夫よ、ありがとう♪ 0
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☆ ただいま、へこみ気分で毎日を走っております。 週末に夫が退院してきて、お見舞いをいただいた方に快気祝いをお送りする手配など、なんやかやと、あわただしく過ぎました。 夫は、退院後一週間程度自宅療養という医師の指示で、10月1日から職場復帰することになっていました。 月曜日の朝、夫を残し、子どもを送り出し、私も出かけ、子どもを連れて、20時頃に帰宅し、いつものごとく戦争の時間。 まず、子どもの幼稚園の服を引っぺがし、洗濯機を稼働させ、夕飯を作り始める。用意された食卓を見て、この日は、魚の煮付けと筑前煮だったのだけど、宝良が、「いやー、いやー、いやー。こんなおかず、いやー。」と言うので、「そんなことを言う子は、何にも食べなくていい!」と叱る。ショボンとした宝良が、「ごめんなさい。うそ、うそ。ママの作ってくれたものは、何でも、おいしいよ。ごめんね。」と言って、食べ始める。子どもと夫に食べさせている間に、前日干してあった洗濯物を取り込んでたたみ、洗濯機が止まるまでの間に自分も夕飯をかき込み、そしたら、すごく、煮魚がまずかった。お醤油入れすぎ。塩辛すぎて、うまみが無い。こんなおかずなのに、子どもを怒ってしまって、あんな台詞を言わせてしまった。と、気分が凹む。洗濯機が止まって、それから干して、ばたばたと洗い物をしていたら、横にあった、お砂糖入れをひっくり返してしまい、全量こぼれた。はぁーーーー。更に凹んだ気持ちのまま、仕方ないので、掃除機を持ってきて、一人で片付ける。麦茶を沸かして、ご飯を炊く準備をする。子どもをせき立てて寝る準備をさせる。あーーー、もう十時が来るわよ!はやく寝なさーーーーい!と叫びつつ、夫と子どもを寝室へせき立てて、それから、翌日の幼稚園の持ち物や着るものの準備などをする。 ようやく座ると、テレビの前のカーペットに、おかきだかおせんべいだかの食べかすが落ちていて、家にいた夫が、テレビを見ながら、ソファーで食べていて、足下に小さな粒がぼりぼりと落ちていたらしい。ここで、少し不機嫌になる私。(正直に言うと、少しではなく、おせんべいかすを拾い集めながら、かなーり、不機嫌に。)確かに、退院後の自宅療養中で、無理はしてはいけない夫。しかし、目が悪かっただけで、もともと、体が悪かった訳じゃない。訳で……。ま、鬼嫁みたいに、言わない、言わない。と、自分をいさめる。火曜日、同様に、朝から走り回って、学校から自分の通院などもあり、子どもを幼稚園へお迎えに走って、公文に送り届けてから、買い物をして、家へ戻ると、やっぱり、案の定、何にも家事はされていないわよ。そうだよね、別に頼んで出かけたわけじゃなし、寝室で寝ているらしい夫をそのままにして、急いでカレーを作り始める。夫宛に電話がかかってきて、寝ている夫を起こして電話を取り次ぎ、電話の後そのまま、夫が起きてきたので、宅配便で届いていた棚の組み立てを頼んで、宝良を公文へ迎えに。宝良を連れて帰ってみたら、夫が、組み立て中の棚を広げたまま、「おなかが痛い」と喘いでソファーで寝ている。正直、はぁ? マジかよぉー! って気分の私。部屋は散らかり放題。便秘でもない下痢でもない、吐き気もないが、おなかが痛くてうずくまり、呼吸をするのも、喘ぐようになっている。ウンチが出てしまえば治るんじゃないの? と思うものの、結石歴のある夫なので、また、鬼嫁のように言い放つのも良くないと思い、「30分くらい様子見て、痛さが増していくようなら、夜間診療へ行く?」と夫に聞いてみた。「行く。」とのこと。行くんかい~!? 子どもにカレーを食べさせておいて、洗濯機を回して、前日の洗濯物を取り込んでたたみ、「お腹がすきすぎて痛いのかもしれないので、夕飯食べてみようか」という夫に、カレー食べるの?マジで?と思いつつ、食べさせ、「やっぱり、痛い」と横になるので、更に様子見て(その間に洗濯物を干して)、じゃあ、病院行こうか。と。宝良を一人で留守番させるわけにもいかず、八時半頃から、子連れで病院へ。結局、検査したけど結石系は見あたらず、原因不明。痛み止めをもらって、帰宅。十時過ぎて、とにかく、もう寝ろーーーと、宝良を寝かしつけている横で、痛み止めを飲んだ夫が、さっさと入眠。えーーーっ、寝られる程度の痛みなのね………と、冷たい目で見つつ、寝室から出て行く私。さめたカレーを食べて、家事をして、と就寝が午前2時半になる。水曜日、睡眠不足で、かなり不機嫌だが、何とか子どもを送り出し、学校へ駆け込んで、朝一限が、小児栄養の時間。「成人病胎児期発症(起源)説:FOAD:Fetal Origins of Adult Disease」というものについて、とくとくと講義を受ける。「受精時、胎芽期、胎児期または乳幼児期に、低栄養または過栄養の環境に曝露されると、成人病の(遺伝)素因が形成され、その後の生活習慣の負荷により成人病が発症する。」つまり、妊娠前の食事も大事だが、妊娠中に太りすぎないようにしたいって、浅はかなことはしないでね、臓器が作られていく過程で、飢餓状態にさらされている胎児は、カロリーをどんどんと取り込み、ため込む仕組みに体を作ってしまって、出産後、普通にエネルギーを食べられるようになると、その機能が過剰に働いて、肥満と成人病に向かって、一直線。でも、その仕組みは、産まれる前に体に仕組まれてしまっているので、一生変えられない。だから、母胎は、そんな罪作りなことをしないでね。って、にこやかな講師は話す。 そんな仕組み、知ってますが、知っていて、分かっていても、食事を制限しないといけなかった母もいるんですよ!ええ、死ぬほど制限しましたよ。気が狂いそうでしたよ。このブログの2004年2005年あたりを読んでもらうと分かるだろうけれど、DM妊婦としての不妊治療前から妊娠中まで、必死でしたとも。妊娠までは一日720kcal妊娠初期は一日1200kcalええ、成人病胎児期発症(起源)説でいうところの、宝良の体は、私によって、奇形にならずに生まれる方を優先するため、ミニマムなカロリーで作られましたから、肥満も成人病も、時限爆弾仕込まれています。 で、むちゃくちゃ、生活習慣に気をつけていないと、すぐ、トリガーひかれちゃいますから、3歳過ぎて、お菓子を解禁してからの、彼の肥満ぶりと、それによって、悲しい言われ方、意地悪なことを言われる体験などなど、現在の苦行は、最近のブログの通りでございます。 で、この講義を聴きながら、ええ、授業ですから、若い女性の多い、保育士の卵たちへの授業ですから、先生が、この話題を丁寧になさるのは当然なんでしょうけれど、と、胸の内で、ぶつぶついいつつも、気持ちは、とっても、ヘビーでした。聞いているのが辛かったですね。 どんよりと、どんよりと、どんよりとした気持ちで、ホームの教室に戻ると、ほかの子たちは、次の授業が無いのか、教室移動だったのか、2限目の時間、教室は無人で、私一人。 少し、ピアノの練習をして、宝良のお迎えの筈だったのだけど、ちょうど、すごくさわやかなすてきな心根の人のブログを読んでしまい、私は、その人のブログ、大好きなのだけど、そのときは、堪えた。自分の情けないどろどろした気分に対して、なんて、気持ちのいい人かと。何だか、自分が凹みすぎて情けなさ過ぎて、涙が出てきた。教室に誰もいなかったので、しばらく、一人でじびじび、じびじび、じびじびと、声も出さずに、涙をつるつると流して、泣いておりました。あーあ、時間を1時間も無駄にしちゃったよと、思い、こんなこと、していても仕方ないよなと、重い腰を上げて、昼休みをつぶして、レッスン室の空いているところで、ピアノの練習。もう、11月の幼稚園実習まで時間がないからね。なんとしても、課題の曲だけは練習を始めておかなければ。どんより、どんよりな水曜日が過ぎ、木曜日。翌日から職場復帰なので、今日のうちにと、夫が朝から病院やら少し職場に顔出しやらと出かけた。自分で車を運転するという。前回の手術の時は、かなり私が送り迎えをした記憶なのだが、今回は、この自宅療養期間だけ、私の送り迎えで、職場復帰する10月1日からは、自分で車を運転しても良いと、退院時に言われたと夫がいうのだが、木曜日も、たった一日しか違わないから、もう自分で運転していくと、お出かけ。そして、昨晩、急いで夕飯を作っていたら、なすと油揚げを醤油とみりんで煮ていて、横のフライパンでお肉を焼いていたら、煮物が焦げ付いてしまった。はじめの強火から、弱火に落とすのを忘れていて、焦げた臭いがしてきたけど、お肉を焼いていたので、その焦げたにおいかと思ってしまって、鍋のことを忘れてた。お肉を焼き終わって、ハタッと隣に意識が行き、あーーーー。鍋の底一面がもう、炭です。むっちゃ凹みながら、サイドメニューが無くなったので、急いで、こんにゃくの和え物を作りつつ、一面炭の鍋底を、スチールたわしでこするのも、久しぶりだよなと思いながら、どこまでも、気持ちが凹む要素が続くのね、と長嘆息。そして、寝る前になって、夫がぼそっと、「車、接触事故した」と。へ?事故?目のせいなのか、久しぶりに運転して、感覚が鈍っていたのか、立ち寄った郵便局の駐車場を出るとき、バックしていて、ぶつけたそうで、相手の車も、自分の車も傷付いたらしい。で、今、車は車屋さんに預けて、代車で帰ってきていると。はぁーーーー。まぁ、保険で何とかなるらしい。相手は普通の女性で、ヤクザやさんとかではなかったそうで、お互い怪我もないとのこと、まだマシだったと考えるしかないね。 ああ、いつまで続く、気持ち凹みウィーク。 どこかで、気分転換が必要だよね。厄払いに、森林浴とまでは行かなくても、ちょっと景色のいいところで、深呼吸して。マラソンランナーのごとく、一歩一歩、何とか、歩いていくうちに、きっと、トンネルを抜けて、ゴールにでるだろうと、自分にそう言い聞かせて、淡々と、毎日を頑張ろう。それしかないものね。凹んでてもいい、涙出てもいいから、やること、やっていよう。誰かに言うことでもないし、でも、何だか、たまってきたので、ここで、空気抜き。吐き出させてもらいました。済みません。こんな長い愚痴、もし、読んでくださっている方があったら、すみません。そして、本当に、おつきあいくださったこと、ありがとうございます。
2010.09.30
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☆ 夏疲れなのでしょうか。気持ちが弱っています。 8月14日あたりから、体調不良。生理が重くなってきているのは、更年期にさしかかってきたからかな。おなかに来る風邪もあり、疲れもたまって、しんどいなぁ。 年少終わり頃、保育所の個人懇談で、3点の指摘があった。1.肥満を何とかするために小児科で相談すること2.多動と社会性協調性の無さを主訴として、発達障害の相談にいくこと3.少量ずつのおしっこの失敗を繰り返すことについて で、肥満対策に徒歩通園の幼稚園へ変わり、保育所の担任と私と子どもで、発達障害の相談に行って、一年間様子を見て、年中終了時に診断診察に入ることに。 そこまでで、年中に突入し、幼稚園生活が始まる。幼稚園での、年中夏休み前の個人懇談で、やはり、おしっこについて相談に行ければ、行っておいた方がいいかもと。 夏休みに、やっと、おねしょなど、おしっこ関連の相談外来を持つ小児科を見つけました。地元のメイン総合病院で小児科部長をされていた先生が、クリニックを開業されて、夏休みにサーカスへ子どもを連れて行くために、駐車場の混み具合の口コミをネットで検索していたら、たまたま、このクリニックの情報を口コミで見つけました。 夏休みに入って、受診。夏休み2週間、計量カップを一つおしっこ用にして、量をはかって、回数を記録することに。すると、やはり、少し膀胱が小さいらしい。一回の排尿で、100cc前後溜められるのが、年齢相応らしいのだが、125ccが1回あっただけで、後は、ずっと50ccとか70cc。何日かに一度は、コースターくらいのおしっこのしみをパンツに作ってしまう。あまりにそれが治らないので、親の方が、先に先に声をかけて、1時間おきくらいにトイレを促すので、そういうときは、25ccくらいしか出ていないことが分かる。勿論、夜のおねしょは毎日。今は、おむつも大きいものがあって、体重35Kgまでのムーニーマンのおかげで、家事の負担は無いけれど、問題は昼間。本人の自尊心を守ってあげたいから。検尿やエコーなどの検査の後、大きな病気によって、起こっている訳ではなく、膀胱が小さいことによって、尿意を感じてから、間に合わなくなるまでに時間が足りなくて、少しずつ漏れてしまうのではないかと。それで、膀胱の筋肉を弛めるお薬を使ってみることに。 お薬を使い始めて、一週間。親に無理に促されていくのではなく、自分で尿意を感じてトイレに行くと、100cc~150ccくらいになってきた。尿意が無い訳ではない。自分でトイレに行けない訳ではない。なのに、間に合わない。叱られたり、恥ずかしい思いをする。 もう少ししたら、やっぱり幼稚園でお友達の中でも、恥ずかしい思いをするかもしれない。その前に、自尊心を守ってあげたい。 おしっこの相談で、初めての小児科へ行ったとき、慣れていないところだと多動がきつい。案の定、舞い上がって、先生に、「多動の傾向があるみたいだけど、どこかに相談は繋がってる?」と聞かれました。やっぱりな。 最近、とみに顕著だな。すごく緊張すると、多動的な行動がきつくなる。 ピアノのレッスンのときも、ひどい。 母の私には分かる。彼の能力では、頑張ってるんだ。決してふざけてるわけではなく、決して先生の言葉を無視しているわけでもない。でも、何回言われても、足をぶらぶらさせる。集中して一回頑張って弾くと、弾き終わると緊張を放出するかのように、無意味な音をいっぱい鳴らす。先生が注意点を話してくださっているときも、ピアノを鳴らさずに居られない。「先生が話してくださっているときはピアノを鳴らさずにちゃんと聞く」というレッスンのお約束が守れない。何度も、いつも、どんなに言われても、足をぶらぶらさせずに、しっかり置いて弾くことも出来ないし、話が聞けないし、「はい」と言えない。 それでも、宝良君は彼なりに、頑張って居るんだ。一生懸命、緊張して意識を自分なりに引き締めて、頑張っているから、さあ、今日のレッスンは終わり、となると、一気に多動が爆発する。じっとしていられない。椅子に上って、私に上って、変な声を出し続けて、椅子などの上をこすって音を立て、………。いつも以上に多動になるのは、いつも以上に緊張して頑張ったから。 でも、ね。そんな君は、どこへ行っても、叱られるばかりだね。きっと、小学校へ上がっても、とにかく、しゃべり続けて、黙っていられないし、じっと座っていられない。いや、バカみたいに小さいうちから公文に通わせて、確かに、机に向かって椅子に座っている訓練はしてきたら、多分、授業中に立ち歩くことは無いかもしれない。でも、椅子に座っていても、じっとはしていられない。椅子を揺らしたり、手で何かしらをいじっていたり、プリントをしていても、声を出さずに居られない。歌っているか、大声で独り言を言い続けているか。 がんばっているのにねぇ。母が、小学生だったときと学校の指導が180度変わっているのでなければ、君のような子どもは、ずっとずっと、学校で叱られ続けることになるよ。 わざと、先生の注意を無視している訳じゃない。わざと、反抗している訳じゃない。でも、何度言っても改めないから、「言うことを聞かない子」なんだよね。 先週は、急に家でトラブルがあった。古いマンションなので、配管トラブルで、我が家の押し入れの上で、配管が傷んで、水漏れを起こし、警報がなった。で、管理人さんや業者さんがたくさん出入りして、宝良は、ハイパーテンション。私は、その対応で、時間になっても宝良君をピアノのレッスンに連れて行けず、急に実家の母に頼んで、かなり遅刻して連れて行ってもらったが、もう、あまりのハイパーテンションで、レッスンにならなかったとのこと。何を何度どう言っても、全然聞いていなかったと。「すみません。」と言うしかないけど、こうして、彼の人柄とか性格とか評価って、作られていくのだと思うと、本当に、悲しい気持ちになる。多動でアスペ。優しくていい子なのにな。生きづらいね。 それでも、健全な自尊心を守って大人になって欲しい。大人になる頃には、多くの人には誤解されたままでも、君の良さに気づいてくれる友達も、数少なくても、できるよ。大丈夫。 でも、それまでの時代。きっと、君の小学校学校生活は楽しくないだろうな。多動ADHDでも、人柄的にお友達から好かれるタイプなら、まだ、学校も楽しいかもしれないが、更に、たからくんは、多分アスペルガー。診断診察に入ってないから、診断名ははっきりしないけど、保育所の先生と相談員の方が話している内容は、アスペルガーの特長について話しているし。 社会性の育ちが遅く、実年齢より精神的に社会性を理解するのが数年遅れて育つ。協調性も同様。空気が読めなくて、人の気持ちが推し量れないので、無神経なことをしてしまって、お友達から嫌われるタイプ。 先生に叱られ続け、お友達から嫌われる学校生活って。どうやったら、何とか楽しみを見つけて通い続けることが出来るのだろうか。そんな中で、何かしら、自分の支えになるものがなければ、学校へ通い続けることが出来ないんじゃないかと思う。 小学校へ行かなくてもいい方法って無いかなぁ。いや、もちろん、行った方がいいけれども、黒柳徹子さんが通った、トモエ学園のような小学校があればいいのになぁ。私の地方は、お勉強が出来るエリート系のお受験小学校が1つあるだけで、ほかには、普通の公立小学校があるのみ、という選択肢。 トモエ学園のような私立小学校は無い。 と、宝良君のことも、ちょっと気持ちが重い今日。夫が、網膜剥離再発とのこと。 3年前、お舅さんが亡くなったとき、いきなり見え方がおかしいと言い始めて、入院、左目手術。その後、また左目、再手術。今回は、右目だそうだ。 早急に対処すれば、失明は防げるので、急ぐ。前回の手術してくださった先生は、今、夏休みで、戻ってこられるのを待てないので、違う病院の先生を紹介していただくことになった。 夜が明けたら、まだ夏休みで家にいる宝良くんもつれて、私は運転手。朝一で、夫を紹介先の病院へ。レーザーで対応できるのか、手術になるのか。 今週土曜日から、TDRへ旅行予定だったけど、行けないかもしれないな。
2010.08.31
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☆ 息子の誕生日、9月5日。今年は誕生日前日の土曜日から、土日と平日有給休暇2日を足して、9月4日から3泊4日の旅行を計画中。そして、今日は、そのジャスト2ヶ月前。7月4日です。この日が日曜日で良かった。携帯の予定に入れて、9:30には電話の前でスタンバイ。ああ、若かりし頃、どうしても取りたいコンサートチケットのために、電話の前でスタンバったことがあるけれど、今となっては、そんな熱意もなかったのでね。 はい、子どもの誕生日を挟んで、旅行をしようと計画。今年は、何とか家族3人分の東京往復分マイレージがたまり、かつ、10月には、そのうち古いマイレージが失効するため、また、3人分に足らなくなる。ということで、昨年は、高速道路1000円に乗っかって、USJとキッザニアへ行き、バースデーシールを貼ってUSJをうろうろして、おめでとう~って言ってもらったのだけど、今年は、マイレージで航空券全額無料ということで、ディズニーへ。 すごく悩みました。旅費の関係で、そうそう頻繁にはいけないので、どうせならと、ディズニーランドホテルで計画をしたら、ぶっ飛ぶ金額に唖然とし、一旦計画中止。また、日を改めて、気を取り直して、オフィシャルホテルで計画をして、それでも、我が家としては贅沢だよなぁと思っていたり。またまた、後日、私はかつて2桁くらいは東京のディズニーランドに行ったことがあるけれど、でも、それは若い頃で、なんと! ディズニーシーが出来た頃には、もう行く気力が無く、シーは未体験。なので、今時のディズニーリゾートは、全く見当が立ちません。ちょうど、今月のミーティングのときに、TDLに行っていたとおみやげを持ってきてくれたのをきっかけに、子連れディズニーリーゾートを経験している先輩ママである、職場のスタッフに、参考意見を聞いてみた。ら、旅費がまるまる浮くのであれば、ホテルは奮発してあげてもいいかも。頑張って倹約しても、ディズニーホテルのどれかに泊まると得られる特典は、かなりいい、と。 それで、夫に、どうしようね? なんて相談をしていたところ、なーーーーーーんと!主婦としてはお恥ずかしい話。へそくりじゃないけど、忘れていたお金が、たまたま出てきたんです。昨年の引っ越しの際、引っ越し代や、リフォーム代などなどにかかる費用を用意したとき、それらの予算分の現金と領収書とを、引っ越し関連ファイルに入れていて、マイルを溜める関係で、カードで支払えるものは、極力カードにすることにしている私。ここの現金でなくて、カードで支払って、カード引き落とし通帳が何だか苦しいことになっているなぁと、あちこちの通帳から工面して支払っていて、引っ越し予算現金を、カード引き落とし用に、通帳に戻すのを忘れてた!(アホか…)(主婦として、信じられない!)それが、たまたま、今回の旅行の相談を夫としていたとき、別件で出した書類入れから出てきた。「えっ、お金が」同封の領収書をみて、「あっ、」これらの支払先、もう全部済んでるし………、ラッキーーーー。これ、旅行費用に使ってもいい?(あきれ顔の夫)←二重の意味であきれ顔・忘れるか、そんな大金。・で、もし、忘れてたとしても、出てきたからって使うか? ふつう貯金に返すやろ?。以上2点の、もの言いたそうな夫を説き伏せ、そもそも、旅費が浮かなければ、無い計画。今度いつ行けるのか分からないのだから、せっかくだから、ねっ。 という話になった。 というわけで、旅費はマイレージで無料、半額は旅行用予算、残りの半額は、思いがけず出てきた家の中の宝くじ? (ずぼら主婦のうっかりへそくり?)、にて、計画の大枠決定。 しかし、それもこれも、まずは、たからくんのお誕生日近辺、ねらったところの便で、3人分のマイレージ無料往復航空券がゲットできての上でのこと。なので、搭乗日2ヶ月前の朝9:30マイレージ予約開始、その時間がとても大事なのでありました。マイレージ用の座席数は、各便に枠が設定されているからね。7.8月のまさに夏休みってところは少し外れてるけど、でも、まだ、大学生とかは休みだし。侮れません。 決戦の日曜日。5分前には電話の前でスタンバって、無事、航空券確保!!!!そこで、事前計画に従って、ホテルその他の予約を。 まだ、TDL未体験の宝良君。ディズニーランドへ行くよと行っても、ちっとも嬉しそうじゃありません。イメージ出来ないのだと思います。それより、近所のスーパーマーケットにある、100円玉を入れて乗る、トーマス列車がいいとおっしゃる。orzマイレージのことを説明して、飛行機に乗るのよ~、何年かに一度くらいしか、マイルが貯まらないから行けないのよ~と、説き伏せ、一昨年の夏旅行(富士急ハイランドのトーマスランドと埼玉鉄道博物館)の時に行った、「東京駅のトミカショップへ行きたい」と。(あのときも、大人二人はマイレージ無料航空券。子どもはまだ3歳になる際際前で、お膝乗り可のため、無料でしたね。 わはは。) 半日移動で潰れる初日(は、羽田 → 東京駅(トミカショップ) → 舞浜 シルク・ドゥ・ソレイユ「ZED」 → ヒルトンベイ(楽天トラベルより、25%off予約)で、2日目から、ディズニーランドホテルで2泊3日(朝食、3dayパス、ファストパス、などのパッケージ)and シェフ・ミッキーのランチ予約。 という予約が出来ました。 我が家としては、かなり贅沢なプランになりました。毎年の旅行予算の倍は遙かに超えますね。夫は、海外旅行するよりは安いんじゃない? とか言ってましたけど、海外旅行もピンキリですから、バックパックで、地球の歩き方とユーレールパスとトーマスクック持って1ヶ月ヨーロッパをふらふらしたときも、レンタカーとモーテルで半月アメリカに遊びに行ったときも、多分、こんなにかからなかったんじゃないかと思う。新婚旅行で、激安パック旅行に入って、一週間イタリアへ行ったときと同額くらいじゃないかな。実家の婆ちゃんが金額知ったら、絶対怒るだろうなぁ。ディズニーランドホテルを使わなければ、それだけで、ずっと安くなるから、きっと、それくらいの予算だと婆ちゃんは思うだろうけど。引っ越しのときの、予算が今頃出てきたなんて、ルーズな話、親には聞かせられません(大汗) でも、いつまで夏旅行をしてやれるか、先のことなんて分からないし。行けるときに、連れて行ってやりたいなぁと思う。今はイメージできなくてあまり期待していないみたいだけど、5歳の誕生日。もう、行ってみれば、TDLを楽しめると思う。ライド系はがっつり乗らなくても、キャラクターたちの存在なんかで、十分雰囲気を楽しめるだろうしね。 怖がりで、派手な乗り物はあまり好まない宝良くんなので、スモールワールドとか、せいぜいジャングルクルーズとかで十分じゃないかな。新しいものは全然知らないので、これから、最近のガイドブックを一冊買って、ぼちぼち、中での過ごし方を考えていこうと思います。 ランドでもシーでもいいので、怖がりの5歳になりたての男の子が喜びそうなおすすめのアトラクションとかあったら、是非、教えてください。m(_ _)mあー、疲れた。日程考えたり、予算と照らし合わせたり、予約が取れるか、あれこれPC見てたら、せっかくの日曜日だったのに、すごく時間がかかったよ。久々に、PCの前にはり付きました。 後は、風邪なんかひかないで、いいコンディションで楽しめたらいいと思います。今日の写真は、朝、着替えの途中で、ソファーに転がってくつろぐたからくん。まぁ、最近蒸し暑くなってきましたが、なぜ、ランニングシャツをその位置で、着るのを止めてしまったのか。「変な格好~、写真撮っちゃおう」と言って携帯を向けると、ニマッとこちらを向いたところ。風邪ひくなよぉ~。 (*^_^*)
2010.07.04
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☆ 今朝、子どもの太ももを、手加減無く、思いっきりばしーーーっっと叩いてしまった。時間が経つと、私の手形がくっきりと赤く浮かび上がってくる。 泣きたい気持ち。 100%八つ当たりなんだな。子どもはちっとも悪くない。 誰だってそうだと思うけど、私は、人から、怠けている的な責められ方をすることが、必要以上に傷付く。誰だって、そんなとき嫌な気分になるだろうけれど、「うるさいわね、勝手なこと言ってるんじゃないわよ、フン。」と怒り返して、跳ね返すことができることもあるのかなと思う。だけど、私の場合、これ以上どうしろっていうのよ、もう、がんばれないってば!って気持ちで、もう吐きそうな気分になりながら、でも、出来てない事実はその通りなので、言い返せない。その分、怒りを自分の中にため込んで、ずっとため込んで、それが、ちょっとしたことで爆発してしまう。 今回の場合、 1月に保育所の個人懇談で、・肥満について・社会性協調性が育ってこないことについて・夏には止まっていたかに思えたお漏らしが、また復活し失敗が多いことについての話があり、肥満とお漏らしは小児科へ、社会性協調性は発達相談にということになり、2.3月にそれぞれ相談に行って来たのです。 で、まあ、お漏らしはその頃にはぴたっと止まっていて、肥満は食事と運動ということで、発達相談は、一年後にまた来てみてくださいということに。 実家の親にも、「子どもの肥満は100%親の責任」「おまえが悪い」と元旦に叱られた私だけれど。まさに、その通り。でも、そこが一番私自身苦手なところで、その私の弱点が私自身の健康を害しているだけでなく、息子も害している事実は、かなり辛いものがあるのですよ。 更に、4月になって、短大の授業で乳児保育の時間に、流れるような個にあわせる保育について実践例を聞き、ブルーな気持ちに。 一斉に食事の時間、一斉に昼寝の時間……というのではなく、数人ずつマンツーマンで食事に付き合い、じっくりと関わり、その子の生理的な欲求にあわせて充足できるような保育をする工夫をすると、子どもには小さな声で話しかけるだけで、子どもは満足して行動し、否定語で叱る必要もないし、無理に寝かしつけなくても、すっと寝入るし、まず、泣いている子どもはいない状態。という保育が実践され始めているという保育の取り組みを習った。 テキストに、3回目にきつく叱る大人には、子どもは2回までは言うことを聞かなくていいことを学習し、3回目に大きな声で叱られると、その時点で行動を止めればいいのだと学習する。ということがかかれていた。 まさに、私のたからへの接し方で、「お母さんが優しく言っているうちに、言うことを聞きなさい。」「3回言ったら怒るよ。」「5.4.3.2.1……」その先は、ばしっと叩く。だから、我が子は、最後のカウントダウンが始まるまで、片付けない、準備しない、……すべてにおいて、言うことを聞かない。行動を止めない。で、カウントダウンの数字が聞こえ始めると、やっと、動き出す。 こういう状態に育ててしまったのは私で、集団保育でさえも、0.1.2歳の時点で、子どもが十分に向き合ってもらえている実感がもてる「流れるような保育」が実践されている園では、保育者は大声を出す必要も叱る必要もなく、穏やかに安定した子どもに育てることが出来ているのに……。とブルーが入っていたわけだが。 たまたま、昨日、お医者さんに言われた。「あなたが、子どもを気持ち的にとても大事に思っていることは知っているけれど、でも、子育てには失敗しているよね。自分のことがいかに精一杯でも、子どもに手をかけなさすぎ。この子は絶対に太らせてはいけなかったし、けんかしてでも、お菓子を食べさせてはいけなかったし、糖尿病持ち妊婦としての管理妊娠の努力がやれたことを考えると、どういったって、やろうと思えば出来る努力が出来てないのは、努力不足だってことだよね」と。 その通りなんだけど。信頼があっての上で言ってくれてるのも、分かってる。でも、その指摘、かなり、結構堪えてて……。 確かに、子どもは、育てたようにしか育たないよ。私が、こんな風になるように育てたわけで。そんな育てられ方してる中で、よく頑張って育ってくれていると、本当に思ってるんだよ。でも、子どもの改善指導が入る部分、指摘される部分は、すべて、子どもの指摘ではなく、親の不出来さの指摘な訳で、私は、今、一気に、今まで出来ていなかったことを、あれもこれも、今以上に、更に、もっともっともっともっともっと、もっと頑張れ、もっと必死でやれ、何もかももっと努力をしろと、どこへ行っても、努力不足を叱られる、そんな気持ちでしんどい。 今朝、「遊んでいい?」という息子に、「着替えて、ご飯を食べて、幼稚園へ行く準備が終わって、それでもまだ時間が余っていたら、出発の時間まで遊んでいいよ」と返事しつつ、でも、まだ食卓に朝食が用意できていなかったので、全く、親の身勝手な都合で、朝食が並べられるまでの時間稼ぎに、静かにしていてもらおうと、この後の展開などよく考えずに、録画していたアンパンマンのアニメをつけた私。そしたら、子どもの着替えの手が止まって、テレビに気持ちが行ってしまった。で、私が、「早く着てしまいなさい。」「着終わったら、かけてあげるから」と一時停止ボタンを押した。そしたら、ぐずぐず文句を言い始めて。(子どもからしたら、ぐずって当然だよね。だって、私が勝手にアンパンマンかけて、そこに気持ちが行って、着替えが止まって、叱られて、アンパンマン一時停止されちゃったら、子どもぐずるの当たり前だよ。)子どもからしたら、とっても理不尽な状況。なのに、これまでの私なら、もう少し、着替えなさいって何度か声をかけて、「3回言ったら怒るよ」って台詞が出るところ、乳児保育の授業で凹んでたので、一回ですっと動けない子に育ててしまったことが、目の当たりに突きつけられた気になって、二度目の注意というか促しの言葉が、口に出せなかった。そして、その口ごもったとき、「子育て失敗」「努力不足」とかとかとか、いろいろと、ここのところたまっていたものが、どっかーーーんとなって、言葉の代わりに、手が出た。思いっきり、むっちゃめいっぱいの力で、子どもの太ももを叩いた。 少し沈黙があって、大泣きしたたからくん。そこでおしっこを漏らしてしまった。こたつ布団の上。 自己嫌悪と、今日は忙しいと思っていた朝に、こたつ布団の洗濯までしなくてはいけなくなって、またまた怒る私。 で、結局、昼から仕事だし、こたつ布団の洗濯して、あれこれしてたら、学校間に合わず。 食事だって、私が立派な健康維持できる食事を作ってやれる母じゃ無いことが問題なわけですよねと、昨夜、夫が会社の人からいただいてきたタケノコをぬか入れてゆでて、高菜のあく抜きをして、煮付けた。 今日、昼は仕事、その後どうしよう……、今日の予定変更しようか、行かなかった学校の講義、どうしようと思いつつ。ぼーーーーと、料理しながら、洗濯干して、学校さぼったけど、どうしようと思いつつ、堂々巡り。手形が浮き上がるほど叩いてしまった子どもの太もも。ごめん。 発達相談だって、私の子どもへの接し方も学ばなければ……、だし。正直、私は手一杯です。誰も彼も、みんなして、私の至らなさを責めるけど、出来てないことばかりですみません。でも、頑張ってるんです。めいっぱい。これで、精一杯なんです。はぁ~。
2010.04.15
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☆ PC、何とか復活しました。 PCサポートしてくださる方にお願いして、ハードディスクもメモリーも増設してもらい、ついでに、USBポートは延長コードの先を差し込んでいなかっただけだったとか、さまざまな、自作PCの不具合も直していただきまして。 すべて初期化しての作業だったので、OSから入れ直すのも、やってくださり、大助かり。本気で、「地獄に仏」状態でした。どこに出会いがあるか分かりませんね。 PCを直してもらってからも、メールの設定でしばらく手間取りましたが、どうにか、快適なPC生活が戻ってきました。 後は、プリンターを修理に出すだけです。紙詰まりのときに、力任せに詰まった紙を引っ張ったら、紙送りのローラーの一部、部品がとれてしまった。私の怪力ったら………(-_-) でも、大きなプリンターをはずして、修理に持ち込みにいく時間がない。ので、そこだけ、まだ未修理です。 でも、この際ってことで、音楽を取り入れるのに必要なソフトも検討してもらって、これまで、音声が聞けなかった you tube や、 楽天ブログ内の動画音声や、 みんながUPしている自分の演奏曲など、ぜーーーーーんぶ、聴けるようになりました。 これまでは、購入したダウンロード曲とか、一定のものは聴けていたのだけど、ネット上の音楽は、画像のみの再生で、音が聞けなかったのよ。 ああ、快適なPCライフ。うれしいです。 さてさて、嬉しいといえば、 7月2日は、わたくし、お誕生日でした。44歳になってしまいまして、そんな年齢のお誕生日なんて嬉しくも何ともない……と思っておりましたが、 朝起きてきて、トイレに入った宝良が、寝ぼけた顔のまま、「ママ、お誕生日おめでとう~」と言ってくれ、朝っぱらからうれしくなっちゃた。 当日、かなり予定がぎっしりで、お祝い事はまともにできない状態だったので、夕方、宝良といっしょにスーパーで、唐揚げ系・サラダ系のお総菜などを買い込み、「ママにお祝いのお花を買ってあげるの」という宝良が、私から受け取ったお金で、出来合いの花束(525円也)をレジ精算し、ケーキ屋さんを回って、小さめのホールケーキなどを買い、帰宅。 机に買ってきたお総菜を並べて食べて、宝良から、買ってきた花束を「ママ、お誕生日おめでとう~」とまた言ってもらいながら手渡してもらい、ケーキのろうそくに火をつけたら、ワクワクしていた宝良が照明を消して、ハピーバースデ♪と歌をうたってくれました。歌い終わったかと思ったら、間髪入れず、宝良が、ふぅーーーーーーーっとろうそくを吹き消してしまいました。さすが、一人っ子。ろうそくを吹き消す楽しい役目は、自分のもの! と思っているようです。大人は笑って許してくれますからねぇ。これが、兄弟の分だったら、泣いて怒って、やられちゃった兄弟が暴れてくれるだろうから、宝良も理解するんでしょうけど。ま、そのうち、理解するでしょう。 というわけで、イベントとしては、すんごーーーーく、ショボいお誕生日当日だったにも関わらず、宝良くんの成長のおかげで、このささやかな、本当にささやかな一日が、生涯最高の部類の誕生日になりました。 しみじみ、幸せだなぁと思った次第。 (*^_^*) ちなみに、旦那ちゃまからは、室内用のエアロバイクをプレゼントしてもらうことに。短大でお世話になっている先生が紹介してくださって、ジム用の心拍数などを設定して安全に使えるエアロバイク(室内自転車こぎ)9万円を7万円で購入できることになって、今、本当にやりくり大変なんだけど、少しでも健康に近づく方向へ向かっていこうと、ご縁があったときに、購入を決心。旦那ちゃまに相談したら、夏のボーナスで、お誕生日プレゼントに買ってもいいと。 夏のボーナス、宝良くん、ディズニーランドへ行きたいらしいけれど、今年は、予算不足から、遠出ナシなので、本当はエアロバイク買わなければ、夏旅行できるのかもしれないけど、ま、これもご縁。 忙しくて、ジムへ行けず、会費だけ無駄払いしつづけていたので、退会したのですが、その話を短大の先生にしたら、「家で、何かのついでに…くらいでできる環境がないと、続かないものよ」と、その先生がご自宅で使っているものを紹介してくださったのでした。 エアロバイクは、お盆休みくらいに、我が家に来る予定。ピアノの購入を決めたときも、「買ったはいいが、結局三日坊主になった…ってことにならないように」と思ったものですが……、今回も思いは同じ。 自分の性格を知っているので、「場所をとる & まとまった出費になる」という買い物をするときは、自分にプレッシャーがかかります。 頑張れ、私。
2009.07.02
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☆ 戦々恐々です。 まったりと、それなりに平凡ながらいい静かなお正月を迎えられたと喜んでいたところ、さて、通常営業なり~と気合いを入れた、1月5日(月)の朝、夫が食欲が無くてだるいなぁと言う。 お正月休み疲れ? とか話しながら出勤していき、夕方、帰宅後、お腹の具合も良くないと、正露丸を飲んで、ボーっとするといいうので、何気なく熱を測ってみたら、38.0℃。 ありゃりゃ、もう夜だし、わざわざ救急へ出向いて他の病気を貰ってくるリスクを侵すほどでもないと判断し、私が薬局へ風邪薬を買いに出かけて、それを飲んで、さっさと2階で寝るようにする。 が、しかし、ハタと気づき、あれっ?お腹の調子が悪い、節々が痛いとか何とか言ってたな……。(ってことは、全身症状アリってことだ)そして、いきなり38℃越えてきた。まして、この季節。初詣とか人混みへ行ったし。 もし、インフルエンザだったら、48時間以内に受診すると軽く済むって言うけど、今朝から具合が悪くなって、このまま家で様子見て、明日、休めないからと無理して仕事に行ってたりしたら、時間経っちゃうかも……。 と、考え直して、急遽、夫を夜間救急外来へ連れて行く。(息子を、そんな病気の巣の様なところへ連れて行けないけど、ひとりで家にも残しておけないので、22時前に、急遽実家に預かって貰う) 結果は、インフルエンザではなく、ウイルス性胃腸炎での発熱とのこと。一応一安心したのだけど、息子をピックアップして帰って、寝かせる頃には、もう0時近くになっていました。 解熱剤なども処方され、39.4℃まで出た熱も、37.5℃くらいに下がったものの、所詮、薬で下がっているだけ。でも、仕事が忙しい時期で休めないと、無理をして出勤。 高熱は無くなったものの、体調は思わしくない状態の夫。そして、移った? らしき、私。週半ばに、発熱ダウン。 やっと、3連休に突入し、気持ち的にほっとしたのもつかの間。 (夫はうち2日出勤)、残りのたった1日の休みを、姑がまた、親戚とトラブルを起こして、その対処に明け暮れた。 姑がらみで、姑などの住む家(夫名義)のローンや税金、電気代・電話代・ガス・水道・NHKなどなど、すべて、支払いが夫のところへ転送されてくるなど、我が家は家計も引っかき回されているので、それを引き金にまた話が蒸し返されて、結婚12年を迎えようという今年、初めて私がイライラして、プチ家出。 と言っても、ビジネスホテル1泊4000円くらいというのは、費用対効果が、どう考えてももったいなく、実家は息子が生まれて一度も、里帰り出産はもちろんのこと、絶対にお泊まりとかはさせてくれないので、午前4時くらいまで、ガストで本を読んで居た程度のプチ家出。(ショボイなぁ…) 明け方、どうにも疲れたし、しんどいし、眠いしで、バカらしくなって、帰宅。 なーーーんて、やってた連休。最終日、宝良くんが、たまたま一緒に遊んでブロックなんかをしてた子が、風邪ひきっぽかった。 で、木曜日朝、いきなり、37.4℃程度の発熱。今度は宝良くん。熱を測っている内に、37.4~38.6って感じになり、保育所はお休み。 インフルエンザ流行のお知らせを数日前に保育所から貰ってきていたので、まだ、38℃そこそこのところでは、小児科へ下手に連れて行って、インフルエンザ貰ってきてはマズイと、家出様子見ながら、看病。 熱はあっても、元気に遊んでいた日中。しかし……、夜になって、39℃越え。コレはマズイと、久々に座薬で解熱して、様子を見る。 翌朝は、座薬のせいか、37.0℃。保育所へ行かすのは、まずいけど、熱は下がったし…と、もう一日家で看病して……なんて思っていたら、昼前にまた39℃。そして、むちゃくちゃ震えが来る状態の悪さで、機嫌も最悪に。 これは、もしインフルエンザを貰うリスクを侵しても、小児科へ連れて行くしかないか…と思ったけれど、丁度、午前と午後の診察時間合間で休診中。診察再開時間まで、待つのが愚図って待ちきれず、本当は食べられないだろうに、「イクラのお寿司とカッパ巻きと蜜柑とリンゴと梨が食べたい、どうしても~」とか泣く宝良くん。 子ども一人家に残して買いに出かけるわけにもいかず、連れて出るわけにもいかず、などとワタワタしていたら、連休最終日に一緒にブロックで遊んだ子が翌日インフルエンザと診断されたと聞き、………、うつされるかもなんて小児科行きを迷ってる場合じゃなかったと分かる。 午後の診察時間すぐ、他の患者さんがまだ来ていない時間を狙って、速効小児科へGO! すぐ別室で待たされて、検査の結果、インフルエンザA型。 ビンゴ! タミフルを使う選択となり、私、ずっと付きっきり。 体力もだけど、気持ちが弱っている宝良くん。抱っこ抱っこ抱っこ抱っこ。寝ていても、抱っこ、座っていても抱っこ。 そして、フワックショーーーーッン って、唾が湯気になって私の髪の毛が濡れるようなくしゃみをその至近距離から連発。 あああああ、昔、「悪魔の花嫁」とかいうタイトルのマンガがあったような気がするけど、本当に、「病原菌そのものを抱っこ」な「病原菌の花嫁」って感じじゃ。 木金土と高熱で、座薬などを使って、やっと、本日37℃台へ。完全に熱が無くなってから、更に丸々3日は、人へうつすので、外出禁止とのこと。私と宝良の密室生活なのですが、 私、今朝から、喉が痛くて、頭が痛くて、関節が痛くて、凄く咳がひどく、でも、まだ熱は出てない。ダウンしている現実には間違いないけど、インフルエンザを貰ってしまったか、ただの風邪だけを貰ってしまっただけなのか、まだ不明。 ああ、戦々恐々。 保育所も、お稽古ごとも、公文の宿題も、ぜーーーんぶ潔くお休みで、それはそれで、ヘロヘロしながら宝良のとのランデブー?! 普段あまりテレビを観ないのだけど、熱が下がりだして、家から出ないとなると、DVDは強い味方。開き直って、レンタルDVDを大量に借りてきて、ゴーオンジャーなど一気に観倒しています。 その結果、宝良は、ゴーオンジャーの主題歌を繰り返し聞きながら歌って踊るのは好きだけど、本編を観るのは怖いのでイヤなのだそうです。(まぁ、そうだろうなぁ)でも、それってゴーオンジャー好きって言えるのだろうか(疑問) つまり、友達と同じものにハマッテ遊びたいだけなんだろうな。 お正月あけ、ゴーオンジャーのお兄ちゃんパンツでトイレトレ頑張るとのことで、大量に、ゴーオンジャーのお兄ちゃんパンツや肌着のシャツなどを110cmで買いそろえました。 キャラものってバカに高い。なのに、なのに、一式買いそろえた次の週の放映で、もうすぐゴーオンジャーが終わって、「侍戦隊 シンケンジャー」に代わるとの予告。がびーーーーん。 そうですよね、テレビって、そういうものでしたね。忘れてました。 あーーーあ。保育所のお友達がみな「侍戦隊 シンケンジャー」ブームになっても、時代遅れのゴーオンジャーパンツやシャツで頑張ってくれることを願います。 今日の写真は、そのひとつ、ゴーオンジャーのなりきり肌着セット(半袖肌着とパンツ)で、ゴーオンゴールドになっている宝良です。 そうそう、お熱な日々になってから、トイレどころではなくて、完全紙パンツマン(うんち以外)に、逆戻りのここ数日です。 さて、私の風邪は、風邪で終われるのか、インフルエンザに乗っ取られるのか………。(なるようにしかならないか。 ま、仕方なし (^^;)
2009.01.18
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初詣に行ってきました。 友人家族は、3人。夫婦と娘さん Yちゃん(生後2ヶ月!!)。 ああ、かわいいの。かわいいのよぉ~。本当に全身ミルクで出来ているような、甘い香りで包まれているような、女の子の赤ちゃん。 我が息子君は、妹か弟が欲しくて仕方なくて、Yちゃんが生まれる前日には、保育所で先生達に、「明日、妹のYちゃんが生まれるんで~」と宣言するほど待ち望んでいた赤ちゃん。友人の子であっても、「異父母兄弟!?」として、妹になってください状態。 保育所へ私がお迎えに行くと、先生が、「お母さん、明日赤ちゃん生まれる?」と半信半疑。(半分でも本気にされる私のおデブぶり)そこで半信半疑になっちゃうんですか……トホホ。 保育所からそのまま病院へ直行し、新生児室でYちゃんに対面。「Yちゃん、いつ、病院から宝良の家へ帰ってくるの?」と訊くので、いやいや、宝良の家には帰ってこないから~(笑)。で、「また、Aお姉ちゃんちへ遊びに行こうね」と説得していたけれど、ずっと洟垂れで、熱も咳も無いけど、赤ちゃんに近づけるには危険人物だったので、それっきり会えていなかった。 そんな状態で迎えた初詣。やっと、一緒に出かけられると大はしゃぎ。お仏壇からお供え物のリンゴを勝手におろしてきては、「Yちゃんにプレゼントするんや!」と。それならこちらの線香臭くないリンゴにしてくれ~(でも、まだリンゴも食べられませんよ~)と慌てて取り替えたり…。 それより面白かったのが、前日12月30日から、「明日、大晦日の夜にAお姉ちゃんとKお兄ちゃんと(友人夫妻のこと)、そして、Yちゃんも来てくれるよ。で、いっしょに初詣に出かけようね。でも、風邪ひきさんは、Yちゃんに風邪をうつしちゃったらいけないから、いっしょにいけません。風邪をひいてしまったら、宝良ひとりで、お留守番だからね」と言い聞かせていました。 そしたら、コートも着ずに外へばーーっと遊びに出ようとしても、「風邪ひいたら、Yちゃんたちと初詣行けないよ」と一声かけるだけで、いつもと違って、すぐにコートを着に戻る。(最近本当に、なかなか言うことを聞かないのですよ。「お尻・おチンチン・鼻くそ・ゴーオンジャー」の4単語を叫んではキャハっ キャハっ キャハっ~ と笑って走り回る猿と化している宝良です。 見事にそういう季節に突入ってことで。 新年の挨拶に助産師さんをしている親戚へ行ったら、すばらしくまっとうな成長段階でおめでとう~と猿化現象を笑って誉めてもらったのでした。ハハハ) え~、話を戻しまして…。31日の朝、目覚めてすぐに、少し咳をした宝良。私の鼻の悪いのを継いで、彼も寝ている間に鼻の調子が悪くて、明け方少し咳をして、喉の方へ落ちた洟(痰?)を咳で出してしまうと落ち着くのだけど、その咳をした途端、「宝良、風邪じゃないから。風邪、ひいてないから!!」と、必死のアピールをしたこと(笑)。 ちょっと、智恵の付きだした3歳児。少し洟垂れ程度の風邪っぽさでも、週1のスイミングは無理をせずにお休みをさせていたので、自分の都合で、保育所やお稽古ごとを欠席したいときなどは、「宝良、風邪ひいたみたいだから、お休みする」とかのたまうようになっていて、例えば、ごっこ遊び世代に突入し、保育所で仲の良いお友達が、ゴーオンジャーごっこに夢中なので、母も無駄な抵抗をやめて、今回のサンタさんのプレゼントが、ゴーオンジャーの武器関連おもちゃになり、ととだったのだけど、25日の朝、いつもより1時間も早く起きて、クリスマスツリーの下でこれらのプレゼントを発見して、1時間みっちり遊んだにもかかわらず、当然のように、「今日、宝良、風邪ひいたから、保育所お休みする。で、ゴーオンジャーのおもちゃで、お家で遊ぶ!」と。(イヤイヤ、もちろん、その主張はこの母に却下されました) そんな姑息なことを言うようになった息子君が、朝、起き抜けに小さな軽い咳をしただけで、「宝良、風邪じゃないから。 風邪ひいてないから(声を大にして主張)」と。あはははは。どれほど、Yちゃんたちと初詣に行くことを楽しみにしてるんだか。 そして、31日。朝からそんなテンションで、ついにお昼寝もせず、夜23時過ぎまで頑張って、初詣に出かける車の中でついに撃沈。 神社について、バギーで移動し、神殿にあがって、ご祈祷を受けている間も、爆睡。帰り道でふと目を覚まし、気づけば全て終わっているってことに納得がいかず……。まぁ、人生そんなもんですから~。(笑) 初詣から戻り、明け方から寝て、ゆっくり起き出した元旦。お正月らしい遊びをしてみようと、年末にローソンで購入しておいた「トミカかるた」。家族で、ホットカーペットの上でかるたをして遊ぶ。むっちゃ、ハマッて、大興奮の宝良。どの程度遊べるか不明だったけど、やってみたの。ひらがな、書くのはまだ難しいけれど、読むだけならなんとかなるし、絵柄がトミカだし、読み札の文章も、内容がすべてトミカ関連の文章なので、札を取るときのスピードとかで、多少の手加減はすることもあるけれど、結構、自力で私より早く札を取ることができて、宝良くん、かなりの枚数を自力でGet!タッチの差で、自分が遅くて、札の上に置いた私の手の甲を掴んでしまったときなど、悔しい思いをする反面、その逆のパターンで札が取れたりすると、それはもう、大喜び。大変なテンションの上がりよう。 このかるた、思いの外、今年のお正月の大ヒットでした。 その結果、元旦の午後、自宅のホットカーペットの上で、私たち夫婦と宝良の3人だけでも、かなり遊んだ「トミカかるた」だったのに、夕方から、私の実家へ行くときも持参。(ピンぼけしてるけど、一応トミカかるたを持って嬉しそうに立っているのが、今日の写真。実家へ行ったときのものです。) 私の母と大年寄りのババちゃんと2人が更に加わって、横で小難しいロシア経済の報道番組を見ているジイジには、うるさかっただろうけれど、大かるた大会~♪。で、まぁ、甘々のババちゃんたちの手加減もあり、いっぱい勝たせて貰って、ご機嫌さんの宝良くんでした。 お正月って、幸せだなぁ~。こんな時間が何よりの幸せだ。と、ゴロゴロしながら、かるた遊びのホットカーペットの上。ああ、極楽ごくらく。(*^_^*)
2009.01.02
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☆ もう少ししたら、大切な友人一家と一緒に、初詣に出かけます。ってことで、今年も最後。 ああ、本当に月一更新になっているブログですが、みなさま、お付き合い下さって、ありがとうございました。 今年は、本当に怒濤の一年でした。というか、昨年から引き続き怒濤の二年間だったというべきか……。 舅の土地に夫が建てて今でも夫が税金とローンを払っている家を私たち家族は出て、借家に住んでいる訳なんだけど、一昨年のゴールデンウィークの法事で、舅の体調不良が目に余り、それでも、健康保険証を取りあげて病院へ行かせてくれないという、姑による舅の虐待が続き、我が借家に舅を引き取って以来、そのお舅さんを末期癌で看取って、お葬式出して、仕事の入札準備と並行して、法事を毎週して、49日法要を前に夫が網膜剥離で入院手術となって、更に、再手術になって、子ども抱えて、学校と仕事と保育所と病院を駆け回って、泣きながら車を運転していたこと、何度か。そして、去年の今頃、仕事を止めるか、縮小するか、突っ走るか、……、様々な検討をコンサルタントの方を交えてしていたなぁ。 年明け、1月半ばに、2ルームを閉鎖することになって、それからの後始末と、5月からの私の入院と、……。 落ち着いたのは、夏も終わる頃。 さぁ、やらなければならないことをいっぱい頑張らないと……と肩に力をバリバリに入れて思っていたとき、「やらねばならぬことよりも、今、自分のやりたいことをしなよ。あなた疲弊しきっているから。そうじゃないと、人として立て直せないよ。」とアドバイスを貰い、子どもの頃から好きだった歌を再開して、この冬を迎えました。第九や声楽のレッスン、しんどかったけど、でも、人間らしい感覚が戻ってきた。 今の借家へは、仕事を立ち上げる準備の頃引っ越してきたので、7年くらい住んでいることになるのですが、余りにも慌ただしくしんどく、必死で挑んでいたので、実際、今年1年が、ここに住み始めて初めての1年目の様な気がしていました。6年間、何していたか、ここに住んでいた実感がありません。すっぽり消えていて。 今は、懸命な食事や運動のコントロールをしようという気力がなくて、「今年1年は、まず休んで気力を回復させるのを見守って待つよ」と、主治医にも言って貰い、HbA1cが12.1%という現在。毎日がしんどくて、キツイです。が、ぼちぼち、フリーズしていた何かが解凍されてきている実感があります。 年末のミーティングのとき、私にとってはとても印象的だった出来事がありました。 あるスタッフが、ミーティングの間に、カーテンを洗濯してしまいたいと言い、脚立を持ってきて、ササッとカーテンをレールからはずし、2枚ずつ洗濯機に入れて回しだした。洗濯機は40分もしないうちに止まるから、止まるとサッと席を立ち、洗濯し終わったカーテンを取ってきて、また元通りに吊して、洗い立ての良い香りに鼻を埋めて、「ああ、良い香り」と。そうやって、次々に保育室のカーテンを洗濯して、3時間くらいのミーティングの間に、ついでのようにその部屋1室分のカーテンを洗いきってしまった。 縫い目がほつれているところがあって、裁縫道具を出してきて、ささっと、話を聴きながら会話に加わりながら縫ってしまって、脚立に登って洗い上がったカーテンを取り付けて………。 私にとって、カーテンを取り外すとか、洗うとか、取り付けるとか、それは多分すごく疲れることで、おおごとで、大変なことなのだ。健康で若いって言うのは、こういうことなのかと、本当に、眩しい光景だった。私はといえば、そのミーティングの間、ただ、座って話を聴いているだけで、しんどくてしんどくて、何度も何度も生あくびをしながら、横になりたい気持ちに耐えていた。そんな体調の時にみるその若いスタッフの様子は、つくづく、憧れとも思える、本当に眩しい光景だった。 そんなこんなの中でも、息子が元気に育ってくれているのが、何よりの楽しみで幸せである毎日。 29日の夜、自治会の「火の用心」夜回りの当番で、夫と息子がお出かけ。最近すごく太ってきて、まん丸顔の宝良くんが、完全防備で、更にまん丸になり、いつでも、モンゴルとかへ行って、混ぜても、見分けがつかなさそうな風貌に。今日の写真はそのときのものです。 西原さんの「毎日かあさん」や「ああ、息子」などに出てくる、おバカ丸出し息子に、急激に変貌を遂げつつあり、「お尻、おチンチン、ゴーオンジャー」しか言わないで、ゴーオンジャーのポーズをとるくせに、ゴーオンジャーの録画を見ていると、「怖いから、もう止めて、ペネロペかけて~」という今日この頃の宝良くんです。(笑) そんなお馬鹿な息子なんだけど、かわいくて仕方ありません。 保育所では、お兄ちゃんパンツで過ごすくせに、家ではオムツをはきたがり、オムツでおしっこします。紙おむつでも、ウンチだけは、自己申告して100%トイレに行くくせに、おしっこは100%オムツです。 なので、かなり誘導が入っていますが、「新年1月1日からは、家でもお兄ちゃんパンツにする」と、自分で言わせました。自分の口で自発的に言ったようで、結構誘導尋問です。ほぼ100%言わせてます。さて、どうなりますやら………。 来年は良い年でありますように。皆様にも、良い年が参りますように。今年一年も、お付き合い下さってありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
2008.12.31
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☆ またまた、ご無沙汰です。声楽の発表会のあと、11月は、消えてしまいました。最低限しないといけない仕事と、保育所から戻った子どもを寝かしつけるまで。それだけで精一杯。体調不良で、後は使い物になりませんでしたね。夫は、結婚11年を過ぎた今、いつものこととそんな私に平然として怒るでもないってことに、逆に私が「えっ、いいんですか……?」と、ちょっとびっくりしたりして。 さて、前回の声楽発表会ですが、もう、あのブログ後、結局睡眠も取れず、夫も風邪で声が出なくなって、午前中に、家族3人、揃って耳鼻科を受診。出先で昼食を取って、そのまま発表会の会場へ。 会場へ向かう車中、もう、自棄になってブツブツいう私。かつては、子どもの頃から、練習や準備が足りなくても気合いで本番に強い私…という暗示をかけて乗りきるのよ! と、舐めたことを思ったこともある若気の至り。しかし、数年前のピアノの発表会で、もう、最初の鍵盤の位置が分からないほどあがって、3回くらい弾き直しても、初めの音が、正しい位置に手が行かない……、もう、ボロボロの発表会があって、そんな、ハッタリみたいな勢いだけで、乗り切れるほど、甘くないんだよ! って、身に沁みた。あの体験は、子どもの頃からいっぱいお稽古ごとをしてきた身としては、大人になって、態度を改めることができたほど、結構、キッツイ体験でしたね。(まぁ、あの頃は、練習不足というより、ほぼ練習したことが無いに等しい、無謀な時期だったってことで、子どもの頃の発表会云々とは、身を置いた環境のレベルが違いすぎていたのだけれどね。学校行って、仕事に追われて、0歳だったり1歳だったりする息子をおんぶしながら、ピアノに向かって練習しようとしてたけど、まぁ、背中で暴れるし、ずっと泣くし、練習になんかならなかったよね。おんぶしたまま、背中にくくりつけたままでレッスンを受けさせていただいたことも、数回。状況を知っていてくださる先生なので、それも認めてくださったけれど…。 本当に、先生、スミマセンでした。ありがとうございます。) で、あのときのピアノの発表会ほどの、ボロボロの自分が、この声楽の発表会でも繰り広げられるんだ……、と。「練習は裏切らない。努力は裏切らない。というか、やってなければ、やってないだけのものしか、出来ないのが当然」と、夫と息子も乗っている車の中で、一人陰気なワールドに浸り込んで、会場入り。 なのに、ドレスは、カルメンちっく(派手)。開場前に、全員でステージにて発声練習。合唱ではなく、これからソロばっかの発表会で、みんなで発声練習って…。それぞれの声が凄すぎて、自分の声が聞こえない。私、どんな声で今発声練習できているの?声、声、……、??? と思いつつ、もう、立ち姿、姿勢、腹筋、背筋…とかを自己チェックするしかない。 そして、出番。もう開き直るしかなく、逆に、これまでレッスンで先生が指摘してくださった部分を、結構冷静に思い出しながら、注意しながら歌えた。 声や細かなところの処理などは、やっぱり、大雑把に雑になってしまったところも多々あったけれど、あの調子が落ちていた中では、思ったより歌えて、神様、ありがとうーーーーな、ギフトいただいた感じで終わりました。ひとえに、実力以上のものは、すべてギフト。自分の力以上のもの、ギフトに感謝。 ステージから降りると、すれ違いざまに、先生が、OKサインをしてくださり、胸をなで下ろす。 前夜、先生宅で伴奏あわせをしていたとき、ソロ以外にもフィガロの7重唱を歌う上級レベルの方々が、全員とピアノで合わせるために先生宅に残っていらして、駆け込みで合わせに入った私は、その合間に割り込む形になったの。で、私、保育所→公文のあとの息子を連れていたので、私がピアノ合わせで歌っている間、息子の相手をしてくださっていたお姉さんたち。 そこで、ちょっと親近感を持ってくださったようで、発表会当日、ステージから降りて袖へ引っ込んでいった私に、「おかーさん、よかったよ!すごく、声通ってた。会場全体に響いてたよ。よかったじゃん!」って、駆け寄ってきてくれた。前夜の私と比べて、って意味で、上手な他者と比べてじゃないことは、重々分かった上で、でも、すごく嬉しかったです。そうやって、仲間に受け入れて貰えた感じが、なんとか歌えたことの上に重なったから、嬉しかったのかな。 終了後、打ち上げの席で、その声をかけてくれたお姉さんが、「おかあさん、ドレスこれからどんどん増えていくと思うよ。」(たくさん、ソロのステージを踏んでいく未来になると思うよ。)って、いたずらっぽく笑ってくれて。幸せな一日になりました。先生のOKが出ればだけど、次は、やっぱりプッチーニから、ラ・ロンディーネ(つばめ)の中の、「ドレッタのすてきな夢」を歌ってみたいなぁ…。 そして、また、疲れ果て………、11月は消えていきました…とさ。(いつもの展開… 夫のつぶやき&諦め?) 消えた11月の次は、世知辛い12月ですわ。 猛烈な不景気に、我が家も晒されています。金額的にどうなるか、まだ具体的に見えていませんが、12月のお給料から、我が家の家計も、かなり収入が無くなる見通し。更に、それが、堪え忍べば回復するといういい方の見通しは、ナシ。 でも、ものいりな季節。このお正月、予算取りをしておかないと、本当に、ショートしてしまうといけないので、クリスマス関連予算と、お正月初詣関連予算と、お正月お年玉関連予算を計算して、今からお金をよけておくことにしました。 でね、ちょっと気持ちがすっきりしないのが、お年玉。うちは、金額を決めてあるんだ。高校卒業後就職するまでの子が1万円。高校生が7000円。中学生が5000円。小学生が3000円。そして、0歳から就学前までが、1000円。 子ども自身が持つお金としては、それで充分だと、私は思う。んだけどね、お年玉って、子ども自身が貰うお金って意味合いよりも、家同士のお金のやりとり、というか、家単位のお付き合いというか、お持たせとお土産のバランスって感じに捉えているご家庭もあるでしょ。そうすると、我が家のチビにも、5000円~1万円などの結構な金額のお年玉をくださったりすることもあり……。 うちのポチ袋には、先方のご兄弟に「1000円」ずつしか入ってないお年玉を差し上げて、家に帰ってみたら、うちの息子へいただいたポチ袋に「1万円」も入っていたなんてことも何度もあって、それでもいいんだ、うちはこういう方針なんだから…と、自分に言い聞かせて居るんだけどね。正直、何だか、(特に年齢の小さい子の)うちの基準って、ちょっと金額が少ない? と、申し訳ない感じもするんだわ。 みんな、お年玉って、どうしてるのかな……。 でもね、金額変えちゃうと、後々面倒だしね。ほら、子どもって、お年玉をすごく楽しみにしてるでしょ。大人が思っている以上に、凄く楽しみで、あてにもしているよね。で、そんなときに、そりゃ、姪・甥とか、全員に1万円ずつばらまき続けてあげられたら、最高かも知れないけど、そんなことは我が家の経済ではできないし、それに、そんな小さい子どもがぱっと貰う金額としてはおかしいって、健全な感覚だとも思っているんだよね。で、金額に差をつけるとしたら、明確な基準があると、兄弟が居て金額が違っても、自分も学年があがると先には同じようにもらえるから…と思うと、納得もいくと思うの。お姉ちゃんやお兄ちゃんは、就職したらお年玉終わりだけど、そのときに、自分はまだ貰えるから、今は金額差があるようだけど、結局平等だよって。 でも、そうすると、スタート年齢の頃の金額が、家族間のお金の行き来バランス(?)としては、小さい金額になっちゃうんだよね。 ポチ袋買って、一人一人の子どもたちの名前を書き出して、金額を合計してみたら、今年の我が家のお年玉は、合計4万円。世間一般の常識からしたら、少ない? かも知れないけれど、でも、単純に、このご時世、このキビシイ12月、決して、ラクラク出せるわよな金額でもないと思う。(我が家はね)銀行へ行って、お年玉用だからと新札でそれぞれのお札を用意してきて、そんなことを思った次第。 12月5日は、私の父の76歳の誕生日でした。誕生日前に、実家から、「くれぐれも、誕生日プレゼントとかケーキとか、買ってくるな」と私に伝えておけと、父からの伝言。 不景気で、家計の収入もがくんがくんと減っていくし、私が、仕事で、人様のお役に立とうと無給で奉仕し続けてきた後の借金も残っているからね。父は私に、ちょっとでも自分のプレゼントなんかに、お金を使わせたくないって、ありがたい親心、よく分かります。 この先、どのくらいまで、我が家の収入が減収になっていくのか、はっきり見えてきたら、私のお稽古ごとや、子どもの習い事、図書館でも借りるけれど、結構優先順位高くお金を使ってきた子どもの絵本購入(今、多分250冊くらいはあるかも)など、整理してやめていかないといけないだろうと思うし。私の短大の学費も、毎月少しずつ「学費通帳」に貯めていって居るんだけど、これも、このまま卒業までやっていけるかどうかね。まぁ、未来って奴は、訪れてきた問題を、訪れたそのときに対処すればいいだけのことなので、そのときに、その時を生きよう~(^_^)v ってことで、ひとつ、よろしく →私。 で、父には、苺を持っていきました。我が家の台所からのお裾分けって感じなら、父も少しは気持ちの負担にならないかな…と。 近所にお気に入りの苺屋さんがあって、http://skyfarm.jp/はっきり言って、ムッチャ美味しいです。一パック470円。スーパーで買う苺と比べると少し高いけれど、もう、安くてもスーパーやそこそこの果物屋さんとかで買った苺は、食べたくないって感じで、スーパーの苺2パック買うより、ここで1パック買う方がいい。って訳で、休みの日は、よく息子と「苺屋さん、行こう~」とデート。生苺と、苺パフェとか…、ハウスの中にテーブルと椅子を置いてくれているので、育っている苺たちを眺めながら、食べて過ごす休日の一コマ。 その苺2パックと、家にあった柿と蜜柑とバナナを持参して、宝良が、僕が剥いてあげるねと、蜜柑とバナナを剥いて(ちょっと、迷惑? 笑)、私が柿を剥いて、宝良が、「ハッピーバースデー~♪」を何度か歌うってことで、誕生日プレゼントがわりにしました。 まぁ、それはそれで、いい誕生日だったんじゃないでしょうか。 でも、消えた11月の次は、世知辛い12月、ってことに違いはないみたいね。臨機応変、波が来たら波に合わせて、暮らせるといいな。 私の大好きな知人の句に、「布袋草 あすは東の岸にあり」というのがあって、水面を埋め尽くすほどのホテイアオイ、大きな風が吹き荒れても、水をかぶっても、沈むこともなく飄々と水面に浮かんで、風が吹いたら、逆らわず、向こうの岸に流れており、でも、次の風が来たら、またその風に乗り、そうして、気が付けば、あの生命力で、みずみずしく生きている。私もそうありたいなぁ。
2008.12.05
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旅行四日目。 昨晩、あんなに遅くまで、トミカの新しいおもちゃたちで遊んでいたのに、眠いのを押して、期待でワクワクの宝良くん、しっかり、起きてきました。 朝ご飯を食べて、荷物を整理して、スーツケースや大きな鞄は宿から宅急便で送って、バギーと、一日分のオムツや着替えや雨対策などだけ持って、出発。 結局、東京タワーへ行くことに。 宿から東京タワーは、大人なら本来散歩がてら歩いて行く距離なのだけど、時間の余裕もないし……と、近くて運転手さんには申し訳ないけれど、タクシーを使わせてもらった。 近寄りすぎると、大きくて視野からはみ出す東京タワー。宝良くんには、今居るところの上にあるのが東京タワーだと、初めは少し認識しづらかったみたい。 もう、何年も東京タワーの中なんて入ったことが無かったので、登りのエレベーターが、少しいい感じに外を見られるようになっていたこととか、思ったより楽しめた。 でもでもでも…。無理して頑張って起きている宝良くんも、眠さの限界で、寝苦情でグズグズになり、東京タワーはおしまい。 この様子だと、築地に回っても無理そうだし、そこまで無理して行ってみても、ターレットトラックが働いている様子が必ず見られるという保証も無いし……ということで、築地は省略。羽田へ向かうことに。 タクシーで行こうという夫に、時間の余裕も出来たことだし、大人も少しは楽しみたいし…ということで、バギーに宝良くんを乗せて、東京タワーから浜松町まで、15~20分程度のお散歩をすることに。バギーに乗せて歩き始めてすぐに、宝良くん撃沈。 せっかく浜松町へ着いて、モノレールの始発駅として、停車しているモノレールの正面の顔や、実際、電車の線路と違って、コンクリートのぶーーーっとい1本のレールをクワガタムシみたいに顎でくわえている様子などが見られるチャンスなのに、眠ってしまって……、残念の宝良くん。バギーのまま、モノレールに乗車。 でも、暫くすると目を覚まし、モノレールってことが分かった様子。 時間帯的に、モノレールは各駅停車じゃなかったので、ビジネスや生活で使われる方はあまり乗っていない車内は、結構空いていて、何本も、対向車線のモノレールが来るのとすれ違ったので、浜松町駅で見られなかったモノレールの様子も、車窓から堪能できたみたいだったよ。 羽田空港が近づいてくると、モノレールの窓から、広大な空港の敷地に、ショベルカーやらダンプカーやらが、それはそれは、ちょっとした工事現場とは桁違いの数で、何百台と働いている様子が、パノラマのように眺められて、宝良くんとしては、大満足。 羽田空港で、昼食。 天候はピーカンなのに、離陸の際、「上空に雷雲があり、離陸の間隔を開けるため、出発調整です」と、滑走路で、離陸待ち9番目となる。まさに、デパートのトイレの前に人が並ぶがごとく、飛行機がずらりと行列して滑走路に並んでの離陸待ち20分。これもまた、たくさんの飛行機が並んで居る様子が、地方空港では見られないので、たまたまなんだけど、面白い光景でした。 午後早い時間の飛行機で、ビジネス利用の人も少なく、機内もすいていて、子連れで乗るには、気楽でした。 そんな天候とは思えないいいお天気で、揺れることもない安定した飛行と雲の上を飛ぶ景色や、地上が近づいてきたときの上空から見た地上の様子などを楽しんで、無事到着。 「もう、お家へ帰る~」と、丁度、里心がついて言い始めた宝良くんに、じゃあ、もうお家へ帰ろうか。と、まるで希望を聞いて今予定を変更したかのように、調子よく答える私。 自宅へ帰り着いた途端に、夫と宝良くんはお昼寝でした。 でも、目が覚めたら、早速昨日買ったトミカのおもちゃがいるといい出した宝良くん。無いよね。だって、重いんだもん。スーツケースに入れて、宅急便だよ。届くのは、明日。って言ったら、大泣き。この旅行関連で、たった1回の、大泣き場面でした。 そんな、旅行四日目。 無事帰宅。 外は大雨になってきました。雷が凄いです。絵本に出てくる「カミナリさん」ではなく、空一面をビカビカと走る稲光。欲張って今まで使っていたような最終便にしなくてよかったな。 早い時間の飛行機で帰ってきたので、大丈夫でした。 いい旅行が出来ました。よかった、よかった。 お疲れさまでした~。 (*^_^*)
2008.07.29
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旅行三日目。 宿でしっかり朝食を摂って、出発。 階段をどんどん下りていけば、地下鉄って気分が堪能できるのだろうけれど、途中、眠くなったときに愚図ることを前提にして動いているので、バギーは必需品。と言うわけで、エレベーターでホームへ下っていく。せっかく、地下5階とか地下6階とかのホームなのに、地上のビル内のエレベーター感覚で、あまり実感が湧かない宝良くん。仕方ないか。 浜松町で乗り換えて、JR山手線で東京駅へ。東京駅が近づくと、東海道新幹線の700系などが走っている様子が見える。ヨシヨシ。いい感じ。 東京駅では、JR西日本圏では乗れないタイプの新幹線をと、東北新幹線系のホームへ。 MAXだの、つばさだの、あさまだの………、次々にホームへ入ってくる新幹線、出発していく新幹線を眺める。またもや、売店(キオスク)の、新幹線グッズに掴まる……。今日もか。 ちょこっと、グッズ購入。 さっさと、「MAXやまびこ」に乗車する。ドラえもんの新幹線DVDでかなり擦り込まれているので、乗っておかないとね。 上野で降りようかと思っていたけれど、それだと6分しかないので、1階部分とか2階部分とか新幹線を楽しむ時間が足りないことが判明し、大宮まで20分乗ることに。 大宮に着いて、新都市交通システム「ニューシャトル」で一駅、「鉄道博物館」へ。「ニューシャトル」は、一見モノレールのようだけど、レールではなく、大きな溝の中をタイヤで走る。さすがに、「鉄道博物館」へ行こうとする家族が降りる駅だけあって、何組みかの子ども連れ家族が、去っていく「ニューシャトル」を背景に急いで写真やビデオを撮っていました(^_-) 「鉄道博物館」は、結構イケていて、本物がたくさん集められているので、大人も充分満足できるし、それらの中に乗れたり、電車の上から見られたり、電車の下から見られたり、(トーマスの中の「ダグラス」のような、黒い本物の)蒸気機関車が、汽笛を鳴らして回転したり、……。結構楽しめるすごい展示。工作なんかができたり、乗車できる屋外の乗り物があったり、トミカのキッズルームやら、立派なNゲージの模型たちが動くし、電車好きな子どもがいる家族には、いい場所でした。 平日だというのに、結構な人でしたよ。 昼頃着いて、着いた途端に、バギーで撃沈。昼寝している宝良くんの横で、親も休憩。そして、お土産ものやグッズ購入。しっかり、1時間以上寝てくれたので、後の時間も元気に機嫌良く過ごし、結局閉館近くまで「鉄道博物館」で遊びました。夕飯もそこで済ませて、また、「ニューシャトル」 → 「新幹線 MAX」で東京駅へ。 東京駅一番街のキャラクターストリートへ。「トミカタウン」でお買い物。 ついに、キャラ靴(トミカのパトカー柄)を買ってしまった。丁度、靴が小さくなってきて、1サイズUPの買い換え中。保育所から置き靴がそろそろ小さいので、替えてえてくださいねと声をかけられていたところだったので、保育所の園庭内だけで履くのなら、目を瞑っても良いか……、と、キャラ靴購入を決めてしまった。 トミカのキャラが入った、千社札シール(お名前シール)も4パターン作成。宝良くんの頑張ったねご褒美シールとか持ち物とかに使おうかな。 もちろん、ミニカーやら色々と、トミカグッズも購入。 と言うわけで、充分遊んで、疲れたので、路線バスを使って宿に帰るつもりだったけど、東京駅からタクシーで戻る。 急いでお風呂に入って、汗を流して、親たちはお休みモードなのだけど………、宝良くんは、買ってきたトミカのおもちゃたちで遊びたくて遊びたくて、全部拡げて大はしゃぎ。まあね、パッキングされていたものを捨てて帰れるから、荷物は小さくなっていいんだけど、でも、早く寝ないと、明日起きられないよ。そしたら、遊びに行けないからね。 元々の予定では、築地へ立ち寄って、ターレットトラックが働いている様子を見ながら、場外市場で美味しいお寿司でも食べて帰ろうということになっていたのだけど、宿の窓から、東京タワーがよく見える。 で、東京タワーの話題になる。 私たちが子どものころ、手遊びで、「せっせっせーのよいよいよい。 お寺の和尚さんがカボチャの種を蒔きました。 芽が出て ふくらんで 花が咲いて ジャンケンポン」 というのがあったのだけど、 うちの子は、保育所で更にバージョンアップしたものを覚えてきていて、宝良くんたちの遊ぶバージョンでは、「せっせっせーのよいよいよい。 お寺の和尚さんがカボチャの種を蒔きました。 芽が出て ふくらんで 花が咲いて」 の続きがあって、「枯れちゃって、 忍法使って 空飛んで 東京タワーにぶつかって 救急車に運ばれて かいくりかいくり ジャンケンポン」 というのです。 で、そのぶつかる「東京タワー」とはね…って話になり、急遽、じゃあ明日は東京タワーに行ってみる? という話になりました。 起きる時間によって、築地へ行くか、東京タワーへ行くか、両方行くか、どちらも行かずに羽田へ直行になるのか、まぁ、明日の風任せってことで、もう寝ましょうということに。 まだまだ、トミカで遊びたい宝良くんは、かなり抵抗して、遅くに就寝。さて、明日はどうなることやら。 そんな、旅行三日目でした。
2008.07.28
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旅行二日目。 目が覚めると、早速「ママ、もう朝みたい。起きて遊ぼう~。」と元気な宝良くん。身支度をして、朝ご飯。さすが夏休みだ~。レストランには、子ども連れが溢れていたよ。 さて、フロントで富士急ハイランドの入場パスをもらって、ホテルから連絡通路で直行。ハイランド内、あちこちのジェットコースター系絶叫マシーンを横目に眺めつつ、「トーマスランド」エリアへ向かって歩く。 午前中だけど、暑いよぉ~。 トーマスランドへは、アジアからの観光客も多く、ちょうどトーマス好きな年齢の子どもにはピッタリの、ユルい系の乗り物が用意されていました。 昔デパートの屋上にあったような、100円入れて動くだけの乗り物さえ、恐がりで乗ろうとしない宝良くんだから、きっとトーマスランドも、見るだけで、何も乗らないだろうと予想していたのだけど、さすが、トーマス。 ちょっと怖い気もするが、それでも乗ってみたい気持ちが勝つのかな。それに、一人で乗車するんじゃなくて、大抵、パパと一緒に乗るから、安心なのか、次々に乗りました。 まず、お決まりの列車。乗車口と下車口が別の場所になっています。そして、その下車口が、何と、売店の中。 おおおおおおーーーーー。トーマスグッズまみれの売店を通り抜けないと、外へ出られません。当然、子どもは色々と掴んで離しません。 はい、ちょっと買いました。で、そそくさと出てきました。 予想外に、5.6つのトーマス関連の乗り物に乗りました。ディズニーランドのように並んで待つこともなく、すんなり乗れて、いい感じで回れました。 2時間くらい遊んで、ホテルへ戻り、汗だく家族は、全員でシャワータイム。着替えて、チェックアウトしました。 今度は、高速バス(ハイウェイバス)に乗ってみることに。丁度新宿行きのバスに乗ったところで、少し雨。大きな荷物を持って、子ども連れで、雨だとキツイなぁ。電車の乗り換えとかせず、バスにしてよかった。ってことは、マイカーが一番便利だよな、今度はマイカー移動がいいな、旅行は。あれっ? それじゃ、この旅行の意味がないってば。乗り物好きの宝良くんのために、乗り物体験旅行なんだからさぁ~、なんて話しながら、こういう他愛もない会話や時間が、絵に描いたような幸せなんだろうなとか、思ったよ。 雨もすぐにやんで、新宿に着いて、タクシーで宿へ。 県の宿泊施設が、三田というか、麻布十番というか、一の橋というか、あのあたりにあるのです。古くてぼろいのですが、格安。それに、子どもころから、ずっと使い慣れている宿なので、勝手知ったるなんとか…って町。 荷物を置いて、食事とお買い物。 実家のババちゃんから、豆源で適当にあれこれ買ってくるように言われていたので、実家用と、私たち用に豆源でお買い物。実家用はお店から宅急便で送ってもらって、自分たち用は、宿で食べちゃう。 およげたいやき君のところで、大判焼きを買って、ちょっと、赤い靴の女の子の前で座って食べて、(やっぱり、特に皮が美味しいよね) せっかくだから、私の大好きなお店「 Blue & White 」へ。10年くらい前から、ちょくちょくここでお買い物する。なにげに、我が家には、「 Blue & White 」のものが、結構転がっている。クッションとか、アドレス帳とか、アクセサリーとか、ポーチとか、葉書とか、クラフトとか、ペンケースとか、手ぬぐいとか。今回は、宝良くんの来年用の甚平とか、ティッシュカバーとか、……またちょこちょこと買い込んできた。 以前の紙袋も好きだったけど、今は、エコ仕様で、お買い物をした商品を紙袋に入ることをやめて、手ぬぐい生地を袋に縫って「もったいない」ってデザインしたタグをつけたもの(有料だけど、格安)に、入れてくれた。「この袋も、また宝良くんの保育所用具入れて使ってね」って。 お隣のピーコックで夕飯の買い出し。それから、私の好きな、「ザ・酒屋」で、飲み物と果物を買い込んで、宿へ戻る。 若かった頃、格安飛行機チケットとユーレールパスとトーマスクックの時刻表と辞書をもって、バックパックで一ヶ月半、ヨーロッパとか回ってきたけれど、本当は、こういう旅行が好きなんだよな。 家族でお風呂に入って、和室にお布団を並べて、ごろりごろりと夜は更ける。 明日は、新幹線たちに会いに行こうね~と、就寝。 そんな、旅行二日目でした。
2008.07.27
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旅行一日目。 これまで、飛行機の東京往復は、いつも朝、7時台出発の便を使っていました。それだと、大抵、午前10頃の東京での仕事などに間に合う時間帯なので、ビジネス便という感じ。帰りも、東京(羽田)を19時台か20時台出発便で。そうすると、ギリギリ仕事や要件を東京で済ませて、日帰りで日帰りで最もコストパフォーマンスが良いんです。 でも、今回は、2歳児を連れた家族旅行。今までの習慣を変えて、ゆっくり出発して、帰りは早めの便で帰ることに。 さて、出発は午前10時台。羽田着はお昼前。ってことは、一日目は移動で潰れてしまうってことで、何だかもったいない気分。 しかし、結果的には、これで充分でした。 まず、飛行機に乗って、羽田に着いたら、リムジンバス乗り場で、次々入ってくるリムジンバスを暫く眺めて堪能。(宝良くんお気に入りの歌「はたらくくるま」シリーズにリムジンバスが出てくるので) たかだか新宿までなので、大人なら電車を乗り継ぐところだけど、わざわざリムジンバスに乗ってみる。 心地よい揺れで、しばしお昼寝の宝良くん。 新宿から、JR特急かいじ号に乗って、大月まで。2歳だから、お膝に乗りますってことなら、本当はチケットいらないところだけど、体験のため、ここではわざわざ小学生用の「乗車券」と「特急券」を買って、本人用に持たせる。電車の中では、車掌さんが特急券のチェックに回ってきて、宝良くんも一人前に、乗車券と特急券を見てもらう。(「はたらくくるま」の兄弟曲? 「ぼくはでんしゃ」の中に、「切符を拝見、車掌さん」という歌詞があって、車掌さんに切符をチェックしてもらったあと、ご機嫌に歌っていました。) 大月で、JR特急に接続している富士急の電車に乗るのですが、たまたま、ラッキーなことに、この時間は「トーマス電車」でした。 うちの地域には、アンパンマン列車が走っているけれど、あれは、外見だけがアンパンマンで、乗ってしまえば、中はあまり面白くないので、子どもは飽きてしまうのですが、このトーマス電車は、かなり良い! 壁から天井からドアから、椅子のカバーまで、トーマスの世界でびっしりだし、窓の下には、ひとつひとつ、トーマスのお話に関するクイズがつけられていて、運転手さんも車掌さんも、トーマスの帽子をかぶって、電車の車内には、飲み物の自動販売機もあり、その中のミネラルウォーターは、トーマスのボトルでした。 計画して乗ったわけではなかったので、予想外のプレゼントって感じで、このトーマス電車は嬉しかったな。もちろん、子どもは大喜びで、何度も車内のあちこちを歩いて、見て回っていました。他の乗客の方にご迷惑にならないように、私も後ろからくっついて歩きましたが、こういう電車ですから、そんなに込んでいるわけでもないし、乗客の皆さんもとても温かく見守ってくれていました。 富士急ハイランド駅で下車。ハイランドリゾートアンドスパに宿泊。 やっぱり、せっかくだから、このホテル一押しの「トーマスルーム」に泊まらせてあげたいと思ったけれど、やっぱりキャンセルは出ていませんでした。 温泉が併設されていて、せっかくだから大人としては楽しみたいところなんだけど、お部屋のお風呂で気兼ねなく子どもを遊ばせながら過ごし、夕飯。ホテル内のレストランへ行こうとすると、途中の売店の「トーマスグッズ」コーナーを発見した宝良くん。食後はすぐに売店へ。少しトーマスグッズを買って、お部屋で遊び、「明日は、トーマスたちと遊ぼうね~」と、就寝。 そんな、旅行一日目でした。
2008.07.26
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☆ ピアノの発表会、何とか終わりました。 えっと、先週の火曜日の宝良くん。水遊びも出来るくらい元気に午前中は過ごしていたけれど、午後少し便が緩くなって、夕方嘔吐と発熱。帰宅後、もう一度嘔吐。翌朝水曜日も38℃越えの発熱で保育所はお休み。久しぶりの発熱だったので、小児科も久しぶり。まぁお腹にくる夏風邪でしょうとのことで、すぐ元気になりました。 ところが、木曜日は何だか私と夫がダルダル。実は私も頭が痛い……。金曜日、宝良くんの保育所で夕涼み会があり、参加するために仕事を早く切り上げて帰ってきた夫の顔が真っ赤。今度は夫が38℃越えの発熱。 しかし、土曜日はピアノの発表会なんですってばぁ~。私も夫もバファリンのお世話に。 金曜日の夜、バファリンを飲んで寝た夫。土曜日も、朝もう一度バファリンを飲んで、宝良くんとお留守番。「熱はどう?」と夫に訊くと、36.7℃に下がったようだというので、リハーサルの時間に私だけ会場へ。とにかく今日だけは何とか乗り切らせて欲しいって感じで、バファリン頼みの私。 リハーサルの時に演奏を聴いているのは、お生徒さんと先生、それから、小さい子たちのお母さん。 去年は夫の入院その他で忙しすぎて発表会は欠席。その前と前は、午前中ギリギリまで仕事で、リハーサルに参加せず、ぶっつけ本番だったので、今年、初めてリハーサルの時間から参加でした。 観客がいないし、いつもの仲間たちとの並びの順番だったので、(上手な子どもたちとは別順で、保育士になろうと大人になってピアノを始めた勇敢な? 短大生たちのまとまり)リハーサルでは緊張することなく弾けました。何と、連弾もソロのアラベスクも、一応私としてはノーミス!(最後の繰り返しは短大試験仕様で省いていますけれどね。) そしたら、子どもたちのお母さんが、すごく誉めてくれました。(*^_^*) (*^_^*) (*^_^*) (*^_^*) (*^_^*) (*^_^*) お母さん方からすれば、同世代の私。 大人になって一からピアノを始めて、子どもに混じってえっちらおっちらやっているのを、自分の子どもの発表会に来たときに、見るわけです。 短大でのはじめての試験は「むすんでひらいて」(童謡)でしたが、発表会での曲は、初めの年が「思い出のアルバム」(童謡)次の年は「おかあさん」(童謡)。 この、おかあさんの年が大変でした。連弾「ミッキーマースマーチ」で大失敗をして、初めの鍵盤の位置が分からなくなり、全然違う音をばーーーん!緊張のあまり真っ白~。タリラリラ~。3.4回弾き直し始めてもパニクって分からなくなっていて、連弾パートナーの短大生仲間が、見かねて小声で話しかけながら、手の位置を持っていってくれて、やっと弾き始めることが出来たものの、でも、その状態なので、演奏自体その後も散々だった訳です。 子どもたちのお母さんは、以前のそれがとても印象に残っていたようで、このリハーサルで、ブルクミュラーの「アラベスク」を私が弾いたのを聴いて、「すごく頑張ったのね~」って、みんなで声をかけてくれました。いや、コンクールに出たりする子どもたちのお母さん方同士は、結構ドレスのことなども話したりして、仲良しなんですが、その中に、たまたま、私の同じ職場のお母さんが居て、だから、私にもよく話しかけてくれるようになっていたんです。さらに、ブルクミュラーですから、当然みなさん、かつてお子さんのレッスンで、注意されるポイントとかも聞いて知っているわけで、指の出来ていない私が、不器用に(とても「軽やか」にはほど遠い)タカタカタっを必死で押さえているのを見て、「よく頑張った!」って。 いやぁ、すごく嬉しかったです。本番で成功させろよ! って話もありますが、それほど親しい友達とかって訳じゃないお母さん方でも、同世代の人に、「すごく頑張りましたねーー」って、素直に声をかけてもらえたのが、もう、本番どうこうよりも、予想外のご褒美で、嬉しかったんです。(*^_^*)(*^_^*) さて、リハーサルが終わって、夫を休ませてあげられたらと、宝良くんの相手をして貰えないかと頼むために実家に電話をしたら、メヌエル氏病で時々動けなくなる母が、朝いきなりバッターーーンとひっくり返った(倒れた)そうで、またまた、かかりつけ医から「基幹病院の休日診療で脳のCTと点滴を」との指示で父が母を連れて行っているとのこと。 仕方ない。息子を連れに、リハーサルから一度帰宅。夫の具合を聞くと、何とか行けそうだというので、夫と子どもを連れて、昼から再度会場へ。 本番では緊張して、連弾では片手一小節丸々弾けなかったりと、幾つかミスがあったし、アラベスクも、強弱とかテンポとか、最高の出来とは言わないけれど、これまでの発表会や短大の試験に比べれば、何とか、音のミスは無かったってことで、リハーサルのようには行かなかったけれど、何とか終わりました。 子どもの場合は父兄が、大人の生徒の場合は本人が、何らかの役割を分担します。私は、今回、一部後半と二部後半の受付担当と最後の写真撮影の花準備でした。受付に居たら、一部終了でもう帰ろうとして出てきた女性に、「アラベスク、頑張ったんですね~」って声をかけられ、私が、えっ? って顔をしたんでしょうね、「あっ、前に、おかあさん弾いてたときの連弾、聴いていたから…」て。見知らぬ方(多分お生徒さんの、どの子かのご家族の方?)にまで、あの連弾の大失態は強烈に覚えられていたのか、それにしても、声をかけてもらって、ありがたかった~。みんな、優しいなぁ。子どもの頃から習ったことのある人が弾く「アラベスク」でも、子どもが弾く「アラベスク」でもないわけで、正直、ガンガンガンガンガンって、すごく、だっさーーーーい(死語)、情けない「アラベスク」な訳ですよ。当然。でも、いい年の大人が本人としてはぼちぼち努力を続けているってことに、優しい声をかけてくれたんだってことが、すごく嬉しい。 いつも本当に優しい気遣いをしてくれる友人夫婦が、発表会を見に来てくれていて、自分の担当がある私と、段々ロビーのソファーでへたり込んできた夫に代わって、黙ってニコニコと、宝良くんの相手をしてくれていました。彼女は10月に初めての子どもが生まれる予定なので、「大丈夫、(旦那くんの)練習になるし(笑顔)」って。 ありがとうね。本当に。 16時過ぎに終わり、写真を撮ったりして、17時過ぎに解散。帰り際の小学生の子どもたちに、「リハーサルのアラベスク、上手だったよ~♪♪♪」って、ニコニコと声をかけてもらった。あはははは。子どもは正直。ちゃんと、「リハーサルの」って単語が前に付いていました。それも込みで、やっぱり嬉しかったなぁ。 ありがとーーーーーっ、って返事しておきました。 さて、 父は午後から仕事で隣の市へ出かけると言っていたので、メヌエル氏病で母が寝込んでいると、夕飯が困るだろうと思い、(実家は、86歳・75歳・73歳の老人3人世帯なんです)でも、昼寝もせず走り回った宝良くんは撃沈しているし、夫はダルそうだしで、老人食には不向きだけど、無いよりマシ……と、マックのドライブスルーで食料調達し、実家へ立ち寄る。 夫の顔が赤くなってきたので、実家で体温計を借りたら、38.8℃………。 実家の近くに、19:30~の夜間診療所があって良かった。土曜日の18時過ぎだったからね。 (母も夜には多少動けるようになっていたので)眠っている宝良くんを実家に置いて、夫を乗せて行く。結局、また基幹病院を紹介されて、夜間診療所からそちらへ回ったら、この夜は、いつもブログに登場する私の主治医が当直で、救急での内科を担当していました。先生、いつものことながら、ハードワークご苦労様です。感謝。 さて、座薬での解熱をして、3日分の抗生剤をもらい、実家へ宝良くんを引き取りに行ったのが、22時近く。夕方17時から寝始めた宝良くんは、最強にパワーアップされており、連れて帰った夫にアイスノンなどをして寝かせて、ハードな一日だった私も、休みたいのだけど、宝良くん遊びたくって寝てくれません。 気合いを入れて寝かしつけるパワーは残っていなかったので、翌日は日曜日だし……と、電池切れを期待して宝良くんを放置しておりましたが、ついに深夜01時を過ぎたので、観念して、寝かしつけをすることに。 そこから更に絵本を4冊読まされて、やっと、就寝。 ふぅ~。長い一日が終わりました。 ちなみに、翌朝、(13日の日曜日)座薬で熱が下がって楽になったらしい夫が、笑いながら、「さっき体温を測ったら下がってたよ。で、(数回分記憶されている)昨日の朝の体温見たら、36.7℃じゃなくて、37.6℃だったみたい。熱下がったっ言って、ピアノの発表会見に行ったけど、熱で、熱を見間違えてたみたいだったよ」と、さも面白いことを発見したかのように笑って報告に来た。 この脳天気な穏やかな夫の性格があってこそ、我が家の平和や幸せは保たれているのだ…………と、つくづく思った次第。 夫と宝良くんと友人たちと、仕事が縮小されて、時間的にまともな生活ができるようになってきたことに、本当に感謝だなぁ、です!(ピアノの練習時間も少しずつ作れるようになってきたのです。) 優しい友人たちと接してとても嬉しい日だったので、かなり迷ったけど、エイヤッと「アラベスク」の動画を公開します。発表会三日前の夜、足が悪くて元々発表会に来られない予定の実家のおばさん(86歳)に見せるために、ピアノの横に携帯を置いて撮って、メールで送ったものです。音、ガンガン言ってますけど。引きつった必死の形相で弾いてる顔も写っちゃってますけど…。 まぁ、いいかってことで。
2008.07.12
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年の瀬です。 今晩には、来年が来るのですね。みなさん、コメント貰ったまま、いつものごとくお返事書けなくてごめんなさい。また風邪ひいたりして、ヘタレてました。 本日12月31日、やっとクリスマスツリーを片付けました。宝良くん、片づけを手伝いながら、「クリスマスツリーさんバイバイで、お正月さんが来るの?」と……。うーーん、ちょっと「クリスマス」と「クリスマスツリー」と「サンタさん」がいっしょになって、サンタさんのように「お正月さん」というものが来るらしいイメージのようですが、まあ、いいでしょう。そういうことにしておいて、「そうそう、クリスマスさんはまた来年ね。で、お正月が来るんだよ~」と答えておきました。 我が家の迎春準備は、「溜まった洗濯物をして、クリスマスツリーを片付けるだけ」が精一杯です。仕事のこと、学校のこと、体調のこと……、とても時間が足りません。 でも、精一杯のことをして、新しいステージがどう開けていこうともいいように、準備を続けようと思います。 たまにしか書き込み出来なかったブログだけど、昨年の暮れを振り返って読んでみたら、やっぱり体調不良でヘタレつつ、今と同じような気持ちだったらしい。 うん。今年も色々なことがあって、体調不良から、短大の復学、お舅さんを引き取って、看取ってお葬式に法事の連続、夫の入院「手術&再手術」、仕事でひとつ山があって、夏はそれで明け暮れ、秋に気管支炎で寝込んで、そして、また仕事のことで、大きな転換期が来た。で、今。 とにかくやれることの精一杯をしながら、未来を待つ。人事を尽くして天命を待つ。 誰が何を評価するのかは分からないけれど、私というひとりの人間としては、いつも精一杯やってきた。出来は不十分だけど、体調しんどい中で、その中でできることは、精一杯やってきた。 だから、今年も、一年を振り返るとやっぱり、感謝だなぁ。 色々バタバタと大変だった毎日だけど、それもこれも、生かされてのこと、充分幸せな一年でした。ありがとうございます。 来年も、幸せに満ちた年でありますように。 また一年、ここで出会わせて貰った皆様に支えていただきました。みんながみんな自分の毎日を頑張っている様子を(読み逃げでごめんなさい)、ブログで読ませて貰いながら、とても励まされてきました。 更に、コメントを下さったみなさま、ちゃんとお返事も返せない失礼な者で本当にごめんなさい。とても嬉しかったです。ありがとうございました。 みなさま、良いお年を。
2007.12.31
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お久しぶりです。 本当は、11月22日に日記をUPしようと思っていたのです。 夫のお誕生日だったし、水疱瘡の宝良くんは、病児保育でいい子で頑張ってくれ、私は、何とかピアノの試験で課題曲2曲(ブルクミュラーの「素直な心」と「狩」)とも合格となり、……。 でも、後で聞くと、「狩」はテンポが遅すぎで審査員の先生(7名のピアノ担当講師が審査する仕組み)から物言いがついて、ちょっともめたけど、一応の合格だったそうで……(汗)。 でも、その後、かなり大変で、ブログをUPする余裕がありませんでした。 治らなかった風邪が、気管支炎になって更に悪化、肺炎手前ということで、半月くらい寝込んだ。 あまりに咳き込み過ぎて、腹筋と背筋で支えていられず、体を立てた状態でいられなくて、出先では、椅子に覆い被さるように……、家では、海老のように体を丸めて寝た状態で咳き込み続けていたら、宝良くんが、「ママ、痛い?」「どこが痛い?」とヨシヨシをしにきてくれて、気管支のところを押さえ込んで咳をしていると、私の胸のところをヨシヨシしながら、「痛いの痛いの、お空へ飛んでいけ」「痛いの痛いの、新幹線のところへ飛んでいけ」……、といつも自分が転んだときなどにしてもらう「ちちんぷいぷい」をしてくれた。 思わず、嬉しいやら、子どもに気を遣わせて情けないやらで、涙出た。 あまりの体力消耗ぶりに、自力で運転して病院へ行く気力もなくなり、夫に連れて行って貰って、更に強い薬を出して貰った。 咳はマシになったが、血圧がすごく上がって、まして、仕事のことで、かなり大変な判断をしないといけないことがあり、さらにさらに血圧が上がって、気分が悪く、立ちくらみと吐き気と……といった感じで、本当にしんどかった。 そんなとき、お互いの結婚式に呼び呼ばれる程度には仲の良かった友人が、突然他界した。真剣に、自分の健康と家族に与える影響について考え悩んでいるタイミングでの、いきなりの訃報。私42歳。亡くなった友人は44歳。 「ちょっと調子が悪いから病院へ行って来る」と言って、自分で自転車に乗ってチャリチャリと病院へ行き、その外来で待っている間にトイレへ行っているときに倒れたそうで、発見されたときには、心肺停止状態だったそうだ。場所が病院だったから、すぐに蘇生処置が受けられて、心臓は動き出したそうで、そのまま入院になったけど、3日間頑張って動いてくれた心臓も再び止まり、そして亡くなったのだそうだ。その間、意識は戻らないままだったそうで、だから、家族にとって、自分で自転車に乗ってでかけたときの会話が最後になった。 連絡をもらって、とにかくお通夜へ出かけたけど、半信半疑な気持ちで出かけたのに、祭壇には、本当に遺影の写真があって、読経などが済んでみんなが席を立ち、私は棺の顔の小窓へ近寄って行ったら、本当に本人の顔が横たわっていて、本人の顔なんだけど、それは、紛れもない死者の、蝋人形のような皮膚で、「なにしてんの。何死んでるのよ」と心の中で声をかけてみたけど、もちろん生き返らなかった。 斎場の出口で親族が弔問客を見送るためにならんでいて、本当なら「ご愁傷様です、お気落としのないように」と声をかけるのが大人の流儀なんだろうけれど、どうしてもそんな通り一遍のことは言えなくて、残された家族が気の毒でならなくて、何の言葉も掛けられなかった。逆に、おばさんから、「もう居なくなってしまったけど、うちの前を通ったら、今までと変わらず立ち寄って行ってね」と言われ、気の毒で寄れないよ…と思いながら、更に言葉に詰まった。 42歳の私と2歳しか違わない。44歳で逝くなよ!!!!! 友人の死と、自分の健康状況と、どうしても切り離せず、その友人の死は何とも言えないほど、かなり堪えた。 半信半疑で出向いたお通夜で、ずどーんと堪えて、翌日の告別式は、どうにも出かけて行けなかった。今から告別式の始まる時間だな。今出棺の時刻だな。今頃、霊柩車がパァァァァァァァーーーンと大きく長いクラクションを鳴らして、みんなに見送られて出発しているのだろうか。今頃、火葬場から煙になって天に昇って居るんだろうか。などと思いながら。 告別式の夜、共通の友人から電話を貰って、その亡くなった友人のことよりも、問題はあなたよ、と、みんなで話していたのよ。もう、仕事止めてよって。このままだったら、次はあんただよって、みんな心配してるよって。という電話だった。 みんなも心配してくれてるけど、私自身、ちょうど寝込んで、もうどう前向きにテンションを無理矢理もちあげても、もうこのまま頑張り抜けると思い込んで突き進むのは無理って、認め始めていたところでの、この訃報で、私自身が一番堪えてるのだわ。「分かってる。自分でもとにかく今のままじゃいけないって、思ってるよ。心配してくれてありがとう」そんな会話をした。 仕事のことも、しんどくても、とにかく今は頑張らないといけないところで、踏ん張らないといけないところで…。連日、気合い全開であたらないといけない大仕事が続いている。 でも、何だか、すごく悩んだけど、悩みながらも必死に動いて頑張っていたら、人事を尽くして天命を待つというか……、少し清々しい、潔い気持ちになってきた。 いま、人生ちょっとターニングポイントに来ている気がする。そういう時期、タイミング、次の幕が上がるんだろうって。 流れが動き出した。仕事も、最善を探して努力してる。そしたら、仕事の最善は、結果的に私の生活も最善に変えていくことになるのかもしれないって、そういう風にものごとは流れていくんだなぁ。そんな気がしている。最善を尽くしていたら、仕事にとっても、全てに於いて最善のところへ流れていくんだなって、そんな風に感じる今日この頃。 ふぅ~。 さてさて、今日ちょっとした出来事があった。 家族三人で出かける用があり、出先の乗り物で、宝良くんがちょっと危ない乗り方になった瞬間があったの。そしたら、側にいたおばさんに、「ひとりで座るから危ないのよ。ちゃんとおばあさんと一緒に乗らないと!!」って叱られました。そうです、その「おばあさん」とは私のことです!! 見事なハゲ頭&残りの髪も白髪混じりの夫は、お宮参りの時から既に、何処へ行っても最初は「お孫さんですか?」とか「おじいちゃんと一緒に来たの?」とか言われて来たのですが……。 私は、当然のように、宝良くんの「おばあちゃん」と扱われたのは、初めてでした。ちょっとショック。 ええ、ええ。50歳夫と40歳妻の間に生まれたってことは、宝良くん2歳の今、父52歳・母42歳なわけで、「おばあちゃん」と呼ばれても、何の不思議も無いわけですが…………。初「おばあちゃん」扱い。 思わず、ちょいとブログを書いてみる気になるほど、ふんーーーーーーんだっ! と思った出来事でした。(^^;)
2007.12.23
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さて、週末。何とかお舅さんの四十九日を終わらせ、宝良ちゃんもストレスいっぱい。 前日は、法事のお返しやらお供えやらお支払いやらの準備で、ママには構って貰えなかったしね、当日は朝も早くから、黒い服着せられて、ママは喪服だし、お寺さんへ出発。先に着いて、準備。みなさん到着なさって、お茶やお供えなどのてんやわんやの中、「ああ、それ、触っちゃダメ」とか、ばかり。 それでも、(お斉)食事の席も何とか終わらせて、その足で、来られなかった親戚にお供えを届け、ラストは、職場へ顔を出す。全部、宝良ちゃん同行。 という訳で、ストレスためまくりの宝良くん。私も疲れ果てたけど、宝良ちゃんも、本当にご苦労様でした。 その夜は、もうダウン。で、翌日、四十九日が終わったらお尻に火がつく「お香典返し」の最終チェック。そして、それもやっと手配が済んで、ああああああ、長かった、しんどかった、きつかった、この日々も、あと一週間くらいしたら夫も退院だし、ようやく何とか目処が付いたのね~と思っていたのでした。 そうしたら、またもや、学校の授業中に夫から携帯へ連絡。休み時間に留守電を再生。「今日の診察で、同じ左目だけど、違う場所で新たな網膜剥離が発見されて、再手術になった」と。 はぁ~。もう、いやぁぁぁぁぁーーーーー。 そうは言っても、一番堪えているのは夫自身なわけで、仕方ないですな。 で、宝良くんの夕飯、「タマネギ・牛肉・卵・うどん」を炒めたもの。「バナナを切って、みかんを剥いて」お皿にのせたもの。「牛乳」私用に取り分けて置いたうどんの入った容器、が、写真の通りの状態になっておりました。 ええ、ひとりにしておいた私が悪いんです。自分で手づかみ食べでなんとかなっていたので、その間に、洗濯したりしていたのですが、いやにけっこう長い時間たっても静かだし、ふと部屋に戻ってみると、みかんは握りつぶして床に水たまりが出来ているし、テーブルの上も下も、油が付いたうどんでぐちゃぐちゃ。 もう、勘弁してくれ~、な気分だった母に、この状況は辛すぎた。 怒る気力も失せ、一瞬考えたね…………。泣こうか、わめこうか、叱ろうか、へたり込もうか……、どうしよう…って。 止まっている私を見て、マズイって顔をしてる宝良ちゃん。 ここで、大声で叱ると、多分大泣きして、そこから、またイヤイヤが始まって、さらに疲れる。びちゃびちゃの服も着替えさせないといけないし、もうお風呂も済んでいるのに手足も油まみれで、それを洗わないといけないし、ご機嫌損ねない方が、まだマシかも…。その方が、少しでも私が楽………、と放心状態で考えて、自分を冷静でいさせるために、携帯でお写真をパチリ。話のネタにしてやるわい。 ってことで、この写真になりました。 少し冷静になってから、黙々と片付けを始めて、床を拭き、机を拭き、宝良ちゃんの手足を拭き、叱られると思って固まっていた宝良ちゃんに、「面白かった?」と声をかけると、「うん」と言って、やっと笑顔になった宝良くんでした。それから、素直に、「おてて洗いに行こう」というとそれもOKで、着替えも抵抗なくしてくれて、もう限界じゃぁ状態の私にはありがたかったのでした。 何たって、1歳10ヶ月。一度機嫌を損ねると、叩く、つねる、引っ掻く、泣きわめく、テコでも言うこと聞かない等々、~~~「魔の二歳児」入り口ですから。 まあ、そういう訳で、7月10日にダーリン再手術決定で、そして、退院も延び延びになり、仕事も押せ押せで、5月に始まり7月に突入し、まだまだ続く、人生チャレンジ月間、宝良ちゃんと二人暮らししながら、ダーリンの病院へ洗濯物を運びつつ学校へ行きつつ、仕事をするのでした。 はぁ。そうそう、9日、やっと実家の両親が帰国。アメリカに住む兄家族の、4人の子どものうち、上の二人(中学一年の姪と小学校高学年の甥)も、ジジババと一緒に、夏休みで日本へ。 日本の学校が夏休みに入ると、日本に居る次兄家族が、その二人を連れて、アメリカの長兄の家へ旅行に行く計画だそうで、21日まで日本に実家に滞在。 この甥と姪に会うのは、本当に久しぶりで、とても嬉しい。でも、せっかくの機会なのに、私に余裕が無くて、いっしょに遊んであげられそうにないの。残念だなぁ。 まあ、仕方ないか。目の前のことを、ひとつずつ、こなしていくしか無いよね。 ふぅ………。頑張れ、あたし!
2007.07.09
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初七日は、お葬式の日にそのまま葬祭会館で執り行ったので、今日が初めての自宅での法要。 この日を迎えるまでが、本当~に大変だったよ。結局ね、毎週20数名の親類が集まってくれた。 30人近くの人が座れるように、家具を移動させ、大掃除をし、座布団を買いそろえ、障子を貼り替えて、様々な準備をほぼ一人ですることになり、家事代行の方にお願いしたりして、何とかこの日を迎えたのでした。 午前中にお仏壇納品。 昼から、お花とお供えと、お菓子とお茶と、うどんと、お寿司の準備。 夕方から法要の開始。お寺さんが来てくださって、親戚が集まって、新しいお仏壇なので、まず入仏の読経。それから、通常の法要をして、お茶、お菓子、お寿司、うどん、お供え分けの準備。 そして、皆さんが帰られた後、何と言っても、毎週続くので、しっかりとお片付けand来週の準備。 就寝は毎回夜中2時を回ってましたね。 ああ、大変でした。 しかし、しかし、これも、お舅さんのプレゼントだったかも……なんて思ってる。 私、姑にあの家追い出されてから、夫の親戚とはほとんどつきあいがなかったの、ずっと。で、宝良ちゃん、もうほぼひとりっこ確定でしょ、将来、孤独にならないか…、それが本当に心配な私。 おじさんやおばさんが毎週自宅に来てくれることで、急にたくさん親しくなって、そこに同い年の孫がいたりして、宝良ちゃんの世界が拡がった気がする。 この法要、私には、とっても体力的にきつかったけど、宝良ちゃんの将来に、お舅さんがくれた大きな贈り物だったのかも、と、思う今日このごろなのでした。
2007.06.03
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土曜日、宝良ちゃんの運動会でした。 うちの近くは、公立の保育所と幼稚園と小学校がほぼ一カ所にまとまっていて、なので、春の運動会は地域の運動会として、小学校の校庭で、保育所・幼稚園・小学校の合同で行われるのです。 0歳児クラスのときは、パパに抱っこされて、結局パパが走っただけの運動会だったけど、今年、1歳児クラスになって、パパといっしょにだけど、自分の足で歩いて(走っているつもり?)ゴールした宝良くんでした。 その後は、お兄さんお姉さんたちの演技を見る立場で、午前中を過ごして、当然いい子で見る筈もなく、仲良しのはやと君といっしょに遊んで過ごしました。午後からは小学生中心になるので、保育園児は午前中で解散。 やっと、介護やお葬式なんかと違う場面になって、とても気分転換になりました。 さて、車に乗ったところで、宝良ちゃんが寝てしまったので、ちょっとお仏壇を見に行こうと言うことになりました。 というのが、お葬式が終わって帰った夜、新聞広告で見かけたお仏壇が格安だったのです。 地元で石材屋さんをしている会社が、お仏壇を扱う部門を新たに立ち上げ、そのお仏壇館のオープニングイベントを土日に行うため、そのイベント価格で、大特価という……。 イベント中は、様々な催しがあり、マグロの解体ショーとかうどんの屋台とか、輪投げコーナーとか、本当に、お祭り騒ぎ。 だから、質流れ品とかじゃなくて、イベントだから出血大サービスのお値段だったの。 で、ちょっと見に行ってみることに。 でね、土日それぞれに1台だけ、朝から並んで抽選券を出して、昼に抽選をして、約80%OFFというお仏壇が、イベントとして用意されていたの。 私たちは、夫の実家の宗派(浄土真宗)に合わせて、日曜日に抽選になるものが当選できたらラッキーだけど、そこまで望むのも無理があるよな……ってことで、もう、土曜日だけど、抽選のものじゃなくて、普通に並べてあるお仏壇の中から、特価のもので、ご縁のあるものを購入できれば、それで良いんじゃないかなあ……と、夫と車の中で話し合っていたのです。 で、到着してみると、広告にあった安いものから順に、宝良ちゃんの運動会に参加していた時間分、もう売れてしまっていて、うーん、どうする60万円もするよ…とか思っていたら、奥の方に、「えっ?」半間幅のお仏壇「定価80万円」が、仏具全部込みで「25万円」と書いてある。 もう、即決。お寺さんにお支払いする為に、そのときたまたま現金を30万円持っていて、契約。お支払いも済ませた。「すごく安くて、いいお買い物ですよ。私も、不思議に思うくらいお安いですから、本当に、いいお買い物ですよ。」とお店の人がしきりに言う。何と言っても、仏具のお値段まで入れると、定価100万円は超えるもの。仏壇は平均40%引きになると聞いたことがあるけれど、それでも、60万円するものが、25万円で消費税もなく買えちゃったわけで、そりゃあ、びっくりするほど、ラッキーだ。何と、こんなときに、オープニングイベントを開催してくれるとは、ありがたや、ありがたや。 何はともあれ、よかったなぁと、目も覚めた宝良ちゃんを連れて屋外へ出て、イベント会場で、うどん券を引き替えて、ありがたく昼食タイムを楽しんでいた私たち。 先ほどの女性店員さんが血相を変えて飛んできた。 何と、明日の日曜日の抽選用お仏壇を、抽選の金額で間違って売ってしまったと。 お店の人は大混乱。「明日、抽選にもう一度形だけでも来てくれませんか。広告を見て、朝から並ばれるお客様に、もう実は無いとは言えないから、あなたに当選を出すようにしますから、形だけでも、抽選に来て貰えませんか。」「いや、それでも、お客様をだますことになってしまう…」とか、何度も屋内へ相談に戻り、外のテントで宝良ちゃんにおうどんを食べさせていた私たちは、どうなるんだろうと思っていたら、結局、「すみません、あのお仏壇はやはり、広告に出してしまっているので、お売りできません。明日の抽選に必要です。それで、全く同じものでは無いかもしれませんが、誠意を持って、同じランクのものを、改めて仕入れます。それを納品させていただくのでよろしいでしょうか。」と。 うちは、全く問題ないので、それで了承。なんだか、すっごくラッキーな、小説より奇なり…な出来事でした。 でも、接客してくれた女性店員さん、気の毒だったなぁ。「墓石販売の接客はなれてるんですが、何と言っても、お仏壇はまさに今日が初日で……。」と、途中でも言っていたもの。 というわけで、夫の実家には、ばかでかい一間幅のお仏壇があるのだけど、お舅さんは、我が家のワンルームお仏壇に暫く下宿ってことで、「おとうさん、まぁ、しばらく一人暮らしで、のんびり休んでくださいね」という運びになったのでした。
2007.05.26
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お葬式は、どうしてああいう座り順なんだろうか。 喪主の夫がいて、次に姑が「故人の妻」として居て、そしてその横に私が「喪主の妻」として居て、その横に宝良ちゃんがいる。 朝、熱は取り敢えず下がっていたものの、調子がいいわけがない宝良ちゃん。 それより、私は姑の隣になんか座りたくない。私はちょっとでも椅子をずらして、姑の椅子との間に隙間を拡げ、ちょっとでも肩さえ触れないようにと、思った。 弔問客に姑が答えている言葉が聞こえてくるたびに、嘘ばっかりで、本当にはらわたが煮えくりかえる。 お通夜の晩、親戚のおじさんたちに様子を聞かれた同居していた中学生の孫は、何と言っても、亡くなる前夜にやっと病室へ連れてきて貰っただけで、全然状況は知らないが、それまで、家で姑からどんな風にされてきたかは一番近くで見て良く知っている。 わきまえているから、親戚の大人たちにそんなことは言わないけれど、あとで、私と孫のお姉ちゃんたちだけになったとき、彼はぽつりとこういった。「出会わなかったら良かったんだよね。じいちゃん、車も、トラクターも、運転免許証も、お金も、健康保険証も、(命も)、大事なものは全部、ばーちゃんに取りあげられた。じーちゃん、ばーちゃんと出会わなかったらよかったんだよね。」と。 中学一年生だもの、全部分かって居るんだよね。そんな毎日を目撃させられていた孫もかわいそうだ。でも、夫婦って、それも50年金婚式さえ迎えた夫婦って、他人には分からない。 私は、意識が混濁したときの話を彼に伝えて、「でも、じいちゃんはばあちゃんのことを愛していたんだと思うよ。夫婦のことは、他の人にはわからないんだよ。だから、ばあちゃんのことをそんな風に言ってはいけないと思うよ。多分、じいちゃんはばあちゃんのことをそんな風に言って欲しくないと思うんだよ。」と言ったものの、内心、口には出さないけど、私だって、はらわた煮えくりかえっている。はっきり言って、お舅さんは姑に殺されたと、私は思っているし。 ただ、それを聞くと傷つく人がいることを、(それは多分、私の夫やその兄弟やお舅さん自身)中学生よりは分かっているから、思っていても、家族の前では面と向かって口には出さないんだ。(だから、王様の耳はロバの耳、匿名性のあるこんな場所に吐き捨てるんだよ) 葬儀では、私は姑が不愉快で、何を思って泣けるのか、どの面下げて、この場に居られるのか、私は不思議で仕方なかったため、私自身はちっとも泣かなかった。 お葬式が終わり、火葬された遺骨が戻り、繰り上げの初七日が執り行われた後、さて、49日(満中陰)までの毎週、7日ごとに中陰の法要があるのを、どこでどうするかという話が佳境になり、自分の家が汚くしすぎていて、それを何とか取り繕うことはできないと考えた姑は、毎週どこか会場を借りて法要をおするから、その費用を全部出せとか勝手なことを言っていたと思ったら、 最終的に、「お前がお父さんを連れて行ったんだし、勝手に最期まで面倒を見ろ」と、法要は全部我が家でやるから、と、親戚にもお寺さんにも言ったそうな。 で、びっくりあんぐり。葬祭会館の初七日の会場から、夫の(お舅さんの)「お写真(遺影)も、お位牌も、そして、お骨(遺骨)も持って帰らない」と言いだし、「お前が全部しろ、私はお前の家なんか行かないから、法要には行かない」と言い放った。 駐車場にいた私のところへ夫が、おかあさんがこんなことを言い出したからと言いに来たので、「もういいよ、全部するから、そのかわり、もう一切姑とは関わりたくない。」と即答。 そして、お舅さんの遺骨も全部、我が家へ連れて帰ることになった。これにはびっくりだ。 しかし、家に帰って、お舅さんが退院してきたら使うために買った、プラスチックの衣装引き出しの上に、白い布をかけて、取り敢えずの中陰段をつくり、お舅さんの遺影と遺骨とお位牌を奉り、ふと、夫と、「そう言えば、おとうさん、病院で、退院してももうあの家には帰れないから、お前の家に世話にならせてくれって言って、住民票まで移したんだよ。おとうさん、この家に帰ってくるんでよかったんだよね。」と言うと、夫の顔が明るくなって、そうだねと、「お父さん静かなところで、ゆっくりすればいいよ」と言った。 はぁ、疲れた~と、ソファーに腰を下ろし、テレビをつけて、新聞のテレビ欄を拡げたら、その下欄に、墓石を扱っている石材屋さんがこれから新たにお仏壇も、扱うことになり、明後日の土曜日から、オープニングセールをで、大々的にイベントをして、大特価販売すると大きな広告が載っていた。 私たちがローンを払い続けている部屋数10もの大きな家には、仏間に一間幅のどデカイお仏壇があるけれど、この借家にやってきたお舅さんに、ワンルームマンションくらいのお仏壇でもいいから、お仏壇を買いに行かなくちゃね。 それにしても、この我が家で、これから毎週二七日三七日四七日五七日六七日と、30人規模の中陰法要をしなくちゃいけなくなって、とにかくお葬式が済むまで頑張ろうと思っていた私は、その先の方が、もっと途方に暮れるハードな日になった。 何たって、年末大掃除どころじゃない。スペース作るために、ダイニングテーブルから何から全部取っ払い、その分、寝室などあちこちは、物置となり、座布団を買いそろえ、湯飲みを買いそろえ、お経本を揃え、うどんの準備にそれ以外の食べ物の準備に、お茶菓子に……、親戚への説明と案内回りに、お寺さんへの挨拶、まだ、お香典返しの準備は済んでないけど、葬祭会館なんかのお支払いのことは追いかけてくるし、部屋が広くなったら、宝良ちゃんが喜んで、あーーーーーーって言ったけど間に合わず、障子に両腕が突き刺さり、この上、障子の張り替えかよ! と思った瞬間、ぎゃーーーーー、と大声を張り上げて宝良ちゃんを叱ってしまった。 ごめん、大人の都合で、八つ当たりした。 ふぅ~。 というわけで、怒濤の日々はつづく。
2007.05.24
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朝の宝良ちゃんは、37.2℃。保育所は37.5℃で呼び出し。ギリギリ預かって貰える体温だけど、怪しい。でも、お舅さんの様態がこんなとき、いつ何が起こっても不思議ではないので、宝良ちゃんをまず小児科へ連れて行く。 小児科の診察室に着いて、問診票を書くためにそこで再度熱を測ったら、すでに、37.8℃に上がっていた。あちゃ~。 風邪の薬を貰ってお会計しようとしていら、病院から電話。お舅さんの血圧が下がってきて、家族の方来てくださいとのこと。 宝良ちゃん、ゴメン。保育所どころか、もう38℃でも、連れ回すしかない。お昼前なので、夫と妹さんと宝良ちゃんと、長丁場になっても、取り敢えず何人かは食べられるように、5.6人分のペットボトルとおにぎりを10個くらいコンビニで買って、病院へ向かう。 体調は悪いし、緊迫した雰囲気で、宝良ちゃんはぐずって、「あっち行こう」「帰る」と連発。 お舅さんは、もう数日前から心電図モニターが着いた状態で、でも明らかに、昨日はまだ少しは体を動かしたり話したりできていたのに、今日は全くぴくりとも体を動かさず、かろうじて少し目を開けるかどうかというくらい。ただ、口でする呼吸だけが、大きく、がくっがくっと顎を揺らしながら苦しそうに目立っていた。 付き添いさんのおばさんが、小さい声で、「昨日のあのお姑さんのが、きつかったですよね。もう昨日と全然様子が違いますもんね」と私に言った。 夫も看護師さんをしている妹さんも来て、どこまで連絡を拡げるか相談。急変ばかりは誰にも分からないけれど、さすがに大きな病院でずっと看護師をしてきただけあって、妹さんには、感覚で、もう危ない感じがすると分かるらしい。 それで、もう一人の妹さんも会社へ早退するように連絡。 タクシーを手配して、姑を拾って中学生の孫を学校へ迎えに行かせて、また、看護師をしている妹さんの子どもたちも、それぞれに学校を早退してタクシーで駆けつけるように連絡。こちらの孫たちは、昨日やっと姑へ伝えたばかりで、それまで隠していたのがあり、おじいちゃんがこんなことになっているとは全く知らされて無くて、いきなり学校へ「祖父危篤、すぐ病院へ」の連絡になった。 でも、こちらの孫たちはもう大きくて、一番上のお姉ちゃんは看護学生なので、先日の法事の際のおじいちゃん(お舅さん)の弱り方から、病気だろうと言うことは感じていたし、そのときの、おばあさん(姑)の仕打ちの意味も、黙っていても理解していて、だから、駆けつけたとき、余計なことは何一つ聞かずに、ベッドの横で泣いていた。みんな幼稚園バスに乗れない日の送り迎えとか、おじいちゃんにはいっぱい世話になって、大事にして貰った孫ばかりで、おじいちゃんのことが大好きだった。 健康保険証再発行のことでお世話になった親戚のひとたちが、前日姑が来る前に来てくれて、まだ入院してすぐ、点滴をして元気が出て、食欲も戻りかけて色々元気に話せるようになった姿を、前回のお見舞いの時は見てくれていたので、今回、もう随分元気になっただろうと思って、お見舞いに来てくれたら、もう、癌で手遅れで……ということを伝えなくてはならず、でも、姑が来る前だったので、まだ、何とか少しは話が出来ていて、……、また、明日も来ると言ってくれていたのだった。 そして、今日、お見舞いに来てくれたときには、もう危篤。兄弟のように育った近所に住むいとこのおじさん。姑に伏せていたために、親戚には誰にも入院のことを伝えられず、結局、誰にも会わせてあげられなかった。このいとこのおじさんご一家が何度か来てくれたのが、本当に救いだった。 5月5日、おばあさん(お舅さんのおかあさん)の法事、あの法事までは何とか頑張ろうと思っていたんだとうちに来た頃お舅さんが言っていたけど、ああ、あのとき、法事に来てくれた親戚の方々に何とか会えたのが、お舅さんには最後の挨拶だったんだな。 付き添いさんが、雰囲気からして、居づらくなって、もう必要ないですねということで、14時で帰ることになった。何ヶ月もお願いするつもりで依頼の電話をしたのは、まだおとといの夜中。なのに、ちょうど、前日から24時間、たった丸一日しか…。 付き添いのおばさんが帰られたあと、本当に数十分、最後の孫が間に合って、1時間ほど、5月22日 14:42お舅さんは帰らない人になった。 ずっとずっとぐずって泣いていた宝良ちゃん。この雰囲気だって怖いし、何たって熱があるんだよ。そのうえ、昼寝の時間だし……と思うのに、糞姑は、「こういうときは、一番小さい子どもが何かを感じるんだ。」と。ふざけたことを言ってるんじゃねえよ、ばばあ。 亡くなる少し前まで、まだ自分ではお舅さんに声をかけることもせず、一緒に住んでいる孫に、「ほら、じいちゃんに、『頑張って、大好き』と大きな声で言え、じいちゃんは聞こえているから」と指示をする。お前が言えよ、お前の口で、お前が言えよ、お前が、おとおさんに、ありがとうって言えよ。 本当に亡くなる2.3分前になって、家族に促されて、やっとベッドの枕元、顔の一番近いところに来て、最後の最期、息を引き取るそのときになって、やっと、「おとうさん、おとうさん、おとうさん、おとうさん」と、姑は自分の口でお舅さんに語りかけた。 家はゴミ屋敷で、とてもお葬式が出来る状態ではないので、病院から葬儀社へ連絡して、そのまま葬儀会館を借りた。 私はお舅さんが気の毒で、でも、姑への怒りのが強くて、その場では全く泣かなかった。ふざけんな糞ばばあ! 葬儀社の車が迎えに来て、病院から出るとき、葬儀社の車に誰か同乗しなくてはならない。こういうとき、周囲が乗ってはいけないと言っても、制止を振り切ってでも乗り込みたいものだろうとおもうけれど、姑は誰か乗れと四の五の言っていたが、こういう経緯で、急遽呼ばれて家族が集まったので、子どもたち以外はみんな、自分で自分の車を運転してきている。必然的に姑しかいなくて、姑が、葬儀会場までお舅さんの亡骸と一緒に車に乗っていった。 私は、よかったなと思った。せめて、この数十分だけでも、夫婦二人きりで、お舅さんに声をかけてあげて貰いたかった。意識が混濁したときの、お舅さんが姑にかけてあげていたあの優しさを見ていた分、どうして、最期くらいありがとうって、優しい言葉がかけてあげられないのかと、だから、せめて、この車のなかだけでも、二人だけにしてあげられてよかったとそう思ったんだ。 病院を出るとき、病棟の看護師さんも主治医も泌尿器科の先生も、関係してくださった病院の方々が、皆さん揃って、遺体と私たち家族を深々と頭を下げて、ずっと病院の出口で見送ってくださった。 本当にお世話になった、優しい主治医の先生のお顔が見えたとき、最初診察室へ付いて入ったときからのことが、一気に思い出されて、本当にお世話になりました、ありがとうございました、という気持ちで、涙が溢れた。 熱を出して辛い宝良ちゃんを、車に乗せて、葬祭会館へ向かって走り出すと、車の揺れでやっと眠った宝良ちゃん。静かになると、私はお舅さんの人生を思い、本当にずっと涙が止まらなかった。 葬祭会館へ着くともう夕方で、そこから打ち合わせが始まったので、その日はお通夜にならず、翌日お通夜、翌々日が告別式と繰り上げの初七日ということになり、3日に渡ることになった。 たまたま、亡くなるときに近所に住むお舅さんのいとこご家族が来てくださっていたので、そこから連絡が行って、お通夜は次の日の予定だったけど、近所の方は、当日の夜からずっとおいでて下さって、長い長いお葬式が始まった。 近所の方は、びっくりで、姑に「どうしたの、急なことで…」と声をかける。すると、姑は、「ええ、急なことで」(嘘付け、何ヶ月も前からお舅さんは辛いから病院へ行きたいと言っていたのに、お前が保険証を取りあげて隠して行かせなかったんじゃないか!!!!) と、聞こえてくるとむかつく私。とうとう言うに事欠いて、「私は病院に行きなさい、検査に行きなさいと何度も言うのに、わがまま勝手でひとの言うことなんかちっとも聞かない人だったから……」と言いやがりやった。 もう、虫唾が走るくらい、何者じゃこいつはと思うくらい、たまらなく嫌悪感が涌いて、どんなにできの悪い嫁と思われようと構わないので、姑が居る部屋には私はもう居たくなくて、廊下で宝良ちゃんをベビーカーに乗せて揺らしながら寝かしつけていたり、とにかく、姑が居ないエリアで、来てくださった方へ挨拶をしたり、お茶を出したりしていた。 一段落ついたところで、夜、一度宝良ちゃんを連れて家へ帰ることにした。夫にも、泊まり込むのは交代にしようと話て、先は長いから、順番に帰るように伝えて帰宅。 でも、結局、何とか宝良ちゃんを寝かしつけて、自分や宝良ちゃんの喪服の用意や、色々と準備をしていたら、朝5時になっていた。9時には出かけないといけないので、2時間ばかり睡眠をとってシャワーを浴びて、また姑が、葬儀だけじゃなく、今後の法事関係も含めて、訳の分からないことをごちゃごちゃと言い出しているので、はぁ~と思いつつ、23日お通夜の日の朝が始まった。 つづく。
2007.05.22
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翌 月曜日、看護師をしている妹さんが日中時間を作ってくれるというので、熱を出した宝良ちゃんを私の実家に預け、私が仕事も学校も休んで病室に付いていることにし、仕事を休んだ夫とその妹さんと二人で、姑のところへ出かけていった。 家政婦さんの手配が付いたとのことで、月曜日の14時から感じのいいおばさんが来てくれて、私たちは来られるときはくるけれど、無理なときは帰るということが可能になった。 二人が姑を説得している間、付き添いさんに、このあと起こるであろうこと(姑のこと)を掻い摘んで説明して、驚かれると思うけど…と伝え、お舅さんに、「おとうさん、ごめんね。おかあさんに言わないで欲しいっておとうさん言っていたけれど、ちょっと、おとうさん病気がしんどいから、やっぱり黙っておくわけにはいかないなって、二人がおかあさんを迎えに行ったんだ。この後、おかあさん来ると思うし、そしたら、また、しばらくうるさくいっぱい言うと思うけど、ごめんな。」と私が言うと、「うん。うん。」と頷いた。 食欲がなかったり、もう、何も食べられなくなって、点滴に頼っていたこの数日だったけれど、アイスクリームだけは、美味しいと言って食べることが出来、私は短大を出るとまずコンビニに寄って、クーリッシュを買うことにしていた。で、病院へ運転して到着すると、クーリッシュがかなり柔らかくなっていて、寝たきりの状態でも食べやすかったのだ。「冷たくて、甘くて、おいしい」と、初めは半分くらい食べられていたクーリッシュも、段々一口二口しか食べられなくなっていたけど、とうとうこの日から、絶飲食指示になった。もう口からお水も飲ませてあげられない。 付き添いさんに気を遣って、何か飲まれますかと声をかけたら、お舅さんが水が欲しいという。もう、口で必死の呼吸をしているから、唇も舌もバリバリに乾いていて、スポンジが付いた棒に水を浸して、唇や舌を濡らしてあげる。こんなんじゃ、足りないだろうなぁとかわいそうに思う。 お舅さんに、「この後、おかあさんが来ると思うけど、前の入院のときのように、おかあさんが自分で泊まり込んで付き添いをすると言い出したら、おとうさんどうする?構わない?」と事前に意向を聞いておこうと思ったら、お舅さん、思いっきり胸の前で手をぱたぱたと左右に振って、勘弁してくれ! と言わんばかり。「うん、分かった。 じゃあ、今日は来るのは来るけど、泊まり込むって言い出したら、何とかみんなで帰って貰うようにするね」と答えた。 夫と妹さんは、約一時間半ほど姑の独演会を散々聞かされて、勝手に~だから、私は病院へは行かないという姑を説得し、姑が盲信している医者のところへ立ち寄ってから、やっと病院へ姑を連れてきた。この時点では、大変な癌だって伝えているのに、まだ、入院なんかしなくて良いとか、その御用達医師の医院へ転院させろとかわめいていた。健康保険証は再発行したんやな、と、自分が隠しているのに病院へ行けたことをはっきり認識していて、この婆さんどういう神経しているんだろうと、気持ち悪かった。 来た瞬間の姑の顔、あの表情を私は忘れられない。勝ち誇った、軽蔑したような、見下した顔。ベッドに横たわって弱り果てている夫を、ベッドの足下の角から見下して、枕元へも行こうとしない、その瞬間の顔、表情。本当に、目は口ほどにものを言うというが、あのときの姑の表情ほど、ぞっとしたことは、久しくない。 それから、おもむろに、「おとうさん。何寝とんな、みんなに迷惑かけて、自分が頑張らんでどうするんな。はい、頑張りまいよ。」と言い放ち、夫や妹さんに手足をギュウギュウとこするように指示する。そして、自分もやってあげているという姿勢を見せつけるように、あざが出来るほど強くギュウギュウとふくらはぎなどをこする。 血栓が飛ぶように、癌の組織が血流に乗って飛んで、それが肺を詰めると急変する。そのことを恐れて、なるべく動かさないようにしている患者の血流を無理に起こす行為。お前、殺しに来たんか!!!!!!! もう、意識レベルまで落ちて、二晩続けて危険な状態があって病院から呼び出しがあるほどのしんどいお舅さんなのに、お舅さんが目を瞑って眠りそうになると、「おとうさん。今昼よ、何寝てるの、はい、目開けて!」「本当に、自分じゃ楽することばかりで。運動だってあれほどしなさいって言ったのに。はい、足動かして。ちょっとは自分でしなさいよ」と。 私はもう見ていられなくて、聞いていても気分が悪いし、10分もしない内に病室から出て、廊下で立っていた。付き添いさんも見かねて、「あんなことしちゃあ……。誰か止められないんですか?」と廊下へ出てきた。 ちょうど巡回に来た泌尿器科の先生に「ゆっくり休んで貰っていて構わないんですよ」とやんわり言って貰ったけれど、聞く耳なんて持っている人じゃ無し……、 仕方ないので、看護婦さんにお願いして、「もし可能ならでいいのですが、私たちは何度も時間をいただいているので、3度手間で申し訳ないれれど、主治医の先生から姑に病状説明インフォームドコンセントをしてやって欲しい」と頼んだ。 病状を理解して欲しいというよりも、説明するための部屋へ物理的に姑を移動させて、病室から姑に出ていって貰いたかったからだ。 主治医は以前の入院のときのことも、今回健康保険証を取りあげて隠して通院させなかったため、手遅れになったことも、姑のことは全部ご存じで、そういう話の分からない人相手でも、丁寧に説明をしてくださった。 その説明を聞いているときも、初めは鼻息が荒い姑。「若い頃に腎臓に結石ができたのに、辛い食べ物が好きで、控えなさいと言ってもわがままで聞き入れなかったし、野菜もあまり食べずに魚が好きで、(嘘ばっかり。魚が好きなのは本当だけど、野菜の好き嫌いなんて無かったよ)、水もたくさん飲めというのに、わがままだか。」とか、とにかく、病気が悪化したのは、お舅さんがわがままだからと主張。主治医に「あまり癌には関係ないと思いますよ」と言われると、段々話している内に、前年の写真にはまったく癌の影が無く、前の検査の時に来なかったというところになると、あの姑、いけしゃあしゃあと、「検査に行きな、病院へ行きな、と言っても、本当にひとの言うことを聞かないわがままな人で…」と言い出しやがった。さすがに、後ろで座っていた私はぶち切れて、小さい声で「うそつけっ!」って声が出て、壁を小さく蹴ってしまったよ。はらわたが煮えくりかえりそうになって、病室にお気に入りネズミ講健康器具を持ち込みたいそうで、空気清浄機や電磁治療器を持ってきても良いかと主治医に尋ね、「余命一ヶ月の癌の人も治るし、肩こりも便秘にも効くし…」といつも自分がネズミ講セールスで言っていることを主治医にいうと、「今は、肩こりや便秘の話をしているわけではないですし、癌自体の進行であと一ヶ月持つかどうか、それ以前に、急変でいつか分からない状態、この週末も、二度ほど危険なときがあって、この二回は何とか乗りきってくれたけれど、次にまた乗りきってくれるとは限らないのですよ。 その治療器に期待するような効果は無いと思いますが、それでご家族の方の気持ちが収まるのでしたら、病室に持ち込まれるのは構いませんよ。」と冷静に主治医の先生は答えてくださり、お陰で、その治療器を取りに帰るという目的が出来たので、姑は病室に泊まり込んで付きそうという話にはならず、夫が姑を病院から連れだした。 とにかく姑に隠す必要が無くなったから、その後、やっと姑と同居している中学生の孫に入院のことが伝えられ、その夜おじいちゃんの病室にお見舞いに来ることが出来た。命を張って守った、おじいちゃんにとって誰よりかわいい娘と孫だもの、姑のことはともかく、隠さなくて良くなって、それだけは本当に良かった。 私は、インフォームドコンセントのときの、スッペラコッペラ嘘ばっかりいう姑の姿に、もう、我慢の限界で、不快きわまりなく、後は、付き添いの方にお願いして、帰ることにし、お熱を出して実家に預けられている宝良ちゃんを迎えに行った。やはり38℃くらいで、グズグズとしんどそうな宝良ちゃんだった。全部しわ寄せが宝良ちゃんに行ってしまって、グズグズ言っている宝良ちゃんの姿がかわいそうで、申し訳ない気持ちで、添い寝していた夜だった。
2007.05.21
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金曜日に私の車に乗り、自力で歩いて入院したお舅さん。点滴を受けてから、食欲も出たと元気さを取り戻したように見えた。 大部屋へ入院して、トイレだって自分で歩いて行っていたのに、次の日、ベッドの横にポータブルトイレが置いてあり、夜中にトイレへ行っていたら転んだから、夜だけはポータブルでと看護師さんが貸してくれたと。 そして今度は、病室が個室に移っていて、酸素を使い始めていた。その次には、導尿の管が入り、一週間後の金曜日にはびっくりするほど衰弱が進んでいた。 まだ病状をお舅さんに告知していないので、お舅さんとしては、今は静かに治療したいから姑には来て欲しくないということがあり、何度聞いても、「おかあさんには、言わないでくれ」という。なので、どうしても姑にお舅さんの入院を知らせることができず、そうは言っても、急変の恐れもあるので、姑のまだ一緒に住んでいるもう一人の妹さんには伝えてあげないとかわいそうだと言うことで、夫が携帯電話をもう一台契約して、仕事帰りの妹さんを呼びだして、ファミレスで状況を説明し、携帯を持たせた。その妹さんはとても節約家でコツコツとお金を貯めるのだが、姑がネズミ講健康器具? や、石仏などを、何十万・何百万と買ってしまい、それにお金を取られてしまっていて、節約のため、携帯電話も持たず、更に、あの家は、もったいないからと新聞の購読も姑が中止させたそうで、直近でお金の工面を言ってきたときは、先日の法事の為に10万円先に出せというのと、何とかマットを健康のために買ったのの支払いを電話してきていたが、そのマットも、お舅さん曰く、もったいないから、コンセントは差し込んでないということで、スイッチ入れて無かったって………。アホらし~。意味無いじゃんと思った次第。まあ、そうやって、姑には知らさず、でも、何とか夫の兄弟3人(夫・看護師さんの妹さん・姑と同居の妹さん)は連絡が取り合えるようになった。ちなみに、自宅の電話と誰宛であっても郵便物全ては、全部姑のチェックが入るので、自宅の電話で妹さんにお舅さんの大事な話は出来ないのだった。で、夫名義の携帯を下の妹さんに持ってもらうことにしたのだ。 ファミレスで話した後、下の妹さんは、息子のお稽古ごとの送り迎えがあったので、姑にとやかくいわれることなく、家を出てお舅さんの病院へ駆けつけることができたそうで、本当に、急変する前に伝えられてよかった、と安堵した。お舅さんが姑のノイローゼのような一日中続くわめきごとに耐えていたのも、離婚して息子を連れて帰ってきて、同居していたその妹さんと息子、つまりお舅さんにとっての娘と孫がかわいいからで、姑のいらいらのはけ口が、その娘さんと孫に向くよりは、自分さえ我慢すれば……、と、常々以前から、お舅さんは言っていたのもあって、本当に、一番かわいくて大事で大事で、命を張って守ってきた娘と孫なわけで、………、急変というのは、いつ起こるかわからないから「急変」な訳だから、ああ、急変が起こる前に、その妹さんがお舅さんに会いに行けて、元気にまだしっかりとたくさん話もできる状況でお見舞いに来てくれる状況がつくれたことに、ほんとうに、よかったと思ったのだ。 さてさて、土曜日には、私たち夫婦は用があり、日中にはあ病院へ行けないのだけど、看護師をしている妹さんがこの日は付いていられると言うので、お願いしていた。 妹さんの電話で、今日、時々意識がおかしくなることが出てきたという。自分のいる場所が大部屋か個室か分からなくなったり、病院に居ること自体が分からなくなったりする場面が出たり、でも、ちゃんと説明してあげると、ああそうか、と正常にコミュニケーションできたり、という感じになったと。 私たち家族の用が終わって、帰宅の途についたとき、私が運転して、夫が携帯でまさに妹さんとそういう報告を聞いて、しかし、いつまでもこのまま姑にお舅さんの病状を伝えないままでいいのかなどと、夫たちが話している間、運転手の私は、さて、このまま自宅へ戻るか、妹さんに今日は頼んであるとは言え、一日に一度はやっぱり病院へ顔をだそうか、と運転していたら、夫の携帯が話し中だから、次の順番で、私の携帯へ病棟の看護師さんから、電話。すぐに病院へこれから来て欲しいと。 というわけで、また、宝良ちゃんも疲れているのに、そのまま20時頃から病院へ向かうと、お舅さんが、意識が混濁して、ベッドから自分で降りて歩けなくて転んで、「自分は入院して処置して貰っているが、自分の家内も体調が良くないので、家内を入院させて点滴してやって欲しい」とナースステーションへ言いに行きたかったという。その後も、ナースコールで、家内のことはどうなったかと、聞いてきたと。また、意識が混濁したときは、自分で点滴を抜いてしまうことがあり、太股に点滴の場所を変えさせて貰ったとのことだった。 この意識レベルの下がり方は、後で聞いたら、危篤とまでは言えなくても、急変する兆しはあって、危機的な状態ということで、もしかしたら、息を引き取る恐れもあったので、家族を呼ぶということだったらしいのだが、私たちは、勝手に、徘徊などに困るので、家族が呼ばれたとこの時は思った。 でも、まだ土曜日は、意識がまともに戻るときの方が多く、私たちが駆けつけたときは、おかしいながらも、まだ、私たちが、「そうじゃないよ、今は~だよ。」と説明するとああそうか、とお舅さんは分かる感じで、その夜は暫く病室に居て帰った。でも、病院からは、もう、24時間どなたかご家族の方が側に付いて欲しいと相談を持ちかけられた。 私は、毎日学校と仕事の合間に病院へ通って、洗濯や身の回りの洗い物などはしていたけれど、ずっと病室に泊まり込んでいたわけではない。 子どもの頃、祖母が進行性筋ジストロフィーという病気で寝たきりなのを自宅で介護しながら暮らす家庭で私は育ったので、晩年私が中学生の時、2年ほど祖母が入院していた間は、母が36時間病室に付いて、仕事を持っている親戚のおばさんが2日に一晩ずつ、病室に寝泊まりして、ということを続けて介護してきた姿をはっきりとイメージすることが出来た。 簡単に、「はい分かりました、これから毎日ずっと私が病室に付き添います」とは、返事できなかった。取り敢えず、土曜日の夜は、お舅さんも落ち着いたこともあり、その宿題を持って、相談しますと答えて帰った。 さて、日曜日、また病院から、緊急に呼び出しがあった。すぐには行けなくて、病院に着いたのが、20:30頃。看護師をしている妹さんにも夫が電話で連絡。妹さんが来てから、相談ということになった。 夫が病室の外で電話連絡などをしていたとき、昨夜の「姑に点滴してやって欲しい」のことを思い、ちょっと落ち着いていてまともに話が出来る状態だったお舅さんに、「おとうさん。おかあさんは元気だから、心配しなくて大丈夫だよ。毎日、電話で何時間もガンガン怒鳴ってくるよ。それほど元気だから、安心して良いよ。」と話しかけた。すると、お舅さんは、(私たちはまだ告知も何もしていないのに、)「おとうさんは、どうもおかあさんより先に死なないといけないみたいだ。おとうさんが死んだら、あれを守ってやる者がいなくなる。」と言った。 昨晩の、姑へ点滴……は、混濁した意識でのことなので、お舅さん自身は覚えていないのだけど、意識の底からそうやって姑のことを心配しているからこそ、そういう形の徘徊や言動になったんだと思うと、本当にたまらなく切なくて、ああ、おとうさんは、それでもあの妻を愛していたんだなと、周囲が何をどう言っても、こんな健康状態にされて、いじめ抜かれても、(姑にはいじめている意識は無いんだろうけど、)根本には、お舅さんには愛があったから、ギリギリまであの家を出なかったんだな、と思った。今こうして書いていても涙がポトポト落ちるくらい、お舅さんのこと言葉を聞いて、私は本当に本当に切なくて、まだ全部の結果が出ていないし、癌自体の進行によって、これから一年、いや何ヶ月生きられるか分からないけれど、でも、癌の進行の前に、癌が飛んで肺を詰めることによる急変があって、今日明日どうにかなってしまうこともあるかもしれないわけで、お舅さんには告知していなくても、このまま姑に知らせないとか会わせない訳にはいかないと思った。 知らせて、病床のお舅さんをまた苦しめるような言動を取られるのも困るけど、でも、万が一のことがあったしまった後で姑に会わせるのでは間に合わない。だって、おとうさんは姑のこと、それでも愛していたんだよ。 電話を終えて病室に戻ってきた夫に、後で、そのことを伝えて、何とか姑を病室に呼んできて欲しいと頼んだ。 看護師をしている妹さんが到着して、取り敢えず、家政婦協会さんへ24時間付いてくれる人を依頼。一日約15000円で来てくれることになり、人の手配が出来るまでは何とか私たちが繋ぐということになった。 もう23時を過ぎていて、宝良ちゃんは眠いのと病棟のびりびりした雰囲気で落ち着かずに泣いてしまう。でも、他の病室の患者さんに宝良ちゃんの泣き声が迷惑になってはいけないと、宝良ちゃんが泣くたびに、駐車場へ連れ出して、抱っこで寝かしつけていた。日中は温かいので、半袖だったが、夜風の中でそんなことを繰り返していて、無理をさせ続けていたのもあり、見る見るうちに、宝良ちゃんは風邪ひきに。ごめんよ。こんなとき、一番にしわ寄せがくるのは、小さい子ども。 結局、日曜日その晩は、一旦家へ帰り、泊まり支度をして、夫が再度深夜01時頃病院へ戻って泊まり、私は宝良ちゃんを連れて帰って、家で寝た。
2007.05.20
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宝良ちゃん家庭訪問の日。夕方18時からの今年の担任の先生がやってきてくれた。その時間に予約していたので、夫も事前に手配して、早めに仕事から帰ってきてくれていて、我が家はいつも、保育所行事はパパも参加。と言うわけで、宝良くんはお気に入りのおもちゃなどを先生にいっぱい次から次へと先生に見せながら、パパとママを従えて、楽しそうな家庭訪問の時間。 今年の1歳児クラスは3人の担任の先生が居て、一人は昨年0歳児クラスからの持ち上がりで、宝良ちゃんにとって、だーーーい好きな先生、もうひとりも、居残りさんなどでお世話になっていて、最後に今年移動でやってきた若い先生が加わっての3人。 家庭訪問では、新しい若い先生が来てくれた。 先生も知っておいた方がいいだろうし、私たちも、その先生のことを知りたかったので、ヨカッタナ。 一般的なセオリーとは違って、部屋に上がって、45分くらい色々な話をして、お茶もちゃんと飲んでくれて(お菓子は最初から出してないけど)、とても気さくで保育士になって5年目くらいの先生、感じ良かったです。 急な話なんですが、3人家族じゃなくて、宝良くん父方の祖父と同居になったんです、週末から検査入院したんだけど、退院後はいっしょに暮らすので、これから、ちょっと生活に変化がありますってことを家庭訪問に来てくださった先生に話していたとき、病院から電話があって、夫が電話の子機を台所へ持っていって話を聞いていた。そこそこ長い電話だったな。 電話が終わって部屋に戻ってきて、まだ暫く先生と宝良くんのことについて話して、そして先生が19時前に帰って行かれた後、「実は病院から電話で…」という。 金曜日に入院して、その日はレントゲンと血液検査と胃カメラだけしたんだな。で、土日は検査はお休み。そして月曜日の日中に全身のCTを撮った。その夕方、主治医の先生から自宅への電話だった。「左の腎臓が、もう原型も無いほどの大きな癌になっており、それが、肺全体にも肝臓全体にもびっしりと転移しています。また、癌細胞が心臓へも飛んでいて、癌細胞も血栓と同じように飛んで肺などで詰まってしまうことがあるのですが、心臓に見える癌は心臓自体に癌が出来ているのではなく、そうやって飛んできている癌組織です。なので、この心臓のようなのが、肺へ飛んだら、急変(そこから早ければ数十分で息を引き取る)恐れがあります。急変の可能性があるので、ご家族にすぐにご連絡をしなくてはならないということで、お電話させていただきました。」ということだった。 19時、急変の恐れがあるということだから、看護師をしている夫の妹さんにまず取り急ぎ電話して、それから、あ宝良ちゃんに夕飯も食べさせず、車の中でおにぎり煎餅をかじらせながら、夫と宝良ちゃんと3人で、お舅さんの病院へ飛んでいった。 インフォームドコンセントのしっかりしている病院で、丁寧にしっかりと分かりやすく説明を受けた。宝良ちゃんは、もう眠いのとろくに夕飯も食べさせてないのとで、グズグズ。それを抱っこであやしながら、説明を聞いた。 お舅さんは2年前、ちょうど宝良ちゃんの妊娠が判明したそのとき、トラクターから落ちて腹部を強打し、腹膜炎になってこの病院で手術を受けた。そして、一年後、その手術の傷をメンテナンスする手術で、再度入院。そのときから、この主治医と看護スタッフにお世話になり、本当に良くして貰って、人柄も技術も良く、とても信頼しているのだ。 と同時に、前回の入院時、完全看護で泊まり込まなくてもいいというのに、姑が自分は立派な妻であると演じたいばかりに、ずっと病室に付き添い、疲れるとお舅さんや周囲に当たり散らすので、大変だった経緯があり、(このブログの2004.12.10がそのときの日記)お舅さんは今回、この体調の苦しいときに、一日中姑(自分の妻)に病室でわめき散らされるのは耐えられないから、入院していることは絶対に知らせないで欲しいと希望していたのだった。 だから、病院からの連絡も今後入院に関する保険の書類もあちらの家へ行くと困るということで、結局、住民票までも私たちの家へ移し、郵便物も転送する手続きをしたところだった。 さて、その時からの検査資料があり、そして、その続きで昨年8月に検査の予約が入っていたのに、その8月の検査の頃から、姑が、お舅さんの健康保険証を取りあげて、お金も取りあげて、病院へ行かせなくしていたわけだ。 インフォームドコンセントの際、昨年の3月のデータでは、どこにも癌の影も無く、………、つまり、8月に検査にさえ行っていれば、そして、その後、体調が悪い、しんどいとお舅さんが言うときに、病院へ行かせてあげていれば、こんなに、ひどいことにはならなかった筈なのに……。 はっきり言う!おとうさんをこんなことにしたのは、あんただよ!!!!姑よ! 法事の席でも、親戚中に、おとうさんの大げさで、しんどくても毎日努力する私とこの怠け者の差なだけで、と、みんなに大声で言いふらしていたあなたよ、痛い、しんどいという夫に、大声で怒鳴りながら、痛い脚をギュウギュウと曲げさせて、私は優しいからリハビリを手伝ってあげるのだと言い放ったあたなよ、孫の野球のバットで、背中がジンジンして麻痺するほど、”優しさ”でゴリゴリいじめ抜いたあなたよ、そんなお舅さんが、あなたの傘であり、あなたを守り抜いて来てくれたいたことが、分からないのかよ。 インフォームドコンセントの悲惨な写真。「ここにあるこれが悪性の腫瘍です」なんて一カ所を差していう説明ではなく、もう、肺も肝臓も、臓器全体、どこで輪切りにした写真にも、夜空にきらめく星々のように、無数の白いもの(癌)がちりばめられていて、そして、左の腎臓は真っ白。原型がもうCTに映らないほど、骨盤から肋骨の下くらいまでの巨大な癌だった。 こんな体で、病院へ行きたいから健康保険証を再発行して欲しいと、必死で歩いて、自分で歩いて、親戚の家へ頼みに行って、着いた時点で、話を始める前に、暫く休ませて欲しいと玄関先で体を横たえてから、やっと頼んだと、後で聞いた。 健康保険証のことがあって、このご家族だけが、お舅さんがもう我が家に引き取られて、検査療養入院できたと知っていたため、入院できて本当によかったな、と土日に家族全員でお見舞いに来てくださっていたのだった。 取り敢えず、お舅さんには、全部の検査結果が出るのを待って、余命の見通しを主治医から聞いてから、話をしよう、そして、会いたい人に会って貰おう、と、その場では話さず、病院を後にして、すぐに、看護師をしている夫の妹さんに、詳しく聞いたことを伝え、21時、閉店ギリギリのうどん屋さんを見つけて飛び込んで、宝良ちゃんに遅い夕飯を。 放心状態で帰宅。夫はまだ現実のこととは思えないんだけど…といいながら、お舅さんが退院してきたら使うために、百均で取り急ぎ5つも買った度数3.5の老眼鏡を見ていた。 少子高齢化の時代、高齢出産のママは育児と介護が重なることがある、そのためにも、私たちのような育児支援の仕事は必要なんだとそう思ってやってきたけど、そうか、まさに、私がそうなったんだな、と思った。 私の人生に「育児しつつの介護」期が訪れたんだな、と。 それにしても、私は以前から、あの姑とは相容れなかったが、偶然にも先日法事があり、姑のお舅さんへのまさに虐待な現場に私も同席してしまったため、本当に、理性だけではなく、もう生理的に、その場に居たくないほど、嫌悪感を抱いてしまった。それがまだレアな感覚で残っていての、今回の現実で、私の姑に対する嫌悪感はもう、ヘドが出そうだというくらい、気分が悪かった。 でも、夫にしたら、辛いことだけど、その両方が親なのだ。だから、同じように感じていても、私の口からはそれでも母親のことを悪く言われるのを耳にはしたくないだろうとそれは分かるから、なるべく言わないようにしようと思うのだけど、…………、でも、でも、 お舅さんが入院していることや、ましてやこの病状を知らない姑は、お舅さんが我が家に来て以来、一日に何度も、うちの留守電や夫の携帯に、お舅さんは我が家で呑気に遊んで笑い暮らしていると思い、一回に1時間半ほども、わめき散らす電話をかけてきていて、ついには、自分の言うことを聞かないのであれば、夫の職場に給料を差し押さえて母親である姑に息子の給料を渡すように言いに行くと、わめくようになっていて、ネズミ講みたいな健康器具を売りつける人たちとつるんで、あの人には幾らお金の後始末をしてもキリがない。私の姑への嫌悪感は増すばかりだわ。どうして、あんなひととご縁ができちゃったのかな。反面教師にして、わが身を振り返りながら生きて行かなくちゃなぁ。年を取っても、正直、ああはなりたくないよ。 そして、怒濤の日々は続くのだった。
2007.05.14
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えーと、お舅さんがうちに来た経緯にはもうひとつある。 お舅さんは退職するまで役場に勤めていたことがあって、家から数百メートルくらいのところに住んでいる親戚(お舅さんのいとこ)の息子のお嫁さんも、役場に勤めていた関係で、気心が知れていたため、法事の翌日、どうしても体調が辛くて耐えられないと思ったお舅さんは、病院へ行くために健康保険証が必要で、自分の妻が「病院なんて行かなくて良い、あなたは、病気でも何でもなくて、タダの怠け者で、運動をしないからいけないだけなのに、大げさに言うんじゃない」と相変わらず健康保険証を取りあげて隠してしまって居たので、そのいとこの家へ、自力で必死で歩いて行って、そこの嫁さんに、代理で役場へ行って、健康保険証の再発行をしてきて貰えないかと頼みに行ったのだ。 それまで、愚痴ひとつ外へこぼしたことがない人が、初めて、実は……と状況を話し、驚いたいとこ家族が、健康保険証の再発行手続きだけでなく、自分の家の人が通院するときに、いっしょに病院へも送り迎えしてあげるから…と言ってくれていたのだ。 それを聞いて、お舅さんが自分でアクションを興して、物事が動き始めたことで、私たちも、お舅さんが本気なのだと分かり、手伝うのが余計なお節介ではないと確信できたのだった。 しかし、その翌日、親戚にそのように頼んだことを知った姑が、自分が健康器具をネズミ講のようにいっぱい買っている病院の医師を裏切るようなことをして…とお舅さんに激怒し、その親戚へも、余計なことをするなと言わんばかりに、前日お舅さんがしんどい体を必死で引きずって頼みに行った内容(健康保険証の再発行と、病院への通院送り迎え)を全て、姑が断ったしまった。 そのため、いよいよ困って、お舅さんはうちへ連れて行って欲しい、もう自分の家では住めないと夫に懇願したのだった。 さて、お舅さんがやってきた夜は、取り敢えず、食欲がなくて食べられないという。何とか、子ども茶碗に一杯くらいのご飯と卵焼き、インスタントみそ汁を飲んで、「あぁ、みそ汁が旨い」と言う。(インスタントみそ汁を一番喜ばれても…な嫁の私。) 聞いたら、ここ一ヶ月くらい、一日に一食程度お粥を食べるかどうかの毎日だったという。えぇぇぇ、幾ら何でもそれはひどすぎるよ! 私の実家側のおじいちゃんには、お熱で保育所へ行けないときなどに預かって貰ったりしていて、結構面識があるので、「じーちゃん、じーちゃん」となついている宝良ちゃんだけど、夫側の家には、その困った姑が居るので滅多に行かないため、この人誰?って感じで、何だか遠巻きに見ていた宝良くんだが、おじいちゃん用にお布団を敷いていると、その上でマット運動のようなことをしたり、シーツで「いないいないばぁ」なんかして、大はしゃぎ。 それから、じーちゃんと呼んでなつき始めました。 一晩寝て、翌朝は宝良くんも保育所、夫も私も出かけて、昼ご飯の準備に一度家へ戻る。お魚好きだったので、お刺身を揃えてみた。ハマチ、タイラギ、さより、鯛。せっかくだからと全部一切れずつ食べたけれど、結構無理に気を遣って、頑張って食べてくれたのかもと思ったよ。 午後も、お舅さん一人で、ゆっくり寝ていて、夕方、近くへみんなで買い物に。着の身着のままだったからね。お舅さんの、パンツ、靴下、ズボン下、シャツ、ズボン、ベルト、ポロシャツ、上着、部屋着、などなどね。サイズが分からないから一緒に出かけたけど、一緒に歩いているのがしんどいからと、お舅さんは店内の椅子に座っていて、夫と私が選んで、お舅さんのところへ持っていって見せて、買うって感じ。 日中昼休みに、役所へお舅さんの健康保険証の再発行に行ってきていたので、明日にはやっと病院へ行ける状態になった。 夕飯に、小エビとタマネギのかき揚げを少々載せたおうどんを半玉くらい、小さなお丼にしてあげると、「久しぶりに、うどんが旨いなぁ」と言うお舅さん、しんどい体だけど、翌朝には病院だからと、ちょっと頑張って、ザブンと浸かるだけだけどお風呂に入いる元気も出て、「あぁ、今日はいい日だった。家では朝から晩までずっと文句を言われっぱなしだったけど、今日は静かにゆっくり寝られて、つらつら、つらつらと、本当によく寝た。」と笑っていた。「明日病院行ったら、先生、入院しろっていうかな」とお舅さんがいうので、「それなら、先生の言うことを聞いて、入院したらええよ、それで、ゆっくり直して貰って、退院してから無理のないように通院したらいいし」と返事する私。 何たって、私の家と私がマイカー通学している短大の中間地点にある病院なんだ。で、うちから歩いて5分くらいのところにある駅からも直に、病院までの最寄りの駅まで行ける立地。 そんなこんなで、翌朝も、夫は保育所へ宝良ちゃんを送ってから出勤、私はお舅さんを病院へ送ってから1限2限の二コマ授業に出てから、昼過ぎに病院へお舅さんを迎えに寄ろうという計画で家族全員、家を出た。 その日は、午前は学校、午後からは、どうしても重要な仕事があり、県外からわざわざ人を招いての打ち合わせで、もしかしたら徹夜かも…という、私としてはヘビーな日だった。なので、病院が終わったら、お舅さんには、前日同様、家で一人でゆっくり寝ていて下さいね~って予定だったんだわ。 しかし、病院へ行ってみると、健康保険証だけでは受け付けてくれないと言う!!「老人健康保険証とセットで出して下さい」「は?」 てなわけで、私その日の学校は欠席確定。今日は最悪実費でも良いですから受け付けて下さいと、お舅さんを診察待ちして貰って置いて、役場へ電話し、老人健康保険証の再発行を頼んで置いて、車で役場へ取りに行き、病院へとんぼ返り。 その間、血液検査とかして、診察を待っていたお舅さん、私が到着してから、診察室へ呼ばれて、 あまりの痩せ方と、血液検査の結果がひどすぎ。貧血、栄養不良、脱水。 それまでの様子を聞かれても、私は答えられないので、二日前から同居し始めたんで、と言うと、「よかったですね、このままおとうさんを一人暮らしさせていたら、数日後に朝起きてこなくて冷たくなってましたね。」と主治医に言われ、(お舅さん、一人暮らしじゃなかったんだけどなぁ………と言葉に詰まる私だったよ) 「去年の8月に検査に来ることになってたのに、どうして来なかったの?」という主治医に、「いや、うちの家内が、もう、病院なんか行って贅沢しなくて良いと、行かせてくれなくて、……」と答えるお舅さん。 姑は、自分は病院三昧で、送り迎えして貰ってのデイケアとかで遊んで来たりするのにね。「私の方が内臓もボロボロで、足腰だって痛くて、大変なんだよ。それでも、毎朝頑張って、運動して、努力しているんだっ!!」が、先日法事の席で、お舅さんをいじめていたときの姑の元気な大声。 随分以前に、小さな超初期の胃潰瘍がお舅さんにはあったので、それが胃ガンにでもなっていて、大変な出血を起こしているのかもしれないし、食べられないのとか、目が回ってふらふらするのとか、とにかく、胃カメラとレントゲンを撮ろう、そして、何がどうあれ、「栄養障害と脱水」がヒドイからまずは入院してゆっくりしながら検査しましょうとの方針になった。 胃カメラの結果、大きな腫瘍もなく、でも、あまりに弱っていて免疫が落ちすぎているため、本来誰にでも口の中に居る黴の菌が腸の壁にたくさん繁殖しているのが分かった。 診察室から出て、検査や入院の準備をするまでの少しの時間、待合室のロビーで、情けなくてかわいそうで、ちょとばかり、涙でたよ。 ずっと役場に勤めながらの兼業農家で、こんなに歩いたり座ったりできないほどの健康状態でも、退職後うちにくるまでずっと、産直市場に野菜を歩いて売りに行って、こんなに頑張って生きてきた人が、 現代のこの日本で、「栄養障害と脱水」って、つまり、栄養失調だよ!それも、自分の家で、自分の嫁と娘と中学1年生の孫の4人暮らしで……、自分の妻にいじめ抜かれて、それを見ている娘と孫も分かっていても、もう狂った姑を止められなくて、栄養失調だよ!!!!!! おとうさん、かわいそう過ぎるよ。我慢強いにも程があるよ。情けない。 涙ちょちょ切れた。 胃カメラ後、急遽入院になったので、午後からの仕事に間に合わなくなり、電話で遅刻のことと先に進めておいて欲しいと連絡し、(検査後1時間は点滴でじっとしていてくださいとのことだったので)お舅さんを病室に残して、取り急ぎの物品(スリッパ、ティッシュペーパー、タオル、湯飲み、お箸セット、保温水筒、テレビカード、……)をスーパーで買って、病室へ。 「点滴したら随分楽になった。食欲が出てきた。やっぱり病院来てよかったなぁ、いやぁ、点滴はやっぱり良く効くなぁ」と元気が出てきた様子。 そうだよな。病気の根本治療はこれからの検査を待ってだけど、まずは、今目の前の症状としてある、低栄養と脱水を、点滴で回復させることは出来るわけで、それだけでも、ここずっとの苦しみの一部はぐ~っと改善されるもの。 お舅さんは私がお箸セットなどを買って戻るのを待ちかねたように、病院食を食べることが出来て、頑張って食べて元気にならないと…と、一生懸命、お粥全部と、鶏肉の照り焼き、オレンジ、などを食べ、大根の煮物を、「この馬鈴薯の煮付けが旨い」というので、「おとうさん、それ大根やろ?」と笑ったりした。 滅多に、愚痴も姑の悪口も言わないお舅さんだけど、この時ばかりは、元気が出てきて、「おかあさんが~~」と、私に色々と姑の愚痴を話した。私は、そうだろうそうだろうと思いながら聞いていたけど、人の愚痴や悪口には、一緒になっては言わない嫁の智恵、そこのところはわきまえて、ただ、「はぁ。」「そう。」と相槌だけ返しながら、お舅さんも優しいなぁと思っていた。だって、「でも、おかあさんも、昔はあんなんじゃなかったんやけどなぁ」なんて、この期に及んで言うんだよ。「とにかく、退院しても、もう、自分の家では住めないから、退院後も、お前たちの家で住まわせてくれ。」 まぁ、そりゃそうだろうなぁと思いつつも、退院後は、これから本格同居生活が始まるのね~と思う私。 夫に早退してきて貰って、病院でバトンタッチして、入院書類手続き諸々は夫に引継いで、私は遅刻ながら仕事へ合流。結局その夜、私の帰宅は深夜02:30頃で、本当にヘビ~~~な一日となった。 それが金曜日の話で、週明け月曜日は宝良ちゃんの家庭訪問の日だったので、土日は大掃除。 お舅さんのお布団も服も、居間に住んで貰うことになるので、家庭訪問で丸見え。服などを収納しないといけないので、急遽、ホームセンターでお舅さん専用の簡易箪笥(プラスチック4段引き出し)を購入。ついでに、お舅さんが自宅へ帰ってきて暮らすとき用の、お茶碗・湯飲み・お箸・インスタントみそ汁各種・お汁椀などなども購入。 同居かぁ、大変だろうなぁ。(新婚当初、姑に追い出されるまでの1年半は同居してたから、まぁ、それほど抵抗も無いけどね、でも、どうなるのかぁ)ひとりっこの宝良ちゃんには、おじいちゃんとの生活というのも、ありがたいことかもね、お舅さんがそこそこ元気になったら、保育所のお迎えなんかもお舅さんが行ったりして、じーちゃんにいっぱい遊んで貰える孫になるのかなぁ、などと思いつつも、 やっぱり、実際本格的に入院道具を揃えて病院へ行ったりと、私自身も大変疲れた週末だったのでした。 つづく。
2007.05.11
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疲れたぁ~でござる。本当に、怒濤の日々でした。 5月5日は、夫の祖母の23回忌の法事でした。私は4月30日に10年ぶりくらいで椎間板ヘルニアをやってしまい、3日寝込んで何とか動ける程度になったところで5月5日を迎え、8時半に会場にお願いしていたお寺へ向かいました。 以前からこのブログを読んでくださっている方はご存じですが、うちの姑は手に負えなくて、同居して家のローンを抱えていた私たち夫婦は家を追い出され、自分たちの住んでいないその家のローンを払い続けつつ、今住んでいる借家の家賃も払っている現状、その上、私のことは「キチガイ嫁」と呼ぶだけではなく、実家の親もボロクソな扱いで、(それは、妹さんの嫁ぎ先のご主人やそのご家族も同様のため、そちらの家とも、交流は断絶状態)その法事は、本当に気が滅入った。 更に、憂鬱だったことに、その一月前あたりから数回、電話でお舅さんが話していた内容だった。 その内容は、(お舅さんは、)ここしばらく、あまりにもお腹が痛くて、背中も腰も痛くて、寝込んでいることが多くなった。それで、病院に行きたいけれど、妻(姑)が、「怠けているだけで、大げさに辛抱せず言うだけで、あなたは病気でも何でもない、年を取れば誰でも少しくらい体調にスッキリしないところは出てくるが、それを日々の体操など心がけの努力で補うものであり、病院なんか行く必要がない」と言って、国民健康保険の保険証を取りあげて隠してしまい、病院へ行けない、というものだった。 それは、人権相談でも行って、保険証の再発行をしてでも、病院へ行かないといけないよ、と電話では話していたのだった。 法事の席では、お舅さんは目が回るとかで、座っていることができず、途中で体を横たえるほどで、聞いたら、血尿が出たりすると言う。それを姑はまた、「大げさに…」と更に罵って、痛いと言っているのに、無理矢理脚を頭の方まで持ち上げて、「怠けずに体の筋を伸ばさないからだ」とギュウギュウ曲げていて、見ていられなかった。 帰宅後、あまりのことに、このまま何もしなくて、お舅さん亡くなってしまったら、本当に後悔してもしきれないよ、何とかしなくていいの? と夫と話した。 家を追い出されて家のローンや固定資産税、火災保険や、何か取り憑かれたように買う健康器具のお金の後始末や、自分の思い通りにさせたいことだけ押しつけてくる姑に辟易していて、もうなるべく関わらないようにしていたのだけど、それでも、見るに見かねて、「最悪、このまま病院にも行かせて貰えないのを見捨てておけないから、お舅さんだけなら、今の家に引き取って同居してもいいよ」と夫に話していた。 数日後、別件の要件で、姑から夫がアッシーに使われ、相手を直接は知らなかったため、お舅さんが夫の車に同乗した。そのとき、ずっと辛抱してきたけれど、もうどうしようもないので、このまま姑の居る家に帰らずに、お前の家へ連れて行ってくれないかとお舅さんがいうそうで、聞いたら、その日は姑に、怠けて体を横たえていないで筋を伸ばす努力をしろと、中学一年生の孫の野球バットで痛い背中をガンガンゴリンゴリンされて、辛くて痛くて仕方がないとお舅さんが言う。それを聞いて、夫は私に電話をかけてきて、「もう今から、お父さんを連れて帰る。着の身着のままだけど、お父さんを引き取るから」と。私も今までの流れがあるので、「いいよ、分かった」と即答した。 と言うわけで、5月9日夕方、お舅さんがやってきた。
2007.05.09
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宝良ちゃんの下痢は、元気になりましたd(^^)長かったです。丸々一週間掛かりました。 結構ひどかったです。最後の方、お粥とかリンゴのすり下ろしとか再開できるようになったとき、リンゴのすり下ろしたものが、そのままの状態でオムツ替え中にぺっちょ~って大噴射。それも、ものすごい勢いっ。私のお腹に直撃。ぺったり。(リンゴのまま。便って感じ皆無) ←汚い話でスミマセン。m(_ _)mとかね。でも、もう、笑っちゃうしかないって感じで、悲壮感が麻痺。 それも、笑い話にできるまでに、回復しました~(*^_^*) 今は、元気いっぱい。その間、私は毎日付きっきり。普段私が側にいてやらなかったこともあって、宝良ちゃんはとっても甘えん坊になり、それはそれで、私は嬉しかったりします。 で、母ちゃん(私)は…ぁ~、って言うと、気持ち切り替え、なくっちゃね。な今日この頃です。 えっと、実は、宝良ちゃんが下痢がひどくなる前の週、半ば、私、二日ほど、もうダメって感じで、泣いちゃっていました。 もう、頑張りシロが残ってない、どこ(仕事・学校・家事・子育て・健康管理)を向いても、全部が全部すごく頑張らないといけない状態で、でも、もうしんどくて、何一つについても、これ以上頑張れないって、八方塞がりな状況で……。 仕事って、幾らでもやらなきゃ…なことがあって、ここまでしたら全部終わりってことがない。 学校のレポートも試験も、徹夜しても追いつかない。何よりも出席が不足にならないように出席し続けるだけでも、しんどい。一日の授業をただ座って聞くだけのことが、もう、しんどくて堪らない。 家の掃除も、宝良ちゃんが危険じゃないように購入してある階段用のドアの取り付けとか、チャイルドシートの付け替えとか、冬物の服や布団の入れ替えとか、何もしてやれてない。 そして、何より、自分の健康管理。入院という話を最後の最後で、「やっぱり、ショッピングセンター内の新規ルームオープン前で、仕事上もだし、学校も後期が始まるし、何より、いくら子どもの面倒をよく見てくれる協力的な夫だとは言え、まるきり私が入院してしまっては、宝良ちゃんのこと、困るし……、」と、「今回はやっぱり入院しません。自分で何とか頑張ってみますから」と言い切った先月の外来から、あっという間に改善できないまま次の外来日が目前で、自分がどうするべきか、立ち止まって考えないといけなかった。 学費のことを思うと、私の仕事はお金にならない仕事で、夫や宝良ちゃんに迷惑をかけながらも、借金背負っていろんなものをすり減らしながら、ただただ役に立ちたかったって一点だけで始めた仕事で、でも、自分のお給料なんか無い世界だから、学費なんて家族に迷惑かけるばかりで、申し訳ないし、そう思うと、頑張りきれない自分が苦しかったけど、やっぱり、入院はしないって言うかわりに、学校を休学して、ペースを落として、とにかく、健康管理回復に気力が向けられるようにしようと、家族と話し合って、決めました。 主治医とも話して、「やっと、人間らしい言葉が聞けて、よかった」と主治医。 正直にいうと、7月半ばから、もうまともにインスリン打つことも薬飲むこともしてなかった。もう、食べる前後にそんなことする気力、残ってなかった。 というわけで、学校にも連絡して、暫く学校はお休み。もう完全に出席日数足りないけど、でも少しずつでも、まだ通うつもり。普通の人のペースで通えないなら、亀のペースで……。 と言っても、まだ、本心からその判断(決断)に自分が納得しているかというと、そうじゃない。すごく、自分を責める思いがある。家族にも、仕事のスタッフにも、あちこちへ「情けない私でごめんなさい、ごめんなさい。情けない私で迷惑かけます、ごめんなさい。」って気持ちが強い。 でも、会社の借金もある、仕事上の責任もある、そして、何と言っても宝良ちゃんが大人になるまでの親としての責任がある。管理の悪い過食症持ちのDMで、高血圧合併。罹患歴20年を越え、今もここ3ヶ月は毎月HbA1c10%を越えているわけで、本当に、心筋梗塞・脳梗塞を引き起こした後の私の看病を宝良ちゃんの育児とともに夫にかぶらせる訳にはいかない。 そう思って、まず、優先順位から言って、一番後回しに出来るのが、学校だったから、今年後半、また学校を休むって、判断したの。「またかよ、私」って、本当に自分を責める声がする。この声と葛藤して心穏やかならず、まだ妊婦の時のような食事に戻れない。自分責めの声が大きくなると過食してしまう。 でね、そう決めてから、ほどなく、宝良ちゃんがひどい下痢になって、自分責めの暇なく、付きっきり看病になったの。で、正直、1週間ほど、自分のこと、考えずに過ごした。宝良ちゃんとべったり過ごして、宝良ちゃんが少しずつ元気を取り戻してくる過程では、いっぱいお喋りしてくれて、かわいいしぐさも見せてくれて、……。 これで良いんだと思う。少なくとも、インスリンを打つのをほとんどとばさなくなってきた。飲み薬も飲みとばすことが減ってきた。血糖も測る回数が増えたし、毎朝記録を取らないといけない血圧も、測れる時間のゆとりができた。この調子、この調子。これで、ちゃんと数字を安定させよう。血糖も血圧も。検査に引っかかったので、胃カメラ飲むことになったし。 焦るし、怠けてる気がするし、情けないけど、今は、健康管理の気力が戻ることを最優先に、お休み(自宅療養)です。 気持ち、切り替えなきゃね。もう、今更、いくら自分を責めたところで、出席不足は確定で、すなわち留年も確定だから、今更自分を責めても遅いから、だったら、気持ち切り替えなきゃね。 1.気力を取り戻す 2.体重・血圧・血糖をとばさず測って、 3.インスリンを打って薬を飲むってことが、とばさずできて、 4.ちゃんと考えた食事の準備ができて、 5.そのペースがある程度維持できるまで、 それまで、謹慎中の母です。 情けないけど、これが私。これが私なんだから、折り合いをつけなくちゃね。 多くのDM患者さんから見れば、すごくレベル低いけど、でも、私には、この5つの目標が、学校を休むとか…、何かを削らないと、もうどうにも出来ないほど、エベレストのように不可能かと思える高さだったので、 さぁ、気持ち切り替えて、自分は自分。身の丈にあったことしか出来ないんだから、step by step一歩一歩いこう。 昔自分の作った川柳で、「一歩歩けば一歩進む きっと進む」というのがあって、しんどくなって、辛くなって、情けなくなって、泣きべそなとき、この句を不思議といつも思い出すんだ。で、とにかく、右足だして、左足出して、……、それ以上のことは考えず、とにかく、とにかく、片足を一歩前に出すことだけをつづけようと思うの。そしたら、いつの間にか、取り敢えずのゴールには届くって。 今の右足は、今の左足は、無理に学校へ行くことじゃなくて、無理に営業に走り回ることじゃなくて、1~5をまずクリアすることだよね。 あぁぁぁ、支離滅裂な、堂々巡りな日記でごめんなさい。ここまで付き合って読んでくれた方、ひどい文章でゴメンなさい。 頑張れあたし、頑張って、立て直そう、私。気持ち切り替えo(^-^)o 練習中です。
2006.10.24
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3月15日。 今、夫がやっとベッドで寝ている。会計事務所勤務の税理士をしているので、確定申告の時期は毎年忙しいのだけど、今年は格別大変そうで、もう、ラストスパートの1.2週間は、会社から帰っても、食事をしたらすぐ炬燵で仕事。そのまま、そこで寝てしまって、また目覚めたら早朝から仕事。シャワーを浴びて出勤。そのエンドレス。 目も充血して、しんどそう。でも、変わってあげることも手伝ってあげることも出来ないので、ただ、見ていることしかできないんだけど。 3年前の今頃、丁度私の仕事立ち上げがピークの忙しさだった。その半年前には登記もして、準備を始めていたのだけど、オープンを4月16日に控え、建物の建築にも着工し、スタッフの採用から研修から、何から何まで同時進行で、でもスタート期限が決まっているので、やらなければならないことは、どうやったって、やらなければならないわけで、………、もうこの時期、私は全く声が出なくなっていた。で、2日に1回寝る(それも2.3時間程度)。エスタロンモカの錠剤を、規定を無視してザラザラと飲み、ボトル入りの液体エスタロンモカその他を車の助手席にゴロゴロさせて、飲みながら動いていた日々だった。 朝目覚めたらまた徹夜している私のそんな姿を見て、夫がよく言っていた台詞。「ごめんな、一人だけ寝て…」という言葉。あの年も、やっぱり確定申告は3月15日だったわけで、あ~あ、私、自分の忙しさで気がいっぱいで、夫が大変だったり忙しかったり疲れていたりした姿に、全く気づかなかったな。 あの後、睡眠不足で、車を運転していたら、道路が盛り上がってくる感覚に襲われていたけれど、とうとうダンプに衝突して自分の愛車を廃車にしてしまった辺りから、もう家族も何も言わずに、ただ黙って手伝って応援してくれるようになったんだった。 さてさて、今年、宝良ちゃんが生まれて、4月までは少し家に居ることができ、この家に引っ越してきて以来、初めて、少しだけゆとりがある。そうすると、ダーリンの疲れ具合が見えてきて、ここのところ、本当に、「ごめんね、私だけ先に寝て…」と、今年は私がダーリンに申し訳なく思ったりした。 やっと、3月15日が終わった。その分後回しになった毎月ルーティンの仕事を片付けないといけないから、まだまだ忙しく仕事に追われる日々が続くけれど、ここしばらくの様な、自営業者か過労死するシステムエンジニアか…って感じの働き方からは、ペースダウンしてもいいみたい。 今晩は、21時半には、もうベッドで寝ていた。久しぶりに宝良ちゃんと3人の川の字。 ダーリンパパ、お疲れさま。私と宝良ちゃんがいるから頑張れるよ、といいながら(または自分に言い聞かせながら)毎日を乗りきってくれて、本当に、すごいと思う。ダーリンパパ、ありがとうね。ダーリンパパ、すごいよ。偉いよ。本当に、面と向かっては言わないけど、尊敬するな。ありがとう。お疲れさま。今日はゆっくり寝て下さい。ね。
2006.03.15
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子どもが生まれるまで、よく思っていたこと。自分の存在は迷惑なのではないかということ。 その思考パターンはこうだった。親にとって、自慢の子どもで居られなかった。親の期待に添えなかった。恥ずかしい存在だった。 それらの思考はどこから来たのかな。育ってくる過程ではみんなが通る道だけど、私にも受験があって、進学をして、その都度、親の期待には添えなかった。容姿がいわゆる「チビ・デブ・ブス」だから、連れて歩くのがみっともないとか。そのうち病気になって、頑張りが利かなくなって、仕事もバリバリこなせる状態になくなった。 さて、それはそうなの。間違っちゃいない。でも、それって、さほど(生きてチャいけないほどの)マイナスポイントだったのかしら? と、今は思ったり出来る。 高校野球でも、最後に甲子園で優勝するチームはひとつだけ。でも、そこまで辿り着かなかったからって、どこかでは、期待してくれていたのに負けちゃったからといって、私は生きているだけで迷惑な存在なんだと思わないといけないほどの期待を裏切ったってことにはならないでしょ。 医療費の国庫負担が話題になる度、「糖尿病の治療費」という話が引き合いに出る。以前私は、自己管理できない私のような愚かな人間は自業自得なのだから、生きているだけでご迷惑なのに、その上、医療費など使わせて貰える身分にない。と、思っていた。 でも、今の私はそこまで無知ではない。昨今も、まさに私のような2型糖尿が存在悪のように言われるが、「医療費の殆んどが、臨終前約10日の延命処理の為に使われていると聴かされております。(数値を覚えていないので、下の新聞記事参照) 家族から延命治療はしないように言われていたからといって、延命治療を止めたら殺人容疑になった医者もいます。[[新聞記事: 高額医療費の9割が末期患者のための支出に]]高額医療調査によると、医療費が1か月80万円以上のものは約21万件。200万円以上は約1,2千件。こうした高額医療者の内、9割が治療1か月から6か月以内に死亡している。とりわけ死亡1,2月前に手術、投薬が集中しており、延命治療のあり方が問題になりそうである。(読売7/26)」だそうで、いじめやすいところ、または、締め上げれば搾り甲斐がありそうなところ(ジコカンリできない奴は、自業自得なんだから、諦めろよと刷り込めば、医療費削減が通りそうなターゲット)をねらい打ちしているだけじゃん……ってことも見えるようになってきて、(どうせ無駄な医療費なんだから、終末医療の治療費削れっていうと、姥捨て山論議になって、難しいでしょ。私だって、自分の親ならイヤだしね。終末医療の切り捨ては気持ちが納得できないけど、ジコカンリできないバカな糖尿病患者の自業自得に使う医療費は締め上げても、どこからもブーイング来ないし…ってカラクリだよね)私なんかが生きていてごめんなさい、私なんかが呼吸をして酸素を吸ってしまってごめんなさい、私なんかが医療費を使ってごめんなさい、私なんかが生き物の命を削って作られた食べ物を食べてしまってごめんなさい、とかの、底なしスパイラルに落ち込むのも、今となっては何だかなぁ…と思ったりして。 宝良ちゃんが産まれてきてくれて思うこと。「子を持って知る親のありがたさ」って世間じゃよく言うけれど、私の場合、「子を持って知る『子』のありがたさ」なのだわ。 別に、宝良ちゃんは意図して私に幸福な日々を与えようなんて策略を巡らせるわけでもなく、自分の思うままに毎日を過ごしてくれているだけなんだけど、私が勝手に幸せを感じられるんだよね。宝良ちゃんの存在がどんなに私を幸せにしてくれているか。 オムツ代がかかったとか、ミルク代がかかったとか、洋服代がとか、そんな負担をかけたから、僕は生きていちゃいけないんだ…なんて、思う必要ないでしょ。お母さん(私)、使いたくって使っているのよ、君にかかっているお金はね。 世代をずらしてみれば、私も「子」であったわけで、もしかして、私の存在も、「子を持って知る『子』のありがたさ」の『子』なのかも……。そう思ったら、すごくビックリ。私の今までの「ご迷惑さまでスミマセン」思いこみは、何だったんだぁ~。 最近の宝良ちゃん。泣く以外に、「あう」とか「あぁうぁう」とか、色々な表現をするようになった。「泣くほどじゃないが、あまりよろしくないかんじです」って、不満を訴えるお喋りは、なかなか面白い。その延長で泣くときなぞ、(お風呂で髪と顔を洗われているときのように)必死で激泣きしているわけではないので、ときどき泣くのをストップして、人の顔を確認してから、様子を見て、意識的にまた泣きに入る智恵がついてきた。面白れぇ~。かわいいぞぉ。 何の疑いもなく、面白いように不満を表明する宝良ちゃんの存在を、こんなに楽しいものと思えるのだから、私もかつて、「子を持って知る『子』のありがたさ」の『子』存在だったわけで、どんなに、できが悪くてもその点には無関係に、私も含めて、存在してくれているだけでのありがたさってのがあるのかも知れない。 今も、みんなに迷惑をかけている。出来ることしか出来ない。出来ないことがいっぱいある。でも、少しは出来ることもあるかも知れないし、何よりも、意識して何かをしなくてもただ私が存在しているだけで、誰かが勝手に何かを感じて受け取ってくれている場合もある。誰かが勝手に、私が生きているだけのことから、何かを受け取ってくれている場合もある。ってことで、 ひとに何かをしてあげようとか、意識的に貢献しようなんて、思っている方が不遜なのかも。親にとって子は、「子を持って知る『子』のありがたさ」なのだわ。 子は存在しているだけで役に立っている。Aさんにとってはそうじゃなかったとしても、自分さえ気づかないうちに見ず知らずのBさんの役にたっているかもしれない。そして、誰もが、誰かにとってのそんな存在なんだ。 横に私がいるのを確認してから泣いて見せたりする宝良ちゃん、今日もこんなこと思わせてくれて、ありがとうね~。
2005.12.18
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デジカメの映像を楽天に取り込めない。じっくりPCに向かって、あれこれやれていないので、その状況が改善できていない。(ついでにいうと、今メインで使っているWinXPのPCとプリンタ間の不具合があって、もうずっと打ち出せない状態のママ放置…。LANの不具合を点検する余力がないままほおっておいたら、その当時付け焼き刃でなんとかしたLANの知識もすっかり消え失せて、今となっては再度向き合うには気力も時間も無さ過ぎ。仕方ないから、WinXPのPCから98のPCへメール送信して、その98からなら何故かプリンタ動くの……。トホホ) で、ずっと携帯からまず日記の更新で写真を送って置いて、それをPCから編集で直して文字をいれている始末。 11月22日は朝からバタバタと忙しかったので、携帯に日記を書き込む用の返信アドレスを取り込んでおくのを忘れちゃった。 で、11月21日のところに書きます。くどくど言い訳しているのは、できれば、かなり、11月22日のところにちゃんと書きたかったからなの。 11月22日。世間では「いい夫婦の日」とか言うらしいけれど、うちではダーリンのお誕生日。 去年のお誕生日は、私が入院中で、Aちゃんといっしょに抜け出して、クイーンアリスのケーキを買って病院に隠し持って帰って、夜ダーが来てくれたときに、もう人影のない外来の受付待合いのテーブルでろうそくをつけてお祝いしたんだった。あのときは、また宝良ちゃんはお腹の中にもやってきてくれていなかったな。体外受精がダメで、凹んで……。 今年、こんな風に3人家族でダーのお誕生日を迎えられるなんて想像でだって思えなかった。今の状況、夢みたいだな。 今日はとっても忙しくて、またまた宝良ちゃん連れで仕事の雑用で出かけてばかり。食事に行ったり何か買ってきたりも出来て無くて、ケーキもない。だけど、宝良ちゃんが居てくれるから、ダー、それだけで、今年のお誕生日、とっても幸せだよね。「♪お誕生日おめでとうー。♪お誕生日おめでとうー。♪生まれてきてくれてありがとうー。♪お誕生日おめでとうー。♪」わが家オリジナルの(Happy Birthday to You♪の)替え歌、今年も歌おう。 ちなみに、宝良ちゃんのうたっていうのもあります。「タンタタ タンタタ タタタタタ タータタ タタタタ タタタタタ タンタタ タンタタ タタタタタ タータタ タタタタ タタタタタ タッカタッカター タッカタッカター タッカタッカター タッカタッカター だ・い・す・き~~~~~」 のリズムで、メロディーとか繰り返し方とかは、適当。授乳後のゲップをさせてあげるときに、背中をトントンしながら病院の授乳室にいるころから、小さな声で何となく口ずさんで(歌って)ました。歌詞は、「大好き 大好き たからちゃん マーマの たからもの たからちゃん 大好き 大好き たからちゃん パーパの たからもの たからちゃん 抱っこ抱っこギュー 抱っこ抱っこギュー 抱っこ抱っこギュー 抱っこ抱っこギュー だ・い・す・き~~~~~」 歌詞の前半は背中トントンしながら、歌詞の中盤は、ハグしながら、最後の だ・い・す・き~~~~~ は、背中スリスリしながら、歌ってます。 今日のUPは、ずいぶん前の写真。ダーパパのお膝で授乳中の宝良ちゃんです。こんなキラキラお目めで見つめられたら、ダーパパきっと、「パパの幸せ」満開に違いない瞬間かな。
2005.11.21
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今日、ダーリンは朝6時30分会社集合で、ゴルフに行くんだって。そういえば最近以前よりゴルフに行く回数が増えた? と思って訊いてみたら、事務所の若い人たちがゴルフを始めたので、社内コンペみたいなのを、参加者8人くらいで月一でやり始めたらしい。 そうやって、ダーリンが楽しんでくれたり仲間との時間を過ごしてくれるの。嬉しいなぁ。 私は趣味だらけのひとで、今の仕事を立ち上げる前は、趣味仲間とお出かけばかり。 学生の頃から続けていた声楽の個人レッスン。川柳教室に川柳勉強会。川柳の大会にと、東京やら神戸やらへ遠征。現代俳句教室に、この年になって一から始めたピアノ教室。 英会話教室で出会ったお料理好きなお友達の家に月一で集まって、お料理を教えて貰ったり。 オペラやお芝居を観に行くのが大好きで……。東京に住んでいる頃は、サントリーホールやオーチャードホールで、当日チケットを求めて並ぶことしばしば。 感動すると同じ芝居に何度も足を運ぶために、ネットでチケットを競り落とすのに必死だったりして。あれだけは、やっぱ、東京の醍醐味。ニューヨークへ旅行するとブロードウェイへ。パリへ旅行するとオペラ座へ。イタリアへ旅行したかったのは、ベルカントの本場だから。 旅行も大好き。ダーと出かけるときは、時間が無いからツワーに参加したり、ガイドを付けたりするけど、一人でフラッと行くときは、行き帰りの航空券だけ押さえて、(ヨーロッパだと、それにユーレールパスだけ押さえてトーマスクックの時刻表と地球の歩き方と辞書だけ持って)。 行き当たりバッタリに、ふらふらと行きたいところへ行く。ベルリンの壁が崩壊したと聞いてベルリン行きの列車に乗り、「蛍の樹」の話を読んで、マレーシアへ行く。国内では今は屋久島で沢登り(というか、川流れ)にまた行きたい。ああ、風の盆の時期、夜を徹して何日も明け方まで越中おわらに居たい。楽しかったなぁ。 そんな私とは逆に、ダーリンは殆ど自分のためには出かけず、お盆と年末に年に2度ほどゴルフに誘ってくれる会に参加する程度。 後は、TVで野球を観るのは、本当に好きみたい。高校野球が始まると、それについて書いてある雑誌を買ってくるし、勝ち上がり表? みたいなのを、毎日つけているし。プロ野球も色々観る。 それでこの家に引っ越してきたとき、少しでもダーが喜ぶかなぁって、ケーブルTVを契約したんだ。地上波、BS以外にも、野球放送をしてるから。 あまりTVを観ない私より、ケーブルTVはダーが活用してるから、これは正解だったけど、でも、家でTV観ている以外の楽しみも何かワクワクしてくれてたら嬉しいなぁ、って…思っていた私。 「○○ちゃん(←私)といっしょだと何でも楽しい」って、私の趣味に付き合って、川柳大会にもお芝居にも旅行にも付いてきてくれるけど、ダー自身が本当に楽しんでしたいこと、何だろう…、本当に楽しいのかなぁって、実は、すごく気になっていたの。 というわけで、自分で準備してでもゴルフへ出かけて行く様子が、私は何だかとっても嬉しいのでした。 私は子どもの頃から甘ちゃんで、小さい頃からお稽古ごと三昧。学習塾育ちでテストの点はそこそこ取れてそれなりに勉強もしたけど、ダーリンは、自力でこつこつと積み上げて生きてきたタイプ。 地元の国立大学の経済学部を卒業後、大阪の会計事務所に就職して、仕事が終わったあとに、夜間の専門学校へ通いながら勉強を続けて、試験を受けて自力で税理士になった。 税理士には、税務署勤続後についてくるパターンと、大学院を二つ終了するパターンと、自力で資格試験を受けていく3パターンのなり方がある。 会計事務所で仕事をしながら(つまり、ちゃんと使える現場の仕事を身につけながら)、一番深い勉強を求められる自力で試験を合格して資格を取得していくパターンというのは、甘ちゃんな私から見れば、一番すごいなぁって思う。 でも、自分で開業してる税理士先生じゃないんだよ。今の会計事務所に勤めさせてもらって、今21年目。 そうそう、勤続20年の表彰で事務所から記念に何か買ってくれるっていうので、冷蔵庫を新しく買って貰ったんだ。で、私がテプラでそれに「××会計事務所勤続20年表彰。○○くん、いつもお仕事ありがとう~!!!」って貼ったの。 都会の大きな事務所じゃなくて、5人の税理士と10数名のスタッフで、個人や小さな会社の面倒を見ている。ダーリン曰く、「田舎のどぶ板会計事務所」。 TVドラマだと、下町赤ひげ状態で、素敵なクールビズシャツを買ってきても、足下だけは、つっかけサンダル……。何故革靴を履かないんだ~。買っても買っても、ちゃんと靴を履いて出勤してくれなくて、スーパーで980円くらいで売っているおっさんサンダルを自分で買ってきては、履いて行くんだよ。 そんな雰囲気の、でも、だからかな、今時珍しいくらいアットホームな事務所。 私たちの結婚式には、平日だったにも関わらず、電話留守番ひとり残って、その日は仕事を置いておいて全員参加してくれたり、仕事扱い(出勤扱い)で、年に何度か家族参加ありのバス旅行や日帰りの温泉へ行く。 私は初め、「うわぁ…、そういうの苦手」って思ったけど、いつもいつも歓迎してくれて、よくしてくれるので、今では、みんなと顔なじみになって、いい会社だなぁって、そんな仕事の仕方をしているダーリンが素敵だなって思って、実は尊敬してたりするんだ。 私が生まれ育った環境では、独立創業とか大企業とか、名門大学とか大学院とか留学とか、何だか一見エリートコースみたいなのが、当然でしょうって感じで、私はいつも、落ちこぼれ気分。(私の行った大学なんて、未だに父からは「あんなの大学じゃない。○○大学株式会社のいい鴨になりやがって…」とか言われるよ。北大・東北大・一橋と、新幹線のひかり号が止まる駅の国立大学と、私立は早稲田.慶応.上智の3校のみが、大学なんだって。フンだ。)でも、自分もそんな価値観にまみれて育ってきたので、ダーリンみたいに、本当に実力があって、外見立派ぶらないのって、実は、とってもすごいなぁって思っているんだ。 でも、私ばっかり病院がよいばかりだし、必要だと思ったら、もう何年も飛行機通院でお泊まりで東京へもホイホイ行くし、社会人入試でまた学生するし、起業して自分のやりたい仕事を始めちゃうし、不妊治療だって、子ども産みたいからって突っ走るし。 いつもいつも、わがままばかり……、言うから、ちょっと気になっていて………。ダーリンゴメンネ。そしてありがとう。 というわけで、実は今年に入ってから、ダーが毎月ゴルフにってことになっていると知って、今日はとっても嬉しかったので、朝、いっしょにご飯を食べながら、珍しくお見送り。(いつもは、寝てる私…(^_^;)エヘヘ) たからちゃん、こんなパパとママだけど、分かっていて選んでくれたんだよね。それで、やってきてくれるんだよね。ありがとう。いっしょに生きていこうね。
2005.08.30
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ダーのお誕生日でした。自分の存在に自信がない私が欲しいものは、「何の役にも立たなくていい。存在しているだけでいい。居てくれることが嬉しい」と思ってくれること。 ダーの役に立つことや世話を私は何にもしないのに、人生をいっしょに歩いていくことを喜んでくれるダーの誕生日、いい日だなぁ。 「♪お誕生日おめでとうー。♪お誕生日おめでとうー。♪生まれてきてくれてありがとうー。♪お誕生日おめでとうー。♪」わが家オリジナルの(Happy Birthday to You♪の)替え歌です。 夜の病院受付ロビー、お友達がケーキを用意してくれて替え歌でお祝いをしました。
2004.11.22
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ここのところ、日記に旦那ちゃまが登場しない。私の日記を読んだ後、「お医者さんと看護婦さんは出てくるけど、自分は出てこない。ETの後も、電話したのに、その場面もない。丁度A先生のところから出たところで、いいタイミングで電話があったとか、出てこないよ~」って、旦那ちゃまが拗ねている。先生や看護婦さんとの場面のように、会話文で出てこないと寂しいらしい。そう言う場合、以前S先生から「まあ、旦那さんは、彼女の人生にまだ登場してないのですよ。出番はまだ先ですね」って言われたしね、ってところに話がいく。確かに、いつも、仕事だったり、病気のことだったり、子どもを授かることだったり、何かしら「目標」のような、そのときそのときの、「一番の関心事」がいつも私の日常にはあって、旦那ちゃまの存在が、「一番の関心事」にはならないんだな。それは、家族なんだもん、根底の、大事な存在ってことで、もう「一番の関心事」に向かう前提のような大事さなんだけど……。そうは言っても、やっぱり何だか寂しいらしい。 ETをしてから、「パソコンしすぎて疲れたらダメだよ~」とか、「早く寝ないと~」とか、「無理しないようにな~」とか、「階段気を付けて」とか、すごく大事に声をかけてくれるの、嬉しいんだよ。ただ、その優しいのが日常だから、ありがとうーってすごく思っているけど、日記の話題にはならないんだよね。やっぱり、「一番の関心事」じゃないんだね。ははは、はは。ごめ~ん。
2004.09.22
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