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吉本隆明「ちひさな群への挨拶」「吉本隆明代表詩選」(思潮社)より 三泊した病室で天井をボンヤリ見ながら、周りから聞こえてくるうめき声やしわぶき、ときどき響き渡るモニターの発信音を聞きながら、何故か、50年ほど昔の下宿暮らしの頃に、天井に貼っていた詩の文句が浮かんできて、スマホを取り出してググってみると、結構、出てくるもので、しばらく、自分が今いる境遇を忘れて読みふけっていると時間もいつの間にかたっていて、少しうとうとできるという体験をしました。 自宅に帰ってきて、もう一度、今度はそれぞれの詩集とかで読み直しながら、2024年の5月の月末の備忘録のような気持ちで、思い出した詩を写しておくことにします。 とりあえず、一つ目は吉本隆明の「ちひさな群への挨拶」です。 ちひさな群への挨拶 吉本隆明あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ冬は背中からぼくをこごえさせるから冬の真むかうへでてゆくためにぼくはちひさな微温をたちきるをはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれるぼくが街路へほうりだされたために地球の脳髄は弛緩してしまふぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために冬は女たちを遠ざけるぼくは何処までゆかうとも第四級の風てん病院をでられないちひさなやさしい群よ昨日までかなしかつた昨日までうれしかつたひとびとよ冬はふたつの極からぼくたちを緊めあげるそうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにするこわれやすい神経をもつたぼくの仲間よフロストの皮膜のしたで睡れそのあひだにぼくは立去ろうぼくたちの味方は破れ戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだからちひさなやさしい群よ苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるときぼくは何をしたらうぼくの脳髄はおもたく ぼくの肩は疲れてゐるから記憶という記憶はうつちやらなくてはいけないみんなのやさしさといっしょにぼくはでてゆく冬の圧力の真むかうへひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だからひとりつきりで抗争できないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だからぼくはでてゆくすべての時刻がむかうかわに加担してもぼくたちがしはらつたものをずつと以前のぶんまでとりかへすためにすでにいらなくなつたものはそれを思いしらせるためにちひさなやさしい群よみんなは思い出のひとつひとつだぼくはでてゆく嫌悪のひとつひとつに出遇ふためにぼくはでてゆく無数の敵のどまん中へぼくは疲れてゐるがぼくの瞋りは無尽蔵だぼくの孤独はほとんど極限(リミット)に耐えられるぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられるぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれるもたれあうことをきらった反抗がたふれるぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐるぼくがたふれたら収奪者は勢いをもりかえすだから ちひさなやさしい群よみんなのひとつひとつの貌よさやうなら 今回、書き写すために参照したのは思潮社の「吉本隆明代表詩選」というアンソロジー詩集ですが、その中に、10年ほど前に亡くなった詩人、辻井喬さん、実業家としての名は堤清二で、西武百貨店の重役だった人ですが、彼のこんな言葉がのっています。 吉本隆明の作品を考える場合、「詩」という言葉でどこまで含めたらいいかという問題にぶつかります。というのは、たとえば「マチウ書試論」は感性に訴える思想の運動を記した詩作品だと思うからです。しかし、不本意ながら慣習に従うなら「転位のための十篇」のなかの「ちひさな群への挨拶」でしょう。辻井喬 ボクが記憶していたのはひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから という2行でしたが、1974年に二十歳だった青年は何を考えていたのでしょうね。でも、まあ、そういう時代が50年前にあったことは事実で、そういう感受性というのは、どこかに眠っているのかもしれませんね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.02
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吉本隆明「廃人の歌」(「吉本隆明全詩集」思潮社) 病院のベッドで、まあ、眠れない夜を過ごしながら思いだしたのは吉本隆明の詩でした。で、帰宅して、こんな本があることを思い出して、久しぶりに開きました。 「吉本隆明全詩集」(思潮社)です。箱装で、写真は箱の表紙です。2003年の出版で、その時に購入した詩集です。全部で1811ページ、価格は25000円です。1冊の本としては、ボクの購入した最高値です。なんで、そんな高い本を買ったのか。 まあ、そう問われてもうまく答えることができません。ただ、2003年にまだ存命だった詩人が「現在集められる限りの詩作品を一冊にまとめて全詩集とした。」 と、この詩集のあとがきで述べていますが、彼の書いた詩を一生のうちにすべて読み切りたい。 という、人にいってもわからないないだろうと思い込んでいる願望のようなものが40代の終わりのボクにはあったということですね。「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」 という詩句と十代の終わりに出逢ったことで始まった、この詩人に対する信頼と憧れがその願望を培ってきたことは紛れもない事実ですね。 病室の天井を眺めながら、この詩人の詩句を思い浮かべている自分に気付いたときに「えっ?」 という驚きを感じたのですが、スマホの画面で、いくつかの詩を読み返していくにしたがって、50年、溜まりに溜まった、なんだかわけのわからない妄想にも似た、忘れていたはずの記憶が、次々と湧いてきて、まだ、やり残していることの一つが見つかったような気がしたのでした。 というわけで、今回は1953年の「転位のための十篇」に収められている「廃人の歌」です。 廃人の歌 吉本隆明ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でおはる ぼくはそれを考えてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひよつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せはそんなところにころがつている たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいいつのとりえである患者だそうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間でぼくの好きな奴は三人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の控訴をすすめるための 休暇はかせげる 「転位のための十篇」(1953)(「全詩集」P75~P76) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.01
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「死のなかに」 黒田三郎 「戦後代表詩選」(詩の森文庫・思潮社)より(2) 鮎川信夫、大岡信、北川透の三人が選んだ「戦後代表詩選」(詩の森文庫・思潮社)を拾い読みしています。二人目は黒田三郎、荒地派の詩人のひとりです。詩は「死のなかに」、上に貼った「荒地詩集1951」(国文社・1975年初版)に「市民の憂鬱」としてまとめられている数編の詩の一つです。 死のなかに 黒田三郎 死のなかにいると僕等は数でしかなかった臭いであり場所ふさぎであった死はどこにでもいた死があちこちにいるなかで僕等は水を飲みカードをめくりえりの汚れたシャツを着て笑い声を立てたりしていた死は異様なお客ではなく仲のよい友人のように無遠慮に食堂や寝室にやって来た床にはときに食べ散らした魚の骨の散っていることがあった月の夜にあしびの花の匂いのすることもあった戦争が終ったときパパイアの木の上には白い小さい雲が浮いていた戦いに負けた人間であるという点で僕等はお互いを軽蔑しきっていたそれでも戦いに負けた人間であるという点で僕等はちょっぴりお互いを哀れんでいた酔漢やペテン師百姓や錠前屋偽善者や銀行員大食いや楽天家いたわりあったりいがみあったりして僕等は故国へ送り返される運命をともにした引揚船が着いたところで僕等はめいめいに切り放された運命を帽子のようにかるがると振って別れたあいつはペテン師あいつは百姓あいつは銀行員一年はどのようにたったであろうかそして二年ひとりは昔の仲間を欺いて金を儲けたあげく酔っぱらって運河に落ちて死んだひとりは乏しいサラリーで妻子を養いながら五年前の他愛もない傷がもとで死にかかっているひとりはそのひとりである僕は東京の町に生きていて電車のつり皮にぶら下っているすべてのつり皮に僕の知らない男や女がぶら下っている僕のお袋である元大佐夫人は故郷で栄養失調で死にかかっていて死をなだめすかすためには僕の二九二〇円ではどうにも足りぬのである死 死 死死は金のかかる出来事である僕の知らない男や女がつり皮にぶら下っているなかで僕もつり皮にぶら下り魚の骨の散っている床やあしびの花の匂いのする夜を思い出すのであるそしてさらに不機嫌になってつり皮にぶら下っているのをだれも知りはしないのである 海軍大佐の息子として1912年、大正8年、広島の呉で生まれ、鹿児島で育ち、東京帝国大学を出たエリートが、赴任先のジャワで現地招集され入営、3年の従軍ののち敗戦。なんとか生き延びて帰国したものの、結核で倒れ、ようやくNHKで働き始めた30代半ばの男がいます。彼は「荒地」という名の詩人グループに参加し、詩を書きはじめています。昭和20年代の半ば、1950年ころの東京でのことです。まだ結婚もしていませんし、もちろん「ユリ」と名付けられることになる娘もいません。 男は、数年後、「小さなユリ」という詩集で、戦後詩なんていうものは読まない多くの人の称賛を得て、それから10年後、高度成長の始まりの年、1964年に書いた「紙風船」という詩が、やがて、小学校の教科書に載り、子どもも大人も愛唱する歌の詩人として愛されることになる黒田三郎です。その出発の詩の一つが、彼の詩や歌を愛する多くの人が、実は知らない「死のなかで」というこの詩です。いかがでしょうか。ぼくは、黒田三郎という詩人は生涯この立ち位置を変えなかった人だと思います。後年、酒乱を噂されたりしたこともありましたが、「そりゃあ、彼は、飲みだせば止まらないでしょう。」という気持ちになった記憶があります。 多くの人を励ました、紙風船はこんな詩でしたね。 紙風船 黒田三郎落ちてきたら今度はもっと高くもっともっと高く何度でも打ち上げよう美しい願いごとのように ボクは、この詩の「美しい願いごと」の向うに、「死のなかに」の詩人が、電車のつり革につかまりながら立っていることを思い浮かべるのですが、教科書で出逢って、詩を口ずさむことを覚えた子供たちにそのことを伝えるのは余計なことなのでしょうか。追記2023・10・01 ボクが黒田三郎の「死のなかに」という詩に出あったのは国文社の「荒地詩集1951」です。今回、詩の森文庫の「戦後代表詩選」をパラパラ読んでいて、なんか変だと感じて、出あった方の本を引っ張り出してきてわかりました。ちょっと写してみますね。 死のなかに 黒田三郎 死のなかにゐると僕等は数でしかなかった 臭ひであり場所ふさぎであった 死はどこにでもゐた 死があちこちにゐる中で 僕等は水を飲み カアドをめくり 襟の汚れたシャツを着て 笑ひ声を立てたりしてゐた 死は異様なお客ではなく 仲のよい友人のやうに 無遠慮に食堂や寝室にやって来た 床には 時に 喰べ散らした魚の骨の散れてゐることがあった 月の夜に 馬酔木の花の匂ひのすることもあった戦争が終ったとき パパイアの木の上には 白い小さい雲が浮いてゐた 戦ひに負けた人間であるという點で 僕等はお互ひを軽蔑し切ってゐた それでも 戦ひに負けた人間であるという點で 僕等はちよつぴりお互ひを哀れんでゐた 醉漢やペテン師 百姓や錠前屋 偽善者や銀行員 大喰ひや楽天家 いたわり合つたり いがみ合つたりして 僕等は故國へ送り返へされる運命をともにした 引揚船が着いた所で 僕等は めいめいに切り放された運命を 帽子のやうにかるがると振って別れた あいつはペテン師 あいつは百姓 あいつは銀行員一年はどのように經つたであろうか そして 二年 ひとりは 昔の仲間を欺いて金を儲けたあげく 醉つぱらつて運河に落ちて死んだ ひとりは 乏しいサラリイで妻子を養ひながら 五年前の他愛もない傷がもとで 死にかかってゐる ひとりは・・・・・その ひとりである僕は 東京の町に生きてゐて 電車の吊皮にぶら下つてゐる すべての吊皮に 僕の知らない男や女がぶら下つてゐる 僕のお袋である元大佐夫人は 故郷で 栄養失調で死にかかってゐて 死をなだめすかすためには 僕の二九二〇圓では どうにも足りぬのである死 死 死死は金のかかる出来事である 僕の知らない男や女が吊皮にぶら下つてゐる中で 僕も吊皮にぶら下り 魚の骨の散れてゐる床や 馬酔木の花の匂ひのする夜を思ひ出すのである そして 更に不機嫌になつて吊皮にぶら下つてゐるのを 誰も知りはしないのである 旧仮名遣いで、旧漢字が使われているのですが、そのことよりも、全体が散文詩風に書き連ねられていて、分かち書きされていません。多分、この表記の仕方で、印象が変わったのでしょうね。何がどうっだといわれてもわかりませんが、ボクはこの詩を、とても散文的な印象で記憶(してませんけど)していたんでしょうね。 このブログをお読みの皆さん(いらっしゃればですが)いかがでしょう?
2023.08.07
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鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」 「戦後代表詩選」(詩の森文庫・思潮社)より(1) 繋船ホテルの朝の歌 鮎川信夫ひどく降りはじめた雨のなかをおまえはただ遠くへ行こうとしていた死のガードをもとめて悲しみの街から遠ざかろうとしていたおまえの濡れた肩を抱きしめたときなまぐさい夜風の街がおれには港のように思えたのだ船室の灯のひとつひとつを可憐な魂のノスタルジアにともして巨大な黒い影が波止場にうずくまっているおれはずぶ濡れの悔恨をすててとおい航海に出よう背負い袋のようにおまえをひっかついで航海に出ようとおもった電線のかすかな唸りが海を飛んでゆく耳鳴りのように思えたおれたちの夜明けには疾走する鋼鉄の船が青い海の中に二人の運命をうかべているはずであったところがおれたちは何処へも行きはしなかった安ホテルの窓からおれは明けがたの街にむかって唾をはいた疲れた重い瞼が灰色の壁のように垂れてきておれとおまえのはかない希望と夢をガラスの花瓶に閉じこめてしまったのだ折れた埠頭のさきは花瓶の腐った水のなかで溶けているなんだか眠りたりないものが厭な匂いの薬のように澱んでいるばかりであっただが昨日の雨はいつまでもおれたちのひき裂かれた心とほてった肉体のあいだの空虚なメランコリイの谷間にふりつづいているおれたちはおれたちの神を おれたちのベッドのなかで締め殺してしまったのだろうか おまえはおれの責任について おれはおまえの責任について考えている おれは慢性胃腸病患者のだらしないネクタイをしめ おまえは禿鷹風に化粧した小さな顔を猫背のうえに乗せて朝の食卓につくひびわれた卵のなかのなかば熟しかけた未来にむかって おまえは愚劣な謎をふくんだ微笑を浮かべてみせるおれは憎悪のフォークを突き刺しブルジョア的な姦通事件のあぶらぎった一皿を平らげたような顔をする窓の風景は額縁のなかに嵌めこまれているああ おれは雨と街路と夜がほしい夜にならなければこの倦怠の街の全景をうまく抱擁することが出来ないのだ西と東の二つの大戦のあいだに生れて恋にも革命にも失敗し急直転下堕落していったあのイデオロジストの顰め面を窓からつきだしてみる街は死んでいるさわやかな朝の風が頸輪ずれしたおれの咽喉につめたい剃刀をあてるおれには堀割のそばに立っている人影が胸をえぐられ永遠に吠えることのない狼に見えてくる 鮎川信夫・大岡信・北川透 編「戦後代表詩選 続 」(詩の森文庫・思潮社)を見つけて、パラパラやり始めて、ハッとしました。「この詩集は谷川俊太郎で始まって、伊藤比呂美で終わっているけど、戦後代表詩の最初は誰なんだ?」 で、鮎川信夫・大岡信・北川透 編「戦後代表詩選 」(詩の森文庫・思潮社)を見つけ出してきてわかりました。鮎川信夫でした。現代詩文庫「鮎川信夫集」(思潮社)で出合って、「荒地詩集1951」(国文社)で読み直した記憶があります。 鮎川信夫との出会いの記憶はこの言葉でした。「さようなら、太陽も海も信ずるに足りない」 上に引用した「繋船ホテルの朝の歌」と同じ時期に書かれた「死んだ男」という詩に出てくる詩句が印象的で、詩集だけでなく「戦中手記」(思潮社)や評論、翻訳まで、取りつかれたように読みました。彼は1986年にあっけなく亡くなってしまうのですが、そころまで読み続けました。何に惹かれてたのでしょうねえ。国文社が「荒地詩集」を1951年から56年まで、年毎にまとめた形式で出したのが1975年くらいでしたが、なぜか全部揃っていて、ちょっと驚きました。さわやかな朝の風が頸輪ずれしたおれの咽喉につめたい剃刀をあてる こんな一節を書きだして、下宿の四畳半の部屋の天井に貼って眺めていた記憶があります。そういえば、黒い画用紙を天井というか、部屋一面に張り巡らし、「竜馬暗殺」のポスターを1枚だけ、その真ん中に貼った、暗い部屋に閉じこもっていた友人もいました。彼とは、下宿を訪ねたその日に分かれて、それっきりです。生きているのでしょうかね。 ああ、それから、引用した詩句の「頸輪ずれした」という部分は、はじめからありましたかね?ふと気になったんですが(笑)。
2023.06.08
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鮎川信夫「近代詩から現代詩へ」(詩の森文庫・思潮社) 神戸の元町の古本屋さんの棚にありました。腰巻もついていて、新品といっていい状態ですが、2005年ですから、ほぼ、20年前の本です。もっとも、親本は1966年に思潮社から出された「詩の見方」という本らしいですから、半世紀以上昔の本で、まあ、純然たる古本です(笑)。 著者の鮎川信夫は1986年に亡くなりましたが、ボク自身にとっては、学生時代に、だから1970年代ですが、そのころに出た「鮎川信夫著作集 全10巻」(思潮社)を、買おうか、買うまいか 本屋さんの棚の前で悩んだ結果、結局、買わなかったという思い出の人です。ようするに、ボクは親本の「詩の見方」の世代なのですね(笑)。 どんどん古い話になります(笑)。実は、後ろに引用した「あとがき」にもありますが、創元社から1960年くらいに刊行された「現代名詩集大成」の解説で書かれた文章を集めた本です。「現代名詩集大成」とか、あの頃、図書館で見かけた気がして市民図書館とか近所の大学の図書館の蔵書で検索しましたがありませんでした(笑)。図書館も新陳代謝するのですね(笑)。 で、内容ですが、それぞれの詩人について、なんというか、一筆描き風のポートレイト集になっています。ボクのように、思い出に浸るタイプには、ちょうどいい加減なアンソロジーです。 まあ、若い人には入門のための石段からの風景、お年寄りには思い出の小道の眺めふうで、チョット、いいんじゃないかという案内です。 この本自体も古いので目次を探してもネット上に見つかりません。折角ですから書き上げてみました。島崎藤村から安西冬衛まで、50人です。読んだことのない詩人も数名いらっしゃいましたが、おおむね懐かしいラインアップです。明治の詩人島崎藤村 おくめ 若菜集序詞 8土井晩翠 星落秋風五丈原 14薄田泣菫 ああ大和にしあらましかば 20蒲原有明 朝なり 24北原白秋 邪宗門秘曲 接吻 27河井酔茗 魚の皿 32木下杢太郎 築地の渡 34三木露風 接吻の後に 36大正・昭和の詩人 Ⅰ高村光太郎 道程 典型 40山村暮鳥 岬 46日夏耿之介 心を析け渙らすなかれ 48堀口大学 砂の枕 50千家元麿 自分は見た 52佐藤春夫 秋刀魚の歌 54室生犀星 小景異情 60西条八十 胸の上の孔雀 63萩原朔太郎 竹 小出新道 67宮沢賢治 春と修羅 71佐藤惣之助 ふしぎなる大都会を欲して 77大手拓次 藍色の蟇 80吉田一穂 死の馭者 82尾崎喜八 大地 85大正・昭和の詩人 Ⅱ金子光晴 女たちへのいたみうた 90高橋新吉 壊れた眼鏡 93萩原恭次郎 日比谷 96小熊秀雄 蹄鉄屋の歌 99壷井繁治 風船 103小野十三郎 工業 106中野重治 しらなみ 109草野心平 聾のるりる 111中原中也 正午 春日狂想 115八木重吉 明日 119岡崎清一郎 仮寓春日 121逸見猶吉 ウルトラマリン 冬の吃水 123尾形亀之助 五月 125山之口獏 数学 128大正・昭和の詩人 Ⅲ三好達治 雪 駱駝の瘤にまたがって 134丸山薫 鴎が歌った 141田中冬二 蚊帳 142立原道造 やがて秋 145富永太郎 恥の歌 147菱山修三 夜明け 懸崖 149伊東静雄 わがひとに与ふる哀歌 151西脇順三郎 失われた時 155村野四郎 塀のむこう 体操 161北園克衛 煙の形而上学 166北川冬彦 馬 174安西冬衛 春 172 いかがですか?同世代の方はくすぐったいんじゃないでしょうか?「日夏耿之介 心を析け渙らすなかれ」なんて、詩人の名前はともかく、題が読める方は相当ですね(笑)。ちょっとパラパラしてみたいになりませんか? で、チョット、読書案内も兼ねて、この本でラインアップされている詩人と詩の内容を、それぞれ、まあ、ボクが気に行ったり、面白がったりを案内しようと思います。上の目次の名前をクリックしていただくと、そのページについての案内につながるという趣向です。よろしければクリックしてみてください。最初は八木重吉です。 親本「詩の見方」のあとがきが入っていたので、後半を載せます。懐かしい鮎川信夫がいるとボクは思いました。 あとがき(前略) 七、八年前、創元社から刊行された「現代名詩集大成」の解説を依頼されて引き受けたときの私の気持は、ただ明治以降の新しい詩の概念が、個々の詩人においてどのように発現しているかを、この機会に調べてみたいということであった。それはまた、近代の個々の詩人の努力が、読者のいかなる期待と結びついているかをさぐってみたいということでもあった。 そのような機会は、詩の特殊な専門家でないかぎり、そうたびたび訪れるものではない。現代詩に関する自分自身の考えからはなれて、いわば任意気ままに他人の詩を読んでみるのもおもしろいかもしれないといった気楽な気持ちで引き受けたのであった。 もちろん、私は純粋に鑑賞的態度に終始した詩の見方が可能であるとは信じていない。たとえ、早急な価値判断を抑制して、能うるかぎり作者の意図と結果の領域にのみ分析の範囲を限定したとしても、おのずから「ある評価」によって左右された感情のバイアスはあらわれるのである。 しかし、それにもかかわらず、自分自身の詩的基準や価値判断からはなれて、他人の詩の領域に自由に立ち入ってみたいという気持ちは強かった。それまでの自分の興味の限界に、あるあきたらなさを感じていた、ということもあった。近代詩の成果といわれているものに故意に背を向けていたわけではないが、自身の詩的経験からして、積極的関心を持つに至らなかったという事情もある。 人は誰でもそれぞれ違った詩の観念を持っている。近代詩にあっては、特にその傾向がつよい。位置や姿勢の違いにすぎなくても、根本的な立場の違い、詩概念の違いとなってあらわれてきて、相互に全く理解しえないというような、混乱した状況を呈することがある。ちょっと先入観を抱いているだけで、評価がまるで逆になるというようなこともしばしば経験するところである。 詩に何を求めるか、ということも、もちろん大切である。だが、そのまえに詩とはどういうものかを、ありのままにさぐってみる必要があるであろう。個々の詩人の仕事についてそれを見れば、詩は個性的経験の高度の凝集であることの証であり、時代の影響、流派の制約を越えた表現である。そのことを信ぜずして、詩を読んだり、書いたりすることは、およそ無意味であろう。 解説的な文章を私に書かせた心理的背景を要約すれば、だいたい以上のようなことに尽きる。(1966年10月) 繰り返し、思い出に浸ったことをいいますが、ボクは、こういう啖呵の切り方をする鮎川信夫が好きだったんですね。懐かしいです(笑)。
2023.05.18
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「引き裂かれたもの」黒田三郎(「黒田三郎詩集」現代詩文庫6・思潮社) 1冊の本を読むということは、なんとなく次の1冊の本のところに連れていかれるということのような気がします。そして、その次の本が現われる。 連鎖していくことばの世界の輪郭が、はっきりわかるわけではないのですが、そこに読み手にとっての小さな世界が広がり始めて、そこで佇んでいることが楽しい。書き手の差し出してくれている世界とは微妙にズレた世界です。何年も続けていると自分なりの境界線が出来てきて、その先は絶壁というようなイメージです。書き手が示唆してくれる場合もありますが、読みながらの想起ということも結構あります。世界はそのたびに膨らんだり縮んだりします。それが、記憶と連動していきます。自分の世界というのも一定ではないのですよね。 「鶴見俊輔、詩を語る」(作品社)という本を読んでいて、本の後半の「鶴見さんの詩心をより深く知るためのアンソロジー」という章にこんな文章引かれていました。 黒田三郎 ここでこの人に誘われたら、その仲間になって、今日まで来ただろうと思う人が、私に入る。(中略=引用者) 私が黒田三郎の作品に心惹かれたのは、「引き裂かれたもの」という詩である。どこで読んだかは忘れたが、結核患者の座り込みについて、発表された。その書きかけの手紙のひとことが僕のこころを無惨に引き裂く一週間たったら誕生日を迎えるたったひとりの幼いむすめに胸を病む母の書いたひとことが「ほしいものはきまりましたか なんでもいってくるといいのよ」とひとりの貧しい母は書きその書きかけの手紙を残して死んだ「二千の結核患者、炎熱の都議会に坐り込み 一人死亡」と新聞は告げる一人死亡!一人死亡とは(中略=鶴見)無惨にかつぎ上げられた担架の上で何のためにそのひとりの貧しい母は死んだのか「なんでも言ってくるといいのよ」とその言葉がまだ幼いむすめの耳に入らぬ中に これは新聞と地続きである詩、というよりも新聞記事の中におかれた詩のように思われた。 対談中の話題の注釈なので、これだけ読んでもいただいてもピンとこないとは思うのですが、詩人の黒田三郎がなくなった後、出版された配偶者の黒田光子さんの「人間・黒田三郎」という本の鶴見俊輔による紹介記事からの引用です。 それを読みながら、つまずきました。鶴見俊輔の文章中で引用された黒田三郎の「引き裂かれたもの」という詩が途中で省略されていたのです。 気になって、しようがないので、「黒田三郎詩集」(現代詩文庫6・思潮社)を引っ張り出して写しました。引き裂かれたもの 黒田三郎その書きかけの手紙のひとことが僕のこころを無惨に引き裂く一週間たったら誕生日を迎えるたったひとりの幼いむすめに胸を病む母の書いたひとことが「ほしいものはきまりましたか なんでもいってくるといいのよ」とひとりの貧しい母は書きその書きかけの手紙を残して死んだ「二千の結核患者、炎熱の都議会に坐り込み 一人死亡」と新聞は告げる一人死亡!一人死亡とはそれはどういうことだったのか識者は言う「療養中の体で闘争は疑問」と識者は言う「政治患者を作る政治」と識者は言う「やはり政治の貧困から」とそのひとつひとつの言葉に僕のなかの識者がうなずくうなずきながらただうなずく自分に激しい屈辱を僕は感じる一人死亡とはそれは一人という数のことなのかと一人死亡とは決して失われてはならないものがそこでみすみす失われてしまったことを僕は決して許すことができない死んだひとの永遠に届かない声永遠に引き裂かれたもの!無惨にかつぎ上げられた担架の上で何のためにそのひとりの貧しい母は死んだのか「なんでも言ってくるといいのよ」とその言葉がまだ幼いむすめの耳に入らぬ中に 鶴見の「これは新聞と地続きである詩、というよりも新聞記事の中におかれた詩のように思われた。」という評の意味については、まあ、ゆっくり考えることなのですが、やはりこんな詩句には沈みこまされますね。一人死亡とはそれは一人という数のことなのかと一人死亡とは 新聞やテレビが伝える死者の数につて、初めて引っかかったのは阪神大震災の報道のときでしたが、あれから、同じ疑問を想起させる事故や自然災害や戦争は繰り返し起こっています。 現に、今も、数で伝えようとしているかのコロナ報道やウクライナ報道の最中ですが、ぼくの中では数を離れることが、あの時以来、出来事や歴史を考える時の課題です。 同じ詩集の頃の黒田三郎を考えるには、というので、もう一つ、同じ「渇いた心」という詩集の詩で現代詩文庫の隣にあった作品も写してみます。ただ過ぎ去るために 黒田三郎 1給料日を過ぎて十日もすると貧しい給料生活者の考えのことごとくは次の給料日に集中してゆくカレンダーの小ぎれいな紙を乱暴にめくりとるあと十九日 あと十八日とそれをただめくりさえすればすべてがよくなるかのようにあれからもう十年になる!引揚船の油塗れの甲板にはだしで立ちあかず水平線の雲をながめながら僕は考えたものだった「あと二週間もすれば子どもの頃歩いた故郷の道をもう一度歩くことができる」とあれからもう一年になる!雑木林の梢が青い芽をふく頃左の肺を半分切り取られた僕は病院のベッドの上で考えたものだった「あと二ヶ月もすれば草いきれにむせかえる裏山の小道をもう一度自由に歩くことができる」と歳月はただ過ぎ去るためにあるかのように 2お前は思い出さないかあの五分間を五分かっきりの最後の面会時間言わなければならぬことは何ひとつ言えずポケットに手をつっ込んではまた手を出し取り返しのつかなくなるのをただそのことだけを総身に感じながらみすみす過ぎ去るに任せたあの五分間を粗末な板壁のさむざむとした木理半ば開かれた小さなガラス窓葉のないポプラの梢その上に美しく無意味に浮かんでいる白い雲すべてが平然と無慈悲に落着きはらっているなかでそのとき生暖かい風のように時間がお前のなかを流れた 3パチンコ屋の人混みのなかから汚れた手をしてしずかな夜の町に出るときその生暖かい風が僕のなかを流れる薄い給料袋と空の弁当箱をかばんにいれて駅前の広場を大またに横切るときその生暖かい風が僕のなかを流れる「過ぎ去ってしまってからでないとそれが何であるかわからない何かそれが何であったかわかったときにはもはや失われてしまった何か」いや そうではない それだけではない「それが何であるかわかっていてもみすみす過ぎ去るに任せる外はない何か」 4小さな不安指先にささったバラのトゲのように小さな小さな不安夜遅く自分の部屋に帰って来てお前はつぶやく「何ひとつ変わっていない何ひとつ」畳の上には朝、でがけに脱ぎ捨てたシャツが脱ぎ捨てたままの形で食卓の上には朝、食べ残したパンが食べ残したままの形で壁には汚れた寝衣が醜くぶら下がっている妻と子に晴着を着せささやかな土産をもたせ何年ぶりかで故郷へ遊びにやって三日目 5お前には不意に明日が見える明後日が・・・・・十年先が脱ぎ捨てられたシャツの形で食べ残されたパンの形でお前のささやかな家はまだ建たないお前の妻の手は荒れたままだお前の娘の学資は乏しいまま小さな夢は小さな夢のままでお前のなかにそのままの形で醜くぶら下がっている色あせながら半ばくずれかけながら・・・・・ 6今日ももっともらしい顔をしてお前は通勤電車の座席に坐り朝の新聞をひらく「死の灰におののく日本国民」お前もそのひとり「政治的暴力に支配される民衆」お前もそのひとり「明日のことは誰にもわかりはしない」お前を不安と恐怖のどん底につき落す危険のまっただなかにいてそれでもお前は何食わぬ顔をして新聞をとじる名も知らぬ右や左の乗客と同じように叫び声をあげる者はひとりもいない他人に足をふまれるか財布をスリにすられるかしないかぎり たれももっともらしい顔をして座席に坐っているつり皮にぶら下がっている新聞をひらく 新聞をよむ 新聞をとじる 7生暖かい風のように流れるもの!閉ざされた心の空き部屋のなかでそれは限りなくひろがってゆく言わねばならぬことは何ひとつ言えずみすみす過ぎ去るに任せたあの五分間!五分は一時間となり一日となりひと月となり一年となり限りなくそれはひろがってゆくみすみす過ぎ去るに任せられている途方もなく重大な何か僕の眼に大映しになってせまってくる汚れた寝衣壁に醜くぶら下がっているもの僕が脱ぎ 僕がまた身にまとうもの黒田三郎詩集 <渇いた心>「現代詩文庫」思潮社 懐かしく読み直しました。「ある時代の詩だ。」とおっしゃる方もいらっしゃるのかもしれません。たしかに、この詩がビビッドに響いてくる時代がかつてあったのですが、本当は、今、この時にも、詩の響きは失われてはいないし、響きに耳を傾ける態度を失ってはならないのではないでしょうか。「豊かさ」や「平和」の意味を深く考えなくなって、「なんか違うよ」とふと言いそびれて、「何食わぬ顔」のまま50年ほどもたったきがしますが、どうなるのでしょうね。 懐かしがっている場合ではない世の中に生きているのかもしれませんね。
2022.09.14
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「私が出会った一冊 夏目漱石『硝子戸の中』」 「吉本隆明全集28 1994―1997」(晶文社) 全部で30数巻ある吉本隆明の全集(晶文社版)の一冊、第28巻です。市民図書館の新刊の棚に並んでいたので借りてきました。1994年から1997年に書かれた文章が載っている巻です。吉本隆明も、2012年に亡くなって10年たちました。先日、若いお友達と話していると「吉本とか、文章が難しいですよね。」とおっしゃっるのを聞いていて、「ああ、そういうもんか。」と思いました。 ボクにとっては、高校時代にその詩と評論に出会った人で、「自立」とか「擬制」とか「模写」とか、とにかく二文字熟語の人で、情況への発言とかの悪口・雑言の凄まじさが痛快で面白くて読み始めましたが、その当時は、詩人で批評家の谷川雁とか、作家の埴谷雄高というような人の文章は、まあ、そういう言葉遣いの文章でしたから、あまり気にしたことがなかったので、「難しい」という言い方にちょっとたじろぎました。 で、借りてきた「吉本隆明全集28」をパラパラやっていて「これならどうですか?」という文章を見つけました。1997年の山梨日日新聞に掲載されたエッセイだそうで、この全集が初めての収録のようです。本来なら夏目漱石の「読書案内」に恰好の文章だと思うのですが、穏やかで、素朴な方の吉本隆明らしさ滲んでいる、なかなかいい文章だと思います。私が出会った一冊 夏目漱石「硝子戸の中」 おなじクラスの仲よしと、いつものようにふざけあっているうちに、お前は赤シャツだとはやしたてられた。赤シャツって何だというと、夏目漱石の「坊っちゃん」のなかに出てくるんだという。スポーツ好きのそのクラスメートが小説を読んでいることも意外だったが、自分がからかわれても、何のことかわからないこともショックだった。 早速、日曜日になると、本を買うからと、父親からお金をもらって、神田の本屋街に出かけた。道がよくわからないので、新佃島の家から渡しを渡り、真っすぐ有楽町まで歩き、省電の線路沿いに神田へ出て、本屋街をたずねていったと記憶している。 文庫本の棚が道路から見える本屋さんにいきなり入ると、やみくもに漱石の「坊っちゃん」を探した。見つからず、たまたま並んでいた「硝子戸の中」という背文字の星ひとつの薄い文庫本を買って早々に引きあげた。短文の随筆集みたいなものだったが、印象がつよく、また暗く重たい感じだった。 なぜそう感じたか解剖できたわけではなかったが、この本の最初の印象がいまでも無修正のまま、わたしの漱石についての固定したイメージになっている。とりあえず「坊っちゃん」も、登場人物の嫌みな赤シャツも、すっとんでしまったが、漱石という文学者の暗さや重さと釣り合った文章の力強さは、今まで読んだどんな文章とも異質なものだった。こんなふうに歯切れよく、悪びれずに自分が日常出会った記憶を書き記す世界があるのだと、はじめて知った。ちょうど十代の半ばごろだったが、わたしが文学書にのめり込んでゆくきっかけになったはじめての本が、この「硝子戸の中」だった。偶然手にした本だったが、後年になって何度も、あのとき「坊っちゃん」に出会えないで「硝子戸の中」に出会えたことは幸運だったと思い返した。(P248~P249) いかがでしょうか。文中の新佃島というのは月島の東の端の方でしょうね。省電は、省線電車、今のJRの山手線のことでしょうか。よく知らない土地なので、吉本少年がどの程度の距離を歩いて夏目漱石と巡り合ったのか、ぼくには定かではありません。彼は1924年、大正13年の生まれですから昭和10年代の東京です。 「硝子戸の中」をポケットに入れた少年は、来た道を神田から東京駅、有楽町あたりまで歩いたのでしょうかね。隅田川の方へよれて行けば別のルートで佃の渡し場あたりに出られると思うのですが。少年はどこを歩いたのでしょうねえ。
2022.07.03
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笠井潔「吉本隆明と連合赤軍事件」(吉本隆明全集24月報25・晶文社) 市民図書館の新入荷の棚に発見して、「オオー24巻まで来ましたか!」という気分で手に取った「吉本隆明全集24」(晶文社)の月報に作家の笠井潔が書いている文章が、67歳の誕生日にふさわしい衝撃でした。 この投稿を読んでくれる人たちの多くには、たぶん、理解不能な感慨だと思います。でも、まあ、今日が経なので書きます。 笠井潔は、「八・一五に際してゲリラ的に徹底抗戦することも、敗戦革命に立つこともない日本人について」、「千数百年前の日本民衆の『総敗北』と、その後のグラフト国家について」、「六〇年安保で街頭にあふれ出した膨大な大衆を戦後社会が鬱積させた疎外感の流出としてとらえたことについて」の、三点において、自らは吉本隆明の発想を後継するものだと前置きしたうえで、吉本隆明が「連合赤軍事件」に対してとった態度をこんなふうに総括し、以下のように論を結んでいます。 連合赤軍の弱さと愚かさを高みから非難し愚弄すればするほど、それは生き延びた戦中派の一員に他ならないおのれに戻ってくる。だから吉本氏の無意識は連合赤軍を「否認」した、するしかなかったのではないか。 おまえたちのようような愚劣な結末を迎える以外にないから、戦中派は戦いを途中でやめることにした。われわれは恥辱に耐え、おまえたちを平和と繁栄のなかで育てようとした。それなのに、なんということか・・・・・。 外来勢力への日本民衆の「総敗北」は1945年にも反復され、75年もの長きにわたってアメリカが、「グラフト」の存在を塗り隠した超越的支配者として日本列島に君臨し続けてきた。 たとえアメリカの属国であるとしても、若い高卒女子労働者が「アン・アン」を手本にファションを愉しめる豊かな日本であれば肯定できる、肯定しなければならないと吉本氏は、進歩派として発言する埴谷雄高に語った。それから40年が経過し、日本の若者は1960年代の学生が求めた本来性の感覚も、80年代の高卒女子労働者が享受した豊かさ生活も失い、しかも「疎外感」を街頭蜂起として流出させるためのノウハウさえも奪われている。21世紀の時代性はどうやら、吉本氏からの三つの引用を原点とした思考では及ばない地点まで達しているようだ。(笠井潔「吉本隆明と連合赤軍事件」) ちょっと注釈的に言いますが、論の中で使われている「否認」という用語は、フロイトが、たとえば幼児が叱られるのを怖がって、濡れたパンツのまま、「お漏らしをしていない」と主張し、そのことを信じ込むというような、心性をいいますが、吉本隆明の戦後社会論が、最初に遭遇した落とし穴として出会った事件という、笠井潔の判断が書かれていると思います。それは笠井自身が吉本隆明を揶揄しているというような話ではありません。彼自身とっても大事件であったことは「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)という評論に如実だと思いますが、ぼくの衝撃は、そこではありませんでした。 二つ目の注釈です。本文中の埴谷・吉本論争というのは、連合赤軍事件が露呈した「戦後」という社会の終焉から、ほぼ10年後、コム・デ・ギャルソンの川久保玲の服を着て写真に写って雑誌に登場した吉本隆明を「死霊」の作家、埴谷雄高が批判したことから始まった事件です。 三つ目、「グラフト」というのは「接ぎ木」のことですね。たとえば、日本の古代に「倭国」から「大和」と変化する呼び名、大和朝廷とそれ以前の群小国家群との関係で用いられる用語に「グラフト国家」という語があります。マア、そういう意味合いで使われていると思います。 引用文は、大雑把に言えば、吉本隆明の思想の射程が述べられているわけですが、で、笠井潔はこう結んでいます。 それから40年後の現在、吉本氏からの三つの引用を原点とした思考では及ばない地点まで達しているようだ。 20代に出会い、以来、一つの指標として「吉本隆明」を読み続けてきて、67歳の誕生日を迎えた日にウロウロ図書館にやってきた人間が、ここにいます。その男の「時間」と、偶然、手に取った本の「月報」で一人の作家が指摘する40年という「時間」は、ぴたりと重なります。ぼくが衝撃を受けたのはこのことでした。 年を取れば、やがて、わかるようになると思って本を読んできました。その思想家を知って半世紀、後生大事に読み続けてきました。で、その思想家の終焉が語られてる文章に、偶然とはいえ、誕生日に出会ったのです。語っている人が、どうでもいい人ならいいんです。でも、笠井潔でしょう。 こんなふうに、ある時代の終わりについて、のんびりと語っている笠井潔という人が、ぼくにとって、どういう書き手であるのかというのは、ぼく自身の思い込みかもしれません。 が、たとえば「哲学者の密室」の作家であり、「テロルの現象学」の評論家であるというだけでも、ぼくにとっては、まあ、大したことなのです。 よりによって、今日、こういう文章に出会うとはねえ。しかし、まあ、本を読むということは、そういうことなんでしょうね。
2021.06.06
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100days100bookcovers no46 (46日目) 田村隆一「田村隆一詩集」(現代詩文庫・思潮社) 帰途 田村隆一言葉なんかおぼえるんじゃなかった言葉のない世界意味が意味にならない世界に生きてたらどんなによかったかあなたが美しい言葉に復讐されてもそいつは ぼくとは無関係だきみが静かな意味に血を流したところでそいつも無関係だあなたのやさしい眼のなかにある涙きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦ぼくたちの世界にもし言葉がなかったらぼくはただそれを眺めて立ち去るだろうあなたの涙に 果実の核ほどの意味があるかきみの一滴の血に この世界の夕暮れのふるえるような夕焼けのひびきがあるか言葉なんかおぼえるんじゃなかった日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげでぼくはあなたの涙のなかに立ちどまるぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる DEGUTIさんが紹介していらっしゃる「ことばの危機」(集英社新書)という書名に、条件反射のように口をついて出てきたのがこの詩の冒頭の一行でした。だから、今回のバトン・パスは、実にスムーズに進みました。 このブックカバー・チャレンジでは、ここまで詩集なんて出ていないという意味でも、持ちだしやすいし、田村隆一のこの頃の詩は「ことば」をめぐる、ある種、研ぎ澄まされた作品が多く、この詩も所収されている「言葉のない世界」という詩集にはウィスキーを水でわるように言葉を意味でわるわけにはいかない という印象的な二行でしめくくられた「言葉のない世界」という、今となっては懐かしい詩も収められています。 ぼくの書棚に無事生息していた「現代詩文庫」のこの一冊は、およそ50年前に買った本ですが、ビニール・カヴァーがかかっているので、思ったほど汚れていませんでした。何度も読んだかというと、そういうわけでもありません。 田村隆一は、ある時期からただの飲んだくれの「女たらし」だったようですが、そのあたりのことはテレビドラマにもなったらしい、ねじめ正一の「荒地の恋」(文春文庫)や、翻訳家宮田昇の「戦後翻訳風雲録」(本の雑誌社)に詳しいので、そちらをお読みくださいね。 特に宮田昇の本は、あの頃、ハヤカワミステリーや「SFマガジン」に夢中だった方にはお薦めですよ。何といってもこの詩人はアガサ・クリスティやロアルド・ダールの翻訳で食べていた人ですから、そのあたりの裏話満載で、「あきれて言葉を失う」 ような「詩人」の実像に出会えると思いますよ。 まあ、それにしても、彼の詩は読みでがあると思います。今回、少し読み返しましたが谷川俊太郎ともども、プロの詩人 を実感させる作品群ですね。というわけで、YMAMOTOさん、次をよろしくね。(SIMAKUMA・2020・10・27) 追記2024・03・08 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.02.12
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吉本隆明「佃渡しで」(「吉本隆明代表詩選」(思潮社)」 「佃大橋から勝鬨橋を臨む」 「佃大橋」 東京の月島に住む友人が歩いて「佃大橋」を渡っています。ぼくには「佃大橋」とか「月島」とかの地理がよくわかっているわけではありません。フェイスブックに投稿された、晩春の隅田川の風景や、人も車もほとんどいない大橋の写真を見ていると東京で暮らす知人たちのことが思い浮かんできます。みんな、無事で元気にしているのでしょうか。 今日は2020年4月26日です。こんな感慨を持つ日がやってくることは、さすがに、予想できませんでした。 「佃大橋」という地名を見て、詩人の吉本隆明の死と彼が1960年代に書いた詩を思い出しました。 佃渡しで 吉本隆明佃渡しで娘がいつた〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉そんなことはない みてみな繋がれた河蒸気のとものところに芥がたまつて揺れてるのがみえるだろうずつと昔からそうだつた〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下でおおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだこの河の入りくんだ掘割のあいだにひとつの街がありそこで住んでいた蟹はまだ生きていてそれをとりに行つたそして沼泥に足をふみこんで泳いだ佃渡しで娘がいつた〈あの鳥はなに?〉〈かもめだよ〉〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉あれは鳶だろうむかしもそれはいた流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)をついばむためにかもめの仲間で舞つていた〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉水に囲まれた生活というのはいつでもちよつとした砦のような感じで夢のなかで掘割はいつもあらわれる橋という橋は何のためにあつたか?少年が欄干に手をかけ身をのりだして悲しみがあれば流すためにあつた〈あれが住吉神社だ佃祭りをやるところだあれが小学校 ちいさいだろう〉これからさきは娘に云えぬ昔の街はちいさくみえる掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつてしまうようにすべての距離がちいさくみえるすべての思想とおなじようにあの昔遠かつた距離がちぢまつてみえるわたしが生きてきた道を娘の手をとり いま氷雨にぬれながらいつさんに通りすぎる 友人が渡っている佃大橋が竣工したのが1964年8月だったそうです。「東京オリンピック」の年の夏ですね。 詩の題名になっている「佃の渡し」は佃大橋の竣工とともに廃止されたそうです。詩のなかに「河蒸気」の姿が描かれているところ見れば、渡し船がまだ運行していた世界が描写されているようですが、詩人の目の前には1961年に着工され、工事中の大きな橋が見えているようです。 一人の少年の思い出の世界は、今、大きく変貌しようとしているようです。この詩において、それは、「すべての距離がちいさく見え」始めた詩人自身の変貌であり、少年たちが「悲しみ」を流すためにあった「橋」の働きが失われていく社会の変化でもあったのではないでしょうか。 そこから60年の歳月がたち、詩人がなくなっ2012年からでも、10年近くの時が流れました。 身を乗り出して「永代橋」の写真を撮って送ってくれている友人は、橋のたもとに、今でも60年前の「佃の渡し」の痕跡 を見つけることができるのでしょうか。追記2020・04・27 早速、友人から「船着き場だった場所」にモニュメントとがあるという返事が来ました。山の中の田舎で育ったぼくには、吉本隆明のこの詩の「水辺」の光景は魅力に満ちていました。 彼には「佃んベえ」という、「ベーゴマ」についてのエッセイもありますが、「ベーゴマ」遊びを知らない田舎者には、異国の郷愁の味わいの文章でした。追記2024・05・30 お腹にアナを三つ空けて、何も判らないうちにはれ上がった虫垂を、おへそのアナから取り出すという手術が終わった夜、そうはいってもこわばったお腹を抱えて、眠れるわけでもないし、手近にあったスマホをいじりながら昔の投稿記事を読んでいて、偶然見つけた吉本隆明の詩に思いがけなく夢中になるという、ここの所忘れていた体験をしました。 十代の終わりから繰り返し繰り返し読んだ詩人ですか、どうも、もう一度読み直す時期がやって来たようです。 読み直した詩を、少しづつ「読書案内」していこうかなと思いました。お楽しみに(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.04.27
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「荒地詩集1951」(国文社) 鮎川信夫「橋上の人」 鮎川信夫なんて詩人の名を今では高校生も大学生も知りません。そうなんですよね、教科書にも、もう出てきません。半世紀以上前、戦争が終わったばっかりの廃墟のような大都会の片隅で、集まって詩集を作って、詩人になった人がいたのです。田村隆一、黒田三郎、鮎川信夫もそんな人たちでした。彼らが書いた詩を載せた同人雑誌が「荒地」で、その雑誌を本にしたのが「荒地詩集」です。その詩集が1970年ころに復刊されて、その頃予備校に通っていた浪人生が、その本のなかから気に入った何行か、白い紙に書きだして四畳半の天井に貼っていました。寝転んで、上を見ると。そこに詩のことばがありました。 浪人生だった19歳の少年は、今、60を超えたのですが、ふと口をついて出ることばがあります。「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」いったい、少年は、何に別れを告げたくてこんな言葉を天井に貼ったのでしょうね。あれから45年たったのですが、よく分からないのです。 「死んだ男」 鮎川信夫たとえば霧やあらゆる階段の跫音のなかから、遺言執行人がぼんやりと姿を現す。──これがすべての始まりである遠い昨日・・・・Mよ、君は暗い酒場の椅子の上で、歪んだ顔をもてあましたり、手紙の封筒を裏返すようなことがあった。「実際は、影も、形もない?」──たしかに死にそこなってみれば、そのとおりであった昨日のひややかな青空が剃刀の刃にいつまでも残っている、だが私は、時の流れのどの邊で君を見失ったのか忘れてしまった。黄金時代──活字の置き換えや神様ごっこ──「それが私たちの古い処方箋だった」と呟いて・・・・いつも季節は秋だった、昨日も今日も、「淋しさの中に落葉がふる」その声は人影へ、そして街へ黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。埋葬の日は、言葉もなく立ち会うものもなかった、憤激も悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった、君はただ重たい靴の中に足をつつ込んで静かに横たわつたのだ。「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」Mよ、地下に眠るMよ!君の胸の傷口は今でもまだ痛むか。 文学研究者の証言によれば、詩の中で「Mよ」と呼びかけられている「死んだ男」とは作者鮎川信夫の親友森川義信。森川は昭和17年ビルマの戦線で戦病死した「荒地」の詩人です。この詩はいったい何時頃書かれたのか、おそらく戦後すぐのことであったろうと思います。「荒地詩集1951」(国文社)に載せられています。 同じ詩集の中に書かれている鮎川自身の試論の一説で、「僕たちが書いてきた詩の暗さについては、十年も前からいろんな人に指摘されつづけてきた。」と「荒地」派の人々の詩風がどんな風に受け取られてきたか説明しています。 確かに暗い。でも、この国の現代詩、特に戦後のそれは、おおむね暗くて、難解だから気にしてもしょうがないですね。 フレーズが一つ気に入ったら、何度も繰り返して口ずさむ。詩や歌を理解する鉄則は、それしかない。そう、思い込んできました。一発でいいなと思う詩より、ある時、気になり始めた詩のほうが長持ちすると、そんなふうに詩を読んできました。 この詩集には「石の中に眼がある 憂愁と倦怠に閉ざされた眼がある」 で始まる田村隆一の詩「皇帝」もあります。いづれまた案内しようと思っているのですが、いつになることやらです。(S)初稿2005・1・13改稿2019・10・30追記2019・10・30「荒地」派というふうに、何だか政治党派の分派のように呼ばれていたらしいのですが、僕が学生だった頃には、すでに個人詩集や、全集のようなものまであるメジャーな詩人たちでした。その頃、お世話になった思潮社の「現代詩人文庫」というシリーズの一桁のラインナップに名を連ねている詩人たちでした。 不思議なもので、ひとりで徘徊していると、ふと「石の中に眼がある、か?」と口をついて出るのですが、それが誰のことばだったかわかりません。帰宅して、ネットで調べると、すぐヒットします。便利な時代になったとつくづく思いますが、繰り返し口ずさむ人は減ったかもしれませんね。追記2022・06・16 どなたかわかりませんが、古い投稿記事を読んでくださった方がいらっしゃることに気づいて、記事を見直すと、意味不明の文章で焦りました。 とりあえず、修繕しましたが、荒地の詩人の詩とか、どこかで案内しようと思っていたことにも気づいて、夏までに好きな詩を投稿しようかなと思いました。その時はよろしく。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.03
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吉本隆明 「17歳」 「吉本隆明 代表詩選」(思潮社) 十七歳 吉本隆明 きょう 言葉がとめどなく溢れた そんなはずはない この生涯にわが歩行は吃りつづけ 思いはとどこおって溜まりはじめ とうとう胸のあたりまで水位があがってしまった きょう 言葉がとめどなく溢れた 十七歳のぼくが ぼくに会いにやってきて 矢のように胸の堰を壊しはじめた 六十歳を越えた一人の男のもとに、十七歳だった時のその男が会いにやってくる。夢の中のことか、現実か。少年の姿を前にして、溢れてくる言葉。六十数年の生涯、上手に言葉にすることは出来なかった、しかし、ずっと言いたい本当のことがあったのだ。男の口を閉ざさせていたものは、仕事か、生活か、常識か。ともあれ、大人になるということが口を閉ざすことであるような、自らの中の少年を押し殺すことであるような倫理観は誰にも共通することだろう。 「堰を切る」という言葉がある。十七歳の少年だった自分が六十数歳の男の、溜まりに溜まった思いの堰を切ったのだ。よみがえった少年の日のまっすぐなまなざしに揺さぶられる、黙り続けてきた人生の意味。 およそ五十年にわたる社会生活から引退を余儀なくされ、老人と呼ばれるようになる。いつの時代であれ、誰もが通りかかるに違いない人の一生の曲がり角で、ふと、どこかへ帰っていこうとする「こころ」の行方を見据えた作品。まず、そんなふうにこの詩を読むことは可能だろう。 ここで、作者吉本隆明をめぐる年表に目を通してみよう。 詩人は1924年生まれ。十七歳は1941年。昭和十六年、12月に「この国」がアメリカに対する帝国海軍の奇襲(?)で始めた太平洋戦争勃発の年。彼は東京府立化学工業学校応用化学科五年生。現在でいえば工業高校の三年生だった。 この詩が書かれたのは1990年。平成二年。詩人は六十六歳。前年の1989年、太平洋戦争を統帥した天皇ヒロヒトが寿命を終え、昭和天皇と諡号で呼ばれるようになり、翌年の1991年、自衛隊というこの国の軍隊が、1941年の、あの日から五十年の歳月を経て、アメリカが始めた戦争に参戦するために海外派兵を始めることになる。 こう見てみると、「十七歳のぼく」が「ぼくに会いにやってきた」のにはそれなりの理由があったのではないかと感じないだろうか。そこから、もっと積極的なこの詩の読み方ができないか。 作家の高橋源一郎は「吉本隆明代表詩選」(思潮社)の編者あとがきにこう書いている。 ずっと以前からそう思っていたが、いまもそう思う。きっと、これからもずっとそう思うことになるだろう。つまり、吉本隆明の詩を読まなければ、ぼくは小説家にはならなかっただろう、ということだ。 吉本隆明の詩を読まなくても、詩や小説や批評に興味を持ったかもしれない。それから、書いてみようとさえ思い、書きはじめたかもしれない。だが、仮に、書きはじめたにせよ、ぼくはもうそれをやめているか、暇な時の楽しみにしているか、そのいずれかだったに違いない。つまり、詩や小説や批評は、たいへん好ましく、面白く、刺激的ではあっても、さらに、自分が書いていたとしても、それにもかかわらず「他人事」にすぎなかったにちがいない。しかし、ぼくは、結局、吉本隆明の詩を読んでしまったのだ。 吉本隆明の詩をひとことでいうなら「倫理的」であるということだ。しかし、それは、誰の(あるいは何の)、何に(あるいは誰に)たいする倫理なのか。 その詩は、言葉に関して「倫理的」であるようにも、言葉以外の一切に関して「倫理的」であるようにも、また、詩的表現に関して「倫理的」であるようにも、詩的表現が成立する根拠に対して「倫理的」であるようにも見える。つまり、全世界に対して「倫理的」であるように見える。だが、不思議なのは、その詩が「倫理的」であるが故に「美的」であることだ。古来、「倫理的」であることと「美的」であることは深く対立するものではなかったか。その謎を解くことは、いまもぼくにはできないのである。 この詩を支えている「倫理」にたどり着ければ、詩が直接的に表している「老い」の叙情に、もっと深く広がりのある風貌を与えることができるのではないだろうか。 戦後最大の思想家と呼ばれながら、どこかに切ない「倫理」を感じさせる「抒情」を詩として書き残した詩人であった吉本隆明も、2012年に去った。 ちなみに「共同幻想論」とか「言語にとって美とは何か」(角川文庫)とか、1970年代の大学生には、読み超えるべき壁のような書物であったが、今の学生さんたちには見向きもされないだろうし、たとえ手にとっても歯が立つまい。ははは。 しかし、「詩」から読み始めることは可能かもしれない。そう思う。(S)初出2006・09・27 改稿2019・06・30にほんブログ村にほんブログ村【中古】 共同幻想論 角川ソフィア文庫/吉本隆明(著者) 【中古】afbこれですね。悪人正機 (新潮文庫) [ 吉本隆明 ]読みやすい。
2019.06.30
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吉本隆明 「夏目漱石を読む」 (ちくま学芸文庫) 夏目漱石の「三四郎」(新潮文庫)の案内とかを読んでくれた美少女マコちゃんから「夢十夜と三四郎って、どこかでつながるんですか?」 というヘビーな質問をされて、「うーん」と一晩うなって思いだしました。(思い出すのに時間がかかるのは、なんとかならないんだろうか。)「そうだ、吉本隆明「夏目漱石を読む」(ちくま学芸文庫)があるぞ。」 漱石を相手に、作家論を書いて世に出た人は大勢いるに違いないのですが、ぼくが初めて漱石を読むべき作家として意識したのは、実は漱石の作品を読んでではありませんでした。いや、「坊ちゃん」とか、子供用の「吾輩は猫である」とかは読んでいたかもしれませんが、文学として出会ったのはというと、江藤淳の「夏目漱石」(講談社文庫)という評論でした。 今では「決定版夏目漱石」(新潮文庫)で読むことが出来ますが、23歳の江藤淳が病気療養中に書いたデビュー作であるこの作品が、17歳の高校生の、その後の50年の好み一つを決定づけたのです。 20代の大学生が書いたということに「感激」しただけのことだったとは思うのですが、それからの2年間、高校の恩師の書棚から、次々と借り出した『江藤淳著作集』全6巻(講談社)と、確か、浪人をしていた年に出た『江藤淳著作集 続』全5巻(講談社)を新刊、次々に買い込んで読んだ記憶があります。当然のことながら(?)、そこに出てくる作家群の作品も片端から読む必要に、勝手に、迫られることになってしまったわけですから、それは、忙しい一年でした。初めての下宿暮らしの充実していた思い出というわけですが、受験勉強はどうなっていたのでしょうね? この先生には、江藤淳の著作集をはじめ、アイザック・ドイッチャーの幻の名著、「予言者トロツキー 三部作」(新潮社)、エッカーマンの「ゲーテとの対話(上・中・下)」(岩波文庫)とか、いろいろお世話になりました。これまた、懐かしい思い出ですが、今なら、高校生に貸し与える本とは思えないところも、なんだかすごいっですね(笑)。 江藤淳は、後に保守派の論客として名を上げた(?)人ですが、結局、生涯、漱石をテーマにして生きた人だと、ぼくは思っています。江藤淳については、ここではこれ以上話題にしません。で、話題は、江藤淳の著作集の対談の相手として登場した吉本隆明に移ります。対談をしている二人の慣れ合いではない向き合い方が印象に残り、関心は吉本隆明に広がっていったというわけです。 吉本隆明は「昭和最大の思想家」などいうニックネームで、まあ、大変なんだけれど、ぼくは、詩人であり、文芸批評家だったと考えてきました。「共同幻想論」(角川文庫)も「言語にとって美とは何か」(角川文庫)もぼくにとっては文学論だったわけで、江藤とともに、「漱石」と「小林秀雄」をぼくにすすめた批評家でした。 その吉本隆明が、晩年、漱石の小説について、「猫」から「明暗」まで、すべての作品を俎上にあげて語った講演を本にしたのが、本書「夏目漱石を読む」です。 「渦巻ける漱石」、「青春物語の漱石」、「不安な漱石」、「資質をめぐる漱石」と題した四回の講演を一冊にまとめた本だが、それぞれの題目に「吾輩は猫である」「夢十夜」「それから」、「坊ちゃん」「虞美人草」「三四郎」、「門」「彼岸過迄」「行人」、「こころ」「道草」「明暗」が振り分けられていて、漱石の一つ一つの作品について、当時、80歳にならんとする吉本隆明が、それぞれの作品の眼目と考えるところを、「一流の文学とは何か」という問いに答えるかたちで、訥々と語っています。 その説得力には「一人の批評家が一生かけてたどり着いたものだ」 という実感というか、迫力を自然に感じさせるところがあるとボクは思います。 たとえば、「三四郎」と「夢十夜」の関係について、漱石が文学的に対峙した「宿命」に対して直接その中に入って物語った「夢十夜」に対して、何とか抵抗し、乗り越えようとした青春物語であるところが「三四郎」だという考えを述べているが、とても魅力的な読みの対比だとぼくは思います。 余計な感想かもしれないが、この対比は「三四郎」の主人公の小説世界における立ち位置ということを思い出させてくれますね。「夢十夜」において、語り手は夢を見る当人として小説の中にいるように感じられるのですが、小川三四郎は小説中で起こるあらゆる事件に対して傍観者として存在しているようにぼくには見えるのです。それは青年一般のあり方としてリアルな描き方だとも考えられるのですが、吉本隆明が言う「漱石の宿命」を考える契機が、そこにあるのでしょうね。 今回読み直してみて、「漱石の宿命」と吉本隆明が語る、彼が最終的にたどり着いた漱石に対する持論、作家自身の資質としてのパラノイアとそれを引き起こした乳児期体験に引き付けた考えが評価の前提になっており、例えば、現場の国語の先生方が、一般的な評価として、直接、引用するというわけにはいかないかもしれません。しかし、ぼくに限って言えば、初読以来、ここで語られている吉本の漱石評価の口真似で教員生の顔をしてきたことを思い知らされるわけで、人によるともいえるかもしれません。 開き直るわけではありませんが、ぼく程度の教員が、独創的な読解や解釈を手に入れることなど、ほぼ、あり得ないと思ってきました。ただ、誰かが言っていたことを、いかに上手に伝えられるかというのが、例えば教室で配布する「読書案内」の意図だったりしたのですが、さほど上手にやれたわけではありません。今回も「三四郎と夢十夜」への答えになっているかどうか、心もとないかぎりですが、まあ、こんな答えはどうでしょうかという案内です。 案内の上手、下手はともかく、一度読んでみてください。あなたを「漱石の方」へ連れていってくれるかもしれません。(S)追記2020・01・31「三四郎」と「門」についての感想は、このタイトルをクリックしてみてください。それから「夢十夜」について授業をしている、高山宏さんの「夢十夜を十夜で」とか「案内」しています。 最近「それから」の代助について考え始めています。いずれ「案内」したいと思っています。 ランキングボタン押してね!にほんブログ村にほんブログ村
2019.05.09
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