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「考える人」 という 新潮社 が出している季刊雑誌がありました。その雑誌の 2010 年・春号 で 「はじめて読む聖書」 という特集を組んだことがあります。その中に哲学者で武道家の 内田樹 の 「レヴィナスを通じて読む『旧約聖書』」 というインタヴュー記事があります。そこで、彼が、語っていることにうなってしまいました。
ナチス・ ドイツ が 600 万人を超えるユダヤ人をはじめとして、障害者、同性愛者など 1000 万人以上の人間を ホロコースト ( 焼き尽く ) した 歴史事実についてはご存知でしょうね。 エマニュエル・レヴィナス は、自身も家族や友人をホロコーストされたユダヤ人で、フランスの宗教哲学者(?)です。 ホロコーストの後、生き延びたユダヤ人の多くは信仰の揺らぎを経験しました。なぜ神は私たちを捨てたのか。民族の存亡の時に介入しないような神をどうして信じ続けることが出来るだろうか、と。多くのユダヤ人がユダヤ教から離れてゆきました。
その民族宗教の危機のときに、 レヴィナス は若いユダヤ人たちにこう説きました。
では、いったいあなたたちはどのような単純な神をこれまで想定していたのか、と。
人間が善行すれば報奨を与え、邪な行いをすれば罰を与える。神というのはそのような単純な勧善懲悪の機能にすぎないというのか。もし、そうだとしたら、神は人間によってコントロール可能な存在だということになる。人間が自分の意志によって、好きなように左右することが出来るようなものであるとしたら、どうしてそのようなものを信仰の対象となしえようか。
神は地上の出来事には介入してこない。神が真にその威徳にふさわしいものであるのだとすれば、それは神が不在の時でも。神の支援がなくても、それでもなお地上に正義を実現しうるほどの霊的成熟を果たし得る存在を創造したこと以外にありえない。 神なしでも神が臨在するときと変わらぬほどに粛々と神の計画を実現できる存在を創造したという事実だけが、神の存在を証し立てる。
神は、幼児にとっての親のように、つきっきりで人間のそばにいて、人間たちの正しい行いにはいちいち報奨を与え、誤った行いにはいちいち罰を下すのでなければ、ことの理非も正邪の区別も付かないような人間しか創造し得なかった―そう言い立てる者は、神をはじめから信じていないのである。
神は、神抜きで、自力で、弱者を救い、病者をいたわり、愛し合うことができ、正義を実現できるような、そのような可能性を持つものとして、われわれ人間を創造した。だから、人間が人間に対して犯した罪は、人間によってしか贖うことができない。神は人間にそのような霊的成熟を要求するのである、と。 レヴィナス はそう告げたのでした。
人間の住む世界に正義と公正をもたらすのは神の仕事ではなく、人間の仕事である。世界に不義と不正が存在することを神の責めに帰すような人間は霊的には幼児である。私たちは霊的に成人にならなければならない。 レヴィナス はそのように述べて、崩壊の瀬戸際にあったフランスユダヤ人社会を再構築したのです。
ぼくは異教徒ですけれども、この レヴィナス の 「霊的な成人のための宗教」 という考え方に強い衝撃を受けました。
「なぜ神はユダヤの民を救ってくれなかったのか?」 という素朴で哀切な、生き残ったユダヤ人たちに共通した問いに対して、ユダヤ教の信仰を基礎づけよう=信仰にあたいすることを証明しよう=とした人だと思います。
「生徒諸君は教員という監視者の元においてモラルを育てるのではない」 というふうに。
「考えることをやめるのはイヤだ。」 という、いつまでたっても子供のような、ありは、まあ、コケの一念のようなものにうながされ、こんな記事を投稿しています(笑)。
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