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能季は驚いて兵藤太の顔を見上げた。 兵藤太が母の話をするのは初めてだった。 それまでは能季が何を聞いても、美しい人だったとか、優しい方だったとか、ただ通り一遍のことを言うだけだったから。 兵藤太は能季には目を向けずに、静かに話し続ける。「私は若君の母上の乳母子(めのとご)として生まれ育ちました。ごく幼い時は、本当の兄妹だと思っていた。私は可愛らしい妹がいつも自慢で、あの方も私を兄と慕ってくれました。それが、いつの頃から変わってしまったのか」 兵藤太の眉が苦渋に歪(ゆが)む。「私は、いつしかあの方と一緒にいるのが苦しくなった。本当の兄妹ではない。でも、身分があまりにも違いすぎる。あの方にとっては、私は兄どころかただの家臣に過ぎないのだと。そうどれほど自分に言い聞かせても、あのお方を愛しく思う心を押し留めることができない。それがどれほど苦しかったか。いっそ、昔話の芥川(あくたがわ)の男のように、あのお方を背負って、どこか遠くへ逃げてしまおうかと、何度もそう決心しかけました。でも、私にはどうしてもできなかった。君恩あるあのお方の父君の藤原親時様を裏切ることはできない、乳母である我が母は私の不義を嘆いて命を絶つのではないかと」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2016年07月30日
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兵藤太は夜風に揺れる灯火を見つめながら呟いた。「道雅の言ったことも、道雅の本心ではございますまい。あの男がそれに気づいていたのかいなかったのかは知りませぬが。当子内親王様が亡くなってこの世からいなくなってしまえば、憎しみと共にその裏にあるものも消えたとあの男は言いましたが、それならばなぜ斉子女王様へあれほど執着する必要がありましょうか。当子内親王様への愛がなくなったのなら、その方への執着も消えるはず。でも、そうではなかった。あの男は結局最期まで、当子様への想いだけは捨て去ることができなかったのでしょう」「人を喰らうような羅刹(らせつ)であっても、やはりただ一人の女人への想いからだけは逃れることはできなかったと?」「まことに、恋とは恐ろしいものでございます。一人の男の運命を弄(もてあそ)び、支配し、永劫(えいごう)の檻(おり)の中へ閉じ込めてしまう。どれほど、そこから逃れようともがいても、いっそそれを打ち壊してしまおうとしても、決してその檻から出ることはできない」 兵藤太はふらりと立ち上がると、能季から少し離れた釣殿の欄干(らんかん)に手をついて空を見上げた。 煌々(こうこう)と輝く淡い月光が、兵藤太の端正な横顔を照らしている。 兵藤太は視線を能季の方へ戻すことなく、空を見上げたまま言った。「若君は、御母上のことを覚えておられまするか」「まさか。母上は私がまだ赤子の時に亡くなった」「私は覚えております。共にわが母の胸で甘えていた幼子の頃のことも、一緒に花を摘んだり庭を駆けたりした童の頃のことも。髪を額で振り分けた愛らしい衵(あこめ)姿も、裳着の式の時に垣間見た天女のような麗しい姿も、尼そぎの髪に縁取られたあの美しい死に顔さえ……何一つ忘れたことはございませぬ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2016年07月15日
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「だが、あの怨霊はあれほどの悲惨な目に合い、ひどく道雅を恨んでいたではないか。その憎しみが錘(おもり)となって、何十年もあの大宮川に縛り付けられてしまうほどに。それでも、道雅を愛していたと?」「憎いということは、同時に愛してもいるということ。人間は愛していればこそ、その裏側に強い憎しみを抱くこともございます。でも、あの道雅も言ったように、それらは所詮表裏一体。どちらも元は同じところから生え出たものにすぎませぬ。己が求めていたのは、道雅への復讐ではない……そのことに、あの怨霊は気づいたのでございましょう。ようやく道雅の魂を手にした、その時に」「だから、道雅を一緒にあの水底へ連れて行ったのだと?」「はい。愛と相対するものは憎しみではなく、何の関心もない、ということでございますれば。愛すればこそ、あの怨霊は道雅と離れることができなかったのでしょう」 能季は自分の痛む胸にやっていた手を眺めた。 斉子女王を殺したいと思うほどの胸の痛みも、よく眺めてみれば、それは決して斉子女王が自分のものにならないから憎いということだけではない。 それよりももっと深いところに、もっと強い想いがある。 それは、ただ斉子女王と一緒にいたいという焼け付くような熱望だった。 誰かを愛しいと思い、その存在を抱き締め、ただ永遠に側にいて共に慈しみ合いたい。 それは人が誰しも持つ本質な望みであろう。 たとえ、その裏側に胸をえぐるような憎しみがあったとしても。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2016年07月08日
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そう思った瞬間、能季は己の浅ましさに、思わず両手で顔を覆ってしまった。 この私も、所詮はあの食人鬼……羅刹と同じではないか。「若君、いかがなさいました」 気がつくと、すぐ傍らの几帳の上に、長身の兵藤太の顔が覗いていた。 片手に小さな燭台(しょくだい)を持っている。どうやら、わざわざ明かりをつけに来てくれたようだ。 兵藤太は釣殿の軒下燈篭(のきしたとうろう)の幾つかに火をつけ、小さな燭台は能季の傍らに置いた。そして、すぐ近くに腰を下ろしながら、労(ねぎら)うように優しく言った。「大宮川で師実様がお倒れになって以来、いろんなことがありましたな。今はただお疲れでございましょう。何も考えず、ゆっくりお休みなされませ」 能季は兵藤太の心遣いがありがたかった。 だが、胸の痛みは治まらず、むしろ次第に強まっていく。 能季は思わず、うめくように呟いた。「あの怨霊は、なぜ道雅の命を捻(ひね)り潰し、地獄へ落としてしまわなかったのだろう。あの男は人でなしだ。救いを与える価値などありはしない。それに、あれほど苦しい思いをし、ようやく手に入った命なのに」 兵藤太はしばらく能季の顔を見つめていたが、やがて静かな声音で言った。「それは、あの怨霊が道雅を愛していたからでございましょう」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2016年07月05日
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