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東北のJR各駅の一日平均乗車人員。JR東日本サイトから(2011年度)。ベスト100に含まれるのは62位の仙台駅(64498人)だけだ。意外な気もするが、首都圏の通勤需要には圧倒されるのも仕方がない。また、仙台は随分順位を落としていると感じるが、仙石線あおば通駅の開業により利用客がシフトしたほか、もちろん震災の影響もあると言われているようだ。仙台駅以外で人員の多いところでは、(新潟 36711)(宇都宮 34023)(水戸 26699)盛岡 16658郡山 15904福島 14380秋田 11160(長岡 10839)山形 10518名取 9063南仙台 8656岩沼 6498青森 6462長町 6193弘前 4442古川 4339いわき 4175北仙台 4064岩切 4059一ノ関 3688北上 3557愛子 3543花巻 3287大河原 3208塩釜 3127船岡 3055東仙台 2961白石 2806新青森 2730東北福祉大前 2684会津若松 2636槻木 2633太子堂 2595利府 2573八戸 2504新白河 2504東照宮 2438米沢 2383などと続く。八戸が随分少ないのが印象に残る。新幹線の延伸の影響か(前年4438)。なお、あおば通駅は記載がない。震災の影響で統計から外したのだろうか。前年は20180人で、東北では仙台駅について堂々第2位である。
2012.12.30
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ゴジラ松井の引退が大きく報じられている昨日今日だが、イーグルス関係では斎藤の入団も伝えられている。新外国人も(今度こそ)頼もしいと言うことで、星野楽天3年目の開花を予想しよう。ところで、先日のTV番組で戦力外通告を受けた中村はまだ進路未定ということだった。本当に意外な通告だったが、まだまだ続行を希望するのも当然と思う。年の暮れのこの今も仙台の自宅(番組で紹介されていた)にいるのだろうか。育成からはい上がって、イーグルスを支えてくれた杜の都のスターだ。番組にも出ていたが、渡辺(直人)、内村など、楽天らしい個性派の選手たちが、今はもういない。新設球団といいながらもう8年経過して、選手達の出入りもそれなりに積み重なってしまっている。いまでは高須や小山ぐらいだろうか、創設時メンバーは。有銘や山村のように、創設期から駒数の苦しいチームを支えてきてくれた選手達も、これまでとは違った年の暮れを迎えていることだろう。そう言えば番組にはヤクルト戦力外の一場も出ていた。長いような、早いようなこの8年間だったが、一生懸命に仙台・東北を盛り上げてくれた選手達。私たちは本当に彼らに感謝しなければならない。
2012.12.29
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昨日の全国高校駅伝。監督や選手の大量移籍で話題となったのが、我らが宮城代表だ。女子の代表は当の仙台育英。今回は主力の欠場もあってどこまで踏ん張れるか。男子は育英から何年ぶりかで戻された代表の座で健闘が期待される... そんなところが当ジャーナルの視点だった。女子代表の仙台育英は多くが県外出身。男子代表の東北は逆に全員県内の中学出身だ(以前の河北新報記事による)。さて、結果だが、仙台育英から移籍した監督が率いる愛知代表の豊川高が男女とも健闘。男子は初出場で圧勝。女子は24秒差で堂々準優勝。なお、豊川高校は男子の7区間中5人の選手が転入組だ。宮城の地元紙河北新報では、今朝こう報じている(独自か配信かわからないが)。------------(概略)監督の退任や東日本大震災などの影響で今春、仙台育英から転入生が多く加わった。転入組と既存の選手の力の融合で前半から流れを作り、早々に独走態勢。森監督は女子の指導経験は豊富だが男子は不安があったという。目標の男女アベック優勝は成らなかったが、集団転入に批判を浴び、複雑な状況に置かれたチームをまとめ上げた。------------さて、愛知県ではどう報じられているのだろう。中日新聞を見たが、転入問題に言及したり批判の中の優勝などの論調はないようで、豊川市長の祝意を伝えている。大会主催者でもある毎日新聞の愛知地域版も、転入についてさえ触れていないようだ。たしかにスポーツは競技そのものが第一であり、選手の健闘をたたえるべきであって、周辺事情は二の次でいいとは思う。当日の報道はこれで当然かも知れない。もっとも、毎日は、仙台育英の女子選手が再開した話題を生徒の視線で記事にしていた。大会前日の22日には毎日愛知版で、仙台育英からの転入生が躍進の原動力、と大会に向けて盛り上げを狙うような記事があった。半年間の試合参加自粛についても触れている。今回の騒動を簡単に振り返ってみると、仙台育英の前監督が前回大会の成績不振を理由に引退と後任者調整などを学校側から求められたということに発している。ゴタゴタがあって結局監督は辞任。主力選手の10人ほどが縁のある豊川高校に移籍(転校)したというものだ。形の上では大震災の影響とされているが、それは要因としてあったにせよ、根本は学校側の内紛というべきだろう。よく特待生やスポーツ留学が批判的に論じられ、また、アマチュアとプロ・商業資本の間における経済的な関係の不透明さも指摘される。私もそれは大いに問題だとは思う。しかしながら、何かに一途に取り組もうとする若い才能にフィールドを与えてあげることは重要なことであり、また、フィールドで一心不乱に上を目指す俊英を讃えるべきことに異存はない。今回の問題は、その意味でいえば、移行期間もなくフィールドを勝手に取り上げてしまったというきわめて特異な問題であり、仙台育英学園側の責任は重大だ。そもそも特待生制度に論議はあれども、長い期間をかけて施設を整備し、教員を求め、広く優秀な中学生を受け入れて、誰もが認める陸上教育の名門を目指してきたはずだ。そうであれば、若い監督と学校に何があったか、震災でどんな困難があったか、それはわからないが、単に更迭してあとは「生徒の自主性を尊重」などという姿勢が取れるはずがないだろう。私学ならではの、育英ならではの教育に力を入れてきたのではなかったのか。ならば、それこそ学校の威信をかけて乗り越えるべきものだ。選手の大量移籍は異例だが、生徒は責められない。本心は自分が目指した仙台育英というブランドで走り続けたかったはずだから。震災に言寄せることが、生徒にも、仙台・東北の住民にも迷惑な話だ。繰り返すが、仙台育英学園の経営陣はじゅうぶん責任を自覚しなければならない。ほかにも種々の問題が生じている同校だ。仙台の私学のリーダーとしての資質が問われている。仙台・東北としても恥ずかしいことだ。再生を願いたい。
2012.12.24
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クリスマスと言えばこの歌。ところで上の娘は幼い頃、「きよしこ」の夜だと思っていたそうです。キヨシコって何と軽い疑問はあったようですが。この手の勘違いは、音から歌やセリフを覚えていく幼児には結構ありがちでしょう。そしたら、下の子も最近までCMでやっている商品が「弱酸性微・オレ」だと思っていたと話していました。酸性のもっと弱いヤツという肩書きのオレという商品だろうと。「売買」はつい最近までバイガイと読んでいたとか、成長しても、ほかにもいろいろ勘違いがあるようでした。
2012.12.23
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■逸見英夫『明治・大正・昭和 仙台じけん帳』(河北新報社、2002年)から明治9年6月、天皇巡幸に随従した岸田吟香(劉生の父)は、大橋わきで開催された宮城博覧会を見物し、展示されていた支倉六右衛門の肖像画を「もっとも奇とすべき」と東京日日新聞に執筆している。支倉常長がローマから持ち帰った物品や支倉の肖像画は、現在は仙台市博物館所蔵。以前は藩の評定所内の切支丹改所(現在の片平市民センターの地)に保管されていた。藩主の所蔵品のう貴重品はその場所の「御物置」に保管され、その他は「御勝手方」という倉庫におかれ、いずれも年に一度の虫干し以外は人の目に触れることはなかった。明治4年の廃藩の際に、御物置に保管されていた物品は、窪田敬輔の父親によって運び出され県庁に収められたという。明治5年9月18日付の耶蘇教探索太政官「諜者報告書」第57号では、窪田敬輔が9月13日東京の教会で次のように語った。(おだずまジャーナル要約)政宗は支倉をローマに派遣し、後に支倉は教師2人を伴い帰国したが、政宗死後は家光の邪教禁止により2人は囚われる。由来記や十字架の画像などは倉に秘めて代々相伝えてきた。また、支倉、大和田などの同志6家従前から切支丹を伝えるが、廃藩の際に由来記を桐箱に納めて県庁に渡す。窪田敬輔の父これに従事したと敬輔自ら語った。慶応4年3月太政官定書「切支丹・邪宗門之儀堅ク御制禁」の高札を撤去し、キリスト教布教活動が黙認されるのは、明治6年2月。その半年前に窪田が語ったことが諜者により報告されていたものである。窪田は切支丹を相伝する家柄の出で、明治6年に洗礼。後に原敬の代父を務める。弁護士となり、仙台市議会副議長にもなった。常長の肖像画が再び公開されたのは明治12年6月で、大蔵卿大隈重信とヘンネッシ香港太守(総督)がら来仙したとき。機業試験場(現在の宮城県医師会館あたり)の養蚕室に支倉の肖像油絵とローマより帰朝の歳の古器物を陳列したと、音楽家四釜納治が記している。ところが、常長の肖像画とともに「南蛮王」や「血ダルマ」といわれたローマ法王パウロ5世の油絵もあったはずだ、と旧仙台藩士たちが騒ぎ出した。評定所の倉庫を調べたが見つからない。県庁の倉庫にもない。捜索が市中の評判となり、民間人も血眼で探し始めた。当時、国分町元鍛治町西北角(現在の千鳥屋ビルあたり)に伏見屋長兵衛という荒物屋があり、城の払い下げ品を買い求めては蔵に納め、儲けになると見ると売る商人だった。しかし明治10年代はじめには売り尽くして蔵は空っぽだった。その時蔵の隅から古ぼけた巻物が出てきて、わけの分からぬものだと思いながらも茶の間に持ってきておいた。ある古道具屋が巻物を見て、近頃騒がれている法王肖像画だとピンと来て5円で買うと申し出た。5円とは、当時の第七十七銀行支配人月給が20円なのでかなり高額である。伏見屋は内心びっくりし売れないとはねつけて、改めて不思議な絵だと首をひねった。他方で、古道具屋は帰宅途中に国分町山崎平五郎(現在の阿部写真館あたり)に立ち寄り、伏見屋で法王肖像画を発見したと告げる。山崎は金上侍で明治15年には東北自由党連合会会場を自宅に設けた顔役。さっそく伏見屋に行き交渉。値段はせり上がり、ついに600円で購入したという。山崎は親類の大町一丁目藤崎治右衛門から資金を借り、横浜でイタリア人に売りつけた。イタリア人は3千円の値を付けたが、もっと値を上げようと頑張り、仙台と横浜を再三往復するうちに、家屋敷に二重三重の抵当がかかるまで散財してしまう。この動きを察知した自由民権派の東北新聞(社長兼主筆高瀬眞卿)が明治14年3月31日の紙上で宮城の宝物たらしめよと訴えた。そのせいか、8月13日の2度目の天皇仙台巡幸のとき、このローマ法王の像を展覧に供したが、その時はまだ山崎の所蔵であった。その後、政宗時代に明から渡来した王翼将軍の子孫で5代目七十七銀行頭取となった旧藩士でカトリック教徒の大野清敬が、山崎から購入してようやく伊達家に献上された。なぜ絵は荒物の伏見屋にあったのか。大槻文彦は、何代目かの藩主が法王の肖像画を見て、精彩生きるがごとしと嫌な顔をしたので絵は御勝手方に移されのだ、と言っている。安永3年(1774)の高野統兼(蔵王平沢館主)日記には、御物置の風入(虫干し)の記述があり、常長帰朝の持参品について触れているが、その中には法王肖像画は記載されていない。大槻玄沢が文化9年(1812)に記した「帰朝常長道具考略」でも触れられていない。明治になると、御勝手方の品物諸道具は民間に払い下げられ、河原町の紙屑屋の手に渡った。その払い下げ品の中に、妙な絵があるので、国分町の金持ちに買ってもらったのだろう、と清水東四郎(東北学院大学教授)が語っている。評定所では法王像を「血達磨」と呼んでいたという。伊達家所蔵のこのパウロ5世画像、支倉常長画像など慶長遣欧使節関連資料は、昭和39年仙台市博物館に収められる。平成13年には国宝に指定されている。
2012.12.08
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今朝の新聞に市内の学習塾が出した広告。来週、上杉五丁目に教室を新規に開設することの告知なのだが、藩政時代は武家屋敷、今は文教エリアで知の聖域、などと謳って、自校の進学実績を絡めて、子女の進学に力を入れようとする親たちの市内一等地ブランド意識をくすぐろうというものだろう。そもそも、上杉なる町名は、上・杉山通から来るのだろう。杉山(台原あたり)に向かう筋道のうち、上の通りだったはずだ。しかし町名は地域として上杉という名をかぶせているので、県庁から宮町、台原に近接するまですべて地図上はそうなっている。最近都心回帰ともいわれるが、新たにマンションなどに入った方々は、附属中があるなど上杉というブランドを意識しているということだろうか。別にそれで構わないのだが、個人的には、北六(番丁)校だと面白かったなと思う。どうでも良いのだが。
2012.12.02
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明治15年9月7日午前11時過ぎ。仙台城二の丸から黒煙が上がる。鎮台本営に使っていた建物が倒壊すると火の粉と煙が空高く舞い上がった。火元は台所の萱葺きの建物で当時は軍隊の鉄工場であった。武器庫所属の兵士2人が9月9日の榴岡兵営の軍旗祭で揚げる花火を製造中に火薬に引火させてしまったのが原因。市中の消防組、警察署、工兵隊などが懸命に消火に当たるが、付近の池はたちまち干上がった。営倉から解放された囚人18人も消火作業を手伝った。火薬庫が危険との声が上がり、川内地区の住民は逃げ惑った。12時30分頃には鎮火。この火事での焼失建物は17か18棟。旧二の丸の9割が灰になった。二の丸の建物は二代藩主忠宗が寛永16年に築いた。文化元年(1804)の落雷で炎上したため再建している。これで本丸と二の丸が姿を消してしまった。慶長年間に政宗が築いた本丸の建物と石垣の一部は、明治6年、陸軍によって取り壊されている。壊された本丸大広間は、聚楽第を範とする壮麗なもので、本丸門内は藩士も自由に出入りできなかった。この本丸と二の丸は戊辰戦争で仙台藩が降伏後、明治4年10月までは仙台藩、その後は仙台県の所有だった。11月に東北鎮台本営により、鎮台すなわち兵部省(陸軍省の前身)の所有となる。さらに、明治6年1月、陸軍省達で諸国存城調書記載の城郭は改めて陸軍省所管となった。この調書では、仙台城は現今城郭ナシとされていないから、明治5年に本丸はあったのだ。伊勢斉助『奥羽観蹟聞老志補修編』に引用されている大槻文彦『仙台城本丸御殿記』によると、明治7年陸軍省にて悉階(ママ)(ことごとく)撤去されたと記す。明治9年に天皇が天主(ママ)台から仙台市街を一望したとき、仙台城を破壊した経緯を聞き、失錯(あやまち)ナリと嘆いたという(前出大槻)。明治7年3月5日付けで、元公儀使(他藩では留守居役)の大童信太夫が富田鉄之助(当時ニューヨーク在勤副領事)に宛てた手紙の下書きでは、大童は仙台に10日間居て1月東京に戻ったが、青葉(城)は枯落感慨ただならず、鎮台兵営となり、榴岡松木壇に新たに建築中の鎮台兵営に兵卒引移りの後は古城跡は狐狸猛獣の営となろう、三百年前の復古無し、と。これらの文献から、本丸は明治6年から7年にかけて陸軍により取り壊されたとわかる。既に本丸が失われたことに加えて、二の丸の炎上である。旧藩士で仙台の大久保彦左衛門を自称する沼澤与三郎が堤通(上杉一丁目)の自宅から駆けつけて、伊達家累代の居住した仙台城が一片の煙と化すか、残念、心魂ともに焼かれる思いなりと泣き叫びながら地面をのたうち回り、吹き出した野次馬を蹴倒する気迫に周囲は圧倒されたという。本丸、二の丸を失った仙台城は、大手門などごく一部を残すだけとなった。その大手門も、昭和20年7月10日の空襲で焼失するのである。■逸見英夫『明治・大正・昭和 仙台じけん帳』(河北新報社、2002年)から
2012.12.01
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