2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全8件 (8件中 1-8件目)
1

だが、その頃には、駿河麻呂はもはやすっかり心を凍らせ、誰に何を言われようとまるで意に介さない態度を身につけていた。 ただ、与えられた仕事をきちんとこなし、公麻呂を満足させるだけの実績を上げ、日々の糧を得られる程度の収入を得られればそれで良い。師匠への尊敬の強制や仲間同士のくだらぬ付き合いなど、真っ平御免だ。 それに、駿河麻呂には妻も子もいない。もう三十歳も半ばを過ぎているというのに、一度も持ったことがないのだ。いや、持ちたいとも思わない。一人でいるのが一番自由で気楽だ。今までずっとそう思ってきた。 だが、自分でも理解できないことに、駿河麻呂には時折どうしようもなく空しく、やるせない気持ちが襲ってくることがあった。まるで、胸を万力でぐいぐい押しつぶされていくような、重く耐え難いほどの痛みだ。 さっき、黄昏の光に仄かに輝く毘盧遮那仏を見上げた時、その痛みがまたふいに駿河麻呂の胸に沸き上がってきた。それを無理に押さえて大仏殿を出て、今日はもう何も考えずに家で寝てしまおうと思ったのだが、痛みは次第に重さを増し凶暴なうねりとなって胸の中で暴れ狂おうとしている。 そんな風に心がささくれ立って居たたまれなくなると、駿河麻呂の足が自然に向かってしまうある場所があった。 駿河麻呂は一刻も早くそこへ辿り着こうと焦るように、土埃の上がる都大路を足早に駆け出していった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年08月12日
コメント(2)

しかしながら、それは駿河麻呂にとっては自分が思っていた以上の幸運だったのかもしれない。 駿河麻呂が平城京へ移って間もなく、時の天皇である聖武帝が鎮護国家のための大仏建立を発願された。 都中の仏師がそのために集められ、最初は紫香楽宮に、後には平城京東端の現在の地に移って、巨大な毘盧遮那仏と東大寺の一大伽藍が建造されることになったのだが、駿河麻呂はそこで大仏建造の責任者である国公麻呂から引き抜かれたのである。公麻呂は駿河麻呂が東大寺の造仏所でこしらえた小さな誕生仏をいたく気に入り、駿河麻呂の師匠に乞うて自分の手元に引き取ってくれたのだ。 公麻呂はさすがに大仏師と呼ばれるだけあって、素晴らしい技量を持つ寛容な人物だったから、仏師としてその膝下で学ぶことはたいそう多かった。それに、駿河麻呂は常に公麻呂の側に仕え、多忙な公麻呂に代わって様々な雑用や連絡にも飛び回らなければならず、忙しさのあまり以前の師匠や弟子たちとの交わりも自然に絶たれてしまっていた。 だが、それは彼らには裏切りとも高慢とも取られたらしい。 大恩ある師匠を見限って、権力者に媚びへつらった変節漢。大仏師のお気に入りを鼻にかけて、昔の仲間など見向きもしない男。 駿河麻呂への罵りの囁きは、いつしか造東大寺司中に広まっていき、駿河麻呂は前にも増して孤立するようになった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓こちらは、大仏殿の中に展示されていた創建当時の東大寺の模型。今はない東西の塔があります。大仏殿の形もずいぶん違っていますね。(奈良時代の大仏殿は今よりかなり幅広だったんです)
2008年08月11日
コメント(0)

それでも、物覚えの良い駿河麻呂は瞬く間に仏像造りの技術を学び取り、生来の器用さもあって、すぐに他の弟子たちの技量を追い抜いてしまった。 だが、それは他の弟子たちにとって面白かろうはずもない。師匠が自分の見込んだ駿河麻呂の腕前に満足して褒めれば褒めるほど、他の弟子たちの嫉妬もますます激しくなった。駿河麻呂はいつも弟子たちの嘲笑や中傷に曝され、せっかく作り上げた仏像を傷つけられたり壊されたりしたことも一度や二度ではない。 そして、元々無口で無愛想な方だった駿河麻呂は、ますます自分の殻に閉じ篭るようになり、やがてすっかり心を閉ざして誰とも口を利かなくなってしまったのである。 せめて師匠だけでも頼りになれば良かったのだが、仏像造りの腕前こそそこそこだったものの、師匠は駿河麻呂が必死になって考えた仏像の工夫を、自分の思い付きだといって横取りするような人物だった。 駿河麻呂はだんだん仏師というものに失望していった。 だが、駿河麻呂にはもはや仏師になる以外の道もない。それで、師匠が駿河の寺での仕事を終えて奈良の都に帰る時にも、結局一緒に付いていくしかなかったのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年08月09日
コメント(2)

ところが、ある日突然その機会が巡ってきた。 その頃、駿河麻呂の里を南に下った山辺に、大きな寺が建てられようとしていた。そこに安置する仏像を造りに来た都の仏師が、駿河麻呂に弟子にならないかと誘いに来たのだ。 駿河麻呂は子供の頃から手先が器用だった。それで、幼い弟のおもちゃにと、小さな鳥や獣の木彫り人形をよく作ってやっていた。 両手で目を覆いながら指の隙間でこちらを窺っている猿、舌を垂らした口元がまるでにやりと笑っているかのように見える犬。奇妙な姿であればあるほど弟が喜ぶので、駿河麻呂は暇を見つけてはそんな工夫を凝らした人形を作っていたのだが、やがて里の子供たちまでがそれを欲しがるようになった。 こんな人形でも、売れば里人は僅かな米や菜を置いていってくれる。それで、駿河麻呂は弟が成長してもはやそんなおもちゃを欲しがらない年になっても作り続けていたのだが、仏師はその人形の一つをどこかで目に留めたらしい。 駿河麻呂にとってはまたとない機会だ。その頃まだ十歳をいくつか過ぎたばかりだった弟もしきりに勧めるので、駿河麻呂はついに家を出て仏師の門に入ったのだった。 だが、それからの生活も、駿河麻呂にとっては決して楽なものではなかった。 二十歳を過ぎて弟子入りするなど普通はありえないから、子供の頃から共に修行を積んできた他の弟子たちと上手く行くはずはない。親しく近づいてくる者はおろか、話し掛けてくれる者すら誰一人としていなかった。 それに、弟子になったとはいえ、師匠も兄弟子も親切に手を取って仏像造りを教えてくれるわけではない。駿河麻呂は下働きをしながら、ただ黙々と師匠や弟子たちの作業を眺め、勝手にその技を盗み取る他なかったのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年08月08日
コメント(0)

耕すべき田もなく、頼りになる身内もなかった駿河麻呂は、もはやただ飢え死にする他なかったのだが、それを見かねた隣家の女が仕事を世話してくれた。里のはずれに郡司殿の懇田(注)があり、そこで田作りをしてくれる農夫を幾人か探しているという。 駿河麻呂は喜んで、昼間は女に幾ばくかの礼を払うという約束で幼い弟を預け、その懇田で働くことができるようになったのだが、果たしてそれは良かったのかどうか。 懇田での生活はひどいものだった。夜明けから日暮れまで、ただひたすら泥にまみれて田を這い回る日々。奴婢同然、いや、まるで牛馬のような扱いだった。 父が死んだ時、あのまま弟と共にのたれ死んだ方がましだったかもしれない。 それに、毎日倒れ伏すまで働いても、もらえるものはごく僅か。隣の家では満足に食わせてもらえない弟が飢えて泣くので、駿河麻呂は疲れ果てた身体を引き摺って、夜中まで近くの川で魚を釣ったり野辺に獣の罠を仕掛けたりしたものだった。 駿河麻呂は何とかそんなきつい生活から抜け出したかった。 ここから逃れられるのなら、何でもする。仕事なんて、何だって構いやしない。 だが、そう簡単に機会があるはずもなく、結局駿河麻呂は二十歳を過ぎるまでそんな生活をしていたのだった。★注「懇田」…新しく開墾した農地のこと。東大寺大仏開眼供養の9年前(743年)には、自分で農地を開発すればそれを自分の物として私有しても良いという法律(懇田永年私財法)が発布されていた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年08月07日
コメント(0)

だが、駿河麻呂と呼ばれた男は、返事も振り向きもせぬまま、広い大仏殿の階を降りて行く。不満げに見送る工人に、別の工人が囁いた。「ほおっておけ。あいつはいつもああだ。わしらなんぞの下っ端仏工とは付き合わぬとよ。ちっ、いい気になりやがって」 そんな囁きが聞こえているのかいないのか、駿河麻呂はその端正な顔の眉一つ動かしはしない。ついにその全貌を現した神々しい毘盧遮那仏を一目見ようと、大仏殿へ押し寄せる数多の工人や僧たちの流れに逆らうように、大仏殿の中門を抜けて外に出る。そして、東大寺の西の門から平城京の中へ入って行った。 大きな寺や民家が整然と建ち並ぶ外京の通りを歩きながら、駿河麻呂は考える。 何が尊い御仏だ。あんなもの、ただ土くれを捏ねて、その上に銅を流し込んで固めただけではないか。 駿河麻呂はいらただしげにぺっと道端に唾を吐くと、肩の布袋を乱暴に音を立てて担ぎ直した。仏師にとって命であるはずのその工具さえも、駿河麻呂はまるで頓着しない。 仏師だなんだといったって、桶やかわらけ土器を作る職人と何の変わりがある? それに、そもそもなりたくてなった仏師ではない。 駿河麻呂はその名の示す通り駿河の生まれで、元はただの農民だった。 国府の近くの貧しい小さな里の出で、母は弟が生まれた時に難産で死んだ。父は河の堤が破れて大水が出た際に、痩せた僅かの田と共に流された。 その時まだ十三歳だった駿河麻呂は、幼い弟を抱えて孤児の身になってしまったのだ。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓現在の東大寺大仏殿。大仏様と同じく、こちらも何度か戦火で焼け落ち、現在の建物は江戸時代の再建です。びっくりするほど大きな建物ですが、実は創建当時の大仏殿の方が今のものより大きかったとか!
2008年08月06日
コメント(0)

黄昏の柔らかな光が、暗い堂宇の中に満ちていた。 その黄金の輝きは、夕映えの最後の名残なのだろうか。それとも、穏やかな御顔から射し出づる浄土の光か。 ほんのり輝く豊かな頬、しっかりと結ばれた口元。薄っすらと半眼に閉じられた目が、深い慈愛を湛えながら人々を見下ろしていた。 どこからともなく、賛嘆の溜め息が聞こえる。 腕組みをして巨大な毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の姿を拝していた造東大寺司長官の国公麻呂(くにのきみまろ)が、傍らに立っていた大鋳師の高市真国(たけちのまくに)に向かって呟いた。「とうとう出来上がったな。それにしても美しい御顔ではないか。これなら太上天皇(注)にもお喜びいただけよう」 公麻呂は満足げに頷きながら、また大仏の御顔を見上げた。その周りに集っていた者たちも一人残らず、同じく酔ったような目で御顔を眺め、互いに囁きを交わしている。 いや、隅の作業台の側にいた男だけは違ったようだ。 男は台の上に広げられていた図面を一人で黙々と片付けると、工具や刀子を傍らの布袋に詰めて肩に担ぎ、わき目もふらずに大仏殿を出て行こうとしている。その姿を見止めた一人の工人が、男を呼び止めるように言った。「おい、駿河麻呂。もう帰るのか。ろくに御仏の顔も拝んでおらぬではないか。それに、これから祝いの酒も出るそうだぞ」★注「太上天皇」…天皇の位を下りられた方のこと。この場合は、聖武帝をさす。東大寺の大仏の発願者である聖武帝は、この頃すでに譲位・出家して、帝位は娘の孝謙女帝にあった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓こちらが、現在の東大寺の大仏様。何度も戦火にあっている(首が落ちちゃったことも!)ので、現在の御顔は創建当時のものとはだいぶん違っているのかもしれませんね。
2008年08月04日
コメント(2)

他の作品の投稿スケジュールの関係上、その時特に応募先を考えていなかったこの作品は、真ん中辺りまで書いたところで一年近くほったらかしにされていました。 その後、日本ホラー大賞に応募しようとしていろいろ書き直してみたものの、全然怖くならなくて挫折…。(私にはホラーのセンスがないことも、よ~くわかりました…涙) そして、若干和風ファンタジーの要素を加味して、日本ファンタジーノベル大賞に応募しました。結果は惨敗…第一次審査にも通りませんでした(T_T) 敗因は山ほどあると思いますが、その一つは作品を書き始めた時のテンションを、最後まで維持できなかったこと。書き始めた時のわくわく感や書きたい欲望が、途中で中断したことでなくなってしまったんですね。やっぱり、一気に書き上げたものの方が勢いがあって、出来も良くなるような気がします。 それから、この作品を書いていた頃は、わかりやすさということをあまり意識していませんでした。特に、この作品は「露野」のすぐ後に書き始めたこともあり、「露野」と重複する話はついつい省いてしまっています。でも、作品自体は独立したものですからね。初めて読む人にもちゃんとわかるよう、たとえ自分にとっては自明のことであっても、きちんと説明することが大事……なんてことは、つい最近思い知りましたよっ(泣)!(←遅いっ!)<次回からの連載のお知らせ>タイトル:『光明遍照』 奈良・東大寺の毘盧遮那仏の開眼前夜、その建立に関わった名もなき人々の愛憎を描きます。タイトルの「光明遍照」とは、毘盧遮那(サンスクリット語の「ヴァイローチャナ」)の意訳。御仏の救いの光は、全ての人間を隈なく照らしている…という意味です。果たして、運命に翻弄される庶民たちに救いは訪れるのか……。 奈良時代を舞台とした小説を書くのは、私にとってはこの作品が初めてでした。今回は、80枚程度の短編です。気軽に読めると思いますので、よろしかったらどうぞおつき合いくださいませm(__)m↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2008年08月01日
コメント(4)
全8件 (8件中 1-8件目)
1

![]()
![]()