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その軽さを感じて生きているが、振り返ることのできない現実がある。こころの寒さを感じているだけでは、何もできはしない。苛立ちだけでは、一歩だって進みはしない。ひとびとの悲鳴が聞こえる。苦しみを生みだしている悪臭はどこから来るのだろうか。我慢して食べているひともいる。日々の単調な旋律は脳細胞を狂わせてしまうのでしょうか。いつまでも繰り返している。ドアーを開くフレーズは、いつも同じで無ければならないだろうか。捩じれてしまったコンセプトで世界を語ることができるのか?世界で争い続けている人たちの中に入って行き、「もうやめろ!」と説得出来る力などどこにもない。腹を空に向けて足をバタバタしているだけだ。日本人の感性は、どこに行ったのだろうか。底の浅いことばで、喜怒哀楽を表現することができはしない。まあ、そのうち腹を切り裂いて出てくる未来の子供たちがいる。それを私たちは見ることができるかは知らないが、いつかそう日が来るだろう。そう願うばかりだ。
2009.06.30
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知識をどれだけ積みあげたところで精神にはならない。精神は胆力でもあるからだ。然し脳のパワーであるかも知れない。精緻さかも知れない。粗さが齎す妄迷から粗雑になるのだろうか。理屈に合わないことを仕出かすのは未練から来るだけでもあるまい。雨音はしないが未だ梅雨の盛りである。今朝まで降るとの予報ではある。くだくだと書いているが、まあ、唯一歩くことだけは続けている。それくらいは遣らないと。 ・目が少し悪い。中々読むスピードが先に進まなくなっている。だから矢鱈鈍くなった。それでも、漱石の文章は腹の立つほど判り易い。小説とは時間潰しではなかろうか。そして自分の人生も、おそらくそれではないだろうか。時の流れを悔やみながら愉しんでもいる。妙に登場人物が生々しい。どこかでこれまで出逢って来た人たちのようにさえ思えてくる。漱石の時代と変わらない時間を生きてきた気がしてくる。これはとても現代ではない。 ・へ2・・・ことばの通じない世界に「ポン」と放り出されたらどうするのだろうか。同じような顔をしていて、文字も言葉も分からないタイに行き、生きていけるだろうか。とても赤道の下で生きていけるとは思えなかったが、バナナを食べていきていた17世紀に日本人たちが日本人村を造っていた。望郷の念があったに違いない。ヤシの蔭にその子孫がいるのかも知れない。さて、その「行人」とともに、今朝をスタートさせよう。なべてこともなし。 >BANGKOK 高速の料金所
2009.06.30
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スイス傭兵は、主にスイス人によって構成される傭兵部隊で、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各国の様々な戦争に参加した。フランス革命の際にもテュイルリー宮殿に殺到する民衆に対してルイ16世が攻撃命令を出さなかったため大部分が虐殺された。革命時にはスイス衛兵は廃止されたが、ナポレオン時代に復活し、7月革命時に再び廃止された。特にフランス王家とローマ教皇に雇われた衛兵隊が名高く、後者は現在でもバチカン市国のスイス衛兵隊として存在する。 ・スイスはアルプスの山脈の中央部にありながら、鉱山資源に乏しく、畑地も少なく、穀物も不足していた。19世紀産業革命に成功するまで貧しい国であった・その貧しさを救ったのが、「血の輸出」という傭兵による出稼ぎであった。すなわち山国と地形とスイス傭兵こそがスイス産業革命の成功を担保したのだ。・19世紀になり、ナポレオンはイギリスの経済封鎖を狙って大陸封鎖令を出し、スイス産業に有利に働いた。産業の勃興により傭兵出稼ぎが必要なくなり、豊富で安価な労働力を確保できたからである。ヨーロッパ各地に散っていた多数の傭兵が各地の技術データや市場データを持ち帰ったからでもあるという。更に山河の多い豊富な水量が動力としての水力となって貢献したといわれる。・へ2・・・小国でありながら、永世中立を成し遂げている根底には、「血の輸出」という歴史があったからでもあるのだろう。そして、傭兵たちから得られた情報こそが、彼らの知恵となったのだろう。それは、現代においてどのような形で残っているのだろうか。その継承こそが強かに生き残りをかけた外交能力ではないだろうか。
2009.06.30
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人は倒れて寝たきりになれば、1週間で20%筋肉が低下する。歩くだけでなく、動くことさえできなくなる。おそらく人生は暗転する。早期リハビリを的確に始めないとますます心身ともに萎んでいく。高齢化社会とは、社会全体で、人と手間をかけていかなければならないのであり、簡単なことではない。子育てがそうであるように、老人たちも、周囲の人たちに手間をかけることになる。 ・脳溢血などで倒れてしまえば、多くの人が以前当前にできたことができなくなり鬱状態になるという。なにもできなくなるという状態は、よほど看護師か身内で世話をした人でない限り想像することもできない。その手間がかかることは想像以上だ。しかも小家族になり世話をする人が少ないとなれば尚更だ。介護疲れによる悲劇も増えているのではないだろうか。倒れた本人の気持ちをどれだけ世間の人たちが理解しているだろうか。医師や看護婦が、そして介護者が、果して本人の真意を理解しているか、大いに疑問だ。 ・へ2・・・世話をされるより、世話をする方がいい。手間をかけることに慣れた人ならまだしも、ほとんどの人は慣れない人たちだ。再起できる人であれば違うかもしれないが、老人たちにはそれがない。それで安易に明るい気持ちをもてというのは無理だろう。しかし、ひとの温かみは是非なければならない。それがなければ人の心は筋肉よりも早く萎えてしまうに違いない。 ・患者が暗い気持ちで生きていれば、家族の気持ちも暗くなる。それを払いのけるだけの力を持たなければならない。ネガティブ・マインドとの闘いは容易ではない。 ・へ2・・・それは、ナチズムがユダヤ人を抹殺しようとしたり、精神病や弱者を邪魔者扱いした非情な社会を想起させる。それほどではないにしても現実の社会は、弱者切り捨ての傾向がある。
2009.06.30
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人間をパーツにする 西洋医学は、人間をパーツにして治療するのではないだろうか?傷んだ箇所だけを治療して、治ったというのだ。その原因に触れようとはしない。全体の健康でもない。それが日本の現代医療でもあるのではないだろうか。はたして、それが人間を本当に健康にしているだろうか?治療といえるのだろうか。傷んだところだけを治しても、他のところが悪ければ、また同じように具合が悪くなってくる。どうやら紐付きの人生を生きて行かねばならなくなる。まるで麻薬ではないだろうか?医者や、病院から離れられなくなる。そればかりではない薬漬けもある。 ・遺伝子医療が進んだら、それこそますます、人間はパーツになってしまうのではないだろうか。そういえば学問の世界も同じだ。ばらばらに解体して、パーツにされてしまっている。全体を見る目を失くしている。「手術に成功して死んでもしまう」。人も歯車になっている。優秀な人材とは、優秀なパーツでしかない。それでノーベル賞も戴けるのだろう。人間を人間として扱わなくなっている。誰のためにこの社会があるだろうか?だれにも分からなくなるのではないだろうか? ・へ2・・・ホモ・サピエンスなのだろうか。種としてのヒトとは?藻屑と消えるだけではないだろうか。化石にもならない。泥人形のようではないか。ふとそう思ってしまった。私たちは何を騒いで生きているのだろうか?
2009.06.30
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未だ、これから歩いてくるので、最終実績ではないが、何とか6月のトータル目標60万歩をクリアーした。朝から16時近くまで雨が降ったりやんだりしていたが、傘を持ってウオーキングをしてきた。17,417歩。約12kmくらい。月の最後の日くらいはまともに歩きたいと思って。歩くタイミングを逸してもいた。また雨が降り出している。それでも、傘をさして、小降りの時に、草履を履いてでも、後で歩いてくるつもりだ。 ・5日間ツアーで、思ったように歩けなかったが、何とか一日2万歩をトータルでクリアーできた。何時まで続けられるか分からないが、遣れるところまでは続けたい。朝から「行人」を読んでいたが、金曜日の昼までには読了しなければならない。漱石講座は、6月は3回講座がある予定だ。今日は図書館に行く予定だったがパスしたので、明日にでも。 ・へ2・・・今週はこれから忙しくなりそうだ。これからまた、1年倦まず弛まず、一歩一歩を大切に過ごしたいと思っている。それが当面の決意でもある。 >アンコール・ワットも実物を見たいですね。 6月歩数(6月1日~30日) 歩数24,37123,18820,79221,24022,83522,46522,53821,43624,44120,13522,31722,48122,39622,82423,53922,11521,58123,21120,89720,6456,81710,86713,12221,22111,89721,34823,55621,64413,70817,417607,044
2009.06.30
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アンコール・ワットアンコールは王都、ワットは寺院を意味する。大伽藍と美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。1907年にシャムからアンコール付近の領土を奪回すると、フランス極東学院が寺院の保存修復を行った。1972年、カンボジア内戦によって極東学院はカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュによって破壊された。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ砕かれ、敷石にされたという。主に砂岩とラテライトで築かれ、西を正面とする。 寺院は付近の製鉄技術を活用している。 境内は東西1500メートル、南北1300メートル、幅200メートルの濠で囲まれている。(Wikipedia) ・タイの王宮内に、アンコール・ワットの数十分の1の模型があった。かなり精巧なもののようだ。(ガイドの話では20分の1だということだったが。)上の記事ではシャムの名前が出てくるので、アンコールワットを治めていたことがあるのだろう。宗教戦争で、仏像も被害に遭っていたに違いない。模型を観るだけでも、アンコール・ワットが如何に壮大なものであったかがわかる。 ・へ2・・・人間のやることはよく分からないことがある。そういうものを造らねばならなかった理由がだ。その癖はいまだにあるのではないだろうか。余計な建造物を造りたがるようだ。それが自業自得にもなるに違いないからだ。ひとは何かを残そうとして焦るのだろうか。ピラミットの時代から、巨大な遺跡を造りつづけている気がする。何のためだろうか。
2009.06.30
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・コーランの詩文は(伝統的な韻律詩文は複雑だったが)単純な韻律の散文詩で、誰でも唱えやすく、そのコーランの音楽性にも魅了されるといわれる。しかしそれよりも重要なのは、ムハンマドが無学文盲にもかかわらず、これほど美しい詩文をつくりだせるはずがなく、にもかかわらず、だからこそ、確かに神からの言葉なのだ、とアラブ人たちは信じたことだ。 >アユタヤ ・メディナに住んでいた人々は農業で生計を立てていたが、ムハンマドが連れてきたイスラム教徒は農業になじみのない人々であった。そこで彼らは飢えないために、メッカからくる隊商を襲って金品を強奪した。事実上の強盗であるが、何かを生産するという観念がまったくないため、金品や女子を強奪することは正当な経済的行為として認められており、彼らの冒険であり、娯楽でさえあったという。彼らはこういう戦いを「ジハード」と呼んでいた。 多神教徒をみつけしだい殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、あらゆる計略でこれをまちぶせよ。(第9 悔悟章5) ・・・そのとき、なんじらは、彼らの首をはね、また彼らのそれぞれの指先を打ち切れ。・・・信仰するものよ、なんじたが不信者の進撃に遭うときは、決して彼らに背を向けてはならぬ。(第8 戦利品章12~) ・イスラム教では来世は現世のつづきであり、そしてアッラーのために死ぬならば楽園行きが保証される。ジハードに参加することは宗教的美徳の証とされたのだ。どうやら日本人の常識をはるかに超えている世界がある。
2009.06.30
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Jun 30, 2005 ブログ 学生の頃、海商法の老教授が、London に留学されていて、the suburbs of London の美しさを印象的に話されたことがあった。その時は別世界のように感じたものだ。然しずっと脳にインプットされていた。一度訪れて見たいと思うようになっている。先日妻とオアフに行き、グルコースを下げる為に幾つかの公園を歩いたが、何か大きな癒しを感じた。スタートは、仕事のつもりで歩いていたが、やがて、愉しくなった。そういえば、産まれた地も一度見てみたい。中国の青島だ。思えば歩きたい所が増えて来たようだ。すこし夢が増えたかも知れない。午後会社に出かけたが、思いがけず、寿退職した元部下だった女性から、花束がコメントをつけて戴いた。10名余りの知人から暖かい別離の宴もあったり、先ほど帰宅した。今家族とケーキを食べている。宇宙の中で、ヒトは「種」として小さな存在だが、歩くべきスペースがあるだろう。これから私も、walking を愉しみたい。ヒトは、未だ宇宙の中に、知的生物を知らないが、何処かに、この壮大な空間であれば、可能性はあるだろう。それがどうであれ、ヒトはそれを知らないまま「種」して消えるだろう。私たちも、ヒトとしての種の価値を尊重せねばならないだろ う。仕組まれたストーリーであったとしても、生命を全うすることは意味があるに違いない。 個人の運不運に浮沈することなく、スローライフを目指したい。明日からまた新たな旅立ちをしたい。まだ、先はあるのだから。生きておられることそれ だけでも幸運だと思う。
2009.06.30
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タイの文化と日本の文化は比較したら面白いと思う。そういう研究も恐らく沢山あるのだろうが、これまで関心がなかったので読んだことはない。タイはプライドが高く、独立心のある国家ではないだろうか。大抵は看板は英語表示が普通だが、それが少なかったのはベトナムや中国と変わらない。自立心が確りしているのではないだろうか。どこの国家にも優れたところとそうでないところがある。それをどう活かすかだろう。それは個人でも言えることだ。 ・自分の弱点を知らないものは、いつか行き詰る。行き詰ることを未然に知って行動できるのとできないのとでは結果は多いに違う。足りないものを補おうとして西欧は科学の進歩を遂げもしたのだ。怠慢が人間を敗残者にする。「一病息災」という。病のあるものが寧ろ生命を完遂するかも知れない。 ・へ2・・・弱点を克服するには努力が必要だ。それも健常者以上に努力をしなければならない。それがまたエネルギーにもなる。マイナスはプラスに向かう契機にもなる。どんな人間が生き残るのだろうか。それは未だ誰も知らないのだ。只言えることは、生きることに飽きない人であり、エネルギーのある人だろうと思う。 >タイ舞踊の人たちが見送ってくれた。
2009.06.30
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雑多なものが並べてあり、ゴミゴミしている喧噪のなかに色んな食べ物が並べてある。一見不潔のようであり、実際不潔なものもあるが、臭いもある。こんなところにいると思うような意外な発見もする。見たくない人もいるかも知れないが懐かしいという人もいる。伝染病でもあったら、それこそ。日本の店舗や食料は、本当に清潔で新鮮なものだろうか。泥が付いているから汚いのではない。屋台の評価はさまざまだろう。ひとは新鮮な食べ物を食べて活力も生んでいる。それなのに、私たちは色のついただけのものや萎びたものを食べて心身共に枯れ掛かってはいないだろうか。 ・誰が好い暮らしをしているのか、実はよく分かっていないのだろう。高価で甘いものを美味しいとしか思わない味覚や舌しかないのではないか。そんなことを思うようになった。確かに味覚が鈍感になっていると思う。今度旅行した同行のフイリッピンの女性が、「このウーロン茶は薄い」と言って、新しいウーロン茶に替えさせた。ツアーで出されたタイ料理を確り、評価されるので驚いたが感心もした。折角「タイに来たのだから、タイ料理を食べたい」のに、何故中華料理が出るのか、とガイドに文句も言われた。成程理屈だ。 ・へ2・・・厳しい批評があって、ツアーも好くなるかも知れない。どうもそれをしないのは、怠慢なのだろう。旅行社も怠慢で、それを言わない方も悪いのだ。腐りかけたものを食べて平気でいるのかも知れない。ボケてしまった味覚や舌では、屋台の美味さも分からなくなっている。臭いとか、汚いとか、どちらが健全なのか判ったものではないのだ。
2009.06.30
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アユタヤ王朝の首都として発展し、国際都市として発展したが、1767年、ビルマ・コンバウン王朝によって崩壊。市内は廃墟となり、後にタイで覇権を握ったタークシン王はアユタヤを放棄し、トンブリーに王都を築いたことで、アユタヤは歴史の表舞台から姿を消すこととなる。(Wikipedia) 石仏の首が切られ、右手が切り落とされているものが残されていた。どうも写真を撮る気がしなかった。歴史とともに消えた都市が、歴史公園として今に残る。観光地であるには間違いないが、広い心がなければ人の行いを理解することは難しいかもしれない。必ず信仰は容には顕れないかも知れない。ガイドは、地元の人は、石仏の顔の上の樹を写真には一緒には撮らないのだそうだ。仏の顔より上には何もないのだ。 ・へ2・・・そこまで深い信仰を知らないできた。他所者が来て何をしているか地元の人は我慢しているのだろう。私たちは西欧の人間と変わらない行いをしているのではないだろうか。精神の故郷さえなくしてはいないのだろうか。石仏としか見えないものにはそれは単なる石の顔にしか見えないのだ。ものに心を吹き込む力さえなくしているに違いない。
2009.06.30
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確信がある訳でもない日常がある、こうでなければならないという信念も然程ない。なべて神に委ねるべきものもない。仏さまも有難いとは思うが、輪廻を断ち切れるとは思えない。転生を信じるほど純真でもない。中途半端と言えなくもない現代人の一人ではあるのだろう。それこそ悟りもしないのに悟ったと嘘をいうという4戒を知らないでもない。古寺巡礼をして周るほど人間が錬れてもいない。さて困ったどう生きたらいいのだろうか。 ・また1年間を積み重ねて行くつもりでいる。どんな運命が待ち受けているか知れたものではない。運を使い切ったかも知れないから、これからはフリーで生きねばならないだろうか。少なくとも裸で生きて行かねばならない。痩せ細っていくこの社会で、自分のスペースやエリアはあるのだろうか。そんな心配がないわけでもないが、種としての「ヒト」の運命に従って生きて行くしかないだろう。 ・へ2・・・それこそ恐らく漱石が描く小説のように、サスペンスもない、殺人もどんでん返しもない迷う続ける平凡な人間のストーリーになる人生が待っている。然も、漱石よりも長生きしているから、また違う人生があるに違いない。外は少し明るくなってきたが、まだ雨雲が張り出している。今日は何とか1万歩は歩きたい。それで6月度の目標が達成できるだろう。妻からゴーヤと胡瓜を、同僚にお裾分けするので、「何本か、」といわれている。 >アユタヤの涅槃仏。
2009.06.30
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「脳は意外とおバカである」という本を読んでいる。脳はいい加減なのだそうだ。自分のいい加減さは、どうやら、そこから来ているのだろう。だって10年先は何をしているというのだろうか?それはいうまい。いってもはじまらない。そして世界はどうなのだろうか?明るいばかりではない。そうしているのは、おバカな脳の持ち主がいい加減なことを考えてもいるからではないか。 何故、世界の首脳が、広島や長崎や、水俣病を見に来ないのだろうか?彼らはどこを見て政治をしてるだろうか。目先の権力闘争で、骨身を削り疲れてしまうだけだろうか。くだらない狸の皮算用のためだろうか。それは知らない。すべての努力が無駄にならないように心を砕くべきだろう。おバカな脳に負けてはならない。 脳は自分を納得させようとするらしい。知らないうちにわたしたちの判断を誤らさせるのだ。脳のいい加減さにころりとだまされてはいないか。自惚れ屋のうさぎで人生を終わるやつは無数にいるのだろう。テレビのチャンネルは数十ある。選択しようと廻している間に時間が過ぎてしまう。
2009.06.29
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1年間という暦のそれも、少し長いような気がしていたが、今では、却って短い気もしてきた。然し世の中は、どんどんサイクルが短くなっている。小さなビルなら建設されてしまう。人事なら一新される。人ならひと月も経たないうちに忘れられる。平凡なバカ娘が大スターになったりもするし、その最悪のバージョンもある。もう、去年の今頃何を考えていたのかさえ覚えていないが、どうやらブログだけは残っている。その痕跡も意味があるかが問題だが。 ・暦では、2008も丁度<2分の1>過ぎたことになる。また大災害が中国四川大地震があり、その被害規模の大きさに震撼した。日本でもまた岩手を中心に地震被害が出た。国がどこまで国民の将来のビジョンをもって国政に当たっているのか疑わせるような事件が多発している。何のための政治であり、行政であっただろうか。国民の老後を支える年金問題が、如何に杜撰なものであったかが浮き彫りになった。これも現実の所産だろう。国民は、また無責任な社会システムによって犠牲にされようとしている。 ・へ2・・・個人をして、個人の基礎は肉体であり、そしてひとりひとりの心でもある。それは脳だろう。心身は一体であり、その表裏でもある。4月から健康オタクになっている。そうする意味がどこまであるのかは分からないが、得られるものは自分にとって小さくはない気がしている。これから、歩いてくる。歩くのは楽しい。疲れるために歩くのではない。それは生きることと一体であるだろう。自分の心を揺さぶるために歩いてもいる。何があるか分からないが、この1年も頑張ろう。そこそこに。Jun 30, 2008 05:25:04 AM
2009.06.29
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目が覚めたら梅雨の中でした。どうやら梅雨らしい屋根を叩く雨音が聴こえていた。それこそ今流にいえば、ワークステーションに下りてきた。またの名をキッチンと言いますが、そこのテーブルが、自分の部屋のない親父のスペースでもある。もうその強い雨音が聴こえないない、雨の勢いが落ちたようです。今日は個人的には記念日で、そして、また重い一年の区切りの日でもある。この一年間は、まあ健康管理を遣って来れた気がしていますが。さて、これから、どうでしょうか。 ・自己完成と言いますが、どれだけの人が自分のために生きているといえるのだろうか。寧ろそのことが、社会から軽視され、或いは蔑まされているかも知れないと思う時がある。それらしいことばを担当医の若い女医から言われたこともある。無神経な奴だと思いましたが、それがこの経済優先の社会の常識であるかも知れないとも。別に立派な人間になって死んで貰わなくても善い。という風潮さえあるのではないか。生涯教育とは名ばかりではないか。 ・へ2・・・高齢者になり、呆けてくれた方が社会のためかも知れない。などと卑下して考えないでもない。世間を知らないでよく生きて来れたものだと思うが、そうしてきた社会があるのも確かだ。分かる奴が判れば良いのだろう。実は逆で、本当は知らせたくないのかも知れない。ヒエラルヒーとは実はそんな社会システムかも知れない。寧ろ知的には逆三角形になりかけている。それは社会に深刻な混乱を与える原因になるかも知れない。また余計な事を考える一年になりそうです。 >全長40mの涅槃仏。優しい顔をされています。
2009.06.29
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チンギス・ハーンのホラズムとコラーサーン遠征はその他にすさまじい破壊の爪あとを残し、中央政府の残滓をことごとく一掃した。併しモンゴル軍は占領地を維持するための守備隊をのこさなかった。その後は無政府状態となり、政治的空白となり、その間隙をぬって、1221年にデリーに逃れたジャラール・ウッディーンが覇権を挽回していく。ためらうことなく残忍な殺戮を命じた。 それこそ人類は近代化するまで、都市はいくども破壊され再建されなければならなかった。喰うだけに飽き足らなくなった人間たちは、破壊される為に城を築き、そして壊したのだ。人間の欲望を抑える為に宗教ができたのだろうか。マザー・テレザの崇敬した聖マリアも、十字軍の騎士団たちの敬愛した聖マリアも同じマリアだろうか。 那律楚材はオゴダイに進言した 「帝国は馬上で征服されました。しかし、馬上で統治はできないのです」 1235年、オゴダイはクリルタイを招集した。モンゴル帝国の歴史で最も重要なものだ。このとき「宿駅」の設立が正式に定められた。 チンギス・ハーンのつくあげたモンゴル軍は中国とペルシアへの遠征で鍛えられ、当時、世界最強の軍隊だった。指揮系統と用兵作戦はどの軍隊よりもすすんでいた。ヨーロッパ軍は敵の頭を叩き潰すことしか考えない騎士たちだった。
2009.06.29
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ことは過ぎてゆくだけだ。楽しいことも辛いことも諸々のものが過去という時間の中に消えて行く。そして今日一日も、あと2時間45分間しかない。雨で、傘をさして少し歩いたが、無理をしないで引き返してきた。今日は13,708歩で止めた。明日一日を残して、あと10,000歩くらいで、6月も一日2万歩をトータルでは達成する予定だ。 ・「行人」を読んでいて、どうも身体が動かなかった。何故ひとは変なことに拘るのだろうか。そうでなければ小説など書きはしない。漱石は、何を思っていたのだろうか。分からない。分からないことだけが分かるだけかも知れない。大活字で読み易いがそれでも、目が霞んできた。もう読むなというのだろうか。 ・へ2・・・昨日から、暑くてクーラーを点け始めた。もうそんな夏の暑さだ。沖縄では梅雨も明けたようだ。タイも暑かったが、日本と変わらないと思った。日本と同じようなテレビのニュース番組があっていた。皆同じで、そして皆違う。それは日本も世界も同じだろうか。
2009.06.29
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才能は、生活と活動の一定の諸条件の下に発達するのだ。人の子どもが発達するためには、社会的、歴史的実践の過程において形成された知識や技能、能力を習得する必要がある。然も、これをクリエイティブに応用させねばならない。知識や能力は、才能の形成にとって不可欠のものである。教師の不満は、その生徒が充分に学習しないことである。充分に学習すれば、「彼の才能からすれば」はるかに、もっと多くの知識をもちえたであろう。どうやら、自分の才能は、そのステップにおいて生活と活動という諸条件とうまく噛み合って発達してはいないようだ。多くの挫折は、自分を見直す契機にもなるだろう。現実という苦しみの中にある時こそ、この社会を実感するのであり、才能を発達させるだろう。虚構に逃げようとすればするほど、才能から遠ざかるのではないか。如何なる、視座を人間は、持ちえるだろうか。世界の現実というスープから読み解かねばならない。それは、容易なことではない。まだ誰も、1年先の自分や、世界を知らない。然し、決して、絶望から見てはならないだろう。
2009.06.29
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涅槃仏は、オプションだった。同行したひとが是非行きたいというので、私たちも同行したが、何故これが、最初から入っていなかったのだろうか、と妻が言っていた。どうも、いたく感動していたようだ。寝釈迦仏の頭を支えている腕が美しい。折角行くのだから、簡単でもその解説をしてほしいものだ。旅行社に、その熱意があるだろうか。いつも疑問に思っている。いつまでも観光ばかりではあるまい。その価値を理解するだけの努力に参加しなければ何時までも、遊びでしかない。さて、ウオーキングをしようとしたが、梅雨の本格的な雨が降り出したようだ。 >涅槃寺
2009.06.29
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自分で物事を判断するというスキルが欠如していると言われる。今日の教育は、課題を与えられ、それを決まったルールに従えば解決することのできた時代の手法でしかない。何が、問題の核心であり、それにどう取り組まねばならないか、その「問題の所在」を、つねに把握しながら考えて行かなければならない。刻々と状況は変化していく。過去の「日中」や「日米関係」ではない。既成概念では通用しない。過去、優秀だった人もいまはそうではない。 ・目先の幻影に惑わされない目を持たねばこれから役に立たない。悪を為す人たちはその目標を見失った人でもあるだろう。物事を真剣に考えている時にそんな自身の利益のことを考える余裕はないはずだからだ。人は悩み多き存在でもある。迷いながら生きてもいるだろう。迷わない人間がいるとしたら、それは人間ではない。この多細胞には選択しかないからである。未だ、完璧に生きた人間など存在しないのだ。寧ろどこまで自分の弱点をカバーできるかでしかない。愚か者の軽薄さが時に利巧者の全存在に勝つこともあるだろう。それが人間でもあるのではないだろうか。
2009.06.29
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<作品>漱石「硝子戸の中」・当時の貨幣の価値について。・漱石の金銭感覚。かなり漱石は高い給料をもらっていた。当時の校長より高い。・漱石の家計簿がある(資料)。漱石は細かい。元々数理に明るい。・「道草」構想ノート。余り作品に母親が出てこない(?)。拘りがある。・「硝子戸の中」には、母親が出てくる。その違い。・作品の構成。39区分。・この作品は、不特定の新聞購読者に向けて書かれた作品。・吉永秀のはなし。くわせ者の話。「春の盗賊」太宰。「六、七、八」漱石の感情的な側面。鏡子「漱石の思ひ出」の中にもある。・他者との境遇の違い。心の交流。漱石も自殺を考えたことがある。「ファウスト」にもある。漱石と妻。違う視点で客を見ていた。・漱石からみた吉永秀と妻の見た同人とは違う。視点が違うのが重要。・漱石でさえかっこつきの個人主義。差別感覚。中江兆民くらいしか差別意識がなかった。・「十四」泥棒に入られた話。・西南の役。西郷が死んで(明治10年から)始まった。明治元年に明治が始まったのではないということ。・「十六」昔なじみの床屋のはなし。「道草」とダブっている。・「三十」自分の病気と「継続中」。参照「門」「道草」の結末。・「三十一」他人のことも自分のこととして書いている。「喜いちゃん」のこと。・硝子戸の中と、外。世間。「道草」との違い。孤立できない。「こころ」の先生との違い。・笑わせる力が世の中、笑いたくない私が個人・・岡三郎「夏目漱石の研究 二」・「こころ」転落する前の先生。・あやふやな直覚。お延の千里眼。実は、千里眼ではない。漱石は信じていない。・文法(骨法)。・男の盲点がある。女でないと分からない。・「悪い人」のあとに「善人」がくる。そのあとに「悪人」が来る。・「変化」に気付かない。・「経験」がないと分からない。「過去」と同意語。過去に拘っている。・「消えぬ過去」ズーデルマン。の物語を書こうとした。過去は現代に現れる。漱石も読んでいる。・深層。現在・過去 ・「三十三」重要なポイントになる。・心の比喩。・片付けられない。「十八」対話。問答。禅の世界。漱石の作品には男と男の対話が多い。意図的に書いている。モノローグではない。ダイアローグの世界。・「こころ」モノローグからダイアローグに引き出している。・漱石は相手を理解しようとしている。・「三十」 「互殺の和」・すべては継続中。・・・以下が「道草」に繋がっていく。片付かない。漱石の中にそのモチーフがあった。それまで、自覚していなかった。・「三十六」亡兄の話。・「三十七」「三十八」亡母のこと。不変。何時までも変わらない。漱石の母も変わっていない。吉本隆明はこれは「フィクションの母」だといっている。単純な感情ではない。・母親に対する恨み。漱石は神話化されている。表面的なものとは違っているのではないか。・月岡芳年。漱石の母親に対する感情。・悲惨小説。深刻小説。・「明暗」「道草」では、母のことは書いていない。拘りがある。
2009.06.29
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シルクロードを旅した人びとに去来したのは、胸中に鬱勃したなにものかが、駆り立てるものがあっただろう。私たちもその遺伝子を持つものかも知れない。ひとは、他人から与えられるもので満足できないものを本来もっているのではないか。わたしのことは「わたしが決めてこそ」自分の人生なのだろう。シルクロードは中国からイランを経てローマにいたる道であった。十世紀までは、この二つの文化圏は境を接していたに過ぎない。生命を賭してまで旅を続けたものは、或いはこの鬱勃たる想いではないだろうか。黙って死ねないものたちが世界に溢れている。悲劇があり、喜劇があらねばならないか。神をさえ創造してさえおさまらない世界であるとしたら私たちは、未だ、現代にあってもシルクロードの夜の闇を歩いているだろうか。イスラエルの果てしない戦争が世界に何をもたらそうとするのだろうか。未だ、陳舜臣の「西域余聞」読んでいた。 >ワット・アルン
2009.06.29
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今度の「漱石講座」は「行人」なので、そろそろ読んでおかなければならない。 「なにどこの夫婦だって、大概似たものでさあ」 という箇所まできて漱石の見識の確かさを思わざるを得ない。 「旨くいくでしょうか」 の二郎の問いに、岡田は、 「そりゃ行くだろうじゃありませんか。・・・」と、言わせている。含蓄があることばだ。人間を少しは長くやってきたので、そのことがピンとくる。とても夫婦などいう<しろもの>を自分でつづけられるとは、鳥渡も、するまでは思わなかったが、 「夫婦などというのは、みな同じようにうまくいくようになっている・・・」。のではなかろうか。それを態々壊しているのは、人間の愚かな迷いでしかない。恋愛だろうと、お見合いだろうと、同じ船に乗り合わせた若い二人なら、思い合うのであり、やがて、わが子ができて、始まる生活がある。「深い」、漱石は、その凡々として綾なす人間の生きようを描いている。 ・へ2・・・人間のこころの襞を言葉にするというのは、果しなく厄介なのだろう。無駄な努力に終わるかも知れないからだ。そしてたとえ漱石の描いた人間の特性でさえ、いつか擦れてしまう。次々と新しい人間が生まれて、その上を通っていくからだろう。どんな新鮮な生き方も、誰もが同じことをすれば、何でもなくなってしまう。三島の見た「ワット・アルン」も、もはや忘れられるものでしかない。 夫婦も日々、感激を失くしていけば萎びてしまうのだ。 >BANGKOK
2009.06.29
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どうも人間臭い話ばかりしているようだ。東洋人の教育を受けたので、性悪説にはなり切れないところがあるだろう。理詰めの最期で抜け落ちもするようだ。アバウトで生きている所為だろう。子供の頃から山を観て育った。と言っても低い山だ。海抜666mで金峰山と言った。富士山に比べようもない山だが、懐かしい思い出が幾つもある。麓に高校まで棲んでいたので、しばしば山の登りをした。有名な漱石の「峠の茶屋」が途中にある。毎夕のように山を観に近くの田圃まで行ったものだ。夜の帳が降りて、暗くなって行くのが何ともいえず風趣があった。子供の頃のことで風趣がなにか分かっていた訳でもないが、ただ好きだった。どこに行っても山の風景がある。そして、日が昇り沈んでいく。いつも愉しいばかりの人生ではないが、ただ静かに眺めているだけでも、不思議とこころが和んで来るのを感じたものだ。山や川や花を愛する東洋人のこころも棄て難い、貴重な財産ではないだろうか。 >This is Thailand
2009.06.29
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もし、人の体に「痛み」がないとすれば、そのために次々に死んでいったのではないだろうか。痛みを感じる「ブレイン・マップ」では特定できないそうだ。しかし指を切れば痛い。もし痛みがないとしたら、感覚が麻痺しているか、あるいは細胞死か。脳が痛みを感知しないこともあるらしい。何れにしても麻酔状態でもなければ、死につながるだろう。処が、心のダメージは他人には判らないだけでなく、自分でも気づかないことがある。精神と肉体と一体でありながら、まだ解析されないスペースが、かなりある。 ・右脳が把握していて、左脳が言葉に翻訳できていないことがある。想定外の突然の出来事をすべてが瞬時に理解できるわけではない。それでも現代科学は、人間に起きることの現象についてかなり解るようになってきた。だが周知の面で遅れている。最新科学の情報をストレートに一般市民にも伝達する社会的システムとしての装置を早く整備べきだろう。 ・へ2・・・悲しい現実だが、公平でも、公正でもない政治が行われ、政治的不毛の社会状況を整理も改善もできないでいる。このまま続けていけばヒトは何れ消耗し、進化の活力は枯渇してしまうだろう。ヒトのステージは勿論無制限ではない。種としての「ヒト」のライフステージのチャンスを逃せば、すぐにその叡智も失せるのだ。私たちが、現在想定できるヒトの生命の範囲はそれほど広くはない。ゆるやかな進化ではありえない。寧ろ、ターニング・ポイントがあり、厳しい選択を迫られる時来る。絶滅しか想定できない。生命は,元来宇宙では、エントロピーに逆らって存在する奇跡でしかない。レベルを上げて生きる必要があるのではないだろうか。
2009.06.29
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よく帰れたと思いますが、特別のことがあった訳でもなく、ことはスケジュール通りの展開でした。思えば、過密スケジュールでした。午後8時に福岡空港をテイク・オフして、その日の午前9時にホノルル着。市内見物とサンセットディナーセイル。翌日は島の1周観光と焼肉ディナー。3日は、またもやホノルル港からランチクルーズとポリネシアンディナーショー4日はフリータイム5日目の午前にはホノルルを出ました。福岡空港にタッチ・ダウンは、21日の丁度午後3時でした。これだけのことですが、まあ愉しめたと思います。家族と一緒であればもっと良かったかも知れませんが、妻と同伴できたのですからまあまあでしょう。異文化との接触は新鮮な感情が湧くものだと思いました。同じ月が出て、夜空に輝いていたし、寝苦しい九州の夏と違い。オアフは快適な涼しい夜でした。 Are you single? もあったしね。ぼちぼち、感じたことを書きたいと思っています。
2009.06.29
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同じものも自分の気分が変われば違っても見える。そういうことを書きたい作家は多いようだが、それは尽きないことでもある。同じ場所に何度来ても飽きないものがある。自分の暮らしも同じことの繰り返しばかりかも知れない。それでも味わいは違う。少しづつ変化もしているし、歳月は必ずしも同じではない。同じ場所から見ていても、違うものが目に入りもする。王宮や荘厳な黄金や眼を奪われるエメラルドがあっても、街中にはスラムのような場所や貧しい暮らしもある。それが混在している。その何を観るかでもある。 ・何かに触れて何かを思うに過ぎない。タイに恋人がいて、追いかけて行けばタイは違う社会に見えるのではないだろうか。三島の「暁の寺」を読んでいて、タイのひとたちが読んでどう思うのだろうかと、余計な心配をした。意図していただろうか。彼はノーベル文学賞を意識していたと言われる。それだけの人物が、世界レベルを思わなかったはずはない。外国語をべらべら喋って得意になっている人を見ると、言葉は文化だということが想起されてしまう。そうして、日本文化は駆逐されてしまうのだろうか、とも。タイ語が街にあふれ、国王の写真とか、国旗とか、英語が通じなかったりしたが、それだけタイは自分の国を大切にしているからだろう。日本はどうだろうか? ・へ2・・・ことばは精神でもある。日本語を使わなくすることに国は熱心なのではないだろうか。それが国際化だと思っているのではないか。亡国の政治家が国を誤った方向に進めてもいる気がする。精神を売り渡した者たちが国家のリーダーになっているからだ。日本語を守ることが日本民族を残すことでもある。 >ホテルからの眺望;BANGKOK
2009.06.29
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ラーマ8世のことが気になったので、サイトを見ていたら、辻政信の名前が出てきたので、それから彼のことをサイトで色々みていた。日本人にも面白い人間がいるものだ。勿論、名前くらいは知っているが、それほど関心を持ったことはない。図書館で「潜行三千里」を探してみたいと思う。面白いというのは多少語弊があるかも知れない。少し、目が覚めてきた。張り合いがないと人生は詰まらない。 ・どうやら雨になるのではないだろうか。BANGKOK ツアーを無駄にしないためにも、少しは勉強しておきたい。今週は、病院やら、講座やらがある。そろそろ半年も過ぎようとしているが、ぼんやりとも生きている。コストを払って生きていることを忘れないでいたい。 ・へ2・・・雨が降らない前に朝のウオーキングを始めたいと思っている。今日明日で、6月も終わる。これから何ができるだろうか、考えると時間を無駄にはできない。
2009.06.29
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よく視れば、人間の営みにも共通点は多いのだろう。違うように見えて大差はない。同じ祖先のルーツがある存在でもあるのだろう。自分の目で確かめて安心してもいる。同じ人間だということの再確認でもある。悲劇を生みだしているものは迷いでしかない。いつも戸惑いながら、そして正しい選択能力や、それまでの経験から違う事実を解釈できるだけの知識があるかでもある。タイの何を見てきたのだろうか、と思うと、現代社会が、何を価値とみなしているかが視えてこないでもない。それが観光ツアーの限界でもあり、面白さでもあろう。 ・自分の関心がどこにあるかで、被写体も変わる。それがことばに翻訳できないと誤解もされるかも知れない。自分でさえ自分の思惟に騙される。脳が生み出している思考がはたして自分の真意であろうか。疑ってみるだけの余裕があるだろうか。シャッターを押せば目の前の被写体が写し出されるが、それは自分の心が映ってはいない。 ・へ2・・・直ぐには、結論の出ないものが溢れてもいる。この世に間違いでないものはない。同じ過ちを冒してもいるのだろう。ひとの正体とは、何なのだろうか。暗闇を歩いているだけかも知れない。 これまでのトータル歩数&年月 全歩数 日数2008年4月 258,124 152008年5月 461,505 312008年6月 454,828 302008年7月 492,053 312008年8月 479,175 312008年9月 607,612 302008年10月 635,399 312008年11月 562,374 202008年12月 629,723 312009年1月 628,603 312009年2月 587,391 282009年3月 700,366 312009年4月 686,126 302009年5月 704,517 312009年6月 579,919 28合計 8,467,715 429>ホテルからの眺望。BNGKOK
2009.06.28
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・道元ほど名利や愛欲を唾棄した人間はいない。一つの宗教を広めるために権力者に近づいた宗教家は多い。最澄、空海、法然しかり、日蓮も鎌倉幕府の権力者に近づこうとした。しかし道元は、彼の創始した曹洞宗本山を京都高聖寺から越前志比庄の永平寺に移した。それも名利を深く憎む心が強く、中国の禅者のように人里離れた深山に居をおこうとしたからだと言われる。 へ2・・・当時時頼は、蘭渓道隆などの宋からきた禅僧を重んじて、道元をあまり顧みらなかった。彼は、一度執権時頼に会いに行ったが屈辱の心を抱いて帰山している。 「猶ほ孤輪の太虚に処るが如し」といった。 ・山は、彼を温かく迎え、道元もまた山を愛する心がいっそう強くなった。日本の仏教が島国であり、容易に権力から逃れることができなかったことがある。「政経分離」は難しい土地柄もある。坐禅だけして、悠々と死んでいったひとがどれだけいるのだろうか。そういう人が尊敬できるかは別として、中々そうはいかなかった。
2009.06.28
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明日は、ゼロから無限まで針は振れる。明日の欲しいものには明日があるだろうか。明日の欲しくないものに押し寄せてくる泡立つ大波が襲う。生命は、プライドを捨てないことだ。死の瞬間まで闘わねばならない。もし小便をチビル時があっても、嗤わない人がいるに違いない。理解してくれるひとがいるからだ。弱い人間であることを恥じることはない。 未だ、明日は逃げないだろう。
2009.06.28
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ゆるい言葉なんて、ありはしないだろう。社会通念としての語彙がある。然しどうもそれが怪しくなってもいる。勝手な自分流の解釈で、この世の中を渡ろうとするものたちさえいる。それも公人といわれる人に増えている。妙な屁理屈を言う。そして押し渡ろうとさえする。ゴルフ接待の元防衛事務次官にもそれがあったのではないか。これだけ捩れた国会をいつまでも正常化できないような国会議員がこの国を担っている現実を直視すべきなのだ。 ・言い逃れをしようとする責任者を何と嫌になるほど見てきただろうか。それがこの国の現実でもあると思う。ゆるいことばが蔓延りこの国には疲弊している。真実が闇の中に隠れたしまった。ハードだけではない。日本人の精悍だった向上心も失せている。貧困と闘い、世界から学ぼうとした気概もない。そんなことで資源もない国家が生き残れる筈はないのだ。その腐っていく国家を政治家たちは骨の髄までしゃぶり尽くそうとしている。 ・へ2・・・その気もないのに麻生首相は「身を尽くして難関に取り組む・・・」という。何が「難関」なのだろうか?彼のいう「身を尽くして」、とは、彼流の考えでしかないのではないだろうか。では真意とは何なのだろうか?よくわからない「ゆるい言葉」でしかない。そういう言葉を聴くと、またかと思う。このひとは世間を嘗めていると思う。
2009.06.28
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豊かな遺伝子のままで強いものだけでなく、多様であるからこそ地球上の生命は保たれてきた。いま見えないものに対する「畏れ」 なしにATGC暗号を解読すべきでない。これからも難病は増大するだろうヒトはどれだけ種の保存を維持できるか。 少なくとも、豊かな遺伝子のまま次世代に残したい。悲観的だが・・・。
2009.06.28
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<作品>「ある心の風景」(青空 8 大正15.7.21稿)、「Kの昇天」(青空 10 大正15.9.18稿)・「対談 書くこと・見つけること」吉行淳之介 川村二郎(リーフレット有)・「瀬山の話」編集者がつけた名前。重要性あり。・「銀の鈴」のことを書こうとした。梶井が、タイトルをあとで抹消した。・「檸檬」・・・梶井は、自分で心のこもった作品ではないと書いている。・三好達治は、「檸檬を評価しない」。「城のある町にて」「交尾」を評価し認めていた。・「レモン・銀の鈴」・・・梶井のこころの象徴。「ある心の風景」・・・銀の鈴。 「ある心の風景」(青空 8 大正15.7.21稿)、・たかしモノ。・女を買うはなし。教科書にはできない。・「街では自分は苦しい」と思った。・「街をほっつき歩くことがあった」。・・・町歩き。・「銀の鈴」というテーマで書こうとした。性病・病を癒す音で調和する。・「窓」が繰り返される。目や心の「窓」のこと。他の作家にも「飾り窓の女」などでシンボライズされる。主人公は部屋の中を憂鬱にする。こころの内面のこと。陰鬱。・一~六で構成している。・外の風景は、色々に見える。闇の中の夾竹桃。影が立体化する。ものと自分の心と一体化する。比喩的表現であること。文学の傾向としてある。・梶井は晩年鴎外を読んでいる。当初は鴎外を酷評している。鴎外の「金貨」を読んで面白いという。・・景色は、こころの比喩になる。・「物心つく」の意味。ものとこころ。 ものは風景。こころは心象風景。・小説では、比喩が多用されている。・古今集・・・三島の指摘。比喩の問題。虚構の読み方。託す。日本の歌は比喩であった。それが教養。和歌の価値高い。・人が見る。・・・~を見る。選択している。そこにも(対象)心が投影される。・凝視(みい)る。・・・重要なポイント。・町歩き・・・苦しい場所。でも歩かないわけにはいかない。・五・・・「銀の鈴」は、調和されていくこと。「瀬山の話」にも鈴の音。・「・・・人びとのなかでは聞こえなくなり、夜更けの道では鳴り出すそれは、彼のこころの象徴のやうに思へる」・清浄におもえる。「伊豆の踊り子」少女が全裸になるシーン。まだこどもなのだ。・性病を浄化しているものとして「鈴の音」が使われている。・六・・・「窓」夾竹桃の白い花。そして「虫」・・・病気。・病んでいる・・・肺病と性病。「城のある町にて」の虫と同じ。・虫・・・病原菌のこと。血痰。・癒される場所。換喩・・・隠喩ではない。 「Kの昇天」(青空 10 大正15.9.18稿)・ドッペルゲンゲルのこと。・自殺者のはなし。自殺への関心の高さがある。・「昇天」する。ことへのKの憧れ。溺死して昇天することの意味。・「影」に対する執着。・書簡体で書かれている。・作品としては評価が高くない。・空々しい感じがする。・「蒼穹」の方がいいという意見が多い。・友人の死。相手は出てこない。・「瀬山の話」は。私・瀬山。の二面性。・「檸檬」モノローグ。との違い。・遠藤誠冶「基次郎の周辺」・・・独歩の「運命論者」の例を引いている。・「Kの昇天」では、妹と違い、想像して書いている。・「日月両世界旅行」のはなし。シラノ・べジュルラックは実在の人物。・溺死・・・海。梶井は海と空を同じにみる。月へ昇る。同じ青。・イカルス。・Kは、どのように死んだか、を描く。・地にいる自分は抜け殻。魂は昇天する。月の傍に自分がいる。ファンタステックなもの。・私の想像を書いている。・「影はアヘンの如きもの」 >アユタヤ遺跡
2009.06.28
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ものごとが辛辣になってきているのではないだろうか。ひとがこころの体温を失いつつあるのではないだろうか。そんな気がする。鋼鉄の人間になろうとさえしてはいないか。体はマシーンになるのではないだろうか。脳だけで生きている世界が近未来に現出するのではなかろうか。あらゆる可能性があるに違いない。不可能とされたことがことごとく突き破られるのではないだろうか。「青いバラ」も、もう不可能ではない。 ・人と人との関係が冷たくなるばかりのような気がしている。今日は30℃を超える暑さになっている。日向に立っておれないくらいの陽射しが強い。胡瓜の葉が日射に萎れている。太陽でさえ人の心を温めることはできない。 ・へ2・・・世界では、苛酷な闘いが展開し、少なくと穏やかにことは進まない。躓けばそこで終わりになるかも知れない厳しさがつき纏っている。身に付纏うへばりついた垢が取れなくなりやがてシミになる。辛辣と感じるのは年齢だけの所為ではないかも知れないが、裏切りのあるものたちもいる。愚劣な連中に付き合うつもりはないが、そういう社会だということが悲しい。光と影がある社会だ。だからこそ、どう生きたらよいか、滅入らないための努力が必要だ。すべては、終わってからでは間に合わない。 >「暁の寺」からの眺望。
2009.06.28
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ローズガーデンの中に象や民族舞踏、伝統的結婚式を紹介する施設があり、象乗り体験をしてきたが、所要時間は5分間。梯子の上から乗って、池のあるところまで20mくらいを往復するだけ。それでも一番大きなオスの象だったので、高所から乗り心地は中々。大人しい象だった。此処はロシアからの客が多かったようだ。昼食も近くのレストランでバイキングだったが、欧州からの客が沢山いた。人気のあるスポットでもあるのだろう。 ・上の写真の象は、子象で、ブーゲンビリアの木の下で、頻りに首を振って遊んでいた。その他にも4,5匹の象がいたようだ。象に乗ったあと、象のショーがあり、象が踊るのを初めてみた。中々楽しかった。そのあと、民族舞踏があり、どこか日本の伝統芸能に通じるものがあると感じた。田植えや太鼓を叩いて踊るところなど、ルーツがあるのではないだろうか。タイと日本は農耕民族である。 ・へ2・・・子どもの頃馬に乗ってことがあるが、結構怖い思いをした。それに比べて象の移動は上下運動が少ないようだ。象さんも暑いのに観光客へサービスをさせられて大変だろう。ご苦労さん。ローズガーデンというので楽しみにしていたが、それほど見るべきものがなかったようだ。ガイドも手を抜いたのだろうか。名前だけのローズガーデンだったかも知れない。
2009.06.28
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1万3000年前までホモ・フロレシエンシス(フロレス原人)が存在した。インドネシアのフロレス島の場合、体格はさほど重要ではなく、小さな島では食料が乏しく、カロリー摂取は負担になり、身長1mの小型化に向かった。人類の進化にも本流から外れた種が存在したことを示している。ドマニシ原人とフロレス原人の頭骨の相違の発見は、人類進化の研究に於ける最新の成果だ。私たちの世界は、あらゆるものを生み出す「スープの海」だろう。正義とか悪とか裁けるだけの能力を何のデータなしに判断することなどできはしない。ひとは、自分のスペースで自分の仕事をすべきだろう。そのための努力をすべきだ。未来に続くよりよい仕事を求めるべきだろう。
2009.06.28
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そろそろミニトマトも、これから・・・。これまでの収穫と合わせて、50粒くらいになる。甘味は少し薄いが食べるには、最高。小さいのが中心だが、少し粒の大きいのはこれから。1mを超えて粒を付けたものもあり、高いところにあるのは風で枝が折れないように紐で縛って保守しなければならないものもある。新しい土を入れて、苗を植えたので、虫が付かなかったようだ。元々痩せた酸性の土地なので、苗床が問題なのだろう。新鮮な果物や野菜を作り食べられるという喜びはたとえようもない。 ・今朝は体調も良いので、1万歩歩いてきた。挨拶した人を記録までしないが、何人だったか数えている。今朝は10人だった。いつもより30分くらい遅かったのと、日曜日の朝だったからだろう。多い方である。若い人が少ないのは何故なのだろうか。去年の北京オリンピックのTシャツで歩いてきた。 ・へ2・・・午後のサラダはミニトマトになる。細やかな楽しみが増えている。 >今日の収穫。
2009.06.28
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・トルストイの「イワンの馬鹿」には悪魔が見えたのだ。利口なやつが、本当は目も耳もないのかもしれない、と巨匠トルストイはそう言いたかったのではないだろうか。慾ばかり張っている人間には目や耳がないのかもしれない。口だけの人間になってしまうのだろう。ふとそんなことを思った。素朴に生きている人間の方が世の中のことがよく見えるに違いない。より高い所に登ろうとして周囲が見えなくなるものだ。権力やカネばかり追いかけているとひとは手痛い報復を受けるのだろう。 ・へ2・・・それこそ昔も今も同じだが、「イワン(言わん)の馬鹿」たちを蔑んでさえ来たのではないだろうか。それは違う。それこそ庶民の生活が優先されなければ世の中は良くならないのだ。そのことを政治家は忘れている。一番利口に生きているのは庶民でなのであり、それを大事にしない政治はすぐに潰れねばならない。大悪魔だって、それこそ鳥渡待てば自滅してしまうだろう。利口なやつが目がくらんでしまうだけなのだ。 ・童話のような話が本当は人間の理想の生き方ではないだろうか。イワンの妻になったお姫様もいつのまにか、イワンと一緒に服を脱いで野良仕事を始めたように、人間の在りようが変わるのではないだろうか。私たちは、「イワンの馬鹿」でいいではないか。ひとはそのことを忘れかけているのではないだろうか。 ・へ2・・・私たちは本当は誰が利口なのか知らないのではないだろうか?
2009.06.28
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アセアンの開催がバンコク国際空港の反対派の閉鎖によってできなくなったが、その空港である。どこかでみた空港だと思った。今月21日に到着したが、平穏だった。バンコク市内に向かうバスの中から一度だけ赤シャツをきた一団が、小型トラックに10人くらい乗っているのを見かけた。まだ火種が消えてはいない。現地ガイドも殆んど、そのことに触れなかったが、観光客の減少については深刻そうだった。今回の私たち4人の観光ツアーも、そういう背景があって実現したようだ。 ・昨日のニュースでタイでも新型インフルエンザで初めて死亡者が出たようだ。帰国の時ツアーで一緒になったひとが、前席に40℃を出した人がいるらしいと聞いて、どうなるかと心配もしたが、何もなくて帰宅できたが、どこまでチェックがされているか疑問でもある。後から、言われても、もう手遅れになる。どこを消毒していたのか分からないが、ニュースの画面ではバンコク国際空港の中が映されていた。どうやら観光優先が先行してはいないだろうか。 ・へ2・・・問題の所在があり、それを確りと見つめて行かないと、問題は深刻化することもある。最大限の努力をしたかどうか、それがどこまでされたかをデータに残すことも大事である。何でも水に流してはならない。出来事は歴史であり、モノと同じように簡単には棄てられないものばかりである。「仕舞う」訳にはいかないからだ。素晴らしい空港に相応しい社会であってほしいものだ。 >バンコク新国際空港。
2009.06.28
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じっと静かにしていると何にも起こらなくても、動くと段々遣ることが増えてくるようだ。そういえば、平穏であれば、何もしないで済むが、そうはいかなくなる要因がいくらもあるのだろう。じわりの社会環境が悪くなっていくような感じがしないでもない。それは、日本という国家が、国際社会に組み込まれていく中で、必然的に起きてくる現象でもあるのだろうか。誰も一人では生きていけない。その事実を直視するしかないだろう。その中で自己主張することは出来難い国柄でもある。 ・どれだけ日本の社会で女性が強くなったからと言って、どれだけ男社会が崩壊したと言えるだろうか。男女共同参画が叫ばれていても、現実はそれほど動いているわけでもない。世間の評価と現実は違うのではないだろうか。それでも、意識の変革は起こりつつある。あっという間に、年功序列がなくなってきている。終身雇用もなくなりつつある。女性の社会進出や、パートの増加など、経済格差もある。これがやがて社会格差にもなるだろう。個人の立場も誰も守ってはくれない社会システムになってきた。<自己責任は、忘れた時にやってくる>。 ・へ2・・・何もできなくなって、色々しなければなるかも知れない。そのとき絶望してしまう人たちがいたとしてもおかしいことではないだろう。他人ごとではない。それを想い知ることになるのではなかろうか。そういう不安感を払拭できない。それは何があるか分からないという現実でもあるからだ。大災害もある。戦争もある。犯罪に巻き込まれるかも知れない。どれ一つとっても周囲で起きないという保障はない。国家はどこまで個人を守れるだろうか。北朝鮮の拉致事件も、今度もないとは限らない。あり得ないことがこれからでも起きるだろう。そのとき、何を思うのだろうか。生きていれば動かざるを得ないのだ。>収穫物
2009.06.27
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プランター3個に3本づつ、ニガウリとゴーヤを植えています。他にもゴーヤは10数本一列に並べて植えていますが一斉に伸び始めて、上の写真は、ツアーから帰ってすぐに撮った写真です。ネットが重みで潰れそうな勢いです。胡瓜は昨日の時点で25個収穫しました。茄子2個、ゴーヤ2個、ミニトマトは30粒位。 ・胡瓜 目標 50個 収穫 25個 達成率 50% ・ゴーヤ等 200個 2個 1% ・茄子 10個 3個 30% ・ミニトマト 100粒 30粒 30% ・毎日、水やりや、これからまた、追肥も。当初虫が大量に発生して、それを眼を皿にして追いかけまわして、どうやら殺虫剤も使わないでいます。自分で食べるので。これからの見通しとしては、胡瓜は、まだ10個くらいは、実をつけていますし、まだ花も咲いているので、なんとか目標まで行く感じですが、ゴーヤとニガウリはこれから。それでも20個くらいは実をつけ、そのうち10個くらいは大きくなりかけています。茄子は、苦戦中。ミニトマトも、実だけは沢山つけています。これも期待はできそう。あと、シシトウとピーマンを植えていますが、まだ小さな花をつけている程度で、先行きは未定。ブルーベリーも、いくつか実をつけていますが、これも時間がかかりそうです。 ・へ2・・・ミニトマトは赤くなったのを、摘んでは食べてしまいますし、胡瓜は、朝のパンにハムと一緒に食べていますし、茄子も味噌汁にして食べました。少し胡瓜はストックができたので、浅漬けにしてみたら、美味しいので、また時々しようと思っています。ゴーヤも、最初の収穫分は、早速ゴーヤチャンプルにして味わいました。苦くはなく、何ともいえない深く新鮮な触感でした。未だ200個という目標が達成できるかどうか、判りませんが、ぼちぼちやろうと思っております。今日は、雨との予報でしたが、まだ外に出ていません。
2009.06.27
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教育とは、知識の習得ではなく、これから起きるあらゆる課題に対して、それを「自分で解決できる能力」を養うことだという。世界で最も教育レベルが高いというフィンランドの教育関係者のことばだ。知識の蓄積だけが重要視されるべきではない。寧ろ自分で想像し、考える力をどうしたら伸ばすことができるかだという。記憶力はコンピュータに勝つことはできない。それをどう効果的に使いこなすかでもある。自分の脳のパワーを引き出すことができなければ、勝ち残れない時代だろう。 ・これまでのやり方を真似ていただけでは先に進めなくなっているのではないだろうか。哲学者でさえ数学ができなければ数式を立てられない。小さな国が、巨大国をリードするようになるのではないだろうか。それは、優れた思想家が、どこで生まれるか分からないからでもある。知識は共有化すべきだろう。それがEUでは始まっているのではないだろうか。まず教育の一元化に取り組んでもいる。日本はどうなのだろうか。アジアはどうなのだろうか。アメリカは孤立化するのではないだろうか。 ・へ2・・・日本はアジアの中ではいち早く西欧の知識を学ぼうとしたが、現在はどうだろうか。新しい知識に対して貪欲であるだろうか。目先の損得ではなく、長い目で教育を考えるべきだ。そして、どんな事態が起きてもそれに果敢に取り組んで解決できる能力を幼児教育から始めねば間に合わない。
2009.06.27
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「安楽なくらしをしてゐるときは、絶望の詩をつくり、ひしがれたくらしをしてゐるときは、生のよろこびを書きつづる。」 (太宰治「晩年」) 「ザ・龍之介」に比べれば「ザ・太宰治」が活字が大きいので読み易い。何かその分迫力があるようだ。 「12月下旬の或る霧の深い夜に日本橋のたもとで異人の女の子がたくさんの乞食の群れからひとり離れて佇んでいた。花を売るためだ。三日間でたった二束売れた。それは赤い花と白い花の蕾だった。もう1束は、可哀想にと中国人の屋台の人がご馳走したお礼だった。少女は、帰る途中、突然、道ばたにしゃがみ込んで、胸に十字を切って、わけのわからぬ言葉で以って激しいお祈りをはじめた。しなびかかった悪い花を三人に手渡したことをちくちく後悔したのだ。 「咲クヨウニ・・・咲クヨウニ・・・。」 (同 上) 安楽な暮らしをしているものは、ついに美しいものを見逃してしまうのではないだろうか、そんな気がしてならない。打ちひしがれてどれだけの人たちが、生のよろこびを感じることができるのだろうか。どれだけの非難がされようとも、太宰は、その人間のもつやわらかな感性を書きたかった人なのかもしれない。
2009.06.27
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収納・・・ワークステーション・・・ファミリースタディ が存在し、その中に、情報機器、日用品、ライブラリーが媒介としてある。只食事をし、テレビを見て、寝るところだけではない用途が拡がっている。今日の講師は、「一時的収納」というコンセプトの提案をしていた。「仕舞う」ことだけではなく、見えるところに出して使うものも一時的な収納だという。放置ではない。「もの」は、単にモノではない。生活の歴史であり棄てられないものでもある。そして生活が変化すればものは増える。そしてモノの量を精確に把握していないのが普通でもある。だから想定内には収まることができず収納できない。それが住宅設計で過小評価されてしまう原因でもある。 ・個性に応じたファミリー・スタディに相応しい空間ができているだろうか。収納空間や作業空間が効率よく出来ているだろうか。どうも理想的と言われる収納面積延面積の15%以上のお宅は少ないだろう。そのしわ寄せが、暮らしの中でゆっくりと物事を考えるというスペースを圧迫もしているのではないか。生活の本拠たるべき自宅が、学習を阻害していもいる。 ・へ2・・・自分一人で学んでも、それが家庭を幸福にするとはいえない。それぞれの立場でものを考えることがあり、点が。「線」になるための仕掛けがファミリースタディには必要なのだろう。一人の一歩ではなく、家族全体の一歩前進がなければならない所以だ。「住まいと環境」というテーマの重みが増したようだ。 >ワット・アルンの階段を登って来ました。
2009.06.27
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勿論一度しかない人生は、ゲームではない。併しそれを比喩的に表現していないとは言わないが、他人事のようにしてはいないか。入院したとき、医師たちから指示されたことをしないひとを多く見かけた。カロリー制限されているのに、隠れて食べていた人さえいた。折角病院食で高い入院費を支払っているし、それこそ入院さえできない人もいるのに、その大事な自分のメディカル・ステージを知るチャンスなのに、自分の欲望だけに安易に従っているのだろう。何のための治療か分からない。 ・医者も患者を甘やかせている。然し病気は甘くはない。医者がどんなに厳しくとも正しいことをアドバイスしてくれることが患者のためであろう。だから医者は尊敬される価値もあるのだ。ただ薬づけで救えるわけではない。患者たちは、自分の病気に正面から向き合うことができないのだろうか。そういうひともいるだろうが、知識が足りないひともいるに違いない。それは誰の責任だろうか。知ることができるのに知らないだけだろうか。またもや、社会の責任だろうか。どうも、責任の所在が不明確だ。そうして、人の命も軽く扱われてもいる。 ・へ2・・・この社会が、ゲーム的な仮想社会だからだろうか。仮想と現実の見分けのつかないひとが若者の特質ではなくなっているだろうか。いい大人がマンガを読んでいたりするし、一日テレビばかり見ているひともいる。何かしなければ人間はどんなに才能があっても凋んでしまうだろう。現実の社会が甘いのではない。甘やかせている政治があるからではないだろうか。犬をつけれて散歩をしている人を見かけるが、あれは犬のためにはなるが、人間には運動にはならない。真剣さがなければブレーキは効かない。病気と闘うにはゲーム感覚では勝てないと思う。
2009.06.27
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もう何があろうとも、あるがまま、為すがままでいようと思う。何に逆らうか、といえば自分に逆らっても仕方がない。したいことをすればいい。してはいけないことを、これまで生きてきて知らない訳ではない。勿論これから体験したこともないことを、知らねばならないこともあるだろうが、それはそれで、自分らしくあればいいだけだろう。自分らしくいることが難しい時代だからこそ、寧ろそうあるべきなのではないだろうか。 ・他人に迷惑をかけようとは思わないし、まして掠めとろうなどという考えはどこにもない。他人を恨まず生きることができるかどうかは分からないが、できることをして、あるがままで生きていようと思う。今朝は酷い雨音がして、それが眠気を誘ったようで、普段より遅く起きている。外に出たら、雨は上がっており、これから急いで朝食をして、朝の運動に出かけようと思う。他人にはお遊びのように思えるかも知れないが、本人は意外と真剣である。それでも健康オタクでもない。自分の体調のモニタリングをしている。こんなことは、将来は簡単に、データ管理できるシステムが構築されるに違いない。それを、やらなければ、自分で考える予想を超えて寿命が来るだろうと思うからだ。 ・へ2・・・私もこれまで親しい人たちの死にあってきたが、それは本人には死のおとずれが思いがけずに早かったのではないだろうかという、想いを強くしているからでもある。それは自分の身体のメカニズムを理解していなかったからではないだろうか。どれだけ優れた学者や医者ですら、自分の生命の尽きるのを理解できていないのは自分のからだのモニタリングをしていないからに他ならないのではないか。生命は化学反応でしかない。 >黄金の涅槃仏の足裏。
2009.06.27
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BEコムやDOコムという発想も、人の意識の変化の所以だろう。ただ生活するだけを考えてきた住居への思考が変化している。殊に高齢化社会を迎えて、自分の居住空間の関心が高まってきたのも時代の流れだろう。ステレオタイプに造られてきた住居が多様化する社会にマッチする筈はない。不満を持ちながら、憤懣どうすることもできなかったのではないだろうか。自分の意識を型に嵌まった居住空間に押し付けてきた。のびのびとした空間こそ、自分に相応しいにも拘わらず。 ・それがこれまで一部の贅沢な考えだと退けられてもきたのは、カネのかかる話でもあるからだろう。現在の新しいタイプの住居である、「DOコモン」も果して充分その目的を達成しているのだろうか。それは「団塊の世代」にどれだけ、浸透したコンセプトになっていると言えるだろうか。土台、家で知的空間としてワークステーションを獲得している人がどれだけいるか、疑問だ。 ・へ2・・・行政サービスと言い、地方では都会に比べて、ガクンと下がってしまう。空気の悪い散歩もろくにできない場所が、人間の老後の生活に相応しいエリアと言えるのか。本に囲まれて暮らしたいと思いながら、結局は、殆んど処分してきたし、いまでは図書館にいって借りてくるくらいしかできない不自由を味わっている。それは我慢できないことではないが、必ずしも充実した図書館でもない。それで我慢するしかない。「住まいと環境」は大いにこれからの課題でもある。 >バンパイン離宮の邸内で。
2009.06.27
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<手紙・三つの窓・西方の人・続西方の人・或旧友へ送る手記>・川端「末期の眼」・鴎外「不可説」猿・レニエの小説」 ぼんやりした不安。ぼんやりが怪しい。・「手紙」「三つの窓」・三つの人生。三人の人生の窓。・最晩年の作品。・じりじりした憂鬱・人生との闘い・新約聖書は、比喩のオンパレード。何を書いているのか分からない。分からない方が良い。たとえ話が書かれている。・だから「源氏物語」は、具体的であり世界的な広がりにはならない。日本の貴族の話でしかない。メジャーにはならない。寧ろ「百人一首」を広めた方がいい。意味が分からないものほどよい。和歌よりも俳句。・聖書もひとつひとつを独立させて説教している。分かりやすく、世界に広まった。・小説は、わかるものではだめで、わからないから面白い。優れた作品ほど、分からないように書いている・・・それが本来の小説である。「西方の人」・省略した表現。・・・好んで芥川は書いている。・逆説の書・・・聖書。・西洋と東洋の違いは、キリスト教のパラドックスにある。・「君看双眼色 不語似無愁」 ・省略されているが、死を意識している。・「続西方の人」・「或旧友へ送る手記」・聖書はわかるはずがない。分かるものではない。分からないように書いている。・理解できるほど単純でもない。・本当の理由?・円谷選手の自殺・・・反面川端や芥川は純粋ではない。・キリスト・・ジャーナリスト・・情報の発信者。世界に知らせるのが目的。ベストセラーになる。今の人にはわからない部分がある。・キリストは演じている。後世の人に理解させればいいと思っていた?・「聖書」・・すぐに理解されない。芥川の聖書に対する考え。知りたいという願望はあった。作家とキリスト・・・情報の発信者(ジャーナリスト)世界にあまねく拡げる。・太宰は、芥川のキリスト教観は正しいと言っている。・ヨセフとマリア。 違う男がいた。父。・山本夏彦・・・キリストを全部知っているマリアにはカタなしになる。・故郷には戻れない。有難味がなくなる。効力がなくなる。・台所には死骸の一つ二つ転がっている。・「炉辺の幸福」のうそ。・マリアとイエスは一緒にはいられない。・イエスは天才・・・。・ラサロはキリスト教を残すために生き返らせた。・涙を流した・・・キリスト・・・生き返らせた。これがきっかけで十字架に架けられた。イエスの悲劇の始まり。
2009.06.27
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