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小澤征爾・大江健三郎「同じ年に生まれて」(中公文庫) 2024年の2月6日、音楽家の小澤征爾が亡くなったそうです。フェイスブックで知り合った方が、その記事をシェアなさっていたので知ったのですが、記事を読みながら涙があふれてきて、チョットうろたえました(笑)。 小澤征爾が指揮するコンサートに行ったこともなければ、LPやCDにしても、立派なステレオシステムで聴いたこともありません。ときどき、ユーチューブで聴くくらいなものです。 ただ、彼の、例えばチャイコフスキーの「弦楽のためのセレナーデ」とかを、パソコンをいじるときのBGMで聴いたりしていると、何故か、突如、涙が流れてきて困る、そういう、音楽家です。 で、思い出したのがこの本です。小澤征爾と大江健三郎の対談集です。 「同じ年に生まれて」(中公文庫) 2004年に出版された文庫本です。下の目次にありますが、2000年に行われた3回の対談をまとめた本です。 思い出した理由は、もちろん小澤征爾の訃報が2024年、2月6日の死を伝えたの見て、即座に大江健三郎が2023年の3月3日に亡くなったことを思い出したからです。「ああ、あの二人は同じ年に生まれて、同じ年に逝ってしまったんだ。」 ボンヤリそんなことを考えていて、この本です。表紙の写真は、2000年ですから、お二人が65歳のときの姿です。 内容は2000年の8月に、長野で二度、同年の12月に東京の成城で一度、計、三度の対談とこの時の「出会い」について、それぞれの気持を書いた二つのエッセイです。 小澤征爾は「語り合えてよかった」と題してこんなふうに振り返っていらっしゃいます。 思い起こせば今から四十年近く前。指揮者として着任したばかりの僕がNHK交響楽団にボイコットされた時、大江さんは武満さんと井上靖さん、三島由紀夫さん、黛敏郎さん、團伊玖磨さん、有坂愛彦さん、一柳慧さん、それから中島健三さん、山本健吉さん、浅利圭太さん、谷川俊太郎さん、石原慎太郎さんたちと一緒に、僕を励ますためのコンサートを急いで開いてくれたことがあった。あのコンサートのおかげで、僕にとって夢にも考えなかったほど大勢のさまざまな友人、先輩が一気に増えた。けれども僕はすっかり日本で仕事をするのをあきらめて、仕事のあてもないままアメリカに渡った。そんな、半人前にすらなっていなかった僕を、大江さんは知っている。僕たちは同じ時代を生きてきたんだと、しみじみ懐かしい。(P224) 後に「世界の小澤」と呼ばれるようになる、小澤征爾の始まりの思い出ですね。 ヨーロッパ帰り、カラヤン仕込みを鼻にかけたかもしれない26歳の青年指揮者をNHK交響楽団のメンバーが全員でボイコットしたという事件はかなり有名ですが、1961年のことですね。その時、一人で指揮台に立った青年を励ました人たちがいて、その人たちの名前を、65歳になった、あの時の青年が、一人一人、指折り数えている姿が思い浮かんでくるようで胸打たれました。 で、話し相手が大江健三郎ですね。 小澤さんと僕とは同じ年に生まれた。小澤さんは中国で、僕は四国の森の中で。戦後の社会の混乱と、それが再生する過程の気風をなした民主主義がなかったら、異分野で仕事を始めたばかりの青年であるふたりが会って話すことはなかっただろう。いま、初老となったふたりがあらためて長い時間をかけて話すこともなかったにちがいない。 まあ、こちらも「ノーベル文学賞作家」なわけで、どちらが主役というのは決めかねますが、彼は彼で、二人の活躍を総括する言葉として「民主主義」を出してくるというところがおもしろいですね。 彼が使う「民主主義」という言葉が、この対談以前はもちろんのこと、この出会いから、今日までの20年の間に、あくまでも、その言葉を使い続けた大江ともども、惨憺たる目にあっていることを思わないではいられない印象的な文章だと思いました。 くりかえしになりますが、同い年、1935年生まれで、敗戦の年に10歳です。その、お二人が、同じ一年の間に、ほぼ、90年の生涯をとじられたのを目の当たりにして、まあ、1980年ころから「戦後」の終わりは繰り返し言われてきたことではあるのですが、いよいよ「戦後民主主義」が終わった! まあ、そんなことを実感しました。 対談そのものは、具体的な引用はしませんが、今、お読みになれば、20年前の発言のぶつかり合いということはあるにしても、闊達だった小澤征爾、いつものようにくどい大江健三郎に出会える面白さがありますね。まあ、ある年代より上の方という条件はあるかもしれませんが、「自分たちが育った時代」が終わったことをお感じになるのではないでしょうか。 なんだか消極的理由ですが、お読みになってはいかがでしょう。 参考までに目次を貼っておきます。 目次僕らは同じ年に生まれた(大江健三郎)若い頃のこと、そして今、僕らが考えること芸術が人間を支える"新しい日本人"を育てるために語り合えてよかった(小沢征爾) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.17
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大江健三郎「読む行為」(大江健三郎同時代論集5・岩波書店) 市民図書館の新入荷の棚に並んでいたので、思わず借りてきた本です。今更、大江健三郎の評論集などを読む気力はほとんどないといっていいのですが、新しい本として並んでいるのを見ると借りてしまうという所に、自分の年齢を感じてしまいましたね(笑)。 1980年代に、一度、「同時代論集」と銘打って出されていたシリーズの新装版のようです。全部で10巻あるようですが、この第5巻は、多分、1970年ころに「壊れものとしての人間」(講談社)として出版され、その後、講談社文庫、講談社文芸文庫に収められていた長編評論と、単行本としての記憶がないまま、以前の同時代論集にはいていた「アメリカ旅行者の夢--地獄にゆくハックルベリイ・フィン」と、同じく「渡辺一夫架空聴講記」の三つの評論が収められていますが、いずれも1969年ごろ「群像」とか、岩波の「世界」とかに連載されていた文章です。 「壊れものとしての人間」は講談社の単行本で、「地獄に行くハックルベリイ・フィン」は図書館のバックナンバーで読んだ記憶がありますが、まあ、40年以上も昔の話ということもあるのでしょう、内容は何も覚えていませんでした(笑)。 図書館で、作品掲載雑誌のバックナンバーまで探すとかいうと、かなり入れ込んだファンのように思われるかもしれませんが、大学に入ったばかりのころのことで、すでに新潮文庫で出ていた「セヴンティーン」(新潮文庫)の続編で、「文学界」という文芸雑誌には発表したけれど、本としては出されなかった「政治少年死す」という作品が、「文学界」のバックナンバーなら読めるとかいうことが、数少ない「話が合う」友だちとの間で話題になって、二人で図書館をウロウロしたことも、ボンヤリ覚えています。まあ、50年前、そういう年頃で、そういう時代でしたね(笑)。「大江の評論はダルイよな!」 それが、その友達との合言葉でしたが、小説だって、当時、出版されたばかりで、「スゴイ!スゴイ!」 と騒いでいたことだけは覚えている「万延元年のフットボール」(講談社文芸文庫)とかを、最近、読み直して驚きましたが、何を喜んで読んでいたのか、今となっては見当がつかないわけですから、クドクドと、やたら一文が長い評論なんて、自動的に字面を追っていただけで、今となっては、何にも残っていませんね。 で、今回、まあ、ヒマに任せて読み直していて、こんなところにハッとしてしまいました。 ぼくがしばしばくりかえしてきた愚かしい泥酔さえも、時にはそうした指向にみちびかれていたことがあった。誰もいない書斎で、あるいは旅さきのホテルで、ぼくはおよそ嫌悪感とともにしか、その味を認識しえない強い酒によってひとり猛然と酔いはじめる。その酔いの上昇のさなかに、ぼくは頭のなかの火のかたまりに熱せられてしだいに赤く浮かびあがってくるタングステン・コイルで示されるような、はっきりした分岐点の存在を見出す。それはAの道を選択するならば、この暴力的な自己破壊じみた乱酔をなおも加速して、それがついににせの情熱すぎないにしても、ともかくその昂揚のうちに死ぬ、あるいは意識が存在しなくなるのであり、Bの道を選択するならば、再びここから醒めておよそ額をまっすぐにあげることもむつかしいような憂鬱の明日にはいりこむのであるところの分岐点である。アルコール飲料の眠りをさそう性格によってぼくの実験はなんとか無難にすんできたといっていいかもしれない。泥酔したあげくの眠りは、死に似ているし、二日酔いの憂鬱は、狂気のさめたあとの脱力感をいくらかなりと想像させる。もともとぼくは、活字のむこうの暗闇から自分を無意味に引き剥がすところのアルコール飲料を、二十代の半ばちかくまで嫌悪していた。それが不意に、ウイスキーあるいはジンに向かって急速に近づくことになったのは、狂気あるいは死に準じるものについてひとつの体験に近いように思える状態を、想像力のヒューズが焼けきれるような電圧まで忍耐せざるをえなかったとき以後なのであるから(もっとも忍耐しえた以上、ぼくはもとより死も、狂気も経験しなかったわけだ)、ぼくの頭のコンピューターの配線図は、アルコール飲料と無意識との接続について単純な直線を描いているにちがいない。(P159) 実は、昨年の夏、具体的にいえば2023年ですが、「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)という、1950年代の末に書かれた、今となっては大江健三郎の初期を代表する作品を読みあって感想をいうという会がありました。はい、読書会ですね。そこで、その作品の主人公の少年の、結末における絶望的状況ということが話題になりました。 その作品で、読んだ方はご存知でしょうが、作家が「このままだと主人公の少年は死ぬほかはない。」という、まあ、絶望的結末を描いていることに対して、作品の価値を疑うかの違和を唱える方がいて、その意見を聞きながら、ボクの中に広がっていったのは「それはちゃうんちゃうかなあ!?」 という気分でしたが、ふと、湧いた、その拒絶感を説明することができませんでした。 で、偶然、この文章に出会ったというわけです。本文は「芽むしり仔撃ち」の執筆から、ほぼ、10年後の1968年、「皇帝よ、あなたに想像力が欠けるならば・・・・」と題されて「群像」に発表されたエッセイの、ほんの部分ですが、いかがでしょう、彼は絶望していたのではないでしょうか。 彼にとって「状況」を描くということが 狂気あるいは死に準じるものについてひとつの体験に近いように思える状態を、想像力のヒューズが焼けきれるような電圧まで忍耐せざるをえなかった 行為であったという述懐だとボクは読みましたが、その結果生まれた、この時代の作品群が、おおむね絶望的な状況に投げ出された人間 を描くことになったことは、作品を否定する理由には、やはり、ならないし、当時、読者であったボク自身を含めて、多くの読者たちは、作家のその状況認識をこそ支持したのではなかったか、というのが、この文章を読んでハッとした理由のように感じました。 ただ、たとえば、ここで自らのアル中の危機と想像力のぶつかり合いを持ち出して語られる大江の「絶望」の語り方を、当時、20代だったボクたちはだるい!と思っていたようなのですね。 というわけで、ボクのような「同時代」を、なんとなく知っている年齢の読者は、どうしても、その時代に引き戻されてしまう、いわば、古色蒼然とした「同時代論集」なのですが、もっと、若い、これから、ひょっとしたら大江健三郎とか読むかもしれない人たちが、どこをどうお読みになるのか、そういう興味も浮かんできた評論ですが、読みでがあることは疑いないと思いましたね。 まあ、初めてこの本で大江に出会うのは、チョット、無理があるとは思いまうがね(笑)。
2024.02.10
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司修「私小説・夢百話」(岩波書店) 司修という、一般には大江健三郎の作品のの装幀家と知られていますが、絵もお描きになるし、小説もお書きになる、まあ、マルチな方がいらっしゃいます。その方が大江健三郎の魂に捧げる — 装幀者として という献辞を最初のページに記して、3月に大江が亡くなった2023年の6月に出版されたのがこの「私小説・夢百話」(岩波書店)という、「絵」と「掌編小説」をセットにした小説集です。 岩波書店の「図書」という、月刊のPR誌がありますが、その表紙の「絵」と、表紙裏の、まあ、本人がおっしゃるには「小文」がセットになっていて、2017年の1月から、2021年の12月まで、連載で掲載された、単純に5年ですから六十話ですが、その百に足りない分が、おそらく「書き」+「描き」おろされて、「夢百話」という体裁が出来上がっています。 わが家のように「図書」を毎号揃えているという、書店勤めの家族がいなければあり得ない暮らしの方は別として、よほどお好きな方が「ああ、あれか!」と思い浮かべられるかもしれないという程度の、あれ! の単行本化です。書き下ろされた分には、少し長いものもありますが、だいたい、見開き2ページで構成されている、いってしまえば大人の「絵本」です。 たとえば、これが第二章、138ページ~139ページ、絵の題が「空の怪物アグイー」です。 このままでは文章が読みにくいでしょうから、ちょっと写しておきます。赤んぼうの脳は白紙ではない 子どもは意識を持って生まれてこないけれど、心は白紙ではなく、現代に至る歴史を備えた脳を持って生まれる、とユングは、身体の歴史を例に語っています。人間誰もが持っている胸腺は魚類にまでつながるとも。 「子ども科学電話相談」のファンである私は、宇宙誕生までの壮大な想像をかきたてられます。 「惑星ソラリス」(タルコフスキー)の、惑星ソラリスの海全体が脳です。海は、ソラリス・ステーションに滞在する学者たちの夢を読み取って、死んだ妻や怪物を「ゼリー状」の生きものとして作り出し、学者たちを戸惑わせます。学者の一人が地球に戻り、空に浮かんでいた巨大な赤んぼうの存在を語ります。四メートルもある生まれたての裸の赤んぼう、私は、「あれだ。アグイーだ」と思いました。 大江健三郎の「空の怪物アグイー」です。普段は空を浮遊していて、ときどき前衛音楽家Dの脇に降りてきます。 「カンガルーほどの巨きさで木綿の肌着をつけた赤んぼうで名前はアグイー」 Dはかれのアグイーの世界を、中原中也の《含羞はじらひ》で語ります。 枝々の拱(く)みあはすあたりかなしげの空は死児等の亡霊にみち まばたきぬをりしもかなた野のうへはあすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき 先だって、死んだ母親の頭に妊娠していた彼女の胎児の脳を移植して、新しい人格が生まれるという、ギリシアのランティモスという監督の、まあ、へんてこな映画を見たのですが、その印象に誘われてこのページを引用しました。 こちらは、20世紀、ソビエト・ロシアのタルコフスキーという監督の「惑星ソラリス」という映画シーンから、大江健三郎が小説で描いたアグイー、そこから、おそらく武満徹を経由して中原中也の詩の世界へ、夢想が広がっていって、見てきた映画の世俗的結末の世界よりも、よほど、豊かなイメージの連鎖の世界で、短いながらも読みごたえがあると思いました。 まあ、全編、この調子の意表をついた展開で、ノンビリ手に取るのが楽しい本ですが、欠点は価格ですね。4400円です。絵もカラーですし、装幀もしっかりしていて、仕方のない価格なのですが、買うには根性がいりますね(笑)。 ボクは図書館の本で楽しんでいますが、そうなると、あんまりノンビリもできないんですね。まあ、諦めて笑うしかないですね(笑)。 目次と著者の紹介を載せておきます。 目次 私小説・夢百話1(マグリットの『夢の箱』;天才・安部公房のマネ;夢の耳 ほか)私小説・夢百話2(朔太郎の『猫町』;猫町;夢中夢 ほか)私小説・夢百話3(武満徹の『夢の引用』;鳥人間のピアノ調律師;水のピアノ ほか)司修[ツカサオサム] 1936年生まれ。独学で絵を学び、絵本の原画、書籍の装丁、小説の執筆、装幀家として、大江健三郎氏、小川国夫氏らと交流した。1978年『はなのゆびわ』で小学館絵画賞受賞。1988年「バー螺旋のホステス笑子の周辺」で芥川賞候補、1993年「犬」(『影について』)で川端康成文学賞。岩波書店刊『新約聖書』『旧約聖書』の装幀 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.04
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大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(「大江健三郎全小説1」講談社) まったくの偶然なのですが、昨秋から、なんとなく大江健三郎を読む機会があって読んでいたら亡くなってしまうという、まあ、一大事件に重なってしまって、そういうことならという気分で1作ずつ読みなおしです。 今更な紹介ですが、大江健三郎は1957年、東大新聞に発表した「奇妙な仕事」で、平野謙という批評家から激賞され、引き続き「死者のおごり」という作品で同年の下期の芥川賞候補に名を連ね、翌1958年上期、「飼育」で芥川賞を受賞したのが23歳です。 で、その同じ年に、一応、長編小説として発表されたのが、今回、ボクが読み直した「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫ほか)でした。 作品の冒頭、第1章「到着」の第1行がこんな文で始まっています。夜更けに仲間の少年の二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった。 語り手は「僕」です。「僕」は感化院に収容されている少年です。時代は都市部が空襲にさらされていた太平洋戦争の末期です。 冒頭は遠い都市の感化院に収容されていた十代後半の少年たちが、戦禍が広がる中、感化院ごと山の村に疎開するという、ありそうでなさそうな旅の途中のある朝の描写です。 「僕」と同世代の少年たちと引率の大人が一人という旅に、たった一人だけ年少の少年が紛れていますが、「疎開するならこの子も兄と一緒に連れて行ってくれ。」と両親が依頼した「僕」の弟です。小説は、「飼育」と同型の兄と弟の物語でもあるというわけです。 やがて、一行は山の、川向うにある村に到着しますが、到着した「僕」が語るのがこんな内容でした。 僕らは出発以後、性こりもなく脱走の試みをくりかえしては、村々、森、川、畑の隅ずみで 悪意に燃えさかる村人にとらえられ半死半生の状態でつれ戻された。僕ら遠い都市から来た者たちにとって村は透明でゴム質の厚い壁だった。そこへもぐりこんでもやがてじりじり押し戻され突き出されてしまう。(P217) 僕らの旅は終わろうとしていた。それが暗渠のなかの移動にすぎないにしても、旅が続けられている間は、果たせないに脱走を少なくとも試みる機会はあったのだった。しかし、限りなく奥へと入りこみ、山々のあいだ谷の向こうの村に定住する場所を見つけてしまったなら、僕らは始めに感化院の柿色の塀の内側へ送りこまれた時よりもなお、厚い壁の奥、深い淵の底へ閉じ込められた気がするだろう。そしてがっくりしてしまうだろう。僕らが旅を続けてきた数かずの村がたちまち強固な一つの輪を閉じてしまった後、そこから脱けでることができるとは思えない。(P218) 読書案内とかいいながらなんですが、今回、この小説の具体的な展開をここで紹介する気はありません。この作品を、さて、何年ぶりでしょう、ともかく、かなり久しぶりに読み直して、「あっこれは!」 というふうに驚いたことがあったんですね。で、それは何かというと「壁」だったんです。 最初に引用した1行に端的に出てくる「脱出」と「出発」ということばが「個人的な体験」(新潮文庫)に至る、大江の初期作品群に頻出する象徴的な言葉だなあという気分で読み始めたわけで、まあ、そのあたりで気づけばいいものを、上の引用個所にたどり着いてようやく驚いたというわけです。 この作品を語っているのが「厚い壁の奥、深い淵の底へ」に閉じ込められた「僕」だったということに、なんと、まあ、今迄気づいていなかったんですね。 何をくだくだ言っているのかと思われるのかもしれませんが、大江の20年後、1979年に「風の歌を聴け」(講談社文庫)で出発した村上春樹の40年間にわたって書き続けてきた世界のテーマの一つは「壁」ですよね。今、話題ですが、最新作「街とその不確かな壁」(新潮社)のほぼ冒頭にこんなセリフがあります。「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの」(「街とその不確かな壁」P9) 村上の最新作にこのセリフがあることに、ボクはさほど驚きません、しかし、20代のころの大江の初めての長編「芽むしり仔撃ち」の「僕」の述懐との一致には驚いたというわけです。 大江の「壁」について、彼を発見した批評家として有名な平野謙はこんなことを書いています。 大江の初期作品の登場人物たちについて「壁のなかの人間」の状況を執拗に追及するところに、若い作家は文学的出発点を持った。 で、小説の主人公「僕」は、この作品の壁を取り仕切る村長から最後にこう言われます。「いいか、お前のような奴は、子供の時分に締めころしたほうがいいんだ。出来ぞこないは小さいときにひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」(P312) まあ、このセリフがこの小説の題名の由来なのだと思いますが、当然ながら少年の「僕」は、むしられ撃たれる前に、この村長の手をのがれ逃げ出わそうと奮闘するわけなのですが、はたして、脱出は可能なのか、出発はやってくるのか、行き先がどこなのか、まあ、そのあたりは本作を読んでいただくほかありませんね。 で、60年後の村上の作品で語り手である「ぼく」にこのセリフを口にした少女がどうなるのか。そっちの方はシマクマ君自身もまだ読んでいないので知りません。 しかし、読み手であるボクが生きてきた60年ほどの世界が、村上春樹と大江健三郎という二人の作家によって、ほぼ同型のメタファーで語り続けられてきたのだということの、いかにも手遅れな「発見」は、多くの人には、「何を今更!」 なのかもしれませんが、ボクにとっては新たな事件であったことを、とりあえず、書き留めておきたいと思います。
2023.06.17
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大江健三郎「『自分の木』の下で」(朝日文庫) 今年、2023年の年が明けたころ、3月にその死が伝えられる直前から、何とはなしに大江健三郎を読みなおし始めていましたが、その死を知って、実は、今まで読まなかった小説以外のエッセイに手を出して読んでいます。 今回の案内の「自分の木の下で」(朝日文庫)も2001年だったか、今世紀の初めころに、だから今から20年以上も昔のことですが、単行本が出ましたが、まったく関心を持ちませんでした。 ボクは、大江健三郎の真面目腐ったエッセイの文章は、一番最初に出合ったのは「厳粛な綱渡り」、「持続する志」、「鯨の死滅する日」(それぞれ、講談社文芸文庫)あたりの、くそ分厚い三部作でしたが、そのころから、ずっと、あまり好きではないのです。 それを、今読むというのは、1935年生まれの大江健三郎は、この本を書いた当時60代の半ばだったわけで、それから20年経って、ボクは当時の大江の年齢を越えました。で、自分が、どんな感想を持つのかという興味に惹かれて読みました。 長い作家生活の中で、初めて子供たちに向けて「文章」を書いていることが繰り返し書かれているエッセイ集でした。 最初の章の題は「どうして生きてきたのですか?」で、その中に印象的な文章がありました。 祖母について数多くある思い出の、後のほうのものですから、私は七、八歳だった、と思います。戦争の間のことです。祖母はフデという名前でした。そして私にだけ秘密を打ち明けるように、名前のとおり、自分はこの森のなかで起こったことを書きしるす役割で生まれて来た、といいました。もし、祖母が、帳面といっていたノートにそれを書いている、見たいものだ、と私は思いました。 なにか遠慮があって、それを遠廻しにたずねてみると、いいえ、まだはっきり覚えているから、という答えでした。もっと年をとって、正しく覚えていることが難しくなったらば、書くことにします。あなたにも手伝ってもらいましょうな!と祖母はいいました。(P24) その話のひとつに、谷間の人にはそれぞれ「自分の木」ときめられている樹木が、森の高みにある、というものがありました。人の魂は、その「自分の木」の根方から谷間に降りて来て人間としての身体に入る。死ぬ時には、身体がなくなるだけで、魂はその木のところに戻ってゆくのだ・・・・。(P25) この本の表題である「『自分の木』の下で」という、『自分の木』について、祖母のことばとして語られています。ここには、さわりを引用していますが、祖母は、子供たちが、自分の木の下で、時間を越えて年をとった自分と出会うことについてまで、大江少年に語った思い出が記されています。 大江健三郎の作品では、森と樹木が、単なるメタファーとしてではない重さで描かれていますが、ここで語られている祖母の話は作家の思想の芯のところにあることを思いうかべながら、この部分を読んだのですが、本書の最後の章の末尾に、こんな言葉で締めくくられています。 子供の私が、「自分の木」の下で会うかもしれない年をとった私に ― お祖母さんがその可能性もあるといったのですが ― 、あなたはどうして生きてきたのですか?とたずねようとしている場面です。別にだまし討ちを計画していたのじゃありません。 私はあらためてこう考えるのです。いまはもう、あの老人の年齢になった自分が、故郷の森に帰って、まだ子供のままの私に会ったとしたら、どういうだろうか?《きみは大人になっても、いま、きみのなかにあるものを持ち続けることになるよ!勉強したり、経験をつんだりして、それを伸ばしてゆくだけだ。いまのきみは、大人のきみに続いている。それはきみの背後の、過去の人たちと、大人になったきみの前方の人たちとをつなぐことでもある。きみはアイルランドの詩人イェーツの言葉でいうと「自立した人間(アップスタンディング・マン)」だ。大人になっても、この木のように、また、いまのきみのように、まっすぐ立って生きるように!幸運を祈る。さようなら、いつかまた、どこかで!》(P215~216) 以前なら、この気真面目さに辟易していた可能性がありますが、今回のボクは、若い読者たちのこの言葉を贈る作家の気持ちに素直な共感を感じました。 というわけで、あまり読むことのなかったエッセイ集を、まあ、ボクも、そういう年になったよなという素直な気持ちというか、少し不思議な気分で読み終えることができたというわけで、ヨカッタ、ヨカッタ、ということです。 まあ、たとえば、素直な高校生や大学生の方が、この本を大江入門として読んで、彼の、たとえば、前期の作品群から取り掛かったりすると、チョット目を回してひっくり返ってしまうかもしれませんが、69歳の老人は、前期のオサライは、もう、済ませていますたから、、まあ、ここからが本番ですね。「燃え上がる緑の木」(新潮文庫・全3冊)という大作に取り掛かろうと思います。読み終えて、感想が案内できればいいですが、まあ、どうなることやらです。うまくいけば、またお読みいただければ嬉しいですね。
2023.06.15
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大江健三郎「静かな生活」(「自選短編」岩波文庫) 大江健三郎の「自選短編」という文庫本が、まだ食卓のテーブルの上にあります。市民図書館の本ですが、2022年の秋から、何度か借りだしを更新してここにあるわけです。2023年の年明けに思いがけない家族の死があって落ち着かない日々の深夜「静かな生活」という短編を読みました。 「静かな生活」と題されたが単行本が出版されたのは1990年くらいだったと思いますが、いまでは講談社文芸文庫で読むことができます。目次はこんな感じです。静かな生活この惑星の棄て子案内人(ストーカー)自動人形の悪夢小説の悲しみ家としての日記 「雨の木を聴く女たち」とか、「新しい人よ目覚めよ」、「河馬に嚙まれる」というような短編連作集が出た頃の一冊ですが、この「自選短編」という岩波文庫には、上の目次にある作品のうち「静かな生活」と「案内人(ストーカー)」の2作が所収されています。 読み終えたのは「静かな生活」という最初の作品です。文庫本で30ページ足らずの短い作品ですが、書き出しはこんな感じでした。 父がカリフォルニアの大学に居住作家(ライター・イン・レジデンス)として招かれ、事情があって母も同行するこのになった年のこと、出発が近づいて、家の食卓を囲んでではあるが、いつもよりあらたまった雰囲気の夕食をした。こういう時にも、家族に関するかぎり大切なことは冗談と綯いあわせてしか話せない父は、さきごろ成人となった私の結婚計画について、陽気な話題のようにあつかおうとした。私の方は、自分のことが話し合いの中心でも、子供の時からの性格があり、このところの習慣もあって、周りの発言に耳をかたむけているだけだ。それでもビールで一杯機嫌の父はメゲないで、 ―ともかくも、最低の条件は提示してみてくれ、といった。 もっとも、はじめから愛想のない返事を予期して、父はなかば閉口したような笑顔で見つめてくるのだ。つい私は時どき頭に浮かぶことをいってみる気になった。自分の声が妙なふうにキッパリ響くのを気にかけはしたけれど・・・・ ― 私がお嫁に行くならね、イーヨーといっしょだから、すくなくとも2DKのアパートを手に入れられる人のところね。そこで静かな生活がしたい。(P642~643) この引用中にも登場しますが、大江健三郎のこの時代の作品の中にはイーヨーと名付けられて、確固とした存在者として知能に障害のある青年が登場しますが、彼にはマーちゃんという妹と、オーちゃんという弟がいます。引用中の「私」は、その「マーちゃん」ですね。 作家、大江健三郎が家族の一人を「語り手」にした小説を書き始めたということです。書き出しを読み始めたボクを捉えたのは、共に暮らしていて、すでに作品を読んで理解できる年齢の、それも娘を「語り手」に据えた作品を書く、作家大江の意識、あるいは、覚悟ともいうべき内面の尋常ならぬ光景でした。「そんなことをして大丈夫なのだろうか?」 焦点の定まらない危惧に促されるように読み進めると、こんな記述がありました。 昨日の私の話には、自分自身失望した。なにもいわないよりもっとよくなかったと思う。神経が疲れているのでもあり、寂しくカランドウの場所に、ひとりで立っているという恐ろしい夢がはじまりそうになった。それというのも、まだ眼ざめている現実の意識が残って、そこにいりまじっている感じ。その悲しいような、はるかなような気分のなかで私は立ちすくんでいたのだ―自分の体がベッドに横たわっているのもよくわかっていたが。 そのうち、夢の方へ入り込んでいる自分の斜めうしろに、もうひとり私と同じ気分の人が立っているのがわかった。ふりかえって見ないでも、それが「未来のイーヨー」なのだと私は知っていた。すぐにも斜めうしろから踏み出してくるはずの「未来のイーヨー」は花嫁の介添え人で、それならば自分は花嫁なのだ。しっかり花嫁の衣装を着た私が、花婿の心あたりはないまま「未来のイーヨー」を介添え人に寂しくカランドウの場所に立っている。そこはもう日暮れ方の、広大な野原。そのような夢を見た…。 夜が更けてから眼をさまし思い出すうち、私はなによりも色濃く、夢の寂しい気持ちをブリかえらせてしまい、暗いなかのベッドに横になっていることができなくなった。私は階段を上がって行き、兄がトイレに通う際につまずかぬように常夜灯をつけて狭く開けてあるドアから、寝室に入っていったのだ。子供の頃いつもそうしていたように、なんとなく抱えていた使い古しの毛布で膝を覆うと、イーヨーのベッドの裾の床に座り込み、人間の肺の規模を越しているいるような音の寝息を聞いていた。小一時間もしてから兄は薄暗がりのなかでベッドから降りると、さっさとすぐ向いのトイレに出て行った。兄にまったく無視されたことで、私はあらためてもっと独りぼっちの気持ちになっていた。 ところが大きい音を立てていつまでも排尿するようだったイーヨーは、そのうち戻ってくると、大きい犬が頭や鼻さきで飼主を小突いて確かめるように、体をかがめてこちらの肩のあたりを額で押しつけ、私の脇にやはり膝を立てて座り、そのまま眠るつもりのようだった。私は一度に幸福な気持ちになっていた。しばらくたつと、兄は分別ざかりの大人がおかしさを耐えているようなしゃべり方で、しかし声だけは澄んだ柔らかさの子ども声で、― マーちゃんは、どうしたのでしょう?といった。(P645~646) 長々と引用しました。両親を困惑させてしまった「私」の発言に苦しむ私自身の心の描写、夢、そしてイーヨーとの、ほかの誰も、もちろん両親も知らないエピソードです。 この後、小説は、両親が外国に滞在していた間に起こる、イーヨーをめぐる、実に小説的なというべき事件が物語られますが、読み終えたぼくには、この深夜のエピソードが、この作品のすべてでした。 この感想のために、冒頭の引用を書き写しながらのことですが、そこで静かな生活がしたい。 この言葉を読み直しながら、不覚にも涙を流したのでした。引き金というか、同時に浮かんできたのがこ言葉です。マーちゃんは、どうしたのでしょう? 大江の作品で泣いたりしたのは初めてのような気がします。父親が娘を語り手にして、娘と息子のやり取りを小説として書くとは、一体どういうことなのだろうと読み始めたわけですが、ここまで、イーヨーを書き続けてきた大江だからできる離れ業なのでしょうね。 ボクは小説の語り手「マーちゃん」の実在を信じますが、そうはいっても、小説というたくらみの向こうの世界のことなのですね。ありきたりなことを言いますが、大江健三郎という作家の凄さを実家させられた作品でした。 冬の夜長のおともに、一度お読みになりませんか(笑)。
2023.01.10
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大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ」(「自選短編」岩波文庫) 2022年の秋に読み始めた大江健三郎の「自選短編」(岩波文庫)を読み継いでいます。「雨の木を聴く女たち」の連作につづいて、「新しい人よ眼ざめよ」の連作、この文庫に収められている4篇を2022年の12月31日の深夜読み終えました。 「新しい人よ眼ざめよ」は、今では講談社文庫、講談社文芸文庫として文庫化されている連作短編集すが、単行本としてまとめられたときのライン・アップは、次の7作です。「無垢の歌、経験の歌」(『群像』1982年7月号)「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」(『新潮』1982年9月号)「落ちる、落ちる、叫びながら…」(『文藝春秋』1983年1月号)「蚤の幽霊」(『新潮』1983年1月号)「魂が星のように降って、跗骨のところへ」(『群像』1983年3月号)「鎖につながれたる魂をして」(『文學界』1983年4月号)「新しい人よ眼ざめよ」(『新潮』1983年6月号) 今回読んだのはこのうちで「自選短編」(岩波文庫)に収められている、「無垢の歌、経験の歌」・「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」・「落ちる、落ちる、叫びながら…」・「新しい人よ眼ざめよ」の4作でした。 それぞれ、なんだか大変な題名がついていますが、いずれも作品中に引用されているウィリアム・ブレイクという18世紀のイギリスの詩人の詩句によるものです。お父さん!お父さん!あなたはどこへ行くのですか?ああ、そんなに速く歩かないでください。話しかけてください。お父さん、さもないと僕は迷い子になってしまうでしょう。(P482) 「無垢の歌、経験の歌」の始まりあたりで、語り手の「僕」がヨーロッパを旅しながら、1冊の本を手に入れます。駅構内の書店で見つけてきた「オクスフォード・ユニバーシティープレス」版のウィリアム・ブレイク一冊本全集 その本を開いたシーンにこんなふうに書きつけられています。 障害のある長男と父親の自分との、危機的な転換期を乗りこえようとして書いた小説で、僕が訳してみたものである。そのような特殊な仕方でかつて影響づけられた詩人の世界に、あらためて強く牽引され、そこへ帰っていこうとしてること、それはやはり他ならぬ息子と自分の間に新しくおとずれている、危機的な転換期を感じ取っているからではないか?(P482) 作中の「僕」は、連作の始まりの作品をこんなふうに語り始めますが、ヨーロッパから帰国した「僕」を待っていたのは、「僕」を迎えに来て、成田から世田谷に至る車に同乗した妻のこんなことばでした。イーヨーが悪かった。本当に悪かった。 こうして、新たな危機が語りはじめられました。 で、2022年12月31日、いや、年も変わった2023年1月1日の夜明け前、深夜の台所のテーブルでシマクマ君が繰り返し読み返していた一節が次のような場面でした。 イーヨー、夕ご飯だよ、さあ、こちらにいらっしゃい。 ところがイーヨーはレコード・スタンドにまっすぐ顔を向け、広くたくましい背をぐっとそびやかして力をこめると、考えつづけた上での決意表明の具合に、こういったのだ。 イーヨーは、そちらにまいりません!イーヨーは、もう居ないのですから、ぜんぜん、イーヨーはみんなの所へ行くことはできません! 僕が食卓に眼を伏せるのを、妻が見まもっている。その視線の手前なお取つくろいかねるほどの、喪失感に僕はおそわれていた。いったいどういうことが起こってしまったのか?現に起こり、さらに起こりつづけてゆくものなのか?しだいに足掻きたてるほどの思いがこうじて、涙ぐみこそしなかったが、カッと頬から耳が紅潮するのを、僕はとどめることができなかったのだ。 イーヨー、そんなことないよ、いまはもう帰ってきたから、イーヨーはうちにいるよ、と妹がなだめる声をかけたがイーヨーは黙ったままだ。 性格として一拍ないし二拍置くように自分の考えを検討してから、それだけ姉に遅れてイーヨーの弟が次のようにいった。 今年の六月で二十歳になるから、イーヨーと呼ばれたくないのじゃないか?自分の本当の名前で呼ばれたいのだと思うよ。寄宿舎では、みんなそうしているのでしょう?いったん論理に立つかぎり、臆面ないほど悪びれぬ行動家である弟は、すぐさま立って行ってイーヨーの脇にしゃがみこむと、 光さん、夕ご飯を食べよう。いろいろママが作ってくれたからね。と話しかけた。 はい、そういたしましょう!ありがとうございました!(P639~P640) 「イーヨーが悪かった」という妻の言葉で始まった新しい危機は、この文庫に所収されているだけで、ほぼ200ページ、単行本で考えれば七つの作品によって「イーヨーと家族」の生活が「僕」によって書き継がれてきたわけですが、その最後に、初めての寄宿生活から帰ってきたイーヨーと家族のあいだにおこった事件です。 で、その時「僕」の胸のうちに湧きおこるのが次の詩句でした。 Rouse up, O, Young men of the New Age ! set your foreheads against the ignorant Hirelings! 眼ざめよ、おお、新時代(ニューエイジ)の若者らよ!無知なる傭兵どもらに対して、きみらの額をつきあわせよ!なぜならわれわれは兵営に、法廷に、また大学に、傭兵どもをかかえているから。かれらこそは、もしできるものならば、永久に知の戦いを抑圧して、肉の戦いを永びかしめる者なのだ。(P641) 2022年が終わり、2023年が明けていく深夜、このシーンを読んでいたシマクマ君の胸に湧きおこったのは 1964年、「個人的な体験」を書いた、大江健三郎という作家の中に流れた20年の歳月でした。そして、立て続けに湧き上がってきたのは、初めて「個人的な体験」を読んだ1973年から、シマクマ君自身の中に流れた50年の歳月でした。 あなたは何をしてきたのか? 作家自身が自らに問いかけているに違いない、そんな問いの前に立ちすくむような読後感でした。現実に、ちょうど、年がかわるという時間の中にいたせいもありますが、この年齢になって読み返してあらためて気づく、大江健三郎という作家の作品の底に流れている「悲歎」と、にもかかわらず、あくまでも「希望」を希求する力強さのせいでしょうね。静かな文章の中にある驚くべき喚起力に促されるまま新しい年を迎えました。 2022年の秋、「飼育」を読み直したときには思いもよらなかったことなのですが、当分、大江回帰は続きそうです。マア、ボツボツですがね(笑)。
2023.01.02
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大江健三郎「頭のいい『雨の木』」(「自選短編」岩波文庫) 大江健三郎の「自選短編」(岩波文庫)という、分厚い文庫本を図書館から借りてきたのは、「飼育」という作品を読み直す必要があってのことで、とりあえず、その作品についての、まあ、今のところの感想を綴り終えて「皆さんもどうですか」なんて調子のいいことを書いたのですが、「飼育」の次あたりに所収されている「セヴンティーン」や「空の怪物アグイー」という題名を目にして、へこたれました。 説明のつかないうんざり感が浮かんで、「もういいかな、今さら・・・」という気分で放りだしたのでした。 にもかかわらず、深夜の台所のテーブルに、放りだされた文庫本が、ちょこんとしているのを見て、思わず手を伸ばし、中期短編と標題されているあたりを読み始めてしまうと、困ったことに、これが、止まらなくなってしまい、夜は更けたのでした。 「雨に木を聴く女たち」という作品集は、単行本や文庫化されたときには「頭のいい『雨の木』」、「『雨の木』を聴く女たち」、「『雨の木』の首吊り男」、「さかさまに立つ『雨の木』」、「泳ぐ男――水の中の『雨の木』」の五つの作品が収められていたはずですが、この自選短編には、理由は判りませんが、「首吊り男」と「泳ぐ男」は入っていません。 で、「頭のいい『雨の木』」です。ハワイ大学で催されている文化セミナーに参加している、英語力がままならないことを、まあ、大げさに嘆く作家である「僕」の一人称で語られている小説です。1983年に発表されて、読売文学賞を受賞した「雨の木を聴く女たち」の連作の最初の作品です。 この連作、少なくともこの自選短編に所収されていた三つの作品の特徴の一つは、書かれた作品をめぐって起こるエピソードが、次の作品を構成してゆくというところです。この前の作品をめぐる、作品の外のエピソードから、次の作品が語りはじめられるということですね。 それは私小説の手法だと思うのですが、それぞれの作品は「事実」に基づいているわけではなさそうです。日常生活という、あたかも事実であるかのイメージを額縁にした画面に、作家の想像力の中で起こっている出来事が描きくわえられているといえばいいのでしょうか。そういう意味で、これらの作品は、いわゆる私小説ではありません。 想像力の世界の描写として共通して三作に共通して描かれているのは、繰り返し、暗喩=メタファーだと強調される「雨の木レイン・ツリー」と、二人の女性の登場人物でした。 下に引用したのは、その一人目の人物であるアガーテの登場が描かれることで始まる、「頭のいい『雨の木』」の冒頭場面です。― あなたは人間よりも樹木が見たいのでしょう?とドイツ系のアメリカ人女性がいって、パーティーの人びとで埋まっている客間をつれ出し、広い渡り廊下からポーチを突っきって、広大な闇の前にみちびいた。笑い声とざわめきを背なかにまといつかせて、僕は水の匂いの暗闇を見つめていた。その暗闇の大半が、巨きい樹木ひとつで埋められていること、それは暗闇の裾に、これはわずかながら光を反映するかたちとして、幾重にもかさなった放射状の板根がこちらへ拡がっていることで了解される。その黒い板囲いのようなものが、灰青色の艶をかすかにあらわしてくるのをも、しだいに僕は見てとった。 板根のよく発達した樹齢幾百年もの樹木が、その暗闇に、空と斜面のはるか下方の海をとざして立っているのだ。ニュー・イングランド風の大きい木造建築の、われわれの立っているポーチの庇から、昼間でもこの樹木は、人間でいえばおよそ脛のあたりまでしか眺めることはできぬだろう。建物の古風さ、むしろ古さそれ自体にふさわしく、いかにもひそやかに限られた照明のみのこの家で、庭の樹木はまったく黒い壁だ。― あなたが知りたいといった、この土地なりの呼び方で、この樹木は「雨の木(レイン・ツリー)」、それも私たちのこの木は、とくに頭のいい「雨の木(レイン・ツリー)」。 そのようにこのアメリカ人女性は、われわれがサーネームのことははっきり意識せぬまま、アガーテと呼んでいた中年女性はいった。(P333~P334) セミナーの開催されている期間中、毎晩のように開かれるパーティーの場面ですが、これは、この夜、地元の精神病者のための施設で開かれたパーティーの場面で、主催者の一人であるアガーテというドイツ系だとわざわざ断って描写されている女性が「僕」に、施設の庭にある「雨の木」を見せるシーンです。 『雨の木』というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。(P340) アガーテによる「雨の木」の紹介です。実は、この作品は、発表されると、ほぼ同時に、武満徹という作曲家によって「雨の木」という楽曲に作曲されていて、ユー・チューブでも聞くことができますが、その冒頭でこのセリフがナレーションされていて、まあ、今では、知る人ぞ知るというか、それなりにというか、まあ、有名な一節です。 「雨の木」をめぐる、この連作小説の主題は「grief」、訳せば悲嘆でしょうが、作品中では「AWARE」とローマ字で表記されています。英語の単語を持ち出して、ローマ字表記で「あはれ」という音を響かせようとするところが、良くも悪くも大江健三郎だとぼくは感じるのですが、この「頭のいい『雨の木』」という作品で、「grief」がどんな風に描かれているのかは、まあ、説明不可能で、お読みいただくほかありませんが、人間という存在の哀しみの中に座り込んでいる「僕」がいることだけは、間違いなく実感できるのではないでしょうか。 ついでに言えば、武満徹の「雨の木」という曲も、10分足らずの短い曲ですが、お聴きになられるといいと思います。 二作目の「雨の木を聴く女たち」は、その曲をめぐる作家の思いの表白から始められて、小説の構成としても、なかなか興味深いと思いますよ。
2022.12.03
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大江健三郎「飼育」(「自選短編」岩波文庫) 2014年に出版された「大江健三郎自選短編」(岩波文庫)という作品集を読み始めています。1957年、五月祭コンクール受賞作で東大新聞に掲載された、作家大江健三郎のデビュー作「奇妙な仕事」から、1991年の「火をめぐらす鳥」まで、24作が所収されているでかい文庫本で、840ページあります。値段が1380円(今は1518円らしい)ですから、まあ、チョーお得な文庫なのですが、読みでがありますから、焦っても仕方がありません。のんびり取りかかっています。 で、「飼育」です。 僕と弟は、谷底の仮設火葬場、灌木の茂みを切り開いて浅く土地を掘り起こしただけの簡潔な火葬場の、脂と灰の臭う柔らかい表面を木片でかきまわしていた。谷底はすでに、夕暮れと霧、林に湧く地下水のように冷たい霧におおいつくされていたが、僕たちの住む、谷間へかたむいた山腹の、石を敷きつめた道を囲む小さい村には、葡萄色の光がなだれていた。僕は屈めていた腰を伸ばし、力のない欠伸を口腔いっぱいにふくらませた。弟も立ちあがり小さい欠伸をしてから僕に微笑みかけた。 僕と弟の物語の始まりです。舞台は森の奥の谷間の村です。で、死体を焼いた「脂と灰の臭」いが立ち込めている谷底の火葬場で、この兄弟はなにをしていたのでしょう。 僕らは《採集》をあきらめ、茂った夏草の深みへ木片を投げすて、肩を組みあって村の細道を上がった。僕らは火葬場へ死者の骨の残り、胸にかざる記章に使える形の良い骨を探しに来たのだったが、村の子供たちがすっかりそれを採集しつくしていて、僕らには何ひとつ手に入らなかった。僕は小学生の仲間の誰かを殴りつけてそれを奪わねばならないだろう。僕は二日前、その火葬場で焼かれた村の女の死者が炎の明るみのなかで、小さい丘のように腫れた裸の腹をあおむけ、哀しみの表情で横たわっているのを、黒ぐろと立ならぶ大人たちの腰の間から覗き見たことを思い出した。僕は恐かった。弟の細い腕をしっかり掴みぼくは足を速めた。甲虫の一種が僕らの硬くなった指の腹にしめつけられてもらす粘つく分泌液のような、死者の臭いが鼻孔に回復してくるようなのだ。(P102~P103) 初めてお読みになる方が、どんな印象を持たれるのか興味深いのですが、これが、20代のぼくの前に登場した気鋭の作家大江健三郎でした。 「僕」と「弟」は「甲虫の一種が僕らの硬くなった指の腹にしめつけられてもらす粘つく分泌液のような、死者の臭い」の中で、「胸にかざる記章に使える形の良い骨を探し」ていたのです。 読み始めたぼくは、たった、これだけの書き出しの中に、おそらく錯覚なのでしょうが、ぼくにとっての始まりの大江のすべてがあるという、いかにも、確からしい記憶が押し寄せてきて、小説の世界とは直接関係がありそうもない、ぼく自身の中から湧き上がってくる、あの頃の、全く個人的なシーンに浸ってしまいそうになります。 このシーンで「少年」たちを覆っている、死者の「臭い」の体験があるわけではありませんし、1954年生まれのぼくに1945年に10歳だった作家の「戦争体験」があるわけでもありません。にもかかわらず、異様な既視感を、田舎育ちの少年だったぼくに感じさせたのは「甲虫の一種がもらす粘つく分泌液のような、臭い」という描写だったのかもしれません。 それが、この年になって「ああ、そうだった。」と納得する、ぼくにとっての大江健三郎だったような、気がします。 僕は子供たちに囲まれることを避けて、書記の死体を見すて、草原に立ちあがった。僕は唐突な死、死者の表情、ある時には哀しみのそれ、それらに急速になれてきていた。村の大人たちがそれらに慣れているように。黒人兵を焼くために集められた薪で、書記は火葬されるだろう。僕は昏れのこっている狭く白い空を涙のたまった目で見あげ、弟を捜すために草原をおりて行った。(P165) 死者の骨を「採集」に行った「僕」の、その夏の終わりのシーンです。空から落ちてきた「黒人兵」と県庁からの命令を、山間の村に届ける片足しかない伝令である「書記」という二人の登場人物の死が語られる物語でしたが、最後の最後に、「昏れのこっている狭く白い空を」見上げる僕が、なぜ「涙」を流すのかが、今回も、やはり、わかりませんでした。 ただ、少年が泣きながら、死者の臭い立ち込めているかの草原に立って、昏れのこった空を見上げたこの日から、ほぼ、75年の年月が経ったことを思い浮かべながら、2022年の11月の空を見上げるばかりです。もちろん、死者のにおいが立ち込めている実感はかけらもありませんが、異様な空しさのようなものが降り注いでくるように感じるのが、75年のうちの68年を過ごした実感なのですが、それって、個人的な実感なのでしょうか。 ノーベル賞まで受賞した、この国の戦後文学の旗手、大江健三郎の芥川賞受賞作です。お読みになってみませんか? 所収の作品は以下のラインナップです。かなり作家によって改稿がなされたとか言われているようですが、これだけ入って1380円です。読み応えのある文庫本ですよ。「奇妙な仕事」「死者の奢り」「他人の足」「飼育」「 人間の羊」「不意の啞」「セヴンティーン」「空の怪物アグイー」「頭のいい「雨の木」」「「雨の木」を聴く女たち」「さかさまに立つ「雨の木」」「無垢の歌、経験の歌」「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」「落ちる、落ちる、叫びながら…」「新しい人よ眼ざめよ」「静かな生活」「案内人」「河馬に嚙まれる」「「河馬の勇士」と愛らしいラベオ」 「「涙を流す人」の楡」「ベラックワの十年」 「マルゴ公妃のかくしつきスカート」「火をめぐらす鳥」
2022.11.28
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大江健三郎・柄谷行人「全対話」(講談社) 作家の大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したのは1994年でした。この対談集には三つの対談が収められていますが、それぞれ、「中野重治のエチカ」(1994・4月)「世界と日本と日本人」(1995・5月)「戦後の文学の認識と方法」(1996年・5月)と題されています。対談の日付から、ノーベル賞受賞前に一回、受賞後に二回行われたことがわかりますが、それから25年の歳月が流れています。 その当時、大江健三郎と柄谷行人の二人が会い、真摯に語り合っていた様子に不思議な感動が湧いてきます。 ぼくは、この二人たぐいまれな文学者の作品を20歳以来読み続けてきましたが、漱石論で脚光を浴びていたころの柄谷行人に「個人的な体験」をめぐる批評があったような気はしますが、二人の間の「からみ」を目したり、読んだりした記憶はありません。この二人は、互いに「遠い場所」にいると思い込んでいました。 その二人が、ちょうど、ぼくの記憶の真ん中あたりで出会っていたということに、まず、意表を衝かれました。それがこの本を手に取った直接の動機でした。 巻頭の「大江健三郎氏と私」の中で、柄谷行人は「大江健三郎という作家」と「柄谷行人という批評家」の在り方を、それぞれ「小説の終わり」と「批評の終わり」を意識せざるをえない場所に逢着した表現者であると結論づけていますが、「終わり」を意識するに至る二人の思考のプロセスを解くカギ言葉として、ambiguous(両義性)とambivalent(両価性)という対義的な二つの言葉について語っています。 何のことかといぶかしむ方には本書を手に取っていただくほかはありませんが、本書に収められた対談についていえば、「中野重治のエチカ」は戦中から戦後にかけての文学的「転向」の「エチカ」、「倫理」をめぐって、語り合う二人の間にはambiguous(両義性)についての思考が底流しています。 「世界と日本と日本人」、「戦後の文学の認識と方法」はともに現代の世界文学におけるambiguous(両義性)をめぐる対談といっていいと思いました。 本書を読み進む中で、二人が、それぞれ、自らの表現スタイルについての告白にも似た様子で、語っているところがあります。ハッとして、表紙を見返すと装幀家菊池信義がすでにに発見していて、表紙を飾っているのに気づいて笑いましたが、その語りはなかなかスリリングでした。 一つ目は批評家柄谷行人の文学的出発と、25年前の現在をめぐる発言です。柄谷 大江さんが文芸誌にデビューされたのは1957年ですね。大江 そうです。57年の夏。柄谷 僕は69年に、大江さんが選考委員をされていた群像新人賞をもらったわけです。当時、その十二年の違いは、随分大きいような気がしていましたが、今から振り返ってみると、さほどのことはなかったという気がしています。そ手も当然で、あれからニ十七年も経っているのですから。特に、九十年代以後の状況の中で考えてみると、僕はむしろ自分が批判してきた前世代と共通の時代的な基盤にあったことを痛切に感じています。大江 あなたはそのころ哲学ではなく、批評という形でものを書こうとされたことには、やはり時代的な必然があると感じますか?柄谷 ええ。少なくとも、現在なら、僕は批評という形式ではやらなかっただろうという気がしますね。僕はたんに小説をあげつらったり理論的に考察したりするために批評を選んだということはありません。それなら、むしろ小説家になろうとしたでしょう。やはり、哲学的というべき関心が強くあったのです。 ところが、それを哲学としてやる気にはならなかったのです。それにはそれなりの理由があったと思います。まず何よりも文章の問題がありました。僕はいわゆる哲学者の書いた文章が好きになれませんでした。それは自分自身の存在と遊離しているような気がしたのです。そして、それはまた日本の現実的な存在と遊離しているということでもあります。 戦中に行われた「近代の超克」という座談会を丁寧に読みなおしたことがありますが、その中に、小林秀雄が京都学派の人たちに、君たちはまともな文章を書いていないとやっつけているところがあります。再読したときに思ったのは、第一にその時、小林秀雄は京都学派の哲学者をこれ以上ない言い方で批判していたのだということです。第二に、実は小林秀雄は哲学者なのだ、しかし批評という形で書くほかなかった哲学者なのだ、ということです。これは日本において、あるいは日本語に置いて考える限り避けがたい問題でもあり、また、そう考えること自体が、批評という形式を強いるのだと思います。 僕にとって、批評とは、思考することと存在することの解離そのものを見ることでした。と言って、それは抽象的な問題で反句、日本の近代以降の経験、あるいはファシズムと戦争の経験、そういうものを凝縮した問題だと思うんです。それはいわゆる哲学や、社会科学や、そういったものから不可避的に抜け落ちてしまうなにかです。逆に、批評という形式においてなら、どんなことでも考えられるのではないか、と思ったのです。今の若い人たちはそういうふうに考えないのでしょうが、僕にとっては、批評は自分の認識と倫理にとって不可欠な形式であったと思うんです。そして、それは現在もなお続いていると思います。(「戦後の文学の認識と方法」) 次は、大江健三郎の、25年前の現在ですね。今、振り返れば、彼はこの後、「宙返り」に始まり「晩年様式集」にいたる作品を書きつつけていますが、この時点でたどり着いている「小説の終わり」に対する感慨を込めた発言には胸打たれるものがありました。大江「ドン・キホーテ」だって、下巻はとくにすぐれていますけれども、完全にサンチョ・パンサの批判、ドン・キホーテの批判で、あるいはセルバンテス自身の批判となっていて、実に高度なものですね。あれだけ高度であるということは、もうそれ以上の抜け道はないわけです。 偉い作家はこぞってそうだし、僕程度の普通の作家でも、小説だけ書いて生きていますと、その形式がよくわかってくるんです。そのうち一つの小説を書くと、次に書くのは最初の小説で発見したことの否定から始めるほかなくなる。猛烈に早くふけてしまう老人みたいに、僕は個人として小説の歴史を早くたどり過ぎたわけです。五十歳になったころ、すでに僕は。小説とはこういうものだという見通しを持っていたように思う。そして、それをもう一回やることには意味がない。本当の興味もありませんし、生き生きとした魅力もない。だから、僕はある段階から後ろ向きになってしまったのじゃないか。 いつも前を見て、わけのワカラナイ方向へ向かって書いていく、それが小説です。認識していないものをなぜかけるのかというと、物語るという技術があるためです。そういうわけで、前を向いて書いている分には健全ですけれども、それがいつのまにか後ろを向いて、自分の書いたものを検討しながらやるようになった。つまり自分にとっての小説の終わりというものを書こうとしてきたように思いますね。ですから、読者がいなくなるのも当然なんです。じぶんとしては、それはそれである面白さはあるんですけれども。(「世界と日本と日本人」) ぼくは、相変わらず、この二人の新しい作品を待ち続けていますが、つい先日、古井由吉の訃報を知り、思わず、丘の上に立って、日が沈んでいく地平線を遠くに眺めているノッポとチビの二人連れを思い浮かべました。 端正なノッポが柄谷行人、チビでかんしゃく持ちの、ちょと太った男が大江健三郎でしょうか。追記2023・03・14 2023年3月3日金曜日、作家の大江健三郎が亡くなったそうです。彼の新しい作品を待ち続けていましたが、かなわない夢になりました。 まったく、偶然なのですが、中期の作品「新しい人よ眼ざめよ」、「雨の木を聴く女たち」、「静かな生活」と読み継いでいるさなかでの訃報でした。次はいよいよ大作群が待っています。亡くなったからといって、作品が消えるわけではありません。読み継いでいこうと思っています。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.03.10
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井上ひさし「一週間」(新潮文庫) 2010年に、作家の井上ひさしが亡くなって10年近い歳月が流れました、彼が生きていたら、昨今の世相をどう思うのでしょう。 亡くなった2010年に出た、彼の最後の小説「一週間」(新潮文庫)について、当時、高校生に向かって、こんな「読書案内」を書きました。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 小説家の井上ひさしが今年の四月に肺ガンで亡くなった。高校生諸君にはさほど馴染みの名前というわけではないでしょうが、五十代の後半にさしかかっている世代には、子どものころからお世話になった人だという人もいるかもしれません。1964年、東京オリンピックがありました。それを観るには一家に一台テレビが必要だと、一大ブームになったテレビ普及の大波が、田舎の山の中の、ぼくの家にも押し寄せてきました。もちろん、波に乗ってテレビが流れ着いたわけではありません。電気屋さんが、軽トラックに積んで持ってきました。付け加えれば、その時のブームは都会ではカラーテレビだったらしいのですが、我が家にやってきたのは白黒テレビでした。 「テレビの時代」が始まりました。当時十歳だったぼくにとって、「テレビの時代」の始まりを象徴するのが「ひょっこりひょうたん島」という番組でした。夕方の5時45分から、たった15分間放送された連続人形劇は、ぼくの記憶の中に「子ども時代」の代名詞のようにくっきりと刻印されています。きっと面白かったんでしょうね。主題歌も歌えます。 その番組、「ひょっこりひょうたん島」の台本を書いていた放送作家が井上ひさしと山元護久の二人だったということを知ったのは、もちろん、大人になってからだったのですが、そのとき、すでに、井上ひさしは、この国を代表するような人気小説作家になっていました。 「モッキンポット師の後始末」(講談社文庫)、「青葉繁れる」(文春文庫)のような自伝的な青春小説に始まり、直木賞受賞作「手鎖心中」(文春文庫)のような江戸の戯作者を主人公にした作品群。SF大賞を受賞した快作「吉里吉里人(キリキリジン)」(新潮文庫)に至る小説群。加えて、山のように戯曲、エッセイの作品群を発表し続けていた井上ひさしは、ぼくの二十代の読書の山の一つでした。実際、以来、ぼくが買い込んだ彼の書籍は段ボール箱一箱では納まりきれません。 どの作品も「どうぞお読みください、損はさせませんよ。」 と案内してしかるべき作品なのですが、中でも「吉里吉里人」こそが、彼の最高傑作だと、ぼくは思います。小説好きの友人が「吉里吉里人は、途中で挫折した。」 というのを聞いて、少し不思議な気がしたものです。 というのは、「笑い」を方法とした小説で理想の国家を描くという前代未聞の壮大な試みであるこの小説は、あろうことか東北出身者が「笑い」の方法として東北弁を使用するという逆転の発想によって、「東北弁」を笑う中央集権国家「日本」を相対化するという、とんでもない傑作で、いわば井上ひさしの集大成といえる作品だと、ぼくは思っているからなのです。 たしかに、東北の小さな村が日本から独立するという設定ですから、全編にわたって東北弁の会話で出来上がっているこの作品は、読むのに、少々苦労するのですが、読み終わって、笑いから覚めた時の哀感の深さは、「ずぬけている」と、ぼくは思うのです。 まあ、ぼくにとってそういう井上ひさしが死んでしまったこと、それは、ちょっと、「ああ、そう」というふうには済ませられない事件だったわけです。 で、彼が最後に残した作品「一週間」(新潮社)が六月の末に出版されました。というわけで、読まないわけにはいかないのでした。 私見ですが、井上の小説の面白さは、三つの要素に支えられてきたと思います。 一つ目は「言葉」です。 おもちゃのようにもてあそばれ、収集家の標本箱のように積み上げられ、「笑い」の小道具として、次から次へと繰り出される言葉の洪水です。彼はことばに対する fetishismの人です。 二つ目は徹底した「取材」です。 作品の舞台は現実の場所に地図化され、年表化され、現実との継ぎ目は巧妙に偽装されてゆきます。彼の作品のどこまでが事実で、どこからが創作なのか、見分けることは至難の業といっていいでしょう。 そして三つ目が、「奇想」による現実の相対化です。 徹底して調べた現実に、最後にはどんでん返しをもたらすような大嘘が登場するのですが、その、大嘘の中に現実への批評性が潜んでいます。 さて、「一週間」へ話を進めましょう。 「シベリア抑留」という言葉をご存知でしょうか。 第二次世界大戦末期、対日参戦したソビエト・ロシア政府が、旧満州、内モンゴルをはじめとした中国戦線において、軍人、民間人合わせて50万人を越える敗戦国日本の男性を捕虜とし、長い場合は十年を超えて強制労働させた歴史的事件です。本当は、国際法に反した犯罪です。 収容所の非人道的待遇の結果、飢餓や病気で死亡した人が五万人を下らない悲惨な出来事であったにもかかわらず、戦後の日本では忘れられ、話題にされることもあまりありません。ソビエト体制崩壊後、1993年、来日したロシア共和国大統領エリツィンが謝罪したことを記憶している人が、諸君の中にいるのでしょうか。 「一週間」は、その「シベリア抑留」という歴史的事件の中に、「レーニンの手紙」という奇想を仕込んだ小説なのです。 作品は1946年、ハバロフスク収容所。終わったはずの戦争を戦い続ける哀れな日本人兵士のある一週間を描いています。「笑い」の小説家、井上ひさしの最後の小説が、日本人が忘れ去ってしまっている「シベリア抑留」という戦後史を題材に選んでいることが、まず印象的でした。 晩年、「九条の会」の呼びかけ人に名を連ねた井上ひさしが生涯描き続けてきたのは、「孤児院暮らしの少年」、「弾圧の中の江戸の戯作者」、「子供たちを戦争で失っていく母や父」たちでした。 彼らは決して勝利することのない生活者ですね。つつましく、しかし、時代の波にもみくちゃにされて、やっとのことで生き延びている人々でした。 で、そういう人間のことを、民衆といいますね。その民衆を救う方法は「笑い」である。これが井上ひさし生涯のテーゼだったと思います。 この最後の作品で、井上ひさしは「五十年前に国家と国家の都合でシベリアで、いや、戦争で死んでいった人たちがいて、彼らは、あれから一度も笑ったことがない。それを過去のことにしていいのでしょうか。」 とでも言っているように、ぼくは感じました。 ぼくの叔父の一人に、数年間のシベリアの抑留生活を経験し、帰国後、30数年間、小学校の教員として、まじめに暮らしてきた人がいます。彼は、80歳を前に「シベリア体験」を、住んでいる地域の人に語り始めています。「あんな、あそこで死んだ人たちの無念をなんとかしたい。これをし残して死ぬんは、死んでも死に切れんちゅうこっちゃな。」 「なぜ今になって?」と理由を訊いたぼくに、叔父が言った言葉です。 井上ひさしの最後の小説と響き合うものをぼくは感じました。 乞うご一読。(記事中の画像は蔵書の写真です。)2010・10・12(S)にほんブログ村ボタン押してね!ふかいことをおもしろく創作の原点【電子書籍】[ 井上ひさし ]
2019.10.02
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開高健「オーパ!」(集英社文庫)「百年の短編小説を読む」(「文学の淵を渡る」新潮文庫)という大江健三郎と古井由吉の対談があります。 その中に「一日」という短編をめぐって、今は、もう、亡くなった作家開高健を話題にしているところがあります。大江 ヨーロッパの詩の歴史を見ていると、マラルメにしても ヴァレリーにしても、観察と分析の合体というように思います。 開高さんは例えば湯麺はおいしくて、炒麺はダメだという。「これが何故なのか、これから日をかけて観察と分析にふけりたいと思っている。」 開高さんは観察と分析ということをしようとしていた。今どきの人には少ないですよ。それがプラスの面。 それから、反対意見もあるでしょうけど、開高さんは、小説の物語を作る才能がなかった人じゃないかと思う。古井 際立ってあった人とは思えません。大江 全然ないとはもちろん言いませんが、観察の力、分析の力、文章をカラフルに書く力に比べると、嘘の物語をつくる能力において優れているとは言えなかった。 それが、彼が一生、小説が書けない書けないと言っていた唯一の理由なんです。ぼくは、それが不思議。話してみると、いつも面白い話をどんどんする人なのに。古井 気前よく出していくところが、結局、物語をつくるのを妨げたんじゃないかしら。 抑えながら抑えながら運んでいくということはなさらなかった人で、気性的にそれを潔しと思われなかったのでしょう。 このくだりを読んでて、思わず膝を叩きました。オーパ! そうだ「オーパ!」の、あの文体なのです。 甘い海。迷える海。大陸の地中海。漂い歩く沼。原住民や探検家や科学者たちはそれぞれの眼からさまざまな定義と名を与え、日本人移民はただひとこと「大江(たいこう)」と呼び習わした。 どの命名もこの河の性格の一片を正確無比にとらえて必要条件をみたしはしたけれど完全というには遠かった。おそらく今後も―いつまでかはわからないが―この河はダムや橋を拒んだように言葉を拒みつづけることだろうと思う。 ライオンという言葉ができるまでは、それは、爪と牙を持った、素早い、不安な悪霊であったが、いつからともなく、ライオンと命名されてからは、それはやっぱり爪と牙を持った、素早くて、おそろしい、しかし、ただの四足獣となってしまったのである。 必要にして完全な条件を満たした定義がアマゾンに与えられて不安が人間から消え、ただの大きな河となってしまうのはいつのことだろうか。 その条件はダム、橋、堤防、土手などのうちの、何だろうか。私にはわからない。しかし、いま、この無窮の展開からうける不安には歓びがひそんでいる。完璧におしひしがれて無化されたのに私は愉しい。 ナーダにしてトーダ。何もなくてすべてがあると歌うあの二つ恋歌はこの河の上でこそふさわしいのかも知れない。絶妙の暗合に感じさせられる。(開高健「オーパ!」集英社文庫) 1989年、思えば早すぎる生涯を閉じた開高健。58歳でしたた。今の学生さんたちは、この作家について、名前すら知らないかもしれません。「輝ける闇」(新潮文庫)・「夏の闇」(新潮文庫)とベトナム三部作と銘打って書き継いた「闇」シリーズも、「花終わる闇」は「書く」ことの苦渋を読者に刻印し、未完に終わりました。 小説に苦しんだ最後の10年、開高は釣竿を片手にあらゆる世界の果てをめぐり、エッセイ「オーパ!」を月刊「PLAY BOY」(日本版・集英社)に連載し、夢のかなわない書斎の釣り師たちを喜ばせました。ぼくは作家の余技だと思っていましたが、今になって考えてみれば本業だったのです。 あの文章にこそ「観察と分析」が果てることのない饒舌と深い含蓄となってほとばしっていたことに、迂闊な読者たちの一人だったぼくは、この年になってようやく気付くのでした。作家が世を去って30年。今、読み直しても全く古びていない文章と、その文書によって描かれた永遠の時間がそこにあります。これは、忘れてしまうわけにはいかない傑作じゃないでしょうか。 若い人たちの中に、この面白さに気付く人がいたら、本当にうれしいですね。(S)2018/06/23(投稿中の二つの画像は蔵書の表紙写真です。)追記2023・03・15 大江健三郎の死を知って、大江の5歳年長の作家、開高健のことを思い出しました。彼は1989年、58歳という若さで世を去ったのですが、まさしく、大江と同時代の作家だったと、ぼくは思っています。 上の記事の対談の相手だった古井由吉は、大江より二つ若い1937年生まれでしたが、2020年に世を去っています。そして、誰もいなくなったといういい方がありますが、作品は残されています。できれば、一作でも多くご案内して、それぞれの作家の面白さを伝えられればいいのですが、先は長そうです(笑)。ボタン押してね!にほんブログ村開高 健 電子全集14 オーパ!/オーパ、オーパ!!【電子書籍】[ 開高健 ]今はこうなっているんですね。輝ける闇改版 (新潮文庫) [ 開高健 ]これな紛れもない傑作。
2019.09.14
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大江健三郎「河馬に噛まれる」(講談社文庫) 大江健三郎なんて、若い人はお読みになるのでしょうか。まあ、年取った人もお読になるのか、ともいえるわけだですけれど、入試で使われるわけじゃないし、読んで、ああ、おもしろいとなるわけじゃないし、やたら誰も読まない西洋の古典や哲学を持ち出して、読んでいながら「さあ、もう、投げ出しなさい、投げ出しなさい。」と声をかけられているとでもいう展開だし、作品の中でのことではあるのですが、小説家(書き手)の周辺と思しき登場人物の、妙に道徳的な振る舞いが鼻につくし。 作家が映っている写真を見ると、大体、昭和の大家然とした丸メガネが胡散臭いし、本来、素朴なはずの、そのデザインが逆にわざとらしくてうっとうしい。 そんな大江健三郎の「河馬に噛まれる」(講談社文庫)を、小林敏明という人の「柄谷行人論」(筑摩選書)の中の引用だか、注釈だかに促されて久しぶりに読みました。 初めて出版されたころのことを何となく覚えています。1985年に文藝春秋社から出版された単行本の文庫版ですから、30年以上前の作品です。「ヘルメス」という岩波文化人雑誌に掲載された章もあったとボンヤリ記憶しています。 ぼくは当時、「連合赤軍事件」を思想的に総括したと評判をとり、川端康成賞を受賞したはずの、この小説を、読み始めはしたものの、結局、途中で投げ出したのでした。ところが今回、予想もしなかった場所に連れて行かれた、そんな感じを持ちました。「面白かった」というのとは、微妙ですが、少し違う場所でした。 アフリカの自然公園で飼育係をしている青年が河馬に噛まれた。そんな素っ頓狂なエピソードから小説は始まります。 革命党派の生き残りの「河馬に噛まれた青年」はいくつかのエピソードを経て「大江ワールド」の住人になっていきます。 青年をめぐる出来事と、作家である語り手の個人的な記憶や事件が、語り手の日常生活に複層的に重ねられて語り続けられていきます。どこに終着点があるのか、どこまで行っても読者であるぼくにはわからないムードが漂っていて、またもや投げ出しそうだったのですが、何とかたどり着いた最終章「生の連鎖に働く河馬」の末尾でこんなフレーズが用意されていました。 河の中に緑の植生のかたまりができると、河は氾濫する。水中で盛んに活動する河馬は、植生のかたまりに通路を開き、水の流れを恢復させる働きをする。 河馬にはまたラベオという魚がまつわりついており、河馬が陸上からおとしこむ植物や、河馬自体の糞を食べる。そのようにして河馬は、アフリカの自然の生物の食物連鎖に機能をはたしている。 小原氏の記述に僕は誘われる。 ラベオと呼ぶ魚の群れをまつわりつかせつつ、水流を閉ざす緑の植生のかたまりに通路を開けるべく、猛然と泳ぐ河馬のありようが、有用なものとして排泄されるそいつの糞便ともども、人を励ます眺めではないか? おそらくは気の荒い牡の若い河馬に噛みつかれるほどまぢかから、活動を見守っていたものにとって、河馬の働きはいかにも勇ましく奮い立たしめる体のものではなかっただろうか? 文庫に収められた六篇の、それぞれ独立しているともいえる連作の中に、このフレーズは二度出てきます。 もちろん、環境保護団体のアピールではありません。れっきとした小説のことばです。この作品全体を、あるいは、作家の「書く」というモチベーションの正体を照らし出す光源のありかを、かなり遠回しではあるもののも、たしかに暗示しているとぼくは読みました。 真っ暗な何もない舞台には、あたかも、人が生きる日常の光が満ちているように設定された照明が、作家によって備え付けられていることに、読者のぼくは「あっ、そうか」と得心しました。で、「得心」と一緒に、ここまで読んできた小説の世界が上から降りかかってくるような異様な感動がやってきたのです。 二度目に、そして、作品群の最後に出てきた、このフレーズを読みながら、連赤の生き残りの青年を小説の世界に召喚する作家の手つき、手管のようなものに強い違和感を感じた初読の、あの当時に引き戻されながらも、一方で、小説の中の大江のことばを借りて言うなら、「この項つづく」と言いきかせながら暮らしてきたぼく自身の日々と、その結果たどり着いた、ぼく自身の現在という場所を照らし出す灯のような力が、この、いかにも大江的で大仰なフレーズにはあると感じました。 60歳を越えたぼくが、一体、なぜ、「この項つづく」と自分自身が固執してきたと感じたのか、一体、何を「この項つづく」と感じてきたのか、実は両方とも、うまく言葉にすることはできません。 しかし、この年齢の、この場所に来て、大江のいうように「上向きの勢いを込めて」かは、心もとないにしても、やはり、もう一度「この項つづく」とつぶやいてみようか、そんな気持ちになって本を閉じたことが不思議でした。(S)追記2020・03・22 大江健三郎と柄谷行人の対談集「全対話」(講談社)の第一章は詩人で作家であった中野重治について語り合ったものです。大江がこの小説で使った「この項つづく」は、中野重治の著書の中の「この項つづく」の引用なのだということが語られているのですが、興味のある方は対談をご覧ください。 ちなみに、ぼく自身の感想は《大江健三郎・柄谷行人「全対話」》に書いています。ここからどうぞ。追記2022・11・26 大江健三郎のこの作品を、最初に手に取ったと記憶している1985年、ぼくは31歳でした。そもそも、大江の作品群に夢中になりはじめたのは1975年あたりです。で、今、現在が、2022年で、68歳です。 最近、「大江健三郎自選短編」(岩波文庫)という、かなり膨大な文庫本を手に取る機会があって、ポツポツ読み始めています。キーワードは「この項つづく」です。とりあえず、大江健三郎という作家の「この項」とは何だったのかという関心なのですが、「奇妙な仕事」、「死者の奢り」、「飼育」と読み継ぎながら、20代の自分が、いったい何を「この項」として読んでいたのか、さっぱりわからないというのが、今のところの感想で、かなりうろたえています。 要するに、あの頃の自分が何をそんなに面白いと思っていたのかが、今読み返してよく分からないのですね。 マア、そういうこともあって、オタついていますが、もう少し読んでみようという、意欲は残っているようなので、そのうち感想を載せたいと思っています。追記2023・03・15 60歳を過ぎて、大江健三郎の作品と再会したのはこの作品でした。つい先日この作家の訃報を見たり聞いたりしながら、ぼく自身の10代からの50年、半世紀にわたって、ぼく自身もなんとか、かんとか、生きてきた「同時代」について、作品によってに限らず、参加(?)することを臆することなく続けてきた作家は、結局、彼一人だったなあ、という、まあ、感慨に浸りました。 そういえば、サルトルのアンガージュマン(engagement)という言葉も、この作家の何かの文章で覚えたのではなかったか、そんな記憶のようなものも、一緒に湧いてきましたが、「この項つづく」と横に置いたまま、忘れていく自分をどうしていいかわからない現実社会の混沌は、いつまで経っても混沌のままなのだということを知るばかりで、アンガージュマンのすべはわからないままです。 老いた作家の肖像写真を見ながら、せめて、この作家がたどり着いたところがどこなのか、やはり作品に帰ってみようと思いました。ボタン押してネ!にほんブログ村柄谷行人論 〈他者〉のゆくえ (筑摩選書) [ 小林敏明 ]柄谷論はこの人のこれ。おすすめです。夏目漱石と西田幾多郎 共鳴する明治の精神 (岩波新書) [ 小林敏明 ]これもいいですよ。万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) [ 大江健三郎 ]大江はここからが、ゃはりオモシロイ。
2019.06.11
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