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自分のエネルギーの総量はどうなのだろうか。使いきってしまうことはできないにしてもエンジンは熱くなるくらいは働きたいものだ。どうやら私の気分としては、若いころ余り活動しなかったのでその余波が今頃来ている気がしている。つまりあまり消耗せずに来たかも知れない。 昨日の午後、ぶらりとすることもないので、周辺を歩いてみた。そして驚いた。ということは、私は此処に来て20数年経つから、一度や二度は歩いているに違いない。まあその記憶も無きにしも非ずなのだが、大東亜戦争の戦勝祈願の碑があったり、古墳があったりした。小一時間歩いてこうなのだから、これは知ろうとしなかったとしか言い様がない。 高美台の大神神社に戦跡の記念碑もあった。立花道雪の時代に戦闘で200数名死んでもいる。何もないどころか、その歴史の痕跡が到る所にあるというべきなのだろう。横穴古墳跡まであったとは驚きだ。古い集落だとは知っていたが、そこまで古いとは思いがけない気がした。私たちは、よそ者でしか何のだろう。そういえばそうなのだろう。自分たちが何ものかさえ考えたこともなく生きているところがある。 私たちは何も知らずに大きい顔をして生きているのではないだろうか。知ったかぶりの阿呆ではないだろうか。他人の欠点ばかりを非難して、自分を顧みることのないそれこそ木偶の坊ではないだろうか。昨日散歩しながらそう思い続けていた。>福岡市東区。高美台から西方の眺望
2007.04.30
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早く眠ったので1時過ぎに起きた。眠たくなるまでは私に取っては朝である。時間的な常識で判断してもらいたくない。個人にとっての朝が朝でしかない。すべては柵の中にあり、太陽の下で健康に生きていた時代がすべてではなくなっている。もはや脱皮しつつあるのかも知れない。それが暗黒への序章かは知るべきもない。 ハリー・ポッターは、面白い。併し、彼は正義という名の亡霊であろう。自分が正しく、相手が悪だという前提で書かれている。それは童話がみなそうであるように創られた世界であろう。相手がどれだけ凶悪で巨大な権力を持っていようと勝つのは自分であって相手ではない。だから面白いと思い、安心して読めもするだろう。勧善懲悪は、真実を伝えはしない。 花もどちらかメインか解からないようなことをする。このガクアジサイの装飾花もそうだろう。中性花の方が綺麗で美しい。紛らわしいがこれも何かに係わる形質でもあるのだろう。安易なことは言えないだろう。解からないのは、私たちが理解するだけの能力をもたないだけなのだろうからだ。こうして、何かをしようとしているのは、それが価値があるかどうかではない。花も人間でさえ、多様な生き方を選んでいる。地上に咲く花は多様であり、人間も多彩な生き方をしているが、それはそうするべき何かのためだからだろう。 或るものは挫折し、或るものはショートする。人間の脳は、何万年も巨大化を止めている。それは限界を意味するだろうか。新たな展開を示唆するのだろうか。それはまだ私たちには大いなる疑問でしかない。花はいつも主客を逆転させるだろう。
2007.04.30
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屈しては前に歩くことはできない。屈してはならないのであって回り道は負けではないし、屈するものではない。絶望してはならない。小さな敗北は付いて回る勲章だと思えばいい。見せ掛けの勝利に酔うものは勝者ではないからだ。私たち種としてのヒトはまだ人類の拠って立つ起源を知らず、目指すべき目標さえ知らず、生きる目的さえ知らないのだ。 安易なことばに惑わされることなく、科学的真実としての人間存在を”ホモ・サピエンス”と位置付けるのであれば、虚偽に走るべきではない。疑問を放棄すべきではない。あらゆることは因果律であり、自然の摂理に則っての事象であろう。それを歪めてはならない。 どこからでもローマへの道は繋がっているだろう。それは紛れもなく私たちが生きており真実を求めているからだ。併し、その情熱を打ち砕こうとする存在もある。私たち人類の本流は確かに在るが、必ずしも善意の上に立ってはいないだろう。ニッチを得たが、そこが最後の地ではない。まだ更に先があるだろう。新たなニッチを探さねばならない。 やがて残ろうとするものと、旅立とうとするものに分かれるだろう。どちらが正しいのだろうか?
2007.04.30
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星の王子さまの物語に薔薇の話がある。どこにでも薔薇は咲くだろう。そして薔薇を愛する人は多い違いない。我が家にも毎年忘れないで薔薇が咲いている。何しないのに毎年咲いてくれる。他人の庭にも薔薇を見かける。中には惚れ惚れすりょうな薔薇の樹を見かけることがある。大輪を咲かせる薔薇に感激したことがある。 そういえば、ブーゲンビリアにも棘があって、手入れをしていたら指に刺してしまった。中々手入れが大変だ。美しい花には棘がsるという喩えは意味深である。薔薇の棘はまあ可愛いものだが、心の棘にならないようにしなければ他人を傷つけることにもなりかねない。 これから、我が家では、薔薇のシーズンになるだろう。毎朝花の蕾の膨らみをみるのが愉しみである。少し元気を貰いたい。 そういえば、海ノ中道海浜公園の中にも薔薇園があったのを思い出した。一度行かねば。>我が家に咲いた薔薇です。
2007.04.30
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どうも「僕」と言いたくない。「僕」は「しもべ(下僕)」のイメージが強いからだ。何か諂いの意味あいが強いことと、絶対服従の宗教的な感じがする。「世界観」というのも少し大袈裟だろうか。単に物の考えかたでしかない。況や自意識過剰で言うつもりもない。どうも舌足らずの言動は誤解を招き易いだろう。古来日本語は、地位の表白でもあった。封建社会が長かった所為でもある。自分を「朕」ということばは、その人の社会的地位を指していた。そのことばは天皇以外に使ってもならなかったし、同じようなことばはいくつもあり、決まり文句で、ことは進んでいかなければならなかった。議論の余地さえなかったのだ。 民衆に言語が自由になったのは戦後からでしかない。併し、本当に民衆が言語を自分のものとし、多くのスキルを経験しその価値を充分活用しているだろうか。それは甚だもって疑問だ。ひとつひとつの言語の語彙が個々人で概念が違ってもいる。それこそ「バベル」ではないが、同じ日本語でさえ意思の疎通ができないで苦しんでいる人びとが沢山いることだろう。 同じ生活レベルだから人間も同じ意識なのでもない。同じ花をみても受け取り方は様ざまでしかない。どこからみても恵まれた人たちが脆くボロボロと破綻してもいる。経済面だけでなく精神面で人間性を喪失していく現象が顕著でもある。また日本でもスラム街ができるのだろうか。ワーキングプアという人びとが増えることが予想される。格差社会が顕在化するだろう。 子を棄て、親を棄てる人たちは、やがて弱者の切捨てに賛成するだろう。多数決ですべてを進めていけば、少数者を抹殺することにも反対しなくなるだろう。それを繰り返していけば残るのは、世界中で、僅かなひとたちのグループになってしまうに相違ない。そして絶滅するだろう。 私の世界観は、これからも変わっていくに違いなく、・・・ただ、それだけに過ぎない。
2007.04.30
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流石に何処も混みそうで出かける気にもならないが、運動不足で歩きたい気分である。今日は真夏日になりそうだとのこと。天候は西から崩れており、夜半から九州は雨になるらしい。だらだらしそうなので、少し散歩でもしたいと想う。想うだけで実際は体が動かない向きがないとはいえない。 2日は、博多どんたくのパレードを撮りに行こうと想っている。その前にデジカメのバッテリーが充電できるように、今のを使いきっておきたい。車で久山まで行ってみようか、近所を歩こうか決めていない。近所はもう朝から一度歩いている。野草を撮りたいが、嵌っていくほどこころの準備もできていない。それでも、行き当たりばったりで郊外をドライブしてみようかと。 一度投稿しようとしてミスしてしまった。探していた写真が上手く出てこなかった。誰かがブログに書いていたが、写真のスペースが楽天は確かに狭いのではないだろうか。すぐ一杯になってしまう。だから、時々以前の写真を消去しないと新しいのが載せられない。多分後で滅茶苦茶になりそうだ。>朝の散歩から
2007.04.30
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まだすずめと闘っている番いのツバメが、古巣の来ております。縄張り争いではないですけれど棲家を得ようと生存競争を続けている健気なのであります。どうも移り気なので次々面白いことがあって困ります。中々読書が進みません。ハリーの6巻目の早く終わりたいのですが。明後日の2日から「博多どんたく」も始まりますので踊りも見たいし、筥崎宮花庭園の写真ももう一度行きたいのであります。 少し運動もしたい。体力を付けようと、散歩も始めており体調が良くなりつつもあります。生きている内にしかできないことは多いのです。それを自分の体調に応じて順序よく粉していかねばならない。それを誤ると直ぐにも自分の人生はリスキーなステージになってもしまうことでしょう。待つ時間とそれを遣る時間を間違えることが失敗の大きな原因になるのではないでしょうか。 「不可能」と「困難」は違う。不可能は、どれだけ努力してもできないが、困難は、どんなにそれが難しいとしても努力すればやがて可能になるでしょう。それを見極める識見が必要です。そのために多くを学ばねばならない。正しい判断をしなければならないためです。 権力は腐敗し、時に日和見になるものだということを国民は肝に銘じて措かなければならない。つい忘れてしまいがちではないでしょうか。黒を白にもするし、白を黒と言い包めようとさえする。そのために御用学者を必要とするのでしょう。そのために宗教や大学の権威やその他諸々の「道具」を使う必要があるのです。「道具」になりたがる人も多いでしょうが、人間の消耗品になるだけでしょう。 この時代が、どういうものであるかを正しく読み解くことは中々厄介ですがそれは不可能ではないだろうと思います。困難ですができないことではない。 つばめのように動体視力が要るかも知れませんね。静物を捉えているだけでは見えないかも知れない。それでも、番のメスも浮気をするらしい。それでも彼女は優れた子孫を残すためだというでしょうが。>写真は、昨日近くの踏切で撮影。鹿児島本線上り、特急つばめ、未だ東京へ行っているのかどうか。
2007.04.30
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世の中、「ああぁー、いいやつぁー、早死にする」らしい。日本だけかと思えば、どこの国でもそう思うひとがいるようだ。それは、誰もが抱く想いでもあるのだ。自分の周囲を見回してもそういえることばかりだろう。遠慮し過ぎていたのだろうか。ふてぶてしい連中が長生きするので世間は世知辛くなるばかりだろうか。勿論妄想だろうが・・・。 心の優しい人は、いなくなってしまって我利我利亡者ばかりになってしまったら、どんなにか暮らし難いことだろうか。でもそれを許容する現代社会ではないだろうか。他人よりも好いサービスを望むものが多いのではないか。他人より少しでも好いものを、豪華でいたいと内心思っているのではないか。それを増長する商業主義が闊歩しているではないか。 寧ろ謙虚にあろうとするものが社会の隅に押しやられ悲涙むせんではいないか。太った豚が痩せたソクラテスを虐げてはいないか。そういう社会を世間が黙認してはいないか。>グミ一つ如何でしょうか? 朝から、ヨーロッパの古城のDVDを愉しんでいるがルートヴィヒ二世のノイシュヴァンシュタイン城が出てきたが、彼の遺言は「私の城は神聖であり、私が死んだら破壊して、民衆に見せるな」というものだったらしい。何と傲慢な男だろうか。残った城は美しくても城主がそうとは限らない。そういえば41歳で早死にしたからといって、好い奴とは限らないということか。 他人からよく想われたいと想うことは悪いことではないが、そのために早死にすることはない。遠慮することはないのだ。他人に迷惑をかけてもそれだけの報いはたっぷり払わせられるだろう。ひとは相応な人生を生きることになるからだ。人生には王道はない。たとえルートヴィヒ二世といえども自分に相応しい悲劇的な最期であろう。シンデレラが住んだかも知れないお城も彼は100日か住まなかったし、民衆は、いまでも観光地として世界で最も美しい城として人気がある。「(新しい白鳥の城) 美しいノイシュヴァンシュタイン城」として。
2007.04.30
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もう余り観られなくなった鯉のぼりを見つけた。男の子のお節句が祝われるのだろう。丁度ジェットが飛んでいた。鯉のぼりとジェットのコラボもあるかと思ってシャッターを切った。布が風で靡くというのは、幟をイメージするだろう。どこか騎馬軍団を想起させる。 権力を争い。時に戦場に散っていった男たちがいただろう。もはやその時代ではないが、形をかえた競争がある。それは、果して進化した人間たちのすることに相応しいのだろうか。陰湿化しただけではないかという想いもする。昔は家を興すという使命が男の子たちにはあっただろう。その名残が鯉のぼりだが、もうその風習も今は昔になってしまった。よほど裕福な家庭でもないと鯉のぼりをたてることはなくなった。というよりそのスペースさえなくなってもいる。 それでも5月になれば、あちこちで鯉のぼりが観られたものだ。それがどんな封建時代の男尊思想の云々ではなく、元気な男の子がいる家があるというだけでも何かほのぼのとした笑みが湧いてきたものだ。元気な子どもたちがいて、国家は成長する活力をも生むだろう。 小さな鯉のぼりを親たちが青空にたなびかせてくれた思いこそ私たちのこころを和ませてくれるだろう。それでも一方で、高い空では戦闘機のジェットが飛んでいた。
2007.04.29
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一流のプロになるほど或る「拘り」もあるのでしょうね。例えばアマの私でさえそうだものね。何らか一片のの拘りも無きにしも非ずだもの。この写真の遠景の山は、「立花山」といって福岡市の東部にある小さな山で、立花道雪という人の城址が残っている。同じ位の高さの峰が三つあるのだけれど、方角二つに見えたりする。地元の人は他所から帰ってくるとき、この山がランドマークになる。そんな山でもある。 拘りがあるから、そのために個性にもなるが、そのひとの狭さにもなる。固執するほど見失うものも多くなる。変われなくもなる。守ろうとするあまり元も子もなくなることすらある。柔軟性を欠いてしまうのだろう。中国が日本を敵視して、或いはアメリカを敵視して結局はそれだけ世界から置いて行かれた。それに気がついて中国の今の発展があるのではないか。固持するのは進歩をも停滞させる。 それはまたどこにでも言えるだろう。安倍政権は、日本国憲法を、アメリカの押し付けた憲法だから改正というがそれは可笑しい。アメリカだけが戦勝国ではなく11ヵ国の極東委員会があり、然も、国民主権、平和主義、生存権など日本も係わったのだ。どこの国の憲法も他国の善い所を真似して作っているではないか。自民党の憲法改正草案をも見ても、それが独自の憲法概念というには余りにもお粗末なものでしかない。 敗戦というあの時期に、あれだけの憲法を作り上げた当時の政治化の拍手を送りたい位のものである。問題は多くあるにしても、拘りはそれこそ身の破滅にもなるだろう。何が求められているか?何をすべきかではないか。高い青空に飛行機雲が見えるが、これは戦闘機だろう。同じものをドイツの空でも見た。余りにも高くて姿は良く見えないが戦闘機だろう。まだこんな玩具で何をしようというのだろうか。
2007.04.29
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どうも訳のわからないのは他人様ばかりではない。自分のことも自分で時々わからない。だから他人のことを笑うつもりはない。昔の人たちは恐らく私たちよりももっと分からないことが多かったことだろうから、さぞや困ったことだろう。天を見上げて怨んだことだろう。 勝手なことをいい勝手に自己満足しているのだろう。そいつを態々言うこともないのだろう。個人の理屈は、理屈として何のことでもない。泡沫の如きものだ。自分のスケールで社会の広さを知ることはできない。只の蒙昧でしかない。真面目に遣ろうと思えば思うほど陳腐にもなるから時々は、脱皮せねばなるまい。裸も儘では生き延びることはできない。生き延びる知恵があるかだろう。 そこにある海は海ではない。ただの池のようなものだろう。そいつを海だと勘違いして人生を誤るのだろう。けちな池は大海ではないのだ。自分の内にあるのも海ではない。自分の目の前の池を海だと思う奴は阿呆という。阿呆が多いのは困ったものだ。>和白干潟。遠景は人工島。
2007.04.29
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昨日に続いて今日も和白干潟を見に行ったら、今日は博多湾の大潮だったらしい。晴天で日曜日ということもあり、多くの人が潮干狩りに来ていた。昼前だったがもう大分干潟が広くなっていた。いつも浅瀬の海の中を歩いてきた。直ぐ近くに人工島がみえ、件の大橋も眺められた。家族連れの人たちがせっせとアサリ貝を探していた。スニカーを履いているので少し歩き難かったが何とか水際までいくことができた。 娘たちが小学生の頃は、道具も揃えて、よく此処までアサリ貝を取りに来たものだ。すぐ小さなバケツに一杯なったものだ。いまはどうなのだろうか。これだひとが集る所をみると採れるのだろう。それでも食べるかどうかは分からない。人口も増えておりここにもかなり生活廃水が流れ込んでいるだろう。 遠くに立花山がみえた。流石に余程大潮でない限り、ここからの写真は撮れないと思い、バシャバシャ撮って来た。この浜辺にテレビの中継用の鉄塔が建っており、その辺りまで行けそうなので行ってみた。もう渡りの鳥たちも旅立ちしたようで殆ど野鳥たちの姿はなかった。写真を数枚撮ろうと思って出かけただけだったが、いい運動ができて満足した。普段撮れない写真も撮れたと思う。 ぶらぶらと周辺を歩いていたら、車が多いのに気付いたGWの所為だろうか。志賀島への道路もいつになく混んでいた様だ。今週は家出じっとしていた方が良さそうである。
2007.04.29
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昨夜衛星テレビで尾崎豊の没後15周年記念2時間特番のコンサートの録画を、つい観てしまった。今、彼のCDを流している。別にファンではない。ただ観察者としては興味がある。15年も経過しているのに未だに尾崎に魅かれる人たちがいるのだろうか。屈折した若者の姿と尖った棘のような青春の所為だろうか。誰も潜り抜けてきた思春期のもやもやした思いの所為だろうか。歌にそんな力があるのだろうか。音楽には馴染めそうにない日本語が、無理矢理ねじ込んでくることばには何の優雅さもない。 尾崎の歌は、一つの花の変種に過ぎない。尾崎といまの歌手たちはどう同じで、どう違うだろうか。私にはその比較をすることはできない。どちらもその価値を知らないからだ。ただよく耳にして来たことは事実だろう。何か、違うことを行っている歌手だろうかと思ったかも知れないだけだ。 尾崎のイメージというのは、痩せて神経質な体質の男かと思っていたが、昨日ライブの画面をみて、意外と太っていた。厚い胸をしていた。何故雨の中で歌わねばならないのかと思った演出なのだろうと思った。利用されたか利用した何かがあったのだろう。 話は違うが、燕と雀が縄張り争いをしている。それを公園のベンチで観察していた。これは日がな一日を観るかちはあるだろうと思った。それが何であろうと価値があるかないかは、それをする人間のレベルで決まるだろう。自分が凡庸に観察するのであればただの凡庸でしかないが、観る者が観ればそれは価値のある観察にもなるだろう。
2007.04.29
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多寡が愚かな無知も、小さな迷信さえ、やがて放置すれば我が身を呪う人生になるかも知れない。一匹の蚊が一刺したからといってじきに蚊のことを忘れて日々の暮らしを続けるに違いない。しかし、その蚊が恐ろしい熱病を運んでいるかも知れない。しかも、その熱病で世界中の大勢の命を奪うこともある。害のなさそうな外見にだまされ誰も蚊が犯人だとは思わなかった無知が後押しをした。 黄熱病は健康な状態から死に至るまで、わずか一週間という場合も少なくない。筋肉や関節は万力で締め付けられたかのように痛い、歯茎から出血し、皮膚は黄色に変わる。末期には血を吐く。多くの戦場で戦死者よりも、腸チフス、マラリアや黄熱病で死んだ。 多寡が蜂の一刺しも場所によっては、時に耐えがたい苦痛にもなるだろう。ただではすまないこともある。痛みのあるのはそれでもそれとすぐ判り治療もできるが、無知や、偏見や、迷信はそうはいかない。痛くも痒くもないからだ。そして、大抵それと気付かないまま増殖する。まるでこころのガンだからだ。 目にも見えないその病は、誰にでも襲いかかって来る。静かに見回してみることだ。私たちは、成熟した社会を造り上げてはいない。如何にも、「無知」や迷信」ではないと思わせることばかりを信じさせようとしている世界の住人でしかないだろう。 感染しないように蚊の一刺しにさえ刺されないように注意するしかないだろう。21世紀でさえそれを保障するに価するものではないからだ。
2007.04.29
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スペイン語で「ベルーガ・ペルアーナ」と呼ばれている「ペルーいぼ病」の血液を自分の体内に入れた医学生ダニエル・カリオンは、確かに無謀な遣り方で自分の体を実験材料にした。彼は戦争の悲惨さを体験し26歳で医学の勉強を再開した。そして全力を傾けてペルーいぼ病の研究に没頭した。健康な人間が初期症状で血液の接種が必要だった。当時考えられていた蛙や水質ではなくこの病気を人から人に移すことができれば、ばい菌が原因である。 彼はカルメンという14歳の「ペルーいぼ病」の少年の患部から、その血液を(教授の協力で)感染したメスで自分の両腕に刺させた。そして記録をとっていった。事態は思わぬ展開を取り、彼は死んだ。カリオンは「なるようになる。どうなってもかまわない。自分の体に接種したいんだ」と友人たちに覚悟を語っていた。 「今日までぼくは、自分がペルーいぼ病の初期段階と思っていた。・・・これは、アラルコ博士が指摘していた、オロヤ熱とペルーいぼ病は同じ原因で起きている。ぼくの症状がその明白な証拠だ」「きっと自分は助かるだろう」と語った。 墓碑銘には、 ダニエル・A・カリオン 1885.10.5 医学校6年生 科学への愛に殉ず・・・ カリオンの実験のあと、ペルーいぼ病とオロヤ熱がじつは同じ病気で、メディカル・ステージが違うだけだったことが明らかになった。原因はサシチョウバエによる感染だった。ペルーの渓谷地方にはおなじみのハエだ。カリオンは今でもペルーの英雄とされているという。彼の実験のおかけで研究が一気に加速し、国民の関心を高めて研究者の時間を短縮させた。マウスではなく、ヒトと猿の一部しかこの病気にかからないからだ。 何故カリオンは死んだか。バルトネラ菌に感染したサシチョウバエが人を刺すと、菌が皮膚の中に入る。カリオンが接種した血液には、この虫に数百回刺されたのと同じくらいの菌が含まれていたといわれる。彼の体が闘いに勝てる見込みはない。 カリオンの勇気は医学の進歩に貢献した、だが彼自身にはそれが自らの最後となってしまったのだ。
2007.04.28
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渦巻く濁流にのまれんとするものがある。せめて一時の安らぎを得せしめよ。新緑の中にあるものは生命の息吹であり、善悪ではない。社会は二者択一を求められるだけの選択ではないのだ。 何か滑ってばかりいる。絡み付いてくる柵を払い除けるだけで人生が終わろうとしているかも知れない。何かに立ち向かい抗うことを続けることでしか、自分を表現できないとしたら遂にはショートしてしまうだけだろう。 応えのない人生を生きていることを早く気付くべきであっただろうか。生命に目的はないのだ。其れをあえて目的を付加した人間だけが、生きることに苦悩しなければならない。 新緑の下で、空を見上げていると、微風が吹き抜けていく、そこにあるのは歴史であり、見えるのだけがあるのではないだろう。
2007.04.28
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その豊かな海を汚し続けている。ここは数少ない渡り鳥の渡来する海である。人工島ができてどれだけの影響が在るのか、県や市は真剣に取組んでいるといえない。誰も知らない処で何かが起きているかも知れない。魚介の生態調査を一部しかしようとしないのは知りたくないからだろうか。都合の悪い結果がでるのが怖いのだろう。事なかれ主義が取り返しのつかないことにもなる。 干潟は生物の宝庫だという。それが人間の都合で破壊されている。人工島で汚職があった。そういう人間が必ずいる。掃いて棄てるくらいいる。八つ裂きにでもしないと汚職は止まないだろう。汚職をして罰せられる奴はまだ可愛いかもしれない。汚職して陰で舌を出している奴がその何倍もいるだろう。そういう奴に限って、他人のミスを許さない奴だ。 いま衛星テレビで、死んだ尾崎豊の2時間の特番があっているのを観ていると、あの麻薬で死んだ若者の叫びが、若者の心を打つのだろうか。それを煽るマスコミがある。そんなことでいいのだろうか。そんなことで癒される心とは何だろうか。 和白干潟のようなカタルシスではない。刹那的な歌声に涙する精神で変えられる社会などありはしない。それはピュアーに似せた砂漠だろう。>和白干潟
2007.04.28
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明月院の紫陽花を観に行ったことがある。シーズンでその人での多さに圧倒された。普段北鎌倉駅で下りて、明月院まで、ゆったりと歩けるのだが、紫陽花の観覧客が多くて、かなり時間がかかったのを覚えている。それこそ紫陽花を落着いて見ることなどできなかった。箱根でも紫陽花列車に乗ったが、あっという間に過ぎてしまい見に行ったという事実だけが思い出みたいなものだ。まだ紫陽花のシーズンではないが、もう花屋では鉢の中で紫陽花が咲いている。 白から紫に変わっていく紫陽花しか知らなかったが、色々の種類があるようだ。色も色々だ。品種が改良されているのだろう。ガクアジサイも、地味なものしか知らなかった。紫陽花は青とばかり思っていた。子どもの頃見たのは皆そうだったし、雨に濡れた紫陽花の記憶がある。庭にもこのガクアジサイが、花を咲かせる準備を始めている。土地が痩せているので、肥料をやり、色々やって漸く昨年花を付けている。 写真の花が庭に咲いたらどんなにか嬉しいだろうか。この花が終わったら、根を庭に移して来年咲かせたいものだ。自分で育てた紫陽花が観たいものだと思う。 >これでも紫陽花です。白い薔薇のようでしょう。
2007.04.28
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北斎に「アジサイと燕」という絵画がある。アジサイと燕と何か関係が在るのだろうか?ふと気になったのと、昨日立ち寄った花屋で、ガクアジサイの白にピンクを帯びた装飾花の可憐さに魅かれて買うかどうか迷ったのを思い出して、散歩ついでに購入して来ました。机の上に飾るとこれがまた、程よいサイズで気に入り早速載せることにしました。 貧弱な机の上がぱっと華やいでとてもオジンの机とは、我ながら思えない。これも偽装工作でしょうか。チャン・ツィイーの女帝のパンフも何かワザとらしいですね。実は、いつもは雑然としているのですが。本立てを買ってきたら意外と片付いたこともあります。 それで、燕ですが、未だ来ているのですが、かなり以前から雀が我が家の屋根に棲んで居りまして、どうやら雀たちが燕を追い回しているという、やたら騒いでいるような気がします。縄張り争いが始まったようです。或いは、それがあって燕が巣が在るのに来なかったのではなかったのではないか、という気もします。そうなると、この戦いは燕には不利ではないだろうか。雀はかなり多いようです。 いつもちゅんちゅんと鳴いて気にもしませんでしたが、こうなると雀が憎たらしくもなって来ました。少し日和見的でしょうか。 自分の環境も刻々変化しております。
2007.04.28
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午前中動物病院に行って猫の検査をしてきた。やはり白血病だそうだ。猫白血病ウィルス(FeLV)感染症に陽性反応が出た。現時点では、FeLV感染症の治療法はなく、発症を遅らせるための管理や、症状に応じた治療になるという。 一応想定内とはいえ妻子には重い負担になったようだ。ウィルス血症が発症すれば多くは3年以内に死亡するという。潜伏感染で済むかどうかは猫の今後の運命を決めるだろう。感染末期は人間のエイズのような症状が現れるという。愉しい経験はなくてはならないことではあるが、悲しいことを経験することは心を深くするだろう。猫の宿命でさえ、何かを教えてくれているに相違ないのだ。 動物を飼うのは愉しいがまた辛いことも在る。併し、それは人間関係でも同じだろう。他人とのお付き合いを避けては通れないのだ。どれほど短い縁でもこころにいつまでも残っているひともいるかと思えば何十年も付き合っても好きになれない人間関係もある。それが一瞬でも感じるものが深ければ一生の朋にもなるのだ。 たとえそれが猫でも、小さな体に宿るものは宇宙のように広大な世界であり、ミクロコスモスでもあるだろう。猫を観察するだけでも見る目さえあれば、生命現象が発見できるに違いない。小さな猫でさえ生きるエネルギーと、それを支える投資があってこそ生き延びるだろうし、たとえ3年の寿命だとしても、自然治癒があるかも知れない。それはこれから次第だということを信じることだし、自分や家族も明るい気持ちで生きることがなければ未来さえ閉塞することにもなるだろう。>花庭園:中国牡丹
2007.04.28
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家の前の小さな公園の一本の欅の写真を撮っている。定点観測を遣りだして一年過ぎたのでどうやら一年中の風景が解かるようになった。それでも、此処に住んで20年余になるが、その時はもうこの欅もあったから、その倍位の樹齢にはなるのだろう。この団地は、切土で、丘の傾斜地でもあったようだ。その造成の前からあったのかどうかはよく解からない。 この欅は、冬になると公園に接地した公衆用道路を落葉で一杯にするし、家の前の道路も一面おちばになる。勿論公園も埋め尽くす勢いなのでかなりの量の落葉になる。この欅のエネルギーは侮れないパワーだろう。落葉で周辺の草を殺してしまうだろう。そして我が身を保守する戦略を取っている。生きることがそれ自体闘いでもあることを知るだろう。 思えば、20数年余見ているわけだが、関心をもつようになったのはさいきんんである。それこそ、欅かどうかもよく解からなかった。葉を拾い、サイトで確認したりして知った。欅通りとか、福岡にもあり、よく訊く欅だが、それとは名ばかり知っていただけだ。>公園の欅
2007.04.28
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今さっき巣を覗いたらもう燕が来ていた。少し巣作りの意欲はあるようだ。でも未だ解からない。それでも彼らの祖先が作った10数年前の巣を利用するのだろうか?そういえば、あるものを利用するだけで見つけただけかも知れない。私たちには同じ燕だが、彼らにはそうではないだろう。それは民族の意義でも言えることだ。 そこに住みそこで育つといえでも人品必ずしも同じではない。併し同じ日本人と、世界では見られがちだ。好いも悪いもそこからどう違うかが問われる。それに応えられなければ、東洋人の、黄色人種の、それこそ経済的アニマルにも見られるだろう。 燕だって祖先のものを利用することもある。それが彼らに取って最も重要なミッションである巣作りの作業を軽減するだろう。それは、親たちにとってエネルギーの消耗を防ぎ、子孫の繁栄、安全をも約束するだろう。何故なら、私たち家族の陰ながらサポートを確実に得られることでもあるからだ。 ひとは自分たちがどれだけのサポートを受けているか忘れがちだ。祖先が創り上げたひととして生きる上の知識や物や或いは文化の恩恵を受けている。住んでいる家や、食べ物のひとつでさえ、ぽっと湧いてきたのではない。庭の花でさえ、それに到る長い歴史があるだろう。 私たちは、ただ生きているのではない。あらゆる歴史が創り上げた存在で在るだろう。私は思う。やがて燕の番は、卵を生み雛を育てるだろう、その雛はいつから此処から巣立っていくそして、また子は、どこかで子を生み育てるだろう。併し親はいつか炭素になるだろう。 生命の意味を侮るな。そして、人間の尊厳を忘れるな。
2007.04.28
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「ハリー・ポッターと謎のプリンス』ともなると少年小説のようになってきた。それでも作家のJ.K.ローリングの巧みな能力に引き摺られて読んでいるところがある。全世界で3億人の読者がいるベストセラーだけのことはる。 夕方、ぶらりと和白干潟に行ってみた。実は沈む夕陽が撮れればと思ったが、雲が見せてくれなかった。それほど失望はしなかったが、草履で散歩に出たので少し歩き難かった。風もなく穏やかな和白干潟でもう誰もいなかったし、渡り鳥の姿も見られなかった。余り広いともいえないが、博多湾の一部であり、海に通じてもいる。 寝過ごして、女子大の講座に出ることができなかった。時間の調整が悪かったようだ。今も妙な時間帯である。少し前にぐらりと地震があった。多分「震度2」くらいだろう。まだ確認はしていないが。 これから謎のプリンスを少し読んでみようと思う。眠くなるまでに朝は待ってくれるだろう。 >花庭園
2007.04.27
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4000年の伝統の牡丹。牡丹に溺れる人は古代からいたようだ。それに魅入られてしまうと、他はどうでも良くなったのかも知れない。併し、牡丹もひとつの花に過ぎない。ひとの美しさに比肩はできない。併し牡丹を愛するこころは理解できる気がする。その色の深さはどうだ。その大輪はどこか高貴でさえある。 物の本質は、容易に理解できるものではないだろう。欺瞞に満ちた社会の中で人を陥れよとさえする人間で溢れている。何故他人の心を欺こうとするのだろうか。花の美しさに恥じることはないだろうか。花はそのためにあるかも知れない。ひとにこころを問うテいるだろう。 たてば芍薬座れば牡丹、そして歩く姿は「百合の花』である。この百合は「白百合」でもあるだろう。如何にも、ゆったりとして迫らないものが牡丹にはある。芍薬は草で、牡丹は木である。その安定した美しさは芍薬と対比される。 日本で咲く牡丹も、やはり牡丹であり、美しさを誇っているだろう。
2007.04.27
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立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 絢爛華麗な花のような女性の喩えでもある。容だけではなく、日頃の所作の優雅さをも包含している。つまり容姿端麗がけでは美人ではないのだ。その座れば牡丹の写真だ。 写真は持参したデジカメのバッテリーが切れてしまい携帯写メールである。花としてはどうなのだろうか。でも中国の国花だそうだ。「富貴」のシンボルでも在るらしい。そういえば 「牡丹妖艶人心を乱し、一国狂うが如く金を惜しまず」 (王叡)がある。 玄宗皇帝が長安の牡丹園で楊貴妃と酒宴を開いたといわれ、古代より牡丹は「花の王」として名高い「富貴」のシボルでもある。殊に白が好い。 また近く、写真を撮りに行きたい。晴天か、逆に雨天も良いかも知れない。
2007.04.27
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まあいい写真というこどでもない。その瞬間を演出するだけの力もないのだから、偶然の偶然でしかない。ピントを合わせるのは人間ではなくなっている。そういえば、余りピントを合わせようとすると碌な事はない。神経が疲れる。 どうしても世の中のピントに自分を合わせようとして、それが原因で駄目になる人生もある。何の為に学ぶのか、与えられた設問に答えるだけでは自分の実力は解からない。体でも鍛えた方がいいかも知れない。当たり障りのないことばだけが幅を効かせている。 花は、どこの花もいいが、そこにあるから、引き立ちひとを感動させるいい花もあるに違いない。それが、ひとつでも見つけられるのはラッキーなひとなのだろう。
2007.04.27
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新築のころツバメが軒先に巣を作り家族で喜んで、毎年来て欲しいと招待状は出していたが、暫くして来なくなり、巣だけが寂しく残っていたので、撤去しようとしたら、何時か来るかも知れないから家族から反対されてそのままにしていた。 処がである。実は番いのツバメが出入りし始めたではないか。未だ期待はできないが、取り敢えず、暫く巣の近くのテラスへ出入口を閉鎖することにしよう、と妻が張り切っている。ツバメにラブコールである。そんなことがあるんかしらん。と信じられない。もう十数年余、ツバメが巣にくるのを見かけない。それに二匹の猫がいる。まあ猫が跳びつける高さでもないがツバメは警戒することだろう。暫く様子を見なければ判らないが、偶々私が窓に立って、外の片目の三毛を見ていた目の前の巣にツバメが飛び込んできたのだ。 思わず喚声を上げた。ツバメというのはスリムなボデーをしているのですね。お久しぶりです。私が昨日草取りをし、今朝も残った草むしりをしたからではないかと冷やかされた。吉兆など信じないが気分はいい。毎日ツバメに挨拶できるなんて、思うだけでも気分が晴れるきがする。さて、午後は、出かける。何を着ていこうか。いつも着ていくものは変わらないけれど、まあいってみただけです。 何せ、ツバメが戻って来たなんてフレーズは、そう使えないものね。>写真は、はこ崎宮花庭園(4.26)
2007.04.27
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一夜にして百万長者になりまた一朝めざむれば只の人でその生涯をおわる。我慢のできない悪臭をかいだような気がしても来る。親が死んで野暮なリズムの読経を聴いているいると、どうしようもない人間の憤怒や焦慮が茶化されたようでもあったのを思い出す。 どうか怒らないで下さい。私は宗徒ではない。ありのままに生きているに過ぎないが軋轢は自ずとある。綺麗事ではすまないものが在るとしても、人生は目の前の現実である。 「ロマネスク』で太郎は、才能を持て余し、懐手して柱か塀によりかかつてぼんやり立つたまま、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない、面白くないという呪文をいつまでもくりかえしたし、次郎は喧嘩に強くなろうとして、首を左か右へねじむけてしまうのにさえ1分間かかるまでに修行したが、ふざけて花嫁を殺しただけだった。三郎は嘘つきで洒落本の作家になった。 百花繚乱、花は咲き、やがて萎れて枯れていくものかな。
2007.04.27
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太宰治「ロマネスク」を読む。今日の講義の下読みである。観念の世界で消耗してしまう男たちが描かれている。共通するのは遊びの世界でしかないだろう。自分たちは芸術家だというのが語るに落ちる話だろう。日本文学を貶めたの太宰を始めとする文学者たち自身である。 今日は、昭和9年の「葉』、「猿面冠者』、「彼は昔の彼ならず』、「ロマネスク』の講義がある。この講座の目指しているのは、出自や伝記的事実よりも、文学作品そのものに焦点を絞っているところである。やっと下読みしたところだ。 まあ太宰治という作家の余震だろうか。どう読む解くか、日本の若者たちは、芥川の終わりは太宰の始まりという未来の曖昧な不安に晒されることになるのだろう。そこから一生出れない奴もいるかも知れない。迷えば富士の裾野の原始林にもなるのだろう。まるでゲームのような・・・。 「死なうと思つてゐた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であつた。鼠色のこまかい縞目が織りこめられてゐた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きてゐようと思つた。・・・』(太宰治「葉」より) 貰った着物のために、・・・。これが日本人の感性というやつか? 厄介なしろものと向き合わねばならないのだ。やはり、河童がいるのだろうか?>箱崎宮本殿サイドから、潮井の海浜に一直線に道路が通っている。
2007.04.27
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へんな自矜の怠惰に耽っているだけか?私は狐か狸かに化かされたようなぼんやりした一日を過ごしていた。わるくいえばオポチュニストだろう。毎日毎日をぶらりぶらり遊んで過ごしているに過ぎない。花といえば五万とあり、人間といえば65億人を超えている。一つ一つ追いかけたとてどうなるものでもない。太宰の小説もだらだらと書いてある。何か文句が在るならさっさと言え。そして、独りで墓穴で掘っていればいい。他人の分まで造らないことだろう。 昨日はといえば、箱崎八幡宮の前の花庭園に行ったが肝心のデジカメのバッテリーが切れたし、帰ってそのつもりもないのに、庭いじりしたついでに繁茂した雑草取りを始めてしまい遣り出したら止まらず、妻から歓心されてしまった。お蔭で疲れた。気紛れに過ぎない。 アマはアマでしかなく、アマは遊びに過ぎない。併しプロの世界がどんなものか、多くのひとは知らないのではないか。プロはモノであって人ではないからだ。不思議なものでプロになりたがるアマたちがたくさんいる。勿論「プロもどき」もいるが、所詮プロではない。似非に過ぎない。 大昔は、それこそ日本文字は上流社会のもので庶民の文化ではなかった。然も中国の模倣でしかない。ことばの概念はやがて「上意下達」を中心とした文化に引き継がれた。文学は、浮世草子に見られるように身分(差別)社会を反映するものとなった。日本文学はそのときから楔を打たれたのだろう。>昨日のJR箱崎駅前。様変わりしていた。よくなった訳ではない。陳腐化したのだろう。
2007.04.26
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明日は、午後から太宰治の作品の中から「猿面冠者」など、を。買いかぶりなのだろうか。それとも妄想のなせる業か。太宰は、けろりしている。 花の名前を覚えるのは大変だ。それだけで嫌になる。人の名前も興味を失いつつあるというのに、花の名前は覚えられない。どうも植物の分類や整理ができなくなってきた。だからいくつか特別好きな花だけを覚えることにしている。ルリカラ草、容子姫。白い花というのは、ブランクではない、ひとつの色なのだ。白の美しさが輝いて見えた。 紅葉の若葉というのも綺麗ですね。その緑の透き通るような色が、陽光に透かされて何といえず美しい。それにしても、庭師の仕事も凄いと思いましたね。小さな花を確り咲かせている。数センチの花がいくつもありました。「はこ崎宮花庭園」畏るべし。 「酒に酔ひしれて、ほとんど我をうしなっているやうに見えるときでも、もし誰かに殴られたなら、落ちてついてふく。「あなた、後悔しないやうに。」ムイシュキン公爵のことばである。恋を失ったときには、どう言うであろう。そのときには、口に出しては言わぬ。胸のなかを駆けめぐることば「だまっていれば名を呼ぶし、近寄って行けば逃げ去るのだ。」 四季を彩る花ばながある。
2007.04.26
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はこ崎宮神苑花庭園に行って来ました。どんよりした空模様、少し蒸し暑い感じでした。どうやら黄砂もあるのでしょう。久しぶりに自宅からJR和白駅まで歩きました。香椎線から鹿児島本線に乗換えて箱崎駅まで行き、はこ崎宮まで歩きましたが、数年前に新しい駅になっており、新駅で下りたのは初めてでしたので少し迷いましたが、どうにか八幡宮を見つけました。どうやら大修繕中で、工事中でがっかり。 目指す庭園は、地下鉄の「はこ崎宮前駅」のすぐ近くでした。この庭園は、秀吉が箱崎大茶会(1587年)より400年の記念して昭和62年開園したそうです。枯山水の庭園で牡丹を中心としている。庭園は、年中色んな花が咲くように工夫しているらしい。 ・1~2月 冬ぼたん ・4月 牡丹 ・5月 しゃくやく ・6月 ゆり ・9月 りこりす ところが、若干心配はしていたのですが、デジカメのバッテリーが切れをしてしまった。庭園にはいり撮り出した途端に警告ランプが点いたのでした。どれくらいもつか分からなかったが、できるだけ使いきりたいと思ったのが裏目になったようだ。それと矢張りスペアを用意すべきであった。「後祭り」である。それでも、まあ場所が分かったので、近いし亦、来れば良いと思い直し、カメラを気にせずに観賞してきた。 それにしても、それほど広い庭園でもないが中身の濃い庭園である。250品種2000株で多くはないが、中国牡丹などがあり、いい庭園だ。それこそ小さい花にも名札があり、然もその細やかで、奥床しい花々は感動ものである。 牡丹は、中国の国花として親しまれている。 「牡丹妖艶人心を乱し、一国狂うが如く金を惜しまず」(王叡) 名 花 傾 国 両 相 歓 長 得 君 主 帯 笑 看 解 釈 春 風 無 限 恨 沈 香 亭 北 倚 欄 干 李 白 ・大空に延び傾きける冬木かな 虚 子 ・火のけなき家つんとして冬つばき 一 茶 ・顔に似ぬ発句も出でよ初桜 芭 蕉 ・山くれて紅葉の朱をうばひけり 蕪 村 まだカメラワークが分からないので上手く行きそうにないので、そういう意味では練習になると思っている。
2007.04.26
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車だと直ぐですが、徒歩と電車で、箱崎周辺を散歩して来ます。天気も良さそうなので、あちこち花の写真を撮ってまいります。電車も久しぶりです。>和白コースの昨日の躑躅です。
2007.04.26
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元気な時は余り感じるものはないかも知れないが、何の苦痛もなく動けることに感謝すべきかもしれない。それでも不遜でいたいとも思わない。他人からどういわれても構わないが、無視するつもりもない。やがては、淘汰は在るのだろう。共通認識は大切だし、同時代人として知らなければならない現実も在る。 誰が先を歩くから問題ではなく、その方向性が問題だ。昔に比べて善いところも悪いところもあるだろう。それをきちんと整理して、棄てるものは棄てるべきだし、残すものは決然として残す努力をすべきだろう。曖昧にしてはならないし、判断することを放棄してはならない。それが、何であろうとそうしなければ禍根を残すことになるからだ。 やがて到る所を知るだろう。それまでは、「我々は苦悩の底に沈むことなく、抗い続けるのだ」。そのことを忘れないことだろう。ないのをもたもたしているのだろうか。自分を曖昧にしているものがある。それを早く見つけて、闘うべきだろう。 薔薇はまだ、蕾だが冬を乗り越えて赤い花びらを咲かせるだろう。今年もひっそりと我が家の薔薇が咲く。
2007.04.26
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大学も新入生を迎えてめっきり人が増えた感じがする。どこに行っても学生がいるというのもこのシーズンならではことだろう。それにしても、大学が静かだ。良い意味だけでもない。女子大が異常に静かだとは感じていたが、人の声がしない気がした。議論くらいしてもいいではないか。他人が見ていようと見ていまいとお構いなしの元気な奴がいても少しも可笑しくない。相手を認めているから喧嘩もするのだろう。 解かりもしない難しい講義を聴いたいるのだからストレスも溜まるし、抑圧しているものが在るはずだ。それを時々爆発させて議論すればいいではないか。自分の甘い思想を、優柔不断を暴露して自己卑下して見せるのも善い勉強になるものだ。議論をするような相手がいないだとか、孤独だとか、それでは何の為に大学で学ぼうとしているだろうか。大学は墓場ではないはずだ。自分のイデーを捨てに行くところではない。 いまの学生も、むかしの自分の経験したあのしみったれの乳臭い場所にいるのだということを知っている。悩み苦しんでもいるだろう。でもその容が様変わりしていることだろう。それも一応理解できる。高いハードルを超えないことには置いて行かれる強迫観念もあるに違いない。それだけ、厳しい社会状況でもある。親方日の丸で、年功序列で、のんびりしていたサラリーマン暮らしをしていた時代でもないし、そういう国際環境ではない。 にも拘らず、大学二法が成立した頃から、やはり少し大学は悪い方へ変質して行った気がしてならない。政治に関心のない学生などいるはずがないと思っていたが、どうもそれが白けてしまい可笑しくなっているようだ。というより去勢されたか?>いつも図書館を利用させて貰っている大学のビューポイント。
2007.04.25
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国際協力の世界で「ガバナンス」とは、アフリカを中心とする多くの途上国で経済発展や貧困緩和が思うように進まない中で、政府の意思決定の在り方や権力の行使の在り方の重要性が注目されるようになり、援助の効果をあげる前提条件としてのグッド・ガバナンスが協調されるようになっている。現在のガバナンス論議は、途上国の多様性を反映し、ガバナンスの影響を如何に的確に把握することができるかでもある。 ・標準的なガバナンス論議 ・ガバナンス指標 ・計量分析 ・相関関係・因果関係 ・事例研究 ・コンディショナリティ ・ガバナンスの主流化 ・CPIA ・普遍主義・相対主義 ・ドナー主導 どうも、現実が先行している。どんどん宿題が増えているが、まあ自分の怠惰を嘲笑するしかないだろう。 しかし、我々は苦悩の底に沈むことなく、抗いつづけねばならない。>香椎宮 古宮跡
2007.04.25
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イチョウは中国が原産地。この地球には現在、一属一種しか残っていない珍しい植物でもある。2億年前のイチョウは、葉に切れ込みがあったようで化石が残っている。現在の葉と大分と違う。1億5千万年前の中世代、ジュラ紀では、爬虫類全盛の頃で、イチョウも他の植物群を圧して栄えていた。 ところが7千万年前から急激に衰退して、その殆どが地球上から姿を消したという。それこそ絶滅した恐竜たちと同じだが、イチョウは一種だけ生き残ったという。それが私たちが日本中で見ているイチョウだというから面白い。 明治29年(1895)東大の平瀬作五郎が、小石川植物園で、毎日イチョウの木に登り続け、イチョウの受精の瞬間を観察したとして遂に世界で初めて発見したとして有名だ。 イチョウのエキスが最近科学的に注目されるなど、人間との係わりも深いようだ。一種だけが残っているというのも興味深いものがある。恐竜は絶滅したのに、何故生き残ることができたのだろうか。思えば不思議な話だ。 明日は、箱崎宮の植物園に花祭りがあっているらしいとのニュースが流れていたを観たところだ。写真を撮りに行こうかと思っている。
2007.04.25
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私大の図書館のセキュリティも磁気テープを利用しており本格的になっている。やっと新カードが発行されたので貰いに行って来た。丁度新入生のクラブ募集が賑やかにされているところだった。ついでに少し図書館で閲覧して、新カードで新刊本を3冊借りてきた。 ・社会学の発想 ・何が社会的に構成されるのか ・アジアのガバナンス これで、3大学と2公立図書館で、5カードである。何はなくても「図書カード」だが、私大は有料である。数は増えてもどれだけ内容があるかである。細かく言うとそれほど満足しているのではない。どうも完璧ではない。それだけ私の準備ができていない所為でもあるが、いずれにしても直ぐショートしそうなのは言えるだろう。 それこそお茶を濁すようなことばかりで、人生が終わりたくはない。自分がどれだけ自己満足しようが、人格形成の完成などというのは陳腐でしかない。納得することをしたいだけなのだがそれが中々、難しい。>昨日香椎宮の境内で、植木市をしていた。花みずきか。
2007.04.25
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女性は失恋の痛手など髪を切ればさっぱり忘れられる。もしそうでないとすればその女性は変わり者かも知れない。ひとは大抵誰とでも生きていけるだろう。あたかも傷付いた皮膚や肝臓の再生の如く、新しい恋もいつも待っていて呉れるだろう。それを何かで縛る方が間違っているのだ。 心臓の再生だって、将来どうなるか判らない。生体に秘められた再生能力は、それを理解できるまでには、人間を寄せ付けてはいない。横市大のある教授は人工血管を例に「医療は自然治癒の人為的誘導である」という。杉田玄白は「医事は自然に如かず」と語る。 ひとはよく生きるように、自分の環境や自分自身をも変化させ適応できるようにすることができるのだ。そうしないのは自分の蒙昧でしかない。近代医学を知らない貝原益軒でさえ「薬を飲まずして、おのづからいゆる病多し」といっている。 何を語るや荒れ果てた室ありて、祀ってあった。謂われも何も知らないが屋根には苔が生え、崩れた石が何をか語らん。訊きたいものには聴こえるかも知れない。「鰯の頭を信心から』、といえば叱られそうだが。
2007.04.25
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一見管理の行き届いているかに見える香椎宮だが、こんな樹木もある。何か手当てをすればいいではないかと思うが手がないのかもしれない。境内の真ん中に如何にも無惨な姿を呈しております。宮司とすれば、見せしめか、何かの警告のつもりでしょうか。放置せよとの話なのかも知れないと思ったりしました。それでも生きているのだぞ。でしょうか。 これはどうも昨日今日の話ではない。日本という国家も平たく申せばこんな有様かも知れないと思ったり、わが身に引き当てて俺も腸が無くなっているのでは?、と色々する訳です。東北と違って、樹木の保守と言うのは余り遣らない。金沢の兼六園で庭師が冬の準備をしているのを観たことがありますが、雪害対策をしないと樹は持たないそうです。それに比べれば温暖な九州では樹木は放置されている。邪魔になるとどんどん伐採してしまう。余程特別の由緒でもないと大切にされないようです。 すぐ近くに「御神木 綾杉」という1800年前に神功皇后が植えたというのがあるが、そちらは手厚くされているようです。 「ちはやふる香椎の宮のあや杉は 神のみそきにたてるなりけり」 (新古今和歌集 読人不知) 「秋立つや千早ぶる世の杉ありて」 (夏目漱石) 人間は不思議と、見ているところが狭いと見えて、自分が観たいところしか見えないモノかも知れない。お寺だって、助けを求める人をどれだけ救っているだろうか。この無惨な樹は、それを語っているようでもあります。それでも、多分私だけではなく、今生きている人間よりかは長生きするのかも知れないと思いました。>香椎宮境内にて。
2007.04.25
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別に「甘酒」を飲みたい、のではないが、呑み干したい何があるだろう。甘いのは、どちらかといえば苦手になってしまった。それでも、この「甘酒あります」やたら弱い。見るとふらふらと買ってしまう。いつも口に入れて、吐いてしまおうかと思うのだ。だが捨てきれない。「何て、俺は莫迦なんだ」「犬猫だって、食い物は選ぶだろう」、甘酒なんて!! この写真の茶屋で、桜の咲いた頃、周辺に屋台がいくつか立ち、珍しく人で賑わっていたそして甘酒を飲んでいる老女たちを見た。懐かしいと思う人たちもいるのだろう。そういう人たちの為に、商売抜きで商いをしているのかも知れない。おそらく、平日は誰も飲まないし売られないに相違ない。そんな商売にも何か温かいひとの温もりがある。 老婆が店子をしていた。愛想がないのは実はご愛嬌なのが九州である。ちゃらちゃら言わない。余程「おばしゃん、甘酒ばあ、くんしゃい」といいたかったけど、やめた。昼飯を食べる前だった。店だけの写真を撮った。もう建物も古そうだ。室内には、昔の写真が貼ってあった。テーブルと椅子は、かなり古い木製だった。飲み物の自動販売機がずらり並べてあった。ここに売店があるのに、そちらの利用が多いのだろう。>香椎宮構内の売店
2007.04.25
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どうですか? 銃口の前に立つのと、撃つ方のサイドにいるのとでは気持ちが違うだろう。上の写真の話です。これは香椎宮の神殿の前に置いてありました。どこかも宮さまが贈られたとありました。何せ、旧日本海軍の戦艦の大砲ですから巨大砲です。 戦争の前で身動きできなかった人びとの気持ちが解かる気がしませんか。自分の鼻先にこれが向いていたら、大抵の人間はビビリまくるでしょうね。こんなものを官幣大社香椎宮には神殿の前に、いまもある訳です。何の疑問もなく置いてある。除けろというひともいないし、まだ何かの記念で置いてある。 人間は炭素と水でできていますから、跡形もなく消えてしまいますが、鉱物は、そうはいきませんから形を変えるまでは残り続けることでしょう。脅すのも脅されるのも人間次第なのでしょうが。でもアメリカでは毎年多くの人が銃の為に殺されてもいる。レイプもされているのでしょう。暴力に屈するという悔しさはそれが何であっても同じでしょうが、銃ほど人間を傷付けるものは他にはないのではないか。人間の創り出した狂気の象徴であるでしょう。決してプライドではない。 この写真を撮るつもりはなく、ふと造形美に魅かれました。そしてこの砲身の色の深さです。この色合いの重量感は只事ではない感じです。どこか権力とか、暴力とかそんな大きな威圧感を覚えました。そして、反対側の銃口を写したくなりました。それだけです。
2007.04.24
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昼寝をするけれど、夜は3時間くらいしか睡眠しないというか、できないみたい。眠くなったら寝るのが一番だ。先程下痢気味で薬はないかと起こされてそのまま、起きて来た2時間くらいしか眠っていない。 ブログを書いているが、この時間帯はメンテにかかるとバックアップされずに消される惧れがある。3時まで、簡単なものにします。メンテでなければ追記します。 追記 さて、話の続きですが、大分暖かくなり、真夜中の台所も寒くなくなりました。そこで、また台所のテーブルを机代わりにしています。この方が何かと都合が良いので気に入っています。家族の評判は悪いようですが。先ず、コーヒーがいつでも飲めるし、偶に真夜中の料理をしながらブログが書けますから。何せ椅子の真後ろにシンクがありますからね。 弁当の準備をしています。残念なのは家族が弁当を持って行かないことですね。頼まれれば作れますけどね。食べるものを作るというのは、こころを豊かにすると思いませんか。何か浮世の憂さを忘れます。私の母は、52歳で亡くなりましたが料理がすきでした。自分で色々工夫して創作したものを食べさせてくれました。外食の味を覚えていて試作していました。そういう意味では、料理を作る楽しさを知っていたのでしょう。 真夜中、コトコト、台所で母の料理している音が、子どもの頃から何ともいえず好きでしたね。もう何十年間も遠い昔のことで、その音を聴いてはいませんが、書きながら思い出すものがあります。母は、私の結婚も、孫の顔も見ずになくなりました。 食べることをそれほど深く考えたことはありませんでしたが、人間も長く遣っているとその大切さが分かります。食べろ、食べろと喧しくいう母を嫌がっていた若いころの自分が恥ずかしくなります。食べて生きる意欲が湧き、考える力も出てくるのだと思います。 真夜中に料理を作っていると、それがよく分かる気がします。>写真は、旧日本海軍の大砲です。何故香椎宮にあるのでしょうか。
2007.04.24
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自分らしい生き方探しとは、価値観とか、生甲斐とか、要するに個人的なことに過ぎないのだろうか。もっと生き生きしたいとか、自分の能力をどうとか、何のために生きているか考えるとか、生きる充実感とか、これから自分のために生きて行きたいとか、要するに国家にとってどうでもいい個人的な問題でしかない。 人生の終わりに、ああ、生きていて本当によかった、と思えたとして、それが何だろうか。そんなことを真面目に講義しているのだから、ひとを食った話のである。どうやら引導を渡したくて仕方がないらしい。参りました、といって欲しい人たちばかりなのだろう。そうは問屋が卸さない。 内なるコンパスなどあるはずもなく、自分だけの平安が何だろうか。問題を矮小化したがるのは、自分の仕事を楽にしたいだけの役人たちの陰謀でしかない。苦労せずに自分ばかりは気楽に生きて行こうなどとは見上げた阿呆だろう。 何かの始まりは、何かの終わりでしかなく、しかもその先に何があるかだろう。次々にあらたな問題が発生している。新しい手立てのないものは行き詰るだろう。明日に向かうのに昨日と同じ道を行くことはできない。この山門の道も束の間の夢なのだろう。>香椎宮
2007.04.24
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そうはいっても中々できない。土台死にそうもないからだろうか。度々でも困る。遂にそういう死んだ気にもならず、頑張りもせず、真剣にならないまま、終わるだろうか。それも良い。案外何もできないのかも知れないから。往々にして他人を巻き込んでしまうことにもなるだろう。独りで革命はできない。 どうもね、神社とか、よく判らない。皇族がどうとか。天皇家と係わりがある。皇族の手植えの木とかいうのがあったりする。今日香椎宮を良いポイントはないかと、歩き回ってみた。そうしたら、色々あった。調べたら面白いのだろう。何せ歴史があるから仕方がない。香椎宮にも関わりのあるひとが何人かは知らないがいるのだろう。そして伝統を継承してもいるに違いない。藤棚があった。ひととものが何を伝えよとしている。それが理解できているひとがどれだけいるのだろうか。戦争の傷跡もいくつもある。神社の果たした役割は小さくはない。 それをただ阿呆のように、能天気で遊びに来る奴(私)もいる。ただ葉っぱが綺麗だと感心しているだけでしかない。>香椎宮内。
2007.04.24
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原子力による電力について電力会社がどれだけ責任を取れるのだろうか?どれだけの知識をもつ人たちが働いているのだろうか。一連の重大事故は、寧ろ大事件ではないだろうか。ひとつ間違えば臨界事故になった可能性があるという。それとことを隠そうとする態度は重大だ。然も多くの国民に生命に関することである。営利企業に過ぎない電力会社の体質が浮き彫りにされた。 安全意識も、原子力の知識もない人たちが原子炉を動かしているのではないだろうか。ほんの一部の人間だけが知識があっても、緊急事態に対応できるだけの安全システムが脆弱であることを示している。間違ってでは済まされない重大事故になりえることがいえるのではないか。多くのひとびとが被曝する可能性があるだろう。それは個人の責任では負いきれない事故でもある。原子力は安全だ、安全だとCMまで出していたのは、どこの電力会社だろうか? 国や国民の安全が軽んじられていると一概には言えないとしても、こうも裏側が分かってくると、どうも信用ができなくなるだろう。都合の悪いことは隠していれば誰にも分からないくらいに考えていたのではないか。それは、経営するものや管理するものが、その原子力の危険さえわからないからであろう。それだけの安全の知識も能力もない者たちが、原子力を動かすということが、重大事故に繋がることだろう。 その力もないものが、コントロールなどできるはずはないだろう。それこそ時代遅れなことばかりしているとその報いを受けることになるのではないか。 安全といえばそれで済むというのだろうか。為すべき事をせずそう口ばかりのひとが多いのではないか。それは、あらゆることでもいえるだろう。愛してもいないのに愛しているというのと同じではないにしても嘘つきであることには変わりはない。>今日の香椎宮の池
2007.04.24
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近くに大した山もないのに何故湧水で然も名水なのだろうか。勿論昔から続いた由緒の在る名水なのである。田舎であれば納得がいくが、らしい環境でもない気がするのだが、未だその詳しい内容を訊いたことがない。それでも、水道水よりか、大分と美味しい気がする。 夏になると必ず沸騰させるように、との貼り紙が出るからそこそこ名水なのかも知れない。「どうとかいう風聞もあるけど、大丈夫ですか」と、知人からの話も聞いたことがあるが、意外と懲りずに愛好者が居られるようだ。遠くから来られる方もいる。なにせ、いまや希少価値がある名水百選なのだ。私も、コーヒー専用で飲んでいるが、まあ惰性もある。 写真で見る如何にも幽玄としたところに見えるが周辺は住宅地でも在る。まあ、物陰に隠れたスポットみたいな感じだ。季節感もある。家から7キロくらいなので余りに苦にならずに来ているが、いつまで来れるか、それとも枯れてしまうか、水質が変わるかは分からない。それが分かるまででも続けるつもりでいる。 少し、気温が高くなると、時間帯を考えていく必要がある。やはり午前中の方が水が澄んでいる気がするからだ。 不老水周辺の風景。
2007.04.24
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香椎宮の不老水を貰い、ついでに写真を撮ってきた。30枚くらい。香椎宮の構内と、人工島のアイランドシティ中央公園「グリッピの森」、雁の巣公園と周ってきた。まあどうにか体調は戻りつつあるようだ。外で弁当を食べるのは、とても気分がいい。これから、良い季節になるので愉しみである。 少し走り回り過ぎたのか、疲れた。不老水の水場には、先に老婦人が来ておられ、私でさえ20リットルの水缶で100mもない距離をキャンターで運んでいるのに、両手に重そうな水缶を下げて帰られるのを見かけた。「お強いなあー!」、感心するやら、こちらが恥ずかしいやらだった。そういえば、義祖母たちも、腰が曲がっているのに、よく働いていた。どうも鍛え方が私たちと違うと思ったものだ。私が、柄杓で水缶を満タンにして、帰り方々そのご婦人を探したもうおられなかった。 ついでに香椎宮を少し撮影しようと思い、何枚か撮ってきた。丁度植木市があっており、苗木が売られていたが高そうなものばかりだった。盆栽や、花みずき等があった。
2007.04.24
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つくづく明日のことは分からない。卑近な例でも専業主婦の主婦だった妻が、とても通勤電車で天神など勤めることはできないといっていたのに、平気な顔で出勤しているし、30年間余サラリーマンしていた私が、家にいる。たった数年前まで全く違う生活をしている。少なくとも突然ではないにしても、ある時から昨日と違う病人にさえなってしまうだろう。 PCを購入してからもそれまでの日常とは違ったし、或いはデジカメだってそうかも知れない。何かが大きく変わってしまい昨日と違うこともあるだろう。違うことをしている自分に驚くことも多い。それも違和感もなしに遣っていたりする。人間とは何ものなのだろうか。その本性を自分では気づかないままかも知れない。 目が覚めたら、昆虫になっていたという空想は、何かを暗示しているかも知れない。人生は新しい経験の積み重ねでしかない。昨日とは違う何かがある。若いころはそれが何でもない日常にしか思えないだろう。困れば耐えればいいだけだし、それに耐えるだけの体力や回復力もあるからだ。 ぶらりと出かけて来ます。弁当をもって、どうにか雨はもちそうです。
2007.04.24
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有能なリーダーが優れたリーダーとは限らない。リーダーは皆をどこへ連れて行こうとしていますか。アポートシスかも知れない。彼の世界観をどれだけ知っていますか、共感できていますか。彼は自分の思想を表明しようと努力していますか。できていますか。私は、少なくとも安倍内閣に対して疑問を持っています。 有能だから、出自がどうだからではない。自分の本音をどれだけ表現できるかであり、自分の論理を明らかにして、どこが間違っているか、をスキルすることができないと信用できない。日本人にはヒーロー待望論があるといわれるが、自分たちで土壌を造らないで、「たなぼた」を望むのは陳腐でしょう。勿論安倍氏の危険な実験に付き合うつもりはありません。 社会の矛盾に取組もうとしないのは誠実な態度ではない。世襲で伸し上がった人物には政治を論じる資格がないのではないか。どれだけ忍耐強く他人と交渉して相手の気持ちを引き出すことができるでしょうか。彼の多数決の原理は、強者の論理でしかないし、優れたリーダーとはいえないのではないか。 朝から、3時前に起きましたけど。ゴーヤチャンプルを作りました。台所のテーブルでPCを動かしていますので、料理はし易いこともあります。昨夜のキンピラ牛蒡は概ね好評でしたね。また作れとのリクエストがありました。半分は主婦しております。>写真は、家の前のゴルフ場の正門ゲート付近です。
2007.04.24
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