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村上春樹「村上春樹 翻訳 ほとんど全仕事」(中央公論新社) 今日は、2017年に出された「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)の案内です。目次まえがき翻訳作品クロニクル一九八一 - 二〇一七対談 村上春樹×柴田元幸 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈前編〉サヴォイでストンプ オーティス・ファーガソン 村上春樹訳 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈後編〉寄稿 都甲幸治 教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランド 村上春樹の翻訳 作家村上春樹の翻訳に関する、まあ、彼自身が語っている著書は、柴田元幸と語り合っている本はもちろんのことですがたくさんあります。 で、この本でも、柴田との対談がメインディッシュなわけですが、その前に、村上春樹の翻訳した仕事がすべて、多分、二〇一七年の時点で、お仕事を振り返ってというコンセプトなのでしょうね、その本の写真に村上自身のエッセイが添えられているところがミソで、結構、楽しめます。 たとえば、彼が訳したサリンジャーの「キャッチャー」とオブライエンの「世界のすべての7月」のページはこんな感じです。 キャッチャーの思い出の中で、「僕としては正直な話、表現はあまりよくないかもしれないが、猫さんの首に鈴をかけるネズミくんのような心境だった。そして予想どおりというか、あるいは予想を超えてというか、最初のうちは厳しいことをいろいろ言われた。」 と振り返っていたりするのが、興味を引きますね。 今でも、村上訳の「キャッチャー」が、サリンジャーの原作の、あるいは野崎孝の初訳の「ライ麦畑」という翻訳の、小説家村上春樹による歪曲のような言われ方を耳にすることがありますが、まあ、そのあたりについて村上自身の耳に何が聞こえてきて、彼がどう考えたのかあたりは、20年前の「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)あたりでしゃべっているかもしれませんが、ボクは、彼の翻訳態度というのは、作家としても真摯だ というふうに感じていて、翻訳作業において、原作のハルキ化、いってしまえば歪曲が起こっているというふうには考えたことがないので、まあ、なんともいえませんね。 で、柴田元幸との対談はというと、今までに書籍化されているものに比べて、10年以上も新しいというところがポイントですね。お二人とも、以前のお二人では、もうないのです。まあ、「翻訳夜話1・2」(文春新書)あたりで、耳にした話が繰り返されているわけですから、語り口のどこかしらに、時間が過ぎたことを、ボクは感じました。 もう一つ、本書で、おもしろかったのは都甲幸治の「ハルキ論」ともいうべき、教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランドという短いエッセイでしたね。 彼(村上)の語る国家の論理との戦いは、翻訳する作品を選定するうえでも大きな役割を果たしている。なぜなら、その多くで戦争が扱われているからだ。国家は必要とあらば個人をたやすく殺し得る。その極限の形が戦争だ。オブライエン「本当の戦争の話をしよう」所収の「レイニー川」の青年は、ベトナム戦争は間違っているとわかっていながら兵役を拒否できない。フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」の主人公は第一次大戦帰りで、ときどき人を殺したことがありそうな目をする。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を書いたサリンジャーは第二次大戦で数々の激戦に参加した。そして彼らの作品と、国家や宗教教団について考える村上春樹は地続きだ。(P195~196)都甲幸治 そうか、そういう経路で考えるのか、と、まあ、そういう感じでしたが、村上春樹という作家の不幸は、加藤典洋亡き後、彼を正面から論じる批評家がいないことだとボクは思っていますが、ないものねだりなのでしょうかね(笑)。 掲載されている翻訳の書籍がカラー写真だということもあって、オシャレな本ですが、なかなか読みでもありましたよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.25
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村上春樹 柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書) ここのところ、サリンジャーが再、再、再、・・・噴火しています。まあ、もちろん、個人的な話ですが、ボクの中でのサリンジャー・ブームは、ほぼ、50年前、だから20歳ごろに大噴火があって、その後、数年おきに小噴火を繰り返し、まあ、50歳を境にして、何となく、もう、イイかな、という雰囲気で鎮火していたのですが、昨年末から読んでいる乗代雄介という作家にうながされるように、20年ぶりの噴火状態です。 で、今回案内するのが2003年、ちょうど20年前に、だからボクが50歳のときに出版された、村上春樹と柴田元幸の対談集、「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)というわけです。出版されてすぐに読んだのですが、ブームにうながされて読み直して面白かったので案内しています。こんな目次です。目次ライ麦畑の翻訳者たち―まえがきにかえて(村上春樹)対話1 ホールデンはサリンジャーなのか? 対話2 『キャッチャー』は謎に満ちている『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説(村上春樹)Call Me Holden(柴田元幸)あとがき 柴田元幸 村上春樹と柴田元幸の翻訳談義は、この「翻訳夜話1・2」(文春新書)のあと、柴田元幸がやっていた、たしか「モンキー」という文芸誌で繰り返し対談していて、それを本にした「本当の翻訳の話をしよう」(新潮文庫)とか、最近では「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)とか、たくさんあります。 まあ、その中で、サリンジャーに特化して喋りあっているのが本書です。目次をご覧になれば気づかれると思うのですが、村上訳「The Cathcher in the Rye」、野崎訳「ライ麦畑でつかまえて」について、かなり突っ込んだ対談で、まあそこが、本書の読みどころだとは思うのですが、実は、今回、読み直しておもしろかったのは「Call Me Holden」という、まあ、東大の先生であった柴田元幸の「サリンジャー講義」なのですが、なかなかシャレていたので紹介します。 こんな書き出しです。 だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしない方がいいぜ、なんて最後の最後に言ったけど、ほんとそのとおりで、あんな話書いちまったものだから、あれからもう五十年以上、要するに君はあの本で何が言いたかったんだいとか、あの話に全体について君はいまどう感じているんだいとか、ろくでもない質問を僕はさんざん浴びせられてきた。そんなこと、答えられるわけないよ。何が言いたいかわかっていたら、何もあんな長い話なんかせずに、はじめっからそれを言ってしまえばいいわけだし、あの話についてどう感じるかって訊かれたって、語ってしまったからにはあれはもう僕だけの話じゃなくて君の話でもあるわけで、君はどう感じているんだいってこっちが訊きたいくらいなのに、そういう質問する人に限って、だってこれは君自身の物語だろう、君自身のことは君がいちばんよくわかってるはずじゃないか、なんて言ったりする。それって物語について、というか人間について何か勘違いしてるんじゃないかな。語ることで、君は君自身から隔たってしまうんだよ、よくも悪くもね。嘘だと思ったら、君もやってみるといい。だけどそうは言っても、そうやって語って、自分自身から離れてみることでしか、自分に近づく道はない気もする。よくわからないんだけどさ。(P226) まあ、こんな感じです。ここから、ハックルベリーを経由して、ラルフ・エリスン、フィリップ・ロスへと展開していくところが、まあ、東大なのですが、おもしろいのは「君」の使用法と「語り」に関する言及ですね。「キャッチャー」でホールデンが語りかける「君」とはだれかというのは、小説の話法としてかなり重要な問題ですが、誰なのでしょうね?アメリカ現代文学を引っ張り出してきて、柴田が語ろうとしていることのポイントの一つがそこにあるんじゃないでしょうか。まあ、それ以上は、お読みいただくほかありませんが、引用部だけでもかなり面白いことをいっていると、ボクは思うのですね(笑)。 で、本章を終えた柴田元幸が、本書の最後の「あとがき」で 小説について、ああでもないこうでもないと話し合うことは、今日ではだんだん少なくなってきているかもしれない。この本がそういう流れを少しでも逆転させることができたら、こんな嬉しいことはない。(P246 ) とおっしゃっているのを読んで、チョット、感無量でしたね。こんなふうに思っていたこともあったなあ。でも、疲れちゃうこともあるんですよね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.21
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村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社) まだ、高校生と教室で出逢っていたころの「読書案内」です。還暦を迎えようかという老人が15歳に語る機会があったころの語りですが、捨てるのも残念なので、少々直して載せます(笑)。 さて、まさに、もっともきらめいている同時代の現役作家、村上春樹の新作の案内です。「騎士団長殺し(1部・2部)」(新潮社)という作品です。「きらめいている作家」、「現役の作家」・「同時代の作家」、そんなふうにいうと高校生諸君は、はてな?という感じになるのではないでしょうか。皆さん、村上春樹とか、読みますか? もう古いことになるのですが、ぼく自身が高校生だったころでも、「現役の作家」・「同時代の作家」なんていう感覚はありませんでした。 ぼくが高校一年生だった、その秋、市谷の自衛隊駐屯地でクーデタを呼びかけて、割腹自殺をして果てるという、とんでもない事件を起こし、新聞紙面をにぎわせた三島由紀夫という作家がいたのですが、事件の当日ニュースを見るまで、ボク自身、彼の名前さえ知りませんでした。もっとも、ぼくは面白くもなんともない3年間の高校生活のせいで、すっかり文学少年化(?)してしまって、2年後の秋の放課後の教室で神戸から転校してきた同級生が「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(現在は講談社文芸文庫)という小説を手にしてこれを知っとおか、天皇陛下のことが書いてあんねん。 といってぼくに手渡そうとしたのことがあったのですが、いや、これは三島とは正反対の主張をしとお大江健三郎というやつの、天皇制パロディ小説やと思うけど、お前、読んだんか? と返答すると、すっかり鼻白んだ彼は本を投げ出して教室から消えてしまいました。彼は三島由紀夫を崇拝する右翼少年になりたかったようなのですが、少々筋を間違えていたらしいのです。ああ、そういう少年がいた時代です(笑)。まあ、彼をちゃかした説明も当たっているかどうか、今となっては怪しいわけですが、当時の田舎の高校生の政治や文学に対する理解はその程度であったということで、彼がその場に残していった大江健三郎のその小説は今でもぼくの書棚のどこかにあると思います。 もっとも、文学少年などと思い込んでいた自意識過剰の高校生だったぼくが三島や大江に熱中するのはその翌年、京都での予備校通いの下宿での一人暮らしの時からです。その時、「現役作家」・「同時代作家」というべきものに出会うことになりました。 実は三島由紀夫と大江健三郎と村上春樹には共通点があります。何かおわかりでしょうか。答えはノーベル賞です。 三島は1960年代の後半ぐらいのことですがノーベル賞に一番近い日本人作家と騒がれていたし、大江はその後、実際にノーベル文学賞を受賞しました。村上春樹もここ数年、受賞予想の常連ですね。ノーベル賞が意味することはいろいろあるかもしれませんが、何よりも世界文学として、その作品が取り扱われているということではないでしょうか。 世界文学としてというのは、その作品が書かれたオリジナルな言語の文化や社会の枠を超えてということですね。日本語で書かれた小説なんて、「世界」に出てゆけば翻訳でしか読まれないし、日本文化の固有性とか言いたがる人がいますが、世界中の文化が、本来、それぞれ固有だという普遍性において固有なだけですからね。 というわけで、「騎士団長殺し」という今回の作品も数か国語に翻訳され、世界同時発売という、日本人の作家としては、信じられないようなグローバルな扱いを受けています。それが世界文学としての側面の一つということですが、だからといって新作が優れているといえないところが、残念といえば残念ですね。 ただ、ぼくもそうなのですけど、ある作家の作品があるとすると、評判が悪かろうとよかろうと、それを読んでいればうれしいという感受性はあると思うのです。 理由はいろいろあると思いますが、同時代を生きている作家が世界を描き上げていく感受性は、その作家の作品を読み続けている同時代の読者の感受性を育てる ことになる場合があるのではないでしょうか。 ぼくにとって村上春樹はそういう作家のひとりだということだと思うのです。村上の作品を読んだことがない人のために言うと、村上春樹という作家はある時期から小説の中で使う装置というか、設定というかがずっと共通しています。それは、小説の中に、まあ、壁で仕切られているか、地下の何階かに降りていくか、階段を上がったり下りたりするか、あれこれ方法は工夫していますが、「あっちの世界とこっちの世界」 があるということだと思うのです。 一般的に、まあ、あたり前のことですが、小説が描いている世界があって、その世界は、読者が作品を読んでいる「今・ここ」の世界とは必ずしも一致しません。小説が描いている今とは、こことは、いつで、どこなんだという場合に、幾通りかの世界があるという前提が納得できなければ、小説なんて、ばかばかしくて読めませんね。 村上の場合のそれは、いわゆるSF的な設定だったり、登場人物の意識の世界の多重性だったりするわけではありません。「ここ」と「あそこ」という次元の違う世界 が設定されているのです。もっとも、村上は、この多重構造を、小説を読む人間に対して謎として差し出していて、たとえば太宰治の「トカトントン」の音が聞こえてくる世界の設定とは違いますね。太宰の音の発信源は別世界ではない、主人公がいて読み手がいるこっちの世界と地続きだと思うのですね。 「暴力の世界と愛の世界」とか、「死の世界と生の世界」とかに、小説が世界を分割するという設定が、そもそも現実とは違います。現実の世界はそういうふうに複数の世界として割り切ることはできません。現実の世界に足場を置く限り、それは、くっついているわけですから、太宰のような描き方になるというのが一つの方法ですね。ああ、みなさんには「走れメロス」の太宰治ですが、「トカトントン」、新潮文庫で読めますからね。主人公に、どっかから音が聞こえてくる小説です。 村上は重層化されている小説世界という虚構世界を、現実世界と、微妙にズレている構造を明かさないまま書き始めます。そこから、「人間」のドラマが展開するから、自分と同じ現実のこととして読者は読み始めます。はたして、彼の小説世界が、私たち読者の世界と地続きかと言えば、そこが怪しいところなのかもしれません。そもそも、彼の小説が描き出す「あっちの世界」は当然ですが、「こっちの世界」もまた物語的虚構の世界であって、そこから読まなければ、読み損じるのかもしれません。 しかし、まあ、そこが肝なのでしょうが、結局、人間のことが描かれていて、読み終われば悲しくなります。何気なく悲しい世界に生きてることを実感します。なんか「騎士団長殺し」という作品について、まったく要領得ない案内ですが、それが彼の文学だと、ボクは思うのですよね。一度、お読みになって見ませんか。同時代の作家と出会えるかもしれませんよ(笑)。(S)2017・12・20 こんな、今、自分で読み返しても論旨が分からないような作文を高校生に向かって書いていたことがあることが懐かしくて載せました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.20
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川上未映子「黄色い家」(中央公論新社) 第1章 再会 このさき、自分がどこで生きることになっても、何歳になっても、どうなっても、彼女のことを忘れることはないだろうと思っていた。 けれど今さっき、偶然に辿りついた小さなネット記事で彼女の名前を見るまで、そんなふうに思ったことはもちろん、彼女の名前も、存在も、一緒に過ごした時間も、そしてそこで自分たちがしたことも、なにもかも忘れていたこと気づかなかった。 吉川黄美子。 同姓同名かもしれないという考えが一瞬よぎったけれど、この記事に書かれているのがあの黄美子さんだということを、わたしは直感した。(P7) 読売新聞紙上に2021年7月24日から2022年10月20日まで連載された「黄色い家」(中央公論新社)という川上未映子の最新作の書き出しです。 語り手は伊藤花という40代の、独身の女性です。語り手の時間はコロナの蔓延する「現代」ですが、語られている出来事は、1990年代の終わり、所謂、20世紀の世紀末、東京の郊外の町で住所不定、無職だった、語り手である彼女の10代の終わりの生活です。 バーというのでしょうか、クラブというのでしょうか、ともかく、飲み屋の雇われホステスであるシングルマザーの母と小さなアパートで暮らす中学生だった伊藤花が、母の友人だった吉川黄美子という、当時40代だった女性と暮らし始めるところから物語は始まります。 「黄色い家」という題名は、その黄美子が自分の色として、まあ、縁起を担いでいた色を、黄実子にこころをつかまれ、一緒に暮らすようになった10代の伊藤花が引き継ぎ、部屋の調度から壁まで黄色く塗ったアパート、そこで二人が暮らし、やがて、加藤蘭、玉森桃子という同世代の女性たちとの共同生活の場になった住居からとられています。 世紀末から2000年という時代の中で、人が生きていくことを支えるのは「お金」であるという「現実」に「洗脳」されていく10代の、預金通帳さえ作ることができない境遇の少女の姿をテンポよく描き出した佳作だと思いました。 カードやネットによるお金の流通が当たり前になっている現代社会において、住所不定、保護者不在の未成年の女性が、いかにして犯罪者への道を歩むのかという、いかにも現代社会の最底辺の実態を描いたドキュメント・ノワールという趣で、読み始めると、やめられない、とまらない「かっぱえびせん本」でした。 他の、知らない作家であれば、これで終わりですが、「乳と卵」(文春文庫)、「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(ちくま文庫)の川上未映子の仕事ということになると、もう一言ですね。 あくまでも、ボクにとってですが、川上未映子の面白さは「わかりにくさ」というところにあると思っていました。「なに?これ?」 まあ、そういう感じが浮かんでくることに対する期待ですね。残念ながら、そういうニュアンスは、この作品にはありません。たとえば吉川黄美子という、いかにも、川上的興味をそそられる登場人物がいます。「なに?この人?」 そういうイメージを、登場とともに抱かせる人なのですが、何故か、その人物について描かないというのが、この作品の特徴なのですね。伊藤花による「吉川黄美子」像だけでは、あまりにあやふやじゃないでしょうか。 「ヘヴン」(講談社文庫)あたりで、人気作家になったと思いますが、あのあたりからですかね。わからなさは影をひそめてしまったのは。 まあ、読みますけど、残念ですね(笑)。
2023.08.01
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佐藤優「『ねじまき鳥クロニクル』を読み解く」(青春出版社) いまは評論家と呼べばいいのでしょうか、文筆業者と呼べばいいのでしょうか、佐藤優という、元外務省の役人だった人が、出身の同志社大学で授業をなさっていて、その授業の表題が「『ねじまき鳥クロニクル』を読み解く」ということらしいのですが、それを書籍化した講義録でした。 市民図書館の棚に転がっていたのですが、表題にある「ねじまき鳥」という村上春樹が小説で作った鳥の名前に惹かれて借りてきました。 すぐに読めました。「読み解く」と題されていますが、「読み解こうとする」の方が実情に合っている気がしましたが、「悪」をキーワードにしてヒントがたくさん紹介されていてベンキョーになりました。ちなみに目次はこんな感じです。<目次>第1章 メタファーを読み解く第2章 資本主義がつくる悪 第3章 軍国主義がつくる悪第4章 能力主義がつくる悪第5章 無自覚になされる悪 第6章 自分の悪を受け入れる『ねじまき鳥クロニクル』は、人間の根源悪の問題を考える上で、深い示唆を与えてくれる物語です。(P21) まあ、こんな書き出しです。小説の舞台である現代社会を「資本主義」、「軍国主義」、「能力主義」、「自己責任論」といった鍵言葉を持ち出して分析する方法で読解を進めようという、講義形式の「解説本」です。さすがに、同志社です(笑い)。学生さんの反応は真面目で、よく勉強している印象です。 たとえば「資本主義」であれば、カール・マルクスを紹介しながら剰余価値論の基本が解説され、働くことの積極的な価値の喪失ということが、限りなく進行している現代社会を生きる「登場人物たち」のキャラクターの意味を考えさせようとしているようです。 もうひとつ面白かったのは発表された当時、村上の作品らしからぬ歴史事件として作品世界に出て来たことが話題になった「ノモンハン事件」の紹介から、軍国主義など社会システムが生み出す悪を取り上げているのですが、五味川純平の「人間の条件」(岩波現代文庫)が紹介され、小林正樹監督が仲代達也主演で撮った、映画「人間の条件」を見てくることが課題にされたりしているところでした。 帝国主義下の軍隊の官僚化の経緯が解説され、そこから生まれた歴史的な「悪」の実像と村上春樹の作品の描写のつながりを示唆している読解は佐藤優らしい観点で、面白いと思いましたね。 大日本帝国という国家のアジア侵略史は、60代後半から70代の世代には常識(?)ですが、歴史の書き換えや隠ぺいが闊歩する社会に育ってきた20歳の学生には、驚きかもしれません。また、その時代に対する戦後の「文学」や「映画」に共通する批判的な思潮に、作品の鑑賞を通して若い学生の目を向けさせようとしているところは好感を持ちました。 最終的には人間の存在、存在する限り逃れられない諸関係の中で生まれる悪について、たとえば、「これからの「正義」の話をしよう」(早川書房)、「それをお金で買いますか」(早川書房)、「実力も運のうち 能力主義は正義か?」(早川書房)、なんかで流行のマイケル・サンデルあたりの著作を紹介、参照しながら講義、学生とのやり取りは進むのですが、たどり着くのは「聖書」でした(笑)。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ人への手紙) で、佐藤優自身の結語はこうです。いちばん難しいことは、自分の内側にある悪と向き合うことです。この小説をきっかけに、ぜひ自分の内なる悪について考えてもらえればと思います。(P194) さて、この講義が村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の、具体的にはどこに注目したのかについて、まったく触れないで案内していますが、そのことが気がかりな方は本書を手に取っていただいて、村上の作品を読み直していただくのがいいかと思います。初めての方は、まず、村上の作品からお読みいただいて、面白ければ本書を、という順番がおすすめです(笑)。
2023.06.06
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「100days100bookcovers no52」(52日目)樋口一葉『たけくらべ』川上未映子訳(「日本文学全集13」 河出書房新社) DEGUTIさん紹介の『世界はもっと美しくなる』(奈良少年刑務所詩集 詩・受刑者 編・寮美千子)、Simakumaさん紹介の山下洋輔の傑作ジャズ小説『ドバラダ門』(新潮社)と来ました。 山下洋輔の祖父・山下啓次郎氏が担当した「明治の五大監獄」(千葉、長崎、鹿児島、奈良、金沢)の画像を見て、赤煉瓦の西洋風の外観に魅せられるとともに、懸命に西洋化近代化を果たそうとした当時の日本を感じたりもしました。 さて、監獄と言えば、ハンセン病の療養所も監獄だな…と、10年以上前に岡山県瀬戸市邑久町にある長島愛生園に、在日朝鮮人ハンセン病回復者でらい予防法国賠請求訴訟原告となられた金泰九(キムテグ)さんを訪問したことを思い出しました。また、日頃お世話になっている黄光男(ファングァンナム)さんはハンセン病家族訴訟原告団副団長です。世界の医学の流れに大きく後れを取り、この国の非科学的で人権を無視した政策と私たちの無知無関心による誤った偏見は、根拠なくハンセン病患者やその家族を監獄のような収容所(収容所だけでなく、社会も含む)に閉じ込めます。新型コロナウイルス感染者に対する不当な差別や攻撃も同じで、学習能力のないこの国の情けないこと(涙) そんな監獄つながりでハンセン病回復者の文学を最初は考えていたのですが(たまたま19日は金泰九さんの命日、20日は長島愛生園開園から90年でした)、昨日の午後、ふと思い立って姫路文学館の特別展「樋口一葉 その文学と生涯 貧しく、切なく、いじらしく」に行きました。今月23日までなので、3連休は来館者が多いかな、その前の平日に行かなくちゃ、と思ったわけです。樋口一葉は文学史で説明できる程度で、その文学と生涯を十分知っていません。井上ひさしの演劇「頭痛肩こり樋口一葉」は面白そうだな…でも観ていないという、その程度でした。 今回印象的だったのは、なにより女性として日本ではじめて職業作家を志したこと。比較的裕福であったころ、主席という優れた成績にもかかわらず、母の意見で学校高等科の進級をせず退学し、兄や父が亡くなり、実家が破産する中で家督相続人となり、裁縫や洗い張り、果ては荒物・駄菓子の店を開きながら小説家として生計を立てます。24才の若さで肺結核のため亡くなった…。 ああ、明治の時代の転換期の過酷な運命は、さながら監獄のように彼女を苦しめただろうと思ったのです。経済的にもう少しでも余裕があったならば、病で早く亡くなることもなかっただろうに…と。 特別展は見応えがあり、多くの作品、自筆原稿や書簡、日記などもありましたが、ここでは川上未映子訳『たけくらべ』を挙げます。一葉の『たけくらべ』が雑誌に連載されて120年という2015年に、川上未映子が現代語訳を出したことは頭の片隅にあったけれど、その本を実際に手に取ったのは初めて。姫路文学館に並べてある川上本は、川上未映子自身をイメージさせる素敵な装丁で、買いたかったけれど、お金の遣り繰りをしながら生活している私には勇気が出なかったのです。帰りに寄った図書館で、なんと「池澤夏樹個人編集日本文学全集13」に、夏目漱石、森鴎外とともに樋口一葉の『たけくらべ』を川上未映子訳で収録してあったのです! さすが、池澤夏樹!!と、ちくま日本文学全集「樋口一葉」とともに借りました。 『たけくらべ』の中の美登利は心惹かれる真如に想いを伝えられません。雨の降る日の、真如の下駄の鼻緒を切った場面や、美登利が突然不機嫌になる場面、真如が修行のために家を出る場面など、文章だけでなく映像がうかぶほど親しまれている作品ですが、今回は美登利の嘆きの箇所を比較してみます。「厭、大人になるのは厭なこと、どうして、どうして大人になるの。どうしてみんな大人になるの。七ヶ月、十ヶ月、一年、ちがう、もっとまえ、わたしはもっとまえにかえりたい。」(川上訳)「ええ厭や厭や、大人になるのは厭なこと、なぜこのように年をば取る、もう七月八月、一年も以前(もと)へ帰りたいにと老人(としより)じみた考えをして、…」(一葉) 直接話法、間接話法、その他すべてを無視して一葉の文語を口語文にするという方法で、一葉のほとばしる作品をリズミカルな川上小説にしています。(ちなみに松浦理英子も現代語訳をしているんですね!知らなかった。) このたび樋口一葉の『たけくらべ』(ちくま日本文学全集)とその年譜も読み、一葉が援助の交換条件に妾となることを求められて拒否したこと、借金を申し込んで断られたことなども知りました。また川上未映子も歌手や文学上の華やかな経歴が良く知られていますが、今回注目して調べたところ、「高校卒業後は弟を大学に入れるため、昼間は本屋でアルバイト、夜は北新地のクラブでホステスとして働いた。」 というたくましい経歴を知りました。樋口一葉は、社会の底辺を生きる遊女から上級官僚の妻までの女性たちの姿を描きましたが、川上未映子も同様に「地べた」(byブレイディみかこ)からの視点が定まっているということで、一層樋口作品川上訳の値打ちを感じました。 世の中はますます格差も分断も進んでいます。その象徴が感染者数の増加とGo Toなんとかの矛盾です。あまり報じられませんが困窮している弱者は多く、また自殺者に女性が多いなど心痛むばかりです。明治からずいぶん時は経つけれど、「見えない監獄」はあらゆるところに巧妙に生き残っているのでしょう。 明治の樋口一葉、そして現代の川上未映子の作品と生涯に触れる機会を得ることができ、しみじみとしています。ではSODEOKAさん、よろしくお願いします。(N・YMAMOTO・2020・11・21)追記2024・03・17 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.05.01
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村上春樹「猫を棄てる」(文藝春秋社) 久しぶりに村上春樹を読みました。「猫を棄てる」(文藝春秋社)です。 あの村上春樹が父親のことを語っていて、ベストセラーになっているようです。今年の4月の下旬に出て、手元にある新刊本は、7月で6刷ですからね。101ページの小冊子です。2時間で読めました。 読みながら、今なぜ「父親」のことを書いて、それを、おそらく、世界中に何万人もいるであろう彼の読者に読ませようとするのだろうということが引っ掛かっていました。読み終わっても謎は解けませんでした。 このエッセイの中にこんな一節がありました。 僕は今でも、この今に至っても、自分がずっと父を落胆させてきた、その期待を裏切ってきた、という気持ちを ― あるいはその残滓のようなものを ― 抱き続けている。ある程度の年齢を超えてからは「まあ、人にはそれぞれに持ち味というものがあるから」と開き直れるようになったけれど、十代の僕にとってそれは、どうみてもあまり心地よい環境とは言えなかった。そこには漠然とした後ろめたさのようなものが付きまとっていた。 ぼくは、ここで村上春樹が語っている「後ろめたさ」は、少なくとも、ぼくたちの世代、彼のデビュー作と二十代の初めに出会い、彼より少し年下の、かつての少年たちの多くに共有されていたような気がします。 少なくとも、ぼく自身は、ここを読んで、20代のぼく自身が村上春樹の小説に引き込まれた理由の一つがあるように感じました。 ぼくたちの父親たちは、村上の父親と同じように戦争を知っている人たちであり、子供たちに「学校」や「仕事」に対する、まじめな「努力」を期待していたように思います。そして、ぼくたちの多くは、戦争から帰ってきて、まじめに教員とか国鉄とかに勤めながら、子どもたちにそういう希代をする、その期待を、なんだかめんどくさいと思い、期待通りにできなかったのではないでしょうか。 それは、いつの時代でも父と子の間にある出来事と少し違ったのではないかというのが、この年になって感じることですが、村上はその「少し違った」ということを語ろうとしているように感じました。 そこがこの本に対する共感なのですが、だからどうだというのか、と考えてしまうとよくわからなくなります。 題名に「猫」が出てきますが、このエッセイの中で「猫」の話は二つ出てきます。父と棄てに行ったにもかかわらず帰ってきた「猫」の話と、もう一つは、少年時代、自宅の庭の松の木に登って行って消えてしまった「猫」の話です。 こういう挿話、特に消えてしまった猫なんていう話は、実に村上春樹的ですね。しかし、この挿話が何を語ろうとしているのかは謎でした。 どうも、彼は「この今に至って」、自分のなかの「時」を語ろうとしているようです。 自分の肉親や家族を話題にして、自分の中の何かを語るほど村上春樹らしくないことはなかなかないと思うのですが、本を手に取って感じた最初の疑問が「猫」と一緒に潜み続けているのはそのあたりでしょうか。結局、「猫」は見つからないまま読み終えましたが、妙に気にかかりますね。 しようがないので、新しい短編集「一人称単数」(文藝春秋社)を読むことになってしまいそうです。追記2022・08・11 本は手元にあるのですが、「一人称単数」はほったらかしです。何となく村上春樹なんて読む気がしない日々が続いています。で、先日、芦屋に行く用があって思い出しました。思い出したのは芦屋川沿いに芦屋浜まで、少年だった春樹君が猫を捨てに入った話です。 思い出につられて、阪急芦屋川あたりから、歩いて芦屋川の河口まで行ったのですが、芦屋浜なんていう浜辺はありませんでした。芦屋の海辺が埋め立てられて高層の未来都市ふうで不思議な住宅群が建てられたのが40年ほど前ですが、その沖合がさらに埋め立てられていて、記憶の風景とは全く違う眺めを、かつての芦屋川の河口から眺めました。村上春樹は、子どものころ猫を置き去りにしようとした浜辺なんて、今では、もう、影も形もないことは知っているのでしょうか。 いや、実に、空振りというか、記憶違いかなというか、不思議な体験でした。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.09.07
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「100days100bookcovers no4」4日目 村上春樹「中国行きのスローボート」中央公論社 1日ずつ3人でなら何とかなるかと思っていたが、早い。すぐに回ってくる。ということで、2巡め。 「九龍城」やSODEOKAさんの記事から何か思いつくものはないかと本棚を見ていたら、目に止まったのが内田樹『街場の中国論』で、そこからさらに思い付いたのがこれ。 昨今の香港の状況からすると、安易に中国を連想するのも何だが、今回はこれでいこう。 村上春樹「中国行きのスローボート」中央公論社 昭和58年5月二十日発行、定価980円。そうか1983年には単行本新刊が1000円を切って買えたのか。 7つの短編が発表年代順に収められた、村上春樹の最初の短編集。最初の短編である表題作が始まる前のページに、作者自身が『1973年のピンボール』の後に最初の四編が書かれ、『羊をめぐる冒険』の後に後半の三編が書かれた、とある。 個人的にはかなり熱心に村上春樹を読んでいた時期である。 それぞれの短編のタイトルにはみな覚えがあるが、内容を部分的にでも覚えているのは多くはない。 今回、試しに3つを読み直してみた。 「中国行きのスローボート」はある程度覚えていた。「カンガルー通信」は読んでいるうちにいくらか思い出したものの、細部はほとんど忘れていた。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は以前も何度か読む機会があったので、ほぼ覚えていた。が、タイトルと内容が一致していなかった。 当時、これをどう読んでいたのかはあまり覚えていないが、好意的だったのは間違いあるまい。 40年近く経って再読すると、さすがに感じ方は当時とはいくぶん異なる。 やはり村上春樹も若かったとは感じる。最近のは全然読んでいないから、比較云々ではなく。 主たる登場人物も概ね若い。 時代そのものの変化も、歳をとったこちらの変化も、それは時代に対する姿勢の取り方も含めて、当然あるわけだから、読んで感じることが変わるのも当たり前である。 当時は気の利いた表現と思っていたのが、それなりの違和感をもってしまう部分もある。 冒頭だけ読んだ『貧乏な叔母さんの話』では、まるで村上春樹のパスティーシュを読んでいるみたいな錯覚も覚えた。「始まりはいつもこうだ。ある瞬間にはすべてが存在し、次の瞬間にはすべてが失われている。」 そう思うと、ちょっと笑ってしまう。それでも、総合的には、今でも、そう悪くないんじゃないかと思う。そう思うのは否定できない。いや、否定しなくていいんだけれど。 ということで、SIMAKUMAさん、次、お願いします。(2020・05・14・T・KOBAYASI)追記2020・06・17 村上春樹「風の歌を聴け」・「ノルウェイの森」・「アフター・ダーク」・「みみずくは黄昏に飛びたつ」(1)・(2)はそれぞれ感想を書いています。題名をクリックしてみてください。追記2022・11・30 お友達とやっている本読み会の課題図書になったので、思い出して修繕しました。「100日、100冊」というブックカバー・チャレンジを、コロナ騒ぎの始まりの頃に始めて3年が過ぎようとしていますが、ようやくゴールしそうです。こうなったら、1冊目から修繕して、100冊並べてみようかとも思っていますが、それは冬休みの宿題ですね。 追記2024・01・17 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.06.17
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村上春樹「アフターダーク」(講談社)「2004年《本》の旅 その5」 作家村上春樹が作家生活二十五周年と銘打って、新作「アフターダーク」(講談社)をこの秋(2004年)発表しました。 近頃の本屋さんは売れるとなると、何万部、何十万部の売上を計画しているようで、同じ本が山のように積み上げられるコトになるのですが、あれは一体なんでしょうね。大体、小説を書いているような人が、まぁ商売上の都合はあるにしてもデビュー~周年なんておかしくないですかね。なんか演歌の歌手みたいですね。ブツブツ・・・ とかなんとか言いながらチャッカリ買って読んでいるんだから、まぁ批判に性根が入っていないですね。 その上あぁ「風の歌を聴け」(講談社文庫)から二十五年経つんだ。 とか、なんとか感慨にふけったりするわけですから、出版社の広告が、なんというか、ちゃんとツボにはまっているんですね。 いい年をしたおっさんが二十歳過ぎに読んだデビュー作以来、「1973年のピンボール」(講談社文庫)・「羊をめぐる冒険(上・下)」(講談社文庫)から始まって、「出たら、買う。」 で、二十五年読みつづけた相手なんだから嫌いじゃないんでしょう。でも「一番好きな作家は?」 と聞かれてもこの人の名前を出した事は一度もないから、その次くらいの作家だったし、今でもきっと、そうなんでしょうね。 彼を超人気作家にしたのは1987年に大ブレイクした「ノルウエイの森(上・下)」(講談社文庫)という作品だと思うのですが、多分、百万部を超える勢いで売れたと思いますよ。小説がそんなふうに売れるという「異常な出来事!」 の始まりの作品かもしれませんね。赤と緑に統一された印象的なその装丁が功を奏したわけですが、今となっては、経済成長の頂上のような1987年という時代と強く関係する現象だとは思うんですけどね。 作品の内容は互いに自意識過剰な男女が、相互理解の不可能性を確認しあった結果死んじゃうような話で暗いこと限りなしなんですが、とにかく流行りました。まあ、ケチをつけるようなことを言ってますが、そこには、やはり大勢の人の胸を打つものがあったんでしょうね。かくいうぼくも、嫌いじゃありません。 その後、この作家は地下鉄サリン事件・オウム真理教事件に強い関心を持つわけですが、小説で彼が描こうとしてきたこととこの事件への関心がジャスト・ミートしていたんだと、今となって気づくのですが、ちょっと、遅いですね(笑) ボク自身も結構ショックだった事件なのですが、彼の小説の登場人物とあの事件の登場人物たちとの共通性が、たしかにあったんじゃないでしょうか。彼が、小説の登場人物としてしか描きようのないと考えてた人間が現実に姿を現したことに対する驚きというんでしょうか。 今、急に思い出しましたが、ブルーハーツの名曲「月の爆撃機」の中に♪♪ここから一歩も通さない 理屈も法律も通さない 誰の声も届かない 友達も恋人も入れない ♪♪ という歌詞がありますが、ご存知でしょうか。 誰にでもあるにちがいない、他者が立ち入ることの出来ない「心の奥」の領域を唄っている名曲ですが、村上春樹が描く小説の登場人物たちはほとんど例外なく、この「心の奥」の領域から、ボク達が生きている生活の向こう側、あるいは壁向こう側の世界へジャンプすることで窮地を脱したり、心の奥の謎を解く場所にたどり着いたりしてきたのではなかったですかね? それは深い井戸の底からであったり、偶然転がり込んだ地下道からだったり。ブルーハーツの歌の主人公が、月に向かって飛ぶことで、黒い影となった爆撃機のコクピットに乗り込み、誰の目にも見えない宇宙の果ての世界に脱出して行くのとよく似た小説世界を村上春樹は描きつづけてきたとボクは思いますね。 主人公達は荒唐無稽な設定の中で、決して、冷静さや優しさを失わず淡々とその世界を生きていくのです。しかし、実際の生活の中で、ボク達は月に向かって飛ぶことを試みたり、心の底にどこかへの抜け道に通じる井戸があることを期待したりしません。だからこそ人々は小説を読み、ロック・コンサートに出かけるのわけでしょ。 もしも、本当に「〈私〉の重さ」をゼロにして空を飛ぶことを試す人がいたとしたら?そして、それを信じない人たちを爆撃し始めたら?サリン事件が作家に問い掛けた事はそういうことだったのではないでしょうか。 新作「アフターダーク」はセンスがあって音楽が好きでお人よしの男の子と、語学に堪能で少しエキセントリックなの女子学生のウィットとユーモアに溢れる、この作家らしい会話を中心に描かれています。彼らはおたがいに、礼儀正しく、優しく、親しく、穏やかな人間関係が作品の世界を作っています。彼らの周りの登場人物の多くはいい人たちで、いつもの「村上ワールド」の住人たちです。 しかし、二人に限らず小説に登場する誰もが「ここから誰も通さない」所から向こう側について触れようとしません。何だか、出口なしのニュアンスがとても強い作品なんです。 作品を読みすすめながら、読者のボクは、小説そのものが深く傷ついている印象を持ちました。何ごとかが終わってしまっていて、もう始まりようがないような世界に、作品が閉じ込められているように見えるんです。 それが、当然であるかのように主人公たちは恋に落ちることも出来ないし、互いに抱きしめ合って安らぐことも出来ない。「ここ」から逃げ出していくほかどうしようもない感じがしてきます。何だか、作家自身が困ったところに来ているんじゃないか、そんな感じですね。とても25周年をノンキに寿いでいる作品とは、ボクには思えませんでした。 ボクはここで悪口を言っているつもりはないのですが、小説を読んで「幸せ」になりたい人にはすすめられませんね。「やれやれ・・・」 にもかかわらずボクは彼の次の作品も読むにちがいないわけで、何がうれしいんでしょうね、困ったもんです。(S)2004・11・11 追記2019・10・26 村上春樹のこの作品も2004年なんですね。案の定、世評は芳しくありませんでした。彼は、この5年後「1Q84」を書いて復活(?)します。 ぼくはこの二十年位の社会の変化と、小説作品の「質的」な変化に何か相関するものがあるんじゃないかという興味を最近持っています。ノベール賞のあとの大江健三郎や、たゆまず書き続けている古井由吉が忘れられているかのような文学シーンには、本屋さんが煽って、その結果、「読者」に媚びているかのような作品がまかり通っています。「作家が喜ぶほめ方」を募集する企画までありました。もう、どっちもどっちなのかもしれませんが「作品」はどこに行くのでしょうね。 2004年に出た、この作品の題名が「アフターダーク」であることは、ちょっと考えてもいいというそういう興味です。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.10.29
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川上未映子・村上春樹「みみずくは黄昏に飛びたつ」(新潮社)(その2) さて、いよいよ「地下二階」です。一晩たって、考えたことなんですが、村上春樹さんが、どんな風に考えて小説を書いているのかなんて、小説を読む人にはどうでもいいことかもしれませんね。 でも、、たとえばインタビューしている川上未映子さんのような若い小説家と、村上春樹はどこが違うのかというふうな疑問は大切なことのように思えるのです。ヤッパリ、何かが違いますね。それがこういう所に出て来るんじゃないでしょうか。村上 で、ぼくは思うんだけど、集合的無意識が取引されるのは、古代的なスペースにおいてなんです。川上 古代的なスペース。村上 古代、あるいはもっと前かもしれない。ぼくが「古代的スペース」ということでいつも思い浮かべるのは、洞窟の奥でストーリーテリングしている語り部です。原始時代、みんな洞窟の中で共同生活を送っている。日が暮れると、外は暗くて怖い獣なんかがいるから、みんな中にこもって焚火を囲んでいる。寒くてひもじくて心細くて…‥、そういうときに、語り手がでてくるんです。すごく話が面白い人で、みんなその話に引き込まれて、悲しくなったり、わくわくしたり、おかしくて声をあげてしまったりして、ひもじさとか恐怖とか寒さとかつい忘れてしまいます。 ぼくはストーリーテラーってそういうものだと思う。僕に前世があるのかどうか知らないけど、たぶん大昔は「村上、お前ちょっと話してみろよ」って言われて、「じゃ、話します。」みたいな(笑)きっと話していてウケて、「続きどうなるんだよ」、「続きは明日話します」といった感じでやってたんじゃないかなというイメージが、僕のなかにあるんです。コンピューターの前に座っていても、古代、あるいは原始時代の、そういう集合的無意識みたいなものとじかにつながっていると、ぼくは常に感じています。だから、みんな待ってるんだから、一日十枚はきちんと書こうぜ、みたいな気持ちはすごくある。で、自分の前で聞き耳を立てているいる人たちの顔を見ている限り、自分は決して間違った物語を語っていないという確信は持てます。そういうのは顔を見ればわかるんです。川上 それは、自分自身の顔ではなくて、聞いている人たちの顔?村上 うん、まわりにいる人たちの顔を見てればわかる。そいう手ごたえが必ずある。で、それを利用しようとさえ思わなければ、それは「悪しき物語」にならない。 二人の白熱した会話は続きますが、これくらいでいかがでしょう。村上春樹の「地下二階」の「集合的無意識」と、川上さんのそれとの違いが「誰に語り掛けているのか」という問いの答えとしてはっきり表れていますね。 おそらく川上さんが見落としているのは「古代」と、わざわざ、村上さんが断ってい語っていることの意味ではないでしょうか。それは、ただの洞窟ではないし、語るのが恥ずかしい「私の洞窟」などではもちろんないことです。それが「村上春樹の地下二階」というわけです。 これこそが、村上の作品の「世界同時性」を支えている可能性がありますが、どうなんでしょうね。本人は否定的なようですが、「風の歌を聴け」の最初から、「今」という時代や社会に揺らがない場所としての「地下二階」を描こうとしていたのではないでしょうか。そして、たどり着いたのが「古代」の語り部のいる洞窟だったのかもしれないとぼくは思います。 最後になりますが、初期の作品をめぐって、面白い会話があります。ちょっと長くなりますが、引用しますね。川上 初期三部作の頃に書けなかったものって、今でもよく覚えてますか?村上 とても単純なことだけど、たとえば三人で会話するっていうのが、何故かうまく書けなかったんです。ブロックされていた。川上 それが「ノルウェイの森」で出来るようになったという。有名な話。村上 そう。「ノルウェイの森」で初めてそれができた。たしかにそうだったと思うな。二人で話すのはできるんだけど、三人で話すのはできなかった。川上 主人公に名前がなかったし。村上 そうですね。登場人物が名前を持っていないと、三人で話すのはすごく難しい。そして登場人物にうまく名前が付けられなかった。だから、職のぼくの小説って、必ず一対一の会話なんですよね。それから大きなアクションを伴うシーンとか、そういうのも難しかった。川上 アクションも難しかった?村上 うん。あと、セクシャルなシーンを描くのも難しかったような気がする。川上 本当ですか?村上 たとえば「羊をめぐる冒険」とかって、そういう描写はほとんど出てこないですよね。川上 確かに、「我々は性交した」ぐらいですね。村上 で、「ノルウェイの森」でそのあたりを一生懸命書こうかなと。川上 一生懸命書いて、三人で会話もして。村上 いやあ、もう嫌だな。恥ずかしいなと思いながら、がんばってセックスシーンをいっぱい書きました。一回書いてしまうと気が楽になって、それからは「村上はエロ作家だ」とか言われるようにまでなってしまった。今でもほんとは恥ずかしいんだけど。 ね、おもしろいでしょ。最近の村上作品について、「性愛シーンの頻繁さに辟易する。」 という、高齢の読者も知人にいらっしゃいますが、この話は笑えるでしょ。今時、20代30代の方で性愛とかいう人いませんが、70歳を越えた人が文学とかについて語ると、思わず出てくるので、えっ? て、笑ってしまうのですが、本論とは関係ありません(笑)。 でも、70代って、村上と同級生ぐらいの年齢だったりするんですよね。そのあたりに大事なことがあるとも思うんですね。 ともあれ、案内としては「地下二階」にこだわりましたが、村上ワールドに関心のある人は、お読みになって損はないでしょう。 全く触れていませんが、「騎士団長殺し」(新潮文庫)の販促イベントのような面もあるインタビューなわけで、そのあたりも結構語っていますからね。まあ、読みではあると思います。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.10.15
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川上未映子・村上春樹「みみずくは黄昏に飛びたつ」(新潮社)(その1) 川上未映子さんという人は、「乳と卵」(文春文庫)という作品で芥川賞をかっさらい、「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(青土社)という詩集で中原中也賞まで手にしたという才女。読んでいて「カチン!」と来るような鋭角の感性が漲っていて、それが「大阪弁」の響きと火花を散らしているといった趣がオリジナルな作風です。 ぼくは「ヘブン」(講談社文庫)、「すべて真夜中の恋人たち」(講談社文庫)あたりまで追っかけだったのですが、「ヘブン」でクッションマークがついて、「すべて真夜中の恋人たち」で、なんだかなあ、という感じがつのって、ちょっとパス状態でした。 その川上さんが、あの村上春樹にインタビューしたのが、この本「みみずくは黄昏に飛びたつ」(新潮社)。「ただのインタビューではあらない」 腰巻のキャッチ・コピーに、そう書かれていますが、「そうかもしれない」という気がしました。ぼくに、そう思わせた場面の一つがこういうシーンです。 連続インタビューの二回目に当たる第二章「地下二階に関すること」、このイラストに関する川上さんによる質問が繰り出されているところです。川上 村上さんは小説を書くことを説明するときに、こんなふうに一軒の家に例えることがありますよね。一階はみんながいるだんらんの場所で、楽しくて社会的で、共通の言葉でしゃべっている。二階に上がると自分の本とかがあって、ちょっとプライベートな部屋がある。村上 うん、二階はプライベートなスペースね。川上 で、この家には地下一階にも、なんか暗い部屋があるんだけれど、まあ、ここぐらいならばわりに誰でも降りていけると。で、いわゆる日本の私小説が扱っているのは、おそらくこのあたり、地下一階で起きていることなんだと。いわゆる近代的自我みたいなものも、地下一階の話。でも、さらに通路が下に続いていて、地下二階があるんじゃないかという。そこが多分、いつも村上さんが小説の中で行こうとしている、行きたい場所だと思うんですね。 おわかりでしょうか。川上未映子さんは、ここで、彼女の「村上春樹論」を展開しはじめていますね。続けて彼女は、とても興味深いことを語っています。川上 自分自身に密接した場所が地下一階にはあって、それはわりに共有されやすかったりもする。私たち作家は、物語を読んだり書いたりすることで、それぞれが抱えている地下一階の部屋を人に見せ、人に読ませています。これが、自分自身のための作業落として、それらを味わったり、地下の部屋を見るだけなのなら、まだわかるんですよ。自分を理解するとか、自分を回復するというだけならね。でも、それを人に見せて読ませるというのは、すごく危険なことをしているようにも思うんです。村上 なるほど。 ここで吐露されていることは、小説家である彼女の、今、現在の実作者としての小説観だといっていいと思います。作品が書かれ、それが他者に読まれることに対する不安が正直に告白されています。 ぼくが、この発言を「正直」だと感じるのは「ヘブン」や「すべて真夜中の恋人たち」といった、最近の彼女の作品が、「乳と卵」にはあった「何か」を失っている、もはや、「失速」していると感じていることとに起因しているように思います。 それは、たとえば、最近の芥川賞作品、村田沙耶香の「コンビニ人間」や今村夏子の「むらさきのスカートの女」にも共通した印象です。 川上未映子に限らず、村田沙耶香も今村夏子も、とりあえず、「地下一階」の住人の「お部屋案内」の作家だとボクは考えています。 誰からも理解されるはずがなかった私一人の「お部屋の案内書」が、商品化され、共感されていきます。「イイネ」の山と一緒に芥川賞なんていう「ご褒美」を期待したり、実際にが届いたりもします。それらはすべて、このインタビューで、つぎに話題になる「地下二階」に通じる階段からではなく、「お家の玄関のドア」の外から聞こえてくる「他者」達の世界の声です。 「商品」としての小説の世界はすでに流通・拡散しています。 かつて加藤典洋が「愚劣」という言葉で評した、「商品」としての作品を技術の成果として執筆している流行作家も存在しています。 「商品」化した「お部屋案内」が、「イイネ」のボタンを持って待ち構える、読者という名の消費者に出会うときに、何かが「劣化」していく「危機」に彼女たちは直面しているのではないでしょうか。そして、ひょっとしたら、彼女たちは対処を誤っているかもしれないと、ぼくは思います。 川上さんはつづけてこう言っています。川上 さらにそこから地下二階に降りていくこと。それも含めてフィクションを扱うということは、とても危険なことをしていると思っているんです。というのは、まず一つに、なんというかな・・・やっぱり、フィクションというものは実際的な力を持ってしまうことがあると思うからです。そういう視点で見ると、世界中のすべての出来事が、物語による「みんなの無意識」の奪い合いのような気がしてくるんです。 いよいよ、「地下二階の物語」、村上春樹の立っている場所に話は進んでゆきます。ただ、ここで、川上さんが「みんなの無意識」と呼んでいる「無意識」について、そのまま鵜呑みにはできないと、ぼくは思います。 「みんなの無意識」って「イイネ」という根拠不明の共感を煽ることで、消費社会が活性化させている「無意識」ですね。新しい作家たちを、あっという間に劣化させてゆくそれは、「地下一階の部屋」の床下あたり、あるいは、「地下二階」へと降りてゆく階段あたりにあるようなのですが、それって、「大衆社会論」や「大衆文化論」が、「ファシズム」や「全体主義」の温床とか、萌芽として、すでに、論じ尽くしてきたことであって、村上春樹の「地下二階」とは少し違うのではないでしょうか。 そのあたりをめぐって、インタビューはスリリングにつづきますが、今回はこがのあたりで失礼しますね。 村上春樹の「地下二階」をめぐっては(その2)で、案内したいと思います。(S)追記2020・01・30今村夏子の「紫のスカートの女」の感想はここをクリックしてくださいね。ボタン押してね!にほんブログ村【中古】 乳と卵 文春文庫/川上未映子【著】 【中古】afb【中古】すべて真夜中の恋人たち / 川上未映子コンビニ人間 (文春文庫) [ 村田 沙耶香 ]こちらあみ子 (ちくま文庫) [ 今村夏子 ]
2019.10.14
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村上春樹「風の歌を聴け」(講談社) シネリーブルで映画を見ていると「ドリーミング村上春樹」というドキュメンタリー映画の予告編が始まって、「完璧な文章などというものは存在しない」というテロップが流れて、ハッとしました。 村上春樹といえば、今や、ノーベル文学賞の有力候補であり、初期から中期の作品は「全作品1979~1989(全8巻)」・「全作品1990~2000(全7巻)」としてまとめられています。その後も「海辺のカフカ」から「騎士団長殺し」まで、長編だけでも、5作という作品の山があるわけですが、この作家のデビュー作「風の歌を聴け」の最初のページを記憶しておられる方はいらっしゃるでしょうか。 「完璧な文章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 ぼくが大学生の頃偶然知り合ったある作家はぼくに向かってそういった。ぼくがその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとして取ることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。 しかし、それでも何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。ぼくに書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。たとえば像について何かがかけたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。 これが、村上春樹が世に出した最初の小説の、最初の文章なのですが、映画はこのセリフを使っていたわけで、まあ、当然といえば当然という気がします。しかし、20代で彼の小説に出会い、以来40年近く、その作品の読者であった人間には、また別の感慨がありますね。 彼の比喩を真似るなら、彼は「象の話をしているのか、象の檻の話をしているのか」いつもそれがわからない。新しい彼の作品を「読むという段になると、いつも絶望的な気分に襲われ」ながら、それでも繰り返し読んできたのは何故だろう。それが、ここから始まったんだなあ、まあ、そんな感慨です。 ぼくは40年前に「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」を続けて読みました。それが始まりです。そして数年後に、出たばかりにの「羊をめぐる冒険」を読んだ時の絶望感を、今でも、はっきりと覚えています。「ぼくは、この人の小説が、何ひとつワカッテイナイノニ、ワカッタフリヲシテイル。」 こんな感じでしたね。でも、ぼくは自分の中によどんでいる絶望を押し隠して、新しく出る彼の作品をくまなく読み続けました。その間に、彼の作品はファッショナブルなアイテムのように、文字通り世界中の読者に受け入れられていきましたが、一緒にはしゃぐ気持ちにはなれませんでした。「みんなは、ナニガワカッテ、読んでいるのだろう。」 そんな感じでした。 映画館から帰ってきて、久しぶりに「風の歌を聴け」を書棚の奥から引っ張り出しました。ここから少し「案内」しますね。 この小説は1978年、29歳になった「僕」が、21歳の夏の出来事を書き記した作品です。書き手の「僕」が文章のお手本にしているのはデレク・ハートフィールドという、1938年にエンパイアステートビルの屋上から傘をさして飛び降りて死んだアメリカの作家だということがまず語られますが、村上作品が初めての方にはこの作家をお探しになることを、まず、お勧めします。きっと面白いことを見つけられると思いますよ。 さて、「僕」の物語です。小説の第2章にこう書かれています。 この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ月の8月26日に終わる。 東京の大学の4年生であった「僕」が、海の見える故郷の町に帰郷し、「ジェイズ・バー」という酒場で「鼠」と名乗る青年と、やたらビールを飲み、「小指のない女の子」と出会う。ビーチ・ボーイズをはじめ、おしゃれなアメリカンポップスがラジオやジューク・ボックスから聞こえてくる。「村上春樹ワールド」の始まりです。 この小説には、村上ファンには、誰でもとはいいませんが、かなり知られた謎があります。少し注意して読んでいくと、書き手の「僕」が書いている内容は「19日間の出来事」として収まっていないという事実に気付くはずです。もう一週間余分にかかってしまうのです。 亡くなった、批評家の加藤典洋が「村上春樹イエローページ」(幻冬舎文庫)で、丁寧に分析していらっしゃるので、そちらをお読みいただきたいのですが、「こっちの世界とあっちの世界」、「同時進行する、二つの時間」という、もう一つの「村上ワールド」が、この作品ですでに描かれていたのではないか、というわけです。 この話に関連していえば、今回、久しぶりにこの本を手にして面白かったことがありました。このブログ記事の最初に貼った写真をご覧ください。 「風の歌を聴け」(講談社)の単行本は、「倉庫が並ぶ波止場で座っている青年」を描いた佐々木マキのイラストカヴァーが付いた本なのですが、それを剥ぐった本体の写真です。 真ん中に「HAPPY BIRTHDAY AND WHITECHRISTMAS●」というロゴが入っていますね。 小説の39章にこんな文章があります。 これで僕の話は終わるのだが、もちろん後日談はある。僕は29歳になり、鼠は30歳になった。 鼠はまだ小説を書き続けている。彼はその幾つかのコピーを毎年クリスマスに送ってくれる。昨年のは精神病院の食堂に勤めるコックの話で、一昨年のは「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにしたコミックバンドの話だった。相変わらず彼の小説にはセックス・シーンはなく、登場人物はだれ一人死なない。原稿用紙の一枚目にはいつも「ハッピー・バースデイ、そしてホワイトクリスマス。」と書かれている。ぼくの誕生日が12月24日だからだ。 もう、お気づきでしょうか?この小説は「僕」の小説ではなくて、「鼠」が今年送ってきた小説なのです。加藤典洋の指摘とも関係しますね。作中の「僕」は、作中の「鼠」が書いた小説中の一人称であるということを、カバーに隠された「本の装丁が語っていた」わけです。久しぶりにちょっと興奮しました。 「ハートフィールド」といい、「装丁」といい、たくらみにたくらみを重ねた作品というわけですが、「ワカッタ!」というわけにはいかないところが困ったものです。どうでしょう、懐かしい作品だと思いますが、もう一度なぞ解きを楽しんで見るのも悪くないのではないでしょうか。 村上自身は初期の作品群をあまり評価していないと聞いたことがあるような気がしますが、やはり、ここが始まりだとぼくは思いますね。ちなみに、村上春樹の誕生日は1949年1月19日らしいですよ。(2019・10・06)追記2022・10・26 本読みの集いというか、参加している読書の会で村上春樹の話が出て、「そういえば」と、以前、このブログに書いたことを思い出して、久しぶりに読み直して、修繕しました。 村上春樹という作家には、ここでも書いていますが20代で出会って以来、40年以上付き合ってきたわけです。加藤典洋の「イエローページ」や内田樹の「ご用心」に限らず、多くの人が彼についてあれこれ書いていて、そういうのも追いかけてきたわけですが、やっぱりよくわかりませんね。最近「一人称単数」(文藝春秋社)という短編集を読読みましたが、ナルホドと納得しながら、やっぱり「わからなさが」引っ掛かりましたね。 ただ、彼も、いよいよ、「老い」に直面しているんじゃあないかというのが、新しい印象でした。彼も70歳を越えたはずですし、読んできたこちらも60代をそろそろ終えるわけです。以来、40数年、時が経つのは止められませんね。いやはや・・・トホホ。にほんブログ村にほんブログ村【中古】 村上春樹イエローページ 1 / 加藤 典洋 / 幻冬舎 [文庫]大学での授業がベースですね。【中古】 風の歌を聴け 講談社文庫/村上春樹(その他) この表紙です。村上春樹全作品(1) 1979〜1989 風の歌を聴け/1973年のピンボール [ 村上春樹 ]
2019.10.07
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村上春樹「ノルウェイの森( 上・下)」(講談社文庫) およそ10年前、ぼくは高校生に向かって、こんなふうに「村上春樹」を語っていました。今でも、同じように感じているところがほとんどだが、少し考えが広がったところもあります。それを語り始めると、少々手間がかかりそうです。とりあえず、ぼくの2010年の「ノルウェイの森」をお読みいただければ嬉しいのですが。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 中間テストに突入する。テスト初日の午後には保護者会がある。「ああ、テストの問題は!?」「ああ、保護者の人に、何しゃべろ!?」と行き詰って、ほとんど寝ないまま、突入!ということになってしまったのだが、実はおバカな理由がある。村上春樹「ノルウエイの森(上・下)」(講談社文庫)にハマっていたのだ。 発端は、「ノルウエイの森が映画になっとうで。」 と、我が家で話題になってしまったことにある。「どんな話やのん。」「いや、そんなこと。読む前に言うたら、おもろないやろ。エエーっト、直子いうねん。主人公の、彼女は。それで、主人公はワタナベ君。神戸の子やで、二人とも。」「菊地凛子や、それが。主人公は松山ケンイチ。」 という訳で、あったはずの本を探し始めたのだがこれが見当たらない。とうとう、「ブック・オフで探してきてよ。」 と、主客転倒。「あったよ、合計210円。」「はいはい。」 と、なぜか、買ってきたぼくが、先に読み始めて、ハマってしまったのだ。 村上春樹の小説はもう馴染みだし、この小説だって1980年代の終わりに大ブレイクした時に単行本で読んだ。今さらハマルとは思わなかった。 もしも、高校生の皆さんの中に、彼のファンがいらっしゃれば、きっと同感されると思うけれど、彼の文体には、不思議なドライヴ感があることは確かで、読み始めると止められないところがある。しかし、なぜ、今、ハマってしまったのか。 大ブレイクした時に購入したのは、真っ赤な上巻と深い緑色の下巻のセットがおしゃれな本だった。本がおしゃれの小道具になる時代だった。最近、復刊されている文庫本はその装丁を復活して本屋さんに並んでいる。 もっとも、僕には、当時、その本を人前で開くのが恥ずかしかった記憶がある。「どうも、時代についていけてないな。」 僕はそんなふうに思った。だからだろうか、今回読み直しながら、この小説があの時、なぜ、あんなに評判になったのだろうと、とても気になった。 主人公の「ワタナベくん」は神戸から東京に出てきた大学生。彼の高校時代の親友の恋人だった「直子」がヒロイン。二人にとって、それぞれ親友であり、恋人だった「キズキくん」は二人を残して自殺しているという設定なのだが、東京で再会した二人は物語の必然のように恋に落ちる。しかし、この恋は成就しない。ストーリーとしてはそれだけの話。 ところで、恋が成就するとはどうなることをいうのだろう。ただ、おしゃべりしたり、手を握り合っているだけじゃなくて、セックスして、やがて、めでたく結婚して、子供が出来て・・・ということだろうか。互いに、肉体だけでなく心の全てをさらけ出して、求め合うことができる事を言うのだろうか。それならば、この二人はかなりな所までたどり着いているといえるのだが、あと数センチ、いや数ミリかな、届かない所で終わってしまう。 小説を読めば、このたとえが単純な比喩でないことはわかると思うのだが、ともかくも、これだけ深く愛し合いながら破綻せざるを得ないように描かれる二人の関係が、リアルであったことが大流行した理由であることは間違いないと思う。 しかし、こんな手の込んだわざとらしい設定をなぜ当時の人々はリアルと考えたのだろう。 大澤真幸という社会学者が「不可能性の時代」(岩波新書)のなかで、恋愛に限らず、《理想の不可能な時代》 として1990年代以降の社会を論じている。この小説の中でも、セックスをはじめとする、人間関係の描写が実に技巧的、演技的に描かれながら、ついに「愛」に到達することができない。「いたわり」とか「やさしさ」という言葉で表すことしか出来ない関係を描いてしまっている。大沢の言う「恋愛の不可能性」を描いているといえると思うのだ。 この小説に熱中した1980年代の終わりころの人々は、その不可能性を大衆的にリアルであると納得していたのではあるまいか。そう考えると、今度の映画が、いったい何を描いているのか、実に興味深くなってくるのだ。そして、高校生諸君はこの小説をどう読むのかもね。(S) 2010/11/05追記2019・10・05 ぼくはこの「案内」を書いた後、実はこの作品を二度以上読んでいますが、この作品について新たに考え込んでいることが二つあります。 一つ目は「蛍」という短編として発表されていますが、この作品のなかでも、かなり印象的なシーンとしてある「蛍の挿話」がこの作品中に書かれている意味はなにかということですね。 二つ目は、この小説は、語り手である、37歳の「僕」がハンブルグに着陸する寸前の飛行機の機内で「めまい」を感じるシーンから始まり、「直子」の死の後、「レイコさんとの一夜」があり、「緑」に電話するシーンで終るのですが、最初の眩暈をめぐる描写と、最後の描写の意味についてです。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼び続けていた。 これが、この長編の最後の一文なのですが、「存在の場所」の、この喪失感が、この物語を語っている「僕」の意識であるとしたら、物語に登場した数人の男女は、「いったい何時、何処にいたのだろう」、そういう疑問を感じます。 作家は、ここで、何を語ろうとしているのか、結構難しいと思いますが、それについてはまたいずれという感じですね。追記2020・10・17 棚の整理をしていると、この本が三種類出て来ました。その上、文庫版は同じ装丁が重複しています。だから計4種類ですね。なんでこんなことが起こるのでしょうね。不思議ですね。 まあ、同居人チッチキ夫人の持ち物と、シマクマ君の持ち物が一つの棚で同居しているということがありますから、これもその例でしょうが、二人とも二度づつ買ったというのでしょうか。 この作家の場合、文庫版と単行本版の重複はよくありますが、おなじ文庫を、そんなにたくさん貯蔵してどうしようというのでしょうね。不思議です。追記2023・05・20 村上春樹が「街とその不確かな壁」という新しい作品を発表して、一応、話題になっています。「1Q84」の時のような大騒ぎになるのかと思っていましたが、さほどでもないことに、むしろ驚いています。20代の女子大生に時々会う機会がありますが、彼女たちが村上春樹を読んでいる気配は全くありません。大騒ぎから10年経って、旬を過ぎたということなのでしょうか。 映画館にたむろしているのも、村上春樹で騒いでいるのも、ジーさん、バーさんばかりということなのでしょうか。なにか、とてつもなく貧しい時代が始まっているようです。 まあ、村上春樹も、今や老作家なわけで、こんな時代に何を考えているのか、とりあえず、最後になるかもしれない新作を読んでみるしかなさそうです。読めれば、ボクの村上体験も、とりあえずのゴールです(笑)。にほんブログ村にほんブログ村騎士団長殺し 第1部〔上〕/村上春樹最新作ですね。村上春樹全作品(1) 1979〜1989 風の歌を聴け/1973年のピンボール [ 村上春樹 ]これが始まり。
2019.10.04
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