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上の写真をみてどう思いますか。造花ではない。生け花です。何かぎょっとした。それこそ連想したのは裸のそれですな。そろそろ酔っていますが弁解はしません。バイオテクで作られた花なのであります。花だけというのは衣装のない裸のように思うのは私だけでしょうか。尿ににじゃなく、妙に生々しい。もし人間が植物になり、花になったら、頭を土の中に隠して逆さ立ちをするような姿になるのでしょうか。やはり変な形ですね。 鳥渡思っただけで気分が悪くなってくる。案外舞台裏というのは面白いようで、ブログの管理者というのもきっと若造なのでしょうね。訳のわからない奴がいそうです。時々妨害や嫌がらせをする。セコムじゃなくてセコイ連中なのでしょうね。ブログを始めた当初、名前を出したらヤバイのではないかと忠告された。古い人間だから自分の所在を明らかにしないような人間はろくな奴ではないと指導されてきた。どうもここは違うらしい。出ると打たれる。出る杭は打たれるというのは日本人の社会の特徴ではなかったか。それがここでもか、と思いましたね。 儒教や仏教に内在する普遍主義的前提と同じく、近代化に内在する普遍的、平等主義的、個人主義的前提と原則が、どの程度現在の日本を形成しているのだろうか。外国人が見るほど概括的ではないにしても、単純ではないと感じる。日本における立憲的民主体制と全体的な近代的社会構造は、経済発展と密接に結びつき、独自のパターンを造り上げてきた。それこそ日本人の特性とはそうしてできた産物でもある。 狂い咲きして逝った有名人たちも、嘲笑されねばならないだろう。所詮徒花であったと。日本だけが殊更特別なのではない。「選民」などという民族の気がしれない。花瓶に挿した花が花ではない。裸にされて何が美しいだろうか。造られただけの花でしかない。壮大な自然がありそこに健気に咲くのが花だろう。 この花が何に見えますか。ではなく花は花ですが、それだけではない。私は孤独でしかない。それは自分を感じるからでもあるだろう。思いは伝わらないだろう。私と一緒に生きた人間は他にはいないのだから、わかるはずもないし、それを説明する力もない。仄めかしているだろうか。無駄な足掻きだろうか。そうまだ時間が僅かだがあるかもしれないし、ないかもしれないが、どちらでもいい。いつか、誰かが達するところが最後の岸壁だとしても、そこにヒトの思いがつながれてもいるのでしょう。 「夢がありますか」とあなたは問うていますか。ありますよ。そうして、生きているのですから。夢のない人生なんて、死んだも同じなのでしょうか。いつも夢をもっていなければ生きていけないのだろうか。そうかもしれない。あなたはレイプをされたら死にますか。そんな現実がいやですか。そんなひとは死ねばいい。破廉恥な人間はいつの時代にもいる。脳の回路の異常な奴はどれだけでもいるでしょう。この世に目的はない。ただ子孫をのこせと言っているだけです。
2007.05.31
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人間関係の難しさは利害が一致しないことでなおさら複雑になりがちだ。噛み合わない日本語の語彙の多さにもよるだろう。土台議論するために洗練された言語ではないだろう。上意下達はいまだに存在している。21時ころになったら眠くなり先ほどまで眠ってしまった。 もう現在は0時を回り、6月1日だ。眠くなるまでビールでも飲みながらPCに向かうことにした。私にとって何と緩やかな時間だろうか。それこそ経済的な価値ゼロの時間である。この世に価値のないものはないと哲学者は言うだろうか。しかし今日的市場経済では、経済的価値のないものは評価しない世界だろう。建前と本音は違うのだ。優れた学者たちがいたと思うが、それが評価されなくなっている。何故か。それはアメリカ的な価値観や、世界観で見るからだろう。日本にいる奴は、日本で研究する研究者なんてカスだと言うだろう。かび臭い木造建築の中で本の虫になっていて世界は見えないと思うのだろうか。それこそアメリカナイズされた思考でしかない。 行ってみなければわからないものと、そうでないものがある。ことばも必要があれば覚えるだろう。そうでなければ自分のことばで考えればいい。自分で解ろうとしないものはいつまでたっても分る筈はないのだ。蟻がエベレスト登山を目指しても無理だろう。人間だって同じだ。エベレストに皆が登る必要がどこにあろうか。それぞれの山を目指せばいいだろう。セクト主義が一番自分のスペースと存在を狭くするだろう。私は、他人と競争はしたくない。喧嘩もしたくない。だがヒトと自然だけがすべてだとは思わないだけだ。 次々と庭のあじさいが咲きはじめた。もともとここの土壌は岩場を切土したもので肥沃ではない。アジサイも何年も花が咲かなかったので諦めていたが、肥料をやり始めて去年ようやく数輪花をつけて感激した。そして今年は見違えるように咲き始めた。土壌を代えてやったからだろう。花は咲かないのではない。咲かせようとしないから咲かないだけだ。思うだけでは何もできないそのためになる前提条件を揃えなければならない。複雑系の社会でシンプルライフもないものだろう。それに見合った人間でなければならない。丁髷をして映画祭に行くバカがいる。その所業が嫌である。何の考えもない男が日本人の監督でそれを囃しあげるメディアが日本のメディアのレベルなのだろう。まともな批判さえできない現状でしかない。それを世界は嘲笑するだろう。 日本人が汚染されていくのは外の環境ばかりではない。内面までもけだるい文化で毒されている。何故拒否しないのだろうか。腐った権威しか認めないようでは、この社会を読み解くことはできはしない。>まだ今朝早かったのでフラッシュになり色合いが出ていません。
2007.05.31
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一息ついたところだ。女子大の附属図書館は2階と3階で1階はセミナー室と視聴覚室などがあり、女性生涯学習研究センターの事務局もある3月までは美人のHさんだったが4月からも美人のAさんに交代になった。図書館から1階に降りたら、Aさんから来月の講演会に出席するように話があった。何かとお世話になっている。彼女とは初めて図書館に来た時親切にしてもらっている。PCの持ち込みとか、便宜を図ってもらっている。気持ちよく接してくれるので図書館利用もし易いのだろう。 初めて来たときAさんから、昼の学食を勧められた。食堂にいったら勿論女子学生ばかりで圧倒されてしまった。その後何度か食堂で食べたがどうも別にみられている訳でもないが落着けない。学食は女子大のこともあり味もいいのだけれど、どうも私が苦手で困った。そこで弁当を持って行き目立たない駐車場で車の中で食べている。 昨年のクリマルでドイツに行ってから、月二度の文学講座と、いくつかの講演会には出席していたが図書館の利用は減っていた。男女共学の私大の方が土日も利用できるのでそちらの方が増えてもいた。でもやはりここの方が居心地がいいようだ。少し真面目にまた通おうかと思っている。読む本はある。講座の種類も増えており、今度の講座も「政治と女性ー諸外国の事情からー」というテーマで、フランスやドイツの話があるようだ。ここにはホルストというドイツ人の講師がいて日本語が堪能であり、また人気者の先生がおられる。 来月は中国ツアーもあるし、少し気合いをいれてやりたい。勿論マイペースだけれど。>写真は、元南ベトナム大統領府の官邸内にあったプライベートルームの近くの中庭だ。元大統領が家族と住んでいたらしい。日本風の庭園になっていたようだ。
2007.05.31
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若いころは考えもしなかったが、じーとして本を読むのも体力なのですね。それがだんだん怪しくなっているかも知れない。そろそろ図書館から移動します。明日も昼から春季講座があるのでこの女子大に来ます。午前中から来てもいいのですがまだ決めていない。余り目立ちたくないのですが、受付の守衛さんには顔を覚えられてしまっています。一々受付簿に来校のサインをするのも面倒なのですがね。 ここには本もあるし、周囲も静かでいい環境なのですが、いつまで利用できるでしょうか。それは分らない。大学の方針が変るかも知れないし、私が来れなくなるかも知れない。兎に角今は気持ちよく利用させてもらっています。借り本ができないのが残念ですが無理は言わないことしています。下手に騒ぐと来ないでくれといわれそうですからね。何せ女子大ですから。 車で10分くらいで来れるのもいい。和白は福岡市の東部のはずれですが。3大学ありますが、全部図書カードを作っています。どこか使えなくなったときの用心です。そんなことがあるかないかわからないけれど転ばぬ前の杖ですね。意外と慎重でしょう。私のビジネスの信条は時間を守ることです。当たり前ですが、大抵時間に余裕のある時は、取引の相当前に行って待つことにしていました。色々気がつくことがあるからです。 上の写真は、ホーチミン市の中央郵便局で薄暗いでしょう。節電でしょうか。面白かったのは老人が代筆をしている。字の書けない人の代筆をして小銭を稼いでいるそうです。定年後のアルバイトのようなものでしょう。日本でもそういうものがあれば私もやりたいくらいですね。色んな人の話が聴けるでしょうね。
2007.05.31
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渡辺洋三の「憲法問題の考え方」という読んでいるが、「あとがき」によれば、1967年1月とあるから、早や40年間を経過したわけだが、指摘は正鵠を得たものだと思う。優れた学者の見識は、40年経っても色褪せないのだろう。ふって湧いたような議論ではない。これこそ憲法問題の所在を、広く一般市民に訴えたいという氏の念願に沿うものなのだろう。 私が大学の公開講座に関心をもったのがかって阪大の最初の講座を受講してからだ。その時の講座の素晴らしさは、眠い目を一瞬にして開かせる感動だった。講座名は「機械文明の中の人間」だった。以前にも紹介したが、分子生物学がこれから注目されるだろうといわれた。まさにその通りになった。DNAやMRNAの話をされたが、先見性のある話だったと思う。そのことを、思い出している。 現在のメディアで、真面目な憲法論議がされているだろうか。アメリカナイズされた市場経済の論理だけが席捲しているのではないだろうか。御用学者たちを払拭してまともな議論のできる研究者はいなくなっただろうか。まことに情けない事態ではないだろうか。働き手のいない農地が泣いているのではないか。基本的人権の抑圧が始まっているんではないか。アメリカと結びついて再軍備体制をすすめ、そのための天皇制の復活強化や、他方において国民の抵抗を排除しようという政策が進行している。まさに憲法改正はそのことを如実に示すものではないだろうか。 骨のある学者が消えて行ってしまっただろうか。優柔不断な輩が残った大学など存在価値はない。国民が真に求めているのは、問題の所在を明らかにして見せることであり、必要な大学・研究者とは、憲法改正論議の矛盾を解析し、その「予見の正しさ」を国民に示して見せることではないだろうか。>かってのドイツの郵便馬車。
2007.05.31
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頭が壊れているのではなく論理が壊れているのだろう。憲法改正論議は、それが出てこざるをえない必然的ベースを戦後の支配体制が包含していることだ。したがって単に憲法の条文のどこが悪いのではない。問題を限定することなく、改憲の基礎にある現実の支配体制そのものに目を向けなければならない。この観点を見逃すと、真に国民多数の生活利益に即した強力なものとなることができない。現実の支配体制を抜きにした憲法論議にしようとしている政府の罠に堕ちることになる。 戦後の支配体制は、講和までを占領体制、講和以後を安保体制を呼んでいる。安保体制とは日米安保の軍事同盟条約を指す。と同時に国内的には、日本帝国主義ないし軍国主義の復活を指向する体制である。この二つは、盾の両面であり、不可分の関係にある。そしてこの安保体制が、改憲問題を執拗にしかも必然的に登場させざるをえない現実の支配体制があることだ。 現行憲法は占領下とはいえポツダム宣言に集約された世界の世論を背景としたものであろう。憲法の規定する平和、民主主義、基本的人権の諸原理は、ファシズムや日本帝国主義に反対する世界の諸国民の戦いの歴史的成果であったことを忘れてはならない。現行憲法の制定に携わった者が、たとえ占領権力や日本の保守勢力であったとしても、真の制定者は、日本における平和と民主主義の確立をのぞむ世界の諸国民であったといえるだろう。占領軍や日本の保守政治家はみずからすすんで、こういう内容の憲法をつくろうとしたのではなく、国民の革命的な進歩勢力を抑えることができないと思ったからであり、自らの支配体制を維持しようとした。 憲法改正問題は、長年の保守政治家の悲願としたもので、当初の自由党の憲法調査会長があの日米安保強行採決の岸信介首相であり、その孫である安倍晋三首相が引き継いでいることになみなみならぬものを感じざるを得ないだろう。 憲法は、つねに複雑な国際的国内的階級関係の所産であるといえる。まさにその軍国主義の亡霊たちが動き出し始めたのだろう。安倍内閣は、憲法の諸原理に忠実ではない。この憲法を「押しつけられた」憲法だと公言している保守的政治家の一員に過ぎない。 これまでにも憲法論議が浮上したがあまりに露骨な再軍備政策をかかげたため国民の平和感情を刺激したために、逆コースとして批判された。新たな戦略で改正論議が再浮上していることに、まさに国民の諸原理に対する意識が問われ始めてもいるだろう。
2007.05.31
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先ほどの話の病院の中庭のびわの実。八百屋のものとどこか違うのは育て方のちがいでしょうか。何か食べる気がしない。びわは美味しそうですが意外とそうでもない。よく子供のころ友達の庭のビワを食べたけれど、あの大きな種子が妙に気になったものです。それでもそのビワの実がなるビワの木が羨ましかった。 いままた昨日の大学の図書館にいます。あれから隣町の町立図書館に行き、ツタヤでDVDを返却してぐるりと遠回りで大学に来ました。途中でおにぎりを食べました。昨日は空腹で困りましたからね。「Newton」を読んでいます。「光とは何か?」が特集です。面白そうです。 そういえばボキャが少なくなっているのは今の自分の準拠枠が狭くなってきているのでしょうね。でも拡げ過ぎたら、私の脳が保てないかもね。色々多動性していますから。私たちはいわば光を通して、世界を見ているわけで、その光にまつわる不思議な現象は、身近にあふれていますがその一部分さえ知らないのではないだろうか。空気は透明であるのに、なぜ空が青いのか、夕焼けの空が赤くなるだろうか。光の正体をめぐってニュートンをはじめ、多くの科学者がその解明に挑んできた。 人間のエリアは広いのか狭いのかよくわかりませんが、私には面白いですね。そう思う人も数多くいるに違いない。その好奇心がいい方向に向けばいいのでしょうが、中々そうはいかないところが、人間の弱点でもあるのでしょう。
2007.05.31
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生まれおちる場所が違えば出自も違う。親の投資を得られない子もいる。その人にとって学ぶことがなんであるかで違う運命かもしれない。体の弱い者が野を歩き海を渡ることはできないし、体を鍛えることもできないだろう。虐げられた子が他人を愛するなど並大抵ではできないだろう。それは試練であった。何がその人にとって学ぶことになるかは時と場所でも違うだろう。相手も選ばねばならない。 それにしても間の悪いことが多いことだろう。波長が合わずに折角のチャンスを逃すこともいくつもあるに違いない。どれだけ聞いておかなければならないことを両親から訊きそびれただろうか。そして両親の亡くなった年齢に達しようとしている自分を思うと切なくもなる。 これから何をしようというのだろうか。黙っていればいいだけではないだろうか。所詮それだけのことではないか。より豊かな大地に育ち、より多く陽ざしを浴びた者が大きく育つだけではないだろうか。大風が吹けばなぎ倒されるだけではないか。より多くエネルギーをもつものが高みに達し、より遠くへ行くだろう。人間の努力とは何なのだろうか? 病をえて入院し、中庭のベンチでよく考えていたものだ。もし悪性ならば命にかかわり死ぬだろう。この風景を微塵も変えることができはしない。生き延びることができたとしても、何ができるだろうか。生物は少しも変わらず生きて営みを続けている。どれだけ喜怒哀楽があったとしても、ただそれだけの営みでしかない。 未練を残さないようにするために何をすべきだろうか。それを考えるべきだろう。学ぶべき時を逸してはならない。死は常に付き纏う衣服のようなものだ。裸では生きていけないようにあるのだから・・。近くに枇杷が実をつけていた。
2007.05.31
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どんな樹木であろうと生存競争の中で生きている。少しの差が運命を決めてもしまう。たとえ同じ木であろうと枝は太陽を目指して競い合ってもいる。そして負けた枝は水を断たれて枯れてしまうだろう。生垣の剪定をしたあと枯れた枝を切っていた。よくみると残った枝にも生きている枝と既に枯れた枝がある。枯れた枝は生気を失い炭素化してしまっている。切除してみるとすぐわかる硬いからだ。 時々間違えて生木を切ると柔らかいのですぐわかる。切ってしまって「御免」といっても遅いがわからず切ることも多いのだ。たとえば柘植の枝をみると何と錯綜した枝になっているだろうか。表面は丸くしたり、水平に剪定して如何にも整然としているようにみえる木だが、中身は滅茶苦茶に枝が張っている。枯れ枝もそのまま残っていて雑然としたワールドだ。 遠くで見たら美しい緑の木であり、美しい枝にしか見えないが、中身は戦場でもあるだろう。枯木を払いながら、人間社会も運に恵まれず枯れていくような同僚の生き様を見てきたし、私もその一員だった。何と浅ましいことだろうと絶望もしたが、この世界ではどこにでもあることだろうという感慨が湧く。人間社会は、もっと高度な文化だと思っていたが、生垣と同じだろうか。どんな形にでも為政者に刈り取られるままだけだろうか。 枯れ枝はそのままそこにつながる幹に繋がったままだが、強風が吹けば払われるだろう。それども風の吹かないところではいつまでもしがみついている枯れ枝もある。その硬さはひとの骨のようでもある。いささか胸が詰まる思いがした。枯れ枝は払わねばならない。そうすれば木は大きく育つからだ。少なくとも生き生きとしてくる。自分の生命もそうしなければならないだろう。枯れたものは捨てねばならない。そうしなければ早死にすることになるからだ。 上の写真は、数年前入院していた広い敷地の木々たちだが、ここは昔は陸軍病院であり、結核療養所であり、いまは多くの重病患者の病棟があるところの隣地でもある。
2007.05.31
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多くの日本のサラリーマンがそうだとは思わないが過当競争に追い込まれ、やがて燃え尽きるということに、どこか切ないものを感じるとしたら、それは何かで目にしたことでもあるのだろう。自分にもその経験があるかも知れない。そうなるまいと努力はしてきたが、いくつかの痕跡を隠すことはできない。笑えない事件がつづいていた。それはバブル崩壊にともなう敗残兵だっただろうか。いまだに消えない悪夢だっただろうか。 血流が止まり出して悲鳴の上がるような痛みを何度も感じたけれど、それが自分の会社だと気づくのは遅くなるものだ。その度に否定しようとしたからだろう。ただ私は未経験ではなかっただけだ。企業が破綻するときの、放漫経営を小規模ながら見ていたからだ。企業もひとも、ある相似したものがあるだろう。ものが尽きて倒れるのだ。 よく見れば解ることがあるだろう。それを見ようとしないだけだ。死病に対する多くの患者の受け止め方も一つのパターンがあると訊いている。最期は受容しなければならないだけだろう。燃え尽きるのにも早いか遅いかの違いだけなのだろうか。サドンダイが話題になるがそれが自分のことだと気づくのはいつも手遅れだろう。まさか自分がそんな莫迦だとは誰も気づかないだろう。そうして死んだ人は身近にもいるだろうに。 しっかり物事をみていないのは、そうさせまいとする力があることを忘れてはならない。罠に落ちたものがそれと気づくような簡単な装置であるわけがないだろう。自分で努力をしないで解るような社会ではない。解るものだけが解ればいいのだろう。 写真を観て、分るものは分る、がわからなければわからない。書き手の意図がどこにあるか想像できなければならない。イメージできないものに明日のイメージを描くことはできないだろう。段々と自分の体がシンメトリーではなくなっていくようだ。ヘイフリックの限界がじわりと近づくだろう。今すぐ死にたくないから現代医学にすがってもいる。信用はしないだけだ。「薬は毒だ」と言った薬剤師の卵がいた。汚染された環境がどれほどのものか知っている研究者たちはどこにいるのだろうか。>シンガポールで。
2007.05.30
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外の世界には多くのドラマがあるだろう。少なくとも日本により世界は広い。知っていることを何度確認しても仕方がない。違う世界を知る方が新鮮だ。どんどん新しいものを取り入れていけばいいだろう。何が待つかわからないが、少なくともそうしなければならない必然性があるだろう。もうそういうステップの時だと思う。 捉われずに両手を伸ばして触るものを感じるべきでもある。誰も認めてくれなくてもいい。自分を信じるべきだろう。自分の感触を誰にも分ってはくれないからだ。自分のペースを守り行くべきだろうと思う。型に嵌らないことだろう。この社会は、自分を生かすのは自分でしかないだろう。他人に期待してはならない。 写真は、バンベルク。旅はこころを高揚してくれるだろう。
2007.05.30
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L・H・ガンは日本とナチズムの違いを広域経済圏構想を基礎とする強烈な拡張主義的態度によって引き起こされたとしながら、ともに担い手は陸軍であったが、日本人は、よりよい世界を作り出すという名目の下に民族的な大量虐殺に邁進したのではない。これに対してナチズムは、アーリア人種というもっとも高貴な民族が支配する帝国を樹立しようとする千年王国的信条であった。 実際には日本人は中国人やフィリッピン人に対して残虐な殺戮をし、「従属民の皇民化」の衝動は日本の優越性の前提に基づいていた。しかしなお彼らを勝利者に仕えるか飢え死にをするしかない、人間以下の存在に過ぎないと考える日本の理論家はいなかった。ヒトラーは正統なん君主であり、サンキュロットであったという。 日本人の国民性をめぐる議論は、欧米の目からみた一定の客観性を帯びているものだろう。しかしはたして正鵠をえたものだろうか。アーリア人の優越は、日本人のアジア人蔑視とどこが違うのだろうか。よくわからない。理由が何であれ、圧殺される側からいえば同じではないのだろうか。精緻な分析は、時として都合の好い論理をも生んでしまうのだろう。 何が罪で、誰が責任を負うべきかを明確にする必要があるだろう。それさえ判断できないようで何が決められるのだろうか。曖昧さがいつも付いてくるだろう。それを判断できなければ、日本的軍国主義とナチズム、そして日本人とドイツ人との落差はどれほどあるというのだろうか。
2007.05.30
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それこそ知らなくてすんでいたことが不思議なくらい何も知らない中国なのだと思った。誰がそうしたのだろうか。戦後の教育、その後の米ソの冷戦構造は私たちに中国を遠のける環境を造り上げていたらしい。勿論あれだけ日本から移住したりしたのだから係わりのある人たちが大勢おり、私などは偶々かもしれないが、どうも縁遠い存在だったようだ。 社会体制の違いも大きいだろう。文化大革命という事件が齎したものは一番は中国自身に痛みを残したには違いないが、日本もそのために遠のいた経緯もあっただろう。日本の常識が中国では非常識でしかないといわれていた。話の通じない国家ではないかという先入観を植え付けられてもいただろう。すべてはアメリカを向いてもいたのだ。 核の傘があるから安全だ、とは流石に考えてはいなかったが、中国を学ぶ気にもなれなかった。毛沢東思想は語録を読んだくらいだろう。文革や林彪事件はショックだった。何が起きているのだろうかと思わないまでも、殆ど情報がなかったこともある。いつの間にか中国の製品を使うようになり、食料品も増え続けている。日中貿易が拡大しているいま、その存在の大きさを実感しているところだ。来年北京で開かれるオリンピックがまた大きなターニングポイントになるのではないか。 それでも、やはり一番見たいと思うのは、故宮や天安門広場よりも万里の長城だろう。世界最大の建造物でもある。長城は、日本のお堀があり天守閣があるイメージとかなり違う「城」なのだそうだ。侵略しやすいところは二重に長城が造られてもいる。よほどモンゴル軍が怖かったのだろう。
2007.05.30
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巨大事故というものは、どんなものであれ秩序の破壊であり、熱力学からいえば非可逆過程であるから、完全に後戻りして修復するなど、できるはずもないのであり、現代の技術では破壊の性質上、いわば後片付すら困難である。スリーマイル島原発2号炉は、事故後十年間、クリーン・アップの作業をしたが、ついにギブアップしたという。後始末が終わったのではなく、完全な後始末は無理として、あきらめることになったのだ。仮に完全にクリーン・アップが終わったとしても、膨大な放射性廃棄物残る。これは容易に始末のできないゴミになる。チェルノブイリ原発の「石棺づめ」が、完全な後始末になっていないことは言うまでもない。 ボパール、バーセルなどの化学工場の事故でも、環境に漏れ出した化学物質は、きわめて長期の残留物があり、その汚染を完全に除去することなどできないという。日航機事故のケースでも実は放射能を運搬していたという。それはヨウ素などの放射能で、一部は回収されたもののかなりの部分は墜落とともにまき散らされて回収されなかった。放射能の量が少なかったから、それ以上の問題にならなかっただけだという。もっと量が多かったら大変なことになっていた。現代の巨大事故は、一つ間違えば大変な事態を招きかねないことを忘れてはならないだろう。 昼飯を久しぶりに食べていないので眩暈がしてきた。そろそろ帰ります。あと「北京」「万里の長城」の本を探して読んでいました。そろそろ九州は蒸し暑くなりますので、大学の図書館が好い遊び場になります。あまりインターネット関連の利用できそうなのが少ないのは女子大の所為でしょうか。
2007.05.30
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久しぶりに女子大の図書館にいる。午前中は30%の降雨率だったが、それを見たら雲が切れており、PCでの移動も可能のようなので出かけることした。というのも女子大の図書館用の駐車場は数台しか停めるスペースがなく、離れた所に広い駐車場があるのでいつもそこに駐車しているが、そこから図書館まで青空の下を歩かねばならないのだ。バックにPCを入れていくと荷物をロッカーに預けるという手間がかかるのでいつもPC本体をそのまま持ち込んでいるので雨が降るとPCが濡れることになるのだ。 女子大には講座で毎月数回行くが、昨年のドイツ旅行から、図書館利用は少なくなっていた。他大の利用をしていたからでもある。然し、やはりここが静かで落着くような気がしている。新入生の姿も二階までで、三階は空いている。いつもの指定席に座ったところだ。周囲に誰もいない。早速書棚を見て回り一冊の本を見つけた。高木仁三郎「巨大事故の時代」。チェルノブイリ事故を中心に、巨大事故と人間との問題を扱っている。現代事故の特徴を引用する。 ・事故はまぎれもなく現代的な事故である。 ・事故は同時に優れて古典的である。 ・事故には複合的な因子ーとくに機械と人の両面のミスが関与する。 ・事故は予告されている。 ・事故は解明し尽くされない。 ・住民は事故にまったく備えがない。 ・事故の巨大さは軍事技術に根をもつ。 ・被害が目に見えない。 ・事故の完全な後始末ができない。 等だという。恐るべき内容が含まれている。事故は人間が係わる限り必ず起きるだろうし、起きている。たとえ百万回に一回でも起きるときは起きるだろう。とても起きそうにないといわれながらこの確率論は明確な根拠がないことが多いのだ。日吉丸といわれた秀吉が太閤になるとはだれも予想はしないし、できはしない。だが現実にはそうなったのだ。>まさか韓国でキムチ料理を食べるとは旅行をするまで考えたこともなかったが、・・。
2007.05.30
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モードの切り換えが悪くなったのは加齢ばかりではない。心の在り方の問題でもあるだろう。初めからリスクのない闘いなど多寡が知れている。何もしないで死んだ方が利口なのかも知れない。ブラブラして幸福だと思うような人間は役に立たないだけで死ぬだろう。案外人間は見損なうものだ。役に立たないと思われるものがそうでなかったことは枚挙に暇がないくらいあるからだ。 自分が利口だと思っている奴ほど何も分かっていないかもしれない。こうしてブログしているがこれは日本語ではない。所謂「もどき」でしかない。土台「変換」がまともではないし、漢字が正確に書けない。元々正しい日本語を書けるようにはできていないから、もしそれをやろうとするなら、時間ばかりかかってしまうだろう。それでもそうすることが価値がないのではない。無駄だと思うだけのことだ。何故かと言えば、その文章を読む人が理解してくれるかわからないし、私は教師でもないからだ。 あるものを使うしかない。だが本当はそれではいけない。日本語は消えることになるからだ。心を伝えるのに外国語ではできないものがある。それは日本人が拠って立つ暮らしの中で暮らしている中から生まれてくる心情でもあるからだろう。しかしそれも通用しなくなっているだろう。アルプスのハイジが、山小屋の藁のなかで眠るという悦びを、もう私たちのような年代でさえ想像できるだけだからだ。藁の匂いを嗅いでもいないものが、藁の中で眠るという意味を理解できるだろうか。それが分からなければハイジのこころも理解できないだろう。 ひとは何になろうとしているだろうか。少なくとも好くなってはいない。時代の針はより多くモンスターに振れているだろう。平気で仲間も殺しかねない。親や子を殺す時代だ。どれだけ科学が進化しても人間自体が進化するわけではない。殆ど数万年前から同じだ。おそらく生物学的には退化も進化と言うだろう。
2007.05.30
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何と自分らしくあることは、簡単そうで難しくもあるだろうか。自分らしくと思うだけで本当はそうでもないことが多いのではないか。たぶん優しいのは日本人だけではないだろう。みな世界の人々もやさしい人が多いのだろうが、日本人から見た肌理の細かい優しさは言語を同じくする人たちにより多く感じるのではないか。それと幼児のころから刷り込まれた脳のイメージも大きいだろう。 幼児体験がその人間の価値観をも左右するのだろう。好き嫌いは物事がつく前からあった気がする。子供のころの感動が段々少なくなっていくように思えるのは、生命力の衰えのためだろうか。確かにひとの細胞分裂も7回目くらいの頃のコピーが一番鮮やかで美しいといわれる。それはひとでいえば個人差があるが20歳前くらいだ。成程今年ミスユニバースで優勝したの日本代表の森さんも20歳だと聴いたが、納得がいく。 折角綺麗に咲いた最初の紫陽花の一輪が妻の要望で玄関の花瓶に挿されている。昨日までそこにあった紫陽花がなくなり空間ができてしまった。何かぽっかり抜けたスペースが寂しい。これは目に見える寂しさだろう。何かが足りないものが何なのかが分かっている寂しさだ。どうも一度描いたイメージは元には戻らないようだ。いつかそのスペースを何ががすぐに埋めるのだろうが。 花はすぐに咲いて散ってしまう。それを生かすというのは、活け花もあるのだろう。それは人間の我儘でしかない。
2007.05.30
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まあ時々訳のわからないことを書くけれど普段は普通にしているつもりですが、全体としては訳がわからんようで、自分で言うのも変だが、訳がわからないかもしれない。小鳥の声に誘われて少し外に出てみたら、今度できたばかりの公園を歩いてみたくなったわけで、見苦しい恰好のまま散歩してきた。まあ近所の人にも会うこともなく、穏やかなまま帰ってきました。いいですね。公園には少しばかりのスペースのグランドがあって、上を歩いたらもう走れなくなっている自分に気付いて、意外と萎れたりするわけでして、何ともお恥ずかしい。 そういえば今年は家の前の躑躅がパッと咲かないのでおかしいと思っていたら、どうやら剪定の時期を間違えていたか、わかってやったかも知りませんが、不作でした。何とも塩がない奴がいる。楽しみにしていたのに裏切られた気分がします。ちょうど長い髪が好きなのに突然短髪になった恋人みたいですね。でもないか。実はまだ写真がコントロールできていないし、このPCも意外と扱い難いというか、相性が良くない気がする。どうもPCの向こう側に嫌な奴がいるのではないかと思えても来る。余ったカネがあれば違う機種でも買いたい気分です。 どうも女好きではないかと思われているらしく妙なアクセスもある。一度顔を見せてくれたら顔でもひっぱたいて、塩漬けにでもして、今度行く万里の長城にでも埋めてきてやりたいところです。 さて、博多ゆりがなぜ幻かというと殆ど見られなくなったのを九大の研究者たちがバイオで蘇らせたものです。博多花どんたくのイベント事業のいわばスタンドプレーみたいなものですが、どうにか間に合って会場に展示されていた。もうひとつは例のサントリーの「青いバラ」でしたが、まあ回数券を買って存分に見倒してきましたが。その「青いバラ」の写真禁止で撮れませんでした。正直言って色素は青らしいのですが、紫に近かったので恥ずかしかったかも知れない。まったくなんて世の中だろうか。
2007.05.30
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教育の領域と経済の領域は、相関関係にあり階級制度や社会的序列の編成に広く影響を及ぼしている。近代から上流階級、中流階級、労働者階級という区分が存在した。しかしこのシステムは構造的には他の近代資本主義社会と類似しているが際立った相違もある。社会の広範な人々は、少なくとも表面的には自分を中産階級だと考える傾向が強いことだ。それは政治的な階級意識を弱くし、地位の非一貫性を助長している。 教育制度と職業制度が密接に関係しているのはヨーロッパよりアメリカに近い。上流階級は主として子どもへの教育投資によって再生産しようとしている。日本では階級が教育的達成の重要な決定要因である。世代間の職業的継承である伝統的な帰属が機能しなくなってもいる。文化的資源の確保は、ほぼ全面的に教育を通じて継承されている。 日本的傾向は主として欧米との比較によって顕著になりつつあるだろう。それは明らかに客観的な指摘なってきている。ことに頂点にある大学と頂点にあるエリートとの関係密接であることはイギリスと類似しているが、イギリスではそうした学生は上流社会の出身者に占められている。日本では最近の現象であるが、頂点以外の経営者が増えてもいる。すなわち地位の非一貫性の傾向が強化されてきている。 欧米との相違は必ずしも単純な傾向ではない。日本特有の教育の序列構造、とくに平等主義や能力主義との特異な組み合わせと密接に結びついている。教育制度に明らかな階級性があるにかかわらず、学力による選抜が行われており、均質で水平的な社会階層がつくり出されることがなかったのである。社会を横断したピラミッド的に組織された複合的な垂直的組み合わせを生んでいる。 いまや日本は、66億人の世界の中の1.2億人のシンプルモデルではない。(・・・昔からそうだが)。特徴的な傾向はまだあるにしても、日本も多様で複雑化したアジアの一国としての国民でしかないだろう。今後は未曾有の高齢化社会が実現するうえで、あらゆる常識は通用しなくなるだろう。それを踏まえなければ議論の価値はなくなるだろう。>バンベルクのレグニッツ川。
2007.05.29
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恐らく歴史は知れば知るほど人間のおぞましさを感じるだろう。人の残虐さは果てしがない。知りたくもないことを知らなければ先に進めないのも事実だろう。そこに避けられない苦しさが伴うのだ。人間が厭にもなるだろう。知ることの意味が甘くはないことの証でもある。 イラクで戦っているアメリカ兵に守るべきものとは彼にとって何かを問いたい。今日、アメリカ兵の月間死者数が最悪になったと報じられた。まだブッシュは続けるという死んでこいではないのか。その流される血の上に築こうというのは何なのだろうか。どんな賛美の声も死者には届くことはない。もうこれ以上知らなくていいのかもしれない。もう充分人間の愚かさは見てきただろうか。否それはまだほんの一部でしかないだろう。 それを知る者が言葉を棄てるのはなぜだろうか。言葉をなくしてしまうくらいの衝撃があるからだろうか。 ただ意味もない話をはなしつづけるタレントの「さんま」は、何も考えてはいないだろうか。ただあるものをその場に合わせた言葉でしゃべり続けている。日和見であることが生き延びる最良の方法だろうか。得体のしれないモンスターが、あふれ出した。彼らには血が流れていないのかも知れない。>バスの車窓から雨中のバイクで走る人があふれだしていた。すぐちかくに元南ベトナム大統領官邸があった。
2007.05.29
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「近くて遠い仲」といえば、男女のことと相場が決まっていたが、いまや使われ方が違うかも知れない。日本と中国との関係がそのことばが相応しいかも知れない。仮想敵国と言わないまでも意見の異なる状態がつづいてもいる。寧ろ米中の方が日本の頭越し外交がされており、その事実関係が暗黙のうちに繰り返えされてもいる。それを知らない日本政府ではないが何も言えないだけだ。 勿論日中が喧嘩をしたら日本は踏み潰されるだろう。14億人対1.2億人の人口の相違がある。まともに争う相手でもない。憎しみ合う気持ちが消えてはいないのは、そんな国に蹂躙された歴史があり、その屈辱で中国のプライドが許せないことは想像できる。それこそ万里の長城を6000キロも造り上げた3000年の歴史をもつ国家でもあるだろう。 他人を侮ればその報復を受けるだろう。やったことの後始末はつけねばならない。何でもけじめがいるだろう。ちゃんと決着してことを始めるべきだろう。それから何をするかはお互いの責任だろう。それから自分たちのなすべきを粛々とやればいいのだ。>ハイデルベルク大学には学生牢のあとが残っている。1386年に創設されたドイツ最古の大学で7人のノーベル賞受賞者を輩出した名門だ。旧校舎は1712年に建てられている。現在2万5千人の学生がいる。学生牢も歴史的建造物だ。講義のある時は受講していたという。
2007.05.29
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日本は、古代より仏教、儒教の影響を受けつつ、また明治以後は西洋文明の影響をも受け入れそれら普遍的世界の一部として自己を規定することもなかったということだ。しかも他の非軸文明と異なり、いち早く近代化を成し遂げたといえる。この逆説をどのように説明するかというテーマに取り組んでいる。(アイゼンシュタット「日本比較文明論的考察」) 愈々怒涛の論戦が始まらねばならない。如何にそこに日本人が参戦できるのだろうか。福岡の高校でフランス語を第二語学の授業があるのは一校だという報道がされていた。お寒い限りだろう。この時代に、英語だけをやればいいという時代ではない。他国を知るのは言語を知ることから始めねばならないだろう。多様な時代に見合うものでなければ役に立たないのではないか。 日本は、他国と比べて何が遅れており、何をすべきだろうか。それを知り取り組まねばならないだろう。冷静な目で世界の研究者が日本の歴史を裸にしようとしている。他人からいわれて動くようではダメだろう。自主性を持たねばならない。いうまでもないことだろう。>ローテンブルグの市壁の周辺。写真のすぐ近くのベンチで白ワインを1本、妻と飲んだのが懐かしい思い出になった。酔っていた所為か写真もぼやけてしまった。
2007.05.29
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文化の混迷が人間を低俗にするだろうか。そしてそこに暮らす人々をもひくつにするのだろうか。何も慌てる乞食ではない。私たちは充分精神的愚鈍者だろう。今から10キロ先の映画館に行こうと思ったが、思い直した。まず昼寝だろう。怠惰な人間は昼寝が必要だ。昼寝で行けなかったら明日でもいい。そのあとだってある。もし見ないとしてもそれだけではないか。 疲れて眠い目で映画を観たところで大事なものをみのがすかもしれない。腐った眼を開けていても仕方がない。死人に何ができようか。蟻一匹も殺せはしない。お前が生きていて何ができる。そして人間のできることといえば、全部小さいことに過ぎない。ひとが大きいことをなすのは、その場にいたものだろう。そしてそのことを為し得るものは少ない。その責務を自覚できることができないからだ。昨日松岡利勝農水相が自殺したが、明日は違う政治家が真似をするだろうか。彼は殉教者だろうか。それだけの深い意味があればやればいい。 ただ世の中で起きることで自殺をしなければならないような大事があるだろうか。個人で背負うものは僅かな荷物でしかないのではないか。それを如何にも重そうにしているだけで衒いつづけているだけではないか。虚偽を為すものは自滅の憂き目に遭うだろう。眠ければ眠るだけだ。そのほかになにがある。したいようにしないならこの世で何ができるだろうか。 ひとはあっという間に過ぎたものになる。私たちは通り過ぎる者達の後ろ姿をみているだけだ。祭りは、いつも夢の中で去っていくだろう。 今年の博多どんたくも、210万人の見物人と参加者たちの記憶になった。
2007.05.29
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第二次大戦までは、教育システムの頂点に立つことを基盤として官僚エリートが優位に立っていた。戦後になると、それとは別の大学で形成されたビジネスエリートが、官界エリートに対して自信を深めるようになった。しかしこのビジネスエリートは強い一体感を持っていたわけではない。いくつかの分散したグループに過ぎなかった。どの分野のエリートが重要かは常に変化している。 それこそ砂漠でしかなかった言論界にも、新たなスペースが出現し始めている。アマの登場だ。目先のことに振り回されて、匂いをかぎ分けられない鼻の利かないエリートたちばかりだからだ。彼らには能力はあっても明日の匂いが嗅ぎ分けられない。他人の後ろをついていくしかない。そういうことしか知らないからだ。スキルがない。 すべての人間は精神的には対等であり、同じ窮地を生き抜かねばならない。 天が与えた自分の課題を、どう生かすかは自分の努力の成果でもあるだろう。価値のない方に走るのは気概がないからだろう。自分の鼻を信じないからでもある。自分の信じたものを守らなくて何が自分のプライドと言えるだろうか。>ホーチミン市ツアー中のバスの中から撮影。
2007.05.29
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若い人の躍動は見ていて気持ちがいい。引きかえ枯れてしまってもなおしがみ付いているような姿も多く見かける。隠れて見えない所でそういうものが引っ掛かっていると枯葉が溜まっている。どうやら全体の空気を濁してもいるだろう。しかし何が枯れているか、判断するのが難しい。所謂見かけでは分らないからだ。 何でも好きにできそうだから「自由」ではない。そんな自由権などない。近代憲法で保障される自由のことだ。国家権力によっても個人の自由を侵害されぬという自由をいう。それこそ多くの英雄たちによって、血で勝ち取ったものだ。だからこそ、風通しの良いところで政治は行わねばならない。松岡利勝農水相の自殺のもたらす波紋は小さくはないだろう。 自殺する自由もあるだろう。しかし政治家にはどうだろうか。それで責任を果たしたと言えるのか。世間から当選したら誰でも「先生」と呼ばれ大きな権限をもち、時には総理大臣にもなりえる。まして松岡氏は現役の閣僚であった。選挙民の付託を受けているだけではない。国民の付託をも受けている人ではないか。それが個人の存念で勝手に自殺するというのはどうだろうか。勿論同情論もあるだろうが正直理解できない。出所進退を明らかにする人が政治家になるのではなかっただろうか。 宗教があるかなしかの問題ではない。政治理念の問題だ。澱んでくるのは風通しの悪さもあるだろう。どれだけの思想の持ち主であるのか開示しない政治家など、政治家ではない。評価のしようがないからだ。そういう訳のわからない政治家がいる間は政治は決して良くならないのではないか。
2007.05.29
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楽天フォトの最大容量は50MB。すぐ限界に達してしまう。だから一々前の写真を削除しなければならない。もうそれを何度もやっている。そろそろ削除を止めにしたい。いつまでも拡大しないので、それならば、とナウな彼女は嫌気さし、大好きだったブログが他所に逃げてしまった。それからも一向改善が見られないのは、容量を拡大するつもりがないのだろうか。他社と比較してどうなのか。無理をいうつもりはないが、自社のコンセプトをブロガーにも示すべきだろう。写真は重要なポイントでもある。 まあ勝手にやればであれば引っ越す。たとえばいつまでにどういうプランだとか示すべきだろう。折角続けても、あとで削除する気持にもなって欲しいものだ。載せたものを消すというのは面白いものではない。以前は、一日のスペースの限界が5件までだったが、突然無制限になった。楽天もその時次第でどうともなる、ご都合主義を続けるつもりだろうか? 気に入らなければ止めればいい式のことなのだろうか。いつまでも言われなければやらないというのはケチな精神だろう。言われてはじめて動くようでは多寡が知れているだろう。利用件数が増えたのであればそれだけのことをすべきだろうと思う。
2007.05.28
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漸く日本の明治イデオロギーの緩やかさが齎した波動が天皇シンボル体系へと流れているが、西欧との比較文明論が双方に囁かれるようになっただろうか。少なくとも日本の歴史家の怠慢は西欧の目を正しく評論できていない。内在する矛盾を明らかにするという役割を果たそうとしなかったのは紛れもない事実だからだ。 イデオロギーを正統化する知識の基礎づけをどうするのか。もう天皇の地位の神格化では通用しない時代だ。東洋に見られる指導者の神格化はいずれも破綻している。ヘゲモニーの問題は常に風通しの良いものでなければならない。それこそ、今回の現役閣僚の自殺という戦後初めてのケースは、この国の体質の風通しの悪さを露呈したものとして世界に示したものとなっただろう。どれだけ口でグローバル化を叫ぼうとも、その体質の歪さを払拭してはいない。 何も今更孔子的思想を懼れることがあるだろうか。かっての中国が文化大革命でしたことはどんな国家体制であろうと過ちを犯すことを物語っている。それは、日本でも同じだろう。軍国主義のどこが問題だったのか、おそれず取り組む姿勢がなければならない。根性のない議論ばかりしていては埒は明かないだろう。 何も慌てることではない。知りあうことを恐れることはないのだ。異文化を知ることは悪いことではない。そうしなければいいだけだろう。
2007.05.28
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亡き三毛の写真もまだストックはあるけれど、そろそろサヨナラしよう。もう三毛は、逝ってしまった。長生きのできない悲運の猫だったけれど、未だ半年くらいは生きるだろうと思って大事にしていた。真夜中でも外に出たいときには出して、ミャーとなければ入れてやったし、ゲロゲロ吐いても知らないふりをしていた。 まさか交通事故で死ぬとは思わなかった。でも死んでしまった。悔やんでも仕方がない。もう灰になり、炭素に還って行った。ぶらりときて、1年間もわが家にはいなかったけれど、片目の手術までしたのに長生きできなかった。もう一つの目が見えなくなっても、餌をやればいいと思っていたのに。 出て行ったまま帰らなかったら、せめて、生きていると思ったことだろう。車に轢かれて誰かが、三毛を病院に連れて行ったのだろうか。しかも、片目を手術をした病院に、それが縁なのだろう。三毛の遺骨を引取ってきた。いつか別離がある。そして「さよなら」がある。
2007.05.28
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行ってびっくり玉手箱なのだけれど、来月下旬に北京ツアーをする。パンフでは5つ星のホテルとライトアップ万里の長城が目玉らしい。二日目は天安門広場、故宮博物館、天壇公園、胡同遊覧は輪タク乗車観光とか北京ダックの「全聚徳」そのあとは、OPの京劇らしい。翌日は北京郊外観光だ。明の十三陵をみたあと、万里の長城(居庸関・八達嶺)夕食後ライトアップされた八達嶺長城へ。暗闇の中で光る悠久の長城の光景は圧巻だとある。 もう一つのツアーでは承徳観光が入っていたが、予定日の分は人が集まらなかったらしい。どうやら王府井大街(ワンフーチン)には行けそうにない。北京の伝統的建築四合院造りのホテルにも宿泊予定だ。寒いのは苦手なので、暖かそうなのが取り柄だろう。社会体制の違う中国とはどんな国家なのだろうか。人口は13憶756万人。面積は日本の約26倍だ。かっては、日本の常識が中国の非常識。中国の常識が日本の非常識だといったものだ。それが経済取引が拡大しており、少しづつ市民レベルの文化交流も深まりつつある。たとえ観光ツアーといえでも知りあう端緒になればいいのだろう。 >狭い空でしかないが、夕焼けが広がった。(part3)
2007.05.28
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西洋そのものであるキリスト教は絶対ではなく、人間の物語における相対的なある歴史的な段階でしかない。神はさまざまの名で呼ばれる。人間と、人間を取り巻く神秘だけが究極でしかない。すべて宗教は、人間存在と、時間、死、悪が突きつける現実と意識の裂け目の架橋であろうとしている試みであろう。そしてどの宗教も正しい鍵を握っているのではない。選民の存在などあろうはずもない。すべての人間は精神的に対等であり、同じ窮地を切り抜けて生きねばならない。 他の文化に触れ、他の文化を経験することが意味があるだろうか。自己意識の中枢神経を刺激するだろうか。キリスト教が歴史を包摂しているのか、歴史がキリスト教を包摂しているのだろうか。答えは言うまでもないだろう。 松岡氏が死亡したとの報道が流れた。>近所の夕焼けpart2
2007.05.28
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検査入院したことがあったが検査の多さに辟易した。内容の説明不足もあるだろう。患者を莫迦にしているのだろうか。辟易した。少なくとも減らすことはできるはずだクランケの心理を考慮しない病院側の怠慢でもある。配慮が足りない。一度にやろうとする気がないのもあろう。どうせ保険だから、だろうか。ウイルスとの闘いに初めから早く克服しようという熱意がない。 病気の数が愈々増えていくだろう。それは知らなかったことが多過ぎるくらいあるのと、薬品会社が病気をどんどん創り出してもいるだろう。未だ解明されていないのに、化学薬品で新しい病気が生まれてもいるだろう。副作用のない薬はない。元々薬は毒であり、払いのけた場所には、また新しい生物が侵入してくる。所詮現在の医療はパーツ医療でしかないのだ。 私たちは騙されている。未だ騙されてやるしかない。そうしなければ成り立たない現代医療でもあるからだ。そうしなければ、私たちの多くは、死への宅急便か、直行便か、知らないが乗ることになるからだ。死にたくないために病院へ行くが、当てにしている医師たちが治すだけの能力が殆どない。あるふりをしているだけだろう。彼らは高見の見物をしているに過ぎない。自分の身に起こらない限りどうでもいいと思っているだろう。それが医学だと信じてもいる。彼らは親切そうで、実は親切でなかったという童話の中にいる。医者はまだ下手な芝居を続けるつもりらしい。私は、それを木偶の坊といいたい。 このまえ近所で夕陽を追ったが逃げられた。(part 1)
2007.05.28
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病院から買い物をして帰りテレビを点けたら松岡農水相の自殺?が報じられている。重態とのことだ。政治家が自殺するというのは社会的にも影響が大きいに違いない。松岡氏の一連の事件は松岡氏自身の不可解な態度に終始していたと思う。何か農水関連の今後を暗示しているようでもある。日本農業はそれこそ喰いものにされてきたのではないか。かっては全国農協を中心としてプレッシャー団体の最大の政治集団であった。旗を立てて海外旅行をする農協のグループが謳歌してもいた。 いまやズタズタではないだろうか。そうしたのは自民党だし、政治家たちでもあるだろう。田舎は過疎化が進み、今や、じいちゃんとばあちゃんの農業が主流だろう。そんな中で農水相がちゃちな事件を起こして追究されていた。政治以下の事件だった。そんな中での自殺事件だろう。安倍内閣の閣僚たちが如何に世界の政治からかけ離れたところにいるかが露呈されたのではないか。論功行賞で造り上げた旧来からの政治手法を用いた内閣でもある。 誇りのない農業になり、若者が農業を捨て始めてどれくらい経過しただろうか。政治にしろ、経済にしろ、農業関係の行政にしろ、学者にしろただ農民を見捨ててきたのではなかっただろうか。なぜ国民の生命としての糧となる農業が二の次にされているだろうか。 農地を守ることは食糧の安全を確保するために是非必要なことだと思う。
2007.05.28
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周囲に多くのリスクがあるのは昔からあることで珍しいことではないが、一度に起きる大事故が大規模になってもいる。最悪が「核」に関するものだろう。戦争で使われるだけではない。原子力にまつわる事故は起きてからでは取り返しがつかない。安心していたらとんでもないことが起きかねない。元々電力会社に専門家が少ないというのも変な話だし、それを平気で運用しているのだから、驚く。原子炉なんて造るべきではないだろう。安全を確保してから造るべき問題だ。 元は、一面農地だった。田んぼだった。人が増えて人家が立ち、工場ができてマンションやスーパーもできてドンドン人が増えてきた。そうしたらどうすべきだろうか。それを考えなければならないが、だれもそれを自分の問題として責任を持とうとしない。刃物を持って襲って来たら騒ぐが、大勢で乗り込んでくる農地には、誰も文句をいわない。勿論泣くものたちもいる。彼らにはそれを阻止できない。 細々と住居と化した市街地の中に田圃に今年も水が張られた。周辺はすべて住居だ。蛙も虫たちもいない。不思議な世界が広がっていた。ただ米作するための田圃だからだ。
2007.05.28
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前の写真を掲載したら、こんなところに田圃があるのかというコメントがあったが市街地の田圃はこんなものだろう。いくつもあるので今更だが、どんどん増えているのより、減っていもいる。埋め立てて宅地にするからだ。ここ和白は、私が来た頃の20数年前だが、田圃が広がった田園の町だったが急激な市街化が進行してきた。 生活排水も出ていたはずだ、下水道が整備されたのは大分と後であったから。博多湾の人工島もそうだが、はたして為されている調査が充分といえるか、といえばそうではあるまい。それこそ想定内の調査しかしないからだ。微生物の生態など考えてもいないだろう。まだ知られていない生物は、まだ数千万種といわれるが、実はその数倍はあるといわれるのだから。知られないまま死滅している種が五万とあるだろう。それどころではない数値になるはずだ。 人への影響も十分とは言えない。急激は食の変化が齎す影響は子孫たちに引き継がれる可能性が高いから、米だけではないだろう。魚類や、肉類も同じだし牛乳の影響も分らない。牛化する人間も笑い話ではないかもしれない。ひっそりと米作されている。それを食べている人たちもいる。自分が食べている食品がどこで作られているのか?知らないで食べてもいる。本当に信用できるのか?
2007.05.28
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何かの映画で日本兵がこのブーゲンビリアの花を愛していた話を何度か聞くたび、一度欲しいと思っていたが、漸く手にできて鉢で買ってきた。そして花が散り始めて、だんだん花が散っていき淋しいと思っていたら、芽が出始め、初々しい花が咲き始めた。 ベトナムでも、シンガポールにもこのブーゲンビリアの花があったからどこにでもあるポピュラーな花なのだろう。それだけに愛されてもいるに違いない。毎朝起きて見に行くのが楽しみになってきた。植物も生き延びようとして必死に生きようとしている。それがよく見るほどに伝わっても来る。生命の営みはみな共通するルールをもっていて、それを自然の摂理と言っている。ひとの社会はもっと複雑だが、根本は同じルールなのだろう。 花も人間の愛情を必要としている。それがなければ花たちもこれだけ地上で咲いていることもなかっただろう。遺伝子操作によるバイオもほどほどがいいのではないか。人間はやり過ぎて大きな失敗もしている。それこそ理性のない輩が核兵器まで造ってしまった。それは暴走でしかない。寧ろ花たちのルールを人間たちは守るべきなのではないだろうか。 さて、また朝になろうとしている。いつもはこのまま続けるのだが、午前中病院に行かねばならない人間の生命もそれほどのこともない。どれだけカネや権力や才能があろうとも1分1秒の時間や生命をさえ買うことはできないのだから・・・。
2007.05.27
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農家ではなかったが母方が農家だったので、近くにあったこともあってよく遊びに親戚の農家に行っていたから、多少知らないわけではない。熊本の市内だったが、そのころはまだ周辺は田圃も多く、虫たちも多かった。未だ自然があちこちに残っていた。農薬を使いだしてめっきり虫がいなくなったし、小魚も死んだ。子ども時代があともう少し長かったなら、色々気づいたことも多かったのではないだろうか。 欧州はどうなのだろうか。そして、東南アジアは、やはり日本のような自然破壊が進んでいるだろうか。狭い国土であるからこそ、その影響も激しくはあるのだろう。戦争体験のないものがどれだけ戦争の話をしてもピンとこないものがある。そして本当に戦争の悲惨を口にできるものが殆ど死んでしまうのではないか。すべてを語り聞かせるものが地上からいなくなるのではないか。繰り返される過ちはそうしてやってくるのだろう。喉元過ぎれば熱さを忘れるという。 田植えは大事な行事で、子供たちも手伝わされたから、田植えの辛さも知っている、すぐ腰が痛くなった。大人たちが働き者だということを知った。腰の曲がった老人も沢山いた。米に愛情が籠められてもいただろう。一粒の米も汗の賜物だと言われた。それでも親戚が集まり楽しいこともあっただろう。その時色々教えてもらうこともあったからだ。水利権とか、世の中の複雑な仕組みがあることを知り始めてもいただろう。 私の現在の住まいでも、田植えが始まったが、昔とは大分と違っている。賑やかな歓声もなく、子どもたちもいないし、小魚もいないし、虫もいない田植えだ。
2007.05.27
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NHKの大河ドラマは昔から見ている。風林火山もまあ見ている。諏訪の姫が好いですね。あとはどうもですけど。よくまあ同じことをNHKは続けている。それでいいと思っているのだろうか。くだらない。まあくだらないからみんなだけか、というとそうでもないところがある。 眠たい。朝と夜がどうもどうでもいいというか。太陽がまぶしい。くだらないブログに付き合ってもらわなくてもいい。いつやめようかと思っている。日記は、マイナーな趣味でしかない。死ぬまで続けるのは阿呆だろう。何もすることがないやつがやればいいだけだろう。何かあるだろうと思うやつは自滅するだけだ。何もありはしない。まあ空気くらいだろう。あるとすれば臭いだけのことだ。いつか泡のように消えるだろう。 街角の片隅の犬の糞のようなものだろうか。
2007.05.27
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真夏の陽気であった。南の高気圧の影響らしい。黄砂など光化学スモッグで運動会が中止になったところもあったそうだ。暑いはずである。夕方少し歩いてきたが田植えのための水が田圃にはってあった。そろそろ田植えが始まるだろう。市街地の田圃がまだあちこちで頑張っている。それこそ食べ物と言えば最近は中国産ばかり食べている。 戦争をするより日本をやっつけるなら、兵糧攻めにでもしたら一たまりもないだろう。日本の政治経済の戦略はどこか抜けていて幼いのではないか。妙に追随したり、足もとが揺らいでもいる。都会の中でつくる米作というのも怪しいのではないか。人家の明かりや、工場の明かりなどで生育が混乱もしているという。生活排水もどこまできちんと整備されているだろうか。日本の土壌も汚染されていないはずはないだろう。 浮かれているうちに、時は打ち過ぎ汚染された空気と、土壌と、水と、そして食物と、それを食べた人間も異常を起こしていくのではないだろうか。力尽きて野に付すことがあってもそれは自業自得と諦められるのだろうか。明日は、月一度の病院だった。
2007.05.27
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玉名市に義母がいて、母の日に何かを送っている。今年は義母の要望で何か化粧品にしたそうで送るのが遅れたそうで、宅急便で頼んできた。明日午前中に着くらしい。もう80歳過ぎた御婆さんが化粧品でもないだろうといったら、義母の要請とのことだ。驚き入った話だがどうもそうでもない世情になっている。どうも女性が長命になったからだろうか。このまえ義母が入院したとき、病院で下着を換えられないという話にショックを覚えたが、若い女性ならまだしも婆様までとは恐れ入った。 別に悪くいっているつもりもないが、いつまでも婆さんが若かったらどうなるだろうとは思うだろう。昔社内で若い子が、年配の人と通りすがりに聞こえよがしに「臭い」としかめっ面していたのを思い出す。その時は幻滅した。一度にその子が軽薄に思えた。年寄りが老人臭があるのは当然だろう。それをことさら口に出す配慮のなさが厭だった。 それこそ子供のままなのだろうか。有名大学を卒業したばかりの女性は特に役に立たなかったそれを棚に上げて、誰がどうのという資格はない。食わせてもらっている会社の先輩を悪しざまにいう神経に腹が立った。そういうことを咎めない会社がおかしいとも思ったが、案の定会社が潰れた。
2007.05.27
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明日、何が待つのだろうか? 天国でも地獄でもない。紛れもない現実だろう。それがどういう姿をしたものだろうか。どういう社会形成のもとにあるのか。まだ誰も説得力のあるブルーシートを出せずにいる。どちらかといえば悲観的なのではないだろうか。地球温暖化や、地球を取り巻く環境破壊は資源の枯渇さえ口にされつつあるし、人口問題に発する食糧問題もある。戦争の火種はむしろ拡大しつつある。背広を着た経済的アニマルたちが市場経済から逃げ出すとは思えない。 宗教離れのヨーロッパ人たちはこれから何をするつもりだろうか。また新しいアメリカを創るつもりだろうか。USAとは、いったい何の合衆国なのだろうか。欲望と憎しみだろうか。欲望を積み上げても、人間の理想は遠のくばかりだろう。血祭りに上げ続けて最後に何が残るのだろうか。成り上がりのリッチマンの連鎖は底なしの泥沼なのではないだろうか。新しい価値はいずれ人の生命まで商品化するのではないか。市場経済主義の果ては砂漠ではないのか。それを中国は目指しているだろうか。 胃の奥から込み上げてくるものは言いようのない苦い思いを重ねたものでしかない。何かとんでもないことを人類は仕出かそうというのではないか。暗い予感だけがしてくる。木偶人形たちがそれこそ増え続けているのではないだろうか。自分で考えようとしない。巨大な権力に頼って生きようとはしていないか。行きつく世界を知ろうともしない。刹那的な享楽でしかないのではないか。 いつか、すべては炭素に戻るだけか。 >福岡県:六所神社の境内にて。もうひとつの木造。立花家由来?
2007.05.27
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何でもせっかちになり過ぎているのかもしれない。遅れると忘れるかも知れないという強迫観念があるだろうか。さっさと目途をつけたくなるが、つかないことばかりだ。切りのないどうどう巡りばかりしている気がしてならない。これでは幸福になるという前提条件があやしくなる。とても自分自身が好きとは言えなくなるし、楽観的でも、外向的でもいられなくなる。 六所神社で木造を見つけた立花道雪だろうか。何れにしろ立花家由来の神社である。ここはハイキングコースになっており、以前はタケノコ狩りとかよくいったものだが最近はご無沙汰している。カメラを持って出かけたらクスの原生林があったりするから、いい写真が撮れるかもしれない。 道端に転がっているものにも謂れがあるだろう。私たちはその遺物たちのなかで暮らしている。何でも取り壊せば良いものでもないだろう。可哀そうに雨ざらしではないがそのうち風化してしまうだろう。さしたる名作ではないとしても作家の魂が入っているに違いない。文化を粗末にする政治は大した役に立つものではない証拠だろう。>立花山の麓の六所神社の境内にある。
2007.05.27
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時計の針が止まった時がお終いでしかない。生きていることは走り続けることでもあるだろう。休もうとするものではない。過去を打ち捨ててきたではないか。過去は事実でしかない。為したことは消えないだけだ。傷痕がどうであろうと今の目が澄んでいるかだろう。 言葉を失いつつあるのだろう。段々と話す言葉もなくなるのではないか。会話のない人間関係が広がり、黙っていても電車に乗れるし、誰とも喋らなくても仕事が出来るかも知れない時代だ。ネットで何でも用事が済んでしまうようになるだろう。歩くことも、動くこともしなくてよくなったら人間はどんな姿をしてくるのだろうか。 自然も要らなくなるだろうか。空想は妄想にもなる。バベルの塔ではないが、いつかとんでもないことになるのかも知れない。海にもひとで溢れるようになるのだろう。もうすぐ6月だ。夏も近い。6月ハワイに行ったら、もう夏休みのシーズンでアメリカ本土から引切り無しにハワイにジェットが飛んできていた。ホテルは満員だった。 志賀島も福岡西方沖地震の影響で崖崩れがあり、長い間通行止めで島を一周することができなかったが、このまえ行った時には、やっと補修工事が終わっていた。上の写真はその時に撮った写真だ。考えてみれば日本は海に囲まれている海の民でもある。中国の地図をみて実感したところだ。
2007.05.27
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上の写真が見てすぐ分かりますか。これは私が以前使っていた富士通の「OASYS」という文書作成装置です。主として日記をこれで書いていました。もちろんその他の利用にも使用しましたが、何せ一行の半分も入力できない。どうしたかというとそれをリボン印刷して紙に落したのを読みながら文章を作っていた。頭の運動にはなりますけどね。まあ大変だった。早く現在のようなものができないかと思っていました。その前は、一字づつ、ガチャンガチャンと印字していた。タイプライターも字数の多い日本語は大変だった。 それに比べればいまは便利になりました。でも頭は、どうだろうか、本当に昔のように使っていますかねえ。最近のブログをみると何か絵文字とか、けったいなじゃれ言葉で書いていませんか。昔のことを嘲笑する気になれないのは文章を書くのさえ簡単にできなかったからです。私たちのような怠けものではなく、抑圧されながら命がけで勉強して文書を作成していたのではないか。 このOASYSは、もう使用不能ですが記念に残しています。たった10文字くらいしか一度に変換できなかった。苦労しながら文章を作るから一字一字を大切にしたのでしょうね。そういえば英文タイプライターも機械式でバッタン、バッタンといいながらキーを叩いていました。 便利になるだけ頭が空っぽになるようでは困りますね。
2007.05.27
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凡人が考えていることは大したことではないだろう。平和で価値ある人生にしたいだけだ。いまや66億人がこの地球の上に生存している時代であることを常に念頭に置くべきだ。リスクのない社会はないだろう。人類は常に生きるために、進化し多くのリスクと闘争しなければならなかった。それは現在もその途上にある。おかれた環境や社会的条件により内容は異なるとはいえみなリスクを背負った生き方を強いられてもいる。 肥大した世界はややもすると暴走しがちである。それは多くは生き残るためだというだろう。自然に対して向けられていた刃が、時として種同士の殺し合いになるのは不思議な現象ではない。それはどこにでも見られる生物の謂わば宿命の一つでもあるだろう。人間同士の殺し合いも拠って立つ歴史があろう。凡人の考えは否定され、拒絶されるだろうか。 この地上の最後の一人になりたいと凡人は考えないだろう。徳のある政治があるだろうか。殴られた頬を差し出した人間がいただろうか。辛くも虚無主義から逃れているひ弱な人々を見るにつけ絶望するばかりだろうか。潔い下等生物の世界の方がまともな生き方をしているようにも思えてくる。核戦争をするために科学を手に入れたに過ぎないのだろうか。種としてのヒトの絶滅を早め、地球をして生命の死滅の世界を招くだけの破壊者になろうとしているのではないか。 沈む夕日を追いかけているだろうか。果てしない苦悩がいつまでつづくのだろうか。
2007.05.27
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自惚れは、己に惚れると書く。自分を中心して世界が回っている。謂わば天動説だろうか。いつまでもそういうことでは大人にはなれない。よく頭では分かっていてもそこから抜け出せない人も多いようだ。日和見も多いだろう。狭い国土で肩を寄せ合って生きてきた日本人はいつも周囲にひとがいたこともある。独立心が育ち難い面もあるだろう。 幼児教育が自立心を余り教えないこともあるのではないか。物事をじっくり考えて自分の考えを表現させるスキルも少ないように思う。利便性ばかり考えて外国語を勉強させるのも考えものだろう。比較できる力も持つべきだ。競う合う方向が間違っている気がする。個人差があるはずだし、促成栽培のようなことを為すべきではない。 三毛が交通事故で死んで、やかり寂しさが、ふと湧いてくる。外に出ていつもすり寄ってきたし、家の中に入る時は飛び込んできた。生きていた時はそれが当たり前であったが、死なれると、ああいないのかという思いが、ふーとしてしまう。それでも愛猫家ではない。部屋が汚れるのはあまり好きではない。当然だが、ともに住んでいることはいいことばかりではない。 付き合わなければこの野郎と思わないですむが、諍いまでは行かなくても何らかの軋轢はあるものだ。それを乗り切れないような付き合いは長続きはしないだろう。利害だけの付き合いだけでは駄目なのだろう。 >ピアノの上の猫
2007.05.26
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郵便局まで歩いたら夕日が綺麗だった。どこかの空気の澄んだ山でも行ってみることができたら最高の景色だろう。雨後の澄んだ空気が美味しいに違いない。自分自身が好きな人なんているのだろうか。幸福な人の共通する特徴のひとつに挙げられている。勝手に自分は幸福だと思うのではないだろうか。何が果たして幸福といえるかも疑わしいだろう。 何に不自由もないだろうという人が意外と悲観主義者だったりもする。絶対君主制で神様だと思われたひとが、「朕は人間だ」と宣言される。そんなことは口では言わないが誰もが知っている。そんなシステムを造ってしまったからでしかない。人間は遣ってしまってあとで後悔することばかりだ。人間は愚かである。だから間違いを犯しがちだという。だから、そうならないように注意しましょうと、いつも言っている。自分でも分かっているだろう。それなのに過ちを繰り返している。すぐ忘れるからだろうか。 青い鳥という童話があるが、皮肉な話である。最初に戻ってしまう。だが教訓として考えるだろう。失敗は無駄でもない。それが人間の人生でもあるからだ。最期になってようやくわからねばならないことがある。それさえ理解できれば生きた意味がるというだろう。人生はテストだという人がいる。遠いところばかり見て自分の身辺のことを考えない人がいる。自分こそ不潔にしているのに他人のことばかり責める人だ。 まじめだから偉いのではない。勤勉だから優秀でもないだろう。勘違いをするのは自分に甘いからでもある。誰が誰に対して敵だろうか。媚を売ってはいないか。自分を見つめることは難しいが、それでもそこからやらないと何もはじまらないのではないだろうか。この前の雨の日に娘が友人たちとバーべキューをしたらしく、その道具の整理を頼まれた。もう夏仕様の出来事が始まっている。青春の日もいつか落日の如く終わるだろう。あの眩いばかりの太陽のに陽射しとろ喧騒はもうだいぶ昔のことだ。娘がそれをいままさにやっているのだろうか。 >夢追い人たち。
2007.05.26
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旅行は行く前に、行先がどんな所か調べる楽しさがある。女子大の図書館にどんな本があるかネットで調べたが、驚くほどないのにショックだ。まあ今回は余り時間もないので仕方がないが、中国の首都の資料くらい整備したらどうなのだろうか。大学の名が泣くだろう。予算がないといわれるのだろう。それこそ誰でも行くところではないだろうか。北京十景でさえ大したデータもない。 どうも調べるということに対する意識が低いのではないだろうか。広く市民に門戸を開くと言いながら知識の独占をしているのではないか。偏狭なことでどうするのだろうか。学外の者に図書を貸出しないというのもその現われでもあるだろう。本の持ち腐れではないか。2年近く通っているが、学生の利用も多くはないではないか。知識の安売りをしろというのではなく広く学ぶ機会を提供すべきだろう。庶民を侮るべからず、大学が一番意識が遅れている。 たとえば、商業主義ではなく、どうせ行くならこことここを調べて行ったらどうでしょうかくらい教えてくれる大学でもないだろうか。こんな本がありますよとか。本のリストでも作って照会でもするとか、やって可笑しくはないと思う。物見遊山かも知れないが、どこかで感じる何かがあるに違いない。 上の写真は、ホーチミン市の統一会堂で歴史的な記念碑でもある。着いたとき、それまで激しい雨だったが、急に止んだのが印象的だった。「百聞は一見に如かず」というではないか。官邸内に小さな庭があったが、当時の大統領の家族の部屋が近くに並んでいた。
2007.05.26
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衛星テレビを観たら、松坂が投げていた。丁度逆転ホーマーを叩かれたところだった。メジャーでどこまで通用するかは、どれだけ見る目を持っていたとしても予測がつかないらしい。贔屓目もあるだろう。大抵期待は裏切られるが、それをネタにマスコミは騒ぎたてもする。NHKがメジャーにシフトするのも日本野球の衰退を暗示しているだろうか。高校野球の事件も皆事実を知っていたはずだ。知らないふりをしてスター選手を育てていたはずだ。今更だろうが、そういえないところが建前の辛さだろう。 スカウトができない。監督のうま味がないでは、有力選手の発掘も、それを育てる名監督もいなくなるのではないか。有力選手を優遇していただろうし、本人もカネになるので一生懸命に練習していたのではないか。「カネだカネだ」と言っておいて、学生野球は神聖だも可笑しな話だろう。煽られて世の中を誤解してしまって大人になって捨てられる人も多いだろう。私の従兄の子供が甲子園に出場して親戚中が大騒ぎしていたことがある。本人は中学校から殆ど勉学ができずにいたようだ。大学は推薦で進学したが、すぐに行き詰まり大学も中途退学した。皆が皆スター選手になり、カネが稼げる選手になるのではない。なるのはほんの一部の選手でしかない。 伯父も孫のために甲子園に応援に何度も行き、沖縄遠征とか応援について行っていた。伯父は高齢で無理しているのではと心配していたら、やはり疲れから本当に病気になってしまった。偶々運がよくて甲子園の土が踏めたかも知れないが、そのためのリアクションもあるだろう。野球は好きなのだろうが、飽くまでもゲームに過ぎない。それを餌にする連中が野球を食い物にしているのではないか。仲の良い従兄夫婦も知らないうちに離婚していたりしたそうで、残念でならない。夢の甲子園が、そのために招く不幸もあるに違いない気がする。 時を得て華やかに成功する者もいれば、時が来ないまま萎れるひともいる。どれだけの賭けをすることになるのか、博打のようなことをひとはしがちだろう。それこそ換言すれば、野球も取りようによっては公営ギャンブルのような人生になるではないだろうか。そうしているのはマスコミたちでもあるだろう。NHKがいつもいいことをしているのでもない。 >海の中道大橋からの眺望。
2007.05.26
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北京のビギナー向けガイドブックをこれから、昼寝でもしながら読もうかと。デジカメからPCに入れるのは簡単だけど、CD-RからPCに入れるのに手間取っていた。コダックはスムーズだが、昔のは、富士フイルムを使っていたがそれがどうも上手く入らない。前のPCはMSNのメッセンジャーがあって簡単にストックできたが、どうもいけない。それと楽天ブログの写真がその分ヒットしないのだ。 ごてごてと遣っていて時間ばかりかかっているが、先を急いでいるわけでもない。まだ思い通りにならないだけだ。北京ツアーまでには整理したい。どうも写真と文が一致しない。それでもいい加減なのは性格だから仕方がないだろう。 何が価値のある情報なのだろうか。他人にとって無価値でも、私には違うかも知れないし、その逆もあるだろう。他人との違いをそれほど気にしてはいない。自分の感性に自信があるわけではないが、自分が主体的に生きていると思っていたいこともある。できるだけ内向的にならないようにしてもいる。もともと悲観的にみてしまう傾向があるから、そこから自分を解放してやらないと、すぐ滅入ってしまうし、自虐的にもなるだろう。謂わば、幸福な人に共通する特徴の反対側にいる自分をつれてその大きな溝を渡らねばならないだろう。 人間の生命に目的はない。個人に時間の期限があるだけだ。それをヘイフリックの限界だと思う。歴史が何を私たちに問うているだろうか。何が問題の所在だろうか。
2007.05.26
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誰も諂うことなくありたいと思うだろう。迷いたくもない。併し、権力者に支配され已む無く戸惑いながらも諂う続けている人々が存在する。厳密にいえばみなそうかもしれない。国自体が他国に従属していることもある。或いは政府が追随し、国民も支持しているかも知れない。絶対的権力が支配している国家では国の政策に抗うことが死を意味することもある。国の品格とは規律ではない。 諂いを感じるのは未練さからだろうか。品格は識字力ではない。正義を正義と言えることであり、不正義を悪といえる勇気でもある。飢餓死ぬものが多いというのに呆けた生き方をしている者たちが何が、ピースだろうか。それこそ夜の繁華街を歩いてみればいい。東京でも、大阪でも博多でも、そこに何を見るだろうか。ピースだろうか? 言えることは、一度によくはならないということだろう。科学の進化と叫ばれるが、それはまだほんの一部のことであって、世界のあまねく全体に及んだサイエンスの話ではない。人間の意識は、まだ中世から昨日脱出したばかりだ。中東では、中世と変わらない殺戮が繰り返されてもいる。身近に迫る危機を黙ってみている卑怯者と一緒に生きていかねばならない。それが、戸惑いでもなく諂いでもないといえるだろうか。 自分たちは安全なボートに乗り、窓から見える殺戮をまるで映画のシーンのように見ているだけではないのか。聞こえてくる足音はなんだろうか。不安は確かにあるだろう。
2007.05.26
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