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母なるメコンは、大いに意味のあることばだった。皮相的に見ていたと思った。中国もまだ表面的でしかないだろう。だから読み解くことはできない。ここ数日毒気にあたって脳がぼーっとしていた。やっと小さなトンネルを通過中だったどこに出るかわからないと思ったら自分のPCの前にいたから a mind of its own のエリアでしかない。 少し長く生きていると、どうにか何かをみても、脳が挫折しないくらいの使い方はわかってくるらしい。自分のおバカに対して甘くていられる特質は人間特有のものではないにしても心理学者によればそれがなければ生きていけないくらい重要でもあるらしい。自殺する人は、自分の心を自分でコントロールできると思いこんでいるのではないだろうか。 私の北京ツアーのシリーズは大量の写真をストックしたことで益々訳がわからないものになりそうである。もともと私のブログはまとめるつもりがないからハチャメチャだが他人のために書いているのではない。時々耳の中が痒くなるだけである。人間は誰でも妄想を抱くだろう。自分が他人より利口ではないかと信じてしまう。ままありがちな人間の傾向らしい。そういう気分に左右されているときは碌な考えが浮かばないがそれが大そうなものに思えるから不思議である。だから妄想でもある。 中国のことは中国人が考えればいいが、それだけでは足りないものがあるだろう。それは他国が自国をどうみているかという視点である。立派なことをしていると思っていた中国人のやった文化大革命の熱風が何だっただろうか。どこの国でも愚かなことはやってきたし、現在も続いている。それを浄化できる装置をもっているかだろう。そしてその自浄装置が動かねばならない。見せかけの装置ではだめだ。最近の日本の政治をみているとそれが働いていないようだ。使わなければだんだん錆びてしまうらしい。 時々汗臭くなった体をシャワーで洗わねばならない。人間にはヘイフリックの限界がある。新陳代謝による古い細胞は体にしみ出す垢になるのだ。清潔にしないと臭いがしみ込んでもしまうだろう。悪癖が忌まわしい人間にもしてしまうのだろう。>八達嶺長城のゲート。
2007.06.30
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現地ガイドは自転車で居庸関長城を越えてモンゴルまで旅をしたと言っていた。そういうこともできるのだろう。自動車でなく自転車というのはすごいことだろうが。それが当たり前のことなのかもしれない。自分の足を使って旅をするのは一番自然な旅でもあるだろう。忍耐力を養うのは日ごろの鍛錬でもあるだろう。 ラクダに乗って、砂漠を行くのはどんな気持ちがするだろうか。高い視座は思うだけでもわくわくする。こどものころ馬に乗せてもらったことがあるが、なにか特別な気持ちがしたことを覚えている。血が騒ぐだろうか。日本人の祖先もモンゴルから来たのかもしれない。 ラクダをみていると、その目が語る話を聴きたくなる。「お前たちはどこから来たのだ」「そしてなにをしているのだ」「おれと一緒に旅をする勇気などないだろうなあ」「どうせ、けちな生き方をしているのだろう」・・・「おれの話を聞く気があるわけがない」「哀れな人間どもよ」。
2007.06.30
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公安と聞くと、戦前の日本の公安のイメージがあるので、どうも印象が悪い。言論弾圧のシンボルのような存在であった。中国で「公安」というのは、それとは大分違うのだろう。パトカーにも公安と書かれたものがあった。公安と言うと「特高」が結びついている。治安維持法で知識人が抑え込まれ自由な言論ができなかった。 中国では、しつこいくらい物売りがつきまとったけれど、それは取り締まりの対象にならないようだ。天安門前広場では色々あって、私服が一杯いるらしかったがそれは、それとはわからない。だがかなり警戒はしている雰囲気は感じた。観光地でも公安のパトカーをみかけただ公安のボックスは初めて見たので写真を撮った。クーラーでもついていなければ、日中は蒸し風呂ではないだろうか。どこまで取り締まりがされているのかは知らないが、あまり厳しい警戒ではなかった気がする。兎に角知らないことが多すぎるのだろう。 見当違いでも、まあ偶にはドアーを見つけることもあろう。>定陵の駐車場近くで
2007.06.30
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色々名前の付いた料理を食べたけれど、みんな美味しく食べた。辛いものもあってけれど多少加減してあるらしく日本人向けを意識してあったのかもしれない。北京ダックも横浜で食べたのよりもおいしかった気がする。そういえば目の前で調理してくれたのを写真でとればよかった。その時は忘れて食べまくっていた。中国人の食の文化は大したものだと思う。 水が合わないというので、ミネラルウォーターで過ごしたが、普段飲んでいる水が違うというのは不便だろう。それでも日本でも水道水はあまり飲まなくなっているので、それほど不便でもないのかもしれない。少し我慢すれば人間はどこにでも生きていける能力があるのだろう。それこそ地下で生きていけるとはとても私たちには思えないが近未来ではそうしているかもしれない。人の環境はこれまでも急激に変化してきたし、これからも変化を続けるにちがいなくいのだ。 少なくとも水なしには料理ができないのだから、中国で食べる料理にも水の残留はあるわけでそれを摂取してもそれほどのことがないのかもしれない。神経的になっているだけだろうか。中国で招かれたら全部食べてはいけないとか、魚はひっくり返して食べては失礼になるとか面白い風習だと思う。いい風習は残せばいいだけだろう。ご飯は見掛けは良くなかったが食べて不味くもなかった。
2007.06.30
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物言わぬが金なのだろうか。言えば言うほど襤褸モデル。成程そうかもしれない。誤解されることはよくあるだろうから仕方がない。どちらが勝ってかわからないが強い奴の意見が通るだろう。それでも理屈は理屈である。思うことを曝け出すことだろう。相手が自分より利口だとは中々認めようとはしないのは常だろう。 記憶力だけが能力と思いがちな選抜主義では物にはならない。それは中国でも、日本でも言えるのではないか。上の言いなりになる人物を登用したために国を滅ぼしたともいえるだろう。次から次に起きてくる新しい事態に即応できる能力が必要だろう。サクセスストーリーだけ読んだ人間には、挫折の対処法がわからないかもしれない。世の中は挫折の連続であり、それをどう乗り越えることができるかその知恵を出せる人間でなければならない。うまく世の中が運ぶ時なら誰だってリーダーになれるだろう。 他人の造った青写真でやろうとしても生の問題を解決することはできない。狂気は身近の問題でもある。ひとの行動をコントロールしている人の脳のやっていることを知らねばならない。
2007.06.30
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明の十三陵は昌平区境内の天寿山のふもとにあり、市街から50キロの地に猟墓の三面は山に囲まれた約40キロ平方メートルの範囲にあるそうだ。民の3代の皇帝、皇后を葬っている。一般に公開されているのは一部に過ぎない。どれだけのスピードで発掘されているかわからないが遺物の多さに研究がついていかないのだろう。 現地ガイドから、地下の室内で写真は撮らない方がいいと忠告された。余りいいうわさがないらしい。何せ棺を納められた室内の中に誰かが残り封印したらしい。その怨念たるや言語を絶する世界でもある。よくもまあ、死んでからまで大地を占領するのだろうか。風水とやらでこの地を決めるまでにも相当な時間がかかったらしい。それだけの権威を求めていた。 信じる者は救われるかもしれないが、信じるために救われないものも多いのではないだろうか。今回ツアーに参加された83歳のお年寄りが、見学を楽しみにされていたが、到底地下まで上り下りができないとわかり入口で孫夫婦と待つことになった。中国の観光は足腰の強いうちでないと到底できないらしい。>定陵入口。
2007.06.30
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芸術の奥深さは容易く理解できるものではないだろう。その作品の迫力に圧倒されるが、それが芸術という世界でこそ真価が問われるべきだろう。芸術の権威は、政治の権力とは違う。しかし、権威と権力は結び付きやすい。お互いに利用しあうところが必ずある。仏教も、儒教も常にその道を歩いてきた。 日本でも大学が政治に妥協したとき、国民は不幸な時代を強いられた。今は大学に権威はない。あると信じているものがあるとすればそれは認識違いだろう。日本の大学は世界の大学でUTでさえトップ10位にさえはいっていない。かなり評価が低い。それだけ開かれた大学でもない。どれだけ世界レベルの教授がいるだろうか。それは何故だろうか。これだけアメリカ留学しているというのに、お喋りだけの英語力でしかないからだろうか。基本ができていないだろうか。 それは独創力ではないか。自立でありユニークな発想力ではないか。それが弱いのは何故だろうか。理由はいくつもあるだろう。自閉症なのだろう。自惚れ屋ばかりなのだろう。相手を間違った生き方をしているだろう。スキルがないだろう。道具をもたなすぎるだろう。安易すぎるだろう。どうやら足りないものが多すぎるようだ。 恵まれた奴が仕事をしなくなるのは、安直に仕組まれた罠にかかるからでもある。この社会は善意でも悪意でもなく厳しい生存の原則に従っている。謂わば自然の摂理に従うまでだ。騙されるより騙すやつが生き残るだろう。それを確りした目で見ながら目的意識を持たねばつぶされるだけだ。
2007.06.30
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しかも朝鮮総連に関する犯罪というからモラルだけの問題ではない。どんな職責を果たしていたのだろうか。こんな破廉恥な人間がゴロゴロいるのではないだろうか。見えないところでどんなことでもしているのではないか。外交の交渉力の問題は、それこそマンパワーであろう。どこを見て仕事をしているのだろうか。その長たる男の資質が問われるというのだからことは深刻な問題だろう。何が基準で役職が決まるのか解かったものではない。 汚職とか賄賂とか止まないのは、どこの国も同じだが、それが公安調査庁となると謂わばその仕事が一番見えない部署であり、それこそ信頼のおける人物でないと務まらない仕事のはずであるが、それが法をも破る人物であることに今更ながら恐怖さえ覚えるだろう。どんなことをしていたのだろうか。公徳心のない人物が国家の安全を守れるはずがない。 日本の政治は大丈夫なのだろうか。官吏は仕事をしているだろうか。守るべきものを見失っているのではないか。国民に与えた不信感は深い。どれだけ露呈したものを処罰しても、中身が健全化しない限り、こういう人物がこれからも続くのだろうか。国会の非常識がもたらす影響は測り知れない。歪みを社会に与え続けてもいる。それこそ求められているタフな外交どころではない。根元から糺さねばならないのではないだろうか。>北京のスモッグ
2007.06.30
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どんな感情が生じるときでも興奮するのは同じで、違うのは強さだけらしい。それを適切な思考と合わせるのが脳の役目だ。ところが感情がかかわると、脳はそれほど慎重ではなく、然もいい加減なのだ。適当に合わせることも平気でやる。その結果、興奮した原因を、実際とは違うものと思い込んでしまう。これが恋愛でも惹起する。 それを証明するための実験もあるくらいだ。十分に汗をかくくらい長いエアロバイクを漕いでもらい、運動のあと、ポルノビデオを見て性的な興奮のレベルを報告させた。かなり時間をおいてと、直後と、短い時間をおいてと、の三グループに分けられた。彼らの脳は、ビデオのエロティックさのレベルを誤認したのは、短い時間をおいてビデオをみたものが他のグループよりもはるかに高く評価した。 どうやら普段街で声をかけられても相手にしないが、ジムで運動をした後の出逢いが脳が勘違いを起こしやすいということだろうか。有名な実験として、晴天と雨天で学生を呼んで、自分の生活全般への満足度を質問したものだが、雨の日よりも晴れた日のほうが、学生の機嫌がよかった。天気が満足度に影響したらしい。 その時の気分で変化してしまうことがあるということだろう。機嫌が悪い時には人生には危険が満ち、人と対立するのはすべて自分の責任のように思え、少数民族に好感を持てなくなることもあるらしい。>北京で観た雑技団
2007.06.30
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美徳は必ず報いられ、悪い人間はそれに見合った罰を受けると、夢みたいな考えを信じるひとはいないだろう。誰もが顔をしかめため息をつき、いわれなき不幸で無垢な犠牲者がいることが、世界中で起こっていることを知ってもいる。けれどもそんな他人の不幸を前にしたとき、彼らに対する感情が、自分の高潔な信念を裏切ることがあるに違いない。こうした臆病者の行動は珍しいことではない。自分を守るために他人を責めるという特技を凡人はもっているのだろう。 共産国のホテルに聖書があった。中国語と英語で印刷されたものだ。ホテルに聖書はつきものだが、これも信仰の自由を保障し民主国の顧客サービスの一環なのだろうか。大した気の使いようだ。中国のキリスト教信者からの寄付かなんか、なのだろうか。 起初、神創造天地、地是空虚混沌・・・。 それにしても、中国に対するカルチャー・ショックは広範にあることだろうか。何か当たったらしく熱が出てきたようだ。想定外のことであふれている。それこそ、内に閉じこもっていては何事も始まらないということらしい。 いつまでも臆病者の行動ではいられないだろう、ということだけは確かだろう。
2007.06.30
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日中関係はあるいはリセットして始めなければならないのではないか。勿論過去を消し去ることはできないにしても、過去を捨てなければならない面もある。まだスープのままなのかもしれない。ただ強権だけで人民を支配する時代ではない。どちらが優秀かでもない。理性を示さなければ何事もその場限りのことで、ただ極端に振れるだけの関係でしかない。 政治、経済の関係はそれこそ国際関係で左右されるだけの問題でしかないが、大衆の感情はもっと生々しいのではないか。北朝鮮から、脱北するのはたいてい中国であるが、中国は何をしているだろうか。それは善き隣人に対する態度だろうか。見て見ぬふりをしているのではないか。現に苦しんでいる人民ではないか。手を差し伸べて助けるべきではないか。朝鮮戦争のときは軍隊まで出兵したではないか。自国の利権に係ることしか内政干渉しないというだろうか。そこには利害しかない非情な政治論理しかないというのだろうか。 それでは、「世界人民大団結万歳!」ではない。まあ他国のことをとやかくはいうまい。理解することは容易ではない。肯定することも否定することも弁解にしか聞こえないだろう。ただ見殺しにするのは許せないだろう。できることはすべきだからだ。それは世界がするだろうではあまりにも冷たいのではないか。北朝鮮が敵視するアメリカや日本だって人道支援をしようというではないか。 来年の北京オリンピックのロゴマークを探して、ホテルの中でやっと見つけた。ただ国威の発揚とするだけではなく、オリンピックの精神を中国が世界に向かって発信すべきだろうと思う。誰かの誕生日に・・・。
2007.06.30
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ガイドブックには、「北京の数えきれない名勝旧跡は、人々を魅了させてる。今日の新しい北京は、人々が憧れる観光地である」「王府井大街、西単文化広場を漫ろ歩いて、中国と世界の美食をほおばることは、人生の大きなたのしみといえるだろう」とも。そう書いてある。 光と影があるのはどこの国もある。それは確かだろう。北京だけが特別ではない。それが名実ともに世界が認めることがなければならない。安心してご気楽な観光地にならなければ、集客はできないだろう。東京もかっては怪しげな町であっただろう。世界の観光客を心からもてなすだけの国家でなければ、そっぽを向かれるだろう。折角の料理もそのもてなしの心がなければならない。それは、Hospitality だろうか。 変貌するのはモノだけではなく、ひとのこころも豊かでなければならない。求められるものにこたえる努力をすべきだろう。
2007.06.29
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初めから嫌だなあーと思っていた。二人の大人を自転車で運ぶのは結構労力がいるはずだし、草臥れるに違いないからだ。そんな企画を無神経にやるのだろうか。自動車とは違うだろう。鎌倉でも人力車があったりするけれど、あまりまともではない。あとで、それがチップで成り立つ話と聞いて余計ショックだった。もちろん商売としてやることについてどうのというのではないが、それは現代の中国のイメージではない。 共産主義とどうリンクするのだろうか。どうもわからんなあー。とはいうものの言われるままに乗ってみた。モーターが付いているわけではないから、やはりエネルギーの消耗するようだ。かなりの年齢の人もいるようだった。降りようとしたらチップを要求された。20元支払った。妥当かどうかは別として、料金化すればいいではないか。今にも壊れそうなものが多かった。乗っていて気持ちのいいものでもない。それこそ貸し自転車で自分で乗っていたほうがどんなにかいいだろうか。 お国の事情はあるだろうが、郷愁とはそんなものではない。18歳まで外に出れなかった少女の話とか、纏足の話とかかなしい話きいたが、あまりにリアルで目がテンになるようだった。ただ、家の中を見せてくれた人が73歳の女性で明るい人だったので救われた気がした。多分他人さまがすることを達観されているんだろうと思った。
2007.06.29
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文化大革命の影響は大きいようだ。勉学を捨てて農村に出かけた人たちが基礎学力がなく、その地位を新しい大卒者に奪われているらしい。ねじれ現象が起きているらしい。早期退職者が急増し、天壇公園などにあふれているとのガイドの話だった。 私たちが天壇公園を周ったのは、昼食後でその人ごみの多さに驚いた。廊下を歩くことができず脇道を歩いたがそれでも人でまっすぐに歩くことができなかった。持ち物に注意するように言われてもいた。のんびりと午後を楽しんでいるという雰囲気ではない。雑多な人間がいる感じだった。それでも公園には古い樹木が多かったようだ。 それでも家にいるよりかは落ち着くのだろうか。いやいやでも出かけているのだろうか。どこの国でも老人に対する風当たりは必ずしも温かいものではない。それが現代社会の姿だとしたら、まだたいして進化した社会でもない。日本にもやり場のない人々であふれるエリアが増えるのではないだろうか。切ない気持にもなる。公園で売店が少ないのはお国柄なのだろう。衛生面の管理がこの国の課題でもある。どこでも唾を吐くのはそれこそモラルの問題であり、上品とは言えない。>天壇公園で。
2007.06.29
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フィリピンと台湾の話を聴講したが面白かった。何故戦後二度も女性大統領がフィリピンで可能だったのか。台湾のエスニシティやクォータ制などのことについて説明された。来週は中国経済について講座があるらしい。タイミングのいい話を聴くことができそうだ。 フィリピンの Hospitality は100以上の言語を持つ国で他人を受け入れるという風土から培われたものだろう。それでもその眼は腐ってはいない。 「スペインは良くなかった。アメリカ人は悪かった。日本人はもっと一層悪かった。しかし最低なのは二度目のアメリカ人だった」のだという。 女子大に早めに着いたので、会場で待っていたが、今日は雨が降っている関係で参加者は少ないようだ。寒気がないので熱はないのだろう。咳も大したことはない。どうやら常連さんになり、名前を覚えられてしまったようだ。挨拶されるようになった。>祈念殿 皇帝が毎年五穀豊穣を祈った場所に建てられた。釘一本も使用されずに建てられた木造建築だという。
2007.06.29
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久しぶりに雷鳴を聴いている。少しまとまった雨になればいいのだが。雨不足の折柄である。庭の草花も激しい雨に打たれている。まだ咳が止まらないので今日の講演会はどうしようかと思っているところだ。今日は、フイリッピンと台湾についての話がある予定である。一応用意をして出かける準備をしようと思う。 どうやらまとまった雨になりそうもないようでもう少し明るくなってきた。考えてみると反日感情というのはそれだけ強く根深いのであるかも知れない。それがなぜそうなのだろうか。欧米ではなく日本なのだろうか。対ソでもないだろうか。どうも只事ではない。 おバカな日本人が欲しがるものとは何だと思うのだろうか。どうやら意識のずれがあるのではないだろうか。ある売店で「問題は何ですか?」と訊いてきたので驚いた。注意して聴いていると日本人に誰にでもそう訊いている。はやく結論をだせ、というのだろう。高いか、それとも買う金がないのか、問題はなにか、それを聞かせろというのだ。欲しくもない商品を見せられて問題は何ですかもないものだが、特産品は欲しがると思っているらしいが、たいてい日本で手に入るものばかりだろう。 さて、出かけることにします。雨は小休止。雷鳴もいつか消えています。
2007.06.29
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クーラーの効き過ぎで風邪をひいてしまったらしい。行く前はそれほどかんじなかったことも行けばいやでも感じるものはあるだろう。ガイドブックを読みながら見た場所の狭さを感じたりする。縦しんば全部見たところで見えない部分もあるだろう。寧ろ見せまいとするところに真実もあるに違いない。少なくとも日本人に対して、というより他国人に対して、何かがあり、何かが違うのだろう。 飲む水が違うだけではないのだろう。中国人という民族は、屈折した歴史を持っていると思う。中華思想というプライドが音をたてて崩れ去ったあと、立ち上がってくるまでには多くの血が流れたのだ。それは彼らのこころの傷になり、暗い影を落としてもいるだろう。切り捨てられる世界があるに違いない。それをどうケアできるかだろう。 すべてを許容していない。日本人には厄介な隣人かも知れない。しかし彼らの行方は日本人にも大きくかかわってくるに違いない。彼らの動向は日本の未来と無縁ではあり得ない。2億5千万人の貧困問題にどう決着をつけるのだろうか。それはできるのだろうか。一国の国家としても体制となりえるだろうか。問題はそのプロセスにあるだろう。彼らの共産主義理念がどのように働き稼働するのだろうか。 知恵があるだろうか。もちろんなければならない。それは世界にとっても同じだろう。未来を背負う人々がどのように育っているのだろうか。その手の内が何かを知ることは日本人にとっても、知っておく必要があるのではないだろうか。>故宮
2007.06.29
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雨が一寸降りましたが、すぐに止んでしまいましたが梅雨らしい雨になるのでしょうか。北京も小雨だといっていましたね。でも他の地区では洪水があって被害が出たとかというニュースもあるからそれだけ土地が広大なのでしょう。福岡も今年は小雨のようです。このままだとまた水道水の断水あるかも知れない。これも異常気象の影響でしょうか。 中々、物事は良いようにはいかないものらしい。誰かが邪魔でもするように人々を苦しめもする。誰だって悪辣なことや、他人に迷惑をかけるようなことはしたくないはずですが、追い込まれた人々が無茶なことをしている。それが分かっていても、警察や国家権力は黙認している。或いは知らないふりをする。取締るほうが正義なのか不正義なのかわからないものも確かにある。日本の刑務所には犯罪者で収容人員を10%以上も超えている。厳しくやればもっと増えるでしょう。それこそ甘い日本の法律でもそうですから、厳しくなればどうなるかわからない。犯罪予備軍がごまんといるのではないだろうか。 それこそ精神分析もいい加減にされている。研究の成果があまり反映されないのは、それをやったら膨大なコストがかかるためでしょう。どれだけでもやらねばならないことが山積しているに違いないのに、無駄なことでカネを使っているのではないか。それを慣例だからとやってきたのが現在多くの問題を出しているのではないか。 それこそソーシャル・ステータスのある人間が何をするかわからないのが現状ではないだろうか。柳沢農水相がどれだけ有能でも言ったことの責任を取らせられないようでは安倍内閣は信用できない。彼もまたためにする政治をしているからです。同じ考えをもっているといわれても仕方がない。責任を取らない政府ほど恐ろしい政府はないのではないか。 どうして少雨になるか、必ずメカニズムはあるはずだし、それをきちんと整理できないようでは対策もできない。それができる優秀な人材を投入すべきでしょう。お天気アナでできるはずもない。何かが空回りしているのではないのか。空ばかり見ていても雨は降らない。 今日は、久しぶりに女子大の講演会がある日のようです。
2007.06.29
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自分の世界を守るために壁を作ろうとするだろうか。それは気休めでしかないだろうか。それがあまりに高すぎたりすると自分を閉じ込めてもしまう。スパイスの足りない料理は美味しくない。なにがスパイスになるかわからないから厄介だ。思いはおそらく通じることはないだろう。理解しえたといっても一時のことでしかない。 宮沢喜一氏が亡くなったそうだ。テレビで最近対談している画面をみてショックを覚えた。あのような姿で対談したというのは異常ではないか。明らかに面相が変わっている。隠しようもない顔であろう。それであえて対談の意味があるのだろうか。メディアの非情を痛感した。コモン・センスのなさがまかり通る世界なのだろう。それが人々を狂わせている。 それこそボン・サンスのかけらもない世界なのだろう。私たちの感性はズタズタにされてもいるのだろう。そのことに気付くこともなく生きているとすれば、それこそハリー・ポッターの世界とどれだけ違うだろうか。オリバー・ツイストと同じ環境にいるのだろう。 上の写真も007のシーンの一コマのような気さえしてきた。故宮の隣の景山公園。
2007.06.28
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関西系の旅行社のツアーに参加して思ったことは、少し複雑でその思いが伝わるだろうか、と思っている。率直にいえば、必ずしもこのような観光ツアーでは両国の友好にはならないだろうということだ。寧ろ双方の違和感を招くだけではないか。反日は、その逆もあるのであり、相互の理解ができなかったための蔑視が両国に存在した事実を看過することはできない。これは、現実にあったことであり、改善されなければ続いていくことにもなる。 謂わば、その責任は両国政府にもその一端があることを示しているだろう。もし中国人が日本に観光旅行をするとして、どんな対応をしているだろうか。それを誰がチェックしているのだろうか。それはちゃんとできているだろうか?民間のツアーで一市民として参加したに過ぎないが、非常な不快感を覚えることがいくつかあったが、そのことに中国人は気づいているだろうか。もし、それが日本人の常識でも中国人の常識ではないというのなら、それは誤った認識なのだろう。 ホーチミンやシンガポールを旅行した時と大分違う感触だった。ホーチミンの時は大卒のしっかりした歴史観を持ったガイドで、いくつか観光地を客観的に説明してくれた。今度のツアーでは、中国語を殆ど聞かない味のない旅だった気がする。それはこのツアーにきちんとしたコンセプトがないためでもあろう。中国人は、或いは中国政府は、日本人観光客に何も配慮をしないつもりらしい。ただ見て帰れなのだろうか。なぜ日本人の市民の感情を知ろうとしないだろうか。それはどうでもいいと思っているだろうか。そのもてなしのこころがなければ民間のこころの交流はできないだろう。政府肝いりの民間交流だけがすべてではないだろう。 少なくとも、私個人は万里の長城よりも大きくて高い壁を感じてならなかった。北京は見慣れた排気ガスの街であり、故宮は四角い刑務所であり、明の十三陵は暴君の墓であり、万里の長城も、日本と中国の間に横たわるものに似ているだけだ。>故宮の外壁
2007.06.28
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「宇宙の中では人間など、ジャガイモやパイナップルやヤマアラシと、重要性はあまり変わらない存在である」という。「われわれ人間が、この意味のない宇宙で生き残る術を探しながら、いつかは死んで滅んでしまうはかない存在であるという恐ろしい考えに気づいたときに感じる恐怖を抑えるためにそなわったもの」が脳の健全なうぬぼれ機能だというのだ。(ビスジンスキー) ひとには、自分を過大視せずに、慎重な態度を保ってリスクを検討するという「リアリティの窓」と呼ばれる機能があるからこそ、大きすぎる願望や、常軌を逸した競争に振り回されずに済むのだというのだ。 うぬぼれ屋の工夫によって救われている。自尊心が傷つくのを上手く避けている、そしてうまくいかなくても納得のいく言い訳ができるので、安心して何にでも挑戦できるらしい。教育の場でよく使われている。できないのは能力が足りないのではなく、努力が不足しているせいだといったほうが、簡単にあきらめずいい結果を招きやすいという。自分に欠陥があると思うとますますできなくなるためだ。そう考えると、脳が念入りに現実を捻じ曲げるといううぬぼれの機能がなければ、朝起きる気がしなくなるかもしれない。 今回のある旅行社の巧みに仕組まれたツアーのコースには茶芸館での中国茶道の実演・試飲とショッピングへのご案内がたっつぷりと時間がとってあった。
2007.06.28
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どうやら私たちは自分の健康についてはバラ色の色眼鏡を使うらしい。やがて訪れる死さえ、はるか遠くに押しやってしまいがちだという。統計に基づいてきちんと計算された予測された余命も、たいていの人は予測より10年は長く生きると、何の根拠もなしに信じているようだ。私たちは、来るべき事態に対して実際以上にコントロールできると思いがちだという。それもこれもみな自分の脳の差し金なのだ。 あらゆる希望を生んでいるのは自分の希望でしかない。花を見るといい気持ちになるが何の根拠もないのかもしれない。そばに美しい花や、心のきれいな人々に囲まれたとしても事実は事実として少しも変わらないが、幸せな気分がするのは何故だろうか。希望が希望を生んでいるのだろう。いいことしか考えない傾向は、自分自身の力や将来のことだけではない。ひいきの政党やスポーツチームがきっと勝利するだろうと、わけもなく信じてもいる。勝ってほしいという気持ちが強いほど、勝つという可能性についての評価が高くなる。 希望というのは常に希望から生まれている。中国人は来年の北京オリンピックが成功するだろうという強い希望をもっており、その気持ちが強いだけ、成功するという可能性についての評価が高いのだろう。それがどうなのだろうか。成功しないかもしれないという意見がどれだけあるのだろうか。それが客観的に充分考慮されているだろうか。失敗するかもしれないという可能性を一つ一つ潰していくことで事実を積み上げていかないと、あるいは思わぬ事態が起きることはままあるだろう。それを「想定外」だといった、莫迦が日本の国内の、どこかにいただろう。>恵山公園のバラ
2007.06.28
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宮殿の壁にあった龍の彫刻がすり減っていた。どうやら観光客が触ってすり減ったようだ。縁起を担ぐのは中国人の伝統であり、日本人はそれを真似ているのだろうか。鱗がはげた龍というのもいいものだ。何故龍なのだろうか?たぐれば縁起があるのだろうが、大したことではない気がする。昔はいたのだろうか。空想でしかないだろうか。中国人の描く英雄は破天荒なものが多い。仏教はインドからだが、その遠大さが中国人に受け入れられたのだろう。 毛沢東時代は外国からの資金援助を断り続けた。それは何の為であろうか。もしそれがなされればもっと早く、中国は国際社会に参入できただろう。どれだけ龍を磨いても飛び上がることはない。中国の彫刻や絵画などをみると同じデザインばかりだ。そしてまだ黎明期でしかないのだろう。もっと素晴らしい人材を抱えているに違いない。1978年以降2億5千万人の貧困問題を解消させるために、壮大な貧困撲滅国家プロジェクトがスタートしているという。それが、今回の私たちが見てきたツアーとどう繋がるのだろうか。 上の写真のすり減った「龍」で終わってしまう国家プロジェクトでしかないかは、これからだろうが、他山の石にならないように世界のためにも願いたいものだ。 今回のツアーがおわり、福岡空港に着いたらじっと蒸し暑さが感じられた。またじめじめした九州の夏が来るが、あまり贅沢をいえる立場でもあるまい。写真の中に北京ツアーで同行した仲間があちこち写っているが、お名前を訊き忘れてしまった。お別れするときは、またどこかでお逢いしましょうと暢気に申し上げたが、お逢いする機会があるかはわからない。壱岐のご夫妻と、中央区の若い一人旅の女性とも連絡先を取れないでいる。
2007.06.28
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93年ぶりの改装中だった。オリンピック前には太和殿だけは仕上げるのだそうだ。スケールの大きな改修のようだ。何せ故宮は南北1キロ。東西0.8キロの広さである。午門から北の神武門まで歩いたがとても短時間で見れるわけがない。一日ゆっくりしてみるべきなのだろう。 よく何に感心していいのか分らなかったが、皇帝が龍を乗り物にしていたという話になるともうおとぎ話の世界なのだろう。事前に「ラスト・エンペラー」を観ていたが、溥儀の世界が数千人の紫禁城の住人によって演じられたのだろう。彼は自分を、紫禁城の真ん中にいるクモとでも思ったのかもしれない。 まるで大海の浜辺を歩くように人々が故宮の中を歩いた。恐らく当時の人々は皇帝の権威と権力を畏敬を持って眺めたことだろう。下手なことをしたら殺されると思っただろうか。それだけのものを、建造しなければならないと思ったのだろう。そのために「龍」を創造したのだろうか。70数人も側室を従えた男は当然、裸にされてしまった。クモはクモでしかなかったのだろうか。そして、遺物はのこり、私たちは何を学べばいいだろうか?
2007.06.28
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・・・という本を読んでいる。脳はいい加減なのだそうだ。自分のいい加減さは、どうやら、そこから来ているのだろう。だって10年先は何をしているというのだろうか?それはいうまい。いってもはじまらない。そして世界はどうなのだろうか?明るいばかりではない。そうしているのは、おバカな脳の持ち主がいい加減なことを考えてもいるからではないか。 何故、世界の首脳が、広島や長崎や、水俣病を見に来ないのだろうか?彼らはどこを見て政治をしてるだろうか。目先の権力闘争で、骨身を削り疲れてしまうだけだろうか。くだらない狸の皮算用のためだろうか。それは知らない。すべての努力が無駄にならないように心を砕くべきだろう。おバカな脳に負けてはならない。 脳は自分を納得させようとするらしい。知らないうちにわたしたちの判断を誤らさせるのだ。脳のいい加減さにころりとだまされてはいないか。自惚れ屋のうさぎで人生を終わるやつは無数にいるのだろう。 これが宿泊した室内だ。チャンネルは数十あった。午後9時から日本のBSが見られた。
2007.06.28
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物には表と裏がある。表より裏が強いものもあるだろう。しかし小理屈であってはならない。物知りは物知りでしかないことを自覚すべきだろう。利口そうな奴は間違うものだ。自惚れるからだろう。上の写真は天安門の裏側だ。もちろん毛沢東の写真は掲げられてはいない。必要ないと考えたからだろう。写真で物事が上手くいったことなどありはしない。写真に威力はない。只の写真に過ぎない。しかしそれを利用する人と利用される人たちもいるのだろう。 広告塔は利用するために造られるがすぐに古びてしまう。風化するからだろうか。どんな巨木も水脈がなければ枯れてしまう。大きいだけに倒れると周囲に影響を及ぼしてしまうものだ。老人はボケて徐々に飽きられて死んでいく。それはそうして過去とさっぱりと別れることができるためでもある。枯れていくものは醜くあらねばならない。臭く厭らしい。では、批判する目はどうだろうか。肯定と否定があって、アクセルとブレーキがなければならない。 人々を愚弄してはならない。それができるのは自分が愚弄されるに値する人間だからだろう。死んだ人は何をすることもできない。人の心に残ればいいだけではないだろうか。祀り讃えられるひとはお墓の中でくしゃみをしていることだろう。人間はいつも愚かな人間でしかなかったのだから・・・。>天安門の裏側
2007.06.28
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もう赤か黒かの問題でもないだろうが、毛沢東の肖像画は飾られている。一番周恩来、二番が毛沢東。毛沢東の評価は6対4。4は誤りがあった。北京市民と地方とでは評価の偏りがみられるそうだ。個人崇拝に走った責任は誰がとったのだろうか。独裁下で犠牲になったひとたちの名誉だけが問題ではない。そのために苦悩させられた人々の呻きがある。 崇拝する人々はここは崇高な場所であり、恨みをもつものにはそうではないだろう。ここにたってみるとそんなことはどうでもよくなる。なにせ人間が小さく見える。アリさんやゾウさんの問題ではないが、人間は何て広い心の持ち主なのだろうか。もうそろそろ肖像画をかえたらどうなのだろうか。それは私がいうことではない。ただの感想に過ぎない。反省したと言いながら反省しないのは、日本にもある。否アメリカでもあるし、世界中であるだろう。どちらが本当だろうか。よくわからないことばかりしている。どうも確信がないのだろう。猫に鈴をだれが付けるだろうか。いつ肖像画下ろされるか。 自転車と公用車と時代は変わりつつある中国での課題は山積されている。いくつかの環状線が造られどんどん広がっていく都市化がある。人々の目は、どこを向いて走りだそうとしているのだろうか。日本人も注目している。軍事大国にだけはなって欲しくない。それは世界平和に対する逆行になるからだ。
2007.06.27
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ことの深刻さに比べて個人の身勝手さが腹が立つが、それは仕方がない。自由とは他人の権利を害さない限り、憲法で保障されている権利である。「公共の福祉」とは、誰が決めるのかそれは、法治国家では、裁判官でしかない。そこに正当な法手続きと公正な裁判が為されねばならない。要は、法の範囲内の処理がされるかであろう。法外もある。 それを海外旅行をする時に実感する。コモンセンスが通じるところだろうか?それは50vs50だろう。必ずしも土俵が用意されているのではなく、その土俵を信じている日本人が甘いのだと思うからだ。かってにアクセスしてくるのを止められない。それはそれが前提でブログをしなければならない。いつまともな話ができるのかわからない。自分以外は他人であり、他人は勝手な価値観を持ち世界観をもって生きているのであり人権もある。莫迦か悧巧かも自分で決めている。他人の迷惑など歯牙にもかけないだろう。 そういう私も死ぬまで身勝手に生きているに違いない。だから他人を責められないが、腹が立つのは事実だろう。時々真剣にもなるからだ。普段はどうでもいいから、嘲笑はするが見逃している。まあ好きにやればいい。くだらないのは自分だからだ。 天安門広場の一等地で国旗を守るエリートの兵士がいた。かれは職務に邁進しているのだろう。そして、この優秀な頭脳は自分はなぜバカなことをしているのだろうかと悩んでいるに違いない。ばかな時間は誰のためにあるのだろうか。自分のためだろうか、それとも他人のためだろうか。国家のためではありえないのは確かだ。
2007.06.27
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モータリゼーションの時代に入った中国は新たな課題を抱えているようだ。ひとつは貧富の格差だが、その格差は一つだけではない。50以上の少数民族を抱えた複雑さが更に多くの格差を生み出し続けているようだ。どうも日本の研究者が怠慢なのか、弱いのかは知らないが、ヨーロッパ・ウォッチャーやアメリカに対するだけ増えても困るだろう。 日本の観光客に対する現地ガイドに言わせれば、どこの観光地でも北京の市民権を持たない人の押し売り紛いのアタックに悩まされが、底の深い問題だと感じた。これは「胡同」の問題や「輪タク」に通じる問題でもあるのだろう。北京の市街のいくつかの平屋のブロックの一角を目にしたが、あれが暗部でもあるのだろうと思った。 それこそ健全さを売り込んでいる政府が、時々正体を見せるのは彼らの政府が「龍に乗っていない」証拠でもあるだろう。物事は、自然にいいように片付くのではないし、藪の中で片づけることはできないし、してはならない。それが少なくとも国際レベルなのだろう。今や国内問題はなく、すべて国際問題でもある。共産主義を口にできなくなって、強権は発動すべきではないし、してはならないからだ。 非北京市民をつくりだしたのは、誰の責任なのだろうか?アクションがあればその反動がある。キャンペーンは常にそのリアクションを如何に処理できるかにある。恐怖政治で通用しない時代なのだということを為政者はどれだけつづけることができるだろうか。そこにかかっているもいる。明るさの裏に付きまとう暗さは深いのではないだろうか。格差の問題は、アメリカだけでなく、日本も形を変えて存在し、さらに中国にも変形して広がりつつある問題でもあるだろう。まあ兎に角、個人的にはいい旅をしました。>ホテルからの眺望。23日土曜日の午前8時過ぎ。
2007.06.27
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もちろん時季外れだったのでボタンは咲いていなかったが、さすがに手厚い管理がされているようだった。それでも花が咲くころには、近くで見れることだろう。ボタンを愛する中国人は富貴をイメージするらしいが、何よりも気高さだろう。座れば牡丹なのだろう。ゆったりと咲く姿は何か中国の風景に相応しい落着きが感じられる。花弁は見れなくても、それを支えるな茎だけでもみれてよかった。来年もボタンが咲くころには、箱崎の花庭園に行こう。 牡丹が中国の国花になってもならなくても、牡丹はその価値を下げはしない。
2007.06.27
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北京オリンピックの看板がでかでかと出ているかと思ったが、意外とひっそりしたものだった。国だけが張り切っているのではないのか。お仕着せのオリンピックではだめだろう。それほど大したことではないと大物ぶっているのかもしれないだろう。いやあ、想定外。 一旦造り上げたものは大事にするというのは立派なことだが、引きずっているのではないか。ぶら下がりの社会では先行きが不安だろう。太極拳をみていると眠くなってしまう。あれでも型があり、大変な技なのだろうがそれにしても、夢でも見ているような気分がする。 あきれるのか、感心すべきなのか、よくわからない中国民族だと思うが、少数民族をいれると50以上の民族があるので一様ではない。スローガンは誰が決めるのだろうか。国花、国樹、国鳥を全人代で決めるというから大そうな国家だ。小学生のアンケートでもして決めればいいではないか。好きな花は、国花で好きになる訳ではないだろう。
2007.06.27
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旅の朝の食事が美味しく食べられると旅も愉快になる。そして朝食もよく食べる。朝から風呂にはいるからだろうか。たいていシャワーだが、時間があればゆっくり朝風呂にすることが多い。どうやら一日のスケジュールが頭に入っていると身体もリラックスしてくるのだろうか。意外と、年の所為なのだろう。 20階の部屋の窓から、北京西駅の先端部分が見えるが霞がかかり、ぼんやりしているが看板がないので建物の形がはっきり見えてすっきりして見える。如何に広告塔が景観を壊しているかがよくわかる気がする。北京も車の渋滞で大変らしい。スモッグが酷くなり公害が増えているのだろう。昔よくみた自転車で道路いっぱいになって走るシーンは見られないようだ。マイカーが急増している。 朝からゆっくり食事をしてコーヒーでも飲んで出かけるような仕事をしたいと思っていたが実際はそれも難しいことが多かったのではないだろうか。だから旅をしているとそれができるのがまたいいのかも知れない。
2007.06.27
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ホテルの朝食はバイキングで6時半からとのことだったが、少しホテル内を見てみようと2階のフロアーを覗いてみた、まだオープン前で店は閉まっていたが、大きな壷とか、店舗装飾がみられた面白かった。かなり高級品があるようだった。それから1階に下りて外に出て周囲の写真を撮ろうとしたが、監視がいるような感じだった。ガードマンなのだろうか。目つきが鋭いような気もした。数枚撮ってからすぐに引き揚げることにした。 3階のレストランは広く、受付も洗練された若い中国女性が応対していた。もう10名くらいのひとが先に食べていた。種類も多く、どれも美味そうなものばかりだった。昨夜は夕食をとってから何も食べずに眠ったのでお腹が空いていたので、少し多めになった。 上の写真は、その朝食です。あとおかゆと、コーヒーを戴きました。デザートはすいかでしたが、まあまあでしたね。翌日も同じ場所での朝食でしたが、メニューが替わっていました。
2007.06.27
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漢民族にとっては八達嶺から先は野蛮な少数民族が住み、血に飢えた狼のように襲ってくる恐ろしい土地であったことであろう。冬場は零下20℃以下にもなる極寒の地でもあった。人と資産を投入して防衛しなければならなかった。忌まわしい「万里の長城」でもあっただろう。 現地ガイドは、人の死骸で造られた長城を・・・とはっきりとは言わなかったが、複雑な表情をしていた。観光客が金を落としてくれるだけではない、内奥の気持ちは単純ではない。それとも自分たちの聖地に足を踏み込んでくる外国人への屈折した思いなのだろうか。それをお互いに理解しあえるまでにはまだ道は遠いと感じた。 ホーチミン市の統一会堂で、アメリカの修学旅行と思しき少年少女が、屋上の休憩室で寝そべって休んでいたが、少年たちにはただの観光地に過ぎなくても、現地の人には歴史を刻んだ場所であり、たとえ無知とはいえ、こころない行為は両国の友好にはならないだろう。何のための観光なのだろうか。ただ愉快に過ごすだけなら自宅でもできるだろう。何も他人の住んでいる所まで行って、土足ですまいを汚してくることはない。悪気はなくても、無知がさせる行為は相手を深く傷つけるかも知れない。ことばが通じないということは何と不便なことだろうか。ただこうしてほしいということさえ、いえないのは「バベルの塔」の時代から変わらない。>八達嶺長城
2007.06.27
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北京空港に着いて到着口で騒々しいのは東南アジアはどこも同じだと思うけれど、トイレが少ないのではないか。殊に女子トイレが大変そうだった。きちんと説明書きがないこともあり処理の仕方がわからない人もいたようだ。故宮では、トイレで西洋人の女性が倒れていたそうで、意識がなかったらしい。馴れない観光客に対するサービスが足りないのではないだろうか。郷に入れば郷に従えだろうが、親切なサービスがあってこその観光であり、その如何では好感も出てくるのだろう。 北京で二泊したホテルは、申し分のない快適なものだった。26階建ての20階に宿泊したので眺望も良かった。生憎靄がかかり遠くは見えなかったが、どうやらスモッグらしく、これがいつもの風景なのかもしれないと思ったりした。それと、北京西駅の近くで官庁関係の建物が多い所為か、公園などの施設がなかったので、外を見て歩くことができなかった。スケジュール的にもその時間がなかった。オプションで雑技団を観劇したこともあるが。夜の時間をホテルの近所で買い物をしたり、マーケットで土産を探したり、夜の酒やつまみを探すのも楽しいものだが、どうやらそういう発想が中国にはないらしい。ドイツやハワイだけでなく、他の国でもできたが、それだけ治安が悪いのだろうか、と考えたりした。 流石に自慢するだけあって、朝のバイキングは、手抜きをしない料理ばかりで美味しかった。つい食べ過ぎたが、あと結構歩き回ったので、食事のたびにビールを飲みよく食べていた。ビールは500mlで20元から30元だった。ホテルでは缶ビール250mlで国産は20元だったが、外国産は40元だった。>北京で宿泊したホテル。
2007.06.27
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妥協を許さない世界に生きていた時代があった。そして私たちはその苦難を乗り越えてきた祖先の遺産を受け継いでいるが、その価値や意味を理解しているといえるかと言えば必ずしもそうではない。そこにはそれだけの人間形成が必要なのではないか。ただ周囲に押されてきただけのことで何が理解できるのだろうか。 万里の長城とは、巨大な城壁を為し、その意味を理解できたものが真の人間なのではないだろうか。それは、巨大な社会の壁に立ち向かい死んでいった人々の遺物でもある長城が訴えていることではないだろうか。たった5メートルの幅員しかないロードは滑り易く、然も急坂や階段が延々と続いている。決して平坦ではない。それは人生のロードでもある。 中国の人は、この万里の長城をこよなく愛し、誇りにしているのだろう。それはただ美しいだけではない悠久の歴史を示し、人々に警告を発してやまないものでもある。こころにも守るべき城があり、外敵を忘れるなという戒めでもあるだろう。中国人がそれを忘れたとき、雪崩うって押し寄せる大波に呑み込まれただろう。それは、遺物としての万里の長城では足りなかった、もっと高く巨大なものでなければならないのだろう。守るべきものがない民族はやがて故郷を追われる運命でしかない。 日本にも Great Wall はあるだろう。それは眼には見えないが、高く巨大な長城なのだろう。上り続け、たどり着く者だけが、真の一日本人なのだろう。>北京西駅一部
2007.06.27
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同氏の生誕記念を祝した写真。国の記念行事として新聞報道もされている記事を見たところだ。これは、先日食事をした「四川飯店」の中に飾られていた写真だ。ガイドの話では、この店は、同氏の自宅が近くにあり、好みの料理がありよく訪れていたらしい。 思想的な背景は別として、多くの賓客をもてなした歴史と格式の名店なのだそうだ。中国人にとっての食のこだわりを感じさせてくれる。この店だけではなく、色々豆腐類が出たが好んで食べられているようだった。野菜類も素材を生かしたものが多く旨かった思う。それこそあまり肥満した人を見掛けないのは、食生活によるのだろう。油料理が多いのに、意外とヘルシーメニューがあるのだろう。 上海、広東、四川とか料理の種類があるがどれもそれなりの美味しさがあり、朝昼夕とかなりボリュームのある食事になったので体重は、運動した割には減っていなかったようだ。それこそ売店が少ないところばかり見学したので、庶民の味が味わえず残念だった。ドイツの時は、フリータイムがあって、ゆっくりできたが今回は日数も短いがそれだけ慌ただしさを感じた。まだそれだけ観光地としては洗練されていないのだろうか。 これから愈々来年のオリンピックに向けて、中国の国際人としての真価が問われようとしてもいるだろう、とツアーしながら興味深く思っていた。>四川飯店の店内で。
2007.06.27
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70年代の中国の所謂「三種の神器」は腕時計、ミシン、自転車、80年代はカラーテレビ、冷蔵庫、洗濯機。そして現代中国ではパソコン、マイホーム、マイカーになったという。即ち「自転車王国」から「自動車大国」への大きなターニングポイントを迎えつつあることを示している。これは公用車の氾濫していた時代の終焉を意味し、2003年の統計によれば全国で保有台数が1,120万台。04年1,482万台の保有台数になった。 北京市では01年の乗用車の新規増加台数の中で、個人消費者が80%を占めたという。車社会の到来は、すでに1989年共産党系の雑誌「眺望」で「中国人がマイカーを持つ」という発想を示していたという。一方で大気汚染、エネルギー不足、交通事故などの問題がマイカー推進派と否定派とで激烈な論争が繰り広げられたようだ。(王文亮著「格差で読み解く現代中国」) 現在都市部の2割の世帯がマイカー購入の経済力をもち、10年後には全国で1億台に達すると見られている。どうやら経済面から中国人の意識の変化が始まっている。しかし富裕層の間でのみで実現されているマイカー・ドリームと中国全体のモータリゼーションと同列にみることができるのではない。所得格差に亀裂が拡大していることが顕著になっており、大きな社会的問題になるだろう。貧富の差の拡大がこのまますすめば社会的矛盾を深刻化させるだろう。物と心の問題は、どこの国でも難しい課題を人間に与え続けてもいるのだ。>四川飯店の周辺で。
2007.06.26
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四川飯店の「四川料理」を食べましたが北京風で甘口になっているそうです。まあ日本人向けにもなっているのでしょうが、野菜が上手かった。流石に中国人の味へのこだわりがあるのでしょう。この料理北京について初めて食べた料理ですが、このツアーでは、世界遺産とホテルと食事がセットであるらしい。 下町の中にあり、辺りは騒然としていましたが、公安のパトカーが多かったのはどうやら胡錦涛主席の警護で特別警戒中だったようでした。目の前を主席のダミーか本物かは知りませんが通過したのには驚きました。政府高官がこんな下町に住んでいるのでしょうか。 北京市民は歓声をあげることもなく見守っておりました。狭い路地をバスが走るのも、東南アジアでは見慣れた光景に思えるのはよくあることではあるのでしょうか。それほど油ぎってもいず、味は中々でビールが美味かったですね。日本では高級料理なのでしょうね。最後にマーボが出てきました。
2007.06.26
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アクションがあればリアクションが必ずあるだろう。そして拘りもある。やはり中国との係わりはただではすまないものを感じた。すまされないというべきか。笑ってすまされる奴とそうはいかないライバルがあるようなものだろうか。潰すか潰されるかではないにしても、負けてたまるかという敵愾心でもあるだろうか。それが中国人にないのではない。実はあるのだろう。それが表面的であるかだろうし、それを隠さないひとも多いだろう。 であれば、受けて立つしかない。寧ろ受けないのはフェアーではないのではないか。相手が本意があるならそれに対峙せねばならない。観光でありながら必ずしも友好的ではないかもしれない。日中にはそれがあるのではないか、と感じた。それが反日感情なのだろうか。間違えばそうなるだろう。日本人は安易なのではないか。ただの観光先ではない。 勘違いした日本人たちが多いのではないか。ただの観光先ではない。何が言いたいのか理解してくれるだろうか。戦争は終わってはいない。相互理解されているのではない。日本人は確りした認識を持つべきだろう。それは日本人の問題だからだ。 モンゴルは遊牧民族であり、貧しい生活をし、時に飢えて、豊かな漢民族を襲い収奪を繰り返した。彼らは野獣のように人々を殺戮し富を奪い去ったそのために万里の長城は建設された多くの犠牲と時間が費やされた。その憎しみは容易に溶けるものではない。 中国人のプライドは日中戦争を通じて傷つき、やがて激しい恨みを伴っている。それは、戦後62年間といえども消えてはいない。私はそれを、福岡空港から中国機に搭乗してすぐに感じたし、旅行中ずーっと感じていた。日中関係とはそういうものなのだろうと思った。>北京西駅
2007.06.26
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世界遺産を見て歩いただけで市街をゆっくり見てきたわけではない。バスの中から見て光景は、すぐに流れてしまい、脳裏から消えていく走馬灯のようでもある。車もバスも新しく「見えた。人々も清潔で軽快なものが多かった気がする。どのバスもいっぱいだった。地下鉄が地鉄」なのだろう。駅らしい出入り口を何箇所かみつけた。 貧しさは余り感じなかったが、流石に胡同は違っていた。ホーチミン市で見かけたような街並みも見られたが、高層マンションが林立してもいた。新しい街づくりも進んでいるようだった。造成地らしいものをいくつか見た。新しい意識改革の時代なのだろう。 広大な中国では、先進地域と、開発中の地域と、取り残されている地域が分類できるようだ。一概に同じ環境ではない。ひとまとめに論じることはできないところにこの国の悩みがあるだろう。それを束ねることの困難さが重いだろう。 そこにスローガンが必要だった。北京の市街はほとんど広告がなく建物がすっきり見えるのが印象的だ。寧ろ広告を探す方が難しいくらいである。私が見た北京の市街が中国のありふれた光景ではないだろう。寧ろほんの一部のものでしかないに違いない。それは中国の先端の姿でもあるのだろう。
2007.06.26
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中国人は万里の長城は、世界最大の造作物であり、宇宙から見て先ず目につくものと思っているらしい。ところが見えなかったそうだ。何せ長さは6000キロに及ぶといえども幅員が略5メートルしかないのだから無理はない。だが同じものを造れと言っても無理だろう。一つあれば十分だろう。 冬場には八達嶺長城周辺は零下20℃近くになるという。厳しい環境なのだ。それこそ多くの犠牲者の亡骸は塗りこまれて城壁になっているという。累々とした亡骸で造り上げた長城なのだ。ライトアップした長城は美しくもあり悲しい記念碑でもあるのだろう。20時過ぎて点灯されたライト中を歩いている人々を望遠鏡でみていると幻想的ですらあった。 この長城ほど人の血を吸いこんで造られた記念碑はないのではないだろうか。6000キロ以上も続いた巨大さが恐ろしくもある。漢民族と55の少数民族がいるというその多様な顔は世界の縮図でもある。>名物の四川料理の麻婆豆腐。辛くが然も美味い。
2007.06.26
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日本人がどんなふうに見るかは想定内でしかないが、中国人が「格差」をどういう風に思い問題意識をもっているのだろうか。台湾でもなく、中国の方向性はどこにウエイトを置いているのだろうか。勉強不足である。胡錦涛政権の「科学的発展観」に基づく「調和のとれた社会」とは、あまりにも抽象的な表現でしかない。 それこそ複眼的な視点が問われている。もう徒弟制度ではないだろう。儒教的発想でもないダイナミックな展開が実現されているのだろうか。中国において社会政策が社会的事実をリードしているといえるのだろうか。ある種の犠牲が拡大して元も子もなくなることにならないようにするには余程の脳外科的神経がいることだろうと推察する。胡同のありようを目の前にして複雑な感慨を覚えずにはおれなかった。人民はまだ多くの痛みを感じながら乗り越えなければならない更なる多くのハードルがあるのだろう。 このまま若手のエリートの台頭でスムーズに経済・社会政策が推進できるとは思えない。まだ形さえ定かでないスープの海がいくつもあるのではないか。多様な「顔」をもつ中国が、抱える課題は、世界でも同じ課題でもあるだろう。殺戮ではなく、妥協であり、自存ではなく、共存であり、調和でなければならない選択だということだ。>古い中国を思わせる町の中にあった。
2007.06.26
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名物麻婆豆腐の「四川飯店」の店内に著名人来店の写真があった。美味しければいいのでどんな有名人が来ようと本質的には変わりはない。同じ料理でも値段で違いがあるのは貧富の「格差」の証明か。どうせ旅行会社の勝手な価値観の所以でもある。妥協できる線ぎりぎりのことが多いがまあ私的には納得の料理だった。青島ビールは冷えていた。 場所は故宮の近くの以前は高官が多く住んでいたところで、今は繁華街の王府井大街の近くにある。とにかく色々四川料理なるものを食べてから外に出たら、公安の車が溢れていたので不思議に思っていたら、突然近くを黒塗りの高官車が5・6台走り抜けた。ガイドの話では、政府高官の妻が亡くなり、胡錦涛国家主席が見舞いにきていて警戒していたらしい。こんな下町に公安の車が多いわけだ。どこでも同じことをするようだ。身の安全はどこも不安定要因の中にあるのだろう。 それにしても、この巨大な国の国家主席の近くにアプローチしていたらしい。狭い路地をかなりのスピード走り抜けていた。私たちのバスの10数メートルの先だったが、車内は見えなかった。それこそ古い土壁の街で、こんな場所に政府高官の家があるとは到底想像もできないだろう。故宮に近いので昔は便利だったに違いない。そういえば、あとで四川飯店を好みにしていた○小平氏の写真が飾られていた。但し、○の字が機種依存文字だそうで出ません 料理のことはあまり分からない。食べた物の写真はあとで随時載せます。上の写真は、隣の席です。
2007.06.26
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中国が未だ「龍」の夢を見ているのだろうか。勿論現代のエリートたちはそうではあるまい。そういうことを否定しないからと言って、「龍」の力を過信したりはしない。ロマンでしかないからだ。長い間龍を夢見てきたことで彼らは世界から遅れを取ってしまっただろうか。明の十三陵の皇帝たちのお墓は余りにも広大で、生きているものに何を齎しただろうか。死者は遺物を残すだけであろう。生きる者に役立つのは歴史の教訓でしかない。史記は新しい歴史に貢献できるものではない。 過去を引きずるものは先により秀でることはできない。過去を捨ててこそ先を目指す推進力になるだろう。中国の悠久の歴史は彼らの負担でしかないだろう。教訓は教訓でしかない。どれだけ巨大な樹木だろうと、時には立ち塞がる障害物になる。巨大な遺物を造り上げてきた民族はみな過去の足かせを背負い生きているようなものかも知れない。フリーハンドの西欧が歴史を支配したのだ。彼らの飢餓感こそが多くの「善」であり、まだ多くの「悪」をもばら撒いてきたのだ。 広さは時に重荷でもあったはずだ。人の多さはそれだけの痛みの強さにもなる。巨大さは自分を動けなくもさせるだろう。龍を夢見た時代は終わったのだろう。最早、大河は龍のように動き出すことはないし、皇帝もいないのだ。ラストエンペラーの溥儀は、何者でもなく、まして龍に乗ったのでもない。悠久の歴史を売り出すまでもなく、多くのものが時代を物語り、世界での評価を待っているに相違ない。価値あるものは価値があり、ないものはない。>空港から市街まで、バスから見た「北京市の樹」。
2007.06.26
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単に前のゲートの裏側に過ぎない。「福」の文字を逆さまにして貼り付け、福が出ていくのではなく、福がくるように逆さまに貼っているという発想が面白いと思った。中国人にはその発想があるのだろう。前からだけで見るのではなく、裏面をみる。そして必ずしも拒絶しない。彼らの現状肯定は自然には逆らわないという観察にあるのではないだろうか。唯物弁証法を国是としながら、その多様な思考は驚嘆に値するだろう。 強かさは決して美しさに繋がらないが大地に根ざした生き方ではあるだろう。広大な国土を抱えてまだすべてを利用した力ではないだろう。人海に頼った考えでは、これからの国際社会では通用しない。個人としての能力は見せかけでは通用しない。真に民主主義の何たるかを念頭に置くべきだし、個人の人権の尊重が優先せねばならない。その精神が足りなければ世界の一員とはなりえないのだ。 自分たちが何ものであろうと、他者を尊重して互譲の精神がなければ信頼される国際人にはなれないだろう。多くの西洋人を招き率直な意見を行くべきだ。一部のエリートだけが国際感覚をみにつけても大衆がそうでなければ意味がない。農民を豊かにし、貧民を救済してこそ正しい意見も出されるのではないか。エリートたちだけの国家ではない。パワーだけに頼った政治では、精神が疲弊してしまうだろう。>高速道・京順路ゲートの裏側
2007.06.26
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北京空港に到着したのは現地時間の15時過ぎだった。到着ゲートで大勢の出迎えのグループにたじろぎながら旅行社の名前を探したら一番最後にあった。若い中国の女性ですらりとしてモデルのような美人だった。日本語も上手だった。親切で丁寧なのは洗練された感じがする。良い現地のガイドさんだとすぐ思った。残念ながら、今日一日のガイドのアルバイトだった。 空港から出てすぐに、首都機場高速公社の京順路ゲートが上の写真。派手なゲートだ。どうやら歓迎の意味があるらしい。この手のカラーのゲートをあちこちで見かけた。皇帝は「龍」が乗り物だそうだ。それこそどこでも龍である。王さんというガイドさんの新鮮な歓迎に、これは北京ツアーはいいスタートを切ったと思ったが、道路は週末を迎えて混雑していた。ドイツ車が多く、新車が多い気がした。すぐ横はオリンピック用の鉄道敷設がされているようだった。平坦な大地がどこまでも続いているようだった。都市化は進んでいると感じた。新しい都市づくりが急激なのだろう。少しだけだった恐らくスラム街の取り壊し中の様子が見られた。古い煉瓦造りの平屋の集落のようだった。 四川料理はまあまあだったが、流石に「マーボ豆腐」は辛かったが美味しいと思った。伝統の味なのだろう。それでも北京風なのだそうだ。労働の厳しいところでは辛い物を好むといわれるから、いまの日本人に食べられるわけがない。 ホテルは五星ホテルで、20階の部屋だったので、まじかに北京西駅がみえて眺望はよかったが生憎スモッグで澱んで見えた。どうやら北京も公害の街のようだと思った。>高速のゲート。
2007.06.26
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北京空港は広い。狭い日本の空港から来るとやはり大陸だと実感もする。まあ多少は予備知識があるので、大抵のことには驚くつもりもないが、よくもまあ広く造ったものだ。広く造っていいことと不便なこともあるに違いない。問題はその先見性にもよるだろう。それでも今頃鉄道を敷設するようでは余り先見があったのとも言えないだろう。 誰でも行く北京だろうから、今さらだが、私は初体験なのでカルチャーショックもあるし、日本の文化のルーツが見えたりもする。目立ちたがりと言うのも広い大陸のなせるわざでもあるのだろう。大人のふりをしたがる特質は拠って立つ風土の気風にあるが、時と場所を弁えないと失敗もするだろう。それが世界のリーダーたる資格があるかの試金石でもある。 どんなに広くても、北京が全部空港になっているわけではない。人々は自分の住んでいる家から空港に行かなければならない。空港に座り込んできても何も始まらない。そこだけが生活圏ではないし、中国ではないからだ。何が中国のはらわただろうか。硬水をのみ黄砂を被り、用事をすませるにも時間をかけなければならない都市に住んで忍耐強くなければ生き残れないことだろうか。しかしその忍耐は適応性でもあろう。訳もわからない日本の文化人たちが多く中国で学んだが、小中国人にしかならなかったのはなぜだろうか。 あれだけ江戸時代の知識人が中国に範を求めていたのに、明治ではあっさり捨ててしまった儒教とは何だっただろうか。仏教も日本文化に根付いてはいない。西欧思想のサイズに合わない衣服を纏い明治の日本人たちは世界の嘲笑に遇うだけだっただろう。しかし子供が大人用の自転車を乗り回したとしても、道路がいつも平坦ではなかった。たちまち転んでしまった。 自分の国家を見捨てて他国に移り住んでいる中国人が、もう6000万人もいる。その人たちが現地の人々と建設した国家さえある。だがそれはためにする国家でしかないだろう。問題がないわけでもない。寧ろ中国を捨てられるかだろう。空港で働いている中国人が、世界からやってくる人々を友人として見れるようになれるかだろう。むしり取るのではなく、商売だけでもなく、本当の友人として接するには何をすべきであるか考えなければならない。それが中国人の国際人への道であろう。それは最新鋭の施設やシステムの導入では足りないものだ。 天安門広場や故宮でぶらぶら時間を潰すことでもないだろう。天壇広場でだらだらと遊んでいるのが人生ではないのではないだろうか。ちゃんと国家が人民に未来を示さねばならないと思う。もう儒教は教養でしかないのだ。
2007.06.26
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ガイドの女性の説明では、木へんに鬼と書きニセアカシヤとのことだった。それで調べようとしたが、すぐに解ると思ったら、意外に手こずってしまった。以前牡丹を中国の国花だと書いたが、どうやら看板を信じただけだった。公式には、今年全人代で決めることになっているそうだ。国花は、牡丹と梅が候補らしい。国樹は、銀杏か松が論争されている。ガイドの話で代表的な樹なので、その「えんじゅ」を国樹と勘違いしたのでわからなくなってしまったらしい。google で出てこない訳だ。 日本と中国との相互理解というのはまだまだ多くの高いハードルがあるのではないだろうか。公安という車や私服が天安門広場にはウロウロしているのだそうだ。メモしていたら、覗きこまれたこともある。いいのか悪いのかよくわからない部分が多いのだろう。それこそ国花や国樹や、国鳥さえ決めていない国であり、それを全人代で決めるというのだから、恐れ入る。でかいの小さいのかよくわからない国家だろう。 あるガイドの話で、中国人宅を訪問したら、出されたご馳走を全部食べないで、3分の1は残すこと。魚を裏返しにして食べないことなどとのことだったが、それは中国の伝統でも、他国は違う習慣もあるのだから、勝手にやればいいのではないだろうか。それで壊れるような友人関係なら、中国では他国の友人はできないだろう。それでもいいというのであれば、その伝統は因習でしかない。そうしてまで友人になろうとは世界はしないだろう。 いつまでも天安門前広場ではあるまい。広いから気持ちがいいから残すのはいいだろうが、せめてトイレくらい広さに負けないくらいの清潔なトイレ施設でも建設して欲しいものだ。同行した妻の話では、西洋人の女性がトイレで倒れていたらしい。どうも対応も鈍いようだった。これでは、オリンピックも逆効果ではないだろうか。他国の事情はよく分らないが、やればすべてうまくいくのではない。うまくやるからうまくいくのであって、問題の所在を正しく判断できなければ解答は悲惨なことになる。国内処理がうまくいっても、世界の目は甘くはないだろう。中国だけではなく、それは日本も同じだ。国民の人権を軽視したことがやがては国力を弱体させることになるだろう。
2007.06.26
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今回の旅行で300枚位写真を撮り、見直していたが到底全部は見れなかった。物見遊山というのは日本人だけかと思っていたら元祖は中国ではないだろうか。故宮といい。天壇公園といいやたら人が多かったし、天安門広場にいたっては人ばかりだった。勿論遊びばかりではないのだろうが、それこそ暑い家の中より、余程外の方が気が紛れるのだろうか。 利に敏い中国人というイメージがあるが、それは競合の厳しさでもあるのだろう。本当は何が評価されるのだろうか。賄賂だと公然と言い放つ話に後ろ足が引けるが、選抜の現実があるのだろう。一番周恩来、二番毛沢東、とう小平、江沢民・・・。毛沢東の北京市民の評価は6対4らしい。解釈は色々ありえるが、北京市民の世論と地方は違うらしい。日本人とも違う。 話は違うが、西南の役の田原坂の地を訪れ、一見しただけのエッセイストが弾痕の家がどうのとくだらない事を書いていたが、よそ者の見解とはそういうものなのだろう。見当違いも甚だしいことが多いが、そうでないものもある。それは、慣れてしまった日常では見え難い壁を作りがちだからでもある。 意外とからくりを子供が見破ってしまうようなものだろう。隠そうとすればするほど、幼稚になるのだろう。自由の味を知った市民がどういう選択をこれからしていこうとするのだろうか。日本とよく似たテレビがあっていた。コマーシャルもあった。ホテルで日本のテレビも放送されていた。時代は国際化の波が高まっている。
2007.06.25
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