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駿河麻呂は思わず声を荒げて叫んだ。老僧はますます肩を落して俯いている。駿河麻呂は嗚咽に喉を詰まらせながら呟いた。「わしは仏など信じておらぬ。その仏のおわすという浄土もな。この世もあの世も、全ては漆黒の闇。生きようが死のうが、どこまで行っても永遠に救いなど訪れはしないのだ」 長い沈黙の時が流れる。だが、やがて老僧はゆっくりと顔を上げて駿河麻呂を見つめると、潤んだような哀しい目をして言った。「そなたの怒り、世の民人の苦しみ。知らぬわけではない」 老僧は弱々しく、溜め息混じりの囁きを続ける。「確かに、この世は罪にまみれ汚辱に満ちた穢土じゃ。だが、それはそなたら民人のせいではない。全ては人の上に立つ者の罪咎だ。この国が旱魃にみまわれ飢饉が起こるのも、大地震や悪疫で多くの人命が失われるのも、みな政を司る者の体たらくに天がお怒りになったため。飢えた貧しい大勢の民人が、追い詰められて罪を犯し牢獄に繋がれるのも、彼らを守り安んじることの出来ない朝廷の罪じゃ。野辺の民人だけでなく、都に住まう貴族たちに争いの絶えないのも同じこと」 老僧は夜半の寒さか暗闇への恐れか、小刻みに身を震わせている。「この都は、政争に敗れ罪なくして命を落した者たちの怨霊で満ちておる。それから逃れようとこの都を離れ、安住の地を求めてどこまでも彷徨い歩いたところで、彼らはいつまでも我等の後を追い、決して離れることも許すこともないのだ。紫香楽宮(注1)が地震と山火事で崩壊してしまったのも無理はない」注1…聖武帝が恭仁宮に続いて遷都を試みたところ。結局、人臣の反対や天災のため計画は頓挫し、聖武帝は平城京へ戻ることになった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月27日
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駿河麻呂は息を弾ませながら、老僧を睨みつけていた。老僧はしばらく駿河麻呂の顔を見つめていたが、やがてがっくりと肩を落し、掠れた声で呟いた。「そうか、そうであったか。身分の高い者も低い者も、共に一枝の草、一把の土を持ち寄ってこの毘盧遮那仏を造り、共にこの世の罪穢れを払い国を富ましめんと願ったつもりが。民人に無用の枷をはめ、苦悩の底に突き落としたと申すか」 打ちひしがれたような老僧にも構わず、駿河麻呂は厳しい声音で言った。「そうだ。わしの家にはついこの間まで一人の老爺が伏しておった。長年仏造りの鋳師として身を粉にして働き、この仏を造るために両足まで失ってしまった。だが、都の役人どもはこの仏のせいで死にかけた老爺を労うこともなく、畜生のように河原へ捨てよと命じたそうじゃ。死の穢れが出ては、大事な行幸や法会に支障が出るからと言ってな。それだけでも、この仏がいかに呪われておるかわかるだろう」 老僧は駿河麻呂の話に衝撃を受けたようで、その高貴な白い顔を哀しげに歪めて俯いた。だが、駿河麻呂には老僧を慰める気などない。さらに、語気を強めて言い募った。「この仏のことだけではない。この国の有様の、いかに醜く汚れておることか。わしの生まれた里は貧しいところだった。皆、昼は泥にまみれて働き通し、夜は冷たい土間に伏して震えて過ごす。天災や流行病が起これば、人の命など塵のように軽い。だが、上に立つ者は租や庸(注1)をよこせというばかりで、誰一人助けようとはしてくれなかった。そればかりではない。娶ったばかりの妻と幸せに暮らしておったわしの弟は、防人に取られて死んだ。弟と引き離された妻は、今は落ちぶれ果てて場末の娼館で身を売っておる。それが、地下(ぢげ…注2)の庶民の現実だ。わしとてそれは同じこと。もう、この世などうんざりだ。この国など、もうなくなってしまえばいい!」注1…当時の税金。租は田んぼに掛けられたもの、庸は主に成人男性が負わされていたもので京での労役の代わりにその地の産物(布や塩など)を納入するもの。注2…宮中に仕える高位高官以外の人々。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月26日
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老僧は駿河麻呂には全く気づかず、毘盧遮那仏を伏し拝みながら長い間経文を唱えていた。だが、やがて声も枯れ果てたとでも言うように咳き込むと、痩せ細った身を捩って御仏の膝元に擦り寄り、しわがれた声を振り絞って叫んだ。「南無毘盧遮那仏。我を、我が国をお救いくださりませ」 それは聞くものの心を締め付けるような悲痛な叫びだった。だが、駿河麻呂はそれを聞いても眉一つ動かさなかった。いや、むしろ腹の底から怒りが込み上げてきたといった方が良いかもしれない。頭に血がのぼった駿河麻呂は、我知らず高御座の影から走り出て、老僧に向かって鋭い言葉を投げつけていた。「何が、毘盧遮那仏だ。そんなものにどれほど祈ったとて、この世に救いなど訪れるものか」 老僧は駿河麻呂の声に驚いて後ろを振り返った。暗闇の中に朧に浮かび上がっているその顔は、駿河麻呂には見覚えのないものだった。青白い頬はこけ、微かに光る眼は疲れたように澱んで見える。驚きのあまり無言の老僧にも構わず、駿河麻呂は冥い声音でまくし立てた。「この仏を造るために、どれほど多くの民の血税が費やされたか。どれほど多くの人夫が故郷から無理矢理連れてこられ、苛酷な労働を強いられたことか。お前たちのような、豊かな立場にある者は考えたこともあるまい。大仏建立の詔が出されてからこの方、多くの人夫や工人が病に倒れ、大した治療も施されずに死んでいった。鋳造の火や鍍金の毒にやられて、命を失った者もいる。その犠牲者は百人や二百人どころではないのだ。この仏はな、そういった者たちの屍の上に座し、そんな民人の呪いで出来たものだ。そんなものにどれほど祈ってみても、誰一人救われはしない」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月25日
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駿河麻呂が手に持った油壷を造花の山に投げつけようとした、その瞬間だった。 駿河麻呂の耳にうめくような微かな声が飛び込んできた。 誰かいる。 駿河麻呂はぞっとして、油壷を手に持ったままその場から動けなくなった。 その声は、目のずっと先の、毘盧遮那仏の膝元の暗闇の中から聞こえてくるようだ。 駿河麻呂は息を殺して様子をうかがった。声は時折途切れながらも、細い波のように続いている。だが、よくよく耳を澄ませてみると、それはしわがれたひどく弱々しい囁きだった。 おそらく老人だ。騒ぎ立てるようなら、殺(や)ってしまえばいい。どうせ大仏殿を覆う火が後始末をつけてくれる。 放火の興奮に目を血走らせた駿河麻呂は、そっと油壷と火打石を床に置くと、懐の刀子に手をやりながら毘盧遮那仏の方へと近づいていった。高御座の一つに身を寄せ、その蔭からそっと前方を覗き見る。 暗闇に目が慣れてくると、果たして毘盧遮那仏の前にひれ伏しているのは一人の老僧のようだった。黒っぽい僧衣のようなものを身につけ、剃った頭が薄っすらと闇に浮かんでいる。 老僧は細い身体を小刻みに震わせながら、わき目もふらずに一心に経文を唱えていた。その声は弱々しいながらも、どこか犯しがたい威厳のようなものがある。 この東大寺の高僧の中の誰かだろうか。それにしても、こんな夜更けにたった一人で、一体何のつもりだろう。 不審に思った駿河麻呂は、なおも目を凝らして老僧を見守り続けた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月24日
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月も星もない。 昼間の開眼供養の間は、盛大な儀式を寿ぐかのように晴れ渡っていた空も、夕方に入ってからは俄かに暗い雲がかかってきた。丑の刻を過ぎた今も、空には一点の輝きもなく、澱んだような闇に覆われている。 駿河麻呂は側に植わっていた大きな松の木を伝うと、大仏殿を取り囲む築地塀を乗り越え、そっと前庭の隅に降り立った。 視界の先には、大仏殿の巨大な暗い影が、夜目に恐ろしいほどに重々しく鎮まっている。駿河麻呂は足音を忍ばせてその影に近づいていこうとしたが、人影に気づいて慌てて歩みを止めた。 暗闇で目を凝らしてみると、大仏殿の階の隅に男が二人、蹲るようにして座っている。身なりからして、衛士か何かか。 駿河麻呂はちっと舌打ちした。だが、足音を殺しながら少しずつ近づいてみると、どうやら衛士たちは夜の闇にまぎれてうたた寝しているようだ。 駿河麻呂は腰につけた二つの大きな油壷が触れ合って音がしないように気をつけながら、衛士とは反対側の階の端をゆっくりと昇った。そして、軋ませないように細心の注意を払いながら扉を薄く開けると、するりと身体をかわして、大仏殿の中に音もなく滑り入った。 大仏殿の中は暗く、開眼供養に使われた道具や飾りの一切が、取り敢えず所狭しと押し入れられている。目の前に、蓮の花を象った美しい造花が、階や柱から取り払われて山と積まれていた。 駿河麻呂は緊張のあまり唇をわななかせながら、腰につけた油壷と火打石を取り外した。震える手で油壷を手に取り、もう一方の手で火打石を握り締める。 この造花の山に火をつければ、瞬く間にあたりに燃え広がり、すぐにこの大仏殿全体が炎に包まれるだろう。 駿河麻呂の端正な顔が、まるで悪鬼のように醜く歪んだ。 何もかも、この世から消え失せてしまうがいい。この身と共に……。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓大仏殿の中に飾ってあった創建当時の東大寺の模型。今とはずいぶん様子が違っていますね。
2008年12月22日
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黄金の巨大な毘盧遮那仏。皆が賛嘆と憧れを込めて仰ぎ、救いを求めてその膝下に祈る尊い御仏。 だが駿河麻呂には、その毘盧遮那仏が吐き気を催すほど醜悪に見えた。 ただその巨大さと絢爛さを誇るだけの、異形の構造物。そこには、人間の卑しい欲望や嫉妬や怨念といったありとあらゆる醜いものが、もう嫌になるほど練り込まれ鋳込まれている。 そして、駿河麻呂には、そんな仏に頭を垂れ経文を唱えて祈る目の前の者たち、自分以外のここにいる者たち全てが、耐えがたいほど愚かに思えた。いや、今ここにこうしている自分自身の存在すら、もはやこれ以上耐えがたい。 いつもの冥い痛みが、駿河麻呂の胸にこれまでになく激しく込み上げてきた。駿河麻呂は思わず息を詰まらせて、きつく胸を押さえた。首筋に冷や汗が滲み、眩暈で目の前が霞む。吐き気が込み上げ、足元すらおぼつかなくなった。駿河麻呂はその場に倒れまいと懸命に足を踏ん張ったが、胸の痛みは魂までも食い尽くそうとするかのように激しく駿河麻呂を翻弄する。 そのあまりの痛みに、駿河麻呂の意識がふと遠のこうとした刹那、耳元で小さく囁く声を聞いたような気がした。 この痛みを、少しでも癒すすべがあるならば……。 その囁きは、駿河麻呂をその場に踏みとどまらせた。そして、そのまま大仏殿を凝視し続けた駿河麻呂の胸には、いつしか一つの決心が灯っていた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月19日
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先を争うように手を伸ばし、ほんの少しでも縷に触れようとしている人々の背後で、駿河麻呂は無表情のまま佇んでいた。 美しい五色の縷には見向きもしない。ただ、人々の波に埋もれながら、厳しい目を開眼供養に集う人々に投げかけていた。 末席にいる駿河麻呂からは、遥か遠くにおわす尊い御三方の姿などほとんど見えない。賛嘆を込めた百官たちのどよめきも、厳かで尊い読経の響きも、まるで別世界のことのようだった。駿河麻呂から少し離れた前方で、周囲の人々とにこやかに会話を交わしている国公麻呂さえ、今の駿河麻呂には疎ましく思える。 この地上の楽土のような開眼供養会の、何という豪奢な美しさ。そう思う駿河麻呂の冥い目の裏側に、あの五色の縷の切れ端を握り締め、河原で家畜のように哀れに死んでいった石嶋の顔がよぎる。 駿河麻呂はその苦痛から逃れるかのように首を振り、人波の向こうの大仏殿へと目を移した。 大仏殿の二層目の中央には、丈の低い窓が三つほど開いている。その奥に、毘盧遮那仏の御顔の金色の輝きが、仄かに見て取れるような気がした。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月18日
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東大寺の毘盧遮那仏開眼供養は、孝謙女帝、聖武太上天皇、光明皇太后の行幸のもと、天平勝宝四年四月九日に盛大に執り行われた。 大仏殿は五色の幔幕に覆われ、色とりどりの造花で飾られている。 柔らかな春の微風に美しい繍幡がはためいている前庭には、すでに礼服、朝服を身につけた文武百官が居並んでいた。 錦に彩られた豪華な壇と高御座には、開眼導師のインド僧菩提僊那と、華厳経購読講師の隆尊律師。各国から選りすぐりの高僧の周囲には、数え切れないほど大勢の僧侶が付き従っている。 やがて、孝謙女帝らが前庭に姿を現され、布板殿に着座なされた。 開眼導師の菩提僊那が、五色の縷の結ばれた筆を取り、厳かに開眼式を始める。筆から長く伸びた縷は、毘盧遮那仏との結縁を願う女帝はじめ、参列の多くの人々の手にしっかりと握られていた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓これは、東大寺の回廊に飾られていた、昭和の大修理が終わった際の法要の写真。きっと最初の開眼供養の時もこんな感じだったんだろうな~と思って、カメラにおさめてきました。(写真の写真で、見づらくてすみません^^;)
2008年12月17日
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駿河麻呂は痩せ衰えた石嶋の両の手を取り、握られていた五色の糸ともども胸の上で組み合わせた。そして、石嶋の手に自分の手を重ね合わせたまま俯いていた。 その手の上に生暖かい水のようなものが滴り落ちる。初めて見る駿河麻呂の涙に、石嶋は少し驚いたように目を見張っていたが、やがて穏やかな微笑を浮かべて駿河麻呂に言った。「誰も恨むな。誰かを、何かを恨んだとて、何も変わりはしない。ただ、空しさや哀しさがいや増すだけじゃ。それより、あの空でも見ていた方がええ。朝の来ない夜はない。ほら、少し明るくなってきたかの。もうすぐ夜が明けるようじゃ」 駿河麻呂は空を見上げ、首を廻らして東の方を眺めた。だが、辺りはまだ漆黒の闇に包まれ、三笠山の山の端には夜明けの青白い光の影すらない。「爺、夜明けはまだ先だ。何を言って……」 石嶋の方へ目を戻した駿河麻呂は、そう言い掛けたまま動けなくなった。石嶋は目を閉じてこときれていた。その口元に仄かな微笑を浮かべたまま。 駿河麻呂は長い間、頬に落ちる涙を拭おうともせず、石嶋の顔を見つめていた。穏やかな石嶋の死に顔とは対照的に、駿河麻呂の顔は次第に青ざめ、醜く歪んでいった。 長い時が過ぎた後、駿河麻呂は手指の爪がはげるのも構わずに堅い河原の土を掘ると、その穴の中に石嶋の亡骸を丁寧に葬った。そして、もはや後ろを振り向きもせず、無言のまま暗い河原を出て行った。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓奈良公園から望む若草山と、妙にくつろいでいる(笑)鹿の図。遠くに見える木の生えてない緑の低い山が若草山。昔はこの山を三笠山と呼んでいました。この山のような低くふっくらとした形から、関西ではどら焼のことを「三笠焼き」などと呼ぶそうな…。見晴らしが良いらしいので、一度登ってみたいものです♪
2008年12月15日
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石嶋は駿河麻呂の目の前で、差し伸べた手を開いてみせた。そこには、五色の太い糸の切れ端があった。「これはな、いつも世話をしてくれているあの若い坊さんが、この河原へ運ばれる前にわしに握らせてくれたものじゃ。毘盧遮那仏の開眼供養の時、皆が結縁を願うために手にとる縷(る)を、こっそり少し切り取って来たといってな。これを握っておれば、開眼供養においでになる尊い方々と共に、わしも御仏のおわす浄土へ行けるそうじゃよ。お前は大仏師様のお供で、開眼供養にも参列するだろう。その時には、お前もこの糸を握り、御仏に祈っておくれ。わしがすみやかに、浄土へ導かれるようにな」 石嶋は穏やかに笑ってみせた。だが、駿河麻呂は鋭い口調で言った。「何が毘盧遮那仏だ。あんなものに祈ったとて、浄土へなどいけるものか。いや、浄土など、そもそもあるわけがない。わしは仏など信じてはおらぬ。そんなものがいるのなら、なぜこの世はこれほどまでに冥(くら)く穢れているのだ? なぜ、瀕死の者を犬畜生のようにこんな河原へ捨て去るような非道が行なわれる? それも、尊い御仏の慈悲を説く僧侶の手で、御仏の開眼の祝いのために。本当に御仏がいるのなら、こんなことを御仏が許すはずがない!」 駿河麻呂は唇を噛み締め、両の拳を握り締めた。そんな駿河麻呂を、石嶋は細く開けられた目でしばらく見つめていたが、やがて静かに言った。「わしを哀れんでくれるのは嬉しいよ。だが、わしにとってはもうこの世のことは過ぎたこと。あの世へもう片足突っ込んだ今となっては、ただ少しばかり懐かしいような気がするだけじゃ。さあ、わしの手を合掌させてくれ。もう自分では動かせぬ。そして、わしを静かに逝かせておくれ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月12日
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「何を言う! 弱気になるな。わしが爺を死なせはしない。坊主どもがまたくどくど言ったら、わしが黙らせてやる」「そうではない」 石嶋はふっと目を細めて、空を見上げるよう駿河麻呂を促した。駿河麻呂が頭を廻らすと、月明かりのない夜空には、冴え冴えとした数限りない星々が瞬いている。その清らかな光を見上げながら、石嶋は呟いた。「あれを見よ。天の国の何と美しいことか。それに引き比べて、この地上は暗く澱んだ闇に満ちておる。人が死んだらどこにいくのか、わしは知らぬ。だが、そこがどこであっても、この人の世の穢土よりはましじゃろうよ。先程夢の中で見た川向こうの世界は、あの星々のような白く清らかな光で満ちておった。きっと、坊さんたちのいう浄土というのも、あんな風に光輝くところなんじゃろう。わしはもう疲れた。そろそろこの穢土を離れて、御仏の待つという浄土へ行くのも悪くはあるまい」 そして、石嶋は弱った手を駿河麻呂の方に差し伸べながら言った。「わしには、もうずっと昔、息子が一人おってな。まだ十歳にもならぬ前に、流行り病であっけなく死んだが、もし生きていたとしたらお前くらいの年恰好になっていただろう。お前を見るたびに、わしは息子のことを思い出しておった。無口で、人付き合いに不器用で。息子とお前はどこか似ていた。それで、いつもお前のことが気になってな。怪我をした時にも、つい甘えてしまった。長い間、お前にはえらい厄介をかけた。どうか許してくれ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月11日
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小半時ほど走り回った後だろうか。駿河麻呂の耳に微かなうめき声が聞こえた。 振り向いた駿河麻呂の松明の先にぼんやりと照らし出されたのは、葦群れの蔭の粗末な筵の上に横たわる石嶋の痩せ衰えた顔だった。駿河麻呂は側の土の上に松明を突き立てると、急いで石嶋を掻き起こしてその口元に顔を寄せた。まだ、息がある。駿河麻呂は石嶋をゆすぶりながら、耳元で叫んだ。「爺、しっかりせい。わしじゃ、駿河麻呂だ」 その声に気がついたのか、石嶋はやがてゆっくりと目を開けた。定まらぬ視線が駿河麻呂を見止めると、微かな微笑と共におどけたような掠れ声が洩れた。「何じゃ、駿河麻呂か。せっかく良いところだったのに、無粋なことを。大勢の麗しい天女に手を引かれて、あの世の川を渡ろうとしていたのじゃが、お前の声で呼び戻されてしもうた」 駿河麻呂は石嶋の声に心底安堵しながらも、口では叱り付けるように言った。「また、馬鹿なことを。もう少しで死んでしまうところだったではないか。こんなに夜露に濡れて。身体も冷え切っている。さあ、わしの背におぶさってくれ。家へ帰ろう」 だが、石嶋は微かに首を振った。「無駄じゃよ。わしはもう数刻も持たぬ。それより、このままここで静かに死なせてくれ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月10日
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「それで、石嶋の爺をどこへやった?」「お役人がもうほとんど死にかけておるから早々に捨てよとおっしゃるので、我らが荷車に載せて佐保川の河原へ運びました。ここを出る時には、熱が高くてあまり意識もないようでしたので……今頃は、もう……」 消え入るような老僧の言葉を最後まで聞かずに、駿河麻呂は僧坊の扉を叩きつけるようにして閉じると走り出した。 迂闊だった……。暗い後悔の念が胸を噛む。 今朝掘っ立て小屋を出る時、石嶋は熱が高くひどく弱って見えた。だが、心配する駿河麻呂に石嶋は微かに笑って、自分は大丈夫だからと駿河麻呂を送り出した。 もちろん、駿河麻呂は出来るだけ素早く仕事を済ませて家に戻るつもりだったのだが、あの兄弟子へのつまらぬあてつけから、つい堅香子のところへ行ってしまったなんて。もし家へ戻っていたのなら、役人の手に渡らぬように、そっと寺から運び出すことが出来ただろうに。だが、今は爺を何とか探し出すことが先決だ。もしかしたら、まだ生きているかも知れぬ。 駿河麻呂は松明に火をつけると、それを持って河原へ走った。今宵は月もなく、わずかな星明りの他は真っ暗闇だった。駿河麻呂は松明の火の粉を振りまきながら、暗い河原を必死になって探し回った。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月09日
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低い石の階を駆け登ると、駿河麻呂は乱暴に僧坊の扉を叩いた。 しんと静まり返った東大寺中に、夜の闇を破るような大きな物音がこだまする。扉の内側からぶつぶつ不平を言う声が聞こえてきたが、駿河麻呂は構わず扉を叩き続けた。やがて、扉が薄く開き、中から老いた僧侶が顔を出す。「こんな夜中に何用かな」 駿河麻呂は老僧の胸倉を掴まんばかりにして詰め寄ると、大声で叫んだ。「石嶋の爺はどうした? どこへやったのだ?」 老僧ははっとしたように後ろを振り返ると、背後から怖々覗いていた年若い僧に言った。「お前、まだ伝えておらなんだのか?」 いつも石嶋の世話をしてもらっていたその若い僧は、駿河麻呂の剣幕にますますおののきながら小声で呟いた。「お伝えしようと、何度も寺中を探し回ったのですよ。でも、どこにもおられなくて……」「どういうことだ?」 掠れた声で駿河麻呂が問うと、老僧は気まずそうな表情で俯いた。「夕方に、都から大勢役人が来ましてな。寺のお偉方と何やら話し合いながら、一緒に寺の方々を見回っておいででした。その時、あの石嶋の老爺を見咎められたのですよ。明日は帝御一行の行幸があるというのに、今にも死にそうな者を寺域内に置いておるとは何事かと。もし、老爺が死んで穢れが出れば、尊い大仏の開眼供養などしばらく出来ようはずはございませぬ。すぐに取り片付けよと、大変なお怒りで……」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月08日
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駿河麻呂は堅香子の方へそっと手を伸ばし、額に張り付いた乱れ髪を掻き揚げてやった。 黄ばんだようなしなびた額は、かつての眩しい白さと艶やかさをすっかり失っている。指を触れると少し熱もあるようだった。 この女もそう長くはあるまい。 そう思った時、駿河麻呂の心の中に、いつもの冥い痛みとは違う、奇妙な痛みが満ちてきた。それはまるで、乙麻呂が今ここにいたのなら感じたであろうと思われるような、胸を引き裂かれるような哀しみとただひたすら抱きしめたくなるような激しいいとおしさだった。 駿河麻呂はまるで死んだ乙麻呂が自分に乗り移ってきたような気がした。いや、それはもしかしたら、駿河麻呂自身の心の底から湧きあがってきた真実の感情だったのかもしれない。 堅香子は無言の駿河麻呂に焦れたのか、さらに強く腕にしがみつきながら言った。「ねえ、何か話をしておくれ」 駿河麻呂は優しく堅香子の髪を撫でながら囁いた。「お前が、好きだ……」 堅香子は落ち窪んだ目を閉じたまま、にっこりと微笑んだ。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月05日
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駿河麻呂と乙麻呂は兄弟といっても、見た目も性格もまるで違っている。他人からは兄弟だというのが訝しがられるほどだった。だが、堅香子がいうには、低い少し掠れたその声だけはそっくりなのだという。「ねえ、何か話しておくれよぅ……」 堅香子はまたそう囁いた。駿河麻呂は急に咳き上げるように堅香子が哀れになった。 堅香子は物心ついた時からずっと乙麻呂と一緒だった。乙麻呂を慕い、乙麻呂だけを支えに生きてきたのだ。未来は常に乙麻呂と共にあり、たとえ兄の駿河麻呂であろうとも乙麻呂の代わりにはなれない。そのような存在を失ってしまったならば、堅香子のような女がどうして生きていけるだろうか。 乙麻呂の死は、すなわち堅香子自身の死だった。だが、その衝撃とその後堅香子を襲った忌まわしい運命は、堅香子から生きる力どころか死ぬ気力すら奪ってしまったようだった。堅香子の心はいまや屍であり、身体がそんな心に追いつくまで、堅香子はただ漫然と生き続けることしか出来なかったのである。 おそらく、堅香子にとって男は乙麻呂だけ。駿河麻呂のことなど愛してはいない。むしろ、駿河麻呂に逢うたびに乙麻呂を失った苦しみが思い出され、その愛する夫の実の兄と関係を持つことは恐ろしい裏切りであると感じていたことだろう。 だが、堅香子にはもう駿河麻呂しか残されていなかった。その肉体がこの世に別れを告げる日まで、堅香子は駿河麻呂に縋って僅かな慰めを得、少しでも苦しみから逃れようとしていたのだと思う。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月04日
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そんな堅香子が、駿河麻呂にはただひたすら苛立たしく憎らしく思えた。 生きようとも、死のうともせず、ただ緩慢な死が訪れるのを黙って待っている。 なぜ、己の力で何とか生きていこうとしない? せめてなぜ、わしに縋って、自分をこの娼館から助け出してくれと頼まない? いや、そうやってわしの前にただその惨めな姿を曝し続けるだけなら、いっそその梁にでも首を括って死んでしまった方が楽になるだろうが? 駿河麻呂は堅香子にそう言ってやりたかった。 だが、心の底ではそんな堅香子に共感していたのかも知れない。二人はどこか似ていた。だから、駿河麻呂は堅香子を憎みつつ、どうしても離れることが出来なかったのだ。「何か、話をして」 腕の中の堅香子が呟いた。いつの間に目を覚ましたのか、寄り添っていた身体をさらに摺り寄せ、甘えたように駿河麻呂の腕にしがみついて揺すっている。 だが、目は閉じたままだ。いつものことだと思いながら、駿河麻呂は言った。「わしは喋るのは好きじゃない。それに、近頃は面白いこともないから、何も話すことがない」「面白い話じゃなくてもいい。何でもいいから……」 堅香子の元に通い始めた頃、堅香子に急にそう言われて、駿河麻呂は戸惑ったものだ。なぜ話などさせたがるのだろう。駿河麻呂は口下手だ。人が聞きたがるような面白い話など出来るわけがない。 それを不思議に思っていた駿河麻呂は、ある時堅香子に聞いてみた。堅香子は黙っていたが、しばらくするとぽつりと言った。「声が……似ているから」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月03日
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だが、不思議なことに、自分を貶めれば貶めるほど、駿河麻呂は奇妙な安堵感を覚えた。 落ちるところまで落ちてしまえば、あとはもう冥い絶望の底で漂っているだけだ。自分の辛い運命を嘆くことも、儚い望みを抱いてもがき続けることも、もはやない。 そこには一種の静寂があった。 それは堅香子の方も同じだったのかもしれない。 堅香子は文句も言わずに毎日多くの客を取り、そのせいかだんだん弱っていく身体にもまるで頓着しなかった。男に求められるままにどのようにも身体を開き、娼婦らしい振る舞いをすることで自分をわざと貶めている風すらあった。 それに、誰かに力を借りて、ここから救われようとも思っていないようだった。 先程、兄弟子は駿河麻呂が金も力もない男だと嘲笑ったが、今の駿河麻呂には僅かながら蓄えもあるし、駿河麻呂を気に入っている公麻呂に頼めば相当の借金も申し込めるだろう。もし、堅香子が望むなら、その身を娼館から請け出してやることも出来るのだ。 だが、堅香子は自分からは決してそんな話はせず、駿河麻呂が仄めかしても首を振るだけだった。そして、ただ火が消えていくように痩せ衰えていった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月02日
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激しい鼓動が収まると同時に、苦い記憶も兄弟子の嘲る声も遠くへ去っていったようだった。 駿河麻呂はあお向けに横たわり、片腕を枕にして天井を見上げながら、あの女官のことを考えていた。 もしかしたら、自分はあの女への腹いせのために、堅香子を甚振っているのかもしれない。 堅香子を荒々しく扱えば扱うほど、駿河麻呂は強い征服感と激しい快楽を得ることが出来た。まるで、あの高慢な女を思うさま辱めてでもいるような気がして、かつて傷つけられた心の傷が癒されていたのだろう。 いや、本当にそうだろうか? ふといつもの胸の痛みが甦ってきて、駿河麻呂は少し身を起こすと堅香子を見た。堅香子は駿河麻呂のもう一方の腕に寄り添うようにして眠っている。その乱れ髪のかかるやつれた顔を見るたびに、駿河麻呂はいらいらさせられた。 もしかしたら、自分はこの女そのものを憎んでいるのではないか? 駿河麻呂は堅香子に会うたびに、弟の乙麻呂のことを思い出した。懐かしいただ一つの心安らぐ思い出と、その唯一の拠り所が永遠に失われてしまったことの痛みが、いつまでも駿河麻呂を苛み苦しめる。 その上、駿河麻呂には、その弟が愛した女がこんな場末の娼館で、弟以外の男に身を売っていることが許せなかった。 そして、弟の面影を踏み躙り侮辱することだとわかっていながら、その女を買い続けている自分自身を、何より嫌悪していたのかもしれない。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年12月01日
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