかって庭の雨を眺め始めた。だが、心は全く別の方へ向いていた。 良房は明子が鬼と自分の関係を恥じ、思い出したくもない記憶として嫌悪していると思っている。そして、恐ろしい鬼に苦しめられていた長く辛い生活から解き放たれて、今やっと心と身体の平安を取り戻したことを喜んでいると納得しているのだ。 だが、そうだろうか。 確かに鬼と共にいた間は、夢を見ているのか目覚めているのか、生きているのか死んでいるのかわからないような感覚に、明子はずっと翻弄されつづけてきた。鬼が去ってその奇妙な浮遊感がなくなってみると、身体は軽く頭はすっきりと澄んでいる。 それはおそらく、この染殿にあの恐ろしいにおいが充満し始めた少女の頃以来失われていた爽快感だった。それは明子に生きる活力を与え、未来に明るさと希望を見出させるはずだ。 だが、明子の心の方はそうはならなかった。それがなぜなのか、明子はずっと考えていたのだが、さっきの良房の言葉で明子はようやく自分の心の奥底に潜んでいるものに気づいたのだった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月20日
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「主上が、わたくしに会いたいと……」 明子は我が子の顔を思い出した。明子の脳裏に浮かんだのは、まだ幼くあどけない顔だ。 しかし、清和帝は今年十四歳になる。もうそろそろ元服しても良い歳なのだ。 我が子に長い間会っておらず、その顔を思い出すことすらほとんどなかった明子には、大人になった清和帝の顔など思い浮かべることが出来なかった。そのせいなのかどうかはわからなかったが、明子には何となく清和帝が霞の彼方にいる見知らぬ男のように思え、かつてその柔らかく丸い身体を抱きしめた時にいつも感じていた甘く切ない愛しさは、明子の中には涌いてこなかった。 そんな明子の胸中を知らずに、良房はようやく親子の対面を果たせる感慨に耽りながら言った。「そなたが正気に戻って本当に良かった。今のそなたなら、主上も何の不審もお持ちにはなるまい。長い間、そなたはまるで以前のそなたとは違ってしまっていた。それがどれほど私にはつらかったか。そなたに取り憑いて離れなかったあのおぞましい鬼のせいで……」 そこまで言って、良房は急に口を閉ざしてしまった。明子も袖の陰に顔を隠した。 明子と良房の間では、あの鬼の話は禁句になっている。もちろん、この染殿にいる他の者たちにとってもだ。ここでは、鬼と明子の関係は、最初からなかったことのように振舞われていた。 良房には、明子と鬼の浅ましい関係や鬼と睦み合う明子の淫らな姿を、現実のものとして受け入れることに耐えられなかったのだろう。あの鬼の存在をこの世から抹殺することだけが、良房にとっての唯一の救いだったに違いない。 良房はあの鬼について取りざたする者を容赦なく罰し、染殿はおろか京の都からも追放した。良房の凄まじい怒りを恐れて、今では誰一人鬼の噂を口にする者はいない。当事者である明子ですらも、良房の嘆きとかつての自分の浅ましい振る舞いを思って、口をつぐんでいた。 そうやって、鬼は明子の身辺から影も形もなくなっていった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月19日
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明子はいつも優しく気遣ってくれる良房の愛情が嬉しく、顔に微かな笑みを浮かべながら答えた。「いいえ、何も。父上様には、心配をおかけいたしました。でも、近頃は身体の具合も良く、健やかに過ごしております。ご安心くださりませ」 穏やかに微笑む明子の顔を見て、良房はこらえきれずに袖で涙を押さえながら言った。「そうか、そうか。いや、良かった。もうそなたの笑顔を二度と見ることは出来ぬかと、諦めかけておったのだが。そんな風に笑っていると、まるで昔に戻ったかのようじゃ」 そして、明子がまだ幼かった頃や文徳帝の後宮へ入った頃のことを、取りとめもなく話し出した。 明子はただ黙って微笑みながら、すっかり老人らしくなり同じ話を繰り返している良房を見つめていた。だが、やがてさすがに良房もそれに気づいたのか、少し照れたように笑って明子に言った。「いや、そなたの元気な顔を見られたのが嬉しくてな。つい長々と話し込んでしまった。今日はこんな話をしに来たのではなかったのだ」「何かわたくしに御用でも?」「今日はな、主上のところへ行ってきたのだよ。そなたの加減が良くなってきたと話したら、主上もたいそうそなたに会いたがられてな。もし差し障りがなければ、そろそろ御所へ戻ってはどうかと勧めに来たのだ」 そして、明子の両の手を取って言った。「また、そなたが御所へ戻る日が来ようとは。今まで長い間、どれほど主上が母君に会いたいと仰せられても、嘘や言い訳で誤魔化してきた。主上には可哀想なことをしたが、これでやっと心置きなくそなたに会わせて差し上げられる」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月17日
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相応の祈祷によって鬼が明子の元を去ったばかりのころは、明子も夢うつつから覚めたばかりのようにまだぼんやりしていた。 それを憂いた良房は、相応の警告通りすぐに怨霊を慰撫するための御霊会を催す準備を始めた。そして、その霊験が功を奏したのか、確かに御霊会から後は、明子の具合は目に見えて良くなっていったのである。 今まで長い間明子を恐れさせていたあの染殿のにおいは、もうどこにもしなかった。夜の闇の中で、奇怪な物怪に襲われることもない。おそらく、御霊会によって鎮魂された六柱の怨霊が、この染殿に居残っていた数多の怨霊たちも一緒に引き連れていってくれたのだろう。 明子はそれに心から安堵しつつも、幼い頃から慣れ親しんできたものがなくなったことに、心もとないような当惑を感じていた。そして、何か不吉な不安のようなものも、まだ明子の中に残っていた。 もしかしたら、経文の験力を恐れた御霊たちは、一時的に都を離れて身を潜めただけなのかも。そして、この都を睨むどこかで、手元に集めた雑多な怨霊たちと共に、いつの日かこの都にもっと大きな災いをもたらして見せると嘲笑っているのかもしれない。 明子にはなぜかそんな風に思えて、身体は健やかになったものの、心の方は重く塞いだままだった。 それに、なぜか胸が苦しい。何かが咳き上げてくるのを無理に胸元で抑えているような、そんな不可解な痛みだ。 それが何なのか明子にはわからず、ここ数日ただぼんやりと雨の庭を眺めて考え込んでいたのだが、良房はそんな明子の様子を乳母の継子から聞き、心配して機嫌を伺いに来てくれたのだろう。良房は明子の前にゆっくりと腰を下ろしながら言った。「少し気分が良くなったと聞いて安心したが、なぜそのように浮かぬ顔をしておる? 何か心配事でもあるのか?」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月16日
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本当に、ここ数日はまるで霧が晴れたように気分が良い。外のじめじめとした雨にも関わらず、明子の身体はまるで新緑の風が吹き抜けるように爽やかだった。こんな風に晴れ晴れとした心地がするのは、一体いつ以来のことだろうか。 明子が良房の顔を見上げて答えると、良房は少し涙を浮かべた目を細めて頷いた。「そうか。それは良かった。きっと、この間の神泉苑での御霊会の功徳が、そなたの加減にも及んでくれたのだろう」 貞観五年五月二十日に行われた最初の御霊会は、この年の正月以来猛威を揮っていた咳逆病の疫神を退散させるために、良房が中心となって催したものだった。 だが、良房の本当の狙いは別のところにある。良房は神泉苑に六つの祭壇を設けて花菓を供え、講師に迎えた慧達律師に金光明経一部と般若心経六巻を講じさせた。 供養したのは、祟道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂。相応が良房に告げた六柱の怨霊だ。いずれも藤原北家が己の権力を伸ばすために抹殺してきた者たちである。文屋宮田麻呂は他の五柱に比べて小粒だが、筑前守在任中に密貿易で得た巨万の富を狙った良房に謀反の罪をでっち上げられ、伊豆に流されて彼地でのたれ死んだ恨みはそう浅くはあるまい。 良房は仏典の読経の他、雅楽寮の伶人の音楽に合わせて、良家の中から特別に選んだ可愛らしい稚児に舞楽を舞わせたばかりか、雑技や散楽人まで招いて盛大に出し物を演じさせた。仏典の功徳で怨霊の怒りを鎮め、賑々しい楽や舞で慰撫するためである。 そして、さらに御霊会を盛大にするために、神泉苑の門を開いて都の庶民たちを招き入れ、それらのすべてを自由に見物させた。この良房が行った御霊会を観た民衆たちが、疫病の流行を防ぐために以後同じような御霊会を各地で行うようになり、それが現代の祇園祭へと受け継がれていくのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓祇園祭といえば、京都の八坂神社のものが有名ですね。残念ながら、私はまだ見に行ったことがありません。ものすごく人が多い!と聞いて、ちょっとびびっちゃったもので(^^ゞ。来月から始まるので、今年は頑張ってチャレンジしてみようかな。(この写真は八坂神社)
2008年06月13日
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梅雨の長雨が、染殿の庭の木々を濡らしている。 しめった緑の芳しい匂い。絶え間なく聞こえてくる微かな雨音。しっとりとした空気は重かったが、まだ夏の暑さを帯びてはおらず、かえって爽やかな潤いを肌に与えているような気がする。 明子は染殿の東の対の庇に座り、庭に降る雨を御簾越しに眺めていた。 つい十日ほど前に行われた神泉苑での御霊会以来、雨はずっと降り続いている。神泉苑の広大な池には、竜神が住むと言われていた。雨を呼ぶ竜神を、御霊会の賑わいが呼び覚ましてしまったのだろうか。 ゆっくりとした足音が近づいてくる。 明らかに父良房の足音なのだが、それが昔とは違ってずっと緩やかで少し引きずるようなのを、明子は寂しく聞いていた。 父は年老いた。あれほど精力と野心に溢れ、文武百官を率いていく気概に満ちていたものを。 だが、姿も心も老いてやつれた良房ではあったが、明子に対する愛情だけは未だに強く健在のようだ。あんなことがあった後も……。 隅の妻戸が開いて、良房が姿を現した。少し前かがみに折れた背を丸めてはいるが、深紫の袍をきちんと纏った姿には、まだ犯しがたい威厳がある。そっと頭を下げる明子に、良房は優しく声を掛けた。「様子はどうじゃな? 気分は良いか?」「はい」 明子は小さく呟いた。★注「神泉苑」…平安遷都と同時に大内裏のすぐ南に造営された、宴遊のための施設。当時は東西二町・南北四町(一町は120m四方)という広大な敷地を持ち、遷都以前の自然林を残す苑内には巨大な池や唐風の殿舎を配して、豪華な宴会を楽しむことができました。でも、時代が下るに従ってどんどん縮小され、現代ではとっても小さな庭園になっています。一度行ったことがあるので、ブログに載せる写真を探したんですが、どうやら写真を撮りづらい?くらい狭かったのか、一枚も撮影してませんでした~残念!↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月12日
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それを聞き逃さなかった基経が、相応に尋ねた。「どういうことでしょうか」 相応は腕組みをして基経を見つめていたが、やがておもむろに答えた。「わしの夢の中で、不動明王はもう一つ奇妙な話をなされたのだ。真済には六柱の御霊がついておる。それらが真済を操って、この世に災いをもたらそうとしていたというのだ。不動明王はその御霊の名もお教えくだされた」 驚いた良房は、目をぎらつかせて相応に詰め寄った。「御霊? それは一体何者だ」「祟道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂……そう聞けばおわかりだろうが、いずれも藤原北家に激しい怨念を抱くお方ばかりだ。彼らの御霊を鎮めるために、何か祓えでもした方がいいかも知れんな。真済は去っても、また他の災いをもたらさぬとも限らぬ」「それはなんとしたことだ。鬼どころか、そのような恐ろしい怨霊にまで狙われておるとは。明子や我らに何かあったら、また力を貸してくれるだろうな」 だが、相応は苦い笑いを浮かべて、良房と基経に答えた。「それは御免こうむる。京は人を賎しくするところ。修行の妨げになるから、もう当分は山を降りる気はござらん。西三条の大臣殿にも、そうお伝えくだされい」 そう言うと、相応はもう良房が止めるのも耳に入らぬかのように、重い足音をさせて去って行った。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月11日
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「不動明王は何と?」「わしは、これまで心より不動明王にお仕えしてきたのに、何ゆえわしから顔を背けお力をお貸しいただけぬのかと、つい恨み言を申し上げた。すると、不動明王はこうおっしゃったのだ。お前はよく仏に仕えてくれたし、今まで何の落ち度もない。本当なら力を貸してしかるべきなのだが、我ら仏には守らねばならぬ誓約がある。それは、一度ある相手にその者を加護するという本誓を与えたならば、いかなることがあろうともその者を加護し続けなければならないということだ。あの鬼の名は真済。かつては高尾神護寺にあって僧正の位にまで昇り詰めた高僧だ。私はかつてあの僧の修行振りに感じ入るところがあり、加護の本誓を与えてしまった。今は魔道に落ちて鬼に成り果てたとはいえ、一度与えた本誓は護らねばならぬ。だから、私にはあの鬼を調伏し焼き滅ぼすことは出来ぬ。しかし、大威徳明王ならば話は別だ。大威徳は怨敵調伏にもっとも強力な咒力を発揮する明王である上、真済には何の本誓も授けてはおられぬ。大威徳明王の咒をもって真済を調伏すれば、きっと染殿の后は鬼から解き放たれるはずだ。私からも大威徳明王にお前への加護を願ってやろう……。それで、わしは目を覚ましてすぐに山を降り、この染殿へ戻ってきたわけだ」 相応の話を聞き終わった良房と基経は、そろって顔を見合わせた。基経はなおも何やら考えているようだったが、良房はほっと安堵の吐息をついて呟いた。「なるほど、そういうことであったか。だが、これで明子も真済から逃れることが出来た。もう安心だな」 だが、相応はそんな良房を皮肉な横目で眺めながら呟いた。「いや、それはどうかな」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月09日
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「でも」 険悪な雰囲気になってきた良房と相応を宥めるように、基経は二人に向かって穏やかに微笑むと、少し声を張り上げて言った。「とにかく……どういう経緯があってそうなったかはわからぬものの、葛城上人に変じた真済が、この染殿で垣間見た后の美しさに虜となり、煩悩に狂って愛欲の鬼となった、ということでしょうか。葛城上人は単なる仮の姿だから、その前身が真済であることを暴かない限り、調伏で縛ることが出来なかったわけですな。では、和尚がそれをお知りになった仔細をお話くださいませんか」 相応は仏頂面だったが、笑顔の基経には食いつくわけにいかない。「そうだな。不動明王からお聞きしたことを、話しておいた方がよいかも知れぬ」 そう言って、相応はしぶしぶこのたびの祈祷のあらましを話し始めた。「先日初めてこの染殿で祈祷した時のことだ。いつものように、わしが不動明王の真言を唱えると、わしの祈りに応じて不動明王がおいでになった。そなたらには見えぬかも知れぬがな、確かに炉に立ち上った炎の中にお姿が現れたのだ。ところが、鬼を調伏してくださるよう何度祈っても、お聞き届けくださらない。それどころか、わしが祈れば祈るほど、顔を背けて後ろを向いてしまわれる。こんなことは、わしが不動明王を感得してから初めてだ。それで、これは何かおかしいと思って、一旦この染殿から去り、比叡山に戻った」「それで、どうしたのです?」「わしは潔斎の後、無動寺に一人で篭って、もう一度祈祷してみた。無動寺に安置している不動明王の御像は、わしが葛川の三の滝で生身の不動明王を感得した際、明王から直々に賜ったもの。この御像の前で祈祷すれば、もっと強い験力を貸していただけるかもと思ったのでな。だが、何度祈っても同じことだった。わしが西へ座せば東を向かれ、東へ座を移せば今度は西を向いてしまわれる。これにはほとほと困り果て、わしは疲れていつの間にか御像の前で眠ってしまったらしい。その夢に不動明王がお立ちになった」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月06日
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丁寧な基経の申し出に、さすがの相応も立ち上がりかけた腰を再び下ろして言った。「ご不審なこととは、何でござるかな」 基経は怜悧な顔に薄い微笑を浮かべて言った。「何ゆえ御坊は、染殿の后に憑いた鬼の正体が真済であることがおわかりになりました?」 それを聞いて、良房も明子に気を取られてそれをつい失念していたことを思い出した。「そうだ。まさか、明子に取り憑いていたのがあの真済であったとは、思いも寄らなかった。確かに、真済なら明子をはじめ、恐れ多くも今上に対しても、含むところが大いにあるだろう。だが、真済はもうずっと昔、今上と惟喬親王の位争いに敗れて姿を消し、それ以後の行方を知る者はいない。それに、真済は僧正にまでなった高僧。まさか、浅ましくも鬼に成り果てるとは考えられぬ」 基経も頷いて言った。「我らはあの鬼の正体を、以前この染殿へ召して祈祷を行わせた葛城上人という怪しげな祈祷師ではないかと思っていたのですよ」 だが、相応は二人にあっさりと言った。「その葛城上人の正体こそ、あの真済だったのでござるよ」「まさか。私は以前何度か真済とは会ったことがあるが、いかにも涼やかで端正な高僧といった姿で、あの卑しく猛々しい葛城上人とは似ても似つかなかった」 そう言って不審げに相応を睨む良房に、相応はふんと鼻を鳴らして言った。「そんなことは、わしの知ったことではない。ただ、不動明王がわしにあの鬼の正体を教えてくだされた。それが正しかった証拠に、わしが正体を暴露したとたん、あれほど堅く取り憑いていた鬼が、染殿の后から離れたではないか」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月05日
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相応は大儀そうに、基経にすすめられた脇息にもたれ掛かっていたが、良房の言葉に頷くと野太い声で言った。「ならば、水を一口所望しよう」 そして、基経が明子の寝間から持ってきた瑠璃椀の中の水を一気に飲み干すと、口元を汚い袖で拭いながら言った。「ああ、美味い。疲れも癒えたようだ。染殿の后も落ち着いたようだし、これでもう用はなかろう。わしはこれから比叡山へ戻らせてもらう」「まさか、このような夜更けに山へ戻るなどと。そなたは我が娘の恩人だ。この染殿でどれだけでも寛いで行かれよ」「いや、長い間立たされておったので腰が痛い。こういう時は歩き回るのが一番だ。それに、京に長くいると俗気に当てられて気分が悪くなる。このような華美な館の中は特にな」 その皮肉で無礼な言い方に良房はむっとしたが、それでも辞を低くして相応に言った。「そう言われずに、しばらくここに滞在なされてはいかがか。母君が快癒なされて、帝もさぞかしお喜びになろう。いずれは私から推挙して、和尚に僧都の位を賜るよう帝に願い出るつもりなのだから」「わしのような田舎者の下賎な坊主が、僧都になどなってもどうしようもござるまい」 相応はぶっきらぼうに良房の言を遮った。そして、良房が引き止めるのを振り切って、席を立っていこうとした。それを見かねたのか、基経が相応の前に出て、慇懃な口調で言った。「わかりました。和尚のお好きなようになされませ。比叡山には、後でこちらから礼物を届けさせましょう。和尚に必要なければ、下仕えの僧にでも御下賜くだされば良い。それよりも、此度の祈祷にはいろいろと不思議なことがござりますれば、後学のためにお教え願いたい」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月03日
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鬼が去った後も、相応は真言を唱え続け、良房も基経も呆然として身動き一つ出来なかった。明子はいつの間にか簀子にまたぐったりと伏している。 相応は長い間真言を呟き続けていたが、ようやく鬼が遠くへ去ったことを見極めたらしく、俄かに唱えるのを止めた。そして、終日立ち続けの祈祷に疲れ果てたのか、音を立ててその場に座り込んだ。 その音に、ようやく良房らも我に返った。良房はとにかく倒れ伏している明子に取り縋って、その身を抱き起こした。明子は気を失っているようだったが、息遣いも安らかで頬にも紅色が戻っていた。側で乳母の継子が、袖で目を覆って泣いている。 良房は自ら明子を抱き上げて御簾の内に入り、帳台の中へ寝かせて綿入れの衾で身体を覆ってやった。髪を撫でながらその顔を見ると、幼い頃のあどけない面影が甦るようで思わず涙が込み上げてくる。良房は幼女を寝かせつけるようにしばらくその額髪を撫でていたが、やがて明子の世話を継子に任せると帳台を出た。 明子の寝間から出ると、何事にも如才ない基経が、疲れた相応を助け起こして庇の間に招き入れ、すでに懇ろに労をねぎらっていた。良房は相応の前に腰を下ろすと、深々と頭を下げて言った。「明子は安らかに眠っておる。明子に取り憑いていた鬼も、今度こそ明子から離れてどこかへ行ってしまったようだ。すべてはそなたのおかげ。心から感謝しておる。望みがあれば、何なりと聞き届けよう。遠慮なく申すが良い」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年06月02日
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