全19件 (19件中 1-19件目)
1
石巻日日新聞に出ていた記事。石巻市の外国人で昨年の大震災に際して津波を予想したのは3割に満たなかった。また、防災無線の内容も理解できないなどの課題が改めて浮かび上がった。調査は市と東北学院大学が共同で実施。市内の外国人登録者は震災前782人、本年4月は513人。ツナミの言葉は8割が知っていたが、防災無線の意味が分からなかったなどの回答がめだっているという。それでも居合わせた人などに知らされて避難できた人が多かった。避難所生活では他者との関係は大部分は良好と回答しているが、中には不快さや辛さもあったという。
2012.11.29
コメント(0)
朝の新聞を見てハッとした。石巻出身の彫刻家である高橋英吉のことは知っていた。その企画展が川内の県美術館で開催中というのだが、石巻文化センターに収蔵していた作品のうちで無事だったものなど20点を展示しているというのだ。石巻文化センターは南浜町で海岸に近かったから、壊滅状態だった。文化センターや市立病院の被災は何度か見ていたが、このことには何故か、気がつかなかった。高橋は美術家としての将来を嘱望されながら、南洋で戦死した。その秀逸の作品約50点が、ここに収められていて、震災に遭ったのだった。新聞記事で受けた衝撃は、この事実だ。センターの収蔵作品のうち、1階の収蔵庫にあった作品は海水に浸かり、現在修復作業中。新たな施設の再開まで美術館で保管するそうだ。企画展に展示しているのは震災の当時にセンター2階で航海中だったため被害を免れたもの。代表作である「海の三部作」や「不動明王」も含まれているようだ。いつか私も観てみたいと思っていた。仙台にあるのなら是非足を伸ばしたい。力強い美しさを表現した高橋英吉の作品は、時を越え、震災を乗り越えて、石巻に勇気と誇りをもたらしてくれるだろう。■関連する過去の記事 高橋英吉と幸子さんの父娘展(10年3月12日) 悲劇の天才彫刻家 高橋英吉(10年1月24日)
2012.11.27
コメント(0)
真紀子大臣の騒動もあったがとにかく来春の4年制大学移行が決まった秋田公立美術工芸短期大学。来春は秋田公立美術大学だ。ところで、NHK秋田のニュースで、秋田公立美術工芸短期大学附属高等学院の創立60年を記念して作品展が開かれているという。附属高校とはしていないので、市立専門学校の位置づけなのだろうか。そもそも短大の設置者は秋田市、男鹿市などを含む市町村による一部事務組合である。附属高等学院は、学校の種別としては専修学校高等課程で、修業年限は3年である。美術系の高等課程は全国でも珍しい、と同学院のHPで説明している。短大の沿革をみると、1952年に秋田市が秋田市立工芸学校を設置。75年に秋田市立美術工芸専門学校と改称。95年に改組して、短期大学になる。設置者も秋田市単独から一部事務組合に移行しているようだ。また、この際に、附属高等学院が誕生している。沿革をみればわかるように、短大の附属というよりは、むしろ工芸学校に起源する高等学院が母体と言える。すなわち、工芸学校が専門学校となり、更に専攻科を設けるなど充実発展させてきて、この専攻科(高卒者で2年だから短大課程に相当とも)を基礎に短大に改組し、一般の高校生に相当する部分を「附属」学院として残した、と言えると思うからである。■関連する過去の記事(秋田県と大学) 秋田公立美術大学が...(2012年11月2日) 秋田公立美術大学(2012年5月31日) 秋田大に新学部の構想(2012年3月2日) ノースアジア大学観光学科を考える(2010年10月13日) 国際教養大学の挑戦(09年10月31日) 崖っぷちの大学事情と東北(09年10月13日)(ノースアジア大学) ノースアジア大学(06年12月13日)
2012.11.25
コメント(0)
東京商工リサーチの調べ。2012年「全国社長出身地・出身校」調査によると、社長の「輩出率」(人口比)は山形県が3年連続トップ。出身校は日本大学が最多。なお、社長の「地元率」は沖縄県が94.3%と昨年に引き続き最高。日大が数ではトップとはよく言われること。この調査は、同社が約245万件のデータをもとに調査しているので、実態をほぼ反映しているのだろう。もっとも、「輩出率」なるものは、出身地別社長数を人口で割ったもので、経済社会的にどのように意味づけすべきか、いささか疑問ではある。ただ、データだけに興味は持てるし、経年比較することで一定の傾向を読み取れる可能性もある。山形県は1.35%でトップだという。次いで、徳島県、香川県、秋田県、大分県。出身地ごとの実数では、東京都が最多で82,137人。次いで、北海道、大阪府、愛知県、神奈川県、福岡県、広島県と続く。
2012.11.24
コメント(0)

...とは言っても中に入ったわけではありません。今日から開催の国際大会の雰囲気を外から見てきただけです。自分の勤労に感謝して、本日の編集長は完全休養日。朝から足をのばして仙台市北郊を周遊してまいりました。セキスイハウススーパーアリーナでは、こんな感じ。祭りの準備のように関係者が出入りしていました。リンクのメンテ関係、取材スタッフなどでしょう。寒いね、という声が聞こえてきましたが、仙台人としてはこんなもんでしょう。たしかに陽は出ていないが、風がないだけ穏やかな方ですよ。アリーナからは朝なのに大音響が。選手が練習しているのでしょうか。それとも音響テストか。そう言えばアリーナ脇には、追っかけ風の方々が立ちつくしていました。入場時間前でしたが、10名ほどの方が並んでいたようでした。スーツケースや毛布まで用意して。駐車場には、関東ナンバーがズラリ。メインゲート近くに、南三陸の海鮮お好み焼き(?)のケータリングカーが準備をしていました。
2012.11.23
コメント(0)
東京の地下鉄南北線に(たぶん)初めて乗った。やはり表記は Namboku だった。東京人はナンボク線と発音するのだろう。でも、仙台だと地下鉄南北線のことを、ナンポ(po)クと言う人がある程度存在すると思う。また、県北(地域)をケンポ(po)クと呼ぶ人も多いように思う。標準はケンホクなのだろうが、一度気を付けてNHKを聴いてみるべきか。■関連する過去の記事 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月16日)
2012.11.22
コメント(0)
高校生になった娘が言うには、○○(娘の名)んチって一軒家(いっけんや)なの?とたまに言われるそうだ。仙台市内のマンション住まいの子女も少なくないからなのだろう。ウチって閑静な住宅街と称して良いのかと娘に確認されたが、それでいいんじゃないのかと適当に答えておいた。それにしても、集合住宅でなければ一戸建てというのが大人の感覚だが、高校生では、いっけんや、というのが普通なのだという。面白いものだ。一軒家(屋)というと、山裾の畑の中の曲がりくねった道を行くと、角の松の木の脇にひっそり佇んでいて、烏がカーと鳴いている風景だ。この場合、「一軒」というのは長屋ではないということを意味しているのでは勿論なくて、周囲を見わたしても家はここしかないという空間的外縁をも同時に示している。郡部によく三軒屋敷などという小字名があるが(そんな場合のお屋敷はかなり上等のものかも知れないが)、いずれにしても農耕社会で生きてきたわが祖先の大地に根付いた観念であり心象風景だ。しかし、今時の子ども世代には、家が一軒という機能的な観念なのだろう。ところで時分の学生時代の意識に立ち戻って考えてみると、例えば間借りにしても独立的な建物に住んでいたヤツがタマにいて、通常のアパートや下宿などにいる多数派からみると、一軒家と呼んだかもしれない。あるいは、そのヤツが一軒家だと自慢していたような気もする。この場合、一戸建てというのは相応しくない。なぜなら、一戸建てとは、ひとかどの、あるいは人並みの家を意味すると同時に、サラリーマンが苦労の末にやっと建てました、という社会的なプロセスがおのずと織り込まれた言葉だからだ。スネをかじる学生がいえるはずがない。こう考えれば、今時の高校生だって、一戸建てというはずはないのも当然か。
2012.11.21
コメント(0)
〔前回(明治11年仙台日日新聞事件(社主の獄中自殺)(その1)(2012年11月18日)に続く〕逸見英夫『明治・大正・昭和 仙台じけん帳』(河北新報社、2002年)から当ジャーナル要約(同書第4話「社主、獄中で謎の切腹~新聞記者筆禍事件」)。■関連する過去の記事 仙台・宮城県の新聞概史(2012年11月10日)(続き)高瀬は水戸藩士で24歳の時仙台に来る。涌谷出身で後に仙台区長、宮城郡長を務めた十文字信介の招聘に応じて、仙台日日新聞社に入社したという。湯治、同社には、社長須田、副社長立花(但木)良治、主筆怡土信吉(福岡出身)のほか、記者2人、探訪記者1人。須田と高瀬が最初にあった晩、高瀬が酔って議論を吹き掛けたが、須田が高瀬という男は使いようが悪いと役に立たないが任せれば仕事を成す人物と、立花に語ったという。入社3日目、高瀬は新聞改良論を述べ、新聞に傍訓を付ける、用紙は西洋紙に刷る、活版職工を上京させ技術習得させる、記者も外に出て取材させる、などの改革案を提案。須田も喜んで早速実行した。高瀬も翌朝から県令、師範学校長、裁判官、武官などを訪問。怡土主筆と相談して、雑報という欄を設け、戯文を加えたのも高瀬の意見による。新参の高瀬の改革が断行されたので、怡土以下3人が出社を拒否。そこで、高瀬は一人で新聞を編集したので、スト組もおどろいて3日もしないうちに出社したというエピソードも。そんな高瀬に期待しての編集長抜擢だったが、4月23日、高瀬は獄中の須田に編集長の任に堪えられないとの文を提出。須田は24日高瀬を元の印刷長にもどし、15歳の少年、雲野香右衛門を仮編集長に任命した。しかし5月14日、こんどは雲野が宮城上等裁判所検事局より呼び出され、5月1日に掲載の記事について咎められた。23日再び呼び出されて5日間の禁獄と罰金5円を言い渡される。問題の記事とは、社長の須田らが刑に処せられたのを揶揄して仙台裁判所官吏を誹謗した、というのである。雲野が収監されたのは、禁獄30日の伊藤欽一郎が出獄した日でもあった。旧藩時代の牢が使用されていて成年も未成年も一緒の牢獄では、あと10日入牢しなければならない須田は寂しそうだった、と後に語っている。入獄と言っても昼間は外出が許されていた。雲野が午後4時頃牢舎に帰ると、渡辺という老獄丁(刑務官)が牢の前で腰を抜かしている。雲野が急いで牢の中に飛び込むと、須田が剃刀で腹を切り、立ち上がって腸をつかみ出してちぎろうとしていた。驚いて飛びかかると恐ろしい力で突き飛ばされた。その時、村上獄丁が背後に回り剃刀を須田の手から取り上げた。すぐに医師の中目斉が呼ばれ、須田は運び出されたが、雲野の布団の上で切腹したので雲野は血生臭い布団でその一夜を過ごすこととなる。後で聞くと、渡辺が須田の牢前に来て雑談をして、渡辺が「少し顔でも剃ったらさっぱりするでしょう」というと、須田が剃刀を貸してくれと言ったので、渡辺が差し入れたという。仙台日日新聞はこの年明治11年5月26日午前3時30分に須田平左衛門が死去したと報じている。享年38歳。なぜ切腹したかは、当時から多くの人々が推測しているが、真相は不明である。
2012.11.19
コメント(0)
明治時代の仙台の3つの有力新聞紙の1つ「奥羽日々新聞」が「仙台日々」と称した頃の明治11年、三面記事で某商家の嫁を揶揄したため訴えられ、社長は出張中と偽って出頭しなかったことから投獄されて自殺したことを、以前記した。■仙台・宮城県の新聞概史(2012年11月10日)逸見英夫『明治・大正・昭和 仙台じけん帳』(河北新報社、2002年)にこの一件が詳しく紹介されている(同書第4話「社主、獄中で謎の切腹~新聞記者筆禍事件」)。当ジャーナルで以下に要約させていただく。仙台日日新聞は表小路東北角の「相愛社」が発行。社主は須田平左衛門。明治11年4月1日付け仙台日日新聞は、国分町の男の家庭の内輪を記事にした(亭主が摘み食いをやりそこなって山の神が暴れ出した話)が、これが讒毀とされ仙台裁判所検事局から呼び出しがかかった。4月5日の同新聞は、「本社前の仮編集長下飯坂秀治儀、去る3日飯坂の温泉に当時に参りし跡へ、仙台裁判所検事局よりお呼び出になりましたが、すでに発足の後ゆえ...」との記事。しかし、下飯坂不在は事実でなかった。事実は、下飯坂は3日に県外の飯坂温泉に湯治に行くため30日以内の旅行を戸長役場に申し出、戸長から宮城県庶務課に届け出て許可の印鑑を入手していたところ、旅立ちが2日間遅延していたところに、4日に召喚状が届いたのである。召喚状を受け、下飯坂と須田は相談し、紋切り方の告訴に関わっては肝要の社用が留守になる、誹毀事件はわずかの罰金で済む、不在として出頭しない方針として平気の平で出立することとした。すぐに社員伊藤欽一郎が社長名で、既に3日から下飯坂は湯治に行っており召喚を2週間延期してほしいと不在届を提出。当の下飯坂は明後日出立するつもりで新聞社を出たが、間が悪く張り込んでいた密行巡査によって仙台警察署に拘引される。須田のいう肝要の社用とは、湯治ではなかったようだ。明治33年に下飯坂が回想記に語ったところでは、相愛社は明治10年の西南戦争で政府の布告類の印刷販売の収益が激減していたが、回復策として福島県の地券状の印刷を引き受ける契約の成立目前で、下飯坂は須田の委任でこの契約を成立さる目的で福島に行こうとしたのである。湯治を偽った理由はわからない。4月23日、早くも判決が下る。下飯坂は足に障害があり罰金5円で放免。須田が禁獄40日、伊藤は禁獄30日。2人は仙台裁判所(現在のタワービル)から片平丁の監獄署(現在の片平市民センター)に連行。須田平左衛門は天保12年(1841)に75石の大番組士丹野官治の子に生まれ、文久3年(1863)に88石の大番組士の須田家を継ぐ。平素は寡黙だが事を議するに雄弁。戊辰戦争では国老但木土佐の指揮下ではたらき、戦後は五ッ橋須平と改名して潜伏。牡鹿半島の海産物を改良し、仙台や東京で販路の拡張に奔走したが事業に失敗。明治5年に、水科正左衛門、横尾養鶏と相愛社を起こす。6年に郵便報知新聞社長小西敬義の援助で、印刷を改良、明治7年から東北新聞を発行。のち、仙台新聞、11年1月からは仙台日日新聞として県内最初の日刊紙となった。平民主義を唱え、品井沼干拓を企画したが断念。銀行創立を企てて七十七銀行創立にも寄与した。筆禍事件で下飯坂は仮編集長の職を辞した。後継は高瀬茂顕(眞卿)で社内改革を断行したが社内のごたごたが続き、すぐに編集長を辞任することになる。〔以下次回に〕
2012.11.18
コメント(0)
今朝の新聞で、元阪神の選手が詐欺容疑で逮捕されたと。この人、96年10月の対中日戦でプロ野球史上初の1イニング2満塁本塁打を、新庄とともに達成した、というのだ。あれ、1イニング2満塁弾なら、我がイーグルスが見事に記録しているぞ。あの試合、フルスタ(当時)に下の娘を連れて見に行ったのだから。(2007年4月1日の日記)新聞記事は史上初と指摘しているのであって、唯一の記録とは言っていないから、間違いではないのだ。イーグルスの山崎とホセはたしか史上3例目だったのだ。それにしても懐かしいね。前日は、やはり親子で応援に行って、岩隈の先発回避で負けてしまたのでした。ホーム開幕戦だが、風も寒くて辛かった。それだけに翌日のこの試合は、天気も良くて、吉井を打ち込んで快勝だったのでした。今考えると、この2人とも主砲クラスなのに記録達成ということは打順が随分離れていたことになりますが、この時不調の山崎が何と打順8番だったのでした。3回ウラ。先頭の8番山崎安打、9番にプロ初先発の嶋が送って1番鉄平がゴロで倒れ、ここまでで2死2塁。しかし、次の2番高須が内野エラーで走者1塁3塁。吉井の自責点がなくなった状態で、ここからがすごかった。3番礒部四球のあと4番ホセ満塁弾。5番草野四球、6番鷹野安打、7番ウィット四球の満塁で、8番山崎がイニング2度目の満塁本塁打。選手達の名も懐かしいです。
2012.11.17
コメント(0)
ある方のブログで「日本シリーズ加藤事件」とあって、アノ事件かと直感しました。実は内容は、今年のシリーズでGの加藤選手が頭部付近の投球を受けて転倒し、死球を受けたかのように振る舞って、柳田球審をしてF多田野の危険球退場を宣告させてしまった事件のことでした。スポーツマンシップに反するとのご意見には全く賛同。私もあの夜は、子ども達とTVのリプレー見て文句を言い合っていました。ところで、直感したアノ事件とは、もう20年以上も前のこと。1989年のシリーズで、3連勝した近鉄バファローズの勝利投手加藤哲郎が「巨人はロッテより弱い」と放言したとされる(実は言っていない)一件です。まったくもって懐かしい事件ですが、前年の死闘(ロッテ相手の10.19ダブルヘッダー)を乗り越え、悲願のシリーズ初制覇を目指したバファローズが波に乗って一気に決めようとする勢いでした。しかしながら、その後に何と4連敗。大逆転優勝のGからはあのビッグマウスが勝利の要因とまで言われました。あの時、私の知り合いのある虎ファンは、そんなら阪神はPL以下と言うことか、と誰も何も言っていないのにひとり憤慨しておりましたが。しかし、加藤の良いところは、世間のGファンからあらぬ反感(と感謝)を浴びつつも、逆に持ちネタにさえしている度量の広さです。88年、89年に頭角を現しましたが、感情を表に出すようなタイプの面白い選手でした。時は流れて、2001年頃だったと思うのですが、夜中のCS放送で大阪ドームでのBu-GのOB戦の録画をたまたま観ました。ものすごく面白かったです。往年の名選手がズラリ。そして、イニングの合間になると「プロ野球巨人対近鉄というとこの人」などという触れ込みで加藤選手が紹介されてイジられる。それも何度も出てくるのですが、本人もサービス精神タップリに応じていました。試合にも登場していたと思いますが、まさにこのカードになくてはならない、すこし大げさかも知れませんがプロ野球文化史上のひとつの「華」のような存在だと思います。おなじ加藤事件でも今年のは本当にいただけない。でも昔の加藤事件のような逸話なら楽しい(でも本心はやっぱり近鉄として一度は優勝したかったのですが)。イーグルスには来季どんな個性ある選手が出てきて、どんな話題が沸き起こるのでしょうか。
2012.11.12
コメント(0)
仙台市街地にほど近い陸上自衛隊霞目飛行場を民間利用させる構想や要望などについて、どのような歴史があったのか。宮城県議会の議事録を読んでみる。■関連する過去の記事 霞目飛行場(2012年11月11日)1 昭和26年10月定例会建議第十八号議案として「仙台市霞目飛行場の空港指定並びに改修について」が上程されて可決されている。------------建議一、民間航空の空港を宮城県に指定されたい。 右事件につき意見書を提出したいので別紙案を添え提出する。 昭和二十六年十月二十三日 提出議員 浅野喜代治外十名宮城県議会議長今野貞亮殿建議第十八号議案 意見書一、民間航空の空港を宮城県に指定されたい。 理由 今回再開される民間航空の計画を見るに、東京を基点として、札幌に直行し東北地方にこの民間航空の利便が何等もたらされないことは、誠に遺憾とするところであつて、若しこのままに放置せられる場合は東北の産業経済は日本の進運から取り残され愈々後退を余儀なくされることは実に寒心に堪えません。 依つて当局におかれては民間航空の空港を宮城県下にも指定されるよう特段の御配慮を要望いたします。 右地方自治法第九十九條により意見書を提出する。 昭和二十六年十月二十三日 議長名運輸大臣、大蔵大臣 +安本長官、航空庁長官 |あて衆参両員議長、同運輸委員長+------------意見書そのものには矢ノ目(岩沼)とも霞目とも具体的な表現はなく、ただ空港の指定をしてくれという内容だ。ただ、議案の名称から、県内の空港指定は霞目を前提としていたのであろう。2 昭和29年2月議会。菊地清太郎議員が次のように質問している(おだずまジャーナルで趣旨要約)。------------空港設置を岡崎仙台市長だけに任せていいのか。東京から旅客機が宮城県を素通りして青森に着陸して北海道へ行く。そして北海道の行政は成果を挙げ、本県は不便を知事以下みずから体験しておるにもかかわらず未だ一度も空港設置に発言せられたことがない。無関心か、忘れておるのか、その必要を認めないのか。今後のスピード時代における本県の不便をなくすため、空港を設置すべきである。一仙台市長に任すべきではない。知事が陣頭に立ち適当なる土地を探し、一日も早く実現すべきと考えるがどうか。------------宮城音五郎知事の回答(要約同上)。------------空港は仙台、宮城として必要であり、矢本飛行場その他あるが米軍専用で民間飛行としては使えない。県としては矢ノ目飛行場を市と一緒に接収解除を要求しているが、市長だけに任せていいかとの話はもっとも。私も一生懸命矢ノ目の解除に努力しており、上京の度に外務省や特別調達庁で解除方を話しているが、新聞に書いてあるようなそう簡単なものではない。代替地なしに矢ノ目飛行場は解除しないとのことだが、しかし大いに努力して、要する飛行機が東京から着いてここから札幌その他へ行くように持って行きたい。------------3 昭和30年9月議会で門間正寿議員(要約同上)。------------矢の目飛行場いわゆる仙台空港の問題は県と市が猛運動を展開していると新聞紙上に発表されている。矢の目飛行場が近く返還され民間と自衛隊で共同使用するとの基本方針を決定したと仄聞するが、管理が防衛庁か航空局かよって共同使用の性格も違ってくると思う。もし自衛隊管理とれば隊の運営に重点がおかれ、我々の望む親しめる空港や民間航空思想の啓蒙に資する仙台空港の実現にはならない。そこで、航空局管理による民間航空基地の実現を願いたい。また、建設資金は管理がいずれかに決定すれば、直ちに大蔵省が別枠で予算化できるはずであり、しかも民間飛行場になれば余剰土地の二万坪も解放できると聞く。------------宮城知事の答弁(要約同上)。------------かねてから矢の目を仙台市、県、両議会、仙台商工会議所とともに接収解除のお願いをしており、先般、航空局から返還してもいいとの見通しがついた旨の連絡があったところである。矢の目の現地に行き米軍の意向を打診したところ、集積してある弾薬類について以前は県で代替地と移転費用を出せと言うきつい問題があったが、今度は船岡に日本政府の金で輸送することになっているそうだ。弾薬をそこに輸送して全部なくなったら返すと聞いた。日本の自衛隊でも使いたい意向があるそうなので、最初の希望通り民間飛行場として一日も早くそれを活用したいことを当局に要望している。政府では管理について防衛庁か連輸省かの問題があるようだが、私どもはいずれでもいいから民間飛行が健全に発達ができることを願っている。------------昭和30年代前半に、返還と定期便就航が実現しているため、矢ノ目を「仙台空港」としていくことで県内の方針は一応一致していたのだろうが、それでもその後、たびたび霞目や松島(矢本)が取り上げられる。4 昭和35年2月議会で大江真志次議員は、松島空港(松島基地)の民間活用策を説いた(要約同上)。------------昭和32年、東北初の空の玄関として矢ノ目の飛行場が利用され満3を迎えた。現在全日本空輸がDC3で矢ノ目から東京と札幌の間をおのおの一往復。しかし、滑走路延長1200メートルの第二種飛行場で地上誘導装置がなく天候が悪いと着陸できず、航空自衛隊松島基地に降りたり羽田まで引き返すこともしばしば。最近全日本空輸では最新鋭機コンベア440型メロポリタンを国内線に就航させているが、これを矢ノ目に発着させるためには500メートルの滑走路の延長が必要で、仙台市商工会議所等の協力を得て滑走路延長運動を展開している。予算獲得は困難で、また滑走路の延長ができても東北本線側の山が邪魔になつて、その安全性に疑問がある。そこで、この際松島飛行場の利用を考えるべきでないか。松島飛行場は2700メートルの滑走路と完備した地上誘導装置を持ち、仙台からの距離は北海道の千歳と札幌間の距離よりは短く、今後道路整備で解決されると思う。しかも松島は塩釜、石巻、古川、気仙沼という四大都市に近く、松島、金華山、気仙沼等の海岸観光地帯の中心であり、さらに塩釜、石巻等の将来の大工場地帯に近接する。〔以下原文ママ〕矢ノ目の民間空港の開設されるまでの経過を考えて見まするに、昭和二十六年のころよりこの民間空港開設をめぐつて、仙台市と矢本町が猛烈な競り合いをいたしまして、一時は矢本側の運動が功を奏しまして、松島飛行場に民間航空の新しい事務所や、待合室が建築され、テレタイプ等も用意されたのでありますが、荒木航空局長の時代になつて、どうした関係か形勢逆転、仙台側が有利となりまして、遂に民間航空港は矢ノ目に決定、昭和三十二年四月開設されて今日に至つたものであります。〔以下再び要約〕しかしながら現況は日航はもとより全日空の最新鋭機にも素通りをされ新時代に取り残された民間空港と相なった。矢ノ目一本槍の考え方を再検討する必要があるのでないか。------------質問の中で、松島飛行場が矢ノ目と並んで宮城県の民間空港候補地であったとの経緯が興味深い。これに対して三浦義男知事は、矢本は防衛庁のジェット戦闘機基地であり、周囲に人家も相当ある、玉浦(矢ノ目)は改良の見通しがありまた国道交通も便利になるなど、総合的にみて研究したい、とかわしている。4 その後、昭和40年代に共産党の県議が自衛隊基地移転と併せて霞目地区の住宅地としての利用などを質問の中で論じているのが散見される。5 昭和40年2月議会では、門間正寿議員が質問の中で次のように述べている(おだずまジャーナル趣旨要約)。------------仙台市が検討している都市計画や輸送計画の中でも、ジェット機就航と東北開発を考えると仙台空港整備が重要である。仙台を中心に各県県庁所在地につなぐ航空ローカル線を政府も計画しており、そのためにも霞ノ目飛行場は、現在の自衛隊航空隊が他に移転する計画も聞くので、近い将来民間航空の基地に確保することも当然考えるべきである。------------山本知事から具体的な回答はなかったようだ。
2012.11.11
コメント(0)
福岡空港でいつも思うことが2つある。ひとつは、よど号ハイジャック事件の時になぜここを平壌空港と偽装しようとしたのかという素朴な疑問で、それはさておき、もう1つが大事。空港が街の真ん中にあるのでアクセスがきわめて軽快だ。地下鉄で数分なのだから。高度規制や騒音などの都市行政上の課題は地元ではもちろん少なくないだろうが、いつも感心する。そして、思うのだ。仙台も霞目を民間利用させていれば、都市づくりとしてもベストだったのではないか。東西線を活かしたまちづくりを今さかんにやっているが、都市構造も重層的となり、地下鉄を引くのならもっと早かったろう。インフラ投資も軽減でき、なにより国内外の交流基盤充実により仙台・東北の経済産業の振興に寄与すること大きいかと思われる。市街地に近いことで有名なのが、福岡、松山、宮崎の3空港だそうだ。松山の知人から聞いた話だ(3つめは那覇だったかも)。長短両面で話題になるというところだろうか。ところで、この霞目飛行場は、陸上自衛隊の所管。郵便物輸送とその乗員養成のため昭和8年に建設された。しかし日中戦争のため養成された乗員は卒業すると陸軍の実戦部隊へと配属されていった。さらに飛行場も飛行機も所管が逓信省から陸軍省に変わった。(白萩町の国分尼寺には、戦死した乗員養成所出身者の慰霊碑がある。逓信省航空局仙台航空機乗員養成所と刻まれ、昭和56年建立。)昭和20年終戦により10月に飛行場は米軍に接収された。昭和26年の講和条約で返還されることになり、仙台市は民間飛行場への誘致を図ったが、昭和28年には霞目をやめ、岩沼の矢ノ目飛行場を民間飛行場とするよう動き出した。昭和31年領飛行場は米軍より返還され、霞目は防衛庁が使用し、矢ノ目飛行場は運輸省と防衛庁が共同使用することとなった。霞目には陸上自衛隊霞目駐屯地がおかれ、矢ノ目飛行場はのち仙台空港と命名され運輸省単独の所管となる。■木村孝文『若林の散歩手帖 新寺から藤塚までの史跡を訪ねて』宝文堂、2000年戦後の一時期、県や仙台市が民間利用を企て、また仙台空港の国際化や滑走路3000m延長などが叫ばれ官民共同でプロジェクトを推進していた昭和50年代あたりでも、なお霞の目の空港拡張と民間利用論が経済界の一部に根強くあったように記憶(伝承的なものも含めてですが)している。
2012.11.11
コメント(0)
1 3有力紙と河北新報明治30年正月一力健治郎が河北新報を創立した当時、仙台には3つの有力な新聞があった。○ 奥羽日々新聞(須田平左衛門、怡土信吉、友部鉄軒の流れをくむ)○ 東北毎日新聞(松田常吉)○ 仙台新聞(沢来太郎)沢来太郎は栗原郡沢辺の出身。臥牛と号し僊台(せんだい)新聞を創刊。原抱一庵、佐藤東華らを記者に抱えた。31年10月に廃刊し11月黒沢十太経営の明治新聞が創刊されたがあまり振るわなかった。沢はこの後衆議院議員を5回。仙台米穀取引所理事長、産馬組合長、政友会宮城支部長。松田常吉は牡鹿郡渡波生まれ。魚の行商から刻苦勉学し維新後戸長に推され、明治11年県会議員。改進党に属したが、第1回衆議院選(登米桃生牡鹿)で遠藤温に敗れ、補欠選挙では改進党の首藤陸三をおし、犬養毅、尾崎行雄が応援に来たが、佐藤運宜に1票差で負けた。松田と首藤は改進党の機関誌仙台新聞をゆずりうけ、東北毎日新聞と改名して是々非々を旗印とした。野村古梅、富沢大一郎、桜田孝治郎など健筆青年を集め、日清戦争で紙面を増し奥羽日々新聞を圧するに至る。明治36年東北毎日の社長松田常吉は61歳で没す。奥羽日々は仙台藩士須田平左衛門が明治6年に創業した東北新聞が前身。東北新聞は、仙台新聞、仙台日々新聞と次々改題され、主筆に福岡の人怡土(いど)信吉を迎えて日刊となり、当時台頭した自由民政思想をひろめた。明治11年5月に三面記事で某商家の嫁を揶揄したので仙台日々は訴えられ、社長は出張中と偽って出頭しなかったことから投獄されて自殺。須田の没後は怡土が社長兼主筆。漢詩人国分青崖、斎藤美雄(桐陰)、高瀬真之助(真郷)ら文筆家を集め社業大いに発展、福島、山形にも支局を置いたので、明治16年陸羽日々新聞と改題した。怡土は明治18年警視総監三島通庸から求められ、新聞の検閲係として内務官僚となり36年東京で53歳で没す。明治19年に元水戸藩士の友部鉄軒が編輯長に迎えられる。友部は明治14年天皇巡幸の歳に松平県令にたのまれて奉呈分を作り有名になった人物だが、編輯長として自ら筆をとり東北文化高揚に努め、記事正確の評から奥羽日々は東北一の新聞となった。日清戦争で紙面は多くなったが東北毎日新聞の回に立つに至った。従軍記者2人を派遣して郷土兵の活躍を報じたのが東北毎日の読者を増やした原因だったらしい。明治30年原敬が大阪毎日新聞の社長に就任。原と旧知である陸羽日々の主筆友部鉄幹(おだずま注:ママ)は招かれて大阪に去る。一力健治郎は仙台大町の小間物屋に生まれ一力家の養子となり、第二高等中学校(旧制二高の前身)に入学。明治24年書店を開業、市会議員、植林会社社長、県会議員などを経て、明治30年35歳で名誉職を辞して河北新報の経営にあたる。旧制二高の土井晩翠、佐々醒雪、東北学院の島崎藤村、藤沢幾之輔などが筆をとって親しまれた。一力は藤沢幾之輔と行動を共にした元改新党員であったが、新聞創刊にあたって党を離れたと聞く。2 その他の新聞の興廃なお、これより先には仙台に種々の新聞が興廃し、またこの後も数多く生まれては消えた。明治10年代には仙台童蒙新聞、宮城日報、東北新報、東北毎日、(旧)河北新報(一力とは別人の経営)、東北自由新聞など。20年代には、東北朝日、仙台日報、東華新聞、河北旬報、東北日報、実業絵入新聞、仙台商業日報、僊台新聞、仙台毎日などがあったが、30年までつづいたものは少ない。明治29年にできた仙台毎日新聞は34年仙台週刊新聞となり、やがて夕刊平民となり、35年廃刊。この頃、五城日々、五城新聞などもあった。日露戦争の従軍記事は読者を増し、挿絵が写真に替わる。戦後、河北新報と奥羽毎日が仙台の二大新聞となるが、河北は大阪毎日、大阪朝日と共に日本の三大地方新聞と自称していた。明治41年、仙台日日新聞が創刊された。創始者は初等教育の元老で政友会の小原保固で、その子の保が経営にあたった。大正4年には県会議長まで務めた小野平一郎が東華新聞を発刊。3 大正以降大正初年は新聞攻撃で桂内閣が倒れ、次の大隈内閣が新聞人に勲章を授与するなど、自由主義と新聞の伸張期であった。このためか各地で新聞が発刊。石巻では小牛田から鉄道が通じるころで、湊生まれの小川清により東北日報ができた。河北新報から古活字と印刷機を譲り受けて始めたと石巻市史はいうが、石巻の商況振るわず休刊し、大正2年石巻日日新聞と改題して再刊。大正4年には佐藤露紅らとの共同経営となり、第一次大戦後の好況期に社勢を伸張。この間、石巻には日刊宮城という新聞もあった。仙南では、明治42年角田に笹森倉吉の仙南新聞があった。大正8年に仙南新聞を引き継いで大河原に仙南論評という小型新聞が発刊。11年には岩沼に庄司重太の名亘新聞、白石に大岡直人の東北タイムスができた。この3社は合同して11年5月に仙南日々新聞となった。仙南の農業振興、郷土文化の培養、商工振興を掲げ、以来20年間続刊された。庄司猛太郎が編輯発行印刷を担当し、蔵王登山、マラソン、青年雄弁大会、仙南振興会設立などにも努力。庄司一郎はよく筆をとり代議士にもなった。仙台では大正14年松浦天外を社主とする東北事業日報、昭和3年創刊の井上啓次の大仙台などもできたが、第一次大戦後の不況のためか紙数はたやすくは伸びなかったようだ。大正11年小野平一郎(70歳)、12年小原保(43)、昭和4年小原保固(70)、一力健治郎(67)が没すると、各社とも後継者により経営が続けられたが、発行部数は河北新報が断然頭角を抜いていた。満州事変、日華事変から戦争長期化で物資不足による統制傾向によってやがて一県一新聞だけ継続を認める政府方針が発表され、昭和15年に実施される。石巻日日の例では、昭和15年以来廃刊の交渉を受けたが敢えて続刊。しかし紙の配給を止められ涙をのんで15年10月末に8684号を最後に何の補償もなく廃刊。仙南日日新聞も昭和17年1月で廃刊。1月25日7010号には「本県に於ては、一昨年仙台日日、東北産業、石巻日日、仙台朝日等八新聞は廃刊せられ終んぬ。然るに本社丈は用紙配給の漸減の苦痛と戦い乍ら先輩同業河北と僅々二社のみとなり、健斗したが、新聞統制令の公布あり、又一面県を通じて政府の要請もあり、権益の一切を国家に奉還し、大東亜戦争の要請に応え一月末を以て廃刊に決せり」とある。かくして河北新報のみが県内の一紙として残る。戦災により廃刊を余儀なくされた新聞社の旧社屋も大方焼失。河北新報社屋は辛うじて焼失を免れ、空襲の翌日から小型新聞を配布した。■佐々久『近代みやぎの歩み』宝文堂、1979年
2012.11.10
コメント(0)
安永3年(1774)の「風土記御用書出」の田子村の部に、宮城郡陸方田子村の村名の由来がある。これによると、往古は海辺で多湖の浦と称した。読人しらずの古歌として紹介されているものがある。あまた度君か(が)こゝろをみちのくの多湖のうらしま恨てそ(ぞ)ふるまたもとは池や湖が多く「多湖」で、文治5年頼朝が平泉攻略に来た折、多湖明神に詣でて西方を望んだところ、多湖の満々と水を湛えている様子を見て、駿河の田子の浦に似ていたところから、多湖を田子と改称したという。仙台藩士佐藤信要の「封内名蹟志」には多湖浦島と記され、よく芋を産す、味美にして名物と伝えている。なお、よみ人知らずの古歌の下の句が異なっている。あまたたび君か心をみちのくのた湖の浦島うち見てぞゆく村の鎮守の多湖明神社は明治6年に二木神社と改称し村社となった。田子は現在七北田川沿いは住宅地となり、西側は広い田園地帯。往古の多湖の浦を偲ぶことは難しい。■参考 木村孝文『宮城野の散歩手帖 榴岡から蒲生までの史跡を訪ねて』宝文堂、1999年
2012.11.08
コメント(2)
ガソリンカーなる言葉は久々に目にした。私には、刑法各論の往来危険罪の解釈で「汽車」にはガソリンカーを含むという判例(大審院昭和15年)が頭に残り、これは許される拡張解釈の事例としてもしばしば挙げられたと思うのだが、そのガソリンカーとは如何なるものか、たぶん軌道を走るものだろうが通常の鉄道とは違う路面電車的なものか、などよくわからないままでいた。木村孝文『若林の散歩手帖 新寺から藤塚までの史跡を訪ねて』(宝文堂、2000年)を読んでいて、「行人塚」の項に出てきた。広瀬川の洪水を防ぐため人柱になった行人の恩を忘れないために、七郷の村人たちが塚を築いて弔った。その行人塚が町名となり、昭和13年刊の仙台市地図には、東北本線に「行人塚」というガソリンカー駅の記載がある。ガソリンカーは昭和8年から長町と塩釜の間を運行したが、戦後廃止されている。こんな内容だ(上掲書pp126-127)。ところで仙台市若林区のサイト「ことば一覧」に、ガソリンカーの解説がある。転載させていただく。------------昭和4年(1929)、仙台塩竈間の東北本線の線路を使ってガソリンカーの営業が始まった。しかし故障続きでわずか三日で廃止となったという。その後、昭和7年8月に再開され、塩竈長町間まで路線が広がった。山王、東仙台、小田原東丁、仙台、そして三百人町、行人塚にも駅が置かれた。ガソリンエンジンを積んだ車両で、一両43名定員、全長10メートル、最高50キロのスピードが出たという。戦時色が強まると燃料不足のため運行本数が徐々に減り、戦後に廃止されて駅も取り壊された。年配の市民にとってはなつかしい乗り物である。------------戦前は仙台一高や河原町にも便利な駅があったと、よく聞くが、それが三百人町駅、行人塚駅なのだろうか。するとガソリンカーとは、軽便や路面電車ではなく、東北本線の軌道の上を走る動力車ということか。「汽車」の拡張解釈にあるように、蒸気機関車のかわりに油の内燃機関で走る動力車。つまり、ディーセルカーの兄弟という位置づけなのだ、と一応理解しておきたい。■関連する過去の記事 行人塚の地名の由来(2008年9月12日)
2012.11.05
コメント(0)
面積3万平方メートル、貯水量2万トンの大きな沼だ。(仙台市サイトの緑の名所百選から与兵衛沼・大堤公園周辺)寛文11年(1671)仙台藩士鈴木与兵衛が水田の水不足を解消するため自費で造った人工の沼である。鈴木与兵衛について『仙台人名大辞書』(菊田定郷著)は次のように記す。------------鈴木与兵衛公益家。〔中略〕宮城郡向小田原後山の渓谷(小泉邑分)を闢きて用水池となす。南北45町、東西156町、清水常に満ち、盛夏と雖も涸れず、以て小田原、南目、苦竹、燕沢等数百町歩の耕田に潅漑す。綱村公其の功を賞して池名を与兵衛堤と命じ、邸宅を同所万寿寺の東に賜ふ。延宝4年(1676)5月11日歿す。享年54、仙台新寺小路愚鈍院に葬る。------------沼の東端に水神の碑と改修記念の碑2基が建つ。昭和4年2月15日夜、堤が崩壊して水が小田原一帯に流れ出し大きな被害を受けたので、村民が総出で改修工事にあたった。その改修記念の碑と、その後昭和54年の仙台市の本格的な改修工事をしたときの完成記念碑の2基がある。水神の碑の東、道路を隔てると枡江小学校。学校建築に先立って昭和52年に発掘調査が行われて半地下式登窯跡、竪穴住居跡などが確認されている(枡江遺跡)。■参考 木村孝文『宮城野の散歩手帖 榴岡から蒲生までの史跡を訪ねて』宝文堂、1999年■関連する過去の記事 枡江小学校の地下道を考える(2011年5月5日)
2012.11.04
コメント(0)
田中文相は今日、3大学の新設を不認可とした。審議会答申を覆した形で、極めて異例。来春の開学・入学を想定していた学校側や受験予定者は、大きな見直しを迫られそうだ。文相が理由としているのは、我が国に大学が多すぎる、審議会は大学関係者が多すぎる、などのようだ。たしかに問題視すべき事柄ではある。しかし、政策に責任をもつ者の判断としては、短慮、思いつきと評されても仕方ないだろう。先月就任したばかりの大臣の主観的行動の色が強い。秋田市は混乱しているだろう。■関連する過去の記事 秋田公立美術大学(2012年5月31日)
2012.11.02
コメント(0)
夜7時台に車のラジオで、東部仙台に竜巻注意情報という。有効期間が8時何分まで、とか。別にこちらから申請して取得した許可証でもあるまいに、「有効」期間とはこれ如何に。それはともかく、路面には軽い積雪のように、降雹のあと。その前に電車に乗っている時には雷光や雷鳴があり、乗客がびっくりして声を上げていた。月が変わって、11月だ。仙台管区気象台のサイトをみたら、津波警報等の改善に伴う新しい情報文の運用開始日時が来年3月7日に決まった、と出ていた。また、乾燥注意報の際に用いられる「実効湿度」のことも、今日付で掲げられていた。そう言えば、仕事帰りの飛行機が仙台空港に降りたときにも、今日から11月で寒さが増すのでお体に注意を、という趣旨のことを乗務員の方が話していた。天候はまさに生き物だ。色々な姿を見せてくれる。地球の活動もそうだ。大震災から季節が巡ってそろそろ3年目の冬に近づく。
2012.11.01
コメント(0)
全19件 (19件中 1-19件目)
1