全21件 (21件中 1-21件目)
1

最近のブログは八戸の旅のスナップで記事を埋めていますが、これは葦毛崎展望台。蕪島の後に立ち寄りました。休憩処ではソフトクリームが売れているようでした。展望台はコンクリート造りで、まるで砲台のよう。石の壁のところどころに空いた窓から、浜風が吹き込んでいました。展望台に着く前、その200メートルくらい手前でしょうか、気になる岩があったので車を停めて親子で登ってみました。■関連する過去の記事(八戸の観光関係) 八食センターのお昼(2012年8月27日) 蕪島神社(2012年8月25日) 八戸キャニオンを見てきました(2012年8月17日) 日本一低い場所 八戸キャニオン(2012年3月20日) 七子八珍(2012年2月17日) ウミネコの八戸(08年3月17日) 種差海岸(07年6月13日) 壮大なる八戸キャニオン(07年4月15日)
2012.08.28
コメント(0)

夏休みを取得して訪れた八食センター。朝8時過ぎに仙台を出て、ちょうど12時に着きました。スゴイ混雑で駐車場探しも苦労しましたし、店の行列もありましたが、とにかく勢登鮨さんでお昼をいただきました。美味かったです。食事の後は、センター内で店をひやかしたり買い物をしたり。人が多いので、歩くだけでも大変。そのあと、蕪島方面へ向かったのでした。
2012.08.27
コメント(0)
学校夏休みの最終日。宿題を昼過ぎにやっと完了した下の子とともに、Kスタへ。午後5時から対日ハムのナイターです。田中と日ハムの中村の投手戦。四球もなく、内野の好プレーが続いたこともあって、テンポ良くイニングが進みます。イーグルスにとっては9回まで4安打で好機は得るのに、あと一本が続かない。例えば、3回裏。1死から岡島のチーム初安打、藤田がマウンドでイレギュラーして二遊間を抜ける幸運な安打でランナー1、3塁。外野フライで十分のところで、聖澤が追い込まれて最悪の三振。続く2番島内も遊ゴロ。7回ウラ。先頭銀次の右前クリーンヒット。続く枡田が手堅くバントの作戦もあったと思われたが、強攻策で三振。続く5番DH草野の打席で銀次が2塁を狙って憤死。草野は遊ゴロ。噛み合わない。8回ウラ。替わった投手宮西から2死となるも、岡島が中前安打。続く9番藤田が、セーフティ狙いだろうが失敗し無惨な投飛に倒れる。こんな感じで、良いところが出ない。もちろん、相手のファイタースも、少ないヒットで出た走者が盗塁死したり、代打二岡も不発と、うまく行かない感が互いに満載していた。試合は7時半あたりで9回を終了。10回表のマウンドには田中が上がる。見事な三者凡退で、これが膠着を溶き流す予感を生んだ。10回ウラ。投手モルケンから、先頭の枡田が意地の左2塁打。左翼線の内側に落ちたが、昨日の松井のサヨナラヒットをもう少し伸ばしたような軌道だった。代走西村。さあ、田中の力投が生きた、と思った。続く草野が、しかし、バントを2回連続失敗。強攻に転じて二飛。松井は敬遠で1死1、2塁だ。鉄平はこのひ一番大きなコールを受けたが、中飛。ああ、だめだったのか、と多くの観客が感じただろうが、しかし続くのは今日2安打の岡島だ。何かがあるぞ。岡島の打球はボテボテ。三塁手が取ったときはファウルのようにも感じたが、結局足が勝って一塁セーフ。つまり、サヨナラとなったわけでした。贅沢言うと地味っぽいサヨナラだが、勝ちは勝ち。1月半ちかく勝てなかったエース田中の勝利だ。これで、後半戦の数勝アップは堅くなった気がする。試合内容以外の話題ですが、イーグルフライトの鷲が、レフトスタンドを斜めに滑空して場外にでてしまいました。また、5回のキッズDJ君がとても元気な紹介アナウンスを披露して観客の拍手を浴びました。もっと聞きたかったのですが、松井、鉄平、岡島とも見事凡退。
2012.08.27
コメント(0)
昨日TVで高校生クイズの県予選をみていて、出題から、全国の市で「け」で始まるのは気仙沼だけだということが、私は初めて知った。(出題は、「け」で始まるのは気仙沼市だが「げ」で始まる都市を答えさせるもので、正解は下呂市だった。)確認のため、全国市長会の都市情報で50音順をみる。やはりそうだ。こんなシンプルで判りやすいオンリーワンがあったとは、東北人として胸のすく(?)思いだ。さて、ほかに事例がないか...「て」が天童市と天理市の2つだけ。「り」は陸前高田のほか、竜ヶ崎市、栗東市。なお、該当市が唯一の例では、「め」の目黒区と「る」の留萌市。ということでやっぱり気仙沼はピカリとあてはまるケース。政治的にはモンロー主義、名前でも孤高の都市だったのだ。
2012.08.26
コメント(0)

真っ赤な鳥居が、真夏の陽射しを受けて鮮やかでした。階段を上って丘の上は意外なほど狭くて、1分もすれば建物の外周をまわれるほど。駐車場も鳥居のすぐ前。有名な観光スポットの割には、駐車場から長く歩いたり、階段が長くて疲れるとか、そんなことが一切なくて、訪問するには大変手軽で便利なところだと感じました。■関連する過去の記事(八戸の観光関係) 八戸キャニオンを見てきました(2012年8月17日) 日本一低い場所 八戸キャニオン(2012年3月20日) 七子八珍(2012年2月17日) ウミネコの八戸(08年3月17日) 種差海岸(07年6月13日) 壮大なる八戸キャニオン(07年4月15日)
2012.08.25
コメント(0)
歴史的な日になるのではないか。東北勢の初優勝。今日23日は甲子園(第94回全国高校野球選手権大会)の決勝。光星学院は昨夏、今春に続き3季連続の決勝進出。相手は史上初めて春夏連続同一カードの大阪桐蔭だ。試合自体も好勝負になるだろう。楽しみだ。ODAZUMA予想は、打ち勝って5-3で勝利、だ。近ごろ八戸を旅してきたニワカ八戸ファンとしても、ぜひ勝って欲しい。ロンドン五輪の金メダルラッシュに続いて、八戸に大優勝旗とともに凱旋して欲しい。デーリーさん、号外の用意をお願いします。
2012.08.23
コメント(0)

新郷村の新郷温泉館から細い道に入り、山あいを抜けて、田子町の中心部に出ました。行政区画上はいったん三戸町の山間部の、開拓農村のようなすがすがしい光景の一帯を経由しました。田子町の役場のあたりは国道104号沿いに商店や住宅が続き、失礼ながら予想以上に形成された街並みでした。さて、予定どおりガーリックセンターに向かいます。ここでお昼と決めていました。以前図書館で立ち読みした旅行雑誌の情報をもとに、デカ盛りざるラーメン600円を注文。情報はやや古いのでしたが値段もそのままでした。家族は、通常のざるラーメン、何かオリジナルのような丼を。ニンニクの町ということでギョウザを注文したようですが、すべて娘にペロリされて、私は味わえませんでした。大駐車場を備えた道の駅的な施設かと予想していたのですが、市街地内にあって案外と小振りなセンターでした。かえってそれが愛着をよぶような気もします。食事処のお客さんは、ほかに単身の旅行者が見えた外は、地元の方々でしょう。にんにくの首都を自称しているようで、館内の米国ギルロイ市との国際交流のようすのパネル展示などが面白いです。帰宅してからガーリックセンターのホームページで知ったのですが、あのざるラーメンには、特産のにんにくが練り込んでいるとのこと。歯触りも結構良いのですが、そんな秘密があっtのでした。私は、旅の途中のお得なお昼という感じで(子もざるラーメン好きなので)立ち寄ったのですが、期せずして町最大の特産を味わったのでした。これは田子町の方が一枚上手です。
2012.08.22
コメント(0)

意外なほど主要道路のすぐ脇で、車で訪ねてすぐ判るところだった。大湯環状列石を見学した。県道を挟んで万座、野中堂の2つのストーンサークルがあるのだが、これらを包み込むように広い範囲にわたり遊歩道が整備されて、一帯には掘立柱建物や柱列が復元されている。ストーンサークル館でいただいたリーフレット(北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群リーフレットシリーズ14 特別史跡大湯環状列石(鹿角市教育委員会縄文遺跡群世界遺産登録推進本部))から何点か以下に抜き書きする。なお、この冊子は和英対訳式で、縄文遺跡の意義を世界に伝えようとする気概が伝わる。------------(太陽の運行)野中堂環状列石の中心から万座環状列石の中心を結んだ線が、下司の日没方向と一致しています。当時の人々は太陽の動きを意識していたのでしょうか。(景観)史跡がある台地は広大で、西側下を大湯川が流れ、大湯川の上流には環状列石に使う石英閃緑玢岩(odazuma注:対訳ではquartz porphyry)を産出する諸助山があります。東側には麓から頂上までの形がきれいな三角形をした黒又山がそびえています。(祈りとマツリの道具)出土した遺物の中には、日常的でないものが数多くあります。キノコ型土製品のように自然を意識したものや子孫繁栄を祈るものなどもあり、あらゆる事に畏怖の念を表すための道具なのかもしれません。(数字を意識した土版)人の体を簡素に表現しています。刺突によって口・目・乳房・正中線・耳を表現しながら、1~6までの数を表しています。縄文人が数を意識していたことを示しています。------------さて、このリーフレットの後半には、世界遺産登録をめざす「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」を紹介しており、北海道、青森、岩手、秋田の4道県にわたる15の縄文遺跡が説明されている。1 北黄金貝塚(伊達市)2 入江・高砂貝塚(洞爺湖町)3 鷲ノ木遺跡(森町)4 大船遺跡(函館市)5 三内丸山遺跡(青森市)6 小牧野遺跡(青森市)7 是川石器時代遺跡(八戸市)8 長七谷地貝塚(八戸市)9 亀ヶ岡石器時代遺跡(つがる市)10 田小屋野貝塚(つがる市)11 二ッ森貝塚(七戸町)12 大平山元I遺跡(外ヶ浜町)13 御所野遺跡(一戸町)15 伊勢堂岱遺跡(北秋田市)ここまで書いて、気付く。冊子の肩書きの「リーフレットシリーズ14」とは、大湯環状列石が縄文遺跡群の14番だからだ。特別史跡大湯環状列石は、「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として世界文化遺産暫定リストに掲載されました。これは、サークル館でスタンプを押したときの台紙に書いていた言葉だ。縄文文化遺跡の大きな意義について、リーフレットにも、こう書いている。------------世界に先駆けて土器を生み出し、ヨーロッパや大陸の先史文化と比較すると、本格的な農耕と牧畜を持たず、新石器時代の文化としてはきわめて特徴的な様相を呈しており、世界史上希有な文化です。日本の歴史の大半を占め、現代に至るまで縄文文化に起源や系譜を求めることのできる伝統や文化的要素が数多く認められるなど、日本の基層文化と言えます。------------大いに勉強になる大湯の旅だった。■関連する過去の記事 黒又山(2012年8月20日) ストーンサークルと十和田文化圏を論じた諏訪富多さん(08年9月14日) 大湯環状列石(ストーンサークル)(08年1月25日)
2012.08.21
コメント(0)

ついに間近に目にしてきました。最初の写真は県道のバス停のあたりから。北西側から見たことになります。道端の沼の脇に(写真の左手)、矢印と黒又山の文字だけのシンプルな看板がありました。その看板からは、堤が山裾に延びているのですが、登山口というよりは沼の土手という感じです。2枚目は県道から折れて宮野平集落を通り過ぎたあたりから望んだ画像。南側から見たことになります。登山口はこの宮野平集落を貫通する道路の脇に、ありました。鳥居があって神社の入口を意味しているのでした。実は、このあとで立ち寄った大湯ストーンサークル館で聞いたことですが、地元の信仰の人が登っているので、頂上まで行くことも可能だと。私は登らなかった。ピラミッドの頂上を見たい思いは強かったのですが、低く見えながらも300m近い山頂まで登るとなると、子供の頃に600mクラスの山に登る日帰り遠足が結構きつかった記憶が勝ったのです。もっとも当地は山裾の海抜高度も高いだろうから、さほどではないとしても、自分一人の旅でもなし、疲れて帰りの運転に支障があっては、などとミステリーゾーンに足を踏み込みながら俗世間の心配が先に立ってしまいました。少しく後悔。とにかく、クロマンタを目にできたことは、良かったです。縄文人はどんな気持で望んでいたのでしょうか。■関連する過去の記事 ストーンサークルと十和田文化圏を論じた諏訪富多さん(08年9月14日) 大湯環状列石(ストーンサークル)(08年1月25日)
2012.08.20
コメント(0)

大石神ピラミッドを訪れた。R454から看板に従って山あいに折れて約2kmくらい進むと着く。鳥居のすぐ脇に車を停められ、そして鳥居をくぐるとすぐそこに巨石群が配置されている。秘境のアクセスのイメージとは全く違って、ピラミッドの頂上部分に便利にも車で到達しているのだ。石や祠などをひと回り見学。奥にある星座石あたりから下を臨むとかなりの断崖になっている。後から誰かに押されると終わりか、などとくだらないミステリーの筋書きを考えたりする。雨の中、アブやハチのような虫がさかんに飛び交っている。車に入らないように気を付けてドアを開閉する。(実は1匹の虫が車内に入り込み、サンルーフ部分に閉じこめた形にしていたのだが、仙台に戻って翌日にみたらカラカラに干涸らびて絶命していた。手厚く供養する。)さて戻ろうと車を出発させる直前、地元の方だろう軽トラが登ってきては、道の奥の舗装されていない方に進んでいったのが印象的だった。村の観光ガイド(マップ)には、パワースポットガイドのコーナーに、キリストの墓と並べて大石神ピラミッドが紹介されている。------------巨岩怪石からなる丘陵。昭和10年、ピラミッドの権威者・酒井勝軍氏が調査したところ、ピラミッドの条件に合致したと言われる。ここにはかつて小さな祠が祀られており、古人が祭壇を設けて祈る雨乞いの霊場でもあった。英国人エドガー兄弟も来村し、まさしく太陽礼拝所と立証した。大石神は、昭和初期まで雨乞いの霊場であると言い伝えられ、日照りが続くと、雨乞いの儀式が執り行われたという。(写真の説明書きとして)○ この鳥居の奥に巨石群が広がっている。○ 光の玉が埋め込まれていたというくぼみ。○ 毎年8月には地域住民が、祈りを捧げる。------------(以下は、新郷村キリストの里伝承館でいただいた説明書の記述。)------------太陽は人間にとって最も偉大な存在だった。古人は太陽に近づくためにより高い場所に祭壇をつくり、そして祈った。武(ママ)内家の文書に秘蔵されている神代史によると、我が国にはエジプトのピラミッドよりなお古い数万年前のピラミッドが7基あるとされていた。昭和10年に戸来村を訪れた日本画家の鳥谷幡山もこれを見て、これで4個目だ、と喜んだ。酒井勝軍はさらに「鏡石」(下方四囲が12メートルの巨石)「方位石」(西方1メートル余りの割れ目が正しく東西を示す)、また頂上の巨石が西側の稜に正しく北極星に向かい、南北を示しているなど発見している。この鏡石はその場に直立し表面に文字が彫刻されてあったと伝えられているが、安政4年7月23日の大地震で倒れ、埋没している。そこには小さい祠(ほこら)があり、古人が祭壇を設けて祈るか、修行のために時折登ったものと思われる。英人エドガー兄弟もまさしく太陽礼拝所と立証している。酒井勝軍の説ではエジプト、メキシコのものと違って平面基礎から築き上げたものではなく、三角形や神備型とした山の頂上にあり太陽石がおかれ、その周囲に「磐境」(バンキョウ)列石が配置されている。昭和10年8月戸来のキリストの墓発見の翌日、戸来の十和利山のピラミッドを発見、大石神のピラミッドは十和利山と関連し、昔から太陽礼拝所の役割をはたしてきたと言われています。------------今回は新郷村の2大パワースポットを巡ることができたのだが、旅の途中で、村のスタンプラリーがあることを知った。間木ノ平グリーンパーク、新郷温泉郷を含めて4か所でスタンプを集めると抽選でプレゼントがもらえるというもの。当然ながら挑戦した。最初のグリーンパークでは台紙がなくて館員の方にメモ用紙をいただいてスタンプを押した。次のピラミッドでは、鳥居の脇にポストのような箱にスタンプがあるが、台紙もないしインクも限りなく薄い。雨の中必死に、メモ用紙の余白に押す。3か所目の伝承館でやっと台紙をいただいて、最後の新郷温泉館はかなり山あいに入っていく。抽選は強運の娘が家族3人分とも当てて、おいしい飲むヨーグルトをいただいた。パワーをもらった上に地元の味わいも。良い新郷村の旅でした。■関連する過去の記事(新郷村関係) キリストの墓(2012年8月18日) 新郷村とキリスト伝説を考える(2010年12月12日)
2012.08.19
コメント(0)

新郷村のR454沿いですぐわかった。駐車場に停めて伝承館を向けて整備された歩道を進むと、小高い丘に出る。土饅頭の2つの墓がある。伝説によるキリストと弟イスキリの墓だ。中心には、イスラエル国との友好の言葉を含む和英対訳の石碑があった。すぐ向かいには日本式のお墓が並んでいた。霧雨の夏の朝だったが、伝書館前の美しい庭園、金属製のミニピラミッド、などなど、破格の伝説をたたえる場にしては、ずいぶんと静かで安らかな空間であった。伝承館にお邪魔し、係の方から説明書をいただく。何かの本のコピーだ。以下に紹介する。------------ゴルゴダの丘で磔刑に処されたはずのキリストが、実は秘かに日本に渡り、このみちのくの山村で長寿を全うしたと言われたのは昭和10年、それも茨城県の磯原町(現北茨城市)から突然に降ってわいたような話なのである。武内宿禰の末えいである武(ママ)内巨麿氏が、古代史研究家鳥谷幡山氏外数名とともにこの村を訪ね、「キリストがこの村に住んでいた」という子文書が、竹(ママ)内家の文庫から発見されたというのだった。当時村長を務めていた佐々木伝次郎氏の案内で、小高い竹やぶの中にあった土まんじゅうを二つ見つけて、向かって右側が「十来塚」と呼ぶキリストの墓で、左側が弟イスキリの「十代墓」と呼ぶ墓だということになった。その後、1936年5月26日、万国古代文学研究会に属する考古学者の一団によってキリストの遺言書が発見されたり、更には考古学地質学者(ママ)である山根キク女史の「光は東方より」に紹介されるや、神秘の村として、人々の注目を引き出したのである。キリストは地中海の沿岸ユダヤに生を受け、エジプトに父母と共に住み、その後再び帰ってナザレの片田舎で成長したが、21歳の時に行方不明となり33歳の時に忽然と現れ、天国を語り、神の実在を説いたのであるが、もちろん聖書にもその行方不明の11年間の行動は何も載っていない。ところが発見されたというキリストの遺言書にはその間の消息が鮮明に書かれている。すなわち、キリストが日本へ初めて来たのは11代垂仁天皇の御代で日本海沿岸の橋立の港に上陸し、越中の国に至り、当時この地におられた尊き方の御弟子となり、日本の言葉や文学を習いさまざまの修行を重ねていた。かくて11年の修行を終えたキリストは33歳になって日本を去り、モナコに上陸してユダヤに帰ったが、帰国してからのキリストはパプテスマのヨハネや周囲の人々に神国日本の尊さを語り続けた。しかしながら、キリストの教えは当時のユダヤ教の長老達の容けうるところとならず、またパリサイの学者等の反対にあい、遂にローマの兵に捕らえられ磔刑に処せられることとなった。しかるに遺言書によれば、十字架にのぼったのは弟のイスキリで、兄の身代わりとなって果てたと言われており磔刑のとき「神よ何ぞ吾れを捨て給うや」と聖書にあるまじき悲痛な声を発したのは、キリストではなく、弟のイスキリであった。十字架の磔刑を逃れたキリストは、弟子達数人とシベリヤへ走って足跡をくらました。シベリヤの広野に出たキリストは、艱難辛苦して各地を遍歴し、4年目の2月26日アラスカから舟に乗り今の青森県八戸港に上陸し、再渡来したキリストは十来太郎大天空とその名を改め、陸奥の国戸来村(ヘライ)に住居を定め、ミユ子と称する日本婦人をめとり三女を育てた。------------さらにこの解説書には「ユダヤに縁りの風俗習慣」なるページもある。------------(キリストの行脚)遺言書によると戸来村に居を定めたキリストは、布教に努めることもなかったが、日本の各地を遍歴行脚して、言語・風俗・人情などを視察するかたわら、庶民救済に努力されたという。その当時のキリストは禿頭白髪、赤ら顔の鼻高であり、ヒダの多いオーバーを着けていたので、人々に天狗として畏敬されたという。(風俗・風習もユダヤ風に)戸来(ヘライ)はヘブライをもじったものと言われるように、ユダヤに縁りのありげな風習や習慣が今なお多く残っている。例えば、父親をアヤ又はダダ、母親をアパ又はガガ、そして子供が生まれ初めて戸外に出すとき、この額に墨で十字を書き入れること、或いは、足にシビレをきらしたとき、人さし指にツバをつけ額に十字を書く、これを三回繰り返すとシビレが直るという習慣など、現在80歳をこす古老達が子どものとき、すでにその時の年寄り達から受け継いだものだという。(ナニャドヤラ(盆踊り・唄))村には古くから伝わる盆踊り・唄がある。お盆とそして続いて訪れる鎮守のお祭りには、この唄がうたわれ踊られる。 ナニャドヤラー ナニャドナサレノ ナニャドヤラーまったく日本語らしならぬ歌詞であるが、これを米国シヤトルに住む神学博士川守田英二氏(岩手県一戸町出身)は日本に帰った折これを伝え聞き、次のように翻訳している。 お前に聖名をほめ讃えん お前に毛人を掃蕩して お前に聖名をほめ讃えん(十来塚と十代墓)106歳の長寿を全うしてこの村で没したと言われるキリストは、その遺言により、西方およそ16キロの地にそびえ立つ標高1159mの戸来岳で風葬し、4年後に白骨を埋葬したという。それは、部落を見下ろす小高い丘の上にあり、こんもりと盛り上がった二つの塚にはそれぞれ真白な十字架が立てられている。向かって右側がキリストの墓といわれ、日本名十来太郎大天空と呼ばれたところから「十来塚」、左側がキリストが磔刑を脱する時に携えていた弟イスキリの耳と聖母マリアの頭髪を葬ったといわれる「十代墓」である。(ダビデと十字)キリストの墓にある、沢口家の家紋は、ダビデ(ユダヤの王)の星形であり、それも古い戸ぶくろに、うちつけられている。------------■関連する過去の記事 新郷村とキリスト伝説を考える(2010年12月12日) 大石神ピラミッドと新郷村の旅(2012年8月19日)
2012.08.18
コメント(1)

遂にその地を訪れて、我が眼で見ることができた。八戸キャニオンだ。八食センターや蕪島も念願のスポットで大変良かったが、実は最大の目的がここなのだ。遂に来た。晴天の夏休み。仙台8時発で一気にお昼は八食センター。蕪島、葦毛崎、種差の天然芝生地と、ここまでは家族向けの定番観光地。その先は観光地図にも出ていないあそこを目指す。JR大久喜駅のあたり、信号のある交差点でR45から一気に内陸に向けて舵を切る。細い路地で心配だったが、線路を越えて、そのまま山林地帯を登るとやがて平坦な高原農業地帯。八戸大学の南側だ。R45八戸南ICから是川ICまで高規格道路(南環状道路)を利用し、県道221号に降りて階上方面に南下する。途中で、八戸キャニオン2kmの案内看板があって安心する。展望台入口にまた案内板。曲がって進むと、つきあたりに展望台がある。案内板では午後4時30分までが見学時間とされているので、何とか間に合った。駐車してまずは展望台に上がる。壮麗なキャニオンの全景が飛び込んでくる。もっとも手前の下り傾斜部分の草木のためか、底部分ははっきり視認できない。とにかく規模が大きいので、重機がとても小さく見える。展望台の下部が説明ブースのようになっている。読んでまたビックリ。何と、地下約10kmの長距離ベルトコンベヤーで港やセメント工場に運んでいるという。すごいことだ。住宅地の下などにトンネルがあるというのだ。八戸の方は皆さんご存じなのだろうか。展望台脇の大きな写真の案内図の表示では、シールで張り直して海抜-170mとされていた。ボタンを押すと流れるアナウンスでは、160mと言っていた。とにかく掘り進んでいるのだ。石灰鉱山として、工業都市八戸の発展の基礎を築いた、とアナウンスで説明していたのが印象的だ。家に帰って地図で確認したが、市内の新井田川河口手前に「八戸セメント」工場があり、また、鮫駅近くの港に突き出た岸壁に住金鉱業の文字がある。これが専用岸壁なのではないか。とすると、地下の長距離ベルトコンベヤーは、キャニオンからほぼ真北に向かって、市街地東部の地下を走って、工場と岸壁につながっているのだろう。当然無人だろうが、コンベヤの結節点などのメンテナンスはどうするのだろう、途中の要所に地上から降りるための管理用のタテ穴があるのだろうか、などと無用の想像をふくらませる。地図を凝視していくと、住金鉱業の岸壁のあたりで、県道1号線やJR八戸線をまたぐように、内陸側の小高い住宅地(八戸水産高付近)から、何やらストローか「樋」のような細長い物体が延びて出てきて、埠頭に直結している。googleの写真でもわかる。私は八食センターのあと、いったんフェリー埠頭の方に出てから、八太郎大橋、八戸大橋と渡って蕪島に移動した。その際に、このコンベヤー橋の下を走っただろう。途中の大平洋金属のものと思われるコンベヤ橋はよく覚えているのだが、こちらは明確に意識しなかった。港湾合同庁舎が左手(海側)にあったのは覚えているが。この橋も間違いなく下を通ったはずだが、蕪島を目指していた運転者には思いも及ばなかった。それにしても、海抜マイナス170m、そして10kmもの地下コンベヤー、と八戸の誇り高い施設であることは間違いない。そして今も息づいており進化しているのだ。素晴らしい。現実に目にして、そう思った。■関連する過去の記事 日本一低い場所 八戸キャニオン(2012年3月20日) 壮大なる八戸キャニオン(07年4月15日)
2012.08.17
コメント(2)
江戸時代、馬に乗った武士などが城や寺社に入るとき、馬から下りなければならない場所が決められていて、そこを「下馬」といった。主人は中に入るが供回りの者たちは、下馬で主人の帰りを待つのが定めだった。暇を持て余した供の者たちは、世間の噂話や他人の批評などをして時間を潰すしかない。単なる時間つぶしなので、噂の真偽などお構いなしにあることないことを話題にした。そんなところから、第三者による無責任な噂話や興味本位の批評・評価を「下馬評」と呼ぶようになった。■三上文明著(野口元大監修)『みんなの語源 知って得する!日常語の由来184』山海堂、2007年さて、多賀城市に「下馬」がある。仙石線の駅名だし、古く明治時代には村の名前だった。『多賀城町誌』(佐々久監修、多賀城町誌編纂委員会編纂、昭和42年)によると(p.397)、次のように説明されている。------------ 下馬は、多賀城、塩釜(ママ)市と境を接している。塩釜神社に参詣する者はここで下馬して塩釜膳部に入ったので、この名ができたと言われる。神社までの距離が長すぎるし、其の外下馬する必要のある対象もなく、疑問の点が多い。佐々久氏は下馬はもともと急な坂であったから、下馬せねば通れなかったのでこの名ができたのであろうといっている。 一体塩釜と仙台方面との通路は大体二通りあって、一本の道は奏社宮(odazuma注1)-大日向の線と、もう一本は八幡-留ヶ谷-安部の待橋(odazuma注2)-向山(odazuma注3)と通って、今の坂病院の後に出て病院の北側を通って、膳部に出て塩釜に入り南町を抜けて神社という道もあった。 膳部で下馬し、あそこから歩いて神社に向かったものだろう。そうすると、この八幡を通る通路は神社に向かう本道ということになるだろう。本道だから下馬があって、奏社宮は脇道にすぎなかったのでこのような禁制区域があってもよい様に思われる。神社から見れば八幡街道は正面であって、南方に位しているので、この道を本道としたのもうなずけると思う。随って、神社への正使は勿論この八幡街道をとったと思われる。前述と相反する考え方であるが、参考のために書いておく。------------注1:奏社宮 陸奥総社宮。多賀城市サイトの説明参照。注2:安部の待橋 おもわくの橋の別名。多賀城市サイトの説明には、阿倍松橋と呼ばれていたとある。注3:向山 伝上山2丁目に「向山集会所」や「向山公園」があり、また行政区名「向山」として名が残る。従兄弟が東京から一時多賀城に住み着いたとき、シモウマと読むのではないのか、と言っていた。こちらはゲバなのです。なお、町誌の説明に出てくる「膳部」だが、塩竈市ホームページ「塩竈の水道の歴史」の中に、「膳部清水」として出ているのが関係するのだろう。地点としては、それこそ坂病院の北のあたりなのだろう。
2012.08.14
コメント(0)
随分前の推理小説だが、斎藤栄『奥の細道殺人事件』を週末に読んだ。(ワンツーマガジン社、2007年。初刊本は光文社、1970年10月。)忍者だった芭蕉の東北行の謎をついに突き止めたという大胆な設定と、謎の自殺を遂げる芭蕉研究者の大学講師のアリバイくずしが同時進行で進むミステリーだ。1970年の時代背景さながら、化学工場の有毒排水による死亡事故に関する企業の責任や社会的公害問題がモチーフに扱われている。ところで、1970年の時代から随所に出てくる列車名なども、今となっては懐かしい。例えば、常磐線回りの寝台急行十和田7号。これには、佐原部長刑事、浜島刑事、大学講師の後輩で刑事等と一緒に芭蕉の謎解きに加わる国文科大学院生の若生、の3人が上野駅に午後11時15分に集合して乗り込む。仙台駅到着は7時5分だ。また、天童温泉から新庄方面へ行く急行「もがみ」、仙山線で仙台から山寺に移動するために急行「仙山」も登場する。私自身は、急行「十和田」に乗ったことは多分ないと思うが(一度上野駅から乗ったかも知れない)、何となく地域イメージの近い「八甲田」なら、東北本線の夜行列車で新幹線開業後も走っていたやつだと思うが、よく利用した。また、子供の頃は小学校の窓から東北本線の特急はつかりを眺めていたし、夜行急行だと「いわて」に乗ったことも何度かある。詳しい人なら、各特急、急行の起点終点、運行時期など正しく記憶されているだろう。私はもう曖昧だ。
2012.08.13
コメント(0)
きのうNHKラジオの東北のニュースとして報道していた。秋田市内で37年間営業した結婚式場が葬儀場に改装してオープンしたという話題。少子高齢化を反映した象徴的なニュースとして取り上げているのだと思うが、従業員の対応も結婚から葬儀に切り替わるという側面もある。この会館や会社の名称はやはりNHKだけに最後まで出なかった。昭和年代までは、ホテルの外にも専門の結婚式場があったと思う。仙台にも中心部やバイパス方面などいくつかあった。あったと記したが、いまはどうなっているのか判らない。最近は、従来の豪華主義とは別のこじんまりとして雰囲気を重視した専門式場が、市内や近郊にできている。個性化、多様化の反映か。少子高齢化やライフスタイルを反映するとすれば、これだけ敏感な経済分野もないと言えるかも知れない。また、昭和年代に比べておそらく系列化も進んでいるのでないか。ビジネスとしての結婚式場や葬儀場、また、運営会社の変遷などを調べてみたい。
2012.08.13
コメント(0)
志茂田景樹は読んだことがなかった。直木賞作家でタレントのイメージなどは強いが、恥ずかしながら小生は、氏の本業であろう小説には接したことがない。政宗の天下取りの野望にむけた行跡を、人取橋合戦から始めて、秀吉の前での鶺鴒の花押を示して許されるまでの間について淡々と描く。秀吉に減封されたものの奥州は覇した。夢は全国の統一だ。辺境の東北で満足してはならぬ、藤原三代の黄金王国を乗り越えて国の覇者になる。それがために東北の大名達を震え上がらせ、中央や西に名を轟かせようとするプランニングを、着実に実行していく、そんな青年政宗の姿だ。■志茂田景樹「われ奥州をとれり-伊達政宗」(童門冬二ほか『時代小説傑作選7 戦国武将国盗り物語』新人物往来社、2008年(同社「時代小説セレクト」1995年11月を新装校訂)より)
2012.08.12
コメント(0)
白河以北一山百文なる言葉の経緯については、「近事評論」に掲載された記事を起源とするのが有力な解説だ。■関連する過去の記事 白河以北一山百文」の由来と河北新報(2007年8月7日)ところで、言葉の由来をわかりやすく解説する本によると、「二束三文」の項に似たような東北蔑視の話が出てくる。■三上文明著(野口元大監修)『みんなの語源 知って得する!日常語の由来184』山海堂、2007年------------(前略)幕末・明治の頃、いわゆる官軍によって、東北地方の土地や人々は、「白河以北、二束三文」と貶められた。そうした恨みもあってか、会津と薩長は何回か和解の試みはあったが、いまだにわだかまりが消えていない。(後略)------------「白河以北一山百文」ならよく知られていて冒頭のとおりだが、人口に膾炙するに際して日常用語である「二束三文」と結びつけられた事実があるのかも知れないが、「白河以北、二束三文」とはあまり言わないように思う。また、「一山百文」にせよ「二束三文」にせよ、官軍がさかんに発っしたかどうかは、実証されていないと思われる。さらに、会津の心情と長州との関係には、この蔑称に対する反感などにとどまらない計り知れないものがあるだろう。日常用語の解説なので、象徴的に、また通俗の理解に便宜な方向を選んだ、という感じだろう。ところで、著者の三上文明さんは話し言葉研究家で盛岡の高校を卒業されているそうだ。
2012.08.11
コメント(0)
ロンドン五輪で連日盛り上がっているが、東北ではやはり青森だろう。バドや卓球の銀メダルに続いて、八戸の2人が見事に金メダル。もちろんわが宮城県でも多数の出身選手が活躍しているが、青森はすごい。地元選手を称揚すること、そういう盛り上がりが出来ることは、大変すばらしいことだなと思いながらも、なぜに宮城県のマスコミや社会の風潮は青森のように盛り上がらないのだろうか、といつもの疑問を抱く。それはともかく、他の県では出身選手が少ないためか、五輪も全国レベルの扱いがほとんどだ。そんな中で、岩手のニュースとして、盛岡で8日、サマージャンボの1等4億円と前後賞各5千万円の合わせて5億円が出たそうだ。売り場は盛岡市の宝くじ神社チャンスセンター大通本店。3人がバラで購入。サマージャンボでは09年に県内から1等2億円が出たとのこと。4億円とか5億円とか、私には縁がない。私は、伊調や小原の金、なでしこの銀に浮かれる程度だが、当たった人は五輪の金メダルどころではない大騒ぎだろう。とにかく縁がないことだが。
2012.08.10
コメント(0)

もう10日ほど前のことなのですが、うな丼(メニュー上はうな重だったかも。そもそも違いって何?)を食べました。しかも親族のおごりのためか、非常に美味しく頂きました。普段はどうしても食べたいと思うほどではないですが、猛暑が続くと、さすがに気分転換というか身体にカツを入れる意味で、ウナギを食べることに大きな意味があるように思います。ああ日本人(しかもうな丼に希少価値感を抱く庶民)。私は夏バテしやすいタイプのため、若い頃などは毎晩ウーメンとビールなんて生活をしていました。もっともウーメンは秋でも冬でもよく食べました。要するに面倒を避けているだけで、仙台藩の食文化の素晴らしさを活かしていたわけです。猛暑が続きましたが、今日(8日)は最高気温が23度とかで、随分涼しい感じです。七夕最終日で、ついでにイーグルスもお祭り騒ぎの大量得点のようです。うな丼の写真を添えておきます。みなさん、夏を乗り切りましょう。
2012.08.08
コメント(0)
秋田県羽後町の西馬音内の盆踊りは有名で、徳島の阿波踊り、郡上踊り(岐阜県郡上市八幡町)とあわせて日本三大盆踊りと呼ばれる。重要無形民俗文化財であるが、盆踊りとしては全国初の指定ということが位置づけを示しているだろう。羽後町のホームページのFAQには、踊りに参加できるかとの設問に対し、参加型の観光行事ではなく、あくまで地元の伝統行事であると明言している。日中は施設見学、交流会、街並み散策を勧めている。(羽後町:西馬音内盆踊り)(羽後町観光物産協会:西馬音内盆踊り)日本銀行仙台支店と東北各支店による特別調査「東北の主要夏祭りの動向」では、2011年の場合、秋田県は竿燈まつり(入り込み130万人)と全国花火競技大会(70万人)の2つのイベントだけ掲記されている。さすがに、こうした大型「観光」イベントと人出を比較するべくもないかもしれないが、町HPの前出FAQには人出の設問もある。平成22年度は3日間で計11.7万人の人出があり、多い日で西馬音内地区の人口(5500人)の10倍以上の人出があった、特に午後9時~10時までの時間帯は混雑が激しく盆踊りが十分に見られない場合があります、などと説明されている。
2012.08.05
コメント(0)
ユニークな名称だが、青森県中泊町に実在する川。十三湖の南岸側は、岩木川や鳥谷川が三角州を形成するように注ぎこんでおり、陸地が湖の中にせり出すように形成されている。この中の旧中里町分で(大字)田茂木地区に短い川だが、「馬鹿川」がある。ある本によれば、汽水湖で潮の干満の影響を受け、また、最大水深が1.5mと浅い十三湖との関係から、海が荒れたときなどは川が逆流することがある。このため、馬鹿川となったらしいというのだ。(藤井青銅『あんまりな名前』扶桑社、2008年)地図を眺めながら、豊かな田園地帯であろうことを想像してみる。町のサイトをみていたら、平成9年におそらくこの一帯を学区としていたであろう若宮小学校が廃止され、町の中心部の中里小学校の学区となっている。中学校では、平成元年に内潟中学校ほかが閉校して旧中里町は中里中学校に統合したとあるが、名称からこの内潟中学校が、旧中里町西部で岩木川や鳥谷川の潤す美しい州の地域を学区としていたのではあるまいか。
2012.08.04
コメント(0)
全21件 (21件中 1-21件目)
1