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姥子温泉からいろいろな乗り物を継いで箱根湯本駅まで下りてきた。ここはもう小田原とは近く早川の流れに沿って小田原とは標高100メートル位しか差がないところだがご覧の雪景色。 湯本駅から温泉街に通じる赤い橋、温泉街の赤い橋はよく見られるパターンである。橋の上流は温泉からの放流温水でけぶっている、モノクロにしてみると水蒸気の湯煙がよくわかる。そして橋の正面にそびえたつ巨大な城のような建物は湯本富士屋ホテル、それにしてもあの有名な宮ノ下富士屋ホテルとはなんと異なる威容である。小田原に下ろうと電車のホームに立つと、あと1ヶ月もすると新年の箱根道で関東大学駅伝の選手が最後の区間の山登りを始める国道、バス停、早川に架かる赤い橋、木立の雪景色、そして富士屋ホテルが雪景色を作り上げている。驚いたことに湯本からは数キロしか離れておらず、高低差も百メートり前後と思われるのに小田原には白いものは見当たらず小雨が降っているだけである。雨と雪の境目は土地の高低よりも海か山かといった地形の影響が大きいことを示している。前ブログで強羅公園の上と下で天候が違うことがあると記したが一寸とした地形の差で気流の通り道が違うのだろう。小田原ではそばを食べ、北条氏4代当主・氏政とその実弟・氏照の墓所に参った。5代当主の氏直は和睦派だったことから延命、高野山に流されたが氏政・氏照兄弟は助命の条件で開城に応じたにもかかわらず秀吉は約定に反し兄弟に切腹を命じ、氏直もほどなくして病死している。氏政・氏照ノ墓所は小田原駅から徒歩2,3分の駅前歓楽街の小道にあり、歴史に名を遺す大大名の墓所としてはあまりに寂しい気がしてならない。一時時は天下も狙い、関東の広大な領地を有した大大名もちょっとした判断の誤りで断絶の憂き目にあってしまった。どこか他所にも墓所はあると聞くが、あくまでもここが本来の菩提寺の場所でありここに葬られたのである。一時荒れ果てていたのを再建したものらしいが、正面に並ぶ3つの五輪塔は右の大きいのが氏政夫人、中央が氏政、左が氏照の墓と言われている。夫人の墓石が殿様のそれより大きいのは何か意味があるのだろうか。後ろの壁についたシミがいかにも後方に無数の仏塔の存在を想像させる、またその中央には北条市の菱形紋が見える。奉られた生花が鮮やかで塔婆もまだ新しいと言うことは弔う人がいるということで安心した。五輪塔の前に敷かれた大きな石は「生害石」と呼ばれ、この石の上で兄弟は自刃したと伝えられている。夕方帰りついた東京では雪が上がって小雨模様の天気であったが、翌朝起きて外を見ると練馬の家々は全体に白いものを被っている。公式発表は都心で積雪あり(積雪量0センチ、つまり1cm 未満)とのこと、いずれにしても50数年ぶりに11月の降雪で積雪は初観測だったらしい。練馬は東京湾から20キロ近く離れていて気温も普通1度くらい都心より低いのが常である。練馬の地では確実に積雪は1センチ以上あったはずである。
2016.11.29
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姥子温泉ではホテルグリーンプラザに泊り、翌日起きてみると予報通り雪がちらついていた。部屋からはロープウエイの姥子駅が目前に見える。やがて雪はかなり大降りになり、ホテルの別棟も寒々しく映るようになった。フロントで聞くとやはり今日はロープウエイもバスもすべて運休とのこと、最悪この日はホテルに籠城を覚悟した。ただ大涌谷の向こう側の早雲山まで行けば登山電車は動いているのでそこまでホテルのバスを出せるかどうか道路情報を収集中とのこと。しばらくして再度問い合わせるとどうやらバスを出せそうなのでロビーに来てくれとのこと急いで荷物をまとめてロビーに出るとすぐバスが準備されて満員で発車した。後部座席から フロントガラスの向こうの前面景色をズームすると次のような景色、「この先急カーブスピード落とせ」の標識が目に入る。 席の横の窓越しの景色も暗く、客席にいてもついつい緊張する。 15分くらいで無事ケーブルの頂上駅「早雲山駅」につくと待っていたケーブルカーがすぐ発車した。ケーブルの窓景色は 次のようで今年の初雪とて、ある意味素晴らしい雪景色であった。この日は東京都内でも五十数年ぶりに11月の降雪とか、さらに観測史上初めての積雪というニュースが流れた。 いずれにしても貴重な初雪体験であった。 雪景色は中途半端な色よりもモノクロ写真が美しいことが分かる。 だいぶ下がってこの辺り標高は700メートル台だ、それでもやはり平地とは違う雪量だろう。 どうということもないがモノクロ化した写真を何枚か記録しておく。何しろ今年初めて見る雪景色である。 ケーブルカーのガラス窓も雨滴と湿気でくもりいずれもはっきりしない画面である。 無事強羅に下ることができた、次は登山鉄道で湯本まで下ることになる。
2016.11.28
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強羅公園は数百メートルの長さで上と下では約40メートルの標高差がある。公式ページでは公園の上下で温度差があり、上半分が雪で下半分が雨ということもあるらしい。 今は皆ロープウエイになってしまったが1960年代まではほとんどがケーブルカーであった。強羅と早雲山を結ぶケーブルカーは普通のケーブルカーと違って間にいくつもの駅がある、古くから別荘地であり民家もあるので生活路線としても使われている。中間駅のおかげでその後中間にいろいろ観光施設もでき、まさしく市街電車の役目も務めている。運転手と車掌が乗って運行しているがそのアナウンスが面白い。「線路を横切る通路はございません、ドアは両側が開きますのでご利用の施設がどちら側に あるかを確認の上、左右のドアを選んでください。間違えて反対側のホームに降りた場合、次の便を待って車内を通て反対側に出てください。ご利用の施設がどちら側かわからない場合乗務員に尋ねてください、一緒に探すことにいたします」。なんとほほえましくも実用的なアナウンスである。早雲山でケーブルカーから乗り換えて今度はロープウエイで大涌谷に向かった。昨年の噴火騒ぎで一年以上運休されていたロープウエイが再開されたのは今年7月、夏休みにかけて強引に再開した気配があったが今も風向きによってはすぐ運休する。この日も12時までは運休であったが私達が乗った時は平常運転であった。出発口にはガス検知器が置かれ運行の判断にされている、幸いこの時の値は0.0を示していた。それでも係り員は乗客に濡れナプキンと日本語・英語・簡体漢字・煩体漢字・ハングルで記された使用説明書を配布していた。今にも降ってきそうな空模様で窓越しの強羅の街の風景も霞んできた。ややあって谷にかかるとモクモクと噴気が見えてきた、イオウの臭いもただ寄ってきた、外国人観光客はほとんどの人が先ほど配布されたナプキンを鼻に充てている。近づくに連れて激しい噴気とイオウで黄色くなった地面が見えるようになった。 噴気孔のそばまで多くのパイプラインや作業道路が通じている。危険な場所でもあるが貴重な温泉熱水の源でもあることがよくわかる。 噴気は客の来訪を阻止もするがその客を呼ぶ資源でもある訳だ。以前テレビで伝えていたがこの泉源のパイプにはイオウが詰まるので今でも係の人は定期的にそれを落としに行くのだそうだ。ガスマスクを付けるのだろうが決死の作業である。もう何度も訪れているところだが昨年の噴火騒ぎ以来初めてである。ほとんど噴気が確認できない ような時期もあったし、このような大規模な噴気を見たのは初めてである。事実Google Earthで見ると2,3か所小さな噴気があるだけの写真がである。 主噴気地帯の向こう側の谷にも大きな噴煙が立ち込めている、これほどまで音を立てての大きな活動を見たのは初めてである。昨年の活発化以前に設置した崩落防止壁が目につく、確かにこれがなければとっくに崩落していたことであろう。 フィリピンやインドネシアからの客は別として多くのアジアや欧米からの火山を持たない国 からの客は大興奮している。これはこれで素晴らしい観光資源である。
2016.11.27
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練馬区から一人6千円の宿泊割引券を貰ったので箱根に紅葉見物旅行を計画した。週間天気予報を見て23,24日に姥子温泉にあるホテルを予約した。ところが2,3日前になって予報が変わりこれらの日には寒気襲来で雪が降るかもしれないとの予報、しかしもたもたしていると紅葉時期が終わるので決行することにした。小田急・箱根登山鉄道・早雲山ケーブルカーを乗り継いで 強羅公園上にたどり着いた。もう数えきれないくらい箱根には来ているがいつも強羅公園は通過していた。今回は特に訪れなければならない所もないのでこの公園を探訪することにした。この公園は広いうえに急勾配地にあるのでケーブルカーで「公園上(かみ)」まで行く。道路の反対側には箱根美術館がある。石垣の上に見える美術館の紅葉も有名だが今回はパスすることにした。強羅公園は1914年に開園したわが国初のフランス式庭園である。上の入り口から入ってすぐこの公園のシンボルツリーとも言うべきヒマラヤ杉の木がある。なんでも開園に先立ってイギリスから横浜経由で輸入したものらしい。今ではヒマラヤ杉はどこにでもあるが、このの美しい樹海の巨木はわが国最初の一本かも知れない。 その下にはこれも公園のシンボリックな噴水がある、フランス庭園には必須のこの噴水の脇でランチボックスでも広げればいいのだろうが何しろこの日は真冬並みの寒気でそれどころではない。噴水の横にしゃれた造りの」茶廊があるので上品なサンドイッチとお茶をいただくことにした。席からの窓景色がモミジと室内装飾を中心にしていいコントラストである。茶廊を出ると噴水の対面にしゃれたレストランもあるがここは満員であきらめた。さらに噴水を回り込むと 紅葉の上に早雲山が見え、その谷間に何やら動くものがある。 ズームしてみると明らかに水蒸気の火山噴気である。 大涌谷はこの山の向こう側なのだが山の手前にもこんな噴気孔があるとは知らなかった。地理院の地図を見てみると確かに噴気マークがあり、「早雲地獄」の表記がある。強羅公園内の紅葉は最盛期を過ぎていたが真冬を思わせる天候の中にも秋景色はまだ濃厚であった。公園の下の部分にはいかにも歴史がありそうな熱帯植物園がある。多分温泉の余熱を利用して古くからあるものなのだろう。これも今となってはどこにでもある温室であるが出来た当時は珍しかったのであろう。 観光施設というよりも学術的要素が強い熱帯植物園だそうだ。初めてみる植物なので写真に収めたがWikipedia では全く別の植物がビワモドキとなっているので不可解である。「ビワ」も果物なのは楽器なのかわからない、学術面は別に観光施設では漢字も併記してほしいものである。極楽鳥花は熱帯植物園の 必須アイテム。オオバノボタン(大葉野ボタン)、確かに葉っぱは我が家の下にあるる野ボタンや以前我が家にあった「姫ノボタン」にそっくりであるがここのは熱帯植物らしく葉が巨大である。。これも温室でよく見かける「旅人の木」、葉が 南北を指して平面的に育つので旅人の磁石代わりになるとからの命名。外は真冬並みの寒さでも 鬱そうと茂った熱帯植物は寒さ知らずである。これも温泉の恵みなのだろう。
2016.11.26
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昨日六本木のサントリー美術館に「小田野直武展」を見に行った。幕末≪秋田蘭画≫という洋画の技術を取り入れた日本画である≪蘭画≫を描いた画家である。鉱山開発に訪れた平賀源内の影響を受け、当時の秋田藩主・佐竹曙山とともに秋田蘭画という新鮮な一派を陸奥の地に起こした画家である。もっとも私がこの画家の名を知ったのは杉田玄白他訳の『解体新書』の解剖図を描いた画家としてであった。爾来縁あって角館の寺にある直武の墓参りをしたこともある。話は変わるが今年の正月孫たちと六本木ヒルズに登った時、展望台からの景色の中に40階建てビルの横壁に三角ピラミッドのようなものが張り付いているビル建設が進行していることを発見しブログに記した。今回六本木に来たついでにその後竣工したビルがどうなっているのか探ってみることにした。高架の首都高速道の下から見るとトリックアートではなく確かにこの三角ピラミッドは壁面から盛り上がっている様子が分かる。横にそれて狭い道路の隙間から全体が見える場所に出ると40階建ての40-30階にかけて三角錐が張り出している。それだけでなく壁面の上部両側も切れ込んでいて、いかにも厚紙細工のように見える。建築家の遊び心は十分に理解できるが内部は使いにくく無駄の多い空間であろう。この種の設計はその話題性から商業ビルに適しているがオフィスビルにはどうしたものであろうか。このでっぱり部にデスクを置く人たちは下っ端なのか窓際族なのかそれともエリート管理職か?さらに路地を回って角度を変えると光の反射面が変わりより立体感が出る。地上の外側は3.4階部分の高さまで丸柱で囲まれておりギリシャ神殿を思わせる。反対側の壁面にも突起が見える。地上部には巨大な車寄せやベルガールのいるタクシー乗り場がある。中にホテルでもあるのかと思い1階ホールに進み案内板を見ると29階にスカイラウンジの記がある。レセプションに聞くとIDを持っている人だけが出入りできる空間だという。そういえばエレベータホールへの出入りにもID カード用ゲートがあるようだ。我々庶民には関係のないビルのようである。第4の壁面には巨大な外廊下のようなものがある、多分エレベータ室だろう。途中までしかないのが気になるが、その上は別世界なのかもしれない。すごすごと退散して外に出ると地下に向かって巨大な穴があり骨組みだけのエレベータのようなものがある。看板には「自転車専用」と記されている。この超モダンなビルに自転車で通う人がいるのか疑問だが、このビルの左右は急な坂道で囲まれている。ひょっとしたらこの自転車エレベータは坂の下に通じているのかもしれない。かってこの辺りは大名の下屋敷などもあったのだろう、坂の名前も興味深い。江戸時代の地図を見ても常陸藩の小さな大名や与力同心たちの住まいが在った位しかわからない。いずれにしても今年の正月以来気になっていたビルの形状をはっきりさせることができて満足した六本木散歩である。それにしても六本木界隈の商業施設は我々の生活レベルとはおおよそかけ離れているのには驚いた。
2016.11.19
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偉大な植物生態写真家・埴沙萠(ハニ・シャボウ)さんが亡くなったのは今年2月23日である。85歳の最期まで書き続けたブログと写真が見られなくなったのは残念である。しかし多くの写真は出版された写真集やWeb上で見られるのは幸運である。そんな埴さんの写真特別展が牧野富太郎記念庭園記念館で開かれている。我々の前で見ていた3人の若者が盛んに写真を撮っていた、撮禁止欣治ではないのかとカメラを出すと係りの人が飛んできて「あの達は特別な人ですので」と付言した。すべて版権がある既発表の作品だし当然と思ったが、若者が去ったのち「実はあの人達は埴沙萠さんのお孫さんたちです」ということであった。埴さんと牧野富太郎は旧知の中で今回のこの特別展は埴さんの生前からの予定であったとのこと。牧野の偉業に触発され植物観察を重ねていた埴さんが子供の頃富太郎に手紙を書いたところ、訪ねてきなさいと返事があり、牧野が長い晩年を過ごしたこの小泉学園の家を訪ねた。90歳を過ぎた牧野はまだ活発な活動をしており、出版社の編集者たちが先客として待っていた。ほどなく牧野の世話役をしているお嬢さんが来て埴少年を招き入れ牧野に引き会わせた。この時、牧野は「出版社の人たちは仕事で来ているのだよ、急ぐこともない、君はこれから植物のことを勉強したいのだから君が一番の客だ」と言ってお嬢さんの入れてくれたココアを二人で飲みながら植物の分類について二人でいろいろと話してくれたそうだ。埴さんとしては少年時代訪ねたこの場所で生きて今日の日を迎え、写真展を開きたかったことだろう。そんなわけでA5判の小さなパンフレットに掲載されている幾葉かの写真をお借りして記憶にとどめておきたい。 パンフレット埴さんは≪植物生態写真家≫で草やキノコ類の成長の一瞬を切り取った写真が見ごとである。≪クロマツの芽ばえ≫ 松かさから飛び出して新しい命を始めたクロマツ、草の双葉に相当する芽生えである。露飾りの種の色といい、朝露の色といい完璧である。パンフレットの表紙にしたということは埴さんの好きな作品なのだろう。オオイヌノフグリの名は花の後の実の形が動物の睾丸に似ているところからくるが、この写真はあの可憐な花の咲き始め。中央の細い雌蕊の向こうに花粉袋を付けた2本の雄蕊がある。ツクシの芽生え。 春の土手を飾るツクシもその赤ちゃんを見たことはない。多くの日常的野菜の花も詳細に撮り続けている。上はゴボウの花、花のさらに細部はこのように美しい。ゴボウの花を見たことのある人はどのくらいいるだろうか。ワレモコウの葉の水玉。 夜になるとワレモコウの葉先に露が出来るそうで、この水玉は一晩のうちに何度もできては落ち、また再生を繰り返しているそうだ。一晩中ビデオを回して発見したそうだ。余った水分を汗として出しているのだろう。ススキの旅立ち。 朝露でうなだれていたススキの穂が乾くころ風に吹かれて薄の実が羽毛を羽織って飛び立つのだそうだ。タンポポの旅立ち。 子どもがよく吹いて遊ぶ。羽毛の飛ぶさまは素人写真家のターゲット。キノコ類はその時季になると胞子を飛ばし続けるのだそうである。埴さんは多くのキノコの胞子放出を静止画や動画に収めている。この展覧会では動画も公開されており、ゆらゆらと踊りつづける胞子の舞は言葉で表せぬ感動である。スーパーで買ってきたシイタケから胞子が出続けるさまは驚きである。子どものころ田舎の古い家で朝目が覚めると雨戸の隙間から入った一条の光の中で踊る埃を見てその動き二見入りい感動したものであるが、埴さんはそういう状況を作り出してキノコの胞子放出を撮影している。木の枝から雨水の水滴が落ちてツチグリの胞子の袋に命中すると一気に胞子が噴出する。これをとらえた動画が実に面白い。他にもツリフネソウが弾けて種を散らす様子を撮影するため、ゴムひもを使って自作の≪杉の実鉄砲≫を作り弾丸を命中させて種を飛ばして撮影している。ある時蜂が止まっていてこのツリフネソウの種の散弾銃にあたり脳震盪を起こして落ちたそうだ、その後気が付いた蜂はと去ったという逸話も紹介されている。。埴さんは≪植物生態写真家≫として珍しい植物やきれいな花を撮ることよりも「一本の草が生きることの中にどんなに素晴らしい生命の愛と英知が注がれていることか、そういったことを写真で表したいと思っている」と述べている。おかげで素晴らしいひと時を過ごすことが出た。
2016.11.18
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激しく寒暖を繰り返していた後の日曜日、暖かい日差しに誘われて何十年ぶりかで大泉学園にある牧野富太郎記念庭園を訪ねた。ちょうど今年二月に亡くなった植物写真家・埴沙萌さんの写真展が開かれている。30年くらい以前にここを訪ねたときは牧野さんの住宅がそのまま記念館となっており、廊下の窓には自然樹の枝が垂れかかって、室内も資料棚にほこりを被った収集品が山積みにされていた。今は膨大な資料もほとんど首都大学に寄付され、書斎が新しい記念館の中に保存され、資料の何点かがきれいに整理されて展示されている。富太郎は高知の酒造家に生まれたが幼くして家族を失い、幼少期から祖母に育てられている。小学校も中退したが植物学に目覚め上京、東大の研究室に出入りして研究の没頭した。そこで輝かしい業績を残し、晩年に至り博士号を取得するが長い東大での研究生活も小学校中退の富太郎にとって講師の職が最終である。最も研究に没頭したい富太郎にとってその方が都合好かったのかも知れない。上京前牧野は高知で植物観察を続けていた、その時の植物観察記である。若き牧野の夢はまだ存在しなかった日本の植物総覧図集の発行で、彼が自費出版した「日本植物誌図絵」の表紙が下のもの。その後も牧野は植物図鑑の作成に一生を捧げている。驚くべきは牧野が著した図鑑は没後60年を経た現在でも出版され続け、彼の誕生日(5月22日)は「植物の日」に制定されているという(現在は国際植物の日として5月18日らしいが国内では22日にもいろんな活動がなされているみたいである)。冨太郎の作った標本と観察眼鏡やナイフ類が展示されている。私も持っていたスイスのアーミーナイフのようだ。竹もいろいろ種類がありそうだ。資料棚も今はきれいに整理されているが私が昔見たときはほこりを被って山積みされていた。書斎の表には富太郎の書いた看板「学問は底の知れない技芸也」の文字が。裏出口には曲がりくねった太い幹が見え、「えぞのうわずみざくら」の表記があった。どんな花が咲くのだろう。北国原産の桜らしい。広くない庭園には多くの木々が植栽されており、さすがすべての木に名札がかけられている。夫人の名を付けた≪すえこざさ≫に囲まれて胸像が建っている入り口近くに「だいおうまつ」と書かれた松の大木がある。高い梢を見ると大きな松葉である。枯葉を束ねたものを置いてあったがこんな大きな松葉は見たことがない。最後に牧野の歌碑を示す。青い三波石の前に「花在ればこそ 吾も在り」、牧野の人生そのものであろう。
2016.11.17
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上吉田で富士山駅の周りを散策中、≪ふじさんミュージアム≫ の付属施設として重要文化財である 旧外川家の住宅が公開されているので見学した。 前ブログに記したように≪御師≫とは神官であり、かつ総合旅行会社であり旅館経営者でもあった、さらに富士山信仰の布教師でもあった。その旅館兼住宅はもちろん当時の建造物としては立派な門構えであるがごく普通の住宅にも見える。しかし神社のように紙の≪下がり≫が下がっているのはさすがである。100円という見学料にも かかわらず係りの人が就いて丁寧に説明してくれた。 玄関の間に続く8畳3間が本来の客間で、脇に家族の部屋や台所が付いている。あまりの狭さに何人くらいが泊ったのかを聞くと、大体一畳に2人位だとの答え。昔の人は小さいとはいえ、長旅の荷物などもあるだろうに!! 確かに時代映画でも旅人の荷物はひもを肩にかけ前後の 振り分け荷物が標準だったのだろう。欄間には 所狭しと額がかかっている。 刷り物でも33度の登山記念記がよく目に入るが、富士山の祭神(仏)は大日如来だとかでやはり仏教色の強い信仰であったことを窺わせる。 またこれらの刷り物には各講のエンブレムが 印されている。御師たちがそうであるように各講には代表としての先達とか法家と称する総裁のような人がいてその名誉職は代々受け継 がれていたようだ。富士の信仰登山は夏がシーズンで冬の時季御師達は各講を訪ねて歩き、講の集会に出席して祈祷・布教に努めたり、また旅行説明会のようなこともしていた。その時いろいろな刷り物を持参して配布したようで、いわば現代のチラシのようなものを配った。講に配る大きな刷り物の版木やビラもあるが個人に配る小さな景品のような札もあったようだ。外川家では本来の3つの間が狭くなり細長い敷地の奥に小さな中庭を介して増築をして、ほぼ同じ大きさの客間を建てている。 増築された奥の間の裏側にはまだ細長い土地が残っており、そこは庭園と負うよりは野菜畑で あったようだ。庭先に小さな祠としめ縄が張られたコウヤ槙の大木が植わっている。以前ここにマンションが建つ計画が持ち上がった時、ご神木であるこの槙の木が文化財として 認められ、マンション計画がとん挫したそうである。おかげで富士山も世界遺産となり、その構成施設の一つとしてこの家が文化財指定を受けたそうである。富士講の人たちの登山衣装はお寺の巡礼姿と同じで白装束であった。 そして登山の度に御朱印をいただいて自分へのお守りとし、かつ登山証明書としての意味もあったそうである。一種の死に装束でもあったようだ。今のように5合目まではバスというわけにはいかず、途中洞穴で夜を過ごすことも多かったみたいで、防寒用のどてらを羽織ったりもしたがそれは剛力たちが担いで登ったそうだ。御師宿での食事は下の写真のお盆一鉢が一人分でかなり大きなお銚子が一本付いている。 下段の四角い箱は弁当箱で小さな写真にあるようにこれも剛力たちが背負って運んでいた。
2016.11.16
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2,3週間前NHKの「ブラタモリ」という番組で富士吉田市上吉田地区の探訪をしていた。私はいつも富士五湖への入り口としてここを通過することが多かった。ここは富士山信仰が生み出した街で、江戸を中心として「富士講」が盛んになり、江戸時代から明治にかけて賑わった町である。 信仰登山から娯楽登山に変わった現代でも観光の中心であり続けている。 関東地方の人々にとっては富士山はちょっと高い処からは多くの場所から眺められ、「富士見」がつく地名は多くある。私が住むマンションも真下の小さな流れを挟んだ対岸にその名がついている。どこからも見える富士山もそこに行くとなると大変な労力と財力を要する案件であった。そこで自然と富士山自体を神としてあがめる一種の宗教が誕生する。 日本全国どこへ行っても見えるが行くのは大変という高山は常に信仰心を生むが、富士山への信仰心が「富士講」を生むことになる。江戸の人々は「富士講」という、今でいえば「同好会」のような結社を結び、集会を開いては自己研鑽と宗教心と娯楽を兼ねて、共同で積立金を集め、何年かごとに富士山への信仰登山を行っていた。また多くの「富士講」は地元に土盛りを作り「富士見塚」と称して 社をまつり富士登山に参加できない家族たちはそこに詣でてご利益を得ていた。 「講」の人にとって富士山自体がご神体であり、今は富士山駅前にある下の写真の銅製の 「金(かね)鳥居」が俗世と神域を隔てる門であった。富士山駅からまっすぐ伸びる道路は緩やかに登坂でここが富士山の裾野のすそ野であることを 示している。 もちろん今は拡幅されているが、この通りには「御師の家」が連なっていた 「御師(おし)」とは富士浅間神社の神官でありかつ旅行業者であり、旅館経営者でもあった。最盛時にはこの通りに86軒の御師の家があったという。p 古い御師宿の一つ浅間坊の門が復元されて公開されている。勿論現代では多くの御師の子孫は普通の生活スタイルの人が多いが、ここは御師の家から旅館へとオーソドックスな転身をしたようである。吉田の街では昔から地図を書く、場合南を上に描くのが鉄則である。霊峰富士を下に描くなどとんでもないことである。門の前には石碑が建っている、中にはそれ以上もあるが33回登山記念碑が多くみられた。「金鳥居」と浅間神社の間に並ぶ参道に沿って多くの御師の家が並ぶため、京都の町屋のように間口が狭く短冊のような形で並んでいた。今は長いエントランス路を構えている家もある。今でも営業しているとも思えないが何軒かの元御師の家では提灯を掲げてその存在を示している。 奥まったところで暖簾をかけている家は今何の商売をしているのであろうか。ここは昔の宿場町には違いないが客は講の人たちであり、その付き合いは長く固定しているため 街道筋の旅籠のような客引きなどは無かったことだろう。考えてみればここは浅間神社境内である。とはいえそこはなんかの工夫があったのかもしれない。お伊勢参りにしても大山詣りにしても旅の楽しみは十分に工夫されている。
2016.11.15
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2016年11月14日今日の天気予報は最低だが夜晴れの奇跡を期待していたが日暮れとともに雨が降り出した。残念!! 今夜はスーパームーンなのに!!スーパームーン、 以前聞いた記憶はあるが何のことやら知ってはいなかった。早速いつもお世話になっているwkipediaを開いてみた。今晩は月が大きく見えるのだそうだ。 こんな身近な存在なのに何も知らなかった月のことを調べてみた。 勿論知ったかぶりをしてこの記事を書くつもりはない。ここに記す内容はすべてwikipediaで知ったもので、あくまでも自分の記憶のためのノートである。基本的は事象も知らなかったが月の軌道は 今までほぼ円だと思っていた。しかし近点が約36万3千キロ、遠点は約40万5千キロの楕円軌道だそうだ。そうなると近い時は大きく見え、遠いときは小さく見えるのは道理である。Wikiで比較写真を二つ並べられるとはっきり分かるサイズ変化である。(Wikipeddiaより)(Wikipediaより) 今日のYahoo ニュースでは今年一番小さく見えた4月22日と今夜の スーパーヌーンの比較図が明示されている。 (Yahoo ニュースより)またスーパームーンはほぼ毎年やってくるがその日付けはかなり移動し、ない年もあるみたいである。さらにスーパームーンは毎年同じものではなく、今夜のように35.6万キロまで近づくのは68年ぶりだそうである。そうなると返す返すも今夜の雲が恨めしい限りである。もっとも天気は地球規模で見れば非常にローカルなものなのでいろんなところからWebで映像がライブ投稿されるみたいである。もう一つ分かったことは私たちは地球上から月の裏側を見れないと教えられてきて、いつも同じ模様しか見ていないと思っていたが、実は地球の公転面(黄道面)と月の軌道面は約6°傾いているため地球の黄道面の上に来た時と下に来た時では月の表面で左右8°くらい違う月の景色を見ているのだそうだ。もっと厄介なことは月は一定の傾いた軌道上を行くのではなく、ちょうど駒の回転のように歳差運動というあの駒が肩を揺らして回転しながら自転運動するのと同じ動きをしているのだという。昔から月を固定された模様としてみていた私はおバカさんで、月の景色も広がりも一時として同じではなく無常なのである。やはり修行が足りないみたいである。
2016.11.14
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週間予報では好天を言われていたこの日は夜来の雨、そして朝も小雨模様の曇天である。河口湖へ出ようと思っていたがバスの運転手に聞くと河口湖の紅葉はまだ少し早く、外国人観光客でごった返していてバスに乗るのも大変なくらいだといわれた。そこでこの時期花のない「花の都公園」に紅葉見物に行くことにした、人影の少ない場所での紅葉見物である。園内に人影は見えないが木々は程良く色付いていてきれいであった。実は下の写真の石垣が人工の瀑布となっており、その上にはモミジを中心に素晴らしい紅葉景色が見られることを期待しての来訪である。残念ながらこの時期水は放流されておらず、モミジもまだ色付いていなかった。結果として水がなくては水車も動かず静かであったが秋色の中の水車も風情があった。賑わいを見せる夏と違って人影のない辺りは静まり返っていた。園内はどこも落ち葉で敷き詰められ、樹上の景色にとどまらず地上の紅葉見物も乙なものである。まもなく年末には夜のイルミネーションで人を呼ぶつもりらしく準備されており、昼間はこの配線が目障りである。この時期はどこも菊である、ここでは菊の野外展示はなかったが花市場は菊の花でむせ返るような香りである。最近はこの世界も品種改良や遺伝子操作もあるのだろうか花火のようなキク科が目についた。公園を去る前に温室に寄ってみると多肉植物が美しい花を咲かせている。日本語や英語の注意書きは見当たらないのに下の注意書き版が目についた。文化の違いであちらの人は視覚とともに触覚でもモノを判断する習慣があり、蝋細工と区別するために第二の感覚を大事にするのだろう。ここにも大陸から多くの観光客が来ることを物語っている。今年は10月中にもう外国人来日者数が2千万人を突破したということだ、いろいろ問題も発生しているようだが、ともあれ見たり触ったり聞いたりすることで相互理解が進むものだ。文化の違いを理解することで相互理解も進み友好も生まれるというものだ、有難いことである。
2016.11.14
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今回の山中湖への旅はホテルの宿泊料が安くなった日を選んで湖畔のちょっと良いホテルにした。二三日前までモミジ祭りが行われ、園地も夜のイルミネーションがあった。ところが今年は色好きが遅れ、祭りが終わっ宿泊料が安くなった頃がいい時期となったようである。リゾートホテルらしく玄関ドアも不透明でロビーホールも太い大理石の柱が多く安定感を感じる。 リーディングルームも落ち着いた雰囲気であるが、高級客はいざ知らず、我々忙し派にはここで悠々と過ごす時間はない。二つの宿泊棟、温泉風呂棟、本館棟はそれぞれ独立しているが芝生のマウンドで覆われた廊下で結ばれており、本館から飛び出した形で円形のロビーラウンジがある。ウエルカムドリンクを飲んでいる人以外に腰かけている人を見かけたことはないがウイークデイのせいかもしれない。鹿の角で飾られたシャンデリアもなかなか凝っていて、壁際のルームライトも同じように鹿の角で飾られている。泣き出しそうな空模様であるが、それでも窓際によってみると雪と雲に隠れた富士山の半身像が見て取れる。2,3日後にはこのラウンジから 夕日が山の頂上に落ちるダイヤモンド富士が眺められるとのこと。ダイヤモンド富士は毎日何百メートルか湖岸を北に移動するとかで、バスの窓から見ているとこの曇天にもかかわらず奇跡を期待してか多くのカマラマンが湖岸でカメラを構えていた。 裾野の茶色い一帯は自衛隊の演習地である。自衛隊の隊員は皆ここで訓練を受けるのであろう。私のような年配者はここがまだ米軍の演習地であった時、付近の人が危険を冒して空薬きょうを拾いに行って事故にあった事件などを思い出す。薬きょうは古金属として高く売れたようで、それで生計を立てた人達がいたようである。そんな過去の歴史なども思い出すとこの豪華で静かなラウンジ風景が時の流れを実感させてくれる。ちょうどホテルの前が白鳥の餌場になっているらしく、食事時に集合していた鳥たちが食事が終わるとそれぞれの職場に帰ってゆくのが印象的であった。前日アメリカの大統領選挙がほとんど信じられない結果に終わり、 興奮してあまり眠れない夜を過ごした。時の流れ、歴史の変革期に立ち会った高揚感と歴史に無関係の湖の景色に何か無常を感じる一日であった。
2016.11.13
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今年はまだきれいな紅葉風景を目にしていない、そこでカレンダーと週間天気予報をにらめっこし、シニア特権ウイークデイを見計らって山中湖のホテルを予約した。前の週に計画したが天気予報が悪く、一週間遅らせての実行である。富士山麓なら標高を変えればどこかで紅葉最盛期に出会うだろうと思った。結果的に予報は見事に外れ、曇りや雨の旅であったが、今年の秋色はどこも1週間遅れで今回の旅で一番標高の高い山中湖周辺がそのピークであった。この時期富士五湖地方は外国人観光客であふれ、ウイークデイにもかかわらず 4日前では山中湖へのバスは予約が取れず、新宿から箱根行きのバスで御殿場乗り換えで山中湖へ向かった。空はドン曇りで暗く寒い日であったが明らかに富士山麓を 巡るように走るバスの窓からはぼやえた富士山の全景が望めた。 静岡県と山梨県、古くは駿河と甲斐の境、籠坂峠辺りは程良く色ずいている。峠のすぐ下は山中湖村の旭ケ丘で、辺り一帯は別荘村で一大観光センターともなっている。ここではKABAバスと称する水陸両用の観光船・バスが運行されている。 湖畔には遊歩道があり、一帯は美しく紅葉していて私が今年目にした中では最高の景色であった。紅葉や松の樹間からは曇天で輪郭がはっきりしない中、森林限界まで降りてきた積雪の雪化粧の富士山がどんと構えている。湖岸に直交した形で別荘地が広がり、その細道は秋色に満ちている。湖岸に沿った園地の木々も赤・緑取り混ぜて良い色付きである。驚いたことにそぞろ歩く人もレストランでも大半はアジアの人々である。誠に結構なことであるが日本語があまり聞こえてこないのに変な気がした。
2016.11.12
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