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ベネディクト派の修道士ドン・ペリニョンが、本職を忘れて、ビン内二次発酵を考え付くなんて、どういうこっちゃー。お前は、沢庵おしょうかー。
欽ちゃんと一緒にやってみたのかー。
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」かー。
でも、発酵だから、
「菌ちゃんのドンとやってみよう!」
じゃないのかー。
ピン子とやったら、
「ピンちゃんのドンとやってみよう!」
で、
略して、
「ピン・ドン」
なのかー。
飲みすぎて、
「ドンちゃん騒ぎ」
したのかー。
魔法使いチャッピーのパンダかー。
ひっくりかえって、
「ちゃんドン」ゴンかー。
「アーナーターガー、スッキダッカラァー」
なのかー。
キムチつくるのかー。
お前は、沢庵おしょうかー。

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2011年03月04日
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カテゴリ: ワイン

高貴な実験(The Noble Experiment)

国家禁酒法 ボルステッド法 (Volstead Act)と呼ばれるのは、提案者とされる当時の下院司法委員長アンドリュー・ボルステッド(Andrew Volstead:ミネソタ州出身)にちなんでいる。

「少しでも酔わせる酒(アルコール0.5%以上)を製造しない。売らない。物々交換しない。輸送しない。輸入しない。輸出しない。届けない。提供しない。」と規定した。しかし、摂取すること、酔うことを禁止していない。

1919年1月16日から1933年12月5日まで、アメリカ合衆国憲法修正第18条(Amendment XVIII)下において施行された。修正第18条と、修正条項を実施するための法律の国家禁酒法を区別せず単に「禁酒法」と呼ばれることが多い。

禁酒法制定前のアメリカでは、禁酒法推進派は「ドライ」と呼ばれた。しかし、ドライの中でも、完全禁酒派は「ボーン・ドライ」と呼ばれ、営利目的の酒類の製造・販売・搬送のみを禁止する一派は「モイスト」呼ばれた。一方、反禁酒支持派は「ウェット」と呼ばれた。

議会における両派の数は接近していたが制定には、1917年4月、ドイツに宣戦布告(第一次世界大戦)した影響が大きかった。ドイツの無制限潜水艦作戦はアメリカ市民の大きな怒りを買い、参戦へ向けてナショナリズムはあおられ、反ドイツの風潮が高まっていた。

ウエット陣営の主要勢力がドイツ系アメリカ人であったことから発言力が低下したばかりか、禁酒イコール反ドイツとして、ドライ陣営の勢力が増していったという背景がある。ワイン醸造家などの酒造あるいは酒販業界はドイツ移民系が多かった。

しかし禁酒法施行時にはすでに第一次世界大戦は終結していた。

法がアルコールの摂取を禁止していなかったために多くの人は禁止法施行前に自身の飲用のためにワインと酒を買い溜めした。いずれ、もぐり酒屋に移行するのだが、最初からバーやクラブも閉店するところはほとんどなかった。

ワイナリーやブローカーによっては大量に貯蔵した。流通は禁止されていたはずだが、アメリカ政府が強く取り締まることはなかった。密売も横行した。

法では「家庭において酔わないワインとリンゴ酒を国産の果実で作ることが許可(200ガロンまで)」されていて、さらに「少しでも酔わせる酒のアルコール0.5%以上」の規定がすぐに削除されたため、家庭でのワイン醸造と飲酒は問題なくなり(黙認され)、市場を生んだ。

当時、「アリカンテ・ブーシェ(Alicante Bouschet)」という黒ブドウは果肉まで赤い品種で素人でも醸造しやすく、果皮の丈夫さから輸送にも向いていたため西海岸で大量に植えられた。ワイン好適種(高級品質)のブドウ園は維持されることなく転作、放置あるいは売却された。

ワイナリーも閉鎖、廃業した。一部、礼拝(ミサ)用、医療用ワインの生産許可を得たワイナリーや、大学などが研究目的で細々と醸造を続けたが、アメリカのワイン業界は壊滅した。(ベリンジャーは礼拝用の免許、カリフォルニア大学デービス校において研究)

しかし禁酒法により、清楚で品行方正な社会は生まれなかった。

禁じられた物への誘惑により、もぐり酒場が大盛況となり、酔っ払いとアル中患者が街にあふれた。不正、不道徳、暴力と犯罪が蔓延した。アメリカは結託したギャングと警察と政治家の天国となった。彼らがつかんだのがこの時代のアメリカンドリームである。禁酒法の捜査官たちさえ一人残らず買収されていた。

次代ウォーレン・ハーディング第29代大統領(Warren Gamaliel Harding:在職1921年~1923年)でさえ、自分の酒蔵を常に外国産の酒で満たしていたという。

禁酒法を「高貴な実験(The Noble Experiment)」などと呼んだのは、ハーバート・フーヴァー第31代大統領(Herbert Clark Hoover:在職1929年~1933年)だが、彼は、ウィルソン大統領下で食糧庁長官だった男である。彼は、このザル法について、法律の実施は困難だが廃止するには及ばないと結論を出した。

確かにアメリカは好景気が続いていた。しかし1929年のウォール街の株価大暴落に端を発した金融恐慌で税収不足におちいった。そして不景気により人々は飲酒を控えるようになったのである。こんな皮肉な話があるだろうか。禁酒法によって酒が飲まれ、酒が飲まれなくなって禁酒法は終焉をむかえるのである。アンタッチャブル(手出不可能:買収不可能)はこのころから活躍する。

アル・カポネ(Alphonse Gabriel Capone)は言った。「誰も法律で喉の渇きはいやせない」

エリオット・ネス(Eliot Ness)は言った。「我々はシカゴを干上がらせた」

もはや、何が「ドライ」で何が「ウエット」か分からなくなっていた。

1933年、第32代大統領に当選したルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:在職1933年~1945年)が公約通り禁酒法の廃止を宣言した(当選後すぐにカポネの子分に暗殺されそうになる)。

禁酒条項を無効とするアメリカ合衆国憲法修正第21条(Amendment XXI)が採択され禁酒法は抹消された。その頃、カポネは囚人85号としてアルカトラズ刑務所に収監されていた。梅毒で痴呆となり風呂場の掃除係だった。

アメリカのブドウ栽培者とワイン醸造者は、自らの復帰(ルネッサンス)を賭け、たった3年後の1936年、アメリカワイン品質基準の制定にこぎつけた。ワイン用のブドウは植えてから3年程しないと収穫は望めないにもかかわらずである。1936年はフランスの原産地統制名称(AOC)の翌年である。

ギャング組織は逆に一時的には衰退したが、こちらも麻薬取り引きなどに商売変えして立ち直っていった。

乾杯






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最終更新日  2011年03月04日 11時29分39秒
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