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大学入学説明会の広告をみて驚いた。仮称として、秋田公立美術大学の名がある。認可申請中のようだ。平成7年に秋田市が秋田公立美術工芸短期大学を設置。これを4年制に改組するとともに、公立大学法人に移行させるという。そう言えば、石川好が学長をしたのが、この短大だった。
2012.05.31
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いよいよ今日は決戦。6勝の杉内を相手に何点取れるか。田中の復活登板だが、復帰できたのだから大丈夫なのだろう。昨年までパリーグの杉内と田中の対決は、実は杉内が5戦4敗(チームは5敗)と分が悪いのだそうだ。打線がつながる最近のイーグルスだから、少ないチャンスを活かして何とか先取点を。スタメン累計年俸では数倍になるだろう相手に、負けるな。ところで田中と替わって1軍をはずれる辛島が心配だ。
2012.05.30
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各高校サイトなどから。(高校名、合格数、うち東北大学、国立医学科、現浪別など。基本は現役のみの数。)青森 国立114 国公立132、東北14、医学科10(以上現役)(国立は対卒業生割合41%。114の前年130前々年160)青森東 国公立127 東北8弘前(卒業者272)国立133 公立12 東北26(以上現役)八戸 国立139 東北38 医学科12(以上現役。過卒国立18)八戸北 国公立129 東北13盛岡第一 国立161 国公立180 東北45 医学科(全)16花巻北 国立130 公立27 東北17(以上現役。過卒国立7)一関第一 国立96(現浪計107) 東北5(現浪計6)秋田 (H23春 国公立171、東北48、医学科22)秋田南 国立125 東北14秋田北 国公立105 東北9大館鳳鳴 国公立155 東北14横手 (H23春 国立151 東北24)大曲 国立67 東北4仙台第一 国立79(現浪計158) 東北32(現浪計58) 医学科3(8)(国立現役 前年94前々年94)仙台第二 国立137(現浪計217) 東北75(現浪計106。うち医学科7、現浪計17)宮城第一 国立86(現浪計120) 東北27(現浪計39)仙台第三(前年?)国立146(現浪計189)秀光中等教育 国公立24 東北5仙台育英学園 国公立34 東北8東北学院 国公立59(現浪計)86 東北12(現浪計15)泉館山 (前年)国公立115東北 国公立13 東北3山形東 国立135(現浪計183) 東北52(現浪計65) 医学科6(現浪計17)山形南 国立155(現浪計160) 東北16(現浪計20)山形西 国立121 東北12日大山形(前年?)国公立45(現浪計62) 東北3(現浪計5)酒田東 国立108(現浪計120) 東北11(現浪計12)鶴岡南 国立96 東北8福島 近年情報無し安積 国立122(現浪計159) 東北19(現浪計31)安積黎明 国立132(現浪計146) 東北7磐城 国立92(現浪計122)(国立現役 前年99前々年136)会津(前年)国立122 東北13
2012.05.29
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18歳釜田の初勝利で連敗のいやな流れを断ち切りました。嶋や牧田もはずれるなど主力の脱落が続くチームです。しかし、松井、岩村などビッグネームの不在を、銀次、枡田、阿部などの若手控え組が埋め、先発の柱が不在や不調でも、辛島、釜田の高卒のフレッシュな力が台頭、そして加藤、ハウザーらが継投パターンを必死に構成しています。個々の力よりもチーム全体でゲームが作れるというか、接戦にも耐えられるようになった感があります。得点数、失点数ともに少なめで、しかも失点数の方が多い。僅差で勝てて、連敗を続けない力が、備わってきたでしょうか。そう考えるのは早計でしょうが、期待は間違いなく持てるようになりました。今日の神宮の試合は大胆さとテンポの美馬。行けますね。
2012.05.28
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の中から、西北地区(荒巻方面)団地群の名称。同著から既に何度か記事にしましたが、西北地区の団地状況をスケッチしたページ(p256)も貴重なので、個別団地名は以前の記事と重複するでしょうが、当該ページの情報を記します。(できれば、団地名(愛称)、業者名などの情報を整理した仙台団地造成史マップを作成したいです。)■関連する過去の記事 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)------------西北地区(荒巻方面)の団地群(著者は地図に略号に付し、欄外で略号に対応する団地名を記載しておられる。)団地名(略号(町名)、団地名の順。・主要建物) 中山1-9丁目 中山ニュータウン(1-9丁目) ・電力研究所、尚絅大、中山中、中山不動 西勝山+川平2(新町名) 第三勝山 瀧道 泉ヶ丘(?この対応関係で良いか) 本沢3 川平 ・電話分室 桜1 春日 ・NHK運動場 桜2-3北半 公苑 桜2-3南半+4-5,6+7東半 桜ヶ丘 ・望岳荘(桜3) 桜7西半 青葉台 A 国鉄荒巻 B 平和台 C 希望ヶ丘 D ひばりヶ丘 E 北仙台グリーン F 幸福ヶ丘 J 大山 K 渡辺 L さぎの森 M 勝山(東勝山1丁目) N 双葉ヶ丘 O 黒松 P 双葉ヶ丘グリーン Q 半沢 R 千鳥ヶ丘 S 菊丘------------
2012.05.27
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上の娘が4月から高校生になり電車で通学しています。何日か前、帰って来るなりこう言います。電車の中で別の高校に入った知人に話しかけられたが、すっかり風貌が変わっていてはじめは全然わからなかった。学習塾で同級だったのだが、中学校は別で、しかも2年生の頃一緒だっただけという。我が娘は感激していたようだが、私はこう語った。その人はエライね。相手が気付かないなら知らない振りで過ぎても良いかも知れないが、ちゃんと話しかけてくれたのだから。縁や出会いを大事にする人だね。何気ないことだが、有り難いことだよ。おそらく、当のエライ高校生は何も思い切って善行をしたという意識などでなく、素直に行動できた人なのだろうと思う。表ウラや好き嫌いなどいちいち気にして生きている大人の歪んだ見方でついつい説教などしてしまう自分が情けなかったが、自分の頽廃はともかく、小事ながら胸のすくような話でありました。我が子も広く世の中を学んでいくだろうが、このような人や出会いにこれからも恵まれるようであってほしいし、自身としても人を大切にしていって欲しいと思うひとときでした。
2012.05.25
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の中から、明治の仙台駅の位置に関する記載がある。------------先輩達の話によれば北は名掛丁から南、西は東五番丁から東は東七番丁までの地域は、始めは一面の低湿地で今の駅前通はもちろんなく、宮町の南端から清水小路までまっすぐに通った東六番丁がこの荒れ地を南北に貫き、これを横切るものとしては、柳町通と南町通の中間から、東に延びた野干(やげん)小路があっただけ。野干すなわち狼の声を聞くほどの淋しさに人もめったに通らぬ所であったという。ところが明治19年(1886)東北鉄道会社が今の宮城野貨物線に沿って東北本線を敷く計画を知った当時の市民が、市心に近いこの広大な低湿地を利用し仙台駅をここに設ける運動に成功し、会社は始めこの全区域を買収したが、その後市民にその西北部(現在の中央一丁目)を解(ママ)放し、これを機として急にこの地に進出したのが前記の旅館商店群で〔おだずま註:仙台ホテル、青木ホテル、丹六、玉沢支店、針久別館、陸奥ホテル、針久支店、中村旅館など〕、その翌明治20年仙台駅の開通を機会に駅前通をその正面に南北に進め、北は名掛町を横切って元寺小路に通じ、南は途中で西に曲がり南町通に直通し、市の中央部との連絡を便にした。------------これによると、やはり、当初会社は後の宮城野貨物線ルートを計画したが、市民が運動して市中央部に近い現在地に移した、ことになる。■関連する過去の記事 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) 仙台駅の予定地(その8)(2011年9月26日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2012.05.23
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の記述から、昭和30年、40年代の仙台近郊団地造成の概要。(前回 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) から続く)■関連する過去の記事 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)(e)西南地区向山、長町方面を門戸とする西南地区中、中心に近い長町分では、緑ヶ丘、茂ヶ崎など、八木山及び大年寺山の東斜面に位するもの、八木山団地、松が丘等山頂に近いもの、長町・越路両恵通苑、青葉苑等、それらの中間に位するものも数多く、そのうち八木山土地区画整備(ママ)組合に属する八木山団地には8千人の収容を予定し、既に中学、小学校を備え、その周囲には東北放送、東北工大、動物公園等があり、また西部には郵政研修所の高層をみるが、集団住宅等は含まぬ。以上の西南に当たる西多賀地区では、山腹中段に早期に造成された西の平、萩の台、大谷地等の小団地の外、近年その奥の金剛沢に造成された八木山南ニュータウンが著しく、その周辺には第2羽黒台、城南荘、信販鈎取等数が多い。更にその西の鈎取沢上流の西岸には、月ヶ丘、ひより台、県営太白団地等、次々に団地が造られ、その西南には山田住宅、山田自由ヶ丘が開かれ、更にその西南で旧生出村とを堺する旗立台地では、東に羽黒台、西に日本平、その更に西に南仙台ニュータウンが次々開かれたほか、その一部には農学短大、さわらび学園等がある。更に生出地区の中心茂庭の一部には、仙台市営茂庭団地が造成中であり、それから峠を北に越した折立地区の折立団地も、行政的には生出に属するが、その位置広瀬川に近く、むしろ西方地区に属する。これから更に西方には熊ヶ根の南にゴルフ場付き住宅団地西仙台ハイランドがある。(f)南方地区名取川を南に越えた名取山地には、各地に住宅団地の造成を計画されながら自然保存地区に編入され実現に至らず、その東麓の丘陵地帯に県の造成した名取ニュータウンが7千人の収容を予定し、その西方には名取工業専門学校、成人病センター等を見るに過ぎぬ。古代史上最も早く人の集まったこの方面が、最も長く旧態を保存するのも皮肉である。(g)山地造成の問題点以上各方面の山地造成団地中、昭和30年代のものは山地の原形をそのままにしてこれを階段状に削り、崖を玉石積で被うたに過ぎぬ。緑ヶ丘の東斜面の如きその代表的なもので、さながら古城の塁壁のごとく、道路は弓の字形に上る。従って冬季積雪が凍結すれば車の昇降は不可能となり、その上雨期には斜面崩壊の危険がある。昭和40年代に入り、かつ造成が大規模となればブルドーザーの利用によって山を削り谷を埋めて平地をなるべく広くしたが、削った部分の周壁や埋めた部分の前端に大断崖を列ねやすい。特に団地のあるものは地辷(すべ)りの跡をそのまま利用したため、例えば茂ヶ崎団地の如きは崩壊しやすい玉石層を露わに示した大きな崖に三方面から囲まれる。昭和44年緑ヶ丘の北側に起こった山崩のごときもその例で、この内側に計画中の第2松ヶ丘団地の未着手だったことが幸いであった。大年寺山の北側につくられた野草園の如きも昭和22年新たに起こった地辷(すべ)りによる急斜面で当時はその下を流れる米研(こめとぎ)沢を埋めて沼沢と化した。県はその下流への脱出を恐れて砂防ダムを築いたがそれさえその後崩壊に瀕して再建を余儀なくせられた。この種の地辷(すべ)り可能地帯は山中に多く、例えば八木山-日本楢道の通じる金剛沢の北斜面では昭和40年代に入ってこれを起し、営林署による防止工事が行われたがなお緩慢な動揺が続きその後に植えた杉の立木が一本ごとに傾いている。これを防止する方法としては崖を階段状にすること、防壁に水脱き孔を多くし内部滞水を無くすること、崖下に家屋の建築を避け、小公園等の空き地にすること等で、現に実行せられつつあるが、多量の降雨に会すればたといこの種の崩壊がなくとも裸になった地表の土砂を急激に流し、下流に氾濫する危険がある。昭和41年6月中山不動を襲った山津波はその例であり、その後社務所をやや東方に移している。山地造成の第2の問題は交通にある。現在は改まったが、はじめは無統制に行われたため、市中心部との交通に不便多く、かつ隣接団地間に障壁の多いことで、団地の境界が断崖になったり谷で隔てられる場合が多く、遥かに迂回しなければ隣の団地に買い物にも行けぬのが実状である。特に開発の途中においては、埋木の末端が谷に臨んで崩崖をなし、各所に一時的沼沢を生ずるからその下流では降雨の際の決潰流失に注意を要する。
2012.05.22
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の記述から、昭和30年、40年代の仙台近郊団地造成の概要。■関連する過去の記事 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)(1)田園の市街化昭和30年代は米産奨励の時代。水田の宅地化は嫌われた。それ故人口が膨張しても、市の東方の水田市街化はおくれ、大戦中に軍需工場の置かれた苦竹、小田原方面と、それらの従業員を含めた案内、中原、燕沢、小鶴等の東仙台方面を除けば、長く水田のままであり、昭和35年以降、市がこの方面の団地建設を初めても、七北田河畔の高砂、広瀬河畔の飯田、袋原、四郎丸等、それらの河川の氾濫による砂礫の多い畑地に限られた。水田地帯に多くの道路を縦横に通じ、鉄工団地、自動車団地、卸町団地、印刷団地等を開いたのは、主として昭和40年代、経済高度成長に伴う産業の地方分散、新産都市の運動以来で、昭和40年には中央卸売市場をもここに移し、その他の地域もそれぞれの地域の土地区画整理委員会によって市街化し、国道45号に沿っては、新興市街が七北田河畔の福田町まで連なった。一方、小田原方面に於いては、東洋製罐、凸版印刷等、軍需工場の跡地に生まれた工場のほか、農事試験場、専売局工場、ガス局等の進出に加え、中江および幸町を中心とする集団住宅街に加え、国鉄、専売局等の集団住宅も加わり、着々高層住宅街と変わりつつあるが、昭和51年なおその一部に水田を残している。芭蕉の「奥の細道」にある玉田横野の跡であろう。大正の末まで、その中央を南北に貫く射撃場を挟んで、その表面を全部畠と水田に被われ、その北側の山裾で煉瓦や瓦を焼いていた台の原も、今は全く住宅で被われ、射撃場両側の土手の外側にあった松並木の一部と瓦山の地名に昔を偲ぶのみとなり、高山樗牛の瞑想の末は薬科大学の敷地内に保たれ、展望台を設置したが、眼下は家屋の波であり、戦後の開拓時代を語る五本松奥のトタン屋根も、森林公園の一部と化した。(2)新町名の制定(抄)昭和40年 小田原一年圃を「旭ヶ丘1から4丁目」昭和42年 八幡国見方面、次いで、八木山方面、桜ヶ丘方面。それは必ずしも団地名と一致せず。例えば春日団地は「桜ヶ丘1丁目」、長町恵通苑は「恵和町」、越路恵通苑は「桜木町」、国鉄根岸は「青山1丁目」と変わった。昭和45年には市の中心部も新町名に変更し、肴町、元鍛冶町等伝統を伝える町名が大部分消えた。(3)郊外進出(略)(4)山地の造成近郊山地の住宅化は、戦後急速に加わった。中にも向山一帯、北山の背側、台の原等には、個人あるいは市営住宅が急増したが、それらの多くは個別あるいは少数戸数の集団に過ぎなかった。これを多くの戸数を含んだ集団住宅すなわち団地として造成を開始したのは、主として昭和35年、県の住宅公団(ママ)による黒松団地の開発以来で、市役所職員組合(ママ)による荒巻の共済団地、東南商事会社の緑ヶ丘等、また時を大体一にして、その前にできた三和商事の小松島住宅また名称を旭ヶ丘としてこれに加わった。少し需要が多かったので、民間企業でこれに加わるもの続出し、関兵精麦の南光台、双葉建設の中山ニュータウン、東北建設機動の桜ヶ丘等、次第に大規模のものが加わり、県は黒松団地に次いで七北田西方に将監団地、名取市の名取ニュータウン、市は小田原の北東方に鶴ヶ谷団地の大造成を敢行し、昭和40年代には南は名取市北は泉市を越えて富谷町、東は塩竈市の東部、西は宮城町に及ぶ近郊の山地は、次々に緑を失って仙台のベッドタウンと化した。以下、方面別に概述。(a)東北地区宮町、原町方面を入り口とする東北地区には、旭ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷の3大団地のほかに、東黒松、第1から3自由が丘、若葉ハイツ、東光台等の団地がある。さらに七北田川の低地を越え、利府、多賀城、塩竈の団地群がある。旭ヶ丘団地は、昭和31年の発足にかかる小松島住宅を南端とし、その北方の小田原一年圃から泉市八乙女の真美沢沼に達する大団地で、面積430ha、南から1から4丁目、堤1から2丁目に分かち、南部は初期の造成にかかって起伏激しいが北部は大体平坦。南北の幹線を中軸に規則正しく格子状の道路に貫かれる。南光台は旭ヶ丘の東に接して泉市松森に属するが、交通の上ではかえって仙台に直結し、造成以前は小松島から浦田に通ずる山道を軸に、その西側の天(あま)ヶ沢と東側の前沢の谷に分かれたが、まず西側の谷の上流から市街化し、続いてその東側の浦田山道を東に突破し、はじめはこの部分を牧場としたが今はそれらも市街化し、2万人以上を収容の予定であるが、多くは独立家屋から成り、学校以外に特別に大きな施設は少ない。鶴ヶ谷団地は南光台の東にあり、昭和42年以来仙台市の造成にかかり、鶴ヶ池大堤に注ぐ藤倉沢の本支流に刻まれた海抜80m内外の丘陵を削り、谷を埋め立てて緩傾斜とした住宅地で、その南斜面の県立三高以外には住宅一戸のみ山林緑地であったが、次々に住宅街を造り、これを1から8丁目に分かち、そのうち2丁目、5丁目および6丁目には、最高11階に達する高層集団住宅を列ね、東仙台方面から走る大道を新たに開き、それから入った中心部には市民センター、ショッピングプラザ、銀行支店等を備え、他に1中学校2小学校のほか病院、老人ホームを有し、23千人を収容の予定である。自由ヶ丘はその西北の天ヶ沢団地とともに、鶴ヶ谷と南光台との中間南部にあり、前者に先立って造成せられ、若葉ハイツは小松島からそれらに達する中間東側にある。第2から第3自由ヶ丘は、若葉の東、鶴ヶ谷一丁目の南にあって、安養寺堤群に隔てられる。東光台は鶴ヶ谷団地の東斜面に位し、鶴ヶ谷以前の造成にかかる。鶴ヶ谷団地の北方には七北田川の谷を隔てれば、松森城一名鶴ヶ城の遺跡を北から囲んで、住友商事の鶴ヶ丘団地が、大計画の一部をもって分譲を開始し、その遙か東には、歴史に名高い多賀城趾の南麓に、トーメン多賀城ニュータウンが開かれ、さらに塩竈市の東北隅に、西に松陽台、東に藤倉団地が松島湾を眼下にしてその眺望を誇り、他にも若干の団地がある。(b)北方地区国道4号を入り口とする北部地区では、昭和35年以来県の造成にかかる黒松団地があり、県営第1から第2アパート群、公団住宅アパート群を有し、人口7千を数うるうち、西側は仙台市に東側の大部分は泉市に属する。北仙台から黒松に向かえば、その東側山中に千鳥ヶ丘、その東に森林公園、西側の斜面に鷺ヶ丘、常磐団地、勝山団地、双葉ヶ丘等の諸団地あり、勝山から西に谷を越えれば、第2勝山団地があって、北仙台小学校および中学校を有し、東から、渡辺、幸福(さち)ヶ丘、南から、ひよりヶ丘、平和台、国鉄荒巻等の小団地群に囲まれる。これから北に七北田川を越えれば、西に県営将監団地が、1丁目から13丁目に23千人の人口を予定し、その北部と南部とに多数の高層集団住宅を配するほか、中央に公設市場、銀行支店等を備え、1中学校、2小学校、消防署等を有し、独立の一小都市をなすが、これまた仙台市の遊星に過ぎぬ。今からわずか10年前、大洋漁業の7万羽養鶏所が鋭い三角点峰を負った所も、今はただ紅青の鉄板屋根を列ねる平地となり、将監沼がわずかに当時の趣を留める。これと斜めに要害川の谷を隔てた東側には、名勝洞雲寺通称山の寺の谷を挟んで、南に共栄泉および泉ニュータウン、北に泉向陽台があり、後者は人口1万を予定し、かつて稜線上に並んだ東北電力の高圧送電塔がその基脚のみを残した円塔上に峙っている。これらの間を北に進めば、泉市と富谷町の界を跨ぎ、国道の西に泉ヶ丘ニュータウン、その北西の富谷町南端に、藩主の鷹狩りで名高い亀杉を擁した鷹の杜団地、さらに富谷の市街地の北方東側に、富谷グリーンパーク一名河北平和ランドの遊園地およびゴルフ場、富谷ニュータウンなどがある。(c)西北地区荒巻本沢を門戸とする西北地区では、その入り口の荒巻温泉に近い共済団地、川平団地、泉ヶ丘、春日団地等、昭和30年代後半の諸団地の後ろに、桜ヶ丘、中山ニュータウンの2大団地がある。それぞれ、人口5千人、3万人を予定する。中にも中山ニュータウンは丸田沢の支流平沢と梅田川との水稜線をなし、長く北山根白石間の本道をいただいた稜線の両側を削り、その東南麓から西北に登り、昭和41年早くもその頂上三角点に達し、その翌年にはそのすぐ下に尚絅短大、東北電力総合研究所等を誘致する一方、さらにその西方に造成の歩を進めて、丸田沢の支流を埋め、泉市実沢の南端との境に達し、2カ所の公務員住宅群、三井、藤崎、東芝等の高層住宅群を加える。中山ニュータウンの造成初期、その北側には行楽園団地の造成が行われ、その一角には小遊園地も造られたが、その後放棄の運命にあった。ところが昭和46年、第1、第2勝山団地の造成を終わった勝山企業がこれを接収するとともに、その頂上背後にある中山西部の北斜面をも造成し、第3勝山団地と称し、その東斜面に朴沢高校を迎えるとともに、その北隣には同じ朴沢学園に属し現在柴田町船岡にある仙台大学転入のための用地を建設し終わっている。この東下に位するのが桜ヶ丘で、東と北に範囲を広げる一方東側の山地を削って小学校を建て、さらに東には公苑団地、西北には東急青葉台を加えた。最近ここも新町制を施行し、桜ヶ丘1から9丁目、中山1から9丁目、西勝山、滝道、川平1から2丁目などとした。これらの北には丸田沢を隔て、泉市大谷刈の丘陵があり、東に県営加茂団地、西に大和長命ヶ丘が並んで、最近その造成を終わり更に七北田川の北には、三菱地所の超大団地パークタウンがその第1期の造成を終わり、公園を整え、小学校を建設し一部を住宅街化しているが、これを貫く計画道路北四番町丁大和町線が、未だ市内に達せぬため、市の郊外とするにはやや遠すぎる。さらにそれより西方に位する西田中、住吉台等の造成地についても同様。中山ニュータウンの西方に位する中山ゴルフ場、その西北に造成中の第2中山ニュータウン、ゴルフ場の南に接する中山吉成、その南の伊勢吉成の両団地はいずれも仙台に外接するが、前の両者は泉市実沢、後の両者は宮城町吉成に属し、いずれも仙台市外にあり、国見峠の東麓に位する半子町恵通苑のみ市の辺境に孤立する。(d)西方地区川内を門戸とする西方地区は、主として青葉山で、その大部分は東北大学、宮城教育大学、青葉山ゴルフ場に占有せられ、住宅団地としては東北突端の亀岡、武田南団地と、西方頂上部の青葉台のみである。■昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日)につづく
2012.05.22
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朝7時台。屋内でピンホール代わりに、バスカードの穴を使って紙に投影してみました。こんな感じです。一応、部分日食がわかりますね。
2012.05.21
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仙台近郊の造成団地の名称などを、渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)から集めてみた。著書の冒頭部分の略図に従い拾い出す。■関連する過去の記事 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)------------(1)仙台近郊造成地分布(*印は昭和30年代を示す。おだずま注:著書の表を正確に再現できず。)市内北半 中山ニュータウン *川平 *泉ヶ丘 第3勝山 桜ヶ丘 *公苑 第2勝山+共済、平和台、ひばりヶ丘等(*?) *黒松 *旭ヶ丘 *双葉丘、常磐 自由ヶ丘 鶴ヶ谷、東光台 *高砂 半子町市内南半 東北大 教育大 ゴルフ場 *亀岡 *八木山 *松ヶ丘+恵通苑 *緑ヶ丘 茂ヶ崎 八木山南 太白 ひより台 山田自由ヶ丘 仙台南 日本平 羽黒台 *飯田 *袋原 *四郎丸 四郎丸東泉市 三菱パーク 将監 *向陽台+泉ニュータウン 永和台 松森 鶴ヶ丘 東黒松 南光台 西田中 住吉台 中山第2 中山ゴルフ場 長命ヶ丘 加茂宮城町 中山吉成 伊勢吉成 落合・大竹利府町 神谷沢 県民の森(2)仙台北部造成地泉市 将監団地 泉向陽台 共栄泉 泉ニュータウン 泉永和台 松森団地 鶴ヶ丘ニュータウン 加茂団地 長命ヶ丘 大平西 第2中山 中山ゴルフ場 南光台 泉黒松宮城町 中山吉成 伊勢吉成 葛岡霊園仙台市 中山ニュータウン 第3勝山 桜ヶ丘 公苑団地 春日団地 泉ヶ丘 共済団地 平和台・国鉄荒巻 大和ネオポリス 第2勝山 ひばりヶ丘・幸福ヶ丘 サギヶ森(鷺ヶ森のことか) 常磐団地 勝山 双葉ヶ丘 黒松 旭ヶ丘 森林公園 自由ヶ丘 第2自由ヶ丘 ?葉ハイツ 鶴ヶ谷 東光台 北仙台グリーンプラザ 東急青葉台(3)仙台南西部造成地東北大学 青葉山ゴルフ場 青葉荘 八木山 松ヶ丘 越路恵通苑 長町恵通苑 緑ヶ丘 茂ヶ崎 西ノ平 大谷地 八光台 第2羽黒台 八木山南 国鉄鈎取 城南荘 信賑鈎取 太白団地 ひより台 月ヶ丘 山田自由ヶ丘 仙台南ニュー 日本平 羽黒台 山田住宅(4)八木山方面造成地(主要建築)上野原小 電磁気研究所 郵政研修所 八木山中 八木山小 東北工大 東北放送 電子高 向山高 向山小 愛宕中 西多賀中 東北大電子研 朝鮮人学校 恵和町(長町恵通苑) 東北電通学園------------著書では丁寧に地図に団地の分布状況を示している。おだずまジャーナルの前回記事でも出ていない団地名称もあり、何だかワクワクする。今は時間がないが、著書の図や詳細な団地造成の記述などをたよりに、現在のどの町名を指しているかなど、後日よく調べてみたい。
2012.05.20
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宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年 から。(前回赤字に悩む宮城の教育(その1)(2012年5月19日)から続く)3 昭和29年1月の報道では赤字14億円、県財政は危機に直面。明29年度分から繰上充用で穴埋めするより仕方がない。新年度予算編成は、新規事業は大なたを振るわれ、県教委の要求も大削減となった。教員増の要求は、小中児童生徒1万3千名の増加に対して、小学校200名、中学校100名の増員を要求したのだが、逆に現在1万700名から480名を整理せよとの査定であった。教員比率が現在児童生徒50名に対して教員が、小1.8名、中1.5名を引き下げて、小1.7中1.4とするというのである。到底我慢できるものではないが、一方県庁職員も120ないし130名削減と伝えられる。特殊教育や犯罪少年対策も暗礁に乗り上げた形となった。やっと折衝の結果教員増105名の復活を見たが、教員平均給の引き下げ、事務費3割減などとなった。教職員200名の整理のため、高給の老齢者に勇退を求め全体の給与総額を節約せねばならない。全く苦しい年度末の人事やりくりとなった。東北各県とも赤字財政に悩むことは同様であった。秋田、岩手は昇給停止、山形は新採見込み立たず山形大の新卒は悲鳴、福島は老齢高給者の整理のため教員男50歳女45歳に線を引く(共稼ぎはどちらか辞める)方針という。宮城県としては合議熟考の末、(1)年齢該当者に強く退職勧告、(2)共稼ぎ教員の片方に退職勧告、の2本建てで行くこととした。(2)は福島のように一本調子ではなく、夫婦合わせて4万円以上で一方が2.8万円以上の場合片方に勧告し、片方が2.8万円以下でも片方が恩給受給資格有れば講師に任用替を行うこととした。この方針で強行突破するより他にないとして年度末人事を実行した。他県では人事委員会に提訴したり処分取り消しの民事訴訟を提起する例が多いが、本県の場合そんなこともなく潔く県や県教委に協力してくれた。(おだずま注:著者の宇野先生はこの時、県教委学務課長で、身を切られる思いであったと記しておられる。)難産人事を終えて一息すると、7月の昇給期になって早坂副知事から県職員教職員とも7月の昇給はストップするとの言明。既に岩手県などで条例改正を行っているが、その波が波及してきたのだ。12億円の赤字のため昇給停止で2千万円を浮かすのはやむを得ないと副知事はいうが、組合は納得できないと言い、県教委としてもだまってはいられない。教職員の志気に影響すると知事に善処を求めるが、県としては人員整理方針をまとめ実出血60名を出すと決定した際でもあり、色よい返事は得られなかった。やむを得ず、1年間昇給の調整により予算の2割、1200万円の節約を図ることとなった。8月末には、自治庁から県財政運営について勧告。(1)職員配置合理化、(2)物件費節減、(3)補助金交付金の縮減、(4)単独事業と投資的経費の抑制、の4項目。そして、29年予算で地方交付税45億75百万円を計上しているが約13億円の空財源をアテにしている、と指摘した。既に実績赤字は12.3億円に達しており、歳入財源の過大見積もりと放漫な支出を改めよとの勧告である。教育についてみれば、勧告(1)は、教職員は小中とも全国平均を上回って採用してあるから、小250名中109名の整理が出来るとされたのは驚く外なかった。とにかく、県教委としては毎年教員不足である、全国平均は古い数字である、明年春の入学児童は15000名増加するので400名の増員が必要である、百歩譲って今200人整理するとすれば退職手当は1億円を下らぬし、浮く給与は3千万円にしかならぬ、むしろ年度末の自然淘汰を待って新規採用で調整すべきと結論した。副知事の上京折衝によって、練直し節減案8億7百余万円となり、教員整理問題は明年3月まで延期となり一安心した。結局議会に提案された整理額は6億3千万円であった。教育予算の削減は1億2千万円で、内訳は昇給昇格停止23百万円、欠員不補充で27百万円、教員旅費、高校需用費で29百万円ほか。昇給昇格停止は県教委として賛成しかねるし、需用費削減は高校PTA会長からも猛反撃があった。高校の必要経費の65%はPTA負担の現状において、父兄負担の激増は絶対反対とのことで、教委は板挟みとなった。10月の県議会では、新たな財源措置の努力などの条件付きで、財政整備案は与野党の妥協点に達した。11月始め県人事委員会は引き上げ勧告を留保し、せめて昇格昇給の停止だけは撤廃するよう示唆するにとどめた。やがて右社県連も人員整理反対を申し入れ、ついで両社、県労評などが県政に不満を示し、反省なければ純野党に踏み切ることを示唆する一幕もあった。春に財政悪化に協力した人々の退職金が11月になっても300人が未支給となっていた。12月の追加予算でやっと2千万円計上できたが、150人分にしかならなかった。昭和30年早々の決定は、懸案の昇給昇格問題を10月該当者について1月付きで実施することであった。物件費、行政費を更に2割節約して1千万円を浮かし、残りは内部操作で。ちなみに所要経費は教委11百万円、県5百万円、警察5百万円と、多数を要する県教委としては難問であった。やっと予算化されると、総額15百万円余、教職員分1030万円、県300万円、警察200万円の内訳であった。県職員の整理については、(1)3月まで50歳、(2)配置転換困難の者、(3)夫婦共稼ぎの者、(4)両親親族に相当の収入資産あるもの、を対象として実施する基本線を示したが、教職員の勇退折衝は波乱含みで、すでに昨年の強行策の後で名案はない。東北各県とも児童増加に見合う教職員増員は認められず、昇給分の予算もなく、高齢高給者の整理、と難問を抱えた。ただ、宮城県の場合、他県のように最高年齢男52女45とかに引き下げて一線を引くことまではしないで済ませたことについて今なおいくらかの安らぎを覚える。
2012.05.19
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昭和27年から3年間ほどの宮城県の教育について、赤字財政との関連部分を振り返ってみた。2回続き。宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年 から。1 昭和27年10月の知事選挙で宮城音五郎教育長が当選。地方財政困難の時代で、消費県から生産県をめざして向上の方途を探るのが県政の最大緊要事であった。11月上旬の人事委員会勧告では、5月に遡って9,451円を12,290円にベースアップする改訂。財源難の県は悲鳴。教員組合は16,000円を要求して集会を試みるが、宮城知事擁立の経緯もあり、闘争には限界があった。(記事 昭和27年発足の地方教委の諸問題(2012年5月13日)を参照)2 昭和28年義務教育教職員の給与問題。歴史的な問題だが、国庫負担法が制定されており、学校は市町村立でも給与は県が負担することとなっていた。時に定員定額制などの問題が絡んでいるが、概略2分の1を国庫から支出し、残り半分を県が負担する。しかし、昭和25年のシャウプ勧告で税制改革が行われ、地方税法が改正され、いわゆる平衡交付金制度がはじまり、義務教育費負担法は廃止された。その結果、教育費については従来の如き直接的保障はなくなり、教育費も地方財政平衡交付金に含まれるに止まった。もちろんこれでは教育界に不安極まりなく、特に財政窮迫が教育費にシワ寄せされる恐れが出るに及んでは、何とか打開の道を考えざるを得なかった。そこで、義務教育費は全額国庫負担制を明示すべし、最低保障を国が行うべし、などの議論が出るがまとまらない。地方制度調査会や税制調査会で検討した結果、やっと、義務教育費国庫負担法が28年に成立した。ところが、更に一歩前進して、全額国庫負担を含みとした義務教育学校職員法案の構想が生まれた。教員を国家公務員とし、給与は県教委を通して支給するので、そのための指揮権を文部大臣が持つというものであり、議論がなされた。教育界内部でも、教委側は給与は東京並みを標準としなければならないと評し、定員制となると郡部には小規模校が多いので不利にならないかと案じられ、一方教員組合からは、国家公務員として活動を制限する自由党の選挙対策だとして反対を表明し、賛否こもごもであった。2月の宮教組大会は、この法案粉砕を運動方針の第一に掲げた。独立1年を経て青少年の不良化傾向。赤字に悩む県当局が国体用に作った自転車競技場を競輪場に転用して利益を得ようと考えたことは、識者を憤激させた。このような青少年の情況の中で、法案は議論された。河北新報社説2月28日は、こう述べた。給与確保の点や平衡交付金の別枠とするのは東北地方にはプラスにもなろうが、然し定員定額制を前提としているのは地方の実情に合わないのではないか、また、教委を骨抜きにしたり全国一律化にならないか、国立学校(附属小中)に県が給与支払いをするのは不合理ではないか、いずれにしても日教組の政治活動禁止を狙っており政治問題化したところに問題があろう。国会の論議はまとまらず、バカヤロー解散の中断を経て、総選挙後の第5次吉田内閣でも見送られ、結局先に成立した国庫負担法が実施されることとなった。給与費の半額は確実に国庫負担となったが、実支出の半額のため、財政事情から富裕県と困窮県との格差は年々増大した。宮城県は27年暮れの年末手当増額分0.25月分は年を越して2月になってから貸付金の形で4千万円を支出せざるを得なかった程である。三本建て給与問題。主として高等学校長協会から提起されたもので、学歴の高い高校教員の給与は小中に比して不利なので、別枠で改善すべきである、そのため、大学、高校、小中と三本建ての体系を主張したものである。総選挙後の第16特別国会で成立し、宮城県では12月議会で条例改正を行った。初任給から差を付けたため、新制大学新卒者は高校志望が増えることとなり、全国中学校長会は三本立給与法の改定を要望した。県立高校の営繕計画では仙台一高改築。10月に起工式を挙げるときは、日本一のモデル校舎をめざし、教員室も研究室制度、設計は東京新建創の山崎忠雄技師。もっとも、財政難から進捗は遅々たるものとなり、落成式は昭和37年秋と、9年を要した。(赤字に悩む宮城の教育(その2)(2012年5月19日)に続く)
2012.05.19
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すごいですね。接戦をよくものにしました。そして、青山の6試合連続セーブは日本タイ記録。しかもほとんどが1点差の勝利。何だか強いチームのような気になってしまいます。明日はヒメネス。あの雨のKスタのコールド狙いハプニングの試合以来の先発。今度はビシッと締めて、打線も要所でつないで、少し楽な勝ち方をしてみたい。青山も新記録も確かに狙いたい気もするけれどもね。そう都合の良いように考えると、ヒメネスが7回まで投げているうちに、味方は2点とっておく。試合は2-0のままで、8回裏は片山。9回裏はハウザーが2アウトまでとって、走者なしのまま青山が最終アウトをとる。これでセーブは成立するのだと思うのですが。
2012.05.16
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前回記事の箟岳分校。気になってもう少し調べてみた。■前回の記事定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日)(注)下記文献や現在の表記法に従い「箟」の文字を使用。前の記事では宇野量介先生の記述どおり「箆」の字を用いた。まず、涌谷高校要覧から沿革を振り返る。○ 昭和23年7月15日 定時制課程を設置(中心校、箟岳分校、中埣分校)○ 昭和26年3月31日 中埣分校廃止○ 昭和28年4月1日 定時制夜間部設置○ 昭和36年2月3日 定時制中心校 募集停止○ 昭和39年1月3日 定時制箟岳分校 募集停止以下は『涌谷町史 下』(昭和43年)による。なお、涌谷町、箟岳村の合併により涌谷町が誕生したのは、昭和30年7月15日である。昭和23年4月、新制高校発足により涌谷高等女学校が共学の涌谷高校になる。同年7月、定時制が本校(夜間)と 箟岳(昼間)に設置される。箟岳分校は、昭和23年の箟岳中学校新設に伴い、7月にその一部を借りて発足した。校舎独立を要望する声に応じて、旧青年学校舎を移転使用することに決し、狭隘かつ設備不十分の中で授業が行われる。昭和26年に2教室、27年に2教室の増築。初代分校主任に五島幸雄。第1回卒業生から全日制本校をしのぐ好成績で大学進学が多かった。この事態から視察来校に忙殺される始末。父兄の熱心な協力も見逃せない。教育内容は日を追って高められたが、亘理正彦県会議員の働きにより家庭科教育が一挙に整備され、生徒の学習意欲を燃やさせた。和裁、洋裁、料理、手芸、茶華道と当時最高水準で、モデル教室として文部省から資料を求められた。地域住民に影響が大きく、婦人の啓発と食生活の改善に大きな役割を果たした。かくして、子弟の進学に非常な苦難をなめてきた住民は、分校設置によって一挙に教育熱の燃え上がりを見せ、延いて全日制高校に進学するものが年を経るに従って増加するに至り、昭和42年3月をもって閉校した。
2012.05.15
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昭和28年の出来事で特筆されることのひとつに、定時制の箆岳分校の充実ぶりだ。青少年の不良化の傾向など頭を悩ます際に喜ばしいことだった。大学受験はみなパスし、就職希望者もみなできたとか。村の人々大喜びで自発的に三教室を増築して、この春落成したという。卒業生32名中、8名大学進学、就職20名、あと4名は家事従事。この好成績は専ら、五島教諭と千田教諭の2人の端正の結果だという。教育の力の偉大さと、それを支える教師に人を得ることの重要さをしみじみと考えさせられることである。■出典:宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年
2012.05.14
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(前回記事「昭和27年宮城の教育委員選挙」(2012年5月12日)に続く)妙な経過で成立した市町村の教育委員会だが、選挙直前まで公選ではなく任命制にすべきの声が出たくらいで、発足に当たっては貧弱陣容で期待できないとされ、教育長にその人を得るのは困難で、予算編成が試金石と言われた。11月1日発足当時の新聞は、前途多難な地方教委の題で次のように報じた。教育長の確保は難しく、専任職員を置くことすら塩竈石巻古川の3市を除けば2、3の町村に過ぎない。従来の学事係が兼務するのが精一杯で教委は無力化するしかない状況。選ばれた委員諸公にしても、資質は期待ほどではなく人事権をたてに暴言を吐くものも伝えられ、庁舎に至っては独立の庁舎をもつものは一つもない有様。委員報酬については成算もなく、町村当局の悩みの種である。教育施設の不完全をいかにすべきか、不十分な教員組織の充実はどうすべきか、教員異動について県教委との調整をいかにすべきか、そもそも予算捻出はどうか、など、行く手の困難は多かった。県教委はこの間、あれこれ指導助言を加えてみるものの、裏付けの財源は国の措置に待つより他なかった。伝えられるところによると、文部省要求の地方教委分の平衡交付金は39.8億円だったが、大蔵省査定で10.8億円と削減され、委員報酬単価は市4,500円、町村800円、教育長が14,000円では優秀な人物を得ることは困難である。助役の片手間で教育長を兼ねるのでは所期の目的達成にはほど遠い。11月末に第4次吉田内閣の重要施策が発表される。文教刷新の一項があったが、肝腎の内閣が不安定で、池田通産大臣が不信任され、広川農林大臣の非協力事件があったり、独立初年の国会は安泰ではなかった。28年予算審議の最中、吉田首相のバカヤロー事件から3月14日解散となる。4月総選挙で第5次吉田内閣が成立するが、自由党は第1党ながら過半数に足りず政局はなお混迷を続けるのである。とにかく独立第一年は騒然たる中に進んだ。与野党対立は講和条約と安保条約に絡んで妥協のない抗争を募らせるのみで、独立後の対内諸施策については、逆コースの名において野党はことごとく反対。総選挙を重ねても革新の側に国民の多数は目を向けようとしない。国会の状況と異なり、宮城県では革新系に擁立された宮城新知事となったが、赤字財政から新知事の行く手は苦難が予想された。11月上旬には県人事委員会が現在9,451円を12,290円にアップの勧告。財源難の県は悲鳴を上げ、教員組合は16,000円ベースを要求したが、結局ない袖は振れず、宮城知事擁立の組合関係者としても闘争の限界があった。昭和28年は学制頒布80周年の年でもあったが、地方教委制度については、中教審答申を見ても、六三制堅持とともに、教委制度は民主的改革の一要項であり教育の中立性自律性の樹立を意図するもので、その長所を発揮させたいとして、地方教委の改変する積極的根拠はないと断じ、委員選挙方法に検討を要するとした。もっとも地教委1周年を迎える秋になっても、問題点は依然として残り、廃止論も根強かった。■出典:宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年
2012.05.13
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昭和27年は独立の年、また第1回の高校体育連盟総合体育大会が5月下旬仙台で開催された。この年、全国的な教育問題として浮かび上がったのが教育委員会法改正の動き。昭和23年に制定され、半数改選の規定により当年秋に選挙実施の予定であったが、さらに市町村教委の選挙は大体が当年まで延期されていた。秋には、各都道府県、5大市、全ての市町村1万あまりに教委を設置しなければならなかったのである。しかし、もともとこの制度は占領中の米国の指導で始められたもので、我が国の実情に合致とは言えぬ面もあって、全部の市町村に教委を設置するのはなお検討を要するとの声もあった。事実、26年7月の政令改正諮問委員会からの答申でも、教委は都道府県と人口15万以上の市に設置すれば足りるとするくらいであった。文部科学省としてはさらに1年延長して十分研究検討したいとの改正案を用意したが、これには、各県教委は賛意を表し、各市町村に教委を設置すれば教員の異動も困難になると理由を挙げた。一方、町村長は、教育行政の混乱は避けたい、二重行政は自治警察で実験済みであるとして改正案を支持した。更に、教員組合は、各市町村に設置すればボスの発生必至として、改正案賛成の態度に出た。しかるに国会では参院で可決された改正案が衆院で否決され、結局従来の教委法の示すとおり、今秋選挙実施、各市町村に教委設置と決まったのである。政府提案を与党たる自由党が主となって否決したのであるが、これには次のような理由がある。率直に言って、日教組対策と言われた。自由党が改正案に反対する理由は、町や村に教委を設置するのは教育の民主化を進めるもので1年延ばすことは出来ないというのが表向きの理由で、実は、日教組の分断政策というのが一般の見方である。今まで5大市のほか57町村、東北では仙台市にしか教委がなかったため、日教組の交渉相手は都道府県の教委というのが特例的に認められていたのだが、今秋各市町村にも交渉相手が出来ることになる。都道府県単位に組合を作るという特例が5月10日で認められなくなっていた。この機会に日教組を各市町村単位に切り替えて勢力を弱め、また、選挙では地方の名士を選んで日教組を抑えようということらしいのである。この結果に文部省は大いにあわてて善後策を練る。宮城県教委は、この間、7月16日定例委員会で次のように決議した。教委法一部改正案が衆院では世論に反して否決されようとしていることは遺憾であり憂慮に堪えない。本委員会としては、未設置市町村の教委設置を1年延期して教委法根本改正に検討の余地を残そうとする本法案を、地方教育界の実情から見てあくまで支持するが、万が一法案が通過しないときは、少なくとも地方教委を任意設置とする規定を設け、もって不要な混乱を避け不安を解消されんことを切望する。7月下旬、改正案は不成立となり、各市町村に新たに4人の教育委員(他に議会から1人)が生まれることとなり、既設教委の半数改選が行われることとなった。県内の日程は次のようである。県教委 告示9月15日 選挙10月5日市教委 告示9月20日 選挙10月5日町村教委 告示9月25日 選挙10月5日全県下くまなく教委制度の啓蒙運動も行わなければならないが、町村長側からすれば、主として財政上の理由から不要論もあったほど妙なものだった。しかも8月28日に衆議院の解散(抜き打ち解散)がなされ、追放解除者が政界復帰を狙い、野党は抜き打ちの非を鳴らし、与党の抗争も激しかった。県では、佐々木嘉寿治知事が明年2月まで任期を残しながら、予算編成の常道からとの理由で再出馬のため早期辞任説が出て、10月早々、国会、知事、教育委員の選挙が重なって行われることとなった。10月1日衆院選は、自由党が過半を制し第4次吉田内閣が成立するが、復活した鳩山氏を抱えて政権は混沌を続けるのであった。一方宮城県知事選挙では、佐々木氏の対抗馬として擁立された教育委員長の宮城音五郎博士が、政治に素人ながら清新と清潔を買われて僅差で当選した。かくして、県教委には、庄司ヒサヨ、八島炳三、野口秀敏、相沢庸治の4氏が当選。仙台市では2名改選で石川謙吾、今野幸治郎の両氏が当選。ほか県内全市町村に4名の教育委員(議会から1人を加えて5名)が誕生した。はじめ仙台市以外では不振が伝えられたが、石巻で5名、塩竈8名、古川7名の立候補者があった。県教委委員長には野口秀敏氏、副委員長には議会選出の全先清水氏が選ばれた。■出典:宇野量介『続 戦後の宮城教育を語る』宝文堂、1970年
2012.05.12
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ローテ合間に先発し、好投で試合を作ってくれるのに、なぜか勝ちに恵まれない感のある川井投手。今季初勝利。これは良かった。1-0というパリーグらしくない緊迫のゲーム。川井と継投陣、そして堅い守りによる完封劇は、連敗ストップ以上に、チームに自信を呼び戻したのではないでしょうか。さて、10日はヒメネスと小石だ。気をよくした小石に2連敗するわけにはいかないから、何としても攻略したい。ヒメネスはいまやローテの柱だ。やっと無難に定着した今季、白星を多く積み上げるべき役割だ。完投できなかった前回を上回って、ぜひ完封で3勝目をホームで実現して欲しい。交流戦前にできるだけ良い勝ち方を続けたいです。
2012.05.09
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(前回中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その1)から続く)4 山村と八幡荘の場合鎌倉時代の山村(やまむら)の地頭は関東御家人の大河戸氏で、文治奥州合戦の功により、在地領主を廃して任命されたものと考えられる。八幡荘は国府の在庁官人中の有力者であった陸奥介(むつのすけ)氏が鎌倉時代の地頭で、藤原時代に陸奥介氏の私領であった。関東御家人以外に、平安以来の在地領主が地頭になることは大変少ない。それは奥州藤原氏の従者として組織されていて、その所領は謀反人跡として没収されたからである。陸奥介氏は、数少ない例外である。ではなぜ陸奥介氏は生き残ることが出来たのか。それはこの荘が関東御領であったためと思われる。関東御領と推定する根拠は、この荘が鎌倉幕府の政所(家政機関)に召米(めしまい)を負担していたことにある。陸奥国内の関東御領としては好嶋(よしま)荘(いわき市平)が有名だが、この荘でも平安時代以来の在地領主岩城氏が地頭になっている。関東御領になったのは文治奥州合戦の3年前の文治2年(1186)。おそらく頼朝が藤原支配を切り崩すために、奥羽の要衝の地に関東御領を設定し在地領主を地頭に安堵したのだろう。5 在地領主の立場鎌倉時代には地頭がほとんど関東御家人で占められた中で、陸奥介氏や柴田氏は例外だった。しかし、その所領支配は苦闘の連続と推定される。正治2年(1200)8月柴田次郎が追討され、9月工藤行光とその郎従藤五郎・藤三郎兄弟の協力を得た宮城四郎家業の手で、館が攻め落とされた。幕府からの召還命令に病と称して応じなかったのが理由であるが、真の理由は不明である。陸奥介氏の八幡荘は、一部が婚姻関係を通じて関東御家人那須氏に移り、陸奥介氏、那須氏、留守一族の宮城広成(ひろなり)の後家と那須氏、関東御家人千葉氏一族の飯高氏と那須氏との間で、荘内の地の領有をめぐる相論が、幕府法廷を舞台に度々行われている。この中で陸奥介氏は勢力を失っていったのであろう。南北朝内乱期までには、家は下野国の保田景家を祖とし、八幡介(やわたのすけ)と名乗る一族に乗っ取られてしまう。こうして平安時代以来の在地領主であった陸奥介氏と柴田氏は、結局、関東御家人の前に鎌倉時代を生きぬくことができなかった。6 北条氏所領の展開関東御家人の地頭も、かならずしも順風ではなかった。鎌倉時代の後期には、かなりの部分(12のうち6つの所領。大谷保、名取郡、亘理郡、刈田郡、伊具荘、金原保)が北条氏の所領となっている。中には、名取郡の三浦氏のように、北条氏に仕掛けられて反乱を起こして敗れ所領を奪い取られたもの(宝治合戦、宝治元年(1247))もいた。こうして鎌倉末期は関東御家人、なかでも北条氏の勢力が強く及ぶことになるが、次の南北朝内乱はその反発を一つのエネルギーとして展開するのである。■難波、大石編『街道の日本史8 仙台・松島と陸前諸街道』吉川弘文館、2004年から(大石直正執筆部分)
2012.05.06
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1 中世の郡、保、荘宮城県南部の中世は、黒川、宮城、名取、亘理、柴田、刈田の諸郡に、大谷、高城、深谷、金原の「保」、八幡荘、伊具荘の「荘」から成っていた。これら郡、保、荘は、それぞれ独立した所領単位であり、例えば八幡荘は陸奥国八幡荘であり、宮城郡八幡荘と呼ばれることはない。地頭も宮城郡とは独立して任命されている。このほか、南宮荘、田子荘(塩竈神社の日御供米を負担)の荘園も文書に見えるが、寺社のための免田のごときもので独立した所領ではない。また、根白石を中心とした地域は山村(やまむら)と呼ばれ、荘園と推定されるが、宮城郡山村とされて、郡内の半公半荘のようだったろう。(地頭名 南宮荘:留守(伊沢)氏)黒川以下6郡はどれも『延喜式』『倭名類聚抄』に見え、9、10世紀以来の郡である。陸奥国では古代から中世の間に新しい郡が出来ることが多いが、この地域ではなかったのである。(地頭名 黒川:東氏?、宮城:国分氏、名取:和田氏、亘理:千葉氏、柴田:柴田氏?、刈田:中条氏?)大谷、高城、深谷の「保」は、12世紀前半の水田開発でできた公領の単位。多賀城の東と北を取り巻く形なので、低湿地開拓には国府関係者すなわち在庁官人が関わった可能性がある。(地頭名 大谷保:菅原氏、高城保:千葉氏、深谷保:長江氏)荘園(荘)では、伊具荘は後宇多院領。八幡荘は、鎌倉殿を本所とする関東御領と推定される。伊具荘は古代の伊具郡がそのまま荘園化したもので、成立は保よりやや遅く12世紀中頃以降と推定。これに対し山村と八幡荘は、国府所在の宮城郡のなかにできた荘園で規模も小さい。(地頭名 八幡荘:陸奥介氏、山村:大河戸氏)鎌倉時代には、陸奥国全体がそうであったように、関東御家人が、(八幡荘など宮城郡内の地と柴田郡を除いて)これら郡、保、荘の地頭に任命された。2 宮城郡の特殊性郡、保、荘を単位に地頭が任命されるのが普通だが、国府所在地の宮城郡内は複数の地頭による所領で構成されていた。宮城郡の公領の中心は高用名(こうゆうみょう)という「名」で、その中に幾つも村を含む広大な領域だったが、鎌倉時代は陸奥国留守職を世襲する留守(もと伊沢)氏の所領だった。国府は一般に「こう」と訓ずるから、高用とは、「国府用」の宛て字と考えられる。すなわち、国府直属の土地であった。なお、留守職とは、国府の在庁官人を指揮する留守所の長官の地位。奥羽両国に平安時代以来この職が置かれ、他の国にはない。文治奥州合戦の時、留守職は大河兼任に与同して所職を没収され、建久元年(1190)、その後に関東御家人の伊沢家景が補任された。中世の国府は、古代の多賀城正庁よりは西の岩切付近と考えられ、陸奥国の縦貫道たる奥大道が冠川(七北田川)と交差するあたりで、鎌倉時代には河原宿五日市庭(いちば)、冠屋市庭の2つの市場が開かれていた。中世の宮城郡には、留守氏と陸奥介(むつのすけ)氏のほか、属(さつか)・税所(さいしょ)を名乗る在庁官人がいた。税所の所領は荒井七郷で、郡内が有力な在庁官人で分割領有されていたと想定される。郷には、このほかに宮城本郷と国分寺郷が史料に見える。宮城本郷は留守氏一族の宮城氏の所領、国分寺郷は国分氏の所領。宮城郡の公領は、高用名などを除くと原則として郷によって構成され、それが所領単位になっていたようである。3 塩竈津と湊浜宮城郡には以上の他に、塩竈津があり、ここに陸奥国一宮の塩竈神社があった。一般に国の一宮は12世紀頃に、新しく再編された国府の守護神として祀られたものであるが、塩竈神社も多賀国府と深い関わりが推定され、塩竈津には留守氏の譜代の家臣筆頭の佐藤氏が居城を構えていた。港としては七ヶ浜の1つ湊浜もある。多賀国府近くを流れる冠川は中世まで湊浜に注いでおり、塩竈津と並ぶ国府の外港であった。また、七ヶ浜の1つ花淵(鼻節)浜にある式内社の鼻節神社には、国府厨印(りゃいん)という印文をもつ古代の銅印が伝えられていた。七ヶ浜は国府直属の漁業や海運に従事する人々の集住地として宮城郡内の独立した領域だったと考えられる。以上のとおり、宮城郡は内部がいくつもの所領に分割され、何人かの領主に分割領有された。他の、郡、保、荘がほぼ1人の地頭で知行されたことと異なるのは、国府所在郡であったためだろう。(以下、中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その2)に続く)■難波、大石編『街道の日本史8 仙台・松島と陸前諸街道』吉川弘文館、2004年から(大石直正執筆部分)
2012.05.06
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河北新報の記事で、与兵衛沼の底から、奈良時代の焼き窯の後が見つかったというのがあった。古代を考える貴重な資料なのだろうが、気になったのは、発見のキッカケとなった昨年4月の地下道の漏水事故。枡江小学校の校庭と与兵衛沼南東部を結ぶ地下道で起きた水漏れで、この原因調査のために、沼の水を抜いたのだ。あんなところに地下道があったのか、というのが驚きだった。仙台人として知らぬは恥。さっそく手許の地図を開いてみる。東照宮から二の森を経て東仙台に至るバス通り(地元の人なら通称がありそう)のガソリンスタンドの信号を北に折れると、枡江小に登る道だ。昔はそのまま北進すると、南光台の南端の峰づたいの道に出て、その道は、稜線沿いに自由ヶ丘を経て鶴ヶ谷に出る道で、旭ヶ丘に住んでいた20年以上前の私は、よく抜け道で走っていた。いまでは県道(旧国道4号)台原から一気に環状の都市計画道が旧青年の家まで開通し、雰囲気も変わった。話を戻して、地下道だ。新聞にあるように、校庭と沼の南東部を結ぶというと、小学生の安全のために掘ったのだろうか。手許の地図帳にはなく、ネットのマップでもハッキリ出ていないが、検索するとステンドグラスの美しい地下道の画像があった。車で移動しかしないと、併走する旧道の良さや路地裏に残る歴史などに気付かないものだが、立体交差にも気が回らないもののようだ。例えば、名取以南の国道4号では、大河原あたりまでスイスイと走れるが、実は要所要所に地下式の歩行者用通路が結構多い。枡江小の例のように、仙台でも学校などの周辺には、小さな地下道が数多くあるのだろう。以前、当おだずま研究所の総力を挙げて、仙台のロータリー式交差点をコレクトしてみたが(ご参照下さい)、こんな地下道コレクションも良いなと思う。そんな時間は、たぶんないのだが。
2012.05.05
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昨夜のことPC使っていた家人が大騒ぎ。突然パソコン唸って、焦げた匂いして、ブツッと切れた。自分は悪くない、などとタラタラ。しょうがない、データは先週ハードに保存したばかり、本体は内部で最悪買い換えか、ちょうど10年経過だし、などと観念した。たしかにスイッチを入れても反応無し。本体が冷めたら稼働するかと思いきや、時間が経ってもダメ。しかし、物は試しとばかり、今朝になって下の娘といっしょに作業。まずはカバーを外して中を覗く。見えるところで線が焼き切れたのなら繋ぎ直そうと思ったが、そう単純ではないようだ。誰かに聞いた話を思い出して、ファンのあたりを内と外から、息を吹きかけた。娘と一緒に、フーフーと。焦げた匂いがあたりに立ちこめる。最後に、掃除機で思いっきり吸い込む。いったん電源コードだけを戻して電源を入れると、ついた。いちど電源を落として、カバーをつけ直し、インターネットやディスプレイなど配線をすべて戻して、わが娘による堂々の再点灯式。ホッとした。案ずるより生むが易し。役に立つのは、親(妻)より子。ホコリを吹き飛ばしたのが効いたのか、それとも電源コードがゆるんでいたのか、いずれにしても正常に復帰して良かった。いましばらく、おだずま研究所の頭脳として活躍してもらいたい。記録的な豪雨も上がり、初夏のさわやかさ。いまから、娘のご褒美にコンビニまで散歩です。
2012.05.04
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仙台は3日午後10時でこの記録。気象庁サイトによる過去データでは、歴代8位のようだ。ひと月の降水量を軽く超えた。5日や6日にまた崩れるそうだ。雨多い5月になるか。■関連する過去の記事 記録的な、また...(2012年5月2日)
2012.05.03
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関東や北日本で今日から明日にかけて大雨。時間雨量で40とか50ミリ。降り終わりまでに5月一月分の雨になるとも予報されている。記録的な... という言葉が氾濫しているような気がする。大震災の後しばらくは、地球がどうにかなってしまったかと疑ったが。やっぱりそうだろうか。こんどは雨か。仙台の時間最大降水量の記録は、94.3mmで、1948年9月16日。この日は日降水量も最高記録で312.7mmである。ちなみに、5月ひと月の降水量平年値は109.9mmだ。
2012.05.02
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仙台市の駐輪場(自転車等駐車場)マップを広げてみている。自転車やバイクの放置がないように、また保管所や駅の駐輪場の案内など、市民にとって大事な情報だ。ところで、この折りたたみ式マップの表紙面に、キャラクターが描かれていて、チュー太、リンちゃん、ジョーというのだそうだ。駐輪場のモジリだと思われるが、センターのチュー太は、水色の元気そうなネズミ君だ。他のページでも駐輪場の利用を呼びかけていたりして、良い子のイメージ。リンちゃんは他では出てこないが、リボンをしたピンクの女の子ネズミだろう。そして、ジョーなのだが、身体はグレー(ねずみ色か)、サングラスをして不敵に笑っている。放置しようとするなどルール無視を咎められるためのキャラなら、この手のキャラクター設定として斬新だなと思ったが、他のページでそのような用例はない。仙台市の公式サイトでも、キャラクターについては説明がないようだ。是非、ジョー君には自転車利用のマナーの題材として、チョイ悪ネズミ君を演じて欲しいと思ったのだが。どうでしょうか、建設局さん。
2012.05.01
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