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最近、ネット(主に、Facebook)のなかにつぎのようなメッセージが頻繁に出てくる。 データの空き容量が非常に低下してきています。空き容量を増やすには、Windowsえらーを修復する必要があります。 そのほかに、「ウイルスに感染しています」という単刀直入的なものまである。これらは最近はやりの「偽ウイルスソフト」というもので、これをクリックすると本格的に感染したり、そこで勧められる「対策ソフト」なるものを購入すると、以後自動的にクレジットカードなどから自動引落しされる仕組みになっている。僕も、この勝手に現れる不法者を退治しようといろいろ試みたが、まだ完全にはクリアできていない。これを完全に退治するにはOSの再インストールしかないようだ。しかし、この感染経路が不明のままではクリーンにしてもまた再感染ということがあり得る。さて、どうしたものか…。ネットで調べたところ、つぎのようなことに注意する必要があるとのことだ。最初に心得ておく注意点■常に新しい偽ツールが出現している。 ・最新のウイルス対策ソフトでも検出されないよう工夫して感染・攻撃して来る ・感染当日にウイルススキャンで検出・駆除するのは無理。 ・感染後の挙動や駆除方法は、この4~5年大きな変化は無い(しかしウイルスの進化で大きく変わる可能性も場合アリ)。•この手の偽ツールは、感染初期ならば個人情報を流出させる機能は含まれない場合が多い。ただし偽ツール上でクレジットカードの入力を求めてくるので注意。•キーロガーが入っている事もある。余計な文字入力は行わない。•あれこれPC触っていると、ウイルスの破壊活動が広がる。•タスクマネージャー他、Windowsの管理メニューは起動不能になっている。 ・偽ツールの終了も出来なくなっている。 ・偽ツールが起動している間は、極力何もしない事。 (リセットボタンを押し、セーフモードで起動し直すのがイチバン)•偽ツールの[scan] [repair] [check]などのボタンをクリックすると、本格的な破壊活動が始まる。 ・破壊活動の結果、HDDに深刻なダメージが加わる。 ・またPCにセキュリティホールを開き、外部の不正なWebサイトと通信を行う。 (ここまで来ると個人情報を流出させる危険性があるかも)•このページの情報を全部試す位なら、HDDをフォーマットしてWindowsを再インストールした方が楽な場合も多い。一番効率の良い方法: 1~2日何もしない(つまり、PCを使わない)ウイルスに感染した = その時点でのウイルス定義パターンでは検出できなかったという事になる。なので「ウイルスに感染した」と解った時点で何も操作せずPCをシャットダウンし、数日待つ。1~2日経つとウイルス定義のアップデートでウイルス駆除可能になっている場合が多い。そこで駆除するのが一番楽。・クレジットカードで不審な引き落としが無いか確認する。・サブPCを持っている場合は、インターネットで利用している各種サービスのパスワードを変更しておく。(念のため)・PCのウイルス駆除は、後回しにしておく(電源入れない) などなどあるようだが、ネットのなかにもさまざまな対策法が書かれているから、ご参考に。ただ、僕もやってみて根治はなかなか難しいと感じた。どなたか、良い知恵をお持ちの方がおられたらヘルプミー。蝶々蝶々
2013.09.28
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「あまちゃん」と「半沢直樹」。もう言うまでも無く社会現象にまでなっているテレビ番組だ。たぶんこの時代を象徴する番組として語り継がれることになるだろう。恥ずかしながら(…でもないか)僕も毎朝観ていた。半沢は録画したものを夜中に観ていた。この番組もそろそろ終わりということで、ちょっと気どった感想をと思っていたら、「楽天」→「Facebook」仲間の西條剛央さんが、見事に比較論を書いておられた。それをチャッカリ紹介してしまおう。 【「あまちゃん」と「半沢直樹」の比較論】 西條剛央この2大巨頭を比べ論じるというタブー?をあえておかしてみたいと思う。 嫁さんは、「半沢直樹」の最終回をみた後に、「半沢直樹は“怨みハラスメント”で、あまちゃんは“愛情はぐくみメント”かもね」とうまいこと本質観取していた。たしかにそれも当たっている気がする。 * 二つとも俯瞰すればコメディドラマだと思うのだが、 僕なりに言い直せば、 「半沢直樹」は“正義と怨みハラスメントを基調とした劇画風コメディドラマ”であり、 「あまちゃん」は、“愛によりそれぞれにかかっていた呪いが成仏する愛嬌ドラマ”だ。 「半沢直樹」は父親を殺された仇を討つ、怨みを晴らす物語ということもできる。最後は出向になったが、あれだけの公の場で怒りに震える宿敵を這いつくばらせたんだから個人的な怨みは晴らしたといえよう。そしてあまちゃんに通底しているのは、すべての登場人物に対する“愛”だ。へんなひとはたくさん出てくるがすべてのキャラを愛でる視点がある。たとえば、ひどいこといわれても、「うええ」と泣いたり、「なんだこのやろー!」と怒っても、倍返しだとかはいわない。ただ、ひでーと怒り、酷く傷つけられたことを悲しむ。 家を出て、鈴鹿ひろみの影武者させられたあげく、夏ばっぱに「おめーだれだ、けえってくんな」といわれた天野春子は「もういい!」とひどく傷ついて25年ほど帰ってこなかった。そんなひどいことを言ってしまった夏ばっぱ自身も同じように傷ついていた。その天野春子に、「地味で暗くて向上心も協調性も存在感も個性も華もないパッとしない女の子」といわれて育った天野あきも傷ついていた。 自分が音痴だったばかりにアイドルを夢見て状況してきた天野春子に影武者をさせてしまい夢を奪ってしまったことを知り、鈴鹿ひろみも傷ついた。影武者を仕組んだ太巻きも傷ついた。 父親が倒れ、母親がいなくなり、あこがれの東京にもいけず、太巻きにも会えず、アイドルの道をあきらめてユイちゃんも深く傷ついた。ひそかにあきちゃんを慕っていたとおもわれるみずたくも、こはくを評価されないべんさんも、考えてみれば誰もが傷つきながらも笑っていた。そして東日本大震災が起こり、みんなが深く傷ついた。それでも誰一人、倍返しだ!とかいわず、哀しみを受け入れながら前を向こうとする。みんな傷つきながらも、なんとなく天野あきに象徴される“明るさ”が光となって、そうした負の連鎖を“逆回転”させて、みんなの呪いが解け、哀しみが成仏する物語、それが「あまちゃん」なのだ。 今日の鈴鹿ひろみの歌を聴いてそう思った。 「三代前からマーメイド、親譲りのマーメイド」この歌を歌うために、すべてがあって、この歌でこの親子三代の物語は成仏し、完成をみたのだろう。 鈴鹿ひろみの歌は、誰もよりものびやかで透きとおっていて、涙が出てきた。 *あちゃんが一元的であったのに対して、半沢は、敵と味方の二元論的世界観でできている。もちろん半沢は元々良い人で味方に対しては異様なまでの度量をみせるし、できれば敵なんか作りたくはないのだが、そうもいってられず、野蛮な世界で生き延びるには、断固たる態度で物事に対処するしかないと思ったのだろう。 油断すれば噛みついてくるオオカミを諭しても無駄だ。そういうヤツには「自分に噛みついたら全力で反撃する!」という強い意思をみせなければ、いいようにやられるだけだ。ともかく、「半沢」が流行るのはわかる気がした。あまりにも多くの理不尽がふつうにまかり通っている世の中だ。まっとうなことがまっとうに通じない。いい人には本当に生きにくい世の中になったのだと思う。この世の中、「強くあろう」という気持ちは忘れちゃいけないのだと思う。しかしながら、倍返しは本質的に幸せになる方法ではないとも思う。 最終回、半沢直樹は、自分の父を自殺に追い込んだ大和田の不正を暴き、会議の場で土下座させて本懐を遂げるが、その宿敵は取締役に降格で、半沢直樹が出向となった。それについて「なるほどね」と腑に落ちる説明をしてくれるサイトもあって、すっきりしない気分も幾分か収まったのはありがたいけども、結局の所は、そういうことではなくて、「倍返しを地で行っていたらああなるのが当然だ」ということを示すためにも、あの結末は妥当なものだと思った。 人を呪わば穴三つ。どういう意味かよくわかっていないけど、僕もかつて、人生の中で(塾の支店長みたいなやつだったが)、あまりにも理不尽でそれこそ物をぶん投げてくるようなヤツで、こいつは道ばたであったらぶん殴ってしまうかもしれない、車をみつけたら釘でも刺してやろうかと思ったこともあるが、そんなことをしたら自分を貶めるだけだと思い留まったこともある(それでもふと道ばたで出会ったらぶん殴ってしまったかもしれないが(笑)そうならなくてよかったと思う)。とここで、調べてみたら「穴二つ」だったようだ。穴三つと覚えていたが、そのぐらいが正解かもしれない。 * 宮藤官九郎が、半沢直樹について聞かれたときに、「恩返しでしたっけ」とおどけて、みうらじゅんが「仏教的に倍返しはよくない」と言ったという記事をみたが、僕もほんとそうだと思った。 「倍返しだ!」という台詞は、この理不尽な世を生きるサラリーマンの鬱憤を晴らしてくれるのかもしれないし、ピンポイントで必要なときもあると思うが、常用すると負の連鎖を生み、倍倍倍倍、となって戻ってくるだけで誰も幸せにはならない(自分の家族を殺されたら自分もそいうなるかもしれないけど、それでも基本的には怨みハラスメントは幸せにはならないだろう。全員の前で家族の不正を暴かれ土下座させられた大和田に刺されてもおかしくないのだから)。 半沢直樹の取材で、半沢の生き方について聞かれたときに、半沢役の堺さんも「やられたら微笑み返しですね(笑)」と語っていたが、やはりそのぐらいがいいのだろう(ほとんどのひとがそんなことは重々わかったうえでみているのだろうけど)。池田先生も、愚かなものには黙って頭を下げよ,的なことをどこかに書いていた。 半沢直樹から学ぶべきところがあるとしたら、明らかにこっちをなめて冗長してくるようなやつには、断固たる態度を示したほうがよいときもある、ということだ。 「話せば分かる」「ひたすら耐えるべき」などというのは、状況と目的を踏まえないで「よい」とされる方法を自己目的化しているに過ぎない。何しろ耳を塞いでいるやつもいれば、元々耳も聞こえないやつだっているのが、この世の中だ。そういうやつには態度で示そうよ、それみんなで手を叩こ、の精神でいくほかない。 * 話がずいぶんずれた。半沢直樹は結論をいえば、ひどくおもしろかった。最終回みながら「これは最高視聴率行くだろうな」と思った。 大和田のおもしろさは、もはや志村けんを彷彿させるほどだった(笑)。というか龍馬伝の弥太郎そのままだった。あるいは耳までグイッと動かすところなどは、顔面をきめ細かく割って動かす韓流の名女優を彷彿させた(例えばソンドク女王の宿敵ミシル)。 僕の中では、従来のドラマのラインの中での最高到達点という感じだ。たしかに量的な増加という意味では一位だ。 *しかし「あまちゃん」は“質”がまるで違った。 「あまちゃん」はドラマのあり方を変えたと思う。 半沢は「みせる」ドラマだ。通常ドラマはそういうものだ。しかし「あまちゃん」は視聴者に「さんかさせる」ドラマなのだ。 何重にも伏線が張り巡らされており、今日のあのひとはこうだったとか、あそこにあれがあったとか、何度みてもその都度発見がある(たとえば今日の鈴鹿ひろみのコンサートの後ろには、あまちゃんで音楽を担当した大友良英がいたが録画してないと見つけるのは難しいだろう)。これほどまでに視聴者が参加できるドラマを僕はみたことがない。 「半沢」はドラマとして外部から楽しんでみるという意味で、超一流のエンターテイメントだ。 他方「あまちゃん」は、ドラマとわかっているのだけども、あたかも実際にそういう愛すべき人達がいて、自分がかかわれるような不思議なドラマなのだ。だから、「あまちゃん」は録画したものを、2回、3回とみてしまうのだ。そしてさらに驚いたことに、気がつくとテレビに表示されている「8:11」や「8:14」という表示をみて、「ああ、もう終わってしまう〜」という気持ちになりながらみてしまう何かがあるのだ。もっとみていたい、というより、もっとそこにいる人達とふれあっていたい、という感じのほうが近いのかもしれない。だから「あま絵」が流行るのだろう。あれは、もっとふれあっていたいと思い、その技量のあるひとがおもわず描いてしまった、という現象なのだと、思う。ふれあいたくなるドラマ、それがあまちゃんなのかもしれない。 *そしてそれを可能としたのは、宮城県出身のくどかんが「視聴率」を目指したのではなく、「東北の、被災地の、仮設住宅で暮らす人達に、毎朝起きるのが愉しみになるようなドラマを作ろう」と心の深いところで決めたからなんだと思う。本当に奇蹟的な作品になったと思う。 東北の人達の“感じ”をやけにうまくとらえるなと思ったら、宮城出身だったんだね、知らなかったけど妙に納得。おかげで、僕も毎朝起きるのが愉しみになった。 「クオリティ・オブ・ライフ」なんてものを変えるドラマがあるとは夢にも思わなかった。それにしても、このドラマのおかげでどれだけ多くの人が明るい気持ちになったことか。くどかんには感謝の言葉しかない。 * 半沢は従来のエンターテイメントのスーパーな姿をみせてくれた。ドラゴンボールでいえば、スーパーサイヤ人3だ。ぜひ続編をみたい。あまちゃんは、そこにいる人達に会いたいと思わずにはいられない、1分1秒を惜しむような気持ちにさせる、視聴者がいろいろな視点から探し、発見し、解釈し、参加することができるあらたなドラマの形をみせてくれた。ドラゴンボールでいえば、元気玉というか、さっきまで戦っていた敵を助けてしまう悟空のようなものかもしれない。 溢れる愛の力で、出会う人を変えていってしまう、天野あきのような人はたしかにまれにいる。 * 半沢は野蛮な世界で生きるために、自分を誇りを家族を守るため、覚悟を決め、諦めず、知恵を絞り、あらゆる観点から方法を模索し、問題を打開しようとする。あまちゃんは、あまちゃんな世界といわれようと、震災も不幸も、笑顔で乗り切ろうとする。その二つの世界観のドラマが、今なぜこれだけ多くの人に響くのか。それは両方必要な視点ということなのだと思う。 喜劇に悲劇が織り込まれている中で、悲劇を喜劇に変えながら、それでも笑顔で生きていく。そういう力が僕らには必要なんだろう。
2013.09.26
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