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読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 16
読書案内「リービ英雄・多和田葉子・カズオイシグロ」国境を越えて 5
映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 5
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半藤一利「清張さんと司馬さん」(NHK出版) 今日の読書案内は半藤一利という方の「清張さんと司馬さん」(NHK出版)です。今では文春文庫で読める本のようですが、ボクが読んだのはNHK出版の単行本です。 2001年ですから、もはや20年も昔の「NHK人間講座」という教養番組のために、当時、存命だった半藤一利が書いたテキストがNHK出版から単行本化されている本ですが、単行本にするための大量の「註」が新たに書きこまれていて、どっちかというとそこが面白い本です。 「清張さん」というのは松本清張で、「司馬さん」というのは司馬遼太郎です。著者の半藤一利は、今では「昭和史」(平凡ライブラリー)、「幕末史」(新潮社)、「漱石先生ぞな、もし」(文春文庫)で、作家・歴史家として知られていますが、もとは文藝春秋社の編集者で、駆け出しの編集者時代に、まあ、敗戦後の昭和を代表するお二人の「文豪」と出会い、伴走者として仕事をしたからこそというところがこの本の読みどころでした。 表題のお二人は、それぞれ、松本清張は1909年(明治42年)生まれで、1992年(平成4年)没。司馬遼太郎は1923年(大正12年)生まれで、 1996年(平成8年)没。ついでに著者の半藤一利は1930年(昭和5年)生まれで2021年(令和3年)没です。 もう、この世にいない人が、もっと前にいなくなった二人の作家について、それぞれ生前の出会いの思い出を語っている本です。 まあ、そういうわけで、今となっては、本もですが内容そのものが骨董品のようなものですが、実は、ボクが、まあ、そういう本を今ごろ案内している事情にはもう一人の亡くなった方が絡んでいらっしょいます。 といいますのは、今年2024年の6月に亡くなった、江戸、幕末思想史のエキスパートで、神戸大学の名誉教授だった野口武彦先生(一応、門下生)の、まあ、膨大な蔵書整理、いや、処分かな?で、古本屋さんのお手伝いをする機会が最近あったのですが、その時、ふと目にとまって、ちょっとパチってきた本なのです(笑)。遺品ですね。 先生が残された本を読む楽しみは、傍線と書き込み、それから付箋、ポストイットとの出会いです。「シマクマ君、これ読んだ?ここ、面白いよ」 先生の、あの、ニコニコ笑顔と一緒に聞こえてくるささやき声を聴きながら、ボク自身が、今、どちらの世にいるのか、朦朧たる至福の読書(笑) ですね(笑)。 まあ、私事はともかく、本書の内容ですが下に目次を貼っておきますね。 で、あちこちに引かれている傍線ヶ所から、一ヶ所紹介します。第六章「巨匠が対立したとき」 もう一つ、お二人がかなりやり合っていつ対談を見つけました。昭和四十八年一月の「別冊小説新潮」なんですが、これが非常に面白いので、最後に紹介することにします。 主題は幕末の尊王攘夷運動をめぐって、なのですが、司馬さんがこの大いなる運動を引き起こした思想的背景に水戸学、すなわち朱子学があったと説き、「水戸学をやらない人でも朱子学をやって、王を尊ぶべし、武力でもって政権をとるやつを卑しむべし、覇王を卑しむべしということがあるのです。ですから、尊王攘夷というのはもう常識としてあって・・・」と言いかけるのを、清張さんが「ぼくは、それはちょっと従えないな」と押しとどめて、以下、ちょっと激しい論戦が長々と戦わされることになります。(以下略) 長い引用になりますから端折りますが、結論はこうです。松本 端的にいえば、安政の大獄以前の攘夷は、神国をけがすといった式の、きわめて単純素朴な考えだったと思う。それから以後の攘夷は幕府を倒す武器になる。そこんとこの攘夷論は性格を見分けていわないと、いっしょにいうと、あれはわからなくなっちゃうんだ。司馬 それは確かにそのとおりですね。 で、半藤一利のまとめは 司馬さんの小説は、ということは歴史の見方ということになりますが、司馬さんの言葉を借りれば、歴史を上から鳥瞰するように捉える。つまり、歴史を大づかみして読者に示しながら、登場人物の活躍を描くことで、歴史のうねりを手に取るようにわからせる。この俯瞰的な見方が司馬さんが歴史を語る時にも、文明批評をするときにも、見事に適用される。そのことが清張さんとの議論でも発揮されていると、わたくしには思えるわけです。 しかし、清張さんは違った。清張さんは地べたを這うんです。草の根を分けるんです。刻々の変化を見るんです。大づかみではなく、ごちゃごちゃと微細に分け入るんです。そのために少々混乱を来たそうが、読者が理解しようがしまいが、一切お構いなしなところある。(P120~P121 ) わざわざ赤鉛筆でひかれている傍線ヶ所を太字にしましたが、フフフでしたね。司馬遼太郎は歴史を上からのぞき込んでかっこいい奴を選び出し、松本清張は下から見上げて、怪しい奴を追及する。 バブルから平成の時代に、司馬遼太郎があれほど流行って、松本清張は忘れられたのか?わかりやすいが好きな現代でも、司馬が描いた竜馬はマンガ化されたりで、ウケ続ける理由がこのあたりにありそうですね。目次 はじめに一 二人の文豪と私二 社会派推理小説の先駆者として三 古代史家としての清張さん四 時代小説から歴史小説へ五 『坂の上の雲』から文明論へ六 巨匠が対立したとき七 司馬さんと昭和史八 敗戦の日からの観想九 清張さんと昭和史十 『日本の黒い霧』をめぐって十一 司馬さんの漱石、清張さんの鷗外十二 司馬さんと戦後五十年を語るあとがき参考文献松本清張略年譜司馬遼太郎略年譜 本書の山場は、昭和史をめぐる二人のスタンスの相違ですが、まあ、そのあたりはどこかで手に取っていただくほかありませんね。ボクのほうは、久しぶりの半藤一利ブームがやってきそうな予感です。またご案内しますね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.26
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司馬遼太郎「故郷忘じがたく候」(文春文庫) 「ちゃわんやのはなし」というドキュメンタリー映画を見ていて思い出した作品です。 司馬遼太郎は、いわば、昭和の高度経済成長の時代を象徴する歴史小説・大衆小説作家だといっていいと思います。その彼が、50代に達した1970年代、傑作「空海の風景」(中公文庫)を書き終えた頃から、72歳、1996年に亡くなる、ほぼ、20年間、所謂、小説を離れ、「街道をゆく」と題した歴史紀行エッセイの傑作シリーズを書き続けたことは、彼の読者であれば誰でも知っていることですが、ちょうど「街道をゆく」が始まったころ、1976年に短編集として出版されたのが、映画を見ていて思い出した「故郷忘じがたく候」(文春文庫)でした。 雨が壺を濡らしている。壺は、庫裡のすみにころがっている。「朝鮮ではないか」 と、U氏は縁から降りて、壺をおこそうとした、が、起きなかった。てのひら二枚ほどの破片が、濡れた地面にかぶさっていたにすぎない。 昭和23年ごろ、京都の西陣の町寺での逸話から書き起こされているエッセイですが、産経新聞の記者として、その町寺あたりが担当だった若き日の司馬遼太郎と「薩摩焼」との出会いのシーンです。 「この陶片はおそらく薩摩焼のなかでも苗代(なえしろ)川の窯(かま)であろう。苗代川なればこそあたしは朝鮮と見まごうたし、まちごうても恥ではない、苗代川の尊さは、あの村には古朝鮮人が徳川期にも生きていたし、いまもなお生きている」といった。 二十年経った。 私はその日、鹿児島の宿にいた。 予約している飛行機の出発時間までに四時間のゆとりがあり、その時間内に、どこかこの県下の、それもできれば薩摩の古い風土を感じさせる町か村を一カ所見たいとおもい、町で買った地図をひろげてみた。薩摩半島が南にのびて錦江湾を囲んでいる。その半島の錦江湾海岸に鹿児島市があり、目を西へ横切らせて東シナ海に出ると、そこに漁港串木野があり、その串木野の手前の丘陵地帯あたりを地図で眺めているうちに、なんと「苗代川」という地名が小さく印刷されいるのを発見した。声をあげたいほどの驚きをおぼえた。地名なのか。 司馬遼太郎と戸数七十軒ばかりの苗代川、今では美山という新しい村名がついている薩摩焼の朝鮮人集落との出会いのエピソードです。 彼は村を訪ね、十四代沈寿官という陶工と出会い、心を奪われる体験をしたことが「故郷忘じがたく候」という、文庫本で70ページたらずですが、歴史とは何か、日本とは、朝鮮とは、を語る傑作エッセイとして書き残されることになります。たとえば、ほぼ50年後の2023年、松倉大夏という監督によって「ちゃわんやのはなし」という十五代沈寿官を追ったドキュメンタリー映画がつくられますが、このエッセイなしには、あの映画はなかったとボクは思います。 本書について、文庫版の解説で山内昌之はこんなふうに評しています。 司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」は、日本を語りながら韓国を語り、日韓の歴史に託して日本人とは何かを論じた達意の文章として読者の記憶に残り続けることだろう。 ちなみに、書名の由来にですが、本書の中に天明の頃の医者、橘南谿という人物が「東遊記」という旅行記の中に記している苗代川を訪れた逸事が紹介されています。 伊勢の橘は、「これらの者に母国どおりの暮らしをさせ、年貢を免じ、士礼をもって待遇している薩摩藩というのは、なんと心の広いことをするものだろう」と感じいっている、一方で、橘南谿はひとりの住人に尋ねている。日本に来られて何代になりますか。「すでに五代目になります。」それでは、ふるさとの朝鮮を思い出されることもございませんでしょう。「そうではありません。人の心というものは不思議なものです。故郷のことを忘れてしまうことはできません。折りにふれて夢のなかにも故郷は出てきます。また、昼に窯場で仕事をしているときでも故郷をいとしく思うのです。」 この一老人は、「故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや」と述べて語りを終えたという。橘南谿はよほどこの言葉が印象に残ったのだろう。きちんと旅行記に記録してくれたのである。 いかがでしょう。まあ、ボクは映画の宿題が一つ終わったということで、とりあえずホッとしています(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.07.14
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永井荷風「濹東奇譚」(新潮文庫) 今日の「読書案内」は永井荷風「濹東奇譚」(新潮文庫)です。上の写真ですが、表紙が汚れていますね(笑)。昭和57年、1982年に48刷の新潮文庫です。タバコを平気で吸い続けている部屋の書棚に40年以上も立っていた文庫です。背表紙は、もっと悲惨です。永井荷風なんか、もう読まない! と思いこんでいたのですが、長年続けている本読み会の課題になって読み直しました。 永井荷風といえばですが、最近の大学の国文科(そんな学科名はもうないかも?)だか、日本文学科だかの学生さんで、永井荷風を、ながいにふうと読む方がいらっしゃるということで、ときどき行く古本屋のおやじさんが嘆いているのを耳にして笑ったことがありますが、さもありなんですね(笑)。 芥川龍之介とか夏目漱石の名前は高校の教科書あたりで、まだ目にするかもしれませんが、永井荷風なんて、間違っても高校生には読ませられないわけで、「図書館戦争」のシリーズとかが大好きだから「日本文学科」に、まあ、とりあえず進学した学生さんが、近代文学の教授が配るプリントに、読み仮名もつけずに内田百閒とか永井荷風の名前が並んでいても読める道理がありませんね(笑)。 ところで、みなさんは「百閒」とか「荷風」という雅号の由来はご存知でしょうかね(笑)。何だか、学校の先生ふうになってきましたが(笑)。 内田百閒の百閒は作家の故郷の川の名前らしいですね。で、荷風は、少し難しくて、素直な女子大生さんが「に」とよんだ「荷」という漢字ですが、荷風という雅号の場合には、漢和の辞書をお引きになると出てきますが、「蓮」の花のことらしいですね。蓮の花に吹き寄せる風 というようなニュアンスのようですね。で、まあ、「蓮」って? なのですね(笑)。彼が、この雅号を名乗ったのは学生時代のことのようですが、雅号の向うに人影があるようで、栴檀は双葉より芳し というわけのようですよ(笑)。 で、「濹東奇譚」(新潮文庫)です。荷風は1879年、明治12年の12月3日生まれで、この作品は1937年、昭和12年に朝日新聞に連載した作品ですね。 作中に、主人公がラジオの放送の音を嫌がる描写がありますが、盧溝橋事件の年、中日戦争だか日中戦争だか知りませんが、戦争の始まった年です。 永井荷風とは、何の関係もありませんが、相撲は双葉山で、野球は沢村、スタルヒン、なんと、だめトラ・タイガースが初めて優勝した年ですね(笑)。 覚えやすいでしょ(笑)。 まあ、そういう時代というか、社会に向けて 濹東と記せば、何となく高尚なニュアンスですが、要するに、東京は向島の私娼窟をふらつく老年にさしかかった小説家の徘徊日記(笑)とでも呼べそうな作品ですが、これがスゴイんですね。 何がどうすごいのかというようなことは、幾多の批評家の皆さんがすでにおっしゃっているわけで、その口マネをしても仕方がないので言いませんが、二度と手に取ることはないだろうと思っていたこの作品を、この度、読み直す機会があって、感心したのはこういう場面でした。「一体、どうしたの。顔を見れば別に何でもないんだけれど、来る人が来ないと、なんだか妙に淋しいものよ。」「でも雪ちゃんは相変わらずいそがしいんだろう。」「暑いうちは知れたものよ。いくらいそがしいたって。」「今年はいつまでも、ほんとに暑いな。」と云った時お雪は「鳥渡(ちょいと)しずかに。」と云いながらわたくしの額にとまった蚊を掌でおさえた。家の内の蚊は前より一層多くなったようで、人を刺す其針も鋭く太くなったらしい。お雪は懐紙でわたくしの額と自分の手についた血をふき、「こら。こんな。」と云って其紙を見せて円める。「この蚊がいなくなれば年の暮れだろう。」「そう。去年はお酉様の時分にはまだいたかも知れない。」「やっぱり反保か。」ときいたが、時代が違っている事にきがついて、「この辺でも吉原の裏へ行くのか。」「ええ。」と云いながらお雪はチリンチリンとなる鈴の音を聞きつけ、立って窓口へ出た。「兼ちゃん。ここだよ。何ボヤボヤしているのさ。氷白玉二つ・・・・・それから、ついでに蚊遣香を買って来ておくれ。いい児だ。」(P69) 主人公が、散歩と称して通っている、川向うの街、玉ノ井で暮らしている女性「お雪」との会話です。いかがでしょう、この場面!。 実は、この日をかぎりに訪ねることをやめた「お雪」という女性との回想シーンなのですが、なんというか、小津映画の会話シーンが浮かぶような・・・・。 お雪はあの土地の女に似合わしからぬ容色と才智とを持っていた。鶏群の一鶴であった。然し昔と今は時代がちがうから、病むとも死ぬような事はあるまい。義理にからまれて思わぬ人に一生を寄せることもあるまい…。 後日、お雪が病に倒れたらしいという噂を耳にした主人公はこんなふうに記し、残る蚊に額さされしわが血汐 という、一句で始まる詩のようなもので作品は締めくくられるのですが、ボクにとっての発見は、引用個所をはじめとした会話シーンの、しみじみとした見事さ! でした。 戦災で偏奇館と名付けられた住まいも、蔵書も喪い、この作品が最後の傑作と呼ばれる永井荷風なのですが、実は亡くなったのは 1959年、昭和34年で、80歳まで生きたのですね。 教科書には乗らない作品ですが、若い人がお読みになってどんなふうに感じられるのかちょっと興味がありますね。図書館戦争がお好きな方には、ここには引用していませんが、地の文が難しすぎるかもしれませんね(笑)。 余談ですが永井荷風を読みながら思い出したのが滝田ゆうという漫画家の「寺島町奇譚」(ちくま文庫)でした。東京あたりの方はともかく、われわれには玉ノ井とか言われてもまったくわかりません。で、そちらが故郷の滝田ゆうです。書名をクリックしていただければ、最近書いた「マンガ便」に行けると思います。じゃあ、よろしくね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.25
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幸田文「木」(新潮文庫) 2023年の年の暮れに封切られた話題の映画、ヴィム・ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」の中で、主人公の平山正木(役所広司)さんが古本屋の棚で見つけて買い込んだ本の1冊がこの本でした。 幸田文「木」(新潮文庫)です。 幸田文といえば、まあ、いわずと知れたと思っていたのですが、知り合いの女子大生さんたちに聞くと、どなたも知らない! ということなので、ちょっと、紹介します。 明治の文豪(?)幸田露伴の娘で、随筆家青木玉の母親、孫の青木奈緒もエッセイストという方で、「みそっかす」(新潮文庫)だったか「おとうと」(新潮文庫)だったか、その他、いくつかの随筆作品だったかが、中学や高校の教科書にも載っていたことのある文章家です。小説家とか随筆家とかいうのが、チョットはばかられる気がするのがこの方のありようだとボクは感じていますが、まあ。一般には作家と呼ばれています。亡くなられて、三十数年経ちますが、お着物のきりっとした姿が、まあ、ボクなどにはすぐに浮かぶ方です。 今回の読書案内の「木」(新潮文庫)については、映画の中で古本屋の女主人が、幸田文の文章のすばらしさだったかについて一言いいましたが、何といったのか覚えていません。平山さんがこの本を手に取った理由は、彼が植物一般の中で、特に樹木が好き! だったからのようですが、彼は寝床でこの本を読みます。感想は何も言いませんが、十幾つかの短編の随筆(?)集ですが、最後まで読んだようです。 本そのものは、1990年に幸田文が亡くなった後、1991年に出版されたのですが、1995年に文庫化もされて、手元の本は1999年に八刷ですからロングセラーですね。 まあ、しかし、それから20年以上たっていますから20歳の女子大生はご存知ないというわけです(笑)。 ふと今の木の、たくさん伸びた太根の間に赤褐色の色がちらりとした。見ても暗いのだ。だが、位置の加減でちらりとする。どこからか屈折して射し入るらしい外光で、ふと見えるらしい。そっと手をいれて探ったら、おやとおもった。ごくかすかではあるが温味(ぬくみ)のあるような気がしたからだが、たしかにあたたかかった。しかも外側のぬれた木肌からは全く考えられないことに、そこは乾いていた。林じゅうがぬれているのに、そこは乾いていた。古木の芯とおぼしい部分は、新しい木の根の下で、乾いて温味をもっていた。指先が濡れて冷えていたからこそ、逆に敏感に有りやなしのぬくみと、確かな古木の乾きをとらえたものだったろうか。温い手だったら知り得ないぬくみだったとおもう。古木が温度をもつのか、新樹が寒気をさえぎるのか。この古い木、これはただ死んじゃいないんだ。この新しい木、これもただ生きているんじゃないんだ。中略 えぞ松は一列一直線一文字に、先祖の倒木のうえに育つ。一とはなんだろう。どう考えたらよかろうか。そぞいろんな考え方があることだろう。私にはわからない。でも、一つだけ、今度このたびおぼえた。日本の北海道の富良野の林冲に、えぞ松の倒木更新があって、その松たちは真一文字に、すきっと立っているのだ。ということである。何とかの一つ覚えに心たりている。(P18) いかがでしょう。所収されている最初の作品、「えぞ松の更新」の最後の1ページです。倒木の割れ目に手を差し入れて「ぬくみ」を見つける手つきと、たたみかけていく書きぶりが幸田文だと得心しながら、平山正木さんも、きっと、富良野の森の奥を思い浮かべながら心揺さぶられたに違いないと納得するのでした。 最後に目次を載せておきますね。数字は所収ページです。目次 えぞ松の更新 9藤 19ひのき 34杉 57木のきもの 75安倍峠にて 83たての木 よこの木 91木のあやしさ 99杉 108灰 115材のいのち 129花とやなぎ 136この春の花 143松 楠 杉 150ポプラ157解説 佐伯一麦
2024.01.03
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野上彌生子「森」(新潮社) 読み終えたという、ただ、それだけで自慢したくなる作品というものがありますが、1885年5月6日に生まれ、1985年3月30日に亡くなった女流作家野上弥生子の遺作、「森」(新潮社)を読み終えました。ちょっと、自慢したい気分です(笑)。 100歳の誕生日を目前にした99歳の逝去ですが、あとに残されたのが、一般には完成間近と考えられているものの、500ページを越えて全15章の大作「森」の絶筆原稿だったわけです。 未完成とはいいながら、「秀吉と利休」(新潮文庫)、「迷路」(岩波文庫)の作家の遺稿です。亡くなったその年、1985年のうちに新潮社から単行本として出版され、のちに文庫化されています。ボクが読んだのは昭和60年(1985年)に出版された単行本で、巻末に篠田一士の解説がついていました。 10年がかりの労作ということで、書き出しこんな様子ですが、80代の終わりの文章です。第一章 入学 ある日。 中年のやせた洋服の男が、上野からの汽車にいっしょに乗った。銘仙の袷に緋繻子の帯をまだ貝の口ふうに締めた、身なりだけはまともでも一瞥(ひとめ)で田舎ものとわかる小娘をつれて王子で降りた。 期日をはっきりさせれば、明治三十三年、そのころ流行語になりかけたハイカラなるいい方に従えば、一九〇〇年の春が四月にはいったばかりの午前であった。 ふたりは飛鳥山の花見客でざわめきはじめている大通りをぬけ、裏のたんぼ道へでた。右も左も麦畑である。しっかりした株つきで列になって伸びた濃緑の厚ぼったい拡がりが、初々しい穂波で、青い入江のさざ波のように時おり白っぽく揺れた。ほとんど屈折なくつづく道は、人力車ならすれ違えないほどである。でも、そんなものには出逢わず、人通りもなかった。 野菜畑は、隣に伸びた麦の背丈だけ陥没したような低い区劃になって、くろぐろとしている。菜の花畑もあらわれた。道ばたの池ともいえぬ水溜まりでは農婦がにんじんを洗っていた。土から抜いたばかりなのを藁のたわしでごしごしやって、しゃがんだ足もとの竹ざるに放りこむ。麗日といった、春だけがもつ言葉にぴったりのお天気であった。一羽の鳶(とんび)が、ほんとうは凧で、ぴいろろと鳴る笛の仕掛けがしてあるのを、どこかで誰かが上手にたぐっているかのように、うらうらとした空をいつまでも旋回した。田舎には生まれても町屋育ちの小娘には、学校の遠足ぐらいでしか眼にしない田舎風景は珍しかった。にんじんのところでは、薄紅いろの鼻緒の重ね草履でたちどまり、竹ざるのみずみずした朱のやまをのぞいたりした。 でも正直なところは、この時の小娘の気持は、のびやかな外界とはおおよそかけ離れたものであった。これから入学しようとするのは一体どんな学校であろう。どんな先生たちや学生たちがいるのであろう。これらで胸いっぱいのうえに、どことも見当のつかない田舎につれて来られたのに驚いていたのである。(P7~P8) 見事なものですとか何とか言えば落ち着くのですが、この文章を読み始めて、ボクがフト思い出したのはチッチキ人の祖母のことでした。 もう、10年以上も前に80幾つで亡くなったのですが、寝たきりになった数年間、最初は、当時話題になっていた橋本治の「窯変源氏」だったのですが、どうもそれでは飽き足らなかったと見えて「源氏物語」そのものを枕元に置いての日々を過ごしていたことです。 彼女は昭和の始めころに、当時の女学校に通った人だったのですが、思い出が「源氏物語」だったようなのですね。当時、祖母がどんなふうに源氏を読んでいるのか不思議でしたが、本書の作家の書きぶりを眺めながら、どこか共通するものを感じたのです。 野上弥生子が女学校に通ったのは、日清戦争の直後、明治40年代、1900年ころのことですが、この小説「森」では、およそ80年の昔の記憶を種にして、青春時代の思い出を、自分自身の家族や友人にとどまらず、彼女が学校や街角で出合った無名の使用人たちの生活の素顔、空を飛ぶトンビの鳴き声、通りすがりの溝川で洗われている人参の赤い輝きにいたるまで、物語のリアルなシーンとして描き出されていきます。 通った女学校で、現実に出合った人々だったとはいえ、歴史に名を遺した学者、詩人、画家などに至っては、その思想を幹としながらも、日々の生活の記憶から紡ぎだされたと思わせるそれぞれの人間の人柄を彷彿とさせる描写が、書いている人の脳内の過程の生々しさを思わせずにはいません。 枝葉の記憶が物語のシーンとして描き出され、章を追うにしたがって巨大な「森」へと構築されていくのは、90歳を超えた作家の技の冴えの見事さというべきでしょうが、物語が、入学から3年後の卒業で終えられようとしながら絶筆となった最終章として書き残された断片がこれです。 こうして、後にして思えば思うほど奇妙な入学をした十六の菊池加根は、三年目に普通科を終えると、そのまま高等科に進むことを望んだ。それはもう三年の延長だ。いっぽう卒業を婚期と結びつける一般的な考え方からも、郷里の家ではかんたんには許しえないものでもあった。とにかく逢って、委しい話を聞いた上でのことにしよう。春の休みは暑中休暇ほど長くはないにしろ、長兄の本祝いが催される折から、加根の卒業もみんなから悦ばれるだろう。 まだ山陽線などない頃で、瀬戸内海の船旅が運わるくしけたりで、神戸からの乗り換えに遅れると、東京までまたそれだけ遅れる、なんとも不便な往来に、暑中休暇に較べれば三分の一もない春休みまであえて帰ろうとしなかったのだ。しかし今度は異なっていた。加根の考え方からすれば、普通科の卒業なるものも、白いステージの階下のいままでの教室から、二階のそっくり同じ部屋へ移るのを意味するに外ならず、いよいよその資格を(註・以下欠)―未完―(P502~P503) 作家の99年の生涯を支えてきた10代後半の体験の意味の大きさに目を瞠る思いで読み終えました。傑作とか、名作というような評価を越えた、とんでもない作品だと思いました。読み終えるには、結構、辛抱がいりますが、ぜひ、お読みください。自慢できますよ(笑)。
2023.07.16
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北川扶生子「結核がつくる物語」(岩波書店) コロナの日々が始まって3年が過ぎました。この間、一応、人並み(?)にコロナ体験も済ませました。症状が思いのほか軽かったためもあって、家族や知人の親切を思い返す貴重な体験だったりしました。ほかには、外出にはマスクをするとか、帰宅すると手を洗うということが習慣化しましたがそんなもんだという気分になりつつあります。 もう一つは、日ごろ、なんとなくですが、関心を持って、まあその都度、図書館とかに出かけることになる項目に「感染症」とか「病気」とかが加わりました。 あれこれ読みましたが、福嶋亮大という文芸批評家の「感染症としての文学と哲学」(光文社新書)が、なかなか総覧的で便利だと思いました。そのうち案内しようと思っていますが、今日の案内はその本ではありません。 今回の「読書案内」は北川扶生子という近代文学の研究者の方のお書きになった「結核がつくる物語」(岩波書店)です。 本書は、まあ、いつものように大雑把に言えばですが、「結核」が「死に至る病」としてクローズ・アップされた1890年代(明治30年代)から、BCGの接種が一般的になった1950年代(昭和30年代)までの、結核をめぐる「言表の歴史」の批判的考察でした。言表というのは、まあ、言葉で表現されたくらいの意味です。文学も含みますが、新聞とか雑誌の記事として残されているものですね。 結核にかかわる文学表現といえば、すぐに思い浮かぶのが梶井基次郎、石川啄木、正岡子規の三人が、教科書三羽烏渡というわけで、著者が近代文学の研究者ということもあって、そのあたりが概観されるのだと思って読みはじめましたが違いました。 とりあえず、目次はこんな感じです。 目次序章 患者って誰のこと?第1章 病気になるのは誰のせい?―国家と結核第2章 空気が変わるとき―文化と結核第3章 患者は特別なひと?―文学と結核第4章 病むわたしの日常を綴る―書くことと結核第5章 確かな情報はどこに?―患者とメディア第6章 「病いはわたしを鍛える」―患者と修養第7章 発信する、つながる、笑う―患者交流欄のしくみとはたらき終章 わたしたちのからだは誰のものか 確かに「第3章 患者は特別なひと?―文学と結核には」では徳富蘆花「不如帰」に始まる近代結核文学が話題にはなっているのですが、この論考の狙いは、ボクが予想した「近代結核文学概観」とは別にありました。 スーザン・ソンタグが「隠喩としての病」(みすず書房)で結核をロマン主義文学の種となる「個別化」や「繊細な感受性」のシンボルとなったことを指摘したのは有名ですが、一方で、すでに批評家の柄谷行人が「日本近代文学の起源」(講談社文芸文庫)において堀辰雄や徳富蘆花のロマンティシズムを批判しているわけで、著者の意図は、その先でした。 「衛生的」とか「清潔」という、どちらかというとプラス価値の用語がありますが、その言葉が、いかに、「結核患者」というマイナス価値の人間存在を「排除」していったかを丹念にたどることで、著者がたどり着いたのは、排除された病者の雑誌「療養生活」の「まどゐ」という読者交流欄でした。 文学とかとは縁のない、ただの患者による「十五文字八行」以内の、今流にいえばツイート、つぶやきです。昭和三年当時未だ学生の兄は夭折、昭和六年私発病続いて八年弟も亦、そうして今尚この九月には父は遂々不遇のまま。ナンテ泣言可笑(おかし)いです。(埼玉 しづ) 梶井基次郎の自意識も堀辰雄のロマンティシズムもありませんね。埼玉のしづさんの、今、生きていることを誰かに伝えるための投稿のようです。 著者は10年がかりで近代日本という社会から、あるいは文学という制度から「排除」され、その向こう側にいる人間の生の声にたどり着いたのです。 がんばっても、がんばらなくても未来はつねにどうなるかわからない。誰にとっても。保証はない。昨日までの自分と。今日の自分が同じでなくてもいい。自分のなかに、矛盾した自分が何人いてもいい。相手によってコロコロ変わるお調子者でも、まったくかまわない。どう転ぶかわからない今を生きるとき、世界は発見に満ちたものとしてあらわれる。(P185) 第7章 発信する、つながる、笑う―患者交流欄のしくみとはたらきに記されている著者自身の生の言葉です。本書はコロナ流行に乗じたご時世ご用達本ではありません。10年以上にわたって、図書館に通い文献資料を調べ尽くした労作です。今を生きるとき、世界は発見に満ちたものとしてあらわれる。 心地の良い響きですね。いや、ホント、ご苦労様でした(笑)
2023.03.06
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100days100bookcovers no86 86日目川端康成「雪国」(新潮文庫) YAMAMOTOさんから『長崎ぶらぶら節』の紹介があったとき、ちょうど買ったばかりの本がありました。偶然ですが、「芸者」という要素で繋がっていたので、今回はこれでいくことにします。 『雪国』(川端康成著、新潮文庫) 昭和10年から書き始められたこの作品の、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という冒頭文は知っていても、読んでいる人は案外少ないのではないでしょうか。もしかしたら、若い人の中には、川端康成がノーベル文学賞を受賞したことを知らない人もいるかもしれません。教材になるような小説とも思えませんし、現代社会で頻繁に参照されるような内容でもありません。ですが、何度も映像化されていることを思うと、なにか人をそこへ回帰させるもの、惹きつけるものがあるのだと思います。 じつは、本を買う少し前、高橋一生の島村、奈緒の駒子でドラマ化されたNHKの作品を観ました。小説とドラマ(小説と映画もですが)は別のものなので、ドラマを観て原作を読みたいと思うことはあまりないのですが、このときは「久しぶりに原作を読んでみようかな」と思ったのです。このドラマでは、芸者の駒子の来し方を、彼女の口から聞いたシーンとして繋いで、主人公の島村の想念のような形でドラマの最後の方で見せたのですが、「現代ではこんな説明シーンが必要なほどわかりづらい内容なのか」という思いと、おそらく原作では、人物たちの言動と心理だけで描かれていたはずだという思いが重なって、ふと原作を読みたくなったわけです。 私は、小説読みとしてはわりに早熟だったので、この小説は中学生のときに読みました。人生の早い時期に大人の小説を読むことの弊害は、そこに描かれている心理や機微を理解できないまま、「読んだ」という事実だけを抱えて大人になり、小説のほんとうの面白さを知らないで終わってしまうことです。中年になって読んだ漱石の『三四郎』の面白さに呆然としたとき、そのことを痛感しました。 『雪国』もそうです。「日本的な抒情小説」と若い私の中で固定化していたイメージは一気に覆りました。これは、「人生のすべてを徒労だと思うように生きてしまった」島村が、駒子の命の生々しい輝きに触れ、その美しさ、哀しさに惹かれてゆく過程を島村自身が冷徹に見つめている「心理小説」です。ただ、川端の文章力、表現力が怖ろしほど鋭敏で叙情的な感覚で支えられていて、それが島村の冷徹さを和らげているだけで、島村の空虚さや周囲への距離感は終始一貫して小説の中に存在しているのです。 島村の中にある「徒労感」「周囲への距離」がどこから来たのかは、小説の中ではっきりとは描かれていません。ですが、幼くして家族を次々に失い、16歳で最後の親族になった祖父を看取って天涯孤独になった川端の体験を抜きに考えることはできないと思います。10代でひとり祖父の介護をした川端は、今で言う「ヤングケアラー」でした。処女作の『十六歳の日記』は、このときの介護の体験を書き綴ったものです(この作品も同時期に読みましたが、今のこの年齢で読み返したいところです)。生家がそれなりに裕福だったのでお金には困りませんでしたが、子どもの頃に親しい人の「死」をいくつも見てしまったことは、「死」を近くに感じること、「生」の実感や喜びをつかみにくいことと無関係ではないでしょう。もちろん個人差はあるでしょうが、川端少年にとっては大きな空洞になっていったのだと思います。 ですが、この島村の「距離感」は、私にとっては決してイヤなものではなく、むしろ好ましいものでした。こういう男性と実際に付き合いたいかどうかはまた別の問題ですが、深い関係になった駒子を引かせて自分のものにするでもなく(そんな財力もなかったのだろうけれど)、足繁く北国の温泉に通ってくるでもない、しばしば駒子から責められる島村の「フラットさ」は、旧弊な男性性からほど遠く、近代人の病のようなものでもなく、島村の頭でっかちな想念を身近なことばでひょいと「人生の真実」として呟いてしまうような駒子の人間的魅力を引き出します(川端自身はこのことを「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、駒子をうつす鏡のようなもの、でしょうか」と語っているそうですが)。 なかでもことに好きだったのは、三味線の音で駒子の強い生命力を思わせる描写でした。***** 「こんな日は音が違う。」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気が違うのである。劇場の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々まで真直ぐに響いて行った。 いつも山峡の大きい自然を、自らは知らぬながら相手として孤独に稽古するのが、彼女の習わしであったゆえ、撥の強くなるは自然である。その孤独は哀愁を踏み破って、野性の意力を宿していた。***** 島村の「視線」は、駒子の妹分である葉子にも向けられ、駒子よりもさらに激しい「何か」を感じ取ってたじろぎます。島村の中の空洞は、葉子の幼い直情を入れたが最後、持ちこたえられないのでしょう。ラストは、島村が駒子と天の川を見つめていると遠くで火事が起こるのですが、火事に遭った葉子が建物から落下し、葉子を胸に抱える駒子に島村が駆け寄ろうとするシーンで終わります。手が届きそうで届かない、ホッと安らぐことのないラストシーンですが、「踏みこたえて目を上げた途端、さあっと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった。」 と結ばれた掉尾の一文に身を任せるしかなく、そうすることで、この作品は、永遠に解けない謎のように読者の中に残り続けます。 島村から見た駒子と葉子の関係については、もっと読み込まないと書けないのですが、長くなりそうなので、それはまた別の機会に。現代社会ではこの小説が積極的に読まれるようなモチベーションはなかなかないかもしれませんが、清澄な自然と人間の心の深淵が同時に描かれている「純粋さの物語」として、読みたいときにそこにあってほしい、私にとっては心の何処かが欲するようなものなのだと思います。それではKOBAYASIさん、お願い致します。K・SODEOKA・2022・05・30追記2024・05・16 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目) (81日目~90日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2023.01.01
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100days100bookcovers no85 85日目なかにし礼「長崎ぶらぶら節」(文藝春秋) 4月8日のSIMAKUMAさんの投稿から約1か月経ちました。遅くなってすみません。ゆっくり意中の1冊との出会いを探りました。 まず、地元の本屋を残すために悪戦苦闘した本屋久住さんの起こした奇跡がいっぱい詰まった『奇跡の本屋をつくりたい』(ミシマ社)。しばしば胸がつまりました。子規と漱石の友情を見事に描いた『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』(講談社)も一気に読みました。国語の教科書や多くの作品では知ることができない子規と漱石の人間性と友情に目を見張りました。北アメリカのネイティヴについて書かれた見田宗介の「気流のなる音」(ちくま学芸文庫)は、加古川市の図書館に蔵書がなく、近隣市町の図書館に問合せしてもらっていますが、まだ連絡がありません。首を長くして待っています。受け取ったバトンの『天才柳澤教授の生活』(講談社文庫)はTUTAYAで店員さんに聞きましたが、置いていないとのこと。久しぶりにコミックを読むことを楽しみにしていたのですが…。 もう1冊読んだ本は、FBをご覧の方にはお察しがつくかも。なかにし礼『長崎ぶらぶら節』(文藝春秋)です。これは長崎ぶらぶら旅の余韻の中で読みました。そして、読んでいる中で、天才柳澤教授と長崎学の基礎を築いた古賀十二郎がリンクしたのです。 柳澤教授や山下和美さんの父である大学教授について、SIMAKUMAさんが、「マンガ的現実離れ」と評していましたが、それは『ノボさん』に描かれる子規も同じだと思いました。 子規は夢の中を走り続けた人である。これほど人々に愛され、これほど人々を愛した人は他に類をみない。彼のこころの空はまことに気高く澄んでいた。 と冒頭にありました。お金や健康を気に掛けず、全精神を注いで俳句や短歌などに没頭する姿は、『奇跡の本屋をつくりたい』の久住さんにも共通しているのではないでしょうか。『長崎ぶらぶら節』に登場する古賀十二郎は、中央や東京に抗して長崎の学問を究めるために大店の跡取り息子の全財産を費やしてしまいます。 今回『長崎ぶらぶら節』を読んで、まず思ったのは文学の力。この度何回目かの長崎地方への旅でした。事前に本を読み、ネットで調べたうえで島原、長崎を巡り、キリシタン潜伏や三菱の近代産業のこと(ともに世界遺産)、長崎の歴史やおくんち、丸山という色街のこと…。2泊3日でけっこうあちこち足を運び、ええ旅ができたな~としばらく旅の余韻に浸っていましたが、1冊の本との出会いはそれをはるかに凌ぐ奥深さでした。というか、頭で捉えるのとこころにひびくのとの違いかな?旅をして出会った現代の長崎に、ぶらぶら節が共鳴して根が張ったような…。 作者のなかにし礼は、華やかな作詞家・小説家という面と同時に、満州の引揚体験や兄の借金の返済、食道がんの闘病など波乱万丈の人生を送ったといいます。今まで気になりながら著書を手に取ったことがなかったというのは伊集院静と同じ。ふたりともマスコミの寵児であることで、私はなんとなく敬遠したのかも。作詞も素晴らしいですが、2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞受賞、他に『兄弟』『戦場のニーナ』『夜の歌』など。これからゆっくり読んでいこうと思っています。 『長崎ぶらぶら節』は、小説や映画で知っている人も多いでしょうが、あらすじは以下のとおりです。 日本三大花街の一つである長崎・丸山で10歳から奉公を始め人気芸者となった名妓・愛八は、若手を教える立場になったころ、「長崎学」の先駆者として知られた古賀十二郎から誘われ、古老らを訪ね歩く旅を始める。民謡、子守歌、隠れキリシタンの聖歌など貴重な歌を記録する旅の中で、愛八は忘れ去られ温泉町の老妓がかろうじて覚えていた「ぶらぶら節」と出会う。愛八の歌う「ぶらぶら節」は民謡探訪の取材をしていた詩人の西条八十に感銘を与え、西条のプロデュースにより1931年(昭和6年)にレコード化される。 今では「長崎くんち」のはじめに長崎検番の姐さん方によって唄われる地元を代表する「ぶらぶら節」ですが、この歌に出会うまでに3年もの間の長崎各地を巡る愛八と古賀の苦労がありました。ようやく雲仙の麓にある海辺の温泉町小浜を訪ね、92歳の芸者八重菊姐さんから「長崎ぶらぶら節」を聴きます。かつては長崎の花街で歌われ、誰もが知っていたのに、すっかり忘れさられてこの世から消える寸前だったのです。 その夜のこと、「歌の不思議たい。歌は英語でエアー、フランス語でエール、イタリア語でアリア、ドイツ語でアーリア、ポルトガル語でアリア。つまり空気のことたい。歌は眼に見えない精霊のごたるもんたい。大気をさ迷うていた長崎ぶらぶら節が今、うったちの胸に飛び込んできた。これをこんどうったちが吐きだせば、また誰かの胸の中に入り込む。その誰かが吐きだせば、また誰かの胸に忍びこむ。そうやって歌は永遠に空中に漂いつづける。これが歌の不思議でなくてなんであろう。」 古賀の話を聞いている上に、愛八は今こそ、長崎ぶらぶら節という死にかけていた歌が見る見る生気を取り戻していく様が鳥肌の立つほどに実感させられた。 同時に古賀は、この歌を大いに世に広めてほしいと歌探しの終わりを告げます。「おいとおうちのめぐり会いは恋というにはあまりに真面目くさくて色気のなかもんじゃったばってんか、一種の出会いには違いなかたいね」「………」 男女の恋にならなかったからこそ、その後「長崎ぶらぶら節」はレコード収録されて世に知られるようになるわけですね。序章と終章は愛八の命を賭けた支援で肺病から回復したお雪の語りがあり、哀切極まります。作品中の長崎言葉も耳に残り、当時の丸山に私を連れて行ってくれました。最後に長崎ぶらぶら節の一節を紹介します。ネットで動画もあるので検索してみてください。長崎名物紙鳶(はた)揚げ盆まつり秋はお諏訪のシャギリで氏子がぶうらぶらぶらりぶらりというたもんだいちゅう遊びに行くならか月か中の茶屋梅園裏門たたいて丸山ぶうらぶらぶらりぶらりというたもんだいちゅう では、SODEOKAさん、次よろしくお願いします。(2022・05・06・N/YAMAMOTO)追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目) (81日目~90日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.12.17
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100days100bookcovers no79 79日目幸田文「おとうと」(新潮文庫) DEGUTIさんが78日目、池内了の「物理学と神」を紹介されて、あっという間に三週間たってしまいました。語呂合わせで、すぐに思いついたのが養老孟司の「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)でした。 ちなみに、養老先生のご本は「ヒトの見方」「からだの見方」(それぞれ、ちくま文庫)から「唯脳論」(ちくま学芸文庫)、で、それらをまとめた趣の「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)、応用編の「身体の文学史」(新潮文庫)あたりまで、今でも面白いですね。最近では、亡くなった、ネコの「まる」の話や「虫」の話も書籍化されていますが、「考える人」(新潮社)に連載されていた「身体巡礼」・「骸骨巡礼」(ともに新潮文庫)が養老解剖学・身体論・歴史学の、最後のフィールドワークを思わせる好著だと思いました。写真も文章も素晴らしいと思います。 と、まあ、こんなふうに薀蓄を垂れるつもりだったのですが、「アメン父」(田中小実昌)から「神様」(川上弘美)、「物理学と神」(池内了)ときて、「ああ、またカミかよ!」と、ふと、気づいてしまった結果、「なんだかなあ…」という気分に襲われてしまって、とりあえず没にして、考え直しです。 で、思いついたのが幸田文「おとうと」(新潮文庫)というわけです。池内了って、池内兄弟の弟でしょ(笑)。 皆さんがよくご存知であるに違いない幸田文についてあれこれ言うのは、ちょっと気が引けますが、幸田露伴の娘、これまた名随筆「小石川の家」(講談社文庫)の青木玉の母で、その娘でエッセイスト(?)の青木菜緒が孫ということです。 幸田文は、一度は結婚したようですが、娘(たま)を連れて離婚し、父露伴の元で暮らしたひとです。1947年の父露伴の死後、父の身辺や自らの思い出を書いた随筆家として評判をとりますが、1955年「流れる」(新潮文庫)で新潮文学賞・芸術院賞を受け小説家として再デビューし、婦人公論に連載された「おとうと」(新潮文庫)は、小説としては2作目の作品のようです。 「げん」という女学校の学生とその三歳下の弟碧郎が、文筆家である父と、実母の死後、父が再婚した義理の母と暮らす日常が描かれている、おそらく作家の実生活をモデルに書かれたであろうと思われる作品です。 書き出しはこんな感じです。 太い川がながれている。川に沿って葉桜の土手が長く道をのべている。こまかい雨が川面にも桜の葉にも土手の砂利にも音もなく降りかかっている。ときどき川のほうから微かに風を吹き上げてくるので、雨と葉っぱは煽られて斜になるが、すぐ又まっすぐになる。ずっと見通すどてには点々と傘(からかさ)・洋傘(こうもり)が続いて、みな向こうむきに行く。朝はまだ早く、通学の学生と勤め人が村から町へ向けて出かけていくのである。(P5) 文庫版巻末の解説で、今となっては懐かしい文芸批評家、篠田一士が「思わず嘆声の出るような、素晴らしい描写である」と、ベタ褒めですが、続けてこんなことを言っています。 太い川が隅田川で、この土手が向島の土手でというような詮議はどうでもよろしい。いや、どうでもよろしいというよりも、読者にそういうことを決して許さないような文章の書き方がしてあるのだ。表面上は観察がよく行き届いたリアリスティックな描写をほどこしながら、その内側には、あえて童話的といってもいいほど、現実離れした、なつかしい情緒がなみなみと湛えられているのだ。だから、読者がもし現実還元したければ、わざわざ手元に東京地図など引き寄せる必要はなく、おのがじし、心の中に眠っているはずの、あの川や土手、さらに、あの四月の雨の朝の感覚を思い出せばいい。(P231) もう破格ですね。現在、どなたかの作品をこんなふうにほめることのできる批評家っているのかどうか、なんだか、幸せな時代を感じさせる批評です。 ぼくは、この作品を学生時代に読んで以来、その後、幸田文の作品群は評判に誘われてかなり読みました。で、結局そのなかで、この作品が一番好きです。 たとえば、上の引用の少し先はこんなふうな描写が続きます。 一町ほど先に、ことし中学に上がったばかりの弟が紺の制服の背中を見せて、これも早足にとっとと行く。新入生の少し長すぎる上著(うわぎ)へ、まだ手垢ずれていない白ズックの鞄吊りがはすにかかって、弟は傘なしで濡れている。腰のポケットへ手をつっこみ、上体をいくらか倒して、がむしゃらに歩いて行くのだが、その後ろ姿には、ねえさんにおいつかれちゃやりきれないと書いてある。げんはそれがなぜか承知している。弟は腹をたたているし癇癪お納めかねているし、そして情けなさを我慢して濡れて歩いているのだ。なまじっか姉になど優しくしてもらいたくないのだ。腹立ちっぽいものはかならずきかん気屋なのだ、きかん気のくせに弱虫に決まっている。― 碧郎のばかめ、おこらずになみに歩いて行け、と云いたいのだが、まさか大声を出すわけにもいかないから、その分大股にしてせっせと追いつこうとするのだが、弟はそれを知っていて、やけにぐいぐいと長ずぼんの脚をのばしている。げんも傘なしにひとしく濡れていた。だってそんなに急げば、たとえ傘はさしていても、まるでこちらから雨へつきあたって行くようなものだからだ。左手に持った教科書の包みも木綿の合羽の袖も、合羽からはみ出た袴の裾も、こまかい雨にじっとりと濡れていた。追いついて蛇の目を半分かけてやりたかった。(P6) いくらでも書き写すことができますが、これくらいにした方がいいでしょうね。ここまで、読みづらいスマホやPCの画面の文字を追って来てくれた人は、この後、どんなふうにこの少女が語り続けるのか、部屋のどこかの棚にこの文庫本はなかったのかと気がせくに違いないだろうというのがぼくの目論見ですが、そこは、まあ、人それぞれです。 ぼく自身は、今回読み直して、何故、一番好きだと思い込んでいたのか、その理由がはっきりわかりました。ぼくが「おとうと」だからですね。 篠田一士が「心の中に眠っているあの感覚」といっていますが、この作品は冒頭の数ページに限らず、読者自身の心の中に眠っている、懐かしくて、ちょっと哀しい感覚を掘り起こす力があるのではないでしょうか。 ところで、幸田文がこの作品を書いたのは、実は50歳を過ぎてからです。もしも、この作品が私小説的な実生活のモデル化の上に成り立っているとしても、30年以上も昔の出来事です。作品は、作家の記憶の世界というよりも、暮らした世界や家族に対する喜びや悲しみが作り出した作家の「こころの世界」の真実の描写だったのではないでしょうか。 ぼくには市川崑の映画のかすかな記憶がありますが、この作品を「原作」として何度も映像化されたことは、皆さんの方がよくご存じなのかもしれません。今回読み直してみて、なるほど、映像化したがる感じはよく分かるのですが、過去の記憶をたどって書いているはずなのですが、あくまでもシャキシャキとした文体で、だからこそでしょうか、どこから読んでも、ある懐かしさを喚起するのはやはり文章の力であって、そこを映像化するのは実はかなり難しいことではないかと感じました。幸田文さん、読み直して損はないと思うのですが、いかがでしょう。それではYAMAMOTOさん、次回よろしくね。2021・12・21・SIMAKUMAKUN追記2024・05・04 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.08.09
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100days100bookcovers No.76 (76日目)田中小実昌『ポロポロ』(中央公論社) すみません。9月4日のSimakumaさんのNo.76からずいぶん時間が経ってしまいました。今回作家は早くから決まっていたのに投稿が遅くなりました。 ハードボイルド、翻訳ものが取り上げられ、私も遅ればせながら何冊かを読み、DVDを借りて映画も観ていたところです。前回の田口俊樹についてのみなさんのコメントの中でたくさんの翻訳者の名前が出てきましたよね。 その中で繰り返し登場した田中小実昌(コミさん)に、ビビビときました。彼の名前や呉での生活、お父さんの独立教会のことなどは、先輩の先生が広島の研究誌に書いておられたんです。その時からずーっと気になっていたので、「これは作品をちゃんと読めということだな!」と勝手に納得しました。研究誌を読み直そうと思って書棚を探したのですがどこへ行ってしまったのやら…。 田中小実昌の人や作品についてはざっくりしか知らず、スティーブン・ハンターやチャンドラーの翻訳をしているとみなさんから名前があがり(3回も?)、「あらま!ここでも出会ってしまった!」 と勝手にご縁を感じたのです。別の本を複数冊読んでいる途中だったので、それらをようやく読み終えて図書館に本を借りに行ったのが9月14日。家の近くの古なじみのレトロ図書館が閉館し、車で15分ほどの中央図書館まで行くのが容易ではありません。大きくてそこそこ蔵書があるのですが、駐車場に停めて歩いて…という手間と物理的・心理的な距離感があり…。 あ、要らぬことばかり書いて失礼!そろそろ本題に…。 図書館で『ポロポロ』『アメン父』『新宿ゴールデン街の人たち』『コミさんほのぼの路線バス旅』の4冊借りて、『バス旅』以外の3冊を読み終えたところ。 毛糸で編んだ半円形の帽子、夏の半ズボンにサンダル履きというラフな格好、ユーモアのある飄々としたスタイルは有名ですね。東京大学文学部哲学科中退(除籍)、進駐軍での仕事の傍らの翻訳業、作家活動としては、「ミミのこと」「浪曲師朝日丸の話」(直木賞)や『ポロポロ』(谷崎潤一郎賞)その他。テレビや映画の出演以外に、香具師・バーテンダーなどの経歴も。海外滞在記も楽しい。今までのbookcoversでもそのような多彩な経歴を持つユニークな作家は何人も登場しているけれど、コミさんも負けず劣らずユニークで枠にはまらない。唯一無二の小説家、翻訳家、随筆家。そんな背景に『ポロポロ』に書かれた中国戦線従軍体験と『アメン父』に書かれた父の信仰があり…。 『ポロポロ』は表題作「ポロポロ」を含む「北川はぼくに」「岩塩の袋」「魚撃ち」「鏡の顔」「寝台の穴」「大尾のこと」の7つの連作。「ポロポロ」は異言ともいう、祈りの時に口からこぼれでたもの。瀬戸内海の軍港町(呉)の山の中腹に父がつくったどこの派にも属さない自分たちだけの教会(独立教会)は、キリスト教のシンボルともいえる十字架もなく、父や母、信仰を同じくする人たちが祈祷の時間に(その時間でなくても)ポロポロやる。世間の言葉で祈るわけではけっしてないのだ。《アーメンはもたない。たださずかり、受ける。もたないで、刻々にアーメン…。》 『アメン父』の中の次の箇所から、父をさしつらぬいているアメンが理解できるように思われる。教義や十字架でないものを表現するのは難しいので、コメントを入れながら逡巡し、何度も同じことが繰り返し書かれている。とにかくできるだけ父や父のアメンに近づこうとする試みなのだろう。 もっと根本的なことで、今まで、自分が信仰とおもっていたものが、はたして、ほんとに信仰なのだろうか、という疑問となやみだったのではないか。 そんなふうに、苦しみながら祈っているときに、父はポロポロがはじまったのだろう。それは、その瞬間、見よ、天は開け、なんていわゆる劇的なものだったのではあるまい。 『ポロポロ』での中国戦線の記述にも、コミさんが理解しようとした父のアメンと同じく、自分の戦争体験を言葉で表現しつくせなかったからか、「はたして、ほんとうなのだろうか」という問いが何度も出てくる。昭和19年12月24日ごろ、コミさんは山口の聯隊に19歳で入営した。徴兵年齢が1年繰り上げになり、ほとんど訓練なしで南京の城外にいれられる。 同じ部隊の道田がとつぜんおかしくなり、さけび声をあげ、仰向けにころがって、ばたぐるいしだす。南京脳炎による戦病死。小学校のときなかのよかった高橋、中学の同級生の谷口なども南京脳炎で死ぬ。同じ部隊の北川から聞いた「死んだ初年兵」のこと…これも繰り返される。 …海の底のうすあおい水のなかをおよぐようにノロ(シカみたいなウサギみたいな小動物)がとんでいき、そのあとに、ゆらゆら、細長いニンゲンが立っていて、それがこちらに近づき、発砲したら、たおれて、死んでいた…なにかの幻想か、夢のなかのできごとのようだというのでもあるまい。夢や幻想でなく、事実だもの。しかし、事実だからこそ、事実そんなことがおこっただけというのはわるいし、そういう言いかたには、なにかゴマカシがありそうだが、事実、そんなことが起こったのだ。しかし、どうして、北川はそのことをぼくにはなしたんだろう? コミさんはアメーバ赤痢にかかり、その後マラリアがおこったので隔離生活となり、終戦からまる1年後にようやく内地にかえってくる。その1年後東京で大学生活をしていた時に故郷の海水浴場で北川とぐうぜん再会た。その時北川は、ぽつりぽつり自分に撃たれて死んだ初年兵のことをはなした。 その後コミさんが「あの初年兵のこと」をあちこちではなすようになってたこといついて、次のように記述している。 ぼくは、あちこちで、あの初年兵のことをはなすようになってたのだ。八月十五日の夜、では、まだ終戦をしらず…といった調子で、撃った初年兵もぼく、胸の物入れに小枝の箸を挿して撃たれた初年兵も僕自身であるかのような思い入れで、ぼくはしゃべってた。 だが、こんな物語は、北川にはしゃべれない。あのとき、北川がぼくにはなしてくれたのとは内容がちがうというのではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。いや、それを内容にしてしまったのが、ぼくのウソだった。あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。 文章は平易でひらがなが多用されている。周辺の、というか人物や場所について、当時の行軍の非人間的なこと――たとえば行軍の途中たおれる者を何度も見たと。たいていうしろにひっくりかえるのは、重い背嚢を背負っているからなのだが、戦争も最後の方の初年兵は鉄砲も飯盒ももたされず、完全軍装の目方の半分もないという背嚢なのに…。 粘液便の下痢をする者がふえ、北川が撃った初年兵の冬袴のお尻が粘液便のせいでキャラメルでもくっついたみたいに、てらてら、かたくなっているように見えるとか…。当時の衛生や栄養事情、後方支給(兵站)の準備がない中で、命はなんと軽く扱われることか!政治とか歴史解釈には言及せず、自分の体験ましてマラリアなどの感染症で死んでもおかしくなかった状況だと想像されるコミさん自身の命さえも淡々と綴るのだ。 そして「物語にしてしまった」と述懐する。戦争や不条理な体験について小説であったり随筆であったり客観性の強い記録的なものであったりいろんな描写があるのだろうけれど、コミさんとその父に通じるスタイルとして、軽く飄々としているのだが、とにかく「はたしてそれが事実なのだろうか」と追究する姿勢が独特だ。「物語」は字のごとく、ものを語るということだけれど、それそのものを疑いながら記述するのはコミさんの哲学なのだろうか。そしてリアルに迫ってくる。 ひとのはじめとおわりに関与することなど、神のすることではないか。ぼくは、おこがましくも、神の名で、大尾の物語をかってにつくってしゃべっていたのだ。 父がすでにある宗教団体から出て、十字架をもたず、湧きあがることばをポロポロするように、ことばや描写を削ぎ落し、滅亡することなく追究するのは共通しているなと考える。 翻訳した作品も多いが、よく海外に滞在し、路線バスであちこち行かれたという。あと1冊図書館で借りた『コミさんほのぼの路線バスの旅』は日本国内のバス旅行。『新宿ゴールデン街の人たち』は、私が愛するゴールデン街の飲み屋を舞台にしたエッセイかと思ったら、こちらは海外旅行や滞在記が多く収められており、やはり路線バスに乗ってふらふらあちこちに行っている。私は青春切符のローカル線に揺られるのが大好きな、なんちゃって鉄女だけれど、路線バスの旅も面白そうで、しばらくコミさんの滋味に浸りたいものだ。 というわけで、お待たせした割にふがいない(いつも…)投稿ですが、SODEOKAさん、続きをお願いいたします。 今夜は中秋の名月の翌日、十六夜ですね。お月さま、見れるかな?2021・09・21・N・YAMAMOTO追記2024・04・25 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.06.29
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100days100bookcovers no69 69日目 庄野潤三『夕べの雲』(講談社文庫) お久しぶりです。このところ、ますますやることがおそくなり、目はみえにくいわ、ものは失くすわ、言葉がでてこないわ と健全に老化が進んでいるところに、野暮用が重なっていて、なかなかできなくて、すみませんでした。 KOBAYASIさんご紹介の、星野博美の『のりたまと煙突』は読んだことがないので、題名にゆかりあるものか、紹介文関連で探したいのですが、「海苔」「卵」「煙突」「銭湯」「猫」などなど。どれも家には見当たりません。常々、手持ちの本が少なくても、もっぱら近くの公立図書館を自分の本棚のように使わせてもらっているのに、緊急事態宣言期間ゆえ、今回は図書館本はあきらめます。 で、また、手持ちの本を無理やりにでも関連つけられないかとKOBAYASIさんの文章を読んでいたら、この一文にこじつけられるのではないかと思い至りました。<「内省」とはいくぶん異なるが、圧巻は「東伏見」だろう。まるで短編小説だ。> 『のりたまと煙突』って「短編小説のようなエッセイ」を含んでいるのですね。それなら、その逆で「エッセイのような小説」 はいかがでしょうか。うーん。苦しいこじつけですが。 大学を卒業して就職が決まらない頃に知り合いから勧められた本で、いつかこれをと思っていた本にします。 庄野潤三の『夕べの雲』(講談社文庫)です。 庄野潤三は<第三の新人>の一人ですが、不勉強なので、ほかの作品は読んでいません。(吉行淳之介の『夕暮れまで』は大ヒットしたときにYAMAMOTOさんから本をお借りして読みました。今さらですが、ありがとうございました。)教員採用試験前のオベンキョーにこれくらいは読んどいたほうがいいのかしらと、思って読み始めました。 ところが意外にも、試験の役に立つどころか、山の上に住む一家のたわいない日常生活が淡々と描かれていて、エッセイなのか小説なのかわからないような筆致でした。読後、穏やかな心持ちになれて大好きな作品にはなりました。いつかは、この小説の中の家族のように、植物のことを気にかけ続けるような生活がしたいなあと、心に刻まれた本になりました。植物好きが嵩じた一因かもしれません。 話は私自身のことになりますが、学校では「国語」よりも「生物」の方が好きだったのに、数学も物理も化学もダメで理系をあきらめて、当時は、女子は文学部でしょみたいな感じで大学は文学部に進んだけれど、クラブやサークルではせめて「園芸」をと思っていました。でもなかなか見つからなくて、やっと「ENGEI」というポスターを見つけてお部屋に行ったら、ひげもじゃの年齢不詳の男性がいて、ちょっと不気味だったけれど親切な応対で「ここは演芸で、園芸ではありません。」「園芸のことは分かりません。」と説明してくれました。それが中国文学の松浦さんだったとは、あとで知りました。その後とうとう「園芸サークル」を発見。集まりに出席したら、5名いらした先輩方はみなさん農学部の方で、(当然といえば当然ですが、それまで全然気が付きませんでした。中年になってから、その時に農学部に転学することを思いつくべきだったのに と思うことしきり です。)その日は夏休みの水やり当番を決める会議でした。肥料や薬など、聞きなれない言葉に、場違いな文学部生であることや、夏休みに水やりのためだけに片道2時間近くかけて通うなんて嫌気がして、次回の集まりで退会してしまいました。その後、学生時代に花屋で2年間アルバイトもしました。卒業後、非常勤講師をしながらも、教師よりも花屋になれたらいいな なんてことを思ったりもしていました。(花屋も、重い水桶を動かすから腰を痛めやすいし、花の持ちがいいように店は低温にしているので冷えるし、水や農薬で指は荒れっぱなし。 で 怠け者の私には無理ですが。) 『夕べの雲』に戻ります。今Wikipediaを調べて、読売文学賞を受賞している有名な本だったと改めて知りました。もとは新聞連載小説だったそうです。 昭和39年(1964年)9月から昭和40年(1965年)1月まで日本経済新聞夕刊に連載された小説で、同年3月に講談社が単行本化しています。同年の野間文学賞候補となり、翌年1966年には毎日文学賞候補、読売文学賞を受賞しています。私の持っている講談社の文庫本は昭和46年7月発行で第7刷。もう一冊講談社文芸文庫を夫が持っていました。それは、1988年4月第1刷発行で、2005年8月第28刷発行と奥付にありました。こんなに売れていたとは知りませんでした。 丘の上の一軒家で自然と親しみながら暮らす大浦家(中年夫婦と3人の子どもたち)の日常生活を描いた「家庭小説」です。普通なら、家族にふりかかる事件や家族間の確執が描かれて、その危機や葛藤あるいはそれを乗り越える展開が描かれるところですが、それら一切のない季節感豊かで理想的な家族の単調で幸せな「家庭小説」です。 『アンナ・カレーニナ』の冒頭「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は不幸なさまもそれぞれ違うものだ。」 を思い出します。「幸福な家庭」の物語は読者に読む気を起こさせないというのが常套でしょうが、どうしてこの単調な小説がこれほど売れたのか。それでも、今となってはもう読む気をそそらなくなっているのか。そんなことも気になりました。 その土地のことをよく知らないよそ者が丘の上に一軒家を建てるが(作中の大浦は作家庄野潤三の分身でしょう。庄野は大阪出身で、30歳で東京に転勤。40歳のときに、川崎市生田の「海抜90メートル」の山のてっぺんに転居しています。それから新展開の「家庭小説」を書くようになったと、小沼丹が文庫本の解説で書いています。今も「山の上の家」はあるそうですね?2019年までは年に一度一般公開もされているようです。)風が強くて、始終風よけになる木のことを気にしているといったたわいのない話とか、子どものこと、害虫のこと、など13篇まとめられています。ここに書かれているのは、季節と家族とその知り合いの話だけです。外の社会のことには触れられていません。周辺の多摩丘陵が一気に「開発」され、自然が失われていくことに多少触れられてはいますが、批判する気はなさそうです。無常観というのか、すべては変わっていく、失われていくといくものだ。だからこそ、失われゆくものを哀惜し、ユーモアをもって書き記していこうとしているように感じられます。 目次 萩 / 終りと始まり / ピアノの上 / コヨーテの歌 / 金木犀 / 大きな甕 / ムカデ / 山茶花 / 松のたんこぶ / 山芋 / 雷 / 期末テスト / 春蘭 巻頭の「萩」より一部抜き出してみます。風当りの強い家に引越した当座の困惑を他人事のような余裕とユーモアで書いています。 何しろ新しい彼等の家は丘の頂上にあるので、見晴らしもいいかわり、風当りも相当なものであった。360度そっくり見渡すことが出来るということは、東西南北、どっちの方角から風が吹いてきても、まともに彼等の家に当るわけで、隠れ場所というものがなかった。 前からこのあたりに住んでいる農家をみれば、どういう場所が人間が住むのにいいか、ひと目で分る。丘のいちばん上にいるような家はどこを探してもない。往還から引っ込んだところに丘や藪を背にして、いかにも風当りの心配なんかなさそうな、おだやかな様子で、彼等の藁葺の屋根が見える。 農家の人たちがそういう場所を選んで住んでいるということは、この人たちの先祖がみんなそうして来たことを物語っている。多分、それは人間が本能的にもっていた知恵なのであろう。丘がいいか、ふもとがいいかということで迷ったりする者はいなかったのだろう。 こういうことを大浦が考えるようになったのは、この家を建ててしまって、家族5人が引越して来て少し経ってからであった。今更どこへまた移ることが出来るだろう。キャンプをしているのではないのだから、ここで具合がよくないから、あっちは変ろうというわけにはゆかないのだ。 古代人が持っていた知恵を持ち合わせていないことが分って、大浦はがっかりした。これでは、古代人以下ということになる。 しかし、そんなことを恥じていても始まらないから、何とかこの家を大風で吹き飛ばされないようにしなくてはならない。自衛の手段を講じなくてはいけない。大風で、というのは台風のことで、それを大風でというのは、台風が来た時のことをあからさまに考えたくないからである。 家ごと空に舞い上がって、その中には寝間着をきた彼と細君と子供がいて、「やられた!」と叫んでいる。そういう場面を空想するのなら大風の方がよく似合う。台風では、そうはゆかない。 強い風に悩まされているのかいないのか、目線が自他や時代や状況をあちこち行き来するユーモア、それと、自然におかれた状況が理解できる文体が読みやすかったです。 また、周辺の人の描き方にも惹かれました。「大浦」が頼みにしている一徹な植木屋「小沢」の描き方も挙げてみます。ちょっと長くなりますが、落語のような対話です。「山芋」の一部より 大浦はどちらかというと、せっかちな人間であったが、小沢と話をしている間は、自分がせっかちであるということは暫く棚上げにした。何の木を植えたらいいか、相談をするには、暇がかかる。だが、結論を急いではならない。 こちらがほしがっている木でも、小沢は、「それはいい。それにしなさい」 とはいわなかった。そういってくれれば助かるのだが、決してそういわないのであった。まるで小沢のいうのを聞いていると、買わせまい、買わせまいとしているような話しぶりなのであった。 (中略)「夏蜜柑(の木)、ほしいですね」と細君がいった。「ああ、あれは、この辺では、どうですか。冬蜜柑は、寒がりますから、無理ですが、夏蜜柑の方も、やっぱり、この辺では苗木を育てるのが、無理、なようですね。うちでも前に買って、鉢に植えたのが、一本あったんですが、二年くらいは、まあ、育っていましたが、そのうち花が咲かなくなって、どうも、これが、到頭、駄目になっちまって、抜いてしまいました。あれは、育てるのになかなか辛抱の要る木で、一人前になるのは、五十年と言います」「それなら」と大浦はいった。「一人前になったころには、こっちがもういなくなってる」 みんな、一緒に笑った。 (中略) 紅梅の話が出ると、小沢はこんな風にいう。「どうも、紅梅は、大きいものは少なくて。あれは植替えが弱いんです。うちの紅梅も、年々小さくなってゆきます」 何だか心細いことをいう。それで、聞いている方では笑ってしまう。小沢も笑う。 (中略)「おかめ笹は、どうですか」と大浦の細君が尋ねる。「そう、あれも先から先へひろがるからね」 小沢がそういうと、おかめ笹は止めた方がいいという気持になる。「桃は?」と大浦がいうと、「桃も、あぶら虫がついちゃってね。」 (中略)「かりんっていうのは、どうですか」と大浦は尋ねた。「あれもねえ、えらい棘の木でね」 (中略) 小沢はおしまいに、「木はいろいろあるけれど、さてこんもりしたので手頃な、いい木となると、なかなかないもので」と言った。 そういうことをいわれると、せっかく意気込んでいる大浦は、がっかりしてしまう。この人は、植木が商売でありながら、なぜこっちの気分に水を差すようなことをいうのだろう。つい、そういいたくなる。 だが、小沢に植木を頼むようになってからもう三年になる。大浦や細君が「あの木、ほしい」 と思って、小沢も反対意見を述べないで、すっときまった木は、これまでにもう植えてしまってある。小沢が「手頃な、いい木がない」というのも、無理はなかった。 それに、何でも向こうでほしいというのなら、持って来て植えてしまえばいいという植木屋なら(そういう植木屋がいるか、どうかは知らない)、事は簡単であろう。小沢は、そうゆかないのであった。小沢は、自分がお金を出して買って、この家に植えるような気でいるのではないか。それで、「あの木はまずい、この木もまずい」といっては、思案しているのではないか。そんな気がするほどであった。 こんなふうに偶然の出来事や出会いを淡々と穏やかなおかしみをもってつづられています。ここでは書きませんが子どものことを書いているところも、とても細やかな慈しみが感じられます。そして、そこから大浦自身の子どものころを思い出して、丁寧に語ってゆきます。自分にとってもかけがえのない子どもの時代があったことを目の前の子どもによって思い出すことになり、再び記憶で経験します。 自分は「今」から「過去」を思い出すと同時に、子どものことを「未来」から「今」を見て、かけがえのない子どもの時代を慈しみ、「今」のできごとを書き記しているようです。「今」が過ぎ去ることを知っている大人が、未来からの目線で子どもたちの「今」を、かけがえのない偶然の重なる今を書き留めている感じがします。 たわいもない偶然こそが大事なことを知ってしまった大人の記録のような小説ではないでしょうか。それを感じさせるのが季節の廻り、植物や虫や天候や、時にはそのときのTV番組も。切なさを内に抱いて、過ぎ去る自然を楽しめる小説でした。 SIMAKUMAさん 御無沙汰しております。おあとをよろしくお願いいたします。E・DEGUTI・2021・05・31追記2024・04・01 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2022.04.05
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野呂邦暢「諫早菖蒲日記」(「野呂邦暢小説集成5」文遊社) 2021年の暮れごろに青来有一という作家の「爆心」(文春文庫)という作品を読んで、「長崎の作家って・・・」と考えてしまったのが始まりで、2022年はこの方で始まりました。 野呂邦暢(のろくにのぶ)です。ちょうど学生だった頃に「草のつるぎ」という作品で芥川賞をとった人ですが、京都大学の受験に失敗して自衛隊に入ったという経歴だけ覚えていました。 「草のつるぎ」はたしか・・・と探しましたが見つかりません。アマゾンとかで調べるととんでもない値段になっていて、図書館を調べると「野呂邦暢小説集成」(文遊社)が所蔵されていました。第五巻「諫早菖蒲日記・落城記」を借りだして読み始めました。 美しい装丁の本です。「小説集成」として集められているわけですから当たり前ですが、600ページを超えていて、かなり分厚い1冊です。 開巻、1行50文字、1ページ40行の密度で「諫早菖蒲日記」250ページです。一瞬たじろぎましたが、読みは始めてはまりました。まっさきに現れたのは黄色である。黄色の次に柿色が、その次に茶色が一定のへだたりをおいて続く。堤防の上に五つの点がならんだ。堤防は田圃のあぜにいる私の目と同じ高さである。点は羽をひろげた蝶のかたちに似ている。河口から朝の満ち潮にのってさかのぼってくる漁船の帆が、その上半分を堤防のへりにのぞかせているのである。ゆっくりとすべるように動く。朝は風が凪いでおり、さもなければ西の逆風が吹く。けさはいつになく東の風である。帆をはるのはめづらしいことだ。川岸に群れつどう漁師の身内どもが見える。先頭の船が帆柱にかかげた大漁旗をみとめてどよめいていることだろう。今しがた私が遠眼鏡で確かめたものである。舟付場に女子が近づくのはかたくいましめられている。去年までは私が舟溜りへおりて魚の水揚げを見物していても母上はだまっておられた。しかし、去年の暮、嘉永の御代が安政となりかわってからは、母上は何かにつけて口やかましく女子の心得を説かれる。十五歳といえば、男子なら元服する年齢である。いつまでもし志津は子供のつもりであってはならぬと申される。(P11) 語っているのは藤原志津、父は諫早藩という、幕末に進取の誉れの評判で名を残した佐賀藩の親類格とはいいながら、一万石に足りない小藩ではありますが、吉田流砲術師範藤原作平太、叔父は蘭学を学んだ藩医藤原雄斎という武家の娘です。 数えで十五歳、男の子なら志学ということで、元服ですが、女の子である志津は母親から大人の女性である心構えと立居振舞を躾けられながらも、生き生きと動き始めた心を抑えることができません。 漁師たちが働く船着き場に直接出かけることを15歳になったからということで禁じられている少女の「遠眼鏡」を手放すことができない好奇心、あるいは、子供であること、女であることを越え出ようとする、その年齢の生命の力を見事に描いた書き出しです。 この冒頭をお読みいただいただけでもお分かりだと思いますが、この小説の唯一の欠点は、この日記が、いつの時代であろうと15歳の人間によって書かれたとは信じがたい文章で書かれていることだと思います。 しかし、日記が語る書き手の姿は、悩みであれよろこびであれ、まさしく、みずみずしくさわやかで、15歳の少女そのものであるところに、この小説の書き手である野呂邦暢という夭逝した作家の並々ならぬ力量が躍如としていると思いました。 ゆっくり、時間をかけて読みすすめるにふさわしい作品だと思いましたが、中でも、この作品の中盤にあるホタルを巡る美しい描写の若々しさが印象に残りました。 佐賀藩の鍋島公の接待の席に、殿様から命じられたお役目で家中からお茶を点てる数人の、彼女と同年配の少女たちが呼び出され、無事お務めを果たした夜の日記の一部です。 それにしても私はいつ蛍を見たのであろう。茶道具をととのえるとき、少将様をお待ちしているとき、蛍など一匹も目に映じなかったようである。少将様が四面宮から慶巌寺へ移られたのち、私たちは道具をしまい、慰労として拝領した佐賀最中をふところに帰宅した。そのどこで蛍を私は見たのであろう。 淡い緑色の光を放つ点が、木立から草むらから漂い出し、墨色の闇をうずめる。綾様のえりくびで光る蛍もいたように思う。光る虫は宙にむらがり、ちらばるかと思えば一つによって、暗闇に大小さまざまな光をともしたかと思われた。きりもなく水面からわき出し、川辺を縦横無尽に飛びかい、水にそのかげをうつした。 帰ってから私は母上に少将様のご様子を申し上げることかなわなかった。おぼえているのは川原のそこかしこで息づくように点滅している青みがかった微光のかたまりのみである。お叱りをこうむらなかったのであるから、手落ちはなかったと思う。かりにいささかの手落ちがあっても、ほしいままに見た蛍どもの景観にくらべたらそれがなんであろう。私は青緑色に輝く光のなだれを全身であびたように感じた。母上は私がいただいた佐賀最中を仏壇にそなえられた。(P143~144) お上や大人たちが、家中の少女たちの大人の世界への顔見世として、その場をあつらえ、期待を込めて美しい着物を着せられ、化粧を施されてその場にいることは百も承知しているのです。しかし「少女」であり「娘」でもある視線は、緑色に点滅し、群がる「ホタル」の淡い美しい光を捉え、その光の明滅する淡々しい世界へ彷徨いこむかのように捉えられながらも、やがて我に返ってきて、頂き物の最中に思いを戻してゆく描写です。 いかがでしょう。初めて大人として振る舞うことを求められた少女の不安と、しくじらずに切り抜け、できれば評判をとりたい娘の緊張とともに、そこはかとなくユーモアまで漂わせている周到さで、思わず微笑みたくなる文章作法だと思いました。これは、とても15歳の少女の技ではありませんが、読み手を堪能させるには十分といって過言ではないでしょう。 小説作品の好みは人それぞれではありますが、群を抜いた傑作だと思いました。ただ、難点は著作集以外には、高価な古本しか入手方法がないことです。ある図書館にはあるようです(笑)。とりわけ、歴史小説のお好きな方には是非一度お読みいただきたいと思った作家でした。
2022.01.31
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堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿「時代の風音」(UPU・朝日文庫) 先だって、堀田百合子さんの「ただの文士」(岩波書店)を案内しましたが、ついでと言ったらなんですが、堀田善衛入門の1冊としては、こんな本もありますよね、と思い出したのがこの本です。 堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿「時代の風音」(UPU・朝日文芸文庫) 実はこの本は、すでに朝日文庫に入っていて、入ってから25年経つ古い本です。1992年に元の単行本が出版された本ですから、今年、2022年でちょうど30年前の本ということです。 文庫の表紙カバーは朝日文庫の定番ですが、単行本はカバーが宮崎駿が描いた海賊船の、マンガ風のイラストで、これがとてもいいと思います。どちらにしても古本でお読みになるなら、値段は大差ありません、表紙がステキな単行本を選んだ方がいいんじゃないでしょうか。 思わず、言わずもがなですね。昨今の風潮では、読んだ後の「書籍」はごみ扱いですから、まあ、買うということからしてあり得ないのかもしれませんが(笑)。 さて、この対談、三人ですから鼎談ですが、の当時、宮崎駿は「紅の豚」を完成させて、いったんジブリを離れていた時期のようです。ヒマだったのでしょうね、会いたい人と会っておしゃべりをしているのですが、宮崎駿の堀田びいきは筋金入りのようで、あこがれの人にあってうれしくてたまらない少年の雰囲気が本全体にあります。 もしもお読みになれば感じられると思いますが、鼎談とはいいながら、宮崎駿にとって、彼の意識の上でも、それぞれの作家の実力の上でも、相手がすごかったのですね、いや、すごすぎたというべきでしょうか。博覧強記の権化のような司馬遼太郎と、1930年代の上海を知っていて ― これがまずスゴイ ― ヨーロッパで暮らしながら「藤原定家」や「ゴヤ」、「モンテーニュ」の伝記を書いた堀田善衛です。語り合いのなかでは、全く勝負にならない小僧っ子として宮崎駿が聞き役でした。 振り返ってみれば司馬遼太郎が1990年、堀田善衛が1998年、ともに鬼籍に入り、20年以上の年月が経ちました。司馬遼太郎が対談した本としては、ほとんど最後の本だと思います。彼も、堀田善衛と会ってのんびり話していることが楽しくてしようがない雰囲気です。ひょっとしたら遺言といってもいい「声」が残されているのかもしれません。 宮崎駿にしても、この後、ディズニーと組んで世界征服するジブリの経営はともかく、この対談の話題の中に「物の怪」の話も出てくるのですが、「もののけ姫」から2020年代に至る、その後の宮崎駿を考えると、彼自身の時代の証言というか、その時、彼は何を考えていたのかということを感じさせるという意味でも面白い記録です。 話題は多岐にわたるのですが、30年たって振り返ると、三人三様に、実にまともな状況認識だったことに感嘆!します。 まあ、とりあえずぼくとしては、正直、堀田善衛に再入門しようかなという感じですね。 お若いみなさんも、このあたりから始められたらどうでしょうか。たとえば、ジブリのファンの方が、堀田善衛の社会時評や評伝、司馬遼太郎の「街道をゆく」(朝日文庫)のシリーズをはじめとした歴史評論の世界をお読みになれば、宮崎駿の「マンガの世界」が、実の歴史や社会と結構、地続きで構想されているらしいという面白さにも会えるような気がします。 対談集で、おしゃべりしあっている本ですから、読みやすいですよ。いかがでしょう。
2022.01.21
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堀田百合子「ただの文士」(岩波書店) 今日は2022年の1月17日です。神戸の震災の「思い出(?)」はいろいろありますが、あのあと、職場の同僚の数人で始めた「小説を読む会」が今でも続いています。 なんで、そんなことを始めたのかといえば、忙しかったからです。土曜、日曜にクラブ活動の「指導(?)」とかで出勤することが当たり前の職場でした。 「あっ、その日はだめです。ベンキョー会があります。」 とか、なんとか、そんな言い訳のいえる日を作りたかったというのが、ぼくの本音でした。 で、その会の今月の課題が堀田善衛の「方丈記私記」(ちくま文庫)なのです。はじめからのメンバーの一人が提案なさいました。20数年、作家の数でいえば、年に20人ほど、合計すれば500人ほどの「作家」の著作を読んできたのですが、そういえば堀田善衛って読んだことがありませんでした。 推薦なさった方は、最近「めぐり合いし人びと」(集英社文庫)をお読みになって提案されたようです。サルトルとかネルーとかいう人との出会いも出てくる、作家の晩年、1990年ころに書かれた回想集です。その本に対して「方丈記私記」は70年ころの著作です。 堀田善衛といえば、押しも押されぬ戦後文学、第二次戦後派の巨星ですが、「方丈記私記」は芥川賞受賞作の「広場の孤独」、「審判」・「海鳴りの底から」などの初期(?)、1950年代~60年代の小説群のあと、70年代の「ゴヤ」に始まる評伝の大作群の仕事の入り口で書かれた中期の傑作で、のちの大作「定家明月記私抄」 (ちくま学芸文庫)の肩慣らしのようなところもある作品ですが、いわば堀田版「鴨長明論」ともいうべき評論だったなあという、ちょっとあやふやな記憶が浮かんできましたが、そのとき、ふと、思いました。「若い人たちは、そもそも堀田善衛とかご存じなのだろうか?」 まあ、大きなお世話なわけで、お読みになって興味をお持ちになれば、他の作品も、というふうでいいわけですが、なんだか妙な老爺心が浮かんできてしまって、「ああ、あれがいい、あれを案内しよう」 と思ったのがこの本です。 堀田百合子「ただの文士」(岩波書店)ですね。 何かの雑誌の連載なのか、書下ろしなのかはよくわかりませんが、1998年に亡くなった堀田善衛のお嬢さんである堀田百合子さんが、最後の日々には「センセイ」とお呼になるようになった父上のことを、その記憶の始まりからを思い出して書いていらっしゃるエッセイ集です。 変な言い草ですが、読んでいて便利なのは日時を追ってエピソードが語られ、エピソードに合わせて、その当時の作品が、堀田百合子さんによって読み直されているところです。 目次はこんな感じです。 目次「サルトルさんの墓」「芥川賞と火事」「モスラの子と脱走兵」「ゴヤさんと武田先生の死」「スペインへの回想航海」「アンドリンでの再起」「埃のプラド美術館」「夢と現実のグラナダ」「バルセロナの定家さん」「半ばお別れ」 1949年生まれの百合子さんの思い出が彼女自身の記憶としてくっきりとしてとしてくるのが「モスラのこと脱走兵」のあたりからで、百合子さんが小学生のころのことです。一九六一年。「三十余年の眠りから醒め 蘇る幻の原作!」「えッ、この3人が原作者?安保闘争の熱気さめやらぬなか、戦後文学をだ評する3人の作家たちが、新しい大怪獣つくりにいどんだリレー小説。知る人ぞ知る、映画「モスラ」幻の原作、初の単行本化。遊び心と批評精神あふれる想像力の世界」これは1994年に筑摩書房から出版された「発光妖精モスラ」の、何とも大げさな帯の文章です。初出は1961年の「週刊朝日別冊」、中村真一郎氏、福永武彦氏、堀田善衛、3人の合作小説(?)です。映画になりました。砧の東宝の撮影所に、父と見学に行きました。中村先生、福永先生もご一緒でした。モスラが撮影所の真ん中にどーんと鎮座していました。モスラくんは大きな芋虫もどき、ゴジラより私は好きでした。七月、「モスラ」は全国の映画館で封切られ、なかなかの人気でした。夏休みが明け、学校に行くと、休み時間にどこからともなく、「モスラーヤ、モスラー」という歌が聞こえてきます。私は穴があったら入りたかった。この原作に父も加わっていることを友達に知られたくなかった。この映画が、いかに、どのような意味がこめられていようとも、そんなことは子供にわかるはずがないのです。子供社会は難しい。モスラの子(?)などと、絶対に言われたくなかった。(P43) ちなみに、「方丈記私記」の話は一九七一年、ぼくにとって長年、懸案になっている「ゴヤ」の話題が出てくるのは一九七二年です。 一九七二年前半のころ、「朝日ジャーナル」誌より、翌73年からの連載の依頼がありました。「ゴヤ」です。父は、まだ早い、まだ取材が済んでいない、まだ見なければならない絵がたくさんある、と言って連載の依頼をいったん断りました。母は言います。 「来年は五五歳にになる。「ゴヤ」を書くには体力がいる。今、始めなければ、もう書けない。残りの取材は書きながらすればいい」と、父のお尻を叩きました。父は色よい返事をしないまま、七三年六月にA・A作家会議常設事務局会議に出席するためにモスクワへ出かけました。帰国後、父は言います。「来年からゴヤをやることにする。モスクワからの帰りがけ、パリとマドリードへ寄った。何とかなるだろう。半年連載して、半年休み。その間に次の取材をする」大仕事を開始するときに、父は家族に向かって一大宣言をするのが慣わしでした。そして最後に、「よろしく頼む」と言うのです。「ゴヤ」のときはもう一言ありました。「取材費はすべてこちら持ち。朝日には頼まない。それで手枷、足枷がつくのはご免だ」「今までさんざん自前でやってきたじゃないの」と、母は笑っていました。 この後、母は「ゴヤ」執筆に父が専念できるよう、父の前に立ちはだかりました。編集者の方々は、母の関門を突破しないと、父に原稿の依頼ができません。父が電話に出ることはめったにありませんでしたから。出版界で噂されていたそうです。「披露山のライオン」と・・・・・。(P77) と、まあ、こんな感じなのですが、それぞれのトピックは「モスラ」の話であれば、ベトナム戦争に従軍するアメリカの脱走兵をかくまう話とか、「ゴヤ」であれば、親友武田泰淳の死であるとかと重ねて思い出されています。そこに、堀田善衛という作家の社会や歴史に対する基本姿勢のようなものが浮かび上がってきて、ぼくには印象深い話になっていました。 もちろん、最後は晩年の堀田善衛の姿が描かれるわけですが、東京大空襲から25年たって「方丈記私記」を書いた作家が、その後、ナポレオン戦争の「ゴヤ」(集英社文庫・全4巻)、「紅旗征戎非吾」の「定家明月記私抄 」(ちくま学芸文庫上・下」)をへて、「エセー全6巻」(岩波文庫)のミシェル・ド・モンテーニュの肖像「ミッシェル 城館の人」(集英社文庫・全3巻)の大仕事の話題がこの思い出の後半のメインです。 で、ぼくの老爺心の本音は、「せっかく、堀田善衛を読むなら、ここまで付き合ってあげてね!」 とでもいうべきものです。テレビのグルメ番組のようなことをいってますが、若い読書グルメの皆さんが、前菜「方丈記私記」に続けて用意されている、メインディッシュに気づいて頂きたい一心の案内でした。 まあ、腹いっぱいどころではすまない量ですがね(笑)。
2022.01.17
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100days100bookcovers 番外 幸田文「父・こんなこと」(新潮文庫) 幸田文の「おとうと」を棚から引き出すと、自身のことを書いた「みそっかす」と雁首をそろえるようにして出て来たもう一冊が「父・こんなこと」という新潮文庫でした。 父、幸田露伴の最晩年の姿を、婚家から孫娘を連れて実家に戻って20年近くともに暮らした、出戻りの娘が書いています。彼女は50近くになって父を看取り、初めて人前に出す文章を書いたはずですが、とても素人の文章とは思えません。 今でこそ幸田文は戦後文学に、余人には及び難い独特な位置を占める作家です。これがデビュー作か!? とうなりますが、文豪幸田露伴の死に際して彼女に書かせた編集者がいたことの幸運! をつくづくとかみしめるかの読書でした。 父はその報告を聴いていたが、にこにこと機嫌よく、おまえは私の葬式がどういうようになると思っているかと訊いた。機会である。子の方からやたらには切り出せない事柄である。狡猾さを気にしながら問を以て答えとした。「どんな風にするのかしら。」「おまえがきょう見て来たものとは凡そ違うものなのさ。溢れるほどに人が来るなんて思っていれば見当違いだ。」と云って笑い、「明の太祖の昔話にあるじゃないか。棺桶も買えない貧乏な兄弟がおやじさんを明き樽に入れて、さし荷いでとぼとぼ行く途中の石ころ道に、吊った縄は断れる、仏様はころがり出す、しかたがないから一人が縄を取りに帰ったなんていうのは、いくらなんでもあんまり厄介過ぎるから、まあ住んでいる処の近処並に極あっさりとやっといてくれりゃそれでいいよ。おまえには気の毒だがうちは貧乏だ、わたしの弔いのためにおまえが大骨折って金を集めたり、気を遣ったりして尽くしてくれることはいらない。傷むなと云ったっておまえは子だから傷むにきまっている、それで沢山なんだよ。」なごやかな心で柔かく話す時の父の調子、まったくいいものであった。よその父親は如何に娘に話すか知らないが、こういう時の父は天下一品のおやじだと思っている。どこのおとうさんととりかえるのもいやだと思う。だから叱られて泣く時にはたまらないが、思い出して我慢するのである。(P82~P83) 知人の葬式に、娘の幸田文を名代として参列させ、帰ってきた娘の報告を聞きながら、自らの葬儀について語る露伴の姿が思い浮かぶような文章ですね。 父を慕う娘の素直さがなんの厚かましさもなく表れて、文豪の素顔と幸田家の日々の暮らしのあたたかさがこころのやり取りとして見えてくるようです。 続けて、その娘が父を看取り、送るのは自分の仕事だと決意したのはあの時だったことが記されています。 私が、父の葬儀は自分一人でしなくてはなるまいと思い込んだのは二十三の秋、たった一人の弟をなくしての通夜の晩に、花環のある部屋で杯を放さぬ父の姿を見て、しみじみ寂しかった、その時にはじまる。父もまだ元気で、頸から肩へよい肉づきを見せてい、私も若くむちゃくちゃで、ただおとうさんの時は文子がするとだけで、ほかには何も思わなかった。 「おとうさんの時は文子がする」という子供の言葉に弟に対するこころの奥底の哀しみと、父へのいたわりが響いています。 早耳な国葬云々の話が聞こえた。いあわせた下村さんに訊いた。「勝手にしていいの?」「え?」「お受けするようにきまっていることなの?」野太い声が笑って、「あなたの好きなようでいいんですよ。」父はそんなことを話さなかった。文子がお弔いをすることと思っていた。私もそう思っていた。松の多い、苺のできるこの土地、雨風を凌いだこの家には一年有余の馴染がある。国葬は栄誉なことであるが、私がするなら、借りた伽藍より、ここから父を送ることはあたりまえであった。 「おとうさんの時は文子がする」という小さな気構えを支えに父の最後を看取り、送ろうと生きてきた娘には、思いもよらなかった文豪幸田露伴の死をめぐる世間の大騒ぎです。それ相応に年月も重ねてきた娘が、そんな世間を相手に、もう一度「若くむちゃくちゃ」な気持ちに立ち返る姿に、幸田文という人の本領があるのでしょうね。 その当時の世間を思えば並大抵の決意ではなかったでしょうが、家族を送るという誰しもが出会う人生の時への見事な身の処しかたが、障子の桟の拭きかたを語るかのように語られているところが幸田文の文章だと思います。 日常の小さな思い出が書かれてる1冊ですが、それにしても、初めて彼女の原稿を受け取り、目を通した編集者はうれしかったでしょうね。 永遠に古びない「娘」の気持ち 読んでみませんか。
2022.01.03
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週刊 読書案内 幸田文「みそっかす」(岩波文庫) はじまり 明治三十七年九月一日。暴風雨(あらし)のさなかに私が生まれたという。命名の書には忠文とだけ。第一子は母体を離れぬうちに空しくなったが、これは男子であったそうな。位牌には夢幻童子とあった。第二子は女、歌という。父は三子に男を欲していたという。そこへ私が出て来たのである。(P9) 先日、順番が回ってきた「100days100bookcovers」で幸田文の「おとうと」(新潮文庫)を紹介しようと引っ張り出すと、書棚の隣に並んで立っていたこの文庫が一緒に出てきました。やたらとタバコをふかす部屋の本たちの悲惨は、今更いうまでもないことなのですが、「おとうと」と肩を並べていた三冊の本が一緒に引き出されて来たのでした。 貼りつき合っていたのは新潮文庫版の「おとうと」、「父・こんなこと」、そして、この、岩波文庫「みそっかす」でした。要するに長年の煙草のヤニに貼り付けられて、さわられもせずに立たされていた薄汚れた三冊なのですが、久々に人の手に触れて、「我も我も」と日の目を求めて出てきたというわけです。なんだか「あわれ」を感じ、とりあえずティッシュで拭い、開いて読み始めました。 出版の記録は1951年となっていますが、昭和24年、1949年に書かれた作品です。幸田文が「文章家(?)」になった、最初期の作品の一つで、彼女の出生から小学校の卒業までの生活を綴った随筆ということになっていますが、「自伝小説」 というほうがいいかもしれません。 上の引用は作品の冒頭ですが、こんな記述が続きます。 恵まれた子を喜ばぬということはもちろんあり得ないけれど、男子を待ち望んだ心には当て外れの淋しさがあったのだろう。産褥の枕もとから立ちあがる父と入れかわりに、葛湯をすすめに行った下婢おもとは、母がほろほろと涙を流しているのを見、「女だって好い児になれ、女だって好い児になれ」と繰り返しているのを聞いたという。お産につかれて敏感になった女心が、すぐに父の張り合いない淋しさを映して、続けて女の子を二人生んだという理由のない間のわるさに涙したものであろうか、あわれに思いやられる。(P9~P10) 生まれてきた女の子が幸田文自身なのですが、これが幸田文! とでもいうべき筆運びだと思いました。描写の対象との距離の取り方が絶妙で見事なものです。 ついでなので、最後の「卒業」の章を写してみます。 卒業 上の学校へ行くものは級の三分の一に満たず、男生徒も半数はなかったのである。入学試験のための特別学習などということも、大したことはなかった。妙なことに卒業が間近くなると、男女生徒のいがみ合いをぱたっととまった。学業を続けるもの、家事にとどまるもの、働きに出るもの、めいめいそのもの同士が極々自然に少しずつ寄り合い、少しずつだんだんに話しあい、相通うものをほのかに感じつつ、なんとなく残り惜しみつつ、やがてさよならをいう卒業式になった。みんないい着物を着て来、おとなしくして騒がない。父兄も大勢来たが、私の父もははも来なかった。校長、村長の、訓辞・祝辞あたりから、みんなめそめそ泣きだし、男の子のないてるのもある。が、私はちっとも悲しくならない。泣かなくては悪いとおもったが泣けなかった。同し土地にこうして知りあって住んでいるものが、なんで別れなどということになるのだか、どうしてもわからなかった。小学六年間の友達が、その後三十年四十年と消息しあうということは、実際あまりない珍しい話なのである。現に私の経験は、百名に近い同級男女のうち大部分のものに、その後一度も相会わないのである。このままでいずれは知らず死んでいくのだろう。かりそめの別れは、ついの別れにつづく。大切な時に釘が一本脱けている私の根性というものは、しょうがないものである。(P205) 明治37年、1904年生まれの幸田文の小学校の卒業式といえば大正時代のことで、今から100年以上も前のことですが、小学校を出ると、もう、働きに出るというあたりが今とは全く違います。 戦後生まれのぼくたちの感覚では中学校までが義務教育ですから、この卒業式の感覚は昭和の子供たちにとっては中学校の卒業式の感覚に近いのですが、現代の二十代、三十代の方であれば、高校の卒業式といってもいいかもしれません。 この後、幸田文の小学校の卒業式の話は続きます。はたして文ちゃんは泣いたのでしょうか? というところで、紹介を終えようかとも思ったのですが、とりあえず、最後まで紹介します。 免状の授与になった。みんなが泣くのをやめて伸びあがった。私は総代になれなかった。が、それもさして気にはならず、なぜなら先生に帳面を見せてもらって、ほとんどの順位をずっとまえから知っていたので詰まらなかったのである。式は終わりに近く、卒業生は「仰げば尊し」をうたうのである。泣きぬれて歌えない子もいた。女生徒がそんな風なので、男性とは歌のテンポをおそろしく伸ばしはじめ、オルガンにははるかに外れて、まことにぶざまな合唱である。「身を立て名をあげ、やよ励めよ。」突如、私はどっと襲われた。身を立て!名をあげ!二宮尊徳だ、塙保己一だ、ああなんということだろう。どうして身を立てることなんて私にできるもんか。勤倹力行とか刻苦勉励とかなんていうのは私は大嫌いだった、窮屈で苦手だった。卒業式だというのに、まだ「身を立て名をあげ」の宿題がのこっているとは、どういうわけだろう、できるはずもないのに。それでは到底この学校へは二度と遊びには来られない、と思ってはじめて別離の感が身をつつみ、はげしく泣き、「いざさらば」と唱った。(昭和二十四年二月)(P205~P207) いかがでしょうか。自らの小学生時代の出来事を40年後に振り返っている文章ですから、当然、「事実そのまま」というわけにはいかないでしょうし、いくばくかの記憶捏造も加わっているに違いないわけですが、こうして書き写していて、面白くてしようがないような文章ですね。 最後の「どっと」来て、その後の内心に対する書き込みがあって、「はげしく泣く」結末までの「間」なんて、何とも言えないですね。 今、「自分」のことを書くにあたって、どうしてもゆずりたくないものが、確かにある幸田文の「根性」が躍如としていると思うのですが、いかがでしょう。 全編にみなぎるのは、その「こだわり」です。普通、そういう文章は読んでいて肩が凝りそうなのですが、凝らないのが彼女の文章の特徴です。 おそらく、対象を見る「視点の高さ(?)」にその秘密があるように思うのですが、「視点の高さってなんやねん?」には上手に答えられません。この作品は自分が相手ですが、自嘲でも、自負や気負いでもない位置から見ている感じですね。できそうで、できないポジション取りだとぼくは思いました。
2021.12.22
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週刊 読書案内 加賀乙彦「日本の10大小説」(ちくま学芸文庫・1996年刊 かつて、イギリスの作家サマセット・モームが「世界の十大小説」(岩波文庫)というエッセイで選んだ作品をご存知でしょうか。ヘンリー・フィールディング「トム・ジョーンズ」(1749)ジェイン・オースティン「高慢と偏見」(1813)スタンダール「赤と黒」(1830)オノレ・ド・バルザック「ゴリオ爺さん」(1835)チャールズ・ディッケンズ「デイヴィッド・コパフィールド」(1850)ギュスターヴ・フロベール「ボヴァリー夫人」(1856)ハーマン・メルヴィル「白鯨」(1851)エミリー・ブロンテ「嵐が丘」(1847)フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(1879)レフ・トルストイ「戦争と平和」(1869) と、まあ堂々たる10作ですが、1954年現在の選択なので世界の「近代文学ベスト10」というおもむきですが、今、成立年代を見直すと、ほとんどが、日本なら「江戸時代」の作品であることに、ちょっと驚きました。 まあ、日本人では亡くなって久しい博覧強記の批評家、篠田一士が「二十世紀の十大小説」、最近では、河出書房新社の「世界文学全集」を編集した池澤夏樹が「現代世界の十大小説」を選んでいますが、池澤のラインアップのなかには石牟礼道子の「苦海浄土」が入っていて話題になりました。 今日は、世界のじゃなくて加賀乙彦の「日本の10大小説」(ちくま学芸文庫)の案内です。 加賀乙彦は、もともとは精神科の医者で、フランスの精神病院を描いた「フランドルの冬」(新潮文庫)とか、死刑囚を描いた「宣告」(新潮文庫)で有名な作家です。本書をお読みになっていただければご理解いただけると思いますが、とてもオーソドックスな批評の書き手でもあります。 で、こちらが加賀乙彦流「日本の10大小説」というわけです。「愛の不可能性」―夏目漱石『明暗』「女の孤独と聖性」―有島武郎『或る女』「故郷と山と狂気」―島崎藤村『夜明け前』「愛と超越の世界」―志賀直哉『暗夜行路』「四季をめぐる円環の時間」―谷崎潤一郎『細雪』「愛と戦争の構図」―野上弥生子『迷路』「根源へ向う強靱な思惟」―武田泰淳『富士』「暗黒と罪の意識」―福永武彦『死の島』「人間の悲惨と栄光」―大岡昇平『レイテ戦記』「魂の文学の誕生」―大江健三郎『燃えあがる緑の木』 有島武郎、武田泰淳、そして大岡昇平が選ばれているのがうれしいのですが、特に大岡昇平の「レイテ戦記」を、ノンフィクションの「戦記」としてではなく「小説」として選んでいる見識が光っていると思います。 第1章から10章まで、それぞれの章が、作家や作品の紹介にとどまらない、論拠が明確でオーソドックスな文芸批評であるところが、この本の優れているところで読みごたえがありますが、第9章、「レイテ戦記」については、こんなふうに語っています。 多くの戦記は体験者の記憶だけに依存したり、通り一遍の文献調査だけで書き上げられているが、そのような安易な記録法では、記憶違い、自己の正当化、他人への過小評価、出来事の誤解などの、錯誤や意図的操作が入り込んでくる。大岡昇平の言葉で言えば、「旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語」になりがちなのである。彼は、既成の戦記を徹底的に批判し吟味し、日本側の膨大な資料だけでなく、アメリカ側の資料も広く渉猟して、実際の戦闘がどのように起こったかを、とことん突き詰める努力をした。例えば敗軍の参謀の手記には、自分の作戦の欠陥を軽くするために第一線の将士の戦いぶりの拙劣さを糾弾したり、アメリカの公刊戦史には、勝利を誇張するために、遭遇した日本軍の戦力を課題に記録する傾向があり、こういうウソを、大岡は、粘り強い読解と比較と推理とで見破る、事実を示そうとする。 《中略》 ここでいう事実とは、ある個人が、自分の体験を記憶によって変形させる前の、裸で生な、言ってみれば赤裸な真実である。これは事実を描くノンフィクションに属する作品であるが、しかしノンフィクションで洗い出された事実は、事実であると認定する瞬間に、作者の推理力経験や趣味がするりと入り込むのであって、結局、作者が「これこそが真実だと思う」出来事にすぎない。それは、人間の真実を描くための想像力を駆使して捜索するフィクションと人間の真実という一点で相通じている。(「人間の悲惨と栄光」P231~232) この加賀乙彦の解説を読みながら気づいたことですが、「レイテ戦記」(中公文庫)を書き終えた大岡昇平は裁判における事実の認定をめぐる疑惑を描いた「事件」(新潮文庫)で推理作家協会賞を受賞しますが、戦場の「真実」にたどり着こうとした作家の苦闘を、「法廷小説」として推理小説化した傑作だったといっていいのではないでしょうか。 「レイテ戦記」は、お勧めするにはあまりにも長いので気が引けますが、「事件」のほうはすんなり読めていいかもしれません。 いや、今回は加賀乙彦の「宣告(上・中・下)」(新潮文庫)をお勧めするのが筋かな。いや、これはやっぱり長すぎるかな?(笑)追記2023・01・17 加賀乙彦さんの訃報をネット上に見つけました。2023年、1月12日、93歳だったそうです。このブログでは、手に取りやすい「日本の10大小説」(ちくま学芸文庫)を案内していますが、小説作品は「フランドルの冬(上・下)」(新潮文庫)以来、精神科医であったお仕事での経験や、陸軍幼年学校での体験をもとにした、重厚で誠実な印象の作風で、どこかで読み直したいと思っている作家でした。 訃報を知ったのが、偶然ですが、1月17日でしたが、神戸の地震があった時、同じ精神科の医師である中井久夫さんたちの現地での奮闘を支援し続けた医師のお名前の中に加賀乙彦、本名小木貞孝さんのお名前を、中井久夫さんのどの著書であったかよく覚えていませんが、見つけたことを印象深く覚えています。ご冥福を祈ります。 それにしても、また、一人いなくなった。そんな喪失感が続く今日この頃です。
2021.11.08
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週刊 読書案内 耕治人「天井から降る哀しい音」 (講談社文芸文庫) 講談社文芸文庫に「一条の光・天井から降る哀しい音」という耕治人という作家の短編集があります。特に、最晩年の妻との暮らしを書いた「天井から降る哀しい音」、「どんなご縁で」、「そうかもしれない」は、「命終三部作」と呼ばれているそうですが、最近、60代の後半になって読み返して、他人事ではなくなっていることに、ちょっとビビりました。 もっとも、これを書いた時に、作家耕治人は80歳くらいですから、何がかは分かりませんが、まだ、大丈夫です。 今回は「天井から降る哀しい音」の案内です。 台所と六畳の部屋のあいだに板の間があって、テーブルを隔て、二つの椅子が向かい合っている。そのテーブルで食事をとるが、新聞を読んだり、原稿をかいたりすることもある。 今年の夏は何十年ぶりの暑さというが、九月に入っても残暑はきびしく。昼頃になると、額にあぶら汗がにじみ出た。クーラーが故障して、使えなくなったせいもある。ところがその日は前日までの暑さが嘘のように秋を感じさせるようなさわやかな風が、朝から吹いた。「あと五日すると敬老の日だね。いろいろ行事があるようだ。今朝の新聞に出ていた。 昼食のあとで、狭い庭の方へ眼をやりながら、そんなことを言うと、家内が、「昨年の敬老の日はどうだったのかしら」「さあ、覚えていないね」「去年の夏は南瓜をよく煮たわねえ」「そう言われると、そんな気もする」「しばらく煮ないから、今日あたりどうですか。南瓜はあなたの身体にいいのよ」 遠慮がちに家内が言い出した。(p103~104) これがこの作品の書き出しです。会話をしているのは、お互いに80歳を目の前にした老夫婦です。小説は「私」の一人語りで終始する、いわゆる「私小説」の、いわば生活告白小説です。 敬老の日を1週間後に控えた、ある秋の午後、夫の健康を気遣って「南瓜を煮たい」といった妻を買い物に送り出し、帰りを待ちます。 どこの八百屋に行くのだろうか。八百屋は駅前にもあるし、そこへ行く途中にもある。何件かあるマーケットでも扱っている。忘れ物をしたり、あとから取りにいったりした家内を、八百屋の奥さんや魚屋の奥さんたちは、どう思っているだろう。言葉がすらすら出ないことがあるし、突然わけのわからぬことを言い出すこともある。そんなとき奥さんたちの顔に浮かぶ表情から、家内はなにか感じているに違いないが、泣きごとを並べたり、愚痴をこぼしたりすることは滅多にない。 それだけに帰ってくるまでが気がかりだ。(P115~116) ページの進行を見ていただければお気づきでしょうが、南瓜の買い物に出かけるまでに、たとえば買い物に出るだけでも気がかりがつのることになった「家内」に関する過去の出来事の記憶が描写され、妻(家内)と「私」の生活の実態が徐々に明らかにされています。 で、きげんよく買い物から帰ってきた妻が南瓜を料理する様子が語られ、突如、事件が起こります。鍋をかけていたガス台の周囲に引火しボヤが起こってしまうのです。 鍋の火をつけ忘れていたのか、レンジのそばに置かれていたチリ紙に引火したのか、幸い隣人の発見で事なきを得ますが、その夜、南瓜の煮つけを食べることはできません。 その夜家内が九時ちょっと前にベッドに入るとわたしは座卓の前に座り、テレビの音を低くし、見るともなく見ていた。暫くそうしていた。それから立って家内の様子を見に行くと、寝息を立てている。いつものことだが、家内の寝息を聞くと、なとも知れない安らかなが気持ちになる。(P120) 美しくも哀しい話なのですが、小説世界には「私」しかいないところが、この作家の真骨頂といっていいと思います。「私」の生活の周囲の出来事は「私」の目を通じてしか描けません。「家内」の内面については、その私小説の原理に従えばということなのでしょうね、わからないから書きません。 その上、その内面を作家がうかがう手掛かりである「家内」自身の表情や発言も、確たるものを失いつつあるわけですから、描写そのものの確かさもぐらぐらしていかざるを得ません。80歳にならんとしている老人の「何とも知れない安らかさ」は相手が寝ていることに支えられているのです。 家内を起こし、急いで朝飯をすませることにしたが、食事をしているとき、家内はふと庭のほうに顔を向け、「昨夜はすみませんでした」 低い静かな声。顔を見て、正常に戻ったことがわかった。一日のうち何回か正常の時間が訪れる。そうでない時間も、そのあいまににやってくる。双方が入りまじってっていることもある。正常な時間が訪れると、その時間が長く続くことを祈らずにはいられない。(P137) 私小説的な作家の自意識の世界が、たとえば「家庭」とか「夫婦」とかいう世界を書くときに、相手が自意識を失うことによって、作家が生きている世界、それは書かれている世界だと思うのですが、その世界の底が抜けていくという劇的な展開が、この「祈り」を書いた次の作品「そうかもしれない」でやってきますが、この作品でも、主人公の「祈り」はすでに相手を失っているかに見えるところが、この作品の描く「孤独」の凄まじさだと思いました。 40歳を過ぎたころに読んだ時には、まあ、他人事だったのですが、今読み直して、その異様なリアリティにかなりへこまされました。 80歳でこの作品を書いた耕治人は、この作品を遺作のようにして、1988年に世を去るのですが、姓の「耕」は「たがやす」と読むのだということを今回知って、胸が詰まる思いを実感しました。追記2022・12・11ちほちほという人の「みやこまちクロニクル」(リイド社)というマンガを読んでいて思い出しました。こちらは生きてきたことと、今、生きていることの「哀しみ」が、天井から響く、警報機の透き通った小さな音に重なって聞こえてきて立ちすくむという印象ですが、ちほちほさんの作品は「哀しい」小さな事件に、立ち止まり、立ち止まり、しながら、生活の笑顔に戻っていく健気さにホッとする作品でした。そちらも、お読みになってほしいと思いました。
2021.10.13
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週刊 読書案内 吉村昭「海も暮れきる」(講談社文庫) 昔の職場の人や若い本好きの人たちと続けている、一緒に文学を読む集まりの課題になった吉村昭の「海も暮れきる」(講談社文庫)という小説を読みました。俳人尾崎放哉の最後の八ヵ月を描いた作品でした。 尾崎放哉といえば、一般には自由律、字数を定型でこだわらない俳句、の独特な作品で有名な人ですね。 1885年、鳥取に生まれた人で、本名は尾崎秀雄、鳥取一中、一高、東京帝大法学部を出た、当時としては超エリートですが、30代で社会的信用と地位を失い、一灯園をかわきりに、知恩院や須磨寺の寺男として生き延びますが、最後は1926年、大正15年、小豆島の草庵で結核のために41歳の生涯を閉じたそうです。咳をしても一人 この句が、いわゆる、人口に膾炙した代表作のようで、高校の国語の教科書にも出てきます。 足のうら洗えば白くなる とか墓のうらに廻る というのが、ぼくの好きな句ですが、春の山のうしろから烟が出だした というのが、辞世というか、最後に残された句だったようです。 読み終えて、面白かったので同居人のチッチキ夫人にすすめました。彼女はゴロゴロしながら100ページほども読みすすんだところで、ため息まじりに言いました。 「私、もういいわ。なんなん、この人。」 彼女が読んでいたのは、主人公尾崎放哉が、すべてに行き詰まり俳句の伝手を頼りに、小豆島の草庵に転がり込んだあたりのようでした。 「まあ、そう言わんと、もうちょっと読んでみ。吉村昭いう人が何書きたいか、わかる気がし始めたら読めるんちゃウか。そしたら、案外、その、ウットオシイ、主人公に腹立てんと読める思うで。」 結局、彼女は、二日ほどで読み終えたようですが、最後は、さほど腹を立てないですんだようです。 吉村昭は「あとがき」で創作のモチベーションについて、こんなふうに書き残しています。 放哉が小豆島の土を踏み、その島で死を迎えるまでの八ヵ月間のことを書きたかったが、それは、私が喀血し、手術を受けてようやく死から脱け出ることのできた月日とほとんど合致している。 中略 放哉は四十二歳で死んだが、それを私なりに理解できるのは放哉より年長にならなければ無理だという意識が私の筆を抑えさせた。そして三年前、「本」に十五枚ずつの連載型形式で放哉の死までの経過をたどり、二十九回目で筆をおくことが出来た。私がその期間の放哉を書きたいと願ったのは、三十年前に死への傾斜におびえつづけていた私を見つめ直してみたかったからである。(「本」は講談社の雑誌) 吉村昭といえば史実にこだわる「歴史小説」の作家といっていい人だと思いますが、この作品の「面白さは」は、むしろ創作された描写にあると思いました。 放哉は、目を開きシゲを見つめたが、すぐに視線をそらせた。自分には到底言えそうになかったが、厠で座りこんでいた時のことを思うと、頼みこむ以外にない、と思った。 「まことにすまんのですがね、その・・・、折り入ってきいてもらえまいか、と思うのですよ」 「なんですね」 「実に恥ずかしいことなのですが、厠に行けなくなってしまいましてね。それで・・・・」 放哉は、また言葉を切ったが、天井に目を向けると、 「便器を買ってきてもらえないないものでしょうか」と、低い声で言った。 便器を買うということは、それをシゲに仕末してもらうことを意味している。血のつながりもなく謝礼も出していないシゲに、そのようなことを頼むのは不当にちがいなかった。シゲが、そのまま庵から去ってしまう予感がした。排泄物の処理までするいわれは、シゲにはない。かれは目を閉じ、シゲの反応をうかがった。 シゲの声が、すぐに聞こえた。 「なにを今さら水臭いことを言いなさいます。下のものを今日からとりましょうよ。病人なら病人らしくわがままを言って下さいな。」 かれは、胸を熱くした。ふとんの中で、手を合掌の形でにぎった。(文庫P281) 作品の前半は社会的な人間関係に対する、不信と猜疑、わがままと傲慢の経緯が詳しく語られ、放哉の人格的破綻と句作の関係が描かれてきた作品ですが、ついに、虚勢を張って立つこともならぬ病状の窮まりにおいて、作家が「主人公」を救っている場面だと思いました。 引用したこの場面は、さほど上手な描写だとは思いません。しかし、ここで描かれているのは尾崎放哉という希代の俳人の文学的境地ではなく、「死への傾斜ににおびえる」一人の弱者に対する、人間的な救いだと思いました。ここに、吉村昭の「放哉」がいるといってもいいのではないでしょうか。 ぼくは、課題図書というきっかけでもなければ吉村昭という作家を読もうという読者ではありませんが、記憶に残る作品だと思いました。 それにしても、尾崎放哉という俳人、ホント、めんどくさい人ですね。(笑)
2021.07.30
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100days100bookcovers no41 41日目大岡昇平「成城だより」(文藝春秋社) ERIKOさんが紹介された本の著者、出久根達郎という名前を見て、ぼくの中では、次に来るのは、もう「月島」しかありませんでした。 SODEOKAさんがお住みになっている、この「月島」という地名は、学生の頃からのあこがれの場所でした。橋という橋は何のためにあつたか?少年が欄干に手をかけ身をのりだして悲しみがあれば流すためにあつた 詩人吉本隆明の詩、「佃渡しで」の一節です。17歳か18歳の頃、この詩人の作品と出会いました。それ以来、この詩人は、彼が自分の父親と、ほぼ、同い年だと気づく二十代の半ばまで、まあ、神様でした。 というわけで、今回は吉本隆明といけばいいようなものなのですが、いや、ちょっと待てよ、戦後、達郎少年が丁稚奉公することになる古本屋の店先で本を探している、昭和十五年頃の隆明少年というのも、たしかに悪くない。しかし、その二十年ほど前に、おそらくは、俯きながら店先を通り過ぎ、渡し舟か、橋の上で涙を流した少年がいたんじゃなかったか。まずはそこからの方が面白そうだ。 「門を出ると涙が溢れて来た。私はよそ行きの行灯袴を穿いていたが、迸った涙はその末広がりの裾にさわらずに、じかに前方の地面に届いた。(私は涙もろい性質であるが、こういう泣き方をしたのは、この時と十年後弟保が死んだときだけである。)」大岡昇平「少年」 「少年」という自伝的な作品の中で、大正9年当時、10歳だった少年の姿を振り返っているのは、執筆当時64歳の作家大岡昇平です。「私はそのような卑しい母から生まれたことを情けなく思った。暮れかかる月島の町工場の並ぶ埃っぽい通りを、涙をぽたぽたたれ流しながら歩いている、小学生の帽子をかぶった自分の姿は、いま思い出しても悲しくなる。」 この時、府立1中の入試に失敗し、青山学院中学への進学が決まった10歳の少年が知ったのは、結婚するまでの母が「芸妓」であったという秘密でした。 この日、遊びに行った「月島」の伯母は国会議員の「お妾」であり、祖母は「置き屋」の女主人であったことが「少年」には描かれていますが、そのあたりに興味を感じられた方は、作品を手に取っていただくほかはありません。 ついでですが、一見、硬派に見える「大岡昇平の文学」には、この「母」の発見の悲しみを越えて、同じ人間である「母」との邂逅という主題が底流していたことを、筑摩書房版「大岡昇平全集11」に所収された批評家加藤典洋の「降りて来る光」という解説が見事に読み解いていることを付け加えておきたいと思います。 ぼくが「月島」という地名を聞いて、大岡昇平を思い浮かべたのは、その評論の幽かな記憶によるものだったと思います。 で、「少年」という作品の紹介で話は終わりそうなものですが、大作「レイテ戦記」がそうであるように「少年」という作品は読み辛いという、初読の記憶がぼくにはあります。というわけで、なんとなく紹介がためらわれます。 そこで、「そうだ!」 と思い当たったのが、最近、中公文庫で復刊された「成城だより(全3巻)」(文藝春秋社・講談社文芸文庫・中公文庫)です。 何故、今、復刊されたのかの出版事情は知りませんし、文庫版を手にとってもいないのですが、これならおススメしても大丈夫。というセレクトで落ち着きました。 1980年、今から40年前の「作家の日記」です。発表当時、署名入り「匿名批評」と呼ばれ、71歳の老作家の旺盛な好奇心、博覧強記と徹底した「ファクトチェック」ぶりが評判になりました。1980・9月18日 木曜日 曇 やや冷。やっと息を吐く。乱歩賞受賞作品『猿丸幻視行』を読む。タイム逆行剤を飲み、折口信夫先生になり替わりて、猿丸太夫=人丸説を探索す。作者の断られる如く梅原猛『水底の歌』を参看す。文章セリフ荒く、折口先生のイメージと一致せざる恨みあり。 女が男の耳をつかみて支配する場面、二度出てくる。これは「トリスタンとイズ―」の原型物語にある魔法にて、後に媚薬に変わる。作者意識しありや。(以下略)1980・9月22日 月曜日 曇 周辺映画館に味をしめ、自由が丘推理劇場に行く。ヴィスコンティ「イノセント」。上流者機影が流行、スノビズムに迎合か。退屈とエロチスムとソフィストケイトされたダイヤローグの即物的描出。悪くなし。ただし悪党だが憎めない立役のメロドラマ的自殺はいただけない。「アリア・ブラウンの結婚」の方、はるかに面白し。(以下略) まあ、こんな調子なのですが、みなさん、映画の話とか、続きが読みたいと思いませんか。 社会事象に対する辛辣で、戦争体験者の矜持にみちた発言も「読みどころ」、いや「聴きどころ」だと思います。決して、昭和の老人の繰り言ではないところがさすがです。 二十代のぼくにとって、吉本隆明と並んで、もう一人の神様だった人が最後に残していった仕事です。乞うご一読。 というわけで、YAMAMOTOさんお次をよろしく。(2020・09・21・T・SIMAKUMA)追記2022・07・22 上の投稿で話題に出した吉本隆明、大岡昇平、そして加藤典洋という3人が3人とも「戦後」という時代を生きた人でした。それぞれが、あの戦争について、戦前の国家体制について、生涯かけて考え抜いた人といっていいでしょう。吉本隆明は皇国少年としての敗戦体験、大岡昇平は飢餓の戦場の兵士として、敗戦後の俘虜としての戦争体験、加藤典洋は特高刑事の子としての葛藤、世代はずれていますし、体験もそれぞれ違うのですが、「まともな考え方」ということが、どこから生まれてくるのかを教えてくれた人たちです。 2000年あたりが転機でだったのでしょうか、彼らが書き残した「まともな考え方」に対して、軽佻浮薄さがただ事ではないと感じる政治的発言が大手を振り始め、その代表者のような人が銃で撃たれ、税金を使って葬儀をするという素っ頓狂な事態が勃発しています。開いた口が塞がらないとはこういう事態との遭遇の場合をいうのでしょうね。 まあ、詠嘆してもしようがないので、ここで取り上げた3人をはじめ、ぼくが「まともな考え方」の人だと、思う人の著作を一冊づつ案内していくほかありませんね。「まともな考え方」など、もう、誰も振り返らない時代が始まっているのかもしれませんが、老いの遠吠え(笑)ですね。さて、何冊案内できるのか、まあ、どうせヒマですしね(笑)。 追記2024・02・16 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目))いう形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2020.12.27
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100days100bookcovers no40(40日目)出久根達郎 『謎の女 幽蘭 -古本屋「芳雅堂」の探索帳よりー』(筑摩書房) 前回紹介された別役実の『けものづくし』は、KOBAYASIさん曰く、――「知的」に「体系的」に、そしてブラックに、さらにアイロニカルに「デタラメ」だからおもしろい。要は、「フィクション」として読めばいいということ――なのだそう。 実は私も若い頃に読んだと思うのですが、内容を覚えていません。ひょっとするとこの記憶も捏造しているのか、あやしいですが。あの有名な別役実の作物を次のように感じたと思うのです。「けったいやなあ。難しいわと頭をひなりながら読んでるのに、いつの間にか話ずらされてて、あらら、こんなん真面目に読んでたらあほみたいやん。どう読んだらええのかわからへんわあ。」と。 でも、あれから30年以上経つと、こちらがけったいなものになったようで、素直な作物では飽き足らず、役に立たない理屈ををひねくりまわしたり、皮肉や意地悪、諧謔、ナンセンスが小気味よく思えます。(焼きが回りましたね)近いうちに彼の作品を改めて読みたくなりました。すでにSIMAKUMAさんもYAMAMOTOさんもその状態なんですね。 さあ次はどこへつなげばいいのかと思って読んでいると、KOBAYASIさんの次のくだりにビビット来ました。――読み進めていくうちに、何度か「ファクトチェック」みたいなことをやることになった。結構「事実」も含まれている。「動物園」の項に出てくる、ドゥーガル・ディクソンとその著書『アフターマン』も、何だか作ったような名前だなと思って調べたら、実在の人物であり著書だった。―― 「ファクトチェーック」!!! これ。これ。これ。そういえば、私もファクトチェックしまくりながら読んだ本がありました。250ページもない本なのに、出てくる人物、事件、事象は、本当めかしたフィクションなのかどうかが気になって、読書を中断して手元のスマホでつい検索するということを繰り返して読むのに随分時間がかかった本です。これほどスマホやウィキペディアの便利さに感謝しながら読んだのは初めてでした。好事家好みの本だとは思いますが、骨董や古書にはまる人の気持ちも少し想像できました。それは次の本です。『謎の女 幽蘭 -古本屋「芳雅堂」の探索帳よりー』出久根達郎 筑摩書房 作者 出久根達郎は「芳雅堂」(現在は閉店)という古書店主で直木賞作家だったことは有名ですが、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されているとは知りませんでした。 恥ずかしながらこの作家の書き物を一冊まるまる読んだのはこれが初めてでした。古本屋さんがこれほど物知りだということにも驚きました。 最初のページからいきなり、「黒服に、厚紙を切り抜いて作った勲章をぶら下げて、直筆の「勅語」を新聞記者たちに売りつけていた。内閣が変るつど、「声明」を発表し、世の中の動向を「託宣」した」 「芦原(あしはら)将軍」の話題が出てきます。そこでまず検索をかけると、昭和12年に87歳で亡くなった実在の人物で、皇位僭称者、明治天皇巡行の折、「やあ、兄貴」と声をかけたこともある。などと出てきます。 私はこの人物のことは知らなかったのですが、家人に聞いたら「ああ、いたなあ。変な人。」と言うので、ご存じの方は多いのでしょうね。 また、タイトルロールの「謎の女 本荘幽蘭(ほんじょうゆうらん)」。これも検索すると、江刺昭子と安藤礼二共著の『この女を見よー本荘幽蘭と隠された近代日本』(ぷねうま舎)という書名が出てくるので、これも実在の人物らしい。 この二人に始まり、検索をかけながら読みました。ずっとこんな感じで、本が本を呼び、思わぬ発見と謎を生み、その謎がさらにあるかないのかわからない本を探し求める動機となる、「本の本」の話でした。 いささか常識にはずれた言動で世間に波風を立てるような人物を、世間は盛大にもてはやし、時に大いにけなして日ごろの鬱憤をはらして、飽きたらすっかり忘れてしまう。人の興味はそんな風に次から次へと移ってゆくけれど、古本屋は世間がほとんど忘れた頃をねらって、その人物ゆかりのものをどこからか持ち出してきて流通交換させる。値段のないものに途方もない値がつくこともある。その物を高価たらしめるのはその物の価値よりも、その物にまつわる事実の集積。そのために骨董屋や古本屋は鑑識眼はもちろんだが、膨大な事実の知識とその物証になる資料を持っているのでしょう。こういう世界の面白さにはまるとなかなか足を洗えなくなるだろうなとも思いました。 話はバブル直前の1980年ごろ。東京杉並区内の古本屋の主人が、客から聞いた「本荘幽蘭」という破天荒な人物に興味を持ち、「幽蘭の名が登場する本」を片っ端から集め続けるという大筋で、そこに古本屋仲間になる若者が家主の老女に惚れられたいざこざや、「幽蘭」に関する本を求める異母兄妹の秘められた関係や、その親戚の老舗料亭の衰退や、真贋のわからない古物の海を越えた取引などの話を絡めています。 しかし、これらの話はどうしても影が薄い。この本の主役はなんといっても本。本を浮かびあがらせるために人間が黒子として動いているように思われました。あとは古本屋の蘊蓄話も乙でした。 たとえば、「古本屋はいわゆる「本屋学問」があればよい。うわべだけの学問である。本当の学問は客がする」 とか、「古本屋の経験上、未刊といわれていた本が刊行されていた話がざらにある」 とか、「古切手は使用済(消印あり)の方が価値が高い。当時の郵便事情がわかるので」 とか。 いくつか「ファクトチェック」した事例をあげれば、・古本屋が「幽蘭」の興味を持つきっかけを与えた客、新劇俳優の松本克平(かっぺい)。芸名の由来や日本初の銀行強盗といわれる「赤色ギャング事件」で逮捕、釈放のいきさつ、特高刑事との関わり、古書業界で知らぬ者はない新劇関係書物の収集家。著書『私の古本大学 新劇人の読書彷徨』の中に「本荘幽蘭著『本荘幽蘭尼懺悔叢書』」の項目をあげて幽蘭を紹介している。「あらゆる職業を猫の眼のようにめまぐるしく渡り歩いて、常に自己宣伝を忘れなかった先端的女性であり、自ら何のこだわりもなく性の解放を実行した勇ましき女であり、さらにその自己懺悔を本に書くと宣伝して歩いた女性」と記載。同著に幽蘭の参考資料3点あげる。その一つ『女の裏おもて』青柳有美著(明治女学校で幽蘭の教師、島崎藤村の代講する)・本荘幽蘭 明治12年生まれのモガ(モダンガール)の中の最初のモガともいうべき女性。神田でミルクホールを開いたり上野に幽蘭軒という店を出し幽蘭餅を売るが、長く続かない。女落語家となり英語交じりの漫談を語る。講談師となり浪速節をうなる。女優、舞台監督、活動写真の弁士、新聞記者、救世軍、芸者、外国人のための日本語教師。尼(本荘日蘭尼と改名)。演芸通信社経営などなど、人目につきそうな職業を片っ端から舐め歩き、行動範囲も、朝鮮、満州、清、台湾、シンガポールと極めて広かったとのこと。(『らく我記』高田義一郎著) 筆者のあとがきに、 古本探しは根気仕事だが、まことにスリリングで、サスペンスがあり、この味わいを知ると、病みつきになる。さながら推理小説を読む楽しさである。-(中略)-現代はどんな「幻の本」でも、その存在はインターネットで、即座に検索できる。スリルも、ドラマもない。何の醍醐味もない。-(中略)-「バブル」は何もかも破壊した。土地だけでなく、人の心を毀した。それは書物も同様である。ただ便利というだけで、電子書籍が誕生した。実体のない電子書籍には、人間くさいドラマは生まれない。紙の本の魅力を知ってほしくて、このような小説を書いた、ともいえる。と書いている。 私が今回使いまくっているスマホも無駄が少なくありがたさを手放せなくなっているが、その代わり失ってしまったもののほうが大切なのかもしれないなと思いつつ筆をおきます。SIMAKUMAさん、おあとをよろしくお願いいたします。 追記 外にも「ファクトチェック」したくなるようなことがいくつもでてきましたが、長くなってしまいました。お忙しい方は、このあたりで。ご興味のある方はお付き合いください。・相馬黒光(新宿中村屋創業)から見た「古本探しは根気仕事だが、まことにスリリングで、サスペンスがあり、この味わいを知ると、病みつきになる。さながら推理小説を読む楽しさである。-(中略)-現代はどんな「幻の本」でも、その存在はインターネットで、即座に検索できる。スリルも、ドラマもない。何の醍醐味もない。-(中略)-「バブル」は何もかも破壊した。土地だけでなく、人の心を毀した。それは書物も同様である。ただ便利というだけで、電子書籍が誕生した。実体のない電子書籍には、人間くさいドラマは生ま幽蘭の姿を記す自伝『黙移』・宮武外骨「滑稽新聞」コレクターが多いので、その周辺からもたらされる資料からさまざまな発見があること。・夏目漱石と大町桂月の交流。大町桂月が肩入れしていた松本道別(まつもとちわき)(漱石の『野分』の中で電車事件を煽動した嫌疑で逮捕された人物で、主人公が演説会をしてその家族を援助したいという人物のモデル)という人物。服役中に健康法や呼吸法を編み出し、霊学を研究。のち、人間は人体放射能を発してして病気治癒に効果があると提唱。・松下大三郎が『国歌大観』を編集するとき女子編集委員募集の新聞広告を出したら、採用された人の中に「本荘幽蘭」という名前があった。しかし、別人だと思われる。あの『国歌大観』を編集し、松下文法と言われるほどの文法学者なのに、彼について書かれたものがほとんど見つからないのは不思議。やっと入手した『松下大三郎博士伝』の明治34年12月付記載。・秘書と言われる『医心方(いしんぼう)巻第二十八房内』が現れる。鴎外の『渋江抽斎』の中でこの書について触れられている。(私は『渋江抽斎』未読です。)隋唐期に成立した医学書百数十種を、平安時代に丹波康頼が抜粋して編述した三十巻の医書で、永観2(984)年に天皇に献上された。正親町天皇が治療の褒美に典薬頭(てんやくのかみ)半井(なからい)氏に下賜した。徳川時代になって、幕府は半井氏に献上を迫ったところ、焼失したとか、見当たらないとか言い逃れ続ける。しまいに幕府は献上の強要を諦め、写本を作るので原本を借りたいと下手に出たので、半井氏側もしかたなく、提出という顛末。ここからが『渋江抽斎』の仕事。16人で書写、校正13人、監督4人、医師2人総裁で3か月、総紙枚数1437枚、2874ページ。(石原明氏調査)木版で安政七年刊行。推定五〇〇部。幕府は半井氏に返還。しかし、その後、原本の半井家蔵本がどうなったのかは不明。明治以降、学者で原本を見た者は一人もいないという。今Wikipediaを見ると「この半井本は、1982年、同家より文化庁に買い上げがあり、1984年、国宝となっている。現在は東京国立博物館が所蔵している。2018年10月16日に、国宝「医心方」のユネスコ「世界の記憶」登録を推進する議員連盟(会長:鴨下一郎)が設立され、ユネスコ「世界の記憶」への登録を目指している。」とありました。半井家は100年以上世間からひた隠しに隠すことができたということでしょうか?? で、第二十八巻は房内篇つまり「ベッドルームでの医術」ということで、より密かに扱われ、ますます人気を呼び、ゆえに偽物も出回っており、古本屋にとってはなかなか危ないしろものらしい。今は廃刊になってしまった学燈社の雑誌「国文学 解釈と鑑賞」でも、昭和39年10月臨時増刊号と、昭和42年4月臨時増刊号でこの書を扱ったときはずいぶん読者に歓迎された。・国宝盗難事件 東大寺三月堂不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像の宝冠の、化物(けぶつ)阿弥陀銀像が昭和12年2月に盗まれた。国内では売れない。昭和18年9月に盗難物は回収され、犯人も逮捕された。当時の朝日新聞に記事は掲載されているが、詳細にはわからない。これほど有名な物は国内で流通させることはできないので、海外に持ち出すだろうし、そうなると組織なり、流通シンジケートを読者に想像させるような蘊蓄も配されている。・日本からの盗品をヨーロッパの城を倉庫がわりにして保管し保管料を取るビジネスや、保管料を回収できないとなれば、ほとぼりのさめたころに、城や爵位のある人物が所蔵していたと言って箔をつけて闇の中から明るみ出すこともある。また密かに、あるはずのない「紅葉山文庫蔵印」というを「印章」を作って偽の写本に押して、海外旅行にやってきた日本人に高く売ることができたという。バブル期の日本人はこういうものに踊らされたのか、日本橋三越であった「古代ペルシア秘宝展」の展示物は大半が偽物とわかった。事件の真相はどうなったのか。・美術史研究の第一人者が赤っ恥をかいた「春峯庵事件」E・DEGUTI 2020・09・16 追記2024・02・16 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目))いう形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2020.12.21
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「100days100bookcovers no27」(27日目)『愛の手紙~文学者の様々な愛のかたち~』日本近代文学館編 (青土社) この企画もやっと4分の1を超えましたね。まだ先は長いので気楽に行こうということで…。DEGUTIさんのシリン・パタノタイ『ドラゴン・パール』からSIMAKUMAさんの彭見明(ポン・ジェンミン)「山の郵便配達」を受けて、27作目を選ぶのにずいぶん悩みました。 あれこれ触手を伸ばし、「郵便配達」「手紙」「山」「犬」「中国」というワードから書簡小説まで…。本棚(ずいぶん片付けたのであまりありませんが)を探し、記憶をたどり…。候補を3つに絞ったあとで、冒頭に書いたように「気楽に行こう」と、やっと着地できました。だってまだあと73回、単純に5人で割って14回ほどあるんだから、今回取り上げなかった候補はまたどこかで…。 さて、あれこれと考えた中で『愛の手紙~文学者の様々な愛のかたち~』日本近代文学館編 (青土社)を引っ張り出してきました。2002年の発行直後に買ったものです。表紙の絵葉書の少年少女たちのあどけない写真にまず目を引かれますが、空間を埋める文字が想いを表しています。これは有島武郎が結核で入院している妻安子宛てに送られた幾百通もの手紙の一部だそう。 文学作品が公表を前提としているのに対し、手紙は特定の人宛に書かれるものですから、手紙からは文学者の私生活や人柄に触れることができます。特に愛の手紙ですから、情熱的な、あるいは苦悩にみちたものもあります。宛先は愛する人へ、妻へ、家族への3部に分けられていますが、どれも素晴らしい書簡文学となっています。電話やメール、ラインで文字や絵文字、スタンプで気持ちを表現する今の時代を知ったら、文豪たちはびっくり仰天することでしょうね。 このたびこの本の33人の文学者の手紙から、先週土曜日に記念館の前まで行ったというご縁で谷崎潤一郎のページを紹介しましょう。昭和8年に根津松子に宛てた毛筆でしたためられたもの。「御寮人様」と呼び、既婚者同士の距離感を持ちながら読み取れる松子への感情は、さすが谷崎ですね。 昭和10年に結婚することになるふたりのことはここでは省きますが、この2年ほどの間の恋文は、のちに松子夫人が当時を回想し、自家製の雁皮の原稿用紙に、「行間も、小さい升目の空間にしても、いさゝかの乱れがなく、清らかで、情味がたゞよふてゐる」と述べているように、思いを成就させるのに大きな役割を担ったことでしょう。 華やかな恋と対照的に、この時期の谷崎は作家生活の中でも最も貧しい時期にあったと、「谷崎記念館だより」の学芸員エッセイに書いてあります。隠れ家のような二人の芦屋打出の家(現「富田砕花旧居)での貧窮のなかで、源氏物語の口語訳「谷崎源氏」の執筆が始まったとも。高校時代の古典の先生が、源氏物語の授業の時に必ず「谷崎源氏」の口語訳のプリントを配布してくれたので、いろんな人の訳も読んだけれど、刷り込みのように私の定番になっています。また、『細雪』の家ともよばれる倚松庵は、移転前にも現在地も何度か訪れましたが、つい1年前に住吉川「徘徊」中に久しぶりに訪問、ゆっくり時間を過ごしました。写真もアップしておきます。 次は文学館に話題を移しますね。教材研究のため、また個人的な関心もあり、文豪をはじめ多くの作家の企画展にはできるだけ足を運びました。中でもSODEOKAさんの住んでおられた姫路文学館は、近くの美術館とともによく通いました。お城を眺めながら安藤忠雄氏設計の建物も楽しく、講座や記念講演などもたまに行ったものです。 各地の文学館や作家の個人的な文学館も、旅のついでに訪問することもありますが、このたびの本を編集した日本近代文学館は昨年末に訪問する計画が日程上かなわず、悔しい思いをしたものです。目的は文学館内のカフェ「BUNDAN」だったんですけどね(笑) それではSODEOKAさん、バトンをお渡しします。よろしくお願いします。(2020・07・02・YAMAMOTO)追記2024・02・02 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。にほんブログ村にほんブログ村
2020.10.11
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「100days100bookcovers no17」(17日目) 新田次郎「孤愁 SAUDADEサウダーデ」(文藝春秋) 初めての参加、遅くなりました。他の皆さんと違って本にまつわる引き出しがなく心細いのですが、それを前提にぼちぼちとご一緒させていただきたいと思います。どうぞ、お手柔らかに。 さて、私事ですが昨年の3月で定年退職、ご奉公から解放され「無職」の身になりました。旅をすることと本を読むこと、そしてもう一つの目的についてはおいおい語ることとして…。結局暇なような忙しいような1年の中で、旅の目的のみ達成できたように思います。 ちょうど昨年の今頃に、日本各地と済州島を巡る8日間のクルーズ旅行を楽しみました。2月に話題になった豪華なダイヤモンドプリンセス号と違い、リーズナブルでカジュアルな、私の「身の丈」に合ったクルーズでした。イタリア船籍だったので、在職中からEテレでイタリア語講座を見て、ガイドブックも読んで、さも本国に旅にいくようなつもりで楽しみにしていました。それが最近の私のイタリアとのご縁です。 マレルバという作家、映画「木靴の樹」、イタリアの「ネオリアリズモ」…福井あおいさんの愛するイタリアや須賀敦子の「ミラノ 霧の風景」と比べると、なんと陳腐で軽薄なことかと情けないのですが、ようやく「時間」を手に入れた私にとって、イタリアに浸る楽しい時間でした。 クルーズ船の実際は、グローバルな世界経済を実感させる一面もあり、大変興味深く勉強になりました。そのように昨年は台湾や沖縄、南京や桂林、そして日本のあちこちに旅をし、風景や人との出会い、歴史や文化を五感で感じ、それに関する本を読んだり小文にまとめたりしていくということを繰り返した1年でした。 今回選んだ本は、私が3月に旅したポルトガルの関連本です。1年の旅の最後にその国を選んだのは、港町ポルトにある世界で最も美しい書店「リヴラリア・レロ」に行きたいと思ったから。 そして、「大航海時代の栄華とその後の衰退を経験し、同時にイスラムやキリスト教などの文化の多様性を今に伝え、心豊かに暮らすポルトガル」から学びたいと思ったことも理由のひとつです。 「(経済)成長」第一と邁進する日本が疎ましくて…。新型コロナウイルス感染拡大のさなかの9日に出発し17日にサバイバル帰国を果たしましたが、その後の世界的な国境閉鎖を考えると、迷いながらも敢行できてよかったです。 ポルトガルに関わる本を旅に前後してずいぶん読みましたが、ふとしたことで読もうと思って図書館で予約した新田次郎の「孤愁 SAUDADEサウダーデ」が手元に届いた日に渡されたSIMAKUMAさんのバトン。福井さんの翻訳した童話を、そして悲しい事実を受け止めるのに少しの時間と気持ちの整理が必要でした。 イタリアからポルトガルに、そして「孤愁 」につながるように勝手に感じたのです。新田次郎を今まで読んでいたわけでもありませんし、実はこの本は執筆中に急逝した父の小説の後半を息子である藤原正彦が書き継いで完成させたものですが、今回は父の執筆部分のみについてコメントしたいと思います。 「孤愁(サウダーデ)」とは、「失われたものに対する郷愁、哀しみや懐かしさなどの入り混じった感情」であり、ポルトガルに生まれた民俗歌謡のファド (Fado) に歌われる感情表現といわれます。ポルトガルギターの哀切な響きも前から大好きだったので、ファドをポルトとコインブラで聴きました。リスボンのアルファマでも聴くつもりでしたがコロナ騒動でそれはかないませんでした。ポルトガル語で挨拶程度はできるようになりましたが、ファドの歌詞は到底理解できず、サウダーデも私なりの感覚でしか理解できていないのですが…。 作品の内容は、ポルトガルのリスボンで生まれ、マカオ、神戸で軍人、外交官として生きたモラエス(1854~1929)の生涯を描いたものです。モラエスはマカオで暮らした女性と添い遂げることができず、日本人女性よねと結婚し、最後はよねのふるさと徳島で生涯を終えるのですが、異国に根を張りついに帰ることが叶わなかった故郷ポルトガルへの想いを抱き続けるのです。 数学や語学を得意とし、生物学や文学を愛し、ぶれることなく政情不安な激動の時代を生きていく姿は、気象庁で勤務しながら山岳小説や歴史小説を執筆した新田次郎自身と重なるように感じました。 美しい自然、文学や感性を取り上げるだけでなく、日清戦争や日露戦争に突き進んでいく日本を客観的・批判的に捉えるモラエスを描く新田の執筆部分と異なり、息子が執筆した部分から感じる愛国主義的な匂いに耐えられず、最後まで読み終えることができるか自信はないのですが…。 作品の多くの舞台が神戸です。モラエスが朝いつも散歩にでかける布引の滝、諏訪山公園、ポルトガル領事館のある居留地や後に移転する今の北野界隈、岡本の梅林や須磨の海岸、六甲も…。思いがけず懐かしい場所を巡ることができたのは、福井さんが導いてくれたようにも思いました。 支離滅裂な初回でしたがお許しを。次はSODEOKAさんになるのでしょうか。よろしくお願いいたします。(N・YAMAMOTO2020・06・08) 追記2024・01・20 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.07.30
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「二人の実朝」小林秀雄「実朝」(新潮文庫)・太宰治「右大臣実朝」(新潮文庫) 平家ハ、アカルイ。ともおっしゃって、軍物語の「さる程に六波羅には、五条橋を毀ち寄せ、掻楯(かいだて)に掻いて待つ所に、源氏即ち押し寄せて、鬨(とき)を咄(どっ)と作りければ、清盛、鯢波に驚いて物具(もののぐ)せられけるが、冑(かぶと)をとって逆様に着給えば、侍共『おん冑逆様に候ふ』と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば、敵の方へ向かはば、君をうしろなしまいらせんが恐なる間、逆様には着るぞかし、心すべき事にこそ』と宣ふ」という所謂「忠義かぶり」の一節などは、お傍の人に繰返し繰返し音読させ、御自身はそれをお聞きになられてそれは楽しそうに微笑んで居られました。 また平家琵琶をもお好みになられ、しばしば琵琶法師をお召しになり、壇浦合戦など最もお気に入りの御様子で「新中納言知盛卿、小船に乗って、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて『世の中は今はかくと覚え候ふ。見苦しき者どもをば皆海へ入れて、船の掃除召され候へ』とて、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、艫舳に走り廻って手づから掃除し給ひけり。女房達『やや中納言殿、軍のさまは如何にや、如何に』と問ひ給へば『只今珍しき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ』とて、からから笑はれければ」などというところでも、やはり白いお歯をちらと覗かせてお笑いになり、アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。と誰にともなくひとりごとをおっしゃって居られた事もございました。 それにしても息の長い文章ですが、太宰治「右大臣実朝」(新潮文庫)の最も有名な一節です。以前「惜別」を紹介しましたが、同じ文庫に収められていた小説がこの作品です。「惜別」と同じく太平洋戦争のさなかに書かれた作品ですが、鎌倉幕府の三代将軍です。 日本史をやっている人は知っていると思いますが、北条氏の陰謀の中を生きて、死んだ。悲劇の将軍源実朝の生涯を、お側に仕えた少年が二十数年後に語るという構成をとっています。 「惜別」に比べてずっと工夫が凝らされていておもしろいと思いますが、今日はその話ではありません。実は、その作品を読みながら思い出した評論があります。 小林秀雄の「実朝」(新潮文庫「モウツァルト・無常ということ」所収)です。 小林秀雄といえば、ぼくたちの世代には入試現代文の鬼門、最後の難関と受験生から怖れられた文芸評論家ですが、今は教科書には掲載されていても、今、使っている筑摩書房の現代文の中にも実際ありますが、授業ではやらない人の代表のようになってしまいました。 諸君に対しては失礼な話ですが、今の高校生の教養ではとても理解できないと教員の方が諦めている様子で、鬼門どころか彼岸ということになってしまいました。授業をする教員も此岸の人かもしれないところが寂しいのですが・・・。まあ、人のことは言えませんね。 はははは。しかし、読みさえすればわかるのが書物というものだと思いますから、是非お読みください。 箱根の山をうち出でて見れば浪の寄る小島あり、供の者に此のうらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答へ侍りしを聞きて 箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄るみゆ この所謂万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変哀しい歌と読む。実朝研究家たちは、この歌が二所詣の途次、読まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか。僕には詞書にさえ彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか。―中略― 大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、又その中に更に小さく白い波が寄せ、又その先に自分の心の形が見えてくるという風に歌は動いている。こういう心に一物も貯えぬ秀抜な叙景が、自ら示す物の見え方というものは、この作者の資質の内省と分析との動かし難い傾向を暗示している様に思われてならぬ。 とまあ、こんな調子です。 ところで、同じ、昭和18年に書かれたこの二つの作品は、まるで互いが互いをなぞるように書かれていると感じませんか。これは驚きでした。文学的にかなり遠い位置に立っていたのではないかと、勝手に思い込んでいた二人の近さを実感したぼくの読みかたは、勘違いなのでしょうかしら。 二つとも、さして長い作品ではありません。一度読み比べてみてください。(S)追記2020・05・28 大昔に高校生を相手に書いていた「読書案内」の記事です。読んでくれるのは高校三年生だったと思います。なんだか独り言のようですね。今となっては懐かしいのですが、PCのデータから、時々転がり出てきます。それにしても、古いデータというのは、いつの間にか壊れるのですね。追記2022・10・03 木田元という哲学者の「なにもかも小林秀雄に教わった」(文春新書)を、久しぶりに読み返していて、この案内のことを思い出しました。木田元の新書については、近々、案内しようと思っていますが、新書を読みながら、昭和の批評家の、まあ、小林秀雄のということですが、分厚さに驚嘆しています。いろいろ、あとを追って読んできたつもりでしたが、全く及んでいませんでした(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.28
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《2004書物の旅 その17》 司馬遼太郎「燃えよ剣(上・下)」(新潮文庫) NHKが、所謂「大河ドラマ」で源義経を題材にしたことは二度あります。一度目は1966年、主役が当時の尾上菊之助、女優の寺島しのぶのお父さん、弁慶役は緒形拳、静御前は藤純子ですね。 今はテレビをほとんど見ないのですが、この義経はおぼえています。小学校の6年生か、中1の頃だったと思いますが、家族で見ていました。 二度目が2005年、義経役はジャニーズの滝沢秀明くんだったそうですが、見ていません。下の記事はその2005年当時の高校生に配っていた「読書案内」ですから、15年ほど時間をずらしてお読みいただければよいのではないでしょうか。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ボーと新聞のテレビ欄を見ていて、なにかと話題のNHK、今年の大河ドラマが「義経」だと知りました。そういえば巷の本屋の店先には、やたらと義経物や平家物語が積み上げてありましたね。去年は「新撰組」で、その前は覚えていません。実は去年もテレビでこの番組を見た覚えがありません。何しろ、野球中継以外テレビを見ないのですからね。 しかし、まあ、なぜ、またまた「義経」なのでしょう。そういえば、今よりテレビを見ていた子供のころの記憶にある一番古い大河ドラマは「赤穂浪士」でした。所謂「忠臣蔵」を現代的視点から描いた大仏次郎の時代小説のテレビ映画化で、芥川也寸志という作曲家が作ったテーマ音楽を今でも覚えています。芥川也寸志って?、もちろん芥川龍之介の息子です。 大仏次郎という作家は「鞍馬天狗」(朝日文庫)の作者として戦前から大衆小説作家として有名な人です。戦後、パリコミューンを描いた「パリ燃ゆ」(朝日文庫)、最後には幕末の動乱期を描いた「天皇の世紀」(朝日文庫)という超大作・長編歴史小説(?)をライフワークとしていましたが、「天皇の世紀」の完成間近、ガンで他界した人です。 素人読者にとって、それぞれの作品は、もう小説というより歴史書ですね。今では朝日新聞社が主催する「大仏次郎賞」という文化事業・芸術作品を顕彰する賞にその名を残していますが、この人の名前が読めたら教養のある高校生という訳なのですが、皆さん読めるでしょうか。 ところで、「義経」と「忠臣蔵」には共通点があります。実は江戸時代の人気番組の双璧なのです。もっとも、テレビも映画もない時代の人気番組とはいったいなにか。それはお芝居なんです。今でも残っている歌舞伎の出し物のツートップがこの二つにかかわる演目なのですね。 丸谷才一さんは「忠臣蔵とは何か」という本の中で、江戸の歌舞伎の演目で、この二つが流行った理由の一つに「御霊(ごりょう)信仰」があったとおっしゃっています。歴史上の人物たちで、悔し涙を流して死んだ人たちの「たたりじゃー!」という怨念は、江戸時代に限らず、この国の人々にとっては、決して、笑い事ではなくて、あだやおろそかにしてはいけない重大事だったということなのです。 「死霊」がたたりそうな悲惨な死に方をした歴史上の人物をヒーロー化し、神仏としてお祈りした習俗には、それ相応の理由があったのです。「どうか私たちにはたたらんといてね。」 まあ、本音はこうだったかもしれませんが、結果的に、江戸民衆の代表的な娯楽である歌舞伎の中でも当然「判官びいき」ということのなるです。 宮崎駿のアニメでなじみになった「たたりがみ」が流行るというのは、今に始まったことではないわけです。今ではテレビみたいなマスメディアで流行っているわけですが、人々の「負け組みびいき」の風潮の底には、怨霊畏怖の長い歴史があるという事なんですね。関西人のタイガースびいきも似たような動機かもしれませんね。まあ、あんまり勝ったことがないチームなのに、血も涙もない解雇やトレードで「たたりがみ」信仰を演出して、ファンを引き留めているのかもしれませんよ。 そう考えて振り返ってみると、「赤穂浪士」より一年古い第一回大河ドラマは舟橋聖一の小説「花の生涯」(祥伝社文庫)のテレビドラマ化でした。主人公は「安政の大獄」の仕掛け人、「桜田門外の変」で暗殺されてしまった大老井伊直弼ですが、維新後は典型的負け組みのワルでした。 ぼくが小学生だったころのNHKの大河ドラマはみんなが見ている国民番組のようなものだったのですが、その主人公に抜擢されたのですから、破格の復権ということになります。1960年代前半の出来事です。明治元年が西暦何年であったか、ちょっと年表を調べてみると面白いですよ。 というわけで、去年の「新撰組」も、維新後100年は負け組みの嫌われ者でした。というのは井伊大老にしろ新撰組にしろ、明治新政府からそれぞれ極悪非道の権力者であり、旧体制のテロリスト集団だったというレッテルを貼りつけられ、悪い評判が100年続いた状態だったのです。 尊皇攘夷を標榜した側もテロル勝負みたいな時代だったにもかかわらず、負けたほうが分が悪いのが歴史の常です。坂本竜馬や西郷隆盛、高杉晋作が評判がいいのと好対照です。 歴史上の人物の評判なんてそんなものだといえばそれまでですが、復権するとなれば、やはりそれ相応の時期と卓抜な紹介者が必要になります。 幕府きっての悪役井伊直弼はNHKテレビという、当時の最新マスメディアが復権を助けました。一方「新撰組」は司馬遼太郎という希代の語り手を得てアンチヒーローからヒーローへと見事に復権を果たしたわけです。 文句なしの名作「燃えよ剣(上・下)」(新潮文庫)の主人公土方歳三のかっこよさはちょっと説明に困るほどだし、「新撰組血風録」(中公文庫)で描かれた人物群像は、史実に対する博覧強記を持ち味とするこの作家の特性が一種ロマンチックに昇華された人物伝として描かれて評判をとりました。 明治百年、大衆的「御霊信仰」に支えられて幕末維新の怨霊たちの魂を鎮めるに絶好の時期を迎えて両者が再評価されるにいたったということです。 ところで「燃えよ剣」は数ある司馬遼太郎作品の中の最高傑作だと思う時代小説です。ほかにも幕末・維新ものでは「竜馬がゆく」(文春文庫)・「峠」(新潮文庫)などオススメの人気作品が多数あるのですが、やっぱり「燃えよ剣」が一押しでしょうね。(S)答「おさらぎじろう」ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.07
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