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映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 5
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セルゲイ・ロズニツァ「新生ロシア1991」元町映画館 寒かった2023年2月の最終日、28日は小春日和でした。一月から二月の間、マフラー、二枚着込んだセーター、オバー・ズボンの重装備でスーパー・カブ号でしたが、ようやく脱皮できました。で、フワフワ、ちょっと春の気分で見たのがセルゲイ・ロズニツァの「新生ロシア1991」でした。 率直に言って、難解でした。理由ははっきりしています。 一つは、この監督のいつものことなのですが、「いつ?」は出てくるのですが「どこで?」がわからないのです。観ながら徐々にですが、映像のほとんどが、ロシアの大統領府の周辺だということがわかってくるのですが、だから映画の始まりではレニングラード、終わりではサンクト・ペテルブルグというわけだったことはわかったわけですが、今度は、いったい何が起こっているのかがわかりません。 二つ目はゴルバチョフが始めたペレストロイカという、ソビエト連邦の改革が、1991年、8月19日に勃発した共産党保守派のクーデターとその失敗によって、ソビエト連邦の体制内改革を目指した、連邦の大統領だったゴルバチョフが、実質、失脚し、ロシア共和国の大統領だったエリツィンが実権を握り、ソビエト連邦の共産党体制そのもの崩壊、国家制度の変革へと移行する、激動の4日間について、ぼく自身が忘れてしまっている、あるいは、あまりにも知らないことが理由です。 フィルム上で起こっていることが、20世紀の世界史において、どんなに過小に評価してもベスト(?)10に入るはずの大事件なのですが、見ている当人には、まあ、何が起こっているのかわからいというトンマな客だったというわけでした。 ただ、トンマな客がトンマなりに興奮したことといえば、エリツィンが権力を掌握した大統領府から、逃げるように車で去る数名の男の中に、あの、プーチンがいたことに気づいたことでした。 この政変の中で、プーチンをはじめとしたKGBの人間たちがどんな立場で何をしていたのか、これまた、ぼくは知りませんが、広場にバリケードを築き、反クーデターを叫び、改革の、さらなる前進を歌っている民衆たちの味方であったはずがないと、まあ、勝手に思い込んでいるわけですが、あれから30年、ロシア共和国の大統領職を手に入れたプーチンの所業を思い浮かべれば、彼の姿をこの映画に挿入したセルゲイ・ロズニツァの意図がどこにあるのか想像がつこうというものでした。 そういえば、この映画のBGMは「白鳥の湖」なのですが、実は、このクーデターの間中、ニュース報道を禁じられたモスクワの公共ラジオ放送がずっとこの曲をかけていたということに基づく演出のようですが、結局、改革派が勝ったはずの「新生ロシア」の通奏音は「白鳥の湖」だったということですね。もちろん、呪いをかけられているのは自由を叫んだ「民衆」か、あるいは「民主主義」に決まっていますね。 まあ、それにしてもセルゲイ・ロズニツァが何を描こうとしているのかが、ここにきてようやく見えてきた気がします。この監督のアーカイブ・フィルム編集の意図の一つは「民衆」にかけられた「呪い」の提示ですね。どこまでいっても真の自由とは出会えない悲劇といってもいいかもしれません。何はともあれセルゲイ・ロズニツァに拍手!でした。監督 セルゲイ・ロズニツァ製作 セルゲイ・ロズニツァ編集 セルゲイ・ロズニツァ ダニエリュス・コカナウスキス2015年・70分・ベルギー・オランダ合作原題「The Event」2023・02・28-no029・元町映画館no165
2023.03.05
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セルゲイ・ロズニツァ「ミスター・ランズベルギス」元町映画館 「ちょっと、これはすごい!」という映画と出会いました。場所は2022年の師走の始まりの元町映画館です。監督は、すでに何本か見ていて、すっかり魅せられているセルゲイ・ロズニツァです。作品は「ミスター・ランズベルギス」、248分の大作ドキュメンタリーです。 マア、4時間を超える長尺というところが、とりあえず、まず、「ちょっと、これはすごい!」わけで、その上、セルゲイ・ロズニツァが撮っているというのも、ボクにとっては、もう、それだけで「スゴイ!」のですから、何を大げさに騒いでいるのかということですが、やっぱり、騒いでしまいます(笑)。 この映画の凄さは、このドキュメンタリーの主人公であるランズベルギスという人物の行動と考え方の根幹であり、この作品の舞台であるリトアニアという国の独立のプロセスの中で実践された「非暴力という思想の可能性」が見事に活写されていたところです。 映画は、今となっては、元リトアニア共和国最高会議議長であったビータウタス・ランズベルギスという老人が、彼の祖父が建てたというサマー・ハウスの庭のベンチで、30年前の思い出を語りはじめるシーンで始まり、語り終えたシーンで終わります。 一人の政治家の、3年間の活動を、いわゆる、アーカイブ・フィルムで描き出していく、これまで見たセルゲイ・ロズニツァの作品とは、また、ちがった手法で作られていますが、作品が焦点化していくのはリトアニアの独立運動の「非暴力」性と、当時、ノーベル平和賞を授与されたこともあって、世界中にファンがいたミハイル・ゴルバチョフの、現実には、実に「暴力的」だった政治手法でした。 巨大な連合国家ソビエト連邦の、絶対的権力者であったゴルバチョフが、まず、国境封鎖による経済統制という暴力を行使し、次に、戦車、装甲車で武装したソビエト軍を駐留させ、挙句の果ては実弾を発砲しながらの脅し、挑発を繰り返しながら、リトアニア国内のソビエト共産党支持者を煽るという手法は、つい最近も、どこかの国がどこかの国に対する手法として繰り返していましたが、ランズベルギスという指導者が、あくまでも論理で抵抗し、国際世論を味方につけ、独立を勝ち取っていくやり方は、司馬遼太郎がいたら小説の主人公にしそうなおもしろさですが、最後の最後まで「銃をとれ!」と叫ばなかったところに感嘆しました。 30代のボクでしたら、リトアニアの大群衆が国歌を歌い、駐留軍を包囲し、やがて、独立を勝ち取っていくシーンには、感激の涙を流したに違いないのですが、今、現在の率直な感想の中には、涙が流れるような情感はあまりありません。 いずれにしても、「国家」とか「民族」、あるいは「宗教」とかいう枠組み、まあ、共同幻想を前提とした改革とか民主化、あるいは革命には、再び「国家」という共同幻想による「人間」個々の個的幻想に対する抑圧や蔑視がつきものであることが、この20年の現代史が教えてくれたことで、そのあたりに対しての期待感は、今のぼくには、あまりありません。 セルゲイ・ロズニツァの凄さは、そこのところを見通しながら、「非暴力」の可能性を見事に描いていると感じさせるところに表れていて、ここまでの作品に通底する彼の世界認識のありようが、ようやく、ニブイ、ボクなどでもわかりはじめてきたようで、そこのところにに唸りました。 現在のリトアニアの政治情勢についてはまったく知りませんが、ウクライナへのロシアの侵略という世界情勢下で発想されたに違いないこの作品は、もっと評判になってもいいと思います。憲法9条という最強理念を持ちながら、敵基地攻撃などということを、メディアもこぞって「いいね!」の話題にしていますが、「非暴力」の論理をこそ追求することが求められていると思うのですが・・・・。 長い長いインタビューに、ユーモアたっぷりで語り続けたビータウタス・ランズベルギスに、こころから拍手!です。 いよ、いよ、その世界認識を鮮やかに描き始めたセルゲイ・ロズニツァ監督にも、当然、大きな拍手!ですね。ほんと、この人の作品からは目が離せません。次は「新生ロシア1991」だそうです。監督 セルゲイ・ロズニツァ製作 ウリャーナ・キム共同製作 マリア・シュストバ セルゲイ・ロズニツァ脚本 ビータウタス・ランズベルギス セルゲイ・ロズニツァ編集 ダニエリュス・コカナウスキスキャストビータウタス・ランズベルギス2021年製作・248分・リトアニア・オランダ合作原題「Mr. Landsbergis」2022・12・05-no134・元町映画館no150
2022.12.07
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セルゲイ・ロズニツァ「バビ・ヤール」シアター・セブン 今日は、大阪、十三のシアター・セブンにやってきました。10月の半ばに、元町映画館でやっていたプログラムなのですが見損ねていました。「ドンバス」のセルゲイ・ロズニツァ監督の「バビ・ヤール」です。 「国葬」、「アウステルリッツ」以来、この人の作品は見逃したくないと思っていましたが、元町映画館の上映を見過ごしていました。というわけで、コロナ騒動以来初めての県境越えの十三でした。マア、阪急神戸線の特急に乗るだけのことですが(笑)。 で、映画ですが、見ごたえというか、この監督の作品は、ぼくにとってはいつもそうなのですが、歴史の実相を突き付けられる体験でした。 1941年のウクライナ(当時、ソビエト連邦)のキエフを占領したナチス・ドイツが「バビ・ヤール渓谷」というところで行ったユダヤ人大量虐殺、いわゆるホロ・コーストの実態を歴史資料として残されていた記録フィルムを編集することで、新たに「告発」したドキュメンタリーでした。 映画の製作技術者の中にカメラマンはいません。映像はすべて、当時の記録フィルムのようでした。ナチス・ドイツが「独ソ不可侵条約」を破棄してソビエト・ロシアとの戦争を始めたのは1941年の6月ですが、9月19日にはキエフを占領します。キエフの住民たちはナチス・ドイツを歓迎し、スターリンの肖像を破っていきます。 そのあたりから、この映画は始まりました。画面には、日付と場所、場合によっては出来事の名称が字幕として出てきますが、ナレーションの類は一切ありません。 例えば、武装解除された大量の兵士や、荷物を持った市民の行列のシーンが、繰り返し画面には出てきますが、それがどちらの兵士なのか、ユダヤ人なのか、軍装や衣類のようすから類推するしかない映画です。 もう一度、例えばですが、9月24日のシーンで多数の市民を巻き込む大規模な爆発が発生するのですが、ソビエトによる反攻によるものなのか、何かの陰謀なのか、見ているぼくにはわかりません。実際はソ連秘密警察がキエフ撤退前に仕掛けた爆弾を遠隔操作で爆破したものだったらしいのですが、その事件を口実にして、翌日、ナチス・ドイツの占領軍がキエフに住むユダヤ人全員の殲滅を決定する経緯を、映し出される映像から、何とか読み取って呆然とするばかりです。 字幕によれば、占領軍は9月29日・30日のわずか2日間で、キエフ北西部のバビ・ヤール渓谷で3万3771名のユダヤ人を射殺したらしいのですが、映像にはチラシにある死体の山の間をナチス・ドイツ軍の軍装の兵士が歩き回っているシーンがあるだけでした。 映画の後半は、ソビエトによるキエフ奪還と、虐殺事件の裁判の過程、事件にかかわった犯罪者の絞首刑のシーンがメインでした。その中に十二人の人間が、大群衆の前で、実際に公開処刑されるシーンが延々と映し出される映像がありますが、その状況を、今、日本の映画館で見ているということこそがぼくにはショックでした。 裁判の中で、ナチスの傀儡政権が虐殺をいかに隠そうとしたかが、例えば、現場の目撃者や作業員も、口封じのために射殺していたことなどが証言されることによって暴かれていましたが、それは、ぼくにとっては、ソビエト・ロシアの解放軍政権による「正義(?)」の、見せしめ処刑のありさまの異常さと好対照なのですが、結局、同じコインの裏表ではないかということを、終始、無言のセルゲイ・ロズニツァは語っていたのではないでしょうか。 映画の初めの、ナチス侵攻を歓迎するコサックの民族衣装の人々のふるまいを、ウクライナにおける親ナチス的民族感情のあらわれのように、2022年現在にリンクさせて語る節もあるようですが、1930年代のスターリンによる農業政策の失敗を勘定に入れて考えないと、見誤るのではないでしょうか。 ヒトラーとスターリンという二人の独裁者の政権のはざまに位置した、1940年代のウクライナという「場所」で生きる民衆の姿を、当時のフィルムのまま差し出しているセルゲイ・ロズニツァの意図は、まず、「これを見て考え始めてください」という、まっとうな歴史認識への誘いなのですが、何よりも、あらゆる「全体主義」に対するラジカルな批判が、その根底にあることは間違いないのではないでしょうか。 マア、それにしても、「ほんとうのこと」を、解説もナレーションもなしで見るというのは、疲れますね。ともあれ、セルゲイ・ロズニツァに、やっぱり拍手!でした。 チラシは元町映画館での上映予告の時のものですが、見たのは十三シアター・セブンでした。監督 セルゲイ・ロズニツァ製作 セルゲイ・ロズニツァ マリア・シュストバ脚本 セルゲイ・ロズニツァ編集 セルゲイ・ロズニツァ トマシュ・ボルスキ ダニエリュス・コカナウスキス2021年・121分・オランダ・ウクライナ合作原題「Babi Yar. Context」2022・11・14-no128・シアター・セブン
2022.11.16
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セルゲイ・ロズニツァ「ドンバス」元町映画館 神戸では、たしか、昨年の冬でした。元町映画館で公開された「アウステルリッツ」、「粛清裁判」、「国葬」という歴史ドキュメンタリー三部作(?)でシマクマ君を打ちのめしたウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督でしたが、その監督の劇映画「ドンバス」が、同じ元町映画館で、2022年の6月上旬に上映されました。 2018年の映画ですが、「ドンバス」という題名が示すとおり、まさに、今、ロシアによる侵攻作戦によって戦争が繰り広げられているウクライナ南東部、黒海沿岸地方=ドンバス地方を舞台にして描いた映画でした。わかったような書きぶりですが、実は「ドンバス」が地名なのか人名なのか映画を観るまで知りませんでした(笑)。まあ、その程度の予備知識です。 ウクライナという国は、今回の戦争によって、にわかに注目されていますが、2010年代に、反ロシア的な政権が樹立して以来「親ロシア」対「反ロシア」の内戦がたえない国で、今年に入って「親ロシア」的な地域「ドンバス」にドネツク人民共和国(DPR)とルガンスク人民共和国(LPR)という二つの「親ロシア」派の独立国家樹立=ウクライナからの分離という政治情勢の中で、ついにロシアが、ソビエト時代からお得意の軍事介入に踏み切ったというのが、素人シマクマ君の、まあ、床屋政談というところです。 この映画は2018年、現在、今(2022年)から4年前、「ノボロシア」と自称している親ロシア派が軍事的に制圧しているドンバス地方の現場の実態をドキュメントしたという設定で、10本ほどの短編ニュースドキュメントが編集されている趣で、あたかもオムニバス・ドキュメンタリー映画という構成の作品でした。 ロケ・バスというのでしょうか、映画に出演する俳優たちがバスの中で化粧したり、衣装を選んだりしているシーンから始まりました。「何をしているんだろう?」 と思って見ていると、「早く!早く!」とスタッフにうながされて、どうも、ミサイルだか大砲の弾だかが飛んできて、そこらで爆発している街の中を走り始めます。それをカメラが追い、インタビューとかやり始めるのを見ていて、ハッとしました。 戦争の被災者を捏造しているシーン なのです。「やらせ」番組、あるいはフェイク・ニュースの制作風景というわけです。 そこから、無秩序の極みのようなノボロシア(?)軍による検問の風景、自家用車の軍による徴発プロセス、捕虜になったウクライナ兵に対する市民によるリンチ、病院や市議会の腐敗の光景、圧巻はぶっ飛んだ愛国団体の集会としか思えない異様な結婚式でしたが、なんといっても、絶句するのはラストシーンにもう一度映し出されるロケ・バスの俳優たちの運命でした。 彼らは、オムニバス化されているこの作品の様々なシーンに、市民として繰り返し登場し、それぞれ、記憶に残る独特な人物を演じ続けていたのですが、その俳優たちがどうなったか。バスを襲った数人の狙撃兵によって全員射殺されてしまうのです。映画全体がフェイクであったということでしょうか? 2022年、7月の初旬の朝刊には「ロシア軍、ドンバスを制圧か?」 という見出しが躍っていました。映画を観るまでは知らなかったドンバスという地名に、思わずくぎ付けになります。 セルゲイ・ロズニツァのこの映画が作られたのは2018年だそうです。その時から、この3年間、何があったのでしょうか。ロシア政府はウクライナのネオナチ勢力による親ロ派住民たちに対するジェノサイドを軍事介入、侵攻の正当化の根拠の一つにしているようですが、対岸の火事を眺めている無責任な言い方ですが、この映画を観て感じるの「どっちもどっち」 という印象です。 ただ、この作品のすごさは2018年当時の社会情勢中で撮られているにもかかわらず、ただの反ロシア的なプロパガンダ映画ではないのではないかということです。 前記のドキュメンタリー三部作がそうであったように、本質を覆い隠し、あるいは、捏造することで権力を維持しする暴力的な政治形態のインチキを、その社会で統治されている民衆の姿を活写することで暴いていく作品のトーンは共通していて、監督セルゲイ・ロズニツァが描こうとしているとぼくが感じたものは、共通していて、この映画では特にラストシーンがそのことをあらわしていると思いましたが、特定の国家や政治権力に対する思い入れはかけらも感じませんでした。 彼が次に何を撮っているのか知りませんが、ワクワクしますね。それにしても、この作品は2018年・第71回カンヌ国際映画祭で監督賞だそうですが、やっぱり、ただものではなかった監督セルゲイ・ロズニツァに拍手!でした。監督 セルゲイ・ロズニツァ製作 ハイノ・デカート脚本 セルゲイ・ロズニツァ撮影 オレグ・ムトゥ美術 キリル・シュバーロフ衣装 ドロタ・ロケプロ編集ダニエリュス・コカナウスキスキャストタマラ・ヤツェンコボリス・カモルジントルステン・メルテンアルセン・ボセンコイリーナ・プレスニャエワスベトラーナ・コレソワセルゲイ・コレソフセルゲイ・ルスキンリュドミーラ・スモロジナバレリウ・アンドリウツァ2018年・121分。ドイツ・ウクライナ・フランス・オランダ・ルーマニア・ポーランド合作原題「Donbass」2022・06・14-no81・元町映画館no138
2022.07.09
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セルゲイ・ロズニツァ「アウステルリッツ」元町映画館 セルゲイ・ロズニツァ監督の、ソビエト・ロシアの歴史資料フィルムの編集映画ともいうことができる「粛清裁判」と「国葬」という二つの映画を見た後、見た映画が、「群衆」と名付けられたシリーズの3本目、今日の「アウステルリッツ」でした。 見終わったあとで調べてみると、ベルリン郊外にある「ザクセンハウゼン強制収容所」であるらしいことがわかりましたが、見ている間は、写っている場所がどの収容所なのか、ぼくにはわかりませんでした。しかし、映像に映し出されている人々が、歴史遺産として「観光地」になっているらしい「強制収容所」の跡地を訪れる観光客の情景であることはわかりました。 全編白黒の画面でしたが、動かないカメラによって、明るい日射しの中に揺れる木立や、歩いている人たちの和やかな様子が映し出されて映画は始まりました。 やがてカメラ移動して、鉄格子の扉に「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という文字がはめ込まれた入場門あたりを映し始めます。 大勢の人間が、立ち止まったり、連れ立ったりして、次から次へと歩いてやってきます。門の前で、家族写真や友人たちとの集合写真を「自撮り」棒を駆使して取っているグループもあります。門の中から、外にいる知り合いに声をかけているらしい様子も見えます。犬を乳母車に載せている人もいます。 映画はここまで無言です。「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」というテロップ以外、何の説明もありません。 この標語は、確かアウシュビッツにもあったはずだが、あれはアーチの上にあったんじゃなかったか?と、あやふやな知識でゆっくり考えこんでいる間、スクリーンには同じ場所が映り続けていました。 次に映ったのは建物の窓でした。ガラスの窓越しに中を通る人たちの姿が動くのですが、カメラがとらえているいくつかの窓のうち、正面の窓の部屋を見学している人影はよく見えますが、特にズーム・アップしたりするわけではありません。人影として見えているのが収容されている犠牲者ではないのか、と錯覚してしまいそうです。たしかに、何となく、時間の感覚が揺さぶられ始めている感じがあります。 こうして、少しずつ収容所の内部をカメラの位置は動いていきます。突如、ベートーベンの音楽の一節が聞こえてきたり、話し声が聞こえたりしますが、ナレーションが入るわけではありません。ベートーベンは携帯の音のようです。 後半に入ったころから、見学者に、収容所について解説する案内人の声が聞え始めます。カメラは見学者たちの動きに沿って動いているようですが、収容所内の光景を追うわけではありません。 なるほど、こういう映画なのだと思いながら、収容所見物の人たちに見入っていると、教会の鐘の音が聞こえてきました。おそらく、収容所の近くにある教会の鐘の音なのでしょう。 ハッとしました。そして、画面から聞こえてくる鐘の音を聞きながら、頭の中にこんな文句が浮かんできました。「鐘が聞こえるお城が見える」 今から、80年前に、この映画が映し出している「この場所」にいた人たちも、この鐘の音を聞いたんじゃなかったか。 途中で予想したとおり、カメラは、再び入場門に戻ってきて、映画は終わりました。 ぼくは、勝手に、あやふやな「記憶」に浸って見ていましたが、映画が終わって、ここのところ続けて見てきたセルゲイ・ロズニツァ監督の、このシリーズに「群衆」という総題がついていたことに、ようやく思い当たりました。 三作とも、主役は「群衆」でした。で、「群衆」って何なんでしょう。 映画を見ながら浮かんできた言葉は、ある詩の文句の間違った引用でした。 正しい引用はこうです。季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何処にあろう? 詩人の中原中也が訳して「幸福」と題したアルチュール・ランボーの「Bonheur」という詩の冒頭です。 映画を見ていて、もうひとつ浮かんでいた言葉がありました。思い出は狩の角笛風の中に音は消えゆく こちらはギヨーム・アポリネール、「ミラボー橋」の詩人ですが、彼の「狩の角笛」という詩の一節だったと思います。 映画の中の「鐘の音」に、やはり、かなり揺さぶられていたようです。「鐘の音」が、「歴史」と言えばいいのでしょうか。響きそのものが「過去」からの「時の流れ」を、一気に凝縮し、「現在」に結びつけていると感じたのでしょうね。 このシリーズを「群衆」と監督自身が名付けたのであれば、それぞれの時代や社会を生きていた、あるいは、殺された、そして今も、現代という時代を生きている、あるいは、時代の中で殺されている無数の人間の姿を刻印したかったということでしょうか。 スターリンやヒットラーに対する批判は、それぞれの映画に明確に表現されているわけですが、それ以上に、その世界で生きている「群衆の姿」の中に「人間」の真実をさぐろうとしているという意図を強く感じた作品でした。 この映画の撮り方に、あきれる人は多いのだろうと思いますが、ぼくは、「群衆」シリーズの3本の映画の中で、もっとも深く揺さぶられた映画だったように感じました。まあ、人それぞれなのですが。2016年・94分・ドイツ原題「Austerlitz」配給:サニーフィルム2021・02・10・元町映画館no75追記2022・11・18 セルゲイ・ロズニツァ監督の「バビ・ヤール」という、この「アウステルリッツ」と同じ手法で作られている、ドキュメンタリー作品を見ました。 いわゆる、アーカイブ・フィルムを編集した作品ですから、編集者=監督の意図というか、思想があからさまに出て来そうですが、必要最小限の字幕以外何のコメントもない作り方で、見ている人間によって「歴史」化の作業、言い換えれば「物語」化の作業、あるいは、映像解釈の作業をしていくほかありません。昨今の「わかりやすさ」ブームを考えれば、これほどわかりにくい作品は少ないと思うのですが、歴史事象に対するステロタイプな理解が、目の前のフィルムによって揺さぶられていく体験は、そうそうできることではない体験でした。 この監督は、やはり、すごいですね(笑)。
2021.02.15
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セルゲイ・ロズニツァ「国葬」元町映画館 歴史上の人物にはいろんな人がいて、あの人は好きだとかきらいだとか大河ドラマかなんか見ながらおしゃべりするということがあるわけですが、単なる好みの問題を越えて、「嫌い」な人物が誰にでもいるのではないでしょうか。 ぼくにとって、スターリンという人がそういう人です。そのスターリンの「死と葬儀」を撮ったフィルム群がモスクワの保管庫から発見され、それを見たセルゲイ・ロズニツァ監督によって編集されて、1本の映画として製作された作品が、「国葬」だそうです。先日見てきました。 元町映画館で「群衆」三部作というのでしょうか、上映されていて、まずこの「国葬」を見ました。嫌いな人物の葬儀を見に、なぜ、わざわざ出かけるのかと尋ねられそうですが、そこは、それ、「こいつの最後だけは見届けてやるぞ!」とでもいうのでしょうか、ある人の「お葬式」に対して、普通はとるべき態度ではないのですが、まあ、ミーハー的興味もあったわけです。 映画には、ソビエトロシアの独裁者の葬儀の進行が克明に記録されていました。ソビエト全土にわたって、モスクワはもちろんのこと、ハバロフスクから中央アジアの民衆の姿まで映し出されていました。 どうせ「動員」されているんだろうとたかをくくった気分は一掃されるかのリアリティで「哀しみ」が映し出されてゆきます。 モスクワの地理なんて全く知らないので、そこがどこなのかはわかりませんが、「レーニン廟」の前の広場から、そこに続く大通りを埋め尽くす「群衆」の姿は壮観でした。 最後にレーニン廟の上の演壇に立つ、フルチショフをはじめとする数人の新しい指導者たちは、みんな革命のチンピラたちでした。トロツキーをはじめとする「革命」の大物たちはみんなスターリンに「始末」されてきたわけですが、やがて、壇上の一人が同じ手口で同席している仲間を抹殺するという茶番劇が再演されることになるのは、ソビエト・ロシア史を少しでも齧った人なら知っているわけで、ここまで、映画が映し出してきた「荘厳」がインチキであることは最後に流されるテロップを見るまでもないのですが、それにしても、この映画に映しだされている「群衆」の「哀しみ」の表情はいったい何なのでしょうか。 この映画は、スターリンの悪業を、彼の手によって投獄されたり銃殺されたりした、想像を絶する「人間の数」で告知している最後のテロップをカットすれば、今、現在、スターリンを信じたり支持したりする人が見ても、おそらく何の違和感もない、むしろ、彼らの、ぼくからいえば偶像崇拝を称える映画として見ることができると思います。そして、その崇拝のリアリティを支えるのが、ここに映し出されている大群衆と、彼らの本気の表情なのだとぼくは感じました。 「群衆とは一体何だろう」という問いを残して映画は終わりました。ある種の傑作であると思います。理由は今の所よくわかりませんが、とにかく「ドッと疲れた」映画でした。監督 セルゲイ・ロズニツァ2019年・135分・オランダ・リトアニア合作原題「State Funeral」配給:サニーフィルム2021・02・01・元町映画館no74追記2021・02・14「群衆」シリーズ「粛清裁判」・「アウステルリッツ」の感想はこちらからどうぞ。追記2022・09・26 その後、セルゲイ・ロズニツァの「ドンバス」という作品を見ました。ウクライナのドンバス地方を舞台にした、こちらは劇映画でしたが、それは、たとえば、この「国葬」というドキュメンタリーが描いている民衆の「哀しみ」がいかにつくりだされていったインチキであったのかを劇化した作品といってもいいと思いました。 というわけで、ようやく「群衆」というシリーズの真価に気づいた気がしました。 宗教を装ったインチキ教団によるマインド・コントロールが批判されていますが、たとえば「国葬」というような国家行事は国民の群衆化、蒙昧化、民衆に対するマインド・コントロールを狙いとしているインチキ行事だということを再認識したわけですが、目の前では、知る限り最もインチキな政治家であった、元宰相Aの「国葬」とかが、いけしゃあしゃあと実施されるのだそうで、今現在でも、名ばかりの民主主義国家が、いよいよ、全体主義国家へ、インチキ宗教国家へ歩み出すようです。 歴史的愚挙というべき出来事が、今、進行しているわけですが、出るのはため息ばかりですね。
2021.02.14
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セルゲイ・ロズニツァ「粛清裁判」元町映画館 ぴあ映画生活 二月になって、元町映画館で上映されているセルゲイ・ロズニツァ監督の「群衆」と銘打たれたシリーズを順番に見ています。 今日は「粛清裁判」でした。非常事態宣言の中で出かけていくこと自体がはばかられるようなご時世ですが、何となく見落とすわけにはいかない映画という、まあ、ロシア革命史を勉強したかった若き日の夢を思い出す気分もあって出かけました。 映画は、スターリン統治下で、裏切り者をつるし上げる「見せしめ映画」として製作されたドキュメンタリー・フィルムと、当時、毎晩のように繰り返されていた街頭デモのニュース・フィルムを組み合わせることで出来上がっていました。まず、1930年当時の、ソビエト・ロシアの裁判の様子が異様でした。広大なホールを埋め尽くす、明らかにも見高い観衆。ありもしない「罪」を認め、「革命」への再度の献身の場を願う被告たち。劇的スタイルを意識したとしか思えない声音で銃殺を絶叫する検事。あたかも、まともな理性の持ち主であるかのように「紳士的言葉遣い」に終始しながら「銃殺」を言い渡す判事。 そのあげく、結審の瞬間、拍手と歓声でどよめくホールの様子は「悪夢」と題されるべき「お芝居」の終幕を思わせるのですが、街頭で「反革命を殺せ!」と叫びながらデモする「群衆」の姿が重ねられて、見世物小屋化しているのは法廷の中だけではなく、世界そのものなのだということを暗示して映画は終わりました。 すべて、「事実」を写しとったフィルムのはずなのですが、なぜ、こんなに劇的な「悪夢」の物語に変貌するのでしょう。「劇場化」という言葉がはやったことがありましたが、スターリンの治世に限らず、全体主義社会のおける「宣伝としての裁判」という「劇場化」は小説や劇映画では出会いますが、このフィルムが写し取っているのは歴史的事実であるということを振り返れば、まさに事実は小説よりも奇なりと言えないことはありませんが、だからといって他人事とも言い切れないわけで、検事総長だか検事部長だかを「私物化」して罪を逃れたエライ人や、その御一党でエラクなった人もいたような・・・。権力のありさまとしては、案外凡庸でありがちなことなのかもしれませんね。 スターリンが権力を手中にして行くプロセスで、おそらく数えきれないほど繰り返した、ありもしない事件をでっちあげ、関係者を皆殺しにする「粛清」という方法論について、今更あれこれ言う気分ではないのですが、「群衆」という視点を導入することで再構成し、「人間の歴史」として描いて見せたセルゲイ・ロズニツァという監督はただ者ではないようですね。 E・H・カーというイギリスの歴史家がいます。小林秀雄が「ドストエフスキーの生活」を書いた時に参照したという話がどこかにあって、読み始めた「ドストエフスキー」という伝記の作者として、高校時代に出会いましたが、彼のライフ・ワークだった長大な「ロシア革命史」をふと思い出しました。 カール・マルクスが夢見た「共産主義」の社会にとって、この映画のような「悪夢」が不可避であるというような物言いが、ソフトな反共思想として広がっているように感じますが、果たして共産主義という理念に原因があるといってすましていていいものでしょうか? 年配の方で、そんなことを、今更する人はいないとは思いますが、この映画に興味を持たれた若い方には、E・H・カーの著作やアイザック・ドイッチャーの「トロツキ―伝」、「スターリン伝」あたりを齧って見られることをお勧めします。少し、見方が変わるかもしれませんよ。監督 セルゲイ・ロズニツァ2018年・123分・オランダ・ロシア合作原題「The Trial」2021・02・03・元町映画館no71追記2023・02・28 おなじセルゲイ・ロズニツァ監督の「新生ロシア1991」という2015年に作られたドキュメンタリー・フィルムを見ました。この作品と同じように、アーカイヴ映像の編集によって作られています。ソビエト連邦の崩壊の過程の中で起こったクーデターの失敗という、歴史的数日の、レニングラードの民衆による反クーデターのゼネストの様子を描いていますが「群衆」の描き方に、この映画との共通性を感じました。多分、そのあたりに、この監督の思想が浮かび上がっているとおもうのですが、そのあたりは「新生ロシア1991」という作品の感想文で考えたいと思います。
2021.02.05
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