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○判官堂(義経神社)紫波町赤沢。源義経が神として祀られている。赤沢地区には、義経に関する伝説がいくつもある。平家から逃れて平泉にやってきた義経はひそかに赤沢で暮らしながら馬や弓の鍛錬をしていた。鍛錬を終えて水を飲むために立ち寄った井戸で娘と知り合い子ができた。その子孫が、現在判官堂を所有する家に住んでいるという。義経が飲んだ井戸は今でも水がわき、義経が使ったとされる弓なども、そのゆかりの家には残されている。○白山神社赤沢地区には白山神社もある。延暦22年(803)坂上田村麻呂が蝦夷を鎮めるために建立したと伝えられる。神社の麓には鎌倉時代末期に建てられた石碑が並んでおり、そのひとつが藤原経清の母の墓と言われる。藤原経清は前九年の合戦で安倍頼時の娘婿として朝廷側と戦い敗れて処刑された。そのとき甥の遠山師重は経清の母と赤沢へ落ち延び、母はここで亡くなった。経清の子が、のちの奥州藤原氏初代清衡である。○樋爪館(ひづめのたち)(比爪館)、五郎沼12世紀ごろ志和郡(紫波町、矢巾町、盛岡市都南地区から厨川付近)を治めた樋爪氏の居館跡。始祖は清衡の4男清綱といわれ、その子俊衡が志和郡を治めることとなったときに姓を樋爪と改めた。砂金と馬などで平泉藤原氏を支える重要な地方政庁としての役割を担った。館は文治5年(1189)頼朝の奥州攻めで俊衡と泰衡がみずから火を放ち焼失。■高橋克彦・荒俣宏『荒俣宏・高橋克彦の岩手ふしぎ旅』実業之日本社文庫、2012年 (2010年6月同社単行本を文庫本化)
2012.10.28
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雄勝に味噌作なる地名がある。石巻市民だった私はもちろん知っている(雄勝に住んだわけではないが)。釜谷トンネルから雄勝の町に入ると、中学校付近のT字路を左に折れて中心部や役場、病院方面に至るが、T字路を右に行けばやや山側に向かって住宅地がある。そのあたりが、「味噌作」だったと思う。海の幸、雄勝硯、こじんまりした商店街路。旅館に投宿したこともある。美しいリアスの入江に佇む印象的な町、だった。津波が街を消し去った。宮城県地名研究会「地名 第30号」(2009年11月)に、「石巻市雄勝町の「味噌作・ミソサク」地名について」という論考があった。千葉昌子先生(石巻市桃生町)の寄稿である。素晴らしい雄勝の町を思い出しながら、勉強させてもらった。ミソサクの地名、その背景として桃生郡と牡鹿郡の勢力地図、そもそも雄勝は一貫して桃生郡だったのかなど、大変興味深い。------------10年ほど前(odazuma注:原文の表現)に町の文化財保護委員は、延徳2年(1490)の古文書に大崎今泉の高橋記六という者がこの地を拓き、坊の入(坊の沢)の熊野権現を祀る年四度の精進味噌を煮たことから部落名に転用された、と説明されていた。頼朝は平泉を討って奥州を支配したとき、奥州総奉行葛西清重に5郡2保(磐井、胆沢、江刺、気仙、牡鹿。2保は黄海、興田)を与え、牡鹿と境を接する桃生郡は山内首藤経俊に与えられた。これが300年後の永正合戦(1511-15)につながるのである。中世の恩賞は大掴みで近世のように村名がしっかり記されていないこともあるという。桃生郡雄勝町がその例で、首藤氏の領地に含まれるかどうかはっきりわからない。首藤氏の領地は、旧桃生町全部、旧河北町全部(大森地区は微妙)、旧北上町のほぼ全域(一部は本吉郡)で、旧河南町広渕と旧矢本町、旧鳴瀬町は深谷保になるし、旧河南町和渕は遠田(小田)郡に入る。和渕は後に葛西領になったとも思われるが。雄勝が首藤氏の領地と見られない理由は、首藤氏に関する古文書等に旧雄勝町の記載が全くみられないことによる。むしろ牡鹿郡の浜方に雄勝(十五浜)が含まれた方が自然にも思える。しかし疑問は、雄勝には延喜式内社桃生六座の一つ石神社が鎮座する。延喜から延長年中に編纂された延喜式の神名帳にある桃生郡石神社が雄勝の石神社であるならば、平安時代には雄勝は桃生郡であった。これはどう解釈すべきなのか。平成6年の佐藤雄一氏『雄勝町の板碑』は、 ■中世期の雄勝町の姿はわからない ■鎌倉時代には牡鹿郡は葛西氏、桃生郡の内深谷保は長江氏、残る桃生郡が山内首藤氏によって支配されていたことは文献で確認できる ■従って現雄勝町地域は山内首藤氏の支配下にあったように見えるが、確たる文献がみあたらず、現在ではおそらく葛西氏支配下であったろうと推定されているようだと記している。葛西氏と首藤氏が争った永正合戦で首藤氏が敗れた結果、桃生郡北方は葛西氏領地となるが、それ以前については正確にわからない。服部英雄『景観にさぐる中世 -変貌する村の姿と荘園史研究-』によると、ミソサクは御正作で、「御さうさく」が「御そさく」となったと思われるとする。御正作は、中世における領家、荘官、地頭などの直営田であり一等田。みそざくは御正作故地を示す地名である。従って、みそざく地名を調査することによて中世水田や灌漑用水のあり方、在地領主の館である堀の内や村落との関わりがわかるはずである、と。では、雄勝の「味噌作」は御正作になりうるか。延徳2年文書の「坊の沢の熊野権現」が現存するかについては、熊野神社は8百年前に坊の沢から下雄勝の山上に祀られたという。坊の沢から味噌作に至る途中に地元の人がトーバと呼ぶ小地点があるが、何だかわからない。新山神社には合祀されていないという。雄勝に検地帳などの古文書がないのは度々の津波で家ごと流されたためとのことだ。旧雄勝町の要覧では、「奈良時代は牡鹿郡に属し、のち桃正(odazuma注:原文ママ)郡に属した。大浜の石峰神社は延喜式内社石神社と推定されている。平安末期は平泉藤原氏の所領となり山崎氏や熊野氏がいたという。中世は遠島と呼ばれた荘園公領の一部。鎌倉時代は初め北条得宗家のち葛西氏の所領となった...」とある。つまり、奈良時代雄勝は牡鹿郡であった。桃生郡が建てられたのは、続日本紀の天平宝字元年(757)に陸奥国桃生が見えるのでその何年か前と言われる。石峰神社は延喜式内社で800年代には既に祀られていたと考えられ、もしかしたら桃生建郡の頃まで遡るかも知れない。平安末期の藤原氏の所領はうなずけるが、この頃の熊野氏が熊野権現と何らかの関わりがないだろうか。そして、雄勝の味噌作は古代より修験の地とされた紀伊熊野神社の荘園だったのではないか。ところで、旧河北町と旧北上町にかけて流れる皿貝川があるが、地区の奥が深いことはまさに「更なる峡(かい)」であり、そこにも「味噌作」と「熊野堂」の地名がある。このあたりの地頭職は山内首藤氏、後に葛西氏であるが、御正作の荘園領主は熊野堂主だったのではないか。県内にはミソサク、ソウサク地名がたくさん残っていると思う。調査すれば平安、鎌倉時代の荘園歴史が見えるかも知れない。------------
2012.10.27
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健康診断を受けながら悩んだこと。BMIのIはindexの意味だろうか。たしかに、ほんらい異質の数値の比を出して、なんらかの意味のある指標を出している。指数や指標というにふさわしい。カウプ指数や、今は懐かしいローレル指数もそうだ。では、エンゲル係数だって指数じゃないのか。なぜ係数というのか。本来 coefficient は変数に掛け合わせる一定の数じゃないのか。そういえば、ジニ係数もなぜ係数なのだろう。たぶん日本語は忠実に直訳した結果だろうから、命名者のセンスによるのか。どうでもいいことだが。後で調べたい。
2012.10.26
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仙台空港の行き帰りは仙台空港線(アクセス鉄道)を利用する。早くて快適だからだ。つい先日のこと。国内の仕事帰りで夜8時代に仙台空港に着いて、空港駅から電車が発車するまで多少の時間があった。この時間帯は以前にもそんな経験があるのだが、ほかに仕方もないので、仙台駅での乗換えに便利な先頭車両に乗って発車を待つ。疲れているからボーッと様々のことを考えるのだが、この鉄道、さっき同便で降りた飛行機のお客さんの何割かは乗っているだろう。それにしては乗客は少ないかな。仙台空港ビルで仕事する何百人の人たちはどうやって帰るのか。鉄道を利用しては居ないのか。そういえばエアラインの関係者、例えば客室乗務員は乗らないのか、などなど思いを巡らしていた。すると、さきほど乗ってきた飛行機のCAさんのひとりが、私服姿で車両に乗り込んできたではないか。おそらく空港ビル内の事務所で業務報告を済ませて、今日は仕事が終わったのだろう。私と同じボックスに座り、さきほどはどうもお世話になりました。そこで私も、機内で飲み物をいただいたお返しですと言って飲みかけの爽健美茶をペットボトルごと渡すと、意外にもゴクゴクと飲み干してくれた。(注:この段落だけは全く創作です。実際は同じ車両の隣のボックスに座ったようでした。大変失礼しました。仕事を終えたCAさんに話しかけるのはやめましょう。編集長謹白)ああ、昔なら客室乗務員はハイヤーで送り迎えしたと良く聞いたが(都市伝説か)、今でも一緒に鉄道には乗らないものと根拠レスながら思っていた。しかし、現実に空港線に乗っているのだ。そうか、やっぱりこの鉄道は便利なのだな。エアラインの人たちも、空港ビルの従業員の方々も、もちろん飛行機の客も、みんなで乗りましょう。乗って乗って活気づけよう、我らの仙台空港線。まもなく電車は発車した。スルスルと加速する。美田園駅。この時間は乗降客はほとんどないようだが、住宅が増えたことで反対の上り線(仙台からくる電車)から降りる客は増えているだろう。そう、みなさん利用しましょう。次の杜せきのした駅で乗り込んだ若い人たちは商業施設の従業員か。いいぞ。やっぱり便利でしょう。みんなで利用しよう。さて、あのCAさんだが、仙台駅で降りて航空会社ブランドのホテルにでも行くのかと思いきや、途中の意外な駅で降りたのだった。アレッと思ったが、自宅が近いのかも知れないし、いずれにしても仙台空港線を利用している事実が、私には嬉しいことだった。改めて思う。震災のあと関係者の努力で早期に再開した空の玄関口が、仙台空港だ。そして空港と仙台都心を結ぶ仙台空港線も、復興をめざすわが東北の活動と交流を支える不可欠の大動脈と言って良い。みんなで利用し、みんなで支えよう。がんばろう仙台、がんばろう東北。
2012.10.24
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酒田市長選挙は今日夕方立候補締切りで、前副市長と前衆院議員の2人の争いが確定した。ところで、国政から転じた和嶋氏が衆院議員を辞職したことに伴い、比例(東北ブロック)の名簿の繰上をめぐって問題が起きている。本来は、次点の川口民一元岩手県議・元雫石町長が繰り上がるはずのところだが、当の川口氏が新党「国民の生活が第一」の活動に参加するなどの反党行為があったとの理由で民主党を除籍(除名)された。今月5日に処分決定を受けたもの。このため、国の選挙会は19日、名簿順位で川口氏の下で次点となった渡部一夫元南相馬市議の繰上当選を決めている。川口氏は、民主党の処分は納得できないとして提訴する方針を表明している。処分をした党本部には事実誤認があるという主張らしい。対する民主党本部は、当選した後に「生活」に移籍する事態を絶つとともに、「生活」に厳しい姿勢を示したということだろう。比例代表制度や名簿順位は、政党の自治と有権者の投票意思あるい「全国民の代表」性をめぐって問題が生じる焦点だ。選挙区候補と違い、比例代表制度により当選した候補は、政党の名簿に載ることが前提だから、党を移籍した場合や党から除名された場合に国会議員の地位を保持するのかどうかが問題になる。今回と似たようなものが、日本新党繰上補充事件だ。平成4年参院比例代表選挙で登載順位5位で次点となった者(松崎哲久)が平成5年6月に除名となった。同年7月の衆院選挙に名簿順位1位と2位の議員が立候補(細川護煕、小池百合子)したため、参議院議員の欠員が生じたが、名簿登載順位6位と7位の者が当選人とされた。順位5位ながら除名された松崎は、除名の不存在ないし無効を理由に当選訴訟を提起した。東京高裁は松崎の訴えを認めたのだが、平成7年の最高裁判決は、政党の自律性を尊重し、除名届が適法である限り、政党による除名が不存在又は無効であることは当選訴訟における当選無効の原因にはならない、とした。なお、平成12年の公選法改正では、比例代表選出の議員が所属政党を移動した場合は、退職者となる(当選人は資格喪失)と定められた。(無所属となった場合や新政党への移動は退職者とならない)。今回のケースは基本的には日本新党事件のパターンだろう。もっとも、平成7年最高裁判決は、当選訴訟では除名処分内容の当否に踏み込まないと政党の自律性を優先させているから、今回の川口氏は、まず処分自体の当否を争うということになるのだろう(私見)。
2012.10.21
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南三陸と登米市米谷を結ぶ国道389が水界峠をトンネルで抜ける。私が初めて通ったのは、10年以上前だと思うが、用事で入谷から旧東和町に抜けた時だ。震災後はもう何十回と通っただろう。いまは三陸縦貫自動車道のトンネル工事が始まり、沿岸部の大動脈の完成が待たれる。このトンネルだが、出入口上部のイラストがドライバーをなごませてくれる。私はスイカイトンネルと呼んでいたが、みずさかい、と読むのが本来のようだ。そして、現在通っているのは「新水界トンネル」(1981年)であり、明治時代につくられた歴史ある旧トンネルがそれまで使われていた。一部では心霊スポットとして人気(?)が高いようだが、さらに、もともと米谷道(古水界峠)は重要な交易路だったことから、現在新旧3本の峠道があり、三陸道が通れば、狭い地域に新旧4本の道が存在することになるのだという。■南三陸町観光協会の解説(米谷道・古水界峠)1 米谷町(古水界峠)山内甚之丞によって宝暦年間に開かれた峠道。入谷の生糸や志津川の海産物を米谷に運び、米谷方面からは米が運ばれた交易路。路沿いには古い金掘り跡も。米谷道は現水界峠よりひとつ南の鞍部、烏帽子山の北の肩を越えて米谷側に抜けていた。峠の登り口(入谷側)は長畑と呼び最近まで人が住んでいた。現在でも畑が耕され炭焼きが行われている。(上記サイトに地図があります)2 水界隧道(旧トンネル)米谷道は峠口から鞍部まで800mほどの距離で140mも高度を上げるため、車道には厳しい勾配であった。明治19年に完成した水界峠は、八幡川本流から北に迂回して高度を稼ぎ、古峠から300mほど北側の鞍部にトンネルを掘って分水嶺を越える。入谷の生糸を北上水運に結び付けるため、政府肝煎りで計画された馬車道。トンネル設計は政府お抱えフランス人技師とされたが、該当する外国人技師の記録はなく、フランスで土木技術を学んだ日本人技師の設計と推測される。県内初の近代トンネルとされるが、このことは、当時の入谷・志津川が県勢振興の上で産業流通面から重視されていたことを示していると思う。3 新水界トンネル(R398)昭和56年(1981)の竣工。古道と旧道のほぼ中間に位置。4 三陸縦貫自動車道古峠とは逆に烏帽子山の南をトンネルでくぐり抜ける。■関連する過去の記事(入谷、米谷など) 南三陸キラキラ丼シリーズ(10年3月30日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 気仙沼誘導ルートの話(10年7月29日) 登米東和ICが開通(2010年3月22日) 登米の「みそアイス」(10年3月14日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 南三陸時間旅行(08年9月17日)
2012.10.20
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山形のニュースで、例年より2週間遅れてマツタケが出荷されているとの話題があった。県内の主産地高畠町とのことだ。さて、あまり考えたことがなかったが、マツタケの産地とはどこなのだろうか。とかつては日本各地で収穫できたそうだが、現在国内では長野県、京都府、兵庫県、広島県などが収穫量が多いようだ。東北では岩泉町(岩手県)と高畠町が有名だそうだ。岩泉まつたけ事業協同組合があり、秋にまつたけ祭りを実施する。今年は第16回で、9月30日に実施されたそうだ(岩泉町ブログ)。
2012.10.17
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今朝の河北新報トップはこれだった。仙石線の一部区間を東北線に乗り入れる方向でJR東と宮城県が最終調整に入ったという。松島の並行区間で接続し一部車両を乗り入れ。仙台石巻駅直通運転は、震災前の仙石線で最速1時間3分、現在の直通列車(小牛田駅回りで本線と石巻線)約1時間10分だが、現在から20分近く短縮だそうだ。仙石線全線復旧の2015年完了をめざす。これまでも何度となく仙石線と本線の接続案は出ていた。主に石巻方面からの通勤通学者のニーズとして、距離の割に時間の掛かる仙石線のスピードアップだ。単線区間が長いため、速達列車を可能とする複線化の要望。また、女川への延伸などもあった。さらに、今回報道された松島連結案も何度となく要望されていたと思う。直流と交流の違いや、ホームの高さなどが良く指摘されるが、今回の報道にあるように気動車を使う方法も確かにあるだろう。要するに、やる気になればできることではないのだ。震災復興が追い風となって一気に動き出すような気配だが、歓迎すべき事だと思う。コストは新たに軌道を結ぶために20億円だそうだ(車両費除く)。大事なインフラの復旧に、関係者の英知を集めていただきたい。■関連する過去の記事 阿武隈急行の輝かしい「日本初」(2012年10月7日) 石巻発仙台行の直通列車(2011年12月1日) 昭和47年の仙石線事故(2011年9月8日) 仙石線と松島を考える(2011年5月29日) 浜田駅付近の立体交差(10年9月28日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙石線多賀城地区連続立体交差事業(10年5月5日) 仙石線のダイヤと石巻仙台間の交通を考える(09年12月20日)
2012.10.16
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こんな報道があった。平均気温と平年の差が、盛岡で4.5度。これは世界で2番目に大きいというのだ。気象庁の発表で、世界約8300地点で調査。世界の平均気温は先月平年より0.24度高く、過去最高の平成21年を0.02上回り、統計のある122年間で最高。そして、平年との差が大きいのが、(1)旭川市4.6度、(2)盛岡市4.5度、(3)シベリア地方4.4度ということだ。気象庁のサイトを訪れると、解説がありました。
2012.10.15
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連日例の日本人研究者の話題だ。今朝のNHKのTVニュースも最初がそれなのだが、出てきた言葉に子どもが反応。東京・イカ・鹿・大学と連想でもしたようだ。なにせ大学は今や日本に八百もあるのだから、いろんな言葉が踊っているだろうと思い、名称一覧を眺めてみた。【子ども向けダジャレ編】東京イカ鹿大学鶴文化大学【失礼ですが珍名奇名編】千里金蘭大学(せんりきんらん。吹田市)活水女子大学(かっすい Kwassui 長崎市)群馬パース大学(Paz 平和の意味とか。高崎市)こども教育宝泉大学(都内だそうです)プール学院大学(Poole 人名由来だそうです。堺市)【混同してしまう編】東邦大学・同朋大学・東邦音楽大学・桐朋学園大学(発音が近いので。ちなみに同朋大学は名古屋にあるそうで初めて知った。)川崎医科大学(倉敷市にある)江戸川大学(流山市にある)志學館大学(鹿児島市)・至学館大学(しがっかん 愛知県)【大きく出た編】ノースアジア大学(ご存じ)環太平洋大学(International Pacific Univ. 体育系のようだ。岡山県)国際大学(International Univ. of Japan 南魚沼市にある)【冠地名のベストは】東京 38大阪 30日本 26京都 22(さすが学都です。大阪もそうだが府市名が一致するので冠名も集中)神戸 16(なんと東北全体が一都市に追い越されてしまった)名古屋、愛知 14(中京地区は名古屋、愛知、中京などを冠する場合が多いようだ)九州 12(ここには負けたくなかったが)東北 11(「宮城」3、「仙台」2を加えても、九州・福岡にリードされた形)新潟 11(これは勢いがある。冠名を付けたがるのか)関西、福岡、北海(道) 9岐阜、長崎、奈良、静岡 7(意外とやるね)広島 12(「県立広島大学」を含む)金沢、札幌、千葉、横浜 6群馬、埼玉、兵庫、山口 5神奈川、熊本、山梨 4(神奈川意外に少ない)
2012.10.14
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山中教授のノーベル賞決定(8日)の興奮さめやらぬ11日の読売の朝刊。ハーバード大で臨床応用として心筋細胞移植に成功していたという日本人研究者についての報道が一面トップだった。内容もビックリだが扱い方もスクープ的で、大きな仕事を果たしたという記者の満足感が伝わるような報道ぶりだと感じたものだ。しかしながら、直後から他メディアが疑義を報じ出して、今日の朝刊では読売も誤報を認め、おわびと検証に努める姿勢を示した。読売では9月に当の研究者から接触があり、10月4日に東大で取材を行い、担当次長や部長に報告の上、できるだけ早く記事にするという方針になった、と説明している。正規の臨床研究は事実無根ということになっており、そのそも治療行為があったのかも疑わしい。もちろん、治療行為があったとしたらそれこそ大問題で、勝手な人体実験となりかねない。この研究者は、山中氏とは違う方法でiPS細胞を作り、心筋細胞に成長させて6人の患者に移植、患者は6ヶ月以上生きた、という説明をしていたのだが。読売ほどの大メディアが、しかも医療や科学技術に詳しい記者諸氏も多くいるだろうに、時代のノリと功名心に駆られた動きだったとすれば、大変残念なことだ。我々一般の者は、新聞の報道や論評によって、科学技術開発の内容や社会的な意味などについて学ぶ事が多い。私は読売の第一報の朝に、はからずも韓国のES細胞論文捏造事件を思い起こしていた。そしたら、大学では関知していない、医師免許がない、などなど批判の嵐が沸き起こって「正式な」誤報認知だ。なんとも残念な気持になる。我が国のメディアの水準と信頼を維持するために、大変大事なことだ。ぜひ、検証をお願いしたい。■関連する過去の記事 ES細胞捏造事件と韓国事情(06年2月9日) 韓国のES細胞スキャンダルを憂う(05年12月16日)ついでに一言。読売は、今回の震災でも東北沿岸部の地域医療や福祉について詳しく報道した。その姿勢は私は大いに評価されるべきと思う。事実をそのままに伝え、全国に被災地の実情を忘れさせずに問題点を訴えてくれた。しかし、時に、こう報じたいという記者の頭の定型枠にはめたような報道が出る。(一般的には自由で多様な論評があって良いとは思うし、そもそも記者が全員万能でないから、それで仕方がない。しかし、)被災地に足を運ぶでもなく、電話で聞いた被災地の実情をすくい上げるどころか、被災地に取材したというだけの根拠に使ってあとは恐らく読者のうなずきを想像するのだろうが、定型的なパタン(行政批判、放射能畏怖、ボランティア最優先など)で記事に仕立てるような場合が現実にあった。大変残念に思ったものだ。報道や解説記事に際しての記者個人のクレジットについてはさまざまな意見があるのだとは思うが、現実の取材や報道に際しては記者個人の挙動や考えが反映される実態を考えれば、検証に際しても誰がどう動いてどう決定したのかを、読売自らオープンにしなければ検証とは言えないのでないか。読売には医師免許を持つ医療部門の記者もおられるそうだが、今回の検証に際しても、ぜひ、関わった部長や次長や記者の実名もオープンにしてほしいものだ。
2012.10.13
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突然学校から姿を消す行方不明の子ども達。TVでやっていたが平成23年度全国で1191人もいるという。借金やDVなどで人知れず転居するなどの事情によるのだそうだが、実際にはもっと多くの子どもが「消えて」いるとも思われ、非常に大きな問題だ。文科省の平成24年度学校基本調査によると、不就学学齢児童生徒調査として、そのうち一年以上居所不明者の数が児童704人、生徒272人とされている。合計976人だ。各県ごとの数字を、各県公式サイトから拾ってみた。青森(H24)1岩手(H24)1(12歳以上で1人)宮城(H23)10(児童6 生徒4)秋田 不明山形(H23年3月)2(児童2)福島(H24)1(児童1)200人以上が報告されている大都市地域の都府県とは数値は違うとはいえ、問題は問題だ。子どもの学習が妨げられることのないよう、学校、教委、役所の連携でできるだけの対策をして欲しい。それから、(進学率などもそうだが)統計データの公表もしっかりと。県ごとに姿勢がことなっている。なるべく市町村ごとなど基礎データも出すべきだ。
2012.10.11
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『延喜式』神名帳には宮城郡に「多賀神社」があり、『和名類聚抄』(元和古活字本)では国府所在郡を宮城郡として、その宮城郡の郷名に「多賀郷」「科上郷」がみえる。宮城郡の文献史料上での初見は『続日本紀』天平神護2年11月己未条である。ところで2008年利府町硯沢窯跡の発掘調査で多賀城創建期8世紀後半の須恵器窯跡が検出され、須恵器に「宮城郡」「宮木」などとヘラ書きされていた。すなわち、宮城郡が多賀城創建期には成立していた事実が初めて判明した。この宮城(天皇の居る所)という郡名は、古代国家においては尋常ではなく、遠の朝廷としての「多賀城」設置に因むものであることは明白であろう。ただし、「宮城」を天皇の居所「キュウジョウ」と読むことを避け、「宮木」という別表記でも明らかなように「ミヤキ」としたのである。古代の「城」の読みは次の通りである。 漢音 - セイ 呉音 - ジョウ 高句麗 - xor(ホル、またはコル) 百済 - kï(キ) 新羅 - cas(ツァス)天智3年(664)大宰府防衛のために築かれた水城(ミズキ)をはじめ、古代日本の城郭としての「城」は一般的に百済音「キ」で読まれている。一方、都の「宮城」については、『続日本紀』養老2年(718)11月葵丑条「始めて畿内の兵士を差し、宮城を守衛せしむ」、同書天平14年(742)8月乙酉条「宮城より南の大路の西頭と...」などとあり、呉音「ジョウ」と読んでいるのである。城の漢音「セイ」は、「平城京(ヘイゼイキョウ)」「平城天皇」など比較的用例は少ない。いずれにせよ、「多賀城」から「宮城」郡が生まれたことこそ、古代において「多賀城」が特別な機関であったことを何より証明しているのである。古代国家は7世紀後半から8世紀前半にかけて正史・法令においては、西日本の「城」と東日本の「柵」を意図的に使い分けたが、それ以外の史料(墓誌銘、木簡など)では、8世紀前半の東日本の城柵を「城」と表記していた。この点を勘案するならば、8世紀前半において「多賀柵」ではなく「多賀城」という表記が一般に行われていたとみてよいであろう。むしろ、表記にとどまらず行政上の位置づけや構造の上でも「多賀城」そのものであったとみなすべきではないか。8世紀前半の「宮城郡」の成立及び郡名は、あくまで「多賀城」創建が前提として可能となるものと理解できるのである。■平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店、2012年 から■関連する過去の記事 多賀城 命名の由来(2012年10月9日)
2012.10.09
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多賀城柵は、大宰府と同様に東北の行政軍事全般を統括し、さらに蝦夷対策の拠点となった機関である。多賀城は中華思想にもとづき蝦夷対策の中核として設置されたことから、その城柵名も特別の命名であったと考えられる。その場合、「多賀」の名は、西海道を統括し古代中国朝鮮の使節を接待する機関である大宰府(大宰は、中国古代の官名であり、王を佐けて国家を治めることを掌る意味。和名は、おおみこともちのつかさ。)と同様に中国に典拠を求めるべきであろう。古代中国の鏡に頻出する銘文にみられる文言から、古代中国では「四夷」なるものは中華の天子の徳を慕って来貢すべきものとの観念が成立していたと言って良い。多賀城は、この中華思想にもとづき、蝦夷(四夷)を服属させ国家に安寧をもたらすことを目的として設置されたゆえに、「四夷服、多賀国家人民息」(中国出土の鏡の銘文)を典拠として多賀城(柵)と命名されたと理解できるのではないだろうか。従来の説に常陸国の多賀郡に由来するという見解がある。常陸国中央部にある地域は「仲」とされ、仲国造が支配している。それにたいして多珂郡は、本来「高国造」の「高」という常陸北部の山地に基づく表記と考えられる。和銅6年の「諸国の郡郷の名は好き字を着けしむ」との制度によって字義のよい漢字二次をもって表記するようになった。「高」も「多珂」(珂は玉の名、たくさんの宝石の意)と表記し、8世紀以降はあらゆる資料に「多珂郡」とある。音からも「高」「多珂」は清音「タカ」であり、一方「多賀」は濁音「タガ」である。それが中世以降になると常陸国「多賀郡」に変わる。従って、常陸国の郡名「多賀郡」に由来するという説は、多賀城の呼称に直接結びつかない。■平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店、2012年 からこの本は東日本大震災を受けて、氏が関わった気仙地方、多賀城、相馬など東北沿岸部の古代史研究の成果をまとめている。そして、犠牲になった研究者の方々の熱意にこたえるためもあり、壊滅的な被害を受けたこの地の再生の基盤として、歴史文化の原像を描き出して我々に提示しようとするものだ。
2012.10.09
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鉄道の教科書を読んでみた。(昭和鉄道高等学校編『図解 鉄道のしくみと走らせ方』かんき出版、2007年)電気のところでは、電路設備のしくみ(BTやATなど)、交流直流の違い、また交直セクションの所在地一覧などが面白かった。直流電化の場合、例えば車両のモーターが1500Vとすると、30万Wの電力を送るには200Aの大きな電流を流さなければならない(電力=電圧×電流)。そのためトロリ線だけでは容量が不足するため「き電線」を並架し、また短い距離ごとに変電所をおく必要がある。これに対して交流電化は電車の側で自由に電圧を下げられるので、2万Vの交流電化区間の場合、30万Wを送るのに15Aの電流で済むことになる。国鉄が戦後列車本数の比較的少ない地方幹線の電化を交流方式で進めたのは、この経済性を高く評価したからである。しかし、問題もあった。まず、(1)通信線への誘導障害。だが、トロリ線と帰線を接近させれば影響を小さくできることから、レールを帰線とする直接き電方式の交流電化は日本では採用されなかった。トロリ線に平行して「負き電線」(帰線)を架設して約4kmごとに設ける吸上変圧器(BT)でレールから電気を吸い上げる方式(BTき電方式)やその改良の単巻変圧器(AT)を用いたATき電方式が主流となったからである。交流電化が進むと、(2)電気車のコスト高が問題視された。変圧器・整流器を搭載する上に、隣接する直流電化区間に乗り入れるために、高価な交直両用車を多数つくらねばならなくなり、変電所が少数で済むなどの経済メリットすら打ち消してしまった。従って、現在では新規の交流電化はほとんどない。むしろ、北陸本線敦賀以南のように既存の交流電化区間を直流化する例さえある。教科書の解説を整理すると以上の通りなのだが、ここで思い出すのが、わが宮城県自慢のひとつ、仙山線の交流電化(1955年落合-熊ヶ根で試験開始)だ。なるほどこんなメリットで始まったのだが、全国制覇はできなかった。いや、新幹線は交流方式だから、やっぱり未来を先取りしたと言って良いのか。作並駅(交直地上切り替え設備があった)にある交流電化発祥の地の碑は、仙台・宮城の自慢なのですが...そんな田舎県民の全国初願望にもとづく論議はともかくとして、実は私鉄で初めて交流電化を実現したのもわが宮城県なのだそうだ。阿武隈急行線である。旧国鉄丸森線を受け継いだ第三セクター路線として、1988年7月1日に福島駅までの全線を交流電化で開業した経緯からそうなのだが、紛れもない日本初だ。それに、従来の私鉄がすべて直流のなか、あぶ急のほかに交流電化区間を持つ私鉄は、近年開業した「つくばエクスプレス」と仙台空港鉄道(仙台空港アクセス線)ぐらいなのだそうだ。(ちなみに仙石線は東北地域では例外的に直流電化です。)とすると、仙山線、あぶ急、アクセス鉄道を持つわが宮城県は堂々と、交流電化王国ではないか。自慢できるかどうかわからんが。(ついでに仙石線が日本初の地下鉄道だったことも、自慢しましょう。東七番丁駅のことです。参考:仙石線のダイヤと石巻仙台間の交通を考える(09年12月20日))■関連する過去の記事(阿武隈急行、仙山線) 堺すすむと仙山線(2012年9月23日) 納涼列車 ほろにが号(10年6月26日)(福島市-丸森町)
2012.10.07
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少し前のことだが、「豆腐の日」10月2日に盛岡で毎年「とうふ祭り」が開かれるという記事があった。毎日新聞で見たのだが、県内でも特に盛岡以北は稲作が適さず蛋白源として大豆が多く生産されていた。南部藩主が加賀から職人を呼んで豆腐を作らせたともいう。啄木が豆腐売りの声を盛岡の声と表現していたと、豆腐文化に詳しい元県教育長の先生が解説していた。そんな記事だった。豆腐文化、というほどまでに深く親しまれているのか。小生も岩手県出身だがそこまで盛岡と豆腐が関わっているとは知らなかった。盛岡は豆腐消費量が日本一だという。こういう場合によく用いられるのが、総務省「家計調査」だ。県庁所在都市と政令指定都市のデータ(平成21から23年平均。2人以上世帯の年間支出金額や購入数量)なのだが、さっそく確認してみた。------------豆腐(金額)全国 5,9841 那覇市 7,8822 盛岡市 7,7453 徳島市 7,0134 鳥取市 6,7555 千葉市 6,5156 松江市 6,5097 福島市 6,50223 山形市 6,03925 仙台市 6,01334 秋田市 5,76945 青森市 5,089豆腐(数量)(単位:丁) 全国 76.251 盛岡市 102.312 浜松市 93.263 富山市 89.574 金沢市 88.595 青森市 87.306 宇都宮市 86.547 静岡市 85.238 福島市 84.5412 山形市 83.3414 秋田市 82.4338 仙台市 72.20------------毎日の記事では盛岡市の消費量は一世帯あたり100.85丁で、2位の金沢市96.69丁を上回り唯一の100丁越え、と書いている。たしかに、家計調査の年間当たりデータで最新である2011年のものをみると、盛岡市の豆腐消費は数量では100.85だ。しかし、金額はどうだろうか。盛岡市は7733円で、やっぱり全国で一番のようだ。そしてデータをよく見ると、購入頻度(100世帯あたり)6808支出金額7733購入数量100.85平均価格76.67と4つのデータが示されている。金沢市はどうか。購入頻度5,369支出金額5,495購入数量96.69平均価格56.83ほかに、支出金額が高い都市だと、例えば那覇市の場合は、購入頻度5,108支出金額7,718購入数量63.83平均価格120.92とされている。つまり、那覇市も金額は高いが単価が高いことに引きずられており、豆腐の食べている量だと盛岡市の方ということになる。最初に示したランキングで金額では堂々3位の徳島市だが、数量では下がる。2011年の平均価格で91.34と、やはり単価が高めだ。この逆のパターンだと例えば浜松市は、2011年で平均価格66.21である。いずれにしても、盛岡の豆腐日本一とは、まさにそのとおりだ。
2012.10.06
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