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読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 16
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養老孟司×名越康文「二ホンという病」(日刊現代・講談社) 市民図書館の新刊の棚にありました。養老孟司と名越康文、元解剖学者と精神科医、まあ、お二人ともお医者さんですね、だから、まあ、「二ホンという病」ということになったんだろうと思います(笑)。名越という方の文章を読むのは、初めてですが、養老孟司は「バカの壁」(新潮新書)でバカ受けする、はるか以前からのファンです。 ボクにとっては、おしゃることが、まあ、最近、そういう方は減ってしまいましたが、その数少ない、信用できる方のお一人ですね。 というわけで、借り出してきて、なんだか、すらすら読み終えて、やっぱり、ありましたね。養老 僕はなんだか、日本の原題を象徴しているのが、凶弾に倒れた中村哲さんという人をどう評価するかってことだと思う。まったくないんですよ。沈黙になってしまっている。 中村さんは戦後の日本の模範みたいな人でしょ。それなのに「医者が個人でアフガニスタンで勝手なことをしていた」というのが日本社会、政治の感覚じゃないですか。中村さんが、そんなことをボソッとこぼしてましたね。 中略名越 そうか、叙勲も何もないんだ。異様ですね。養老 そんなことより、戦後の日本はあの人をどう評価するんですか。 中略 別にほめなくてもいいけど、どう位置付けるかでしょうね。個人の自立って話だけど、中村さんなんかは典型的にそうですけど、今度はそれをどう評価するかっていう問題があって、何の物差しも持っていないですよ。ポカンっていう感じですよね。 まあ、二ホンという社会の「病」の話ですから、ここからは、いや、ここまでも、思想抜きのアホ政治、いつの頃からの流行か忘れましたが「リアル・ポリティクス」とかいう言葉が作り出した「現実」の「病」の指摘ですね。問題は思想抜きってどういうこと? ですが、そこは、この対談だけ読んでも、多分すぐにはわかりませんね。要するに普遍的に判断する基本がないってことですが、そこを考え始める本かもですね。 日刊ゲンダイという夕刊紙の連載対談ということもあって、コロナとかウクライナとか、話題は多岐に広がっていますが、こういう発言がポロリと出てくるとホッとしますね。 で、もう1か所、最後のコラムでこんなことをおっしゃっていて、笑いました。 日本の喫煙所はね、絶対にたばこを吸わない人考えたんですよ。あんな閉鎖的なところで吸ってもちっともおいしくない。東京に出ているときにね、たばこのことを考えるとすぐに家に帰りたくなりますよ。家では好きな時に吸えますからね。そう言えば、「丸」が生きていた時、あいつの前で吸っていても大目に見てくれていましたね(笑)。(「コラム②タバコと価値観」P204 ) 世の中に、ちょっと、イラっとすることがあるけど、まあ、木から落ちてくる虫や、道端の花の世界に取り合っている方がいいや! とか、どうせ、おれは喫煙者だし・・・ というタイプの人向けの本ですね。でも、考え始める気があるなら、ヒントは山盛りです。さすがですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.04
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小島渉「カブトムシの謎をとく」(ちくまプリマ―新書) 市民図書館の新書の新刊の棚で見つけました。2023年の8月に出た本です。「カブトムシの謎をとく」小島渉という背表紙に目がとまって、手に取って表紙を眺めて、裏表紙裏の著者略歴を見ると、1985年生まれ、東大の大学院を出た博士さんで、山口大学の先生のようです。38歳のようです。わが家の愉快な仲間の誰かと同じくらいの年恰好で、まあ、それにしてもカブトムシです(笑)。 60年ほど昔、小学校3年生の時にファーブル昆虫記に夢中になったことが浮かんできました。覚えているのはセミとフンコロガシ(カナブン)の話です。もう一度パラパラやって借りてきました。 下に貼った目次をご覧になればわかりますが、第1章はカブトムシ研究者への道と題されていて、自己紹介です。かなりディープな昆虫少年だったようですが、この1節にウーンとなりました。 水生昆虫を探しに行くと、ヘビにもよく出会いました。よく目にしたのはシマヘビとヤマカガシです。そのうちヘビの美しさに魅了され、見るたびに捕獲し、写真として記録するようになりました。カエルもお気に入りの動物の一つでした。普段見かけるのはトノサマガエル、ヌマガエルやアマガエルなどの普通種でしたが、一度だけ大きなヒキガエルを捕まえたのをよく覚えています。(関東の人には信じられないかもしれませんが、奈良県の平野部ではヒキガエルはなかなか見られません)。ヒキガエルを捕まえたら確かめたいことが一つありました。それは、耳腺と呼ばれる目の上のふくらみから分泌される毒液の味です。耳腺を圧迫すると、図鑑に書いてある通り、乳白色の毒液がにじみ、少し舐めてみると強烈な苦みを感じ、天敵への防御効果を身をもって理解できました。私が幼少時に行った思い出深い“実験”の一つです。(P18) おいおい・・・ですね(笑)。だいたい、ヘビが美しいとかいう感覚についていけませんが、ヒキガエルの毒液を舐めるって、きみ! という感じです。イヤー、困った中学生ですね。 まっ、そういうわけで、すっかり引き込まれて、久しぶりの昆虫記体験でした。語り口はご覧のとおりで、まあ、理系の青年の作文ですが(エラそうでスミマセン)、カブトムシが何を食べていて、カブトムシを食べるのはいったい何者か(想像つきます?)ということに始まって、現代昆虫学の現場報告は、なかなか面白くて、一気読みでした。 後半ではアゲハ蝶やコガネムシの話に広がっていくのですが、高校生ぐらいを相手に「昆虫学の世界へ!」 という優しいお誘い(?)の気持ちが充満していてなかなかうれしい本です。 とはいうものの、誘われても、今更な69歳の老人は「ものしり・うんちくネタ」に出合うたびにポスト・イットを貼るのに夢中でしたが、語る相手がいないことに、ハタと気づいて、チョット落胆の読書でした。 折角なので、この場を借りて、ちょっとだけ、付け刃のうんちくです。カブトムシの食べ物は樹液だそうで、クヌギの木がメインですが、今、関東地方に広がっているナラ枯れの原因でもあるそうです。それから、カブトムシを食べるのはカラス、タヌキ!、ハクビシン、野生のネコだそうで、角とか頭の部分は食べ残して胴体を食べるのだそうです。 老人は、ナラの木を枯らしてしまうほどのカブトムシの群れがあることにカンドーでしたが、現代社会から見える虫たちの世界と、虫たちの世界から見える現代社会の姿の両方が、相変わらず昆虫少年を続けていらっしゃる、まあ、実に奇特な学者さんの視界には広がっているようで、ただのオタク・ブックでは終わっていませんね。 お若い方々が、こんな本があることに気づいて、面白がってくれるといいなと、いや、ホント、マジに思いました。 目次まえがき第1章 カブトムシ研究者への道/昆虫に夢中/思い出の池/魅惑の図鑑類/鳥への情熱/進化生態学との出会い/昆虫を研究対象に/山口の自然環境【コラム】台湾での生活第2章 カブトムシはどんな昆虫?/カブトムシの分類/カブトムシの種数/カブトムシは本当に1種類?/カブトムシの一生/成虫の短い寿命/幼虫の餌/オスの角と大きい体/ユニークな配偶行動/カブトムシと人間との深いつながり/都会派のカブトムシ/カブトムシは希少種だった?【コラム】ナラ枯れとカブトムシ第3章 幼虫のくらし/幼虫の餌の質が成虫の体の大きさを決める/発酵の進んだ餌の見つけ方/卵の大きさと成虫の大きさ/幼虫が成長するしくみ/幼虫はなぜつねに最大速度で成長しないのか/幼虫はいつ蛹になるのか【コラム】〝大きさ〟って何?第4章 カブトムシを食べたのは誰?/散らばる死体の謎/犯人はカラス?/もう一つの天敵/カブトムシはおいしい?/食べられたのはどんな個体?/大型の個体は食べられやすい/高い捕食圧【コラム】タヌキが捕まえたのは?第5章 活動時間をめぐる謎/小学生による大発見/1通のメール/面白い着眼点/「自由研究」から「学術論文」へ/You are never too young to be an ecologist/なぜ昼まで居残るのか/シマトネリコでは物足りない?/さらなる調査/オオスズメバチとカブトムシ/オオスズメバチを排除する/法則はシンプルだとは限らない【コラム】屋久島での大発見第6章 カブトムシの生態の地域変異/遺伝か環境か/謎多きオキナワカブト/ユニークな屋久島のカブトムシ/九州のカブトムシ調査/短い角の進化史に迫る/素早く成長する北日本のカブトムシ/カブトムシの成長を記録する/成長速度を解析する/北海道の外来集団は進化しているのか/素早く成長するためのメカニズム/卵の大きさの地域変異/大きい卵を産む理由【コラム】調査の間の楽しみ第7章 昆虫はどのように天敵から身を守るのか/石垣島のジャコウアゲハ/恐れ知らずな有毒種/警戒心の強さ比較/場所を変えて調査/甲虫の〝硬さ〟は鳥からの防御に役立つ?/ウズラ以外にも通用するのか/食べてもらう工夫/鳥からの捕食回避/【コラム】逃避開始距離で警戒心の強さは本当に測れる?【コラム】毒蝶は体温が低いあとがき 引用文献
2023.10.26
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100days100bookcovers no78(78日目)池内了『物理学と神』集英社新書 川上弘美の『神様』というKOBAYASIさんからのバトンは10月21日に受け取りましたが、あいかわらず遅れていてすみません。仕事を一つを片付けられたと思ったら、風邪をひいてしまい、いつまでも治らなくてぐずぐずしています。本はすぐに決めたのですが、読み直していても、老化でなかなか頭がついていかなくなってて、読むだけでも時間がかかってしまいました。 以前、村山斉の『宇宙は何でできているのか』のあとに続く本として、『幼年期の終わり』にするか、これにするか迷ったのですが、あのとき選べなかったこの本を今回取り上げることにします。 池内 了 著 『物理学と神』集英社新書 2002年12月初版ですが、私が持っているのは2007年10月29日第15刷とありますから、随分増刷されたんですね。その上、今回初めて知りましたが、その後、2019年2月に講談社学術文庫で発行されているらしいです。その文庫も図書館から借りました。文庫版のあとがきには「思いがけなく多くの支持を得て集英社新書のロングセラーになった。しかし、さすがに10年を超すと手に取ってみる人も少なくなり、絶版の危機を迎えていた。基本的には物理学史の本であり、時代とともに古びる内容でもないので、このまま姿を消すのは残念だと思っていた。幸い、講談社学術文庫から声がかかり、その一冊に加えてもらえることになって喜んでいる。同文庫の一冊になれば長く読み継がれることが期待できるからだ。」 と、文庫化の経緯も書かれていました。私もこの本は残ってほしいと願っています。 手に入れた当時の本の帯には「神を拒絶したはずの物理学者は、実は神に踊らされているのかも……」 とあります。当時は小説を全然読まなくなって、それより、柳田理科雄の空想科学読本シリーズや「子どもの科学」や「ニュートン」などの雑誌やらサイエンス・エッセイの方が面白いと思っていました。そんなころですから、この帯の惹句はドンピシャで惹かれました。宇宙観の歴史がわかりやすく面白く書かれていました。文章がいいのですが、お兄さんはドイツ文学研究や翻訳で有名な池内紀です。物理学もドイツ語圏ってすごいですね。お二人とも、姫路西高校ご出身ですね。お互いいい影響を与え合う関係だったのでしょうか。姫路には歴史や文学や文化の厚みがあるのでしょうね。(池内紀の訳のおかげで『ファウスト』も読むことができましたし、カフカやゲーテについてのものも、温泉や散歩のエッセイもどれも落ち着いたユーモアのある筆致が好きでした。おととし亡くなられたのがとても残念です。) 以前はとてもおもしろいと思って手放さずにおいていた本ですが、実はほとんど消化(理解)できていないことが理解できて、いざ書くとなるとどうしようかと七転八倒しています。 現代は科学が宗教に取って代わった時代と言われ、物理学(自然科学)と神(宗教)は無関係なはずですが、ちょっと考えたら、ニュートンの万有引力やアインシュタインのエネルギーの公式が、ほとんどすべてのものに(量子は別)当てはまるのって、不思議で感動的で、私も神さまがいるのではないのと思ったことがあります。私は、人間社会も物理法則や生命現象のアナロジーとした方が腑に落ちるんです。つい、中二病的な類想が浮かんできます。―重力の大きい物ほど引っ張る力が強い→大きな資本が小さな資本を呑み込む経済現象。適者生存、自然淘汰。エントロピーは増大する→ものは必ず散らかる。重力から遠いほど位置エネルギーは大きい→高い所にいるものほど(権)力は大きいーなど、勝手に結び付けたりして遊んでいますが。 神と物理学を並べる狙いを筆者はあとがきに書いています。――(略)そもそもの意図は、歴史的に物理学者が「神」や「悪魔」をレトリックとして使って、物理法則の美しさを称えたり、難問を考え出したりしてきたことを、現代から逆照射して、その本来の意味が何であったかを考えてみようというものであった。机の上では唯物論者である物理学者だが、自然の摂理を解き明かしていくうちに、その絶妙な仕組みに感嘆して秘かに神の存在を仮想することがある。かくも美しい法則は神の御技でしかあり得ないだろう、と。あるいは、自らの審美眼と相容れない自然の姿に逢着すると、それを否定するために神を持ち出したりもする。厳密な論理を組み立てて得られた物理法則であれば、それを気に入らないと拒否するためには神に頼るしかないからだ。一神教の西洋に発した近代科学も、神と無縁であったわけではないのである。 そこで、物理学の歴史をたどりながら、それぞれの時代において物理学者が神の名を使って何を表現しようとしたかを提示してみようと考えた。―― また、物理学法則の特徴や概念を専門用語も数式も使わずに説明する手段として神や悪魔に仮託しようとの狙いだったと書いてもいます。そのおかげで、私も多少は、今までどんなことが問題とされてきたのかがわかりました。 筆者による「神の変遷史」を書いてみます。 第1期 17世紀の近代科学の夜明け 第1章 神の名による神の追放 この章あたりは、高校時代の倫理社会や古典物理学で習ったことの復習を兼ねて、ヨーロッパの自然科学が神の唯一絶対神の縛りをほどいて活気づくあたりのことなので、わかりやすくおもしろかったです。自然哲学の研究が始まったために、神が書いた二冊の書物―「自然」の仕組みと『聖書』の記述―が矛盾していることが発見された。天動説では、神は宇宙の中心の地球にあることが保証されていた。しかし、惑星の観察が進んでいくと、天動説では7つの星の運動を説明するためには、80を超える円運動を組み合わせなければならなくなった。星の観察が進み、さらに複雑で醜悪な理論が必要になるうちに、「神はもっと単純で美しい宇宙を創ったはず」、最小の仮定で最大の結果が得られる理論こそ美しいとの立場に立てば、地動説に移ることになった。そして、地球が宇宙の中心という特権的地位を失った時、唯一神が地球に在るという根拠もなくなってしまった。 コペルニクスの時代は、宇宙とは太陽系のことなので、神の座は宇宙の中心の太陽に据えるべきでしょうが、燃え盛る灼熱の太陽ではさすがの神も居心地が悪いだろうからと、コペルニクスは、神の居場所と宇宙体系とを切り離した。一方、ルター派やカルヴァン派は聖書に書かれていることが正しいと考え、天動説を主張し続けた。(そういえば、今も福音派の中にはそう考えるひともいると聞きます。) ガリレイが天の川が無数の「太陽」の集まりであることを発見して、宇宙は一挙に拡大することになった。そして、神はより広い星の世界全体を統括する存在になった。こうして、神は地上から追放されたが、折しも、地上の権力が教会から世俗領主に移ったのと時を一にしている。 ニュートンは1682年、宇宙は無限であると証明。もし、有限なら宇宙には中心と端があることになり、端のものは万有引力で中心に落下するから、宇宙は潰れてしまう。宇宙がつぶれることなく永遠に存在するためには、中心も端もない無限空間に星が散らばり、万有引力は互いに消し合っているに違いない。無限宇宙こそ完全なる神にふさわしいとした。 地動説、ガリレイの実験、デカルトの方法論など、近代科学の黎明期は、神が地上から追放され、神の名による干渉を受けずに自然研究が可能になった時代であった。 第2期 18世紀から19世紀末 神々の黄昏がゆっくり訪れた時期 第2章 神への挑戦―悪魔の反抗 第3章 神と悪魔の間―パラドックス この章では、神授された王権が衰退し、神のような永久機関と魔術のような錬金術も諦められた経緯がかかれていました。代わって、職業的科学者らがエネルギー保存則、エントロピー増大則を提唱します。その法則を宇宙にあてはめたら、宇宙は熱死することになると言い出す始末。また、宇宙に存在する星からの光をすべて足し上げると、太陽の明るさよりもっと明るくなって「夜空は明るい」ことになるはずとの謎も提出される。でも、この問題が解かれるはるか以前の1845年に、エドガー・アラン・ポーが『言葉の力』というエッセイで「宇宙には金の壁(ゴールデンウオール)があって、それより向こうの星の光は我々に到達しない」とか、1848年の詩論集『ユリイカ』で「あまりに宇宙が巨大であるため、光線が未だ到達し得ない領域がある」と述べたことが紹介されています。筆者はおそるべき詩人の直感と書いていますが、私もこのほうがなんとなく、なんとなくですが、イメージしやすいと思いました。 第3期 20世紀初頭、すべてを統括する神は退場し、新しい装いで再登場 第4章 神のサイコロ遊び マックス・プーランク、ニールス・ボーアの量子論、ハイゼンベルグの不確定性原理、アインシュタインの一般相対性原理の時代。このあたりはもう私にはお手上げですね。アインシュタインは最初、この確率論が気に入らなくて「神はサイコロ遊びをしない」と言ったそうです。でも、現在のIT機器は、不確定原理の量子論のおかげで機能しているんですってね。 また、ハッブルによって、宇宙が膨張していることが発見され、宇宙の熱死問題も解決された。宇宙空間は膨張し続けているので、星の廃熱を捨てられる場所もどんどん増えているんだそうです。そのかわりに、いつ、どんなふうに膨張が始まったのかが問題になってきたらしい。神が最初の一撃を加えたら膨張し始めてあとは傍観しているだけっていう説。ビッグバンですね。この説を揶揄して「ビッグバン(大きいバンって擬声音)みたい」と言われたがその通りという冗談のようなネーミングなんだそうです。 第4期 20世紀後半 神は本当に賭博が好き 第5章 神は賭博師 カオス論や複雑系が論じられる時代。この部分はレポートはパスします。「フラクタル」という自己相似的な現象についてのエピソードだけ紹介します。(例えば、木の太い幹から大きな枝へ、大きな枝から小さな枝にと次々分岐していくパターン。宇宙も、月が地球を回り、地球は太陽を、太陽系は銀河系を、銀河系はアンドロメダ銀河を回っている。割れたガラスの破片も似ていることが多い。) 寺田寅彦がちょっと出てきます。――かつて、寺田寅彦が興味を持ち(ガラスを何百枚も壊して破片の数分布を数えたとエッセイに書いている)、その弟子の平田森三(もりぞう)が専門としてさまざまに考察した(キリンのまだら模様と田んぼのひび割れた形の類似性に着目した)が、形を定量的に表現する方法が見つからなかったので、そのまま立ち消えになってしまった。フラクタル幾何学が提唱され、また空間分割や対称性の研究などが進んで、形の研究はようやく物理学の範疇に入ってきた段階と言える。―― ここで、最も古いフラクタル世界を表現したものとして、平安時代の曼陀羅図があげられているのが面白いです。世界は唯一神ではなく、八百万の神々が鎮座するという思想の表現ですね。この世をフラクタル世界なら、神は唯一ではなく、無限にどこにでも存在するという宗教観に移っていくのでしょうか。 第5期 現在 神はさまざまな危機に直面している 第6章 神は退場を!―人間原理の宇宙論「この宇宙はなぜ存在するのか」という問いに対し、神ではなく、人間にこそ答を得るための鍵があると主張する「人間原理」を唱える職業科学者(悪魔)が現れてきました。実際不思議なほど、この宇宙は人間に都合よくできているのだそうです。つまり、「この宇宙の主役は人間であって神ではない」と言えるそうです。著者は、この傲岸不遜な説には批判的ですね。 第7章 神は細部に宿りたもう 物理学の根本的矛盾を楽しんでいるような感じがします。 普遍的な平等世界を創る存在であったはずの神なのに、実は不平等な現実世界をもたらしている元凶であることが暴露されて、神への根底的不信感が芽生えてきた。神は、本来、対称(平等、一様、対等、普遍)な原理的世界を体現する存在であるはずなのに、この現実世界は対称性を破らねば創り出せない。「原理は対称、現実は非対称」なのだ。とすると、神は非対称(不平等、区別、差別、特殊)な現実世界を創ることに腐心してきたと考えざるを得ない。でなければ、人間も、神もこの世に生まれなかったことになる。自ら対称世界を具現しつつ、それを否定しなければ自らが存在しえない。神は大いなる矛盾に遭遇していると言えそうだ。 最近は経済物理学という分野もできているらしい。まだそのまま信用するわけにはいかないが、簡単な議論で本質的な部分を導き出すことはできる点が面白いと紹介している。 これから 神は姿を変えて再び立ち現れるだろう 第8章 神は老獪にして悪意を持たず 宇宙論の危機と言われているそうですが、当たり前。今のところ、人間は宇宙の地平線までの距離の300分の1しか観測できていないし、宇宙の95%の成分について、知らないまま。それなのに、わかったふうに、宇宙の年齢や構造を論じているそうです。著者はまだまだわからないことがいっぱいあることを楽しんでいるかのようです。 著者は、かつてBS-NHKの「フランケンシュタインの誘惑」という番組によく出ていて、科学や技術を持ち上げるような雰囲気のときには、水を差すような御意見番のような役回りをしておられましたね。日本の科学者の立場がどんどん苦しくなって研究費にも事欠いているとは思うのですが、選択と集中で研究費を獲得しやすい研究にも目を光らせなくてはとも思いました。湯川秀樹博士、益川敏英博士のように、社会の科学研究利用に厳しい視点を持たれていると感じました。 物理学はやっぱり手ごわかったです。自分で消化できないまま引用に頼ったので、お読みになりにくい点が多々あるかと思います。見える現実から離れて遠くの世界のことを思い浮かべ、これこそ現実なんだなって思うのは楽しい時間でした。クリストファー・ノーランの映画のいくつかのシーンがよく思い浮かんできました。 SIMAKUMAさんは、きっと読まれたことがおありかと思います。また、いろいろ教えてくださいね。今回の「人間原理」もYouTubeを参考にしました。家で大学の公開講座が見られるなんて、便利な時代になりましたね。お次をよろしくお願いします。2021・11・14・E・DEGUTI追記2024・05・03 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.08.07
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郡司芽久「キリン解剖記」(ナツメ社) 解剖はいつも突然に 私とキリンが紡ぐ研究の物語を始める前に、まずは私の仕事である「キリンの解剖」について具体的にお話ししようと思う。キリンの解剖をする機会は意外に多いので、読者のみなさんにも突然チャンスがやってくるかもしれない。いつ解剖のチャンスが訪れても困らないよう、解剖の手順や必要な道具などを中心にご説明したい。(P014) マア、こういう調子で始まります。久しぶりに帰宅した、ゆかいな仲間の一人、ピ-チ姫が「これ、おもろいで!」と置いて帰った本です。 表紙を見ると、郡司芽久「キリン解剖記」とあります。何となく読み始めて、止まらなくなりました。シマクマ君は60年以上生きてきたわけですが、キリンの解剖をする機会はもちろん、キリンそのものにもここ数年で会った記憶がありません。にもかかわらず、「じゃあ、さようなら」といってページをパタン!とさせない吸引力が、この書き出しにはありました。 「キリンの解剖」なんていう、普通に暮らしている人間には「まったく」といっていいほど、縁のない世界に、「はい!はい!よってきて!はいってみて!」という掛語を張り上げる元気!が、この書き出しにはあるのですね、きっと。 読みすすめれば、わかりますが、文章は、東大出の博士とは思えない平たさで、まあ、素朴です。キリンが好きでたまらない学生さんが、いきなり解剖刀を握り、キリンの長い首の皮をはいでいくところから始まります。 動物園で死んでしまったキリンが、どんなふうに扱われ、どこに運ばれるのか。で、結局、どうなるのか、ご存知の方はいらっしゃるのでしょうか。まず、そういうことがわかります。 シマクマ君には、特別に「キリンがすき!」という思い入れがあるわけではありませんが、どんどん読めました。郡司さんが2008年、初めて出会った「夏子」の遺体にはじまって、2015年、たった一人で「八番目の首の骨」を確認するために、1週間かけて向き合った「キリゴロウ」との出会いまで、一気読みでしたが、その150ページほどの間に、何も知らない学部の学生さんだった郡司さんは、13頭のキリンに解剖刀を構えて立ち向かい、博士論文をお書きになる学者に成長なさっていましたが、そんなことは全く悟らせないところが、この「キリン解剖記」のよさでした。 ちなみに、彼女が最初に出会った「夏子」は、神戸の王子動物園でシマクマ君も出会ったことのあるはずのマサイキリンで、「キリゴロウ」は富山のファミリーパークにいた、たぶんアミメキリンです。それぞれの名前をクリックしていただくと生前の本人に出会えますよ(笑) で、無事博士号を取得した郡司さんが、本書の最後に記した言葉がこうでした。無目的、無制限、無計画。「何の役に立つか」問われ続ける今だからこそ、この「3つの無」を忘れず大事にしていきたい。 座右の銘にしたい名言ですね。 その次のページには参考文献がずらっと並んでいましたが、ほとんどが横文字で、シマクマ君には全く歯が立たない一覧でした(笑)。
2022.05.01
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関なおみ「保健所の『コロナ戦記』」(光文社新書) 図書館の新刊の棚にありました。何気なく手にとってみると、目次の次のページに、こう記されていました。 プロローグ 1月23日深夜から東京は戦争状態に突入した 戦争が勃発すると、人々はこういう。「長続きはしないだろう、あまりにばかげたことだから」。たしかに戦争はあまりにばかげたことかもしれない。だが、だからといって長続きしないわけではない。(『ペスト』カミュ 光文社古典新訳文庫) 読まないわけにはいかない吸引力ですね。著者は関なおみさん、東京都の保健所の公衆衛生医師として勤務されている方で、コロナ騒ぎの最初から、ほぼ最前線で戦ってこられた方のようです。本書にはTOKYO2020-2021と副題があるように、2020年の1月から2021年の9月30日まで、保健所という現場で起こった出来事と、それに対する関なおみさんの感想、意見、思考が、とても早口で記録されていました。 もちろん、文章に「早口」なんてことはあり得ないわけですが、今どきはやりの「リスク・マネージメント」が通用しない非常事態が進行している中で、ダメージ・コントロールを最優先にした語りは「早口」にならざるを得ないわけで、関さんが本書を上辞されたらしい2021年の10月にも事態は進行していたわけですから、彼女の語りが最後の最後まで、次々と畳みかけてくる早口の印象を読手が持つのは当然ではないでしょうか。 たとえば、延期されていた東京オリンピック開催直前の「2021年6月 検証してみた。」の章の後半の副題をあげてみるとこうなっています。24時間365日対応問題「電話がつながらない」問題HER-SYS隊の活躍(情報共有の簡素化)陽性者の移送・居所確保の問題濃厚接触認定問題「スカスカの発生届」問題自宅療養者の救急妖精問題「不要不急」の問題-投票は国民の義務?不都合な真実 で、たとえば最後の「不都合な真実」の記述内容はこうなっています。 COVID-19発生以降、様々な提言が行われる中、ついに6月18日、政府対策本部と組織委員会宛に、新型コロナウイルス感染症対策分科会専門委員会有志による「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技会開催に伴う新型コロナウイルス感染拡大リスクに関する提言」が提出された。 これらの提言はある意味、政治家にとっては不都合であろう。とはいえ、専門家も公衆衛生医師も、理想を抱きつつも現実主義者であり、夢想家ではない。常識的に考えて、オリンピック・パラリンピック開催に違和感を持たない者はおらず、中止になることを祈らない者はいなかった。 とはいえ結局この願いは、その後、むなしく響くことになる。 というわけで、「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技会」の強硬開催の結果、保健所や医療現場でなにが起こったかということは7月、8月の記述に続くわけです。 ぼくが「早口」といったのはこの辺りの記述スタイルをさしていますが、読み手は「船腹に大穴をあけられ、浸水と戦っている乗務員が、もう一発砲弾が飛んでくるのを見て『早口』にならないわけにはいかないだろう」という、同情というか、共感というか、怒りというかにうながされて、「早読み」になるという利点もあるわけです。 思えば、始まりは2020年の1月だったのです。本書の記録は2021年の9月までですが、2022年4月現在、2年と4か月が経過したわけですが、次々と飛んでくる砲弾と浸水を続ける事態が終わったわけではありません。ああ、新型コロナウイルス感染症騒ぎのことですよ。 シマクマ君は、何とか無事に生きています。一応65歳を超える高齢者で、肥満、タバコの常習性がありますから感染するとかなり危険だという自己認識はあります。なるべく人と出会わないようにする以外には、特別にガードを高くする暮らしをしているわけではありませんが、まあ、とにかく今のところ無事です。 で、さなかにゴミだらけのマスクを配って人気取りをした挙句、オリンピックを強行した政治のやり方、イソジンが効くとか騒いだバカもいましたが、まあ、そういう「あほらしさ」にうんざりしたというのが正直な感想で、最近では、政治家があれこれ言うことには何の興味も関心もありません。 まあ、そういういい加減な傍観者スタイルに対して本書は結構なハードパンチでした。関なおみさんの意見に反対か賛成かとか、現場用語がわかるとか、そういうことではありません、この騒動の間中、保健所という現場には真摯に働いている人がいるという、実は、当たり前の前提に目を開いてくれたことが一番の収穫でした。 最後にあとがきで書かれている執筆動機には、ちょっと泣けましたが、彼女の結論はこんな感じでした。 いままで話したすべての観察に基づいて、こう述べなければならない。ペストに最も有効な薬は、それから逃げることだと。後世への処方箋としてここに書き残しておきたい。(以下略) 「ペストの記憶」ダニエル・デフォー 納得でした。イヤ、ホント、量は多いのですがすぐ読めますよ(笑)。
2022.04.25
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100days100bookcovers 59日目村山斉『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』 幻冬舎新書 遅くなりました。最初に言い訳しておきますが、2月半ばか終わり頃まで仕事関連でなかなか時間が取れません。たぶん次回も同様だと思います。どうかご了解のほどを。 前回、SODEOKAさんが取り上げた寺田寅彦の『柿の種』からどうつなげようかと最初は結構思い悩んでいたのだが、あるときにふと彼が「物理学者」であることを思い出した。ということで 以前試みて断念した「あさって」の方向へ跳ぶことにする。 『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』村山斉 幻冬舎新書 物理学は別にして、宇宙関連の話題は昔から割に好きなのである。 2010年に出た新書だが、実は読んだのは昨年。ずっといわゆる「積読」の中の一冊だったのだが、そのときに読んでいたリチャード・パワーズの『われらが歌う時』の上巻の読みにくさに音を上げて、一服しようと思って手にとったのがこれだった。 著者の村山斉は1964年生まれ。素粒子物理学の専門家。2000年よりカリフォリニア大学バークレイ校教授、2007年より2018年まで東京大学数物連携宇宙研究機構(IPMU)の初代機構長。オフィシャルサイトを見ると現在は機構長は退いて、主任研究員ということらしい。 主な研究テーマは超対称性理論、ニュートリノ、初期宇宙、加速器実験の現象論など。とはいえ、まぁ何というか、名前くらいは聞いたことがあっても大半は「何言ってんのかわかんないんですけど」みたいな感想しか持てないわけだけれど。 さらに言えば、「数物」は数学と物理のことだと「序章」に書いてあるのだが、「数物」という、愛想もへったくれもない「短縮形造語」を組織のオフィシャな名前の一部にするというセンスはどんなものだろうかと訝らないでもない。が、それは本題ではないのでここでは置く。 本書は序章を除けば、5つの章から構成されている。序章 ものすごく小さくて大きな世界第1章 宇宙は何でできているか第2章 究極の素粒子を探せ!第3章 「4つの力の謎を解く-重力、電磁気力第4章 湯川理論から小林・益川理論へ-強い力、弱い力第5章 暗黒物質、消えた反物質、暗黒エネルギーの謎 序章から第1章、第2章にかけては、わからないところはむろんあるがそういうところは適当に読み飛ばせば結構おもしろく読めたのだが、3章、4章はかなり怪しい。というよりほとんどわかっていない。5章になるとまたいくらかわかったような気になる、というところか。 それでも入門書ということもあって著者は、用語をやさしく言い換えたり喩えを使ったりと素人にもできるだけわかりやすく伝えようとしている。その姿勢はよくわかる。 ただ話が話だけにどうしても説明も専門的にならざるをえないところがあり、あとは読者次第なのだろう。 ちなみに今わかったのだが、本書、2011年度の新書大賞受賞作である。 では、ざっと内容を紹介する。 とにかくスケールの振れ幅の大きい話である。 宇宙のことを語りだす際に、著者はまず「大きさ」から始める。 東京タワーの高さを物理学でよく使う表現で表すと、およそ3X10の2乗メートル(実際は、10の右上に累乗の小さな2が乗っかっている表記の仕方)。スカイツリーは、6X10の2乗メートル。富士山は、桁数が1つ上がり10の3乗になる。 地球の直径は12000キロメートルで、メートルに直すと桁数は10の7乗。地球の公転軌道は富士山の1万倍のさらに1万倍、10の11乗のオーダー。太陽系は「天の川銀河」の片隅にあるが、この銀河は地球の軌道の約10億倍、10の20乗のオーダー。天の川銀河が他の銀河と一緒に構成する「銀河団」は天の川銀河の1000倍程度、10の23乗。 現時点で観測できる宇宙のサイズは1つの銀河団のさらに1万倍、10の27乗ということになる。 では、反対に素粒子はどれほどの大きさなのか。 「素粒子」とは文字通り物質の「素」になる粒子。かつては原子がそう考えられていた。ちなみに直径10センチのりんごを原子に分けると10の26乗ぐらいになるそう。りんご1個の大きさと原子1個の大きさは、天の川銀河と地球の軌道の大きさの比と同じくらい。 原子1個の直径は10の-10乗メートル。それが原子核と電子に分割されることがわかり、原子の直径は、電子が回る軌道の直径であることがわかる。原子核の直径は電子の軌道よりずっと小さく10の-15乗。 しかしさらに原子核が陽子と中性子、中間子といった内部構造をもつことがわかり、それらもいくつかの粒子によって形成されていることがわかる。それが「クォーク」と呼ばれ、現時点では素粒子と考えられている。大きさはどんなに大きく見積もっても10の-19乗、おそらく10の-35乗くらいだとも言われる。 宇宙の10の27乗と素粒子の10の-35乗の間の途方もないスケールの隔たり。これが私たちの世界の「幅」だということになる。これをつなげるのが「ビッグバン」宇宙論。 ご承知のように「ビッグバン」は、「宇宙は誕生直後から膨張を始め、現在の大きさになった」 という説。 私は昔からこれが不思議で、では宇宙が誕生する前は「そこ」に何があったのか、はたまたなかったのか。ただ「ない」ということがどういうことなのかがわからない。さらに「無」から「ビッグバン」がなぜ発生したのかも。ただ、「ビッグバン」説そのものには証拠も見つかっているとのこと。 話を戻すと、つまり膨張した現在の宇宙を遡れば、ビッグバン時の極小宇宙に戻る。素粒子の世界である。著者はこれを「ウロボロスの蛇」に喩える。 本書のテーマは大きく二つ。 まずは、物質は何でできているのか、そしてその物質を支配する基本法則はいかなるものか。となると、後者のほうが話が専門的で複雑になるのはわかる。先述のように、物質は原子でできているわけだから宇宙の星も原子でできている。どんな原子なのかは光によって判定可能だ。 しかし、星から届くのは光だけではない。たとえばニュートリノ。これも素粒子の一つ。2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊の研究でも知られる。宇宙から飛んできたニュートリノを世界で初めて捕まえたのが岐阜県神岡鉱山地下に設置された「カミオカンデ」なる観測装置。 宇宙から大量に降り注ぐニュートリノを見つけるのは至難の業らしいが、1987年にカミオカンデで11個のニュートリノが検出された。これは大マゼラン星雲で起きた超新星爆発によって生じたものだという。何ででそんなことがわかるのかは、むろん私にわかるはずがない。 その超新星爆発は、銀河全体よりも明るくなるほどの光を放ったが、その光のエネルギーは爆発によって生じたエネルギーの1%にすぎない。99%はニュートリノによるものだった。それほど多くのニュートリノが放出されたからこそ、カミオカンデが11個を捕まえられた。 ちなみにその爆発した超新星は地球から16万光年の距離にある。ニュートリノも16万年かけてカミオカンデにやってきたというわけだ。空間的な大きさだけではなく時間的な長さにも目がくらむ。Wikiの「地球史年表」で確認すると、ホモサピエンスが現れたのが19万から20万年前。15万年前にはマンモスがヨーロッパに現れた頃。 しかし、「大マゼラン星雲」ってどこかで聞いたことがあるなと思ったら、『宇宙戦艦ヤマト』でヤマトが向かう「イスカンダル」が存在する星雲だった。 話を戻す。 現在一つめのテーマの物質は何でできているのかについては様々な新事実が明らかになっている。カミオカンデのスペックを大幅に上げたスーパーカミオカンデによってニュートリノがすべての星と同じくらい存在することがわかったのだが、ではすべてに星は宇宙の中でどの程度の割合を占めるのかといえば、これが何と0.5%。つまりニュートリノと併せてもわずか1%しかない。ただしこれは質量ではなくエネルギーに換算した結果。でもアインシュタインの「E=MC2」(2は2乗の意)によってこれが成り立つ。 では残りは何か。星以外の宇宙にあるすべての原子をかき集めても全エネルギーの4.4%にしかならない。原子以外のものが96%ほどを占めている。これがわかったのが2003年。つい最近だ。 残りの約96%が何かはまだ判明していない。しかその一つには名前だけは付いている。「暗黒物質」(ダークマター)。この呼称はおそらくかなり前からあったはず。 いずれにしろ正体不明ではあるが存在することはわかっている。なぜなら、ニュートリノと同様、それが存在するのを前提にしないと説明できないことがたくさんある。 重力を計算しても星やその他の原子をだけでは、間に合わない。暗黒物質は宇宙全体に遍在している。それが全エネルギーに占める割合は23%。これを加えてもそれでもまだ27%くらい。 残りは何かというと、これも名前だけは付いていて「暗黒エネルギー」(ダークエネルギー)。紛らわしいネーミングだ。 暗黒物質と暗黒エネルギーの違いは何か。 暗黒物質は、正体不明とはいえ物質としての振る舞いをする。宇宙の膨張につれ密度が薄まる。しかし暗黒エネルギーは密度が薄まらない。さらにいえば、そんな不気味なエネルギーを前提にしなければ、宇宙の膨張が「加速」しているという「非常識」な現象が説明できない。 宇宙の膨張については、永遠に膨張し続けるのか、極限まで膨張してから収縮に転じるのか、いずれかで、どちらも膨張のスピードは徐々に減速することが前提だった。ところがつい最近になって、膨張が加速していることがわかった。その原因、つまりビッグバンの際に「投げ上げられたボール」が減速しないように後押ししているのがその「暗黒エネルギー」だと考えられている。その得体のしれないエネルギーが宇宙の約70%を占めている。 著者によると、宇宙に関しては、21世紀に入ってから「わからない」ことが数多くあるとわかったんだそう。 先ほどの暗黒物質と暗黒エネルギーもそうだが、反対に「存在しない」ことが不思議なものもあるという。「反物質」がそれ。 すべての物質には、性質は同じで電荷だけが反対の「半物質」が存在する。ビッグバン時には「物質」同様「反物質」も同じだけ生まれたはず。しかし現在の宇宙には自然状態で存在する「反物質」が見当たらないという。あるいは物質の「質量」がそれによって生まれると考えられる未知・未発見の粒子がある。それが莫大な量だと推測され、しかしその実態はすべてが謎だという。 実はここまででまだ第1章。せめて第2章までは紹介したいと思っていたのだが、難しそうなので後は、いくつか簡単にピックアップするだけにする。・望遠鏡は宇宙のどこまで見られるのか。スペックを上げていけば宇宙の「果て」まで見られるのかというとそうではない。それは技術的な問題ではない。約130億光年先の銀河が限界。なぜか。130億光年先の星を見るということは、130億年前の星を見るということになる。宇宙の誕生は今から137億年前と推定されるが、誕生から2億年ほどの宇宙はまだ星ができていない状況。そこには光というものがない。ばらばらの原子と暗黒物質だけ。だから望遠鏡では見られない。・太陽内部では、水素が核融合反応を起こしてヘリウムに変換され、膨大なエネルギーを生み出しているが、45億年ほど先に水素を使い果たした太陽はヘリウムを燃やし始める。その時に太陽は地球を呑み込む膨張しているはずだが、もしかしたらその前に天の川銀河がアンドロメダ銀河と衝突しているかもしれない。・「クォーク」はジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の中に出てくる「鳥の鳴き声」から採られた名前。・素粒子には、「排他原理」の働かない、同じ場所にいくらでも詰め込める性格をもつものもある。・デンマーク出身のボーアらが唱えた、量子力学における「コペンハーゲン解釈」は、観察者が「見る」まで、ある粒子の位置は決められないというもので、当初はアインシュタインやシュレーディンガーも異を唱えたが、現在は物理学のスタンダードな考え方になった。・量子電子力学では荷電粒子同士の「光子の交換」で説明する際に「ファインマンズ・ダイアグラム」で図示されるが、図では、「反粒子」は時間を逆行することになる。これはちょうどノーランの『テネット』を観て間もない折りだったので結構おもしろがれた。・暗黒物質がもしなかったら、そもそも太陽系や銀河系自体が存在せず、つまり私たちも存在していないはずである。・物質と反物質が出会うと互いに消滅する。なぜ現在、宇宙に反物質がなく物質しかないのは、最初の段階で物質が若干だけ多かったからで、その差は計算すると、10億分の2。でもなぜこの差がついたのかは、まだわかっていない。言ってみれば私たちが宇宙に存在する理由が物理的にはまだわかっていないということである。・宇宙の終わりについて。もし膨張が止まったら、その後収縮が始まり、やがて潰れる。これを「ビッグクランチ」という。ただこれは宇宙の膨張が減速するという仮定の基に考えられていた。実際は先述の通り、膨張は加速している。膨張速度が無限大に達した時には「ビッグリップ」(「rip」は引き裂く」の意)が起きる。銀河系も星もばらばらになって分子や原子になり、さらにそれらも素粒子になる。・私たちの身体は超新星爆発の星くずでできている。 中途半端な紹介になってしまった。よくわからなかった第3章、第4章についてはほとんど触れられなかった。ということで、本書は、文系の私にはわからないところも随分多かったが、読んでいる間はずっとわくわくしていた。妙な「高揚感」みたいなものがあった。 たぶん昔から、大風呂敷の話が好きだった。それが現在の日常に関係あろうがなかろうが、役に立とうがそうでなかろうが、広い見晴らしのいい風景や視野が開けるだけで何となく気分がいい。穏やかな気分になれる。 読み終えて改めて思ったのは、私たちの生存は「奇跡」的な確率の積み重ねによって初めて叶えられているということである。 では、次回、DEGUTIさん、お願いします。(T・KOBAYASI・2021・01・15)追記2024・03・25 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.08.24
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斎藤道雄「治りませんように べてるの家のいま」(みすず書房) 「悩む力」(みすず書房)を読み、ここで案内しました。で、続けて、同じ著者斎藤道雄の「治りませんように」(みすず書房)を読みました。 「悩む力」が出版されたのが2002年、この本が出たのが2010年です。この本では、北海道浦河のベてるの家の人たちの、「悩む力」からの、ほぼ十年の姿が報告されています。 本を開いて、最初の章の題は「記憶」でした。 かつて、ハンガリー東部のユダヤ人村に暮らしていた六人の裕福な家族は、少年ひとりを残し全員が煙突の煙と消えていった。一九四五年、解放されたとき十五歳になっていた少年は、自分だけが消えた家族の証であり、自分だけが家族の過酷な運命を記憶すべく、この世に残された存在だったことを知る。 立ち上る煙の記憶のもとで、少年はひとりつぶやくのだった。「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください」煙になった家族に、そして生き残った自分に、少年は語りかけている。「ぼくは幸福になったりしませんから。けっしてしあわせになることはありませんから」 ホロコーストを生きのびた少年は、自分だけが幸福になる、とはいわなかった。しあわせにならないといったのである。そうすることで、失われたものの記憶を自らの生につなぎとめたのだった。 しあわせにならない。 あなた方を忘れないために。あなた方の死を生きるために。そしてあなた方に対して開かれているために。 この思いが、やがて時を超え、二つの大陸を超えてゆく。 そして、もう一人の若者のこころにこだまする。 アウシュビッツもホロコーストも知らないもう一人の若者は、「幸せにならない」生き方を自らの生き方とし、過疎の町に根を下ろすのであった。そこで時代を超え、状況を超えてあらわれる人間の苦悩をみつめながら、苦悩の先にもう一つの世界を見いだそうとしたのである。 その次の第2章の題は「死神さん」で、この本の主人公(?)の一人である、「統合失調症」を生きている鈴木真衣さんという方の話に移っていきます。 この本の面白さ(?)は、鈴木さんをはじめとする、ベてるの家で生きている人たちの「病気を宝にしていく」過程のドキュメントにあると思いますが、最初の章に記されているアウシュビッツの少年の逸話の意味が、ずっと気にかかりながら読みすすめました。 気がかりを解く答えは、200ページを超えて読みすすめてきてたどりついた「しあわせにならない」と題された最終章にありました。 この章は、著者の斎藤道雄さんがベてるの家を支えてきた、精神科のソーシャルワーカーである向谷地生良さんや彼の家族と昼食を共にした時の逸話から書きすすめられています。 覚えていますか。ぼくが浦河に行きはじめてまもなく、1998年にインタビューしたときに向谷地さんから聞いたことですが、こういう話をしてくれましたね。ユダヤ人の作家のエリ・ヴィーゼルの本を読んだことがあると。その本のなかに出てくる場面です。アウシュビッツの生き残りの少年がいて、家族はみんな収容所で死んでしまったけれど、ひとり生きのびて収容所を訪れ、こういったという話です。「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください。ぼくはけっしてしあわせになることはありませんから。」 この話、覚えていますか。 もちろん。 と向谷地さんはうなずいた。横に座っていた宣明さんも、ああその話、聞いたことがあるという。 あの話ですが、ヴィーゼルのなんという本に載っていましたか? 「夜」だったかなあ。 それが、ないんですよ。(註:宣明さんは向谷地さんのご子息) エリ・ヴィーゼルという作家の「夜」三部作をくまなく探した斎藤さんが、向谷地さんは、おそらくこのシーンを読んで立ち止まったに違いないと発見した記述の部分が本書に引用されています。 この夜のことを。私の人生をば、七重に閂をかけた長い一夜えてしまった、収容所でのこの最初の夜のことを、決して私は忘れないであろう。 この煙のことを、決して私は忘れないであろう。 子どもたちの身体が、押し黙った蒼穹のもとで。渦巻きに転形して立ち上ってゆくのを私は見たのであったが、その子供たちの幾つもの小さな顔のことを、けっして私は忘れないであろう。 私の〈信仰〉を永久に焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを、けっして私は忘れないであろう。 生きていこうという欲求を永久に私から奪ってしまった、この夜の静けさのことを、けっして私は忘れないであろう。(「夜」エリ・ヴィーゼル著・村上光彦訳・みすず書房・1967) ご覧の通りヴィーゼルの文章の中では、少年はつぶやかないのです。 では、誰が、なぜ「しあわせにならない」とつぶやいたのでしょう。それがベてるの家に通い続けた斎藤さんの問いでした。 斎藤さんが浦河に通い始めて間もなくの頃、ソーシャルワーカーの向谷地さんがインタビューに答えた、あの時の話に出てきた、「しあわせにならない」とつぶやいた少年は向谷地さん自身だったのではなかったか? 斎藤さんは、直接問い詰めていく中で、向谷地さん自身の少年時代の体験や「結婚してしあわせになったらどうしよう」と不安だったという人柄を丁寧に記しながら、読者に対しては、こんなふうにまとめています。「しあわせにならない」という言葉が、少年のものだったか向谷地さんの思いこみだったかは、さほど問題ではない。それより、ヴィーゼルの著作に触発され、「しあわせにならない」ということばを思い、その言葉に強く同化してゆく向谷地さんの姿こそが、私にとっては重要だったのである。それはいかにもベてるの家にふさわしい、苦労の哲学の背景をなす相貌だからだ。 斎藤道雄の二冊の著書を読みながら、ずっと考えていたことがあります。それは一言で言えば、「ぼくはどんな顔をしてこの本を読み終えればいいのだろう。」という問いです。 で、この最終章を読みながら、ホッとしました。 ジャーナリスト斎藤道雄自身も、「しあわせにならない」という生き方をする人間たちを前にして、たじろぎながらも、敬意をもって、そして執拗に「わかる」ことに迫ろうとしていたのだと感じたのです。 「悩む力」にしろ本書にしろ、下手をすればスキャンダラスな見世物記事になりかねないドキュメントなのですが、著者自身の「人間」に対する姿勢が、見ず知らずの人間が手に取り、胸打たれながら読むことを、自然に促す「名著」を作り上げていると思い至ったのでした。
2021.08.08
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斎藤道雄「悩む力」(みすず書房) 小説家のいしいしんじさんがツイッター上でこんなつぶやきをもらしていらっしゃいました。 生涯ナンバーワンの読書経験、といっていいです。ぜったいのぜったいにお薦めです。写真家の鬼海弘雄さんに「いしいさんはこれ読めよ」と押し付けられたのが出会い。ああ。鬼海さん、ありがとう。 どこかで聞いたことがある書名だと思いましたが、まあ、それはともかく、つぶやきのなかに出てきたのが鬼海弘雄という名前でした。写真のことなんて全くわからないのですが、その写真集には、ただ、ただ、圧倒された印象のある方で、「ああ、この本は読まなっくちゃあ」というわけで読みました。 斎藤道雄「悩む力 べてるの家の人びと」(みすず書房)です。 表紙の「べてるの家の人びと」という副題を見て、どこで聞いた名前か思い出しました。「ベてるの家の非援助論」という本が我が家のどこかの棚にあるはずですが、そんな本に関心を持っていたころに出会っているはずです。高校の図書館の係をしていて、1800円という価格を見ながら、入れようか入れまいか悩んだ覚えがあるのですが、情けないことに、入れたかどうか覚えていません。 著者の斎藤道雄という人はTBSというテレビ局のプロデューサだった人のようですが、本書は斎藤道雄さんによる「ベてるの家」の取材レポートといっていいと思います。 「ベてるの家」というのは北海道の浦河という町にある、まあ、一言でいえば「精神障碍者の自立施設」の名前ですが、そう呼んだ、とたんに生まれるかもしれない先入観はとりあえず捨ててお読みになってほしい本でした。 内容はお読みいただくほかないと思うのですが、登場する一人一人の人たちの、人間としての存在感が強烈で、先ほど言った、ぼくにもある「先入観」を剝ぎ取ってゆく読書体験で、鬼海弘雄という人のポートレート写真を見る体験と、どこか似ていると思いました。 斎藤道雄さんは、「絶望から」という最終章で、向谷地生良という、ベてるの家を支えてきた、ソーシャル・ワーカーの方について語りながら、こんなふうにまとめておられます。 絶望、すなわちすべての望みを絶たれること。 それはベてるの家の一人ひとりさまざまな形で体験してきたことだった。分裂病で、アルコールで、うつ病で、あるいはそうした病気がもととなる差別偏見で、一人ひとりがそれぞれどん底を経験し絶望にうちひしがれてきた。そこで生きることをやめようと思い、けれどそうすることもままならず、生きのびたすえに気がつけば精神病という病を背負ってひとり荒れ野に残されている。そうした人間がひとり集まりふたり集まり、群れをなし場を作り、暮らしを立ててきたのがベてるの家だった。 そこでは、生きることはつねにひとつの問いかけをはらんでいる。 なんの不条理によって自分は精神病という病にかかり、絶望のなかでなおもこの世界に生きていなければならないのか。病気をもちながら生きる人生に、いったいなんの意味があるのだろうかと。 その問いかけにたいして、V・E・フランクルのことばを引いて向谷地さんはいうのである。「この人生を生きてなんの意味があるのか」と考えてはいけない、「この人生から自分はなにを問われているか」を考えなければならないと。「私たちがこれからおきる人間関係だけでなく、さまざまな苦労や危機にあう、その場面でどう生きられるか、その生き方の態度を自分に課していく。・・・・この人生から私がなにを「問われている」のか。私が問うのではなく、私が問われているのです。あなたはこの絶望的な状況、危機のなかでどう生きるのかと」 絶望のなかからの問いかけ。 それがべてるの理念のはじまりだった。 この部分だけお読みになると、先程から言っている、善意の「先入観」にピッタリと答えている文章に見えますが、一冊通読されて、ここに至るとき、「絶望」という言葉の迫力が、ただ事ではないことに気づかれるに違いないと思います。 引用されているフランクルは、もちろん「夜と霧」の人ですが、たとえば、よく読まれている彼の文章を分かった気になって読んでしまうぼく自身が、「絶望」という言葉から問い直されているのではないかという「問い」を痛感する読書でした。 いしいじんじさん、ありがとうございました。
2021.07.24
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河合雅雄「ゴリラ探検記」(講談社学術文庫) 「サル学」の河合雅雄が2021年5月14日に亡くなったというニュースを見ました。ジャーナリストの立花隆が「サル学の現在(上・下)」(文春文庫)という長大なレポートを書いて評判になって以来、サル学という言葉が普通名詞になりました。1990年代の初めのころのことでした。 しかし、今西錦司に始まる京大の「サル学」の世界、ニホンザル、ゴリラ、チンパンジーの社会に潜り込んで霊長類の生活や歴史を探る世界へ、ぼくたちのような素人を誘ってくれたのは、立花隆ではなくて、河合雅雄、井谷純一郎、西田利貞といった、今西門下の、みなさん、そろって、実に文章の上手なフィールド・ワーカーたちの報告でした。 中でも、河合雅雄は、子供向けの童話から翻訳まで手掛ける、「サル学読書界」のスター選手というべき人で、案内したい本が山積みですが、彼が世に問うた最初の本が「ゴリラ探検記」(講談社学術文庫)でした。 100メートルも行ったであろうか、ルーベンは鼻をぴくつかせていたが、しわがれた声で「ゴリラ」とささやいた。私にはなにも見えない。かすかな音も聞こえない。ルーベンはぐいと私の手をひっぱり木立の中をさした。二、三歩進んだ私は、思わず棒立ちになって息をのんだ。10メートル先に、巨大な漆黒の手が伸びているのを見たのだ。ゴリラだ!彼は私たちに気づかず、木の葉をたべていたのである。 後ろでカシャと音が聞こえた。水原君がニコンのシャッターを切ったのだ。同時にかき消すようにその手が消え、鈍い音とともに黒い塊が左へとんだ。ルーベンは茂みの穴をさして、そこへはいっていけという。雨は相変わらず降っていて、しずくが音を立ててヤッケにあたる。不気味にあいている穴は、地獄の門のように見えた。ちゅうちょする私を、ルーベンは容赦なくぐいと押した。 茂みは分厚くもつれ、ぬれた木をおしわけて、はうようにして進むのがようやくである。茂みの中は薄暗かった。私は闇の中を手探りで、一歩一歩ふみしめて歩いていく思いだった。足跡は深い谷に落ち込むように向かっていた。とつじょ、十二、三メートル横の茂みで「グヮーッ」というものすごい咆哮がした。そして、大きく木がゆれた。そこにひそんでいたゴリラのリーダーが威嚇したのだ。しかし、私たちは身動きもできず、急ながけのツタにつかまって体を支えていつのがせいいっぱいであった。逃げようたって、このがけではどうにもならないではないか。(第1章「ゴリラの聖域」) 長々と引用しましたが、「ニホンのサル学がゴリラと出会った瞬間」というべきの場面の描写です。学術文庫で、300ページを超える大作ですが、こうして写していてもワクワクしてきて、夢中になった記憶が浮かんできます。もう、35年も昔の話です。 山積みの中から、追々、案内したいと思いますが、これからも忘れてほしくない人ですね。冥福を祈りたいと思います。 「子どもと自然」(岩波新書)
2021.06.05
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計見一雄「戦争する脳」(平凡社新書) 著者の計見一雄(けんみ かずお)という人は、裏表紙の紹介によれば1939年の生まれで、1980年代から精神科救急医療の確立に尽力した精神科医のようです。だれにも媚びないで、まっすぐに自分の意見を書く態度が気に入って、別の著書にも手を出したりして、まあ、あれこれ面白がっていた人なのですが、ネットのニュースで「新幹線の運転士 走行中に運転室離れトイレへ JR東海が処分検討」という記事を見て、この本を思い出しました。 計見一雄(けんみ かずお)「戦争する脳」(平凡社新書)です。 上記の話題は典型的な、いわゆる、「あってはならないこと」の話題なのですが、計見一雄のこの本は「あってはならないことが・・・」と、事が起こってから言い訳する「日本型思考」批判の書といっていいと思います。 「戦争はあってはならない」・「原発事故はあってはならない」・「いじめはあってはならない」。こうやって「あってはならない」ことを並べながら、ふと、世間を思い浮かべてみると、感染がこれだけ広がっても、「コロナの蔓延」は、そもそも、あってはならない現象だったようだし、どうも「ワクチンの接種遅れ」も「副作用」も、「オリンピックの中止」だか「再延期」だかも、あってはならない事態だと考えられているようなご時世で、「ほぼ、自動運転に違いない新幹線の無人運転ぐらいで騒ぐなよ」と、いい加減なことを言い出してしまいそうでしたが、計見一雄が「あってはならない」という言葉の使い方について、ナルホドそうだねという批判を、面倒がらずに展開していたことを思い出しました。 学校でのいじめ、自殺。「あってはならない」ことが起きました。命の大切さを教育しましょう。児童の動揺がはなはだしいので、カウンセラーを導入します。まことに申しわけありませんでした、で終わる。「本校ではかかる事態を根絶することを誓います」とは、絶対に言わない。 と、まあ、ありがちなシーンを取り上げて、これを、こんなふうに批判しています。(この言い方だと)「あってはならない」というのは「存在してはならない」としかとれない。 なぜおかしいかというと、それは実際に存在してしまった。出現してしまったんだから、今後も出現する可能性があります。それを防ぐ手段を考えなければいけないし、仮に出現したときにどのように対処するのかということを、今後作っていかなければなりませんというのが正しい回答である。(第1章「否認という精神病理現象」) 要するに「あったらどうするか?」という発想がないことに対する批判ですが、「精神科救急医療」の現場で実践してきた人として、実にまっとうな批判ですね。 「オリンピックが出来なかったらどうするか?」とか、「原子力発電所が事故を起こしたらどうするか?」っていうことが、実は考えられていないのではないか、という私たちの社会の現実を言い当てているのではないでしょうか。例えば、新幹線に限らないと思うのですが、ひとりで運転席いる、電車の運転手の話の場合なら「おなかが痛くなったらどうするか」ということについて、ならないための「リスク・マネージメント」とかは、やたら吹きこまれている感じがしますが、なったらどうするのかという「ダメージ・コントロール」は、案外、ないがしろにされているのではないのかと感じますね。 本書は「戦争」をめぐっての「ダメージ・コントロール」が話題のメインの論説ですが、昨今の風潮や、きっと叱られるに違いない運転手のことを思い浮かべていて、もう一つ思い出したのが、こんな記述でした。「兵士は肉体を持つ」という事実―食い物と便所が大事 戦争を可能にする病理とは、観念が実現するという思い込み、つまりウィッシュフル・シンキング、現実を否認する志向だ。その否認される現実の中に、旧日本軍の場合は「兵士が肉体を持つ」という事実が含まれていたようだ。 日本軍に体質にはそれがあった、とまでは思いたくない。でなければ日清・日露の戦役は戦えなかったろうから。昭和の戦争で、難戦・激戦になるにつれて、兵士の肉体性というのはほとんどなきに等しきに扱われた。第一次上海事変で登場した〈肉弾三勇士〉という英雄譚がその好例で、肉体をもって爆弾に代える、そうせよという命令。肉が爆弾になるというメタファー、これ以上の肉体軽視はない。肉体を軽んじ精神を高みに置く、昭和の最初の二〇年間を貫く「思想」のプロトタイプというべきものだろう。この三人の勇士を貶める意図はみじんもないが、この思想は徹底的に批判されるべきだ。(第3章「兵士の肉体性」) いかに愚かしい「観念」であれ、政治家やマスコミによって煽られ、「同調圧力」とかを笠に着て拡がり始めたときに、おろそかにされる個々の人間の「肉体性」について、目をそらしている自分がいないか、心して世間と向き合う必要を痛感する時代が、やってきているようですね。 いやはや、昭和の軍隊に蔓延した「必ず勝つ」というウィッシュフル・シンキングがそこらじゅうを覆いつくそうとしているようにぼくには見えますが、いかがでしょうね。
2021.06.04
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「100days 100bookcovers no11」日高敏隆「チョウはなぜ飛ぶか」(朝日出版社) 楽しく格調高く遊んでいらっしゃるブック・リレーに野次馬みたいに参加させていただきありがとうございます。私だけハードルを低くしてもらい申し訳ありませんが、よろしくお願いします。 KOBAYASI君が紹介してくれた『夜の蝉』は読んでいませんが、以前読んだ北村薫の『六の宮の姫君』と同じシリーズなら落語家が出てきますよね。芥川龍之介や菊池寛の実際の作品や手紙を使って彼らの交流や心情をフィクション化している小説でした。それまで菊池寛には、文学報国会やら社長やらの俗物中の俗物という通り一変のイメージしかなかったけれど、純なところもあってけっこう好きになりました。作者が丁寧に描いているおかげです。 やっぱり、KOBAYASIくんは親切です。次を考えるとっかかりがいっぱいですね。落語家つながりで圓朝師匠は?辻原登の「円朝芝居噺 夫婦幽霊」が面白い。家にあったはずですが、残念ながら見つけられませんでした。 実は、本は、あんまり読んでないし持ってない。今は図書館が至近距離にあるので、もっぱら借りてばかり。結構引っ越しをやったので、引っ越しの時に本は一番厄介だったので大助かりです。 話を戻すと、「夜の蝉」から「八日目の蝉」(角田光代・中公文庫)は付けすぎだから、「虫」ではどうでしょうか。少ない在庫から、やっと探し出しました。 あった! 日高敏隆の『新編 チョウはなぜ飛ぶか』です。 これに決めます。海野和男の魅力的な写真がいっぱいのフォトブック版です。ネット検索したら、最初は1975年に岩波書店から出版されてますが、その後も、イラストレーターを変えたり、写真版にしたりして、いくつもの版があるようです。 もう還暦を過ぎても私はまだ、「なんでやろ?」「あ、わかった!」 という簡単なひらめきとか気づきがとても好きです。多くの人にとってどうでもいいようなことが気になってどうでもいいような「なんで?」「どうやって?」 ということが気になって、あんまりちゃんとは考えないで、手持ちの知ってることやわずかな経験で勝手に「あ、わかった。」 と言って家族に垂れ流して顰蹙を買っています。 この本はまさに私の喜びのツボをグイグイ押してくれます。チョウ道は確かにあるが、どうして?地形に関係する?時間帯によって違うのはなぜ?チョウはどれくらい遠くが見えるの?花と色紙の区別がつかないのはなぜ?キャベツ畑で飛んでるのは雄だけ?メスは? などなど。こんな素朴な疑問に仮説を立てて丁寧に観察して、間違ってたら、また別の仮説立ててまた実験観察。ワクワクします。―― どこにでもいる白いチョウだったのに、じつは彼らは、世の中をぼくらとはまったくちがったふうに見ていることが分かった。それ以来、ぼくにとっては、ほかの動物が、周りをどう見ているかということが、とても気になるようになっていった。―― ほかの動物は周りをどうみているんだろう。他の人も私と同じに見えるのかしら。きっと誰もがそんなこと思ってるのではないかしら。 彼は、ユクスキュルの著作を翻訳して『生物から見た世界』(岩波文庫)として日本で出版して「環世界」という概念を紹介している。この概念を観念的なものではなく実感として支えているのは、チョウを観察した経験だと思われる。すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界(イリュージョン)をもって生きており、それなしには世界は見えない。老化もイリュージョンですね。 久しぶりの本をひっぱりだしてくるのも面白いですね。 「文学から遠く離れて」ですが、SIMAKUMAさん、次よろしくお願いします。(E・DEGUTI2020・06・26) 追記2024・01・20 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.07.16
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藤森照信「人類と建築の歴史」(ちくまプリマー新書) 筑摩書房が今年(2005年)のはじめから出し始めた「ちくまプリマー新書」というシリーズがある。中学生に狙いをつけている感じだが、小学校の高学年ぐらいから読むことが出来る。特徴は「漢字」にルビを振っているところにある。 じゃあ、高校生にはやさしすぎるかというと、とんでもない。むしろ大人が読めといいたくなる内容なのだ。藤森照信「人類と建築の歴史」(ちくまプリマー新書)を読んで特にそう思った。 人類がマンモスを食っていた時代から説き起こし、現代建築まで射程が届いている書き方は流石、建築探偵と言いたくなるが、ポイントは人類が初めて建物を作り始めた時代を建築史のプロの目で見ているところだ。 マンモス狩りから麦や米の文化に移り変わっていく人類史の中で生まれてきた「建築」。狩猟から農耕への移行の必然性を経済史的な観点から捉えながら、文明の変化を残された道具である石器の形状と作り方の変化、つまり打製石器と磨製石器の材質と用途の違いから説明する所が最初の読みどころ。 地母神信仰から太陽神信仰が生まれてくる原始宗教の変化から巨大巨石遺跡、たとえば世界各地にある不思議なストーンサークルの謎に迫る所が次のポイント。技術と道具と材料のないところに建造物はありえないが、目的のない建物を人間が作るはずがない。HOWとWHY、この二つの要素をきちんと書いている所がこの先生のバランス感覚というか、学問のセンスのよさ。読者がガキだからといって、手抜きしない。まあ、僕も東大教授に向かってよく言う。もちろん本人の前ではよーいわん。 この後、話題は日本の建築物に移り、伊勢神宮、出雲大社、春日大社の三つの神社建築の特徴の説明。コレが実に面白い。 世界史の中にこの列島の文化の特徴を置いて考える。日本は特別なんて言わない。そこがさわやか。 時代的に近世以降が駆け足になってしまったきらいがあるのが残念といえば残念。この本を読みながら真木悠介という社会学者が北アメリカのネイティブ・インディアンの文化について書いている「気流のなる音」(ちくま学芸文庫)という本を思い出した。知っている人には、ちょっと不思議な連想に思えるかもしれない。 藤森は建築という文化現象を、人間が何故建築物を作るのか、という根源的なレベルに目をすえて分析している。一方、真木は魔術のような原始的文化現象に現代社会学の目を向けている。たとえば巨石を運んでくる原始の人々の姿を、建築学と社会学の二人の学者が興味津々、遠くの丘の上から眺めている。そんなイメージ。原始的な営みに対して両者ともチャンと驚いている。 最初に真木悠介のこの本を読んだ時には心底感動した。やたら回りに紹介した事を覚えているが、読み直して何にそんなに感動したのかと思わないでもないが、やっぱり近代社会の教育制度の中でしつけられた自分の世界の狭さという事に驚いたのだと思う。 最近は高校の教科書に載せられていたりするが、「さわり」だけだから授業の中では却って扱いにくい。一冊全部読まないと面白さは分からない。 かつては普通の「ちくま文庫」だったのに、「学芸」文庫に格上げ(?)されて、値段も高くなった。要するにあんまり読まれていないということなんだろう。元々は社会学に分類される内容だが、大学にでも行って学問でもしようという人なら誰でも、その始まりの時期に読む価値がある本だと思う。 著者は真木悠介というのが筆名で見田宗介という名前の東大名誉教授。単行本の頃は新進気鋭と呼ばれていたような気がするが、いつの間にか名誉教授。みんな年をとるのですね。 話を元に戻すと、藤森照信には「天下無双の建築学入門」という「ちくま新書」がある。一般向けに建築学というガクモンを紹介した本。「人類と建築の歴史」の親本のような内容だが僕には子供向けの方が面白かった。 この人はひところ「路上観察学」という冗談のような学問を提唱して、小説家で評論家の赤瀬川原平なんていう人たちと一緒に「トマソン」物件の探索なんかに熱中した人で、なかなか学者の枠に入りきらない人だと思う。でも子供向けの方がのびのびしていて面白いところがこの人の人柄なんじゃないかと思うわけで、ぜひ一度お読み頂きたい今日この頃です。(S)初出2005・9・5改稿2020・02・11追記2020・02・12 これまた、古い「読書案内」のリニューアル版なのですが、何が懐かしいといって、「ちくまプリマー新書」というシリーズが創刊されたのがこの年だったことですね。亡くなった橋本治が、このシリーズの創刊にかかわったことをどこかに書いていましたが、最初の一冊は彼の「ちゃんと話すための敬語の本」という本で、後の四冊は「先生はえらい」(内田樹)・「死んだらどうなるの?」(玄侑宗久)・「熱烈応援!スポーツ天国」(最相葉月)・「事物はじまりの物語」(吉村昭)というライン・アップでした。仕事柄もあって割合読み続けていましたが、退職して手に取らなくなりました。 筑摩書房には「ちくまプリマー・ブックス」という150冊くらいのシリーズ、その前には、1970年から始まった「ちくま少年図書館」という100冊のシリーズがありました。 「少年図書館」は湯川秀樹(物理学者)・臼井吉見(作家)・松田道雄(小児科医)が監修者でしたが、松田道雄の「恋愛なんかやめておけ」という伝説の(勝手にそう思っているだけかも?)名著が第1巻でした。もう、「出会えない本たち」なのかもしれませんね。ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】恋愛なんかやめておけ(ちくま少年図書館1 心の相談室)/松田道雄 著/筑摩書房
2020.02.13
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中井久夫編「1995年1月・神戸」(みすず書 今日は一月十七日です。ぼくには、この日に関して忘れられない本が数冊あります。その中の一冊が、当時、神戸大学の医学部の教授であった精神科医中井久夫さんが編集なさった「1995年1月・神戸」(みすず書房)という、阪神大震災における精神科医療の現場報告の本です。 まず表紙の写真を見てください。一人の少年が、こちらを向いてピースサインをしていますが、この写真を撮ったのは、この本の編集者である中井久夫さん、ご自身です。 表紙カバーの裏にこんなキャプションがついています。 兵庫区の歩道に出ていた小さな店を通りかかった時、一人の少年が「ね、食べていってよ、お願いだから」と手を合わせた。いったん行きすぎた私たちが戻ると、黄色い帽子のオジサンが「無理をいったらだめだよ」といった。私は「きみがあんまりかわいいから」といい、ビール(300円)とオデン(250円)を注文した。オジサンは同行の二人の女性に缶コーヒーを出し、決して金を受け取らなかった。 ポラロイドを1枚ずつ渡すと少年はよろこんでとびはね、だんだん像が見えてくるのに新鮮な驚きを示した。 一家かと思った人々は、一組のきょうだいと一組のもとの職場仲間とから成り立っていた。少年は「どこかこの辺りの子」であった。つまり彼はこの店のボランティアであった。 続けてページを開くと本冊の表紙の見返しには地図が印刷されています。 これが表表紙。次が裏表紙。 書店の棚で、この本を触りながら、この表表紙の写真と、裏表紙の地図を見て、ちょっと興奮したことを覚えています。 ぼくは、当時、この地図のちょうど西の端に住んでいましたが、この年の1月から2月の初旬にかけて、西からの電車が動いていたのはJR須磨駅まででしたが、そこから神大病院を目標に避難所をめぐって、若い同僚Y君と、ほぼ毎日歩いていました。職場はこの裏表紙の地図のすこし北にありましたが、生徒は学校ではなくて避難所にいたのです。 表紙の写真のようなボランティアの少年は、通りかかる公園や避難所にたくさんいました。1日に10キロ以上歩いていましたが、この期間不思議と疲れたという記憶がありません。 この地図の行程をめぐって、中井久夫さんと彼を輸送したS病棟長(本書中、白川治の名あり)について、本書の「災害がほんとうに襲った時」の中にこんな記事があります。1995年1月17日10時前後 臨床の指揮を直接取る立場のS病棟医長は私よりもさらに遠い団地に住んでいたが、間髪を入れず、「オカユ」になった家を後にしてただちに出撃した。 しかし機敏な彼にして通常は40分以下の行程に5時間を要した。翌日に出た助手の一人は全体の三分の一に5時間を要してついに引き返した。私は運転ができず、ついでにいってしまうとバイクにも自転車にも乗れない。 到着したSは私に私の到達努力の非なることを連絡してきた。私は結局、最初の二日間を自宅で執務した。 「渋滞に巻き込まれて進退きわまり、数時間連絡不能になることは最悪」であると彼は言い、私も思った。いつも動ぜず、ユーモアと軽みとを添えてものをいう彼は「いずれお連れしますよ、それまで私がいます」と言った。 地震初日から、この地図作成に至る悪戦苦闘の始まりを語るエッジの効いた、さすが中井久夫というシャープな文章なのですが、ぼくは、このくだりを読んで思わず笑いながら涙を流してしまったのです。 というのは、全くの私事ですが、1995年1月16日の深夜のことです。数時間後に大地震が勃発するなどということは夢にも思わない二人連れの酔っぱらいが、三宮からS病棟長の自宅に帰還しS夫人を困らせて騒いでおりました。ようやく、二人のうちの一人、シマクマ君をS夫人が自宅まで車で送り届け、取って返してご機嫌の、もう一人の酔っ払いを寝かしつける頃には日付けも変わっていたという出来事があったのです。 二日酔いであったに違いない(?)S病棟長は、1月17日5時46分にたたき起こされ怒涛の日々が始まったというわけです。 初めて本書を手に取り、この記述に出会った時のことを今でも覚えています。「あの日」、あらゆる道路が大渋滞を起こしていることは言うまでもありませんが、あちらこちらで火の手が上がり、煙が立ちこめ、ガラスの破片がまき散らされている街路にS君はいたのです。5時間かけて病院への道を探し、運転を続けた姿を思い浮かべて、ニヤつきながらも、ある誇らしさを感じたのです。やるじゃないか!この本が、ぼくにとって忘れられない理由はそんなところにもあるわけです(笑)。 さて、この本の読みどころは何といっても「災害がほんとうに襲った時」という中井久夫さんによる、緊急現場報告です。この文章は2014年、最相葉月さんが中井久夫さんのポートレイトのようなインタビュー集「セラピスト」(新潮文庫)を出版なさいましたが、その出版と相前後してだったと思います、「阪神大震災のとき精神科医は何を考え、どのように行動したか」として無料で(著者・出版社の承諾を得て)、最相葉月さんによって公開されています。本書が手に入れられない場合でも、上記のアドレスにアクセスすれば今でも読めるはずです。是非、お読みいただきたいと思います。 さて、ここから本書に収められているのは現場の実働部隊の人々の生の声、参考資料、チラシ、避難所地図など多彩です。 大学病院の医師・看護師は言うまでもなく、秘書、大学院生、連携した地元の県立病院や個人医院の医師、遠くから救援ボランティアとして来神した精神科医療従事者すべての人の声が収録されています。今でも真摯でリアルな声が聞こえてきます。 そして、最後の奥付を見てください。「1995年3月24日 第1刷発行」となっています。地震が起こったのは1995年1月17日です。災害発生から出版までの時間の短さにお気づきでしょうか。たった二ケ月です。「みすず書房」の編集者も大変だったに違いありません。 しかし、ここにこそ、この本の目的が明確に表れているとぼくは思います。この本は「思い出」をまとめた本ではありません。今まさに悪戦苦闘を続けている被災者や、その救援者に対して、共に戦っている人たちからの励まし、「エール」を伝えるフラグを立てることを目指したのではないでしょうか。 ぼくは、そこに「ほんもの」の医者、中井久夫の真意があると思うのです。かつて、いや、ほとんど同じ時代に、アフガニスタンで井戸を掘っていた中村哲さんに「生きておれ。病気は後で治してやる。」という名言がありますが、あの年の6月にこの本を手に取ったぼくには、中井さんの「一休み、さあ、ここからが本番だ!」という声が聞こえてきたのでした。 なにはともあれ、いろんな意味で思い出深い本であることは間違いありません。どうぞ、一度、手にとってみていただきたいと覆います。追記2020・01・19 いきなり追記ですが、この本を思い出した理由が、もう一つあります。今日からNHKのテレビ放送で「こころの傷を癒すということ」という、実在で、若くして亡くなった安克昌という精神科医を主人公にしたドラマが始まりました。 第一回を見ると柄本佑君が主人公を演じていて、なかなかいい感じでしたが、「安克昌」ファンのぼくは、ちょっと泣いてしまいました。 安克昌さんの「被災地のカルテ」という文章も、上記の、この本に入っています。彼の著書「心の傷を癒すということ」(角川文庫)にも収められていたと思いますが、この本で読むことができます。彼の、この著書は、出版当時、「サントリー学芸賞」を取った本ですが、書棚のどこに隠れているのか行方不明で、ここでは紹介できません。見つかれば「案内」したいと思っています。追記2022・08・13 中井久夫さんが2022年の8月の8日に亡くなってから5日たちました。中井さんはカトリックの洗礼を受けておられたようで、葬儀が垂水のカトリック教会で行われたようです。もう、中井久夫の新しい文章には出会えないのです。学問においてであれ、日常生活の些事についてであれ、人を励ます文章を書き続けてきた人だった、少なくとも、ぼくは学生時代からずっと励まされてきたと、今になって思います。子供のような言い草ですが、亡くなられて残念でなりません。追記2023・01・17 今年も、1月17日が来ました。28年たったそうです。あの時、高校1年生だった少年や少女たちはみんな元気に厄年を越えたのでしょうか。 あの日、助けに駆け付けてくれた義母もこの正月に亡くなりました。当時、小学生だったヤサイ君が「おばーちゃん、あの日のことは忘れません。」と霊前に語りかけるのに涙しながら、あの日、とんでもない渋滞の中、駆け付けてくれた義母や義父の顔が本当にうれしかったことを思い出しました。ボタン押してね!ボタン押してね!心の傷を癒すということ【電子書籍】[ 安 克昌 ]
2020.01.19
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「2004年《書物》の旅(その8)」《三木成夫「内臓のはたらきと子どものこころ」(築地書館)》 人間の姿をどの方向から眺めると本当の姿が見えるのか。そんなことを考えたことはありませんか。自分の姿を眺めなおしてみるという言い方が、ある場合にはとても比喩的な表現だったりする。鏡を長い時間かけて眺めたからといって、そこに自分の姿を見つけることができるとは限りません。 二十世紀を代表するチェコのユダヤ人作家フランツ・カフカはデカイ甲虫になっている自分を発見する小説「変身」(新潮文庫)― 最近では人気のドイツ文学者、池内紀の新訳が白水社からUブックスシリーズで出ていますが、高橋義孝の旧訳と読み比べるのもいいかもしれませんね。これは短い小説だからすぐ読めます。― を書きましたが、彼の場合は自分に限らず世界の方も意味のよく分からない姿で現れてきていたらしいことを知ることができます。「城」(新潮文庫)とか「審判」(新潮文庫)とか、一度手にとってみるのも悪くないかもしれませんよ。 顔とか、しぐさとか、高校生や中学生の振る舞いが奇妙な出来事として話題にされはじめて久しいですね。鏡を覗き込んで顔や髪型の製作に余念のない子どもたちの姿に大人はビビっています。電車の中で自分の顔を相手にお絵かきしている二十代の女性にくたびれたサラリーマンが唖然としています。 その辺の世相を哲学的に語って人気者になった人に鷲田清一という阪大の先生がいます。とりあえずというなら「てつがくを着てまちを歩こう」(ちくま学芸文庫)あたりがお手ごろかもしれません。この人、見かけはダサいのに、著書の題名はシャレています。 この人の本では他に「じぶん―この不思議な存在」(講談社現代新書)が小論文の参考書にお薦め本としてよく出てきます。これを一読して、わかったと思う人は、かなり、おつむがいいとぼくは思います。自信のある人はどうぞ。ははは。 ところで、この本の出だしに、こんな一節があります。 さて、ノルウェーの高校の元哲学教師が書いた子供向けの哲学ファンタジー「ソフィーの世界」(ヨースタイン・ゴルデル=日本放送出版協会)がベストセラーになった。この本、一人の少女がある日、郵便受けに一通の差出人不明の手紙を見つけるシーンから始まっている。そこにはたったひとこと、「あなたはだれ?」とだけ書かれていた・・・。そういえばしばらく前には、『わたし探し』ということばも流行した。 が、これはなにも新しい問いではない。今からちょうど三十年前、1966年に、マーシャル・マクルーハンはテレビというメディアに関する講演の中で、つぎのように語っていた。「今日、精神分析医の病院の診断用の椅子は『わたしはだれなのか、おしえてください』とたずねる人々の重みにうめいている」と。 いや、十七世紀フランスのひとブレーズ・パスカルは、後に「パンセ」(中公文庫・前田陽一訳ほか)としてまとめられることになる紙片群の一つに、「わたしとはだれか?」という問いではじまる一文を書きつけていた。さらにさかのぼって、古代ギリシャのソクラテスもまた、デルフォイの神殿に掲げてあった「汝みずからを知れ」という神託をきっかけとして哲学的な反省をはじめたといわれる。「わたしはだれ?」という問いはほとんど哲学的思考の出現と同じくらい古い問いのようである。 十年前の本ですから、当時、爆発的に流行った「ソフィーの世界」も、『わたし探し』なんて流行語も、今の高校生諸君にとっては「ん?」という感じかもしれませんが、主旨は今でも通用するでしょうね。「わたし」は探され続けてきたのです。 さて、今日、案内したいのは、小説でも哲学でもありません。養老孟司でその仕事を世間の知る所となった解剖学という学問の、その養老先生の先生、三木成夫(みきしげお)という人の本です。東京芸大で芸術家の卵を相手に教えていた解剖学者が保育園の保育士さんや親たちを前にしての講演がまとめられた本、「内臓のはたらきと子どものこころ」(築地書館)です。《みんなの保育大学》というシリーズの一冊です。 「なんで?」といぶかる向きもあるでしょうね。「わたしと解剖学、何のカンケーがあるねん?」 まあ、そんな感じの疑問が湧いてくるだろうと思うわけですが、それが、大ありだということは読めば分かる。 たとえば、先にあげた鷲田清一はこんなふうにいっています。じぶんのからだ、などとかんたんに言うけれど、よく考えてみるがいい。わたしたちはじぶんのからだについて、ごくわずかなことしか知らない。背中やお尻の穴をじかにみたことがない。 これに対して、三木成夫はこの普通は見えない「からだ」について、塗ったり、描いたり、穴を開けたりしているつらの皮をひっぺがし、受精した卵の時から徹底的に切り刻んで、顔や口からお尻の先まで、何がどうなっているのか調べた人なのですね。 生物が何万年もかかって進化してきた痕跡を人間のからだの中に捜し、「こころ」がどこにあるか見つけた人なのです。 人間に「こころ」が生まれてくるプロセスを、生物としての形体から探ろうとした人といってもいいですね。 ちなみに、「こころ」は脳ではなく心臓にあるらしいですよ。決してはったりではありません。しかし、そうなると、「わたし」はどこにあるのか、またまた悩み始めることになるのでしょうね。 まあ、いつものことながら、あれこれ、いい加減なことをいうものだと疑う方は本書を捜してお読みになるといいですね。きっと「なるほどそうか!」にお出会いになると思いますよ(笑)。 三木成夫には中公新書に「胎児の世界」という名著もあります。こっちの方が手に入りやすいでしょう。子どもと出会う仕事をしたいと思っている人は、読むとうれしくなると思います。それは保証します。はははは。(S)追記2023・02・15 このブログで「案内」する本が古本屋さんの棚でしか手に入らない本ばっかりになりつつありますが、めげずにもうちょっと頑張ろうかなと思っています。少し、いや、やたらヒマな2月、3月に頑張って古い本のホコリを払ってご案内できればというようなことを考えながら。とりあえず古い案内のホコリを払っています(笑)。ボタン押してね!にほんブログ村生命とリズム (河出文庫) [ 三木成夫 ]胎児の世界 人類の生命記憶 (中公新書) [ 三木成夫 ]
2019.12.01
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増崎英明・最相葉月「胎児のはなし」(ミシマ社)「超」おもしろい本に出くわしました。産婦人科の先生、増崎英明さんに最相葉月さんがインタビューした「胎児のはなし」(ミシマ社)です。 増崎さんは「胎児医療」のエキスパートで、長崎大学の医学部病院の院長をなさっていた方らしいのですが、この本がはじめての出会いでした。 聞き手の最相葉月さんは「絶対音感」で評判になったのが、もう20年近くの昔のことなのですが、ぼくは、ちょっとキワモノ的な見方をしていました。 ところが、数年前、精神科のお医者さんである中井久夫さんへのインタビュー「セラピスト」が面白くて、すっかりファンです。 で、この本は最相さんが生徒、増崎さんが先生という設定のインタビューですが、驚きや感動だけでなく結構笑える内容になっているところが、この本の作り手のお手柄だと思います。 さて、内容ですが、読みながら、知ったかぶりで、同居人チッチキ夫人にした質問ごっこを再録してみますね?第1問「赤ちゃんが羊水の中でしないことは次のうちのどれでしょう。」(ア)夢を見たり、目を瞠ったりする(ウ)ウンコをする(エ)笑ったり泣いたりする(オ)シャックリをしたり欠伸したりする第2問「羊水の成分は、もともと何だったでしょう?」(ア)オカーサンのおしっこ(イ)オカーサンの血液(ウ)オカーサンの汗(エ)オカーサンの飲んだ水第3問「赤ちゃんはひっきりなしにオシッコをしていますが、羊水がふえないのは何故でしょう?(ア)子宮壁が吸収する(イ)子宮に排泄口がある(ウ)蒸発する(エ)赤ちゃんが飲む第4問「羊水の中で水中生活の赤ちゃんは肺の中まで水浸しですが、いつどこで、その水はなくなるのでしょう?」(ア)破水と同時に吐き出す(イ)胎道で搾りだされる(ウ)出産と同時に空気に押し出される。第5問「妻の出産に分娩室まで付き添う夫が、よくしてしまうことはなんでしょう。一つ選びなさ(ア)泣いてしまう(イ)怒ってしまう(ウ)笑ってしまう(エ)気を失ってしまう(オ)出ていってしまう第6問「生まれたばかりの赤ちゃんの顔に、オカーサンが手をかざして暗がりを作ると赤ちゃんはどうするでしょう?」害7問「オカーサンが左腕で抱っこして頭を左の胸にもっていくと、赤ちゃんの機嫌がよくなるのは何故でしょう?」面白がってばかりいても、キリがないのでこれくらいにしますが、実はもっとものすごい話が山盛りで、あっという間に読み終えてしまいます。 笑える話というのは、なんといっても、増崎先生が、かなり深刻な話でも、笑いながらしているということですね。ぼくが一番笑ったのは、ここですね。最相「すみません、基本的な質問で恐縮ですが、おっぱいっていうのは、赤ちゃんが生まれてから出るものですよね?」先生「うん。」最相「なぜですか?なぜ妊娠中は出ないんですか?」先生「いらんでしょ。」 ちなみに、最相さんは出産の経験がないので、この質問になるのですが、先生の答えが笑えるでしょ。モチロン、この後メカニズム説明がきちんとあるわけで、身近に経験のない読者にもよくわかるはずです。 胎児医療や、不妊治療の実態について、かなり深刻な話もあります。水中出産の危険性や、胎児にとってのアルコールやタバコの危険性についての厳しい口調のの注意もあります。しかし、その節々に、産婦人科の医師としての仕事に対する誠実さはもちろんですが、、何よりも「赤ちゃん」ひいては「人間」に対する愛情があふれている、おしゃべりなんです。それを聞き出した最相さんも立派ですね。 増崎先生はあとがきで三木成夫の「胎児の世界」(中公新書)に触れてこう書いています。 三木先生は「あとがき」に「母胎の世界は見てはならぬものであり、永遠の神秘のかなたにそっとしまっておこう」と書いています。四十年間を胎児の研究者として過ごしてきたわたしにも、同じ思いがあります。子宮の中は、宇宙や深海のように、いつまでも神秘の世界であってほしいのです。 三木成夫の「胎児の世界」は、40年前の本ですが、名著中の名著だと思います。現代胎児医療の最前線で活躍した増崎英明さんが、ここで、もう一度この言葉をくりかえしたことに、やはり胸をうたれるものがありました。 皆さんも、是非、おなかの中の「赤ちゃん」の「すごいはなし」を楽しんでください。文中の問題の答え問1(ウ)問2(イ)問3(エ)問4(イ)問5 目を開けてオカーサンをじっと見る。問6 オカーサンの心臓の音が聞こえるから。追記2019・12・01三木成夫「内臓のはたらきと子供の心」は、増崎さんのこの本と似ています。へ―って、感動する。ぼくの「案内」は適当ですが、「本」は素晴らしい。書名をクリックしてみてください。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.30
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柳宗民 「日本の花」(ちくま新書) 空き家になっている田舎の家の裏山が崩れました。2018年の夏の大雨のことです。一年以上かかって補修工事が終わりました。土砂に流された跡地にサザンカの木だけが残っていて、花をつけていました。ちょっと、嬉し気分を味わいました。 工事の人の親切で、植え直していただいたようです。ありがたいことです。 帰宅して「日本の花」の「秋の花」のページ開くと、美しい花の挿絵と一緒に出ていた。 「おっ、あった、あった!」サザンカとツバキはどう違うか?簡単に云えば花時がサザンカは秋、ツバキは木偏に春という国字が作られたように春咲き、ということになるが、サザンカにも春咲き種があるし、ツバキにも秋から冬に咲く種がある。ツバキは花が終わると花は散らずに花ごとポトリと落ちる。サザンカの方は一枚づつ花びらが散り、いわゆる散りサザンカの美しさを楽しませてくれる。ところがツバキんも散りツバキというのがあって、はっきりした区別点とは云い難い。 この後、雄蕊や雌蕊の形、茶筅型か梅芯型かとか、葉の光沢、の特徴が語られるのですが、なかなか結論に至りません。要するにそっくりなんでしょうね。 結論はこうでした。正確な区別点はツバキでは子房や新芽には毛がないが、サザンカには微毛があり、これがはっきりとした区別点と云われる。 続けて読んでいて、子どもの頃、山茶花究という名前のコメディアンがいたことを思い出しました。 サザンカの漢字表記の面白さに触れてこんなふうに記しています。サザンカは山茶花と書くがこれは誤りで、先の「花壇地錦抄」では茶山花となっている。いつ、茶と山がひっくり返ったのか。また中国ではサザンカは茶梅といい、山茶とはツバキのことである。やはり茶山花と書いた方が素直ではないか。山茶花、サンサカの語呂がサザンカ似るのでいつのまにか茶山花が山茶花になってしまったのだと思う。どうも漢字名とはなかなか厄介なものだ。 「茶山花」では、「サザンがキュー」の語呂合わせの、お笑いの名前にはならないのかなと考えていて気付きました、読みは「サザンカ」なんですね。 いかがでしょうか。街を歩いていて立ち止まるときがあります。小さな花が咲いているけど、名前を知りません。帰ってきて、季節の花を探します。「あった、あった。ふーんそうか。」 誰かに話せるわけでもないのですが、この、ちょっとした「蘊蓄感」が楽しいのですね。 この図鑑は解説の文章がいのちでしょう。文章がいいのは、父親、柳宗悦ゆずりでしょうか。 載ってる花は60種くらいで、名前は、ぼくは知らないのですが、おそらく誰でも知っている入門編タイプですね。挿絵は相田あずみさんの手書き。これもいい。ボタン押してね!にほんブログ村柳宗民の雑草ノオト (ちくま学芸文庫) [ 柳宗民 ]これも愛用してます。
2019.11.08
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辻井達一「日本の樹木」(中公新書) 秋になりましね。紅葉した街路樹の道を歩くのですが、肩に降りかかる葉っぱの名前なんて気に書けしなかった徘徊老人が、ふと、立ち止まって散っていく風情に気を取られている自分に驚いたりします。 そういえば「鈴懸の径」という戦前の流行歌があったはずだと思いついたりもするわけです。♪♪友と語らん鈴懸の径 通いなれたる学び舎の街 やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ鈴懸の径♪♪ 若い人は歌そのものをご存じないでしょう。歌われている鈴のような実をつけるらしいスズカケの木(鈴懸?)がそこらにいっぱい植わっているプラタナスという街路樹だということなんて、もちろん、ご存じない。ぼくもそうでした。 まあ、ちょっと、歌の例が古すぎるかもしれませんね?オバーちゃんの世代でも、ついていけないかもしれない。ともあれ、オバーちゃんや、ヒーオバーちゃんたちは地球温暖化のことはよく知らないが鈴懸けの小道は知っていました。ここが大事なところだと、最近思うのですがどうでしょう。 辻井達一という北大の植物園長をしていた人が書いた「日本の樹木」「続・日本の樹木」(中公新書)という本がある。 日本の樹木についてのカタログか図鑑のような本なのですが、ただのカタログとはすこし違いますね。何より文章がいいんです。気取った学問臭がなく、学者の書く生硬さがない。素人には分からない学問用語を振り回す、かしこぶった態度がない。本物の実力を感じさせますね。 たとえば「プラタナス」のページは4ページ分です。上にコピーした手書きのイラストと名前の由来が記されています。ちなみに、「プラタナス」の和名「スズカケ」の由来についてはこんな様子。牧野博士によるとこれは山伏の衣の名で篠懸(すずかけ)というのがあるのを、そこに付けてある球状の飾りの呼び名と間違えてつけてしまったもので、もし強いて書くなら「鈴懸」とでもしなければ意味が通じないそうだ。 ちょっと解説すれば、「篠懸」というのは、たとえば歌舞伎の「勧進帳」で、山伏姿の弁慶や義経の丸いポンポンが縦についている、あの装飾のことで、「プラタナス」とはなんの類似もないということらしいですね。 なんと、命名者が勘違いして付けた名前なのです。この後、探偵シャーロック・ホームズの裏庭で産業革命の煤煙に耐えていたプラタナスについて語りはじめて、話はこんなふうに進みます。 立地への適応幅はたいへん広くて、地味が痩せた、そして乾燥した立地でも十分に育つ。しかもロンドンでの例で述べたように煤煙など大気汚染にも強いときているのだから都市環境にはもってこいなのである。その意味ではプラタナスが育っているから安全だ、などと考えては困る。プラタナスが枯れるくらいだったら、それは危険信号を通り越していると考えなければなるまい。 締めくくりかたが、なんとも、鮮やかなものでしょう。「環境問題」もここから考える方がきっと面白いと思いますね。 次いでなので、「スギ」の項目はこんなふうです。 悲劇の武将、源義経が鞍馬寺の稚児として牛若丸と呼ばれていた頃、夜な夜な木っ端天狗が剣術の指南をした、ということになっているのも鬱蒼たる杉木立がその舞台だ。 これが明るい雑木林で栗の実が拾え、柿の実が赤く染まりというのではとんと凄味がなくて餓鬼大将の遊び場である。実際にお相手をしたのは田辺か、奥州の手の者か分からないが、山伏装束でもしていれば間違って通りかかった坊主、村人、杣人いずれにしてもよく見ないうちから天狗の眷属と踏んで足を宙ににげさったことであろう。そもそも怪しげな噂を撒いておいたということも十分あり得る。 こう書いて、つぎに、こう続けています。 スギの材は建築材に重用されるが、その葉は油を含んでいてよい香りを持ち、どこからの由来か造り酒屋のマークになっていた。スギの葉を球状にまとめたものを軒先にぶら下げるのである。 スギで酒樽を作るから、それから来たものかどうか。これに似た風習はオーストラリアにもある。ここではマツだが、同じように葉を丸くまとめてぶらさげるのが造り酒屋のシンボルだ。 つまり「文化人類学」ならぬ「文化樹林学」とでも呼ぶべき時間の奥行と、世界を股にかけた幅で書かれているわけなのです。 徘徊老人は「街」から帰ってきて、パラパラとページをめくりながら、さっきの立木を思い浮かべ、センスのいい「エッセイ」を一つ二つ読んで、ニヤリとするわけです。どうでしょう、街角で新しい樹木と出会ってみませんか。(S)週刊読書案内2006no4改稿2019・10・22にほんブログ村ボタン押してね!
2019.10.23
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日浦勇「海を渡る蝶」講談社学術文庫 もう十年以上も昔、こんなふうに、高校生に読書案内していました。その中の一冊です。文章もその当時のものです。 運動会も終わりました。朝夕めっきり冷気が立ち込めてくるようになって、秋ですね。この国の伝統文化では月であり、紅葉であり、帰る雁であるという季節です。当然!学校では読書のシーズンということになります。ははははは。 ところで、校門を入ってすぐのところに車回しがあります。最近そこに二十匹ほどの蝶がひらひらしていることに気付いている人はいらっしゃるでしょうか。蝶といえば春のイメージなのですが、今日この頃のことです。てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。 こういう有名な詩もあるくらいです。たった一行の詩ですが題名もちゃんとあります。詩の題は「春」。作者は短詩で有名な安西冬衛ですね。蝶の空 七堂伽藍は さかしまに こんな俳句もあります。作者はホトトギスの俳人川端芽舎。名はもちろん俳号で、ボウシャと読みます。季語は蝶でやっぱり春かな?句を詠んでいる人の姿は蝶になって飛ぶと見えてくるかもしれません。これも、なかなか、いいですね。 というわけで蝶は春、秋といえばトンボに決まっています。ところが九月に入って一週間ほどした頃から飛び交い始めた薄紫の小さな蝶いるのです。誰か名前を知っている人はいませんか。(なんだ知らないのか。) 話は変わりますが、安西冬衛のこの詩はずっと気になっていました。一匹の蝶がこの列島の最北の海峡を渡っていく姿です。日本名は間宮海峡。世界地理的にはタタール海峡と呼ばれているサハリンと大陸の間の海峡です。「ダッタン」は「タタール」の漢字読みでしょう。一番狭い所で10キロに満たない幅の海峡だそうだですから、そういうことも、つまりチョウがひらひらすることも、あるかと思っていました。 題が「春」だからサハリンから北の大陸に向かって飛翔している蝶のことをうたっているに違いないでしょうが、その姿を思い浮かべると、ホントかなと疑心が浮かんできます。チョウの仕業にしては、あまりに雄大、春とはいえ、北の海の様子としてはあまりに可憐だと思いませんか。 夏の間に日浦勇「海をわたる蝶」(講談社学術文庫)という本を読みました。ぼくの疑いは完全にとけました。蝶は空を飛んで海をわたるのです。場合によっては数億匹という群をなして移動することもあるそうです。 列島周辺の海、大阪湾や伊勢湾、琵琶湖では当たり前の移動で、なかには台風の風に巻き上げられて南のフィリピンや台湾から吹き飛ばされてくるチョウもいるそうです。飛ぶのに疲れると波間に浮かんで翅を休めることもあるというのです。あのモンシロチョウも海を渡ってやって来た種であるとわれると、ちょっと驚きの事実だと思いませんか。 ナチュラル・ヒストリィ(Natural History)という言葉があります。博物学と訳されています。大英博物館がそのオーソドックスなというか、典型的なイメージですね。 小学校の頃、理科室に陳列された様々な昆虫や鉱物の標本、動物の剥製、ガラスのビンのホルマリンに潜んでいる気味の悪い、得体のしれない、不思議な生物を覗き込んだ記憶はないでしょうか。 採集し標本を作り、名前を探す。新しい名前を付ける。人類の知識庫に新しい名前が一つ増える。子どもたちの好奇心を激しくひきつける。博物学とはそういう学問です。 博物館の学芸員をしていた著者はそれに飽き足らなくなったようです。膨大な知識、物の集積を前にただ羅列しておくだけでは気が済まなかったのでしょう。 発達史的見地からでないと、真に理解することは出来ないのではないか。ナチュラル・ヒストリィのヒストリィという語には、十分な重みがあるのではないか。古い博物学の内容を歴史的に意味づけ、自然史と直訳しなおすことによってその語にふさわしい内容を盛るべきではないか。 というわけで、歴史の文脈の中に現象をおくことで、全体に対する興味を作り出すことを目論むのです。スゴイでしょ。 悠久の地質時代にあって、もっとも最近の第四紀と呼ばれる百万年(あるいは二百万年)は、それまでの時代とは違う特殊な時代であり、当時生起した事件は、現在の世界を本質的に規定するものである。気候変動や氷河性水面変動や地表の諸事件に関する知識は、自然史に不可欠であり、ナチュラル・ヒストリィは同時に第四紀学としての性格を備える必要がある。 第四紀という時代は、地球が、数億年という歴史をかけて作り出した生物自然を、最高度に複雑化させた時代である。一方で海をわたる蝶のような発展段階の高い生物種とそれらが作る生物相を生み出したかと思うと、他方では落葉樹や降雨林などにひっそりと暮らす古いタイプの種及び生物相を、抹殺することなく温存している。 このすばらしい世界―きびしいと同時にやさしい世界を、私たちは滅茶滅茶に破壊し続けている。坂道を転がり落ちるような破壊の速度をゆるめ、多様性の復権に取り組まなくてはならない。そのためには、自然変化の本質をもっときびしく追及する必要がある。 こうして、博物学の魅力に取り付かれた昆虫少年は、自然史を見据える歴史家になってしまいました。「人類の文化」を振り返ることだけが歴史ではありません。地球規模の生物の歴史をナチュラル・ヒストリィとして見る歴史家だっているのです。 人間を物差しにして縄文、弥生と調べていくのが列島文化史ですが、彼が歴史を見る時ものさしの役割をするのが蝶だということです。 今、目の前に飛んでいる蝶がどこから来てどこに行くのか。この列島にいる蝶のどれが元からいて、どれが海をわたってきた蝶なのか。何故北にいたはずの蝶が列島を住処とし、南の蝶が新たにこの地にやってくるのか。 それを氷河期や、温暖期との関連で論じる。何万年というスケールで蝶相が変化するさまをさぐる。最後には当然、人間の文明が滅ぼしていく蝶たちの姿も見えてくる。 著者によれば自然変貌の第三段階を迎えている現在の都市型自然は「砂漠型自然」だそうです。コンクリート、アスファルトで覆われた都市は蝶の目から見れば砂漠なのです。蝶は砂漠では生きて行けません。氷河期を生き延びた蝶が文明の砂漠の中で「今」滅ぼうとしているのです。 本書は1973年に出版された「日本列島蝶相発達史」という本のリメイク版だそうです。30年以上たっていますが、著者が発している警告は全く古びていません。1983年に亡くなった著者が現在の都市の蝶相を知ればなんというだろう、読み終えてまじめにそう思いました。(S)追記2019・08・03 この本を紹介したのは十五年以上も前で、生徒さんたちはもう大人になっている。ぼくはただの徘徊ジジイになった。もう一度読み返す元気は今はない。職場の庭にあった面白い形の楠も切られてしまった。樟の葉っぱを食べるアオスジアゲハが、タバコを喫って休憩しているぼくの周りを飛び交うのが夢のように思い出されてくる。 樹齢100年にならんとする大木が、葉っぱがゴミだ、駐車場の邪魔だという理由で切り倒される。「安全」「便利」「平等」、符丁のように言葉は使われて、点数が競われる時代になったが、何を育てているのか忘れた教育に未来はないだろう。学校は「いきものを育てている」場所だということが忘れられて久しい。 人間という生き物はたかがか80年ほどの命だが、命のすごさは100年、200年生き続ける、庭の植物が教えてくれることだってあるのだ。地面にコンクリートを張って便利を求めることは、そろそろ考え直した方がいいとおもうのだが。にほんブログ村にほんブログ村【中古】アサギマダラ海を渡る蝶の謎 /山と渓谷社/佐藤英治 (単行本)著者違いますが。蝶の海渡の話です
2019.08.13
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もう、十数年昔のことです。三年生の教室で出会って、浪人していた人がいました。小論文の入試があって対策に付き合ってほしいという電話が自宅にかかってききました。義理というか、人情というか、まぁ、ぼくにでもできることならお手伝いさせていただきましょうということで、申し出のあった二人の浪人生の相手をしました。二人とも優秀な人でしたから、結果的には志望校に合格しました。しかし、小論文については二人とも劣等生でした。 二人のうちの一人は医学部を、もう一人は教育学部を志望していましたが、受験大学の過去の問題には「遺伝子操作によって治癒する可能性が高い遺伝的疾患が胎児に発見された場合、医師であるあなたはどのような治療をするべきか述べよ。」とか、「あなたのクラスでいじめが始まったときに教員であるあなたはどうしますか。」といったものがありました。 受験勉強の常道で過去に出題された試験問題の練習を始めてみると、全くお話にならない状態でした。この時点で彼等が何に苦しみ驚いたかといえば、「生命倫理」「遺伝子治療」「人工授精」「イジメ」「人権」「こころの教育」といったことばの意味どころか、ことば自体を知らないという自分自身のアホさにだったのです。公立としては県内有数(?)の受験校でトップクラスの成績をおさめながら自分が進もうと考える学問分野の最新の課題を何も知らない。受験には現代社会の現場でなにが起こっているのかなんて関係ないと思っていたそうです。 社会的関心を失って模試の結果だけに一喜一憂し、やれ、どこの大学がむずかしいとか、どこかの高校は何とか大学にたくさん入ってえらいとかいうことが如何に馬鹿馬鹿しいことか、考えてみればすぐにわかることなのですが、それを考えるという「発想」そのものを受験生は奪われているかもしれません。たとえば、大学見学会なんていう催しが、「オープンキャンパス」と称して昨今はやりですが、建物やクラブ活動の派手さだけを話題にする見学に何の意味があるのでしょうか。つまらんことに感心してないで、在籍する教授の研究業績に興味を持てよといいたくなります。「じゃあ、受験指導とやらをしている、あなたは、何を知っているのか。」 彼等が、そのように問い詰めたわけではありません。しかし、お付き合いをしながら、教員である僕自身も自分の関心の狭さを思い知らされたことは事実なのです。とりあえず「イジメ」や「人権」は、一応、仕事関連事項ですからいいとして、実際に遺伝子に起因するどんな病気があるのかとか、遺伝子治療とはそもそもどんな治療であるのかとか、人工授精や遺伝子治療のなにが倫理的に問題なのかなんてことは、正直にいえば「考えたことがない」としかいいようがなかったのです。やれやれ・・・ 無知な浪人生と、無知な高校教員というセットでは受験には勝てません。こういう場合、無知に目覚めた高校教員はどう対処するかというと、手当たり次第、関係のありそうな題の本をひたすら読む。ただそれだけです。言い訳したって始まりませんからね。知識獲得方法に年齢は関係ありません。 今日紹介するのは、そういうわけで、当時、ジタバタ手に取って読んだ本の一冊。 林純一「ミトコンドリア・ミステリー」(講談社・ブルーバックス)「国語」の教員たるもの、そんなきっかけでもなければ、こんな題名の本を読んだりしません。ところが、読んでみると実に良く書けているのです。ちょっと偉そうな言い草ですが、理系の本にありがちな、金釘流というか、ぶっきらぼうで事実が伝わればいいんでしょうというパターンと一味ちがいました。 著者の林純一が中学校の先生になるつもりで東京学芸大学に進学しながら、ミトコンドリア遺伝子研究の最先端の学者になった経緯から書き始められているところがかなり異色です。この本を書いた当時、筑波大学の教授さんであったらしいのですが、本一冊が、いわば波乱の研究史になっていて実に読みごたえがありました。 ミトコンドリアとは何かという素人の疑問に簡潔に答えたあと、ミトコンドリアの遺伝子と細胞核の遺伝子の違い、ミトコンドリア遺伝子の遺伝病とのかかわりの謎を世界の研究者との熾烈な競争や、研究現場での失敗や偶然のアイデアのおもしろいエピソードを交えた語り口は、理系の堅物の著書とはおもえませんでした。現場の様子を伝えた理系の本というだけではなく、まず読み物として二重マル。素人の知的な新発見の面白さという面でも高水準だとおもいます。 同じようなおもしろさに充ちた本といえばリチャード・ファインマンを思い出しましますね。MIT(マサチューセッツ工科大学)で数学を、プリンストンの大学院で物理学を専攻し、アメリカの原爆研究計画で有名な『マンハッタン計画』に二十代で召集され、後にノーベル物理学賞を受賞した素粒子物理学の天才が、研究イタズラ歴をすべてしゃべった「ご冗談でしょファインマンさん(上・下)」(岩波現代文庫)。 ファインマンさんの回顧録はシリーズで出て評判になった本です。今では岩波現代文庫に全巻復刊されています。当時、話題の脳学者で、『クオリア』の提唱者である茂木健一郎も、どこかの本で激賞していました。ついでですが、ファインマンがカリフォルニア工科大学で教えていた講義が『ファインマン物理学』(岩波書店)という大学生用の教科書になっていて、評価が高いそうです。大学生協の書店でアルバイトをしていたときに売ったことはありますが、読んだことなどもちろんありません。自信のある方は市立図書館で探してみたらいかがですか?ファインマンは最近話題になっている量子コンピューターを提唱したことでも有名な人です。ともあれ努力家林純一にしろ、あっけらかんの天才リチャードファインマンにしろ、研究が楽しくて仕方がない感じがとてもいい。 なついて(?)来てくれる受験生諸君によく言ったことです。「受験のために読めといっているのではありませんよ。いろいろな世界を知らないまま、やれ進路の、やれ大学のと騒いでいてもしようがないでしょう。手にとった本の向こうに知らない未来があるかもしれない。若さが可能性の塊だということに早く気づいていただきたい。わかる?」 どうも、偉そうなお説教になってしまいました。お説教をする相手がいなくなるというのは寂しいことですね。(S)にほんブログ村にほんブログ村ご冗談でしょう、ファインマンさん(上) (岩波現代文庫) [ リチャード・フィリップス・ファインマン ]ご冗談でしょう、ファインマンさん(下) (岩波現代文庫) [ リチャード・フィリップス・ファインマン ]ファインマンさんは超天才 (岩波現代文庫) [ クリストファー・サイクス ]聞かせてよ、ファインマンさん (岩波現代文庫) [ リチャード・フィリップス・ファインマン ]
2019.06.24
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徳永進「自動詞と他動詞」(「図書」2014年6月号)岩波書店 徳永進という名前のお医者さんをご存知でしょうか。「ホスピス・ケア」とか、「ターミナル・ケア」という言葉があります。「終末期医療」ともいわれています。徳永さんは鳥取県で「野の花診療所」という病院を開いて緩和ケアの仕事をしているお医者さんです。下に引用したのは、岩波書店の「図書」という冊子に、ずっと昔に書いていらっしゃった文章の一部です。 「自動詞と他動詞」 動詞は動きを示す言葉だろう。動きは宇宙に、自然に、社会に、家の中に、自分の体の中、心の中に無数にある。言葉があるというより、生命現象の場には、無数の動きがあり、それを動詞が追っかけているのだろう。 自動詞は他にかかわらず、他に影響を与えない動詞。自らのうちに生じる現象を追う言葉。 足なら、立つ、歩く、走る、ころぶ。手なら触る、ちぢかむ、のびる、拍手する。手足なら、這う。会う、笑う、泣く、寝る、起きる、苛立つ、怒る、つのる、いたむ。 でもどちらかといえば、手、足、目、耳、舌、歯、心、などが持つ動詞は、他動詞であることが多いと思う。握る、蹴る、見る、聞く、味わう、噛む、憎む、愛する。自動詞、他動詞の両方によって身体の運動、心の動きは捉えられている。随意筋と不随意筋によって筋運動が支えられているように。「伝える」と「伝わる」を臨床で教えられ、自動詞って深い、と知ったが、自動詞がより深い言葉で、他動詞がそうではない言葉、などとは言い切れないことも教えられる。抱く、さする、慰める、励ます、支える、癒す、助ける、救う、いずれも大切な他動詞たちだ。 生死につての動詞についても考えてみた。「生む」は他動詞、「生まれる」は自動詞。「生まれる」は英語では受動態だが、日本語では受動態とは言えず、自動態というべきだろうか。「殺す」は他動詞で能動態。「殺される」は受動態。「死ぬ」は自動詞、であるのに、「死なれる」という言い方があり、深い言い方だと知った。 小児科医たちが集まる医局で、「夕方、アキラ君に死なれちゃった」と目頭を赤くして小児科医が言う場合だ。自動詞の受動態。「別れ話をしていたら、彼女に泣かれて」も、泣くという自動詞の受動態。自動詞の受動態には、奥行きがある。 臨床で大切な「共感」「受容」「傾聴」の名詞は、それぞれ「する」をつけると自動詞になる。自動詞ならどれでも深いとは一律にはいえず、表面的に形式的にその動作をしているなら、それらは浅い。自動詞の「傾聴する」とは「聴く」ことである。聴くは他動詞だ。自動詞の世界で別の言葉を見つけ直すなら何だろう。「聞こえる」か。 患者さん、家族さんの気持ちを傾聴することはとても大切なことだが、さらに、その向こうで発されているかもしれない聞こえない声を聞こうとする、ない声が聞こえる。このことの方がより大切なことのように思える。自動詞は偉い。だが、詩人の谷川俊太郎さんは「みみをすます」という言葉を使って、聞こえない過去、現在、未来の言葉に触れようとしたことを思い出した。「すます」は他動詞。他動詞の深さも教えられる。自動詞だって他動詞だって、考えてみれば当然、深くもなれば浅くもなる。お互いさまか。 飽きることなく考え続けた。「見る」は他動詞、「視る」も「看る」も。臨床では大切な動詞だが、「聞こえる」から連想していくと、「見える」という自動詞も大切だと思う、目の前に見える世界だけでなく、患者さんの生活を想像したり、心の中を想像したり、過去やこの先のことを想像して見える世界。「聞こえる」も「見える」も、幻聴や幻視に通じて大切な自動詞の世界なのかもしれない。 たどり着いたのは、自動詞、他動詞、それぞれの深み、それぞれの味。反省をふまえ、臨床で大切だと思った言葉をそれぞれから一つずつ。「湧く」、「祈る」。 いろいろ考えながら、最後に「湧く」「祈る」にたどりつく。「祈る」はそうなんだなとすぐに納得がいきますね。その前の「湧く」。ぼくにおもい浮かぶ言葉は「哀しみ」。しかし、ほのかな「歓び」かもしれません。 大江健三郎という作家が「リジョイス」という言葉をキーにして小説を書いていたことを思い出しました。もちろん学習塾やパチンコ屋さんの話ではありません。もう少し宗教的というか、生きていることの本質にかかわる言葉ですね。 リジョイス。そっと呟いてみませんか。名詞なのか動詞なのか、究極の自動詞かもしれません。(S)2014/10/01追記2023・02・17「死なれる」という言葉の深さについて考え込む機会がありました。要するに「死なれちゃった」経験をしたわけです。偶然ですが、徳永進の別の本を読んでいての経験でした。マア、まだ、うまく言葉にできませんが、この投稿を思い出して修繕しました。別の本の案内も、そのうち出来たらと思っています。今日のところは、ここ迄です(笑)。にほんブログ村にほんブログ村死の文化を豊かに【電子書籍】[ 徳永進 ]読みやすくて、深い。詩と死をむすぶもの 詩人と医師の往復書簡 (朝日文庫) [ 谷川俊太郎、徳永進 ]わたしだって看取れる [ 徳永進 ]
2019.06.22
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福岡伸一「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書) ぼくの枕もと、つまり、寝転がったままで手の届く範囲には手に入れたけれど読まないままの本が、ちょっと口に出して数をいうのがはばかられるほど、もう、積み上げることが出来ないから箱に入れて何とか背表紙だけはこっちを向けて並べてある。 あまりのことに同居人に叱られて、アレコレいいわけしながら並べ替えたり、いろいろ、まあ、動かして、さてと寝転んで、で、下から見える背表紙が妙に目新しいのがうれしい。 まぁ、簡単にいうと「アホか!?」状態。「ああ、こんなのあったっけ?」そう思って手にとった一冊にはまってしまった。 この本に関するこの出来事は、もう、かなり昔のことだ。本も、話題になって10年以上たつが、その頃の話。著者も今や有名人。 著者福岡伸一は分子生物学の学者。手にとって、パラパラやりながら最初の感想はこれ。 「うーん、ブサイクな人やなあ!」 著者の紹介が講談社新書の場合は表紙カバーの裏にある。写真もついている。1959年東京生まれ。 「フムフム、五才年下か」 京都大学医学部卒業、ハーバード大学研究員、京都大学助教授、現在、青山学院大学教授。 「なかなかエライ!」 さて、顔写真をしげしげと見る。「うーん、ブサイク!」と、よろこんだぼく ― 何がうれしいねン? ― は横に寝転んでいる同居人に話しかける。「なあ、一寸この人見てみ、なかなかブサイクやとおもわへんか?」「ンッ?フツーちゃう?でも、なんの関係があるん?」「イヤ、まあ、賢い人がオトコマエやとくやしいやんか。」「アホか!」 まぁ、なんの意味もない会話なんだけど、そういうことがあって、読み始めてみるとこのブ男の文章が実にシャープ。実際、まったく、人間、顔じゃない! この本のテーマは《生命とは何か》。読みはじめると、著者が最初に研究生活を始めたニューヨークにあるロックフェラー大学が紹介される。 千円札の顔、「野口英世」という人がかつて所属した研究所だそうだ。本書はその野口英世の成功ではなく、失敗から語り始められる。 野口は二十世紀の初頭、黄熱病や、梅毒、狂犬病の研究成果で日本人としては最初に、それも数回にわたってノーベル医学賞の候補に上がった科学者で、ぼくたちの世代の科学好きは必ず少年向け伝記を読んでいたような人だ。お札のデザインになった理由はその辺にあるのだろう。 にもかかわらず、現代の高校生や大学生は誰も知らない。世界の科学界でも非常に評価が低く、無視されているのが現状だそうだ。 その原因は何か? 答えは「ウイルス」なのだ。 野口は、当時の光学顕微鏡では見ることのできなかった「ウイルス」の代わりに、目の前に見える細菌を追いかけている犯人だと信じた。そして、新病原菌の発見者の名誉を手に入れた。 しかし電子顕微鏡の登場と共に虫メガネの迷探偵は舞台を追われた。犯人は別にいたのだ。では真犯人のウイルスとは何者なのか。ウイルスは、単細胞生物よりもずっと小さい。大腸菌をラグビーボールとすればウイルスはピンポン玉かパチンコ玉程度のサイズとなる。 栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない。ウイルスを、混じり物がない純粋な状態にまで精製し,特殊な条件で濃縮すると,「結晶化」することが出来る。これはウエットで不定形な細胞ではまったく考えられないことである。結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されて初めて生成する。つまり、この点でもウイルスは鉱物に似た紛れもない物質なのである。 しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。それはウイルスが自ら増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている。核酸=DNAもしくはRNAである。 さて、野口英世の名声を奈落の底に突き落としたウイルスとは、果たして生き物といえるのだろうか。それが著者の本書でのメインテーマ。 そこで、ウイルスが増殖することに目をつけた著者は「生命とは自己複製するシステムである」という一見当たり前の定義を疑うという離れ業に挑むことになる。キイワードは「動的平衡」と「時間」。 これだけでは意味不明だろう。結果を知りたい人はどうぞご一読を。 ワトソン、クリックといったDNA二重らせん構造の発見した有名人のスキャンダルから、量子力学の天才シュレーディンガーまで登場するが、登場のさせ方が実にうまい。ぼくは一晩寝られなかった。特に「生命と時間」、この一見、哲学的な結びつきを科学的に解説する筆致はすごい。 この本は、爆発的に読まれた理系の本。人気者になった福岡さんはいろいろ書いていらっしゃるが、これがベスト。間違いありません。 インフルエンザに毎年のように苦しむあなた、まあ、本を読めば風邪をひかないわけではないのですが、一度手に取ってみてください。(S)追記2020・05・19 そういえば「新コロちゃん」騒動で、この人の名前を耳にしない。専門の領域だと思うのだが、お元気なのだろうか。ボタン押してネ!にほんブログ村生命とは何か 物理的にみた生細胞 (岩波文庫) [ エルヴィン・シュレーディンガー ]ちいさな本です。すぐ読めます。よくわかりません。( ̄∇ ̄;)ハッハッハ死なないやつら 極限から考える「生命とは何か」【電子書籍】[ 長沼毅 ]深い海の底の話。二重らせん (ブルーバックス) [ ジェームス.D・ワトソン ]やっぱり、ある意味名著だと思います。
2019.06.19
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福岡伸一「プリオン説はほんとうか」(講談社ブルーバックス) もう、十年も昔のことになってしまうが、このブログのもとになる「読書案内」を高校の生徒さんたちに配っていたことがあった。最近、原稿を保存していたファイルが壊れつつあることに気づいて「さて、どうしたものか?」と思案したが、ここに転載することにした。 当時は相手が高校生だったので、そういう書き方をしている。少し直したけれど、さほど変わったとも思えない。新たにお読みいたければうれしい。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)を紹介したら、思わぬ反響があった。読んでいる人、読もうとする人がたくさんいて嬉しかった。やっぱり本屋さんに山盛りしてある流行の本を紹介した方がいいのかな、そんなふうに思った。 とはいうものの、興味に引きずられて、同じ福岡さんの「プリオン説はほんとうか」(講談社ブルーバックス)を続けて読んだ。むずかしかった。 めげずに「もう牛を食べても安心か」(文春新書)も読んだ。こっちは、口当たりがよくて、おもしろかった。 両方とも「狂牛病」がテーマの本。しかし、本のオモムキというか、想定されている読者がかなりちがうようだ。「プリオン説はほんとうか」は理科系の高校生か教養課程の大学生、一般の高校生ならかなり出来のいい人が対象らしい。グラフの比較や実験の方法が詳しく説明される。これが、ぼくのような文系素人にはだんだん苦痛になってくる。 一方で「もう牛を食べても安心か」は一般社会人向け。「狂牛病」の社会的大騒ぎに答える形で書かれている。 狂牛病という病気がイギリスの牛で流行して、牛丼の吉野家が豚ドンの吉野家になってしまったあの事件、憶えている人もいると思う。 この事件が僕たちの不安を掻きたてたポイントは、まず脳がスポンジ状になるということ。続いて、かかったら治らないらしい動物の病気が人間に感染するということ。感染する病原体の正体が僕たちが耳にしたコトのあるウイルスとか、細菌といった「生き物」ではなくプリオンと呼ばれるタンパク質の一種であって、煮ても焼いても毒素は消えないらしいということ。 その上に、イギリスで流行っていた病気がなぜ、はるばる地球の反対側の日本にまでやってくるのかという、ちょっと種類の違う不安も付け加えなければいけないかもしれない。 両著とも、なぜイギリスで、まず流行し、その後、なぜ日本にまでやってきたのかという疑問からきちんと答えている。 もっとも、一番知りたい、答えてほしい事実、つまり「病気の正体」というのが、実は、ハッキリしていないということもきちんと答えているわけで、この本を読んだからといって、我々素人の不安が解消するかどうか保証の限りではない。 どっちかというと政府や社会一般の対応のずさんさに気付いてしまって、かえってヤバイ気分になる可能性もある。 つまり、再開した吉野家は大丈夫かという不安が再燃する可能性は大いにあるということだ。 発病の原因である病原体について、研究の歴史を踏まえながら、科学的、実証的に論証して見せるのが「プリオン説はほんとうか」の方の狙いらしい。 著者は研究者としてプリオン説に、はっきり疑いをいだいている。その疑いが、著者自身の研究と直結しているところが、スリリングで、最初の読みどころ。研究者を夢見ている高校生や、プリオンというたんぱく質病原体説に興味をお持ちの方には、特にお薦めの内容だと思う。 一方、病気の流行に対する、政治的、社会的責任について、厳しく現状批判しているのが「もう牛を食べても大丈夫か」のほうで、「食べる」という生き物の行為の意味と実際について政治家や商売人たちは如何に無知で、無責任であるかということが批判の根底にある。 「食べる」ことの分子生物学的解説が始まる第二章「私たちはなぜ食べ続けるのか」あたりから、実に面白い。「生物と無生物のあいだ」をお読みになった方は覚えがあるかもしれないけれど、シェーンハイマーというノーベル賞級の業績をあげながら、若くして自殺したユダヤ人学者の唱えた、《身体の「動的平衡」》という概念、いや、概念ではなくて、これこそが生命の姿だというの生命観の解説が最重要なポイントだと思った。 要するに「新陳代謝」のことなのだが、なぜ人間は脂肪や炭水化物だけでなく、タンパク質を摂取しなければならないか、摂取したタンパク質は体内でどんな役割を担うのかという、わかった気になっていた食物の消化と吸収の本質を、遺伝子組み換え食物や臓器移植の危険性に言及しながら、今までの新陳代謝概念を完全に動的平衡概念に新陳代謝してくれる。 たとえば、ぼくのような門外漢は、「脳」だけは新陳代謝しないと考えてしまっていたが ― だって、新陳代謝してしまったら記憶はどうなるの? ― 脳も例外ではないらしい。 記憶の構造は記憶細胞が溜まっていくというようなことではなく、シナプスのネットワークを駆け巡る電気信号の「流路パターン」の保持だというのだ。 こんなふうにいくら書き綴っても、この案内の読者にはピンとこないに違いない。まあ読んでもらえばわかるので、是非お読み頂きたい。きっと驚くと思う。 ところで、この本のいいところは新知識の獲得という点だけにあるのではない。 一つ目が、科学者がわかるというためにどこまでも検証しなければならないという科学に対する真摯な態度、誠実さ。 二つ目は、わかっていることを政治や金のために捻じ曲げたり、売名したりすることに対して徹底的に批判するモラル。 この二つが執筆の姿勢として貫かれていることこそ、難しくても読ませる理由だとぼくは感じた。(S)追記2019・06・16 福岡伸一さんは、このころから、出版業界ですっかり売れっ子になってしまった。要するに、次々と素人の読者層をターゲットにした、お手軽出版物の著者になってしまったといってもいい。「動的平行」の入門書も複数出たし、ついには美術評論家のような趣味の本も出た。 ぼくは気に入った人は追いかけるタイプの読者なので、かなりなところまでついていったと思うが、手に取って二時間ほどで読み終えることができる内容になったころにオッカケをやめた。 内容が進化していないことが一番の理由だ。この人を読むなら、結局「生物と無生物のあいだ」(現代新書)で十分だ。ボタン押してネ!にほんブログ村【中古】 生物と無生物のあいだ 講談社現代新書/福岡伸一【著】 【中古】afbこれです。これ!新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか (小学館新書) [ 福岡 伸一 ]帯が大げさすぎます。
2019.06.16
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池内了 「娘と話す 原発」 (現代企画室) 今日は科学の案内です。池内了(さとる)という天文学者をご存知でしょうか?「銀河の構造」であるとか、「泡宇宙論」であるとか、その手の話が好きな人にはもってこいの科学者です。彼の宇宙論の本はたくさんあります。専門家としてはもちろん超一流の学者なのでしょうが、初級の科学おたくとか、理系に進みたい高校生や中学生にピッタシの入門書を書く学者としては当代有数の「書き手」といえると思います。 専門から少し外れた「疑似科学入門」(岩波新書)とか「物理学と神」(集英社新書)といった、文系の素人が手に取ってみたくなるタイプの新書もたくさん書いている人です。 そんな池内了が書く本の題名が最近では「科学の限界」(ちくま新書)、「科学と人間の不協和音」(角川oneテーマ21新書)というふうに変化してきました。 現代を生きている人間にとって、あるいは現代社会にとって科学とは何かという方向に、純粋科学の紹介から文明論的一般論に著者の関心が変化するのは年老いた科学者のパターンの一つです。 たとえば、日本人初のノーベル賞の物理学者湯川秀樹の自伝風回想記「旅人」(角川ソフィア文庫)や、世界の数学者からその才能を注目された天才数学者岡潔の名随筆集「春宵十話」(光文社文庫)などがその例で、読めば面白いですが専門の理論物理学や数学の話というより、人生論や文明論というべき著作です。 少しづつつまみ食いのように池内了の著書に接してきたぼくは著者の関心が変わってきたのだろうか、という興味もあって「娘と話す原発って何?」(現代企画室)という本を手にしました。 どうもちがうようですね。池内さんは年を取ってのんびりと世界を傍観しながら、毒にも薬にもならないような戯言を弄するようなスタイルの科学者ではないことが、例えばこの一冊をお読みになればでわかると思います。 お断りしておきますが、もちろん、湯川秀樹や岡潔の著作もそんな本ではありません。 さて、この本の後書きにはこんなふうに記されています。 阪神大震災が起こって以来、これから50年先の世の中はどうなるだろうと考えるようになった。地下資源に依存した近代の科学・技術文明の脆弱さと負の遺産を未来世代に押し付ける無責任さを痛感するようになったからだ。 無論50年先に私という人間は存在しない。しかし今なにがしかのことを言い残しておかなければならないと追い立てられるような気持ちとなった。 50年先には、資源枯渇が露わになり、資源確保のための世界戦争が起こるかもしれない。悪化した環境からの復讐で、飢餓・疫病・気候変動などによる人類の大量死を迎える可能性もある。 それらの事態を想像すれば、現在から手を打っておかねばならない。「わが亡き後に洪水よ来れ」ではあんまり無責任すぎるではないか。少なくとも、浪費に明け暮れ、負の遺産だけを残している世代においても、未来を想像して警告を発する人間がいた、それがせめてもの償いになるのではないか、と大げさに考えたのだ。 これは、ときどき見かけますが、死んだあとのことなど知らないとふんぞり返った傍観者の老人の態度ではありませんね。 本書では現代社会における原子力発電の基本原理に始まり、原発の仕組み、放射能・放射線などの原子力に関する基礎的事項の解説、原発の抱えている問題点と現代文明とのかかわりにわたって、ことばどおり懇切丁寧でわかりやすく解説がなされています。 若く無知で善良な人々に対して科学的事実を伝えなければならないという誠実な態度で一貫しています。決して反対のための言いがかり的な批判ではありません。 東北大震災と原発事故に対して科学者の感じたショックが、未来を人間のためにより良く変えようとする科学本来の真摯な思想を突き動かして本書を書かせたことがよくわかります。 そのうえ、その丁寧さの中には原子力発電の安全神話を振りまいてきた人たちや制度のエゴイズム、事故に対する政府や東電の無責任さにたいする憤りがにじんでいます。 彼が何故、憤っているのか、考えることこそ大切なことのようにぼくには思えました。彼のこれからの発言や行動はまだまだ注目に値すると思います。(S)追記 池内さんは姫路の出身の方。ドイツ文学の池内紀はお兄さん。何の関係もありませんが、兵庫県の住人としては、何となくうれしい。お兄さんの方は、神戸大学のドイツ語の先生だったこともあるようですし。追記2020・05・10 池内紀さんが昨年亡くなってしまいました。残念です。弟の池内了さんの仕事はアカデミズムの軍事研究批判に焦点が絞られているようです。『科学者と戦争』(岩波新書 2016年)に続いて、『科学者と軍事研究』(岩波新書 2017年)も出ています。いずれ案内するつもりですが・・・。ボタン押してネ!にほんブログ村?もう一つの文明?を構想する人々と語る日本の未来 自然と共に生きる豊かな社会 [ 池内了 けいはんなグリーンイノベーションフォーラム ]今の彼ですねきっと。宇宙論と神 (集英社新書) [ 池内了 ]こういうのから、好きになりました。科学の限界 (ちくま新書) [ 池内了 ]読みやすい。科学者と軍事研究 (岩波新書) [ 池内了 ]これは、今とても大事なテーマ。
2019.06.10
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中井久夫「時のしずく」(みすず書房) 神戸大学医学部の精神科の教授だった中井久夫というお医者さんがいらっしゃいます。 2005年の著書「時のしずく」(みすず書房)の中に、「21世紀に希望を持つための読書案内」(筑摩書房)にも載っている「秘密結社員みたいに、こっそりと」というエッセイがあります。最近出ている「中井久夫集」(みすず書房)であれば第7巻「災害と日本人」に収められています。おもしろいから紹介します。 読書は、秘密結社員みたいにこっそりするものだ。私は推薦図書は書かない。書店で手に取ったときに、まるで自分を待ちかねていたかのような感じがする本が『あなたの本』だ。立ち読みして文章が目に飛び込んでくるようだと、絶対に買いだ。自分の財布を痛めて買う。図書館の本はすぐ期限が来る。借りた本は読もう読もうと思っているうちに時間が経って返し辛くなる。もらった本は真剣に読まないかも。 教科書は、先生が解説するためのもので、読む本としては不親切だ。理系志望だろうと文型志望だろうと、私は、数学、物理学、天文学、生物学、地質学、世界史の本を一冊でもいいから読んでみることをお勧めする。よい新書版がある。しかし、本格的な本に挑んだっていい。せっかく、この世界に生まれてきて、この世界の成り立ちを知らずに終わるのはもったいないと思わないか。そして、専門家はジュニア向きの解説書を書く時、とても真剣になる。レベルを落としたお子様ランチではない。名著が少なくない。 人工衛星の望遠鏡で撮影した写真集を開いてみるといい。あるいは、古生物学で五億年前の生物種の爆発を。学則や対人関係の悩みなど、実に小さいものに思えるはずだ。現代数学の出発点の集合論など予備知識不要だ。世界の歴史にはいいシリーズがある。地図を傍らに置いて読むことだ。世界地図は一度描いてみると、すごくよく頭に入る。日本史は世界史を読んでから読む方がいい。 そんなことをしていて高校生のあなたは大学に通るかって。大学の先生は大学の発想で出題する。高校の教科書はお義理で見るだけだ。そして、先生はだいたい自分の専門から出す。間違った問題を出すと世間が騒ぐ。大学前の書店で、教養(前期)過程の教科書か副読本を買って読むのがお勧めである。実利だけでなく、おもしろい。おもしろいから頭に入る。 英語で受けるならラテン語の初歩をかじっておくといい。漢字かな混じり文の漢字に当たるのが英語の中のラテン語系の言葉だ。漢字の意味を知れば熟語がわかるのと同じだ。またドイツ語かフランス語で受けるのもいい。高校生からで充分間に合う。英語の問題の意地悪さと対照的に、ドイツ語フランス語の問題は『よくぞこの言葉を選んでくれました』という感じだ。西洋の言語では英語はかなり変則的な言葉だ。といってやらないわけにゆかない。 英語は世界史か生物学かに英語の副読本を使うのが妙案だ。内容がわかっている文章だし、立派な叙述文、議論文でいっぱいのはずだ。辞書は大きいのにも慣れること。そして、英英辞典に挑戦することだ。外国語の問題は、実際には日本語の読み書き能力と関連している。的確で歯切れのよい日本語の文章を筆写するといい。構成がよくわかり、著者がどこで苦心したかもわかる。和歌、詩だって筆写すると理解がぐっと深くなる。外国語の文章だってやってみる値打ちはある。 極論に思えるかもしれないが、筆者がやらなかったことは書いていない。ただうっかりすると知識欲は権力欲の手段に成り下がってしまう。権力欲はサルやその他の動物にも立派にある。知識欲は動物にはないとはいわないけれど、人間の人間であるもとはこちらだろう。ただ新しいだけ知識欲はひ弱く、権力欲は古いだけしぶとい。基本的な三大欲望という睡眠欲、食欲、性欲だって、権力欲の手段に成り下がることが少なくない。 そうなると何がどう変わるか。三大欲望は満たされるとおのずとそれ以上求めなくなり、おだやかな満ち足りた感じに変わる。ところが権力欲だけは満たされれば満たされるほど渇く。そしてその手段になった他の欲望は楽しさ、満足感がみごとに消えうせる。 仙人になれというのではない。けれども、知的好奇心は、勉強や学問が権力欲に手段となると同時に見事に消えうせる。 知識はふやそうとしても、楽しさも満足感もないのだから、炎天下のアスファルトの道を歩くように辛いだけになって心身の健康をこわしかねない。 知的好奇心だけは『よい学校』に入る手段にしてしまわないことだ。でないと、かりに『よい学校』に入っても面白くもなんともない。教授になっても多分そうだろう。 冒頭部分を少し省きましたが、これで、ほぼ全文です。本人が非常に出来る人ですから、本人もおっしゃっていますが、極論と言えば極論ですが、面白いと思っていただいた方は、できれば中井久夫という人の他の著書に出会っていただきたいと思います。 高校生なら受験勉強にバカにされないために。大学生なら面白く勉強することのヒントとして。お子さんをお育てになっている年代の方なら、お子さんたちにベンキョウは楽しいんだと伝えるために。ぼくのような老人であれば、もう一度勉強を始める意欲を掻き立てるために。 いや、どなたであっても、今日の穏やかで、意欲的な生活のために。 精神科の専門的論文は無理だとしても、たくさん書かれているエッセイや、詩の翻訳は、素人にだって読むことは出来ます。もちろん繰り返し読み直さないと分からない文章もあるかもしれません。しかい、一冊読み通していただけたなら、こんな「案内」を書いている気持ちが、少しは理解していただけると信じています。でも、やはり、むずかしいのでしょうか?(S) 追記2022・08・11 中井久夫さんの訃報(2022年8月8日逝去)を知りました。学生時代から、複数の親しい友人が門下生であったこともあり、まあ、学部は違うのですが同じ学校の先生ということで、勝手に師匠と決めて出される本はみんな読もうと思い込んで暮らしてきた40年でした。 専門書はともかく、素人にも読める詩集やエッセイ集は読みごたえのある名著がそろっていると思います。案内したい本がたくさんあります。出来れば一冊づつ読み直し、紹介していきたいと思っていますが、とりあえず、筑摩書房の学芸文庫に「中井久夫コレクション(全5冊)」というシリーズがあることを追記しておきます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.23
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中井久夫「アリアドネからの糸」(みすず書房) 朝日新聞2018年5月19日の朝刊の読書欄で批評家の柄谷行人が「中井久夫集」(みすず書房)第6巻「いじめの政治学」を書評していました。 「おっ、柄谷が中井さんの書評を書いてる。いいね。」 いつもは、むっつり、ゴソゴソ始まる朝がなんだか明るいのです。我が家では、同居人のチッチキ夫人と二人、中井久夫という、「すごい人」としかいいようのない人を「中井さん」とさん付けで呼んでいます。 精神科の医師で、神戸大学の医学部の教授をしていた人ですが、同居人もぼくも、ミーハーだけどファンです。 そのうえ、彼を論じている柄谷行人はぼくにとっては、ひいき中のひいき、信用している最後の批評家と言ってもいい人です。もっとも、お二人のように、頭の良すぎる人の明解は、凡才にとってただの晦渋にしか見えない場合も多いのがげんじつで、そこは、まあ、つらいのですが、しようがありません。 「今日の文章はわかるように書いてあるね。」 「まあ、相手が中井さんだからね。」 まあ、わかる人か見れば、トンチンカンもいいところの会話です。でも、ふたりとも朝から機嫌がいいのです。 書評で取り上げられた本は「いじめの政治学」でした。「中井久夫集(第6巻)」は、阪神大震災前後のエッセイが全集版として集められた本ですが、その中から「いじめの政治学」が取り上げられていました。。 単行本でいえば、2005年に出版された「アリアドネからの糸」(みすず書房)と内容が重なっています。 いじめといじめでないものとの間にははっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。 鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールにしたがって交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。 鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。 子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。子どもは家庭や社会の中で権力を持てないだけ、一層権力に飢えている。子どもが家庭の中で権利を制限され、権力を振るわれることが大きければ大きいほど子供の飢えは増大する。 しかし、いじめを教える塾があるわけではない。いじめ側の手口を観察してしていると、家庭でのいじめ、たとえば配偶者同士、嫁姑、親と年長のきょうだいのいじめ、いじめあいから学んだものが実に多い。方法だけでなく、脅かす表情や殺し文句もである。そして言うを憚ることだが、一部教師の態度からも学んでいる。一部の家庭と学校とは懇切丁寧にいじめを教える学校である。 この本を手にしたのは10年以上も前のことですが、一読、ぼくが心に刻んだのは「いじめの政治学」の論利展開ではなく、その展開に先立つ「いじめの教育学」とでもいうべきこの一節でした。 教員をしている人間の多くは、ぼくもそうだったという苦い振り返りで考えると、子供たちの「いじめ」事件に、自分自身は何のかかわりも、ましてや、罪など全くないのに不運にも遭遇してしまったと思いたがるものです。ぼく自身も、実際そう思っていたように思います。「いじめダメ」といったスローガンを張り出したり、集会で強面の生徒指導部長が、半分脅しのような訓戒を垂れたりして、「子ども特有の裏社会」を「教育的」に牽制したうえで、面談と称して密告を奨励し、子供たちのネット通信をのぞき込んで秘密情報の収集に余念がないのが、残念ながら、実態ではないでしょうか。。 結果、子供の社会を、「教育的に」と当人は思い込んでいるですが、実は「権力的に」取り締まっていることに対する疑問は生まれません。教育委員会の重点課題として「いじめ撲滅キャンペーン」が叫ばれるのですが、教員自身の意見が互いに交換されるはずの職員会議で、議題に対する賛否の挙手さえ、校長によってあらかじめ禁じられている矛盾は放置されています。いや、ここ10年、どんどん深刻化してきたといった方がいいかもしれません。 教員たちのふるまいは一般的な社会常識としても異様で、フロムの言う「自由からの逃走」そのものなのですが、自覚がないのが特徴です。そのうえで、学校内での事件が、新聞やテレビに出てしまうような事態を、ひたすら恐れる感覚を管理職と共有することで、「まじめに考えている」と思い込もうとしています。 そんな中で、果たして、たとえば、ぼく自身も、その職場で働きながら自身の責任性について考える契機を持つことができていたといえるのでしょうか。 そういう内省などとはとても言えない、ボンヤリな日々に読んだ中井久夫さんのエッセイは、いじめがどこからやってくるのか、教員がいじめの現場に遭遇するのは、決して偶然ではないということをさりげなく、遠慮がちに指摘していました。 ナチスやスターリンの全体主義社会はいじめの温床だったが、現代の学校社会はそれと相似形とでも言うべき様相を呈していないかという、厳しい問いかけが、その穏やかな言葉のなかにあると、ぼくは思いました。 その頃、ぼくの周りでも、若くて、素直な教員ほど、マニアル偏重主義におちいり、上から下への「やさしさ」を権力的に振り回す傾向がありました。もちろん、自分が「権力的」だと自覚することは出来ない不思議な穴ぼこに落ち込みます。なんとかする手はないのか、そんなふうにいら立っていたことを思い出します。 私は学校などの現場で、この論文を読んでほしいと思う。のみならず、これはまさに政治学として読まれるべきである。人に見えないような「隷従化」が進行している時代だから。 と書評は結ばれていました。 さすが柄谷行人です。彼が、現代という時代にたった一人で挑み続けてる批評家であるからこその一言といっていいとぼくは思いました。 学校が教員を隷従化するシステムへと完全に変貌したときに、子供たちに何が起こるのでしょう。きげんのいい朝にやってきた、フトした不安が浮かびました。ちいさな、気がかりの始まる土曜日でした。(S)追記 2019/06/17 サンデー毎日の老人は、自分の部屋でごそごそするのが日課なのだが、この一月、近所の小学校の運動会の練習が、朝一番から始まる喧騒の日々だった。昔ながらといえば、昔ながらなのだが、叱咤激励のつもりなのかもしれないが、男性、女性を問わず、「命令」という方がいい、いや、いっそ「罵声」と、いうべき口調が拡声器から聞こえてくる。 似たような職場に何十年も暮らしたわけなのだが、横に座ってみると、大人たちの声にこもった「よくない感じ」に気付く。「思わず、そういういい方はやめた方がいいよ。」 そんなふうに思うことが、毎日ある。スピーカーで拡大した、その声を誰に届けたいのか。教員たちも、ときには、学校の外に立って聞いてみればいいのにと思う。 グランドの金網には「いじめダメ!」の横断幕が貼ってある。 やれやれ・・・・。追記2019/11/10 教員が教員をイジメていた。小学生も巻き込んでいた可能性すらある。市内の小学校の時間が新聞紙上に大きく取り上げられている。 暗澹とするとはこのことだが、起こっていたらしいことが、全く理解できないわけではない自分に驚く。十分あり得ることで、そこに充満していたかもしれない悪意を、僕も知っている気がする。 教育というシステムが、何処から壊れるのか、そこから考えた方がいい。教室や学校は、下手をすれば「恐怖の権力」の巣窟になりやすい。実は、教員が一番危ない。自分が権力者であることを、反省どころか、自覚もしていない世界が、そこにある可能性がある。なぜそうなるか、そこを考えずに、終わらせないでほしいと思う。追記2022・08・09 中井久夫氏が2022年8月8日、ご逝去された記事がネットに載りました。ショックでした。もう、寝床にいた同居人に伝えると、起きてきてPCの画面をのぞき込みながら「見えない、見えない。」とつぶやきながら、向こうに行ってしまいました。 今日のぼく自身の気持ちも、そんな感じです。「中井久夫が死んでしまったなんて、知らない、知らない。」 ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.10
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