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「 自分史 」 第五章 平成一五年一二月一日 WEBサイトで、淵野某をみつけた。やはりである。農業関係の助教授をしており、拘りの人生を生きているらしい。一人でも世間に名の知れた友人がいることは嬉しいことだ。それにしても、彼がどこまでの男か。分からない。 余り、関心もないが。 二日。快晴で、江ノ島から、光る海が展開して、快調なドライブになった。素晴らしい。数百人のサファーが波乗りを愉しんでいた。ふと気が付くと富士山が江ノ島の傍に聳えてもいるのが観られた。これは、いつまで横浜に居住するか分からない私としては、二度と望んでも、拝めないかも知れない。 大和で買ってきた、ニギリ寿司弁当をして、昼飯しようと思い、134号線沿いのコンビニに車を停めて、昼食することにした。光る海と、江ノ島が見え、富士山が冠雪の美景が何とも表現しがたい美しさだ。 人はしばしば素晴らしい瞬間に遭遇するが、それをして、感動をもって感受することができない。傲慢か不遜か。 何とも寂しいこと。折角の瞬間が、普段のつまらない時間に成り下がる。 会社の車とガソリンで、観光ドライブした。楽しくなり、秋の三浦半島をドライブした。 三日。遅い朝飯。パソコンを持って「MM21」に出かける予定。 寒い一日になりそうだ。 桜木町駅前クロスゲートのスタバでトールラテ340円。それを片手にガラス張りのレストルームに移動した。さて、図書館に行くか。ここでのんびりするか。決めていないが、そとは冷たい風が吹いていたので、そとを歩くのは止めよう。 先ほど、博多に電話したら、今日は、妻は休み。娘は、バイトに出かけたらしい。 悩みが無い訳ではないが、平穏な日々だ。 最近は、パソコンだ。こんなに面白いならもっと早く買っておくべきだったが、あとの祭り。そんなものだ。以前書いていた日記をワードに代えてみようと思う。 誰もいないルームで、ラテを飲みながらキーを叩いている。ガラス窓の外には、ランドマークや、桜木町駅前の広場が見えている。銀杏並木の黄葉が僅かにのこり季節を感じさせている。そして、眼下にクリスマスツリーが飾られて夜はライトアップされるはずだ。 そういえば先程からクリスマスソングがBGMで流れている。師走の定番だ。 気が緩んできたせいか、少し眠くなってきた。 シネマでもと思いワールドポータースに向かう。ちと寒いが、汽車道を歩く。相変わらず多くの人たちがあるいていた。ここのロケーションは最高。FNNの皮ジャンを着たカメラマンがランドマークビルにカメラを向けていた。ヘイチン楼のチャーシュウ麺を食べたくなった。ビールを飲んで良い気持ちになって午後を過ごすか。ビブレは、休日のようだ。然し、止めた。歩こう。クイーンズスクエーアから、「動く歩道」を過ぎて、桜木町まで戻った。帰って眠ろうと思ったのだ、やはり疲れているようだ。 成熟した年齢になったが、中身は半熟のようだ。私は、どうも、悟りきった人間ではない。未だ良く理解できていないことが世の中に沢山あるようだ。 これから、これから、明日がなくとも、今日がある。 悟りきって生きようとは思わない。そんなに偉くもないし、他人を批判できる程、不遜な人間でもない。これからも利口に立ち回れるとは思えないが、タイムリミットがある。 酒がそれ程好きだとは自分では信じ難いが、高脂血症だから、飲み過ぎには違いない。 それと、病気がある。中々、コントロールできない。要はヤル気だがどうもそこが怪しい。偽善は嫌だが、どうも本気になれない仕事をしているのがどこかで引っかかっているようだ。帰宅して、DVDを観ながら、うとうとした。 さて、今日は、スタバでコヒーを飲んだだけで、一日が、過ぎてしまったようだ。 私は、結局何をしたくて生きているだろうかと考える。後付けの理由で若い内は良くても、これからは、確たる意思がなければならない。 四日。図書利用券をなくして、図書館に行くのを止めている。利用券が警察にあるのは分かっている。二俣川駅で届けて警察署に貰いに行かねばならない。気持ちはあるが、身体がそちらに向かない。最近運転することが多く、目が疲れる所為もある。今日は、青空が広がり良い天気のようだ。さて、有意義に過ごすには、どうするか考えよう。 日本の外交官二名がイラクでテロに遭い殺害され、遺族が日本に遺体と共に帰国するとの報道がされている。自衛隊の派遣はそのために年内はないだろうとのこと。行けばテロが繰り返されるだろう。他国に軍隊を送れば、名目国連軍かも知れないが、イラク国民にとっては抑圧である。 日本は、国益があるというが、それは飽くまでも現政権の利益でしかない。米国やそれ寄りの報道ばかりが目立ち、反対意見が出難いのは昔と同じだ。あれだけ、平和だ。平和憲法だと言っていた人たちが、今何をしているのか。ご都合主義でしかないのか。 何時も肝心な時に、世論は無視され最悪の事態を招き、その尻拭いをさせられる。誰も望んで茨の道を歩きたくないと言う訳だ。然し、誰かがその役割を果たすことになるだろう。その人が誰か知らないが敬意を表したい。 正義は、声高に叫ばれるほど安易ではなく、素朴でもない。何時か証明される時を待たねばならない。それが、百年先になろうと、何が正義か。いま生きている者には目先のことしか見えない。米国は、いま確かに一人勝ちの巨大国だが、世界ではない。覇権主義の国家は、何時か過去のものとなる。そのとき日本は、いま追随していることへの報復を受ける羽目になるだろう。小泉首相は、米国との共存が国益だというが、強者への追従でしかない。外交でもない。米国は、ネオナチの巣窟だ。その内、また保守主義が支配して、他国のことに関心が無くなるだろう。イラク戦争はある意味宗教戦争だ。そして、石油覇権のための侵略戦争だ。強いものが自国のためにすることがナショナル・インタレストといっているだけのこと。米国は、いつも戦争によって権力を拡大させてきており、それは究極的には、核戦争を招くだろう。米国の戦争屋が、そのことを企図しているように思える。彼らは、自分たちの見入りしか考えない守銭奴だからだ。百年後世界が消滅しても何の関心もしめさないだろう。政治家は彼らと闘うことなしに明日を考えるべきではないと信じる。最も今日的な問題は貧困だ。そして教育。HIVは世界に蔓延して、人類の未来を震撼させるものだ。富める国が夢を貪る時に、飢えで死んで行く人たちがいる。 何故、此れだけのネットを持ちながら、世界はひとつにならないか。それは、そうしたくない勢力があり、そいつらが権力を握り、世界を動かしているからだ。その一つが、米国だし、日本の政権もそうだから。よくならない。ならないようにしているから。どこまでも不公平は無くならないし、戦争は続くだろう。利権があり、野望がある限り。 人間は、あとどれだけ生き残ることができるだろうか。科学者でもないので最先端がどう考えているか知らないが、種としての人間は、五十万年前に誕生したとすれば、あと五十万年くらいか。まだ、人類は「科学」を手に入れて百年を経過しない。恐らく、いま私たちが、考えている人間の特質は全く違うものになり、未来は、全く違う姿に変貌しているだろう。太陽が膨張し続けて、地球を呑みこむ前に、子孫は、宇宙への旅立ちをしているだろうか。私たちが、原始人と呼ばれる頃、人間は「平和」を手に入れて、「病気」を克服しているか。「貧困」は過去の世界だろうか。 午後定期を買うために出掛けた、定期はいつも関内駅で買う。山下公園前の銀杏並木を観賞することにした。日差しの中で黄葉が輝き、見事な風景が展開していた。暫し見とれたたが、風が出てきたので、赤レンガまで歩き、早めに引揚げることにした。 好きな物を食べられないは、辛いが、今まで勝手に遣り過ぎたのだ。 何時までも、若くはない、気が付いた時には、手遅れと言うこともあるのだから、まだ私はましかも知れないが、それでも身の処し方が甘いと言われても仕方のない状況だ。 このままだと、数年寿命を短縮しそうだ。 酒は辞めない。フライドチキンも食べる。秋刀魚大好き。煙草と女は好かん。そういえば、男も好かないが、女とは縁がないのは何故か。若い頃夢精をしたが、性交したくて悶々とした覚えもないのは、自分の子孫を残そうという本能が弱いのか、自信のなさに起因するのだろうか。男としては失格らしい。性欲も野望も男の特性ではないか。 若い頃、どこかの知らない小母さんから、「女は待っているのだから、積極的にならないと他人に取られるよ。」と言われたことがある。何のことか、分からなかったが、今なら理解できる。確かに、失うことを畏れて、尻込みしていた性癖は私の弱点だということがよく分かる。おそらく違った人生になっただろうが、それは選択であって良し悪しは分からない。良いではないか。個性だ。これも個性なのだから。 口には出せない失敗もある。「あはは」である。これは、私の「アクション・フレーム・フロム・レファレンスだ。」 どこまで本音を吐けるか。自分にも不明だ。「男は三年に三口。」が男の美学だが、開き直りも時に必要ではないか。 「横浜。黄昏、・・・」歌謡曲の世界だが、オゾマシイものがある。私は、言葉にできるだろうか。できなければそれまでだ。この数年、読書三昧で何か資産を蓄積したか。 形に嵌らないものがなければ、個性はない。 孤独を知らない者に、この社会を伝えられない。挫折を味わってこそ、伝えるものが描けるのではないか。 またもや、キムチ鍋に掛かる。白菜100円。葱三本150円。豚肉三九〇円。エノキだけ。 豆腐一丁100円。キムチの素は先日の残りあり。 夕方になり、キムチ鍋を食べ、風呂にはいり、一息ついている。 明日は、暮れのボーナス支給日だ。もしかしたらないかもとの話だったが、一応支給はあるらしいが、余り期待はできない。 六日。仕事をする気がない連中で、沼津市までドライブした。 帰りに、小田原の「鈴廣」で烏賊の塩辛等」を買って帰った。 暢気なることにて候。次第。 帰省の予定を調べたところ、流石に迫り来る師走にて、漸く予定が出来た。羽田空港を十二月三十日。JAL361便。九時十五分発。福岡着十一時五分。帰りは、正月三日。JAL356便。福岡空港午前八時三十五分発。羽田十時着。の予約がとれた。4日は全席。空席なし。である。 横浜に来て、暮れに帰えるのは始めてである。いつも元旦に帰ったり、帰省しなかったりであったが、一度くらい経験するのも良いかと思う。それでも、往復56千円くらい掛かるので、ちと高い出費だが。
2007.10.31
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Dezember 9.2002 「自分史」から2 朝は、寒かったけれど、快晴で気持ちが良さそうなので、中華街に出かけて、昼飯でもと思い関内駅で下車。来年二月には地下鉄が中華街近くに新設される。然し、やはり高い。そこで「肉マン」と「焼きシュウマイ」そして「春巻き」を買い。明治屋で「缶ビール」とチーズ等を仕入れて山下公園へ。氷川丸と海とかもめの見えるベンチで宴会を始めた。風があり一寸寒いので、永くは居れなかった。それでも、暫し、時間を忘れた。 プロムナードを歩き、赤レンガからビブレで休憩することにした。ハリポタを読みながら、二階のベンチで居眠りした。定期券使用なので、交通費フリーのお気に入りコースである。これから、寒くなるのであと何回。来れるであろうか。 ランドマークは三菱地所の所有で、建設費2500億円。現在の評価は1500億円。「日本一の含み損ビル」でもある。私たちは、その雄姿に見とれるだけだが、会社は、溜息を見るたびしていることだろう。そんなものかも知れない。若くて、綺麗な女性が多いが、必ずしも彼女たちが幸せとは限らない。別に羨ましがることもないかも知れない。早々に帰宅することにした。思えば、昨日も来ていた。 最近ホームレスの増加が話題となっているが、今朝もダイアモンド地下街で、朝、ベンチで眠り込んでいる老人を見かけたが、帰宅時の七時過ぎにも未だ同じ処に眠りこけていた。ふと見ると、手にビニール袋のままの靴下が握られていた。その老人の裸の足首が皮膚炎に罹っているらしく白い吹き出物がみえた。誰か知らないが見かねて与えたものであろう。痛く感動した。大勢の人たちの中で見かねておカネではなく、物で与える心根のひとがいる。係わりたくないと思うのがこの世界だ。 そして、考えながら、歩いていたら、日枝橋の上で、毛布に包まって寝ているホームレスがいた。雨が降っており、雨を避ける為だろうが、高速道は上を走っており、少しはましだろうが濡れるに違いない。何とも心が寒々となる。
2007.10.31
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「自分史」 Dezember. 9. 2002 ここ数日の様相は、日一日寒さが増しているようだ。昨夜から、私の頭は、「開放モード」になり、パソコン三昧してから、昼近くまで眠り、「みなとみらい」へ。今ランドマークのスタバでランチしながら、パソコン遊びを暫くすることにしたい。土日は何時も一杯だが、流石に平日だ。少ない。当たりだ。 外人が一人読書している。彼らも時間の優雅な過ごし方を知っているようだ。部屋の中では味わえない雰囲気がある。 外は晴れており、少し風があり寒い感じだから、外歩きは止めてこの周辺ですごすつもりだ。さて、今年は、多分横浜での最後の年になるはずだ。まだ、もう一年もあるかも知れないが。その時はその時である。さて、晦日に博多に帰省し正月三日に横浜だ。 小一時間経過したので、スタバ・ランドマーク店を出ることにした。文芸春秋の一月号が出ているはずなので有隣堂で購入した後、横浜ジャックモールで、買物をするつもりだ。 そして、またもや、クイーズスクエーアのスタバでコヒーしている。今度は、トールラテだ。薬の所為で所かまわず矢鱈ガスが出て困る。席もできるだけ、他人から離れてしかも盛んにオナラしている。笑止。何とも滑稽だが仕方がない。一人芝居をしているようなものだが、横浜で遊んでいる。 もう日も傾き掛け出して午後三時過ぎた。快晴。静かな時間が過ぎて行く。時が、全てを新しくして行くとすれば、生物は、その時間の中で蠢くだけかも知れない。あちこち老化して行くが、痛みや苦しさも無く生きて居られるのは幸せなことだろう。誰に感謝して良いか分からないが、せめて自分自身を慰めよう。周囲を見回すと殆ど、客は若い女性だ、癒しの時を女性たちは知っているらしい。それにしても、優雅な存在だ。 パソコンは、私に変化を求めているらしい。これまで、金銭的に固定費が少なく楽をしていたが、今後は、かなり苦しくなって行くようだ。新しい生活には、それなりの負担が増加するらしい。情報は、カネが掛かると言うことか。 「明日に向かい、何かを得ながら、何かを捨てているらしい。」その逆かも・・・。
2007.10.31
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・・・・前にやること。「千の風」になる前に、かとも思ってしまうけれど、せめて年末の前にもう一つ思い出でも作りたいと、思うほどことでもないけれど。予約の関係があってバタバタするかも知らないがどうせ、たいしたことではない。大袈裟に言っているだけだ。生き死にの問題ではない。年2回ツアー旅行をしているから。でもないか。私は昨年のドイツがいい。同じルートでもいい。一度目より、二度目がいいのだ。帰ってから、また好きになった。これは恋愛と同じだ。 ・へ2・・・CDに入れていた日記を開いてみた。「自分史」を書いていたことがある。途中で嫌になった。何をしてるのだろうと思った。自分の墓を掘っているような気分になったからだ。掘っても埋められれば同じではないかと。それこそ「墓穴を掘る」だろう。他人の評価を受けるから真剣になる。自分で自分をほめても嫌っても何の意味があるだろうか。何の為の「言語」だろうか。それでも、読み返してみようと思う。普段は、中々そういう気持にもならないものだ。 ・あまり先のことは考えないようにしている。今やりたいことを優先したい。あとでウジウジ後悔したくはない。旅行をしてみると、悪いことよりも、いいことの方がずいぶん多いような気がする。旅行が苦にならないし、行ってみた感じというのは、他人の目で見たイメージと相当違うからだろうか。 ・へ2・・・それでも私の考えと、このブログを読んでくれている人たちの感想と随分と違うことだろう。それは感じている。何れにしても、何か、…の前にあるだろうか、と考えている。>木像は語らず。
2007.10.31
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私は、出来るだけ、手伝うつもりでいたので、最後は病院の隣のBEDに泊まりこんだ。他人の世話になりたくない、と母がいうので、母の下の世話もした。 何度も、母は、 「娘がいればね。」 「お前には、親孝行ば、してもろうた。」と漏らした。 床ずれができて、痛がった。一日中、背中を擦った。それでも、まだ末期がんは、地獄と聞いていた。まだまだ、そう思い続けながら、耐えていた。 或る朝、点滴を何時も痛がるのに、形ばかりの点滴に何とも言わなかったので、ほっとしていたが、昼近く、「きょうは点滴はせんとね。」と妙なことをいう。あとで気付いたのだが、その時は既に痛みが麻痺していたのであろう。 食事も好きな物を何でも食べさせて良いというので、今日は何食べると何時も尋ねては、買出しに行った。よくうどんを食べたいというので、うどん屋に鍋を持ち込んで分けてもらった。余り食べなかったが、色々思い出すらしくかった。私は、母には、尽くしきれない愛情を受けていたので、言われれば、何でもする気持ちだった。 耐えに耐えた者だけが、最後は、安らぎの時の権利があるのだと思う。 母の死は、肩で息を始めたので、医師を呼んで、すぐだった。父は死に目に逢えなかった。父たちが来るまで、母と二人でいたが、死は恐怖ではないことを知った。 母は最期の瞬間まで、私の人生の師であると思った。身を持って、人生を私に教えてくれているのだと・・・。
2007.10.31
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気の弱い私を、「お前は、内弁慶の外ナメクジバイ。」「なんね。そげんこつ、よかよか。」「死ぬか、殺されないかぎり、大したことではなか。」祖母は明治の女でもあった。 私は、一人っ子で、「水前寺のもやし」みたいと言われた。痩せていてどちらかといえば神経質で内向的な性格をしており、ハルのお気に入りと云う存在ではなかったようだ。 幼稚園のころ肺炎に罹った。母が心配して、山羊の乳を飲ませたいと家で飼っていた。自分でも乳絞りができるようになり、そのうち病気もしなくなった。 山羊が子供を産むのを真近に見た時は、本当に感動した。すばらしい経験だった。産まれた子山羊が直ぐに立ち上がり、母親が後始末をした。」生ませてくるものは可愛いものを背負ってくるとおもった。生命の神秘に触れた思いがした。 鶏も数羽飼って居た。産まれたばかりの鶏卵は温かく、新鮮な鶏卵を食べた。 母が、生卵を飲めと、穴を開けて、少し醤油をたらして飲ませてくれた。六畳と三畳の狭い市営引揚者住宅で、便所が隣の川上さんと板一枚隔たった粗末な造りだった。 隣に一つ歳上の浩志君といくつか下の千恵子ちゃんがいて、その「ちいちゃん」と仲良くなり、トイレの中でお喋りをした。何時か、便所にはいるときは、「ヤッホー。」と叫ぶ約束をして実行した。そのうち家族にばれてしまった。 トントンと壁を叩いて、「まあちゃんね。」と話しかける「ちいちゃん」の声が懐かしいがどんな声だったか忘れてしまったが、仄かに残る少年の頃の思い出だ。そういえば、彼女は結婚して、子供に「朋子」と付けたと、博多で浩志君を訪ねてとき訊いたことがある。 案外横浜のどこかで、いまも幸せな家庭に包まれていることだろう。優しい素晴らしい女の子だった。いつも身びいきして「まあちゃん、元気。」と声を掛けてくれた。
2007.10.31
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・何が魅力なのでしょうね。他人を惹き付けるものとはなんだろうか。知性なのだろうか、色気なのだろうか。本能というにはあまりにも安易だろうか。他人に好かれようと必死になるのはそれで自分の願いがかなえられる手段だろうか。カネが甘い汁になり、それに群がってくる蟻のようだろうか。それとは違う名誉のためかもしれない。特に渇望しているわけでもないが、またツアー行くことになるかも知れない。あす予約を入れてみることに。 ・へ2・・・突然ですが、福岡空港で随分前に撮った写真だ。偶然周辺が騒然としてVIPのシーンがみられた。その方は、なんの衒いもない自然体に見えたが、周辺のひとたちには緊張感があった。話は別だが、一度タレントをサテライトという場所でみたことがある。遠い昔の話だ。へえと思った。お人形のようにきれいなタレントだった。格別の感想がある訳ではないが、そういうものもこの世にはあるのだろう。何かフアンたちはオーラにでも見えて惹き付けられてしまうのだろうか。批判はできるが、それはやめにしよう。あまり意味がない。私には、そういう世界には関心がないから。むしろダニの方がいい。観察価値があるから。 ・格安パックで行くだけですが、それは今の自分にそれがお似合いだろう。
2007.10.31
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2006年4月10日 批判と・・・ この社会で批判できないものはないだろう。完全なるものなどないからだ。何かが足りないし、何かが欠 けてもいる。それは人間の総体も同じだ。必ずどこかに欠点がある。そのことをひとは隠そうとするし、本 人が気づかない場合もある。そのことを客観的に知って、それを寧ろ補おうと努力しているひとはそう はいない。もしいたとしたら、立派なことだろう。それでも、人は、自分だけ良ければいいという訳ではない。 人は一人で生きているのではないから、家族への責務もある。精神も肉体もいいときは、あったとしても 人生の内でも一瞬に過ぎないものだ。とくに精神と肉体がバランス良くあることは寧ろあったとしてもある かないかのことでしかない。まあ、そう決め付けるのもどうかと思うが大抵の人がそうだろう。勿論個人差や 受け取り方にも左右されよう。 言いたいことは、自分の時間を自由にできるのは、この社会では至難であり貴重だということだ。 自分の心身の状態に合わせてはくれないことばかりなのだから、つい目先の矛盾にまきこまれて、些 事な批判ばかりしていると貴重な時間を失うことになりかねない。批判をするとすればマクロ的で遣 るべきであろう。そして、すすんで自分の時間をもつべきであろう。 ためにする批判ばかりが目立つのは寧ろ、代弁的人間のすることだ。個人が、自分の欠点を自覚 して、それを克服する努力も、社会が進化することにどこかで繋がることを期待したい。
2007.10.31
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・たとえば、メスのダニは交尾を終えると適当な灌木の枝先に登り、その下を通る小動物を待つという。ダニには目も耳もない。ただ彼は一つだけ哺乳動物の出す「酪酸の匂い」だけは知っていて敏感に嗅ぎ分けることができるのだ。運が良ければ小動物が近付くと枝から落ちて動物の皮膚に密着し血を吸うのだ。そして血を吸い終わると地面に落ち、産卵して死ぬ。 <酪酸菌は皆さんもご存知のビフィズス菌、乳酸菌の発育を助ける働きをもっています。 酪酸菌はヒトや動物にとって必要な有機酸を作ります。> ・へ2・・・この話は、有名な事例なので何度も聴いていることだろう。そしていつも感動する。生命な不思議なパワーを感じるからだろう。メスのダニにとって、この世界の他の一切のものは捨象され、酪酸の匂いだけが重要であり、現実なのである。 ・ダニばかりではない。すべての生物は、トンボもハエもイヌも特殊な知覚器官と作用器官を持ち、甚だ抽象的な世界に生きているとユクスキュルはいう。彼は植物については言及していないが、植物も同じような抽象的な世界に生きているのであろう。つまりすべての動植物はそれ独自の歪んだ世界をもっていることを理解すれば、私たちを取り巻く環世界の驚異に満ちた、実に豊かな世界であることがわかるとユクスキュルはいう。 ・へ2・・・考えてみれば、人間の中にも特殊な能力を持った人がいるのではないか。カネを儲ける人の中にダニのような人がいるからだ。辛抱強く待ち続け酪酸の匂いにのみに敏感なダニのように獲物を見ると跳びかかるような人間がいる。そういうひとはダニ世界のみが現実の世界であると思っているのではないか。それはカネ以外のものが捨象されていることでもわかる。そういう社会に寄生した人物をよく<ダニのようだ>というのだろう。それしかできないとすれば人間という優れた能力を持ちながら、小動物と変わらないなんと無残な生き方だろうか?
2007.10.31
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・明治以後いくつか大事なものが消えていったし、細かくなっていったものがある。その一つが宗教だろうか。日本仏教や道徳観ではないだろうか。或いは人間のスケールだろうか。しかしよく考えると関ヶ原より前かもしれない。それとも元来は細かい存在だっただろうか。どうも頼りなくなってしまう。何も知らないのだろう。ことばで創り上げても泡沫のごとくだ。 ・へ2・・・やれやれ風邪薬が効いたのかよく眠ってしまった。もう明日から11月である。あと二ヶ月でなにがあるだろうか。「サプライズ」はいいことばかりではない。時に大番狂わせもある。或いはそれは「・・・大連合」かも知れない。それはあると私は思う。本の黙阿弥というではないか。世間は欺かれてきた。そのことを人々は忘れている。寺田寅彦の「天災は忘れたころにやってくる」だ。割れたものひっつく。元に戻るだけのことだ。彼らがやるととは国家のためではない。そんなちんけな人間だということを忘れている。どっちが悪いだろうか。だました奴か騙された阿呆かだ。 ・利口そうに言う奴ほど知恵なしだろう。解説者が痴漢だったり、教授がアカハラだったりしても、もう誰も騒がない。老舗の餡子屋も、肉屋も、お菓子屋も、欠陥商品をつくりつづけて儲けていた。大半がモラルの貧困でしかない。学者も小さくなった。西田哲学もそれを引き継がねばただも小動物でしかない。キリスト教はつくられた。創り上げられた無数の人間たちがつくりあげたのだ。ブッダも、マホメットも同じだろう。孔子だって同じだ。それを生かす人間がいなければものにはならない。 ・へ2・・・そのひとが力を出す時にそれを見出し、光をあてる役割がいるだろう。自分の目では自分はわからない。外からどう見えるのかは、他人が見えるだけだろう。そちらのほうが歴史を作り上げるのだろう。ひとりひとりは泡沫に過ぎない。だからどんな形もありなのだ。ひとりの人間を形成しているのは60兆の細胞ではないか。よって、「・・・大連合」もありなのだろう。あとは時間を待つだけだろう。
2007.10.31
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2006年3月9日 サクセスの共通ルール 「サクセス・マガジン」社のリアル・サクセスの共通ルールという本がある。エジソンやビル・ゲイツの成功 には共通のルールがあるという。そして、その根源にあるものは「セルフ・ヘルプ」だ。成功者と言われる ものたちにしてきたことをインタビューするのだから一番確実で手っ取り早い方法だろう。即ち 「やる気のある者」が残る。「成功するまで止めないこと」だという。屋根裏で偶然みつけたサクセス 本が、人生のターニング・ポイントとなったのだ。まるで、貧しい男が金鉱を掘り当てたように・・・。 これが、アメリカの夢なのだろう。金持ちになることが彼らの唯一のサクセス・ストーリーなのだから。 成功者と失敗者しかなく、成功することだけがあるだけだ。そして、散漫な努力しかできないものに成功 の望みはないと、成功しないものにいうだろう。成功は集中力だとも。彼らのいう成功者とはどんな人間 をいうのだろうか。こころの優しい、思い遣りのある、誰からも好かれるような老人のことだろうか。目標を 達成し、深々としたベットで身を横たえて死を待つばかりの人のことか。成功の共通ルールとは、他 人を押しのけて富を独占して恥じない大富豪なのだろうか。 もし、世界中のひとびとがアメリカ人の生活レベルを維持しようとしたら、地球があと4ついるという話を 聞いたことがあるが、もしそうだとすると、米国型のサクセス志向はどうなのだろうか。彼らの言うサクセスとは、 世界にとってとんでもない危険なものにならないだろうか。 アメリカの2割の者が、8割の所得を得て、のこりの8割の者が、2割の所得を分配する社会が、公 平だと言うのであろうか。 「貧富の差」が無視されて成立つ社会で、サクセスのための共通ルールとは、何なんだろうか。 金持ちは、現状の変革を望まないだろう。自分が生きている限り。彼らは死んで天国に行きたいと は思わない人たちだ。
2007.10.31
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・最早、モラルの低下ではない。ないか不能なのではないだろうか。元来無いのであれば、それは「商い」なのだろうか。単に宗教だけの問題ではない。モラルは商売の敵でしかない、というのではないだろうか。そして指弾を受ける企業は、だれか恣意的にされていないか。血迷ったマニアがまさかやっているのではあるまい。それにしても何か意図的なものを感じないでもない。そして歴史がそれをいくつも教えてもいる。 ・へ2・・・罠に嵌るような企業は、それを商売だと信じていたのではないか。よく考えたら違法だったではすまない。遊びで商売をしているひとはそういうことがあり得るだろうが。老舗がそうだと抗弁はできまい。騙せが秘伝なのだろうか。占い師が飯が食えるのだから、馬鹿にされる人間がいるのだろう。おそらく法を守っていたら商売はできないというのではないだろうか。まともに商売して大企業に競争に勝てるはずがないというのなら、土台勝ち目のない商売をしていることになる。これはスケープ・ゴーツではないだろうか。みんな殺す気はないだろうが、殺される奴は裸にされる。 ・無残に殺されたくはないと誰しも思うことだろう。まさかこんなアクシデントがあるとは思いませんでした。あれだけ事件、事故があっているのは知っていたが自分の身に降りかかるとは信じられないというのだ。社長が、ホームレスになる時代だ。それが自分のことだとしても文句はいえない。そういうルールで形成された社会だ。自己責任の原則だ。何をしでかすかわからないのだ。聖域なき時代だ。あらゆることが起こりえる。それを受容しなければならないのだろうか。 ・へ2・・・経済のファンダメンタルにだけ左右されているのではない。この世界の歪みさせているものに目を向けないと、明日の予測ができない。生きる工夫のないやつは崖の上に置いて行かれる時代だ。
2007.10.31
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・多神教は人類の原始の時代の盲信に過ぎず、一神教こそ真に理性的な宗教であると通説のごとく言われている。しかしもともと多神教は森の中でさまざまな生き方をしてきた中から人間の力が及ばなかったものに対する素朴な畏敬の念から発したのであり、その畏敬が消えた時には消滅していっただけのことだ。むしろ人類の平和共存を図るためにも一神教の存在がその考えに固執すれば危険な存在にもなりうることをナチズムは証明したのだ。 ・へ2・・・ナチズムはゲルマン人優位の世界実現を目指していた。むしろ一神教は、森を破壊し荒野としても目的のためには手段を選ばないエゴイズムの思想ではないだろうか。神の意志に仮託する甚だ好戦的で容赦しない危険な存在でもある。それは教会が冒してきた歴史が示しているではないか。その根底になるのは人類の真の共存思想ではない。それは今日の世界を見ればわかることだ。地球環境の破壊は、一神教が大半やったことではない。 ・一神教による世界支配は危険な選択肢になるだろう。そういう意味では世界四大宗教の存在理由があるのだろう。しかし今日そのことが世界の火種にもなっていることを忘れてはいられない。そういう意味では、この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の平和は不可避なのではないだろうか。いつまでも、天動説ではあるまい。寧ろコペルニクス的な発想の転回が必要だろう。 ・へ2・・・ちょろちょろネズミのように動き回るだけでは叡智は出てこないだろう。それは世間の裏側ものぞくことはできても、人間の裏側でしかないからだ。それは、人類の乗っている馬のことでしかない。いまやひとのすがたとは、「馬に乗ったこどもでありミミズの脳」だからだ。
2007.10.30
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2006年4月25日 self learner の悩み MIT OCW でself learner というのがあったけど、ひも付きでないと、研究ではないのだろう。資格のない ものの仕事はゴミにされがちだ。というよりゴミなのだろう。フロムの「自由からの逃走」は、いつまでも付き 纏う悲劇でもある。大樹の陰は、安泰で平穏だが、それは与えられた安泰で在り平穏でしかない。 植村直巳や、堀江の太平洋ひとりぼっちもどこかで現世と繋がっていて、そういう意味では、真の自由で はないだろう。世間から離れて自然の中に生活するのが自由だと勘違いしているが、それは幻影でしか なく、monologue の世界でしかない。こころの自由ではない。勿論、ライフスタイルとしての自然との関 わりもあってよいが、それは自己満足でしかないだろう。ひも付きになりたがるのは下心があるからだろ う。それは、仕組まれたワナでしかないが、易々と魅せられてしまうらしい。それは、何なのだろうか? 英和辞典で、self-leaner を調べたけど大辞典でもなかった。謂わば、新語なのだろう。そういうエリアが あっても不思議ではない。しかし、それだけでしかない。日本はアメリカに依存し期待するが、逆から はそうではない。どうやら、神経が麻痺しているのだが、それが分からない。米軍が岩国の駐留基地を グァムに移転する費用の60%を何故日本が負担するのだろうか。それは、あとに残された米軍基 地も将来そうなるという前例になるだろう。小泉政権の5年間は、やはりそういうことの為にあったのだ ろう。オーソライズされたものは、いつも正しい選択をするとは限らない。寄らば大樹の陰は、太陽の 光を浴びることはないのだ。人工的な光を照射されているだけだろう。システム化された日常の中で それこそ足腰が退化して行くのだ。何れ自分では歩けなくなる。もしいま充分なサラリーを貰い、快 適な生活と、恵まれた環境を与えられているとしたら、それは、沈黙する羊たちなのだろうか。 美味しい肉を食べるには、食肉がいる。そのためには屠殺場が必要なのだ。ひとは奇麗事だけで生 きているのではないだろう。権威を求めるものは何れその意味を苦渋とともに知ることになるに違いない。 考えてみれば、どこにあっても人間は孤独な生き物でしかないだろう。その役割を自覚できているかに 過ぎないのかも知れないと想う。
2007.10.30
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・西田と和辻の比較が面白い。西田は心の思弁に穴を堀つづけ、一生その穴から出ようとせず、ますます深く掘り続けた「真理の坑夫」であった。これに対して和辻は、多くの文化現象に接してひらめいた着想をみごとに体系的にまとめた「認識の抗夫」というべき哲学者だった。和辻哲郎は主著「風土」の中で、ユーラシア大陸を三つに分類した ・東アジア「モンスーン」という。モンスーンは、夏季は南西から、冬季は北東から吹く季節風で、湿潤という恵みとともに脅威をもたらし、人をして受容的忍従的にする。インド北部、インドネシア、中国、日本など。 ・インド西部からアラビアにかけての風土は「砂漠」である。砂漠にすむ人は対抗的でしかも戦闘的であり、ユダヤ教やイスラム教は他の神を攻撃する絶対的な唯一神になる。 ・西のヨーロッパでは、冬に穏やかな雨が降り、麦とともに家畜の餌もなるやわらかな草を育てる、その雑草なき風土を、和辻は「牧草」と名付けた。牧草の文明はギリシャに発生したが、そのような風土に住むひとびとは合理的で、競闘的である、と。 ・しかし「風土」には、農業という視点が欠如している。農業がどのような精神文明を生んだかを考察しなければならない。西の文明はギリシャ哲学・ユダヤ教・キリスト教・さらには近代西洋文明を発展させた。東の文明からは仏教・儒教・道教などが生まれた。 ・へ2・・・和辻の「風土」に展開された歴史観は多元的な文明史観への端緒を開くもので得あったが、労働、生産の視点を欠いているのではないか。あと圧倒的に付加する作業が残っているだろう。
2007.10.30
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2006年6月6日 科 学 的 精 神 ガストン・バシュラールは言う。「科学的精神とは、知の修正であり認識枠の拡大である。・・・この精神 構造は、自分の歴史的過誤の意識である。・・・科学の知的生活の全体は、この認識の微分に弁証 法的に働きかけるという、未知の世界との境界線上における営みである。・・・これは、誤謬の訂正、体 系の拡張、思考補完がくりひろげる弁証法である。」と。 すなわち、私たちは、人生のうちで何度も、自分の理性の再構成をしなければならないのだ。それは、 今日の科学の未完成状態を心のなかに思い浮かべてみるだけでよい。 私たちは、今日の科学の革命的な特徴は、ひとの精神の構造に深刻な反作用を及ぼすという現実に 晒されることを知っている。
2007.10.30
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2006年6月22日 な ぎ さ に て 私は、自分を単純な人間だと思っている。然し複雑な社会が待ち構えている。人生は五十年で生き た時代ではない。勿論昔が良かったというつもりはない。つい昨日まで価値観や世界観は、それほど変 わらずにライフスタイルを続けられていただろう。ただ目先のことに目を向けていれば、それが貧しい生活 だったとしても我慢できたのだろう。世間並みであることが謂わば目標ですらあったかのかも知れない。 今はどうだ。あらゆるフレームワークがなくなりつつある。ごちゃまぜの自由があるだろう。謂わばスープの 海がある。日本人が、かって、誇り高い民族だったなどというつもりもない。大してプライドをもっていた訳 でもなく、ただ国に忠誠を強いられていたに過ぎない。隷属していたと言っていいだろう。 憲法を押し付けだと騒いでいるが、そんなことはいま気付いた事でもない。昔からそう皆が思っていたの だ。押し付けられていたのは、憲法ばかりではない。主権も人権も民主主義も抑圧されていたではない か。またぞろ私たちは、「なぎさ」にいる。あるのは、裸の日本人たちだ。青い海と宇宙が見える。 これから、何ができるだろう。また砂漠に戻るのか。海に乗り出すのか。宇宙に旅立つのか。私たちは じっとそのことばかり考えている。
2007.10.30
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・西田幾多郎は午前中頭脳がさえている時に専念思索し、疲れると午後の時間を読書にあてた。そして思索に疲れた頭脳を連れて東山の疎水沿いの小道を歩くのが常であった。それは後日「哲学のみち」として京都の名所の一つなったが、西田の散歩姿は異様なものがあったらしい。散歩しながらアイデアが浮かぶとしゃがみこんで考え込んだりした。それを知らない警察官が誰何することもあったらしい。 ・へ2・・・私もその話は学生のころから知っていたので、何度か訪ねたことがある。清水寺から南禅寺、平安神宮と歩いたものだ。静かな場所で疎水もあり好きな場所でもあった。後でネットで調べてみようと思う。私も夜、星を観察しながら歩いていたら、警官から誰何されたことがある。その時は新月でしかも菊池川の河口に近い堤防の上を歩いていた。不審者に思われたのだろうか。 ・西田哲学は現実に対してはっきり発言しないことであった。西田の弟子たちが戦争中に唱えた「世界史の哲学」は日本の惨めな敗戦によって反証されたと言える。それをある人は、深遠で難解な思弁の山中に遊ぶ仙人のようだといった。 ・へ2・・・それこそ、だれか疏水を歩く「西田哲学に」、当時の警官になって誰何してみてはどうだろうか。彼から何が訊けるだろうか。少なくともけちな研究者に訊くよりも価値のある話が聴けるのではないだろうか。要は訊く心を持っているかだろう。読み解くだけの力がなければ何事もできはしないのだから。そして想像力だろう。
2007.10.30
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・名水「不老水」を汲みに行き、ついでにお隣の香椎宮の「綾杉」と上の写真の大砲が搭載されていた艦名と、それから境内にある「綾杉」は、このまえ女子大で中世文学会のときに、遠くから来た先生たちのために、郷土の紹介のための現地ツアーの初めにこの「綾杉」が挙げられており、何度も見ているが再確認しようと思ったのだ。先ず大砲は、大正12年佐世保鎮守府から奉納された船艦「摂津」の砲身であった。 「綾杉」は、西暦200年ころの神功皇后由来の神木とある。新古今にも ちはやふる香椎の宮のあや杉は 神のみそきにたてる成りけり そして、夏目漱石が詠んだ俳句がある 秋立つや千早ぶる世の杉ありて 既に当時から1800年経過している。いまあるのが何代目かは知らないが、大切に柵が造られて保護されている。香椎宮の縁起の説明書きによると、皇室との縁が深いようだ。皇后が朝鮮との戦勝記念に植えたとある。今も年に一度、不老水と綾杉の若葉を神殿に捧げるとあった。むかしから由緒ある杉である。ぶらりと境内をあるいたが、もう銀杏が色づき始めているのがみられた。よく見ると桜の葉もちらほら色づき始めていた。
2007.10.30
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・円空は1692年、61歳の時、岐阜県の高賀神社に三尊仏を納めた。そして千日行に入り、徐々に食を減らし、1695年7月15日、弥勒仏到来の時をまつミイラとなるべく関市の長良川沿いの地で入定(にゅうじょう)した。 円空の歌は決して上手な歌ではなく、歌の意味も鮮明ではない。それにもかかわらず彼の残した業績は鮮明であり、その歌は深く暗く何か底知れないものがあり私たちを魅了してやまない。 皆人ハ仏に成(なる)と願いつつまことになれるけさの杉の木 縄文ころから日本人は、神は樹木に降りるという考えがあり、ここで仏は一本の杉の木だといっている。その杉は、皆人が仏になることを願って仏になったと円空は言うのだ。それは空海でさえ語らない密教のあるいは修行の秘儀でもあるだろうか。今年の6月北京旅行で、明の十三陵で多くの杉が植えてあるのをみたが、杉は多く墓地に植えるのだそうだ。人間と木とのつながりは深い。慣れ親しんでいる風景の中にある樹木は、昔から人間とともにあったのだ。 ・へ2・・・日頃より、日本人を突き動かしているものは何であろうか。それは心豊かな感性であり、ふつふつとわき出す水のように清らかであってほしいものだ。
2007.10.30
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2006年6月26日 ゲシュタルト心理学 「全体は部分の総和ではない」という基本的なステージだ。視覚研究に発している。そのまま聴覚に適 用することはできないが、周波数や音の高さがキーになるとともに、時間の重要性が増すという。 例えば、匂いにしても脳との関わりはこれからだろう。人間の脳は、あらゆる情報で判断しているのだろ う。好き嫌いにしても視覚だけではない。音楽が果たしている役割もまだ総体が見えていないのではな いか。日本人は、和歌や短歌という凝縮したもので、自分の感情や思いを伝えようとしたが、それは、 多分、誤解をされただろう。もし有効だとしても、それは人間のほんの一部のこころでしかない。音をこと ばに置き換えようとしても、収まらない。また、そこに価値があるのだろう。目や耳や鼻でさえ、そうだし味 覚や、触覚でさえ感受性は磨かれる余地がある。これらの感覚様相の、相互の関連を知ることがいよ いよ重要になってきている。 古いゲシュタルト心理学から現代の認知心理学での見直しがされようとしている。進化と学習との 関係について Bragman が注目されている。
2007.10.30
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2006年6月27日 地 球 の 誕 生 古代の星物語は、私たちの祖先が長い年月をかけて、空を見上げて創り上げたものだ。星が、いま私 たちが感じているそれよりも身近で、豊かな存在だった。平らな大地が、丸天井だと知るまでには、何 千年もかかっている。針の穴から覗いていた宇宙観が、変わろうとしているが、生命の誕生さえ解明さ れていない。まして、地球誕生も仮説に過ぎない。太古の人間からどれだけ進化したと言えるだろうか。 まだ殺し合ってもいる。人間は、少なくとも地上に立ち上がってから、それ程進化した訳ではない。 1400gから脳の増加はない。進化により取得したものがいつまで有効かは解析されてもいない。ただ あるものを遣っているだけだ。ここまで来たのは個人の力では少しもなくて、神でもない。その自然も曖 昧なことしか言えはしない。確かに、意識をもった多細胞としての、種としてのヒトが、65億人にもなっ て地上に生きているが、それを導くものがいない。その能力が人類には備わっているであろうか。このまま では、エントロピーの増大に太刀打ちできないだろう。それだけはいえる。私たちは夢を見ているのだろうか。 太古と変わらない夢でしかないだろうか。確かに地球は誕生したが、そこに生命が誕生もしたが、ただ 消えてゆく存在でしかないのだろうか?
2007.10.29
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2006年6月27日 「老人と海」の少年 少年は、大人たちには見えないものが見えるのだろう。老い耄れた老人を愛して止まないこころが美しい。それは、輝く 宝石のように見える。それは、大いなる想像力でもある。少年には、聴こえない歌を聴いている。 見えないものを見ようとするものが進化を後押しいてきたのだ。今あるものはいづれ過去になり、新しい 価値をもつものが創り出される。現実しか見えないものは、未来に沈むものたちだ。 果てしな旅を始めたものたちがもつ未来への投資は、報われても報われなくとも、それはいつか人生そのものにかわるのだ。 老人は、はかない獲物を捕らえるが、その感触だけが残るだろう。それは、夢だろうか。 それでも夢を持つゆたかな少年だけが、明日を生きるだろう。 貧しさや、苦難や、老人たちは、少年への贈物ものをもっているのだろう。
2007.10.29
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2006年6月29日 ここ数年のこと 谷崎潤一郎なら、金輪際自殺はしない。絶えず周囲からちやほやされいなければ淋しくてならない芥 川の性格は、多分文壇出発時のめぐまれ過ぎた環境に影響された弱さからきていると思う。ここ一、 二年を乗越えられなかった芥川の弱さが、彼の自滅へと繋がった。それは、現代のエリートたちにも共 通するものだろう。ここ数年が耐えられないやつが、何十年間かかるスキルに参加できるはずがない。 必ず、波があるだろう。デッドロックは、それこそ普通に存在するものだからだ。人生そのものが、劇的な 喜劇であり、悲劇だろう。それを、緩和して生きているのは、ここ数年間を乗越えて生きるだろうという 思いなのではないか。ここ暫くは、苦しみや痛みに耐えようと決意することさえできれば、芥川龍之介は 大作家になっただろうか。漱石が芥川の、「鼻」を誉めたのは、ただよくできた小説を誉めただけで、芥 川の才能を誉めたのではない。芥川は日本や中国の古典の翻訳者でしかない。現代のエリートと共通 する特質がここにある。自分を過信して、本質を見抜けないことだ。少しの躓きで、すぐ歩くことができなくなるだろう。
2007.10.29
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2007年5月29日 北京旅行を考えている 西洋そのものであるキリスト教は絶対ではなく、人間の物語における相対的なある歴史的な段階でしかない。神はさまざまの名で呼ばれる。人間と、人間を取り巻く神秘だけが究極でしかない。すべて宗教は、人間存在と、時間、死、悪が突きつける現実と意識の裂け目の架橋であろうとしている試みであろう。そしてどの宗教も正しい鍵を握っているのではない。選民もない。すべての人間は精神的に対等であり、同じ窮地を切り抜けて生きねばならない。 他の文化に触れ、他の文化を経験することが意味があるだろうか。自己意識の中枢神経を刺激するだろうか。キリスト教が歴史を包摂しているのか、歴史がキリスト教を包摂しているのだろうか。答えは言うまでもないだろう。 6月に北京ツアーの予約をしたところだ。P.S. 最近、昔書いたブログをアーカイブしている。別にネタがないわけではないが、やりっぱなしでもいくまい。そのうち整理をするつもりだ。そのうち一つにまとめて推敲したいがやりたいことがほかにもあるので、それが先である。
2007.10.29
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・早く寝た分、早く目が覚めて起きてきた。鳥渡流石に寒くなったようだ。昨日風邪気味だと言ったら薬をくれたがそのせいで眠くなったかもしれない。咳の薬と一緒に飲んだ所為だろうか。副作用のない薬はないというから聊か薬漬けの傾向はある。私の生命力がどこまであるかでもある。時々迷いが起きないことはない。少なくとも、只管打坐の境地ではないと。 ・へ2・・・どこかで、目を感じるが、それは威圧ではない。慈愛でもない。考えてみると私は、自分の思考の根底に義祖母が言っていたいくつかの言葉が脳の長期記憶になっている気がする。そしてそれが一つの思想とまでは行かないが曖昧模糊とした緩やかなメモリーではあるのだろう。「天知る地知る吾知る」初め、祖母が言っていたのは、「お前が、悪いことをしてどんなに他人が見ていないと思っても、天と地と、そしておのれが知っている」だったが、京都の平安神宮の手洗い場で、「吾唯足知」の存在を知った。そういえば釈迦の「天上天下唯我独尊」もある。自己主張をしない宗教はないのではないだろうか。 ・世に知られた人たちが意外と俗物であることを知っている。あまり知りたくもないのだが事実だから仕方がない。以前勤めいていた会社は、一応地元では名の知れた会社だったが、社長には身近な所に愛人がいた。そのことを知ったのは親しくなった顧問弁護士からだった。それまで知らなかったのは私だけだっただろうか。そんなものだ。社長は誰も知らないと思っていたかどうかは知らないが、少なくとも当時私も知ってしまったのだ。そういう目で見ると成程思い当たる節がいくつもある。それは謎ではなかったが、パズルは謎ではなくなった。守屋前次官も同じだろう。隠してもいつかは暴露される。何と愚かな人間は生き物だろうか。そして多くの人を人間不信に陥れてしてしまうのだろう。その罪こそ重いのではないだろうか。 ・へ2・・・正しい行いをした人の話を聞くと人々は勇気づけられるだろう。人間は気高い生き物だという実感さえするからだ。愚かな自分もそうありたいとさえ思う。しかし、すぐに人間は上ばかり見ていては、不安にかられてしまうのだ。
2007.10.29
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Oct 29, 2006 教育のこと 草柳大蔵の絶筆も日本の教育が書かれている。彼は、何の病気か知らないが、突然に訪れた自身の人生の終末に向き合い病床の中で書かれたものだ。日本に於ける教育制度は、殊に大学前では暗記学問で、感性を踏み付け、物事に対する適応性を遅らせ、一番精神が柔軟な時に閉塞させている。将来とんでもない人間ができてしまうのではないか、と懸念している。やはり、彼も最期は、日本の未来を心配したのだ。自由な発想や、自由な創作というのは、確かに、如何に未熟といえど若いころの方が受容体としての感性が豊かだろう。その幾つかの経験が、或いは、学を成した後で、発想や創作に役立つこともあるに違いない。山頂で見た風景とか、初めて触れた昆虫とか・・・が大切なのではないか。勉強を始めたから、すぐに物事は役立つものではない。それは、目には見えずとも蓄積されたものでも在るからだろう。教育は、そのためにも子どもの頃の、伸びやかな教育こそ大事なのではないか。アメリカでは、逆にその自由な教育が、行き着くところピッピーを生み、校内暴力を増加させ、学力が落ちたとして、むしろシステムを厳しく締め直そうとしている。それが今日、最大のテーマになっているらしい。これだけ複雑な社会になると、ことは単純には進まないが、自由と秩序の間で、どこに適正値を求めるかだろうという。草柳大蔵のことばである。
2007.10.29
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・それこそ何のリスクもないような授業しか聞いてこない学生ばかりではないだろうか。他人の批判ばかりして、自分の存在価値もわからないような奴が、どうせ守屋のような訳のわかrないエリートになって汚職でも平気でするようになるのだろう。何が恥なのかさえ分からないでいる。ひとの上に立つような人間なら、潔く出処進退くらい心得ておくものだろう。それこそ道徳心がない。現役の時なら、人を人とも思わない所業だったのではないだろうか。そんな奴が証人尋問で殊勝なことを言っても後の祭りだし、嘲笑ものでしかなく、それこそ冷や飯を食った連中は、差し詰めテレビ中継を見ながら溜飲を落としているだろう。 へ2・・・何せ、ブッダが日本仏教の存在を知ったら、あいた口が塞がらなかったのではないだろうか。そんなことを1500年以上も日本は続けているのだろうから、、それこそやる気がないと言うしかない。自分で修業をしないで「悟り」もないものだろう。乞食をした高僧がどれだけいたのだろうか。どうも金儲けばかり上手い僧侶しかいないのではないだろうか。怪しげな話ばかり耳にしている。土台権力の腰ぎんちゃくになるような坊主ばかりだから、舐められてしまってのではないだろうか。日本人がベトナムで起こったような僧侶が油をかぶって政府に抗議したという話はとんと聞いたことがない。大衆に代わって抗議デモでもしたことはあるだろうか。肉食妻帯して安穏と暮らしている仏教徒は恥を知るべきであろう。>上の写真は、連合艦旗艦「三笠」東郷平八郎のスタチュー。横須賀に当時小泉純一郎首相の自宅が近所なので見に来ませんかというので、覗きに行ったついでに見物に行きましたが、拝観料が高いので中には入りませんでした。
2007.10.29
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2005年05月04日 生 甲 斐 と は 人生の意味を見出して、自分に相応しく死ぬこと。そして明日に希望を持つこと。これがこれからのキーワードだ。生甲斐は、直ぐにも消えては、むくむくと蘇える。日々は、いつも昨日とは違う、あらたな難問が、幾度も立ちはだかり苦しめる。挫折して、行き先を見失いもする。ステージが変われば、ハードルもスキルも高くなって行くだろう。生甲斐を持ち続けることは楽ではない。逃げ出したくなる。他人の真似をしても駄目だ。何も卑屈になることなく、衒わず、日々を味わいながら暮らせば良い。自分は何ものか、を知ればよい。誰の前にも明日は来るのだから。 P.S. 今日は病院に行ってきた。担当医と話すのは10分間くらい。これでも前の担当医よりかましだろう。少なくとも治療を考えてくれる。どうもクランケも医師の比較ができるくらい渡り歩くと少しはわかってくるものだ。横市大でも数人換わった医師ごとにユニークだった。然も研修医が熱心なのはまだ若いし医療意欲があるからだろうか。せめてここの。病院も待ち時間の短縮を図ってほしいものだ。何が患者サービスなのかまだ理解が足りないようだ。
2007.10.29
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・前のブログではタイトルと一致しないので、辻褄を合わせねばならない。最近仏教書が売れていると聞いた。はたして仏教の復活はあるだろうか。余りにも壮大な話ではなかろうか。現代の日本における仏教は既に死んでいる。廃仏毀釈の政策で、僧侶の妻帯が奨励され、まさかこの政策に忠実だったかは別として、親鸞にならって肉食妻帯の仏教者は俗人と同じになってしまった。仏教者が俗人よりはるかに高い道徳感をもっているとはいえなくなった。仏教者が自己の戒律や道徳観に自信を持ちえずして、道徳を語らなくなったのと当然の成り行きだからだ。 ・明治以来、仏教がすぐれた教えであることはといても、仏教道徳をしっかり自分のものした仏教者で、それを守ることの重要性を説いた人は少ないのだ。現代の日本の仏教は道徳を忘れている。世界宗教はどの宗教も、その内面には厳しく規定された道徳を持っている。道徳をもっているからこそ、価値あるものとして生き残こることができたのだ。道徳を失った宗教は滅びるのが当然だろう。
2007.10.29
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・第二次世界大戦では約5000万人以上の犠牲者があったといわれる。勿論実際の被害者の数ではない。戦争で傷ついた人たちはその数倍に亘るだろう。その総体の被害は測りようがないだろう。戦争のために苦しんだのは肉体だけでなく、致命的な精神的打撃を受けた人達も大勢いたはずだ。そして、日本でも300万人以上のひとが虚しく死んでいった。 ・へ2・・・戦前の国民の精神のベースに在ったものは「教育勅語」であるといわれている。中心理念とは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以て天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という。換言すれば、戦争が起きた時にはお国のために命を捧げてこのすばらしい国を守れというものだ。これを簡単にいえば「天皇のために死ね」ということであり、兵士はそれに従って死んでいったのだ。無謀に始められ、しかも敗戦が確実になっても軍部や政治家たちは戦争を止めようとしなかった。勿論軍人ばかりの責任ではない。翼賛する人々や右翼や学者たちがいた。 ・沖縄戦の軍人による集団自決強要したかどうかの問題は、一部の事例を引いて問題のすり替えをしようとしてるのではないだろうか。敗戦直後であれば誰も軍部による沖縄住民への強制がなかったというものはいないだろう。戦争の悲惨さが風化し始めている証拠ではないだろうか。 ・へ2・・・天皇を神とする思想は、江戸中期以降で倒幕の思想として利用されてきたに過ぎない。(「古事記」「万葉集」「神皇正統記」で天皇を神とする主張があるくらい)。バートランド・ラッセルは「国の元首が神であることを批判することが許されない日本がどうして近代国家なのであろうか」と批判している。 ・国家神道は一つの宗教である。しかしこの宗教は日本独自のものでしかない。世界では通用しない。日本は戦争で負け、同時に国家神道も崩壊した。天皇の「人間宣言」は世界には奇異なものに感じたのだ。謂わば現在は「戦争と平和」あいだの挟間にいるに過ぎない。私たち日本人はこの62年間余に、戦時中を生き抜き、そして死んでいった。そしてまた新たに子供たちが生まれた。戦争を知らない者たちが増え続けている。戦争も遠い昔になりつつある。しかし、アメリカは違う。戦後も戦争をつづけている。もし、日本で戦争があるとして現在の自衛隊で国が守れるだろうか。甚だ疑問だろう。もしそうだとするなら、何の為にあるのだろうか。張り子のトラか。もし戦争があれば、若者たちが徴兵されるだろう。彼らはおそらく、大方の予想に反して、すぐにも、特攻隊を希望して、易々と殺人者に変貌するに違いない。戦争とはそんなものだから・・・。
2007.10.29
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・ある意味で古い社会の中で、新しい生命が生まれているわけで、いつか衣を替えるように新しい生き方をしなければならないだろう。伝統として継承するものだけではこれからの、新たな事態に対応できなくなるときが必ず来るだろう。伝統ばかりにしがみ付いていたら生き残れないことにもなる。そこに自立した考えがないと、選択肢を誤ることにもなる。 ・へ2・・・私たちの時代が、全世界を敵に回して敗戦したという混乱期の中から出発しなければならなかったのであり、公正な世界観や、歴史観が正しく教育されたわけではなかったし、身につけるべき道徳についても日本人としての確立したものがないまま来たのも事実だろう。そのために「自由」と一緒に頼りなさと曖昧な思想を持っているものが多いのではないか。よき指導者が周囲にいないまま来てしまったのではないかという心の喪失感が確かにあるだろう。政治家や官僚、学者や芸術家が、確たるモラルもなしに仕事をしてきたのではないだろうか。そこに将来に対する危うさを感じてもいる。 ・しかし、少なくとも私たちは周囲にあるものから道具を探さねばならない。そうしかできないからでもある。それでも有難いことに、いまや多くの情報収集が手に入るようになった。道具はいくつもあるだろう。問題はその道具が使えるかどうかを確かめねばならない。意図的に流されるものがあるからだ。自立した信念を身につけて用心深くことをなすべきだろう。 ・さて、今日は、一日定期検診がある。誰も障害のないものはいないだろう。ハードルは次々に出てくるものだ。それに耐えねばなるまい。おそらくある意味で直前の死に逝くものには苦悩や苦痛はないのだろう。あちこち故障があるから人間の証明だと思えば、少しは気が楽になってくる。
2007.10.29
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・戦後日本の歴史を見ると、教育勅語という天皇を現人神とする新しい道徳がつくられ、敗戦後、その神道も否定された。三島由紀夫はその神の死を嘆き、身を持ってその神に殉ずるという悲劇で滑稽な劇を演じて人生の幕を下ろした。彼は何を見ていたのだろうか。その視野の狭さが日本の作家たちの中で持て囃されていたという事実を忘れてはならない。そして、道徳を失っているのは動機なき殺人に走る若者たちばかりではない。政治家も官僚も学者も芸術家も宗教心をサラサラ持たず、道徳すらほとんど失いかけていることだ。政治家や官僚たちが恥ずべき犯罪を行い、学者や芸術家も日々荒廃している現状に対して何らの批判をも行わず、唯々諾々として、その時代の流れに身を任せているではないか。これは道徳の崩壊なくてなんだろうか。私たちが日ごろ目にしているのは、そのことの証明でしかない。 ・へ2・・・そのような道徳の崩壊に対して、「新しい教育勅語」をつくり昔に還れという議論が高まりつつあるのは世界の潮流に逆行するものでしかない。それでは何をすべきなのだろうか。それすらみえないだろうか。道徳の崩壊はあらたな道徳へのスタートにしなければならない。何が道徳だろうか。それは私たちが自分の手で創り上げていかねばならないことだけは確かだ。そしていずれ言葉にしなければならない。日本人が拠って立つ伝統精神とは何だろうか。それをどれだけ時間がかかろうとも取り組まなければならないだろう。少なくとも三島由紀夫の滑稽ではダメだろう。かって、小泉八雲が日本人の精神の美をほめたようなそれは温かい素朴さの中にあるのかもしれない。穏やかな朝になった。
2007.10.29
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・理由なき犯罪というか、たとえば最近の日本でも動機が金銭目的の強盗や嫉妬、脅迫ではなく、ただ殺人のための殺人が世間を騒がすようになった。これはニーチェの「神は死んだ。いや人間が神を殺したのだ」のように、西洋の道徳がキリスト教をベースにしているとすれば、神の死は宗教の否定であり道徳の否定になるだろうか。宗教と道徳を否定した何の理由もなしに老婆を殺すラスコリニコフであり(「罪と罰」)、間接的に父を殺すイワン(「カラマーゾフの兄弟」)だろうか。神なき時代の人間の不幸は書いても、神を取り戻した人間の至福をドストエフスキーは書けなかった。 ・へ2・・・どんなに現代の心理学者が動機なき殺人者の動機を描いて見せても、それは曖昧なものでしかない。幼児体験であるか、精神異常で人格破たん者であるとかなど、後付けするものでしかなく、どうしたら防げるか、何の救いにもならない。明確に証明できるデータを持たないからでもある。単なる仮想の想像でしかなくイメージに過ぎない。現代は総体の分類ができるようになっても、それをトータルとしての人間存在を捉えられずにいる。それは厖大すぎる人間に関するデータをまとめられないでいるからだろう。まだコンピュータでさえ「ミミズの脳」と同じなのだ。科学を過信しているだけに過ぎない。人類がノー天気でいられる時代は終わったのに、まだ怠惰を貪っているだろうか。 ・それは知恵あるものが知恵を出すようなシステムができていないからではないか。因習や身分社会で、甘い汁を吸おうとする輩が、この社会に蔓延りつづけており、それを暗黙のうちに認めてしまっている愚かな私たちがいるからではないだろうか。私たちも自分の保身のためであり、家族の幸福のために社会のあるべき姿を破壊するの裏から支え、手伝ってもいるだろう。 ・へ2・・・「誰かがやってくれるだろう」と期待しているが、そういうまともな人間を拒否し続けていもいる。理由なき、動機なき人間が、私たちの身内を殺し続けてもいる。そういう時代にたとえようもない不安を感じてもいる。人間性をなくしてしまった市場経済に翻弄され、踏みにじられた世界は、まだ新しい道徳を見つけられないからだろうか。
2007.10.28
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・日本には他力本願といささか頼りない妙な考えがあるが、その本意は、字句そのままではないのだろう。西欧ではキリスト教が主流だが、それは「神は信じる」が人間は信用できないという基本的な考えがある。法秩序はそうしてシステム化している。いわば神や身内は信頼できるがそれ以外は信頼できなというルールで世界は成り立っているだろう。 ・へ2・・・いまや日本も国際社会の一員になることを標榜している。名実ともにそうと言えるだろうか。未だ世界には共通語がなく、日本人もどこの国とでも自由に心を通わせるだけの言葉を話せるだけの知識を身につけているわけではない。まだ大いなる努力を必要としている。言葉だけではない。公徳心をはじめとする文化もそれに見合うだけのものがなければならない。必要なのは個々人が他人任せにしない自立心が大切だろう。 ・日頃から他人に甘えない精神を持たなければならない。そのためには幼いころから学校に頼らない子供の教育が是非必要だろう。そのための環境を整えならなければならない。子供たちだけではない。そのためには両親も地域も公共団体などの教育環境のシステム化の構築が必要だ。 ・へ2・・・何をくだくだ書くかと言えば、これまでもいいつくされたことだが、今般の守屋氏のような人間をつくったのは、日本社会の甘えに構造があると思うからだ。それは単に汚職ですまされるだけの問題ではない。構造上の問題だからだ。これは戦後62年を経過して弛んでしまった精神の危険な兆候ではないだろうか。碌な仕事もせず「偉くなれば遊んで暮らしていける」という社会構造に欠陥があるだろう。それを突き詰めれば「他人に甘えている」からだ。そうして、人々の心を萎えさせてしまうことだ。
2007.10.28
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・さっさとブログを書いて19時からテレビを観たいと思っている。特に見なければならない理由はない。そうしたいと思うだけだ。ちらと自分の書いたものをみたら誤字脱字が多い。訂正したい。後ろを向いたらきりがない。間違えるからいけないが先の方を優先している。他所で書いていたブログを引用したりしているのは忘れないためだ。ごちゃごちゃになりそうだが、取り敢えず残るのはいい。残すことが大事だと思っている。いまくだらないと思ってもなにかヒントになるものがあるかも知れない。 ・やっていることの半分どころが何拾分の1も解ってはいない、いまの自分がいるだろう。間違うことを怖れていては先に進めない。取り敢えずしたいことをする。することに責任を持てばいい。できないものはできない。やれることをしないのが一番悪いだろう。やってきたことを後付けしたような歴史ばかりではないだろうか。はじめから予定されたとおりにことが運ばれることはないだろう。そのときの風向き次第で決められるのだ。 ・知りたいことが新鮮でなければならない。それは器ではない。どんなに新しいビルで働いていようと、立派な地位だろうと、金があろうとなかろうと、価値あるものをもっているものが豊かなのだ。その価値が何なのかそれは今はわからないが、夢あるものであることにはかわらないのではないか。時代劇を見ていようとヒントはあるのだ。いい作品をみてヒントがある訳ではない。自分の何があるかだろう。誰でもニュートンの林檎を見ていたはずだが、重力をニュートン自害は発見できなかった。それは彼の脳の中に万有引力を発見する準備ができていたからだろう。 ・さて、誤字脱字御免。写真は横浜。
2007.10.28
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・石ころたち メッキをしても石ころは石ころであろう。いつか剥がされる。或いはそのままもあるかも知れない。どうせ短いのだから。少なくとも5年前まで石ころにすぎなかったが、罪深い経営者?が、保身のためにそうしたことだ。中には本当にそうかも知れないと騙されたりする。うまく遣ればメッキが剥がれずにすむかも知れない・・・。ドウセ自分の力でなったのではないのだ。M&Aで掻き回されるのはいつも餌にされる会社だ。そして、あとでわかる。何があったのかが・・・。ますますトップの資質が問われる。何もしない。全部部下に責任を背負わさせるだけの男がいれば生気は失せて、すぐにも枯渇するだろう。会社は、同じ過ちを何度でも繰り返すところを観ると殆ど自浄能力を持ち合わせていないのかも知れない。まるでゲームのようにことは進んでゲームオーバーだ。石ころは、石ころではなく人間なのだということさえ忘れているようだ。それとも歯車でしかないことを知っているが、どうしようもないというだろうか。そして彼らは利用されて、捨てられる。直ぐにも路傍の石となるだろう。まるで昆虫の世界とすこしも変わらないことがまだ人間の世界には存在するらしい。それは負け犬の・・・だろうか。 ・もう真夏日だ 4月では30度以上の気温は珍しい。車に乗っていても暑さは真夏のそれであった。妻から毛布などの洗濯にコインランドリーに行きたいというので付き合わされた。序でに植木も買いたいという。その店は久山町にあり、馴染みの店だ。真紅の薔薇の苗を買うことにした。妻に言わせると福岡市内の店に比べて安いらしい。私は、少し金銭感覚がルーズなのでこれからのことを心配している。少なくとも、今までのようには行かないだろう。然し、貧乏は子供の頃から経験済みだから何とかなるだろう。すぐにも5月になり、本当の夏が来る。その頃には、齷齪する私がいるだろう。知らぬが仏というが、まさに私がそうであろう。それでも良い。かけがえの無い休暇だもの、好きにしたい。入院をして、海外旅行に行くのは最低遣ろうと心に決めている。その為のパスポートも取っている。できない人には申し訳ないが、それくらい許して貰えるだろう。九州は暑い。その夏が来る。 ・博多での日々 尼崎の脱線事故は大惨事になった。106名という人命が奪われた。一瞬の迷いであったか未だ判らないが、23歳の運転手が、かなり焦って運転していただろうことが窺える。何とも遣り切れない事故である。これから経営責任や賠償問題が叫ばれるだろうし、被害を受けたマンションの住人も賠償請求するだろう。ことは、JR西日本の重大な局面をむかえるだろう。23歳の若者に600名近くの生命を預けて電車は動いていたのだ。単に個人の責任や適性では済まされない。福岡県西方沖地震もまだ終息していない。時々余震で驚かされる。事故や災害は予測の付かないことが多い。もう博多に住んで25年余になる。これからも生活の本拠地である。余程のことでもない限り暫くは博多での日々が続くと思うけれど、確信はできない。それこそ人生は偶然の連続である場合多いからだ。静かに今日も一日が過ぎようとしている。 ・はじまりは処女のごとく これから第二の人生とか言う時期に到達しまして、何を遣るか、何ができるかをしこしこ悩まねばならない。それはやはりある節目なのだろうか。これまでと違う世界で暮らす訳ではないが、老兵の悪名が付いて回るでしょう。哀しいかな、加齢が進んで行くのを誰も止められない。はじめは、処女の如く、静かに遣りましょう。今日はまるで、真夏の陽気でした。 P.S. 上の日記は2年前の4月から引用したものでできるかどうわからなかったが、やってみただけです。庭の掃除をしながら、やっても終わらない仕事があると思いました。雑草の繁茂との闘いがある。何でもないことですが、自分にどんなにくだらないことでもやらねばならないとおもうものがあることは幸せなことではないか。カネがあっても何もしたくないでは、負け惜しみでもなく羨ましくはない。老人と海の、カジキマグロだって老人の夢でしかない。自分の本当の夢があるひとでありたい。ただそれだけですね。
2007.10.28
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日韓トンネル (2007年1月27日ブログより) 海外のニュースの中で、韓国が日韓の間の海底トンネルのプランがあることが報じられていたけれど、それは誰でも思うことだろう。それが、日本で余り話題にならないのはどうしてだろうか。必ずしも経済的問題ばかりではない気がする。英仏間のトンネルはもう走っているし、少なくとも可能性を探ることは無駄ではないはずだ。勿論、技術的な問題とか、ルートの問題もあるだろうが、国家間の問題が一番ネックなのではないか。それでも韓国では、青写真ができているらしい。大統領選挙を睨んだ計画のようだが、そんなことは問題ではない。要は、可能性の問題だ。何でも遣ろうとすれば、技術的なことは付いてくるだろう。障害となる問題は多いとしても、日本が物理的に大陸に繋がることは避けられない未来なのではないだろうか。それを回避しようとするのは、蒙昧ではないか。広く知識を世界に向けるべきだろう。何も懼れることなどないのだ。それこそ太古では、日本列島も大陸に繋がっていたのだ。小さいことばかり考えていて何ができるだろうか。
2007.10.28
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・カルチャーの語彙についての学長の話を書いたが、「culture 」には、教養とか、培養するとか、飼育するなどの意味があるようだ。おそらくそういう意味で多く多用される傾向が現在にあるのは、それだけ日本にはそれが足りていないと皆が認めているからに他ならない。まず文化レベルためには、社会という土壌を耕さねばならないのだ。すぐに種を蒔いて育てようとして良種も育たないのだ。育てるためには環境となる前提条件が揃っていなければならない。それも狭くて浅くてもだめだ。豊かな土壌ができてその文化は大きな花を咲かせることができるだろう。 ・日本仏教は、それをやらず、充分日本という土壌を耕さずに仏教という種を蒔いてしまったのではないか。キリスト教も同じだった。廃仏毀釈が仏教を殺すことができたのも仏教が国民大衆にに浸透していなかったからだろう。そのツケが、今日の日本人の無宗教、無道徳と言われる現象を生んでいる。 ・へ2・・・2004年4月7日の福岡地裁の下した靖国参拝に対する判決は、小泉純一郎首相の靖国参拝を憲法違反とした。「参拝は公的なもので、憲法で禁止された宗教的活動にあたる」と判断した。権威のある憲法学者や宗教学者の意見や、裁判所の判断を無視し、中国や韓国の怒りをも無視している。いつか日本の良心と理性に復讐される。靖国参拝を否定しなかった安倍晋三前内閣は、1年間しかもたなかった。彼の意識にも遠因があったのではないかと思っている。その根底において文化のレベルが低いだろう。 ・すぐに種を蒔きたがるが、まず土壌を耕すべきだろう。それがスタートでなければならに。雨の時、太陽の位置、気温などあるし、土質もある。自分の置かれた環境を注意深く観察しなければならない。そこが自分の最適地かもある。どんな種を蒔くかもある。条件は数え切れないほどある。どうやら土壌づくりで終わるかも知れない。
2007.10.28
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・読経や礼拝は儀式でしかないひとつの方途に過ぎない。仏教の本質にかかわるものではないのだ。 生存に、おいて生じるあらゆる苦しみは、欲望や執着に起因している。だから、苦しみを滅するためにには、欲望を減じればよい。そのためには、正しい行いをするように励んで生きることである。 ・いくら儀式を行っても、本人が依然として欲望を捨て、日常において正しい行いをしていなければ、すべて無意味なのだという。解り易い教えだ。 ・「悟り」とは、この世が「空」であることを体感することであり、最高の境地である「涅槃」とは、欲望を捨て去って澄み切った心身に達することをいう。この段階にいたることを仏教では救いだというのだろう。こういう認識と行為によって現在の自己を救うための教えだという。解り易いことばだ。自己執着で何ごとも得られないし、もともと宗教を政治に利用すること自体が間違いなのだろう。儀式にこだわる宗教は形骸化したものでしかないのだろう。 ・へ2・・・愛情も愛着に変わると、いずれ悲しみを生む執着、渇愛になるのであり、広い心を持つことでいつくしみのこころが生れ、それを仏教では慈悲という。日本仏教は、真の仏教をどれだけ理解しているのかわからない。それは日本の僧侶たちの中国由来の戒律のなさに基因しているのではないだろうか。
2007.10.28
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・ブッダがのべた解脱の方法は誰にでも可能なのであり、それをあからさまに八正道として教えている。それを当時の人々は別に何か特別の修法が隠れているのではないかと誤解したというのだ。スッタニパータという経典にはある。 「・・・どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、この世において生と老衰を捨てることを」 「ピンギヤよ。人々は妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、あなたは見ているのだから、それゆえに、ピンギヤよ、あなたは怠ることなく励み、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ」 ・へ2・・・ブッダは何も答えずにただ励ましているだけだろうか。この問答では、 ・「理法を知り、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えよ」 ・「怠ることなく励み、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ」 といっている。つまり、 ・「この世界がどういうものであるかという理(ことわり)を知り、そのうえで世間的執着から離れた生き方をせよ」と解脱ヘの道と、自己を救う道を教えている。この世界を正しく認識せよというのだ。これはなにも特別な修行をせよとはいっていない。ブッダを神秘化したのは仏教を利用して神秘の濃い霧の中に投げ入れた既成概念や因習を持った人々たちである。
2007.10.28
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・今朝は。℃、℃、ど怒涛の日曜日のあさで、それは平日ではない。平穏でもない。普段働いている人たちの休息の日であり、聖書でさえ休息日があり、神聖にしておかしがたい襞(日だ)。わが愛したい鬼娘たちが朝から部屋を徘徊している。私の時間は汚されている。親を親ともおまわず神聖な時間を踏み躙ろうとさえする。白ネコがいて、餌がどうなろうといいではないか。猫が大事なのか。おそらく大地震があってもおれより先に猫のことを心配するに違いない。こどもは、・・・。 ・へ2・・・どうも日曜は、静穏が遠のいていく。ウサギ小屋なのだろうか。「アルプスのハイジ」ノヨウニワラノ上で目覚めたい。起きたらすぐに山羊のチチ(私は、こどものころ家で山羊を飼って、山羊の乳を飲んでいた。孟子三遷ではないが、母が私が痩せていたので心配して山羊の乳を飲ませていたが、私が母の父をいつまでも欲しがるからではなかっただろうか?)をのみたい。外に出たら、澄み渡った空にモンブランが見たいのだ。半分やけくそだ。 ・ひとの夢を侮るなかれ。かって母の子に対する愛情は海よりも深かったのだ。それにしても、ど、ど、ど怒涛の日曜日。あっ、もう7時ですね。
2007.10.28
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・自分の過去を太宰は何度も繰り返して小説に書いている。書くたびに辟易する自分がいただろうし、あまり悧巧と思えないが、それが太宰治の個性ともいえるのだろう。繰り返し反芻することで味わうものも違って感じられたのだろうか。頭の悪い私のようなものには、またかはあるにしても、その酸味が感じられる。愚かなことほど繰り返してしまう自分がいる。意外と、知らぬが仏で生きているだろう。阿呆と言われそうなことをしているものだ。でもそのひとになってみないと分らない何かがあるかも知れない。それは思わずにはいられない。実際そういうことがこの社会には多いからだ。 ・へ2・・・見かけは当てにならない。その時はいやなやつと思っても、あとで違ったことは何度もあったからだ。自分で嫌だと思っていたこともよく考えてみるとそれほど嫌なことではなかったのだと思うことがある。のど元を過ぎるからだろうか。苦しみも苦しみではなかったような気にさえなることがある。自分でやってみないと分らないことばかりだとおもうようになり、少し心も楽になっただろうか。子供のころ自分は少し「ノー足りん」だと卑下していたが、思ったより世間が馬鹿だと知って安心して、楽になり他人とも話せるようになった。おれは自分は自閉症ではないかと疑っていた。 ・若い時だけど、あるとき、ぼんやりきれいな人を見ていたら、隣の知らないおばさんから「あんた好きなら、好きといわないと女はわからないのよ。はっきり言わなきゃ、だめよ」と言われて、「ああ、おれはそんな風におばさん(世間)から見られているのか」、愕然とした。自分でしていることがわかっていないのかもしれないし、他人からどうみられているのかわかりはしない。おれは自閉症だとおもったのだ。それからすべておく手になってしまった。それから変遷した。性格がごろごろ変わったが、だんだんよくなるはずが良くなっていない。
2007.10.28
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10月28日 仏 教 の こ と ・仏教とは、悟るための教えであり、仏になるための教えであるという。それを日本ではそれをそれまでにあったカミと仏をだぶって考えられたために、貴族や朝廷の権力者の病気や災忌、天災のときの国家安寧を願う加持祈祷と手法としての仏教として受容されていたに過ぎない。「平家物語」の冒頭の有名なフレーズはそのことを顕わしている。そして道元が「正法眼蔵」を書いている。 「仏になるいと易い道あり。ものもろの悪をつくらず、生死に著す心なく、一切衆生のためにあわれみ深くして、上を敬い、下をあわれみ、万事をいとう心なく、願う心なくして、心に思うことなく、憂うることなき。これを仏と名づく。また、ほかに尋ぬることなかれ。」 ・私流にいえば、仏になるのは極めて困難である。自分が悪を為す前に、この世は悪で満ちており、私はそんなに偉くないからこの世に生あるものに憐み深くするようなことなどできはしない。上を敬うこともできそうないないし、下を憐れむなこともない。もともと上下はないのだから。万事には善悪があり、すべてを受け入れたら、長生きはできないだろうし、なにも望まなければ遣ることもなくなってしまう。心におもうことは次々にあり、内外のストレスとどう闘うかを考えていないとすぐに潰されてしまうだろう。これでは仏になれそうもない。またほかに世の中に問うことは山ほどある。 ・へ2・・・これでは、悟りのこころを簡潔に説いてはいるが、涅槃を目指す自己救済がないし、支配者に対する服従でしかない。国家統制のための道具でしかない。キリスト教などの布教を阻止するための道具として受け入れたのだろう。いい言葉のように見えても使う場所を次第で、じわりと道具にされたのだろう。檀家制度によって各地の寺や庶民を土地に縛り付け、国家統制戸籍管理の道具にもなっていった。
2007.10.28
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Oct 27, 2006 ひとは胡桃のうちにいる 決して、胡桃の外ではない。試行錯誤しながらひとは生きている。時には遣りすぎるし、挫折もする。利巧と言われる科学者だって、100分の1か、1000分の1か、或いはそれ以上の途方もない可能性に賭けた仕事をさえするだろう。併し、それは困難なだけで不可能ではないかもしれない。ひとの今日の進化はそうして成し遂げられてもいる。勿論日々嘗めているのは自己嫌悪だろうが。真理がすぐそこにあった時代ではなくなった。もう救ってくる神は近くにはいなくなっている。日進月歩の科学の進化は、より複雑な社会を形成して来ている。それは味方であり敵である。そして敵であり味方でもある。科学は、最早諸刃の剣だけではない。パンドラの箱にもなる。私たちは、誰も人類を破滅させる為に生きてはいないが、併し、それを遣るかも知れない。遣れるだけの「核」をもってしまった。これは、科学者の哲学の無さが招いた最大の犯罪である。このことの罰は、抗うことのできない事実でもある。善悪は、時としてめまぐるしくところを変えるが、それは、この社会が不完全であり、善だけでは生きれないことを意味してもいる。人は、誤りをおかすだろう。宗教でさえ、かって道具にされた。そして、今もそうかも知れない。それには理由が在るだろう。併し、少なくとも殺し合いの道具にすることは、破滅への道でしかないだろう。 P.S. 上の写真はオアフのダイヤモンドヘッドの周辺。上までは登らなかった。クルミの宇宙の中というのはホーキングの本にあったと思う。1年前の日記だ。ブログで書くと、勝手に記録されているので引き出すのが便利だ。しかし、どんな風な整理にしたらいいのだろうか。むしろまとめない方がいいのかもしれない。もし10年前、20年前とブログが残っていたら面白いと思うが、まだ利用は思いつきでしかない。
2007.10.27
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・台風20号の影響らしい。関東に接近中と報道されている。あっという間に近づいてくるのだから、対策も大変だ。何をしているかわからないようにしているが時間だけが確実に過ぎている。まだ買って半年も経たないのに、もう「j」に入力が可笑しくなって市なった。だから用心しないと、ローマ字入力「j」が抜けてしまう。妙な文章になるなと思ってら、そういうことらしい。メーカーが違うからだろうか。多分出来不出来もあるのだ。殆ど故障しない車があるかと思えば、故障ばかりする車もある。 ・へ2・・・色んな約束事も明文化してあるものとそうでないものがある。表向きは中々言えないというやつだ、ところが何かの拍子に曝け出されると大変なことになる。浮気だってそうだろう。「私は愛人しています」と誰も言わないだろうが、ひょんなことで露見する。昔みたいに、姦通罪や、二人並べて串刺しになることはないとしても、多分思ったより大変なことになるだろう。世の中を甘く見てはならない。 ・今日は公開講座で修了証を貰ったが、そのとき学長が挨拶をしたが、<カルチャー>は「耕す」という意味でと開会と同じことを話していた。どうやら、どこでも同じことを言うだけではなく、朝、話したことを、夕方、同じ話をするようなひとらしい。ボキャ不足、これが大学の学長なのだから恐れ入る。ボケるには早いだろう。しかも大学だ。 ・へ2・・・甘えてしまっているのではないだろうか。どうせ、・・・なのだからで、胡坐をかいているのではないだろうか。自戒をこめて。あまり他人のことも言えないが。
2007.10.27
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2005年2月12日 戦 略 ミ ー ム 赤ちゃんは可愛く産まれる。誰もそのことを否定できない。人間はみなほとんど老醜して死ぬ。子供が殺されると世 論は復讐を誓う。若者が死ぬと悲劇になる。物語になり愚かな行為も美化される。いまも封建時代を生きてい る愚かなサムライたちが居るかも知れない。いまも他国では教科書に、特攻隊やサムライの国にされたりする。憲法も 天皇をシンボルだとしている。いまも遅れている場所と醜悪な暗部もある。警察も暴力団を利用し、必要悪として 黙認される巨悪は枚挙に暇が無い。現代社会は矛盾に溢れており、正義が必ずしもいまも王道ではない。 悲劇が喜劇になり、何時までも悲劇に付き合わない。老人の死も無駄死にの如く。苦しみや悲哀は忘却さ れるだろう。戦略meme は、ひとのことろを操り続ける。仕組まれた恋愛の罠に嵌まり尊い生命をかける若者たち。 守銭奴たちが残した血とと涙と汗した資産も、凡そ三代で国有に戻るシステムができている。 戦略meme 、種としてのヒトの 第二の遺伝子だ。
2007.10.27
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・柿右衛門磁器の背景には有田焼の現況があったわけで、時代の変化に対応できなければ生き残ることはできないということを痛感させられます。いま商品の差別化とか新商品とかイメージの開拓とかというテーマで取り組んでいるわけですが、必ずしも競争力や将来性が明るいとはいえない。それは一言でいえば、そのスケールにあるのではないか。それだけの人材や環境が整っているかでもある。美しい陶磁器も貴族隊が贅沢品として愛好していた時代とは違ううからでもある。新しい価値を生み出しうる下でもあるだろう。 ・へ2・・・有田焼は「究極のラーメンどんぶり鉢」として商品しヒットしたとの話だったが、私はまだ手に取ってみたことがない。いま「至高の焼酎グラス」が作られ、やがて「至福の徳利と盃」が販売予定だとの話だった。少なくとも大学の調査によると有田陶器の基盤は脆弱でしかなく先行きも明るくはない。このまま消えていくのだろうか。世界一流の柿右衛門様式の磁器の世界が生き残ることができるのか。自然淘汰されるのだろうか。 ・ふとマホメット軍の強さを思い出した。ジハードという宗教的モチベーションを背景とした蛮勇のほかに、戦闘員は敵のもっているものを分捕って自分への正当な報酬にしたといわれるその利得への強い欲望も彼らを勢いづけずにはいなかった。10年間に70回ほどメッカ軍と戦ったのだ。死を恐れない彼らはメッカ軍に対して圧倒的に数が少なかったにもかかわらず勝利したという。630年、マホメット軍は2万人の兵を連れてメッカに入り、住民をすべて改宗させた。2年後、マホメットは63歳でメディナで病没した。彼には男子の子供がいなかったので後継者問題が起き大きな分裂となった。そのときシーア派が生まれた。イスラム教は東方世界の殆どを軍事力によって制圧した。 ・へ2・・・何を武器として戦うかでもあるだろう。時流に乗ることができるかでもある。大なり小なり、課題を克服できなければ消えていくのだ。
2007.10.27
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・午前中「柿右衛門様式磁器の世界」全6コマの最終講義。抽選にもれて現地研修ができなかったりしたが1クールも終わった。有田焼の現況は厳しいようだ。1992年に比較して売り上げベースで3分の1に減少している。原因は外国から安価な商品の流入と、バブル時のホテル、料亭などの買い控えなどが響いている。400年の歴史がこのままでは危ない。新しいデザインや新商品の開発が急務なのだろう。最近では究極のラーメン鉢がヒットしたようだ。小企業が多く、企業間の技術の交流がないなど、今後の進捗が懸念されている。大学としてはデータベースの有田焼文様の構築などのサポートを考えているようだ。 ・へ2・・・多くの作家たちが70歳を超えており、その伝承が問題になっている。世界一といわれる造形手法の貴重なデータを記録しようとしている。柿右衛門磁器土型の3次元計測とデータの蓄積、陶芸のPC利用の造形支援と名工の技法の記録が役立つ日も近い。NCを使った造形表現も可能になるだろう。このままでは優れた名工たちの継承が危うくなっているだろう。売り上げの減少は、あまりにも多くの問題を抱えており、それに立ち向かう方策は少なくとも有田焼の関係者だけでは保存できないのではないか。もっと大規模な支援体制必要だろう。 ・西欧の陶芸趣味が時代を風靡した時代があり、有田焼きという芸術を生んだが、時代の流れに対応した新しい工夫がなければ生き残れないのは、どこも同じだろう。たとえ有名ブランドの柿右衛門様式の磁器が残ったとしても、その文化を支える有田の陶芸師たちの存在が重要なポイントになるだろう。この伝統を守れるだろうか。 ・へ2・・・やはり、有田焼にも生き残りのためには<ポイント・オブ・ノーリターン>があるだろう。伝統を残すという国民のサポートが必要だろう。それは、ドイツ国民のような市民が参加したあちこちに繰り広げられる「中世の町づくり」のような熱い情熱だろうか。
2007.10.27
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2005年2月28日 耕 畝 山頭火1940年没。享年58歳。松山の草庵で本人の希望とおりポックリ往生したらしい。季語などに 捉われない自由さが珠玉の輝きを放っている。どうやら生きる自信が無くて揺れつづけるのだろうか。 亡き母が、よく腐りかけた林檎を買って来て食べていた。当時は、少し恥ずかしいと思っていた。 勿論貧乏の所為もあるが、腐敗した処を切除して美味しいと母は、言って食べていた。私も食べろと 言われて食べていたが余り気持ちは良くなかったのを覚えている。今それを考えると、単に母がグルメ なのではなく、母のライフスタイルであったと思う。食い意地は張っていたのではなく、見掛けは悪くても 美味いものがあるのだ。耕畝は、堂守を生きておれば、山頭火はいないだろう。 見かけばかり捉われて、生きようとしているのではないだろうか。 うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする 山頭火
2007.10.27
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